さんのコーナー

 秋の金沢・富山旅行 (1)

  中央大学・国際関係研究会OB有志による、第16回目の旅行として、平成29年11月20日(月)~22日(水)にかけて、金沢・富山方面の2泊3日の旅行をしてきました。参加者は43年卒で43会会員の高橋さん、川辺さん、私八束、44年卒のOさん、Sさん、45年卒のAさんという、いつものメンバー6名でした、

第1日目(11月20日・月曜日)

予報によれば、北陸の天気は雨で、気温もかなり低いとのことだったので、一同、傘を用意したり防寒衣料で重武装したりで、さながら“ヒグマ”の集団のような様相で、東京駅9時20分発の北陸新幹線「かがやき507号」の指定席に集まりました。Oさんのみ切符を自分で手配して大宮から乗り込むことになっていました。この日は平日にもかかわらず、蟹の解禁で北陸に向かう人が大勢いるとみえて、大宮あたりで新幹線は満車になりました。
 ワイワイガヤガヤやっているうちに、12時前に無事金沢駅に到着しました。外は雨がポツリポツリといった状態でしたが、まずは荷物を預けるために駅前の「アパホテル」に向かいました。私が大きな「ABホテル」という看板のついたホテルに向かおうとすると、川辺さんが隣の斜めに立っているホテルが「アパホテル」だと言うのです。そこで、私も今年の春に家内とここに宿泊した時に右手の「ABホテル」に入ってしまったことを思い出しました。ここは、「ABホテル」と「アパホテル」が並んで立っており、「アパホテル」の方は斜めに立っているのと、前に大きな木があるため看板が見えないという事情があるのです。とにかく、「アパホテル」のフロントに荷物を預け、歩いて20分ほどの「近江町市場」に向かい、ここで昼食を食べることにしました。計画では、有名な海鮮丼屋は混むのでこれを避けて、春に家内と来た時に開拓した、魚屋が出している屋台のような店に入ることになっていました。ところが、午後の1時近くになっているにもかかわらず、市場内は人が溢れていて、この屋台のような店も数人が並んでいました。でも皆がここで待とうということになり、30分ほど待って席も二つに分かれた状態で海鮮丼やウニ・イクラ丼と味噌汁を頼みましたが、お腹がすいていたこともあって皆美味しかったと喜んでいました。
 その後、一同は思い思いに市場内を歩いて買い物をしてから、2台のタクシーに分乗して「東茶屋街」に向かいました。ここでは独特な風情のある町並みを歩いて観光し、予定通りに「森八」という和菓子屋に入り、その2階で「抹茶と和菓子のセット」を頂きました。6名それぞれに異なる茶碗と和菓子が出され、一同感心しながら美味しく頂きました。何か古都金沢の文化に触れたような気分になりました。その後、1階の店で全員がお土産の和菓子を大量に買い込んだのは、そうした催眠商法の影響だったと思います。
 沢山のお土産の品を抱えながら、一同はタクシーでホテルに戻りました。フロントで手続きをしてそれぞれ自分の個室に向かいました。喫煙する高橋さんとSさんは6階、あとの4名は4階でした。エレベーターに乗るのも、ドアを開けるのもカード操作が必要な面倒なホテルで、一同は悪戦苦闘しながら部屋に向かいました。ホテルもまた満室なようで、フロントもロビーも込み合っており、その多くが外人のようでした。6時の夕食まで2時間弱あり、このホテルを選んだ最大の理由である“ビジネスホテルなのに大浴場がある”を考えて入浴しようかと思いましたが、6時からの夕食で駅前の都ホテルの裏にある「大名茶屋」という店まで寒い中歩くこと、そして満室という状況からそれほど広くない大浴場の混雑を思うと入浴する気が萎えてしまいました。そこで、時間までテレビで大相撲を見ていました。
 6時に、一同は「大名茶屋」に入り、「蟹づくし会席」で今回の旅行最初の宴会を始めました。内容は以下の通りです。先付:旬菜 八寸:冬の4種盛り 造り:蟹の花咲造り 焼物:焼き蟹 温物:蟹の小鉢 揚物:蟹足の天麩羅 酢物:茹で蟹 食事:蟹雑炊 香の者:3種盛り 水物:季節のデザート
 一同は、次々に出される蟹の料理を、美味しい酒を飲みながら片端から食べ尽くしていきました。1月に伊勢丹の女性OB3人と食べた時には全部は食べきれませんでしたが、今回は全員が男性ということもあり、また昼食を抑えてこれに備えたという準備態勢ができていたこともあって全員が完食しました。高橋さんなどは、私が散々「蟹が沢山出るぞ」と脅したせいもあり、「この程度で終わりか」というような顔をしていました。実際、今回は蟹が不漁だったせいで金額も一人2千円も高くなっていたと同時に、量も以前より少ないようにも見えました。それでも、一同は蟹の料理で満腹し、あれほど飲んだにもかかわらず、真っすぐ歩いてホテルに戻りました。全員が70歳オーバーなのに、実に元気な連中(自分も含めて)だと思いました。


 白門43会・卒業50周年記念旅行会

  平成29年10月30日(月)から11月1日(水)に、2泊3日で愛知・三重方面に旅行会が行われました。参加者は、途中からの参加・離脱とかがあったものの、最大32名でした。丁度台風22号が本州中部に上陸して縦断コースをとったため、一時はどうなることかと心配しましたが、当日朝からは台風一過の快晴が続き、素晴らしい旅行になりました。
 参加者の多くは、当日朝の7時40分に東京駅地下の「銀の鈴」に集まり、8時3分発の「ひかり463号」に乗り込みました。そして車中でワイワイ騒いでいるうちに10時8分に名古屋駅に到着しました。ここで何人かの会員が合流し、迎えに来ていた「旅工房」のガイドの西尾さんに引率されて大型観光バスに、いつものように清水幹事長が作成した座席表に従って着席しました。この座席表は、3日間の午前と午後、2回の宴会と合計6種類あり、これによって旅行中に多くの会員と交流できるというものです。但し、後半になると煩わしいと感じた何人かは“治外法権”と称して後ろの座席に集まっていたようです。

〇第1日目(犬山城~明治村)

 この日の最初の目的地は「犬山城」で、現在5つある国宝の城の一つです。因みに、あとの4つは、姫路城、松本城、彦根城、松江城です。「犬山城」は、江戸時代は徳川御三家の尾張藩の城で、幕府から尾張藩に付けられていた付家老の成瀬氏が代々の城主を務めていました。この天守閣はやや小ぶりのものですが、階段は急で、参加者は上り下りに苦労していました。でも、快晴とあって上からの眺めはよく、疲れが吹き飛びました。
 その後、1時間ほどバスに乗って「明治村」という、明治時代の多くの由緒ある建物を移設・復元した広い会場を見学しました。見学の前にこの「明治村」の中で各自自由に昼食を食べることになり、私は夜に備えて軽い「名古屋コーチンのきしめん」を食べましたが、お腹が空いていたのでとても美味しく感じました。その後、会場内の見学をしようと思ったのですが、余りに広いので、会場内を走るバスに乗りました。バスはゆっくり走りながら、左右の建物の説明もあり、乗って正解でした。最後に古い「帝国ホテル」に行きました。ここでは、地元案内人が30分ほどかけて建物の説明をしてくれ、なかなか勉強になりました。ここから出口に向かう途中に「金沢監獄」のレンガの門があり、居合わせた8名ほどで“監獄出身者の同窓会”などと言いながら記念撮影を行いました。  観光を終えて、一行は名古屋駅に近いこの日の宿「ダイワロイネットホテル」に向かいました。そして荷物を置いて、徒歩で宴会場の「舞鶴館」に行き、清家さんの司会で宴会が始まりました。また、この席には、43会会員で、現地の旅行社「旅工房」の経営者で、今回の旅行の企画・手配をお願いした寺西さんが出て来て挨拶をされました。驚いたことに、寺西さんは最近「癌」宣告を受け、入院治療中で、この日は挨拶のため病院を抜け出してきたとのことでした。見た目は元気そうでしたが、一同はその話に驚くばかりでした。 宴会の後は、どこかの部屋で集まって飲んだりした者のいたようですが、私はまだ初日ということで自粛して、部屋に戻って寝ました。

〇第二日目(伊勢神宮)

 翌朝は8時出発ということで、6時半に朝食を食べました。そしてバスでこの日の目的地の伊勢神宮に向かいました。ガイドは前日の西尾さんから山本さんに代わりましたが、これが陽気な実に面白い人で、駄洒落の得意な清水幹事長との遣り取りなどを聞いているとまるで夫婦漫才のようで、バスの中は笑いが絶えませんでした。
 2時間ほどで伊勢神宮の外宮に到着し、ガイドの山本さんに引率されて見学しました。本来は「せんぐう館」という建物を見学する予定でしたが、台風で「勾玉池」の水が溢れて浸水したとのことで、外から見るだけになりました。次にバスで内宮に行き、宇治橋を渡り、五十鈴川で手を清め、まずは特別参拝を予定している「神楽殿」に行きました。そして暫く待った後に神楽殿で“お神楽”を見学することになりました。我々以外にも若い坊さんのグループなど数十人が一緒でしたが、楽器を扱う男性5名、踊り手の男性1名、そしてそれを補佐する巫女さん数名のメンバーで荘厳な雰囲気の中、約30分の神楽が行われました。滅多に経験できない素晴らしい時間でしたが、“正座”を指示されていたので、終わった時には足が痺れていました。龍門会長だけはバスの中でスーツに着替えてネクタイを付けていたので、さすがだと思いました。その後、「荒祭殿」などを見学し、御厨では思いがけず“ご神馬”の白馬も見学でき、一同その偶然に感激しました。
 その後、バスでご当地の名物“伊勢うどん”“手こね寿司”の昼食を食べに行きました。“伊勢うどん”はガイドさんの説明通りの“こしのない”うどんで、丼の底に2センチほど入っている濃い目のたれを絡めて食べるのですが、私には余り美味しいとは思えませんでした。“手こね寿司”の方も、酢飯の上に漬けまぐろその他が載っているもので、格別に美味しいものではありませんでしたが、空腹だったもので、完食してしまいました。
 食事の後に、本来は「徴古館}と「美術館」を見学する予定だったのですが、参加者の多くが“おかげ横丁”でのお土産の購入を希望したので、美術館見学は止めて“おかげ横丁”散策となりました。ガイドさんから勧められた美味しいものを買うためでしたが、日持ちのしない生ものが多いので、“へんば餅”“さわ餅”などは2個入りとか3個入りとかを購入して、その場で分け合って食べましたが、なかなか美味しいものでした。また、“ういろう”については、クール宅急便で自宅に配送しました。更に、伊勢のお菓子の代表格である“赤福”については、バスの中でガイドさんが注文をとり、最終日にその日製造したものを渡してくれることになりました。何しろ、賞味期限がその日1日なので、このようにしないと持ち帰りできないのです。
 この日の最後は、ルネッサンス様式建物として有名な「徴古館」で、立派な建物と中の展示物を見学しました。さすがにこの日は疲れて、帰りのバスでは皆静かにしていました。この日の宿は伊勢市にある「ホテルルートイン伊勢」という新しいビジネスホテルでした。6棟に分かれた2階建てという珍しいもので、最初はややこしいと思いましたが、移動距離が短く、案外と楽でした。5時にホテルに到着し、6時にバスで宴会場に向かいました。ここでは、芝木さんの司会で、まずは伊勢神宮から拝領した有難いお神酒を少々頂いてから、山本さんの音頭で乾杯、そして“松坂牛”のすきやきを中心とした宴会が開始されました。すきやきは、仲居さんがすべてやることになっていると聞いていたので、ビールなどを飲みながら見ていると、鍋に脂身で油を敷き、次に大きな牛肉を2枚入れ、片面が焼けるとこれを返し、そこに砂糖を掛けるのです。そして最後にタレを少々掛けて肉を人数分(多くのテーブルが4名でした)に分けて「どうぞお食べ下さい」と言うのです。生卵が用意せれており、これに漬けて食べるのですが、大きくて厚い肉を口一杯に頬張る時、その旨さに感動しました。その後は、鍋の半分は肉、残りの半分は野菜など(しらたき、青菜、長ネギ、細く切った人参)を焼くのです。酒はビールから冷酒そしてワインと代わり、グイグイと飲みながら、肉をモリモリと食べ続けました。今回の旅行で一番よかったのはこの日のすきやきでした。 思い残すことなく食べそして飲んだ後、バスでホテルに戻り、大浴場があると言われていましたが、個室のシャワーを浴びただけですぐに寝てしまいました。聞くところによれば、8名ほどが宴会後にカラオケに行ったとのことでした。

〇第三日目(英虞湾クルーズ~二見ケ浦)

 翌朝は寝ざめがよく、9時出発と聞いていたにもかかわらず6時半に朝食を食べました。バスで1時間半ほどで志摩半島の賢島に到着、ここで“大航海時代”のスペインの帆船のような観光船で、英虞湾巡りのクルーズを小1時間ほどしました。天気が良く、風もほとんどない状態だったので、最上階の甲板で皆と穏やかな英虞湾を眺めていました。途中で真珠の展示場見学が組み込まれており、あこや貝に真珠にするための核を入れるのを見せていました。この“核”は、アメリカや中国から輸入した特殊な貝を加工して丸くしたものだそうで、これもまたいい勉強になりました。
 観光船を降りてからは、バスで“夫婦岩”で有名な二見ケ浦に行きました。昼食会場に到着すると、折しも水族館の外でセイウチのショーを行っており、暫くこれを見学しました。重さが1トン以上もあるセイウチかすぐそばまで近づくと、さすがに迫力がありました。昼食は、伊勢エビを中心にしたものでしたが、感激するほどの味ではありませんでした。
 その後、徒歩で夫婦岩などを見学し、そのまま「賽日館」という重要文化財の建物と中の展示物を見学しました。以前は皇族の人も宿泊したことがある施設だったということで、その時の貴賓室が解放されていたので、一行は皇族が座ったであろう椅子に座って大満足でした。一行もすっかり元気を取り戻し、廊下の隅に置かれていた箱の名称を尋ねたり、屋根の瓦の紋章が左右で違うのは何故かというようなマニアックな質問をして案内の女性を困らせていました。
 こうして最後の観光も終えて、2時すぎにバスで名古屋駅に向かいました。その2時間余りは、皆寝ていたようで、バスの中は静かでした。5時前に名古屋駅に到着し、前日注文した“赤福”を受け取り、3日間安全運転してくれた運転手さんと、陽気なガイドの山本さんとにお別れし、名古屋駅で最後の買い物と、帰りの新幹線の中で食べる夕食の用意をすることになりました。私は、駅構内を彷徨っているうちに、ガイドさんから勧められた“守口漬”を見つけることに成功し、これを購入しました。ガイドさんの話では、ゴボウのような細長い大根の漬物とのことでした。夕食については、きしめん屋があって“牡蠣入りの潮きしめん”というメニュウが目に入ったので、新幹線にお弁当を持ち込むより、お腹の中に収めてしまった方が効率的と考え、これを食べました。小ぶりな牡蠣が3つ入っており、味も満足できるものでした。 新幹線は、6時2分発の「のぞみ246号」で、車中で喋っているうちに7時43分に東京駅に到着し、ここで解散となりました。皆、お土産で膨れ上がったカバンを引きずりながら、帰って行きました。
 今回の旅行を振り返ってみて、台風の早めの通過などの幸運に恵まれた旅行だったと思いました。しかし、初日・二日目の歩いた距離がそれぞれ1万歩を超えていたこと、(これは私が実測したのではなく、2人ほどの参加者の計測によるもの)から考えると、足腰を痛めている会員や、高齢な会員、女性会員などにとってややきついものだったと思います。今後も高齢化や、足腰を痛める会員が増えることは間違いなく、女性会員についても、その点の配慮が必要だと思います。また、座席表も、余りに変更が多すぎて参加者の負担になっているようなので、せめて1日は同じ座席にするのがいいと思います。                                                       以 上



 防衛大学校見学ツアー

 616日(金)、中大国際関係研究会のK先輩と岡山の高橋和尚(43会会員)に誘われて、横須賀の防衛大学校見学ツアーと、横須賀軍港めぐりを体験して来ました。
 この日の早朝、集合場所の京浜急行久留里線の「YRP野比駅」に向かいました。駅名にアルファベットが使われているのは珍しいのですが、「YRP」とは、「横須賀リサーチパーク」の略だそうです。
 日頃余り乗らない電車なので、駅員の言うままに「浦賀行き」の各駅停車に乗ってしまい、「野比駅」に到着したのは約束を30分オーバーした830分でした。でも、高橋和尚も各駅停車から特急へ乗り継ぎに失敗して1時間も遅れてきたのでホッとしました。私と高橋和尚は、前日、43会の仲間(金井、古賀、川辺、高橋)と、浅草で“第3回居酒屋の会’’を開き、観音様の近くの老舗「志婦や」「ぬる燭」そして私が浅草で一番美味しいと思っている「おざわ」という蕎麦屋で、合計5時間も飲み続けていたので、それが多少影響したのかも知れません。
 9時すぎに、3人は、K先輩の運転する車に乗って、まずは観音崎灯台とその周辺観光をすることになりましたが、灯台は、そこまで登るのが大変ということでパスし、足元の海岸沿いの遊歩道を歩きました。天気もよく、ほどよい海風もあり、きれいに整備された道を歩きながら、下の岩場で釣りを楽しむ人や、遠くの房総半島を眺めたりしてリフレッシュしました。その後も、横須賀方面に向かいながら、暫く車で観光して、昼食を「夢・ドリーム」という所で食べました。その頃には前日の酒も抜けており、全員が「まぐろ漬け井」を食べましたが、とても美味しかったです。
 そして、12時前にいよいよ防衛大学校の門を入り、手続きに従って身分証明書を提示して、資料の入ったビニール袋と入館証(首に掛けるもの)を受け取りました。見学の申し込みは、事前にK先輩が済ませていたので、手続きはすぐに終了しました。時間になると、長身の男性の3等海曹とスタイルのいい女性の2等陸曹それに外部委託と思われる40歳ほどの女性の3名が来て、まずは3等海曹が見学のコースや注意事項などを説明し、それからスタートしました。参加者は20名ほどでしたが、驚くことに若い女性が半分近くで、あとは我々のような高齢者ばかりで、若い男性はほとんど居ませんでした。
 まずは本館入口で、記念撮影を勧められたので、スタイルのいい女性の2等陸曹さんにシャッターを押してもらいました。中に入ると、足元に、方位盤のような物があり、それには「廉恥・真勇気・礼節」という防衛大学校生の学生綱領が刻まれていました。その他、現在防衛大学校で学んでいる海外留学生の出身国の国旗(中国、韓国、タイ、ヴェトナム、マレーシア、フィリピン、インドネシア、モンゴル、カンボジア等)が立てられていました。
 次は、記念講堂です。2000名の学生と学校スタッフなど2300名が入れる大きな建物で、ここの最大のイベントは首相も出席してテレビでも報道される卒業式です。式の最後には、500名の卒業生が一斉に帽子を投げるのが慣例になっています。設備は最新式で、多くの椅子が自動で取り払われることができるとか、上から仕切りが降りて来ていくつかの小部屋にできるようになっているそうです。ここが出来るまでは、体育館で卒業式をやっていたそうです。
 3番目は、資料館です。ここでまずは防衛大学校の概要についてのVTRを見ました。学生生活や訓練の様子などを見た後に、歴史資料を見学しました。歴代の校長の写真、「防衛大学校」の前身の「保安大学校」の看板などが並んでいました。
 次が、学制会館で、これは売店のような場所でした。「ここにしかないグッズがあるのでお土産にどうぞ」と言われましたが、「防衛大」とイニシャルのある帽子・シャツ・タオルなどは、格好はいいと思いますが、自分で身に付けるには気恥ずかしく、「海軍カレー」「横須賀カレー」だけを買いました。
 最後に、午後1時からの「学生行進」を高い位置から見学しました。昼食を終えた4000名の学生が、4つの宿舎の前に集まり、学生長の前を行進してそれぞれの午後の教科に向かうのです。実技訓練に向かう組は、戦闘服に身を固め、銃を担いでいました。こうした行進などをみると、やはり一般の大学とは違うなと思いました。  案内に当たった二人の自衛官に色々な質問をしました。
Q4000名の学生の中の、女性の比率は
A:約10%である。
Q:留学生はどのくらいいるのか。
A:約5%である。
Q:脊の低い学生がいるが、身長制限はあるのか
A:男性155センチ、女性150センチである。
 また学生宿舎の脇を通る時、案内の女性が、1部屋8名で、各学年2名ずつになっていると説明してくれたので、女手学生はどうなるのかと思いましたが、女子は女子だけだそうで、部屋のガラスは曇りガラスになっているとのことでした。
 実をいうと、私は高校1年の時に、防衛大学校を受験しようと思ったのです。試験科目を調べると、この学校は理科系で、数学・物理・化学が必須になっているのです。そこで父親に相談すると「あの学校は学生に給料をくれるそうだ。是非チャレンジしなさい」と言われました。でも、私はどちらかと言うと文科系で、数学や化学は苦手だと言うと、家庭教師を付けてくれることになりました。しかし、2年ほどやりましたが、私は軟式テニス部の主将になって勉強が疎かになってしまい、防衛大学校受験は諦めたのです。こんなことがあったので、今回の見学は感慨の深いものがありました。でも、例え受験に通っても、その後の激しい訓練にはとてもついていけなかったろうなとも思いました。
 防衛大学校見学を終えて、次は、「横須賀軍港めぐり」です。車で横須賀軍港に行き、3時出発ということで待っていると遊覧船が戻ってきました。ほぼ満員で、次の我々も100名近く並んでいました。平日なのに、かなり人気のあるイベントなんだと思いました。コースは45分で、自衛艦やアメリカ海軍の軍艦を見学しながら横須賀本港や長浦湾などを巡るのです。説明がとても面白くて評判とのことでした。
 私は軍艦が好きなので、冷房のきいた船室でなく上甲板に座りました。船が出ると、すぐに多くの自衛艦が見えてきました。説明者は、手際よくそれらの艦名や艦種を説明していきます。私は片端から写真撮影していきました。家に資料があるので、艦籍番号がわかれば艦名も艦種もわかるのです。そのうちに、アメリカ海軍のイージス艦が何隻も見えてきました。おそらく、今回の北朝鮮沖での演習から帰ってきたばかりと見えて、隻数も多いし、修理中のものが多かったです。残念ながら、原子力空母ロナルド・レーガンは不在で、原子力空母が停泊できる唯一の埠頭には、イージス艦が停泊していました。 沖にも1隻、イージス艦が停泊していましたが、遠くて艦籍番号は見えませんでした。
 翌日、テレビを見ていたら、前日横須賀を出港したイージス駆逐艦「フィツツジェラルド」が、伊豆沖でフィリピン籍のコンテナ船と衝突して損傷したとのニュースが流れました。私は直感的に、あの沖で見たイージス艦に違いないと思うとともに、イージス艦は、どんなミサイルだろうと航空機だろうと必ず捕捉してこれを破壊できる最優秀なレーダーと武器を備えた艦である、との昨日の説明は本当かなと思いました。衝突した相手は、8千トンのフィツツジェラルドより 3倍以上も大きな3万トンの船なのに、どうして衝突するようなへマをしたのか、自慢のレーダーはどうしていたのか不思議です。
    
       軍港巡りも終わり、まずはK先輩の家に戻って車を置き、電車で横須賀に3人で行きました。居酒屋大好き人間の高橋和尚が、全国有名居酒屋の本に掲載されている、横須賀ただ1つの店「ぎんじ」に行きたいと言って、先輩に調べてもらったのです。時刻は6時頃でしたが、「ぎんじ」は見つかり、3人の席も確保できました。常連らしい客はカウンター席に入っており、我々のような‘‘-げんさん’’が離れた椅子席に座っているようでした。店頭の従業員3名は全て女性で、かなり大きな店でした。ここで我々は散々飲み食いしたのですが、なかなかの味と雰囲気の店で、とても有意義な1日を過ごすことのできた最終イベントとしては大満足でした。
 帰りの電車は乗り換えなしで、高橋さんは「青物横丁駅」、私は「浅草駅」で降りました。車を運転したり、色々と資料を用意してくれたり、説明してくれたK先輩に感謝しつつ、この夜は、ほどよい疲れと、美味しい酒と、楽しい1日を過ごした満足感で、熟睡できました 。                                以 上

  自動車運転免許の自主返納

今年の10月1日で私の運転免許証が更新時期となるので、更新するか自主返納するか迷っていたところ、警察から更新手続きの案内の葉書が届きました。それによると、70歳以上の人は免許更新手続き前に高齢者講習会を受講しなければならないと書かれていました。私は今年の9月1日で73歳になるので、今度更新すれば途中で“高齢者”とされる75歳になるのでこうした講習を受けなければならないのは理解できるのですが、やはり“来たか”という気持ちになりました。
 私は20年ほど前に車は廃車にして、その後は一切運転をしたことがありません。何故なら、私が住んでいる台東区は交通の便がとてもよく、自家用車は全く必要がないのです。私は長年、新宿の伊勢丹に通勤していたのですが、自宅から会社に行く方法は20通りくらいあるのです。通常はJR山の手線の鴬谷駅から池袋回りで新宿に出ます。でもその他に、地下鉄日比谷線の入谷駅から上野に出て山の手線に乗り換えたり、上野から地下鉄銀座線に乗り換え、赤坂見附で地下鉄丸の内線で新宿3丁目駅、(伊勢丹の下)まで行く方法もあります。また、自宅から上野駅まで歩いて20分足らず歩いて山の手線、地下鉄銀座線に乗る方法もあります。更に、地下鉄銀座線の稲荷町駅まで徒歩15分なので、これに乗って赤坂見附~新宿3丁目という方法もあります。1度も試したことはありませんが、地下鉄日比谷線の入谷駅から1駅の三ノ輪駅に出て都内唯一の路面電車に乗って大塚駅や早稲田駅に出て山の手線や地下鉄東西線に乗って新宿に出ることも可能です。バスも何本もあって、何通りかの方法があると思いますが、これは研究したこともありません。
 話がそれてしまいましたが、私としては、車を運転する必要もなければ、その気もないのです。では何故免許証にこだわるのかというと、それは身分証明書としての機能があるからです。私は毎年国内旅行を10回ほどこなしているのですが、地方の美術館や記念館、記念公園、お城などを訪れる時、高齢者割引を受けられる場合があり、その時に免許証が大変便利なのです。今回も迷って家内に相談したところ、「今回を最後の更新にすれば」とのことでした。それで、面倒だけど高齢者講習を受講しようと思ったのですが、その内容を見て驚きました。視力検査等で30分、講義が30分、実車指導が60分となっており、会場は都内の教習所なのです。私の住む家は管轄の下谷警察署から徒歩3分の所にあり、下谷警察署は更新手続きができる数少ない警察署なのです。20年以上運転したことがない上に不慣れな教習所で実技まで試されるとなると全く自信がありません。そこで今回免許証の自主返納をする決心をしました
 4月4日(火)の午前9時半頃、下谷警察署の更新手続き係に行き「免許証の自主返納をしたい。そして免許証に代わる運転経歴証明書の交付を受けたい」と申し出ると、女性の係員が「写真(楯30ミリ、横24ミリ)と手数料1,000円が必要です」と言うのです。警察からの案内にもそのように書かれていましたが、免許更新の時には警察で写真を撮影してくれていたので」、「写真はこちらで撮影してくれるのでは」と尋ねると「それはできません」との答えでした。
 止む無く、別の用事を片付けて10時に開店する写真屋に行き運転経歴証明書用の写真撮影を依頼しました。その時、「今年の2月末にパスポート更新のために写真撮影をしたのに、大きさが違うので役 たたない」とぼやいたところ、「その時にCDを作ったはずなのでそれがあれば安くできる」というのです。私も何となくそんな気がしていたのでCDを持ち合わせていたのでそれを渡しました。12時半頃、写真を受け取り、2度目の警察訪問となりました。下谷警察署の更新手続き係の入り口に行くと、受付は午後1暗からと書かれた看板が出ていました。つまり昼休みということです。止む無くいったん自宅に帰って時間調整をしました。自宅から警察署まで徒歩3分なので余り苦にはならなかったのですが、30分とかだったら頭に来たのではないでしょうか。
1時半頃に3度目の警察訪問をしました。「写真も用意できたので運転経歴証明書の交付をお願いします」と言うと、名前の確認もせずに「そこでお待ちください」と言われてしまいました。様子を伺うとここの仕事は免許の更新がメインで、運転経歴証明書の交付はそれ専門の係員が担当しているようで、今はその係員が不在のようなのです。免許の更新で来ている人はそれほど多くなく、男女5名の更新要員は大部分が手持無沙汰となっていました。運転免許の自主返納については、数日前のテレビで白門の先輩の高木ブーが小池都知事に返納しているニュースが何回も流れ、高齢者による交通事故の多発に困った警察が何とか自主返納を促進しようとしていることが感じられたのですが、実際の窓口では温度差があるようでした。壁には「自主返納を考えよう」というポスターが貼られているのにです。
 そのうちに男の警察官が出てきて2枚の書類に記入を依頼されました。その後暫く待たされた後、書類を1セット渡されました。

 1.申請による運転免許の取消通知書(東京都公安委員会の朱印が押されたA4のもの)

 2.手数料1,000円の領収書

 3.「高齢者の運転免許自主返納をサポート」という小冊子(運転経歴証明書の提示で優待が受け
    られる文化施設・美術館・商業施設・飲食店等の紹介)

 4.運転経歴証明書引換書(4月18日以降に受け取りに来るとき持参するもの)

 5.「満65歳以上で運転免許を自主返納された方へ」というA4の紙で、内容は台東区役所5階の

   交通対策課に申請すれば「めぐりん(区内の循環バス)専用回数乗車券1冊及び文化施設4館
    共通入館券」を賛同記念品として渡すとのこと

 6.「運転免許自主返納記念」という紙のケースに「長い間、運転お疲れ様でした。これから、歩行
    者、自転車利用者として交通ルールを守り、しっかり確認して、交通事故に遭わないようにし
   しょ う」と書かれていて、その中に「これからもずっと交通安全」という小冊子、縦30ミリ、横10
   リの小さな反射板が入っている

 7.使用停止として中央に大きな穴をあけられた免許証

  あとは4月18日以降に4度目の警察訪問をして運転経歴証明書を受け取れば全てめでたしということになります。因みに、この運転経歴証明書は有効期限はなく、住所変更・再交付が可能とのことなので、今後死ぬまで身分証明書として利用できるそうです。  今回の経験で感じたことは、免許証の自主返納ということが、警察内部では余り重きを置かれていないということでした。原因は、免許更新に携わっている要員がおそらく警察官ではなく、よくて警察官OB,または外部委託契約の職員だからだと思います。私は最後に「自主返納する人は少ないのですか」と尋ねたのですが、答えは「そんなことはないですよ。最近多くなっています」でした。でも、私が3度尋ねたこの日、自主返納手続きを申請している人は皆無で、それで専門の係員が常駐していないのではと思いました。3回目の所要時間が20分ということもあるので、警察窓口の対応が特に悪いとは言いませんが、今後永久に手間がかからなくなる上に、交通事故の心配が少なくなるのだから、もう少し温かい対応、感謝の言葉があってもよかったのではないかと思いました。


    市川・国府台での花見の会

 4月7日(金)午前10時に花見の会に参加する43会員22名がJR市川駅に続々と集まりました。この日の朝は前夜からの雨がまだちらついていましたが、8時頃からは一時的に曇りになっていました。その後も雨がちらつくことがありましたが、それも何とか傘を差さずにしのげる程でした。
 まずはこの日の案内人である地元の清家幹事と金子幹事が紹介され、併せて久しぶりに顔を見せた会員とし鍵和田さん、菊地さんが紹介されました。その後、駅前に聳え立つ市川市の施設「アイ・リンクタウン・ウエスト」に入り、巨大なシースルーエレベーター(この日の参加者22名が全員乗れた)で45階まで登りました。ここは広々とした展望ロビーになっており、大きなガラス窓ごしに下界が遠くまで見渡せました。屋上に展望デッキがあるとのことでしたが、この日は強風のため閉鎖されていました。江戸川が眼下に流れ、その向こうにはスカイツリーや密集した東京の町が広がり、足元の市川市にはこれから向かう和洋国府台学園」「千葉商科大学」などが臨めました。天候が曇ってなければ、富士山や筑波山などが見えたのですが、残念でした。アイ・リンクタウンはツインタワーになっていて、少し離れた場所に「西館」より少し低い「東館」が立っていました。
 次に、駅前に戻り、バスで「里見公園」に向かいました。ここは戦国時代に千葉一帯を支配していた里見氏の城があった場所で、北条氏の攻撃で落城の際には多くの武士が戦死したとのことで、その名残と思われる石碑や石垣等がありました。そしてその周囲がきれいに整備された公園になっており、多くの桜が満開になっていました。また、足元には市川市の花である各種のバラ(但し時期が外れていて咲いていない)や、見事なパンジーの花壇があり、ここで記念撮影をしました。里見公園では清家夫人が花見の用意をして出迎えてくれましたが、あいにく下が濡れており、時々小雨がパラつく天気だったので用意してきたシートを広げることはできませんでした。止む無く、丸い天井がある狭い休憩スペースに集まり、花見の会を始めました。清家ご夫妻が用意してくれたのは、酒・ワイン・お茶の他にも胡瓜の朝漬、竹輪そして温かい餡子がたっぷり入った大判焼きでした。一同はここでアルコールや水分補給そしてこの後のウオーキングのための腹ごしらえをすることができました。いくら地元とはいえ、こんなに多くの品々を里見公園まで持ち込むのはさぞかし大変なことだったのではと思いました。肝心の桜の方は雨でさえませんでしたが、雨のおかげで花見客が少なくほぼ貸し切り状態でした。
 里見公園を後にして、途中で病院の敷地内にある古墳(法王塚古墳)を見たりしながら和洋国府台学園に入りました去 ここは中学・高校・大学がある広いキャンパスで、校庭や建物ソもきれいで広く、音の駿河台校舎とは月とスッポンでした。エスカレーターで17階に上がるとそこは先ほどのツインタワーと同じように展望台及び文化資料館になっており、その一角でr竹久夢二展」をやっていました。ここで多くの美人画に見入ったり、展望ロビーでまた下界を眺めたりしました。和洋国府台学園の周囲には千葉商科大学をはじめ多くの学校が集っており、おそらく市川市がこの地区を文教地区として誘致したものと思われました。とにかくこんな素晴らしい環境なら勉強がさぞかしはかどるのではないかと思いました。中学・高校は授業がはじまっているようでしたが、大学はまだのようで、構内はガラガラでした。因みに今回の花見の会に参加した錦糸町の高橋さんのお嬢さんはここの卒業生とのことでした。
 次に向かったのは千葉商科大学のキャンパスで、ここも見事な桜並木がありました。大学内は丁度部員募集の次期だったようで、多くの部やクラブがイスやテーブルを出して勧誘活動を行っていました。
 昔の中大でもこんなシーンがあったなあと懐かしく思いました。千葉商科大学を突き抜けて、今度は地元の名刺「真閉山弘法寺」に行きました。ここには立派な本堂などの他、境内には樹齢400年といわれる「エドヒガン」の大木(南総里見八犬伝に因んで「伏姫桜」と名付けられた)がありました。その後は寺の険しい階段を降りて市川駅に向かいました。途中には真間川の事前にある「手児奈霊神堂」や、今回参加した古賀幹事が幼少の頃通っていた真間小学校、古賀さんお勧めのおいしい「おにぎり屋」などの脇を通り、2時頃にJR市川駅前の「華の舞」という居酒屋に入り打ち上げをしました。
 狭い席に23名がぎゅうぎゅうに座りましたが、ビールやハイボール・ワイン・梅酒などを飲みながら料理を食べていくうちにワイワイと会話が弾みました。この店は今回の幹事の金子さんのなじみの店ということで、怪しい日本語を喋る女性がテキパキと酒や料理を運んでくれました。里見公園でワインと日本酒を飲んだにもかかわらずここでも酒が進み、3,000円の予算をオーバーしてしまい、男性から更に1,000円集めることになりましたが、生ビール2杯とハイボール3杯を飲んだ私としては十分に元がとれたと思いました。
 今回の花見の会も残念な天候にもかかわらず23名が参加し、参加者全員が満足して大成功のうちに終わりました。定例役員会などでよく会う幹事とは別に、新春の集いや定時総会などでしか会えない会員ともお喋りできてなかなか有意義な面もありました。上野駅から東天紅までタクシーで行こうとしたら運転手に断られたという菊地さんに地下鉄千代田線の「湯島駅」をお勧めすることもできましたし、最近役員会に出てこない鈴木幹事に卒業50周年記念事業の内容を伝えることもできました。
 昨年の「我孫子・手賀沼散策」「横浜三渓園散策」もそうでしたが、地元に詳しい幹事が企画して、幹事長以下で下見までした上の実施なので、企画がしっかりしている上に内容が充実している点が素晴らしいのです。こうした“はずれ”のない企画が続く限りこの事の「日帰り散策j は参加者が減ることはないと思います。とにかく、清水幹事長以下清家ご夫妻、金子幹事のボランティア精神に感謝々々です。
 次回は鍵和田さんと矢崎副会長による埼玉の見沼散策、高橋さんと八束による隅田川散策(言問団子と長命寺の桜餅そして高橋さんのおせんべい)などが話題に上っていました。今後も楽しみですね。                                             以 上


  南九州・神話探妨の旅 (3)

 ○第3日目(1123日)

 この日は、10時にジャンボタクシーが迎えに来ることになっていたので、朝食は7時半にしておきました。川辺さんなどは早く起きてホテルの周辺を散歩してきたようですが、私は朝風呂に入って目を覚ませました。朝食会場に行くと直径が1メートル近くある旅に、そばかゆ、豆、豆腐、佃煮、ヤマメの一夜干し、地鶏の生卵などがびっしりと並べられているのです。ここの料理は器も凝っていてそれも高価な陶器のものではなく竹の皮を編んで作ったようなものが前夜も出たのですが、朝食の冗には一同驚いてしまいました。味もすばらしく、ヘルシーな朝食で腹ごしらえをしっかりと整えました。
 前夜の夕食時に、ホテルの番頭さんが来て「庭の山椒の木~」という民謡を謡ってくれ、この歌詞の解説や歴史を説明してくれた(この民謡は平家の落人の姫君と那須与-の弟との悲恋物語とのこと)のですが、朝食時にも民謡を披露してくれ、客の一人が得意の尺八で伴奏するというパフォーマンスがありました。
 ホテルの前で記念写真を撮ったりしていると、ジャンボタクシーが到着したのでこれに乗り込みました。前日の運転手さんもいい人だったのですが、この日の運転手さんもベテランで感じのいい人でしたので、この目の観光も楽しさは間違いないと確信しました。
 まず向かったのはこの日のメインである高千穂峡です。観光客の少ない早朝に観光した方がよいというベテラン運転手ならではの配慮でした。石段を降りていくと、観光パンフレットに必ず出て来る神秘的な深い谷間でボートを浮かべて細い滝を見上げるという景色が見えてきました。早速、ボートを2隻借りて、体重の関係で高橋和尚と私が1隻、他の3人が1隻というように分かれました。ボートに乗る時、高橋和尚がよろめいてボートの中であおむけに倒れるというハプニングがあり肝を冷やしましたが、あとは緑の水面、両側にそそりたつ岩壁、何か所から注ぐ滝、餌を求めてボートに寄って来る鴨?などに酔いしれました。ボートを漕ぐのに慣れていない女性や外国人のボートとぶつかったり、接触したりしましたが、スピードが出ていないので問題ありませんでした。とにかく素晴らしい体験でした。因みに、料金は30分で12千円でした。
 次に、運転手さんの案内で遊歩道の散策をしました。景色のいい場所、心裏スポットなどを息を切らせながら見学しました。
 そして次は高千穂神社です。ここの祭神は皇祖神とその配偶者の総称である高千穂皇命で、古くは神武天皇の兄の三毛入野命が鬼八という鬼神を退治した時に宮を建てたといわれているようです。鎌倉幕府を建てた源頼朝が天下泰平祈願のため武将?畠山重忠を派遣したという社伝が残っていて、境内には重忠が植えたとされる「秩父杉」がそびえており、また本殿には重患が奉納したとされる狛犬1対がありました。そうした関係からか、多くの皇族の参拝記念勝と並んで重忠の出身地である埼玉県の知事の参拝記念牌も立っていました。境内には1本の根から分かれた2本の杉の大木があり、この周りを時計まわりに3周すると夫婦仲がよくなるそうなのですぐに回りました。また境内には「鏡石」という石があり、この石に祈ると心が鎮まるが、心の悪い人が触ると手がしびれるというのです。私は遠慮しましたがSさんが触りました。結果は何ともなかったようで、Sさんが悪人ではないことが証明されました。
 建物のひとつで「お神楽」をやっており、運転手さんに時間があるからと勧められて見学しました。見ていると、おかめの面をかぶった女性が二人で踊っているのですが、そのうちの一人が時々間違えたり、立ち往生したりして見物人の笑いを誘っていました。たまりかねた神主さんが脇から出てきて指導したりするのです。最後に神主さんが「本日締ってくれたのは、地元の中学校の生徒さんです」と説明してくれたので納得しました。この後、外で中学校の男女生徒20名ほどが棒術・薙刀などの型の演技を見せてくれたのでこれを30分ほど見学しました。
 12時頃になったので「そろそろ昼食しませんか」と運転手さんに言うと「もう1ケ所見せたい所がある。昼食会場については電話で予約しておく」とのことでした。そして案内してくれた所は「国見ケ丘」という絶景で、ここからは熊本や大分が見渡せるのです。標高513メ㌣トルの展望台からは、遠くの山々や足元の森林が一望でき、本当に気持ちのよい場所でした。
 昼食は「天岩戸神社」の近くの蕎麦屋で、運転手さんのお勧めは「鶏そば」とのことでした。午前中のきつい散策を終えた我々としては、これが今回の旅行の最後の会食になるので、まずは酒と「鶏焼き」のおつまみを頼みました。この「鶏焼き」は鶏肉と長ネギを炒めたものなのですが、まるで鴨肉のように歯ごたえのある鶏肉と、青い部分まで入っている長ネギのバランスがよく、皆で奪い合うようにして食べました。その後に頼んだ「鶏そば」は、「鶏焼き」の鶏肉と同じものが入ったそばで、そばは田舎そばでした。これがまたあっさりしていてとてもおいしく、汁も残さずに完食してしまいました。
 昼食でエネルギーを付けた一同は、再びジャンボタクシーに乗り込み、「天岩戸神社」に向かいました。神社では他にも大勢の観光客がいたので、一緒になって神主さんからの説明を受けました。その後、周辺の散策が続き、一同疲れてきました。昼食時に飲んだ生ビールがきいてきたのかもしれません。 やっと散策が終わり、時間も予定の3時になったので「それでは高千穂のバスターミナルに戻りましょう」と言うと運転手さんは「もう1ケ所見せたい所がある」と言うのです。着いたのは「八大龍王水神社」という神社で、まるで鳥居のように斜めに入り口に立っている大木をくぐってお参りしました。我々以外には誰もいない所ですが、いかにも心霊スポットというような所でした。
 身も心もへとへとになった一同ですが、3時半頃に高千穂バスセンターに戻り、そこで運転手さんとお別れしました。そして1650発の高速バスに乗るまでの1時間余り、私は休憩室で皆の荷物番を、その他の4人は周辺を歩いて来ると出て行きましたが、暫くして「何もない。飲み屋もまだ開いていない」とぼやきながら帰ってきました。
 高速バスに乗ると、熊本空港までの約3時間をうつらうつらしていました。熊本空港で降りたのは川辺さんと私の二人で、2030発のANA便に乗り、予定より早い2150に羽田空港に着きました。ここでモノレールで帰る川辺さんとお別れし、私は京浜急行で帰宅しました。座り続けてお尻が痛くなりました。
 SAさんは熊本で1泊して翌日の昼の便で羽田に向かう予定でした。高橋和尚は初めは熊本観光をするということで熊本で1泊することになっていましたが、急に予定が変わり電車で岡山に向かったようです。                                   以上


