佐藤 勝

さんのコーナー

           

     花見川春秋(3) ─大願成就? 古希直前のフル完走!(2)─

 どこのマラソンコースにも途中なんか所かの“関門”があるものである。いわゆる“制限時間見極めポイント”である。この地点を決められた時間内に通過しないと“失格”となりコースから外され、記録データ用のチップというものが強制的に変換(略奪?)させられる。だから速度の遅い選手はその地点まで来ると皆真剣である。何とかそこををクリヤーしてまた次の関門に向かうのである。まさしくマラソンは人生と同じくいくつもの関門をのり越えて行くのである。
 私はコースの略図を拡大してその中での各関門地点の通過時刻を赤ペンで目立つようにマークし、パンツのポケットに入れておいた。関門が近くなるに従いそれを引き出して走りながら自分の腕時計と比較しペースを調節した。最初の関門はスタートから10キロの所にあったがそれは難なく通過した。レースが終了した後記録を大会事務局から配られるのだが、10キロ関門の後の21キロ中間点の記録が、私の前回のハーフマラソン(21キロ)の記録よりも4分早い速度で通過していたことを知りびっくりした。

 やはり“最初はペースを抑えろ”という原則とは裏腹に飛ばしていたのだった。マラソンではよく“魔の35キロ”……と言われているが矢張りこのころになると疲労困憊で体力も限界に近くなってくる。沿道では走れなくなった選手が足を引きずったり、さかんにリハビリをしているのが目立つようになる。歩道にあおむけに倒れて救急隊の介護を受けている選手もちらほら見えるようになってくる。40キロを超すと残すところは2キロちょっとなのだがその距離の長いこと、まるで永遠に着かないのではないかと思われる。
 コース沿道の声援の皆様の声も悲痛である……“あと少しだから、頑張って!”とまるで赤の他人とは思われない身内にかける声援である。本当にありがたく思わずこちらも軽く手を上げたり笑顔を作る。この多くの人たちが何の報酬もあるわけでもないのに寒い中沿道に出て他県から来た選手に惜しみない声援を送ってくれることが胸にじ〜んときて頑張るエネルギーになっている。


 やがて、最後のゴール(Finish地点=スタート地点)である陸上競技場に生還(?)し、ゲートをくぐると、そこは目に鮮やかに飛び込んできたアンツーカーの赤の色、そして芝生のグリーンであった。グランドや観客席には大勢の人がいてさながら世界的なメジャーな大会のFinisher=完走者のような気分で(疲れてはいたが)気持ちは最高であった。
 ゴールの計測ラインを通過し、ボトルの水と首に“完走者”の大きなメダル(はなももの絵柄)をかけてもらった。そして、そのまま芝生の上に大の字に倒れこんで競技場いっぱいに広がる青空をしばらく眺めていた。
 走り始めてから6年、最初は1キロも走ればもうばてていた自分が今ここに“古希”を5ケ月後にひかえてフルマラソン42.195キロを5時間31分かけて完走した。
 数年後の将来、昨年生まれた孫(男子)にまた語れる“自慢話が一つ増えた”とにんまり微笑んでいる自分がそこにあった。(完走万歳!)


     花見川春秋(3) ─大願成就? 古希直前のフル完走!(1)─

 先日、茨城県古河市にて開催されたスポニチ“古河はなももマラソン”に参加し初めてフルマラソン(42.195km)を完走した。時間は5時間31分であった。近くにあるJEF千葉のホームグランドでもあるフクダアリーナのジョギング教室(わくわく健康教室)に通い始めてからもう既に6年以上は経過していた。最初のころは10キロコースの大会を何度か経験し、昨年後半からハーフマラソン(21キロ)を2回ほどこなしたばかりなので、またその2倍の距離のフルが完走できるのか?すごく不安で緊張していた。

 当日は出来るだけ余裕をもって会場に到着しようと早朝6時に千葉の家を車でスタートした。何度もカーナビで会場を検索して片道の距離は約100キロで2時間のドライブを見込んでいた。首都高速から東北道を経由して加須インターで一般道に下り、約30分ほどでメーン会場のある古河市役所の中央運動公園陸上競技場に到着した。渋滞や迷うことなく殆ど予定どおうりの行程であった。予め参加エントリ−の時に有料で申し込んでおいた臨時の駐車場に誘導されて、車を入れ余裕をもって受付などの手順を踏んでいった。
 フルマラソンスタートにはまだ2時間もの時間があるせいか競技場のあちこちでたくさんのランナーが軽く走ったりストレッチなどをしている。いつものことながら会場でこのような光景を見ると自然とあせりが出てきてしまう。自分の準備は完璧なんだろうか? 途中で足を引きずるようなことにはならないだろうか? などなどの気がかりである。
 スタート25分前になるとグランドに放送で参加選手の招集が知らされた。あちこちに散らばっていた選手がまるで牧場の牛の群れが一か所に集まるが如くにスタートラインの方向に動いた。フルマラソンの参加者は7,000人なのでその人人人……の群れは想像以上のものがあり、近年のマラソンブームの高まりをいやが上にも認めざるを得ない。スタートラインではエントリー時に自己申告した自分の完走予告タイムに基づいて、アルファベットのA(最速集団?)から順番に区分けされている。私は後ろから数えた方が早いくらいの“K”であった。私たちの前には早い軍団が10グループも長蛇の列を作っていて、これではスタートの号砲が鳴ってから我々のグループが動き出すのには10分以上かかることが十分に予想された。

 10時丁度に“ぱーん”と乾いたピストルの音が遠くの方に聞こえて、徐々に群衆が動き出した。マラソンレースの一番の興奮のひと時である。まるで人間の行列というよりも大きな川の流れに例えた方がよさそうな光景そのものである。それもみな男女それぞれ思い思いのカラフルなトレーニングウエア―を着ているので綺麗な華やかな流れでもある。大地に7,000人の足音だけが軽快に鳴り響いている。“焦るな、距離は長いんだ! ゆっくり行かなければ途中でばてるぞ!……”と私はひたすら自分にいい聞かせて黙々と走った。
 コースは市内の目抜き通りを駆けたり郊外に出たりするほとんどフラットなコースであった。今回この町でのマラソン大会は初めての開催であり、市からの宣伝が行き届いているのか沿道にはたくさんの応援の方々が小旗を振り振り、声援を惜しみなく下さっていた。市内コースなので折り返し地点が5ヶ所もあった(通常は多くて1ヶ所くらい)。私にとってはこのように途中何回も折り返すマラソンコースは初体験であったが、これが逆に幸いした。理由は選手がお互いに対面交通ですれ違うので、他のランナーの顔、走り方、服装などがよく観察できたのである。苦しそうに顔をゆがめながらも必死に走っているランナーを見るたび“頑張らなきゃ!”……と励まされた。また中には目の不自由な方が“伴走者”と呼ばれる健常者と手と手を結んで走っている姿も見えた。片足義足のランナーもいた。義足でよくも42.195キロも走れるものだと思うと眼がしらに熱いものが感じられた。 (続く)


      花見川春秋(2)  ―  孫の顔見たさに850キロ −

 あの物語の子は“母訪ねて3,000里“だったと思うが私の場合は 孫を訪ねて200里(850km)である。私の長女の長男、つまり私の孫(初孫)は現在、愛知県の陶器の製作で有名な 常滑市という町に居る。昨年12月に生まれてまだ3ケ月の本当の幼子である。生まれてすぐに娘がお産のため入院していた常滑市の隣の半田市にある産婦人科院に見舞いがてら訪問した時が孫と初対面であったから、今回が2度目の対面になる。最初の時は新幹線“つばさ”で名古屋まで行き、そこからは名鉄河和線で半田まで移動したのだが、今回は千葉の家から車で行くことにした。

 高速代(首都高速、東名高速、伊勢湾岸自動車道、知多半島道路など)が高くてはるかに新幹線の方が経済的であることは解っていたが、敢えて車を選んだ。理由は三つほどあった。
 一つ目は、4年前から自宅で犬を飼っていて(柴犬)、下の娘も嫁いで私が一人で住むようになつてからは犬をペットホテルに預けなければならないことである。この料金が無視できないほど高くてあまり何日も預けられない。帰宅が遅くなったりまたは海外旅行などで早い出発の時は早めに預けることになり、またまたこれに時間外割増料金が取られる。2日間も預けて少し遅れて引き取りに行こうものならまず10,000円はかかるであろう。だから犬の食事、おやつ、そしてと水を用意し、後ろのスペース(トランクではない)にケージを用意して、その中に入れて同伴した方が気持ち的にも安心だし、場合によっては安くつくのである。そのかわり高速道路のサービスエリアで定期的に車を止めて、外の散歩をさせたりしなければならない気遣いがある。有難いことに私みたいな種族が最近多いためなのか、高速道路でも殆どのところで“ドッグラン”を用意してくれている。
 二つ目は、昨年8月に新車を購入したが(この年でホンダのCRZ!)、まだ今までこれといって長距離ドライブをしてなかったので、この機会に遠出をしてみたかったのである。六ヶ月でまだ3,000キロぐらいしか走りこんでいなかった。
 三つ目は、今年の夏に犬を連れて車での北海道旅行(昔、バイクで何回もツーリングしたコース)を考えており、その予行演習のつもりもあったのである。

 当日はいつもの朝の散歩(犬の)を早めに済ませて8時ごろ家をスタートした。ケージの中で健太(犬の名前)これから何が起こるのだろうかと神妙な顔つきで私を見ていた。道路は首都高も東名もほとんど渋滞もなく順調に一路知多半島めがけて走った。途中、思いついて“海老名SA”で昔から有名なメロンパンを何個か購入して自分も一つかじりながら運転した。富士山は半分ほど雲に覆われていて残念ながら見えなかった。浜名湖あたりまで来るとかなり横風が強くなってきた。急ぐ旅でもないので車の運転モードをスポーツからノーマルを飛び越して“エコドライブ”に切り替えた。この方が燃費がかなり良くなるということを、以前ホンダのセールスより聞いていた。ハンドルの横に上記の3種類の運転モード切替のスイッチがありそこを押すだけで切り替わり、途端に中央の3Dもどきのメーターパネルの色が、エコはグリーン、ノーマルは青、そしてスポーツにすると何故か“赤”になる仕組みだ。知多半島道路は道路の幅も広くその割には交通量も多くなかったので快適なドライブが最後までできた。

 娘たちの家は高速の出口からほんの5分ほどのところで、近くのコンビニから道順を聞いてそちらに向かった頃、家から出てきた娘とばったり家の前で会った。家に入るとまだ孫はお昼寝から覚めやらず、ベビーベットの中ですやすやと寝息を立てていた。遅い昼食を食べたり、シフトが終わり帰宅した娘の婿と談笑していると、騒々しさに我慢できなかったのか、やっと孫が起きてくれた。じーじ(爺?)に抱かれて寝覚めのミルクをごくごくと気持ちよさそうに飲んだ。やはり3ケ月の成長が顔の輪郭にも、そして腕の中の体重にも感じられた。まだ話は出来ないがその日もそう遠くないうちに来るであろう。3時間ほど滞在して娘夫婦が道中長いので泊まってはと勧めてくれたが、固辞して再度またハンドルを握り千葉に向かった。娘たちと別れるときにふと次回の訪問の時は男の子で、しかも初節句なので“5月人形”でも奮発しなければならないかな……と頭をかすめた。

 帰りは往路を全くそのまま折り返したようにして東京に向かった。しかし、往復850キロもの距離なので、疲労のことも考え東名の沼津インターで東名を下り、予め予約しておいた伊豆半島の入り口にあるホテルに投宿した。翌朝、7時ごろさわやかな心持で宿を出た。ホテルのマスターがさかんに近くの内浦漁港で朝市があるから顔を出して行きなさいよと勧めてくれたが、車の車窓からのどかな内海の漁港を眺めながら一路東へ進んだ。


