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秋の金沢・富山旅行 第1日目(11月20日・月曜日) 予報によれば、北陸の天気は雨で、気温もかなり低いとのことだったので、一同、傘を用意したり防寒衣料で重武装したりで、さながら“ヒグマ”の集団のような様相で、東京駅9時20分発の北陸新幹線「かがやき507号」の指定席に集まりました。Oさんのみ切符を自分で手配して大宮から乗り込むことになっていました。この日は平日にもかかわらず、蟹の解禁で北陸に向かう人が大勢いるとみえて、大宮あたりで新幹線は満車になりました。 |
白門43会・卒業50周年記念旅行会
〇第1日目(犬山城~明治村)
〇第三日目(英虞湾クルーズ~二見ケ浦)
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防衛大学校見学ツアー 6月16日(金)、中大国際関係研究会のK先輩と岡山の高橋和尚(43会会員)に誘われて、横須賀の防衛大学校見学ツアーと、横須賀軍港めぐりを体験して来ました。 この日の早朝、集合場所の京浜急行久留里線の「YRP野比駅」に向かいました。駅名にアルファベットが使われているのは珍しいのですが、「YRP」とは、「横須賀リサーチパーク」の略だそうです。 日頃余り乗らない電車なので、駅員の言うままに「浦賀行き」の各駅停車に乗ってしまい、「野比駅」に到着したのは約束を30分オーバーした8時30分でした。でも、高橋和尚も各駅停車から特急へ乗り継ぎに失敗して1時間も遅れてきたのでホッとしました。私と高橋和尚は、前日、43会の仲間(金井、古賀、川辺、高橋)と、浅草で“第3回居酒屋の会’’を開き、観音様の近くの老舗「志婦や」「ぬる燭」そして私が浅草で一番美味しいと思っている「おざわ」という蕎麦屋で、合計5時間も飲み続けていたので、それが多少影響したのかも知れません。 9時すぎに、3人は、K先輩の運転する車に乗って、まずは観音崎灯台とその周辺観光をすることになりましたが、灯台は、そこまで登るのが大変ということでパスし、足元の海岸沿いの遊歩道を歩きました。天気もよく、ほどよい海風もあり、きれいに整備された道を歩きながら、下の岩場で釣りを楽しむ人や、遠くの房総半島を眺めたりしてリフレッシュしました。その後も、横須賀方面に向かいながら、暫く車で観光して、昼食を「夢・ドリーム」という所で食べました。その頃には前日の酒も抜けており、全員が「まぐろ漬け井」を食べましたが、とても美味しかったです。 ![]() まずは本館入口で、記念撮影を勧められたので、スタイルのいい女性の2等陸曹さんにシャッターを押してもらいました。中に入ると、足元に、方位盤のような物があり、それには「廉恥・真勇気・礼節」という防衛大学校生の学生綱領が刻まれていました。その他、現在防衛大学校で学んでいる海外留学生の出身国の国旗(中国、韓国、タイ、ヴェトナム、マレーシア、フィリピン、インドネシア、モンゴル、カンボジア等)が立てられていました。 次は、記念講堂です。2,000名の学生と学校スタッフなど2,300名が入れる大きな建物で、ここの最大のイベントは首相も出席してテレビでも報道される卒業式です。式の最後には、500名の卒業生が一斉に帽子を投げるのが慣例になっています。設備は最新式で、多くの椅子が自動で取り払われることができるとか、上から仕切りが降りて来ていくつかの小部屋にできるようになっているそうです。ここが出来るまでは、体育館で卒業式をやっていたそうです。 3番目は、資料館です。ここでまずは防衛大学校の概要についてのVTRを見ました。学生生活や訓練の様子などを見た後に、歴史資料を見学しました。歴代の校長の写真、「防衛大学校」の前身の「保安大学校」の看板などが並んでいました。 次が、学制会館で、これは売店のような場所でした。「ここにしかないグッズがあるのでお土産にどうぞ」と言われましたが、「防衛大」とイニシャルのある帽子・シャツ・タオルなどは、格好はいいと思いますが、自分で身に付けるには気恥ずかしく、「海軍カレー」「横須賀カレー」だけを買いました。 ![]() Q:4,000名の学生の中の、女性の比率は A:約10%である。 Q:留学生はどのくらいいるのか。 A:約5%である。 Q:脊の低い学生がいるが、身長制限はあるのか A:男性155センチ、女性150センチである。 また学生宿舎の脇を通る時、案内の女性が、1部屋8名で、各学年2名ずつになっていると説明してくれたので、女手学生はどうなるのかと思いましたが、女子は女子だけだそうで、部屋のガラスは曇りガラスになっているとのことでした。 実をいうと、私は高校1年の時に、防衛大学校を受験しようと思ったのです。試験科目を調べると、この学校は理科系で、数学・物理・化学が必須になっているのです。そこで父親に相談すると「あの学校は学生に給料をくれるそうだ。是非チャレンジしなさい」と言われました。でも、私はどちらかと言うと文科系で、数学や化学は苦手だと言うと、家庭教師を付けてくれることになりました。しかし、2年ほどやりましたが、私は軟式テニス部の主将になって勉強が疎かになってしまい、防衛大学校受験は諦めたのです。こんなことがあったので、今回の見学は感慨の深いものがありました。でも、例え受験に通っても、その後の激しい訓練にはとてもついていけなかったろうなとも思いました。 防衛大学校見学を終えて、次は、「横須賀軍港めぐり」です。車で横須賀軍港に行き、3時出発ということで待っていると遊覧船が戻ってきました。ほぼ満員で、次の我々も100名近く並んでいました。平日なのに、かなり人気のあるイベントなんだと思いました。コースは45分で、自衛艦やアメリカ海軍の軍艦を見学しながら横須賀本港や長浦湾などを巡るのです。説明がとても面白くて評判とのことでした。 私は軍艦が好きなので、冷房のきいた船室でなく上甲板に座りました。船が出ると、すぐに多くの自衛艦が見えてきました。説明者は、手際よくそれらの艦名や艦種を説明していきます。私は片端から写真撮影していきました。家に資料があるので、艦籍番号がわかれば艦名も艦種もわかるのです。そのうちに、アメリカ海軍のイージス艦が何隻も見えてきました。おそらく、今回の北朝鮮沖での演習から帰ってきたばかりと見えて、隻数も多いし、修理中のものが多かったです。残念ながら、原子力空母ロナルド・レーガンは不在で、原子力空母が停泊できる唯一の埠頭には、イージス艦が停泊していました。 翌日、テレビを見ていたら、前日横須賀を出港したイージス駆逐艦「フィツツジェラルド」が、伊豆沖でフィリピン籍のコンテナ船と衝突して損傷したとのニュースが流れました。私は直感的に、あの沖で見たイージス艦に違いないと思うとともに、イージス艦は、どんなミサイルだろうと航空機だろうと必ず捕捉してこれを破壊できる最優秀なレーダーと武器を備えた艦である、との昨日の説明は本当かなと思いました。衝突した相手は、8千トンのフィツツジェラルドより 3倍以上も大きな3万トンの船なのに、どうして衝突するようなへマをしたのか、自慢のレーダーはどうしていたのか不思議です。 ![]() ![]() ![]() ![]() 帰りの電車は乗り換えなしで、高橋さんは「青物横丁駅」、私は「浅草駅」で降りました。車を運転したり、色々と資料を用意してくれたり、説明してくれたK先輩に感謝しつつ、この夜は、ほどよい疲れと、美味しい酒と、楽しい1日を過ごした満足感で、熟睡できました 。 以 上 |
自動車運転免許の自主返納 今年の10月1日で私の運転免許証が更新時期となるので、更新するか自主返納するか迷っていたところ、警察から更新手続きの案内の葉書が届きました。それによると、70歳以上の人は免許更新手続き前に高齢者講習会を受講しなければならないと書かれていました。私は今年の9月1日で73歳になるので、今度更新すれば途中で“高齢者”とされる75歳になるのでこうした講習を受けなければならないのは理解できるのですが、やはり“来たか”という気持ちになりました。 1.申請による運転免許の取消通知書(東京都公安委員会の朱印が押されたA4のもの) 2.手数料1,000円の領収書 3.「高齢者の運転免許自主返納をサポート」という小冊子(運転経歴証明書の提示で優待が受け 4.運転経歴証明書引換書(4月18日以降に受け取りに来るとき持参するもの) 5.「満65歳以上で運転免許を自主返納された方へ」というA4の紙で、内容は台東区役所5階の 交通対策課に申請すれば「めぐりん(区内の循環バス)専用回数乗車券1冊及び文化施設4館 6.「運転免許自主返納記念」という紙のケースに「長い間、運転お疲れ様でした。これから、歩行 7.使用停止として中央に大きな穴をあけられた免許証 |
市川・国府台での花見の会
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南九州・神話探妨の旅 ○第3日目(11月23日) この日は、10時にジャンボタクシーが迎えに来ることになっていたので、朝食は7時半にしておきました。川辺さんなどは早く起きてホテルの周辺を散歩してきたようですが、私は朝風呂に入って目を覚ませました。朝食会場に行くと直径が1メートル近くある旅に、そばかゆ、豆、豆腐、佃煮、ヤマメの一夜干し、地鶏の生卵などがびっしりと並べられているのです。ここの料理は器も凝っていてそれも高価な陶器のものではなく竹の皮を編んで作ったようなものが前夜も出たのですが、朝食の冗には一同驚いてしまいました。味もすばらしく、ヘルシーな朝食で腹ごしらえをしっかりと整えました。 |
南九州・神話探妨の旅 ○第2日日(11月22日) この日は8時にバイキング形式の朝食と決めていました。その前に起床して入浴した仲間もいたよう |
南九州・神話探妨の旅 中大の国際関係研究会のOB有志による旅行も今回で15回目を迎え、昨年の北九州の旅に続いて今回は南九州・神話探訪の旅ということで、鹿児島・宮崎を2泊3日で探訪してきました。企画の段階で心配だったのは、熊本地震や阿蘇・桜島の噴火、そして交通の便の悪さでした。旅行社の担当者と何回か相談の結果、何とかなりそうだったので11月21日に出発しました。 ○第1日目(2016年11月21日) この日羽田空港の出発ロビーに集合したのは、43会会員である行田市の川辺さん、東京の私そして1年下の千葉市のSさん、2年後輩の船橋市のAさんの4名でした。5人目の43会会員である岡山市の高橋和尚は鹿児島空港で我々と合流するため前日に鹿児島入りをしていました。 |
48年前に戻る日 6月1日(水)の午前11時に、9名の男女が飯田橋に集まりました。私が30年余り勤務していた伊勢丹の仲間たちです。昭和43年に中大を卒業した私は、伊勢丹に就職して婦人服売り場に配属されました。この年の秋に伊勢丹は「男の新館」をオープンする予定で、紳士服売り場が半分を占めていた本館3階は全て婦人服売り場になるということで、3階に配属された新人は多かったのですが、S販売係長の担当である婦人服売り場は5つに分裂して展開することになっていたので、新人だけで男子5名、女子20名以上という多さで、取引先手伝い員も含めるとS販売係長の指揮下にあった販売員は100名を超えていました。それだけに活気がある団結力の強い売り場だったのです。 |
湯河原温泉と静岡旅行 〇 2月21日 この日は前夜のうちに雨が通りすぎたため素晴らしい晴れでした。私は早く寝たために5時頃には目が覚めてしまい、朝湯に行きました。夜中の12時から男湯と女湯が入れ替わっており、やや小ぶりな大浴場に入りましたが、今度もまた貸し切り状態でした。外に露天風呂が見えたので行ってみた ところ、風が強くて寒く、湯温も低いので早々に出てしまいました。朝食は8時に指定してあったので家内も7時頃入浴していました。朝食は夕食と同じ場所で、これまた手の込んだ少量多品種の料理理でした。鯵の干物、イカそうめん、野菜の煮っけ、出汁卵、湯葉その他で、どれも美味しく、ご飯が進んで思わずお代わりしてしまった程でした。 |
湯河原温泉と静岡旅行 年末・年始の忙しさや二人の孫の世話(長女夫婦が共働きのため、週4回二人の孫を保育園にお迎えに行き、夕飯を食べさせ、入浴までさせるのに加え、週2回6歳の孫の水泳教室の送り迎えを担当している)で頑張ってきた我々老夫婦の自分へのご褒美と疲れ休みということで今年最初の家族旅行を企画しました。まだ寒さが厳しい2月なので、多少は温かいと思われる熱海、静岡あたりを観光することとし、宿泊は湯河原温泉に狙いを定めて旅行社と相談しました。昨年もこの時期に伊豆の河津桜を観光し、吉奈温泉に宿泊し、熱海の梅園を鑑賞したのですが、中でも熱海の梅園がとてもよかったのでもう一度行くことにしたのです。また、1泊旅行の最終日にはなかなか観光する機会の無い静岡まで足を伸ばして、この地をゆっくり観光したり、おいしい生の桜海老でも食べたり、ついでに城巡りを趣味にしている私の城リストの53番目に駿府城を加えようとしたのです。湯河原温泉には、過去に2回行っていたので今回は多少グレードアップし、旅行社の推薦する「阿しか里」という2千坪の敷地に和室が18重しかない静かな旅館(1泊4万円/一人)を確保してもらいました。但し、旅行社からは桜海老の解禁は3月なので生の桜海老を食べるのは無理と告げられてがっかりしました。 天気予報は昼前から雨となり、その後強い風が吹いたり大雨になるとの予報でしたが、9時半頃に家を出た頃はまだ曇りの状登でした。東京駅から「こだま」で出発した頃から雨が降り始め、12時4前に熱海に到着した頃にも小南の状態が続いていました。コインロッカーに荷物を預けて昼食を食べることにしたのですが、駅前は大規模な改修工事中でコインロッカーは無くなっていました。止むなく、荷物を持ったまま食事処を探す羽目になったのですが、多くの海鮮料理屋が満席の中、1軒の食事処で2席の空席が確保でき、そこで山菜蕎麦の軽い昼食を食べることができました。我々夫婦が山菜蕎麦を待っている間にも何人もの客が入って来ては断られているので本当にラッキーだと思いましたが、肝心の蕎麦の味はいまいちでした。 |
年末の福島 旅行 〇12月29日(火) この日は午前5暗から風呂に入れると聞いていたので、早寝して十分睡眠をとった私は5時に起床して今度は10階の大浴場に向かいました。午前5時にもかかわらず、同じような考えの人が居たらしく10名程度が入浴していました。ここは巨大なひのき風呂になっており、他にも何種類かの風呂がありましたが、私はひのき風呂で手足を延ばして体を活性化させました。 |
年末の福島 旅行 2015年恒例の年末の小旅行ということで、今年も孫の世話から解放される12月末に、福島の温泉で疲れをとろうということになりました。昨年は茨城県の大洗に行ったのですが、今回は地震と津波の被害からまだ立ち直れないでいる福島県に少しでも貢献したいと思ったことも事実です。 まずは上野駅から上野駅9:46発の東北新幹線やまびこ45号に乗ろうと9時25分頃に上野駅のプラットホームに到着しました。そして列車番号を確認したところ、何と切符は9時22分発のなすの255号になっていることに気が付きました。そう言えば旅行社の担当が出発列車が少し早いものに変更になったという連絡をくれたことを思い出したのですが、自分の計画書の訂正をするのを忘れていたのです。わずか3分ほどの違いでしたがなすの255号は既に出発しており、我々夫婦はこれに乗り遅れてしまったのです。直ぐに改札まで戻って、次の新幹線の指定席を申し込むと、幸運にも計画書通りの9:46発のやまびこ45号の席が確保できたのです。8千円なにがしかの出費は痛かったのですが、とにかくこれで今回の旅行スケジュールは元通りになりました。 |
うどん屋のないうどん県 5月4日(月) この日は琴平駅から丸亀駅に向かいました。丸亀駅から目的地の丸亀城まで歩いて行く途中で、昼食の讃岐うどんを食べる店を探しましたが、ここも駅からお城までの20分ほどのメインストリートに「つづみ」という1軒だけしかありませんでした。 |
うどん屋のないうどん県 娘夫婦が休みで二人の孫の世話から解放されるゴールデンウィークに、四国旅行を計画しました。 この日は羽田発9:30のANA533便(満席)に乗って、予定通り10:45に香川県の高松空港に到着しました。そこからリムジンバスに乗って高松駅前に着いた時には11:30頃になっていたので、さっそく昼食を食べる店を探しました。香川県は「うどん県」に名前を変えたいと思っていたので、さっそく昼食を食べる店を探しました。香川県は「うどん県」に名前を変えたいと思っているはどの“うどん王国”と聞いていたので、駅前にはうどん屋がずらっと並んでいて選ぶのに困ると予想していたのですが、実際には駅前にうどん屋は1軒もありません。また「うどん店マップ」の類も一切ありません。家内と二人であちこち歩いた末に、大きなビルの2階に「讃岐うどん」と書かれた看板があるのが日に止まりました。ここにうどん屋が集中していたのかと思って入ってみると2階の食堂街にはラーメン屋が3軒、中華料理店が1軒、和食屋が1軒で、肝心のうどん屋は1軒しかありません。しかも私達と同様にあちこち彷担ったと思われる観光客が10人ほど入口に並んでいるのです。どうしようか迷いましたが、お腹も減っていることだし、うどんなので食べる時間も早いはずと思い並びました。20分ほどしてからやっと座敷席に案内されましたが、料理を待っている人ばかりでうどんを食べている人は余りいません。これは時間がかかりそうと思い、やや焦ってきました。というのは、13:13高松駅発の電車で琴平に向かう予定だったのと、先程のリムジンバスで来る途中で見かけた高松城を急遽見学したいと思ったからです。やっと注文をとりに来た店員に一番早くできるであろう「生醤油うどん」を注文しました。するとその女性が「今混み合っているので多少のお時間がかかりますが」と言うのでこちらもついムッとして「何時聞かかるのか」とややきつい調子で尋ねると「何時間もはかかりませんが20分ほどです」との答えです。私は「それでいいが、こちらも電車の時間があるので急いで欲しい」と言いました。店の方も「うるさそうな客」と思ったらしく、うどんは10分ほどで出てきました。もちもちした美味しいうどんと、小さな大根とおろし金、それに薬味と生醤油が付いてきました。大根おろしくらいは店の方でおろしてくれればいいのにと思いっつ、急いで大根をおろし、うどんにぶっかけて生醤油は店の人が言うように「少しづつ」入れましたが、何しろうどんが美味しいので、ほとんど“素うどん”状態なのですが待った甲斐がある味でした。帰りにレジで「美味しかった」とか「急がせて悪かった」とか言うっもりでしたが、レジが慣れないアルバイトみたいな女の子で、もたついていたので言うのは止めました。
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東 青 森 旅 行 〇 7月26日(日) 7時半から夕食と同じ1階の会場で、バイキング形式の朝食を食べました。ホテルからは混雑するので少し遅めに来た方がいいと言われていましたが、30分遅らせただけで行ってみると危なく席が無くなるところで、やっと確保してヘルシーな料理を食べることができました。 以上 |
東 青 森 旅 行 梅雨の6月、猛暑の7月・8月は健康のためにも旅行は控えておこうと考えていましたが、同窓会活動を43会に絞った関係でどうにも退屈な日々が続き、身体も鈍ってきたように思えてきました。 〇 7月25日(土) |
ちょい悪親父達の日光 ・鬼怒川旅行(2)
第2日目(4月20日(月)) この日7時頃、高橋氏が302号室に入って来て「朝だ朝だ」などと言いながら窓を開けたりするので目が覚めました。昨夜の宴会時に翌日の計画について「天気予報では大雨とのことなので、朝はゆっくり寝て、風呂などに入って、チェックアウトぎりぎりの10時に出てそのまま帰ろう」ということになっていたのですが、外を見ると曇っているものの雨は降っておらずこれは当初画通りに「龍王峡」に行けるかもということになりました。予約していた7時半から鮎の干物、湯葉、煮物などの朝食を食べ、9時半までにチェックアウトを済ませて「龍王峡」に向かうことにしました。時間は余裕があったので、食後にもう一度入浴して身体を目覚めさせました。
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ちょい悪親父達の日光 ・鬼怒川旅行
この日、午前10時に東武浅草駅を出る特急「スペイシア」の個室席で、私と岡山の高橋さんを含む4名が出発しました。この他、行田の川辺さん、千葉からの3名がそれぞれの車で東武日光駅に向かい、日光駅前で落ち合うことになっていました。 |
河津桜・吉奈温泉そして熱海(2) 02/22(日)
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河津桜・吉奈温泉そして熱海(1) 毎年2月に実施している家内との‘骨休み温泉旅行’について、今年は南伊豆の河津桜を見た後に伊豆半島の中央部の余り知られていない吉奈(よしな)温泉に行くことにしました。昨年この時期に、いつもの鬼怒川温泉を計画したのに突然の大雪で東武特急が運休して、旅行を1週間延期するという苦い経験があったので、今年は雪の心配のない南伊豆がよかろうということになったのです。 この日は穏やかで暖かい晴天の旅行日和でしたが、朝10時に東京駅発の踊り子号で河津に向かい12時半に河津駅に到着しました。私たちと同じ考えの人が多かったとみえて駅構内は溢れるはどの観光客で渦巻いていました。まずはバスの発車時刻の確認をし、1時半または2時10分発のに乗ることを決めました。人並みに押されるようにして露店が並ぶ道路を、河津桜が林立いるはずの青野川の土手方面に進みました。昼食は踊り子号の中で済ませてきたので、バス発車時刻までは花見に全部の時間を費やすことができるのです。途中の露店では、果実などの農産物や、魚の干物や海苔などの海産物そして露店の定番の商品が大量に出されており、観光客も花より団子とばかりにそれらに群がっていました。
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鳥取旅行(2)
〔第二日日〕12/9 軽い朝食を食べた後、山添さんのお勧めの「ラッキョウ」の工場の見学をしました。鳥取砂丘の近くにはラッキョウ畑が沢山あり、そこで収穫されたラッキョウがこの工場に運ばれてくるのです。そして水洗い、塩漬け、塩抜き、皮むき、形の整え、味付け、袋詰め、機械と肉眼による異物検査といった工程を経て出荷されるのです。大きな機械も沢山使いますが、形の整えや肉眼による異物検査は人力によるので大変な作業で、国産のラッキョウが高価な訳がよくわかりました。この工場では直売もしており、私達は酢漬やたまり醤油漬等を沢山購入しました。 〔弟三日目〕12/10
湯豆腐、温泉卵、カレイの干物、サラダといった軽めの朝食を終えて、9時半頃に旅館をチェックアウトしました。杉本さんの配慮で、あれだけ食べて飲んで一人1万5千円という安さでした。杉本さんに感謝々々です。因みに前日の民宿は一人1万8千円でした。 |
鳥取旅行(1)
この旅行のきっかけは、今年4月に開催された43会の「奈良・吉野旅行」の宴会で、たまたま同じテーブルだった鳥取県から参加の山添さんが自己紹介で「鳥取は何もないけど、食べ物の美味しいいい所だから是非来て欲しい」と発言したことでした。私が「鳥取には行ったことがないので行ってみたい」と言うと同じテーブル席の倉田さん、梱揮さんも賛同してこの企画がスタートしたのです。 〔第一日目〕12/8 この日、10時40分羽田発のANAで倉田、相澤、八束の3人は鳥取に向かいました。羽田は晴天で |
東北海道 花咲蟹の旅 〔第二日目・9月26日(金)〕 恒例の、中大国際関係研究会のOBとの旅行(第13回目)を、今年の9月25日(木)~26日土)の2泊3日で行ってきました。 〔第一日目・9月25日(木)〕 |
8月26日(木)、43会の原幹事が提案する恒例の「講釈師と一緒に歩く「歴史と文化の散歩ラリー」が開催されました。午前10時に日暮里駅の北口に集まったのは、原、龍門、矢崎、小塚、倉田、原田、森澤、八束そして紅1点の長谷川さんの9名でした。生憎の小雨が降ったり止んだりの天候でしたが、その分気温が低くなって歩くにはまあまあの環境でした。今回のラリー地域は、谷中周辺ということで、メインは中曽根元総理や安倍総理が座禅を組みに行くという「全生庵」という寺で名人と言われた落語家の三遊亭円朝(1839~1900)のコレクションである幽霊画を見学するというものでした。