   南九州・神話探妨の旅 (2)

 ○第2日日(11月22日)

 この日は8時にバイキング形式の朝食と決めていました。その前に起床して入浴した仲間もいたようですが、私は服装や複雑な道順に嫌気がさして、7時頃まで寝ていました。起床してテレビを付けると,福島沖を震源としたかなり大きな地震の報道で大騒ぎになっていました。津波が予想されるとのことでアナウンサーは「直ちに避難してください」を連呼していました。暫く見ていましたが、津波到達時刻 が過ぎてもそれらしき兆候が見えないので大したことはないと思い、朝食会場に向かいました。私は洋食の軽めのものを少しでしたが他の4人はすべて和食それもかなりの量を食べていました。高橋和尚 などは、和食を食べ終わると今度は洋食をタップリとお代わりしていました。
 この日は、鹿児島中央駅9:59発の特急で宮崎に向かう予定なので、9:55の送迎バスで鹿児島 中央駅まで行きました。送迎バスを待つ間、記念写真を撮影したりしましたが、改めて見るとこのホテルがいかに巨大かがよくわかりました。
 9:59発の特急「霧島」に乗ると、ほぼ満席で、その原因は中国(台湾?)人の観光客の団体でした。これはまいったなと思っていると、彼らは全員「霧島神社前」駅で降りてしまいました。それまでの30分ほども何かぐったりとしており、よほどの強行軍だったのかと思いました。2時間ほどで宮崎駅に到着し、ここで次の特急「にちりん16号」に乗るまでの間が1時間半ほどあるので、軽い昼食をとる予定でした。駅前にラーメン屋があったのでそこに入ったのですが、先客が多く我々は2・2・1の3ケ所に分散して着席してラーメンを注文しました。SさんとAさんの間に若い女性が二人缶ビールを飲みながらラーメンを食べていたのですが、どういうきっかけかSさんと会話が弾むことになりました。私は会話に参加せずに聞いていただけですが、宮崎の若い女性がいかに開放的なのかよくわかりました。幸いこの店は食券制だったので「ごちそうさま」と言って伝票を押し付けられることはありませんでしたが、ほどほどのところで店を出ました。ラーメンの味はまずまずでした。
 13:31発の特急を待つ間、駅構内の喫茶店でコーヒー等を飲みながら時間調整をし、15分前になったので改札口に向かうと「13時31分発の特急は運航が取りやめになりました」とのアナウンスが流れ、一一同仰天しました。改札口の女性に確認すると運行取りやめは間違いなく、特急券は払い戻すとの返事でした。私は「我々は延岡まで行き、そこからバスで高千穂まで行くことになっているのでどうしてくれる」と思わず声を荒げてしまいました。まずは延岡まで行く方法を確常すると、13:47発の各駅停車に乗ると15:20に延岡に到着することがわかりました。延岡駅からのバスの出発時間が15:40発なので何とかなりそうということがわかりました。すぐに、5人分の特急券の払い戻し、各駅停車に乗り込みました。電車はローカル色の濃いもので、途中で学校帰りの男女中学生が大勢乗ってきたり、単線なので駅で反対車線の電車を待ったりして、5分遅れで延岡駅に到着しました。おかげで延岡城見学ができなくなりましたが、高千穂には無事に行けることとなり、安心しました。それにしても、事故でもないのに突然「運休します」という放送だけで特急を無くしてしまうというやりかたは、ローカル線では当たり前のことかもしれませんが、私には納得できませんでした。
 15:40延岡発の特急バス「高千穂号」は予定通りに出発しました。乗客は3分の1位で、皆ゆったりと席に座ることができました。約1時間の行程ですが、後半になると深い山奥に分け入るといった感じで、遥か下に流れる川や折り重なって見える稜線などを眺めていると、こここそが「天孫降臨」の地だという実感が湧いてきました。16:41にバスは高千穂バスセンターに到着し、ホテルに電話して迎えに来てもらいました。送迎車を待つ間、隣のタクシー営業所で高千穂観光でジャンボタクシーをお顔いすると、いくらかと聞くと「1時間5千円」という答えでした。
 この日の宿は「四季見」という14室ほどのこじんまりとしたホテルでした。部屋はS・Aさんの若手2名が311号室、同期3名が310号室で、隣合った和室でした。風呂も食堂も階段を降りたすぐの所にあり、勿論どちらも浴衣でOKでした。翌日の観光について1時間5千円の話を皆に披露すると、反対する者はおらず、早速タクシー営業所に電話して朝10暗から5時間で25,000円という話をまとめました。
 その後は大浴場で入浴しましたが、数人で満員になるほどの大きさは止むをえませんでした。湯室はラジウム温泉で、なかなか気持ちの良い風呂でした。宿泊客は少ないようでした。
 入浴が終わるといよいよ夕食です。まず出されたのが「竹酒」で、長さ1メートルほどの太い竹に酒を入れて火にかけたものです。仲居さんが器用に5人の杯に注いでくれましたが、竹の香がほんのりとしてなかなか風情のあるものでした。我々はここでも焼酎のストレートを飲むこととし、地域を尊重して「高千穂」という麦焼酎を注文しました。料理は山のものを中心としたヘルシーで珍しいものが多く、一同感激しました。ヘルシーなものだけではなく、日本一と言われる高千穂牛のサイコロステーキなどもあり、品数も豊富でした。おいしい料理とお酒に大満足した一同は部屋に戻り、再度入浴した者も多かったようですが、私はバタンキューでそのまま朝まで寝ていました。
 とにかく、この日は鹿児島から高千穂までひたすらに移動しただけで、回復した天気にもかかわらず乗り物の中から外の景色を眺めたり、居眠りをしたりの1日でした。新幹線を使った旅行とは大違いでしたが、このようなのんびりした旅行もまた楽しいものだと思いました。


  南九州・神話探妨の旅 (1)

中大の国際関係研究会のOB有志による旅行も今回で15回目を迎え、昨年の北九州の旅に続いて今回は南九州・神話探訪の旅ということで、鹿児島・宮崎を2泊3日で探訪してきました。企画の段階で心配だったのは、熊本地震や阿蘇・桜島の噴火、そして交通の便の悪さでした。旅行社の担当者と何回か相談の結果、何とかなりそうだったので11月21日に出発しました。

 ○第1日目(2016年11月21日)

 この日羽田空港の出発ロビーに集合したのは、43会会員である行田市の川辺さん、東京の私そして1年下の千葉市のSさん、2年後輩の船橋市のAさんの4名でした。5人目の43会会員である岡山市の高橋和尚は鹿児島空港で我々と合流するため前日に鹿児島入りをしていました。
 この日の天気は曇りで、夕方から雨との予報でした。気温は東京より数度高いようでしたが、皆さん高齢なのでそれなりの寒さ対策をしていました。予定通りJAL645便は10:15に羽田を出発し、12:10に鹿児島空港に到着し、到着ロビーで高橋和尚と無事に合流できました。まずは昼食ということで、空港内の食堂で軽いサンドイッチと飲み物を食べました。鹿児島の気温は高く、冬支度の一同は汗をかきながら食事を終えました。
 その後、予約してあったジャンボタクシーに乗り込み、まずは霧島神宮に行きました。残念ながら雨がパラパラ降ってきましたが、タクシー備え付けの傘があったのでそれを差して観光しました。この神社は天照大御神の命を受けて、ニニギノミコトが三種の神器を持って天から降りて来た(天孫降臨)高千穂峰のそばに建てられたのですが、その後の噴火などで何度か被災して次第に現在の位置まで後退したそうで、現在の建物は1715年に島津の殿様の命で建てられたとのことでした。今回の旅行でわかったのですが、わが国の始まりともいうべき「天孫降臨」神話の肝心の場所が、鹿児島県の霧島神宮の近くの高千穂峰と宮崎県の高千穂神社の近くというように2つの説があるのです。古事記や日本書紀には「日向(宮崎県)の高千穂の峯に天降ります」とあり、どうも宮崎県説の方に分があるようなのですが‥・。とにかく、どちらの説が正しいかわからないので、一同はしっかりとお参りしておきました。
 昭和天皇をはじめ多くの皇族も参拝しているとのことで、鹿児島県民も初詣や七五三などで大勢がお参りにきているそうです。
 次に向かったのは、日本一太い楠がある「蒲生(かもう)八幡神社」です。今年の2月に熱海の「来宮神社」を見学した時、タクシーの運転手に案内されて本州で一番太い楠を見たのですが、その時の説明で日本一の楠は鹿児島にあるというのを聞いたのです。今回の旅行を企画している時、はからずもその楠が霧島神宮と鹿児島市街の途中にあることがわかったのです。神社に到着するとその楠は本殿の左手にまるで怪物のようにそびえていました。タクシーの運転手の話では、雷に打たれたりして枝を何本か切り落としたので以前はもっと大きかったとのことでした。それにしても苔や草に覆われて、数十本の枝を伸ばした異様な姿に一同は感激するばかりでした。熱海の来宮神社は楠の周囲を回ったり、手で触れることもできたのですが、ここの楠は木の柵で覆われていて半周ほどしか回れず、また直接手で触れることもだきなかったので記念写真を撮影することで満足するしかありませんでした。ここで貰った由緒紀によれば、この楠は特別天然記念物であるとともに、昭和63年に環境庁により日本一の巨樹と認定されたそうで、高さ33メートル、太さ33メートル、樹齢1,500年とのことでした。私としては、これで日本一と本州一の巨木を見たことになり、大いに満足しました。
 この後、鹿児島市内に戻る途中で川辺さんのリクエストの仙厳院(島津家の別邸)」と私の希望した「鶴丸城(鹿児島城)」を見学する予定でしたが、雨足が強くなってきたため車の中から見るに留めました。タクシーの運転手との会話の中で、西郷隆盛のことが話題になりましたが、鹿児島では何といっても人気ナンバー1なので鹿児島県内では悪口は言わない方がよいと言われました。実際、西郷隆盛の銅像があちこちに建っており、その服装も軍服だったり礼服だったり様々でしたが、上野の銅像のような短い着物姿のものはないようでした。上野の銅像が完成した時、西郷隆盛の奥さんが「本人に少しも似ていない」と怒ったという話を聞いたことがありますが、おそらく奥さんとしては貧しい着物姿が不満だったのではないかと思いました。
 4時半頃、この日宿泊する「城山観光ホテル」に到着しました。ここは、鹿児島城の裏手の小高い山の上に建っている客室365室の巨大なホテルで、その立地や規模からして鹿児島では1~2を争う高級ホテルのようでした。部屋はタバコを吸う高橋・Sさんが745号室、あとの川辺・A・八束の3名が814号室になりました。あまりに広く、道に迷うのではという心配に加えて、客室区域以外を浴衣で歩かないで欲しいと言われ、浴衣で大浴場に行く場合は専用のエレベーターを使用するように言われたため、頭の中がごちゃごちゃになってしまいました。とりあえず入浴することに決めたのですが、6時から館内のレストランでの夕食を予約していたので浴衣に着替えるとまた面倒なので、洋服のままで大浴場に向かいました。桜島や錦江湾が一望できる大浴場(薩摩乃湯)」でしたが、外はもう暗闇で何も見えませんでしたが、立派な浴槽でゆっくりと旅行の疲れをとることができました。
 さていよいよ「薩摩会席」の夕飯です。「水簾」という館内の郷土料理店に集合した一同は、まずは飲み物を選ぶことになりました。鹿児島に来たからはというSさんの要望で焼酎に決まりました。銘柄は、一番ポピュラーな「白波」に決まり、次に飲み方をどうするかということになりました。これもまた、Sさんの意見が通り、味がよくわかるストレートで飲むことになりました。但し、氷水をそばに置いて胃の中で水割りになるようにしました。私も焼酎をストレートで飲むことは余り無かったのですが、確かに味がよくわかる上に、余り多く飲めないということもわかりました。
 料理については流石一流ホテルで、先付・前菜、お造り等どれをとっても一流の料理人の技が感じられ、一同は感心しながら食べ進みました。鹿児島郷土料理の豚骨煮や薩摩揚げ、そして薩摩汁などが続き薩摩を十分に味わいました。この日はベッドでしたが、ほどよい疲れとうまい料理と酒に大満足してぐっすりと眠ることができました。


 48年前に戻る日

 6月1日(水)の午前11時に、9名の男女が飯田橋に集まりました。私が30年余り勤務していた伊勢丹の仲間たちです。昭和43年に中大を卒業した私は、伊勢丹に就職して婦人服売り場に配属されました。この年の秋に伊勢丹は「男の新館」をオープンする予定で、紳士服売り場が半分を占めていた本館3階は全て婦人服売り場になるということで、3階に配属された新人は多かったのですが、S販売係長の担当である婦人服売り場は5つに分裂して展開することになっていたので、新人だけで男子5名、女子20名以上という多さで、取引先手伝い員も含めるとS販売係長の指揮下にあった販売員は100名を超えていました。それだけに活気がある団結力の強い売り場だったのです。
 私がこの売り場に在籍したのは1年ほどでしたが、10年以上前に、S販売係長を囲む会のようなものが結成され、年に1度会って食事をしたりするようになり、最近は軽いウオーキングと食事をするのが恒例になっています。勿論、全員が参加という訳ではありませんが、Sさんを中心に7~8名が参加する形で継続しています。
 今回は、飯田橋から小石川後楽園に行きました。全員が65歳以上なので、入場料は150円でした。丁度花菖蒲が盛りで、外国人も含めてそこそこの入場者数でした。池の水が工事の影響で濁っていたのが残念でしたが、都会の真ん中の豊かな緑を味わうことができ、一同満足しました。
 次は、千姫の墓がある「伝通院」という寺に行きました。さすがに徳川家ゆかりの寺で、三つ葉葵の紋があちこちに掲げられていました。千姫の墓は石の柵に囲まれた大きなもので、そばには徳川家康の生母やその他関係者と思われる人の立派な墓もいくつかありました。私は昨年、津和野に行った時、大阪城から千姫を助けたのに、助けたら嫁に貰えるという約束を反故にされて憤死した坂崎出羽守の墓の近くに行ったことがあるので、早速そ の話を皆にしました。
 丁度昼飯時ということで、幹事が予約しておいた「伝通院」近くの「AOI  NAPOLI]というイタリアンレストランに入りました。昼飯時とはいうものの、「伝通院」の裏のような場所に洒落たイタリアンレストランがあり、しかも50席以上もあるのにほぼ満席というのには驚きました。早速、サラダ、ピザ、パスタなどを注文する一方、まずはビールそしてワインをおいしく飲みました。ここは1階がワインバー、2階がレストランになっているのですが、2階の半分はテラスのようになっており、大変な賑わいでした。
 酔いが回ったところで次は東大の赤門の前で記念撮影をしました。折角なので東大生のお兄さんにシャッターを押してもらいました。その後、春日の局の墓のある「麟祥院」に立ち寄り、湯島天神を見学して解散しました。
 48年前に知り合った仲間がこのように集うこと自体珍しいことなのですが、会った瞬間から自分が48年前に戻ったように仲間と話せることにも感激しました。来年もぜひ元気に集まりたいと心から思いました。


 湯河原温泉と静岡旅行 (2)

〇 2月21日

 この日は前夜のうちに雨が通りすぎたため素晴らしい晴れでした。私は早く寝たために5時頃には目が覚めてしまい、朝湯に行きました。夜中の12時から男湯と女湯が入れ替わっており、やや小ぶりな大浴場に入りましたが、今度もまた貸し切り状態でした。外に露天風呂が見えたので行ってみた ところ、風が強くて寒く、湯温も低いので早々に出てしまいました。朝食は8時に指定してあったので家内も7時頃入浴していました。朝食は夕食と同じ場所で、これまた手の込んだ少量多品種の料理理でした。鯵の干物、イカそうめん、野菜の煮っけ、出汁卵、湯葉その他で、どれも美味しく、ご飯が進んで思わずお代わりしてしまった程でした。
 チェックアウト後、旅館に呼んでもらったタクシーで湯河原駅に行き、1駅先の熱海駅に向かいました。熱海駅からは「こだま」に乗り換えて静岡に向かいました。朝の車窓から富士山が目の前にくっきりと見ることができ、青空に白い雪の帽子を被った様子を十分に堪能しました。11時頃に静岡駅に到着し、早い昼食をと思ったのですが、美味しい朝食を食べすぎてお腹が空かないので先に観光をすることにして駅北口のタクシー乗り場に行き、駿府城と浅間神社の観光を依頼しました。駿府城は徳川家康が8歳から19歳まで人質にとられていた今川館の場所にあり、家康がその後天下統一を遂げて将軍職を2代目秀忠に譲った後に諸大名を動員してここに大きな城を築かせて晩年の10年を過ごした城なのです。かつては三重の堀に囲まれて天守閣まであったこの城も現在は全く面影がなく、わずかに堀と石垣が残っているだけでした。本丸跡は公園になっており、それ以外の敷地には県庁を始めとする多くの役所や裁判所、学校、病院などが建っていて、最近復元されたという小さな櫓だけが城らしさを留めていました。このように駿府城は期待外れでしたが、本丸跡地に徳川家康の銅像があると観光パンフレットに書かれていたので、せめてその前で写真を撮影しようと運転手さんに北御門に車を止めてもらい、徒歩で駿府城公園に向かいました。門を抜けるとすぐ公園になりましたが銅像が見つかりません。ランニング中と思われる男性に「徳川家康の銅像は何処にあるのですか」と尋ねると「あれはここから撤去されて現在は静岡駅北口に建っています」との答えでした。そんなら運転手さんもそう言ってくれればと思いましたが、次の浅間神社に向かいました。
 浅間神社はこの地方最古(約2千年以上前)の神社と言われており、神部神社、浅間神社、八鉾神社など7つの神社が合体した大きなもので、観光バスが何台か来ていました。7つのうち5つは並んで建っているので順番にお参りできましたが、あとの2つは百段ほどの石の階段の上にあるのでこれはパスして階段下にある賽銭箱に金をいれてお参りの代わりとしました。ここのお参りを終えてタクシーで静岡駅に戻り、駅前に建っていた徳川家康の像の下で記念写真を撮影しました。その後、ややお腹も減ってきたので駅ビルの「魚がし鮨」という寿司屋で握り寿司と、さざえの壷焼き、鮑の刺し身を頼んだのですが、出てきた握り寿司の具が大きいことに驚きました。鮮度もよく美味しいのでまたもや完食してしまい、動くのが嫌になるほどでした。その後、駅ビル内のドーナツ屋で2時間半ほど時間調整して15:37発の「ひかり」で東京に戻りました。
 今回の旅行は天候がいまいちでしたが、考えようでは天気予報が言う台風並の荒天にならず、二日目は快晴だったのでラッキーだったと思います。とにかく今年最初の旅行を終えてほっとしました。                                          以上


 湯河原温泉と静岡旅行 (1)

 年末・年始の忙しさや二人の孫の世話(長女夫婦が共働きのため、週4回二人の孫を保育園にお迎えに行き、夕飯を食べさせ、入浴までさせるのに加え、週2回6歳の孫の水泳教室の送り迎えを担当している)で頑張ってきた我々老夫婦の自分へのご褒美と疲れ休みということで今年最初の家族旅行を企画しました。まだ寒さが厳しい2月なので、多少は温かいと思われる熱海、静岡あたりを観光することとし、宿泊は湯河原温泉に狙いを定めて旅行社と相談しました。昨年もこの時期に伊豆の河津桜を観光し、吉奈温泉に宿泊し、熱海の梅園を鑑賞したのですが、中でも熱海の梅園がとてもよかったのでもう一度行くことにしたのです。また、1泊旅行の最終日にはなかなか観光する機会の無い静岡まで足を伸ばして、この地をゆっくり観光したり、おいしい生の桜海老でも食べたり、ついでに城巡りを趣味にしている私の城リストの53番目に駿府城を加えようとしたのです。湯河原温泉には、過去に2回行っていたので今回は多少グレードアップし、旅行社の推薦する「阿しか里」という2千坪の敷地に和室が18重しかない静かな旅館(1泊4万円/一人)を確保してもらいました。但し、旅行社からは桜海老の解禁は3月なので生の桜海老を食べるのは無理と告げられてがっかりしました。

〇 2月20日

 天気予報は昼前から雨となり、その後強い風が吹いたり大雨になるとの予報でしたが、9時半頃に家を出た頃はまだ曇りの状登でした。東京駅から「こだま」で出発した頃から雨が降り始め、12時4前に熱海に到着した頃にも小南の状態が続いていました。コインロッカーに荷物を預けて昼食を食べることにしたのですが、駅前は大規模な改修工事中でコインロッカーは無くなっていました。止むなく、荷物を持ったまま食事処を探す羽目になったのですが、多くの海鮮料理屋が満席の中、1軒の食事処で2席の空席が確保でき、そこで山菜蕎麦の軽い昼食を食べることができました。我々夫婦が山菜蕎麦を待っている間にも何人もの客が入って来ては断られているので本当にラッキーだと思いましたが、肝心の蕎麦の味はいまいちでした。
 その後駅前のタクシーの運転手さんに梅園の様子をリサーチしたところ、今年は例年より早く梅が咲いた関係で最高とは言えないがまだ十分に観光できるとのことだったので早速タクシーに乗り込みました。梅園では、昨年の時と同様に山の上の入口で降ろしてもらい、1時間後に下の出口に迎えに来てもらうことにしました。梅の鑑賞は傘を差しながらでしたが、梅はまだ大部分が咲いており、雨天で観光客が少ないのでゆっくりと紅梅・白梅を鑑賞することができました。
 次に、前回に来た時に見落としてしまった梅園近くの「来宮神社」を観光することにしました。タクシーの運転手さんの案内で境内に入ったところ、大きな木があったので「これが有名な御神木ですか」と尋ねたところ、これは樹齢1、300年の第二楠木であり、国指定の天然記念物である大楠木の御神木は本殿の裏にある樹齢2,000年の日本で2番目の巨樹で、その周りを回ると寿命が1年伸びるとのことでした。そこで本殿の裏に行ってみると、そこにはまるで怪物のような大木が立っており、その高さ(26メートル)、その太さ(24メートル)そして苔むした巨木の周りには二千年の歴史が刻まれた異様な形をした幹や瘤が絡みついており、運転手さんの説明では見方によっては干支の動物に見えたり大蛇に見えたりするとのことでした。とにかく凄い迫力で我々夫婦は「すごい」と言ったまま圧倒されてしまいました。気を取り直してこの巨木を1周したのですが、運転手さんの巨木の苔の部分を触りながら願い事をすると御利益があるとのアドバイスをしっかりと実行しました。家内は願い事が多いらしく2周していました。神社のパンフレットを読むと、昔はここは「木宮神社」という神々の宿る大木を祀る場所だったとのことで、江戸時代末期にこの木を切り倒そうとしたら鋸が折れてしまい、それ以降は神罰を恐れて誰も切り倒そうとはせず、最近ではパワースポットとしても有名だそうです。とにかく、この御神木は今回の旅行のハイライトとも言うべきものでした。
 御神木に感激した後、タクシーで熱海駅に戻ろうとしたのですが、運転手さんにこの後の予定を聞かれて「湯河原の阿しか里に泊まる」と答えると、それならこのままタクシーで行けば15分ほどで到着するとのことだったので、そのままタクシーで行くことにしました。湯河原に行く途中の伊豆山温泉で「走り湯」という日本の三古源泉(道後と有馬とここ)のひとつを見学しました。狭い洞窟に入ると、そこはまるでサウナのようで、ほんの数分居ただけで汗が滲み出てきました。奥は80度の温泉が湧き出ており、何時吹き出さないとも限らないとの説明に早く逃げ出したいと思いました。
 再びタクシーで湯河原に向かう途中で運転手さんに「湯河原駅前に源平時代の武将の土肥実平の銅像があるので不思議に思っていたら、観光地図に土肥城址というのがあったのでそこに寄ってもらえないか」と言うと「確かにあるが、城址といっても城も石垣もない」との答えだったので取り止めました。考えてみれば石垣や櫓を備えた城というのは戦国時代に発達したもので、それまでの城は堅固に防備された館程度のものだったので、現存するものは殆どないはずと納得しました。また、運転手さんとの会話の中で、土肥実平の本拠地が私が思っていた西伊豆の土肥町ではなく、この湯河原地方であることなどがわかりました。タクシーは多少道に迷ったものの2時半頃に旅館に到着しました。
 「阿しか里」は和風の普通の家のような感じの旅館で、玄関前も数台分の駐車場がある程度でした。我々夫婦の部屋は「葛城」というロビーから1階下がった部屋でした。旅館の周囲は木々に覆われていて全体を見渡すことはできませんでしたが、建物はコの字形をしていて広い中庭がありました。そして山の中腹に沿って建てられている関係で、玄関・食堂・大浴場などがあるフロアが3階、客室がその下の2階・1階に18部屋あるようでした。私達の「葛城」は12畳もある大きな部屋で、窓からは周囲の木々(桜の季節には素晴らしい眺めと思われ、この時も梅や柑橘系の木々が多く見られた)が眺められ、全体として日本家屋独特の落ち着いた雰囲気を漂わせていました。まずは温泉ということ3階の大浴場に行きましたがこれが意外に小さく、洗い場が5つほどしかありません。やはり18室しかない旅館ではこんなものかと思いましたが、時間が早いせいか私一人の貸し切り状態で、思いっきりのんびりと入浴することができました。湯温・湯質ともに最高で流石に湯河原という気分でした。女湯に入った家内の評価も同様で、女湯の方は更に小さくて洗い場が4つしかなかったようですが、やはりお蕩は最高との評価でした。
 あとは6時の夕食までということで、テレビを見ながらついうとうとしていました。夕食は中庭に面した大きな食堂で椅子・テーブル席でした。大きな食堂ですが、3つに仕切られているのでひとつの部屋には数人程度しか座っていません。廊下側の壁はワインセラーになっており、数十本のワインが並んでいました。料理が和食なので、私としては日本酒がいいと思い、昨年福井で飲んで美味しかった「黒龍」の大吟醸の冷酒1.5合を頼みました。料理は春菜と赤貝のあえ物、蛤のクリーム煮その他の先付けから始まり、帆立てと碗豆のおこわ、季節の魚貝の盛り合わせ、羹(あつもの)と続き、鉢肴や鰤大根の後に和牛とフォアグラ重ねというように出てきました。どれも手の込んだ料理で、味も最高で「黒龍」の大吟醸を飲み終えた私はワイン3種セットを頼みました。家内もこれらの珍しい料理に大喜びで、美味しい美味しいと感激していました。二人とも料理を完会し、大満足して部屋に戻りました。私は酔いが回ってしまい、テレビを見ながら9時過ぎには寝てしまいました。

 
 年末の福島 旅行 (2)

〇12月29日(火)

 この日は午前5暗から風呂に入れると聞いていたので、早寝して十分睡眠をとった私は5時に起床して今度は10階の大浴場に向かいました。午前5時にもかかわらず、同じような考えの人が居たらしく10名程度が入浴していました。ここは巨大なひのき風呂になっており、他にも何種類かの風呂がありましたが、私はひのき風呂で手足を延ばして体を活性化させました。
 朝食は基本的にはバイキングなのですが、前日の従業員の説明の時にバイキングは混雑すると聞いていたので、従業員のお勧めに従って2階の「風舞」という和風レストランを8時に予約しておきました。8時前に行くと既に朝食がセットされており、湯豆腐、サラダ、温泉卵、煮物、いろいろな小鉢、フルーツなどとこれまた豪華絢爛でした。私はご飯をおかゆにしてもらい、これまた完食してしまいました。
 9時半の送迎バスで磐梯熱海駅まで送ってもらい、電車で約1時間、会津若松に向かいました。車内は混雑しており、家内は猪苗代駅まで、私は会津若松駅直前まで立たされました。11時前に会津若松駅に到着し、荷物をコウンロッカーに預けて軽く昼食を食べることにしました。駅構内の綺麗なそば屋でなめこうどんを食べましたが、そばは店内で手打ちしているもで、なめこも大きくて量も多く、これに山盛りの大根卸と揚げかすが付いてくるのです。私は入れれば美味しくなるのがわかっていたのですがメタボ対策で大根卸だけ入れて食べましたがまずまずの美味しさでした。そして駅前のタクシー乗り場からタクシーで「若松城」に向かいました。この運転手さんも話嫌いな人らしく、「若松城の見学を終えた後に1時間半ほど観光したいので待っていてもらいたい」とお願いすると「それは勘弁して欲しい。会社の名刺を渡すので電話で呼んでもらいたい」と言うのです。全く商売気がないなと憤慨しましたが、とにかく城の見学をしました。天候は雪がパラパラとしてきて、城の屋根瓦(今回の改装で赤い瓦になった)も雪に覆われてしまい、新装なった白壁と相まって何もかも自となっていました。写真を何枚か撮影した後、前回も見学した城内を見学しました。天守閣まで上りましたが、外は寒そうなので直ぐに下りてしまいました。前回の暗も行ったのですが、天守閣前の広場の向こうに「麟閣」という茶室と庭園があり、天守閣入場券でこの「麟閣」にも入場できるのです。そして460円払うと抹茶と和菓子のセットを楽しむことができるので、一休みしてて抹茶と和菓子をいただき、タクシーを呼んで会津若松駅に向かいました。
 1時間弱余裕があったので、駅前の喫茶店で時間を潰していると外は猛烈な雪になってきました。会津若松駅から電車で郡山に向かったのですが、こちらでは始発駅の人草時間が早いことに気がついていた私は改札口から覗いて発車20分前から電車が入っているのを発見したので、直ぐに電車に乗り込み、まだガラガラのうちにドアから離れた一番いい席を確保しました。ドアから離れた席にしたのは、乗降時にこちらの電車は手動ボタンを押してドアを開閉するのですが、慣れない観光客などが乗車後にドアを閉めない場合が多く、ドア付近の乗客が寒い思いをしたり、席を立って手動ボタンを押したりするのを見てきたからなのです。
 家内は車内で居眠りしていましたが、私はずっと外を見ていました。会津若松から磐梯熱海あたりまでは吹雪で、道路も畑も見分けがつかない真っ白で、木々の枝も雪の重みで折れそうになって、まるで水墨画の世界のようでした。ところが磐梯熱海を過ぎる頃から雪が消えて道路も畑も普通の色を取り戻し、パステル画の世界になったのです。実に不思議だと思いました。
 郡山駅には15時13分に到着し、15時30分発の東北新幹線やまびこ144号に乗って上野に向かいました。東京は快晴で気温も高く、快適でした。
 今回の旅行は観光の面が余りパッとしなかったのですが、ホテルや温泉には恵まれて十分な休養をとることができました。何よりも、新幹線に乗り遅れたにもかかわらず大きなダメージにならなかった点が幸運でもあり、かつまた反省点でもあるとつくづく思いました。また、12月末の旅行については関東以北に行くのは避けたほうがよいとも思いました。                        以上

 年末の福島 旅行 (1)

 2015年恒例の年末の小旅行ということで、今年も孫の世話から解放される12月末に、福島の温泉で疲れをとろうということになりました。昨年は茨城県の大洗に行ったのですが、今回は地震と津波の被害からまだ立ち直れないでいる福島県に少しでも貢献したいと思ったことも事実です。
 福島には2010年の6月に一度行っており、その時は会津若松を始めとして喜多方や猪苗代湖なども観光したのですが、会津若松城が生憎と工事中で、城内見学はできたのですが、外装は工事幕に覆われてよく見れなかったので、今回は工事が完成した会津若松城をしっかりと見学することも目的のひとつでした。また、今回は真っ直ぐに会津若松に行くのではなく、途中で城下町二本松に寄って二本松城址を見学し、宿泊地もまた前回の会津若松の東山温泉ではなく、途中の磐梯熱海温泉というように変化を付けてみました。

〇12月28日(月)

 まずは上野駅から上野駅9:46発の東北新幹線やまびこ45号に乗ろうと9時25分頃に上野駅のプラットホームに到着しました。そして列車番号を確認したところ、何と切符は9時22分発のなすの255号になっていることに気が付きました。そう言えば旅行社の担当が出発列車が少し早いものに変更になったという連絡をくれたことを思い出したのですが、自分の計画書の訂正をするのを忘れていたのです。わずか3分ほどの違いでしたがなすの255号は既に出発しており、我々夫婦はこれに乗り遅れてしまったのです。直ぐに改札まで戻って、次の新幹線の指定席を申し込むと、幸運にも計画書通りの9:46発のやまびこ45号の席が確保できたのです。8千円なにがしかの出費は痛かったのですが、とにかくこれで今回の旅行スケジュールは元通りになりました。
 新幹線はほぼ満席状態で、約1時間で郡山に到着し、ここで東北本線に乗り換えて11時半頃に二本松駅に到着しました。まずは昼食ということなのですが、ローカル駅前には食堂が1軒も無い所が多いので恐る恐る駅から出てみると、何と真正面にレストランと書かれた店が見えました。すぐに入ってみると、20人位は座れるまずまずの店だったので安心して軽めの「けんちんうどん」(670円)を頼み、大根、人参、里芋などが入ったまるで芋煮鍋のような美味しいうどんをいただきました。
 駅前からタクシーに乗って「二本松城(霞ヶ城)をお願いします」と伝えたのですが、運転手さんの反応はいまいちです。そこで「城の見学が終わってから1時間半ほど時間があるのでどこか適当な場所はないか」と尋ねてもいい答えは返ってきません。とりあえず、数分で霞ヶ城祉公園に到着しのでタクシーには待っててもらい徒歩で見学に向かいました。事前に調べておいた資料によると、この城は江戸時代はかつて織田信長の重臣だった丹羽長秀の孫が10万1千石の二本松藩主となり幕末まで存続していたとのことです。幕末の戊辰戦争では二本松藩は奥羽越列藩同盟として板垣退助の指捧する官軍と戦い、会津攻めに先立って落城・焼失した上に石高を5万石に減らされたのです。落城の際には会津の「白虎隊」と同様に「少年隊」が悲劇的な最後を遂げたのですが、知名度は「白虎隊」に比べていまいちのようでした。
 城の入り口には大砲を操ったり鉄砲を構えたりする少年隊の銅像があり、大きな石垣を回って城門を潜ると城があったとされる広場があるだけで、あとは何もありません。奥の方に天守台の跡があるとのことでしたが、観光客らしき人も見当たらず拍子抜けしてタクシーに戻りました。そこで運転手さんにもう一度「他に観光できる場所はないか」と尋ねると「あとは歴史資料館くらいかな」と言うのでそこに向かいました。ところが、着いてみると休館日ということで閉まっています。そこで私が地図を出して近くを調べ、「観世寺が近いのでそこに行って欲しい」と言うと「ああ、あの鬼婆伝説の寺だね」ということで、そこに連れて行ってもらいました。
 観世寺は別名「安達ケ原 票塚」と呼ばれている鬼婆伝説の霊場で、400円の入場料を払って入ると鬼婆伝説の資料館、鬼婆が隠れ住んでいたという大岩、ここを見学した松尾芭蕉や正岡子規の歌碑などがありました。資料館でテープの説明を聞いていると、我が家の近くにある入谷の鬼子母神伝説に似通った点もあって興味深いものがありました。両者の共通点は旅人を殺していたこと、知らずに自分の子供を殺してしまったことです。共通していないのは、鬼子母神の方は悔い改めてその後は子供を守る神様になったのに対して、安達ケ原の鬼婆の方は東光坊という坊さんに祈り殺されてしまったという点です。そばにお土産屋があって「鬼婆饅頭」でも売っているのかと思っていましたが、何もありませんでした。
 他に観光する場所もないようですし、タクシーの運転手さんも気乗りしていないようなので、時間もはどはど過ぎてきたので二本松駅に戻りました。タクシー代金は5千円でした。親切に案内したりしてくれた運転手さんには、2千円か3千円くらい上乗せするようにしてきた私ですが、今回は5千円ジャストを渡しました。
 二本松駅から電車で約30分かけて郡山に戻り、磐越西線に乗り換えてこの日の宿泊地である磐梯熱海に向かいました。20分はどで磐梯熱海駅に到着し、送迎バスでホテル「華の湯」に向かいました。磐梯熱海は初めての場所で、どうせ郡山と会津若松の中間にある猪苗代湖畔のマイナーな温泉町と思っていたのですが、送迎バスの窓から見える風景はまるで鬼怒川温泉か熱海のようで、大きなホテルが林立していてびっくりしてしまいました。「華の湯」はその中でもトップクラスのホテルで、大きな2棟からなっていて客室162室、風呂が大小30もあるのです。従業員が言うには、英国のウィリアム王子が福島の被災地慰問に来られた時のホテルは同じ磐梯熱海の「一力」だったとのことでした。私たち夫婦は8階の2807号室という広い部屋でした。従業員の説明では、この日部屋ははぼ満室で大浴場はこの時間女性が10階「展望ひのき癒しの湯」、男性が1階の「庭園露天風呂」ということだったので、それぞれに別れて風呂に入りました。さすがに満室ということで、脱衣場や洗い場はやや混雑していましたが、浴槽が大きくて何種類もあるのでバラけてしまって大勢いるにもかかわらずゆったりと入浴できました。湯の温度も丁度よく、広い浴槽で手足を思いっきり延ばすと天国でした。家内の評価も絶賛で、疲れを癒すことが目的だった今回の旅行の第一目的達成といったところでした。
 夕食は6時から部屋でということになっており、専属の男性従業員が次々に料理を運んで釆て説明してくれました。料理は蟹みそ豆腐の先付から前菜4種盛り、お造り、豚しゃぶ、ずわい蟹の酢物その他と種類豊富で、メインの飽の踊り蒸し焼きには家内も大喜びでした。私も風呂あがりに部屋でヒールを1本飲んでいたのですが、夕食時には生酒の冷酒(2合瓶)をちびちび飲みながら、これらの料理を完会してしまいました。本当に美味しくかつヘルシーな内容で感激しました。
 その後、家内はまた風呂に行ったようですが、私はテレビを見ながら寝てしまいました。部屋の中は暖房の弱にしてあっても暑いくらいでしたが、カーテンを少し開くと外はかなり冷たそうでした。
                                                      以上

 

 うどん屋のないうどん県 (2)

5月4日(月)

 この日は琴平駅から丸亀駅に向かいました。丸亀駅から目的地の丸亀城まで歩いて行く途中で、昼食の讃岐うどんを食べる店を探しましたが、ここも駅からお城までの20分ほどのメインストリートに「つづみ」という1軒だけしかありませんでした。
 丸亀城は、江戸時代初期には高松城を本拠地とした生駒氏の支配下にありましたが、生駒氏が左遷された後に山崎氏が5万石で入り、1658年に山崎氏が改易になると京極氏の本家が入ってきて幕末まで疑いたのです。京極氏は宇多源氏の佐々木氏の流れで、足利幕府においては三管領(細川、畠山、斯波)に次ぐ四職(赤松、山名、一色、京極)という名門で、豊臣秀吉の時代に京極高次が淀君の妹であり、かつまた2代将軍徳川秀忠の室(お江)の姉である「お初」を娶ったことで、豊臣~徳川時代300年を生き延ることができたのです。この城は石段ではなく急な石畳の坂道を登る形式なので結構きついものでした。途中の石垣は「忍び返し」という反り返っており見応えはありましたが、この日は「お城祭り」で城内あちこちに屋台やテントが展開していて興ざめでした。
 12時半頃になったので昼食を食べるために先程見つけてた「つづみ」という店に行くと、驚いたことに行列ができています。あわてて行列の後ろに並びましたが、列はなかなか進みません。入口から中を覗くと、店の人は調理場に男性が二人、店内に女性が二人で、客の方は約40人で、ほとんどがうどんが出るのを待っているのです。調理場を見ると、男性の一人が懸命にうどんを捏ねたり、切ったり、茹でたりしており、もう一人は揚げ物に付ききりです。これは困ったと思いましたが、この日は時間に余裕があり、また駅からここまでの間にうどん屋が1軒もないことがわかっていたので、せめて店内に入ったらすぐに注文できるようにしておこうと思い、すぐに出来ると思われた「山かけ醤油うどん」を頼むことにしました。30分ほどで席に座れたので、即座に店の女性に注文するとすぐに調理場に通してくれました。そのため、20分ほど待たされた後でしたが、うどんが出てきました。「山かけ醤油うどん」はどんぶりにうどんと山芋の擦ったものが入っており、これに薬味と醤油をかけて食べるものでしたが、やはりうどんがもちもちしていて抜群に美味しく、醤油を調節しながらかけつつ食べて、大満足でした。
 このように、うどん県である香川県の代表的な都市である高松市と丸亀市とで、美味しい讃岐うどんを食べようとしたのに、それに対応する体制がまるでとれていないことに驚きました。そのことをタクシーの運転手などに言うと「少し離れた場所にうどん屋は沢山ある」と言います。観光案内所に尋ねなかった私にも落ち度があるとしても、両市とも駅前にうどん屋がほとんど無いことは事実です。
 これでは看板に偽りありと言われても仕方のないことで、不慣れな観光客用に駅周辺に看板・掲示板を立てるなり、市内有名うどん屋マップなどをあちこちに置くことを怠った両市の観光振興課はもてなし”の心が足らないと言わざるを得ず、その責任は重いと思いました。
 その後の道後温泉本館の入浴と松前町のルーツ探しについては、結論を言えば、道後温泉本館には私たち夫婦と同じ考えの人達が大勢で行列を作っており、諦めるしかありませんでした。松前町のルーツ探しについては、具体的には寺を5つはど回って「八束家」の墓石それも「丸に橘」の家紋の付いたものを探したのですが、「八束家」の墓石は20体ほど見つかりましたが、「丸に橘」の家紋のものは一つもなく、これも空振りに終わったことを報告しておきます。
 今回の旅行は、このように目的達成は成りませんでしたが、2つの城と1つの城址を見ることができ、また苦労はしたもののおいしい讃岐うどんが食べられたこと、そして素晴らしい温泉にゆっくり入って疲れをとることができたことでまずまずだったと思いました。 
                                     以 上


