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「青年の像」 本郷 新 作 
神田駿河台のシンボル像だった。
1962年に駿河台キャンパスに設置された2人の青年像、現在は多摩キャンパスに移転されている。
下の写真は’96.10月上谷良憲副会長(2020・3・1逝去)が撮影したものです。

この像のモデルであった長谷正治さん(S40年卒)が毎年、年の暮れにこの
像を洗っているという。モデルになったのは中大付属高校3年陸上部のとき。
像は2体だがモデルは長谷さんの1人2役だったそうだ。「向かって右が私の
学生時代の顔です」と長谷さん。「裸像ですから当然モデルは裸になりました。
但しサポーターはつけていました。」
と「Hakumonちゅうおう」’03春季号にあり。長谷さんお元気でしょうか?
白門40年会へ出席され当時のお話などお聞かせ下さい。



「中央評論」 2012 SUMMER 64巻2号 [No.280]
青年像「蒼穹」半世紀の歩み(続)
--「青年像建立五十周年記念の集い」報告-- <青年像と私> より抜粋
(2012/09/16)

<青年像制作現場の思い出>長谷正治(はせしょうじ)

 昭和三十五年七月、中央大学杉並高校三年時に担任の先生から、今度中大
の中庭に青年像を造ることになりモデルになってくれないかという話がありました。
両親とも相談し引き受けることにしましたが、八月の初めに神戸にて全国高校総体
(IH)があり試合が終わってからなら結構ですと返事をし、八月二十日頃より約二十
日間本郷先生の自宅のアトリエに通いました。

 自分の家が北千住なので豪徳寺まで電車を乗り継ぎ約一時間、徒歩十分で先生
のアトリエに着きます。アトリエは二階まで吹き抜けで天井が高く涼しかったのを覚え
ています。もちろんエアコンも扇風機もありません。

 アトリエには広島公園にある「嵐の中の母子像」、立命館大学の「わだつみの声」
像ほか沢山の像が所狭しと飾ってあり、真ん中に粘土でできた二体の像がガーゼ
に包まれてあり、先生より向かって右の像は左手を出して友人と手をつなぎ友情を
表し、左の像は右手を天に指さし未来を表し、二人は肩を組み友愛と未来を表すこ
とになる。そのポーズをとってほしいと説明があり、丸い台の上にサポーター一つで
立ちました。

 先生はやさしい感じで話してくれましたが、いざ作業に入ると眼光鋭く緊張感が漂い、
まるで競技しているようです。三十分もすると玉のような汗が出て先生の目に入り
タオルで拭き、そのタオルをハチマキにして作業を続け、疲れて「休もう」と言うまで、
自分は立ち続けます。「しんせい」を二、三本立て続けに美味しそうに吸い、「フー」
と言って何か考えていることもあります。「普通モデルは二十分立ちに二十分休み
なんだが、気合が乗った時に降りられるとやりづらいんだ」と話してくれ、自分の場
合は、約一時間立ち七、八分の休みでした。体が冷え筋肉が堅くなっているので
すぐトレーナー上下を着て、ストレッチをして待っています。そのうち気合がまた入
ってくると、「ヨーシ」と言い、「大丈夫か?」「ハイ」と答え、台に上ります。

 右のポーズは楽ですが、左のポーズは手を上げるので疲れてしまい、竹竿につ
かまっていると、「筋肉の出かたが違う」ので竹竿を取るように言われ、肩が抜け
るようで辛かったです。けれども細かいところまで目が届きすごいなあと思いました。

 一日三、四回台に上がり、八時三十分から十三時頃まで作業し、昼食を御馳走
になり、グランドに練習に向かいました。「お蔭様で普通より半分の日数で出来上
がった」と大変喜んでくれ、「右の像は君に似せてあるよ」。台座にも「モデル長谷
正治君ごくろう様」と書いていただき嬉しかったです。

 あれから五十一年が過ぎ、青年像も学園紛争で学生にスプレーをかけられたり、
八王子に移ってもイタズラされたりしましたが、十三年ほど前から毎年感謝の気持
ちを忘れないように掃除に行っています。(昭和四十年卒業)

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