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八束さん湯河原旅行(2)
3/23(日) 早く寝たせいで5時頃に目が醒め、布団の中で1時間ほどうとうとした後、朝風呂に入りました。この日は男女逆の風呂場になっており、私は3階の大浴場に入りました。3階も2階と同じくらい広い浴槽で、他には一人だけという浴槽で身体を目覚めさせました。家内も3回目の入浴をしましたが、ここの風呂は2階も3階も湯温が素晴らしく、大満足でした。
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湯河原温泉に夫婦で行きました(1) 相変わらず続く寒さの中、育爺(いくじい)の疲れ休みとして、先月の鬼怒川温泉に続き夫婦で湯河原 に行くことにしました。湯河原温泉には8年前の2006年1月に行ったことがあり、なかなかいい温泉だったという記憶がありました。最初は何回か行ったことのある伊豆北川のオーシャンヴューホテルの吉祥亭にしようと思ったのですが、この寒い季節には暖かそうな湯河原がいいということになったのです。また、湯河原なら近くに小田原・熱海などの観光地があり、買い物やおいしい物にも不自由しないのではないかとも思ったのです。 往路は「踊り子号」で正午くらいに熱海に着いておいしい海鮮の昼食をとり、その後湯河原に戻ってホテルにチェックインすることにしました。但し、天気次第では最近観光地として賑わっている初島巡りもいいのかなと思いました。因みに8年前に湯河原に行った時は真鶴を観光しています。また、最終日には小田原に出て名物の干物や蒲鉾などを買ってこようとも思いました。 3/22(土) 予定より早い9:20頃に家を出て、タクシーで上野駅に出て山手線で東京駅に向かいました。東京駅に早く到着したため、暫く駅の喫茶コーナーで時間調整して10:30東京駅発の踊り子109号で熱海に向かいましたが、3連休とあって車内は満員それも卒業旅行とおぼしき若い男女の団体、恋人同士のようなカップルで満席となっており、うるさいやら目のやり場に困るやらで、私は持参した本を読み、家内は昼寝をきめこんでいました。
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奈良 吉野の旅行会(3)
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奈良 吉野の旅行会(2)
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奈良 吉野の旅行会(1)
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台風26号の中の山形旅行(3)
10月17日(木) この日はいよいよ最終日ということで、基本的には朝食後に解散ということでした。後輩の3名はそのままゴルフということで8時半に先輩達に見送られて出発して行きました。我々先輩3名はホテルのワゴン車で「あつみ温泉駅」まで送ってもらい。9:33発の特急いなほ6号で新潟に向かいました。 |
台風26号の中の山形旅行(2) 10月16日(水) 「瀧見館」での部屋割りは、先輩3人と後輩2人に別れての2部屋でしたが、暑がりの高橋君が明け方に窓を大きく開けたのにはまいりました。冷たい風が入ってくるのと雨と川の流れの轟音が入ってきてとても眠れたものではありません。おまけに台風が気になるのかテレビも付けたようで、最後にはそのまま眠ったらしくイビキまでこれに加わったので私も堪り兼ねて「窓を閉めてくれ」と頼んで閉めてもらいましたが、おかげで外の様子が大変なことになっていることが分かりました。夜が明けて明るくなったので窓から外を見ると、まずは雨が滝のように降っているのが分かりました。そして旅館の下を流れる川が満水状態でごうごうと凄まじい流れに変わっていました。そして何より驚いたのが昨日見た細い綺麗な滝が、数倍の太さに変わり、水の色も白から泥水色になっていたことです。救いはまだ風が強くなっていないことでした。 この朝は8時半に鶴岡市から1年後輩のU君が車で迎えに来る予定になっていました。それはこの日に銀山温泉から温海温泉に向かうのが当初は6名で、A君の車に6名乗るのは無理ということで困っていたところ、この日の夜に温海温泉の「萬石屋」で合流するはずだったU君が予定を変更して会社を休んで朝早くから車を出してくれることになったからでした。 私としてはU君がこんな雨の中、銀山温泉まで迎えに来たばっかりに事故でも起こされたらどうしようと心配になり、朝の6時過ぎにA君と相談して「U君の企画による“最上川の川下り”は当然中止にするのでその分こちらも出発時間を遅らせて台風の通過を待つことにする。だから無理をしないでゆっくりと来て欲しい」と伝えてもらいました。U君は「こちらは大した雨ではない」との返事で、結局は9時頃には「瀧見館」まで来てしまいました。雨は相変わらず強かったのですが、風がまだ強くなかったので、9時半に2台の車に分乗して「瀧見館」を出発しました。高橋君、川辺君そして私がU君の車に乗り、後の2人がもう1台に乗りました。U君の車はハリアーという車高の高い車で見通しが良いので、先輩の3人全員がこちらに乗りましたが、体重の重い高橋君が助手席に、同じく体重の重い私が運転席の後ろに座り、バランスをしっかりととりました。先程旅館のテレビで、どこかの高速道路でトラックが風に煽られてバランスを崩して横転した画像を見たための処置でした。 暫くは緊張しながらの山道走行でしたが、その後ちゃんとした舗装道路となり、雨が強く叩きつけるものの重量バランスのよいU君の車は順調に走り、A君の車がこれをぴったりと追尾していました。途中、最上川と並行した道を走りましたが、川は濁流となっており水量も川淵すれすれという状態でした。しかも、最上川ともあろう大きな川にしっかりとした土手がないのです。このままではいつ水が溢れてしまうか分からないと私が心配すると、運転していたU君は「今走っている道路が土手のようなものですよ」と平然としていたのでやや安心しました。 この日の第一目的地は「最上川の川下り」でしたが、台風なのでU君にこれをキャンセルしてもらいましたが、舟乗り場の横を通過しているとU君が「最上川の川下りはこの雨の中、営業しているみたいですね」と言うのです。私にはこんな雨の中、濁流の中に漕ぎ出す神経はとても理解できませんでした。 ![]() 「斎館」に入ると綺麗な巫女さんが「U様ですね。お待ちしておりました」と挨拶して立派な貴賓室のような場所に通され、天皇陛下が座るような椅子でおいしいお茶とお菓子を振る舞われました。その後、権宮司という気さくな男性が現れ、暫くお話をしましたが、U君が庄内銀行に勤務していた頃からこの権宮司と親しいお付き合いがあったことが会話の端々から伝わってきました。ようやく会話が終わったのでいよいよ食事かと思ったら権宮司が「食事より先にご祈祷でしょう」と発言され、一同ぞろぞろと神殿の奥に通されました。外から時々参拝者が柏手を打つ音が聞こえる中、神主さんが祝詞をあげたり、御祓いをしてくれました。最後に、私が最年長者ということで一同を代表して玉ぐしを奉納しました。 その後やっと食事となり、長い廊下や階段をかなり歩いて一番奥の「勅使の間」という8畳ほどの立派な部屋に通されました。ここは40年近く毎年のようにお参りしているU君も初めての部屋ということで、一同恐れ入りました。食事は7品の精進料理で、茸やゴマ豆腐、野菜の揚げ物、漬物でどれもヘルシーでしかも素晴らしい味でした。車を運転する者が2名、酒を控えている者が2名いたので、酒はほどほどにしておきました。一同、思わない素晴らしい体験ができ、これまでの悪行が全て洗い清められたような気分になり、更に「斎館」の出口で神主さんから「御神酒」の1升ビンを頂いた時にはその有難さが絶頂となりました。 ![]() 次いで、少し離れた場所にある「本間美術館」を見学しました。ここは広い立派な庭のある木造の屋敷(昭和天皇が皇太子の頃宿泊したこともある)とそれに隣接する美術館に分かれており、美術館には現在のひな人形のルーツとも言える多くの人形や刀の鍔、文献等が飾られており、館長さんがこうした人形の役割や歴史というものを分かりやすく説明してくれました。 ![]() いよいよ今夜の宿泊地であるあつみ温泉の「萬石屋」に向かいました。5時くらいに「萬石屋」に到着しましたが、これもまた川に沿って建てられた10階建ての立派なホテルで、一同びっくりしてしまいました。旅行社に依頼したときは4名と3名の2部屋でしたが、案内されたのは8階と7階の角にある10名も入れる大きな部屋でした。入口を入ると6畳くらいの部屋があり、居間はその奥の12畳の部屋、そして6畳の次の間まで付いているのです。どうしたんだろうと言っているところに「支配人からです」と」仲居さんがフルーツの盛り合わせを持ってきました。我々43年卒業の3名は8階、後輩3名は7階だったのですが、どちらも同じ作りの部屋でフルーツの盛り合わせも勿論同じでした。そこで気がついたのですが、このホテルは確かに私が旅行社に依頼して予約したのですが、ここを勧めたのは地元出身のU君だったのです。後で分かったのですが、このホテルの副総支配人はU君が庄内銀行に勤めていた頃の部下で、すべてU君が手を回しておいてくれたのでした。 一同、まずは入浴ということで1階の大浴場に入ったのですが、ここも綺麗で広くて実に気持ちのよい浴場で、湯温も丁度良く、露天風呂も各種色々あったりで、ずっとこのまま風呂場に居たいという気持になりました。 6時半からお楽しみの夕食となりましたが、「出羽三山神社」から頂いた「御神酒」の1升の他にホテルからおいしい酒1本が寄贈され、一同感激しました。料理は刺身、牛肉のシャブシャブ、真鯛の兜煮、土瓶蒸しその他どれも豪華絢爛で、酒や会話が一段と進みました。日本酒一升半と、ビール4本を誰がどれだけか分かりませんが、ほとんど飲んでしまいました。 広い部屋に帰ってから、各人風呂に入り直したり、部屋で更に飲んだりしたようですが、私はすぐに寝てしまったので細かいことはよく記憶していません。何しろ、台風の下での2日にわたる旅行が無事に終わったという安心感、達成感で嬉しいという気持だけでした。 |
台風26号の中の山形旅行(1) 参加者は、白門43会会員で岡山の住職である高橋君と、昨年心筋梗塞で倒れた後不死鳥のように蘇った行田の川辺君と私八束、そして1年後輩のU君とS君、2年後輩のA君の6名でした。 今回の旅行は、前々回8月の炎天下での日光・鬼怒川旅行に懲りて旅行に合った季節である10月に実施することとし、内容も極力ゆったりとしたものを目指したつもりでした。 まずは、この日の9:24東京駅発の山形新幹線つばさ131号で高橋君と私の2名が出発しました。途中の大宮駅で川辺君が乗り込んできて、そのまま銀山温泉の最寄駅である大石田に向かいました。 |
四万温泉旅行(2) |
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日光の田母沢御用邸の見学 私は平成4年(1992)年2月に初めて鬼怒川温泉の谷川ホテル(七重八重)に宿泊して以来、これまでに16回もこのホテルに宿泊しています。最初は家族や親戚の人も交えて賑やかに行ったのですが、最近は年寄りは亡くなり、子供は親離れして、専ら夫婦二人になってしまいました。 またこのホテルは平成20年(2008年)4月に、白門43会の「留学生との集い」終了後の慰労旅行として20名以上の幹事が参加して日光観光の後に宿泊しているので、幹事の皆さんも覚えている人が多いと思います。更に、昨年8月にも中大国際関係研究会の同期3名(白門43会の会員の高橋・川辺両君と私)で日光観光の後に宿泊しており、翌日は鬼怒川ライン下りも経験し、その様子は43会のホームページで紹介したので、それを読んだ会員もいることと思います。 このホテルの良い所は、地上3階地下2階のこじんまりとしたホテルであること、鬼怒川温泉駅から徒歩5分と近いこと、従業員教育が行き届いていること、料理がおいしくてヘルシーなこと等で、ついつい足が向いてしまうので20年に16回も宿泊することになったのです。特に私の家は浅草に近いので、東武浅草駅から特急電車(スペイシア)に乗るとほぼ2時間で到着できることも魅力であり、途中には日光、佐野、足利、栃木といった観光地が多く、行き帰りに立ち寄ることもできるので便利なのです。 ![]() 生憎と天気予報では台風が直撃するということで一時は中止しようと思ったのですが、最近は予報のはずれが多いことから注目していると果たして台風は熱帯低気圧に変化してほぼ消滅してしまいました。 午前10時に東武浅草駅から特急(スペイシア)に乗り込むとほぼ満席になっており、この時期にどうしてこんなに混雑するのか不思議でした。東武特急については、相変わらず東武日光駅までの直通はなく(駅員の話では9:30発の直通臨時便があるとのことですが、それは特急(スネイシア))の車体ではなく普通電車のそれとのこと)、世界遺産である日光に行くのに最後の二駅を下今市で乗換えなければならない点がこれまた納得が行きません。恐らく並行して走っているJRの横槍でそうしなければならなくなっているのだと思います。 東武日光駅に到着すると生憎の雨で、傘をさしての日光見学はしたくなかったので、急遽予定を変更してガイドブックにあった「田母沢御用邸」見学をすることにしました。日光にはそれこそ十数回も行ったのですが、「田母沢御用邸」には行ったことがなかったので、傘をささずに見学できるという点で行って見ることにしたのです。 ![]() ![]() 庭園もまた素晴らしく、きれいに手入れされた樹木が新緑の美しさを見せていました。春には枝垂れ桜の巨木が見事だそうで、秋には紅葉が素晴らしいとのことなのでまたその季節に来たいと思いました。とにかく、建物にしても庭園にしても県の管理にしては実に綺麗に整備されており、なかなかのものでした。たまたま雨というハプニングで訪問した御用邸でしたが、予想を遥かに超えた素晴らしさでした。白門43会の皆さんの中にも関心のある人、日光に行く予定の人は是非見学するとよいと思い紹介しました。 タクシーを待たせていたので見学は40分ほどで終え、御用邸の写真集や皇室定番のお土産のコンペイ糖を買って急いでタクシーに乗り込み、東武日光駅から下今市駅に戻り、丁度来あわせたスペイシアで鬼怒川温泉に向かいました。特急券は持っていなかったのですが、空いている席に座り下車後に清算すると二人で千円でした。何十分も各駅停車の電車を待つよりこの方が遥かに快適です。 谷川ホテルには2時過ぎに着いてしまい、無理を言ってチェックイン(部屋は最上階の515号室)させてもらいました。このあたりは17回も宿泊している実績で、女将も気持ちよく対応してくれました。3時ころには入浴できるようになったので交代で地下の大浴場でゆっくり入浴しました。この日はホテルも満室ということでしたが、流石にこの時間では入浴客もほとんど居らず、貸し切り状態で満喫できました。 夕食は早めの5時半にしてもらい、3階の個室でイワナの姿造り、霜降り牛のシャブシャブ、鰆の味噌焼き、山菜釜飯などに舌鼓を打ちました。いつもながらここの料理はおいしく、ヘルシーで量も適切で大いに満足しました。 今回の旅行は休養が目的だったので、翌日は天気が良かったのですがどこにも寄らず、9時15分のスペイシアに乗って、11時15分に浅草に戻りました。 この日は東京都議会議員の選挙の投票日だったので、夕方夫婦で揃って近所の小学校の投票所に行き、投票してきました。 |
乳頭温泉・角館・秋田旅行(3) 第3日目 5月3日(金曜日) |
乳頭温泉・角館・秋田旅行(2) 前夜早く寝たのと、年寄りのせいで皆5時前には起床して高橋さんは散歩、私とA君は「中湯」に入浴といったことで時間を過ごしました。高橋さんが露天風呂で写真を撮りたいと言うので、身体に自信のある高橋さんだけ入浴シーンを撮影しましたが、湯気でぼやけた中で白濁した湯から上半身を乗り出してVサインしているメタボの坊さんの絵柄は何とも形容しがたいものでした。 |
乳頭温泉・角館・秋田旅行(1) 私は毎年中大の国際関係研究会の仲間と旅行しており、これまでにもう10回ほど行きました。その仲間の中には白門43会の会員もいてその関係で43会ホームページに何回か投稿させてもらっています。今回は5月1日~3日にかけて、秋田県の「乳頭温泉」と「角館」そして秋田市内を旅行してきたので紹介します。 |
佐原旅行(3) 12月28日(金)(続き) 「伊能忠敬記念館」を出るとその脇に古い民家の喫茶店があったので、コーヒーでも飲もうと入ったのですが、ここで「田舎しるこ」(佐原は小豆の産地らしくて「餡」を作ったり売ったりしている店が多い ![]() そこで、15分ほど歩いて「観福寺」に行くと、そこはかなり立派な寺で、本堂の他にも薬師堂とか毘沙門堂などがあり、忠敬の墓も多くの伊能家の墓の中にありました。説明文には、ここに収められているのは忠敬の髪の毛と爪と書いてありました。ここは厄除けの寺として有名な寺とのことで、私も厄に会わないようにお参りしておきました。 その後、歩いて佐原駅に戻りましたが、天候は前日と違って曇りとなり、雨がぽつぽつと降ってくる状態で、気温も低くなってきました。佐原駅で確認すると帰りの電車は3時12分発の千葉行きで、千葉で乗換えて東京に向かうことにしました。 ![]() 負けないくらいおいしいものでした。 帰りの電車では夫婦ともども早朝の日の出観測がたたってうつらうつらしていましたが、千葉駅で乗換えた時点で、何も東京駅まで行くことはなく、途中の錦糸町駅で下車してタクシーで自宅まで帰ろうということになり、5時半前には帰宅できました。 今回の旅行は軽い気持ちで企画したものですが、ここで「佐」の付く所を3ヶ所全部行ったという満足感の他に、全国で一番早い日の出を関東最東端の犬吠埼で十分堪能したということで大満足でした。これで銚子周辺にもっと魅力的な観光地が沢山あれば、毎年でも行ってもいいと思いました。また、交通機関がまだお粗末で、電車が1時間に1本しかないということなども問題だと思いました。日本でも有数の漁港を抱え、「ヒゲタ」とか「ヤマサ」といった醤油製造の本拠地でもあり、そして何よりも日本で一番早い日の出が見られる犬吠埼があるだけに、観光スポットの整備やそのPRをしっかりとやれば、東京から1時間半ほどで新鮮な魚介類が食べられるということでもっと観光客が集まるのにとも思いました。 |
佐原旅行(2) 12月28日(金) 朝5時半頃から目が覚めて、窓越しに海を見ると水平線がダイダイ色に染まっており、日の出の前の海とはどういうものか生まれて初めて経験しました。家内と二人でカメラを持って水平線を眺めていると、水平線のダイダイ色が次第に中央に集まり始め、やがて6時45分になるとその中心から明るい太陽が輝いて出てきました。そしてぐんぐんと太陽がその全景を表していき、15分ほどで水平線上に球体となって浮かびました。夫婦でカメラ撮影を続けながら、生まれて初めての経験に感動しました。今回の旅行は単なる骨休みの積りでしたが、思いもかけない素晴らしい景色を見ることができて夫婦ともども大満足でした。 ![]() 9時40分発のホテルの送迎車で銚子駅に向かい、10時27分発の電車で佐倉に向けて出発しました。出発して間もなく電車が止まったので何かと思ったのですが、車内放送が「ただ今線路内に犬が立ち入りましたので、これを移動させる間お待ちください」と流れたので、乗客一同思わず笑ってしまいました。 40分ほどで佐倉駅に到着しました。電車の中で資料を見て観光ルートを大体決めていたので、まずは荷物をコインロッカーに預けて、最初の目的地である諏訪神社に向かいました。佐倉駅から歩いて15分ほどで立派な神社が見えてきました。その脇には伊能忠敬の銅像が高く聳えており、あとで聞くと伊能家とこの神社は縁があるとのことでした。細い参道を辿ると長い階段が見えてきました。家内は「また階段なの」と悲鳴をあげていましたが、ここまで来た以上は仕方がなく、ふうふう息を切らしながらやっとのことで階段を登り切りました。古い社にお参りすると奥に道があり、その道を歩いて行くと神社の裏から車道に出られるようになっており、少し遠回りにはなりますが、階段よりずっと楽な道があることがわかりました。 ![]() ![]() 近くに「伊能忠敬記念館」があったのでここに入りました。伊能忠敬は年取ってから日本全国をまわって測量し、正確な日本地図を作成した江戸末期の人と記憶していましたが、ここで詳しく資料を見たり、10分間のビデオを見て本当に立派な人であることがよく分かりました。伊能忠敬は九十九里の生まれで、その後佐倉で酒造りその他の醸造業などを営んでいた伊能家に婿養子に入り、見事にこの家を建て直して財をなし、50歳で息子に後を譲って江戸に出て高橋至時という19歳も年下の天文学者の下で天文学を勉強し、55歳から17年かけて日本全国の測量をしたというのです。彼が作成した日本地図は現在の地図に比較してわずかにずれがあるものの、形としてはほぼ正確なもので、精密機械や交通機関のなかった時代にどうやってこんな正確な地図が作成できたのか感心してしまいました。「伊能忠敬記念館」にはこの時代に世界各国で作成された地図が展示されていましたが、それのどれもが日本を見ても似つかない形に描いており、これだけでも伊能忠敬の能力と日本の知的レベルの高さを示していて誇らしく思いました。また、私が現在住んでいる台東区の我が家の近くに源空寺という寺があり、その墓所には「伊能忠敬の墓、高橋至時の墓」との表示があり、私も一度ふたつの墓を見たのですが、そのときは有名人二人の墓としか思っていなかったのですが、「伊能忠敬記念館」の説明で二人が師弟関係にあり、忠敬の死後息子がわざわざ師の高橋至時の墓の隣に忠敬の墓を作ったということが分かりました。(続く) |
佐原旅行(1) 昨年末に、娘夫婦が孫を連れて旅行に出ることから、我々夫婦も孫の世話から解放されたので一昨年に続いてミニ旅行をすることにしました。余り遠くには行きたくないし、寒い所も嫌なのでいろいろと検討した結果、かねてから行きたいと思っていた佐原に行くことにしました。 関東周辺には「佐野」「佐倉」「佐原」と「佐」の付く地名が3つあり、私は「厄除け大師」やラーメンで有名な「佐野」と、4年前のミニトリップで「佐倉」(城址公園、国立歴史民俗博物館、順天堂記念館、堀田邸などで有名)には行ったことがありましたが、「佐原」はまだ行ったことがなかったのです。 「佐原」は小江戸とも言われる歴史的な町で、ガイドブックには「お江戸見たけりゃ佐原にござれ、佐原本町江戸まさり」などと書かれていました。また「関東の柳川」とも言われて倉敷や栃木などと同様に川の両岸に蔵屋敷が並んでいるとのことでした。その他にも日本全国を測量した伊能忠敬の縁の土地だったり、香取神社があったりということでした。 早速、いつもの近畿ツーリストに相談したところ、佐原には宿泊施設が少ないので、宿泊は少し先の銚子の犬吠埼がよいのではということになりました。 12月27日(木) 寒さに備えてしっかりと冬支度を整え、9:40の東京駅発(しおさい3号)で出発しました。2時間弱で銚子駅に到着し、近畿ツーリストに頼んで取り寄せた資料に基づいて「ポートタワー」という海岸の観光施設にタクシーで行きました。 まずは昼食ということで、エレベーターで「ポートタワー」の展望台に上りました。そこは360度のガラス張りになっており、銚子の町は無論のこと、漁港に出入りする船などが見えましたが、何と言っても圧巻なのは広い海が一望できることでした。この日は雲ひとつない晴天で、青々とした太平洋の穏やかな海を見ていると心が洗われるようでした。展望台には喫茶コーナーもあり、ここでコーヒーを飲みましたが、窓際にある席はギラギラと照りつける太陽でまるで温室の中のように暑いので驚きました。 ![]() 時間が早かったので、まずフロントに荷物を預けて灯台を見学することにしました。フロントの人のアドバイスで、ホテルの庭から海岸沿いの細い道を10分ほど歩いて灯台に行きました。ここには以前にも来たことがあったはずでしたがまるで記憶には残っておらず、新鮮な気持ちで見学することができました。資料館に続いて99段の螺旋階段を登って展望台まで行きました。最後の階段は狭いはしご段になっており息が切れましたが、以前に出雲旅行をした時にここよりもっと高い日御碕灯台に登った時はその全部の階段が急なはしご段だったという経験があるので、何とか登りきることができました。登ってみるとここからの眺めもなかなかで、先ほど登った銚子の「ポートタワー」も遥か彼方に見ることができました。 ![]() まずは大浴場で温泉を満喫しました。この日は33部屋が満室と聞いていましたが、我々は4時前に大浴場に行ったので男湯は私一人の貸し切り状態、家内の方も子供連れの2人だけということで、贅沢な時間を過ごしました。 夕食は12品の立派なもので、ホテルのサービスとして日本酒一合(家内はウーロン茶)が付いていましたが、これにビールを一本つけておいしい料理を満喫しました。先付の「ホタテの干物みぞれ和え」や前菜の「あん肝酒蒸し」、おつくりの鯵、鮪、勘八、紋甲いか、ふぐ等の天ぷら、そして金目鯛等の入った寄せ鍋など、どれもおいしく、またヘルシーな内容なので、これもまた完食してしまいました。 食事の後は暫くテレビを見ていましたが、翌朝の日の出を見るのに備えて早めに床に付きました。 (続く) |