 うどん屋のないうどん県 (1)

 娘夫婦が休みで二人の孫の世話から解放されるゴールデンウィークに、四国旅行を計画しました。
 今回の目的は、家内が以前から言っていた道後温泉本館での入浴の実現と、私の八束家ルーツ探しのための愛媛県松前町訪問の二つでしたが、香川県に行くからには本場の“讃岐うどん”を味わって来ることも重要な目的の一つでした。コースは、飛行機で羽田⇒高松と飛び、琴平・丸亀を観光した後電車で松山に向かい、帰りは松山⇒羽田の飛行機です。宿泊は琴平温泉と道後温泉ということになりました。ゴールデンウィーク中なので宿泊費も高く、混雑その他の混乱が多少不安でした

5月3日(日)

 この日は羽田発9:30のANA533便(満席)に乗って、予定通り10:45に香川県の高松空港に到着しました。そこからリムジンバスに乗って高松駅前に着いた時には11:30頃になっていたので、さっそく昼食を食べる店を探しました。香川県は「うどん県」に名前を変えたいと思っていたので、さっそく昼食を食べる店を探しました。香川県は「うどん県」に名前を変えたいと思っているはどの“うどん王国”と聞いていたので、駅前にはうどん屋がずらっと並んでいて選ぶのに困ると予想していたのですが、実際には駅前にうどん屋は1軒もありません。また「うどん店マップ」の類も一切ありません。家内と二人であちこち歩いた末に、大きなビルの2階に「讃岐うどん」と書かれた看板があるのが日に止まりました。ここにうどん屋が集中していたのかと思って入ってみると2階の食堂街にはラーメン屋が3軒、中華料理店が1軒、和食屋が1軒で、肝心のうどん屋は1軒しかありません。しかも私達と同様にあちこち彷担ったと思われる観光客が10人ほど入口に並んでいるのです。どうしようか迷いましたが、お腹も減っていることだし、うどんなので食べる時間も早いはずと思い並びました。20分ほどしてからやっと座敷席に案内されましたが、料理を待っている人ばかりでうどんを食べている人は余りいません。これは時間がかかりそうと思い、やや焦ってきました。というのは、13:13高松駅発の電車で琴平に向かう予定だったのと、先程のリムジンバスで来る途中で見かけた高松城を急遽見学したいと思ったからです。やっと注文をとりに来た店員に一番早くできるであろう「生醤油うどん」を注文しました。するとその女性が「今混み合っているので多少のお時間がかかりますが」と言うのでこちらもついムッとして「何時聞かかるのか」とややきつい調子で尋ねると「何時間もはかかりませんが20分ほどです」との答えです。私は「それでいいが、こちらも電車の時間があるので急いで欲しい」と言いました。店の方も「うるさそうな客」と思ったらしく、うどんは10分ほどで出てきました。もちもちした美味しいうどんと、小さな大根とおろし金、それに薬味と生醤油が付いてきました。大根おろしくらいは店の方でおろしてくれればいいのにと思いっつ、急いで大根をおろし、うどんにぶっかけて生醤油は店の人が言うように「少しづつ」入れましたが、何しろうどんが美味しいので、ほとんど“素うどん”状態なのですが待った甲斐がある味でした。帰りにレジで「美味しかった」とか「急がせて悪かった」とか言うっもりでしたが、レジが慣れないアルバイトみたいな女の子で、もたついていたので言うのは止めました。
 高松駅で改めて電車の切符を確認すると、この切符が座席指定券ではないことに気が付きました。ということは時間を遅らせて次の電車に乗ることもできるはずだと思い、駅員に相談すると約30分後の電車に乗ればよいことがわかったので、早速徒歩で高松城見学に出掛けました。ここは豊臣秀吉の部将だった生駒氏が最初に城を築いたのですが、3代目藩主の時に藩内で紛争が発生してその咎で東北地方に左遷され、後任には徳川家康の孫で水戸光国の兄に当たる松平頼重が12万石で入ってそのまま幕末に至ったものです。綺麗な石垣・堀・庭園そして小さな天守閣などがあり、ほんの30分ほどでしたがあちこち見学できました。
 その後琴平駅まで行き、タクシーでこの日の宿である「琴平グランドホテル」に入りました。このホテルは“こんぴらさん”の参道1,500段の22段目の所にあって外装は古い感じでしたが、内装は綺麗なホテルでした。この頃から雨がパラついてきましたが、時間もまだ早いのでホテルで長傘を借りて参道を少し登ってみることにしました。小雨という状況でも参道を歩く観光客は多く、両側のお土産屋も賑わっていましたが、売っているものは一昔前のもの(木彫りの仏像や動物など、瓦せんべい、うどん等)ばかりで、余り魅力を感じませんでした。せめて750段目の大門が見える所まで行くつもりでしたが、雨天ということもあって僅か168段目でリタイアしてしまいました。因みに、足の悪い人を駕籠で運ぶ店が出ていたので、料金を確認すると5,300円でした。
 その後ホテルに戻り、6階の部屋に案内されました。部屋の窓からは先程の参道がよく見えて、我々が行きたいと思った大門も正面にしっかりと見えました。あとは大浴場でゆっくりと汗を流し、美味しい料理を堪能しました。料理メニューに7種類のうどんの小鉢を何杯でもお代わりできるというのがあったので、「こんぴらカレーうどん」と「醤油うどん」の2杯を食べてみましたが、味は昼間高松で食べたものの方がおいしかったです。

 東 青 森 旅 行 (2)

〇 7月26日(日)

7時半から夕食と同じ1階の会場で、バイキング形式の朝食を食べました。ホテルからは混雑するので少し遅めに来た方がいいと言われていましたが、30分遅らせただけで行ってみると危なく席が無くなるところで、やっと確保してヘルシーな料理を食べることができました。
 この日は昼間は曇り、午後は雨と言う予報だったので、なるべく早くと思って8時半頃にチェックアウトして、8:50発の電車で青森に向かいました。9:14に青森駅に到着し、荷物をコインロッカーに預けて、お茶のペットボトルと折り畳み傘そしてカメラを持って駅から徒歩5分の昔の青函連絡船「八甲田丸」の見学に行きました。雨天になりそうということもあって、なるべく駅周辺で観光しようと思ったからです。青函連絡船には以前に1度か2度乗った記憶があるのですが、それが八甲田丸だったかどうか記憶が定かではありませんでしたが、船内の資料を見学しているうちに、「羊蹄丸」という名があり、自分の記憶ではこれに乗ったことがあるような気がしました。船内がいやに蒸し暑く、20分ほどで見学を終えてしまいました。
 次は、「八甲田丸」から海岸線に沿って続くラブリッジという橋を5分ほど歩いた所にある青森県観光物産館(愛称アスパム)という三角形の14階建てのビルに向かいました。ここには色々なお土産を販売しているのと、何軒かの食事処があり、13階には展望台もあるということで見学することにしたのです。1階全体が物産品の販売店になっており、ここで「にんにく」や菓子などを購入しました。13階の展望台にも行って(観覧券400円)下界の青森港や町並みなどを見たりしました。
 青森港周辺の海は、陸奥湾とその内側の青森湾に二重に守られているため、実に穏やかでした。  そのうちに昼食を食べようとしたのですが、家内が軽くラーメンを食べたいというので、もう一度海鮮料理をと思っていた私も譲って1階の物産店の脇にあるラーメンコーナーでホタテラーメンを食べました。余り期待はしていなかったのですが、これが意外にうまくラッキーでした。
 その後、11時半から2階で津軽三味線の演奏があるというので、今度も早く行って前から2列目の席を確保しました。今回は高橋という女性で、色々な曲を解説などを含めて30分にわたって演奏してくれました。津軽弁での楽しいトークもあり、家内も津軽三味線を2度も経験できて大満足していました。
 その後は青森駅に戻り、コインロッカーから荷物を出して、駅ビル内のドトールでコーヒーを飲んだり、お土産を買い足したりして時間を潰し、1時すぎにタクシーに乗って新青森駅に向かいました。
 電車で1駅の距離と思っていたのですが実際にはかなりの距離があり、タクシー代金は2千円を超えていました。新青森駅も新幹線のために新しく作られた駅で、青森の中心街からかなり離れた場所にあるのです。
 帰りの新幹線は13:52発のはやぶさ22号で、へとへとになって指定席に座り、荷物を棚に上げたり、読み残していた本を出したり、椅子をリクライニングしていたところ、別の乗客が「席を間違えていませんか」と言ってきました。あわてて切符を確認すると我々の席は一両前の3号車ということがわかり、あわてて「すみません」などと言いながら荷物を纏めて移動する始末となりました。最後まで気が抜いてはいけないという教訓です。
 今回の旅行は観光よりは疲れ休みが目的だったので、それはまあまあ成功だったのですが、青森の観光とかおいしい生鮮という点についてはやや物足りない部分があったのは否めません。天候については台風の影響とかが心配でしたが、1日目は新幹線の中では雨が降っていたものの、降りると止んでしまったり、2日目も午後は雨という予報にもかかわらず曇りのままだったというラッキーなものでした。
 余談ですが、青森のタクシーの運転手が「青物には外国人が全く来てくれない」とぼやいていたのですが、実際に私が感じたことは歴史的な文化遺産が少ないことの他、観光客の受け入れ体制ができていないことが原因と思いました。観光化されていない自然や、北海道と同じ海から収穫される海産物など観光の目玉になるものは十分にあるのに、それを上手に展開したり、紹介したりするのが器用さにやや欠ける青森県人の気質のために活かされていないのです。しかし、外国人が溢れかえっている浅草に住んでいる私としては、観光化されていない青森県はそれなりにいい処だと思いました。日本らしさが残った県がいくつかあり、それを確認したい日本人が時々訪れるというものいいのではないかと思うからです。ましてや真面目で不器用という青森県人の気質は失われつつある日本人の原点だからなのです。

                                                  以上

  東 青 森 旅 行 (1)

 梅雨の6月、猛暑の7月・8月は健康のためにも旅行は控えておこうと考えていましたが、同窓会活動を43会に絞った関係でどうにも退屈な日々が続き、身体も鈍ってきたように思えてきました。
 そこで7月25日(土)から26日(日)の1泊2日で多少でも涼しい場所として東青森に行くことにしました。元々青森県は北海道への通過県として何回か通過したことがあり、また伊勢丹OB会で弘前・松前・函館の3大花見旅行で浅虫温泉にも宿泊したことはあるのですが、その時は幹事として会員の世話をする立場ということで、ほとんど記憶が無いという状態でした。
 今回は、夫婦ともに行ったことのない八戸で新鮮な海の幸を食べ、その後浅虫温泉に行って温泉を満喫し、最後に青森に行って市場で新鮮な海の幸を購入するという企画を考えました。八戸には南部 藩の支藩の城もあるようなので楽しみにしていました。因みに、八戸藩は2万石の小さな藩です。

〇 7月25日(土)

 台風12号が沖縄に近づく中、上野発9:14の東北新幹線はやぶさ9号で八戸に向ったのですが、夏休みが始まっていたせいか電車は満席状態でした。12:02に八戸駅に到着し、昼食を食べるため八戸線に乗えて陸奥湊駅に向かいました。地方の新幹線駅によくあることで、新幹線の駅は中心街から離れた場所にあり、従来の八戸の中心街は本八戸駅なのです。しかも、美味しい海鮮料理を食べるには更に海に近い陸奥湊駅に行かなければならないのです。
 台風12号が沖縄に近づく中、上野発9:14の東北新幹線はやぶさ9号で八戸に向ったのですが、夏休みが始まっていたせいか電車は満席状態でした。12:02に八戸駅に到着し、昼食を食べるため八戸線に乗えて陸奥湊駅に向かいました。地方の新幹線駅によくあることで、新幹線の駅は中心街から離れた場所にあり、従来の八戸の中心街は本八戸駅なのです。しかも、美味しい海鮮料理を食べるには更に海に近い陸奥湊駅に行かなければならないのです。
 12:37に陸奥湊駅に到着し、ガイドブックにあった「みなと食堂」という海鮮食堂をやっと見つけて入ったのですが、周囲には何の店もない場所にある古い寿司屋といった店で、客席は12席しかなく、しかも満席状態な上に待機用丸椅子で3人達れの先客が待っているという有り様でした。これは時間がかかりそうだなと思いましたが、この店以外に食べる場所がないようなので、待っことにしました。この店は漁師と思われる調理人の中年男性が奥で作っており、カウンターの中には中年のおばさんが3人、洗い物をしたり、味噌汁を用意したり、ご飯を井に盛ったりしていました。メニューはカウンター上や壁に10枚くらいサインペンで書かれてぶら下がっていたので、私は「四合わ井」(しあわせどんと読むようで、マグロとホタテとイクラと甘えびが乗って1、300円)、家内は「漁師井」(四合わせ井に更にウニとイカが加わった1、700円)を注文してひたすら待ち続けた。結論を言うと、井が出てきたのは入店してから45分後で、腹を空かせていた我々夫婦は物も言わずにこれを数分で完会してしまいました。気になるそのお味は待った甲斐がある素晴らしいものでした。私が食べた「四合わせ井」について言えば、厚さが2センチ以上もあるホタテの貝柱が二枚と、新鮮な甘エビが8匹も入っており、どれをとっても新鮮で生臭さは全くありませんでした。家内も同様に満足していました。
 昼食に1時間とられてしまったので、あわてて電車で2駅戻って本八戸駅に行き、そこからはタクシーで八戸観光をするにしても15:36発の電車で浅虫温泉に向かう必要があるので、本八戸での観光に使える時間は1時間ちょっとしかありませんでした。タクシーの運転手と相談した結果、効率的な観光として八戸城祉とその隣にある八戸市博物館を観光することにしました。八戸城址は鎌倉時代からこの地方を治めていた南部氏(江戸時代には盛岡20万石)の分家として八戸藩(2万石)が置かれていたのです。八戸城は別名「根の城」とも呼ばれていたようですが、天守閣や城郭・石垣・などはもともと無い城で、どちらかと言うと堀に囲まれた館とか砦に近いもののようでした。現在は公園となっていて僅かに堀の跡や棟門ひとつが昔の面影を残していました。城や城祉に関心のある私としてはやや物足りないものでしたが、本州の最北端の八戸にあってはこの程度の城で事足りたのだと思いました。
 博物館については、それほど大きくない建物の中に縄文時代から太平洋戦争時の空襲までに関する資料を展示しており、これもまた物足りないものでした。
 本八戸観光を切り上げてタクシーで八戸駅に向かい、15:36発の青い森鉄道の電車でこの日の宿泊地である浅虫温泉に向いました。タクシー料金は3千円弱でしたが、色々と案内して貰ったり、観光中に待っていて貰ったりしていたので5千円を支払っておきました。浅虫温泉駅には16:44に到着したのですが、浅虫温泉と言えば東北でも有名な温泉地と思っていたのに、ここで降りたのが我々夫婦だけだったこと、駅構内や周辺が閑散としていたことにはびっくりしました。でも実際にはホテルは満室状態だったので、宿泊客のほとんどは電車ではなく車で来ているということがその理由だったようです。
 駅前に奪えるホテル「南部屋 海扇閣」9年前5月に、伊勢丹同窓会の旅行の時に宿泊したことがあり、館内に入って特徴ある玄関ホールを見た時に思い出が蘇ってきました。部屋は6階で窓からは目の前に形のよい「湯の島」が浮かぶ青森湾が広がり、眼下には海水浴場と海釣り公園が見えるとても景色のよい部屋でした。早速交代で9階の大浴場に行き汗を流したのですが、この大浴場も素晴らしく、景色がいいのに加えて広い浴槽が熟めのと温めのと二つもあり、湯温もとてもよいものでした。家内も絶賛していました。
 ホテルには子供達れの家族の他、会社の慰労会のような団体もおり、89室400名の収容能力一杯といったところでしたが、そのことは、夕飯や翌日の朝食の時に感じられ、特に朝食時には1階の宴会場に入れ切れない人のために外にテーブル席が設けられたはどでした。料理は総じてヘルシーで、鮮度のよい刺し身を始めとして鶏肉の陶板焼き、魚介類の陶板焼き、その他があり、食事としてはとろろ蕎麦、最後はリンゴのデザートなどが出ました。
 夕食が終わった8時半から、1階のホールで津軽三味線の演奏があると聞いていたので早め夕食会場を出て一番前の席を確保しました。この日の演奏は「つくだ」という男性で、じょんがら節を色々なバージョンで弾いたり、時代による変化などを説明しながら弾いたりしてなかなか面白いものでした。津軽三味線を聴きたかった家内も大喜びでした。


 ちょい悪親父達の日光 ・鬼怒川旅行(2)

第2日目(4月20日(月))

 この日7時頃、高橋氏が302号室に入って来て「朝だ朝だ」などと言いながら窓を開けたりするので目が覚めました。昨夜の宴会時に翌日の計画について「天気予報では大雨とのことなので、朝はゆっくり寝て、風呂などに入って、チェックアウトぎりぎりの10時に出てそのまま帰ろう」ということになっていたのですが、外を見ると曇っているものの雨は降っておらずこれは当初画通りに「龍王峡」に行けるかもということになりました。予約していた7時半から鮎の干物、湯葉、煮物などの朝食を食べ、9時半までにチェックアウトを済ませて「龍王峡」に向かうことにしました。時間は余裕があったので、食後にもう一度入浴して身体を目覚めさせました。

 大女将から全員に「わさび漬け」のお土産をもらい、ホテル前で集合写真を撮影後、2台の車に分乗して約20分、「龍王峡」の出発点に到着しました。ここでまた小雨が降ってきたのでどうしようということになったのですが、すぐに雨が止んだので、行ける所まで行ってみようとハイキングコースに入りました。ハイキングコースとは言っても、実際には川原に近い場所にある「龍主神社」や鬼怒川の流れや回りの奇岩、新緑の森などが見える絶景の「虹見橋」を見て帰るだけのつもりでした。「龍主神社」まで石段を降りるのが大変でしたが、前日、家康や家光の墓の石段を経験していたのでそれはどこたえませんでした。午前中で空気も綺麗で、上流の雨のせいか水量の激しい川の流れそして何本もある滝、新緑の中に何本か満開を過ぎてまだ花の残っている桜などがあり、「虹見橋」の上からこれらを眺めた一行はただただ感激していました。
 43会の旅行の時も、正野さんや盬野さんがここでの景色に感激していたのを思い出しました。
 絶景に感激した後、再び今度は厳しい上り道で入口まで戻りました。一同、声も出ないくらいに疲れてしまったので、威勢のよい声で客引きをしていたおばさんの茶店に入ってコーヒーを飲みました。雨で客足がほとんどなかって時に8名も入ったのでおばさんも大喜びで、土地の焼き栗などを無料で振る舞ってくれたりしました。こちらもお返しに、この焼き栗をお土産に買ったりしました。
 その後、2台の車に分乗して11時前に鬼怒川温泉駅に到着し、ここの駅前にある「ハチヤ」というバウムクーヘン屋でお土産を買い、ここで解散ということになりました。帰りは、行きと同じメンバー4名が11時15分発の特急「スペイシア」で浅草に向かいました。車中では缶ビールを飲みながらわいわいとお喋りしたり、昼食の弁当を食べているうちに午後1時15分に東武浅草駅に到着し、ここで解散ということになりました。
 71歳から68歳までのちょい悪親爺が8名が東京、千葉、埼玉、岡山から電車や車で集まり、それぞれの希望の観光地に分かれた後に再び同じホテルに集まり、わいわいと入浴したり酒を飲んだり、ヘルシーな料理を食べたり、そして翌日もふうふう言いながらハイキングコースを歩いたり、景色に感激したりという今回の旅行もこのように無事に楽しく終わることができました。天気予報が運良く外れて、たいした雨も降らず、かえって静かな墓所や渓谷をゆっくりと見ることができ、本当によかったと思いました。多くの友人・知人が亡くなり或いは体調を崩してこのような機会を持てなかった中、この年になって我々だけがこのような素晴らしい機会を経験できたことに感謝しなくてはいけないと思いました。今後も無理をせず、年に1回くらいは軽い1泊旅行をやってみようということで、その企画を楽しみに、今後1年間、体調の維持に努力していくつもりです。                   以 上


 

 ちょい悪親父達の日光 ・鬼怒川旅行(1)

  419日(日)から12日で、中大の国際関係研究会OB8名で、日光・鬼怒川に観光旅行で行ってきました。私は在学中は文化連盟所属の国際関係研究会という会に入っており、その同期とは毎年旅行をしていて、自門43会のホームページでも何回か紹介させてもらいました。国際関係研究会の同期には、岡山の高橋さん(住職)、行田の川辺さん(用品店チェーンのオーナー)などの43会会員もいます。
 今回は、やはり中大の国際関係研究会OBで構成されている「香家の会」という仲間で、卒業年度が昭和41年~45年のOB(約20名)です。5年前に発足し、その時の会場が銀座の「香家(こうや)」という店だったので「香家の会」と命名されたのです。
 前置きが長くなりましたが、昨年の春の飲み会の時に、次回は私が幹事をやれということになり、それではということで「香家の会」初の1泊旅行をしようということになったのです。
  私としては、幹事の特権を行使して、過去に何回も行っている日光・鬼怒川に行くことにして、宿もこれまでに20回近く宿泊している「七重八重」にしました。このコースは、過去に43会が「留学生との集い」を成功させた後に打ち上げとして30名前後で観光・宿泊したこともあって、私としては楽に運営できるのです。今回の参加者は、41年卒1名、42年卒1名、43年卒3名、44年卒2名、45年卒1名の8名でした。

 1日目(419日(日))

 この日、午前10時に東武浅草駅を出る特急「スペイシア」の個室席で、私と岡山の高橋さんを含む4名が出発しました。この他、行田の川辺さん、千葉からの3名がそれぞれの車で東武日光駅に向かい、日光駅前で落ち合うことになっていました。
 東武浅草駅から出た組については、私以外は個室席は初めてで、そのリッチな雰囲気に大喜びでした。東武日光駅までの約2時間、社内販売で買ったビールを飲んだり、各人がそれぞれ個別に用意しお弁当(私はいっものアサリが一杯入った深川弁当)を食べたりしながらよく話し、あっという間に東武日光駅に到着しました。(実際には下今市駅で乗換えて約2時間でした)東武日光駅で合流した8名は、かねてからこの日の観光を、①日光東麒宮観光 ②田母沢御用邸のいずれか希望ということで、4名づっに分かれることになっていたのでそれぞれ2台の車に4名づっ分乗して目的地に向かいました。私は日光東照宮観光を希望した3名を引率して東照宮の駐車場に向かいましたが、日曜日ということもあって駐車場までの道には車が沢山並んでいました。これでは1時間くらいは覚悟しなければと思いましたが、運転していた後輩のA氏が、交差点を利用して見事に割り込みに成功し、10分はどで駐車場に入ることができました。中は多くの外国人を含む観光客で溢れており、陽明門(生憎と修理中でシートで覆われていた)や、泣き竜、眠り猫などには人垣ができていました。我々4名はその脇をすり抜けて険しい石段をふうふう言いながら登って徳川家康公の墓まで行きました。金属製の立派な墓の前にはこれも金属製の鶴・亀の像があり、観光客はこれらの周囲を回って降りるようになっていました。苦労してここまで来た証拠写真を撮影した後、帰りの坂道を降りて行く途中に遠くに立派な屋敷があったので何だろうと思って説明看板を見ると、江戸時代には10万石以下の大名はここまでしか入れないことになっていて、それらの大名の休憩所だったというようなことが書かれていました。そこで「我々は一番奥まで行ったのだから、さしずめ11万石の大名だね」などと言いながら下まで降りました。私はここまで来るのが3度目でしたが、初めての0氏やS氏はかなり苦しそうでした。
 天候が予報よりも早く崩れてきて、ちらちら小雨が降るようになってきましたが、まだホテルに行くには時間が早いので、どうしようかということになりました。この他には、「二荒山神社」か3代将軍徳川家光公の墓である「大献院(だいゆういん)」くらいしかありません。他の3名とも「大献院」には行ったことがないというので、それではと「二荒山神社」の先にある「大献院」に向かいました。私は以前に1回来たことがあり、きつい石段があったことを覚えていましたが、家康の墓よりは階段数が少ないという案内の人の言葉に勇気づけられて石段に挑戦しました。やっとのことで頂上らしき所に辿り着くとそこの本堂のような所で法事が営まれていました。我々がその前でうろうろしていると法事の受け付けらしき人が出てきて「脇を通り抜けることはできます」と言うので、坊さんの読経を聞きながら本堂の脇を通ると、きちんと和服(黒ではなくベージュ色)を着た年配の女性が何人も本堂の回りの縁側に座っていました。「おそらく徳川さんの子孫の法事ではないか」などと言いながら本堂の奥の門を出ると、そこに家光公の墓所がありました。墓所といっても普通の人は入れない立派な門があり、そこから入って更に山を登った所に墓所があるようでした。私もここは初めてだったので、よかったと思いました。帰りに案内所の係員に「あの法事は徳川家のものですか」と尋ねたところ「あれは生け花関係の方の法事です」との答えだったので「普通の人でもあそこで法事ができるのですか」と更に聞くと「徳川家の方の紹介があった方でないと無理です」との答えでした。そして「家光公の命日は明日20日なので、明日は徳川家の法事があるようです」とも教えてくれました。何がかんだしているうちに2時が過ぎたので、そろそろよかろうと車で鬼怒川温泉の「七重八重」に向かいました。「田母沢御用邸」観光組に電話を入れるとこちらも出発したということでした。
 3時前に「七重八重」に到着し、地下1階の301302303号室にそれそれ2名・3名・3名に分かれました。さあ温泉ということで、地下3階の大浴場に向かいました。チェックインの3時直後ということで、他には入浴客はおらず、我々8名貸し切り状態でゆっくりと入浴しました。新緑や下界に鬼怒川が見られる露店風呂は素晴らしく、心ゆくまで身体と心を休めることができました。
 風呂から上がったのはいいのですが、夕飯の5時半まで1時間以上あります。そこでホテルに来る途中のコンビニで買い込んだ酒(ホテルの冷蔵庫に入れて冷やしておいた)やおつまみを取り出して、全員が302号室に集まってテレビを見ながら、わいわい話しながらほとんどの酒を飲み終わってしまいました。
 夕飯は地下2階の宴会場で、再びビールや日本酒を飲みながら、いっもの川魚や湯葉、豚のしゃぶしゃぶなどのヘルシーな料理を満喫しました。途中、大女将と女将が部屋まで挨拶に釆ました。43会の宴会の時に大きな杯にめでたい酒を注いで我々にふるまってくれた大女将も久しぶりに元気な姿を見せてくれなつかしい再会をしました。ここ数年身体を壊して表には出ていなかったとのことで、やっと回復したのだそうです。現在は息子さんが社長を、娘さんが若女将をしているとのことでした。  夕食前から飲み過ぎていたS氏が途中でリタイアしたものの、8時過ぎに宴会を終えて、またもや302号室に戻る者、カラオケに行く者などに分かれ、302号室での懇親が終わったのは12時を過ぎていました。その後は、昼間の‘‘石段疲れガや大量の酒のせいでぐっすりと寝てしまいました。


  河津桜・吉奈温泉そして熱海(2)

 0222(日)

  この日は天気予報によれば終日雨ということでしたが、朝は曇りのようでした。朝食は昨晩と同じ5階の会場で食べましたが、品数はかなりありました。鍋物として豆腐ときしめんがあり、塩鮭、煮物その他いろいろで、みなヘルシーなものでした。我々夫婦はここでも頑張って完食してしまいました。  当初の計画では、この日もう一度河津に戻って花見をした後に熱海に出る予定でしたが、雨になりそうだし、河津桜を再び見る必要もないということで、計画変更してバスで修善寺に出て、電車で三島経由で熱海に出ることにしました。その旨をフロントに伝えると、1010分に修善寺行きのバスが旅館のすぐそばから出るとのことでした。  バスと電車を乗り継いで熱海に到着したのは11時位でした。早速荷物をコインロッカーに預けようとしたのですが3ケ所にあるコインロッカーが全て満杯で、仕方なく荷物を持ったまま昼食を食べる店を探しました。観光客の大部分はおいしい海鮮の店を求めてうろうろしており、有名店らしい店の前には行列ができていました。朝食をしっかりと食べてきた我々夫婦は喫茶店でもと探したところ「パン樹」というパンとコーヒーの店があったのですぐに入りました。若い女性だけで経営している店のようで、パンもコーヒーもなかなかの味でした。
 「パン樹」を出て、熱海駅の緑の窓口で手持ちの午後4時発の踊り子号の切符をもっと早いものに変更しようとしたのですが、セットで購入された切符なので変更できないと言われてしまいました。そこであと4時間を潰すことを考えなければならなくなり、結局MOA美術館と梅園に行こうということになりました。駅前からタクシーに乗って運転手さんに希望を伝えると、MOA美術館は尾形光琳展をやっており、特に今年は国宝の「紅白梅図屏風」と「燕子花(かきつばた)図屏風」を56年ぶりに同時に見られるということで入場親制するほど混んでいるので、まずは梅園を見てからにした方がよいと言われました。タクシーでまずは梅園の上の人口に着けてもらい、45分後に下の出口に迎えに来てもらうことにし、荷物はタクシーに預かってもらうことにしました。
 熱海梅園は初めてでしたが、内部は起伏に富んだ地形をしており、山・谷・川・滝・橋などが随所にあり、なかなかの風情でした。また、梅は丁度見頃の満開で、紅白の花が咲き誇っており、我々夫婦は思わず見とれてしまいました。梅園内を上から下に向かって降りながら、途中の趣向を凝らした展望台などから眺めると、これまで見てきた他の梅園よりも格段に素晴らしいと感じました。
 梅園の次はMOA美術館に向かいました。ここも私は初めてでしたが世界救世教がその巨額の資金で熱海を見下ろす山の中腹に建設したものです。中に入ると長いエスカレーターがあり、それも一つ終わるとまた次が現れるといった趣向になっており、まるで天国に向かって昇って行くような錯覚に陥りそうでした。そしてエスカレーターが終わった所が美術館になっていました。2時を過ぎていたのでそれほど混んでいませんでしたが、目玉の「紅白梅図犀風」と「燕子花図屏風」の前には大きな人垣が出来ていました。それでもこの二つの屏風は大きいものなので、よく見ることができました。
 素人目にも、金箔の屏風に措かれた素晴らしい作品であることがよくわかりました。その他にも重要文化財である尾形光琳の「槇楓図屏風」や下村観山の「弱法師」などの大作も展示されており、結局2時間近くをここで過ごしてしまいました。帰りは、美術館から熱海駅直通のバスに乗って駅に戻りました。
 今回の旅行は、初日の河津桜と温泉がいまいちでしたが、翌日の梅園とMOA美術館が見事にそのマイナスを埋めてくれました。それにしても踊り子号の切符が変更できなかったおかげで、素晴らしい梅園と素晴らしい芸術品を見ることができて幸運だったと思いました。今年の旅行第1号はこのようにしてまずまずのうちに終わりました。


 

 河津桜・吉奈温泉そして熱海(1)

 毎年2月に実施している家内との‘骨休み温泉旅行’について、今年は南伊豆の河津桜を見た後に伊豆半島の中央部の余り知られていない吉奈(よしな)温泉に行くことにしました。昨年この時期に、いつもの鬼怒川温泉を計画したのに突然の大雪で東武特急が運休して、旅行を1週間延期するという苦い経験があったので、今年は雪の心配のない南伊豆がよかろうということになったのです。
 河津桜は、以前から一度は行ってみたいと思っていたのですが、行ったことのある人の評判がいまいちで「混雑がひどい」とか「内容がたいしたことはない」と聞いていたので控えていたのです。しかし今回は旅行社と相談して2月10日~3月10日という「桜祭り」の期間の中で‘桜満開”の最盛期を3月1日と予想して、それより1週間早い2月21日に行けば桜は満開ではないとしても、観光客の混雑が避けられるのではと判断したのです。
 また、河津桜の観光の後に行く温泉についても、河津桜の観光客が殺到するであろう近場の旅館を避けて、遠くてマイナーな吉奈温泉を選んでみたのです。但し、旅行社が推薦してくれた「御宿さか屋」は、インターネットで調べてみると日く「料理が全部出るのに2時間もかかった」とか「設備が古い」といったものがあり、早食いの傾向がある我々夫婦としてはやや心配でしたが、それを否定する意見もいくつかあったのでこれは確かめてみようということになったのです。私にはこのインターネットの評判より、旅館利用者の意見に対して旅館側から反論するコメントが書かれている点に違和感を感じました。これはプライドが高く、自信過剰な女将が書いたものと思われますが、やや強気すぎて読者から更に反感を買うのではないかと思えたからです。

 02/21(土)

 この日は穏やかで暖かい晴天の旅行日和でしたが、朝10時に東京駅発の踊り子号で河津に向かい12時半に河津駅に到着しました。私たちと同じ考えの人が多かったとみえて駅構内は溢れるはどの観光客で渦巻いていました。まずはバスの発車時刻の確認をし、1時半または2時10分発のに乗ることを決めました。人並みに押されるようにして露店が並ぶ道路を、河津桜が林立いるはずの青野川の土手方面に進みました。昼食は踊り子号の中で済ませてきたので、バス発車時刻までは花見に全部の時間を費やすことができるのです。途中の露店では、果実などの農産物や、魚の干物や海苔などの海産物そして露店の定番の商品が大量に出されており、観光客も花より団子とばかりにそれらに群がっていました。
 いよいよ青野川の土手に到着しましたが、河津桜は数メートルおきに1本づっそれも土手の東側のみに植わっているだけで、それらもみな若い木らしくどれも小振りなものばかり、そして花に至ってはまだ3分咲といったところでした。3キロ続いていると言われている桜並木は全てこんな状態であり、子供連れの観光客などは花見は諦めて露店の食べ物に集中したり、川原に降りて遊んでいる人達もいました。我々夫婦も比較的よく咲いている桜の木の下で撮影したものの、その後は露店でみかんを買ったりしました。いずれにしても、河津桜については時期が早かっただけではなく、受け入れ体制にも問題がある(例えば本数が足りないとか、通行を妨げる露店の境制ができていないこととか、観光道路の整備が不十分なこと等)ように思えました。
 そんなこんなして、河津駅前のバス乗り場に戻ると1時半発のバスが遅れて止まっていたのでこれに飛び乗って約1時間半バスに揺られてやっと吉奈温泉口に到着しました。吉奈温泉口でバスを降りて、「御宿さか屋」に電話を入れて迎えのワゴン車に数分乗って旅館に到着しました。
 旅館は風情のある立派な建物で、まずはロビーに座って待つようにと女将から言われました。小柄で体格がよく、まるで相撲取りのような嗄れ声の女将で、よく観察しているとチェックイン客が3組はど待っていました。そして女将がそれぞれに説明しているのを聞いていると、まずは宿泊伝票の記入そして館内の風呂や食事の説明、そして食事時問の確認をしています。女将が「夕食は6時でいいですか」と確認すると客が「いや7時にして欲しい」などと返事をしています。「夕食は何時を希望しますか」と尋ねるのが普通だと思いましたが、この女将は夕食も朝食もまずは旅館の希望を伝えているようでした。また、チェックイン手続きをしている客には女将が自ら作る抹茶と最中が出されるのですが、その合間には電話も入るし(これにも女将が出ます)、あと何かはわからないのですが若い夫婦や女性仲間の客などが「これから行って来ます」と言いつつ旅館を出ていくのに、「体が冷えるのでこれを持って行きなさい」と言いながら、ホカロンとか座布団のようなものを渡すのですが、これも全て女将が自らやっているのです。私達夫婦の後からも何粗かの客が入って来たのですが、女将は忙しくて対応できず、ロビーは手続き待ちの客で一杯になってしまいました。しかし、他の従業員(男性2名と女性2名がいました)は手続きが終わった客を部屋に案内するだけで、あとはロビーをウロウロするだけです。そのうち浴衣姿の老夫婦がロビーに降りてきて「大浴場がみつからない」と言って来たのですが、女将は「大浴場は3階に間違いなくあります」と何回も強く言って追い返していました。おそらく説明不足だったのでしょうし、後に部屋に案内されて気がついたのですが、部屋には普通どこの旅館にでもある全館の設備配置図が置いてないのです。それに泊まり客が迷ってロビーに降りてきた以上は誰か従業員に案内させるべきだと思いました。
 30分ほどしてやっと私達夫婦の番になりました。宿泊伝票への記入をと言われたので、女将が抹茶を作っている間に手早く書いて渡すと、その後は「大浴場が男女2ケ所づつと貸し切り風呂が2ケ所あることが説明されました。そして例によって「夕食は6時でいいですか」と聞いてきたので「もう少し遅く」と言うと「では6時15分にしましょう」とのこと。朝食についても「8時でどうですか」ときたので「10時頃にチェックアウトする予定なので9時頃がよい」と言うと、「それではバスに間に合わなくなるので8時半にしましょう」ということになりました。私が確認のため「男性用の大浴場は何階ですか」と尋ねると「それはこの控えに書いてあるので読んでおいて下さい」との返事でした。「それは3階です」と答えた方が「それはこの控えに書いてあるので読んでおいて下さい」と言うより短くて済むし、質問した客をむっとさせることがないのではないかと患いました。結論から言えば、この女将の行動は大切な顧客の最初の相手は全部自分がやるべきであるという固い信念に基づくものなのでその熱心さは立派なのですが、顧客が立て続けに来た場合には長い時間待たせる結果になって大切な顧客を怒らせる結果(私のように)になるということに気がついていないのだと思いました。従業員も薄々そのことに気がついているようで、女将との遣り取りの中にギクシヤクしたものが感じられました。
 いずれにしても、やっと女将との面接が終わって男性従業員に案内されて6階の607号室に案内されました。部屋は小給麗な和室で、決して老朽化しているようには見えませんでした。しかし、通常何処の旅館・ホテルでも置いてある全館の設備配置図と、旅館についてのアンケートがありませんでした。アンケートについては女将に対する苦情ばかりでうんざりして止めたのかなと思いましたが、全館の設備配置図が無いのには困りました。私もこの後に大浴場に行くのに道を迷ってしまったからですが、何よりも消防法上でも問題なのではないのでしょうか。
 肝心の大浴場については、私は3階の岡本太郎デザインによる「デザイン大浴場」に行ったのですが、5時過ぎれば混雑が避けられるという思惑が外れて満員でした。脱衣場の龍が8つしか無い狭い“大浴場”で、私がその最後の一つの龍を使う結果となりました。岡本太郎デザインということでしたが、私にはただ浴槽の形が奇妙なだけのものという印象でした。それよりも大きな浴槽でのんびりとゆっくりと入浴したかった私としては甚だ不本意だったので5分ほどですぐに出てしまいました。家内の方は4階の「檜と伊豆石大浴場」に行ったとのことでしたが、こちらの方は広くて湯温も適切で入浴客も3名ほどだったのでとてもよかったとのことでした。
 6時15分となり、5階の別会場に夕食のために行きました。刺し身、桜海老の鍋など沢山の料理が出たのですが、普通何処の宿でも用意されているお品書きが出て来なかったので、ほとんど忘れてしまいました。むしろ、女将の娘らしき巨漢の女性が料理を運びながらあれこれ説明してくれるのが気になりました。おそらく体重は150キロはあると思われ、それが一通りの料理の説明ばかりかクイズを持ちかけて来るのです。こちらが美味しい料理を摘まみながら美味しい冷酒を飲んでいる時に「山葵はどちらから擦ったらいいのか知っていますか」と言うのです。そして、数センチの山葵を人指し指と親指で挟んで人の前に突きつけてくるのです。こちらとしてはどちらでもいいことで、それよりもその女性の太い指にしっかりと挟まれた山葵はこれから刺し身に付けて食べることになるのかなという心配が先でしたが、この巨漢は更に「正解は上です」と言いつつ小さな卸板で山葵を擦りはじめて今度は「是非これを手に取って舐めてください。甘い味とよい香りがします」と人の前に突きつけてくるのです。止むを得ず、家内と私は指でこれを摘んで舐めて納得したような返事をするしかありませんでした。
 この巨漢はあとで若女将であることがわかったのですが、女将同様に決して悪い人ではなく、これまた熱心さの表れであると思われましたが、度を超した親切の押売のようで、接客業に携わる者としては如何なものかと思いました。でも、その後に彼女は料理の説明だけでなく、吉奈温泉の由来、さか屋の由来、そして何よりもチェックインの時の宿泊客の奇妙な光景について説明をしてくれたのです。まずは「さか屋」の由来は昔、酒屋をやっていたということですが、この旅館の裏にある善名寺(ぜんみょうじ)という寺に酒を納めていたとのことでした。そしてこの善名寺を訓読みして「よしな」=吉奈という温泉場の名前になったというのです。そしてこの善名寺は、徳川家康公の側室のお万の方が祈願したところたちどころに二人の子供が授かったということから、子宝に恵まれたい女性が多く集まるようになったとのことでした。そして先程女将が送り出していた宿泊客は善名寺で祈願をお願いに行く人達で、寺は寒いのでホカロンとか座布団を渡していたということがわかりました。夕食の中身は細かくは覚えていませんが、いずれも味がよくかつヘルシーだったことは間違いなく、我々夫婦はいつものように完食してしまいました。食事が全部出されるまでの時間も1時間半程度だったので特に遅いという印象はありませんでした。食事を終えて部屋に戻って少しテレビを見た後にこの1週間の疲れ(近くに住む娘が風邪でダウンして、我々夫婦が5歳と1歳の二人の孫の面倒をみた)が出てきてそのままぐっすりと朝まで9時間も寝てしまいました。