      花見川春秋(1)

 第7回東京マラソンも目の前に迫った(2月24日)。センセーショナルにスタートしたこの大会も回を重ねてもう今年で7回目(7年目)になろうとしている。真に年月の足の速さには驚くばかりである。
 私はジョギング愛好家の一人と自負 しているが、私のように“走る”ことに興味がない人々でも日本の首都をほぼ一日交通遮断してしまうこの大会には否が応でも関心を持たざるを得ないだろう。
  毎年参加希望のランナーはウナギ登りで増えてゆき、天井知らずの有様である。私としてもいずれは走りたい希望は十分に持ち続けているが、その応募者の多さに圧倒されて未だに一度の応募の経験はない。10万円寄付すれば別枠で参加が出来るとの話もあるがそれまでして都心を走ろうとは思わない。
 しかし、衰えゆく自分の体力のこと考えると焦りがないわけではなく、今年の大会はせめて沿道のボランテアにでも参加してその臨場感を体得しようと思い応募した。大会本部(東京マラソン財団ボランティアセンター)が募集する予定のボランティア予定数は10,000人であるが、これにも応募者が多く、抽選で最終参加者が選考されたのであるが、私も運よく枠に入れた。
 既に登録者に対する初回のオリエンテーション(説明会)が昨年12月16日に東京都庁内の大会議室で3ブロックに分け3回に分けて行われた。そこで大会役員の方々から過去の大会のビデオを見ながら内容、問題点などの説明を受たり、先輩ボランテアからの話も聞くことができた。そして2回目のセミナーは年が明けて1月の19日に今度はお台場の東京ビックサイト西ホールで開催された。
 これは登録者中から希望者のみを選んで公益財団法人“東京防災救急協会”の指導のもとに行われた普通救命講習会であった。当初募集定員が“1190人”ということを聞いてなんだか不自然な定員数だなと疑問をもっていたのだが、会場に着き今回のバックボーンには東京消防庁(119番)並びに東京都医師会、東京都福祉保健局などがあることを知り、この“119”の数字の謎も解けたのだが、それと同時にこのマラソンンの大会本部がいかにこの大会において一人の事故者もなく、安全に遂行しなければならないという意気込みが強く感じられた。
 当日、会場に指定された大ホールに足を踏み入れた瞬間その雰囲気に圧倒された。1200人ほどの参加者が各10人くらいのグループに分かれてそれぞれの班の指導者から“AED”(自動体外式除細動器)の作動方法や心肺蘇生(CPR)の方法を学び、体験するのだが、なにしろ参加者の多さからホールには120近くものシートが並べられ、その周囲に指導員を中心に10人ほどの研修者が囲んでいるのだから、ものすごい躍動が感じられ、一時的にこれほどの数の人々が一堂に会して行われる人命緊急救助講習会は空前絶後ではないかと思われた。そして驚いたことに……また私を感動させてくれたことは、この参加者の中にマラソン当日“走るランナー”がたくさんいたことである。彼らは私のように少しでも“大会の臨場感を味わいたい……”などというさみしい考えではなく、もし競技中でも近くに倒れるようなランナーがいたら救いの手を差し伸べたい気持ちの表れなのであろう。マラソン当日の前日にやはりビックサイトで最終的な打ち合わせの会合があり、いよいよ24日の大会を迎える。私の役割分担も最終的に決められ、当日は有明のゴールのFinish地点で、走り終えた選手の方々にお預かりした手荷物を返却する係である。完走した選手一人一人に「お疲れさん」「ご苦労さん」と声をかけながら手荷物をお返ししたいと思っている。


      5年目の病院ボランテア(出来ることの幸せ)
    =ヒユギエイア(健康の女神)の庭のある大学病院=

 毎週、月曜日と金曜日の朝8時頃に私は黄色と緑とブルーの模様が描かれているエプロン(写真)を付けて千葉大学附属病院の総合受付に立つ。 受付で来院された患者さんやそのご家族が迷わないように案内役を務めるボランテアの仕事である。
 エプロンのデザインは“千葉の海と緑と菜の花”をイメージしたものだと聞いたことがある。それももう既に4年も前のことになりこの活動も5年目に突入した。
 予約の患者さんが多い時で3,500人くらい、そして外来の患者さんが平均250人くらい来院されるので朝のうちはかなり混雑する。
 再来の患者さんはもう慣れているのでよいのですが初診の患者さんは診察の手続き、書類(診察申込書)の記入方法、診療科その他もろもろのロケーション等が分らずに戸惑う方が多い。
 特に大学病院(千葉大病院はその中でも特定機能病院)ということもあり来院前に“紹介状”を用意しなければならなかったり“完全予約”が条件だったりしてそのあたりの説明が我々としても大切な仕事の一部になる。

 毎朝3〜4人で対応していますがもうほぼ全員がベテランで正面玄関から来院された患者さんの様子を見ているだけで“ああ、この方は初診の患者さんだな?”と勘が働くのでこちらから“おはようございます。ご案内しましょうか?”と声をかけるようにしている。
 きょろきょろ不安げにあたりを見回していた方もその“優しい”一言で急にほっとしたような笑顔になりいろいろ聞いてくださる。
 やはり皆さんそれぞれ病気のことの心配を抱えて来られ、加えて大病院なので不安に不安を重ねられての来院なのである。したがってボランテアと言えども我々の対応が病院の初印象を決めかねない、とよく言われる。スムーズに受付手続きを完了して適正な診療を受けてお帰りの際に我々の姿を再度玄関で見つけて近寄られ“謝意”をいただいた時などは“やはりこのボランテアを続けてきて良かった”と思うひと時である。
 病院の職員の方々も我々のユニホーム姿を見ると廊下なりエレベーターなどでも思いやりのある態度で接してくれる。病院長自らが我々の存在をあまねく伝えてくださることからであろう。

 受付が少し余裕が出来てきた頃(10時頃)に私は入院患者さんの居る入院病棟に廻りそこで午後の2時まで患者さんの送り迎えのお手伝いをする。
 車イスの患者さんを病室からいろいろな検査室(是がとても多い)またはリハビリ室への送り迎えの活動である。そこでもまた車イスを押しながら、また時には腕を組みながらの歩行援助で患者さんと出来る限り話をするようにしている。もちろんそれは患者さんの顔色を見ながらであって患者さんがきつそうな時はそれを素早く感じとり黙って移動する。
 入院患者さんは外の様子をなかなか見ることが出来ないので季節の変わり目などをお知らせするのが主である。
 “今朝は桜がきれいに咲いてましたよ!”とか “今朝は風が強いですね!”とか取りとめのない話題で雰囲気を和らげる。

 時にはデイルーム(談話室=私の控室)で患者さんの将棋や囲碁の“五目並べ”の相手をすることもある。昼休みは主にコンビニのおにぎりとお茶を買い求め中庭の小さな池のある公園に行く。木々の緑、空の青さ、池の緋鯉などを見ながらひとり食事をする。私が座るそこのベンチからは真ん前に11階建の入院棟が見える。そこの9階には5年前に肺がんでお世話になった亡き妻の病室の窓が見える。
 窓を見ているとガラス越しに私を見降ろした妻が“お父さん、ボランテア今日もご苦労さま!”とにっこり笑う。
 公園の中の小さなせせらぎの横には昔の病院長が建立した石碑がある。そこには“ヒユギエイヤの庭”(Hygieia‘s Garden)と刻まれている。説明によると

<ヒユギエイヤはギリシャ神話の“健康の女神”で医術の神アスクレーピオスの娘である。ここに憩う皆さまの健康を願い“ヒユギエイヤの庭”と名づけました。 2000年10月>

 医学には何の知識もない自分ではあるが病院に来られる患者さんの一人でも多くお役にたてるように明日もまた頑張ろうと思う。 


    =思い出の品=

 誰にでも“思い出の品”というものがあるものである。今回の東日本大震災の被災地でも多くの被災者が破壊された我が家の瓦礫の中を失望に打ちひしがれながらそれを探している姿が何度も涙を誘った。
 私には二つの思い出の品がある。それも両方ともガラス製品である。ひとつは「ワイングラス」でありもうひとつはビール用の「マグカップ」である。
 ワイングラスは私と家族が5年前に北海道に旅行した折、小樽の市街地にある有名な北一ガラスで購入したものである。初冬の川の水面に張った非常に薄い氷のような製品で強く握るとパリンと割れそうな感じの物であった。ガラスの表面にはワイングラスらしく綺麗な一対のブドウの模様が描かれている。旅行した時に私の妻の身体には既に肺がんが発見され闘病中であった。このグラスを購入する時には私は自分なりにあるゲンを担いでそれを眺め、手に取りレジに向かった。この直ぐにでも割れそうなグラスは私が家に帰っても「ずーとKeepして使いうことが妻の病状にも関係する」という変な自分なりの理屈付けであった。
 もうひとつのビールのマグカップは定年後に大学のいつもの海外旅行メンバー(4人で毎年必ず南国のリゾートエリアに出かけていた)で南太平洋のタヒチ島に旅行した時購入した物である。現地で3日間ほど滞在したのであるが、そのツアーのなかに現地のビール工場を視察するイベントがあった。現地の地ビールの銘柄は「Hinano」というブランドで、トレードマークは横向きに坐った小麦色した肌の若い女性があしらわており、その黒い長い髪に真っ赤なハイビスカスの髪飾りが特徴的である。友人のK君とMY Cupで帰国してからもこれで時々ビールでも飲もうや・・・とお揃いで買い求めたものである。
 ふたつのCupは今でも私の家のカップボードに並んでいる。しかし、私の妻は北海道の楽しかった旅行を思い出に、その翌年の秋にはついに帰らぬ人となってしまった。その時のワイングラスは今でも傷ひとつなく綺麗な姿のまま、時として私の晩酌のテーブルの上で輝きを放っている。
 またK君も一昨年に長年の肝臓の病から逃れらることなく遠い旅路に出てしまった。この二つのガラス製品は毎日私の目にとまり、そしてその時に妻の笑顔がそこに映り、そして親友K君のはにかんだような笑顔が浮かぶのである。妻との北海道の旅行、そして親友とのタヒチ旅行の忘れられない思い出の品々としてこの二つはこれからもワインを飲む時、はたまた気分転換でビールを飲む時、折に触れていろいろと私に語りかけてくれることを願っている。


     =国立劇場にて初めての歌舞伎鑑賞=

 7月中旬に国立劇場(半蔵門)に行き歌舞伎を鑑賞してきました。私にとりまして歌舞伎は生まれて初めての経験であり演目は「身替座禅」というものでした。
 今まで何度か歌舞伎を見る機会はあったのですがどうしても自分には難しい(特にセリフ)と思い敬遠して実現しませんでした。
 しかし今回は国立劇場が実施している「歌舞伎鑑賞教室」の一環として開演されており解りやすいのではないか……と思い足を運びました。実際にこの演目はストリー的にも単純でコメデー基調で私のような素人にも楽しめるものでした。
 それに加えて鑑賞教室ということもあり本命の演目が始まる前と終演の後に若手歌舞伎役者、中村壱太郎、中村隼人の二人による歌舞伎全般の解りやすい解説がありました。歌舞伎人気が低迷なのかどうか分らないが歌舞伎人気底上げの為の二人の熱意が一挙手一投足から感じられた。
 もともと前記のごとく60有余年生きてきても今回のような歌舞伎、浄瑠璃、狂言などなどの古典芸能にはほどほど縁が無かったが昨年千葉市民大学で受けた講座から少々興味を持ちだしたのである。
 その講座は国立歴史民族博物館名誉教授の「桧史、豊臣の江戸時代史」(豊臣秀頼は生きていた─大阪夏の陣後の伝承をたどる)であった。 大阪夏の陣で豊臣方は敗れ徳川の天下になりそれから300有余年その安定した時代は続いたのであるが、その時代の潮流の中にあってなお徳川の天下をよしとしない大坂方(旧豊臣勢力側)が歌舞伎や浄瑠璃などを通して自分たちの意思表示をしていた。それを演じる側、それを楽しむ側はそれぞれ暗黙の意思統合があり、また時の為政者もそれを見て見ぬふりをして黙認していたらしい(ガス抜きの効果狙い?)。
 今回の「身替座禅」はそのようなドロドロしたものではないが、やはり人間の心の中に潜む浮気心、嫉妬、怒り、絶対服従の上下関係などがコミカルなテンポの中で演じられており、可笑しいやら悲しいやらで退屈するどころではなかった。
 説明によるとこの演目は海外でも数多く公演されて、言葉の異なるアメリカや韓国でさえも爆笑を呼んだ人気番組とのことである。是非一度劇場に足を運ばれることを勧めてやみません。