日光・鬼怒川旅行(2) 8月30日(木) この日は、9時半にホテルの下から出る「鬼怒川ライン下り」に乗るため、6時ころに起床し、温泉に入って7時半から朝食を摂りました。「鬼怒川ライン下り」は43会の「留学生との集い」の「ご苦労さん会」の時(3月)は季節外ということで無理だったのですが、この日は2隻分の観光客が参加しました。約40分のコースですが、船頭さんの面白いトークなどもあってとても楽しい一時でした。川幅が ![]() 船を降りて、バスで鬼怒川温泉駅に向かい、一番早い特急で「栃木」に向かいました。「小江戸」ということで観光に力を入れている場所で、以前、43会の中村氏の提案で日帰り旅行をしたことがありました。まずは昼食ということで、43会の時に食べた蕎麦屋に行くことにしました。駅から真っ直ぐの道を30分程歩いたのですが、太陽が真上からギラギラと照りつける中、そのメインストリートにはアーケードはおろか、普通この程度の立派な道にはあるはずの街路樹も一本もなく、危うく熱中症になりかけた時、何とか蕎麦屋(メインストリートから少し中に入った場所にある大きな蔵をそのまま店として使っている)についたのですが、これが休業しており、その近くの別の蕎麦屋に入りました。この蕎麦屋には以前も入ったことがあり、なかなか美味しかったのを覚えていました。ここで生ビールを飲み(これで生き返りました)、かき揚げ蕎麦を食べながら、岡山の住職である高橋さんが「さっき ![]() その後は「小江戸」「蔵の街」の観光ということで、43会のメンバーとも行ったことのある川沿いに黒塀に蔵のある場所を観光しましたが、何しろ暑くてバテバテになり、公園で一休みして早々に栃木駅に戻りました。一番早い特急をと出札口に申し込むと、「今出たばかりなので、次は1時間後です」との答えでした。止むなく駅構内にあった飲み屋でまたまた生ビール、焼き鳥、その他で打ち上げをしました。 帰りの特急の中で食べようと栃木駅前にある唯一の店である「武平作だんご」を一人2本ずつ買ったのですが、食べれたのは私だけで、川辺さんの分を含めた4本は、この後5時から上野の鈴本で落語を聴くという高橋さんに渡しました。行田の川辺さんは途中の春日部駅で降り、私と高橋さんは北千住駅で特急を降りました。あとは地下鉄日比谷線で私は入谷駅で降り、高橋さんは次の上野駅に向かいました。 第10回目の旅行はこうして無事に終わりましたが、つくづく健康が大事だということが身にしみて感じました。今後この旅行を続けるため、病気や体調の悪い人には一日も早く回復してもらって再び参加してもらいたいなと思いました。 |
日光・鬼怒川旅行(1) 私は、中央大学のクラブ(文化連盟所属の国際関係研究会)の同期で毎年旅行をしており、このホームページでも何回か紹介させてもらっていますが、今年は春の伊勢・志摩旅行に次いで、この8月に日光・鬼怒川旅行に行ってきました。平成17年にこの旅行を開始してから7年余りで第10回目という節目の旅行でした。参加者はともに43会会員である埼玉県行田の川辺さん、岡山県庭瀬の高橋さんと私の3名でした。いつもは4~5名の参加者があったのですが、今回は病気とか体調が悪いということで参加できず、寂しい旅行となりました。 日光・鬼怒川といえば、43会主催の「留学生との集い」の翌春に実施した「ご苦労さん会」で行った旅行ということで記憶がある43会員もいることと思いますが、ほぼ同じコースで設定し、宿泊したホテルもあの時と同じ「谷川ホテル・七重八重」でした。 8月29日(水) 午前11時に東武浅草駅から特急スペイシア「きぬ111号」に乗って出発しました。コンパーチブル車の個室(4人仕様)のゆったりとした席だったので皆大満足で、暫くしてから駅で買った弁当を食べました。もうちょっと早い特急なら日光で「湯葉懐石料理」を食べてもよかったのですが、遠くから来る川辺さんに配慮してこの時間にしました。岡山の高橋さんは前日から都内墨田区に住んでいる息子さんの家に来ていて東武浅草駅には私より近いくらいでした。 ![]() ![]() 部屋は最上階の5階(といってもこのホテルは地上2階、地下3階)で、窓の下には鬼怒川が音をたてて流れており、一同やっとくつろぐことができました。早速、温泉に入って汗を流し、おいしくてヘルシーな夕食に舌鼓を打ちました。夕食の帰りに、「足裏マッサージ」の宣伝ビラが目に止まり、これをやってみようということになりました。技術者は一人しかいないということで、川辺・高橋・八束の順番で約30分づつ(一人2,000円)やって貰いました。私は最後だったので、技術者のおばさんに「3人の健康状態はどうだった」と聞くと、「ストレスのせいか足の裏が固かった」との答えでした。そこで「3人とも暇人でストレスなんかありませんよ。今日は日光でだいぶ歩いたせいでしょう」と言って、あとは自分の内臓について質問したところ、どこも悪くないとの診断でした。その夜は、一晩中歌まで交えた高橋さんのイビキに悩まされましたが、疲れのせいでぐっすりと眠ることができました。(続く) |
平泉旅行(2) 8月19日(日) この日は8:30発のホテル送迎バスで一ノ関駅経由で平泉に行くということで、6時に起床し、7時に昨夜の大宴会場に一番乗りで入って朝食を食べました。塩鮭がメインで、その他品数、量、味なども適切でした。 8時前にチェックアウト手続きを済ませ、フロントの喫茶コーナーでコーヒーを飲みながら送迎バスを待ちました。見送りのときには女将も出てきていました。 ![]() 平泉駅のコインロッカーに荷物を預けて、タクシーで中尊寺に向かいました。入り口で降りようとするとここから歩くと800メートルの上り坂なので上まで車で行ったらどうかとの提案があったので更に数分かけて坂を車で登ってもらいました。 タクシーを降りて1~2分で金色堂の脇の料金所を通って、まずは「讃衡蔵企画展」で中尊寺所蔵のいろいろな仏像や道具類などを見学しました。その後、金色堂に入りましたが、金色堂自体はこれ全体を覆うコンクリートの建物の中にあり、その全てが金箔で覆われ、更に螺鈿などの装飾が施されていました。そこは藤原三代の墓であるとの説明でした。これを見て、奥州藤原三代の富の力とともに、死後に極楽浄土に行きたいという権力者の浅ましい欲求の強さ、哀れさを感じました。平安時代に京都で栄華を究めた藤原道長(絶頂期に「この世をばわが世とぞ思う望月の、欠けたることの無きぞと思えば」という歌を詠んだことで有名)も臨終に際して仏像と自分を何本もの糸で結んで極楽浄土に行きたいと願ったと聞いていたので、権力者共通の心理なのかも知れません。 ![]() 平泉駅のそばに「わんこそば」を食べられる店があるということをガイドブックで確認していたので早速その店である「芭蕉館」に入りました。メニューを見ると「わんこそば」は30cm×40cm位のお盆に乗せた12個のお碗にそばが入っており、これが2段(合計お碗24個)もあるのです。これにはほぼ同じ大きさのお盆に様々な薬味その他が乗ったものが付いて一人前なのです。思わず店員に「」こんなに沢山一人で食べきれるのですか」と聞くと「ざるそばに換算して2枚分なので大丈夫」とのこでした。そこで思い切って注文しました。隣の席の3人組の客が「わんこそば」を注文したところ、お盆が置ききれないという理由で座敷の方に席替えさせられていました。いざ「わんこそば」に取りかかりましたが、まずは薬味葱で1碗、鰹節で1碗、いくらで1碗というように食べはじめましたが、なかなか捗りません。そのうちそばが乾いてきたようなので、その後は2碗づつそばを出汁に付けて食べるようにしました。店が出しているパンフレットには、わんこそばの由来として「そばが延びて風味を減ずるので、一時に大器に盛らず小さい碗に次々に盛り替えをするようになった」と書かれていますが、実際には24碗分を同時に出すのでは一時に大器に盛って出すのと同じではないかと思いました。美喜子も健闘しましたが、24碗は無理というので4碗だけ食べることになり、結局私の合計は28碗となりました。
帰りの新幹線は一ノ関駅発14:48のやまびこ60号で、ほぼ満席という状態でした。無事に上野に17:18に到着し、タクシーで帰宅しました。 今回の旅行は急な思いつきで実施しましたが、ほぼ順調に終えることができました。行こうと思った所には行ったし(中尊寺の本堂にお参りするのを忘れた以外は)、食べたいと思ったものは食べたし、何もしない時間が多少あったものの、それを上回る運動量をこなしたし、何事もなく無事に戻ったということは大成功であったと思います。世界遺産というものを体験できたし、岩手県という滅多に行かない所を観光できたことも有意義だったともいます。 長い旅行は余りせずに、1泊旅行を何回もするのが有意義な旅行をする秘訣ではないかとも思っています。今後も、元気な限り1泊旅行を重ねて「集中と選択」を実施して行きたいと思います。 |
平泉旅行(1)![]() 8月18日(土) 朝、9:46上野発のやまびこ55号で出発し。12:13に一ノ関駅に到着しました。まずは昼食ということで、ガイドブックにあった一ノ関駅前の和食処「三彩館(ふじせい)」の「ひとくちもち膳」を食べようということになりま ![]() 餅でお腹が一杯になったので、「瑞泉閣」の送迎バスが一ノ関駅前に到着する14:30まで、周辺観光をすることにしました。一ノ関は陸中一ノ関藩(外様)2万7千石、田村家の城下町で、城はもう残っていませんが、ガイドブックに「田村神社」があると書かれていたので、これが城に代わる田村家の名残ではないかと考え、その方向に歩きはじめました。田村家については松の廊下での刃傷の後に浅野内匠頭がその江戸屋敷に預けられて切腹した殿様です。坂上田村麻呂の子孫で、仙台の伊達家の血筋も入っているとのこと ![]() あとは一ノ関駅に戻りホテルの送迎バスに乗り込みました。送迎バスに乗ったのは我々夫婦だけで、運転手さんが気を利かせて途中の景色のよい厳美渓(下の写真)を経由してホテルに向かってくれました。厳美渓については以前テレビで、川岸にある団子屋さんが川向うから自前のケーブルで注文を受け、団子をケーブルで送り返すというのをやっていましたが、今でもこれが人気ということで大勢の人が川岸に集まっていました。一ノ関駅から約30分でホテルに着きましたが、“やびつ温泉”というところはこの「瑞泉閣」しかないような辺境で、夕食までの間にホテル周辺を散歩でもしようと思っていた私ですが、何もないのでそれもできませんでした。部屋は4階の404号室で、これも「4」を嫌って部屋番号から外すホテルや旅館が多いのに、念入りに「4」がふたつもある部屋に通されてちょっとブルーな気持ちになりました。部屋の中はまあまあなのですが、冷蔵庫の後ろの壁に「冷蔵庫はご自由にご利用ください」と書かれたメモが貼ってあったので、中身は飲み放題かと思って開けたら何と空で、要は飲み物が欲しかったら自分で買って冷蔵庫に入れて置けということでした。私は夜、喉が渇いて水が飲みたくなることが多いので、やむなく自動販売機でジュースの缶を買って冷蔵庫に入れて置きました。また、このホテルはやたらと男性従業員が多く、部屋に案内してくれていろいろ説明してくれたのも男性従業員だし、入浴に行こうとしてフロントの前を通った時にフロントと入口に数名の従業員が待機していたのですが、これも全て黒服の男性従業員で、何か異様な雰囲気でし ![]() ホテルの悪い面ばかりを長々と書いてきましたが、良い面もいくつかありました。部屋に入るとテーブルの上に「瑞泉閣へようこそお越し下さいました。のんびりとお過ごしくださいませ」という墨で書いたメモが置いてあったこと、それとどこでもあるのですが、お土産に一押しのお菓子が出ているのですが、これについてのPRがしっかりとPOPでテーブルの上に置かれており、更にお土産のお勧めパンフレットにもしっかり書かれており、ここまでしっかりされると私もつい買ってしまいました。(私が好きな干し柿の菓子だったせいもあります。)ガイドブックに書かれてあった一ノ関の銘菓「田村の梅」もしっかりとお勧めパンフレットに書かれており、これもホテルで購入してしまいました。 チェックインした際に夕食時間を聞かれたのですが、餅ご膳でお腹が一杯だったので「7時」と言ってしまいました。ところが餅は消化がいいらしくて7時近くなるとお腹が減ってきて困りました。少し早めに2階の大宴会場に行きましたが、そこに部屋別に食卓が置かれており、こんなに多くの客が何処に隠れていのかと思うくらいの盛況でした。食事の世話はさすがに女性従業員が担当していましたが、客数に対して人数が少なく、新しく入ってきた客はしばらく放ったらかしになっていました。料理は、前沢牛のスキヤキがメインで、その他品数、量、味などもまあまあでした。内容はヘルシーで、ご飯も山菜の釜飯でした。 食事を終えて、お土産も購入して、部屋に帰ってテレビを少し見ましたが、昼間の疲れで9時過ぎには寝てしまいました。(続く) |
3回の鎌倉歩き(3) 7月1日(日) この日は、私が理事(暁星高校の同窓会では幹事のことを理事と称している)をしている暁星高校同窓会の「日本文化研究会」主催の「鎌倉の寺巡り」が開催され、午後1時に鎌倉駅に会員17名が集まりました。私は2度も鎌倉に行っていたので今回は止めようとも思いましたが、回る場所が前2回の時とは違う鎌倉周辺の極楽寺~長谷寺~高徳院(大仏)ということで行くことに決めました。 ![]() この日も雨がパラついていた日で、それが日曜日という観光客が多いと思われる、それも紫陽花の最終日(紫陽花は翌年のことを考えて6月末に一斉に花を剪定する習わしになっており、今年については特別に日曜日である7月1日まで剪定を延ばしたのである。)にもかかわらず観光客はそれほどでもありませんでした。 鎌倉在住の同窓会会員が道案内をしてくれたのですが、普通だと極楽寺までの「江ノ電」は1回では乗り切れず、2回目または3回目になるということでしたが、我々は1回目の電車に乗ることができました。 極楽寺では知恩院で修行した大学教授が寺とその周辺の説明ををしてくれましたが、内容はほとんど忘れました。ただ一つ、「何故、寺に紫陽花が多いか」ということについて、紫陽花は昔外国から入って来たのですが、日本人にはいま一つ馴染みがなく、色も気持ち悪いということで寺に植え替える人が人が多かったせいという説明だけ覚えています。 次に長谷寺に行きましたが、さすがにここは満員で、高台にある紫陽花が沢山ある場所に入るには1時間待ちということだったのでそれは諦めて、余り人気のない洞窟の探検に行きました。大きな岩を掘って迷路のようになっている場所で、昔はそこで修行をしていたようですが、現在は色々な仏さまが祀ってありました。とにかく狭くて天井が低いので、閉所恐怖症の私には気持ちの悪い場所でした。 ここから大仏のある高徳院に向かったのですが、途中の階段を降りる時、前方に稲村ケ崎が一望にできる場所があり、道の両側に満開の紫陽花、山紫陽花などと共にまさに絶景でした。 ![]() たった20分の立ち寄りですが、2週間位前から随行補佐官とシークレットサービス(大統領護衛隊)2チームが来日して徹底的な安全点検を行い、大統領がどのように境内を歩くかとかを研究したそうです。佐藤住職が随行補佐官と境内を歩くコース設定に立ち会った時、大仏の前を通る時にいつもの習慣で合掌をして頭を下げたところ、随行補佐官がこれに気がつき「今のは何か、本番の時に大統領はどうすればおかしくないか」と尋ね、結局軽く頭を下げるということになったそうです。また「抹茶アイスクリーム」は大統領が食べたいと言い出した時のために全国から「抹茶アイスクリーム」を取り寄せて試し、一時は寺の冷蔵庫がアイスクリームだらけになったそうです。また、オバマ大統領が若かったころには「抹茶アイスクリーム」はまだ存在せず、おそらく抹茶とアイスクリームとを別々に食べたのか、緑色のアイスキャンデーを食べたのではないかとのことでした。我々も佐藤住職の厚意でオバマ大統領に出された「抹茶アイスクリーム」をご馳走になったのですが、これも短時間で食べられる量、食べる様子がテレビなどで流れても格好がいいという理由で小さな棒付きのものに落ち着いたとのことでした。なかなか品のよい味でした。 ![]() それに引き換え、後日当時の菅直人首相夫人が在日大使の奥様方を連れて高徳院を訪れた時、住職としては大使夫人達から掛け軸や生け花、置物に関する質問が出ることは間違いないのでその用意をしていたのですが、事前に打合せに来た日本の外務省の役人はそれに関する質問は一切なかったそうです。そして本番の当日、大使夫人達から掛け軸や生け花、置物に関する質問が沢山飛び出したのですが、用意のなかった菅直人首相夫人は何ひとつ答えられず恥をかいたとのことでした。これが日米の外交の差であると佐藤住職は嘆いていました。 全ての予定を終えて、一行のうち12名で「毘沙門」というステーキ屋に行って打ち上げをすることになりました。丁度大仏の背中の山の上にある普通の民家のような店なので知らない人は絶対に分からない店でした。俳優の加山氏、肉好きのバイオリニストの高島さんなどがよく来る店ということで、これも鎌倉在住の会員の予約によるものでした。ここで食べたレバーの大蒜焼き、サーロインステーキは絶品で、おいしいチリワインを大量に飲みながら大いに盛り上がりました。 |
3回の鎌倉歩き(2) 6月12日(火) ![]() 次の「浄智寺」、「東慶寺」そして最後の「円覚寺」と回りましたが、下見した効果があっていずれもスムースに推移しました。そしていずれの寺でも下見の時にはなかった紫陽花が満開で、小雨に濡れた紫陽花は格別でした。 ![]() 四つの寺の見学が終り、一行は北鎌倉駅から電車に乗って鎌倉駅に向かいました。そして鎌倉駅から徒歩で10分ほどの所にあるそば屋「峰本」の二階で昼食と打ち上げパーティーを行いました。 二階の大きな座敷でおいしい料理や蕎麦、そして色々な飲み物で一同大満足でした。皆、かなり歩いたこともあり、アルコール類が大量に消費されたことは当然のことです。 白門43会による「鎌倉ウオーキング」がこのように大成功のうちに終ったのは、会長・幹事長をはじめ担当幹事がしっかりと下見をした結果であることは間違いありません。(続く) |
3回の鎌倉歩き(1) 私は今年(平成24年)の3月から7月にかけて、同窓会行事として合計3回鎌倉を歩きました。鎌倉には何度か行ったことがありましたが、3ヶ月余りで3回も行ったのは初めてでした。それなりに面白い体験だったので、白門43会の皆さんに披露したいと思います。 3月27日(火) ![]() 全員が揃ったところで北鎌倉駅に隣接した場所にある「円覚寺」(右の写真)に行きました。ここは北条時宗が蒙古襲来の際に発生した死者を弔うために建立した禅寺で、鎌倉五山でも2位に位置付けられているだけあって境内は広く、丁寧に見て行ったら1日かかりそうでした。ここで、北条時宗の墓所の前でお茶を頂いたり、見晴らし台のような小山の上にある「梵鐘」を見たりして1時間以上経過してしまいました。 次は、「円覚寺」から歩いて数分の「東慶寺」に行きました。通称の「駆け込み寺」の方が有名な寺ですが、ここは北条時宗の妻が建立したものとのことでした。女人救済の尼寺でしたが、現在の住職は男性とのことでしたので、現在は男性救済の「駆け込み寺」になっているのかも知れません。お土産を売っている綺麗なお店があり、ここで皆は「ポチ袋」などを購入しました。 ![]() 三番目は鎌倉五山第4位の「浄智寺」で、ここも境内は広く、奥にはお腹をさするとご利益があるとされる布袋像(左の写真)があったので、皆でさすってきましたが、とにかく広いので迷子になったり大変でした。 ここまで来るとさすがに元気な43会メンバーも疲れてきて、時間も昼近くになってしまいました。予定では更に“紫陽花寺”として有名な「明月院」、そして30分ほど歩いて鎌倉に出て「建長寺」を見て、昼食はそば屋「峰本」でということになっていましたが、急遽変更して「明月院」のみを見て、昼食は北鎌倉駅近くの「鉢の木」という店で摂ることにしました。「明月院」も簡単に中を見ましたが、もちろんこの時期では紫陽花も葉のみでした。 その後、「鉢の木」で食事を摂りながら話したことは、本番の6月12日は紫陽花が真っ盛りということでかなりの混雑が予想されることが心配ということでした。(続く) |
伊勢・志摩旅行(3)
2月10日(金) 朝食は別会場でしたが、網の上に白身の魚が乗っており、私が「これはカワハギですか」と聞くと「いえフグです」と言われてしまいました。他にもシャブシャブなどもあり、とても朝食とは思えないほど豪華なものでした。 |
伊勢・志摩旅行(2)
2月9日(木) |
伊勢・志摩旅行(1)
大学のクラブ(文化連盟所属の国際関係研究会)の同期で毎年旅行しており、このホームページでも何回か紹介させてもらいましたが、今年は第9回ということで、私が幹事になって伊勢・志摩旅行を企画しました。旅行のテーマは「温泉」、「松坂牛」、「伊勢神宮の内宮参拝」で、旅行会社がこれにぴったりの「ご朱印巡りきっぷというのを用意してくれました。この切符は近鉄の電車は無論のこと、三重交通のバスにいたるまで乗り放題というもので、他にもいろいろな割引やサービスが付いていました。 2月8日(水) |