  鳥取旅行(2

〔第二日日〕12/9

 軽い朝食を食べた後、山添さんのお勧めの「ラッキョウ」の工場の見学をしました。鳥取砂丘の近くにはラッキョウ畑が沢山あり、そこで収穫されたラッキョウがこの工場に運ばれてくるのです。そして水洗い、塩漬け、塩抜き、皮むき、形の整え、味付け、袋詰め、機械と肉眼による異物検査といった工程を経て出荷されるのです。大きな機械も沢山使いますが、形の整えや肉眼による異物検査は人力によるので大変な作業で、国産のラッキョウが高価な訳がよくわかりました。この工場では直売もしており、私達は酢漬やたまり醤油漬等を沢山購入しました。
 次に向かったのは宇倍神社という格式の高い神社に行きました。ここは武内宿禰の墓所とも言われており、武内宿禰は5代の天皇に大臣として350歳まで仕えた伝説の人で、そのため長寿の御利益があるとされています。また、昭和初期の紙幣には武内宿禰の肖像やこの神社が刷り込まれているとのことでした。ここで神主さんらしい人から色々と説明を受け、更に獅子の頭を取り出して我々4人の頭を噛んでもらったり、集合写真のシャッターを押してもらったりのサービスを受けたので、こちらもお守りなどを購入してお返しをしました。
 次は「白兎神社」です。大黒さまと因幡の白兎の神話は知っていましたが、その白兎が神様になっていたのは知りませんでした。兎が神様の神社の門前に「うさぎ焼き」という食べ物の看板があったのには笑ってしまいました。(実際は人形焼きのようなお菓子だったのですが)雨がパラついてきたので車に戻り、山添さんのお勧めの道の駅のような店に向かいました。ここで鳥取名物の長芋を購入し、先に購入したラッキョウと一緒に宅急便で自宅に送りました。
 次は、私のリクエストで「名和神社」に行きました。ここは後醍醐天皇の建武の中興の時に天皇を助けたこの地方の豪族の名和長年に因んだ神社です。最後には足利尊氏などと戦って戦死してしまうのですが、不利とわかっていても後世に名前を残す方の選択をした名和長年の願い通りに神社が建てられたのです。神社は広い立派なもので、荘厳さもありましたが残念ながら参拝する人は少ないようでした。
 この日の宿は皆生(かいけ)温泉街の中にある三井という旅館で、大きなホテル群に囲まれたこじんまりとした宿でした。2階の木蓮という部屋に男性3人が、芙蓉という部屋に相澤さんが入りました。すぐに風呂に入ることにしましたが、3人で行ってみると一度に3人が限度という広さの浴室で、この時は他の客が居なかったので何とか入れましたが、45人がぶつかった時は問題だと思いました。風呂から上がって夕食会場に向かうと、かねてから山添さんから話のあったこの旅館のオーナーの杉本さんという男性が待っていました。杉本さんはここ以外にも2軒の旅館を経営しており、更にタクシー会社も経営しているという実業家であること、更に白門33会会員(学員会の飯塚副会長と同期)であること、在学中は高円寺付近に住んでいたこと等が話しているうちにわかりました。
 この夜の料理については、山添さんから前日の蟹づくしの件が伝わっており、蟹づくしは辞退してあったので、メニューには松葉蟹の雄だけになっていました。その他に豚肉の陶板焼き、刺し身、茶碗蒸しなどがあり、更に杉本さんが是非食べて欲しいという肩ロースのトンカツまで出てきました。まずは松葉蟹の雄を食べようとすると、杉本さんか松葉蟹のおいしい食べ方を伝授するというのです。この食べ方は杉本さんが考えついた秘伝で口外しないで欲しいとのことでしたが、簡単に説明すると蟹の甲羅を剥がして味噌を甲羅の中に集めるという方法で、集めた味噌に醤油を掛け、蟹の身をこれに浸して食べると美味しいと言うのです。確かに今まで食べたことのない食べ方でした。でも、私としては松葉蟹のような美味しい蟹ならば、何も付けずにその上品な甘味を味わうのが一番だと思いました。いずれにしても松葉蟹をはじめ全ての料理も完会してしまいました。連日の松葉蟹でしたが、新しい食べ方だったのでかえって違う味わいとなりました。また、蟹にトンカツというのはミスマッチだと思いましたが、実際にはなかなか美味しく食べることができました。この夜もまたもや腹をパンパンにして寝てしまいました。

〔弟三日目〕12/10

 湯豆腐、温泉卵、カレイの干物、サラダといった軽めの朝食を終えて、9時半頃に旅館をチェックアウトしました。杉本さんの配慮で、あれだけ食べて飲んで一人15千円という安さでした。杉本さんに感謝々々です。因みに前日の民宿は一人18千円でした。
 この日は最終的には米子空港520分発の飛行機に乗るだけなので、皆生温泉から米子周辺で観光することになりました。まずは杉本さんのお勧めの「とっとり花回廊」に行きました。ここは全国で開催されている花博覧会の会場だったものをそのまま公園として維持・管理しているもので、給麗に管理されていましたが、季節柄花はパンジーが多かったようです。何といっても圧巻だったのは花ではなく、山頂が雪に覆われた大山がよく見えたことでした。山添さんも大山がこれほど見事に見れたのは珍しいと言っていました。この後は境港に向かい、まずは昼食ということで「ラーメンハウス」という店に行きましたが、残念ながら味はいまいちでした。
 この日の最後は、境港を有名にした「水木しげる」通りの観光でした。たかが漫画と思って行ったのですが、その通りは見事に水木しげるの妖怪群に統一されており、道路沿いに漫画に登場する妖怪の銅像が林立しているだけでなく、両側の全ての店が水木しげる風に統一されているのは見事でした。観光客も多く、この企画が成功していることがわかりました。道路の一番奥に綺麗な「水木しげる記念館」があり、ここを見学しましたが、いろいろな資料などがある他、友の会の勧誘や、グッズの販売などもしていました。私も妖怪のピンを4つほど購入しました。また、他の店で「妖怪饅頭」をお土産に購入しました。 その後、山添さんの車で米子空港まで送ってもらい、ここで山添さんとお別れしました。今回の旅行に際しては、山添さんの力に負うところが大で、山添さんが居なかったら全く成立しなかった旅行でした。更に、体調が悪い中それを我慢しながら我々のために車の運転や案内などをしてくれた山添さんの責任感の強さには全く脱帽でした。
 以上のように、鳥取旅行は大成功のうちに無事に終了することができました。43会の行事ではありませんでしたが、43会行事から派生したこんなこともあるということで43会会員の皆様に紹介する次第です。
 最後に、旅行であれだけ飲み食いしたにもかかわらず、私の体重は増えていなかったことを報告しておきます


  鳥取旅行(1)

 この旅行のきっかけは、今年4月に開催された43会の「奈良・吉野旅行」の宴会で、たまたま同じテーブルだった鳥取県から参加の山添さんが自己紹介で「鳥取は何もないけど、食べ物の美味しいいい所だから是非来て欲しい」と発言したことでした。私が「鳥取には行ったことがないので行ってみたい」と言うと同じテーブル席の倉田さん、梱揮さんも賛同してこの企画がスタートしたのです。
 山添さんと私とで調整して日程は12月8日(月)~10日(水)の2泊3日に決まり、観光コースと宿泊地は山添さんにお任せすることになりました。実際、鳥取の観光についてはガイドブックにも余り記載がなく、砂丘、温泉、水木しげる記念館、食べ物も二十世紀梨、西瓜、ラッキョウ、松葉蟹くらいしか見当たらないので、地元の山添さんにお任せするしかなかったのです。

〔第一日目〕12/8

 この日、10時40分羽田発のANAで倉田、相澤、八束の3人は鳥取に向かいました。羽田は晴天で、正午頃に鳥取空港に到着して山添さんの出迎えを受け、山添さんの車でまずは昼食を食べに行くことになり、近くの海鮮食堂のような所に入りました。鳥取での食事の第1号は山添さんのお勧めで「しろイカ(剣崎イカ)の定食」にしました。こちらでも人気のあるしろイカの刺し身とカラ揚げがメインになった定食で、柔らかい刺し身とイカの風味が口いっぱいに広がるゲソのカラ揚げが美味しく全員が完会しました。こうして鳥取での美味しい食べ物については好調なスタートを切りました。
 次は砂丘に行ったのですが、砂といっても粒子がとても細かい粉状態で色も黄土色でした。そして全体を見渡せる場所に行くと、周囲の広い砂地の中に「馬の背」と呼ばれる高さ46メートルの丘があり、この頂上を目指して登っている30名ほどの観光客がまるで蟻のように見えて、まるで映画などで見た“砂漠”を彷彿させてくれました。この後ジオパークセンターに入って、山添さんのお友達である責任者の方から砂丘の生い立ち、鳥取砂丘の特色などの説明を受けました。簡単に言うと、花崗岩の山肌が風雨で削られて川に流れ、それが海に流れ込んだ後に波によって海岸に打ち上げられたということでした。また、砂丘の表面の風紋の出来方も精密な実験道具を使って実演してくれました。
 その後、山添さんが「浦富海岸の島巡り遊覧船を出して欲しい」と頼むと、責任者の方が電話で交渉してくれて、特別便を出してくれることになりました。遊覧船は数十人乗りのものでしたが、私達4名だけを乗せて約40分ほど浦富海岸の素晴らしい島々を巡ってくれました。波がかなり荒く、風雨に浸食された岩礁に打ちつけては崩れる様は迫力があり、また夕日を浴びた島々は実に美しく、3人とも写真を撮りまくりました。
 その後、この日の宿屋である「民宿 千谷」に入りました。ここは“これぞ民宿”といった風情の宿で、客は我々4名だけ。部屋は2階で3つあり、一番奥を相澤さん、真ん中を男3人、手前は休憩所というように使いました。まずは風呂に入ろうと皆を誘いましたが、体調を崩した山添さんと倉田さんがパスというので私一人で入りました。風呂場は自宅の風呂と変わらないほどの大きさで、洗い場の水道とシャワーもひとつだけなので、結果として一人で入ってよかったと思いました。私の後は相澤さんが入りました。
 その後、1階の広間で夕食ということになりました。大きなテーブルに沢山の料理が溢れるように並んでおり、二人づつ対面して座るようになっていましたが、並んだ二人の問には大きな洗面器のようなものが置かれていましたが、これは蟹の殻入れでした。
 今回の旅行は、松葉蟹の解禁後だったので、私は山添さんに松葉蟹が食べられるようにして欲しいとお願いしてあったので、山添さんは民宿に「蟹づくし」のコースを依頼したようです。実際のラインナップを紹介すると、松糞蟹の雄と親蟹と呼ばれる松糞蟹の雌が各人1匹づつ、それに蟹の刺し身が各人1皿、塩を敷きつめた大きな土鍋で松葉蟹の足とモサ海老というこの地方特産の海老を焼く料理(これは4人分)、それに蟹鍋(蟹足と野菜を沢山入れた寄せ鍋)というもので、これを見ただけで全員がびっくりしてしまいました。蟹以外にもカレイの煮付け、刺し身、テンプラ、小粒のサザエ2つ、茶碗蒸しなどがあり、全員が最初に思ったことはこれら全部は食べきれないという恐怖感に近いものでした。
 それでも勇気を奮ってまずはビールで乾杯し、その後はお腹が膨らむビールは止めて爛酒を飲みながら料理に取りかかりました。私はまずは刺し身(蟹とは別の)から食べ始め、次いで蟹の刺し身そして松葉蟹の雄という順番でいきました。倉田さんと相澤さんは始めから無理と考え、宿の女将さんにお願いして松葉蟹の雄は宅急便で自宅に送ることにしました。私と山添さんも親蟹の方は諦めて、相澤さんと倉田さんの宅急便に寄付していました。何とか松葉蟹の雄を食べ終わり、次に焼き蟹にとりかかりました。蟹足だけではなくモサ海老も沢山あります。次々に焼けてくるのを片端から食べるのですが、下に敷いた塩がきいていて口の中が塩辛くなります。それでカレイの煮付けと熱爛で口の中を中和して再び蟹足とモサ海老に取りかかります。私以外の3人はいずれも一回食べただけでもう手を出そうとせず、私が食べ続けるのを見ているだけです。最後に鍋をどうしようかということになりましたが、私と相澤さんが鍋ならまだ食べられるということになり、山添さん流の方法で食べることにしました。まずは蟹足だけを全部入れて沸騰させた後に蟹足を取り出し、あとの野菜などを入れるという方法です。この方法だと、蟹足が煮過ぎないでおいしく食べられ、野菜の方は蟹の出汁で美味しく煮れるのです。取り出した蟹足を食べたのは私だけで、野菜も一回分だけでギブアップということになりました。でも残したのは野菜が大部分で、モサ海老も二人の宅急便に追加されることになりました。とにかくお腹の中が蟹だらけになり、山添さんの言うように「もう蟹を見るのも嫌だ」という状態でこの日の夕食を終わりました。
 あとは布団に入って寝てしまったのですが外は激しい雨音で、そのうち外でドスンという昔がするようになりました。どうも前日降った雪が雨で溶けて屋根から落ちる昔のようでした。山添さんの話では鳥取地方は突然の雨がよくあるそうで「弁当忘れても傘忘れるな」と言われているとのこと。


 東北海道 花咲蟹の旅 (2)

〔第二日目・9月26日(金)〕
 この日、ホテルでバンキング形式のおいしい朝食を済ませ、ホテルが契約した送迎のタクシーで釧路駅まで行き、電車で厚岸駅に向かいました。
 幸い天気は昨日とはうって変わり快晴で、気温も17度くらいと快適でした。1時間弱で厚岸駅に到着し、駅員に本日の昼食会場である「厚岸味覚ターミナル コンキリエ」の場所を教えてもらい、15分ほど歩いて到着しました。予約した11時までには1時間ほどあったので、荷物を預かってもらってまずは展望台に登ってみることにしました。展望台からは眼下に大きな海が広がって見えて実に雄大な眺めでした、地図で確認すると左側には川が海に注ぐ手前に厚岸湖という大きな湖になって広がっており、これが更に広く穏やかな厚岸湾に繋がっているのです。そしてその湖と湾の境目に厚岸大橋という大きな橋が架かっていて、この橋を渡った対岸に史跡や博物館、キャンプ場などがあるのです。
 11時になり、2階奥の炉端焼きの会場に案内されました。ここには大きな炭火焼の席がおよそ2百人分はどセットされており、この日は1時から団体が入るため、11時に入ったのは我々の他に1~2組だけでした。システムとしては、入口にある水槽や冷蔵庫から好きな物を買ってきて自分で焼いて食べるのでしたが、我々は旅行社に指示してここで花咲蟹を食べることになっていたので、席には鋏と軍手が用意されていました。蟹が出るまでの間に店員の勧めに従ってシャブリワインを飲みました。ワイングラスで乾杯をしているといよいよ花咲蟹が登場しました。特徴ある真っ赤な色をしており、大きさは毛蟹を一回り大きくしたくらいです。海中にいる時は茶色をしているのですが、茄でると真っ赤になるのです。
 そもそも花咲蟹は厳密にはタラバ蟹と同様にヤドカリの仲間で、毛蟹・松葉蟹などの本当の蟹とは違うのです。漁獲量は一時は千トンもあったのですが、現在は百トンくらいに減ってしまったので一般に出回らないのです。甲羅や太い手足には鋭い刺が付いています。当然手足には包丁が入っていると思ったのですが、炉端焼きの店なのでそれは入っておらず、鉄を使って欲しいとのことでした。その後約1時間、全員会話もせずに黙々と鋏を使って蟹の解体を続けました。
 まずは手足を切り落として裏の白い部分に鋏を入れて、あとは耳掻きを大きくしたような金属の棒で中の肉をほじくり出すという作業なのですが、なにしろ手足は10本あり、それが関節で分かれているので最低でも20本を解体しなければならず、肉の多く詰まった爪の部分などは更に多くの切り込みを入れる必要があります。甲羅は最後に処理しましたが、蟹味噌もあり、手足の付け根の部分にも肉がいっぱい詰まっています。手足の肉をほじくると、まるでそれまで窮屈に押し寵められていたのが解放されたのように膨らみ、実に食べでがありました。肉は普通の毛蟹・タラバ蟹・松葉蟹などに比べて油が乗っていて味も濃く、一匹食べるとお腹が一杯になりました。でも、折角炉端焼きの店に釆たのだからと、更に牡蠣と帆立て員を一人一つづっ焼いて食べましたが、これがまたとてもおいしかったこと。とにかく、手は蟹の汁に塗れ、おそらく身体中に蟹の臭いが付いてしまったと思いますが、全員が大満足でした。「これで家族に自慢ができる」とか「これで蟹の解体に自信が付いた」とかが皆さんの感想でした。
 その後、帰りの15:03発の電車まで、2時間余りあったので、皆で20分はど歩いて漁業組合直売店に行き、いろいろとお土産などを購入しました。そして最後に、生牡蠣を食べようということになりました。水槽に入っているLLサイズの牡蠣を選び(ひとつ200円ほどです)、小型のナイフのような道具で貝をこじ開けて食べるのです。最初、聞き方がわからないので開いて欲しいと言ったのですが、販売員のお姐さんは「ピテオで聞き方を放映しているのでそれを見れば」と冷たいのです。私とAさんは手でも怪我をしたらと諦めようとしたのですが、高橋さんが大丈夫と言うので挑戦してみました。ビデオの中に強引な開き方というのがあって、牡蠣の縁をナイフの柄で叩き壊し、そこからナイフをこじ入れて貝柱を切断するのです。案外簡単にでき、新鮮な生牡蠣を味わいました、殻に残った水をエキスと思って飲んだのですが、これが塩分が強くて失敗でした。
 ここを出て再度コンキリエに戻り、荷物を引き取り、一休みしたのですが、先程のエキスのせいかここで売っているソフトクリームが無性に食べたくなり、ひとつ買って食べました。何年か振りでしたが、そのおいしかったこと。そういえば、北海道は乳製品がおいしかったのですが、適度の運動で汗をかいた後でもあって抜群のおいしさでした。
 予定通り、15:03厚岸駅発の電車に乗り、釧路を経由して川湯温泉に向かいました。釧路湿原と言われるだけあって電車の窓からは池とか沼のようなものが随所に見られ、あとはとにかく広い大草原が続くだけです。日本も案外広いなあと思っているうちに、陽が落ちてきて途端にあたりは漆黒の闇となり、これが大自然かと感激しました。
 川湯温泉(ここは名横綱大鵬の出身地で、駅舎には土俵入りの大きな額が飾ってありました)での宿は「欣喜湯」という古いホテルで、昔は立派だったのでしょうが、現在は大分痛んでしまっているようでした。ここの大浴場は老朽化した設備ですが、近くに「硫黄山」があるだけにかなり強い硫黄泉で、これが高温・中温・低温など5つの大きな浴槽に分かれており、低温の浴槽には打ち湯があったりして、このあたりの趣はなかなかでした。硫黄分が強いことは、湯が目に入ると湊みて痛くなることでわかりました。メンバーもこの風呂だ桝ま褒めていました。
 夕食は、昼間厚岸であれだけ食べてきたので7時からにしてもらい、酒を飲みながらおいしい料理をいただきました。

 東北海道 花咲蟹の旅 (1)

恒例の、中大国際関係研究会のOBとの旅行(第13回目)を、今年の9月25日(木)~26日土)の2泊3日で行ってきました。メンバーは43会の終身会員の川辺さん(行田市)と今回のキャンペーンで終身会員になった高橋さん(岡山市の松林寺の元住職)、1年後輩のSさん(千葉市)、2年後輩のAさん(船橋市)そして私の5名でした。
 おおまかなコースは、羽田から釧路空港に行き釧路市で1泊、翌日は釧路から電車で1時間ほどの厚岸(アッケシ)に行って花咲蟹を食べ、それから2時間半ほど電車に乗って川湯温泉(屈斜路湖と摩周湖の中間あたりにある温泉地)に行って1泊、翌日は網走に出て、ここからバスで女満別空港に出て羽田に戻るというものでした。
 そもそも花咲蟹を食べたいと言いだしたのは私で、これが今回のメインイベントでした、私は特に蟹が大好きという訳ではないのですが、この蟹が漁獲量が少なく東京にも出回ってないと聞いたため どうしても食べたくなったのです。普通は蟹は解禁になるのが11月上旬なので初めは日程も11月を予定していたのですが、花咲蟹に限っては旬が8月~9月で、根室に近い花咲港に行って食べるのが普通と旅行社の人に説明され、あわてて日程を9月末に変更したのです。
 また、花咲港まで行こうと計画したのですが、それでは2泊3日の旅で無理が生ずるということで、釧路と花咲港の中間の厚岸のコンキリエという観光施設の炉端焼き店に花咲蟹を取り寄せてもらうことにしました。また、ここでは名物の牡蠣をはじめ魚や貝なども食べられるというので大いに期待していました。
 問題は天候で、去年このメンバーで10月15日~17日で山形旅行に行った時は、台風26号に遭遇して危ない目に会った(詳しくは43会ホームページに掲載)のですが、今回は台風16号がこちらに向かっており、出発日には熱帯性低気圧に変化したのですが、その影響で関東・東北・北海道は激しい雨に曝されるとの予報なのです、気温も最新の釧路地方の気温は19度~11度などと予想されており、雨と寒さ対策が必要ということになりました。

〔第一日目・9月25日(木)〕
 心配した雨は降ったり止んだりで、風もそれほどではありませんでしたがこの日は一日中雨でした。 羽田国内線ターミナルで皆と無事に合流し、計器の故障とかで1時間半ほどの遅れが出たものの午後2時近くには釧路空港に到着しました、 心配した雨は降ったり止んだりで、風もそれほどではありませんでしたがこの日は一日中雨でした。
 羽田国内線ターミナルで皆と無事に合流し、計器の故障とかで1時間半ほどの遅れが出たものの午後2時近くには釧路空港に到着しました。予定では釧路市までバスで行き、昼食を食べてから簡単な観光をするつもりでしたが、釧路空港では雨が降っており、お腹も減ったので空港2階の和食レストランに入りました。
 夜の宴会に備えて軽くしようと思ってのですが、メニューを見たら食欲をそそるものが沢山あり、私は「ウニいくら井」高橋さんは「鮭いくら井」というように、余り軽くないものを注文してしまいました、更に北海道到着祝いということで、生ビールや日本酒などを軽く飲んで1時間半ほど粘った後、バスで釧路駅に向かいました。45分ほどでこの日の宿である「ラビスタ釧路川」というきれいなホテルに到着しました
 まずは大浴場でくつろぎ、それからこのホテルは夕食は付かないので、すぐそばの寿司屋に乗り込みました。そもそも釧路は炉端焼きの発祥の地と言われており、炉端焼きの店はいくつもあるのですが、折角北海道に来たのだから新鮮な魚貝類が食べたいという意見が多く、この寿司屋にしたのです。店の階の個室に入るなり、早速、「おいしい地酒を」とか、「秋刀魚」「毛蟹」などの声が飛び交いました。とにかく「刺し身の盛り合わせ」ということで、地酒(福司)を飲みながら新鮮な魚や貝に舌鼓を打ちました。2時頃にあれだけ飲んだり食べたりした割りには、酒も料理もどんどん胃に収まりましたが、さすがに秋刀魚や毛蟹は1つを皆で食べ分けました。魚も貝もウニも素晴らしいおいしさでした。最後はにぎりの「貝尽くし」などを何皿か食べ、一同大満足のうちに初日の宴会は終わりました。


講解師と一緒に歩く 歴史と文化の散歩ラリー

 8月26日(木)、43会の原幹事が提案する恒例の「講釈師と一緒に歩く「歴史と文化の散歩ラリー」が開催されました。午前10時に日暮里駅の北口に集まったのは、原、龍門、矢崎、小塚、倉田、原田、森澤、八束そして紅1点の長谷川さんの9名でした。生憎の小雨が降ったり止んだりの天候でしたが、その分気温が低くなって歩くにはまあまあの環境でした。今回のラリー地域は、谷中周辺ということで、メインは中曽根元総理や安倍総理が座禅を組みに行くという「全生庵」という寺で名人と言われた落語家の三遊亭円朝(1839~1900)のコレクションである幽霊画を見学するというものでした。
 この企画は永谷商事という会社が主催しており、こうした企画を毎月2~3本も実施していてラリーは午前中で終えて最後は日本橋亭という寄席に案内されて志乃田寿司の弁当を食べた後に4時頃まで落語・講談・その他を楽しめるというものです。ラリーについてはプロの講釈師が前もって十分下見をしておいたコースを要領よく案内してくれるし、途中歩きながらもいろいろと会話することもできます。とにかく朝10暗から午後4時まで楽しめて、弁当付きで3千円というのはかなり“お得”な企画だと思います。
 そうした企画なので、この日の参加者は我々9名だけでなく、他に一般参加者が12名居て全体で21名でした,この日の案内の講釈師は神田山緑という長身・イケメンのお兄ちゃんで、講談で鍛えた美声でわかり易く説明してくれました。また、ラリーの先頭はこの講釈師のお兄ちゃんですが、その他に主催の永谷商事から1名の小旗を持ったお兄ちゃんが最後尾に居て参加者が迷子にならないようにと監視してくれています。
 まずは、日暮里駅を出てすぐの場所にある「本行寺」に行きました。ここは別名「月見寺」と呼ばれていた日蓮宗の寺院で、古くは江戸城内にあったという小林一茶縁の寺で、その歌碑などが建っています実はこの寺は私が務めていた「伊勢丹」の創業者である小菅家の菩提寺でもあり、奥には小菅家及びその親族の塞が多数あります。また、寺に入ってすぐの右手には「伊勢丹社員の墓」というものがあり、毎年1回伊勢丹の全役員がお参りに来るという習慣があります。伊勢丹社員の墓には社員の骨が埋葬されているはなく、墓石の後ろにその年在職中に病気や事故で死亡した社員の卒塔婆が立てられているだけです。このことを案内人の神田山緑さんに話すと、それでは最初にそれを披露しようということになりました。
 その後、谷中霊園の中を歩いて有名人の墓や、15代将軍慶喜の墓、高橋お伝の墓、心中の道連れに焼失した谷中の五重の塔の跡地などを見学しました。そして、「全生庵」に到着しました。・ここは明治16年に山岡鉄舟が国事に殉じた人々の菩提を弔うために建立した寺で、山岡鉄舟の塞があるのは当然のこととして、鉄舟と親交のあった三遊亭円朝の墓もあり、円朝のコレクションである幽霊画の掛け軸が50本も収められており、毎年8月に一般公開されているのです。入場料は500円でしたが、滅多にない機会と全員が見学しました。作品はほとんどが墨絵で、作者は円山応挙などの名前の知られた人が多く居ました。でもさっぱりとしたものが多く、怖いという感じはしませんでした。
 その後、ラブホテル街の裏を抜けてJR鷺谷駅まで出ました。参加者は有名なラブホテル街を通過する間、目を輝かせてキョロキョロしていました。山手線を神田駅で下車し、あとは歩いて日本橋亭まで行きました。そして靴を脱いで弁当とお茶の缶を受け取り、2階の会場に行って昼食をとりました。会場は80席ほど(座敷席と椅子席半々くらい)で、この日は雨天だったせいか8割ほどの混みようでした。
 1時半からの寄席は落語が4つと、講談が1つ、そしてコミックソングが1つでした。ラリー関係者から聞たらしく、出演者の中には「健康の秘訣は歩くことと笑うことです。本日のお客様はその両方を実施した人です」などと我々によいしょする人もいました。コミックソングはベートーベン鈴木というベテランがウクのようなものを弾きながらいろいろ面白いことを言うのですが、そのひとつに血液型性格という歌があり、A型は真面目でつまらないとか、B型はいいかげんとか、0型しっこいとか、AB型は二重人格だとか面白おかしく節を付けて歌った後、「どうですか皆さん、思い当たることがあるでしょう」と言うと、ほとんどの人がそうそうと葡く中、一人の女性が「私は0型だけど納得いかない」と答えたのです。するとベートーベン鈴木は「このように皆がそうそうと同意する中、敢然と反対意見を言う貴方は0型の典型なのです」とやり返していました。
 最後のとりは、テレビの「笑点」のレギュラー三遊亭好楽で、流石にべテランで面白い話をしてくれましたが、その前に振りとして話したのが「歳をとるとあちこちが弱ってきますが、その順番は「耳」「喉」「歯」「目」「爪」です」と言うので、自分は「歯」「目」「マラ」と思っていたのでおかしいなと思いました。すると好楽は、これらの文字を繋げると「身の破滅」になると言うので皆笑ってしまいました。
 日本橋亭が終わった後はいっもの中華屋(日本橋亭の斜め前)に行き、そこで43会の正野・光常の両氏合流し、ビール、紹興酒、そしておいしい料理で2時間余り歓談して大いに盛り上がりました。次回がまた楽しみです。未参加の方も是非参加してみては如何ですか。

八束さん湯河原旅行(2)

3/23(日)

 早く寝たせいで5時頃に目が醒め、布団の中で1時間ほどうとうとした後、朝風呂に入りました。この日は男女逆の風呂場になっており、私は3階の大浴場に入りました。3階も2階と同じくらい広い浴槽で、他には一人だけという浴槽で身体を目覚めさせました。家内も3回目の入浴をしましたが、ここの風呂は2階も3階も湯温が素晴らしく、大満足でした。
 朝食も各部屋で食べることになっており、男性従業員が布団を片づけてくれた後、仲居さんが朝食をセットしてくれました。朝食は鯵の干物、豆腐鍋、煮物、サラダなど質量とも豊富でしたが、私たち夫婦はこれまた完食してしまいました。この日は小田原で昼食・買い物をして帰京することにしていたので、朝食後はゆっくりして10:10の送迎バスで湯河原駅まで送ってもらいました。バスの発車時にはホテルの女将や従業員一同が並んで見送ってくれましたし、チェックイン後の接客態度も決して粗略ではなく、これまたインターネット情報が間違っていました。
 湯河原駅で送迎バスを降りた後、小田原城を見学することとし、徒歩で数分で小田原城に到着しました。ここは桜の名所としても有名でしたが、残念ながらまだ咲いていませんでした。敷地内を暫く散策した後、「小田原城歴史見聞館」という建物に入りました。この中では主に関東一円を支配した北条早雲から始まる北条5代の歴史を記した年表などが展示されており、豊臣秀吉に攻められた時の「小田原評定」の立体映像などを見ることができました。その後、見聞館の前で開催されていた屋台などを冷やかしていると、骨董を売っているコーナーがありました。そこで私の目に止まったのは昔の銃弾でした。ひとつは7,7ミリの小銃弾とおぼしきもので、もうひとつは20ミリの機関砲弾とおぼしきものでともに薬莢付きでした。前者は長さが7センチ3ミリあり、私の知識では旧陸軍の三八式小銃弾か隼や零戦などの機首に装備された7,7ミリ機関銃の弾丸と思われ、一方後者は長さが17センチもある巨大なもので、これは間違いなく零戦の両翼に装備された20ミリ機関砲弾と確信しました。値段を聞くと小さい方は千円、大きい方は1万5千円だと言うのです。ここで高すぎるとか交渉した結果、大きい方を8千円にすると言うのですぐに手を打ちました。家内はあきれていましたが、私としては大満足でした。わが家には戦時中、母の実家にアメリカのグラマン艦載機が打ち込んでいった12.7ミリ機関砲の砲弾(おそらく曳光弾の弾頭)があるので、これで日米の弾丸が揃ったことになるのです。その他、ドライフルーツや蜜柑などを購入してこれを持って小田原駅方面に向かいました。途中で蕎麦屋に入って「とろろ蕎麦」を食べてたっぷり食べた朝食の消化を促進しました。小田原駅のそばで一枚200円という「むろあじ」の干物を6枚購入し、一時間近くを改札口近くの喫茶店で時間調整をした後、13:50発の踊り子106号で東京に向かいました。15時少し前に東京駅に到着し、山手線で上野駅に出て、そこからタクシーで帰宅しました。
 今回の旅行は、熱海の混雑、梅の季節の終わりなどにより観光面では企画通りとは行かなかったのですが、温泉にゆっくり浸かってって疲れをとるという目的は十分果たしたのでまあまあの成功だったと思いました。また、湯河原の温泉は素晴らしいということを再認識できたこともよかったと思いました。何よりも天候に恵まれたことが一番でしたが、まだ手放しで「春だあ‥・」とは言えない気温で、ジャケットだけで行かないでよかったと思いました。年取ったら多少オーバーと思われる装備で旅行するのが一番ということを実感した旅行でもありました。 また、インターネット情報はかなりいい加減なものだということもよくわかりました。「ホテルあかね」は決して悪いホテルではなく、むしろ眺望の素晴らしい、風呂の素晴らしいなかなかのホテルだったということを自信を以て言いたいと思います。因みに私たちの宿泊費用は一人18、000円でした。                  以 上

  湯河原温泉に夫婦で行きました(1)

 相変わらず続く寒さの中、育爺(いくじい)の疲れ休みとして、先月の鬼怒川温泉に続き夫婦で湯河原 に行くことにしました。湯河原温泉には8年前の2006年1月に行ったことがあり、なかなかいい温泉だったという記憶がありました。最初は何回か行ったことのある伊豆北川のオーシャンヴューホテルの吉祥亭にしようと思ったのですが、この寒い季節には暖かそうな湯河原がいいということになったのです。また、湯河原なら近くに小田原・熱海などの観光地があり、買い物やおいしい物にも不自由しないのではないかとも思ったのです。   往路は「踊り子号」で正午くらいに熱海に着いておいしい海鮮の昼食をとり、その後湯河原に戻ってホテルにチェックインすることにしました。但し、天気次第では最近観光地として賑わっている初島巡りもいいのかなと思いました。因みに8年前に湯河原に行った時は真鶴を観光しています。また、最終日には小田原に出て名物の干物や蒲鉾などを買ってこようとも思いました。

3/22(土)

 予定より早い9:20頃に家を出て、タクシーで上野駅に出て山手線で東京駅に向かいました。東京駅に早く到着したため、暫く駅の喫茶コーナーで時間調整して10:30東京駅発の踊り子109号で熱海に向かいましたが、3連休とあって車内は満員それも卒業旅行とおぼしき若い男女の団体、恋人同士のようなカップルで満席となっており、うるさいやら目のやり場に困るやらで、私は持参した本を読み、家内は昼寝をきめこんでいました。
 11:50に熱海駅に到着したので、早速駅前の2本の商店街を回って昼食を食べる店を探しました。ところが土曜日の昼時とあって2~3軒の寿司屋と蕎麦屋は満員で、やっと大きな寿司屋兼蕎麦屋のような店に入ることができここで海鮮井(1、700円/一人)を食べることができました。私はやや不満足だったのですが、家内はおいしいと言っていたのでまあよしとしました。あとは魚介類など鮮度が重要な物以外のお土産を物色しようとしましたが、何しろ通りは観光客でごった返しており、うんざりした私たちは熱海を諦めて湯河原に向かうことにしました。丁度数分後に出る各駅停車があったので、これに乗って1駅戻って湯河原駅に到着しました。
 湯河原駅前に出ると、8年前と同様に現地の名士である土肥実平(源平の時代に活躍した武将)の銅像が私たちを迎えてくれ、そのそばでおいしそうな蜜柑を1袋300円で売っている様子も8年前と同じでした。
 駅前のタクシー乗り場で運転手に「ここの梅林はどんな塩梅か」と尋ねると「最盛期は終わったまだ残っている」との答えだったのでそれではと駅から4キロほどの梅林に行ってもらいました。途中でタクシーの運転手がここは鍛治町といって昔良質の砂鉄が多くとれて刀鍛冶が盛んで、「五郎政宗」や「村正」といった名刀はここで作られた」と教えてくれました。私は刀鍛冶の多くは関西方面だと思っていたので大変勉強になりました。
 梅林に到着したので、タクシーにはそのまま残ってもらい家内と二人で急な勾配の山肌にある梅林を鑑賞しました。正直言って梅はほんど終わっており、10本に1本ほど白梅や紅梅がかろうじて残っているという程度でした。しかし、そのため人の数が極めて少なく、ゆっくりとこれらの梅林の残りを鑑賞することができました。30分ほどで鑑賞を終えてタクシーに戻り、多少早いとは思いましたが、本日の宿泊地「ホテルあかね」に向かいました。途中タクシーの運転手に「このあたりは高級な別荘地で有名人もいるのでは」と尋ねると「年とってから湯河原に移転して来る人がいるが、海岸地区ならよいが、山地区は坂が急で年寄りには向かない。有名人としては「細川元首相、枡添東京都知事がおり、先頃の東京都知事選挙では大騒ぎだった。その他に歌手の五月みどり、TVタレントの船越英二などがいる」とのことでした。その時丁度タクシーの窓から焼き物屋が見え、そこに細川氏の名前が出ているので「あそこで細川元首相の作った陶器を売っているのか」と尋ねると「あれは勝手に細川氏の名前を使っているだけで現在細川氏から訴えられている」との答えでした。また、私が「細川氏の陶器というのはどんな出来映えなのか」と尋ねると「うまいかどうかはわからないが、1個百万円以上するようだ」との答えでした。 「ホテルあかね」は湯河原駅の裏山のかなり急勾配の坂を上がった所にある大きなホテルで、運転手の話では「雪でも降ったら車でも上がれないし、徒歩で登るにしても大変」とのことでした。とにかくチェックインして最上階5階の501号室に案内されました0そこは東南の角部屋で、東と南の窓からは湯河原の町が一望でき、その先には青々とした太平洋が見え、限下には東海道線と新幹線がまるでパノラマのように見ることができる素敵な部屋でした。
 「ホテルあかね」については、インターネットで評判を調べたところ「眺望だけが素晴らしいホテルで、料理は質素すぎる、従業員の態度がよくない」と書かれたもの、「眺望もよく、料理の品数も多くて大満足」と書かれたものがあり、どちらにしても眺望だけはよいのだなと思っていましたが、実際にその通りだったので家内ともども大喜びでした。
 2時頃チェックインしたため、部屋に通されたものの大浴場の利用は2時半以降にして欲しいと言われていたので、2時半になったらすぐに2階の大浴場に行きました。こんな時間だったら私一人だけの貸し切り状態だと思って入ったのですが、身体を洗っているともう一人入ってきたのでがっかりでした。部屋に案内してくれた仲居さんが[今日は満室です」と言っていたのでそれも止むを得ないなとは思いました。湯の温度は絶妙で、熱くもないしといってぬるくもなく、いつまでも入っていたいという素晴らしいものでした。また、浴槽の海側は大きなガラスになっており、先程5階の部屋から見えた景色がそのまま浴槽からも見ることができました。ついでに言うと、脱衣場も海側は大きなガラスになっており、下界から望遠鏡で覗けばこちらが丸見えといった作りになっていました。30分ほどで家内と交代し、この時間は女性は3階の大浴場とのことでした。家内も湯温が最高と言っていました。私はすっかり満足して、6時からの食事まで待てずに冷蔵庫からビールを出して飲みましたが、これが湯で火照った身体に程よく浸み渡っておいしかったこと・・・  夕食は各部屋で食べるシステムになっており、これを運んだりお膳をセットする仲居さんは大変な作業でした。料理は各種の刺し身、蟹鍋、揚げ物、煮物などかなりボリュームがあり、インターネッの評判が嘘だということがわかりました。私たち夫婦は早食いなのですが、流石にこの日は蟹の解体などにより完食するまでにはかなり手間がかかりました。私は「八海山」の冷酒を飲みながら、これらの料理に舌鼓を打ちました。 食後は食べ疲れで、私はテレビを見ながら寝てしまいましたが、家内はまた風呂に入り12時頃に寝たそうです

 奈良 吉野の旅行会(3)

○第3日目(411日)

  朝食のため1階に下りようと思いましたが、昨夜買った「柿の葉寿司」を食べてみようという誘惑に勝てず、3個人りのパックを食べてみましたが、酢飯に鯖の乗った寿司が柿の葉で包まれており、味もなかなかのおいしさでした。
 この日は法隆寺、藤の木古墳を見学ということで、教科書などにも出ている有名な建物をいくつも見学しました。バスガイドさんが簡単な説明をしてから一定の時間で見学するのですが、このガイドさんが変わっていてこてこての関西弁で、我々が集合時間を守らなかったりすると毒づいたり、説明の最中に質問でもしようものなら「聞かんどいて!」と怒鳴りっけられてしまいます。でも何となく愛嬌のあるキャラククーなのでこちらも腹を立てることもありませんでした。
 藤の木古墳とその近くにある「斑鳩文化財センター」では、円墳の中にあった骨や装飾品などを見るとともに、説明員から詳しい話を聞くことができて教養を高めることができました。次いで「太子堂」という店で「柿の葉寿司」と鍋焼うどんの昼食を食べました。私は朝食でも食べていたのですが、寿司なので飽きることなくこれまた完食してしまいました。
 午後は「薬師寺」と「唐招提寺」そして「平城京跡」の見学です。「薬師寺」と「唐招提寺」については今回の旅行で見学したいろいろな寺と同様で、いささかうんざりといった感じでした。広い境内をあちらの建物からこちらの建物というように回っていると、どの建物も同じように見えてきてしまうのです。
 最後は「平城京跡」ということで、まずは「朱雀門」近くの駐車場でバスを下りました。ここから「大極殿」までは約1キロということで、往復歩くだけで30分はかかります。見学時間は45分というので遠くに見える「大極殿」に行くのは諦めました。その代わり近くにあった「遣唐船」とその近くの「歴史館」を見学することになりました。そばに人間大の「遷都君」の人形が立っており、ここで記念撮影をした後、「歴史館」に入りました。ここのガイドさんのお勧めでホールでの3D画面の大型スクリーンでの昔の「平城京」の再現映画(約12分)を見ましたが、かなりお金をかけた機械だけになかなかの迫力でした。我々より遅れて「歴史館」に入ってきた会員が次の時間の再現映画を見ようとしましたが、見学時間がなく諦めたようでした。結果論として、京都駅には新幹線の出発時問の1時間半前に到着しているので、ここであと30分過ごしてもよかったのではないかと思いました。
 京都駅に到着後は自由行動ということだったので、駅構内のパスタ屋に入って「ペペロンチーノ」をおいしく食べ、残りの1時間を最後のお土産購入に当てました。それにしても時間が余り、12番線のホームで30分以上待ちました。他のメンバーも焼き鳥屋で飲んでいたとか、そば屋で飲んでいたとかで、顔を赤くして集まってきました。18時33分のぴかり532号で京都駅を出発し、21時10分に東京駅に到着しました。
 今回の旅行は天候に恵まれ、誰一人として怪我人や脱落者も出ずに最高の桜を見物できました。この旅行を企画・実行した清水幹事長、矢崎・金子副会長、森川幹事等には感謝々々です。


 奈良 吉野の旅行会(2)

○第2日目(410日)