    =秘境“秋山郷”訪をねて=

 秋山郷は、長野県の最北端にあり、その県境は新潟県そして群馬県の2県にまたがる栄村の一部をなし山深い温泉郷である。冬には積雪量がかっては日本一の7m85cmを記録したことがあると言うからそれだけでもいかにそこが秘境であるかが窺われる。千曲川に合流する中津川の源流もその秋山郷の近くの佐武流山の中腹にあり、郷はその中津川の急流に沿って存在している。
 我々4人はその中の一人が所有する三菱自動車の4輪駆動車“パジェロ”に乗り朝の8時頃に千葉を出発し京葉、首都高、関越自動車道をひたすら北へ向かった。
 我々が秘境秋山郷に行こうと相談がまとまったのは4人が全員地域の“手打ちそば作りの会“に所属していることに起因する。もうかれこれ3年ほど前から月に2回のペースで有段者(蕎麦打ちにも公認の段位認定がある)の先生をお招きして蕎麦作りの研鑽を重ねてきている。今回、その中の一人S氏が蕎麦打ち用の“コネ鉢”(そば粉と繋ぎ粉、水を入れて練り上げる鉢)をインターネットでこの秋山郷のコネ鉢職人に注文したところ、製品と同封で秋山郷の観光案内が手紙とともに送られてきた。
 案内によると取り立てて軽井沢や志賀高原のような知名度、華やかさは殆ど無い山奥の土地であるが、何か村全体に素朴な温かみがこもっているようであった。また、もうひとつの大きな理由は今回の宿が前記のコネ鉢職人が経営する民宿であり、主人自身が10割の手打ちそば(蕎麦粉だけで繋ぎの粉が入らない)を出してくれるということであった。
 我々を乗せたパジェロは途中何回かの休憩や給油時間を取りながらも快適に走り、関越自動車道の“塩沢、石内インタ−で高速道路から分かれた後、ひたすら山の奥へ奥へと目指した。十日町、津南町を走る頃より道幅がだんだんと狭くなりだした。くねくねとカーブが多い登坂路はやはり通常の乗用車ではかなりきついのではないかと思いながら、限なく続く丸いカーブミラーを注視して走行した。それでも途中大きな渋滞もなく予定どおり午後の4時ごろには目的地の民宿“雄山壮”に到着した。
 一休みしてから、夕飯にはまだかなりの時間があるので再度車で民宿を出てあちこちを廻った。昼食はまだだったのでので近くにラーメン屋でもないかと宿の奥さんに聞いたところ、車で次の集落まで行かねばならないとの事であった。車で山道を走り、とある土産物売り場の2階にある食堂に入った。4人ともそこで同じように“山菜そば”を注文したのだが、これが山菜がたっぷり入り味も申し分がなかった。
 土産物売り場の一角で女性が炭火で“岩魚”と思しき魚を塩焼きにしていた。実にうまそうで食べたかったが蕎麦で満腹なうえに、夕飯には必ず宿で出るであろうことから我慢した。なぜそのようなこと考えたかというと、このあたり一帯の渓流は“岩魚釣り”の名所であり、解禁シーズンには多くの釣り人がこの山奥に入り込んでくるとのことであった。
 腹を満たしたあと一度宿に帰り、宿の主人に今回の我々の訪問目的でもある“河原の中に湧き出る温泉”の場所を聞いて再度出かけた。駐車場に車を置き河原に下ると、何人かの先客が既に“自分たちの温泉”を作り上げて極楽気分に浸っていた。 つまりそこは自分たちで河原の中に石を積んだりスコップで砂を掘ったりして“湯船”を作り、そこに熱い源泉からのお湯を引きこまなければならないのだ。 スコップを忘れた我々は他人が苦労して設営した湯船に“すいません”と入るわけにもゆかず、すぐそこから少し離れた有料の露天風呂で疲れを癒した。奥山の渓谷に挟まれたその中津川のせせらぎは我々の心に深くしみた。
 西の山に日が沈みかけたころ我々は宿に戻り、夕食用にわざわざご主人が打ち始めた“十割蕎(そば粉は秋山郷産)の作業を見学した。蕎麦打ちにはそれぞれ所により若干の相違があるものであるが、この地の打ち方も我々が日ごろ習っているものとは少々異なっていた。
 夕食には宿のご夫婦の心尽くしの手料理がテーブルにところ狭しと並んだ。数々の山の幸を取りこんだ山菜料理は言うに及ばず、出発前に予約を入れておいた“岩魚の刺身”、そしてお墨付きは我々酒好きの伯父さん連中には待望の“岩魚の骨酒”のもてなしであった。宿には我々場違いの(?)岩魚釣りでない4人しか投宿しておらず、食事をとりながら主人を交えた会話とご馳走の舌鼓はコネ鉢を飾った座敷に時の立つのも忘れて続いた。
 夜も更けたころ再度宿の温泉に入りなおし、ほろ酔い気分に浸りながら布団にもぐりこんだ。宿の外の漆黒の中にかすかに聞こえる水の音は我々初老の域に入った4人のひと時の“至福の至り“を包むようにいつまでも続いた。 


    マラッカ海峡クルージング (シンガポール、ペナン、プーケット6日間) 

 2月28日より3月5日までの6日間、スーパースターバーゴ(SuperStar Virgo=乙女座 76,800トン)という客船で娘達と「つかの間」のクルージングを楽しんできました。
 成田からシンガポールまでの往復はJALのフライトでしたがシンガポールから先のマラッカ海峡沿いの移動はすべて上記の船での移動でした。都内の某旅行会社が昨年の10月ごろに新聞で大々的(一面広告)に宣伝広告をしているのを見てそのツアーに応募しました。何回かの出発日があったのですが我々のスタート日が一番多くの参加者があったとかで、東京、大阪合わせて約200人の参加者がありました。
 初日は成田空港を午後便にて出発し、深夜にシンガポールのホテルに入り、翌日の市内観光に備えて早々に休みました。翌日からの生活はすべて船の中の自分達の船室が「自宅代わり」となり以後5日間の生活の拠点となりました。
 シンガポールでの市内観光はいつもとあまり変わり映えのしない「マーライオン」や「スタンフォードラッフルズ立像」であり「オーチャードロード」でありましたが、初訪問の娘達は美しい街並みにいささか興奮気味で、盛んにカメラに周りの光景を収めておりました。夕方近くに港に向かい初めてそこに停泊していた客船「スーパースターバーゴ」を見た時にはやはりその大きさに圧巻を覚えました。日本国内最大級の豪華客船「飛鳥II(49,000トン)」をはるかに越える大きさで全長268メートル、全幅32メートル、乗客定員約2,000人はまさしく「洋上に浮かぶ街」と言う名にふさわしいものでした。乗船時にはゲートに税関がありましてパスポートを見せての出国手続きが必要でした。着岸した船に乗り込むための長い通路を進んでゆくと途中に船のスタッフらしき人々が趣向を凝らした様々な歓迎のパーホーマンスをしてくれていました。ギャラクシーという船首にある大きなそしてすばらしい見晴らしの楽しめるホールに日本から来た乗客は全部集められて、これから始まる5日間のクルージングにおける船内生活の案内がありました。

(1)  船室(自分たちだけの居住空間)
 客室は全部で3種類ありそれぞれ設備のちがいがあって当然価格もそれぞれ違いました。最高のAクラスには個室の外の海側にバルコニーが付いていてキャビンでゆっくりクルーズを楽しむタイプ(Ocean View Sweet Room)でした。Bクラスはバルコニーは無く海側に窓ありで、Cクラスは外が見えないタイプになっておりました。勿論すべての船室にはトイレ、シャワー、冷蔵庫、デスク等が完備されており、毎朝その日の船内予定が案内された「船内新聞」が届けられました。ゲストはその新聞によりその日一日どこのフロアーで何があるとか、どこのレストランではこんな料理が食べられるとかを知ることが出来ました。広い船内なのでその情報がないとただうろうろするばかりだったと思います。

(2)  船内施設(洋上の都市)
 船内には16ケ所のバーやレストランがあり世界各国の料理が楽しめるほか、本格的な音響、証明施設を備えた巨大シアターもあり、ラスベガスさながらのショーやコンサートが毎日開催されておりました。そのほか、スイミングプール、ライブラリー、スポーツジム、ギフトショップ、デスコ&ナイトクラブ、ビュテーサロン、ゲームセンターなどなどがあり、時間をつぶすにはまったく苦労しませんでした。最上階の屋外ブールにはジャクジー、サンデッキがあり、その周りでは毎日何らかのショウが行われていました。さんさんと太陽の光がふりそそぐプールサイドで冷たいビールを飲みながらのんびりと「至福のひと時」を過ごせたのは言うまでもありません。加えて嬉しかったのは船内を一回りするジョギングコースが設けてあり、毎日食欲増進のために走ることが出来たことでした。早朝の6時ごろまだ朝の太陽が水平線から昇りくる前にひたすら走っている多くの外国人(ああそうか、自分も外国人なのだ?)を見かけました。船内のアトラクションで「ヨガ教室」があり娘たちと参加したのですが、自分の身体の硬さに驚愕し帰国してから週一度「ヨガ教室」に通うようになりました。

(3)  食事(世界の料理を満喫)
 食事は船内にある多数のレストランの中で無料(旅費の中に含まれている)の所とそうでない所(別会計)の2種類がありました。乗船のときにCredit Cardのようなものを個人個人が渡されてそれが船内いたる所で現金の代わりに使用され、最終日に精算というシステムになっていました。高級な日本料理店(寿司バーやステーキハウス)などは有料でしたので、我々はほとんど使用せずもっぱら無料のバイキング食堂を使用していました。種類もボリュウムも充分にありデザート、ドリンクも充分好みに合いました。

(4)  キャプテンデナーパーテイ
 船長が乗客をデナーに招待するイヴェントでこの時だけはセミフォーマルな服装で夕食に招待されました。しかしそれほど堅苦しいものではなく、船長や他のクルーメンバーが制服に身を包み、我々と親しく話したり写真におさまったりして和気藹々のものでした。若い男女のスタッフが入れ替わり様々な国のファッションショーをメインステージで見せてくれました。日本から参加された女性の和服姿もちらほらいました。

(5)  寄港地での観光
 客船は途中2箇所に立ち寄りそれぞれの観光名所を訪ねるコースがOptionとしてありました。しかし、いずれの寄港地の海岸も底が浅く船が着岸出来ないのでタグボートに数十名づつ分乗して上陸しました。ボートに移り船底から岸壁のような船を見上げた時、そして砂浜にたどり着いて遠く沖合いに浮かぶ白い客船を見た時、改めてその大きさに驚いたものでした。最初の寄港地はマレー半島のペナン島した。「南海の楽園」といわれマレーシアを代表するビーチリゾート地だけあってまた18世紀後半から東インド会社の貿易港として発達してきた町だけに異国情緒があふれていました。30度を越す暑い中、有名な「トライショー(人力車)」に乗り市内を観光しました。2度目の寄港地はタイのプーケット島でした。バンコックの西南の洋上に浮かぶタイ最大の島でその美しさから「アンダマン海の真珠」と賞賛されて世界中から観光客が集まるそうである。ビーチでは沢山の海水浴客がカラフルなパラソルの下で思い思いのくつろいだ時間を過ごしていました。砂は細かく白く足ざわりがとても気持ちの良いビーチでした。出来ることならここにのんびり一月くらい滞在したいものだと思いました。