パッケージについて ご承知のように、私は以前、「伊勢丹」百貨店に勤務していました。入社した時には食品のバイヤーになっておいしいものをいっぱい食べたいと思っていました。残念ながら入社後は婦人服売り場に配属されてしまいましたが、大分あとで食品バイヤーになった同期にその話をしたところ、「とんでもないよ。毎日いろいろな取引先が持って来る食品の見本を食べなければならず、歯はボロボロになるし体調もおかしくなるし大変だよ」と言われてしまいました。 今回私が言いたい「パッケージ Package」という言葉は、本来は「包装」という意味ですが、必ずしも包装箱に限らす食品容器など商品の入れ物なども含めて使わせてもらいます。 私たちが百貨店やスーパーで買い物をすると、購入した商品はすべて「包装」されたり容器に入っていたりしており、百貨店ではこれを更にその店独自の包装紙で包んだり、紙袋に入れたりするので「過剰包装」「資源の無駄使い」などと批判されるのですが、今回私が言いたいのは過剰包装ではなく、「不適当包装」「不親切包装」といった部分です。 私が浦和伊勢丹の人事課長だった頃、同期の仲のいい男が紳士服売り場を担当していました。そこで私は彼に次のように言って困らせた経験があります。「紳士の既成ワイシャツを買うと、まずはビニールの袋に入っており、これを取り出すと肩とかにプラスティックの留め具がいくつか付いている。襟の下と全体には型崩れしないようにボール紙が入っている。朝の出勤前にこれらを外してワイシャツを着るのは実に面倒である。しかし私が許せないと思うのは更に金属のムシピンがいたるところに遠慮なく付き刺さっていることである。商品はお客様に渡るまでの間は百貨店がこれを預かっているのであり、いわばお客様のものなのに、針をブスブス突き刺すとは何事か。もし取り忘れた針が身体に刺さったらどうするのか」と言ったのです。彼は何も言い返すことができませんでした。既成ワイシャツメーカーは、実際にこれを着用するお客さまの便利よりも、乱暴に扱っても型崩れしないという自分たちの便利さを優先させたためこのような「野蛮」なパッケージになってしまったのです。 次に私が経験したのは、私が本社の総務部の頃のことで、災害対策を担当している者から「備蓄食品でおいしいものが開発されたのでその試食をして欲しい」というものでした。大型のコロッケのような形の缶詰で、中身は混ぜご飯だったと記憶しており味はまあまあでした。しかし、私が注目したのはその缶詰に付いていた小型の缶切りでした。経費の問題かどうかは知りませんが、ほんの数センチの大きさの薄い金属でできており、これで大型の缶を根気よく切っていかないと中身が食べられないのです。当時の私は50歳くらいで若くはなくても体力に自信がありましたし、現在のように首の椎間板ヘルニアで指先が痺れていることもなかったのですが、一気に缶を開けることはできませんでした。これが非常時に年寄りや子供に配られたとしても、まずは開けることは無理だと思いました。この缶詰の開発者は中身のおいしさに十分気を配ったものの、缶詰の開け方は全く配慮しなかった結果、年寄りや子供には開けられない非常食の缶詰(パッケージ)を作ってしまったのです。 その後の経験としては、私の伊勢丹における最後の職場である「関連事業部」に在職していた時、伊勢丹の子会社の「クイーンズ伊勢丹」という食品スーパーを担当したのです。首都圏を中心に十数店を展開しており、私も仕事としてよく買物をしていました。その中でドレッシングが特に気に入ってよく買ったのですが、味は抜群なのですがトロ味のあるドレッシングは開封直後は中身がなかなか出てこなくて大変なのです。私は割り箸を突っ込んでかき回していましたがとにかく不便で、これについてバイヤーに改善を勧告したのですが、未だに改善されていないようです。メーカーや販売店では味やビンの形や値段などには配慮するのですが、実際に開封して使おうとするお客さまのことは考えが及ばなかったのです。自分でやってみればすぐに分かったパッケージの不備に気が付かなかったのです。 最後に、最近の経験としてグリコの幼児用野菜ジュースのパッケージがあります。私の孫は1歳7ヶ月で、週に4回(月、火、金、土)は夕方保育園に私たち夫婦で迎えに行き、夕食を食べさせて風呂に入れ、8時ころ帰宅する娘に引き渡すということが日常になっています。月、火、金、土が祝日で保育園が休みともなれば、朝からわが家が保育園状態になります。 ![]() 以上、私があげた例はこの世の中に出ている商品のごくごく一部であり、他にも「不適当」「不親切」なパッケージは多々あると思います。決して悪意や手抜きによってこのような結果になっているとは思いませんが、これらを改善できる立場の人というのは得てして社長とか部長とか偉い人の場合が多く、試食や試着などはしていても、その準備はすべて部下がやってしまうので実際に自分でワイシャツを袋から取り出したり、缶切りを使って自分で缶詰を開けたり、ドレッシングのビンを自分で開封したり、孫に自分で紙パックジュースを飲ませたりすることがないのではないかと思います。 日本では今後も高齢化が進み、年寄りがどんどん増える中、中身については申し分ない商品なのに、パッケージが悪くて不便ということで泣く泣く、おいしさはいまいちだが開けやすい便利なパッケージの商品に切り換えるという年寄りが増えていくことになると思います。そうしたことから今後の商品開発では、常に高齢者を意識することが大切です。どうせ老い先が短いのだからといって馬鹿にはできません。我々の親の年代は無趣味、不器用、遊び下手が多かったのですが、バブル期を経験した我々以降の世代はそうではありません。私はともかくとして意外に小金もため込んで、80歳~90歳になっても元気におしゃれな生活をし、買物好きな年寄りが多くなることは間違いないのです。 因みに、私の「不適当」「不親切」パッケージ対策としては、家庭にスイスアーミーナイフ(万能ナイフで十数種類ものナイフ・缶切り・栓抜きその他のグッズが備わったナイフ)を何本も備えており、旅行にも必ず持参するようにしています。但し、スイスアーミーナイフは飛行機に乗る時は機内への手荷物として持ち込むことはできませんのでご注意ください。実際、私は家族旅行の時に手荷物検査でこれに引っ掛かって、えらい目に遭ったことがあります。 |
韓国ソウル一泊旅行 私は、以前このホームページで飛行機が嫌いと書きましたが、その傾向はこの歳になっても直らず、我慢できるのが3時間位です。従って、国内は何とか大丈夫ですが海外となると香港、韓国、台湾あたりが限度です。実際にこれまで海外に行ったのは新婚旅行のグアムの他、香港1回、韓国1回、台北1回の4回だけです。一方、家内は海外旅行が大好きで、友人達と毎年のように1週間程度の旅行をしており、昨年秋もクロアチアに行っています。今回は、家内もまだ行っていないソウルと言うことで、夫婦二人の意見が一致したのです。 ○ 今回の韓国・ソウル旅行の目的 1 サムゲタンンと焼肉 2009年2月に高校の同窓会のメンバーと2泊3日のソウル旅行をした時に食べたサムゲタン(鶏の煮込み料理)がとてもおいしかったので、丁度その頃韓国は狂牛病がはやっていたため牛肉の焼肉が食べられず、これのリベンジということもありました。 2 韓流ドラマの王宮殿 家内の好きな韓国ドラマ「イ・サン」「女人天下」や「トンイ」の舞台になっている王宮殿をできれば見学したいということです。場所がソウルから余り遠いということなら諦めますが、とりあえずは現地でガイドと相談ということにしました。 3 ショッピング 2009年の時は、免税店でルイ・ヴィトンのクラッチバッグを買うつもりが混んでいて買えず、ダンヒルのショルダーバッグに変更した経験があります。その後私は国内でルイ・ヴィトンのクラッチバッグは購入したのでもう必要はないのですが、家内は円高の優位を活かしてのブランド品の購入を狙っているようでした。 いつものように近畿ツーリスト浅草店で全ての日程を整えてもらいました。 ○ 2月23日(水) 午前8時に新装なった羽田空港の国際線ターミナルに行って搭乗手続きを済ませました。韓国はとても寒いということで、厚手の下着にキルティングのコート、耳まで覆える帽子を被って午前10時発のASIANA航空の飛行機に乗り込みました。因みに、ASIANA航空とは大韓航空に次ぐNO.2の航空会社で「ASIANA」とは「ASIAN AIRLINE」を略したもののようでした。 ASIANA航空は別に私が指定した訳ではなく、申し込みが遅かったのでたまたまASIANA航空しか残っていなかったのです。韓国のNO.2ということで、羽田ではJAL、ANA、大韓航空の次の処遇で、搭乗口は一番遠い場所でした。 ![]() その後、旅行社のガイドの李美姫さんにも無事会えて他の若い女性の二人連れと一緒にホテルに向かいました。現地の気温は東京と変わらないくらいの暖かさで、重武装してきた私は車内での暑さと都心部の交通渋滞で車が走ったり、止まったりを繰り返したことと相まって多少車に酔ってしまい、途中、他の若い女性の二人連れをチェックインのためプリンスホテルに寄り、最後に私達夫婦の宿泊するホテルに到着した時はぐったりしてしまう始末でした。 ホテルで一休みした後、3時にロビーでガイドの李さんと待ち合わせてホテルの隣の免税店に向かいました。旅行計画ではこの日はガイドなしで免税店で買い物、ホテル近くで散策と焼肉での夕飯ということになっていましたが、李さんと話した結果、翌日のガイドも李さんということがわかり、それならこの日もガイドをお願いできないかと頼んで快諾してもらいました。 ロッテ免税店は前回の韓国旅行でも行きましたが、相変わらずの盛況ぶりでここで1時間ほど買物をしました。といっても、家内が自分と娘用にバーバリのバッグを二つ買っただけでした。その後、李さんの案内でホテル周辺地区を散策しましたが、ビルや商店が林立している中で屋台などが溢れており、町は活気に満ちていました。そこで「足マッサージ」をしてもらおうということになりました。前回の旅行では初めて「アカすりマッサージ」を経験しましたが、その乱暴さを体験しているので今回は足だけにしたのです。一人4千円くらいで約1時間、膝から下を万遍なくマッサージしてもらいましたが、とても丁寧で気持よく、最後にゴムの長靴のようなものを履かされて空気を抜いて足を絞り上げるような工程があり、これは初めての経験だったし、とても気持ちのよいものでした。家内も足の疲れが一遍に取れたと、とても感激していました。 次に、お土産用のキムチを李さんのお勧めの専門店で試食の上で購入しました。自宅用を含めて小さな紙箱で16個買いましたが、代金は179,000ウォン(約12,500円)で、翌日にはロッテホテルに届けてくれるとのことでした。因みに、キムチは手荷物で機内に持ち込みはできないので貨物として預ける必要があります。 この日の最後は焼肉で、李さんの案内で「焼肉明洞」という店に入りました。店内は若い人達で混雑していましたが、李さんが予め個室を予約していてくれたのでゆっくり食事ができました。ビールやマッコリを飲みながら李さんも入れて3人で焼肉を満喫しました。その他にもチヂミ、冷麺、カルビスープを頼んでこれらを完食しましたが、食事代は15万ウォン(約1万円)でした。その後、ホテルに戻ってシャワーを浴びてぐっすり寝ました。 ○ 2月24日(木) この日は8時30分に李さんとロビーで待合わせて車で「松竹」というお粥の専門店に行き、李さんが勧める「アワビ粥」を食べましたが、大きな器に入ったお粥で、出汁がよく効いていてヘルシーで味も抜群でした。 この日も温かく、コートや帽子、マフラーもホテルに預けて上着だけで行動しました。その後、家内の希望の王宮殿ということで李さんが案内してくれたのは「宗廟」と「昌徳宮」でした。「宗廟」は李王朝の代々の王様とお妃の位牌が祀られている広い場所で、30人位の観光客毎にベテランの案内人が付いて約1時間かけて各建物や歴史などを説明してくれました。亡くなられた王様が増える度に横に建て増ししていったので、最後には長さが101mになってしまったことや、神霊が容易に出入りできるように位牌に穴が空いていたり扉や柱に隙間が設けられているなど面白い説明でした。門から廟まで3列の石を敷きつめた道があり、真ん中が神霊、右側が王様、左側が世子(皇太子)の道とのことでした。30センチ位の石が隙間を作って並べられているので歩きにくく、王様や世子がつまづいて転ぶのではないかと後で李さんに尋ねたら、偉い人が速足で歩くと威厳がなくなるので、王様や世子が速足に世子ならないようにこうなっているとの答でした。 ![]() 次はいよいよサムゲタンの昼食ということで、李さんの案内で「大韓サムゲタン」という店に入りました。前回ソウルに来た時に食べたのは「京城サムゲタン」という店でしたが、李さんの話ではここはそれ以上においしいとのことで、我々は予約してあったので一番奥の席に座ることができました。ビールを飲んだと思ったらすぐにサムゲタンが出てきて、我々はすぐにそれにかぶりついたのですが、鶏肉がスプーンでほぐせるほど柔らかく煮込まれており、中には米、銀杏、なつめ、朝鮮人参などが詰め込まれていました。余りのおいしさにほとんど話もしないで完食してしまいました。つまみに出たグリーンの唐がらしは李さんが「辛くない」と言ったので食べましたが、1本目は確かに辛くなかったのですが、2本目はたまたま辛いのに当たってしまい、その激辛にはまいりました。3人分で6万ウォン(約4千円)でした。 食事の後は腹こなしにソウルタワーに行くことになり、車でタワー下まで行き、その後の5分ほどを徒歩できつい坂道を登りました。エスカレーターでタワーの展望台まで行って眼下の景色を眺めましたが、東京タワーから見る景色と変わらずたいしたことはありませんでした。全体にスモッグがかかっていたのと、展望台のガラス窓が汚れていたので余計そのように感じたのだと思いました。 タワーの下には韓国の恋人達が愛の誓いに小さな「鍵」を手すりに付ける場所があり、大量の「鍵」が付けられていたので、家内などは「今に手すりが壊れるのでは」と心配していました。丁度その時、タワー下の広場で「武術」のパフォーマンスが始まったのでこれを見物したのですが、昔の武士のような装束の数名が槍や刀や薙刀を振り回しており、後半になって竹を立ててこれを切っているのを見て、これらの武器は全て本物であることがわかってびっくりしました。日本では考えられないことです。 最後に、ソウル観光の締めくくりとして日本のアメ横のような南大門市場に行きました。雑居ビルや道路に商店や屋台が所狭しと並んでおり、買い物目当ての人達が肩を触れ合いながらひしめいているという状態でした。肝心の南大門は、私が最初に韓国に行った2009年の後に土地収用に不満だった老人に放火されて全焼したとのことで、目下再建工事中でした。ここで、家内はスカーフや長女の髪飾り、孫の靴下等を購入していましたが、私の欲しいようなものはありませんでした。 その後、ロッテホテルに戻って荷物と前日購入したキムチを受け取って車に乗り込みました。キムチが予想外に重たく、キャリーバッグの上に乗せて引っ張りましたが、ずり落ちたりして大変で、羽田から自宅までどうしようかと心配しました。車はロッテホテルの他、プリンスホテルなど3ヶ所を回ってこの日帰国する旅行客を次々に乗せて行きましたが、誰もが大きなバッグやお土産の手提げ袋などを一杯持っており、車への積込みに難儀していました。 金浦空港までは往路より短い時間で済み、搭乗手続きを終えたところで17:30頃に李さんと別れました。その後、出国手続きを終えた後にロッテ免税店で購入したバッグを無事受け取り、金浦空港20:00発のASIANA航空便で羽田に向かいました。22:15に羽田に到着しましたが、やはりASIANA航空のため空港ビルに直接着けられず、遠くに降りてバスで空港ビルに向かいました。あとは前日の逆で、京急電車で浅草に出た後にタクシーで自宅にたどり着きましたが、時計は0時近くになっていました。 今回の旅行については誰からも「1泊2日はもったいない」と言われましたが、専属のガイドを付け、好きなものを食べられて行きたい場所を効率よく観光でき、1泊2日でも十分満足する旅行だったと思っています。家内などは毎年行きたいと言っています。 (この原稿は3月にいただいていたのですが、管理人の都合で遅くなってしまいました。) |
冬の吉備路めぐり(2) 3日目は、全員が多少二日酔い気味だったが、この日は高橋君の松林寺に伝わるお宝を、それが保管されている県立博物館に見に行くということで早めにホテルを出た。博物館の美術員の方の案内で2階の金庫室(銀行の金庫室のように大きなもの)の前に行き、美術員の方が中から恭しく出してきた2本の掛け軸(といっても1本は板に張り付けてある)を拝見した。 |
冬の吉備路めぐり(1) 私は中央大学の学生だった頃、「国際関係研究会」というクラブに所属していた。これは「学連」という全国組織や「都連」という在京大学の組織があって勉強会や討論会を行うような真面目な会である一方、殺伐としたお茶の水校舎(なつかしい)の中で仲間が寄り添って遊んだり飲んだりする場でもあった。会室は講堂の2階の控室のような所にあり、メンバーは授業の合間や授業が終わったあとにはいつもここにたむろしていた。 この時の同期仲間と毎年旅行するようになったのは平成17年からで、東京在住の私が企画して先輩1名を含む6名で箱根の1泊旅行をしたのが最初である。幸い、ここでの仲間は全国に散らばっており、この年の秋には岡山の住職である高橋君(43会会員で広島の集いに参加)が京都旅行、18年には愛知に住む菊地君(43会会員)が岐阜・愛知旅行、19年には大阪に住むF君が城崎旅行(この時の様子は私が43会のホームページで「蟹とヘルペス」というタイトルで紹介済)、20年には山口に住むS君が山口旅行、21年には埼玉に住む川辺君(43会会員で今年の新年会で受付を担当)が群馬・埼玉旅行をそれぞれ企画実施してきた。昨年は順番が一巡して私が伊豆旅行を企画、そして今年は岡山の高橋君が岡山旅行を企画したのである。 前置きが長くなってしまったが、2月7日(月)の午前11時に、岡山駅に東京からの私をはじめ埼玉の川辺君、愛知の菊地君、山口のS君、そして2年後輩のA君が千葉から続々と集まった。そして高橋君が運転するエスティマで、まずは冬の吉備路観光に出発した。運転しながらの高橋君が説明するには、昔はこの辺りは大和朝廷に肩を並べるほどの吉備国があったが、最終的には大和朝廷の支配下に入って3分割され、それぞれ備前・備中・備後というように国名が変えられたとのことで、その証拠にこれら3国にはそれぞれ立派な吉備神社があるとのことだった。我々はそれらの神社の本家とも言うべき「吉備の中山」吉備津神社を訪ねたが、比翼入母屋造りの壮大な神殿や古い社、長い回廊等を備えた立派な神社だった。 次に歴史でも有名な高松城(豊臣秀吉がここを水攻めにした)の城跡を見学した。一昨年、川辺君が幹事で群馬・埼玉旅行をした時、豊臣秀吉の北条征伐の折に石田三成が豊臣秀吉を真似て「忍(おし)城(行田市)」を水攻めにした時の名残である石田堤を見学したのであるが、今回はその本家とも言うべき高松城なので期待したのであるが、公園のようになっているだけで何も残っておらず、「この辺りで高松城主の清水宗治が小舟を浮かべて切腹したのかなあ」などと想像するしかなかった。月曜日ということで、当地の高松城資料館が休館だったことも痛かった。 次に、高橋君の寺(松林寺)が属する臨済宗・東福寺派の3刹で「雪舟寺」とも言われている宝福寺を訪ねた。さすがは高橋君で、住職に簡単な挨拶しただけで上り込んで勝手知ったる他人の寺とばかりに我々を寺の隅々まで案内してくれた。以前の高橋君企画の京都旅行の時も、高橋君の父親が元東福寺の宗務課長だったということで東福寺に宿泊させてもらい、この時の宗務課長が自ら東福寺境内やその後の銀閣寺案内までやってくれ、おまけに夜のスナックの手配までやってくれたことを思いだした。つくづく坊主と医者の世界はコネが大事ということを再確認できた。 この後は備前の国分寺などを見学し、そのまま「なまこ塀」などで有名な倉敷まで足を伸ばした。ここでは奇妙な体験をした。我々が倉敷の観光地の真ん中で記念写真を撮影していると、一人旅のような30代後半くらいの男性が「シャッター押しましょうか」とか言って馴れ馴れしく近寄ってきたのである。そのうち「こちらの建物の方が重要文化財である」とか、「もっと風情のある小道があるのを知っているか」とか、とにかく詳しい説明を始めたのである。 ![]() その夜は、瀬戸大橋が眼下に見下ろせる「児島ホテル」に宿泊し、夜は瀬戸内海の海の幸(生きのいい魚貝類やママカリの刺身など)を腹一杯食べ、おいしいお酒を飲んで過した。 翌日は、エスティマで景色のよい「鷲羽山」や「王子が岳」などを観光した後、宇野港からフェリーで15分くらいの「直島」に行った。ここはベネッセ(福武書店)が開発した「地中美術館」というのがあって、そこにはモネの「睡蓮」の絵画が何点か展示されているというのである。地中美術館は安藤忠雄の設計になる奇妙なもので、その中心にある大きな白い部屋にモネの「睡蓮」の絵が5枚飾ってあった。私は印象派の絵画はよくわからないのでそれほど感激しなかったが、好きな人にとってはずっと見ていたいものだったと思う。私は、別の部屋にあった重さ14トンの黒御影石(イタリアで研磨してボーリングの球のように輝いているほぼ真円のもの)の方が興味を持てた。その他には光そのものをアートにして錯覚を起こさせる部屋などもあったが、たいしたことはなかった。庭に出ると眼下にヘリポート付きクルーザー等が停泊したプライベートの入江があり、ビーチの他にヘリポートもあって、ベネッセのオーナーがここをヘリコプターで訪れるのだと思われた。なかなかの施設だったが、敷地内写真撮影禁止とか、地中レストランには予約がないと入れないとか、車を駐車させるにも許可が必要とかの煩いルールが沢山あって不便な思いが残った。 昼食後は直島の残りの部分を観光したが、6か所の観光スポットの共通見学券(千円)がないとそのどれにも入れないというので、その1軒の「角屋」という所で共通見学券を買おうとしたところ「ここでは売っていない、次の護王神社で買って欲しい」と言われた。止むなく近くの護王神社に行ったが神社は長い曲がりくねった階段の上だという。そこで私がふうふういいながらやっと登ったところ、神社には誰もいないし共通見学券販売の場所も見当たらない。そこで唯一、境内を掃除している人に尋ねると、自分が販売しているとのこと、やっと共通見学券を手にするとその男が言うにはここも観光スポットのひとつなので見ていきなさいとのこと。あるのは古い社だけで、そこに階段があるのだが、これがガラスで出来ているのである。その男に尋ねると「このガラスはレンズに使用するもので高価なものである」とのことだった。 階段を下りて皆と合流し、あとの4か所を回ったが、いずれもベネッセにかぶれたようなものばかりで、歴史色や郷土色のあるものではなくがっかりした。 その夜は岡山に戻って「アークホテル」というビジネスホテルに宿泊した。高知県に住んでいる2年後輩のN君が合流してまたまた大宴会となり、その後は外に出て飲んだり、カラオケをしたりということになり、ホテルに帰った時は0時を過ぎていて正面玄関が閉まっていたので裏口から入るという始末だった。(続く) |