 宿泊していた「コンフォートホテル奈良」は、150名もが宿泊している一方、1階の朝食会場の席数は40しかないため、ゆっくりと食事をするためには早起きが必要であると言われていました。実際、6時半からの食事に先駆けて6時から並んで食事をとったというメンバーもいたくらいでした。私の場合は軽い二日酔いで食欲は全くないため、この日の朝食はキャベジンだけでした。また、吉野では、まともに昼食を食べる店がないとのことで、出発前に近くのコンビニでおにぎり等を買い込みました。  9時にホテルを出発し、この日の目的地「吉野」に向かいました。11時頃に吉野の駐車場に到着して、あとは自由行動ということになりました。天気もよく、観光バスも沢山釆ており、桜を求めて山道を登っていく人の数も花見の時期の上野公園か隅田川の土手に近いものがありました。
  まずは「蔵王堂」までは全員で行き、その後はバラバラになっての行動となりました。私は女性群(相澤、鹽野、長谷川、大下)と一緒になって次の目的地である「竹林院」に向かいました。道は長い登りになっており、途中で折れそうになりましたが、意外に女性群の方が健脚で、私も力を振り絞って歩き続け、とうとう「竹林院」に到着しました。ではここで昼食をと思ったところ、飲食禁止との札が立っており、一同がっくりとなりました。また、「竹林院」の割りには境内は桜などがあるばかりで竹林はありません。相澤さんが寺の人にそのことを尋ねると、竹林は更に奥の方にあるとのことでした。
 まずは昼食を食べる場所探しということで道を戻り始めると、うまいぐあいに左に小道があり、その道を守るための頑丈な木の柵があり、その柵の土台の30センチほどのコンクリートが丁度よいということになりました。その土台には厚い苔がまるで座布団のように生えていて座り心地はまずまずでした。ここで一同、手持ちのおにぎりを食べ、飲み物を飲んで人心地を取り戻しました。我々5人が食べていると、山道を通る観光客が「あいつらうまいことやっているな」と言わんばかりに覗き込み、そのうち何人かは同じように入ってきて昼食を食べていました。持参していたものを食べおわりこれで軽くなって楽になったと一同喜びましたが、実際には荷物は軽くなったものの、その分体重が増えただけということでした。暫く坂道を下ると、かつて豊臣秀吉が花見をしたという「吉水神社」があったので寄り道をすることになりました。数分の山道を下ると展望台のようなものがあり、そこに「一目千本」という看板が立っていました。そこから見る下の山々の桜は、よくテレビや雑誌に出ている風景そのもので、一同感激して見事な眺めを満喫しました。更に「吉水神社」まで行くと、ここは後醍醐天皇の所縁の場所とのことで、更に面白い看板が立っていました。それは後醍醐天皇がその頃、金貨を発行したという記録が残っているが、実物は一枚も発見されておらず、おそらく軍資金として全部このあたりに隠したというのです。このように険しい山中なら何処にでも隠せる訳で、この近くに金貨が数千枚?隠されているという話はロマンがあって面白いと思いました。
 その後駐車場を目指して山道を下りながら、左右に出ている店を覗いてみると、売っているものの多くが「吉野葛」の原料やその加工品であり、あとは和菓子や竹の子などでした。女性群は買い物のためあちこちに立ち寄っていましたが、流石に重いものは買わなかったようでした。
 蔵王堂と駐車場の途中に「黒門」という門があるのですが、相揮さんと長谷川さんが来る時に、地 図にある「黒門」が何処にあるかわからず、たまたまそこに托鉢僧が立っていたので尋ねると「そこです」と東の上を指されたという話を聞きました。私が「お礼にいくらかあげたのか」と聞くとそれは失念していたとのことでした。帰り道で出会ったらしっかりと寄付をするということで「黒門」に近づくと果して托鉢僧が立っていました。相澤さんと長谷川さんが早速お礼を言いながら千円札を差し出すと托鉢僧も嬉しそうに受け取っていました。駐車場に到着したものの、観光バスが前後左右隙間なく並んでおり、わずか人間一人が歩けるくらいの隙間をウロウロしながらやっと一番奥にあった八坂交通のバスを見っけることができました。
 その後バスはこの日最後の寄り道である「三輪そうめん」の店に行きました。実に綺麗な店で、一同に「にゅうめん」「そうめん」などを振る舞ってくれたので、お礼に沢山の買い物をすることになりました。私は家内から奈良に行くのなら「柿の葉寿司」を買ってきて欲しいと言われていたのですがこの「三輪そうめん」の店にそれがあったので、クール宅急便で送って欲しいと頼んだのですが、断られてしまいました。理由は賞味期限が24時間なので例え明日届けても不在の場合は24時間をオーバーしてしまうからというのが理由でした。止むなく、他の買い物をしてバスに戻りました。
 その後、再び宿泊ホテルの「コンフォート」に戻り、荷物をホテルに置いてからバスでこの日の懇親会会場である「旬菜ひより」に行きました。ここは野菜を中心としたヘルシーな店で、我々だけで満席になるほどの店でした。ここも清水幹事長の配慮で座席指定になっていましたが、残念ながら座席配置が計画と違っており、止むなく自由に座るということになりました。最初、野菜鍋と言われて何だろうと思いましたが、厳選されたキャベツや芋、蕪などをいろいろなタレや塩で食べるとなかなかのおいしさでした。野菜だけでは物足りないということで、大和牛の鉄板焼も出てきましたが、これも新鮮な霜降り肉で食べ応えありました。私は前日の飲み過ぎに反省してビールとゆずサワーだけ飲むことにしましたが、近くのテーブルで食べきれないという肉が回ってきたため、普通より多めに肉を食べることになりました。
 この後、皆で奈良駅周辺を歩いて奈良駅ビルでお土産を買うことになり、昼間あれだけ歩いたのにまたまた夜の町を歩くことになり、最後には宿泊ホテルの「コンフォート」に近い奈良駅ビルで買い物をしました。懇親会の時に隣席の仲間に「三輪そうめん」の店での「柿の葉寿司」の話をすると、酢飯だし殺菌力のある柿の葉に包まれているので、23日くらいは大丈夫と言われたので、ここで買おうと田中屋のコーナーに行くと、店員が「柿の葉寿司」は10個人りが1本、3個人りが3つしか残っていないと言うので、これら全部を購入し、ホテルに帰ってシャワーを浴びて寝ました


 奈良 吉野の旅行会(1)

 今年の7月にスタートする43会の創立20周年記念行事に先駆けて、「プレ20周年記念行事」として位置付けられた「奈良・吉野旅行会」が平成26年4月9日(水)~11日(金)にかけて実施されました。  当初は参加者43名という意味のある人数だったのですが、残念ながら病気等で来れなくなった人が出て、最終的には39名になりました。それでも、東京駅や新横浜駅から参加する首都圏在住組、京都駅から合流する関西圏在住組など、広い地域から参加される人があり、43会の行事に相応しい内容でした。男女比率でも女性が7名(ご夫婦での参加が2組)が参加するなど、今後の43会における女性の活躍が彷彿されるものでした。
 天候につきましては、寒さが終わって温かくなり南は降らないとの予報でしたが、吉野地域などはやや寒いのではないかと心配して防寒対策をしっかり整えてきた人も居ました。肝心の桜につきましては間違いなく満開状態ということで有名な吉野の桜が見られるということで参加者も楽しみにしていました。

 ○第1日目(4月9日)

  7時40分に、東京駅八重洲口の「銀の鈴広場」に集合ということで、予定の人数が遅刻者もなく集まりました。「銀の鈴広場」が何処にあるのか判らずに迷った人もいたようですが、そこは早めに集まるという年寄りの強みで何とか間に合ったようです。
 旅行社の美人のお姉さんに誘導されて、全員が新幹線ひかり463号に乗り込み、8時3分に出発しました。参加者の席は13号車の一角に集中しており、ここで京都駅までの2時間半ほどを楽しくお喋りしながら過ごしました。
 今回の旅行はできるだけ多くの会員と親しく話ができるようにとの清水幹事長の配慮が強く反映されでおり、行き帰りの新幹線の席、奈良・吉野でのバスの席、第1日目と第2日目の懇親会の席が悉く指定されていました。バスの席にいたっては、午前と午後で違う席になっており、自分の席がわからずにウロウロする人も若干いましたが、全体的にはとてもよい効果があったと思います。
 10時47分に京都駅に到着すると、合流する関西圏在住組のメンバーや先行していた龍門会長などが出迎えてくれ、早速観光バス(八坂観光)に乗り込みました。そしてまずは奈良を目指し、若草山の麓にある「菊一文殊四郎包永」という店で釜飯ときつねうどん等の昼食をとることになりました。
 店の前には多くの鹿がおり、新緑の若草山の麓には給麗な桜も咲いていました。この店はもともとは刀鍛冶だったとのことで、食事の途中で店の人が刀と同じ素材で作成した包丁の宣伝をしていました。今買うと包丁に銘を入れてくれ、その上自宅までの配送も店の負担とのことだったのでつい衝動買いで6,200円の万能包丁を購入してしまいました。
 その後は、バスに乗ったり降りたり、かなり歩いたりで「二月堂」「東大寺」「春日大社」「興福寺」などを巡りました。このあたりは昔小学校の修学旅行で来たことがあるはずでしたが、全く記憶が飛んでいたので、まるで初めて来たかのように新鮮な気持ちで観光することができました。「二月堂」のそばには「三月堂」「四月堂」があること、ガイドさんの説明で奈良の人が早起きなのは昔、この地で鹿を殺すと死罪になるので、早く起きて自宅前に鹿の死体がないか確かめる必要があったため、同じくガイドさんの説明で「奈良国立公園」は北海道の「大雪山国立公園」に次ぐ日本で二番目に広い公園であることなどがわかりました。広い公園だということはこの日の運動量は約1万2千歩だったことからもよく理解できました。
 この日宿泊するホテルは「コンフォートホテル奈良」というビジネスホテルで、参加者はそれぞれが個室を与えられたので気兼ねなく好きなように寝たりすることができ快適でした。欲を言えば、あれだけ歩くと広い大浴場で手足を伸ばして疲れをとりたいところでしたが、実際にはシャワーで我慢しました。

 夜の懇親会は、近くの「アジール奈良」というホテルの宴会場で開催され、鉄板焼などの料理と、飲み放題のお酒を十分堪能しました。懇親会終了後、私は一度「コンフォートホテル奈良」に戻った後、龍門会長その他数名と近くの飲み屋に繰り込み、したたかにうまい冷酒を何台か飲んだためフラフラになったほどでした


  台風26号の中の山形旅行(3)

10月17日(木)

この日はいよいよ最終日ということで、基本的には朝食後に解散ということでした。後輩の3名はそのままゴルフということで8時半に先輩達に見送られて出発して行きました。我々先輩3名はホテルのワゴン車で「あつみ温泉駅」まで送ってもらい。9:33発の特急いなほ6号で新潟に向かいました。
 11:01に新潟に到着し、昼食として「小島屋」のそばを食べようとしましたが、何処にあるのか分からず、たまたま駅構内でお土産を売っている店員に尋ねると、「小島屋」は知らないが「須坂屋」ならすぐ近くにあるというので、これも評判の有名店と知っていたので直ちに「須坂屋」に向かいました。東京では多くのそば屋は11:30開店なので、まだ早いかなと思って店を覗くとおどろいたことに11:15頃なのに店は8割くらい埋まっているのです。直ぐに4人席を確保して、へぎそばの大盛りと天ぷらの盛り合わせを頼みました。また東京では多くのそば屋はそばと天ぷらは出てくるのが遅いと知っていたので、待つ間にちょと新潟のおいしい酒を飲もうということになり、吉乃川と八海山を頼みました。するとまずはお酒が、そして一寸遅れてへぎそば、更に天ぷらが出てきたのです。そばは早く食べなければ伸びてしまうし、天ぷらは冷えたらまずくなるし、酒は飲みたいし一同大慌てでそば・天ぷら・酒を流し込んだのでゆっくり味わう暇がありませんでした。しかし、皆「とってもおいしかった」「店員が明るくて気持ち良い」「有名人の色紙が一杯ある」「11時にそば屋に入る人はどんな人種か」などと勝手な感想を言っていました。
 昼食を食べ終わってまだ1時間以上あったので、有名な万代橋を見に行こうということになり、重い荷物を持ったまま徒歩で20分ほどの万代橋のたもとまで行き、記念撮影などをしてから引き返しました。さすがに新潟の町は寒く、途中でトイレに行きたくなり、慌てて探しましたがなかなか見つからず、とうとう「デパートならトイレがあるだろう」ということで新潟伊勢丹に飛び込みました。
 ところが1階、2階にはトイレがなくやっと3階にあるのを見つけて用を足しました。新潟伊勢丹は私が勤務していた伊勢丹の子会社であり、過去にも3回ほど来たことがあったのですが、今回は買い物もせずに現在の社長に挨拶もせずに、用を足しただけですぐに店を出なければならなかったことに多少の後ろめたさを感じた私でした。
 13:13新潟発の「とき326号」に無事に乗り込んで、東京に向かったのですが、この列車は出発時間が13:13と13並び、そして指定列車番号が13号車と13が3つ並んだことで何か不吉なことが起きるのではと不安を感じてしまいました。でも座席が26番だったので、ここまでは13と関係ないとやや安心していたのですが、この26番という数字は13の2倍ということに気がつき、最終的には13という不吉な数字が5つも並んだ列車で上野に向かうことになったのです。こうなったら後は寝るしかないなと思い、途中高崎駅で川辺君と、大宮駅で高橋君と別れて一人寂しく終点上野駅に到着しました。
 今回の旅行は何度も言うようですが、台風26号の影響下の旅行ということで、いつもと違う緊張を持ったものでした。無用な危険は避けるという私の安心論からすれば中止すべきだったかも知れません。今回も1日遅れていたら列車に閉じ込められる、或いは旅館に閉じ込められる可能性もあったのです。(実際に10月16日には山形新幹線は動かなくなっていました。)何よりも恐れたのは車での道中で崖崩れとか道路の水没に遭遇することでした。しかし、現地鶴岡市在住のU君が「太平洋側で風雨が酷い時は日本海側ではそれほどではない」と言ったように、雨天ではあったものの風はそれほどではなく、結果としては“最上川の川下り”以外はほぼ予定通りに進行し、内容的にも大変充実した旅行となりました。是も車を運転してくれたA君、U君の二人、そして現地で顔を利かせてくれたU君、山形県出身のS君の力の賜物と感謝する次第です。


 台風26号の中の山形旅行(2)

10月16日(水)

 「瀧見館」での部屋割りは、先輩3人と後輩2人に別れての2部屋でしたが、暑がりの高橋君が明け方に窓を大きく開けたのにはまいりました。冷たい風が入ってくるのと雨と川の流れの轟音が入ってきてとても眠れたものではありません。おまけに台風が気になるのかテレビも付けたようで、最後にはそのまま眠ったらしくイビキまでこれに加わったので私も堪り兼ねて「窓を閉めてくれ」と頼んで閉めてもらいましたが、おかげで外の様子が大変なことになっていることが分かりました。夜が明けて明るくなったので窓から外を見ると、まずは雨が滝のように降っているのが分かりました。そして旅館の下を流れる川が満水状態でごうごうと凄まじい流れに変わっていました。そして何より驚いたのが昨日見た細い綺麗な滝が、数倍の太さに変わり、水の色も白から泥水色になっていたことです。救いはまだ風が強くなっていないことでした。
 この朝は8時半に鶴岡市から1年後輩のU君が車で迎えに来る予定になっていました。それはこの日に銀山温泉から温海温泉に向かうのが当初は6名で、A君の車に6名乗るのは無理ということで困っていたところ、この日の夜に温海温泉の「萬石屋」で合流するはずだったU君が予定を変更して会社を休んで朝早くから車を出してくれることになったからでした。
 私としてはU君がこんな雨の中、銀山温泉まで迎えに来たばっかりに事故でも起こされたらどうしようと心配になり、朝の6時過ぎにA君と相談して「U君の企画による“最上川の川下り”は当然中止にするのでその分こちらも出発時間を遅らせて台風の通過を待つことにする。だから無理をしないでゆっくりと来て欲しい」と伝えてもらいました。U君は「こちらは大した雨ではない」との返事で、結局は9時頃には「瀧見館」まで来てしまいました。雨は相変わらず強かったのですが、風がまだ強くなかったので、9時半に2台の車に分乗して「瀧見館」を出発しました。高橋君、川辺君そして私がU君の車に乗り、後の2人がもう1台に乗りました。U君の車はハリアーという車高の高い車で見通しが良いので、先輩の3人全員がこちらに乗りましたが、体重の重い高橋君が助手席に、同じく体重の重い私が運転席の後ろに座り、バランスをしっかりととりました。先程旅館のテレビで、どこかの高速道路でトラックが風に煽られてバランスを崩して横転した画像を見たための処置でした。
 暫くは緊張しながらの山道走行でしたが、その後ちゃんとした舗装道路となり、雨が強く叩きつけるものの重量バランスのよいU君の車は順調に走り、A君の車がこれをぴったりと追尾していました。途中、最上川と並行した道を走りましたが、川は濁流となっており水量も川淵すれすれという状態でした。しかも、最上川ともあろう大きな川にしっかりとした土手がないのです。このままではいつ水が溢れてしまうか分からないと私が心配すると、運転していたU君は「今走っている道路が土手のようなものですよ」と平然としていたのでやや安心しました。
 この日の第一目的地は「最上川の川下り」でしたが、台風なのでU君にこれをキャンセルしてもらいましたが、舟乗り場の横を通過しているとU君が「最上川の川下りはこの雨の中、営業しているみたいですね」と言うのです。私にはこんな雨の中、濁流の中に漕ぎ出す神経はとても理解できませんでした。
 この日の第二目的地は「出羽三山神社」と言うことで、ここで昼食を予約しているし、そこまでは車で行くので心配いらないというU君の説明だったので安心して向かいました。風が多少出てきましたが、雨の方はやや収まってきた中、山道を上り、神社下の駐車場に到着しました。そこでU君が受付で「公用」というステッカーを2枚もらい、「庄内交通」の有料道路をフリーパスで更に奥まで行き、ほんの僅か歩いて山奥にひっそりと佇む神社の「斎館」という建物に入りました。
「斎館」に入ると綺麗な巫女さんが「U様ですね。お待ちしておりました」と挨拶して立派な貴賓室のような場所に通され、天皇陛下が座るような椅子でおいしいお茶とお菓子を振る舞われました。その後、権宮司という気さくな男性が現れ、暫くお話をしましたが、U君が庄内銀行に勤務していた頃からこの権宮司と親しいお付き合いがあったことが会話の端々から伝わってきました。ようやく会話が終わったのでいよいよ食事かと思ったら権宮司が「食事より先にご祈祷でしょう」と発言され、一同ぞろぞろと神殿の奥に通されました。外から時々参拝者が柏手を打つ音が聞こえる中、神主さんが祝詞をあげたり、御祓いをしてくれました。最後に、私が最年長者ということで一同を代表して玉ぐしを奉納しました。
 その後やっと食事となり、長い廊下や階段をかなり歩いて一番奥の「勅使の間」という8畳ほどの立派な部屋に通されました。ここは40年近く毎年のようにお参りしているU君も初めての部屋ということで、一同恐れ入りました。食事は7品の精進料理で、茸やゴマ豆腐、野菜の揚げ物、漬物でどれもヘルシーでしかも素晴らしい味でした。車を運転する者が2名、酒を控えている者が2名いたので、酒はほどほどにしておきました。一同、思わない素晴らしい体験ができ、これまでの悪行が全て洗い清められたような気分になり、更に「斎館」の出口で神主さんから「御神酒」の1升ビンを頂いた時にはその有難さが絶頂となりました。
 雨が小降りに変わってきた中、一行は酒田市に向かいました。そこには「本間様には及びもないが、せめてなりたや酒田の殿様」と言われたほどの豪農(実際には名字・帯刀を許されていた)の本間家の旧本邸、美術館があるというので、これを見学することになったのです。新潟の豪農の館は2軒ほど見学した経験はあるものの、絶頂期には3千町歩(9百万坪?)の田畑を保有していたという本間家を見てみたいと思ったのです。旧本邸に着くと、確かに立派で広いのですが、一見してこれは民家ではなく武家屋敷と思える構えでした。説明書を見て納得したのですが、この建物は本間家の三代目が徳川幕府の巡検使一向の本陣宿として1768年に建てて庄内藩に献上したのが始まりということで、そのため二千石旗本屋敷の格式で作られた武家屋敷で、その後巡検使一行が江戸に戻ったため不要となり再び本間家に拝領になったということでした。その後は昭和20年まで本間家が実際にここに住んでいたとのことでした。また、酒田市はフェーン現象の関係で火事の多い地域ということで、本間家では周囲に広い神社を建てたり、防火に有効な樹木を沢山植えたりして工夫したため、今日まで焼けずに残ったとのことでした。とにかく、金持ちの屋敷という感じは全くなく、質実剛健・堅固という感じに溢れた建物でした。
 次いで、少し離れた場所にある「本間美術館」を見学しました。ここは広い立派な庭のある木造の屋敷(昭和天皇が皇太子の頃宿泊したこともある)とそれに隣接する美術館に分かれており、美術館には現在のひな人形のルーツとも言える多くの人形や刀の鍔、文献等が飾られており、館長さんがこうした人形の役割や歴史というものを分かりやすく説明してくれました。
 お屋敷の方では喫茶コーナーがあり、コーヒーを飲みながら素晴らしい庭を見学できました。惜しむべくは近くに電線が2本走っており、遠くに広告看板が見えることでした。一同は「枝の張った大きな松でも植えてあれを隠してしまえばいいのに」と勝手なことを言っていました。
 いよいよ今夜の宿泊地であるあつみ温泉の「萬石屋」に向かいました。5時くらいに「萬石屋」に到着しましたが、これもまた川に沿って建てられた10階建ての立派なホテルで、一同びっくりしてしまいました。旅行社に依頼したときは4名と3名の2部屋でしたが、案内されたのは8階と7階の角にある10名も入れる大きな部屋でした。入口を入ると6畳くらいの部屋があり、居間はその奥の12畳の部屋、そして6畳の次の間まで付いているのです。どうしたんだろうと言っているところに「支配人からです」と」仲居さんがフルーツの盛り合わせを持ってきました。我々43年卒業の3名は8階、後輩3名は7階だったのですが、どちらも同じ作りの部屋でフルーツの盛り合わせも勿論同じでした。そこで気がついたのですが、このホテルは確かに私が旅行社に依頼して予約したのですが、ここを勧めたのは地元出身のU君だったのです。後で分かったのですが、このホテルの副総支配人はU君が庄内銀行に勤めていた頃の部下で、すべてU君が手を回しておいてくれたのでした。
 一同、まずは入浴ということで1階の大浴場に入ったのですが、ここも綺麗で広くて実に気持ちのよい浴場で、湯温も丁度良く、露天風呂も各種色々あったりで、ずっとこのまま風呂場に居たいという気持になりました。
 6時半からお楽しみの夕食となりましたが、「出羽三山神社」から頂いた「御神酒」の1升の他にホテルからおいしい酒1本が寄贈され、一同感激しました。料理は刺身、牛肉のシャブシャブ、真鯛の兜煮、土瓶蒸しその他どれも豪華絢爛で、酒や会話が一段と進みました。日本酒一升半と、ビール4本を誰がどれだけか分かりませんが、ほとんど飲んでしまいました。
 広い部屋に帰ってから、各人風呂に入り直したり、部屋で更に飲んだりしたようですが、私はすぐに寝てしまったので細かいことはよく記憶していません。何しろ、台風の下での2日にわたる旅行が無事に終わったという安心感、達成感で嬉しいという気持だけでした。

 台風26号の中の山形旅行(1)

 折しも大型の台風26号が日本列島の東側を駆け抜けて大きな被害を与える中の平成25年10月15日(火)~17日(木)にかけて、中大国際関係研究会の同期ОBを中心とした恒例の旅行が実施されました。この旅行も平成17年3月の箱根旅行の第1回以来12回目を迎え、今回は山形の銀山温泉そして温海温泉と温泉尽くしの2泊3日でした。問題の台風26号は10月15日(火)には九州・四国・南紀などに強く影響を与え始めており、このままでは旅行の2日目には追いつかれるという状況でしたが、台風は2日目からは三陸沖海上に逸れていくので、西の山形方面に向かう我々は何とか逃れるのではないかと判断し、そのまま実施しました。
 参加者は、白門43会会員で岡山の住職である高橋君と、昨年心筋梗塞で倒れた後不死鳥のように蘇った行田の川辺君と私八束、そして1年後輩のU君とS君、2年後輩のA君の6名でした。
 今回の旅行は、前々回8月の炎天下での日光・鬼怒川旅行に懲りて旅行に合った季節である10月に実施することとし、内容も極力ゆったりとしたものを目指したつもりでした。

 10月15日(火)

 まずは、この日の9:24東京駅発の山形新幹線つばさ131号で高橋君と私の2名が出発しました。途中の大宮駅で川辺君が乗り込んできて、そのまま銀山温泉の最寄駅である大石田に向かいました。
 12:20に山形県の大石田駅に到着しました。天気はどんよりと曇っていましたが、まだ雨も降らず、風もほとんどない状態でした。大石田駅には車で先行していたS君とA君が出迎えてくれ、そのまま昼食を食べに行くことになりました。大石田は古くから山形そばのおいしい町とされ、そば屋が多いと聞いていたので予めA君においしくて駅に近い店を探しておいて欲しいと伝えてあったのですが、A君が言うには「この辺りを走り回ってみたけれどそば屋は少なく、それも営業しているのは2店しかない」とのことでした。そこでそのうちの1軒、そばのうまそうな店構えの「来迎寺そば」という店に入りました。旅館からの送迎バスの時間の関係で1時間程しか時間の余裕が無かったので、ほぼ全員が「板そばセット」を頼みました。出されて見て分かったのですが、「板そば」とはそばの入れ物が、縁取りのある薄い板だったのです。新潟の「へぎそば」(“へぎ”という東京などでざるそばを入れる入れ物の大きめなものにそばを小分けして出してくるもの)と似てはいるのですが、もっと素朴なものでした。そばは関東で言う「田舎そば」といったところで、太く噛みごたえのあるものでした。これに何種類かの天ぷら、煮物や漬物などが付いており、値段も5人で4千円弱という安さでした。
 そばを食べ終わり、一行5人は来る時と同様にA君の車に縮こまって乗車して数分で大石田駅に戻りました。
 このまま縮こまってA君の車でこの日の宿泊先の銀山温泉「瀧見館」に行くことは可能だったのですが、当初はもう一人参加する予定だったので6名が乗用車1台に乗るのは無理(特にメタボが2名ほどいた)なので送迎バスを予約したため、列車で到着した3名は送迎バスでゆったりと旅館に向かいました。約30分ほどで「瀧見館」に到着しましたが、ここは部屋数14というこじんまりした宿で、満室という割には静かでした。到着が2時半だったせいもあり、風呂場は我々の貸し切り状態で、適温の大浴場や露天風呂をゆっくり満喫しました。「瀧見館」と言うだけあって、窓から向かいの山肌から落ちる小さな滝を見ることができ、また旅館の下には川幅15メートル位の川が音を立てて流れており、期待した通りの雰囲気でした。
 待ちに待った夕食は、5名が個室で食べる形式でしたが、山形牛のしゃぶしゃぶや、鮪や蛸や海老の刺身、その他品数が多いのですが、量は多くなく、味もなかなかのものでした。中に「ほおずき」のようなものがあり、皆が飾りと思ったのですが、山形出身のS君が「これは食用のほおずきなので食べてみてください」と言うのでおっかなびっくり食べて見るとほんのりと甘い爽やかな味で一同感心してしまいました。高橋君などは仲居さんを掴まえて「これを買いたいのでどこで買えるか教えて欲しい」と言って板長さんに聞きに行ってもらったほどでした。結果はこの食用のほおずきを栽培している農家は極めて少なく、この日出したものは秋田から取り寄せたものとのことでした。また、「凌ぎ」として手打ちそばが出ましたが、太さは昼間のそばと同じ位でしたが、味は格段に美味しくてやっとおいしい山形そばに出会えたという気持になりました。
 酒については、心臓が弱っている川辺君、やや控えているU君や私がおり、この日はまだ初日ということでほどほどにして各人が生ビール2杯(川辺君は1杯)と酒を各人2~3合ほど(川辺君は1合)というようにいつもよりは控えました。面白いことに「お酒を人肌で」と注文すると例の洩瓶のようなガラス容器に底に氷が1個入った形で出てきたので、私がこれは「人肌」でなく「冷酒」であると言うと山形出身のS君が山形ではこれが「人肌」だと言うのです。それでは「冷酒」を注文してどんなものが出てくるかということで仲居さんに「冷酒」を注文するとよく冷えた1合ビンの酒が出てきたので、これは言い出した私が頂きました。
 そんなこんなで早めのお開きとなりましたが、8時過ぎに下の川の両側の大正情緒溢れるレトロな旅館街見学のバスが出るというので、小雨の中、傘を差しながら高橋君と二人で観光し、写真を撮影したりしました。後輩3人はもう何回も見ているということで、また川辺君は雨と寒さを警戒してこれには参加しませんでした。大正情緒溢れるレトロな旅館街はなかなかなもので、映画の撮影などにもよく利用されているとのことでした。


四万温泉旅行(2)

7/28(日)
 前夜、早く寝たこともあり、5時頃に目が覚めてしまいました。そこで2回目の入浴をしましたが、この時も私が一番で、大浴場を貸し切り状態で使わせてもらいました。
 この日は、行田市の「古代蓮」を見る予定でしたが、厄介なことに「蓮」は朝9時頃に咲いて午後には萎むというので、何としても午前中に現地に行く必要がありました。そこで、朝食はいつもより早い7時半にしてもらい、フロントに電話して8時20分にタクシーに来てもらうようにしておきました。
 朝食もまたヘルシーでしたが品数が多く、完食するのに骨が折れました。ご飯は白飯とお粥のバイキング形式でしたが、ダイエット中の私はお粥を選びました。
 食事もそこそこにタクシーに乗って中之条駅に向かいましたが、途中で「ブルーベリー即売」という看板が目に止まり、ブルーベリーを買いたいということになりました。運転手さんに相談すると途中に農協の店があるということで、時間も余裕がありそうなので早速そこに飛び込みました。目的のブルーベリーを買って更においしそうな干し芋などを買い込んでから中之条駅に向かいました。
 行田に行くため9時6分発の電車に約1時間乗り、高崎で高崎線に乗りかえて40分ほどで行田に到着しました。すぐさまタクシーに乗って「古代蓮を見たいのでそこに連れて行って」と頼むと約15分でそこに行けるとのことでした。時間としては何とか11時過ぎでしたが、外は太陽が出てきて暑くなっており、蓮が咲いているかどうか気が気ではありませんでした。
 到着すると日曜日ということもあってかなりの人が出ており、遠目にも大きな蓮の花が見えたのでほっとしました。タクシーを降りて駆けつけると、3分の1くらいが咲いており、3分の1くらいが萎んでおり、あとの3分の1はまだ蕾といった状態でした。また、会場の正面に大きな花壇が3つほどあるほか、奥の池にそれとは比べものにならないほど多くの蓮が咲いていました。その池には迷路のような木製の道ができており、私たち夫婦はぐるぐる回って見事に咲いている蓮を見つけては写真を撮ったりしました。家内は自宅の近くの上野の不忍池の蓮より立派だと感心していました。説明書によれば全部で2万株あるそうで、とても見ごたえのあるものでした。昭和46年に近所に建設中のゴミ処理工場の現場から発見された古代蓮の種を発芽させて増やしたもので、数千年前の種からこんな見事な花を咲かせることに感動しました。見どころは6月中旬から8月中旬ということですができれば午前中に鑑賞することをお勧めします。行田駅は上野駅から高崎線で1時間位です。
 その後、タクシーで「埼玉(さきたま)古墳群」を見に行きました。古代蓮の場所から遠めに見える場所なのですが、実際に歩くとなると大変なのでタクシーで近くまで行ってもらいました。5世紀から7世紀にかけて出来たと思われる古墳群で、武蔵の国(現在の東京都と埼玉県全域)の「国の造(くにのみやつこ)=国主」の墓とも言われているようです。前方後円墳が1基の他、主として円墳など36基もの古墳があちこちにあり、遠目では丘のように見えるものが全て古墳でした。近くに寄るとひとつひとつは巨大なもので、私もそのひとつである豊臣秀吉の北条攻めの時に北条方の忍(おし)城を攻めた豊臣方の総大将石田光成が本陣を置いたという大きな古墳に登ってみましたが、息切れするほどの高さでした。石田光成による忍城攻めについては「のぼうの城」という本や映画で最近有名になっており、私も以前に本で読みましたがなかなか面白かったと記憶しています。  古代蓮を見て、古墳にも登って大分疲れてきたので、昼食を食べて行田駅に戻ることにしました。運転手さんにおいしいうどん屋を紹介してもらいましたが、行って見ると日曜日の12時過ぎということで順番待ちの人が並んでおり、止むなく駅近くの運転手さんとしてはおいしいかどうかわからないという蕎麦屋に入り、普通の味の蕎麦を食べました。私は味に期待できない店では、できるだけ素材に近いものを選択するようにしており、この時は「付けとろろ蕎麦」を注文しました。蕎麦と汁はイマイチでしたが、トロロ芋は粘り気の強いおいしいものでした。
 蕎麦を食べてから行田駅まで10分ほど歩いて行くと、うまいことに上野行きの高崎線がすぐにやってきて、幸運なことに座れたのであとはうつらうつらしながら上野駅に向かいました。この日の天気予報は午後から崩れるというものでしたが、いつものようにこの予報尾は外れて晴れたり曇ったりの状態で、午後3時頃には自宅に戻ることができました。 急に思いついての旅行でしたが、幸いにも天候に恵まれ、現地での出会いによる思いがけないものを見たりもでき、体力・気力の充実という旅行の目標もほぼ達成できたと思います。今後は二人目の孫の誕生により育爺状態のフル回転が続くことになりますが、できるだけ白門43会幹事の方は手を抜いて、かわいい孫の方に全力を傾けていきたいと思っています。 


   四万温泉旅行(1)

  6月末の鬼怒川旅行に続いて今年(平成25年)2回目の家族旅行(といっても夫婦二人)をしてきました。行先は平成21年2月に白門43会員の行田市の川辺さんと岡山の高橋住職と行った群馬県の四万(しま)温泉です。
 長女が8月末出産予定ということで、生まれたらまたわが家で全面的に面倒を見ることを踏まえて、体力・気力を整えるための1泊2日旅行として企画しました。
 目的はあくまで山奥の涼しい温泉でのんびりと英気を養うことですが、更に四万温泉の周辺の観光と翌日は平成21年2月には見ることができなかった行田の古代蓮を見ることも付け加えました。

 7月27日(土)
午前10時発の高崎線の特急草津1号で上野駅を出発しました。夏に温泉に行く人は少ないと見えて電車内はすいており、週刊誌を読んだり、うとうとしているうちに12時過ぎに中之条駅に到着しました。ここから宿泊旅館までタクシーで30分ほどなのでそれでは早すぎるということで、昼食を食べたりして時間潰しをすることにしました。
 中之条駅前に「はやし屋」という蕎麦屋があったのでここに入り、「三味蕎麦」というのを注文しました。それぞれに田舎風の太い蕎麦と、トロロ、ナメコ、山菜などが別々に入った小さなお椀3つに蕎麦汁をかけて食べるもので、私にはこれに似たものを南千住の「竹やぶ」と下総中山の「更月」で食べたことがありましたが、中之条のは洗練さには欠けるもののまずまずの味で、改めて蕎麦王国群馬県を感じることができました。別にテンプラ数点が付いており、得した気分でした。
 その後タクシーに乗り込み、運転手さんと相談の結果、まずは中之条町のことをよく知るために「歴史と民族の博物館」を見学し、その後に四万温泉郷を越えたところにある「四万川ダム」、そしてそこからやや戻った所にある重要文化財の「薬師堂」そして古い旅館で映画「千と千尋」の舞台にもなった「積善館(せきぜんかん)」を回ってから宿泊旅館である「やまぐち館」に行くことになりました。
 まずは中之条駅から数分の所にある「歴史と民族の博物館」に行きました。中心になる建物は元明治初期の洋風な小学校だったもので、外装は綺麗に補修されていましたが、中は木造の教室然としたもので、縄文時代から現在に至るいろいろなものが展示されていました。縄文時代のものとしてはハート型の顔をした土偶(本物は東京の国立博物館にあってここにあるのはレプリカ)、昭和初期のものとしてはアメリカから日本の全小学校に贈呈された青い目の人形(ローズ・メリー)などがありました。ローズ・メリーは1万数千個もあったのですが、その後の事情でその多くが処分されたり焼失したりして現在残っているのは3百個程度とのことでした。歴史に興味のある私としては徳川時代の藩主は誰だったか知りたかったのでタクシーの中で運転手さんに尋ねたのですが、「もともとは真田家の領地だった」という答えだけでその後のことは知らないようでした。そこで「歴史と民族の博物館」で丹念に展示物を見たのですが、やはり真田家所縁の鎧兜や資料があるだけで普通ならどこの博物館にもある歴代藩主の系図とかもありません。止むなく館長さんに尋ねると「中之条は信州上田の真田家の分家の上州沼田の真田家の領地だったが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの結果、石田方についた上田の真田家は取り潰しとなり、徳川方についた沼田の真田家は信州松代に移され、中之条は天領(幕府直轄地)となって幕府の代官が支配していた」とのことでした。これで私の疑問も解け大いに納得しました。
 次に四万温泉の上流に向かいましたが、四万温泉口の手前で運転手さんが「甌穴(おうけつ)を見ませんか」と提案してくれました。それは四万川の流れが強かったころに流された岩によって削られて出来た川底の岩盤の穴のことでした。橋の上から川底を見ると確かに小さなプールか風呂桶のような穴が緑色の綺麗な流れの中にいくつもあり、観光客らしき人がそこに足湯のように足先を入れて涼んでいました。このような現象はどこの川にでもありそうな話でしたが、「甌穴」と説明されて見たのは初めてでした。
 「四万川ダム」は調整ダムということで発電などは行っておらず、脇の落とし口から水を川に流しているだけで、このところの渇水で貯水量も減っているようでした。以前、奥多摩方面のウオーキングの時にダムの放水を見たことのある私には迫力のないものでしたが、ここでも水の色が緑色で神秘的な感じがしました。
 ダムから車で数分降りた所に「薬王寺」があり、そこの「薬師堂」が重要文化財ということなので、お参りしてきました。かなり古い建物で、その下から温泉が湧き出ており、それを利用して誰でも入れる温泉場を提供しているという珍しい寺でした。自家用車でここに来る人が多いので道幅を広げたり、駐車スペースを作ったり苦労しているようでした。もう少しゆっくりできる時間があったのですが、天候が怪しくなってきたので早めに切り上げて、「積善館」に向かいました。
 「積善館」は新旧3つの建物からなる大きな旅館で、映画「千と千尋」の舞台となったのはその本館でした。赤い欄干の橋を渡るとそこは何か別世界のような所で、洋風の街路灯が無かったらまるで昔にタイムスリップしたような素晴らしい雰囲気のある空間でした。小さいころからここで育ったという運転手さんの話では昔は有名な芸能人なども来る賑わいのあった旅館とのことでした。
   宿泊する「やまぐち館」に到着したのは午後2時半近くでしたが、チェックインして708号室に案内されました。4年前に一度宿泊しているのですが、記憶が薄れてしまっているようで余り思い出せませんでした。部屋は窓の下に四万川がごうごうと音を立てながら流れているのが見える部屋でしたが、入って5分としないうちに豪雨となり絶好のタイミングでチェックインできた幸運に感謝しました。雨は夜遅くまで降り続けました。
 この旅館は7階建てですがフロントは4階で、それ以下は崖下になっており、大浴場は一番下の1階でした。早くチェックインした特権で誰も入っていない大浴場に一人で貸し切りのように入ることができました。少しぬるめのものと、やや熱めの大きな浴槽が2つあり、交互に入ったりして満喫しました。
 私はこの時と翌朝5時頃の2回入浴しましたが、家内は頑張って4回も入浴したようです。湯質はとても優しく家内も大満足のようでした。
 夕食は3階の広間で宿泊客20名ほどと一緒に食べましたが、旅館からはお酒が一人1合付くということで、私は酒の飲めない家内の分も引き受けておいしい冷酒を2合いただき大満足でした。料理も先付けに群馬名産の「蒟蒻素麺」が出たり、上州牛のステーキが出たり、里芋やいろいろな茸、鶏などの入った煮物が出たりとてもおいしいものでした。とにかく野菜と蒟蒻が特においしく感じました。ご飯は筍と油揚げの炊き込みご飯と白飯の2種類、そしてナメコ味噌汁はバイキング方式で自分が好きなだけ食べることができるようになっていました。私としては夏なのに何故か体重が増えすぎて困っていたので、炊き込みご飯1杯と、ナメコの味噌汁は1杯にしておきましたが、それ以外については完食しました。
 食後の8時過ぎに4階でこの旅館の名物女将の紙芝居や従業員による太鼓の演奏、マジックなどがあるとのことでした。この旅館の女将はテレビコマーシャルにもよく出演している有名人で、私は4年前に見ているのでそれほど興味はなかったのですが、家内が見たいというので付き合うことにしていたところ、館内放送が流れて「女将の体調が悪くなったので中止します」ということになり、私としてはほっとしてそのままテレビを見ながら寝てしまいました。                 (続く)