(6)  終わりに
 今回、このクルージンを体験して思うことは、今まで庶民には手が届かない「高嶺の花」と思いがちだった豪華客船の「クルージング」も決してそうではないということである。それは確かに100日以上もかける世界一周の船旅もあり費用も数百万円するものもあると思うが、私から見ると逆にそんな長期のものは退屈で耐えられないと思う。また今回のように観光地を織り込んだクルージングの場合通常の観光旅行と違い、重い荷物を持ちあちこち移動する必要が無いので本当に楽で、旅が気軽に思え楽しさも倍増である。旅を終えた今でもあの船上から眺めたマラッカ海峡の水平線に沈む茜色の夕日の美しさを鮮明に思い出すことが出来る。


    =東大公開講座 ”バランス” に参加して=

 過日、東京大学安田講堂(文京区本郷)にて開催されました第108回東京大学公開講座に参加してきました。テーマは”バランス”ということで合計5回(5日間)の日程で毎週土曜日の午後に約5時間のペースで行われました。毎回、安田講堂は1,000人以上の聴講生でほぼ満員でした。
 これに先立って聴講希望者を新聞、ホームページ等々で募集したのですが大学側が予想した以上に希望者が多く、当初の予定よりも早めに締め切り抽選に入ったとのことが報告されました。抽選に漏れた人のために”当日空席があれば入場できます”との情報もありましたので、5回とも多くの”抽選漏れ”の方々も専用の受付で並んでおりました。
 テーマは”バランス”ということで東大の各分野の先生(教授、准教授)が講師となり我々にいろいろな話をしてくださいました。
 バランスを今回の講座の共通テーマに選ばれた理由に関しては講義要項の冒頭に”開講にあたって”として説明されておりましたので、ここに引用いたしました。

 <バランスは、個としての人間、集団としての社会、人間の創造物、人類を取り巻くいずれの環境においても大切な役割を果たしています。けれども、バランスとはいったい何を意味するのでしょうか。それぞれの文脈で使われているバランスは、単一の概念のもとに括れるものでしょうか。しかも、バランスの取れた状態が常に好ましいわけでもありません。停滞していた旧来のバランスのほころびから、新しい活力が生み出される例も少なくないはずです。私たちが日ごろ何気なく口にするバランスという言葉ですが案外奥行きのあるコンセプトなのです。今回の公開講座はさまざまな切り口からバランスの本質にせまって見たいと思います。>

 これだけ読んでも私のような愚直者には何を言っているのか意味が十分に理解できません。そして、この命題にもとづいて17のタイトルのもとにに17人の先生方がそれぞれの専門分野の中から面白おかしくわかりやすく話してくださいました。(タイトルに関しては末尾に列記)
 いずれの講義も正直に申して私には難しすぎました。非常に高度な中身でアカデミックなものでした。もう少し若く頭が柔軟であれば、もっとそれが専門分野の内容であれば、理解できたと思いました。ただ今回この講座に応募しましたのは講座そのものの学習に加えて別の二つの動機がありました。
 一つは東大の安田講堂を中心とした本郷のキャンパスが懐かしく、もう一度その中に入り当時の雰囲気に触れてみたいと思ったからです。私が工業高校の出身(長野工業高校機械科卒)で、高校卒業後初級国家公務員の資格を取り、一年間東大本郷の工学部(蒸気工学科)で職員(助手)として働いた時期があったことです。
 そしてもう一つは例の安田講堂占拠事件である。工学部の助手の仕事は研究室もちの教授の部屋に席を置き、教授の実験(学部学生)や大学院生の研究の手伝いなどをする仕事である。まだ東京に出てきたばかりの純情な田舎少年であり、白衣を着ながら情熱に燃えて安田講堂の周りや三四郎池の周りをうろうろしていたころである。安田講堂占拠事件(東大闘争)のころは毎日その報道をテレビや新聞で大いなる関心を持って注視していただけであるが、あれだけ激しく吹き荒れた当時の学生運動が今ではまるでうそのように沈静化し余韻すらない昨今、妙にその生き証人である安田講堂をまじかでかで見たかったのである。今回、安田講堂の壁に自分の手で触り、下から上を見上げ、そして中に入り階段を上りながらもう35年も過ぎてしまったあの大きな歴史的事件を懐かしく思い出した。
 建物自体は日本の頂点のシンボルのごとく威風堂々としているが壁のあちこちにはあの当時の火炎瓶で焼け焦げたのかなまなましい痕跡が穏やかな陽光と人々の談笑の中に包まれ静かに沈黙していた。当時の過激派学生が”東大は日本の資本主義支配者階級のシンボル”と位置づけたのかどうかは別として、今回のような公開講座がすでに何回も開催され、最終日には東大総長ご自身がユーモアたっぷりに”閉会の挨拶”を述べられるなど”象牙の塔”は大きく開かれ庶民化されてきており、”隔世の感”この上なしと強く思ったものである。

  (講義内容)
1.心の適応と不適応のバランス
2.子供のバランス・家族のバランス
3.ニューロイメージングで観て診るストレスに対する心のバランス
4.世界エネルギー需給とバランス
5.強電子場における分子のダイナミカルバランス
6.ダイナミックな太陽
7.複雑系としての渋滞
8.法的思考におけるバランス
9.”ワークライフバランス”について考える
10.効率と公平…税制改正におけるバランス
11.カオスがつくるバランスと進化
12.作物栽培におけるバランス
13.生態系のバランスの崩壊
14.水産資源の変動とバランス
15.スポーツにおけるフォームとバランス
16.(アン)バランスお美学
17.ルネサンス美術における美とバランス


     =バイクでお遍路?四国一周1,400キロの旅=

 5月下旬より11日間かけて四国をバイクで一周してきました。
 北海道、東北地方、南九州、房総半島などは既に走破しているので”次は四国にしようや……”とのバイク仲間(栃木在住の男性=3年前に北海道、稚内の宿でお会いしたバイク人)との半年間の計画の上の出発でした。
 東京港フェリ−埠頭(台場)よりオーシャンノース号という船にバイクごと乗り込み夕方の出航で翌日の午後1時頃には徳島港に入港しました。 季節的なものもあるのか、あるいはライダー人気のあるなしの表れなのか北海道に向う大洗(茨城県)から苫小牧港までのフェリ−とは比較にならないほどつツアラー(ツーリングを楽しむ人)の数は少なめでした。
 ともかく、我々の初の四国ツーリングはあの”阿波踊り”で有名な徳島よりスタートしました。何時もの我々のことながら常宿はその地方のユースホステル(以後YH)を中心にアレンジしますが、四国はやはり”四国88箇所めぐり”のお遍路さんの本場だけにYHもお寺さんが経営している所が大部分でした。コース的には徳島より四国で最長の吉野川添いに少し西に走り阿波市、美馬市を経由して二日目の投宿地である剣山(標高1,955メートル=四国で2番目に高い山)に向いました。山頂近くの”登山道入り口”わきにある”平家の宿”という民宿に泊ったのだがシーズンオフなのか他に客は無く70歳を過ぎた主人が食事を作っていた。宿の主人の話によるとこのあたりには昔、屋島などで闘われた”源平合戦”の結果敗れた平家の落ち武者が源氏の追手を逃れて逃げ延び住み着いたとのことであった。
 翌朝、当日の走行距離の長さを考慮して早めに宿を出た。朝もやが立ち込める山間の急な坂道、ヘアーピンカーブの連続は危険度がかなり高かったが慎重な上にも慎重を重ね走りぬいた。
 四国は全体が島であり切り立った山々が多いためかいずれの渓谷も川底が目がくらむほど深く、そして”これが国道?”と首をかしげるような細い、しかも崖上からいつも石がぐずれ落ちているような道が多い。
 バイク乗りの方なら解るのであるが、山岳地の曲がりくねった坂道(特に登り)はギアーの切り替えとスロットルのふかし方を間違えると転倒する危険がるので一段と緊張するものである。
 苦難の道をなんとか走り、四国観光では有名な「かずら橋」「祖谷渓」「大歩危、小歩危」等を観光して進路を北に向かい琴平、丸亀市、高松市に出た。
 それからは四国を時計に見立てると”時計と反対方向”に走り、観音寺市、今治市、松山市、大州市、宇和島市、土佐清水市、四万十市、高知市、室戸市、阿南市と殆ど海岸線を走り、10日目にスタート地点の徳島に戻った。
 このツーリングを振り返り思った事を最後に記してペンを置きたいと思います。

1.やはり四国でした……あちこちで”お遍路さん”の姿を見受けました。殆どの方が白装束に笠を被り杖をついていました。笠には”同行二人”と書かれてました。苦しい修行の旅は常に一人でなく日蓮さん?(あるいは先立たれた大切な人?)との同行しているとも意味らしいのですが……真夏の炎天下でも冬の手足がガかじかむような寒さの中での己の足を使ってこその巡業こそ意味があると思うのですが、最近ではバスやマイカーでさっと廻ってしまう人や、中には”代行屋”がいてその者に札所を回ってもらい”ご朱印”を集めている人も居るとか?

2.四国は多くの有名人を送り出したりまたは関係した土地であることを再認識しました。坂本竜馬(桂浜に銅像=8mあり)、ジョン(中浜)万次郎(足摺り岬に銅像あり)はあまりにも有名ですが、その他に幕末のころに坂本竜馬と志を同じくして戦い、後に京都河原町の近江屋で竜馬とともに襲撃されて若干30歳で絶命した中岡慎太郎(室戸岬に銅像あり)、改革の志に燃えの後の日本の夜明けに貢献した人が数多く出ている。秀吉の家来で後に土佐に城主として移り住んだ山之内一豊(高知城に夫婦の銅像あり)はNHKドラマでもかって取り上げられたことがあり、高知県が開いた資料館には山之内家伝来の文化財67,000点が保管されている。また、のどかな安芸市には三菱財閥の創始者、岩崎弥太郎が生まれた家が今でも残っている。

3.四国を離れる前日は明日の徳島港発のフェリー乗船に控えて早めに徳島に着いていた。YHのペアレントご夫婦とは到着日にもお会いしているので夕食後もくつろいで四国でのいろいろな出来事を話し、他のお客も混じえて屈託のない話に花が咲いていた。その時、食堂のテレビが四国で起きた事故のことを報じていた。和歌山県から来た12人のオートバイツーリングの中の一人がコーナーで曲がりきれなく、反対側の車線のガードレールに衝突して崖から落ち、病院に搬送後に絶命されたと報じていた。その方はタクシーの運転手で年齢が62歳との事であった。私もそれを超えた年齢、バイク暦まだ8年と短いがやはり今回からの経験から長距離、長時間のツーリングは後半に疲れがたまってくる。

 今夏、私をツーリングのとりこにした”北海道ツアー”をもう一度だけ楽しんでそれを”ラストラン”にしなければいけないのかな〜?とつくづく思ったものである。先立った家内が”あなた、やっとその気になってくれたの…?”と天国で笑って居るようである。
       


     =初秋の北海道、東北を駆ける=
     ( 63歳、1,900キロ 10日間のバイク旅 )