夫婦で金沢旅行 私は6年前に会社を定年退職してからは「白門43会」「高校の同窓会」「会社の同窓会」といった3つの同窓会の役員を務め、その間のこれらの幹事会とか各種行事への参加が毎年100日を超えていました。 平成17年にこのホームページに「毎日が日曜日」というシリーズで定年退職後の妻との付き合い方は「付かず離れず」が一番と紹介したことがありますが、この5年間はそれを実践しました。具体的には、私は自分の同窓会に専念、妻は自分の友だちとの会食会や海外旅行に専念しますが、年に2~3回くらいは一緒に旅行するということです。妻は友人たちと近場の温泉とか海外旅行に行っており、今年もクロアチア旅行を楽しんできました。飛行機嫌いの私は大学や伊勢丹時代の仲間と専ら飲み会とか国内旅行に行っていました。 妻と「離れず」を実践するための旅行としてはだいたいが温泉が多く、一昨年に白門43会が「留学生との集い」の慰労会を行った鬼怒川温泉の谷川ホテルにはほぼ毎年(通算12回)通っています。 こうした中、2010年は6月の福島旅行(ホームページで紹介)に続いて11月18日(木)から1泊で金沢旅行に行ってきました。 ![]() 越後湯沢経由で途中のんびりと「笹寿司」の駅弁で昼食を食べるなどして約4時間で金沢駅に到着しました。タクシーで10分ほどのその夜の宿泊場所の「白鳥路ホテル」に行き、荷物を置いてから周辺の観光に出ました。「白鳥路ホテル」は「金沢城公園」とそれに続く「兼六園」のすぐそばにあり、多少年季が入っていますが往年の繁栄が偲ばれる立派な佇まいのホテルでした。 この日は加賀百万石のお城跡の「金沢城公園」を観光することにしました。敷地は流石に百万石と思うほどの広さでしたが、江戸時代にあったはずの天守閣は勿論、櫓もなく、わずかに大きな石垣や堀があるだけでした。正確には、城らしきものはあるものの、それは映画のセットのような安物で、とてもこれまで見てきた松本城や松山城、名古屋城などとは比較にならないものでした。あんな城だったら、むしろ無かった方がよいと思いました。また、「金沢城公園」内は広いにもかかわらず案内表示などが不備で観光客もほとんど居なければ、公園の管理係員も見当たらず、我々夫婦は道順も分からずウロウロしてしまいました。 やっとのことで「金沢城公園」を出て隣の「尾山神社」に行きました。ここは加賀藩の代々の藩主が祀られた大きな神社で、正面にある「神門」と呼ばれるモダンな三層の門の最上階は四面五色のギアマン張りになっており、昔は金沢市のシンボルとして海上からも見ることができたとのことでした。 ホテルに帰って、温泉にゆっくり入り、いよいよ夕食になりました。旅行社の説明ではこのホテルは夕食はオプションになっており、蟹の特別食を希望するなら一人4千円とのことだったので、とりあえずはそれで我慢することにしました。翌日、近江市場という魚介類の市場に行く予定なので、本格的な蟹はそこで食べようと思ったからです。 ところが出てきた料理はまずは大きな「ずわい蟹」が一杯づつ、それにお造りやご当地名物治部煮や焼物、揚物など全部で11品もあるのでびっくりしました。まずは30分もかけて大きな「ずわい蟹」を食べましたが、昔から「味はずわい」と言うように新鮮でおいしい蟹で、これで4千円は本当に安いと思いました。 余談ですが、学名「ずわい蟹」は島根・鳥取地方では「松葉蟹」と呼ばれ、福井地方では「越前蟹」と呼ばれていますが、石川地方ではこれらに対抗して加賀・能登から「加能蟹」と呼ぶようにしているとのことでしたが、私には初耳でした。 翌朝のバイキング朝食では軽い洋食を選び、9時にチェックアウトして徒歩で約10分の「兼六園」に行きました。まだ朝早いので観光客もまばらで、入口からすぐの所に兼六園のシンボル「ことじ灯籠」がありました。朝日を受けて、紅葉を背景に池の縁にたっている灯籠は見事で、思わず見とれてしまいました。この「霞ヶ池」の周辺には「唐崎松」という見事な松が何本も植えられており、これらを含めた景色はまるで絵葉書のようでした。 ![]() その後、昼食を食べるために「近江市場」まで歩いて行きましたが、途中で疲れ休みに立ち寄った「森六」という和菓子店で和菓子を食べたところこれがとてもおいしく、お土産に買ってしまいましたが、店の人によく聞くとこの店は東京の三越本店にも出ている有名な和菓子店であることが分かりました。私としては「黒羊羹」を買いたかったのですが妻の反対で購入できず、今度密かに三越本店で買ってやろうと決心しました。 「近江市場」は上野のアメ横と同じで、魚屋を中心に百以上の店が集まっており、その魚屋の店頭はほぼ全てが蟹それも「ずわい蟹」が占領していました。まずは昼食ということで、旅行案内書に出てきた「ひら井」という海鮮屋で2,500円の「特選海鮮丼」を食べました。店内は満席状態で出てきた「特選海鮮丼」には「ウニ」「いくら」「蟹」「甘海老」「マグロ」「牡蠣」「鮑」に加えて「鰻」までが乗っており、そのどれもがおいしくて大いに満足しました。 食べ終えて店を出て、さあ蟹を買おうと思いましたが、この市場の蟹の値段は16,000円くらいから5,000円くらいまでの開きがあり、素人目にはその差が分かりません。そこで思い出したのは前日乗ったタクシーの運転手が「大ぶりの蟹より、小ぶりの香箱蟹(こうばこがに)の方が安くておいしいので、自分たちはこれを食べている」と言った言葉でした。そこでよく見ると、確かに、上海蟹より一回りくらい大きな蟹が1,000円くらいの値段で売られていました。そこでこれを10杯買って自宅配送を依頼しました。翌日、家でこれを食べたら、なかなかおいしくタクシーの運転手のお勧めが間違っていないことが分かりました。 帰りの列車の中で、夕食を食べようと思って車内販売の女性に「サンドウィッチ」と注文したところ「売り切れです」と言われ、止むなく選んだのが「蟹釜飯」ということで、今回の旅行はまさに蟹尽くしということになりました。蟹については、以前このホームページでも紹介した「城崎」の民宿での蟹尽くしも凄かったのですが、今回もそれに劣らず素晴らしい蟹でした。 かくして、蟹、温泉、観光という3つの目的も達成して、十分満足して帰宅した我々夫婦でした。 (写真は上:兼六園、下:尾山神社) |
会津若松・喜多方旅行(2) ○ 6月3日(木) この日は天気が良かったので、朝食の後、計画では11時頃の電車で喜多方に向かうことになっていたのですが、1本早い電車に乗ろうと9時半頃タクシーで会津若松駅に向かいました。しかし1本早い電車が今出たところというわけで、仕方なくタクシーで約30分かけて喜多方に行きました。 駅前は例によって閑散としていて何もないので、観光案内所にいたベロタクシー(電動自転車の人力車)で市内観光することにしました。運転手のお兄さんの話を聞いていると、喜多方は昔は金山に近く、また物流の要衝でもあったことからかなり豊かな町で、漆食器や酒・味噌・醤油の醸造が盛んで多くの蔵(4千以上)があり、昔から「蔵の町」として観光名所になっていたとのことでした。私はラーメンで全国的に有名になった町だと思っていましたが、それはごく最近のことのようでした。 ![]() 次に向かったのが酒・味噌・醤油の醸造業者がいた地域でしたが、ここには現在でも多くの業者が残っており、いずれも多くの蔵を構えた豪商の名残を残していました。そのうちの1軒「若喜」という店に入りましたが、その店の壁一面に「何でも鑑定団」で高い値段の付きそうなレトロなポスターが何枚も画鋲で貼ってあるのに気が付きました。昭和30年代の映画のポスターで、その他にも昔の雑誌や駄菓子などが並べてありました。店員に尋ねると店のオーナーが趣味で収集し、惜しげもなく画鋲で貼っているとのことで、時々お客さんからこんな貴重なポスターを画鋲で壁に止めるのはもったいないと注意されるとのことでした。この店は酒・味噌・醤油を扱っている店で、店主らしき人から説明を受けた後に「自然醤油」と「だし醤油」を購入し、自宅に宅急便で送ってもらいました。 約1時間でベロタクシーでの観光を終え、いよいよ昼食ということになりました。ベロタクシーのお兄さんの話を参考に、駅からも近く喜多方ラーメンの元祖ともいうべき「源来軒」に行くことにしました。間口は狭いのですが、中は30席ほどもある店で、大正末期に中国人が始めて現在は3代目ということでした。一番シンプルなラーメンを食べましたが、昔の「支那ソバ」を彷彿させるような懐かしい味で、具も支那竹とチャーシューが2枚となるとだけで、スープは鳥ガラのみ使用というあっさりしたものでした。麺はやや太いちぢれ麺で、もちもち感のある美味しいものでした。お土産としても売っていたので、4食入りの箱3つを宅急便で自宅に送りました。 ![]() 船乗り場に戻り、タクシー会社に電話して迎えに来てもらいましたが、時間がかなり余っていたのでタクシー運転手さんに相談したところ、途中に「野口英世記念館」と「ガラス館」があるというのでとりあえず「ガラス館」に行ってみることにしました。ここは大きなショッピングセンターのような2階建ての建物であらゆるガラス製品が展示販売されていました。特に2階部分には高級な食器や花瓶などがあり、ざっと見て回るだけで30分以上かかりましたが、特に買いたいものはありませんでした。入店客が少ないのでよく商売になっているなというのが正直な感想でした。 その後は予定通りで、郡山を経由して19:50に上野に到着しました。初めての会津若松・喜多方方面の旅行でしたが、天気に恵まれ、東京からこれほど近い場所に観光地化されていない素晴らしい土地があったのだなというのが正直な感想でした。 |
会津若松・喜多方旅行(1) 昨年の12月に娘夫婦に待望の男子が誕生し、私も晴れて「お爺さん」になりました。娘夫婦はその後1カ月余り、赤ちゃんと犬まで連れてわが家に「寄宿」したのですが、先日そのお礼として私たちに「旅行券」をプレゼントしてくれました。そこで、私たち夫婦は「会津若松・喜多方」の旅行を選択し、「善は急げ」とばかりに6月2日~3日ということで近畿ツーリストに旅行の企画と切符の手配を依頼しました。結果として、6月2日の白門43会の役員会を欠席することとなりましたが、これはわざとではなく、娘の夫が水曜・木曜が休みなので我々が近所のマンションに住んでいる娘と孫を手伝う必要がないということ等のいろいろな条件を斟酌してこの日になったことをご理解いただきたいと思います。 ○ 6月2日(水) 朝9:00発の「Maxやまびこ107号」で郡山駅に行き、ここで磐越西線(あいづライナー1号)に乗り換えて11:52に目的地の会津若松駅に到着しました。 私にとって会津若松は初めての土地でしたが、ここは幕末の京都守護職であった会津藩主松平容保の城下町(23万石)ですし、更に歴史を逆上れば加藤嘉明(40万石)、蒲生氏郷(90万石)や上杉景勝(120万石)といった大大名の城下町だったので定めし賑やかな町かと思ったのですが、駅前は閑散としていて昼食を食べる店も殆どありません。やむなく駅構内にある立食い蕎麦屋で450円のとろろ蕎麦で昼食を摂りました。お腹が減っていたたこともありますが、出汁が関西風でやや薄い感じでしたが、立食い蕎麦屋にしてはまずまずな味だと思いました。 昼食後、市内観光ということで、タクシーに乗って案内してもらいました。タクシーの運転手さんに早速立食い蕎麦の話をしたところ「あんなのは不味くてだめだ。市内にはおいしい会津蕎麦を食べさせる店が何軒もある」と言われてがっかりしてしまいました。 ![]() その後、タクシーで何箇所か(上杉景勝の時代に「天地人」で有名な直江兼続の屋敷があった所や有名な会津藩の藩校「日新館」があった所など) 回った後、いよいよメインの「鶴ケ城」に向かいました。ところがお城は現在改装工事中(完成は来年3月)で、全体が鉄パイプや幕に覆われていて肝心な全景を見ることができませんでした。この城はこれまで見た名古屋城や愛媛の松山城よりは規模の小さな城でしたが、長野の松本城や岐阜の犬山城などよりは大きく、幕末の戊辰戦争において官軍を迎え打って手こずらさせた堅固さが偲ばれるものでした。城の中には入れたので5層の城の中を天守閣まで見学して回り、その後は庭の茶室で抹茶と和菓子を味わってからタクシーに戻りました。 次に回ったのは「白虎隊の悲劇」で有名な飯盛山のふもとの「白虎隊記念館」でした。ここには幕末の官軍による会津若松攻撃の際に、城下が燃えているのを城が落ちたと思って飯盛山で自決した19名の白虎隊員に関する資料が多く展示されていました。意外なことに、この19名の一人が現在の秋篠宮紀子さまの先祖に当たるとのことでした。いずれにしても純粋な忠誠心に燃えて自決した20歳前の若者達の最後は哀れで、それに引き換え彼らの忠誠心の対象だった松平容保がその後日光東照宮宮司などをやって明治26年まで生き続け、華族(子爵)にまで栄達したというのは何か納得できませんでした。 戊辰戦争では、会津藩はその配下にあった新撰組が勤皇の志士を多く殺したことから官軍の恨みを一身に集め、松平容保が降伏したので城は残ったのですが、代わりに城下は官軍の乱暴狼藉の場所となり、また松平容保の京都守護職就任を諌めた筆頭家老の西郷頼母などは幼い子供を含む家族全員が自決したり、会津藩も23万石から本州北端の陸奥斗南3万石に移されるという報復を受けて家臣も含めて大変な悲劇を味わったのです。そのため会津の人達の官軍(特に長州藩)に対する恨みは強く、タクシーの運転手さんの話では現在でも年寄りは山口県人を嫌っているので、山口県からの旅行客は「どちらから来たのですか」と聞かれても正直に答えないように気を付けているとのことでした。 最後に、タクシーの運転手さんに「城下町には必ず美味い和菓子があるはず」ということで案内してもらったのが、小さな蔵の中にある「会津葵」という店で、ここで銘菓の「カステアン」という和洋折衷の不思議な菓子と、干菓子を購入しました。 ![]() 「東鳳」での部屋は17階で、遠く会津若松の町が一望にできる素晴らしいもので、鶴ケ城の天守閣よりも眺めがよいものでした。風呂は露天風呂に入りましたが、大ガラスの大浴場とまるで棚田のように突き出ている露天風呂があり、ナトリウム・カルシウム泉という無色・無臭の気持のよいものでした。また、食事は魚・肉・天ぷらなど品数は多いのですが、そのどれもが分量が手頃で、味付けもとてもおいしくて完食してしまいました。帰宅して心配していた体重を計ってみましたが、余り変化が無かったので安心しました。この日は自分の無責任な発言で自滅した鳩山首相が地位を投げ出した日で、それを報じるテレビを見ながら寝ました。(続く) |
伊豆の温泉旅行(3) ○ 2月16日(火) 朝5時に起床して、菊地君と「巨木風呂」に行きました。場所は昨日の「巨石風呂」の隣で、誰も入っていませんでした。まるで大きなカヌーのような風呂で、木肌は見た目には黒々とした岩のようですが、触ってみると確かに木でした。この風呂も同時に10名は入れないと思われましたが、元の木は想像を絶する大きなものだったということが偲ばれました。 次に、S君が一人で「巨木風呂」に向かいましたが、館内で迷ってたどり着けず、虚しく戻ってきました。川辺君と一緒に再度挑戦して入浴に成功したのですが、旅館の中の通路が複雑だったことは確かです。 天気予報では曇りとのことでしたが、実際には朝から小雨でした。朝食後、9時頃に「白壁荘」をチェックアウトし、歩いて2分の停留所からバスで修善寺に向かいました。来る時もこの停留所からなら迎えのバスがいらなかったのではと思いましたが、旅館の人の話では、この停留所を通るバスは路線が違うとのことでした。 ![]() 約1時間ほどで修善寺に到着しました。ここで2時間半ほど観光・昼食にかけるつもりでしたが、駅前には何もなく、観光案内所で聞いてみるとバスで15分ほどの「修善寺温泉」に行けば観光・昼食に適したものがあるとのこと。早速タクシーで「修善寺温泉」に向かいました。タクシーの運転手はあと1ケ月で定年になるという人で、いろいろ話を聞くうちにおいしい蕎麦屋があるということを教えてもらいました。 修善寺ではまず「修善寺」という大きなお寺に行きました。ここは608年に弘法大師によって建立された名刹で、修善寺で暗殺された鎌倉幕府の2代将軍頼家ゆかりの寺ということでした。 次に隣の日枝神社に行くと、ここは源頼朝の弟の範頼が幽閉されていた神社ということでした。境内にはおそらく樹齢が数百年の大きな杉の木が何本もありました。その中に「子宝に恵まれる木」というのがあり、我々は「うっかり触れないな」と笑っていたのですが、何故かS君だけがこれに抱き付いていたので、今後が心配です。 ![]() 昼食の後、バスで修善寺駅に戻り、丁度停車していた電車で三島に向かいました。約40分で三島に到着し、ここで構内の喫茶店で新幹線の時間までを過ごしました。時間がきて、今回の旅行も終わりということになり、解散しました。S君、菊地君は13:48発のひかり473号に、川辺君、私、そして東京の息子さんの家に行く高橋君は13:49発のこだま650号にそれぞれ乗って、逆方向に帰って行きました。 次回については、今度は岡山の高橋君が幹事で、期日は今年の11月中旬、場所は岡山市周辺で、寺の住職である高橋君に相応しく芸術・文化・宗教・歴史に富んだ格調の高い企画を行うということです。中でも高橋君の松林寺に伝わる門外不出の重要文化財指定のお宝も見せてくれるとのことで楽しみです。これについてもまたホームページで紹介したいと思います。 |
伊豆の温泉旅行(2) ○ 2月15日(月) 前夜は皆早く寝たのでこの日は早く起きる者が多く、高橋君などはこの寒い中、ホテルの外の海岸寄りにある露天風呂に行ってきたとのことでした。露店風呂は混浴だったとのことで、若い女性もいたという報告が朝食時に高橋君からありました。でもあとでよく確認すると、バスタオルを巻いての入浴だったようです。 8:30に「つるや吉祥亭」をチェックアウトし、運動のため歩いて15分ほどの伊豆北川駅に行くことになりました。距離的にはたいしたのもではないのですが、海面の高さから駅の高さまで階段や坂を歩くことになり、S君などは大分まいったようでした。 ![]() 途中で雨が降ってきたので300円の傘を買って下田駅に戻り、来る時に目を付けていた海鮮の店に入り、きんめ鯛の煮付定食などで昼食を摂りました。味はなかなかで、我々がこの店を出る頃にはウエイティング客の列ができていました。 下田駅から各駅停車で3つ目の「河津駅」で下車しましたが雨足は激しくなるだけなので、「河津桜」を歩いて見ることは止めにして、湯ケ島温泉に向かうバスの中から見ることにしました。河津桜は5分咲きくらいで、町中にピンクの「河津桜まつり」の幟が立っていましたが、残念ながらの雨で観光客はまばらでした。「河津桜」は一般的には「大島桜」と呼ばれる早咲きの桜で、全国的に主流となっている「染井吉野」の薄いピンク色に比較して赤みの強いピンク色の桜です。2月の中旬には咲くので気が早い日本人に好かれて、満開の時期には東京あたりから大勢の観光客が来るとのことでした。但し、この河津桜を神奈川の松田あたりに植林した人がいて、これが大きくなったために最近ではそちらの方で済ませる観光客が増えて、河津はひと頃の賑わいを失っているとのことでした。 湯ケ島温泉までは約1時間の道のりで、急な山道を曲がりながら進み、途中で「河津七滝」などがありましたが、雨なので何も見えず、下田観光で疲れた一行はぐったりと眠っていました。高橋君などは持ち唄の「天城越え」のイメージを作るために「上連の滝」だけでも何とか見たいと言っていましたが、「上連の滝」という停留所を通過する際には眠りこけていました。もっともバス停から「上連の滝」が見えるはずはないのですが。 ![]() ここの売りは53トンの岩をくり抜いて作った「巨石風呂」と、アフリカのガボンから運んできた樹齢1,200年の紫檀の木をくり抜いて作った「巨木風呂」です。旅館の人の説明では、男性は夜は「巨石風呂」、朝が「巨木風呂」と決っているとのことなので、まずは「巨石風呂」に入ることにしました。幸い、宿泊客は前日の「つるや吉祥亭」の満杯と違って数組だけのようなので、早いもの勝ちとばかりに迷路のような旅館の中を案内板を頼りに「巨石風呂」に向かいました。風呂は旅館の上の方にあり、屋根は付いているものの露天風呂で、洗い場には屋根もないという状態でした。服を脱いで雨の中を風呂によじ登り、やっと入ることができました。先客が1人居ましたが、我々5名が入るとほぼ満杯状態でした。太い「とよ」から湯が絶えず注いでおり、湯の温度は40度くらいでゆっくりと入ることができました。巨石をくり抜いた風呂ということで、何かヒンヤリするのではないかと思っていましたが、岩は滑らかで温かく、なかなか気持のよいものでした。これまで色々入った風呂と違って、こんな風呂は初めてで、いい思い出になるというのが皆の意見でした。 夕食は別室で5名で食べました。メインは「しし鍋」で、その他にも伊勢海老のおつくりや茸等が出て、ヘルシーかつとてもおいしいものでした。冷酒を注文しましたが、これに伊豆の名物の山葵を入れて飲むとおいしいとのことで、試してみましたが味がまろやかになってなかなかのものでした。 昨日のホテルは一晩中波の音がしていましたが、この日の「白壁荘」は一晩中すぐ下を流れる狩野川の清流の音が聞こえて、多くの文人達に好まれた旅館ということに納得できました。 |
伊豆の温泉旅行 私が中央大学に在籍中に所属していたのは文化連盟の「国際関係研究会」でした。ここに所属していた同期の学生とは、卒業後も時々会ったり、年賀状のやりとりなどをしていましたが、平成17年3月に6名が集まって箱根旅行をしたのを皮きりに、年に1度か2度、順番に交代する幹事が自分の出身地で旅行を企画するというスタイルでこれを続けてきました。幸い、同期は遠く山口、岡山から大阪、名古屋、近くは埼玉、東京と散らばっており、それぞれ地元ならではの旅行を企画するばかりか、勝手知ったる地元を効率よく案内できるのです。 これら同期の中には、白門43会員が私の他に3名(行田市の専門チェーンの経営者の川辺秀夫君、岡山市の松林寺の住職の高橋良洋君、愛知県春日井市の自営業の菊地古志朗君)がおり、以前にも「城崎の蟹の旅」「下関のふぐの旅」「群馬の四万温泉の旅」をこのコーナーで紹介してきましたが、今回は私が幹事で、「伊豆の温泉旅行」を実施しましたのでご紹介します。(管理人注:3日間の旅程を詳しくご報告いただいたので、1日分ずつ3回に分けて掲載させていただきます。) ○ 2月14日(日) この日、熱海駅の改札口に、山口からS君、岡山から高橋君、愛知から菊地君、埼玉から川辺君そして東京から私が集合しました。誰も迷わず、遅れもしないで集まれたのはまだ誰もボケていない証拠でした。 ![]() 14:52に熱川駅に到着し、ここで下車しました。ここから今夜の宿泊ホテルの送迎バスが出ているのですが、多少の時間のゆとりがあるので「バナナ・ワニ園」を見学することにしました。一部に前に来たことがあるとか、来たことはないが特にワニなど見たくないなどど言う人がいましたが、多数決で「行ってみよう」ということになりました。 まずは丘の斜面にいくつもの温室に分かれて展開している熱帯植物園に入りましたが、ここは温泉を利用した熱帯のジャングルのようになっており、多くの熱帯植物(小さな花から樹木まで)が栽培されており、ランやハイビスカスは無論のこと珍しい食虫植物や数十種類の睡蓮などがあって皆はやっぱり来てよかったということになりました。次に、ワニ園に行きましたが、いくつもの水槽や池の中にクロコダイルやアリゲータといった大小さまざまなワニがおり、ここも温泉の熱で温かい水の中にいるので元気に動いているものもあって迫力満点でした。体長が2mを超えるような大きなワニに不気味な目で目近から睨まれると何とも恐ろしく、これに噛まれたらひとたまりもないなと思いました。 1時間ほどで見学を終えて熱川駅に戻り、送迎バスの発着場に行くと丁度今夜の宿泊ホテルの伊豆北側の「つるや吉祥亭」のバスが来ており、早速これに乗り込みました。すると丁度次の列車で来た客が殺到して、定員20名ほどの送迎バスが満員になりました。バスは15分ほどでホテルに到着しましたが、ホテルの方も大勢の客の受け入れで満席とのことでフロントは大混乱でした。このホテルは以前に何回か来ており、白門43会の梅津さんの家族旅行にも紹介したことがありますが、海岸の防波堤から20メートル位の所に海岸に沿う形で細長く展開しているので、ほとんどの部屋がオーシャンビューとなっており、また天気さえよければ各部屋から朝日が昇る様子を満喫することもできるので、特に女性には人気のホテルなのです。 夕食は、窓越しにかがり火と海が見える1階の食堂で、部屋ごとに分かれて食べるのですが、海の幸、山の幸ありでとてもおいしく、いくらでもお代わりできる新鮮な「てんぷら」、「活鮑の踊り」、「きんめ鯛の寄せ鍋」などがあり、一同大いに満足しました。 勿論ここも風呂は温泉で、外には露店風呂があるとのことでしたが、雨の降る寒い夜なので、館内の大浴場で済ませることにしました。 |
長岡の大花火 私が住んでいる台東区では毎年「隅田川花火大会」が行われており、今年も7月25日(土)に2万2千発の花火が打ち上げられるのを家内と見学しました。また、小学生の頃、夏休みの度に母の実家の本厚木に帰省(?)し、相模川の花火大会を見物した記憶も残っています。最近では同窓会の関係で熱海の花火を何回か見物に行っています。大型の花火が夜空に開花して、ズシーンという振動が身体に伝わってくるのが何とも言えない快感と思っています。 その私が何とか経験したいと思っていたのが日本一の大きな花火(3尺玉)を打ち上げるという長岡の大花火でした。そうしたところ、私が勤めていた伊勢丹の同期の仲間に地元の小千谷出身の者がいて、それではということで仲のいい同期4名で長岡の大花火を見物することになりました。 長岡の大花火は毎年の8月2日・3日に長岡市内を流れる信濃川で開催されます。発端は1945年のこの日に大空襲があって市内が焼け野原となり、1,500名も発生した犠牲者の追悼ということで始まったようです。信濃川にかかる大手大橋と長生橋の中間から1日1万発打ち上げられ、注目の3尺玉は1日に2発のみです。8月2日・3日の両日は大変なお祭りで、メイン道路は歩行者天国となり、いろいろな行事が行われています。市外からの観光客も半端ではなく、私が見物した8月2日(日)は公称47万人と発表されていました。 周辺各地の旅館・ホテルは満席ですし、車は市内から20~30分も離れた駐車場に駐車しなければならず、そこから会場へはシャトルバスが送迎する仕組みになっています。100円で大花火のプログラム(20ページの立派なもの)を買ってよく見ると、何時にどのスポンサーのよるどのような大きさの花火が何発打ち上げられるかが詳しく書かれており、後半は寄付をした人の名前が上は50万円から下は3千円まで大きさを変えて2千名近く書かれており、7~8万人と思われる長岡の人口から考えて半分近い所帯が、寄付に応じているのではないかと思われます。 私たち4名はシャトルバスを降りて土手を30分近く歩いて「指定席」に到着したのですが、「指定席」はテニスコートにプラスチックの簀の子を敷きつめ、その上に青いビニールシートが張ってあり、それがまた相撲のマス席より一回り広いくらいでテープで仕切られているものでした。この1マスの料金が2万円なので。4名で行けば1人5千円です。また、この5千円の中には使い捨て座布団と弁当代金も含まれています。 ビールなどを飲みながら2時間ほど待った後、午後7時15分から花火が始まりました。花火の前後にスポンサー名と花火の大きさ・数量などが女性の声でアナウンスされ、初めのうちは昨年病死したおばあちゃんに孫一同が捧げるものとか、長岡高校昭和43年卒業生の還暦を祝う有志一同とかがありました。今年はNHK大河ドラマに因んで「天地人」という趣向を凝らした花火が27社のスポンサーの協賛で打ち上げられましたが、なかなか見事なもので、その中には大型の花火(おそらく1尺玉)が何十発も入っているようでした。我々の指定席からは、花火は目の前というよりは頭の上で爆発するという感じで、爆発音や振動は脳天から身体に伝わってきます。大型の花火(おそらく1尺玉)が連続して頭の上で爆発するとこれはかなりの迫力で、思わずのけ反ってしまいますが、そのようなことが何回もあったので、首が痛くなりました。場合によっては寝た姿勢で見たら楽でよかったのかなとも思いました。 ![]() 来年、長岡の大花火を見ようという人へのアドバイスとしては、マス席の予約は4月で、それも数時間で売り切れてしまうので、コネのきく地元の知人に依頼して確保すること、雨に備えてビニールの合羽と大型のビニールのごみ袋を用意することをお勧めします。傘の使用は禁止になっています。 |