   日光の田母沢御用邸の見学

 私は平成4年(1992)年2月に初めて鬼怒川温泉の谷川ホテル(七重八重)に宿泊して以来、これまでに16回もこのホテルに宿泊しています。最初は家族や親戚の人も交えて賑やかに行ったのですが、最近は年寄りは亡くなり、子供は親離れして、専ら夫婦二人になってしまいました。
 またこのホテルは平成20年(2008年)4月に、白門43会の「留学生との集い」終了後の慰労旅行として20名以上の幹事が参加して日光観光の後に宿泊しているので、幹事の皆さんも覚えている人が多いと思います。更に、昨年8月にも中大国際関係研究会の同期3名(白門43会の会員の高橋・川辺両君と私)で日光観光の後に宿泊しており、翌日は鬼怒川ライン下りも経験し、その様子は43会のホームページで紹介したので、それを読んだ会員もいることと思います。
 このホテルの良い所は、地上3階地下2階のこじんまりとしたホテルであること、鬼怒川温泉駅から徒歩5分と近いこと、従業員教育が行き届いていること、料理がおいしくてヘルシーなこと等で、ついつい足が向いてしまうので20年に16回も宿泊することになったのです。特に私の家は浅草に近いので、東武浅草駅から特急電車(スペイシア)に乗るとほぼ2時間で到着できることも魅力であり、途中には日光、佐野、足利、栃木といった観光地が多く、行き帰りに立ち寄ることもできるので便利なのです。
 前置きはともかく、今年も第17回目の鬼怒川旅行をすることになりました。ご承知のように私たち夫婦は目下近くに住む娘の長男(3歳6ケ月)の面倒を週4日もみている育爺(イクジイ)なので、同窓会活動もままならない状態なのですが、その娘に二人目の子供ができて出産休暇に入ったので我々夫婦も一息つくことにしたのです。
 生憎と天気予報では台風が直撃するということで一時は中止しようと思ったのですが、最近は予報のはずれが多いことから注目していると果たして台風は熱帯低気圧に変化してほぼ消滅してしまいました。
 午前10時に東武浅草駅から特急(スペイシア)に乗り込むとほぼ満席になっており、この時期にどうしてこんなに混雑するのか不思議でした。東武特急については、相変わらず東武日光駅までの直通はなく(駅員の話では9:30発の直通臨時便があるとのことですが、それは特急(スネイシア))の車体ではなく普通電車のそれとのこと)、世界遺産である日光に行くのに最後の二駅を下今市で乗換えなければならない点がこれまた納得が行きません。恐らく並行して走っているJRの横槍でそうしなければならなくなっているのだと思います。
 東武日光駅に到着すると生憎の雨で、傘をさしての日光見学はしたくなかったので、急遽予定を変更してガイドブックにあった「田母沢御用邸」見学をすることにしました。日光にはそれこそ十数回も行ったのですが、「田母沢御用邸」には行ったことがなかったので、傘をささずに見学できるという点で行って見ることにしたのです。
 東武日光駅のコインロッカーに荷物を預けて、駅前からタクシーで約10分ほどで「田母沢御用邸」に到着しました。「田母沢御用邸」は大正天皇のご静養地として明治32年(1899年)に建造されたもので、その後の改築などで床面積1,360坪の建物(1棟の床面積では日本最大)と広大な庭園からなる敷地面積11,900坪という壮大なお屋敷でした。御車寄せという立派な玄関から入ると15分ほどの紹介ビデオを見て、それから邸内をゆっくりと見学しました。東武日光駅では多くの乗客が降りたのですが、流石にここに目を付けた人は少なく、我々夫婦はゆっくりとあちこちを回ることができました。要所要所にはボランティアとおぼしき中年の男性が控えており、簡単な説明をしてくれたり、質問に答えてしてくれていました。もっともこれらのボランティアの男性の任務のひとつは観光客が悪いことをしないように見張ることだと思いました。ここは現在は栃木県が管理しており、御用邸としては使用していないようでしたが、畳や廊下、天井や柱は素人目にもよく吟味された資材が使われているようで、夫婦共々圧倒されてしまいました。ほとんどの部屋を見ることができ、その中には食堂やビリヤード室、謁見所や書院、そして居間や寝所の他に風呂場やトイレなども見ることができました。中に「三種の神器」を安置する「剣璽の間」というのがあったので説明員に「天皇は静養の時にも三種の神器を持っていくのですか」と質問したところ「その通り」との答えでした。「三種の神器」のような大切なものは皇居の奥の金庫にでも大切に保管されていると思っていた私には意外なことでした。また、風呂場は床が板張りで風呂桶がなかったので、どのようにして入浴するのか尋ねると「薄い下着のようなものを身に着けて小さな腰掛に座っているところに侍従がお湯を掛けるだけ」という答えで、それでは汚れもとることができないし、頭はどうやって洗うのかなあと思いました。
 更に、沢山あるガラス窓のガラスが以前43会のウオーキングで見学した沼津の御用邸のそれと同じ全て昔風のむらのあるガラスだったので質問すると「よくそのことに気が付いてくれた」というように当時のガラスの作り方まで説明してくれました。これらのガラスは当時の「旭ガラス株式会社」が最新の方法で作ったのとの説明だったので、旭ガラスの社員だった父のことを思い出して感慨深いものがありました。家内は各部屋にある電灯の笠が素晴らしいと感心していました。
 庭園もまた素晴らしく、きれいに手入れされた樹木が新緑の美しさを見せていました。春には枝垂れ桜の巨木が見事だそうで、秋には紅葉が素晴らしいとのことなのでまたその季節に来たいと思いました。とにかく、建物にしても庭園にしても県の管理にしては実に綺麗に整備されており、なかなかのものでした。たまたま雨というハプニングで訪問した御用邸でしたが、予想を遥かに超えた素晴らしさでした。白門43会の皆さんの中にも関心のある人、日光に行く予定の人は是非見学するとよいと思い紹介しました。
 タクシーを待たせていたので見学は40分ほどで終え、御用邸の写真集や皇室定番のお土産のコンペイ糖を買って急いでタクシーに乗り込み、東武日光駅から下今市駅に戻り、丁度来あわせたスペイシアで鬼怒川温泉に向かいました。特急券は持っていなかったのですが、空いている席に座り下車後に清算すると二人で千円でした。何十分も各駅停車の電車を待つよりこの方が遥かに快適です。
 谷川ホテルには2時過ぎに着いてしまい、無理を言ってチェックイン(部屋は最上階の515号室)させてもらいました。このあたりは17回も宿泊している実績で、女将も気持ちよく対応してくれました。3時ころには入浴できるようになったので交代で地下の大浴場でゆっくり入浴しました。この日はホテルも満室ということでしたが、流石にこの時間では入浴客もほとんど居らず、貸し切り状態で満喫できました。
 夕食は早めの5時半にしてもらい、3階の個室でイワナの姿造り、霜降り牛のシャブシャブ、鰆の味噌焼き、山菜釜飯などに舌鼓を打ちました。いつもながらここの料理はおいしく、ヘルシーで量も適切で大いに満足しました。
 今回の旅行は休養が目的だったので、翌日は天気が良かったのですがどこにも寄らず、9時15分のスペイシアに乗って、11時15分に浅草に戻りました。
 この日は東京都議会議員の選挙の投票日だったので、夕方夫婦で揃って近所の小学校の投票所に行き、投票してきました。



   乳頭温泉・角館・秋田旅行(3

第3日目 5月3日(金曜日)

 7時過ぎにバイキングの朝食を食べ、9時にロビーでU君と落合いました。この日はホテルの隣の千秋公園(佐竹22万5千石の城跡)を観光し、その後ホテルの反対側にある秋田県立美術館に行くことにしていました。天気は相変わらず小雨が降ったり止んだりといったものでした。
 4人で千秋公園に入ったところ、年配の男性が近づいてきて「これからここを観光するのですか」と言うので「その積りです」と答えると「それならボランティアの女性案内人はどうですか。別に料金は不要です」と言うのでお願いしました。我々一同は40歳代と思われるおとなしそうな女性の案内で千秋公園の中を歩きました。その女性の説明でいろいろなことが分かりました。

①    佐竹22万5千石のこの城は正式には久保田城といい、関が原の戦いの後に佐竹氏が水戸35万石から転封されてきた後に築城したものである。
②    徳川幕府に睨まれていた佐竹氏としては、遠慮して久保田城を築城したので、初めから天守閣は造らなかった。
③    そもそも佐竹氏は古い源氏の家系(八幡太郎義家の弟の新羅三郎義光から始まる。)で、鎌倉時代に守護大名となり、江戸幕末まで続いた最古の大名である(第2位が薩摩の島津家)。

 私はこのボランティアの女性に「秋田美人が多い原因として、水戸から秋田に転封された佐竹の殿様がその悔しさから水戸中の美女を秋田に連れて行ったからで、そのため水戸は日本三大不美人になってしまったという話を聞いているがそれは本当ですか」と尋ねたところ、「歴史的にはそのような記録は一切ありません。但し、その話は茨城出身の人からよく聞かれます」との答えでした。
 1時間半ほど案内してもらった後に、今度は秋田美術館に行きました。入場料を払おうとすると受付の女性が「入場は無料です」と言ったのでラッキーと思い「現在、何が展示されているのですか」と尋ねると「3日後から藤田嗣治の絵画展を予定しています」との答えでした。つまりこの日は常設のものだけが展示されているということで、一同がっかりして喫茶室でコーヒーを飲むことにしました。この美術館は有名な建築家の安藤忠雄が造ったものということで、コンクリート剥き出しの壁や天井にはうんざりしましたが、喫茶室の脇のプールのようなものはよく出来ていて、ガラス越しに腰のあたりまで溜まった水が外側に流れ落ちているように見える不思議なもので、ここでおいしいコーヒーを飲みながら1時間ほどのんびりしました。
 11時ごろになったので、先程の千秋公園のボランティアの女性から教えてもらった稲庭うどんのおいしい店「無限堂」に向かいました。なかなか見つからず、うろうろしましたが西武百貨店の裏にあるのを見つけ、稲庭うどんセットを頼みました。このセットには暖かい稲庭うどんのほかに、焼いたハタハタ2尾その他が付いており、なかなかの味とボリュームでした。

 昼食後、歩いてホテルに戻り、荷物をA君の車に積み込んで秋田駅まで送ってもらうことになりました。前日、千秋公園のボランティアの女性に「どこのホテルにお泊りですか」と尋ねられたので「キャッスルホテル」と答えると「秋田では一番いいホテルです。皇族などが秋田に来られる時もキャッスルホテルに泊まります」と言われましたが、確かに綺麗で従業員のサービスも丁寧でしたが、A君は「宿泊客の車から駐車料金をとるのは変だ」と不満を言っていました。また、駐車場の車の通路スペースが狭くてA君の3000CCクラスの車だとぎりぎりのところが何箇所かありました。
 秋田駅近くでA君とU君と別れ、高橋さんと私は12:57発の「こまち36号」で上野に向かいました。臨時にダイヤ改正があったとのことで、帰りも新型のスーパーこまちでした。疲れて私はずっと寝ていました。A君とU君はこの日はゴルフということで、高橋さんはドーム球場で巨人・広島戦を観戦ということで、皆さん大したものだと思いました。

 今回の旅行は、秘湯と言われる「乳頭温泉」、おそらく最盛期と思われた「角館のしだれ桜」そして秋田美人の直接拝観が主目的でしたが、「乳頭温泉」だけが素晴らしくその他の二つはともに空振りに終わりました。天候にも恵まれず、小雨の中を傘を差したり畳んだりしながらの観光となりましたが、土砂降りの雨ではなく、車から降りると止んでいることも多くまあまあだったと思います。
 次回は10月中旬に、山形県の銀山温泉と温海温泉に行く話がまとまったので、一休みした後にまた準備をすることになります。次回はもっと人数が増えるように工夫することにします。


   乳頭温泉・角館・秋田旅行(2

 第2日目 5月2日(木曜日)

前夜早く寝たのと、年寄りのせいで皆5時前には起床して高橋さんは散歩、私とA君は「中湯」に入浴といったことで時間を過ごしました。高橋さんが露天風呂で写真を撮りたいと言うので、身体に自信のある高橋さんだけ入浴シーンを撮影しましたが、湯気でぼやけた中で白濁した湯から上半身を乗り出してVサインしているメタボの坊さんの絵柄は何とも形容しがたいものでした。
 7時に待ちに待った朝食の時間となり、一番に1階の大広間に行きました。部屋毎にお膳がセットされており、思っていたより多くの宿泊客がいたということが分かりました。
 朝食も山菜や川魚の甘辛煮付け、山芋などヘルシーなものばかりで、味もなかなかなかなものでした。天気は小雨が降ったり止んだりでしたが、角館の桜が期待できないことが分かったので計画を変更して角館は早めに切り上げて、男鹿半島に足を伸ばしてから秋田に向かうことにして、8時半ごろに宿を出て約1時間で角館に着きました。車を駐車場に入れて徒歩で武家屋敷などを散策しましたが、ここの主力である162本のしだれ桜は残念ながらほとんどが咲き始めたばかりといったところでした。
 武家屋敷の一つに入って説明を受けたり、焼ききりたんぽを食べたりして1時間ほど観光した後、再び車に乗って2時間かけて男鹿半島の最先端の入道崎に向かいました。途中で港の近くの海鮮市場という所で昼食を食べました。前日がヘルシーだった反動で、今回は2,800円の豪華「海宝丼」を注文しました。出て来た「海宝丼」には大きくプリプリしたぼたんえびが2尾、うに、いくらその他の刺身がたっぷりと乗っており、その他にも魚のアラがいっぱい入った味噌汁や定番の胆振ガッコ、根こんぶの小皿などが付いており、一同ひたすら食べまくりました。
 その後車に乗って男鹿半島の最先端の入道崎に到着したのですが、そこには小さな灯台があったり、北緯40度線の真下であるとの標識があったり、日本海が一望できる眺望だったりはするのですが、冷たい強風が吹いていて今回の旅行で初めて寒さを感じました。
 寒さに凍えた一同は車でこの日の宿泊地である秋田市に向かいました。2時間ほどで秋田駅近くのキャッスルホテルに到着してチェックインしました。前日の「鶴の湯」と違って大きな近代的ホテルでした。フロントの女性は「トリプルのお部屋になっています」と説明していましたが、行って見るとツインの部屋に簡易ベッドを入れただけで、必然的にイビキのうるさい高橋さんが簡易ベッドということになりました。
 ここで4人目のU君(大学の1期後輩)が5時に合流ということになっていました。山形県鶴岡市から駆けつけたU君とは40数年ぶりですっかり顔も忘れていたのが会った瞬間に記憶が蘇ったようで、あとは昔からずっと付き合ってように話し合うことができました。約1時間ほど1階の喫茶室で話し合ったのですが、U君は「本間さまには及びもないが、せめてなりたや酒井の殿様」で知られている酒井家の家臣の家柄で、現在の当主の酒井氏がオーナーを務めている庄内銀行に就職した後、取引先であった絹織物の業者に建て直しのため転籍し、金属加工業に変身させることに成功し、現在では百数十人の従業員を抱える企業のオーナーとして活躍していることが分かりました。
 6時から7階の和食レストランで夕食ということになり、眼下に久保田城跡の千秋公園を見下ろす絶好の席でおいしい料理を食べ、おいしい酒を飲み、いろいろと楽しく談笑しました。食事はどれもヘルシーでおいしく、酒も1合とっくり、2号とっくりと称してその半分しか入っていない点を除いて素晴らしいものでした。
 食後、どうしても秋田美人にめぐり合いたいという一同の希望により、U君がスナックを手配してくれたので、一同タクシーでそこに向かいました。
 スナックではU君の顔で特別扱いとなり、貸し切り状態、カラオケ歌い放題とうことになりました。スナックのママは確かに美人でプロポーションも素晴らしいのですが、話すうちに「私も還暦を過ぎて皆さんと同世代よ」と言われてびっくりしてしまいしました。
 2時間ほど騒いだ後、またタクシーでホテルに戻りました。U君は常宿である別のホテルに宿泊しているとのことで、我々をキャッスルホテルに届けた後にそちらのホテルに向かいました。部屋に戻ると酒と疲れで一同バタンキューでした。


   乳頭温泉・角館・秋田旅行(1)

私は毎年中大の国際関係研究会の仲間と旅行しており、これまでにもう10回ほど行きました。その仲間の中には白門43会の会員もいてその関係で43会ホームページに何回か投稿させてもらっています。今回は5月1日~3日にかけて、秋田県の「乳頭温泉」と「角館」そして秋田市内を旅行してきたので紹介します。
 今回の参加者は当初は43会会員の行田市の川辺秀夫さん、岡山市の住職の高橋良洋さんと私そして2年後輩の実家が宮城県のA君の4名だったのですが、行田市の川辺さんが急遽体調を崩して不参加となり、前回の日光・鬼怒川旅行と同様に3名になるところでした。そこに1年後輩の山形県在住のU君が5月2日の晩から参加できるとの朗報が入り、ほっとしました。
 今回の旅行の目的は、湯治場としての長い歴史のある秘湯「乳頭温泉」にたっぷりと浸かること、しだれ桜と武家屋敷で有名な「角館」を観光すること、そして秋田市では本物の秋田美人を拝観することでした。

 第1日目 5月1日(水曜日)
 天気予報では東京は曇りでしたが、秋田方面は「雨で寒い」ということで、セーターやブルゾンで武装してわが家を出発しました。前日から上京していたとはいえ、岡山から出て来た高橋さんが心配で、30分ほど早く上野駅の20番ホームに行って13号車の前のベンチで高橋さんを待ちました。
 無事に高橋さんが到着し、9:02発の新型「スーパーこまち」も赤い長い鼻を突き出して到着したので早速乗り込みました。車内はゴールデンウイーク合間の平日にもかかわらずほぼ満員でした。11時過ぎに車内販売でお茶と弁当を購入し、早めの昼食を食べました。
 11:52に田沢湖駅に到着し、走り去る「スーパーこまち」を背景に高橋さんの写真を撮りました。田沢湖駅では大学で2年後輩のA君が車で待っており、早速A君自慢の排気量3000CCのトヨタプログレスに乗り込みました。天気は小雨が降ったり止んだりといったところでしたが、気温は8度くらいで、列車内で温まった身体にはそれほど寒いとは感じませんでした。
 予定では湖畔を13:00に出発する遊覧船に乗るのですが、時間的に余裕があったので、A君の発案で田沢湖を車で一周することにしました。天候はいまいちでしたが、湖は穏やかで緑色の水面を見せてなかなか神秘的でした。釣り船や遊覧船の姿も見えず、田沢湖を一周しても対向車に会ったのは1~2度で、途中で湖畔の「たつ子」像という金色の乙女のモニュメントの所で何人かの観光客と会うことはあってもあとは全くの無人で、まるで田沢湖をまるまる借り切った状態でした。
 遊覧船に乗ったのも10人くらいで、40分で湖をかなり早いスピードで一周しました。先程車から見た「たつ子」像を今度は湖側から見たりしましたが、船内のアナウンスで田沢湖は水深が400メートルを超えた日本一深い湖であること、酸性度が高くて魚がほとんどいないことなどの説明を受けました。
 遊覧船を降りて湖畔の休憩所でコーヒーを飲みながら少し談笑し、それからお土産コーナーを見てみましたが、メインは「稲庭うどん」と燻した沢庵の「いぶりがっこ」そして「蓴菜」でした。酒のコーナーで元秋田美人のおばさんが試飲を勧めてくれたのでいろいろと試飲しました。秋田は米と水がおいしいのでいい酒があると言われ、東京で有名な「高清水」よりおいしいという「刈穂」という酒を勧められました。飲んでみると確かにおいしいので、私は2種類の「刈穂」を自宅に郵送しました。日本酒党の高橋さんは今晩のためにと1本買い、A君も自分用に1本買ったようです。それからまた車に戻り、今夜の宿泊地である乳頭温泉に向かいました。
 約30分ほどで乳頭温泉の「鶴の湯」という看板が見え、更に10分ほど細い山道を進むと風情のある木造建築物がいくつか見えてきました。さずがに湯治場としての長い歴史を持つ旅館で、江戸時代にタイムスリップしたような門から入ると両側に木造の長屋のような宿泊施設が並んでおり、突き当りは小高い山斜面になっていました。「鶴の湯」に向かう山道も一面の雪に覆われていましたが、ここ旅館の周辺も寒々とした一面の雪景色でした。でも不思議に寒さは余り感じませんでした。
 宿泊施設の奥に細い川が流れており、数メートルの橋を渡ると右手に大きな露店風呂やその他の風呂小屋がいくつか見えました、川の手前の左が本館と事務所になっており、いずれも木造の同じトーンの建物なので全体の湯治場の雰囲気が保たれていました。
 部屋は本館2階の「一番」という所で、6畳くらいの和室でした。フロントの女性の説明では、露天風呂を含めた数カ所の風呂は温まるだけのもので、身体を洗いたい時はシャワ-や水道、洗い場のある本館内の「中湯」を使って欲しいということでした。
 何はともあれ露天風呂に入ろうということで、浴衣に着替えて小川を渡り、小さな小屋で浴衣を脱いで露天風呂に入りました。温泉水は白濁した水色で透明度がなく、温泉に入るための階段のようなものもないので、恐る恐る足を入れて入るのですが、底は岩だったり砂利だったりで気を付けないと滑りそうになります。湯温は低く、長く入っていないと体が温まりません。それよりもびっくりしたのはここは男女混浴になっており、先客数人のうち女性が二人ほどいたことでした。混浴は学生時代の帯広の旅館で経験済みでしたが、その時は土地のおばさん達が銭湯代わりに入っていた程度だったのですが、ここではたまたま若いカップルが入っており、それも二人でジャレ合っているのには参りました。女性は20代前半といった感じの美人でしたが、よく見るとバスタオルを巻いたままで入っていました。A君が「バスタオルを巻いて風呂に入るのはけしからん」と怒っていました。
 露天風呂はちょっとした池のような大きさでしたが、その脇に「白湯」「黒湯」と書かれた看板の掛かった風呂小屋のようなものがあったので、私と高橋さんはそっちに移動することになりました。浴衣を脱いだ小屋に上って浴衣を着るのが面倒なので、そのまま20メートル位を手拭いで前を隠しながら移動したのですが、途中でこれから露天風呂に入ろうとする女性を含む数人とすれ違った時はさすがに少し恥ずかしい気持ちがしました。
 「白湯」「黒湯」の両方に入ってみましたが、水質がそれぞれ違うという説明にも関わらず、見た目も硫黄の香りも私には先程の露天風呂と同じに感じました。
 部屋に戻り6時からの夕食までのんびりしましたが、部屋にはテレビもなく、窓の外の銀世界に囲まれて久しぶりに静かな時間を経験しました。
 待ちに待った夕食は部屋に運ばれたお膳によるもので、山芋の鍋のほか主に山菜と川魚を中心としたヘルシーなものでした。「JR」の客ということで、宿から冷酒の1合瓶は各人にサービスされ、更に窓の外で冷やしておいた高橋さんの「刈穂」を飲んで皆大満足でした。食後も何もすることがないので風呂に入り直したりして早く寝ました。(続く)


   佐原旅行(3)

 12月28日(金)(続き)
 「伊能忠敬記念館」を出るとその脇に古い民家の喫茶店があったので、コーヒーでも飲もうと入ったのですが、ここで「田舎しるこ」(佐原は小豆の産地らしくて「餡」を作ったり売ったりしている店が多いのでつい気持ちが変わって注文してしまった)を食べながら、伊能家の人という女性に話を聞くことができました。伊能家はこの地の名門で、七家が栄えており、忠敬が婿養子に入ったのは分家とのことでした。その分家は「伊能忠敬記念館」の前の川の反対側にあり、現在は改装工事中ですが、「伊能忠敬旧家」として観光スポットになっているとのことでした。また、忠敬の墓は3つあり、そのひとつが近くの「観福寺」にあるので是非行ったらよいとのことでした。
 そこで、15分ほど歩いて「観福寺」に行くと、そこはかなり立派な寺で、本堂の他にも薬師堂とか毘沙門堂などがあり、忠敬の墓も多くの伊能家の墓の中にありました。説明文には、ここに収められているのは忠敬の髪の毛と爪と書いてありました。ここは厄除けの寺として有名な寺とのことで、私も厄に会わないようにお参りしておきました。
 その後、歩いて佐原駅に戻りましたが、天候は前日と違って曇りとなり、雨がぽつぽつと降ってくる状態で、気温も低くなってきました。佐原駅で確認すると帰りの電車は3時12分発の千葉行きで、千葉で乗換えて東京に向かうことにしました。
 出発まで1時間近くあったので、近くのパン屋・喫茶店で時間を潰すことにしましたが、おいしそうなアンパンが目に入り、ひとつだけ食べてしまいました。私の家の近くにあんこ屋が経営しているアンデスというパン屋があり、私はそこのアンパンが好きでよく食べるのですが、ここのアンパンもそれに
負けないくらいおいしいものでした。
 帰りの電車では夫婦ともども早朝の日の出観測がたたってうつらうつらしていましたが、千葉駅で乗換えた時点で、何も東京駅まで行くことはなく、途中の錦糸町駅で下車してタクシーで自宅まで帰ろうということになり、5時半前には帰宅できました。
 今回の旅行は軽い気持ちで企画したものですが、ここで「佐」の付く所を3ヶ所全部行ったという満足感の他に、全国で一番早い日の出を関東最東端の犬吠埼で十分堪能したということで大満足でした。これで銚子周辺にもっと魅力的な観光地が沢山あれば、毎年でも行ってもいいと思いました。また、交通機関がまだお粗末で、電車が1時間に1本しかないということなども問題だと思いました。日本でも有数の漁港を抱え、「ヒゲタ」とか「ヤマサ」といった醤油製造の本拠地でもあり、そして何よりも日本で一番早い日の出が見られる犬吠埼があるだけに、観光スポットの整備やそのPRをしっかりとやれば、東京から1時間半ほどで新鮮な魚介類が食べられるということでもっと観光客が集まるのにとも思いました。


    佐原旅行(2)

 12月28日(金)
 朝5時半頃から目が覚めて、窓越しに海を見ると水平線がダイダイ色に染まっており、日の出の前の海とはどういうものか生まれて初めて経験しました。家内と二人でカメラを持って水平線を眺めていると、水平線のダイダイ色が次第に中央に集まり始め、やがて6時45分になるとその中心から明るい太陽が輝いて出てきました。そしてぐんぐんと太陽がその全景を表していき、15分ほどで水平線上に球体となって浮かびました。夫婦でカメラ撮影を続けながら、生まれて初めての経験に感動しました。今回の旅行は単なる骨休みの積りでしたが、思いもかけない素晴らしい景色を見ることができて夫婦ともども大満足でした。
 朝食はホテルの会場で食べることになっており、そこで初めてこの日このホテルが満室だったことが確認できました。大部分は家族連れか、熟年夫婦といったところで、団体は数人の中年男性のものが1組だけのようでした。朝食は、秋刀魚の干物、豆腐、煮野菜、とろろ汁などで、これまたヘルシーなものでした。
 9時40分発のホテルの送迎車で銚子駅に向かい、10時27分発の電車で佐倉に向けて出発しました。出発して間もなく電車が止まったので何かと思ったのですが、車内放送が「ただ今線路内に犬が立ち入りましたので、これを移動させる間お待ちください」と流れたので、乗客一同思わず笑ってしまいました。
 40分ほどで佐倉駅に到着しました。電車の中で資料を見て観光ルートを大体決めていたので、まずは荷物をコインロッカーに預けて、最初の目的地である諏訪神社に向かいました。佐倉駅から歩いて15分ほどで立派な神社が見えてきました。その脇には伊能忠敬の銅像が高く聳えており、あとで聞くと伊能家とこの神社は縁があるとのことでした。細い参道を辿ると長い階段が見えてきました。家内は「また階段なの」と悲鳴をあげていましたが、ここまで来た以上は仕方がなく、ふうふう息を切らしながらやっとのことで階段を登り切りました。古い社にお参りすると奥に道があり、その道を歩いて行くと神社の裏から車道に出られるようになっており、少し遠回りにはなりますが、階段よりずっと楽な道があることがわかりました。
 資料に基づいて「小江戸」と言われる町並みの方に歩いて行くと、それらしい古い商店が並ぶ町角が見えてきました。資料によればここに県指定の重要文化財となっている古い蕎麦屋である「小堀屋」があるというので、さっそく入って見ました。間口の狭い古い木造の店で、入ると左右に畳敷きの部屋があり、30名くらいは入れそうな店でした。またこの店の手前のいかにも元は銀行と思われる立派な建物が「小堀屋別館」となっていたので、観光シーズンにはかなりの客が来る店なんだろうと想像されました。この店の“売り”は昆布を練り込んだ「黒切り蕎麦」というので私はこれを注文し、家内は寒いので温かい「おかめ蕎麦」にしました。「黒切り蕎麦」は見た目は真っ黒で、食べるとまるで海草を食べているようで、蕎麦の風味は余り感じられませんでした。多少がっかりして普通の蕎麦を追加注文しようと思ったのですが、前日から食べ過ぎて体重が増えているようなので止めました。
 蕎麦屋を出て少し行くと小野川という小さな川があり、ここがよく写真などで見る舟を浮かべて観光したり、花嫁が舟に乗って嫁入りする川のようでした。両岸には木造の商店のようなものが並び、これが「小江戸」の風景のようでしたが、その規模は栃木市並みで、ちょっとがっかりしました。
 近くに「伊能忠敬記念館」があったのでここに入りました。伊能忠敬は年取ってから日本全国をまわって測量し、正確な日本地図を作成した江戸末期の人と記憶していましたが、ここで詳しく資料を見たり、10分間のビデオを見て本当に立派な人であることがよく分かりました。伊能忠敬は九十九里の生まれで、その後佐倉で酒造りその他の醸造業などを営んでいた伊能家に婿養子に入り、見事にこの家を建て直して財をなし、50歳で息子に後を譲って江戸に出て高橋至時という19歳も年下の天文学者の下で天文学を勉強し、55歳から17年かけて日本全国の測量をしたというのです。彼が作成した日本地図は現在の地図に比較してわずかにずれがあるものの、形としてはほぼ正確なもので、精密機械や交通機関のなかった時代にどうやってこんな正確な地図が作成できたのか感心してしまいました。「伊能忠敬記念館」にはこの時代に世界各国で作成された地図が展示されていましたが、それのどれもが日本を見ても似つかない形に描いており、これだけでも伊能忠敬の能力と日本の知的レベルの高さを示していて誇らしく思いました。また、私が現在住んでいる台東区の我が家の近くに源空寺という寺があり、その墓所には「伊能忠敬の墓、高橋至時の墓」との表示があり、私も一度ふたつの墓を見たのですが、そのときは有名人二人の墓としか思っていなかったのですが、「伊能忠敬記念館」の説明で二人が師弟関係にあり、忠敬の死後息子がわざわざ師の高橋至時の墓の隣に忠敬の墓を作ったということが分かりました。(続く)
 


   佐原旅行(1)

 昨年末に、娘夫婦が孫を連れて旅行に出ることから、我々夫婦も孫の世話から解放されたので一昨年に続いてミニ旅行をすることにしました。余り遠くには行きたくないし、寒い所も嫌なのでいろいろと検討した結果、かねてから行きたいと思っていた佐原に行くことにしました。
 関東周辺には「佐野」「佐倉」「佐原」と「佐」の付く地名が3つあり、私は「厄除け大師」やラーメンで有名な「佐野」と、4年前のミニトリップで「佐倉」(城址公園、国立歴史民俗博物館、順天堂記念館、堀田邸などで有名)には行ったことがありましたが、「佐原」はまだ行ったことがなかったのです。
 「佐原」は小江戸とも言われる歴史的な町で、ガイドブックには「お江戸見たけりゃ佐原にござれ、佐原本町江戸まさり」などと書かれていました。また「関東の柳川」とも言われて倉敷や栃木などと同様に川の両岸に蔵屋敷が並んでいるとのことでした。その他にも日本全国を測量した伊能忠敬の縁の土地だったり、香取神社があったりということでした。
 早速、いつもの近畿ツーリストに相談したところ、佐原には宿泊施設が少ないので、宿泊は少し先の銚子の犬吠埼がよいのではということになりました。

 12月27日(木)
 寒さに備えてしっかりと冬支度を整え、9:40の東京駅発(しおさい3号)で出発しました。2時間弱で銚子駅に到着し、近畿ツーリストに頼んで取り寄せた資料に基づいて「ポートタワー」という海岸の観光施設にタクシーで行きました。
 まずは昼食ということで、エレベーターで「ポートタワー」の展望台に上りました。そこは360度のガラス張りになっており、銚子の町は無論のこと、漁港に出入りする船などが見えましたが、何と言っても圧巻なのは広い海が一望できることでした。この日は雲ひとつない晴天で、青々とした太平洋の穏やかな海を見ていると心が洗われるようでした。展望台には喫茶コーナーもあり、ここでコーヒーを飲みましたが、窓際にある席はギラギラと照りつける太陽でまるで温室の中のように暑いので驚きました。
 銚子の海を十分堪能しましたので、2時間前と少し早かったのですが、タクシーを呼んでホテルに向かいました。約10分程で犬吠埼の「ぎょうけい(暁鶏)」というホテル(下の写真)に到着しました。そこは犬吠埼の灯台の近くで海岸に面した33部屋の小ぢんまりしたきれいなホテルでした。
 時間が早かったので、まずフロントに荷物を預けて灯台を見学することにしました。フロントの人のアドバイスで、ホテルの庭から海岸沿いの細い道を10分ほど歩いて灯台に行きました。ここには以前にも来たことがあったはずでしたがまるで記憶には残っておらず、新鮮な気持ちで見学することができました。資料館に続いて99段の螺旋階段を登って展望台まで行きました。最後の階段は狭いはしご段になっており息が切れましたが、以前に出雲旅行をした時にここよりもっと高い日御碕灯台に登った時はその全部の階段が急なはしご段だったという経験があるので、何とか登りきることができました。登ってみるとここからの眺めもなかなかで、先ほど登った銚子の「ポートタワー」も遥か彼方に見ることができました。
 灯台から戻ってホテルの部屋に入ると、そこは広い窓ガラスのある部屋で、見渡す限りに海が広がった素晴らしい眺めでした。犬吠埼は関東の最東端に位置しており、冬場は日本で一番早く日の出が見られるとのことで、この日の晴天からすれば翌朝の日の出(6時45分)は十分に期待できるようでした。
 まずは大浴場で温泉を満喫しました。この日は33部屋が満室と聞いていましたが、我々は4時前に大浴場に行ったので男湯は私一人の貸し切り状態、家内の方も子供連れの2人だけということで、贅沢な時間を過ごしました。
 夕食は12品の立派なもので、ホテルのサービスとして日本酒一合(家内はウーロン茶)が付いていましたが、これにビールを一本つけておいしい料理を満喫しました。先付の「ホタテの干物みぞれ和え」や前菜の「あん肝酒蒸し」、おつくりの鯵、鮪、勘八、紋甲いか、ふぐ等の天ぷら、そして金目鯛等の入った寄せ鍋など、どれもおいしく、またヘルシーな内容なので、これもまた完食してしまいました。
 食事の後は暫くテレビを見ていましたが、翌朝の日の出を見るのに備えて早めに床に付きました。
(続く)



    日光・鬼怒川旅行(2)

 8月30日(木)
 この日は、9時半にホテルの下から出る「鬼怒川ライン下り」に乗るため、6時ころに起床し、温泉に入って7時半から朝食を摂りました。「鬼怒川ライン下り」は43会の「留学生との集い」の「ご苦労さん会」の時(3月)は季節外ということで無理だったのですが、この日は2隻分の観光客が参加しました。約40分のコースですが、船頭さんの面白いトークなどもあってとても楽しい一時でした。川幅が広い場所では流れが緩くて船頭さんが漕ぐ必要がありますが、川幅が狭くなると流れが急になり、船がしぶきをあげてかなりのスピードで走ります。船の両舷には厚いビニールがあり、水しぶきが上がりそうな場所に来ると船頭さんの合図で乗客が一斉にビニールを持ち上げるのですが、この掛け合いがまた面白いのです。私は二度目の経験だったので、一番前に座ると脇だけでなく前のビニールも持ち上げなければならなかったのを覚えていたので、前から3番目の席に座って正解でした。途中、2ヶ所ほどあった吊り橋の下を通る時、下から吊り橋の通行客に手を振ると、上からもそれに答えて手を振ってくれます。振ってくれない時は船頭さんが大きな声で催促したりして、とても面白かったです。
 船を降りて、バスで鬼怒川温泉駅に向かい、一番早い特急で「栃木」に向かいました。「小江戸」ということで観光に力を入れている場所で、以前、43会の中村氏の提案で日帰り旅行をしたことがありました。まずは昼食ということで、43会の時に食べた蕎麦屋に行くことにしました。駅から真っ直ぐの道を30分程歩いたのですが、太陽が真上からギラギラと照りつける中、そのメインストリートにはアーケードはおろか、普通この程度の立派な道にはあるはずの街路樹も一本もなく、危うく熱中症になりかけた時、何とか蕎麦屋(メインストリートから少し中に入った場所にある大きな蔵をそのまま店として使っている)についたのですが、これが休業しており、その近くの別の蕎麦屋に入りました。この蕎麦屋には以前も入ったことがあり、なかなか美味しかったのを覚えていました。ここで生ビールを飲み(これで生き返りました)、かき揚げ蕎麦を食べながら、岡山の住職である高橋さんが「さっきから町中で若い坊さんを何人か見かけたが、この辺には大きな寺でもあるのか」と店の人に聞くと、近くに「近龍寺」という大きな寺があり、そこには作家の「山本有三」の墓もあるとの答えでした。生ビールと蕎麦で元気になった我々はそこに行こうということで、蕎麦屋から1~2分の「近龍寺」に行きました。浄土宗の大きな寺で、確かに作家の「山本有三」の墓もありました。墓標をよく見ると昭和49年没となっており、本名が「山本有造」となっていました。これだけでも大きな発見ということで一同満足しました。
 その後は「小江戸」「蔵の街」の観光ということで、43会のメンバーとも行ったことのある川沿いに黒塀に蔵のある場所を観光しましたが、何しろ暑くてバテバテになり、公園で一休みして早々に栃木駅に戻りました。一番早い特急をと出札口に申し込むと、「今出たばかりなので、次は1時間後です」との答えでした。止むなく駅構内にあった飲み屋でまたまた生ビール、焼き鳥、その他で打ち上げをしました。
 帰りの特急の中で食べようと栃木駅前にある唯一の店である「武平作だんご」を一人2本ずつ買ったのですが、食べれたのは私だけで、川辺さんの分を含めた4本は、この後5時から上野の鈴本で落語を聴くという高橋さんに渡しました。行田の川辺さんは途中の春日部駅で降り、私と高橋さんは北千住駅で特急を降りました。あとは地下鉄日比谷線で私は入谷駅で降り、高橋さんは次の上野駅に向かいました。
 第10回目の旅行はこうして無事に終わりましたが、つくづく健康が大事だということが身にしみて感じました。今後この旅行を続けるため、病気や体調の悪い人には一日も早く回復してもらって再び参加してもらいたいなと思いました。



    日光・鬼怒川旅行(1)

 私は、中央大学のクラブ(文化連盟所属の国際関係研究会)の同期で毎年旅行をしており、このホームページでも何回か紹介させてもらっていますが、今年は春の伊勢・志摩旅行に次いで、この8月に日光・鬼怒川旅行に行ってきました。平成17年にこの旅行を開始してから7年余りで第10回目という節目の旅行でした。参加者はともに43会会員である埼玉県行田の川辺さん、岡山県庭瀬の高橋さんと私の3名でした。いつもは4~5名の参加者があったのですが、今回は病気とか体調が悪いということで参加できず、寂しい旅行となりました。
 日光・鬼怒川といえば、43会主催の「留学生との集い」の翌春に実施した「ご苦労さん会」で行った旅行ということで記憶がある43会員もいることと思いますが、ほぼ同じコースで設定し、宿泊したホテルもあの時と同じ「谷川ホテル・七重八重」でした。

 8月29日(水)
 午前11時に東武浅草駅から特急スペイシア「きぬ111号」に乗って出発しました。コンパーチブル車の個室(4人仕様)のゆったりとした席だったので皆大満足で、暫くしてから駅で買った弁当を食べました。もうちょっと早い特急なら日光で「湯葉懐石料理」を食べてもよかったのですが、遠くから来る川辺さんに配慮してこの時間にしました。岡山の高橋さんは前日から都内墨田区に住んでいる息子さんの家に来ていて東武浅草駅には私より近いくらいでした。
 下今市駅で乗り換えて、東武日光駅に着いたのは午後1時くらいでした。コインロッカーに荷物を預けてタクシーで輪王寺に向かいました。輪王寺は工事中だったのでここは通り過ぎて、陽明門方面に向かいました。天気は晴天だったのですが、日光は海抜634メートルのスカイツリーより高いということもあり、また山中は巨木が生い茂っていてなかなか快適でした。陽明門周辺を観光した後、川辺さんや高橋さんも行ったことのないという徳川家康公の墓に行くことになりました。そもそも日光東照宮は徳川家康公の墓として建てられたものですが、観光客は陽明門や「眠り猫」「鳴き龍」などを見ているうちにすっかりそのことを忘れて、それだけで満足して帰ってしまうのです。私もその一人だったのですが、43会の「留学生の集い」の「ご苦労さん会」で日光に行った時、初めて徳川家康公の墓まで行ったのです。場所は陽明門の隣の「眠り猫」の脇を入って200段の石段を登った山の頂上にあるのです。300坪ばかりの台地に歴代将軍しか入れない小さな社殿があり、その先に金属製の徳川家康公の墓があるのです。観光客はその周囲を回ることしかできないのですが、ここまで来る人は余りいないのではないかと思います。200段の石段を登っている時は、さすがに汗びっしょりとなり、体重のある高橋さんが付いて来れるか心配しましたが、休み休み何とか全員で到着することができました。その後、下まで降りて、隣の「二荒山神社」にお参りして、徳川三代将軍家光公の墓がある「大猷山」を横目で見て(ここも石段を登って行かなければ辿り着かない)、バス停留所に向かいました。ここでバスを待つ間、かき氷を食べたのですが、これがべらぼうにうまく、これで皆生き返りました。あとは、下今市駅経由で鬼怒川温泉駅まで行き、数分歩いて「谷川ホテル・七重八重」に到着しました。
 部屋は最上階の5階(といってもこのホテルは地上2階、地下3階)で、窓の下には鬼怒川が音をたてて流れており、一同やっとくつろぐことができました。早速、温泉に入って汗を流し、おいしくてヘルシーな夕食に舌鼓を打ちました。夕食の帰りに、「足裏マッサージ」の宣伝ビラが目に止まり、これをやってみようということになりました。技術者は一人しかいないということで、川辺・高橋・八束の順番で約30分づつ(一人2,000円)やって貰いました。私は最後だったので、技術者のおばさんに「3人の健康状態はどうだった」と聞くと、「ストレスのせいか足の裏が固かった」との答えでした。そこで「3人とも暇人でストレスなんかありませんよ。今日は日光でだいぶ歩いたせいでしょう」と言って、あとは自分の内臓について質問したところ、どこも悪くないとの診断でした。その夜は、一晩中歌まで交えた高橋さんのイビキに悩まされましたが、疲れのせいでぐっすりと眠ることができました。(続く)


    平泉旅行(2)

 
8月19日(日)