 ちょっと北海道の観光ピークが過ぎた頃だろうと見込んで北海道(道南)と、帰途は函館から青森県の先端大間に抜けて東北を南下する単独ツーリングに行ってきました。
 17日に千葉の自宅を出て茨城の大洗からフェリー(商船三井)で苫小牧まで渡り(約20時間)それから26日の帰宅まで10日間、全行程”晴れ”の1900キロにわたる快適な走行でした。
 今回で北海道ツーリングは5度目ですが、こんなに天候に恵まれたのは初めてであったし、また帰りにフェリー(苫小牧〜大洗間)を使用せず陸路(高速道を使用せず)をただひたすら走ったのもはじめてであった。
 7月ごろがラベンダーの花の見ごろとか北海道においてはベストシーズンなのだが、今回は8月19日に夕張市にて開催された”がんばろう夕張マラソンフェスティバル”に参加したので、実行が8月の下旬にずれ込んだのである。苫小牧から夕張まではかなり近く、何度も来ている道(富良野、美瑛に入る通過点)なので、2時間くらいで到着した。
 毎回何処に行くツーリングにおいても宿泊は原則的にユースホステル(略号YH)を使用するのだが、今回も全て行く先々のYHを調べて、仮予約(天候により前泊地から動けない場合もあるので)だけ入れておいた。
 マラソンの為に2泊予約しておいた夕張のYHは友人のライダーの紹介があったところなのだが”おすすめ”だけあって周囲は草原と森の素晴らしい環境で、木の香りが残るようなログハウスの建物もホストファミリーも申し分なかった。
 到着日の夜は大会の”前夜祭”があるのでひと風呂浴びてからまた会場までバイクで行こうかと考えていたら、同宿のやはり大会参加者が自分の車で同乗させてくださることになった。前夜祭は5キロコースのスタート地点になっているホテルの中庭で行われた。会場に着くと草むらにたくさんのテーブルが並べられており、その各テーブルの上にはトレイに盛り付けられたジンギスカン焼肉用の肉と野菜がたくさん置かれていた。その脇には海苔の巻いたオニギリがこれまた山のように積まれて食欲をそそっていた。
 地元テレビ局の女性アナの司会でオープニングがなされ、間もな今回のゲストランナーであるマラソン解説でおなじみの増田明美さんとスキーの五輪金メダリストである荻原健司さんが紹介され、2人の快調なトークショウが始まった。
 参加選手達は二人の絶妙な会話に耳を傾けながら焼肉やとうもろこし、ビール等を味わい、最後は夕張と言えばお馴染み高倉健主役による”幸福の黄色いハンカチ”の上映があり、お開きになった。
 翌日もマラソンには暑いくらいの陽気の中で5キロ、ハーフのコースが時間と場所を少しずらして開催された。荻原選手も増田明美さんのご主人もこの5キロのコースに参加した。
 私は持ち前の自己ベストを更新して28分台で229人中165位で完走する事が出来た。完走したあとの冷たく冷えた完熟夕張りメロンの味はまた最高であった。今回は初回のマラソン大会であったが、このようなイベントが次々に行われ夕張の町が昔のように活気づくのを願わずはいられない。(もしあれば来年も来よう……!)。
 翌朝はゆっくりとYHをCheck OUTして次の目的地である美瑛のYHに向った。コ−ス的には夕張から一時国道274号線を帯広方面に向かい東進するのだが、途中から237号に分岐して日高峠を越えて富良野に向かうこのコースが私の好きなコースで、いつも利用するルートである。富良野はだいたい北海道の中心に位置しているので何処に向かうにも都合がいいのである。富良野に来ればいつもお決まりのコースであるが少し中心から外れて”麓郷の森”に向かうのである。
 そこには昔(もう何年前になるのだろう?)テレビドラマで放映されていた”北の国から”のロケ現場がたくさんあるのである。”五郎さんの石の家”などは代表的なので、多くの訪道旅行者にはよく知られている所である。
 美瑛のパッチワークの丘はラべンダーこそ無かったが赤、黄、紫、白、ピンクなど色鮮やかな草花が広大な丘にきちんと幾何学模様に植えられていて、さすがは北海道……と感嘆せずにはおれなかった。
 美瑛に一泊した後、札幌にもどり小樽(泊)、与市、積丹半島、島牧(泊)、江差、松前、函館(泊)と海岸線を走りぬけ、函館より東海フェリーの船に乗り津軽海峡(初体験)を横断した(1時間40分)。
 港地、大間(本州最北端=マグロの一本釣りで有名)より再びわが愛車(ホンダ CB400 Super V-TeckEngin)にまたがり、ただひたすら南下した。 三沢、八戸、久慈を素通りして岩手県の宮古市(近くに浄土ヶ浜がある)に一泊し、その後は釜石、大船渡、気仙沼、石巻を何処にも寄らずに走り続け、最後の宿泊地奥松島のYHに到着した頃には身体がかなり疲れていた。
 翌朝、まだまだ先が仙台、相馬、いわき、おなはま、日立、水戸……と長い旅程なので茨城の平市(YHあり)で安全を見込んでもう一泊していこうかな(急ぐ旅でもないので…!)と10時くらいまでは走りながら考えていた。
 しかし走り出すと以外に距離が伸び、途中のCheck Pointも予定よりかなり早く通過できるようだったので、一気に千葉まで帰ることに途中で切り替えた。
 天気も幸いして、しかも体調も良く水戸市あたりには午後の4時ごろ着いた。ここまでくればもう一息と思い 大洗の近くの海の見える素敵なレストランで遅い昼食をとることにした。
 朝から何も食べていなかったのでかなりの空腹感と疲労も重なっていた。そこでの海を見ながらの”ノンアルコールビール”の美味しかったのは忘れられない。
 我家に到着しメーターをCheckしたら最後の奥松島から自宅まで400キロを記録していた。
 毎年春になると”今年は行けるかな〜?”と思うのだが”今年はなんとか行けた……”
 さて、来年は……???。 (バイクはいつでもいいと言っているようだが?)

(管理人から)
 佐藤勝さんは、同じ千葉市に住む難病の瀬川美由紀さんを支援するための「美由紀さんを救う会」のメンバーになり、応援されています。この会のサイトもご一覧いただければ幸いです。
 http://homepage3.nifty.com/miyukisan/


     へそ出し、角出し、菊ねり ?

 へそ出し、角出し、菊ねり、といきなり言われての何のことかチンプンカンプンのことと思います。これは“そば打ち”の時のそば粉の練り方の名前です。
 以前この寧日雑感で記した事があるのですが、一年ほど前に地元千葉県の“ふるさと文化”を学ぶ主旨で創立された房総文化大学に入学し、同時に課外活動として“そば打ちグルメの会”に入りました。会則による会の目的はいかめしく「日本の食文化である日本蕎麦を愛するものが集い、手打ち技術の研鑽を積み本物の手打ち蕎麦を味わい、会員相互の親睦・・・・云々」とあるのである。
 初期の頃は先生が指導するそば粉の計量から捏ね鉢での捏ね、麺棒でののばし、切るところを側で真剣に見ながら勉強し少しづつ自分達でやり始めました。
 そば粉と繋ぎの粉の割合で“二八蕎麦”(8割がそば粉、2割が繋ぎの粉)とか言われ、それぞれの店でも当店は“OO蕎麦”とかうたい文句にしておりますが、大方は二八蕎麦が多いと聞いています。そば粉が100%ですと長く繋げなくぶつぶつに切れてしまうので、どうしても繋ぎの粉を入れなければならないのですが、これがあまり多くても本来の蕎麦の味は味わえません。落語などで師匠が扇子を箸代わりに“ツルツルツル・・・・”と美味そうに食べるのは繋ぎの粉が多いわけです。
 最初は直径50センチ程ある捏ね鉢にそば粉と繋ぎ粉を入れ水を加える手順ですが、この水も一度にざっと入れるのではなく、最初全体の半分、その次は残りのうちの約半分、そして3度目は残りの水の内“いざっ”・・・・と言う時の為に容器の底にほんの少しだけ残して加えます。“いざっ”・・・・と言う時とは、やはり部屋の空気の乾燥具合とかで捏ねている時に思いのほか水分が蒸発して粉の粘りが無くなった時の緊急の時の事である。そば粉の捏ねはそれほど水分に敏感で、まるで生き物の様でもある。時間をかけすぎてもいけないので手の指先と親指の付け根あたりに体重をかけ、力強く万遍に捏ね上げなくてはいけない。冒頭の捏ね方の名称はこの時に粉の中の空気を出す穴を作るのを“へそ出し”と言ったり、菊の花の花びらがいくつも重なったような形に粉を練り上げるのを“菊練り”と呼んでいる。
 捏ねあがった粉を、次は麺棒で大きく伸ばしていくのであるが、最終的に四角にする段階において一部がへこんでいた場合にはそこを麺棒で重点的に伸ばしふくらみを持たせるのであるが、これらの作業を“角出し”と呼んでいる。まだまだ我々の腕では最後の“そば切り”がうまくゆかず蕎麦の太さが疎らになりがちだが、しかし苦労して作った蕎麦は例え形状が少し見栄えがしなくても何処の老舗の蕎麦屋の蕎麦よりも美味しいのである。
 蕎麦が打ちあがったあとは、その蕎麦をおつまみにしながら酒や焼酎で一杯やるのがお決まりのコースであり、このときの先生の話を聞くのがまた楽しくもあり、また“明日のそば打ち名人”への大事な教訓でもあるのである。この会では年に1〜2回は関東、東北の有名なそば粉の名産地を訪ねて蕎麦の畑を見る旅も考えており、まだまだ学ぶ事は沢山ある。
 それは本当に“蕎麦らしき(素晴らしき)”ことである・・・・。    


     四万温泉旅行

 上野駅から約2時間、JR吾妻線中之条駅が四万温泉への入り口である。草津3号でこの駅に降り立った我々4名はもう既に社内のPre-宴会でかなりいい気分になっていた。中之条駅はまだシーズン到来には早いのか観光客もまばらで閑散としていた。時刻はお昼頃であったためこのまま温泉地に到着してもホテルのチェックインにかなり早すぎるので途中の”四万湖”にて下車してそのあたりを散策する事にした。バスの乗客は地元の人々と観光客らしき人が大体半々くらいであった。
 駅周辺の街風景は直ぐに消えバスが田舎道を走り少々山間に入りかけたかなと思う頃中間地点の四万湖に到着した。バスを降りたのは我々4人ともう一方初老の夫婦と見受けられる2組だけであった。バス停の下が湖というより池でありダム建設により出来た人造湖であった。
 ダムの堤防の上を歩けるようになっているのであるが”高所恐怖症”の小生には下を見るのがいささか平常心ではいられなかった。貯水側(水がめサイド)方は満々と貯水され美しいコバルトブルーがどこまでも広がっていた。ダム周辺を一回りしバス停にもどり近くの土産品売りの店に入った。着いたばかりなので土産は後にし美味しいお茶と地元の銘菓で一息ついた。口達者なオジン4人組みだったので店のお姉さんとたちまち打ち解けて屈託のない話に花が咲いたのは言うまでもない。
 お茶を飲み終わった頃バスが到着したので車中の人となり目的地(終点)に向った。約20分ほどして”温泉入り口”に到着しさて下車しようとしたところ運転席の横にある清算機(両替機)に千円札を入れようとしても機械が受け付けない、、、札を変えても同様であった。運転手さんも”おかしい?おかしい?”と言いながらトライしたがだめであった。そのうち清算機の裏側の下の方を見て”あっ!まずい、、!”と彼は叫んだ。 我々もその方を見るとなんと!下部に装着すべき金庫がセットされてなくがらんと空洞になっていた。 先の運行での入金の為金庫を外したまま今回の我々の運行に移行してしまったようである。田舎のバスのとんだハプニングで我々は料金の支払を免除され何だか得した気分で目的地”四万温泉”にその一歩を記したのである。
 温泉街を歩くのが好きな我々であったので3つ手前のバス停で下車し今夜の投宿先である”四万グランドホテル”まで歩く事にした。下調べの地図によると谷川の清流にそって川下から上流に7〜8軒ほどの温泉旅館が立ち並びあちこちから白い湯気、、、あの温泉街独特の光景を期待したのだが様子は少々異っていた。
 道沿いに旅館は並んでいたがいずれの旅館も閑散としていてお客がいるようにはみえなかった。群馬の奥深く入る山間部なのである程度の雪も期待していたのだがそれも皆無であった。午後3時のチェックインを少しまわった頃にホテルのロビーに入り手続きを完了してからサービスのコーヒーをご馳走になった。夕食まではかなりの時間があったので展望風呂や露天風呂に浸かり温泉気分を味わった。
 到着した時は気がつかなかったのだが展望風呂から外の山並みを眺めると山の頂上近くの木々が樹氷に覆われているらしく白く帯状に広がりそれより下の部分のダークグリーンの帯状とが鮮やかなコントラストを描いていた。
 このホテルは四万温泉の老舗”たむら”の別館でかなりのお客で盛況であった。先程の途中の旅館がガラガラだったのとは対照的で大手旅館に寡占化されシーズンオフの今時は殆ど大手に集客されてしまっているのかもしれない。
 食事前に少し周りをうろうろしたが少なくとも我々の眼には温泉街特有の遊戯施設(射的とか、ゲーセンなど)はみあたらず非常に健全な温泉街と見受けられた。
 聞くところによると何年か前のNHK”朝の連ドラ”でもこの温泉街が舞台になった事がありその頃からか脚光をあびてきたらしい。
 近くには”日本最古”といわれる旅館がありそこを見学し記念写真を撮ってきた。熱海とか石和温泉とかの歓楽的温泉地を御所望の御仁には少し期待はずれになる清潔感溢れる温泉郷なのかも知れない。山の幸満載の夕食と美味しい酒を頂いた後貸しきりカラオケラウンジで就寝前の夜長を演歌中心の歌の競演にしばし日頃のストレスを吹き飛ばし明日の英気を心ゆくまで養った熟年4人組であった。
 直ぐ後を”団塊の世代”の追い上げがある中で団塊一歩手前の”ペースメーカー”も頑張らなくてはの思いひとしおの真夜中の露天風呂であった。