群馬・四万温泉の旅 毎年、1月か2月に、中大国際研究会で一緒だったメンバーと旅行をするのがここ何年か続いていたが、今年は直前にハプニングがあり、参加したのは行田の洋品店チエーン社長の川辺秀夫君と岡山の住職の高橋良洋君(いずれも白門43会会員)そして自分の3名でのやや寂しい旅行になった。 2月8日の14時にJR高崎駅に集合し、その後は今回の幹事の川辺君が運転する豪華なセルシオで四万温泉に向かった。丁度浅間山が活発に活動している頃で、車窓から不気味な煙を山頂にたなびかせている姿が見えていた。2時間ほどで四万温泉「やまぐち館」に到着した。四万温泉は群馬県と新潟県そして長野県との県境にある静かな温泉で、”四万”の病に効くとして有名ではあるが、実際に行く機会が余りない所である。この時の気温は摂氏1度くらいで、雪がチラチラ降っていたがこれでも暖冬で、いつもなら道路には雪が高く積もっているとのことだった。「やまぐち館」は四万温泉でも一二を争う老舗旅館で、四万川を見下ろす大露天風呂やつぼ湯など数種類の風呂があったが、ここの常連の川辺君の顔で贅沢にも総檜造りの貸し切り展望風呂を優雅に楽しんだ。 ![]() 夕食後はこの旅館の名物女将による紙芝居やら歌などの独演会とか、従業員一同による太鼓打ちの披露などもあった。この旅館の女将はテレビでよく見かける有名人で、なかなかの芸達者だった。 翌日は、日本史の教科書にも出ている世界遺産候補の「高岡製糸場」に向かった。ここは”女工哀史”とは無関係の官製工場で、ボランティアの案内人の話では1日の勤務時間は8時間だったとのことだった。とにかく広い工場跡地で、隣には指導に当たったフランス人技術者が住んでいた邸宅もあり、綺麗に保存されていた。数百台も並んだ機織り機械を見るにつけ、当時の賑わいを偲ぶことができた。 その後、古い城下町の館林とか”ぶんぶく茶釜”で有名な茂林寺を見学した。茂林寺には参道から境内そしてみやげ物屋にも狸が溢れており、東武鉄道から寄進された狸の立像などは、高さが2mを超えるような大きさだった。 ![]() その日は群馬県との県境に近い羽生の「ホテルグランヴィア」という新しいホテルに宿泊し、夜はまたまた大宴会になったのは言うまでもない。 翌日は,「埼玉古墳」の近くにある「古代蓮の里」に行った。ここは以前、ゴミ焼却場を作ろうとして掘ったところ「古代蓮」の種が発見され、その栽培に成功して今では大きな蓮池に一杯になるほどになったとのことだった。展望台から古墳群や蓮池を見渡せるのであるが、生憎、蓮が開花するのは6月下旬以降なのでこの日はそれを想像するだけだった。上野駅から1時間以内で来れる場所なので、蓮の開花季節にもう一度来ようと思った。 その後、行田の川辺君の綺麗な店を表敬訪問した後に、近くのうどん屋で昼食を食べることになった。ここは昨年、43会の清水正さんが主催したミニトリップで大宮の鉄道博物館見学をやった時に、参加者が足を伸ばしてやってきたことのある店ということだったが、店に入るなり店の若女将から「八束さんじゃありませんか」と声をかけられてびっくりした。話を聞いてみると私が30年くらい前に伊勢丹の浦和支店に勤務していた頃に1階の売り場に勤務していた女性ということが分かり、よく覚えていたものだと再びびっくりした。 その後は、川越に行って「喜多院」や蔵造りの町並みなどを見学し、最後は「川越駅」で解散となった。 来年は私が幹事で、場所は伊豆半島、素晴らしい温泉とおいしい魚介類が食べられる企画を立案することになった。その結果はまた来年報告したいと思う。 (写真上「高岡製糸場」、下「埼玉古墳」) |
企画委員長を終えて さきの役員会で私は企画委員長を降りて松本光雄氏と交代した。思えば平成12年の「仙台の集い」の時に、前任者の龍門海行氏から次の企画委員長を指名され、早くも8年近くが経過している。当時の企画委員長は新年会、総会そして隔年に開催される地方の集いの企画が担当業務だった。私は、当時は伊勢丹に勤務していたので、伊勢丹の子会社の「バンケット」が新宿駅ビルにあるのを利用して新年会と総会はここで開催することにした。交通の便がよく、綺麗な会場だったので参加者からは喜ばれていたようである。 ![]() 私の企画委員長時代、普段の年ならなかったイベントが二つあった。ひとつは「白門43会10周年記念行事」として平成18年1月7日に開催した国立劇場での歌舞伎鑑賞会である。企画段階で不安だった動員数が蓋を開けてみると予想を遥かに上回る83名(会員46名、同伴者37名)と大盛況で、鑑賞後、隣の半蔵門会館で開催した新年会もそのあおりで95名が参加するという新記録となった。この企画を実施したのは10周年事業プロジェクトで、そのメンバーは龍門海行氏以下、中村武照氏、梅津久光氏、鈴木征夫氏、岡田孝子さんそして私だったが、暑い中、何度も国立劇場に行って田部支配人と交渉したことをよく憶えている。 普段の年ならなかった二つ目は「留学生との集い」である。本番については、昨年11月に上野精養軒で留学生200名を集めて成功させたということで、会員の皆さんにも記憶に新しいところである。ここで特に述べたいことは、本番に至る前の実質3年間のことである。そもそも「留学生との集い」は、20年前から発足していた中大の大きな行事で、その後、年次支部が主幹事と副幹事で毎年開催するようになり、いずれは43会にもその順番が回ってくることはわかっていた。一番最初にこのことに気がついて、幹事会の度にその対策を主張したのは梅津久光氏である。その頃の「留学生との集い」はやたらに華美に走っており、平成15年に39会が主幹事で赤坂プリンスホテルで開催した時は経費が500万円以上もかかっており、100万円近い赤字を主幹事支部やその役員が負担していたということだった。43j会としては会の資金内容や最近の留学生が以前に比べてリッチになっていることなどから、そこまでして「留学生との集い」を担当する必要がるのかという意見が主流を占めていた。こうした意見は他の年次支部でもあったようで、 ![]() しかし、中大キャンパスでの2回の開催はいずれも失敗で、経費は大幅に切り詰めたものの留学生の動員は100名を切る有り様となった。そのため平成18年12月の年次支部協議会では、「元のようにホームカミングデーとは分離して開催せよ。開催月は6月にせよ」と決議されてしまったのである。これには43会としても猛烈に反発し、「ホームカミングデーとの分離開催は受け入れるとしても開催月は11月に予定して準備をしているのでその変更は受け入れられない。どうしてもというなら主幹事を辞退する」と申し入れ、その後「赤坂プリンスホテルをもう予約してある」とか「金が不足ならいくらでも集めてやる」といった圧力があったものの、これらをはね除けて昨年の「留学生との集い」に至ったのである。この「留学生との集い」に事務局長として参画させてもらったことも今となってはいい思い出になっている。 現在は重荷を下ろしてほっとしているところであるが、幹事や会員の皆様には長い間のご協力・ご支援を心より感謝したい。 (写真上は宮島観光(後列右が筆者)、下は「留学生との集い」の事務局打合せ(中央右が筆者)) |
下関ふくの旅 昨年2月にこのホームページで「蟹とヘルペス」という文書を紹介してもらったが、今年もほぼ同じメンバー(43会メンバー3人と未入会の43年卒の2名)で、今度は下関にふぐ(河豚)を食べに行った。因みに、現地では「ふぐ」と言わずに「ふく」と言う。 2月9日(土)の午後1時過ぎに、メンバーが全国から(私は東京、会員の菊地古志朗君は名古屋から、会員の高橋良洋君は岡山から、非会員のF君は新大阪から)それぞれ集合場所の新山口駅に集った。一番遠い私は、のぞみに乗ったにもかかわらず5時間もかかり、持参した「坂の上の雲」第1巻をほぼ読み終えてしまった。新山口では現地在住のS君が迎えてくれ、S君の息子さんの運転するVOXYで下関近くの「唐戸市場」に向かった。 ![]() その後、近所の赤間神社を見学したが、ここはその昔、源平合戦の古戦場「壇の浦」の目の前にあり、「壇の浦」で死んだ安徳天皇と、平家一門7名を祀ってある由緒ある神社とのことだった。「怪談」で有名な「耳なし芳市」の像もあった。 宿泊したのは「海峡ビューしものせき」という国民宿舎だったが、国民宿舎と言ってもホテルと比べて何の遜色もない近代的な宿泊施設で、何よりも、関門海峡の一番狭い場所の小山の上に建っているので、窓から見ると眼下に絶えず船が行き来する様子を見ることができ、また本州と九州とを結ぶ関門橋も目の前に見えるという部屋だったのが感激だった。幕末の頃、攘夷思想に固まっていた長州藩がこの海峡を通過する外国船を砲撃し、その後連合国艦隊から厳しい反撃を受けて攘夷方針を変更したという歴史を知っていたが、その関門海峡がこんなに狭いとは想像していなかった。目測であるが、ほんの1キロメートルくらいしかなく、こんな近距離から船を砲撃して外れるはずがなく、どうして負けてしまったのだろうと不思議な気持がした。 さてその晩はいよいよ「ふく」の宴会で、15,750円の「馬関ふく会席コース」が次々に出されてきた。まずはふくの煮こごりその他、そして大胆に並べられた「ふく刺し」、次は「ふくのから揚げ」、「ふくの茶碗蒸」などが出され、「ひれ酒」を飲みながらこれらを堪能した。係員の説明では全て「トラふく」とのことだったが、年に一度くらいしかふくを食べない私には、「真ふく」と「トラふく」の区別は付かず、ただおいしいと思っただけである。最後は「ふくチリ鍋」で、新鮮な野菜と一緒にふくのぶつ切りを煮たててポン酢に紅葉おろしを入れたタレに浸して食べるのであるが、流石に本場の味だと思った。仕上げは残った出汁にご飯を入れて「ふく雑炊」にして食べたが、東京では味付けに醤油を使うのであるが、ここでは塩で味付けしていた。皆、すっかりふくを堪能して大満足であった。 ![]() その他には、当地の大名の毛利氏の前の大内氏の頃の本拠地だった「瑠璃光寺」を見学した。ここには素晴らしい五重塔があり、その古さと品のよさはこれまで見たいろいろな五重塔の中でも最高のものと思った。最後に、有名な絵描きの「雪舟」ゆかりの常光寺を見学した。「雪舟」が設計したとされる見事な庭などがあり、ここもなかなかよかった。 そして午後3時26分ののぞみに乗って、またまた5時間かけて東京に戻ったのである。山口県は、明治維新の中心となった長州藩の本拠地であり、多くの有名人を出した土地であるが、観光地としては余り有名ではなく、私も通過はしたことがあるが観光したのは初めてであった。多くの政治家を出しただけあって道路や公園は広くきれいに整備されており、家並みも立派に見えた。特に、屋根瓦が素晴らしく、普通の民家でも瓦屋根の両端に鯱鉾のようなものが付いているのが面白かった。おいしい「ふく」を安く食べたい人、歴史に興味のある人には山口観光をお勧めする。 (写真上は、左から私、高橋、菊地、F君、S君、 写真下は、瑠璃光寺の五重塔) |
道後温泉と砥部焼 私が四国松山の道後温泉に行きたいと思ったのは、この年になってまだ四国に行ったことがなかったためと、現在の東京に在住の八束家の元祖である曾祖父が明治15年に松山市から出てきたという理由からである。以前にホームページで「八束家発祥の地は島根県の八束郡である」と書いたが、江戸時代中期に島根県松江の殿様が四国大洲に移封になった時に一緒に移住したらしいのである。 家内と一緒に羽田から約1時間半で松山空港に降り立ったが、ここは戦争中、有名な海軍航空隊の基地があったせいか、なかなか立派な飛行場だった。30分ほどタクシーに乗って松山市内に到着したが、湯煙と武家屋敷などを想像していたのと違って人口53万人の近代的な都市で、百貨店も三越と高島屋が揃っていた。 ![]() 宿泊は「ふなや」という旅館で、旅行社の推薦で宿泊したのであるが、なかなか立派なもので、特に料理と風呂が素晴らしかった。あとで調べると、以前に天皇陛下が宿泊した宿であり、司馬遼太郎の「坂の上の雲」という小説に、憲法学者の植木枝盛がここに宿泊した時に正岡子規がおしかけて話を聞いたというくだりがあるほどの歴史的な宿だった。 この旅館のフロントに頼んで松山市内の電話帳で調べたところ、八束という名前が43軒もあり、やはり松山が東京八束家のルーツであることが確認できた。 翌日は、家内の希望で隣の砥部町に行って砥部焼を見学しようということになった。旅館専属のタクシーに乗り、途中「石手寺」という四国霊場51番目の札所に寄った。ここには89の霊場名が書かれた砂袋があり、これに触ると89の霊場を回ったことになるというので、1分たらずでこれを終えた。タクシーの運転手の説明では、この寺の謂われは、昔近くの城で手に石を握って生れた子供がいたことから付けられたとのことだった。とにかくこの運転手の田中さんはいろいろと勉強しており、まるでガイドのようにいろいろ説明してくれるのである。私は、砥部町までタクシーで行くが、その後は自分たちで自由に何十軒もある窯元を見学する予定だったが、田中さんの話では窯元が分散しており、歩いて回るのは大変とのことだった。また、砥部焼の原料の8割まで生産している工場にも案内するというので、この話に乗ることにした。 その工場は川岸にある古い小さなもので、観光客は原則として入れないのであるが、田中さんの連れてきた客だけには見せるとのことだった。仲には原料の砥石がゴロゴロしており、これを角材が何本も上下する機械(昔は水車でやっていた)で細かく砕き、これにインドから取り寄せた粘土を加えて完成させるとのことだった。 ![]() 松山出身の有名人は、司馬遼太郎の「坂の上の雲」の3人の主人公である。正岡子規、そして日露戦争で活躍した秋山兄弟(兄の好古は騎兵部隊指揮官として、弟の真之は東郷提督の参謀として)がおり、現地には「子規庵」「坂の上ミュージアム」とか「秋山兄弟生誕地」などがある。また、愛媛蜜柑に代表されるかんきつ類が豊富で、デコポンはまだ早かったのであるが、旅館で出された「小太郎」という小さな蜜柑がとてもおいしく、これも一箱自宅に送ってもらった。 初めて松山市に来て感じたことは、松山の人がのんびりしているということである。何事にもせかせかしないでおっとりしているのは、徳川三百年の間、「御三家」に次ぐ「御家門」という優遇された藩として、何の心配もなく豊かに過してきたためと思う。 従って、温泉に浸かってのんびりとした時間を過ごしたいと思う人には、道後温泉は最適だと思うので、皆さんにもお勧めしたい。 [参考] 旅行日程: 平成20年1月31日(木)~2月2日(土)の2泊3日 費 用: 往復の航空運賃+宿泊費で15万円(二人分) 坂の上の雲: 司馬遼太郎著 文春文庫(580円)全8巻 |
私のデパートマン時代(その6)──部長時代③ 私の最後の職場は関連事業担当という部署で、これは当時十数社あった伊勢丹の子会社を統括するのがその役目でした。どれも業績が余りよくない小さな会社ばかりでしたが、小さくても会社としての管理体制は整える必要があり、私はこれらの会社の法的基盤作りを担当しました。 また、子会社の役員の多くは伊勢丹本社からの出向者が占めており、関連事業担当の上級者はこれらの子会社の取締役や監査役をいくつも兼任するのが常でした。私も何社かの取締役や監査役を兼任しましたが、報酬が出るわけではないのでそれこそ名前だけの役員でした。子会社の役員になってみてよくわかったことは、親会社の横暴、言葉を変えれば子会社の悲哀ということでした。例えば、子会社の社員の賃上げについて言えば、子会社の業績がよくてもその時の親会社の業績が悪ければ賃上げは認められません。両方がいい時にのみ賃上げが認められるのです。また、親会社の都合によって子会社の役員が増減されることも日常茶飯事です。私は、子会社の役員・従業員にはできるだけ親会社風を吹かせることのないように接してきたつもりですが、子会社には行きたくないと思いました。 ここで経験したことは、会社経営や営業、リストラ等で、規模は小さいものでしたが、それだけによく理解できるし、改善するのも容易でした。 子会社の一つにスーパー業があり、私はここの監査役でしたが、ここでは何店もの新規出店を経験し、その結果も完全に把握できる立場にあったので、どのような立地でどのような規模の店を出すのがよいというようなことがよくわかりました。私が現在でもスーパーでの買物が大好きなのもこうした理由からです。 また、ワインを中心とした食料品の輸入業の子会社の役員になった時は、ワインやチーズの知識を得ることができました。その会社の紹介で当時学生だった娘とお台場のビッグサイトでのワインフェアに行ったのですが、試飲の仕方がわからず、出されたワインを飲み干し続けたので親子してヘベレケになったという失敗もありました。 小さい会社でも事件はよく発生し、これを処理するのも私の役目でした。印象に残った事件としては、レストラン業の子会社が経営する仙台の店で食中毒が発生して営業停止になったのですが、冷蔵庫に残った食材がもったいないと店長以下でこれを食べて全員が食中毒になるというあきれた事件がありました。 また、スーパー業の子会社のある店の事務所から、夜間に金庫が盗まれるという事件がありました。金庫は100kgほどの重いもので、これを事務所の2階から狭い事務所内を通って階段から蹴落とし、入り口に乗り入れた車に乗せて持ち去ったのですが、それに要した時間が2分ほどという手際のよさで、これには驚きました。 また、スーパー業の子会社のパン工場で、従業員が機械に挟まれて手首から切断されるという事故がありましたが、同僚の女性がその手首を氷につけて保存し、本人と一緒に病院に持ち込んで繋げてもらったところ、これがくっついたという信じられないこともありました。この女性従業員はその素晴らしい行動について表彰してもらいました。 慢性的に業績が悪かった2つの子会社については、会社組織や人事制度の見直しとともにリストラを実施することとし、コンサルティング会社と契約して希望退職を募りました。結果的には、このリストラは成功し、現在この2社は息を吹き返して黒字経営に転換しました。 私は、伊勢丹在職中は、自分のためになる経験や滅多にない体験を次々に積み重ねることができ、大変幸運だったと感謝するとともに、とても楽しかったと思っています。 |
私のデパートマン時代(その5)──部長時代② 秀和問題が終わり、総会屋のアプローチも少なくなったため、株式担当も「狡兎死して走狗煮らる」の例えのように、別の活路を見出すこととなり、法務担当と合体して通常時は社内の法的トラブルの解決に当たることになりました。会社と顧問契約を交わしている弁護士・弁理士事務所との窓口として、伊勢丹及び伊勢丹グループすべてのトラブルに関与することになり、これもまたとてもいい経験となりました。 百貨店には苦情はつきもので、毎日のように問題は発生しています。普通は店頭の責任者レベルで解決できていますが、少し大きくなると店レベルで対応することになっています。法務担当に上がってくるのは更にこじれたトラブルで、この場合は弁護士や所管の警察等と相談したりします。また、店頭に出ている商品が他人の権利(商標権等)を侵害していると指摘されるような場合には弁理士と相談します。私の役目は、店頭側と弁護士・弁理士との間に立つ通訳のような立場で、これを解決させる方向に導くことなのです。この業務を数年間経験したことにより、法律的なものの考え方、法的問題の解決方法などがかなり修得できたと自負しています。 ひとつの例として紹介します。伊勢丹の子会社のクリーニング会社から「通産省の役人から苦情を受けて困っている」という相談を受けたのです。日頃から難しい人だったようですが、今回は公務でロンドンに行った時、クリーニングしたはずのワイシャツに染みがあって恥をかいたのでどうしてくれる、対応によっては伊勢丹の社長を通産省に呼びつけて注意すると言うのです。私はこれを聞いておかしいと思いました。通産省のキャリアがこのような些細なことで伊勢丹の社長を呼びつけるぞと言うはずがないからです。 そこで私は「相手は通産省のどこに所属しているのか聞き出せ」と指示し、「外事課」という返事を得ました。電話帳で調べると通産省には外事課がないことがわかりました。そこで次に「相手の実際の勤務先を突き止めろ」と指示したところ、相手はM市役所の主任ということが判明しました。そこで私は「M市役所に行ってその主任に挨拶だけしてくるように」と指示しました。結果は、相手はびっくりしてもう二度とクリーニングの依頼には来なかったとのことでした。 こうした種類の問題はいくつもあり、その原因は、ストレス社会ではないかと思います。先の例の市役所の主任は、日頃から面白くない職場でストレスを溜め、それを発散するために「お客様は神様です」がモットーのクリーニング屋に行き「自分はこのようなエリートである」と名乗ったら思いがけない丁重な扱いを受けて気分がよかったのだと思います。それだけなら何の問題もなかったのですが、これはエスカレートする運命にあり、最後は非常識な要求、無理な苦情といった方向に進んでしまうのです。こうしたことは現在、小売業のみならずサービス業全体に多発しており、航空会社のように「問題顧客リスト」を作っているところもあるようです。こうしたケースでは、ある限度を越えた要求が出るようになったところでこちらもやんわり押し返す(反撃・拒絶)ことが必要なのです。そうしないと最後は恐喝罪とかの警察沙汰にまでエスカレートしてしまうのです。 私も長年小売業に勤務しており、また法務担当でいろいろ経験してきたので、現在のように毎日が日曜日的なのんびりした生活をしていても、スーパー等で買物をした時とか、レストランで食事をした時など、ちょっとした扱いにムッとすることがあります。小さなことは我慢しますが、我慢できない時は厳しく追求します。こちいらはその道のベテランなので、どこをどのように攻めれば効果的かよくわかっているので、私に攻められたら相手は謝るしかありません。 |
蟹とヘルペス 最初にお断りしておきますが、このタイトルから、蟹を食べ過ぎるとヘルペスになるというように誤解されないようにお願いしたいと思います。私の場合、このふたつがたまたま同時進行したということだけなのです。 まずは「蟹」ですが、私が在職中に友人から聞かされた「味なら松葉蟹、それも城崎(きのさき)の蟹が一番」という言葉でした。城崎がどこにあるか調べると、何と兵庫県の日本海側の町だということがわかり、それなら松葉蟹(いわゆる、「ずわい蟹」)が獲れても不思議はないと納得しました。 ![]() 京都駅に10時集合ということで、朝早い新幹線に乗りましたが、前の晩から変な頭痛がしており、車中の2時間半は何となく憂鬱でした。京都から電車を乗り継いで、日本三景のひとつ「天橋立」に行きました。松島は何回も行ったことがあり、宮島も43会の「広島の集い」の時に観光しましたが、天橋立は初めてでした。大きな入江が松林の続く細長い半島で分けられており、これを近くの山の展望台から股覗きで見ると絶品とのことでしたが、正直言ってそれほどの感激はありませんでした。 そしてその夜、城崎温泉駅の隣の「竹野」という駅から送迎バスで10分ほどの「後藤旅館」という民宿で蟹を食べたのです。風呂から上がって食堂に行くと、テーブルの上の直径50cm位の大皿に蟹が何段にも積み上がっていました。「これが5人前ですか」と尋ねると「そうです」との答えで、まずはその迫力にびっくりしてしまいました。 ![]() 翌日になり、右の頬にニキビのようなものができ「蟹の食べ過ぎで吹き出物ができた」と思っていたのが、帰宅してからもどんどん広がるので、病院に行って診察を受けたら「帯状疱疹(ヘルペス)」とのことでした。これは子供の頃にかかった「水疱瘡」の菌が疲れなどで身体が弱った時に暴れ出すものだそうで、抗生物質の投与で約1週間ほどで落ち着くのですが、何分にも顔面なので外出はできなくなります。また、治っても数日はかさぶたが残って人前には顔を出せない状態となります。これは誰もが罹る可能性があるものなので、もし変な頭痛(首の付け根が間欠的にズキンとする)や、顔に吹き出物が出た時は、早く皮膚科に行くことをお勧めします。最後に、もう一度言いますが、蟹の食べ過ぎと帯状疱疹(ヘルペス)とは関係ありませんので誤解のないように。 (写真上は「天橋立観光船」、左から川辺君、菊地君とS君、F君、下は「後藤旅館の前にて」、左から八束、S君、F君、川辺君) |