 この日は8:30発のホテル送迎バスで一ノ関駅経由で平泉に行くということで、6時に起床し、7時に昨夜の大宴会場に一番乗りで入って朝食を食べました。塩鮭がメインで、その他品数、量、味なども適切でした。
 8時前にチェックアウト手続きを済ませ、フロントの喫茶コーナーでコーヒーを飲みながら送迎バスを待ちました。見送りのときには女将も出てきていました。
 送迎バスは一ノ関駅までが原則でしたが、前日の運転手さんから、フロントの許可を得れば平泉まで送るといわれていたので、我々夫婦だけが平泉駅まで送ってもらいました。
 平泉駅のコインロッカーに荷物を預けて、タクシーで中尊寺に向かいました。入り口で降りようとするとここから歩くと800メートルの上り坂なので上まで車で行ったらどうかとの提案があったので更に数分かけて坂を車で登ってもらいました。
 タクシーを降りて1~2分で金色堂の脇の料金所を通って、まずは「讃蔵企画展」で中尊寺所蔵のいろいろな仏像や道具類などを見学しました。その後、金色堂に入りましたが、金色堂自体はこれ全体を覆うコンクリートの建物の中にあり、その全てが金箔で覆われ、更に螺鈿などの装飾が施されていました。そこは藤原三代の墓であるとの説明でした。これを見て、奥州藤原三代の富の力とともに、死後に極楽浄土に行きたいという権力者の浅ましい欲求の強さ、哀れさを感じました。平安時代に京都で栄華を究めた藤原道長(絶頂期に「この世をばわが世とぞ思う望月の、欠けたることの無きぞと思えば」という歌を詠んだことで有名)も臨終に際して仏像と自分を何本もの糸で結んで極楽浄土に行きたいと願ったと聞いていたので、権力者共通の心理なのかも知れません。
 さて、金色堂に続いて経蔵などいくつかを見た後、今度は同じく藤原氏によって建てられた「毛越寺(もうつうじ)」に行くことにしました。地図の上では歩いて行ける距離だったので、矢印の道案内に従って歩きはじめました。暫く行くと矢印の道案内に「毛越寺まで3.2キロ」と書かれているのに気がつきました。3.2キロといえば平地で45分、山道なら1時間です。この暑さの中、雨の心配もありましたが、何とかなると思って強引に歩き進みました。最初は緩やかな坂道が続き、道の両側は立派な農家と竹藪がありましたが、そのうち何もない山道となって人どころか車も通りません。20分ほど歩いたところでお年寄りに出会ったので「毛越寺まではまだありますか」と聞くと「まだまだ遠いよ」との答えでした。40分ほど歩くと下り坂になってきたので楽にはなりましたが、人はおらず車の通らないことが続いていたので心細いかぎりで、道端に「熊出没注意」という立札を見た時には緊張してしまいました。幸い、雨が降ってこなかったのと、大政治家の小沢一郎氏の地元だけあって道路が立派に舗装されていたので安心できました。そんなこんなして歩きはじめて50分近くしてやっと「毛越寺」に到着しました。ここでは本堂その他を見学し、立派な池などを見るだけで済ませ、あとは平泉駅に戻ることにしました。案内所の女性に「平泉駅に行くバスは何処から乗るのですか」と聞くと「平泉駅まではここから直線で700メートルしかないので歩いた方が健康のためですよ」との答えでした。そこで、水分補給をした上で再び炎天下を駅まで歩きました。
 平泉駅のそばに「わんこそば」を食べられる店があるということをガイドブックで確認していたので早速その店である「芭蕉館」に入りました。メニューを見ると「わんこそば」は30cm×40cm位のお盆に乗せた12個のお碗にそばが入っており、これが2段(合計お碗24個)もあるのです。これにはほぼ同じ大きさのお盆に様々な薬味その他が乗ったものが付いて一人前なのです。思わず店員に「」こんなに沢山一人で食べきれるのですか」と聞くと「ざるそばに換算して2枚分なので大丈夫」とのこでした。そこで思い切って注文しました。隣の席の3人組の客が「わんこそば」を注文したところ、お盆が置ききれないという理由で座敷の方に席替えさせられていました。いざ「わんこそば」に取りかかりましたが、まずは薬味葱で1碗、鰹節で1碗、いくらで1碗というように食べはじめましたが、なかなか捗りません。そのうちそばが乾いてきたようなので、その後は2碗づつそばを出汁に付けて食べるようにしました。店が出しているパンフレットには、わんこそばの由来として「そばが延びて風味を減ずるので、一時に大器に盛らず小さい碗に次々に盛り替えをするようになった」と書かれていますが、実際には24碗分を同時に出すのでは一時に大器に盛って出すのと同じではないかと思いました。美喜子も健闘しましたが、24碗は無理というので4碗だけ食べることになり、結局私の合計は28碗となりました。
       
 お腹が一杯になったので平泉駅の観光をしようと思いましたが、何もないので止むなく一ノ関駅に向かいました。帰りの新幹線まで2時間半もあるので、駅前の喫茶店に入ろうということになりましたが、手持ちの切符では途中下車ができないようです。そこで改札口の係員に事情を説明したところ途中下車の許可が得られました。あとは駅前の「フレンド」という喫茶店で冷たい飲み物を飲みながら2時間を潰しました。一ノ関周辺の観光も考えましたが、田村神社以外には何もなく、止むなく「フレンド」の窓から一ノ関駅前のターミナルを見たりして時間を調整しました。
 帰りの新幹線は一ノ関駅発14:48のやまびこ60号で、ほぼ満席という状態でした。無事に上野に17:18に到着し、タクシーで帰宅しました。
 今回の旅行は急な思いつきで実施しましたが、ほぼ順調に終えることができました。行こうと思った所には行ったし(中尊寺の本堂にお参りするのを忘れた以外は)、食べたいと思ったものは食べたし、何もしない時間が多少あったものの、それを上回る運動量をこなしたし、何事もなく無事に戻ったということは大成功であったと思います。世界遺産というものを体験できたし、岩手県という滅多に行かない所を観光できたことも有意義だったともいます。
 長い旅行は余りせずに、1泊旅行を何回もするのが有意義な旅行をする秘訣ではないかとも思っています。今後も、元気な限り1泊旅行を重ねて「集中と選択」を実施して行きたいと思います。


   平泉旅行(1)

 娘夫婦が8/11~19に夏休みをとることになり、わが家もその間は孫の世話から解放(週4日孫を預かっていた)され、急遽旅行に行くことになりました。基本的には1泊旅行で、できれば今まで行ったことのない涼しくて遠くない所ということで、近畿ツーリストの担当者に相談しました。こちらからは八戸や酒田という案も出したのですが交通の便が良くないこともあって、最終的には昨年世界遺産に認定された「平泉」ということに落ちつきました。「平泉」には私は中学の修学旅行以来、妻の三喜子は高校の修学旅行以来行ったことのなかった場所なので、是非行こうということになりました。こちらは14日(火)~15日(水)を希望したのですが、お盆休みということで希望日はホテルがとれず、結局日程をお盆明けの18日(土)~19日(日)にずらして一ノ関からバスで30分の“やびつ温泉”の「瑞泉閣」をやっと確保しました。

 8月18日(土)

 朝、9:46上野発のやまびこ55号で出発し。12:13に一ノ関駅に到着しました。まずは昼食ということで、ガイドブックにあった一ノ関駅前の和食処「三彩館(ふじせい)」の「ひとくちもち膳」を食べようということになりました。店は駅から2~3分の所にある。予想に反して洋風の店で、店内は座敷で4人用のテーブルが5卓という規模なので、我々は少し待たされました。注文を入れて、冷たい生ビールなどを飲んで暫くすると「ひとくちもち膳」が出てきました。和風弁当のような四角い御膳が9つに仕切られており、それぞれに異なった器に盛りつけた餅料理が入っていました。真ん中だけは箸休めの大根おろしが入っていました。8種類の器はすべて中につきたての柔らかい餅が入っており、その上に納豆、餡、生姜、クルミ、ごま、エゴマ、ずんだ、煎った沼海老を出汁醤油で味付けしたものが乗っているのです。その他に普通の大きさのお椀に雑煮、そして香の物の入った小皿が付いていました。説明書には餡から食べはじめて締めくくりが雑煮とありましたが、そんなことは無視して食べたいものから食べはじめました。味は、甘かったり、辛かったりで色々でしたが種類が多いので飽きることがありません。餅はとてもおいしくこの地方の人達が冠婚葬祭をはじめ「もち暦」に従って年に60日も餅をつくというのも「さもありなん」というものでした。値段は1,575円/1人というものでしたが、大いに満足しました。
 餅でお腹が一杯になったので、「瑞泉閣」の送迎バスが一ノ関駅前に到着する14:30まで、周辺観光をすることにしました。一ノ関は陸中一ノ関藩(外様)2万7千石、田村家の城下町で、城はもう残っていませんが、ガイドブックに「田村神社」があると書かれていたので、これが城に代わる田村家の名残ではないかと考え、その方向に歩きはじめました。田村家については松の廊下での刃傷の後に浅野内匠頭がその江戸屋敷に預けられて切腹した殿様です。坂上田村麻呂の子孫で、仙台の伊達家の血筋も入っているとのことです。ガイドブックでは田村神社は駅のすぐそばのようでしたが、実際にはなかなか見つからず、人に聞こうとしましたが地方都市の例にもれず通行人が皆無で、炎天下で体力も衰えてきたので諦めようと思った矢先、こんもりとした小山のようなあったので行ってみるとそこは「釣山公園」となっており、その頂上付近に「田村神社」があるということが分かりました。あとはひたすら山道を登りましたがなかなかたどり着けず、三喜子が休憩している間にもう少し登ってやっと「田村神社」を見つけることができました。神社となっているものの、実際には小さな祠のようなもので、私はここまで来られなかった三喜子の分も併せてお参りしました。
 あとは一ノ関駅に戻りホテルの送迎バスに乗り込みました。送迎バスに乗ったのは我々夫婦だけで、運転手さんが気を利かせて途中の景色のよい厳美渓(下の写真)を経由してホテルに向かってくれました。厳美渓については以前テレビで、川岸にある団子屋さんが川向うから自前のケーブルで注文を受け、団子をケーブルで送り返すというのをやっていましたが、今でもこれが人気ということで大勢の人が川岸に集まっていました。一ノ関駅から約30分でホテルに着きましたが、“やびつ温泉”というところはこの「瑞泉閣」しかないような辺境で、夕食までの間にホテル周辺を散歩でもしようと思っていた私ですが、何もないのでそれもできませんでした。部屋は4階の404号室で、これも「4」を嫌って部屋番号から外すホテルや旅館が多いのに、念入りに「4」がふたつもある部屋に通されてちょっとブルーな気持ちになりました。部屋の中はまあまあなのですが、冷蔵庫の後ろの壁に「冷蔵庫はご自由にご利用ください」と書かれたメモが貼ってあったので、中身は飲み放題かと思って開けたら何と空で、要は飲み物が欲しかったら自分で買って冷蔵庫に入れて置けということでした。私は夜、喉が渇いて水が飲みたくなることが多いので、やむなく自動販売機でジュースの缶を買って冷蔵庫に入れて置きました。また、このホテルはやたらと男性従業員が多く、部屋に案内してくれていろいろ説明してくれたのも男性従業員だし、入浴に行こうとしてフロントの前を通った時にフロントと入口に数名の従業員が待機していたのですが、これも全て黒服の男性従業員で、何か異様な雰囲気でした。また大浴場は1階のフロントの前を通ってかなり長い廊下を延々と歩く仕組みになっており、余りの遠さにいつもは3回風呂に入る三喜子も2回、2回入る私も1回しか入りませんでした。
 ホテルの悪い面ばかりを長々と書いてきましたが、良い面もいくつかありました。部屋に入るとテーブルの上に「瑞泉閣へようこそお越し下さいました。のんびりとお過ごしくださいませ」という墨で書いたメモが置いてあったこと、それとどこでもあるのですが、お土産に一押しのお菓子が出ているのですが、これについてのPRがしっかりとPOPでテーブルの上に置かれており、更にお土産のお勧めパンフレットにもしっかり書かれており、ここまでしっかりされると私もつい買ってしまいました。(私が好きな干し柿の菓子だったせいもあります。)ガイドブックに書かれてあった一ノ関の銘菓「田村の梅」もしっかりとお勧めパンフレットに書かれており、これもホテルで購入してしまいました。
 チェックインした際に夕食時間を聞かれたのですが、餅ご膳でお腹が一杯だったので「7時」と言ってしまいました。ところが餅は消化がいいらしくて7時近くなるとお腹が減ってきて困りました。少し早めに2階の大宴会場に行きましたが、そこに部屋別に食卓が置かれており、こんなに多くの客が何処に隠れていのかと思うくらいの盛況でした。食事の世話はさすがに女性従業員が担当していましたが、客数に対して人数が少なく、新しく入ってきた客はしばらく放ったらかしになっていました。料理は、前沢牛のスキヤキがメインで、その他品数、量、味などもまあまあでした。内容はヘルシーで、ご飯も山菜の釜飯でした。
 食事を終えて、お土産も購入して、部屋に帰ってテレビを少し見ましたが、昼間の疲れで9時過ぎには寝てしまいました。(続く)


   3回の鎌倉歩き(3)

 7月1日(日)

この日は、私が理事(暁星高校の同窓会では幹事のことを理事と称している)をしている暁星高校同窓会の「日本文化研究会」主催の「鎌倉の寺巡り」が開催され、午後1時に鎌倉駅に会員17名が集まりました。私は2度も鎌倉に行っていたので今回は止めようとも思いましたが、回る場所が前2回の時とは違う鎌倉周辺の極楽寺~長谷寺~高徳院(大仏)ということで行くことに決めました。
 また、引率者が暁星高校の後輩とはいうものの、一人は長野の善光寺の住職、一人は京都の知恩院で修行して現在大学の教授になっている者だったので、そのコネで普通では入れない場所にも行けるのではないかとの期待もありました。以前、岡山の白門43会会員である高橋良洋君のコネで素晴らしい体験をした経験があったのです。余談ですが、坊さんとお医者さんはコネがあるとないとでは雲泥の差があるということは知っておいた方がいいですよ。
 この日も雨がパラついていた日で、それが日曜日という観光客が多いと思われる、それも紫陽花の最終日(紫陽花は翌年のことを考えて6月末に一斉に花を剪定する習わしになっており、今年については特別に日曜日である7月1日まで剪定を延ばしたのである。)にもかかわらず観光客はそれほどでもありませんでした。
 鎌倉在住の同窓会会員が道案内をしてくれたのですが、普通だと極楽寺までの「江ノ電」は1回では乗り切れず、2回目または3回目になるということでしたが、我々は1回目の電車に乗ることができました。
 極楽寺では知恩院で修行した大学教授が寺とその周辺の説明ををしてくれましたが、内容はほとんど忘れました。ただ一つ、「何故、寺に紫陽花が多いか」ということについて、紫陽花は昔外国から入って来たのですが、日本人にはいま一つ馴染みがなく、色も気持ち悪いということで寺に植え替える人が人が多かったせいという説明だけ覚えています。
 次に長谷寺に行きましたが、さすがにここは満員で、高台にある紫陽花が沢山ある場所に入るには1時間待ちということだったのでそれは諦めて、余り人気のない洞窟の探検に行きました。大きな岩を掘って迷路のようになっている場所で、昔はそこで修行をしていたようですが、現在は色々な仏さまが祀ってありました。とにかく狭くて天井が低いので、閉所恐怖症の私には気持ちの悪い場所でした。
 ここから大仏のある高徳院に向かったのですが、途中の階段を降りる時、前方に稲村ケ崎が一望にできる場所があり、道の両側に満開の紫陽花、山紫陽花などと共にまさに絶景でした。
 最後は鎌倉の大仏で有名な高徳院に行ったのですが、ここは坊さんのコネが真価を発揮して、寺から案内人が出迎えてきて観光客が入場券などを買ったりしてひしめいているのを、別のくぐり戸から奥の院に通されました。そこには立派な掛け軸や高価そうな置物が置かれた大きな部屋で、暫くすると住職の佐藤氏(40歳くらいの若い住職で、慶應大学の考古学教授もしているとのこと)が出てきて色々とお話をしてくれました。オバマ大統領は若い頃に鎌倉に来たことがあり、今回来日する前の談話としてその時に食べた「抹茶アイスクリーム」がおいしかったということで高徳院に20分の立ち寄ることになったそうです。
 たった20分の立ち寄りですが、2週間位前から随行補佐官とシークレットサービス(大統領護衛隊)2チームが来日して徹底的な安全点検を行い、大統領がどのように境内を歩くかとかを研究したそうです。佐藤住職が随行補佐官と境内を歩くコース設定に立ち会った時、大仏の前を通る時にいつもの習慣で合掌をして頭を下げたところ、随行補佐官がこれに気がつき「今のは何か、本番の時に大統領はどうすればおかしくないか」と尋ね、結局軽く頭を下げるということになったそうです。また「抹茶アイスクリーム」は大統領が食べたいと言い出した時のために全国から「抹茶アイスクリーム」を取り寄せて試し、一時は寺の冷蔵庫がアイスクリームだらけになったそうです。また、オバマ大統領が若かったころには「抹茶アイスクリーム」はまだ存在せず、おそらく抹茶とアイスクリームとを別々に食べたのか、緑色のアイスキャンデーを食べたのではないかとのことでした。我々も佐藤住職の厚意でオバマ大統領に出された「抹茶アイスクリーム」をご馳走になったのですが、これも短時間で食べられる量、食べる様子がテレビなどで流れても格好がいいという理由で小さな棒付きのものに落ち着いたとのことでした。なかなか品のよい味でした。
 また佐藤住職の印象としては、日本の外務省とアメリカのスタッフとの大きな違いは、そのきめ細かい心遣いの差とのことでした。お世話になった人に対しては大統領やそのスタッフにお茶を出した寺のお手伝いさんに至るまでお礼の品が渡され、更に佐藤住職には帰りのエアホースワン(大統領専用機)の中からお礼のメールが入ったとのことでした。また、佐藤住職にはオバマ大統領から直接「いろいろお世話になったが、何か困ったたことはなかったか」と質問があり、「スタッフの皆さんと楽しくやりました。シークレットサービスとの打合せの中で、彼らがSWEEPという言葉を使うので初めは何のことか分からなかったのですが、後で聞くと“安全な状態にする”という意味であることがわかりました」と答えたところ、大統領は傍らのシークレットサービスに「おい、シークレットサービスの秘密が漏れたぞ」と言って皆を笑わせたそうです。
 それに引き換え、後日当時の菅直人首相夫人が在日大使の奥様方を連れて高徳院を訪れた時、住職としては大使夫人達から掛け軸や生け花、置物に関する質問が出ることは間違いないのでその用意をしていたのですが、事前に打合せに来た日本の外務省の役人はそれに関する質問は一切なかったそうです。そして本番の当日、大使夫人達から掛け軸や生け花、置物に関する質問が沢山飛び出したのですが、用意のなかった菅直人首相夫人は何ひとつ答えられず恥をかいたとのことでした。これが日米の外交の差であると佐藤住職は嘆いていました。
 全ての予定を終えて、一行のうち12名で「毘沙門」というステーキ屋に行って打ち上げをすることになりました。丁度大仏の背中の山の上にある普通の民家のような店なので知らない人は絶対に分からない店でした。俳優の加山氏、肉好きのバイオリニストの高島さんなどがよく来る店ということで、これも鎌倉在住の会員の予約によるものでした。ここで食べたレバーの大蒜焼き、サーロインステーキは絶品で、おいしいチリワインを大量に飲みながら大いに盛り上がりました。


   3回の鎌倉歩き(2)

 6月12日(火)

 白門43会「鎌倉ウオーキング」の当日。この日は曇り時々雨という肌寒い天気で、電車の事故で少し遅れた者もいましたが、29名が予定通り集まりました。天候のせいか心配していた混雑もないようでしたが、予定を変更して最初に「明月院」(右の写真)に直行しました。少し待たされましたが、無事に入場でき、下見の時と違って満開の紫陽花を見ながら境内を歩くことができました。さすがに観光客は多かったものの歩き回るのに不便というほどでもなく、素晴らしい雰囲気を十分に満喫しました。
 次の「浄智寺」、「東慶寺」そして最後の「円覚寺」と回りましたが、下見した効果があっていずれもスムースに推移しました。そしていずれの寺でも下見の時にはなかった紫陽花が満開で、小雨に濡れた紫陽花は格別でした。
 狭い北鎌倉を29名で歩くのは心配で、迷子にならないように全員に黄色いリボンを渡して目印にしましたが、それでも途中ではぐれてしまう会員も若干いて幹事はその捜索に大変でした。
 四つの寺の見学が終り、一行は北鎌倉駅から電車に乗って鎌倉駅に向かいました。そして鎌倉駅から徒歩で10分ほどの所にあるそば屋「峰本」の二階で昼食と打ち上げパーティーを行いました。
 二階の大きな座敷でおいしい料理や蕎麦、そして色々な飲み物で一同大満足でした。皆、かなり歩いたこともあり、アルコール類が大量に消費されたことは当然のことです。
 白門43会による「鎌倉ウオーキング」がこのように大成功のうちに終ったのは、会長・幹事長をはじめ担当幹事がしっかりと下見をした結果であることは間違いありません。(続く)


   3回の鎌倉歩き(1)

  私は今年(平成24年)の3月から7月にかけて、同窓会行事として合計3回鎌倉を歩きました。鎌倉には何度か行ったことがありましたが、3ヶ月余りで3回も行ったのは初めてでした。それなりに面白い体験だったので、白門43会の皆さんに披露したいと思います。

 3月27日(火)

 この日は白門43会の行事として6月12日(火)に予定されている「鎌倉ウォーキング」の下見ということで、参加者は本番と同じ時刻の9時にJR北鎌倉駅に集合しました。参加者は倉田会長、清水幹事長、矢崎・岡田副会長、相澤さん、長谷川さんと私八束の7名でした。私は東京駅から横須賀線に乗ったのですが、まずは東京駅の端の地下深くにある横須賀線のプラットフォームに着くのが大変で、あとは約1時間ひたすら乗り続けて北鎌倉駅に到着しました。
 全員が揃ったところで北鎌倉駅に隣接した場所にある「円覚寺」(右の写真)に行きました。ここは北条時宗が蒙古襲来の際に発生した死者を弔うために建立した禅寺で、鎌倉五山でも2位に位置付けられているだけあって境内は広く、丁寧に見て行ったら1日かかりそうでした。ここで、北条時宗の墓所の前でお茶を頂いたり、見晴らし台のような小山の上にある「梵鐘」を見たりして1時間以上経過してしまいました。

 次は、「円覚寺」から歩いて数分の「東慶寺」に行きました。通称の「駆け込み寺」の方が有名な寺ですが、ここは北条時宗の妻が建立したものとのことでした。女人救済の尼寺でしたが、現在の住職は男性とのことでしたので、現在は男性救済の「駆け込み寺」になっているのかも知れません。お土産を売っている綺麗なお店があり、ここで皆は「ポチ袋」などを購入しました。

 三番目は鎌倉五山第4位の「浄智寺」で、ここも境内は広く、奥にはお腹をさするとご利益があるとされる布袋像(左の写真)があったので、皆でさすってきましたが、とにかく広いので迷子になったり大変でした。
 ここまで来るとさすがに元気な43会メンバーも疲れてきて、時間も昼近くになってしまいました。予定では更に“紫陽花寺”として有名な「明月院」、そして30分ほど歩いて鎌倉に出て「建長寺」を見て、昼食はそば屋「峰本」でということになっていましたが、急遽変更して「明月院」のみを見て、昼食は北鎌倉駅近くの「鉢の木」という店で摂ることにしました。「明月院」も簡単に中を見ましたが、もちろんこの時期では紫陽花も葉のみでした。
 その後、「鉢の木」で食事を摂りながら話したことは、本番の6月12日は紫陽花が真っ盛りということでかなりの混雑が予想されることが心配ということでした。(続く)



   伊勢・志摩旅行(3)

2月10日(金)

朝食は別会場でしたが、網の上に白身の魚が乗っており、私が「これはカワハギですか」と聞くと「いえフグです」と言われてしまいました。他にもシャブシャブなどもあり、とても朝食とは思えないほど豪華なものでした。
 この日はいよいよ伊勢神宮参拝の日と言うことで、一同ワイシャツにネクタイ姿で服装を整えました。事前に手紙で注意喚起して置いたにもかかわらず、菊地さんはワイシャツにネクタイを持ってくるのを忘れたので、前日ホテルから鳥羽駅近くの店に行って1万円も出してワイシャツとネクタイを買ってこなければなりませんでした。
 伊勢神宮に行く途中で有名な夫婦岩を観光しようと言うことで、ホテルの送迎バスで山のふもとの「池の浦」まで行き、そこで夫婦岩方面に行く三重交通のバスを待ちました。暫くしてバスが来たのでこれに乗り込み、20分ほどで夫婦岩に到着しました。そこには巨大なアザラシが泳ぐ水族館があり、海岸沿いの参道のような道を行くと途中に神社などがあり、肝心の夫婦岩が見えてきたのは歩き始めて10分ほど経過してからでした。一同そこでちょうど居合わせた巫女さんにシャッターを押してもらって記念撮影をしました。その後、戻るのも面倒と言うことで、ひとつ先のバス停まで歩くこととし、10分ほど歩いて「二見総合支所前」という停留所にたどり着き、バスに乗って伊勢神宮前に向かいました。
 内宮前で下車して、コインロッカーに荷物を預け、内宮に向かいました。そして一般参拝者とともに内宮を参拝した後、脇の事務所に特別拝観の書類を提出しました。脇の事務所には薄化粧した「お公家さん」みたいな若い男がおり、ほどなくして年配の神主さんのような人が現れて脇の木戸を開けて一同を招き入れてくれました。年配の神主さんは卵大のジャリが敷き詰められた道を木靴で器用に登って行き、我々は期待に胸を膨らませてついて行きました。そこは先程参拝した門の次の門のような場所で、年配の神主さんは「横に並んでどうぞ」というので二礼二拍手一礼をすると「これで終わりです」と言われました。建物の中に通されてお祓いでもしてもらえると思っていた一同は拍子抜けがしてしまい、この内宮参拝をセットした高橋さんが少しでも粘ろうと「この奥のご神体は何ですか」と質問しても、「ここはそのような質問をする場所ではありません。質問は他でして下さい」と言われてしまい、あげくは「次の人が待っているので」と早く帰れと催促されてしまいました。高橋さんは「何だあの態度は」とかなり怒っていましたが、特別参拝料金が5千円ということならあの程度で我慢しなければならないと思いました。これ以上悪口を言うと神罰が下るかも知れないので止めますが、伊勢神宮内宮参拝というのはこれが実態です。
 その後一同は「おかげ横丁」という数百億円かけて作った商店街を散策しましたが、なかなかよくできた町並みで、人通りもかなりでしたが、惜しむらくは自動車の通行を許していたことでした。商品の納品などで自動車の通行も必要なのかもしれませんが、横浜の元町商店街のように時間帯を決めて自動車の通行を規制すれば、もっと観光客が安心して散策できるのにと思いました。年間の参拝者が880万人ということからも検討が必要ではないかと思いました。
 「おかげ横丁」の「赤福」で「ご朱印巡り切符」に付いていた「赤福」の券を使ってお茶と「赤福」3つをご馳走になりました。高橋さんは「ご朱印巡り切符」を、預けた荷物の中に残してしまい、「赤福」を食べることができませんでした。この日は高橋さんの厄日だったようです。
 その後、ロッカーから荷物を取り出し、タクシーで昼食会場の「大喜」(高橋さんが予約しておいた)に向かいました。ここは宮内庁御用達という古い和食店で、一同は奥の座敷でまたまた旅行最後の打ち上げということで宴会ということになりました。この店は「宇治山田駅」の前という立地の良さからか、客が次々と入ってくる店で活気がありました。最後は「てねこ寿司」などで仕上げました。
 まだ時間があるということで、歩いて外宮に向かい、外宮も参拝して伊勢神宮の完全制覇を行い、再び歩いて「宇治山田駅」に向かいました。「宇治山田駅」はローカル線の駅としては異常に立派で、おそらく皇室関係者や政府の要人が乗降するからではないかと思われました。駅構内の喫茶店で時間調整を行った後、15:14発の特急で名古屋に向かいました。
 今回の旅行は細かい日程で、予定通りに進むのか心配でしたが、何とか希望通りに進むことができ、また天候に恵まれたこともあって一同満足できた旅行だったと思います。次回は今年の8~9月頃に、白門43会が数年前に「留学生の集い」の慰労ということで実施した日光・鬼怒川旅行と同じ企画でやることになりました。


  伊勢・志摩旅行(2)  

2月9日(木)

 昨晩の夕食を食べた場所でバイキングの朝食を食べ、歩いて賢島駅に向かいました。10:30発の特急で鳥羽に向かい、11:01には鳥羽駅に到着しました。どこを観光しようかと駅構内をうろうろしていると船乗り風の男に湾内観光をしないかと誘われた。ついて行くと10人乗りくらいの小さな船で、我々4人の貸し切りだった。約1時間にわたって船長がいろいろと説明してくれつつ湾内を巡りましたが、湾内といっても潮の流れが強い所はかなり揺れてちょっと怖い思いをしました。船長が菓子の袋を持ってきて「窓を開けて菓子を投げるとカモメが集まってくるよ」と言うのでやってみると本当に数十羽のカモメが窓際に寄ってきて手から菓子をついばむので、一同これを楽しんだ。船の貸し切り費用は7千円だったが、これだけの時間観光できたので満足でした。
 湾内観光を終えて、船をバックに記念写真を撮り、船長においしい昼飯を食べられる店を紹介してもらったところ、「ふるさと館」を勧められたので探しましたが、これがどうしても見つからず、やむなく飛び込みでおいしそうな和食の店に入りました。ビールや酒を頼んだところ、その付き出しに出てきた醤油タレに漬け込んだイカの細切りがとてもおいしく、一同これをお代わりして大いに酒を飲みました。その他に今が旬の「牡蠣」などを注文し、最後はちらし寿司や、穴子丼などをそれぞれが注文し、大満足してこの店を出ました。
 鳥羽駅に向かう途中に「焼き牡蠣」などを食べさせる小さな店が並んでおり、店の綺麗なお姉さんに誘われた高橋さんが入ろうと主張するので一同入ることになった。ところが扉ひとつ間違えて隣のおばさんの店に入ってしまい、仕方なくそこで「サザエの壺焼き」を食べたのですが、これがとてもおいしかったのです。前の店であれだけ飲み・食べたのにと思うのですが、大きなサザエがまたまた胃袋の中に収まりました。
 鳥羽駅に歩いて戻り、この日の宿泊地「海の蝶」の送迎バスでホテルに向かいました。「海の蝶」は鳥羽でも屈指のホテルで、鳥羽駅を見下ろす山の上に聳えており、ここの463号室に4名全員が宿泊することになりました。部屋は広く、立派でしたが、この日の宿泊客は極めて少ないようで、大浴場も我々だけだったし、ホテル内で他の客に会うこともほとんどありませんでした。私が風呂からの帰りに間違えて3階のボタンを押してしまい、3階の扉が開いたところ、そこは電気も点いていなくて空調もなくひんやりとしており、このフロアには宿泊客がいないということが分かりました。
 夕食は部屋の中で食べることになっており、伊勢海老の刺身、牡蠣鍋など豪華なもので、一同はまたまたビールや酒を飲みながら、これらの料理を満喫しました。


  伊勢・志摩旅行(1)

 大学のクラブ(文化連盟所属の国際関係研究会)の同期で毎年旅行しており、このホームページでも何回か紹介させてもらいましたが、今年は第9回ということで、私が幹事になって伊勢・志摩旅行を企画しました。旅行のテーマは「温泉」、「松坂牛」、「伊勢神宮の内宮参拝」で、旅行会社がこれにぴったりの「ご朱印巡りきっぷというのを用意してくれました。この切符は近鉄の電車は無論のこと、三重交通のバスにいたるまで乗り放題というもので、他にもいろいろな割引やサービスが付いていました。
 参加者は埼玉県行田の川辺さん、愛知県春日井の菊地さん、岡山県庭瀬の高橋さんと東京都の私の4名で、いずれも白門43会会員です。
 全員が2月8日の午前10時に名古屋駅の新幹線降車口に集合ということになっていました。年齢や2月という季節を考慮して、くれぐれも体調を整えておくように注意しておいたのですが、自分が孫か娘に風邪を移されてしまい熱はないものの咳が酷く、薬で抑えての旅行参加となってしまいました。

2月8日(水)

 埼玉県行田の川辺さんと一緒に8:20発ののぞみに乗る予定だったのですが、私はこの時点で早くもハプニングがあり、私が勘違いして8:10発ののぞみに乗ってしまったのです。幸いなことに同じ席の人がいて切符を照合しているうちに私が間違えたことが分かり慌てて降りたのですが、あれが空席だったらそのまま私だけ一人で名古屋に行ってしまったかも知れませんでした。まさかのぞみが10分ごとに発車しているとは思っていなかった私のボケでした。とにかく川辺さんと一緒に正しいのぞみで名古屋に向かいました。
 予定通りに名古屋駅で全員が合流でき、近鉄の窓口で「ご朱印巡り切符」を受け取って近鉄特急に乗り込みました。11:57に松坂駅に到着し、ここで今回の旅行のテーマのひとつ松坂牛の昼食を摂ることになりました。といってもガイドマップに記載されている「和田牛」や「牛銀」といった有名店で高い肉を食べる気はないので、観光案内所に行って相談してみました。案内所の人に「リーズナブルな値段で松坂牛を食べたい」と言ったところ、「リーズナブルと言われても困る。松坂牛となれば一人5千円からになる」と言われてしまいました。もっと安い店ということで色々とパンフレットを見せてもらっているうちに「むらた」という店に2,600円で「たちおとし肉のスキヤキ」というのがあったので、これで行こうということになりました。駅から歩いて10分ほどの所にある小さな店で、掘りごたつ席の居心地のよい雰囲気だったので、一同ほっとして旅行の前祝いということになりました。店特製のたれに漬け込んだスネ肉をつまみにビールを飲んでいるうちにスキヤキが用意されました。「たちおとし肉」というのは高い値段の肉の形を整える時に生じた肉であり、形は不揃いですが味は高い値段の肉なのでとてもおいしかったです。一同はすっかり落ち着いてしまい、高橋さんや川辺さんはスネ肉のたれが気に入ってご飯にこれをかけて食べる始末でした。ここで小宴会になってしまったので予定していた松坂市内観光も取り止めてひたすら飲み・食い・喋りで盛り上がりました。
 その後13:41発の特急で賢島に向かい、ホテルの送迎バスに乗ってこの日の宿泊地である「宝生苑」に向かいました。「宝生苑」は賢島から数分の場所にあり、半島のようになった広大な敷地にそびえる立派なホテルでした。ここの404・405号室に私と川辺さん、高橋さんと菊地さんと2名づつ分かれて宿泊することになりました。一休みしてから「賢島エスパーニャクルーズ」という湾内観光に行こうということになって、1階のフロントに行ったところ割引券があったのでこれを買おうとしたところ「最終便が15:00なので今からでは間に合わない」と言われてしまいました。それでは仕方がないということで、ホテルの周辺を散歩しようということになり、半島のような場所を歩いて船着場に向かいました。そこでは海賊船のような派手な形の「エスパーニャ号」が停泊しており、「これに乗り損なったのか」などと言いながら写真を撮ったりしていたところ、高橋さんが船を探して来るといって船着場の事務所に行きました。そして、和具往復の定期船があるということが分かり、片道600円ということなのでこれに乗ることにしました。湾内の路線バスのような船に乗って途中で1ヶ所寄りながら和具に向かいました。海は穏やかで夕日がきれいで、観光案内こそないものの志摩の観光を満喫しました。和具に着いても降りずにそのまま賢島に戻ったので結局は往復で600円ということになってしまい、1,500円の「エスパーニャ号」に比べて随分安く湾内巡りをすることができました。
 一同満足してホテルに戻り、大浴場をゆっくり満喫しました。宿泊客は小さな団体がひとつの他は夫婦や家族連れがパラパラで、ホテル内は閑散としていて静かでした。夕食は海鮮を中心とした豪華なもので、またもや飲み・食い・喋りで一同大いに盛り上がりました。(続く)


    パッケージについて

 ご承知のように、私は以前、「伊勢丹」百貨店に勤務していました。入社した時には食品のバイヤーになっておいしいものをいっぱい食べたいと思っていました。残念ながら入社後は婦人服売り場に配属されてしまいましたが、大分あとで食品バイヤーになった同期にその話をしたところ、「とんでもないよ。毎日いろいろな取引先が持って来る食品の見本を食べなければならず、歯はボロボロになるし体調もおかしくなるし大変だよ」と言われてしまいました。
 今回私が言いたい「パッケージ Package」という言葉は、本来は「包装」という意味ですが、必ずしも包装箱に限らす食品容器など商品の入れ物なども含めて使わせてもらいます。
 私たちが百貨店やスーパーで買い物をすると、購入した商品はすべて「包装」されたり容器に入っていたりしており、百貨店ではこれを更にその店独自の包装紙で包んだり、紙袋に入れたりするので「過剰包装」「資源の無駄使い」などと批判されるのですが、今回私が言いたいのは過剰包装ではなく、「不適当包装」「不親切包装」といった部分です。
 私が浦和伊勢丹の人事課長だった頃、同期の仲のいい男が紳士服売り場を担当していました。そこで私は彼に次のように言って困らせた経験があります。「紳士の既成ワイシャツを買うと、まずはビニールの袋に入っており、これを取り出すと肩とかにプラスティックの留め具がいくつか付いている。襟の下と全体には型崩れしないようにボール紙が入っている。朝の出勤前にこれらを外してワイシャツを着るのは実に面倒である。しかし私が許せないと思うのは更に金属のムシピンがいたるところに遠慮なく付き刺さっていることである。商品はお客様に渡るまでの間は百貨店がこれを預かっているのであり、いわばお客様のものなのに、針をブスブス突き刺すとは何事か。もし取り忘れた針が身体に刺さったらどうするのか」と言ったのです。彼は何も言い返すことができませんでした。既成ワイシャツメーカーは、実際にこれを着用するお客さまの便利よりも、乱暴に扱っても型崩れしないという自分たちの便利さを優先させたためこのような「野蛮」なパッケージになってしまったのです。
 次に私が経験したのは、私が本社の総務部の頃のことで、災害対策を担当している者から「備蓄食品でおいしいものが開発されたのでその試食をして欲しい」というものでした。大型のコロッケのような形の缶詰で、中身は混ぜご飯だったと記憶しており味はまあまあでした。しかし、私が注目したのはその缶詰に付いていた小型の缶切りでした。経費の問題かどうかは知りませんが、ほんの数センチの大きさの薄い金属でできており、これで大型の缶を根気よく切っていかないと中身が食べられないのです。当時の私は50歳くらいで若くはなくても体力に自信がありましたし、現在のように首の椎間板ヘルニアで指先が痺れていることもなかったのですが、一気に缶を開けることはできませんでした。これが非常時に年寄りや子供に配られたとしても、まずは開けることは無理だと思いました。この缶詰の開発者は中身のおいしさに十分気を配ったものの、缶詰の開け方は全く配慮しなかった結果、年寄りや子供には開けられない非常食の缶詰(パッケージ)を作ってしまったのです。
 その後の経験としては、私の伊勢丹における最後の職場である「関連事業部」に在職していた時、伊勢丹の子会社の「クイーンズ伊勢丹」という食品スーパーを担当したのです。首都圏を中心に十数店を展開しており、私も仕事としてよく買物をしていました。その中でドレッシングが特に気に入ってよく買ったのですが、味は抜群なのですがトロ味のあるドレッシングは開封直後は中身がなかなか出てこなくて大変なのです。私は割り箸を突っ込んでかき回していましたがとにかく不便で、これについてバイヤーに改善を勧告したのですが、未だに改善されていないようです。メーカーや販売店では味やビンの形や値段などには配慮するのですが、実際に開封して使おうとするお客さまのことは考えが及ばなかったのです。自分でやってみればすぐに分かったパッケージの不備に気が付かなかったのです。
 最後に、最近の経験としてグリコの幼児用野菜ジュースのパッケージがあります。私の孫は1歳7ヶ月で、週に4回(月、火、金、土)は夕方保育園に私たち夫婦で迎えに行き、夕食を食べさせて風呂に入れ、8時ころ帰宅する娘に引き渡すということが日常になっています。月、火、金、土が祝日で保育園が休みともなれば、朝からわが家が保育園状態になります。
 幼児は水分がすぐ切れるらしく、いつも冷蔵庫の前に行っては「ジュース、ジュース」と催促されるので、わが家の冷蔵庫にはグリコの幼児用野菜ジュースがいくつも入っています。ところがこの野菜ジュースのパッケージがまた問題なのです。100ccの紙のパーケージ5本がセロファンにしっかりと包まれているのですが、これを取り出すための仕組みがないようで、かなり丈夫なセロファンなのでハサミがないと取り出せません、やっとのことで1本を取り出すと次に脇に付いているストローをはがし、ストローを包んでいるセロファンを指先で破いて中のストローを取り出さなければなりません。これで終りかと思うと大間違いで、今度はパッケージのストロー差込み口を剥がすという作業が残っています。1センチにも満たないような紙を首の椎間板ヘルニアで痺れた指で必死で剥がしてストローを差し込みやっと完成です。これを孫に手渡そうとする時、一寸力が入ろうものなら中のジュースが勢いよく噴出してそこら中をオレンジ色に染めてしまいます。この商品についてはどのように改善したらよいのかよく分かりませんが、とにかく商品開発者は中身の味や栄養や衛生などの他に、実際に幼児にうるさくせがまれながらこれらの手順を踏んでみれば、どこをどのように改善すればよいのか分かるのではないでしょうか。
 以上、私があげた例はこの世の中に出ている商品のごくごく一部であり、他にも「不適当」「不親切」なパッケージは多々あると思います。決して悪意や手抜きによってこのような結果になっているとは思いませんが、これらを改善できる立場の人というのは得てして社長とか部長とか偉い人の場合が多く、試食や試着などはしていても、その準備はすべて部下がやってしまうので実際に自分でワイシャツを袋から取り出したり、缶切りを使って自分で缶詰を開けたり、ドレッシングのビンを自分で開封したり、孫に自分で紙パックジュースを飲ませたりすることがないのではないかと思います。
 日本では今後も高齢化が進み、年寄りがどんどん増える中、中身については申し分ない商品なのに、パッケージが悪くて不便ということで泣く泣く、おいしさはいまいちだが開けやすい便利なパッケージの商品に切り換えるという年寄りが増えていくことになると思います。そうしたことから今後の商品開発では、常に高齢者を意識することが大切です。どうせ老い先が短いのだからといって馬鹿にはできません。我々の親の年代は無趣味、不器用、遊び下手が多かったのですが、バブル期を経験した我々以降の世代はそうではありません。私はともかくとして意外に小金もため込んで、80歳~90歳になっても元気におしゃれな生活をし、買物好きな年寄りが多くなることは間違いないのです。
 因みに、私の「不適当」「不親切」パッケージ対策としては、家庭にスイスアーミーナイフ(万能ナイフで十数種類ものナイフ・缶切り・栓抜きその他のグッズが備わったナイフ)を何本も備えており、旅行にも必ず持参するようにしています。但し、スイスアーミーナイフは飛行機に乗る時は機内への手荷物として持ち込むことはできませんのでご注意ください。実際、私は家族旅行の時に手荷物検査でこれに引っ掛かって、えらい目に遭ったことがあります。


    韓国ソウル一泊旅行

 私は、以前このホームページで飛行機が嫌いと書きましたが、その傾向はこの歳になっても直らず、我慢できるのが3時間位です。従って、国内は何とか大丈夫ですが海外となると香港、韓国、台湾あたりが限度です。実際にこれまで海外に行ったのは新婚旅行のグアムの他、香港1回、韓国1回、台北1回の4回だけです。一方、家内は海外旅行が大好きで、友人達と毎年のように1週間程度の旅行をしており、昨年秋もクロアチアに行っています。今回は、家内もまだ行っていないソウルと言うことで、夫婦二人の意見が一致したのです。

○ 今回の韓国・ソウル旅行の目的
 1 サムゲタンンと焼肉
 2009年2月に高校の同窓会のメンバーと2泊3日のソウル旅行をした時に食べたサムゲタン(鶏の煮込み料理)がとてもおいしかったので、丁度その頃韓国は狂牛病がはやっていたため牛肉の焼肉が食べられず、これのリベンジということもありました。
 2 韓流ドラマの王宮殿
 家内の好きな韓国ドラマ「イ・サン」「女人天下」や「トンイ」の舞台になっている王宮殿をできれば見学したいということです。場所がソウルから余り遠いということなら諦めますが、とりあえずは現地でガイドと相談ということにしました。
 3 ショッピング
 2009年の時は、免税店でルイ・ヴィトンのクラッチバッグを買うつもりが混んでいて買えず、ダンヒルのショルダーバッグに変更した経験があります。その後私は国内でルイ・ヴィトンのクラッチバッグは購入したのでもう必要はないのですが、家内は円高の優位を活かしてのブランド品の購入を狙っているようでした。
 いつものように近畿ツーリスト浅草店で全ての日程を整えてもらいました。
 