 <温泉情報=温泉好きの読者のために>
 四万温泉は国民保養温泉第一号に指定された温泉でいくつもの源泉から湧く天然温泉(グランドホテルの場合は総湧出量毎分1600リットル)利用の贅沢なお風呂とのこと。全て循環することなく完全放流式(かけ流し)であり温泉は飲むことも可能。 泉質=硫酸塩泉、 効能= 神経痛、リウマチ、胃腸病、 痔、病後回復、アトピー  等等   (宿泊ホテルのHP案内による)



     ピッカピカの一年生(また大学へ?)
      
 この度、還暦を過ぎて再度大学に入学いたしました…と言いますと大方の方が 「えっ?」と驚かれるでしょう。それもそのはずこの大学は地元千葉県が企画、運営しております「千葉ふるさと文化大学」(2年制)なのであります。
 今期募集は8期生(毎年募集=8年目)で入学者数は合計105名の人数で、その新入生は千葉市を始め船橋市、浦安市、松戸市など千葉県全土に渡っております。
 建学の主旨は主にシニア世代の方たちにこれからの人生に生きがいと充足感を持って歩んでいただこうとの目的で8年前に発足したものであり、テーマは「房総の地域に根ざす歴史などの伝承文化の再発見」を中心とした講座と受講生の二ーズに応じた多様なクラブ活動と探訪ツアーの展開であります。既に4月14日に一年先輩に当たる7期生と県教育会館にて合同入学式がとりおこなわれ、そのときは校歌まで披露されました。
 大ホールには200人以上のシニアクラスの男女が参集し、それはそれは強力なパワーを感じました。還暦を過ぎてもまだまだ学びたいと希望する先輩達がこんなにもおられるのだと感銘するとともに、自己の胸の中にも勤勉意欲がわいてきました。式が終わりましたあとの廊下にはまるで通常の大学と変わらないように各サークルのテーブルが出来ておりまして、新会員の募集を受け付けておりました。
 5月12日には第1回目の講義が行われ、「郷土の偉人群像」というテーマで、講師から千葉の偉人「伊能忠敬」と「大原幽学」のお二人の話がありました。
 千葉に居住するものの一人として千葉に関わる先人や歴史的建造物などの学習をこれから2年間かけて行うわけですが、学習を通して多くの方々と知り合いになれ、そして自分の古里ではないにしても自分達の子供が生まれたこの千葉のことをよりよく理解できる二つの大きなメリットがありますので、何とか継続して卒業免状を頂きたいと今から張り切っています。
 サークル(同好会)も「歴史・民族探訪クラブ」、「美術館散歩クラブ」、「里山クラブ」、「写真・街角ウオッチング」、「陶芸クラブ」などなどたくさんありますが、私は「そばグルメ倶楽部」に入会することに決めました。いつか家族に美味しいそばをご馳走してあげたいものです。
 最後に初日の講義(上記)で習いました両偉人の共通の実践したことを記して終わりにします。
 「学ぶことは生きること!生きることは学ぶこと」



      ボランテア活動1年が過ぎて──特定非営利活動法人”ワールド・ビジョン”──
 
 3月11、12日の朝、私が参加しておりますNGOの組織「ワールド・ビジョン(World Vison Japan)」がテレビ放映(タイトル=ライフライン<30分番組>)されたために多くの43会の仲間や以前の会社の友人などから「見たよ!」と連絡を戴きました。私が定年退社後このような活動に関係していることを知らなかったという内容とこの組織の活動内容についての質問が多々ありましたので、簡単にお話したいと思います。
 ワールド・ビジョン(以後WV)は1950年に設立された世界約100ヵ国で緊急援助から自立支援まで一貫した支援活動をおこなっている国際NGOでして、チャイルドスポンサーシップというプログラムのもとに世界約220万人の子供達を支援しています。
 調査によりますと親をエイズで失った子供は世界で1,500万人、開発途上国に住む栄養不良の子供は約1億5,000万人、また家族を支える為に働かなければならない子供は世界で約2億5,000万人にも及びます。上記のチャイルドスポンサーシップはこうした子供達が支えられる為にスポンサーと言われる方に月々4,500円を継続的に支援いただき、地域の貧困を解決するプログラムです。
 WVが紹介する支援チャイルドとの文通や毎年お送りする報告書を通して「支援の成果」を実感できるのが大きな特徴です。
 この現地の支援チャイルドと日本国内のスポンサー(支援者)を結ぶWVJ(World Vision Japan)の仕事をお手伝いしているのが我々ボランテアの仕事になります。
 仕事の内容は報告書、手紙等の区分け、封入、発送、案内などの印刷、手紙(現地←→日本)の翻訳など多岐にわたります。仕事の内容はシンプル作業が多いのですが、これらの仕事も外注に出した場合かなりのコストUPになりますので、支援者の貴重な浄財を少しで多く子供達に還元する為にはとても大事な仕事になっています。 
 現在ボランテアの登録数は約200人になり、その方々の内容は正に様々です。お子様が大きく成長なされ手が掛からなくなったお母さん、定年退職して時間の余裕が出来たお父さん、大学、大学院在籍の学生さん(授業のない日)、将来WVのような海外援助の仕事につきたい若者、海外留学生など様々です。
週に2、3度参加、週1の参加、隔週の参加、月1の参加など出勤(?)日数は個人の生活パターンにより自由です。
 毎日だいたい10人から15人くらいの参加者ですが皆黙々と作業をしております。手を動かしながら、あるいは翻訳のPCの画面を見つめながら、皆さんの頭の中には遠い地球の裏側の国々、アフリカや南米の地で貧困に耐えながらも明日に向かっていきいきと目輝かせている子供達の顔が浮かんでいるように感じます。
 ランチの時間や3時の休憩の時などはひとつのテーブルを丸く囲み最近の出来事、昔あったこと、スポーツの事、生活の知恵?など老若男女が混在して楽しいそして「生き字引団欒の場」になります。
 ボランテアに関して人様々な意見がありますが、私の考えはいろいろ批評をすることよりも先ず自分で行動に移しそこから考えようとスタートしました。定年退職まで大病も大きな事故、災難もなく生きて来れましたのは何かの力でそうさせてもらったのであり、今後は少しでもその恵まれた部分を社会の底辺の方々に還元出来ないかと思案していた時にWVJのスローガン=”何もかも”はできなくても、”何か”はきっとできる=が目に飛び込んできました。
 この活動を通じて多くの現実を知りそして多くの善良な人々(ボランテア仲間)を知りえたことは私にとりまして「賃金に勝る大きな報酬」ではなかったかと思っております。



     人生の中の原点
 
 最近思うことがあります。
 還暦を迎え人生の「最終章」に移り行く自分を出来るだけ客観的に観た時に、あることに気が付きました。
 「人間には誰しも一つの原点がある」と思えてならないのです。母の子宮から生まれ幼児期、児童期、少年期、と成長してゆく過程の中で、あるひとつのことにぶつかる──それは一時的なもの、あるいはある程度時間経過のあったもの、あるいは一地点的のもの、あるいはある程度地域性のあるもの──いろいろである。
 そのことがその時点ではさほど意識しなのであるが何時しか頭脳のある部分に沈殿している。それは癌細胞でもなんでもなく普段はなにもしないでおとなしい。しかし、その後の人生の中で大きなトラブルや苦境にはまると無意識のうちにその奥深い細胞のようなものを探り当てに行く。
 その奥深い細胞はまさに座標軸の「原点」であるかのようで、どのように進んだ双曲線も放物線も全てのベクトルはまた最初の原点「ゼロポイント」に帰って来る。その原点でまた新たなエネルギーをもらって再度X軸とY軸に囲まれた座標の空間に羽ばたいてゆく。
 私の原点は小学校の低学年にあった。5年の時に他の小学校に転校になったので2〜3年生の頃だったかもしれない。
 昭和24、5年頃私は長野県の信州中野という所に母と兄姉4人で住んでいた(父は既に死去していて他の2人の姉は東京に出ていた)。
 終戦直後でとにかく生活は貧しかった。食べるものもろくになかった。東京で生まれたのだが、空襲を避けるために田舎の親戚を頼りに移り住んだ為に肩身の狭い思いの毎日であった。
 小学校にはその頃もちろん給食も始まっておらず皆家から弁当を持参していた。
 その頃の私の家で朝は何とか食べても弁当に詰めるご飯やおかずが無かった。いつも後から母がもって行くから・・・と持たせてもらえなかった。しかし毎日と言っていいほど昼の時間には間にあわなかった。教室で皆が「いただきます!」と大きな声で言いながら弁当を広げているのだが私の机の上には広げる弁当がなかった。皆が食べ始めても私はじっと机に座りながら窓の下の校庭を見ていた。教室が2階だったので広い校庭からその向こうの校門まで見えた。
 真夏の太陽に校庭は照り返されてじりじりとやけているようであった。
 校舎脇のポプラ並木の影が日差しが強いせいか、くっきりと校庭の砂の上にそのシルエットを描いていた。どこかで蝉がジージーと鳴いていた。
 もう皆の食事が済む頃になってようやく母が小脇に何かを抱えながら校門を駆け抜けてくるのが見えた。広い校庭を必死になって私の教室のある校舎めがけて走って来る。その姿を2階の教室の窓から私はじっと見ていた。おそらく母はこの暑さの中を走り通しで汗びっしょりかいているのだろう。また何か着物でも質屋に入れてお金を作り私の弁当のお米を買っただろう。弁当の中は五分五分の麦飯でその中間には醤油をかけた鰹節が挟んであるのだろう。おかずはそれだけだろう。
 校庭を斜めに駆ける母の後ろの影法師がなにか悲しい影絵のように思えた。その時つくづく貧乏はいやだ・・・と思った。
 この一連の光景がその後もずっと私の頭から離れず、バイトをしながらの苦学生の時代も、仕事についてからの後の厳しい場面にもいつも思い出されたものである。
 「あの時のせつなさ、辛さからみれば・・・」と何時も自分を奮い立たせてくれたのである。比較論的に物事を判断し、直面する問題をよりイージー(easy)に振り替えて処理できたのである。
 このような底辺の辛さ(子供の頃にとっては)をおそらく我々の時代の誰もが経験しているものと思う。しかし世の中が豊かになり「豊饒の海」に育った現代の若者には幸か不幸か困難にぶち当った時にたどりつく座標の原点がなく、打たれ強さに希薄ながところあり、短絡的な行動に走ってしまう傾向があるのではないだろうか。
 そんな母も他界して早12年。今月22日が命日だったので遅ればせながら墓参りに行ってこよう。