私のデパートマン時代(その4)──部長時代① 7年にわたる楽しい浦和店勤務を終えた後、今度は本社総務部の庶務担当部長ということで新宿に戻りました。職務内容は浦和店の総務部の頃と同様でしたが、規模が全く違いました。例えば、商店会ひとつとっても浦和では地域にひとつでしたが、本店の場合は東西南北がすべて違う商店会でしたし、警察も浦和では浦和署だけでしたが、新宿では隣接の新宿署や中野署、場合によっては警視庁とも付き合う必要がありました。私は誰よりも早く出勤し、誰よりも遅く退社し、休みも月に3日程度という状態に陥りました。宴会や会合はほとんど毎日で、1日に2件の宴会ということも稀ではありませんでした。また、新宿では伊勢丹は必ずしも地元から好意を持たれておらず、地元の商店の親父から宴会等で「おい伊勢丹、お前にいいたいことがある」などと絡まれることもよくありました。そうした時には、絶対に酔わないように酒を殺して飲むため、終わった後にまた飲み直す必要があり、そうしたことが続いて身体が徐々に壊れていくのが分かりました。 店内における担当業務も多岐にわたっており、上司からは「君の守備範囲は伊勢丹全店の隅から隅までである」と言われていました。屋上に毎日揚げる国旗と店旗が逆様になっていないかとか、当時店内に闊歩していた巨大な鼠の駆逐とか、店内に密かに”人糞”を置いていく変人(慶大卒のインテリでした)を突き止めたり、雪が降ればこれをトラックに積み上げて駐車場ビルの屋上に運ばせたりといった感じです。 そうこうしているうちに、伊勢丹の株式を秀和とう会社が買い占め始めたということで大騒ぎとなり、私は急遽株式担当に異動となりました。異動当初は秀和が買い占めていた伊勢丹の株数が不明で、それがどのくらいなのか情報収集して急遽設置された特別委員会に報告するのが株式担当の役目でした。一時はライブドアと村上ファンドなどがM & Aで有名になりましたが、私はその十数年前に同じことを経験した訳で、会社の経営者にとっては命が縮む思いだったと思いますが、1サラリーマンである自分には買い占め側の攻め方、こちらの防衛策とかを実際に体験できる訳で、これはとても勉強になりました。結論的には、借金で株の買い占めをしていた秀和側がバブル崩壊によって弱り、一時、ダイエーやイトーヨーカ堂に転売しようとしましたがこれにも失敗し、大きな損害を承知で伊勢丹の指定する会社に伊勢丹株式を譲渡することでこの問題も解決しました。 秀和問題が終わると、株式担当は本来の株主総会の準備という業務に戻りました。伊勢丹は総会屋への利益供与が禁止されてから当局に摘発された1番目の会社だったので総会屋も遠慮して余り来ることはありませんでしたが、来ても「ご承知のように私共は摘発第1号ということで、現在も保護観察の身なので何もご協力できません」と言えるので楽でした。中には「もうそろそろいいんじゃないの。他社では昼飯くらいは出すよ」と言ってくる総会屋もいますが、その時には毎年6月の総会シーズンに出される「過去の摘発会社」という新聞記事を見せて「このように社会は決して忘れてはいません。従って、お茶以外は出しません」と言って帰ってもらいました。 また、当時は荒れる総会──議長席に突進したり、議長に物を投げたりといった──が多かったので、折り畳み椅子を投げられないように椅子の足を電気コードを束ねるクリップで括ったり、総会のリハーサルには全役員にバインダーを持たせて株主席からゴムボールを投げてこれをたたき落とす練習もさせました。幸いなことに、私の在任中は伊勢丹の総会はそのように荒れることはなく、平穏無事に終わることが多かったのですが、私個人的には役員もたまにはそのような修羅場を経験してもよかったのではないかと思っていました。 |
私のデパートマン時代(その3)──課長時代 本社の労務係長を3年ほどやった後、私は新たに浦和駅前に開店した支店の人事課長に転出しました。この店は、「全国の県庁所在地で百貨店のない市は」というクイズ番組で、その答えが「浦和市」ということを知って慌てた市長からの要請に基づいて出店したもので、当初は年間売上が200億円と予定されていたのに、実際には250億円を突破するほどのよい店でした。売上が予定以上になると今度は人手が足りません。私は人事課長として何百名かの学生アルバイトと婦人パートを採用しなければならず、毎日何十人と面接していました。慣れとは恐ろしいもので、この時期の私は被面接者を見ただけでその能力・性格の半分は分かってしまい、二言三言やりとりすればほぼ間違いなく90%は見抜けるようになりました。 3年間、人事課長をやった後に今度は総務課長に横滑りしました。このポジションは、経理課長も兼任で、金庫番から役所・商店会などとの付き合いの窓口ということでその守備範囲は恐ろしく広いものでした。浦和市では毎年「ミス浦和」コンテストがあり、浦和店からは毎年1名が選ばれていましたが、これも総務課長の楽しい仕事のひとつでした。日頃から店内の女子社員をよく見て歩き、候補者を選んでおくのです。当時の浦和店には300名からの女子社員がおり、その平均年齢は20歳でかなりの美人がいましたので、選考に困ることはありませんでした。候補者は埼玉新聞に掲載され、この時点で浦和店代表より綺麗な人もいましたが、面接の段階に進むと熟練の教育担当からしっかり仕込まれた浦和店代表にかなうはずがありませんでした。「ミス浦和」になると身分は準公務員ということで、市のセレモニーに参加することになります。当時の浦和市長は「お祭り市長」と言われた人で、何かといえば「ミス浦和」の出動を求めてきました。私の立場はさしずめ「ミス浦和」のマネージャーといったところでした。 その他にも、浦和市長や店長から「女性神輿を出したいので人選しろ」とか「正月に店頭で琴を弾かせたい」とか「クリスマスに店頭でピアノの演奏をさせたい」といった要望が次々に出され、私としては記憶の中から神輿担ぎの好きな女性、琴の弾ける女性、ピアノの演奏に相応しい女性を選んで本人を説得するということが毎日でした。圧巻は夏に開催される「浦和踊り」で、これには浦和市から大小100近い連が参加するのです。1ヶ月以上前から人選し、SKDの振付師を呼んで開店前と閉店後に社員食堂で練習するのです。流れる音楽は浦和音頭1曲だけなので、毎年振付を変える必要があり、これを一糸乱れずに踊るには厳しい練習が必要となるのです。本番は、閉店後の6時頃で、商店街のメイン道路約400mを「伊勢丹連」が他の連に続いて踊りながら通ります。伊勢丹の若い女性が揃いの浴衣に飾りを付けた網笠を被ってきっちり踊るので、見物人は大喜びです。踊りの他にも浦和店としては、専門のイベント業者に作らせた沢山の電飾を付けた山車を引いたり、ある年には80名からの女性の踊り手の身体にバッテリーを付けて沢山の豆電球を点灯させたりしました。踊りの先頭集団は店長以下の浦和店の幹部社員で、私も2列目の左端が定位置でした。何故なら、見物人の中には地元に顔見知りが大勢いるのでそれらの人から声を掛けられた時に挨拶する必要があったからです。とにかく「伊勢丹連」の人気は高く、前日から「伊勢丹連は何時に出るの」といった電話が多くかかるし、翌日には多くの人から当日のスナップ写真が届けられたりしました。 その他、独身警察官との「お見合いボーリング大会」を開催して警察署長から感謝状を貰ったり、物品税協力会の事務局長として店内で「間接税展」を開催して税務署長から感謝状を貰ったりで、楽しく忙しい7年間でした。 |
木曽川と長良川の鵜飼 この7月に、はからずも、2週間の間に木曽川と長良川の二つの鵜飼を経験したので、これについて紹介したいと思います。 ○ 木曽川の鵜飼(7/8~9) 中大の国際関係研究会の同期6名で毎年小旅行をしていたのですが、たまたま今年は愛知県在住の43会会員の菊地君の担当で、「功名が辻」に因んでのお城巡りと木曽川の鵜飼ということになりました。菊地君と私以外にも、埼玉県行田の川辺君と,岡山県の高橋君(広島の集いの時に法話をしてくれた住職)は43会会員という構成でした。 初日は名古屋城~清洲城~犬山城を見学し、木曽川の川岸の「迎帆楼」というホテルに入りました。早めの夕食を終え、7時半頃に浴衣のままでホテルの下に到着した乗合の舟に乗り、ゆっくりと上流に向かいました。合流地点では数隻の舟が待機しており、やがて鵜匠を乗せた舟がその真中に入ってきました。鵜匠の舟は大きなかがり火を焚いており、10匹ほどの鵜がまるで舟を引っ張っているように泳いでいました。そして鵜が水中に潜り、魚を捕まえて浮き上がり、上を向いてこれを呑み込みます。これを見た鵜匠がこの鵜を舟に引っ張り上げて魚を吐き出させるのです。いくらかがり火があるとはいえ、暗い水中でよく魚を見つけるものだと感心したら、「鵜の目、鷹の目というほど目がいいのさ」と船頭さんに言われました。舟には外人客も何人かおり、動物虐待などと言われるのではないかなどとつまらない心配をしてしまいました。30分ほどで鵜飼は終り、鵜匠(彼らは犬山市役所の職員で、鵜は市の嘱託とのことでした。)から簡単な解説がありました。私としては初めての経験でしたが、それほどの感激はありませんでした。 ○ 長良川の鵜飼(7/17~18) 伊勢丹の同期で作っている「しそのみ会」(四十三会)は、定年退職者の送別会をやっていましたが,全員が卒業したので今度は旅行会に変身することになり、第一回を長良川の鵜飼でやることになりました。暇人ということで、私ともう一人が幹事として下見することになったのです。現地岐阜には「しそのみ会」会員で、手広く観光業、本屋などをやっているS君がおり、すべての手配を整えてくれていました。S君が経営する金華山の岐阜城を見学した後、長良川の川岸の「十八楼」というホテルに入りました。本来ならここから舟に乗って鵜飼見物するところでしたが、当日は大雨で川が増水して鵜飼は中止になってしまいました。しかし、現地の有力者S君の手配で鵜匠の家に行ってマンツーマンで説明を受けることになりました。鵜匠の家は川岸の立派な家で、そこのあずまやで待っていると鵜匠が装束を着けて現れ、火の子から身を守るための頭巾や濡れた舟の中でも滑らない半草鞋などについて説明してくれました。また、鵜飼が奈良時代からあったこと、当時は軍隊と共に行動した食料調達係だったことなども教えてくれました。鵜の寿命は18年位で、渡り鳥として飛来したところを捕らえて3年位訓練し、あとは死ぬまで鵜飼をやらせるとのことでした。長良川の鵜飼は、木曽川のそれと違って皇室による外国からの来賓に対する夏の公式接待行事になっており、そのため鵜匠の身分は宮内庁式部織という国家公務員とのことでした。さしずめ鵜も準国家公務員ではないかと思います。また、鵜の首に掛ける紐は、その日の鵜の体調によって加減するようで、小さい魚などは胃袋に入っていくという説明を聞き、何かホッとしました。S君の話では、鵜飼の本当の遊び方は、舟を貸切にして、綺麗どころを何人も侍らせ、中で酒・肴を楽しむのだそうで、本番の時にはS君が綺麗どころを何人か用意してくれるそうなので今から楽しみにしています。いずれにしても、めずらしい体験をしたと思っています。 |
私のデパートマン時代(その2)──係長時代 婦人服売場で1年、服飾研究所で3年ほど勤務した後、初めて導入された係長昇格試験に合格して係長になりました。勤務先は吉祥寺店の婦人服売場の販売係長です。普通は売場の係長代行を経験してから就任するポジションなのに、新入社員の経験しかない私ではどうすればよいか分からず、たちまち売場の人間関係が滅茶苦茶になってしまい、2年ほどで新宿店3階の婦人イージーオーダーの販売係長に更迭されました。このポジションは古手の係長用のもので、若手の私にとっては左遷に他ならなかったのですが、吉祥寺店の人間関係で苦労していた私にとっては実に楽しく勤務することができました。そして、定例の人事部への自己申告の時に、落ち目になっていた婦人イージーオーダー再建のための論文を提出したのですが、これがたまたま婦人イージーオーダー出身の労務課長の目にとまり、私は労務係長に異動となったのです。 ここでは、労務管理や組合窓口といったルーチンワークに加えて、社員の不正行為の調査といったことも経験しました。伊勢丹は、社員が会社の信頼を裏切った場合には、例えそれが僅かな商品や金銭の持ち出しでも諭旨解雇が普通でした。こうした容疑者から事情聴取し、報告書にまとめて会社・組合の承認を得るという仕事ですが、相手も必死ですし、こちらも警察ではないので余り厳しくはできず難しいものでした。顔見知りの若い女性社員などが涙ながらに告白したりすれば、こちらもついホロリとして「彼女の不正には同情すべき点がある」などと上司に報告した後、ベテランの先輩が再調査し「君が聞き出した内容はすべて嘘だったよ」などと言われることが度重なり、一時私は人間不信に陥ってしまい、今でも他人の言うことを全面的に信じることができません。 また、社員が身分証として持たされているクレジットカードでも買物をしすぎて支払ができなくなるというケースが多発していました。3ヶ月も滞納すれば、本人を呼びつけて厳重注意ということになるのですが、それが分かっていて回避できないのはその前にサラ金に手を出しているからです。次にはサラ金の返済ができなくなり、更に別のサラ金にたらい回しされるという蟻地獄に落ちてしまっているのです。本人を呼びつけて「サラ金からはどれだけ借りているのか」とカマをかけると大抵は「A社とB社で50万円」というように答えます。そこでその内容を紙に書かせた上で「あと何社あるのか。正直に答えないと預金通帳などを調べるよ」と言うと「実はC社とD社からも50万円」というように白状してくるのです。これでも全部ではないと思っていますが、おおよその金額は推測できるのです。 新入社員の採用面接を、応援で労務担当が行うことがあります。大学生や短大生の面接は、カラオケが好きと聞けば「1曲歌ってごらん」などと楽しいものですが、高校生の場合はこちらが緊張します。事前に「親の職業や宗教などの本人に関係ないことは質問しないように」と採用担当から指導を受け、面接官2名に対して被面接者3名という体制でやるので、質問とメモを手分けしないと効率よくできないのです。なぜこうした方式なのかと言うと、被面接者が自分から「自分の家は八百屋をやっていて接客が楽しいので伊勢丹を希望した」と発言した場合は「私は貴方の家の職業は何かという質問はしていませんでしたね」と言って他の2人の被面接者の同意を得なければならないからです。彼女達は学校に戻ると担任の教師から何を聞かれたかと質問され、不適切な質問だとたちまち企業が抗議されるのです。「今日、家を出る時にご両親は何と言って励ましてくれましたか」という肩慣らし的な質問も「両親の揃っていない者への配慮を欠いた質問」として禁止されているような状況なので、面接官も楽ではありません。 |
私のデパートマン時代(その1)──新入社員時代 私は、昭和43年に中大を卒業して㈱伊勢丹に入社し、昨年9月に37年の勤務を終えて定年退職した訳ですが、伊勢丹入社の経緯は実にいいかげんなものでした。現在、白門43会会員である川辺秀夫君と私は、共に「国際関係研究会」というクラブに所属していて仲がよく、就職活動も一緒にしていました。但し、希望先は私が公務員で、川辺君がデパートでした。ところが運命のいたずらで、私が伊勢丹、川辺君が埼玉県庁ということになってしまったのです。私はそのままデパートに止まったのですが、川辺君は我慢できず、うまいこと現在の行田のデパート経営者に婿養子の形で入って初志貫徹したのです。 私は、公務員になるはずが、伊勢丹の新宿本店の婦人服売場に配属されてしまい、毎日がびっくりすることばかりでした。婦人服のことなど全く無知でしたが、売場のお姉さん達が親切に教えてくれ、何とか毎日を過ごしていました。私は小学校から高校まで男子校で、中大も女性がほとんどいない法学部だったので、1:10の比率で女性が多い職場では圧倒されてしまい、化粧品の匂いに満ちた社員食堂では食欲が無くなるし、明け方までチークダンスが続く売場旅行ではクタクタになっていました。そんな女性に対する恐怖心を更に強めることになったのが、レディークローバーバーゲンでした。当時は、婦人の既製服がまだ出始めの頃で、普通体型は5号~13号という5つのサイズで品揃えがされていました。13号以上の人は値段の高いオーダーで作るしかなかったのですが、伊勢丹は13号以上の肥満体の女性対象のレディークローバー売場を展開して好評を得ていたのです。そのためシーズン末のバーゲンは大変な人気で、私達新入社員はバーゲン会場を担当するのが役目になっていました。売場は投込台という縦横1.8m×0.6mのスチールの台を何台も設置し、ブラウスとかスカートとかはその中に山積みにします。ドレス・スーツ・コートなどはハンガーに掛けて6尺パイプに展開します。そして、移動式の試着室を何台かと勘定場カウンターとレジを用意すると売場は完成です。 朝10時と同時に1階の全ての入口が開けられるのですが、3階の会場のスチール台の後ろに立つ私達の耳には、ドドドという地鳴りのような音が聞こえてくるのです。やがてエレベーターやエスカレーターにも乗らずに駆け上がってきた肥満体の女性群が売場に殺到して来ると、商品を満載した重さ100キロに近いスチール台が自分の方に押されてくるのです。私達はあわててスチール台と壁との間から脱出します。次に女性群は何点もの商品を抱えて試着室に入るのですが、たちまち行列ができます。その時女性群のとる行動としては、その場で着ている服を脱いで試着を始めるのです。こちらとしては、どぎまぎして目を逸らせたりするのですが、彼女達は何も気にしない様子で、私の腕をむんずと掴んで「ちょっとお兄さん、計ってちょうだい」と下着になった胸を突き出してくるのです。婦人服売場の販売員には1.5mの紐のメジャーが支給されているのですが、これだと使い終わった時にいちいち手で巻き戻さなければならないので、規則違反でしたが、私は1メートルのスチールの自動巻尺を使っており、普段でしたらこれで十分なのです。ところがレディークローバーのお客さんにはこれが通用せず、1m以上のデカパイの人が多いのです。あわてて同僚から1.5mのものを借りて計ろうとしても今度は手が回りません。そこで鞭のように、女性の身体に沿ってメジャーを叩きつけ、巨体をぐるっと回ってきた先端を左手でつかみ「お客さま、バスト120cmです」とやるのです。 そんなこんなで悪戦苦闘しましたが、今考えてみれば楽しい、恵まれた環境だったと思っています。婦人服売場には1年ほど在籍し、その後は伊勢丹服飾研究所という婦人服のオリジナル製造部門に異動となりました。 |
毎日が日曜日(その5)──鬱病対策について その2の「心身の健康管理」の中で、鬱病について多少書きましたが、今回は自分の経験に基づいてもう少し詳しく紹介したいと思います。 私が30代で伊勢丹の人事部・労務係長をしていた頃の話です。労務という課は、社員の労務管理を行う傍ら、人事・教育・厚生課などが扱わないその他のややこしい問題を担当していました。その中に精神的に病んだ(鬱病の)社員対策も含まれていました。当時の伊勢丹には、このような人が十数名存在しており、その人達をどのように管理すべきかを社内外の多くの専門家の意見などを聴きながら検討していました。その中で、国鉄病院で聞いた話に一番感銘を受けました。当時の国鉄にはこのような人が数百人存在していたのですが、その対応策の基本は「できるだけ親身になって接する」ことだと言うのです。また、鬱病というのは風邪と同じ病気で、早めに専門の医師の治療を受ければすぐに治癒するとも言われました。当たり前のようにも聞えますが、当時は鬱病に罹った人は、通常どこの勤め先でも冷たく扱われ、家庭内でも「しっかりしなさい」と励まされるだけで、中には「世間体があるので精神科などには行かないで」などと言われているのが実態で、これでは治る病人も治らなくなってしまいますし、本人も自暴自棄になってしまうのです。 その後、数年して、私は浦和支店の人事課長となり、労務時代の経験を駆使して恙なく業務をこなしていましたが、3年後、同店の総務課長に異動しました。総務は人事と全く違って、役所や商店街の人達との付き合いで社外を飛びまわる毎日でした。自分ではこの大きな変化を楽しんでいた積りなのですが、総務課長になって半年後、久しぶりに休暇をとった時にそれが起きたのです。年齢的には40歳になったばかりの時です。 9月ということで子供達も幼稚園に行っており、久しぶりに身体を休めて読書でもしようとベッドで本を読み始めた時です。何か喉に違和感があり、腫れているような感じがしていたのですが、それが急に息苦しくなってきたのです。私は小さい頃から喉が弱く、風邪に罹ると喉が痛くなるのが常でした。ところが、この時は痛みではなく息が詰まってきたのです。すぐに行きつけの耳鼻咽喉科の医者に診てもらったのですが「喉が少し腫れているだけ」という診断で簡単な薬を塗ってくれただけでした。ところが家に帰ると息がますます詰まってきてこのままジワジワ窒息するという恐怖感から脂汗が出てくる始末です。これでは堪らないと別の耳鼻咽喉科に行くと、年配の女医さんが「貴方は大分疲れていますね。疲れは身体の弱い部分、例えば、胃が弱ければ胃痛、腸が弱ければ下痢という形で出てくるのです。貴方は喉が弱いのではありませんか」と言ったのです。ここで私は鬱病に罹っているということに気がつき、すぐに会社が契約している精神科の病院に行って自分のこのような症状は鬱病の初期症状と思うがどうかと質問しました。医者はその通りとの返事でした。そして「この薬をまた症状が出そうな時に飲みなさい。別に飲まなくても常時携行していれば安心できるはず」と言って坑鬱剤を1袋くれたのです。事実、その後、2~3回は飲んだ記憶がありますが、あとは常時携行していただけで、そのうちに砕けて粉になってしまいました。 この時、自分に労務係長時代の経験が無かったら、また年配の女医さんにそれを指摘されなかったら、会社や家族から冷たく扱われたり、意味なく励まされたりして余計おかしくなり、最後は自殺していたと思います。定年退職は人生にとって大きな転換期ですし、若い時と違ってその変化に耐えられない場合もあります。皆さんも何かと心配事などがありましたら「もしかして鬱病ではないか」と疑って、気軽に専門医に相談することが大切だと思います。 |