 
     八束さんの<毎日が日曜日>を読んで
 
 八束さんの上記記事を拝読させていただき大いに賛同いたしました。私の場合は氏ほど徹底しておりませんのでせいぜい「毎日が土曜日」くらいでしょうか…?
 やはり定年近くなりますと誰でもその後の生活に思いを馳せるわけですが、それらに関する書物は本屋にたくさんあります。読んでいるうちにそこに書いてある「理想形」と現実の自分の置かれた環境が違うことに気づき焦燥感にあおられることがありましたが、決してあせることは無いと思います。
 八束さんも言われておりますように、基本的に心身の健康さえ保たれておればあとは自分流のオリジナル・メニューで行けばいいのだと思います。
 定年後2年目の私の現在の基本生活パターンは、下記のごとくになっております。

 月曜日  10:00〜16:00 ボランティア    (新宿)
       17:45〜21:00 勤務(パート)   (幕張)
 火曜日  朝  〜       自由
       15:30〜21:00 勤務(同上)  
 水曜日  朝 〜        自由
       13:30〜18:30 勤務(同上)  
 木曜日  10:00〜16:00 ボランティア    (新宿)
       16:00〜      自由
 金曜日  休日
 土曜日  08:45〜13:30 勤務(同上)
       15:00〜16:30 ボランティア(中国人に日本語指導)
 日曜日  休日  ( 0800〜10:00 剣道練習 )
 
 この生活パターンを決めたメリットは…以下の点です。
1.ボランテアでは大勢の人との交流がありますので勉強と刺激になります。
2.勤務は4〜5時間と短い時間でシフトを組んでおりますので疲れません。
3.昼間にかなり自由時間が取れますのでスポーツジムとか散歩を適宜入れることが出来ます。
4.千葉在住の外国人に日本語を教えること(千葉市国際交流協会の企画)により国際交流が出
  来る。
5.周に一度ハードなスポーツ(剣道)で思いきり汗を流すことが出来る。
6.週2日の休日(金、日)はかならずKeepしている。
 これからハッピ−・リタイアーをお迎えになります方々の何か参考になればとペンを取りました。
 また、この度の43会総会で重要な職務を仰せつかりましたので上記の自由時間を存分にShareさせたいと考えています。(管理人注: 佐藤さんはこの度白門43会の副会長に就任されました。)
    



     大腸内視鏡検診のすすめ

 先日、千葉駅前の大手病院で大腸の内視鏡検査(大腸ファイバースコピー)を受けました。5月連休前の定期健康診断(人間ドック)で「便潜血(+)」の診断を受け精密検査を受けるように言われたのでしぶしぶでした。
 内心、苦しそうだったので(他人からも聞いていた)、「もう一度最初の検査(検便)をしてもらえませんか?」と聞いたら「この際受けておいたほうが良いですよ!」と冷酷な返事だった。
 覚悟を決めて検査日を予約したが食事の制限は検査日「前日の朝食」から始まった。(胃カメラなどは検査日の前日夕食からだが?)
 パンとか、うどんとか極力胃や大腸に残骸物が残らない食べ物を検査前日の朝からとるように言われた。検査当日は検査が午後2時からなのに10時から病院に入るように言われた。なんで4時間も前に・・・? と思ったがあとでそれが解った。
 カメラを飲む前に大腸の中をきれいに空っぽにするために何とかという液体を飲まされるのだ。それも全部で1.5リッターほどの量でかなりの量である。看護婦さんは「レモン味ですから」と言っていたがこれがまた飲みにくい(まずい)のである。味を感じないでただひたすらのどの奥に流し込むしかない。
 そして何度かトイレに行き排泄物が綺麗になるのを見極めるのである。流す前に看護婦さんを呼んで「どうですか?」と聞くのである。「まだまだ、もう少しですね」といわれるとまたガブガブ飲んでとにかく大腸の中を綺麗にしなければならない。
 午後2時ごろになりやっとOKがもらえて検査室に移った。大腸の動きを鈍くするため腕に注射を打たれた。スッポンポンになり手術服に着替えさせられた。ズボンの後ろの検査部分が割れていて少し恥かし専用服である。
 やがて、先生が少し説明しいよいよ検査に移行した。
 肛門から直径約1.5センチの先端カメラ付のケーブルを徐々に挿入していくのである。
 大腸を膨らませるために同時にそのケーブルから空気をおくりこむのである。寝ながら頭の上のテレビ画像でカメラが動くとおりに自分の大腸の内壁が見えるのである。60年以上も毎日休む暇も無く使い続けて自分の大腸のありのままの姿が目の前で直視できる。これには素晴らしいことであり驚くべきことである。
 腸内部のべースのカラーは赤であるがピンク色の箇所あり、ひだひだありで正に「鍾乳洞の探検」か映画「エイリアン」の巣でもあるかのようであった。横に伏し、画像を見ながらいままで意識のかけらももたなかった大腸の「縁の下の力持ち」をつくづくありがたいと再認識した。
 胃がんなどの検診は最初にバリウムなどの検査でおかしい場合には次のステップとして比較的簡単に内視鏡検査(胃カメラ)に移るケースが多い。 しかし大腸の検査はそれが無いのでかなりのケースが見落とされかなり病気が進み進行してから内視鏡(カメラ)の検査で発見されるケースが多いらしい。
 今回、自分の場合は後日結果ヒヤリングで「特に異常なし」で一安心したが是非この大腸内視鏡検査を「大腸癌」早期発見のために60歳前後の皆さんにお勧めしたい。一日がかりになるが特に痛いなどの苦痛が伴うものでもなく、多少の腸内の圧迫感さえ我慢すれば検査そのものは約30分で完了する。
 私の体験では胃カメラのほうがよほど苦痛であったと思われる。そしてなによりも良いことは生後60年経って初めて見た大腸がこれほどまでに精密に出来ており、ご主人のために24時間365日ひと時の休みも無く働き続けてくれていることを思うと(自分の体の一部ではあるが)あり難く思え、今後は無理を掛けまい・・・と思うのである。
 あなたも一度60年間もお世話になっている、そして毎日見えないところでご主人様のために働いている大腸の中をご覧になられたらいかがでしょう? その後はきっといたわりの気持ちがわくと思います。



     桜の季節

先日、御茶ノ水駅を電車で通過する際久々の景色なので子供のように身を乗り出して周りの風景を見ていた。
 学館闘争やヴェトナム戦争を議論したり恋を語り合った喫茶店「田園」や「丘」、そして腹をすかした時に駆け込んだラーメン店の「五楼(ゴロウ?)」はもう無いが御茶ノ水橋や聖橋は昔のままだ。今でも耳を澄ますとあの聖橋の向こう側から辞達学会(弁論部)の若き弁士たちの練習原稿を読み上げる声が聞こえてくるようである。
 「そもそも、雄弁とは、遠きローマ時代におけるソクラテス・・・云々」と喉から血のにじむくらい発生練習をさせられたものであった。
 そんな思い出に一瞬の間ではあるがわれを忘れていてふと電車の軋みでわれに返った。そのとき、強烈な「明るさ」が眼下から飛び込んできたので何気なくそちらを見た。
 なんということであろう・・・それは川面を覆いつくした桜のはなびらであった。 ピンクの桜の花びらが一面にしきつめられ水面はまったく見えないのである。この川(神田川?)両岸の桜が散り川に降り注ぎそれが上流からだんだんと川下に行くにしたがいそのスペースが拡大されていったのであろう。
 まさに「ピンクの川」そのものであった。その色が照り返りって眼下の川底が逆に明るく感じるのであった。「散りぎわ」のいさぎよい桜だからこそ、このように短期間のうちに先を争うようにして散華すればこその自然現象であった。
 電車に気持ちよく揺られながら私の脳裏には川面の桜に誘発されて昨年バイクで訪問した九州、鹿児島知覧町にある「知覧特攻平和記念館」の光景がよみがえってきた。広い館内とそしてなによりも「重い」歴史的事実をここに筆舌する力は私にはもとより無いので敢えてしないことにします。お聞きするところによりますと最初は観光気分でここを訪れた老若男女も出る時には目赤くはらして無言で現れるそうである。
 「散る桜、後の桜も散る桜・・・」桜をこよなく愛した特攻兵士をしのび平和観音堂への直線道路には桜並木がつくられており現在は尊い犠牲となられた1036柱と同数の1036基の石灯籠を建立する事業がすすめられているそうである。館内のロビー正面に飾られておます「知覧鎮魂の賦」の絵は燃えながら敵艦に体当たりしてゆく戦闘機の中から特攻隊員の魂魄を昇天させようと6人の天女が手を貸している絵柄である。その戦闘機の尾翼の上にも一枝の桜が描かれていた。
 もう少し早く生まれていたら、あるいはもう少し戦争が長引いていたら、われわれも彼等と同じ運命をたどったかもしれない。戦後育ちの一員としていつかもう一度あそこを訪れあの平和観音堂に通ずる桜並木の下をゆっくりゆっくり歩いてみたい。その時、ともすると頭上の桜の花の間から英霊たちの声が聞こえてくるかもしれない・・・。「俺たちの死を無駄にするな・・・この過ちを風化させるな・・・」と。    <合掌>



      愛犬同盟離脱宣言 

 このHome Pageの管理人である三沢さんがかなり前にこの寧日雑感に自分の家の愛犬の事を書いた3人(3家族)を指して「愛犬同盟」と名づけた。3人ともこの上なく自分たちの家のワンちゃんをこよなく愛し、家族の一員として可愛いがっていた。
 しかし、このたび残念なら私(当家)はこの同盟から脱退しなければならない運命になった。理由は約15年間飼っていた愛犬「レオ」(ポメラニアン・オス)が先月6日の早朝昇天したのである。
 その日は私が前々から友人と予定していた北九州ツーリングの出発の日であった。レオはさかのぼる事約2ヶ月前から急に体の動きが鈍くなり朝晩寝ている状況で殆ど食事もしなくなっていた。無理して流動食を口に流してもものの30分もするとげーげーと吐き出すような状態であった。
 今まで必ず教えてくれて庭でしていた用足しも何度かに一度の割でお漏らしをするようになってきていた。
 掛かりつけの獣医に何度か見せても「もう寿命ですね、好きなものを食べさせてください・・・」と言われるだけであった。
 旅行はもう3ヶ月も以前からの友人との約束でもあり、全て向こう10日間の予約も入れてあるので変更できず、旅先から毎日容態を聞く連絡を入れなければならないと覚悟を決めていたその日の朝にレオは息を引きとったのである。夜半から急に悲しい声で唸りを上げたり、今まで無かったのだが小さな声でワンと吠えたりしだした。以前からおなかで大きく腹式呼吸は絶えず繰り返していたが、それもかなり大きくなり間隔が長くなりだした。妻も娘も起きだして一晩中腹をこすったりスポイトで水を口に流し込んだりして見守っていたが、6時55分に呼吸が止まり、同時にまるでこれが生死の境かと思われるくらいに首がガクンと垂れてしまった。今まで朦朧とはしていたが我々を見続けてていたレオの目はその時点ではっきりと光を失ってしまった。
 生命の終焉とともに失禁しシーツの上に放尿したが、その時点の死を信じられなかったのか、妻は「あっ!オシッコが出た・・・!」 何日も出なかった尿が出たので喜んでいたようであったが「今息を引きたったのだよ」と知らせると「嘘でしょう!」と嘆き悲しんでいた。
 娘はそれから3時間もレオの亡骸を泣きながら抱いて放さなかった。
 今振り返ると最初にペットショップでレオを見つけ、それから約15年間育ててくれたこの私にせめて旅たつ前に別れの挨拶をしたかったのだろうかと目頭に熱いもの感じながら思うこのごろである。
 今、レオの体は一握りの骨になり小さな可愛い模様のついた骨壷に入り、その周りを多くの動物の置物と可愛い花、元気な頃の写真に囲まれてリビングルームのチェストの上に飾れて何時も我々とともに生活している。