毎日が日曜日(その4)──定年退職後の投資 前回の「定年退職後の生活設計」の中で、貯金や退職金の運用で失敗しないようにと書きましたが、今回はこの点についてもう少し詳しく紹介したいと思います。 定年とともにある程度の纏まった金額が退職金として手に入ります。これをどのように運用するかということですが、安全でいざという時に比較的引き出しやすい銀行の定期預金を誰もが思いつきます。しかし、超低金利時代にあって、例えば1千万円を1年間預けた時、利率は0.03%なので1年後に受け取る利息は3千円(税引後2千4百円)にしかなりません。これでは投資とは云えず、おみやげ付無料貸金庫に預けたようなものです。その他の投資先としては、株式、投資信託、外貨預金、国債などとなります。株式は皆さんご存知のように元本保証はなく、ある意味で博打的なところがあります。バブルの時のやりすぎの反省で、証券会社もそれほど執拗に購入を勧めたりしなくなりましたが、それでも自分がしっかりとした知識と方針を持たないと失敗します。定年退職後の投資なので、それほど欲張らず、安全で高配当の株式を購入するのが一番です。私は在職中に株式担当をしていたのである程度の知識を持っていますが、それでも失敗して1千万円程度の損失を被った被った経験があります。現在は、電力株に投資していますが、1千万株が約2百万円で、配当金が5万円(税引後4万円)なので、1千万円で5千株購入したとすると、手取りで20万円の配当を貰えることになり、銀行の定期預金に比べて格段に高い投資効率となります。 次の投資信託については、国内外の株式・債権などに幅広く投資するので、危険は分散されますが、それだけにローリターンとなるようです。現在、株式のリスクや銀行の超低金利を嫌った多くの人が投資信託に流れ込んでおり、私も一部の資金をこれに投入していますが、今のところは「かったるい」状況です。 次に、銀行や証券会社が勧める外貨投資ですが、日本の銀行の超低金利に比較して遥かに高い利率というのは確かに魅力的です。但し、これは為替相場という難関を突破できた時の話で、折角の高い満期利息もその時に円高になっていれば余り期待できません。また、外国の銀行がからんでいる場合は、日本の銀行ほど国が厚く保護していないので、簡単に倒産するということも考えておく必要があります。いずれにしても、事情のわからない外国相手の投資ということで、私はこれに一切手を出していません。 最後に、国債ですが、国が発行するものなので安全面では問題はありませんが、投資としてのうま味は余りありません。銀行の定期預金と同様に元本保証のタンス預金として考えるのであればよいと思いますが、私はこれにも一切手を出していません。 結論的には、退職金などを大きく増やそうという助平心を起こさず、安全第一で運用するのが一番だと思います。前回の「定年退職後の生活設計」の中でも云いましたが、貯金や退職金は自分の第二の人生をエンジョイするために、60歳~70歳のうちに如何に有効に使っていくかということを中心に考えて投資すべきなのです。 ひと頃、「財産3分法」という言葉があり、財産は、手軽に引き出せる預金と、リスクはあるがリターンも大きい株式と、いざという時のための金(金のインゴットやメイプルリーフ金貨など)とにそれぞれ1/3づつ分散させておくべきと云うのです。現在の経済情勢や定年退職後という自分の状況からこれをそのまま当てはめるのは無理としても、比率を変えるなど多少の改良を加えれば現在も通用する言葉だと思います。今後も何があるかわからない時代が続くと思われますので、皆さんも安全・確実・分散を基本に、大切な貯金や退職金を上手に運用していただきたいと思います。 |
毎日が日曜日(その3)──定年退職後の生活設計 今回は、定年退職後の生活設計、ずばりお金の問題を述べてみたいと思います。毎日の生活にしても心身の健康管理にしてもお金の裏付けがなければ出来ないからです。私の場合、皆さんと比較して恵まれている部分もあるかとは思いますが、全体では多分、平均的であろうかと思い、皆さんの定年退職後の生活設計の参考に紹介させていただきます。 サラリーマンにとって唯一保証されているのは厚生年金で、会社在職中に国が自分と会社に強制的に積み立てさせた年金です。現在、支給開始年が次々に繰り下げられており、昭和19年生まれの私は62歳から満額支給となります。現在はその一部の老齢年金(2ヶ月毎に8万5千円)が支給されますが、この金額だけではとても生活できません。62歳以降は28万円(2ヶ月分)に増額されるそうですが、貰うまでは安心できません。 次の厚生年金基金は厚生年金と紛らわしい名称ですが、所謂企業年金です。これは会社在職中に自分と会社が積み立てて企業の厚生年金基金が運用・管理しているものです。現在多くの企業がこの基金を解散して公的な厚生年金基金連合会に移管しており、伊勢丹も解散しました。この年金については60歳から支給開始で、2ヶ月毎に21万2千円が支給されます。 国の厚生年金や企業年金だけでは不安があったので、在職中から給料天引で日本商業労働組合連合会が運営している年金共済に18年ほど加入していました。これも60歳から支給開始となり、3ヶ月に15万7千円が支給されます。 これらを合計すると月額で約20万円となり、ローンの返済や子供の学資がなければ、つましい生活をするには何とかこと足りる金額となります。実際は、この他に貯金や退職金があり、これらを小出しに使っていけばゆとりのある生活が可能となります。ここで注意することは、貯金や退職金の運用で失敗しないことです。リスクをおかしてまで増やそうと思わず、安全第一で目減りしない程度の運用に心掛けることが大切です。子供達に少しでも多くの遺産を残そうなどと思わず──それは子供にとって決してためになりません──身体が元気な60歳~70歳のうちに大部分の貯金や退職金を有効に使って自分の第二の人生をエンジョイすることが重要なのです。身体が動かなくなったら年金だけの生活で十分だと思います。 次に支出を見ますと、まず税金です。所得税に関しては、これまでは会社が全てやってくれたのですが、退職後は自分でやらなければなりません。知り合いの税理士に依頼したところ、私が9月末退職だったため税金の払い過ぎ分の17万円ほどの還付がありました。住民税については、この5月に前年度分が在職中の年収に応じて請求されるので、100万円程度の資金の準備が必要になるとのことです。 また、サラリーマンの妻は、夫の在職中は夫と会社が国民年金の掛け金を払っていたことになっていましたが、夫が退職すると60歳までは独立して支払い義務が発生します。毎月13,980円が銀行口座から引落とされます。 同じく、健康保険も在職中は企業の健康保険組合が割安な掛け金で厚い医療費補助をしてくれましたが、これが国民健康保険となると掛け金が高くなり、医療費補助も少なくなるのでダブルの負担となります。私の場合は2年間だけ伊勢丹の健康保険が延長できましたが、それでも保険料は1年分29万円と馬鹿にならない金額です。 その他に会社在職中に任意に無計画に加入していた各種の保険についてもこれを整理・統合しないと多額の掛け金となって定年退職後の生活を圧迫することになります。 以上が私の場合の、定年退職後のお金の出入りの概要です。 |
毎日が日曜日(その2)──心身の健康管理 前回、私の定年退職後の毎日を紹介させていただきましたが、今回は私が毎日あのような生活を送るに際して心掛けている「心身の健康管理」について述べさせていただきたいと思います。 定年退職後も何らかの仕事を続けている人、続けようと思っている人は多いようですが、その理由は経済的なもの(ローンの残り・子供の学資・年金に対する不安など)の他に何もしないでブラブラしていることへの不安があるかと思います。サンデー毎日とか悠々自適の生活などと言いますが、働きバチであった我々世代は自分がそうなった時はどうすればいいのかわからず、とりあえずは軽い仕事に移って様子を見ようとしているのではないでしょうか。また、働かないことへの罪悪感を感じる人もいるかも知れません。何よりも怖いのは、定年退職後に生きる張り合いを失ったり健康を損ねてしまうことで、私の周辺にも定年退職後1年前後で死んでしまった人が沢山います。 では私のように仕事をしないと必ず生きる張り合いを失ったり、健康を損ねてしまって、楽しい第2の人生を送ることはできないのでしょうか。我々働きバチ世代は鮫のように死ぬまで泳ぎ続けなければならないのでしょうか。我々の世代は高度成長期からバブル期前後の激動の時代に、各々の職場で十分給料に見合った仕事、実際にはそれ以上の仕事をしてきたはずです。60歳の定年を迎えて、自分にささやかなご褒美を与えても、決して罰があたることはないはずです。ではどうしたら生きる張り合い失ったり、健康を損ねずに自分にささやかなご褒美を与えることができるのかということです。 まずは、同窓会活動、趣味活動、近所付き合い、ボランティア活動など外部との接点を構築することです。勤めていた頃に近い状態を作ることですが、これらはあくまで自分の意思で参加し、楽しいものでなければいけません。このような基盤を作ることにより、何もしない時間が少なくなり、自分の生活にリズムと張り合いを作ることができるのです。環境が大きく変わるこの時期に特に気を付けるのは、躁鬱症に罹らないようにすることです。過去にこれを経験したことのある人は何とかクリアできますが、初めての人にとっては周囲の理解が得られないと命取りになります。躁鬱症も風邪と同じ病気なので、こじらせないうちに専門医に相談すれば簡単に治癒するのです。躁鬱症に罹らないためには、家族や周囲との関係を円満に保つことが大切です。特に妻との関係において、今までの罪滅ぼしのつもりで四六時中一緒に行動しようとする人がいますが、妻の方は既に友人関係や趣味の世界の構築を終わっている場合が多いので逆効果になります。むしろ、妻が友人達と旅行に行きたいと言ってきた時には、「炊事・洗濯・掃除は自分がやっておくので心配せずにゆっくり楽しんでいらっしゃい」と気持ちよく送り出してあげることが大切です。 身体の健康管理については、多くの情報が出回っているので皆さんよく承知していると思います。私もこれだけ気を付けていても、昨年末には腰痛が起こり、今年の2月には在職中は罹ったことがなかったインフルエンザになったり、花粉症の症状が現れたり、その後首の凝りからくる偏頭痛と次々に変事が起こりました。これらは食生活を改めたり、簡単な体操を行ったり、接骨院でマッサージを受けたりして何とか凌いでいます。在職中から高かった血圧については、とうとう薬を飲むことになりましたが、とたんに上下とも20くらい下がる効果があり、もっと早くから飲んでおくべきだったと後悔しています。 これらの経験からわかったことは、毎日1時間散歩しているからといっても安心はできず、全身くまなく運動しないと例えば酷い肩凝りといったように部分的に症状が出てくるということです。現在、週3回ほど健康保険がきく近所の接骨院でマッサージを受けていますが、1回700円で若いお姐さんに揉んでもらうのは精神的にもいいものです。 |
毎日が日曜日(その1)──定年退職後の毎日 私は、昨年の9月末に36年半勤務した㈱伊勢丹を定年退職し、年金生活者として第二の人生に入りました。白門43会の皆さんも近々に同じ道をたどることになるかと思いますが、そのような人の定年退職後の生活の参考になるかと思い、「毎日が日曜日」シリーズを紹介させていただきます。私は、希望すれば5年を限度に社員嘱託として会社に残る道もあったのですが、一切を断って年金生活者を選びました。それは、36年半も仕事中心の生活をしてきたのだから、定年を区切りに自由な身になりたいと思ったのです。根底には、身体が今と変わりなく動くのは60歳~70歳だと判断し、その間は自分の人生を楽しもうという気持ちがあったからで、勿論そのためには経済的な裏付けが必要なのですが、幸い伊勢丹というよい会社に恵まれて何とかやっていける目安があったのです。 まずは私の毎日の生活ですが、朝は、在職中と余り変らない7時半頃に起床し、洗面後に血圧を測ります。そして朝食はこの10年ほど同じ内容で、リンゴ半分と、大根おろしに酢とちりめんをかけたもの、葡萄パンのトースト1枚とコーヒーです。以前はこれに加えて青汁を飲んでいましたが、最近はハーブティーに変更しました。 食後は植木の水やりですが、玄関回り、2階・3階のベランダ、自分の書斎などに160鉢ほどの植木(雑草に近いものばかりです)があり、これに玄関先の花壇が加わると結構な作業になります。時期によっては植え替えとか肥料やりとかの作業が加わります。 それから家中の掃除も私の仕事になります。2階と3階の約50坪と階段をざっと掃除すると約40分かかります。それが終ると簡単な自己流の柔軟体操をして着替えます。この柔軟体操は入浴時と寝る前にもやっています。 昼食は外で食べることもありますが、自宅の場合はコンビニのおにぎりか近くのパン屋のサンドウィッチが多いです。夕飯は週に1~2回は私が作りますが、材料費が高いとか、後片付けをしないとか文句を云われますが、味の方は好評です。 日中については、主に同窓会活動の外出や準備が入っています。在職中から定年後は同窓会活動をやろうと考えており、退職10年前から母校中大の年次同窓会(白門43会)に加入し、数年前から常任幹事、3年前から企画委員長としてその活動に携わってきました。多分にボランティア的な活動で、やや大変な面がありますが、今後もこの白門43会活動がメインになっていくことは間違いありません。 次に、私の定年退職後に、小・中・高等学校の母校である暁星学園の同窓会から理事就任の打診があり、迷ったのですが毎月1回の理事会、年4回程度の行事に参加すればよいとのことだったので、5月から総務担当理事に就任することを承諾しました。 更に、今年の3月、勤務先だった伊勢丹のOB会(丹光会)から北鎌倉の散策の会の誘いがあり、健康のためと思ってこれに参加したところ、丹光会の幹事の入替があるので幹事になって欲しいということになりました。私としては、白門43会と暁星学園同窓会の話をして固持したのですが、月1回の幹事会と年数回の行事に「事情が許す限り」参加すればよいと説得されこれを受けることとにしました。 こうしてくると、とても毎日が日曜日などと言っていられなくなりましたが、こうした状態を自分で作り、毎日を忙しくかつ楽しく過ごせるのは幸せだと思っています。 夜は、宴会が激減したので、11時過ぎには就寝します。気が向けば、夕食後妻と1時間ばかり家の近くを散歩しています。これは心身両面の健康によいです。このように運動をやって早く寝るので朝寝坊をしなくなり、また早く起床するので夜更しができなくなりました。 以上が定年退職後半年間の私の生活です。 |
「蕎麦」のうんちく(その5) そろそろ話題の種も尽きてきてので、いよいよ私の隠し種である2店を紹介するしかなくなりました。 「川しま」は、地下鉄日比谷線の入谷駅のそばにありますが、なかなか見つからない位置にあり、外観はまるで下町の粋な料亭のようです。玄関から狭い通路を通って店内に入ると、そこはテーブル席3つと、7~8名入れる座敷があるだけの小さな世界です。こんな店なので満席ということはなく、いつも静かです。ここは閉店が9時半と遅いので一人静かに蕎麦を食べたい時に行きます。話が一寸寄り道になってしまいますが、血液型がO型の人は疲れた時に皆で騒いでこれを癒し、A型の人は一人になってこれを癒すそうです。私は両親がともにA型という典型的なA型なので一人で癒す方です。 話を再び「川しま」に戻すと、入店した時は何かの仕掛けでわかるらしく店員が出てきますが、それ以外はいつも奥に引っ込んでいるので、追加注文をするタイミングが難しい店です。 新潟の銘酒の「久保田」「八海山」などが揃っており、夏場は生酒もあります。品のいい「板わさ」や、季節によっては「そら豆」「銀杏」をつまみに、洒落た徳利からガラスの透き通った猪口で冷酒を飲む気分は最高です。 更につまみとして「イカの塩辛」「鴨の燻製」「玉子焼き」などを頼むことになりますが、「玉子焼き」はどこの蕎麦屋でもかなり大きいので、腹具合を確認してから注文した方がいいと思います。 最後に蕎麦を頼むことになりますが、ここのせいろは、普通と田舎風と変わり蕎麦とがあります。田舎風は太くてしっかりとした噛み応えのあるそばです。変わり蕎麦とは、柚子とか芥子を混ぜて打った蕎麦です。汁は薄からず、濃からずのすっきりした味で、丁度よい分量の蕎麦を付けて啜るのですが、2~3口噛むと蕎麦の香りがほんのりと感じられ、適度のぬめりのある蕎麦を飲み込む時の喉ごしがたまりません。 「おざわ」は、地下鉄銀座線の稲荷町駅から2~3分の所の小さな店です。カウンター席とテーブル席で十数人しか入れない狭い店は,30代半ばの小沢一郎というご主人と元看護婦という小柄な奥さんの二人で切り盛りしています。まだ出店して数年ですが、このご主人がこだわりの熱血漢で、この2~3年でかなり腕を上げたようです。とにかく蕎麦に全力を注いでおり、その分、肴の種類が少ないことと、酒に力が入っていないことが残念です。但し、蕎麦に関するものは別で、「蕎麦がき」や「蕎麦豆腐」などは絶品です。 まだ出店したての頃に行って「上野の藪に比較すると、また行きたいという後を引く味になっていない」などと生意気なことを言ったものですが、今では立派に「後を引く」味になっています。新蕎麦が出て間もない頃にふと立ち寄って食べたせいろは、多少の青味のある香り高い蕎麦で、ぬめり感のある喉ごしといい涙が出るほどおいしかった記憶があります。冷たいせいろだけでなく、山かけ蕎麦のとろろも抜群だし、鴨南蛮の鴨もこだわりの優れものです。蕎麦は生粉打ちと太麺の2種類で価格はやや高めです。 ここへは、ご主人や奥さんとの会話を楽しみつつおいしい酒、肴、蕎麦を食べる目的で通っていますが、閉店が午後7時と早いことが泣きどころです。会社の帰りに立ち寄ることは難しいので、休みの日に行くしかありません。開店は午前11時半で2時頃に閉め、午後5時半にまた開店という複雑な時間になっている上に、打った蕎麦が無くなれば閉めてしまうというわがままな店なので、なかなか食べられないところが難点です。 |
「蕎麦」のうんちく(その4) ○ 印象に残った店 ここでは、私の乏しい蕎麦屋経験の中で、よいにつけ悪いにつけ印象に残った店を紹介したいと思います。 「京金」は大江戸線森下駅のすぐ脇にあり、靴を脱いで上がり、板の間の椅子席か畳の和室という変った店です。業界では有名な店で、ここで修業した職人も多いそうです。私も数度しか行っていませんが、場所柄、相撲取りやなぎら健一に会ったりします。酒、肴、蕎麦のどれをとっても文句なく一流の味です。閉店が夜の8時半というのも有り難いです。 「千住やぶ」は京成線千住大橋から10分くらいのところにあるこじんまりとしたいい店です。ニシン棒焚や蕎麦は抜群においしいのですが、500円のせいろの量たるやほんの2口分しかありません。大人なら最低2枚は必要で、だったら千円の大盛りでも用意すればと腹立たしくなります。 「駒形蕎上人」は、東武浅草駅から1ブロック浅草橋方面に歩いた、目立たないビルの1階にあります。ここも多くの職人が修業する業界では有名な店です。入口には盛り塩がなされ、店内は緊張感が漂っています。蕎麦はやや硬めなので田舎蕎麦の太麺などは食べるのに往生しますが、蕎麦、汁ともに文句なしに最高です。 「並木藪蕎麦」は、浅草雷門の近くにある如何にも老舗の蕎麦屋といった感じの小さな店です。「藪御三家」の1店で、細い少量の蕎麦と濃い蕎麦汁が特徴です。但し、さすがに老舗だけあって蕎麦の味、汁の味には江戸時代からの伝統を守っているというかなりのこだわりが感じられます。好き嫌いは別として、色々な蕎麦屋を比較しようとするなら、最初に行くべき基本の店だと思います。味も店員の働きもここが原点のような気がします。私が浅草に引っ越して間もない頃に入り、うっかり「鴨南うどん」と注文して「うちではうどんはやっていません」と冷たく言われて恥をかいた店ですが、はとバスのコースにも入っているらしく、いつも混んでいます。 ○ カレー蕎麦・うどん これまでの蕎麦の話は、原則として冷たい付け蕎麦のことを中心にしてきましたが、最近はカレー蕎麦・うどんが話題になっているので、いくつか紹介したいと思います。因みにテレビ番組で印度人にカレーパンとカレーライス、カレーうどんを食べさせて反応を見るというのがありましたが、印度人は「カレーパンはまあまあおいしいが、カレーライスは似て非なるもの」そして「カレーうどんは絶対に許せない味だ」と怒っていたので、カレー蕎麦・うどんというものは日本独特のもののようです。 「新宿サブナード藪」と「大和庵」(新宿)はともに今はありません。サブナード藪は会社の昼食時に随分と通い、舌を何度も火傷しながら絶妙なあん掛けカレーを味わったものです。また新宿3丁目の大和庵のカレー蕎麦は火を吹くような辛さで、それがまた不思議に後を引いたものです。これらの2店のカレー蕎麦をまた食べたいと思う今日この頃です。 「三朝庵」は地下鉄東西線の高田馬場駅の近くにある店で、ここのカレー蕎麦がまたおいしのです。タマネギがたっぷり使ってあるので、やや甘めのカレーになっています。学生が多い場所なので価格もリーズナブルです。 「進開屋」は巣鴨駅からだいぶ離れた千石にある店で、680円のカレー蕎麦がまあまあの味です。但し、店と店員の汚さに我慢できない人にはお勧めできません。 「日向亭」はJR浅草橋駅から5分くらいのところにある店で、カレー蕎麦・うどんがおいしいと有名な店です。実際によく煮込んだマイルドな味のカレーでした。 |
「蕎麦」のうんちく(その1)では「蕎麦屋の発祥と屋号」「注文の仕方」を、(その2)では「蕎麦の味」と「こだわりの蕎麦屋」について書いてきました。そこで(その3)では「蕎麦の食べ方」と「酒と肴」について触れていきたいと思います。 ○蕎麦の食べ方 ものの本では、正しい蕎麦の食べ方として、まずは汁を付けずに1~2本食べ、次に汁を飲んでみるとあります。私としては蕎麦が出てきたら、できる限り早く食べることに全力を尽くすべきと思うのでこれには反対です。蕎麦の味は時間の経過とともに急速に落ちるので、例え20秒~30秒で済む実験的な作業でも時間を割くのが惜しいからです。これが仮に寿司屋に行って、出てきたトロの具をはいで食べてみて、次にシャリだけ食べてみておいしさを判断できると思いますか。寿司にしても蕎麦にしても一体として食べてのおいしさでなければ意味ないのです。気の短い寿司職人の前でそんなことをすれば「そんな気色悪い食べ方すんなら帰ってくれ」と怒鳴られるところです。 ○酒と肴 蕎麦屋で飲む酒は、飲み屋で飲むよりおいしく感じます。雰囲気の違いもあると思いますが、蕎麦屋のこだわりでおいしい酒を揃えているせいだと思います。酒も人もそれぞれに好みがあるので何とも言えませんが、私は四季を通じて冷酒が好きです。新蕎麦が出て1ヶ月くらい経過してやや熟成したときが蕎麦の一番おいしい時ですが、燗酒だと匂いが強く、その時の折角の蕎麦の香りがわからなくなるからです。 |
「蕎麦」のうんちく(その2) ○蕎麦の味 蕎麦がおいしいかどうかは個人の好みの問題なので、あくまで自分がおいしいと感じたかどうかで、その基準となるのは蕎麦と蕎麦汁(つゆ)です。 ○こだわりの蕎麦屋 こだわりの蕎麦屋とは、蕎麦粉や水、そして手打ちにこだわっている店、あるいは店構えや酒・肴にこだわっている店です。価格がやや高く、中には料亭のような店もあります。酒も一流のをズラっと揃えており、肴の種類も豊富です。こうした店では入店したら蕎麦だけを食べて出てくるのは野暮で、酒、肴、料理を食べて最後に蕎麦ということで、一人5~7千円を覚悟しなければなりません。西荻窪の「本むら庵」や、立川駅北口の「無庵」、駒形の「蕎上人」などがそれにあたります。 |
「蕎麦」のうんちく(その1) 私はおいしいものを食べるのが好きです。おそらく昭和19年という戦争末期に生れてその後あまりおいしいものを食べずに育ったからだと思います。 本来、蕎麦は米がとれない貧しい土地で栽培された代用食で、古くは「蕎麦がき」のように粉を練ったり、丸めたりして食べており、現在のように細く切って食べるようになったのは安土桃山時代あたりからで、「蕎麦切り」と呼ばれていました。その後、大阪城の築城現場の砂場にあった「砂場」や、信州の布屋が蕎麦屋になり藩主の保科家から「科」の字をもらった「更科」などが江戸で開業し、幕末に駒込団子坂にあった「蔦屋」(裏に竹薮があったため通称「藪」と言われた)などと一緒になって江戸で栄えたようです。 ○注文の仕方 店に入っていきなり「たぬき蕎麦」などと注文するのは野暮とされます。まずは酒と肴を1~2品注文し、最後に「もり」を1~2枚食べて、さっと帰るのが“通”とされます。元々は、味噌か粗塩を肴に酒を1杯ひっかけて蕎麦が出来上がるのを待つということのようです。上野の丸井の裏の上野藪そばの冷酒は、菊正の樽酒で表面が薄くシャーベット状になっており、蕎麦味噌と粗塩が付いて出てきます。これと炭火と一緒に木箱に入った焼海苔を注文して、これらを肴に樽の香りのするきりっとした冷酒を飲むと何とも言えません。酒を飲みすぎるのもタブーで、森下の京金という店のメニューには「酒は2本までにお願いします」と書かれています。多くの蕎麦屋の閉店時間が8時頃と早いのも酔っ払いを嫌うためのようです。 |