     2,500KM走破、3度目の単独北海道ツーリング 

 7月10日より9日間かけて3度目(3年越し)の北海道一周ツーリングに行って来ました。
 いつものように茨城の大洗から商船三井のフェリーにバイク(ホンダCB400)と共に乗り込み約21時間かけて苫小牧に入るコースである。
 苫小牧からは昨年と同じく概ね天候にめぐまれ襟裳岬(泊)、釧路、厚岸愛冠(泊)、根室(霧多布岬、納沙布岬)、羅臼、知床岩尾別(泊)、宇登呂、網走、摩周湖、屈斜路湖(泊)、美幌峠、紋別、宗谷岬、稚内(泊)、羽幌、留萌、石狩、小樽(泊)、積丹岬、岩内、洞耶湖、室蘭、苫小牧(乗船)と時計の逆周りで北海道を一巡出来ました。
 今回3度目なので北海道の気候や交通状況(ねずみとりの居そうな場所?)は慣れたものでしたが今回初めてトライした夕方のしかも霧の中の知床峠(羅臼より反対側の宇登呂までの知床横断道路)の峠越えは本当に体力の限界かと思われるほどきついものでした。その朝前泊した厚岸を気持ち速く出たのですが本来の欲張りの性が出まして羅臼に入るまでにあちこち回りすぎたのがいけなかったのです。
 予定では明るいうちに峠越えをする予定でしたが羅臼の峠入り口に到達したのが夕方の6時頃でしかも無理して走りましたので疲労は限界でした。峠の向こうに今夜の宿を予約してありますのでどうしても行かねばならず3メートル先も見えない濃い霧の中を休憩も取らず登っていきました。道路はヘアーピンカーブの連続でまかり間違えばがけ下に転落です。走りながら思いました「こんな所で転落したら白骨になるまで発見されないのでは・・・?」と。
 怖くなり途中の駐車場で休憩を取ろうと思い重いバイクを入れたまでは良かったのですが地面についた足の感覚が鈍く大きく左側に転倒してしまいました。ガシャンと言う音に霧の中から見知らぬ人たちが何人か直ぐに駆け寄ってきてくれました。幸いたいしたことも無く自力でバイクを引き起こし(恥ずかしいので)休みもとらず直ぐにそこを離れました。
 しかし、これが自然のいたずらなのかと思われるほど峠を越え向こう側に入ると霧は晴れ夕暮れの薄日さえさしていました。
 寒さと事故の恐怖でヘルメットのしたでカチカチなっていた歯もおさまり谷底の宿舎(YH)の明かりをコーナーをカーブしながら見たときは安堵感が体中に満ちてきました。
 こんな苦労もあったせいか翌日の摩周湖は(歌に反して)霧の一塊も無い素晴らしい眺めを満喫できました。周囲の深い緑の山々にまるで隠してでもいただいているような湖は深い緑とブルーの色に彩られ人々を近づけない凛とした姿で眼下に満々と水を蓄えておりました。3年越しでやっと念願だった「恋人の顔」を見ることが出来ました。(これも昨夜の苦労のご褒美だと思いました)。
 後半、最後の半島である稚内の宿舎(YH)に夕方到着し部屋に入ると一人の先客がおりました。年齢も小生とあまり変わらない方とお見受けして夕食のときなどビールを飲み交わしながら旅の話などをしました。話をお聞きしているうちに世の中にはすごい方がおられるものだとただただ感激させられました。
 彼は年齢63才でしかもわれ等が中央大学の先輩でした(理工学部卒)。定年退職後意を決して日本を歩いて一巡すると言うとてつもない計画に着手し約70日前に東京、日本橋にあります日本地理の「ゼロ基点」から全国徒歩旅行にスタートしたのです。しかも千葉を通りあとは太平洋の海岸線を地形どうり歩き北上し青森から北海道に渡り私が今回バイクで走りぬいてきた道をテクテク歩いてきたのです。一年かけても全国を走破すると日焼けした顔を誇らしげにみせていました。小型のPCを携帯され毎日宿舎についてからその日の行動を記録したり自宅や友人とのMailのやりとりをされておられるとのことです。その夜は眠るまで旅の話に花が咲いたのは言うまでもありません。
 翌朝先輩は早朝に宿舎を旅たち小生はその後約2時間後出発しました。小樽方面に向かう国道40号線なのでもしかしたら追いつくのではと予測したとおり真っ直ぐの道路のはるか前方に暑い日差しの中、テクテクと歩いている先輩に追いつきました。お互いの旅路の無事を祈りながら握手をして別れました。
 バイクのミラーに彼の姿を何時までも写しながら「どうかご無事で・・・」と祈らずにはいられませんでした。小生も年のわりには結構無茶なことをする人間ではないかと思っておりましたがこの先輩には心底頭が下がる思いでした。旅はこのようにいろいろな人との「出会い」がありそれが驚きであり、ときめきであり、非日常的な体験の連続なのです。
 私はこれからも足腰立たなくなるまで旅を続けようと思いながら帰途のフェリー「サンフラワー」の甲板の上で無限の海原を見ながら思いをはせました。

(後日談=中大の先輩とはその後も電話やMailで交信を続けておりまして昨日のMailですと2ヶ月間かけて北海道を一巡し7月4日に無事函館に到着したとのこと。(日本橋発後130日目)そこで奥様と再会し2、3の観光と休息をしたあと更に函館より船で青森に渡り今度は日本海側を南下するとのことでした。いずれの日かの大願成就の日には花束を持参で日本橋で先輩をお迎えしようと今から考えています。)  (文中 YHはユースホステルの意味)
(写真は上から「襟裳岬の民宿の前・・いざ出発」、「納沙布岬」、「摩周湖を背景に」)



     塩狩峠の宿にて

  今年も北海道へツーリングに行ってきた。
 昨年は目的のラベンダーが季節が遅く、見られなかったので早めに計画し、7月3日より北海道に入った。
 天気にも恵まれ苫小牧、札幌、小樽、稚内、浜頓別と4日間かけて順調にコースを消化した。5日目の宿は身体の疲れをも考えて旭川の先にある山間の”塩狩温泉ユースホステル”に投宿した。そこは国道40号線、別名”名寄国道”の塩狩り峠より少し手前にあった。
 周りに何も無い静かな山間のユースと一般の旅館、そして一時的な温泉が楽しめる施設であった。その旅館にはロビーにも廊下にも詩人で書道家の故”相田みつを”氏の作品がたくさん飾ってあった。私はこの旅館に投宿するまでは故人のことは何も知らなかった。しかし、その独特の筆の運びとその詩の内容に深く感じるものがあった。
 氏は永平寺の高僧の教えに感銘を受け、若くして在宅の出家僧になられたとのことである。享年68歳でこの世を去っておられるが、氏の数々の詩の内容はみな人々の心を和ませるものばかりである。
 詩の書体も実に味があり詩の内容を字そのものが声に出して語りかけているようである。 私は詩も書道も詳しいことは分からないし、何も立派な事は言えない。けれどその形式にとらわれず心のなすがままに白紙に黒い墨で描いたひとつひとつの詩はこのギスギスした社会に生きる我々に癒しを与えてくれるように思う。
 たくさんの中から私の好きな色紙を一枚購入してきた。
  生涯 燃焼
  生涯 感動
  生涯 不悟
 近々に還暦を迎えるがこの詩を”座右の銘”として、今後もこれで行くしかない……と思っている。 (2003年7月20日)



    安楽死 

 私の家には一匹の子犬が居る。
 種類はポメラニアンという小型犬でもう我が家に飼われてから約14年にもなる。つまり問題無く老犬で人間年令に変えたらとうに80歳は過ぎているらしい。
 14年前に未だ我が家の子供が幼かった頃千葉のそごうデパートのペット売り場で私が見つけて買ってきたのが始まりであった。
 夏のものすごく暑い日にその子は小さな小さな檻の中にぐったりとなって惰眠をむさぶっていたが、私が近づく気配でスクッと立ち上がった。そして私を不安そうにまた何か懇願するような目つきで見つめていた。
 それが私と彼、レオ(彼の名前)との14年前の初対面であった。
 まだ生まれたばかりのほんとにちいさな子犬で、店からはダンキンドーナツの箱の大きさのぐらいのBOXに入れて持ち帰った。家族はあまり犬を飼うことにのりきで無かったようだったが、子供の頃に犬を自宅で飼った経験のある私はどうしても犬を飼いたかった。しかし、それからの家族はいつのまにかこの子犬”レオ”を中心に全てが動くように変わっていってしまった。
 子供達が帰宅しても先ず犬の姿が見えないと“あれっ? レオは?”から始まり“今日はレオの食欲が無いの?”とか、父親よりもまずレオの安否が先であった。犬年10歳位までは飛騨高山とか、八ヶ岳とか“ペットOK”のホテルを選んであちこち旅行もした。
 まさしくよく言われる“家族の一員”に疑いも無くなって、その存在は大きいものに今はなってしまっている。
 私には“主治医”などと贅沢なものは居ないがレオにはもう10年以上もかかり付けの獣医が近くに居る。過去には脱臼の手術、脱腸の手術、去勢等、入院も何回もしている。
 最近、時々待合室でお会いする一人の老人が子犬を小脇に抱えて泣いていた。お話を聴くと医者からその子の病気が不治の病であり苦しみばかりなので“安楽死”を勧められたとのことであった。
 それから数日あと、飲み会でお会いした会社の仲間に“お宅のワンちゃん元気?”と聞いたら5日前に亡くなったと目に涙をためて答えてくれた。17年も生きていろいろな病気(ガンも含む)を身体全体で引き受けて最近では昼も夜も苦しみに耐え抜く泣き声をもらしていた毎日であったらしい。何度かの医者の勧めの後、ご夫婦は“安楽死”にOKしたらしい。
 最後はあれほど苦しんで悲鳴をあげ、眼を見開いていた愛犬はご主人の暖かい腕の中で医者の注射一本で安らかに死への旅についたとのことである。まるで“17年間ありがとう…”とでも言っているような死に顔でした、と彼は言っていた。
 私の家のレオもいずれはその時を迎えねばならない。そのとき私は医者にその旨を告げられても決断が出来るであろうか?
 犬は何も言わないだけに人間だけの判断でその生命の終息をきめて良いものであろうか? 人間ならば本人の意思確認も出来るし苦しみの度合いもわかる。しかし、犬の場合はそれは出来ない。
 最近つくづく思うことは動物を飼うことはそれ自体楽しいし、沢山の癒しももらえる。だが、その長年の良いことの代償として上記のような“安楽死”の決断を迫られるとしたらそれはあまりにも冷酷な代償と言えるだろう。
 出来るならば眠るように旅立ってもらいたい。