○ 2月23日(水)
 午前8時に新装なった羽田空港の国際線ターミナルに行って搭乗手続きを済ませました。韓国はとても寒いということで、厚手の下着にキルティングのコート、耳まで覆える帽子を被って午前10時発のASIANA航空の飛行機に乗り込みました。因みに、ASIANA航空とは大韓航空に次ぐNO.2の航空会社で「ASIANA」とは「ASIAN AIRLINE」を略したもののようでした。
 ASIANA航空は別に私が指定した訳ではなく、申し込みが遅かったのでたまたまASIANA航空しか残っていなかったのです。韓国のNO.2ということで、羽田ではJAL、ANA、大韓航空の次の処遇で、搭乗口は一番遠い場所でした。
 12:20にソウルの金浦空港に到着し、入国手続きを終えて2万円を両替しました。現地の通貨で26万ウォンとなり、何だか金持ちになったような気分でした。
 その後、旅行社のガイドの李美姫さんにも無事会えて他の若い女性の二人連れと一緒にホテルに向かいました。現地の気温は東京と変わらないくらいの暖かさで、重武装してきた私は車内での暑さと都心部の交通渋滞で車が走ったり、止まったりを繰り返したことと相まって多少車に酔ってしまい、途中、他の若い女性の二人連れをチェックインのためプリンスホテルに寄り、最後に私達夫婦の宿泊するホテルに到着した時はぐったりしてしまう始末でした。
 ホテルで一休みした後、3時にロビーでガイドの李さんと待ち合わせてホテルの隣の免税店に向かいました。旅行計画ではこの日はガイドなしで免税店で買い物、ホテル近くで散策と焼肉での夕飯ということになっていましたが、李さんと話した結果、翌日のガイドも李さんということがわかり、それならこの日もガイドをお願いできないかと頼んで快諾してもらいました。
 ロッテ免税店は前回の韓国旅行でも行きましたが、相変わらずの盛況ぶりでここで1時間ほど買物をしました。といっても、家内が自分と娘用にバーバリのバッグを二つ買っただけでした。その後、李さんの案内でホテル周辺地区を散策しましたが、ビルや商店が林立している中で屋台などが溢れており、町は活気に満ちていました。そこで「足マッサージ」をしてもらおうということになりました。前回の旅行では初めて「アカすりマッサージ」を経験しましたが、その乱暴さを体験しているので今回は足だけにしたのです。一人4千円くらいで約1時間、膝から下を万遍なくマッサージしてもらいましたが、とても丁寧で気持よく、最後にゴムの長靴のようなものを履かされて空気を抜いて足を絞り上げるような工程があり、これは初めての経験だったし、とても気持ちのよいものでした。家内も足の疲れが一遍に取れたと、とても感激していました。
 次に、お土産用のキムチを李さんのお勧めの専門店で試食の上で購入しました。自宅用を含めて小さな紙箱で16個買いましたが、代金は179,000ウォン(約12,500円)で、翌日にはロッテホテルに届けてくれるとのことでした。因みに、キムチは手荷物で機内に持ち込みはできないので貨物として預ける必要があります。
 この日の最後は焼肉で、李さんの案内で「焼肉明洞」という店に入りました。店内は若い人達で混雑していましたが、李さんが予め個室を予約していてくれたのでゆっくり食事ができました。ビールやマッコリを飲みながら李さんも入れて3人で焼肉を満喫しました。その他にもチヂミ、冷麺、カルビスープを頼んでこれらを完食しましたが、食事代は15万ウォン(約1万円)でした。その後、ホテルに戻ってシャワーを浴びてぐっすり寝ました。

○ 2月24日(木)
 この日は8時30分に李さんとロビーで待合わせて車で「松竹」というお粥の専門店に行き、李さんが勧める「アワビ粥」を食べましたが、大きな器に入ったお粥で、出汁がよく効いていてヘルシーで味も抜群でした。
 この日も温かく、コートや帽子、マフラーもホテルに預けて上着だけで行動しました。その後、家内の希望の王宮殿ということで李さんが案内してくれたのは「宗廟」と「昌徳宮」でした。「宗廟」は李王朝の代々の王様とお妃の位牌が祀られている広い場所で、30人位の観光客毎にベテランの案内人が付いて約1時間かけて各建物や歴史などを説明してくれました。亡くなられた王様が増える度に横に建て増ししていったので、最後には長さが101mになってしまったことや、神霊が容易に出入りできるように位牌に穴が空いていたり扉や柱に隙間が設けられているなど面白い説明でした。門から廟まで3列の石を敷きつめた道があり、真ん中が神霊、右側が王様、左側が世子(皇太子)の道とのことでした。30センチ位の石が隙間を作って並べられているので歩きにくく、王様や世子がつまづいて転ぶのではないかと後で李さんに尋ねたら、偉い人が速足で歩くと威厳がなくなるので、王様や世子が速足に世子ならないようにこうなっているとの答でした。
 次の「昌徳宮」は代々の王様が政務をとった宮殿とのことで、鮮やかな色彩の装飾が施されていてなかなか見事なものでした。家内は韓流時代劇ドラマの「イ・サン」「女人天下」や「トンイ」などのファンなので、今回の旅行では是非王宮殿を見たかったのですが、実際に目の当たりにして感激していました。隣にある退任した王様や未亡となったお妃の住む屋敷なども見学しましたが、際限なく建て増しされた屋敷のようで、全部を見終わった時には疲れてしまいました。全体の印象としては、宮殿といっても個人の部屋が意外に狭いこと、部屋の中には家具が余りないことなどが感じられました。「昌徳宮」では李さんが案内と説明をしてくれました。
 次はいよいよサムゲタンの昼食ということで、李さんの案内で「大韓サムゲタン」という店に入りました。前回ソウルに来た時に食べたのは「京城サムゲタン」という店でしたが、李さんの話ではここはそれ以上においしいとのことで、我々は予約してあったので一番奥の席に座ることができました。ビールを飲んだと思ったらすぐにサムゲタンが出てきて、我々はすぐにそれにかぶりついたのですが、鶏肉がスプーンでほぐせるほど柔らかく煮込まれており、中には米、銀杏、なつめ、朝鮮人参などが詰め込まれていました。余りのおいしさにほとんど話もしないで完食してしまいました。つまみに出たグリーンの唐がらしは李さんが「辛くない」と言ったので食べましたが、1本目は確かに辛くなかったのですが、2本目はたまたま辛いのに当たってしまい、その激辛にはまいりました。3人分で6万ウォン(約4千円)でした。
 食事の後は腹こなしにソウルタワーに行くことになり、車でタワー下まで行き、その後の5分ほどを徒歩できつい坂道を登りました。エスカレーターでタワーの展望台まで行って眼下の景色を眺めましたが、東京タワーから見る景色と変わらずたいしたことはありませんでした。全体にスモッグがかかっていたのと、展望台のガラス窓が汚れていたので余計そのように感じたのだと思いました。
 タワーの下には韓国の恋人達が愛の誓いに小さな「鍵」を手すりに付ける場所があり、大量の「鍵」が付けられていたので、家内などは「今に手すりが壊れるのでは」と心配していました。丁度その時、タワー下の広場で「武術」のパフォーマンスが始まったのでこれを見物したのですが、昔の武士のような装束の数名が槍や刀や薙刀を振り回しており、後半になって竹を立ててこれを切っているのを見て、これらの武器は全て本物であることがわかってびっくりしました。日本では考えられないことです。
 最後に、ソウル観光の締めくくりとして日本のアメ横のような南大門市場に行きました。雑居ビルや道路に商店や屋台が所狭しと並んでおり、買い物目当ての人達が肩を触れ合いながらひしめいているという状態でした。肝心の南大門は、私が最初に韓国に行った2009年の後に土地収用に不満だった老人に放火されて全焼したとのことで、目下再建工事中でした。ここで、家内はスカーフや長女の髪飾り、孫の靴下等を購入していましたが、私の欲しいようなものはありませんでした。
 その後、ロッテホテルに戻って荷物と前日購入したキムチを受け取って車に乗り込みました。キムチが予想外に重たく、キャリーバッグの上に乗せて引っ張りましたが、ずり落ちたりして大変で、羽田から自宅までどうしようかと心配しました。車はロッテホテルの他、プリンスホテルなど3ヶ所を回ってこの日帰国する旅行客を次々に乗せて行きましたが、誰もが大きなバッグやお土産の手提げ袋などを一杯持っており、車への積込みに難儀していました。
 金浦空港までは往路より短い時間で済み、搭乗手続きを終えたところで17:30頃に李さんと別れました。その後、出国手続きを終えた後にロッテ免税店で購入したバッグを無事受け取り、金浦空港20:00発のASIANA航空便で羽田に向かいました。22:15に羽田に到着しましたが、やはりASIANA航空のため空港ビルに直接着けられず、遠くに降りてバスで空港ビルに向かいました。あとは前日の逆で、京急電車で浅草に出た後にタクシーで自宅にたどり着きましたが、時計は0時近くになっていました。
 今回の旅行については誰からも「1泊2日はもったいない」と言われましたが、専属のガイドを付け、好きなものを食べられて行きたい場所を効率よく観光でき、1泊2日でも十分満足する旅行だったと思っています。家内などは毎年行きたいと言っています。
  (この原稿は3月にいただいていたのですが、管理人の都合で遅くなってしまいました。)


     冬の吉備路めぐり(2)

3日目は、全員が多少二日酔い気味だったが、この日は高橋君の松林寺に伝わるお宝を、それが保管されている県立博物館に見に行くということで早めにホテルを出た。博物館の美術員の方の案内で2階の金庫室(銀行の金庫室のように大きなもの)の前に行き、美術員の方が中から恭しく出してきた2本の掛け軸(といっても1本は板に張り付けてある)を拝見した。
 板に張り付けてある方は、その道の専門家がその複製をどこかで見てこの本物があるはずだということで少林寺を家捜しし、やっと庭の社の中にあったのを発見したとのことだった。重要文化財にあたるほどのもので、書かれているものは「伊勢皇大神像」である。オーナーの高橋君の許可が出たので我々を含めた見学者数人がここぞとばかりデジカメのシャッターをパチパチと切ったのは言うまでもない。
 もう一本は、室町時代のもので少林寺の開祖と言われる「別峰国師像」で、これもまた色々な文献に出てくるものだとのことだった。
 お宝を拝見した後、丁度県立博物館で開催中の「古代出雲展」を見学し、それから日本三庭園のひとつ岡山の後楽園を見学した。因みに、あとのふたつは「金沢の兼六園」と「水戸の偕楽園」である。ここは岡山の殿様の池田候が1687年に作らせた大名庭園で、ここからは岡山城(烏城)の天守閣が望めた。後楽園の素晴らしい景色を愛でていると、「シャッターを押してくれませんか」と我々と同年輩の夫婦から頼まれ、いろいろ話していると栃木の「くろみや」という蕎麦屋のオーナー夫妻であることがわかった。平成18年5月に白門43会で「栃木ミニトリップ」を行った時に昼食を食べた蕎麦屋ではないかと思っている。
 その後、高橋君の松林寺のある庭瀬周辺の観光を行った。まずは岡山県の誇る政治家犬養毅の生家と墓を見学した。犬養家は庄屋の家柄だったとはいうもののいずれも質素なもので、犬養木堂という人は金に塗れた今の政治家と違って立派な人だったということが偲ばれた。
 次に、庭瀬2万石の板倉家の陣屋跡を見学した。戦国時代にはここには毛利家の高松城と連なった7城のひとつとして庭瀬城があり、その後この地は宇喜多氏の領地となり、関ヶ原の戦いで宇喜多氏が滅ぶと宇喜多氏を裏切った家臣だった戸川氏が入り、更に戸川氏が断絶した後何人かを経て板倉氏が入ったのである。この板倉家というのは、先祖は京都所司代の板倉勝重(島原の乱を鎮圧した時の幕府側総大将)で、幕末の老中板倉勝静はその子孫であるが、私と伊勢丹に同時入社した板倉重俊君(中大文学部を43年に卒業)はその本家で、備中松山(高梁)5万石の城主だったという縁がある。板倉重俊君は伊勢丹在職中に病死したが、彼の長男は現在も伊勢丹に勤務しているはずである。
 その後、高橋君が住職を勤める(正確には昨年長男に譲ったので前住職)松林寺に行った。入ると左手に鐘楼があるが、鐘は戦時中に供出してなくなっているとのことだった。本堂の他に蔵が二つと社がいくつかあり、そのひとつが庭瀬2万石の板倉家代々の位牌を祀ったものだった。寺の中には有名な僧侶の書いた額だとか掛け軸などが沢山飾ってあり、中には平山郁夫の弟子で二科展に入選した腕前という高橋夫人の絵画もあった。私は、二科展に入選した作品である「ネパールの女」という絵が特によかったと思った。
 3時頃に松林寺をお暇し、近くの庭瀬駅まで車で送ってもらい、岡山に出て解散した。私は16時半頃ののぞみで帰京した。今回の旅行は天候にも恵まれ、内容も極めてよいもので大成功だったと思っている。菊地君が幹事の来年の旅行は伊勢・志摩方面らしいのでこれまた期待している。


    冬の吉備路めぐり(1)

  私は中央大学の学生だった頃、「国際関係研究会」というクラブに所属していた。これは「学連」という全国組織や「都連」という在京大学の組織があって勉強会や討論会を行うような真面目な会である一方、殺伐としたお茶の水校舎(なつかしい)の中で仲間が寄り添って遊んだり飲んだりする場でもあった。会室は講堂の2階の控室のような所にあり、メンバーは授業の合間や授業が終わったあとにはいつもここにたむろしていた。
  この時の同期仲間と毎年旅行するようになったのは平成17年からで、東京在住の私が企画して先輩1名を含む6名で箱根の1泊旅行をしたのが最初である。幸い、ここでの仲間は全国に散らばっており、この年の秋には岡山の住職である高橋君(43会会員で広島の集いに参加)が京都旅行、18年には愛知に住む菊地君(43会会員)が岐阜・愛知旅行、19年には大阪に住むF君が城崎旅行(この時の様子は私が43会のホームページで「蟹とヘルペス」というタイトルで紹介済)、20年には山口に住むS君が山口旅行、21年には埼玉に住む川辺君(43会会員で今年の新年会で受付を担当)が群馬・埼玉旅行をそれぞれ企画実施してきた。昨年は順番が一巡して私が伊豆旅行を企画、そして今年は岡山の高橋君が岡山旅行を企画したのである。
  前置きが長くなってしまったが、2月7日(月)の午前11時に、岡山駅に東京からの私をはじめ埼玉の川辺君、愛知の菊地君、山口のS君、そして2年後輩のA君が千葉から続々と集まった。そして高橋君が運転するエスティマで、まずは冬の吉備路観光に出発した。運転しながらの高橋君が説明するには、昔はこの辺りは大和朝廷に肩を並べるほどの吉備国があったが、最終的には大和朝廷の支配下に入って3分割され、それぞれ備前・備中・備後というように国名が変えられたとのことで、その証拠にこれら3国にはそれぞれ立派な吉備神社があるとのことだった。我々はそれらの神社の本家とも言うべき「吉備の中山」吉備津神社を訪ねたが、比翼入母屋造りの壮大な神殿や古い社、長い回廊等を備えた立派な神社だった。
  次に歴史でも有名な高松城(豊臣秀吉がここを水攻めにした)の城跡を見学した。一昨年、川辺君が幹事で群馬・埼玉旅行をした時、豊臣秀吉の北条征伐の折に石田三成が豊臣秀吉を真似て「忍(おし)城(行田市)」を水攻めにした時の名残である石田堤を見学したのであるが、今回はその本家とも言うべき高松城なので期待したのであるが、公園のようになっているだけで何も残っておらず、「この辺りで高松城主の清水宗治が小舟を浮かべて切腹したのかなあ」などと想像するしかなかった。月曜日ということで、当地の高松城資料館が休館だったことも痛かった。
  次に、高橋君の寺(松林寺)が属する臨済宗・東福寺派の3刹で「雪舟寺」とも言われている宝福寺を訪ねた。さすがは高橋君で、住職に簡単な挨拶しただけで上り込んで勝手知ったる他人の寺とばかりに我々を寺の隅々まで案内してくれた。以前の高橋君企画の京都旅行の時も、高橋君の父親が元東福寺の宗務課長だったということで東福寺に宿泊させてもらい、この時の宗務課長が自ら東福寺境内やその後の銀閣寺案内までやってくれ、おまけに夜のスナックの手配までやってくれたことを思いだした。つくづく坊主と医者の世界はコネが大事ということを再確認できた。
 この後は備前の国分寺などを見学し、そのまま「なまこ塀」などで有名な倉敷まで足を伸ばした。ここでは奇妙な体験をした。我々が倉敷の観光地の真ん中で記念写真を撮影していると、一人旅のような30代後半くらいの男性が「シャッター押しましょうか」とか言って馴れ馴れしく近寄ってきたのである。そのうち「こちらの建物の方が重要文化財である」とか、「もっと風情のある小道があるのを知っているか」とか、とにかく詳しい説明を始めたのである。
 我々も急ぐ旅でもないので彼の案内のままに細い路地や、普通では気がつかない古い店舗などを見学し、彼が指示するままに6名揃って絶妙のアングルで写真を撮ってもらったのである。最後に「いい店があるのでそこでお茶を一杯だけご馳走してくれませんか」と言うので、奥まった場所にある蔵の中の喫茶店に入って抹茶と和菓子をいただき彼の分は我々が負担した。喫茶店の中でも記念にと我々の写真を撮ってくれたりした。我々と一緒だった時間は30~40分だったと思うが、とにかくこの辺りをよく知っていて素晴らしいガイドぶりだった。別れ際に「一人百円いただけますか」と言ってきたが、彼の案内・サービスは一人百円どころか一人千円以上の価値があったというのが全員の感想だった。
 その夜は、瀬戸大橋が眼下に見下ろせる「児島ホテル」に宿泊し、夜は瀬戸内海の海の幸(生きのいい魚貝類やママカリの刺身など)を腹一杯食べ、おいしいお酒を飲んで過した。
 翌日は、エスティマで景色のよい「鷲羽山」や「王子が岳」などを観光した後、宇野港からフェリーで15分くらいの「直島」に行った。ここはベネッセ(福武書店)が開発した「地中美術館」というのがあって、そこにはモネの「睡蓮」の絵画が何点か展示されているというのである。地中美術館は安藤忠雄の設計になる奇妙なもので、その中心にある大きな白い部屋にモネの「睡蓮」の絵が5枚飾ってあった。私は印象派の絵画はよくわからないのでそれほど感激しなかったが、好きな人にとってはずっと見ていたいものだったと思う。私は、別の部屋にあった重さ14トンの黒御影石(イタリアで研磨してボーリングの球のように輝いているほぼ真円のもの)の方が興味を持てた。その他には光そのものをアートにして錯覚を起こさせる部屋などもあったが、たいしたことはなかった。庭に出ると眼下にヘリポート付きクルーザー等が停泊したプライベートの入江があり、ビーチの他にヘリポートもあって、ベネッセのオーナーがここをヘリコプターで訪れるのだと思われた。なかなかの施設だったが、敷地内写真撮影禁止とか、地中レストランには予約がないと入れないとか、車を駐車させるにも許可が必要とかの煩いルールが沢山あって不便な思いが残った。
 昼食後は直島の残りの部分を観光したが、6か所の観光スポットの共通見学券(千円)がないとそのどれにも入れないというので、その1軒の「角屋」という所で共通見学券を買おうとしたところ「ここでは売っていない、次の護王神社で買って欲しい」と言われた。止むなく近くの護王神社に行ったが神社は長い曲がりくねった階段の上だという。そこで私がふうふういいながらやっと登ったところ、神社には誰もいないし共通見学券販売の場所も見当たらない。そこで唯一、境内を掃除している人に尋ねると、自分が販売しているとのこと、やっと共通見学券を手にするとその男が言うにはここも観光スポットのひとつなので見ていきなさいとのこと。あるのは古い社だけで、そこに階段があるのだが、これがガラスで出来ているのである。その男に尋ねると「このガラスはレンズに使用するもので高価なものである」とのことだった。
 階段を下りて皆と合流し、あとの4か所を回ったが、いずれもベネッセにかぶれたようなものばかりで、歴史色や郷土色のあるものではなくがっかりした。
 その夜は岡山に戻って「アークホテル」というビジネスホテルに宿泊した。高知県に住んでいる2年後輩のN君が合流してまたまた大宴会となり、その後は外に出て飲んだり、カラオケをしたりということになり、ホテルに帰った時は0時を過ぎていて正面玄関が閉まっていたので裏口から入るという始末だった。(続く)


     夫婦で金沢旅行

 私は6年前に会社を定年退職してからは「白門43会」「高校の同窓会」「会社の同窓会」といった3つの同窓会の役員を務め、その間のこれらの幹事会とか各種行事への参加が毎年100日を超えていました。
 平成17年にこのホームページに「毎日が日曜日」というシリーズで定年退職後の妻との付き合い方は「付かず離れず」が一番と紹介したことがありますが、この5年間はそれを実践しました。具体的には、私は自分の同窓会に専念、妻は自分の友だちとの会食会や海外旅行に専念しますが、年に2~3回くらいは一緒に旅行するということです。妻は友人たちと近場の温泉とか海外旅行に行っており、今年もクロアチア旅行を楽しんできました。飛行機嫌いの私は大学や伊勢丹時代の仲間と専ら飲み会とか国内旅行に行っていました。
 妻と「離れず」を実践するための旅行としてはだいたいが温泉が多く、一昨年に白門43会が「留学生との集い」の慰労会を行った鬼怒川温泉の谷川ホテルにはほぼ毎年(通算12回)通っています。
 こうした中、2010年は6月の福島旅行(ホームページで紹介)に続いて11月18日(木)から1泊で金沢旅行に行ってきました。
 金沢旅行の目的は3つで、第一が11月7日に解禁になった「ずわい蟹」で、第二が温泉、第三が金沢観光でした。旅行社に往復を依頼しましたが、11月の平日というのにJALが経営不振で大型機を中型機に変更したとかで満席とのことで取れませんでした。仕方がないので、列車で行くことにしましたが、搭乗前後の時間や小松空港から金沢までの移動時間などを考えると実質的な時間のロスはほとんどないとのことでした。
 越後湯沢経由で途中のんびりと「笹寿司」の駅弁で昼食を食べるなどして約4時間で金沢駅に到着しました。タクシーで10分ほどのその夜の宿泊場所の「白鳥路ホテル」に行き、荷物を置いてから周辺の観光に出ました。「白鳥路ホテル」は「金沢城公園」とそれに続く「兼六園」のすぐそばにあり、多少年季が入っていますが往年の繁栄が偲ばれる立派な佇まいのホテルでした。
 この日は加賀百万石のお城跡の「金沢城公園」を観光することにしました。敷地は流石に百万石と思うほどの広さでしたが、江戸時代にあったはずの天守閣は勿論、櫓もなく、わずかに大きな石垣や堀があるだけでした。正確には、城らしきものはあるものの、それは映画のセットのような安物で、とてもこれまで見てきた松本城や松山城、名古屋城などとは比較にならないものでした。あんな城だったら、むしろ無かった方がよいと思いました。また、「金沢城公園」内は広いにもかかわらず案内表示などが不備で観光客もほとんど居なければ、公園の管理係員も見当たらず、我々夫婦は道順も分からずウロウロしてしまいました。
 やっとのことで「金沢城公園」を出て隣の「尾山神社」に行きました。ここは加賀藩の代々の藩主が祀られた大きな神社で、正面にある「神門」と呼ばれるモダンな三層の門の最上階は四面五色のギアマン張りになっており、昔は金沢市のシンボルとして海上からも見ることができたとのことでした。
 ホテルに帰って、温泉にゆっくり入り、いよいよ夕食になりました。旅行社の説明ではこのホテルは夕食はオプションになっており、蟹の特別食を希望するなら一人4千円とのことだったので、とりあえずはそれで我慢することにしました。翌日、近江市場という魚介類の市場に行く予定なので、本格的な蟹はそこで食べようと思ったからです。
 ところが出てきた料理はまずは大きな「ずわい蟹」が一杯づつ、それにお造りやご当地名物治部煮や焼物、揚物など全部で11品もあるのでびっくりしました。まずは30分もかけて大きな「ずわい蟹」を食べましたが、昔から「味はずわい」と言うように新鮮でおいしい蟹で、これで4千円は本当に安いと思いました。
 余談ですが、学名「ずわい蟹」は島根・鳥取地方では「松葉蟹」と呼ばれ、福井地方では「越前蟹」と呼ばれていますが、石川地方ではこれらに対抗して加賀・能登から「加能蟹」と呼ぶようにしているとのことでしたが、私には初耳でした。
 翌朝のバイキング朝食では軽い洋食を選び、9時にチェックアウトして徒歩で約10分の「兼六園」に行きました。まだ朝早いので観光客もまばらで、入口からすぐの所に兼六園のシンボル「ことじ灯籠」がありました。朝日を受けて、紅葉を背景に池の縁にたっている灯籠は見事で、思わず見とれてしまいました。この「霞ヶ池」の周辺には「唐崎松」という見事な松が何本も植えられており、これらを含めた景色はまるで絵葉書のようでした。
 「兼六園」内では、13代藩主がその母親のために建てた「成巽閣(せいそんかく)」という重要文化財の建物などを十分満喫した後、「兼六園」を出て地図を頼りに徒歩で武家屋敷跡に向かい、前田利家の次男を祖とする重臣「前田土佐守」の屋敷跡に作られた資料館を見学しました。ここで売っていた「加賀藩職制すごろく」というのがあり、仲間・小物から始まって足軽、御徒、与力と進んで最後は藩主にたどり着くのが面白く思わず買ってしまいました。
 その後、昼食を食べるために「近江市場」まで歩いて行きましたが、途中で疲れ休みに立ち寄った「森六」という和菓子店で和菓子を食べたところこれがとてもおいしく、お土産に買ってしまいましたが、店の人によく聞くとこの店は東京の三越本店にも出ている有名な和菓子店であることが分かりました。私としては「黒羊羹」を買いたかったのですが妻の反対で購入できず、今度密かに三越本店で買ってやろうと決心しました。
 「近江市場」は上野のアメ横と同じで、魚屋を中心に百以上の店が集まっており、その魚屋の店頭はほぼ全てが蟹それも「ずわい蟹」が占領していました。まずは昼食ということで、旅行案内書に出てきた「ひら井」という海鮮屋で2,500円の「特選海鮮丼」を食べました。店内は満席状態で出てきた「特選海鮮丼」には「ウニ」「いくら」「蟹」「甘海老」「マグロ」「牡蠣」「鮑」に加えて「鰻」までが乗っており、そのどれもがおいしくて大いに満足しました。
 食べ終えて店を出て、さあ蟹を買おうと思いましたが、この市場の蟹の値段は16,000円くらいから5,000円くらいまでの開きがあり、素人目にはその差が分かりません。そこで思い出したのは前日乗ったタクシーの運転手が「大ぶりの蟹より、小ぶりの香箱蟹(こうばこがに)の方が安くておいしいので、自分たちはこれを食べている」と言った言葉でした。そこでよく見ると、確かに、上海蟹より一回りくらい大きな蟹が1,000円くらいの値段で売られていました。そこでこれを10杯買って自宅配送を依頼しました。翌日、家でこれを食べたら、なかなかおいしくタクシーの運転手のお勧めが間違っていないことが分かりました。
 帰りの列車の中で、夕食を食べようと思って車内販売の女性に「サンドウィッチ」と注文したところ「売り切れです」と言われ、止むなく選んだのが「蟹釜飯」ということで、今回の旅行はまさに蟹尽くしということになりました。蟹については、以前このホームページでも紹介した「城崎」の民宿での蟹尽くしも凄かったのですが、今回もそれに劣らず素晴らしい蟹でした。
 かくして、蟹、温泉、観光という3つの目的も達成して、十分満足して帰宅した我々夫婦でした。
                (写真は上:兼六園、下:尾山神社)  


    会津若松・喜多方旅行(2)

○ 6月3日(木)

  この日は天気が良かったので、朝食の後、計画では11時頃の電車で喜多方に向かうことになっていたのですが、1本早い電車に乗ろうと9時半頃タクシーで会津若松駅に向かいました。しかし1本早い電車が今出たところというわけで、仕方なくタクシーで約30分かけて喜多方に行きました。
 駅前は例によって閑散としていて何もないので、観光案内所にいたベロタクシー(電動自転車の人力車)で市内観光することにしました。運転手のお兄さんの話を聞いていると、喜多方は昔は金山に近く、また物流の要衝でもあったことからかなり豊かな町で、漆食器や酒・味噌・醤油の醸造が盛んで多くの蔵(4千以上)があり、昔から「蔵の町」として観光名所になっていたとのことでした。私はラーメンで全国的に有名になった町だと思っていましたが、それはごく最近のことのようでした。
 まずは漆工房があった地域を、細い街路をくねりながら進み、日光や風を嫌う漆のために多くの蔵が建てられたとの説明を受け、途中で1軒の漆食器の店に立ち寄って中を見学しました。
 次に向かったのが酒・味噌・醤油の醸造業者がいた地域でしたが、ここには現在でも多くの業者が残っており、いずれも多くの蔵を構えた豪商の名残を残していました。そのうちの1軒「若喜」という店に入りましたが、その店の壁一面に「何でも鑑定団」で高い値段の付きそうなレトロなポスターが何枚も画鋲で貼ってあるのに気が付きました。昭和30年代の映画のポスターで、その他にも昔の雑誌や駄菓子などが並べてありました。店員に尋ねると店のオーナーが趣味で収集し、惜しげもなく画鋲で貼っているとのことで、時々お客さんからこんな貴重なポスターを画鋲で壁に止めるのはもったいないと注意されるとのことでした。この店は酒・味噌・醤油を扱っている店で、店主らしき人から説明を受けた後に「自然醤油」と「だし醤油」を購入し、自宅に宅急便で送ってもらいました。
 約1時間でベロタクシーでの観光を終え、いよいよ昼食ということになりました。ベロタクシーのお兄さんの話を参考に、駅からも近く喜多方ラーメンの元祖ともいうべき「源来軒」に行くことにしました。間口は狭いのですが、中は30席ほどもある店で、大正末期に中国人が始めて現在は3代目ということでした。一番シンプルなラーメンを食べましたが、昔の「支那ソバ」を彷彿させるような懐かしい味で、具も支那竹とチャーシューが2枚となるとだけで、スープは鳥ガラのみ使用というあっさりしたものでした。麺はやや太いちぢれ麺で、もちもち感のある美味しいものでした。お土産としても売っていたので、4食入りの箱3つを宅急便で自宅に送りました。
 その後、ベロタクシーで回りきれなかった場所を散策し、特に「大和川酒造」という大きな酒蔵に入ったり、文人名士が集まったという「笹屋旅館」(上の写真)などを見学しました。駅前の喫茶店で少し時間調整をして13:49に喜多方を出発して会津若松に戻り、14:14発のあいづライナーで猪苗代に向かいました。14:41に猪苗代に到着しましたが、地図では湖まで歩いてすぐのようでしたが、実際にはかなりの距離があり、特に遊覧船乗り場のある長浜までは車でも10分かかるとのことでした。定期バスもないようなので、止むなく駅前からタクシーで3千円かけて長浜に行きました。タクシーの運転手の話では、遊覧船は一定の客が集まらないと出ないと言われましたが、実際には我々を含めて2組4名でも船を出してくれました。遊覧船「はくちょう号」は白鳥の形をした2~3百人は乗れる大きな船で、我々はまるで貸し切りといった気分で約30分の遊覧を楽しみました。説明では、猪苗代湖は昔、土地が陥没してできた湖で、水は澄んできれいですが硫黄分が多くて魚は余りいないとのことでした。遊覧船から見る磐梯山は素晴らしく、例年になく山頂に3か所ほど雪が残っているのが分かりました。
 船乗り場に戻り、タクシー会社に電話して迎えに来てもらいましたが、時間がかなり余っていたのでタクシー運転手さんに相談したところ、途中に「野口英世記念館」と「ガラス館」があるというのでとりあえず「ガラス館」に行ってみることにしました。ここは大きなショッピングセンターのような2階建ての建物であらゆるガラス製品が展示販売されていました。特に2階部分には高級な食器や花瓶などがあり、ざっと見て回るだけで30分以上かかりましたが、特に買いたいものはありませんでした。入店客が少ないのでよく商売になっているなというのが正直な感想でした。
 その後は予定通りで、郡山を経由して19:50に上野に到着しました。初めての会津若松・喜多方方面の旅行でしたが、天気に恵まれ、東京からこれほど近い場所に観光地化されていない素晴らしい土地があったのだなというのが正直な感想でした。


    会津若松・喜多方旅行(1)

 昨年の12月に娘夫婦に待望の男子が誕生し、私も晴れて「お爺さん」になりました。娘夫婦はその後1カ月余り、赤ちゃんと犬まで連れてわが家に「寄宿」したのですが、先日そのお礼として私たちに「旅行券」をプレゼントしてくれました。そこで、私たち夫婦は「会津若松・喜多方」の旅行を選択し、「善は急げ」とばかりに6月2日~3日ということで近畿ツーリストに旅行の企画と切符の手配を依頼しました。結果として、6月2日の白門43会の役員会を欠席することとなりましたが、これはわざとではなく、娘の夫が水曜・木曜が休みなので我々が近所のマンションに住んでいる娘と孫を手伝う必要がないということ等のいろいろな条件を斟酌してこの日になったことをご理解いただきたいと思います。

○ 6月2日(水)

 朝9:00発の「Maxやまびこ107号」で郡山駅に行き、ここで磐越西線(あいづライナー1号)に乗り換えて11:52に目的地の会津若松駅に到着しました。
 私にとって会津若松は初めての土地でしたが、ここは幕末の京都守護職であった会津藩主松平容保の城下町(23万石)ですし、更に歴史を逆上れば加藤嘉明(40万石)、蒲生氏郷(90万石)や上杉景勝(120万石)といった大大名の城下町だったので定めし賑やかな町かと思ったのですが、駅前は閑散としていて昼食を食べる店も殆どありません。やむなく駅構内にある立食い蕎麦屋で450円のとろろ蕎麦で昼食を摂りました。お腹が減っていたたこともありますが、出汁が関西風でやや薄い感じでしたが、立食い蕎麦屋にしてはまずまずな味だと思いました。
 昼食後、市内観光ということで、タクシーに乗って案内してもらいました。タクシーの運転手さんに早速立食い蕎麦の話をしたところ「あんなのは不味くてだめだ。市内にはおいしい会津蕎麦を食べさせる店が何軒もある」と言われてがっかりしてしまいました。
 まずは会津若松の本格的な町作りに取り組んでいたといわれる蒲生氏郷の墓に行きました。蒲生氏郷は近江(現在の滋賀県)の日野出身の大名で、織田信長や豊臣秀吉に仕えて活躍した人物でした。信長がその娘を氏郷に嫁がせたこと、秀吉が奥州征伐の後にここに居城を構えていた伊達政宗を仙台に移してその跡に奥州の要として蒲生氏郷を配置したことからも、氏郷がこの二人からどれほど信頼されていたかが窺われます。因みに、若松という地名も蒲生氏郷の近江の領地にあった「若松の森」から持ってきたと言われています。蒲生氏郷の墓は「五輪塔」といういろいろな形の石を5つ積み上げただけの寂しいものでした。蒲生家が息子の代で跡継ぎが無いという理由で改易になったこと、会津若松における蒲生家の治世が20年程度だったこと等が小さいことの理由と思われます。但し、タクシーの運転手さんは、蒲生氏郷こそが今日の会津若松の基礎を作った最大の功績者であると称賛していたので、短いながらも人望のあった藩主だったのかもしれません。
 その後、タクシーで何箇所か(上杉景勝の時代に「天地人」で有名な直江兼続の屋敷があった所や有名な会津藩の藩校「日新館」があった所など) 回った後、いよいよメインの「鶴ケ城」に向かいました。ところがお城は現在改装工事中(完成は来年3月)で、全体が鉄パイプや幕に覆われていて肝心な全景を見ることができませんでした。この城はこれまで見た名古屋城や愛媛の松山城よりは規模の小さな城でしたが、長野の松本城や岐阜の犬山城などよりは大きく、幕末の戊辰戦争において官軍を迎え打って手こずらさせた堅固さが偲ばれるものでした。城の中には入れたので5層の城の中を天守閣まで見学して回り、その後は庭の茶室で抹茶と和菓子を味わってからタクシーに戻りました。
 次に回ったのは「白虎隊の悲劇」で有名な飯盛山のふもとの「白虎隊記念館」でした。ここには幕末の官軍による会津若松攻撃の際に、城下が燃えているのを城が落ちたと思って飯盛山で自決した19名の白虎隊員に関する資料が多く展示されていました。意外なことに、この19名の一人が現在の秋篠宮紀子さまの先祖に当たるとのことでした。いずれにしても純粋な忠誠心に燃えて自決した20歳前の若者達の最後は哀れで、それに引き換え彼らの忠誠心の対象だった松平容保がその後日光東照宮宮司などをやって明治26年まで生き続け、華族(子爵)にまで栄達したというのは何か納得できませんでした。
 戊辰戦争では、会津藩はその配下にあった新撰組が勤皇の志士を多く殺したことから官軍の恨みを一身に集め、松平容保が降伏したので城は残ったのですが、代わりに城下は官軍の乱暴狼藉の場所となり、また松平容保の京都守護職就任を諌めた筆頭家老の西郷頼母などは幼い子供を含む家族全員が自決したり、会津藩も23万石から本州北端の陸奥斗南3万石に移されるという報復を受けて家臣も含めて大変な悲劇を味わったのです。そのため会津の人達の官軍(特に長州藩)に対する恨みは強く、タクシーの運転手さんの話では現在でも年寄りは山口県人を嫌っているので、山口県からの旅行客は「どちらから来たのですか」と聞かれても正直に答えないように気を付けているとのことでした。
 最後に、タクシーの運転手さんに「城下町には必ず美味い和菓子があるはず」ということで案内してもらったのが、小さな蔵の中にある「会津葵」という店で、ここで銘菓の「カステアン」という和洋折衷の不思議な菓子と、干菓子を購入しました。
 この日の宿泊は会津若松駅からタクシーで10分ほどの東山温泉で一番大きな「東鳳」というホテルでした。まだ早かったので、荷物を部屋に置いて徒歩でホテルの裏から山道を登った所にある松平家の墓所を見学することにしました。ここには2代から最後9代目の容保まで8人の藩主の墓があり、それぞれが20メートル位おきに並んだ経歴などを記した屋根付きの大きな石碑と墓石から成っており、立派なものでした。登りの山道約800メートルはちょっときつかったのですが、うっそうとした木々に覆われた静かな道だったので、食事前のいい運動になりました。
 「東鳳」での部屋は17階で、遠く会津若松の町が一望にできる素晴らしいもので、鶴ケ城の天守閣よりも眺めがよいものでした。風呂は露天風呂に入りましたが、大ガラスの大浴場とまるで棚田のように突き出ている露天風呂があり、ナトリウム・カルシウム泉という無色・無臭の気持のよいものでした。また、食事は魚・肉・天ぷらなど品数は多いのですが、そのどれもが分量が手頃で、味付けもとてもおいしくて完食してしまいました。帰宅して心配していた体重を計ってみましたが、余り変化が無かったので安心しました。この日は自分の無責任な発言で自滅した鳩山首相が地位を投げ出した日で、それを報じるテレビを見ながら寝ました。(続く)


    伊豆の温泉旅行(3)

○ 2月16日(火)

 朝5時に起床して、菊地君と「巨木風呂」に行きました。場所は昨日の「巨石風呂」の隣で、誰も入っていませんでした。まるで大きなカヌーのような風呂で、木肌は見た目には黒々とした岩のようですが、触ってみると確かに木でした。この風呂も同時に10名は入れないと思われましたが、元の木は想像を絶する大きなものだったということが偲ばれました。
 次に、S君が一人で「巨木風呂」に向かいましたが、館内で迷ってたどり着けず、虚しく戻ってきました。川辺君と一緒に再度挑戦して入浴に成功したのですが、旅館の中の通路が複雑だったことは確かです。
 天気予報では曇りとのことでしたが、実際には朝から小雨でした。朝食後、9時頃に「白壁荘」をチェックアウトし、歩いて2分の停留所からバスで修善寺に向かいました。来る時もこの停留所からなら迎えのバスがいらなかったのではと思いましたが、旅館の人の話では、この停留所を通るバスは路線が違うとのことでした。
 「白壁荘」を出る時、高橋君が「石川さゆりがここに宿泊したのか」と質問したところ、旅館の人が「そもそも天城越えの唄はこの旅館で作曲されたのです」と答えたので、持ち唄が作曲された旅館に宿泊したことになる高橋君は感激していました。
 約1時間ほどで修善寺に到着しました。ここで2時間半ほど観光・昼食にかけるつもりでしたが、駅前には何もなく、観光案内所で聞いてみるとバスで15分ほどの「修善寺温泉」に行けば観光・昼食に適したものがあるとのこと。早速タクシーで「修善寺温泉」に向かいました。タクシーの運転手はあと1ケ月で定年になるという人で、いろいろ話を聞くうちにおいしい蕎麦屋があるということを教えてもらいました。
 修善寺ではまず「修善寺」という大きなお寺に行きました。ここは608年に弘法大師によって建立された名刹で、修善寺で暗殺された鎌倉幕府の2代将軍頼家ゆかりの寺ということでした。
 次に隣の日枝神社に行くと、ここは源頼朝の弟の範頼が幽閉されていた神社ということでした。境内にはおそらく樹齢が数百年の大きな杉の木が何本もありました。その中に「子宝に恵まれる木」というのがあり、我々は「うっかり触れないな」と笑っていたのですが、何故かS君だけがこれに抱き付いていたので、今後が心配です。
 観光を終えて、タクシーの運転手に教えてもらった蕎麦屋「禅寺蕎麦」に行き、店の人のお勧めの蕎麦セットを頼みました。出てきたのは、もり蕎麦と汁と薬味の他に、青々とした葉の付いた大きな山葵とおろし金、小さなすり鉢に入ったゴマとすりこぎ、山菜の盛り合わせ、そしておにぎり、更にとろろを掛けた蕎麦の小鉢という豪華なもので、これで1,260円は大変お買い得でした。味の方もかなりおいしく、皆満足しました。
 昼食の後、バスで修善寺駅に戻り、丁度停車していた電車で三島に向かいました。約40分で三島に到着し、ここで構内の喫茶店で新幹線の時間までを過ごしました。時間がきて、今回の旅行も終わりということになり、解散しました。S君、菊地君は13:48発のひかり473号に、川辺君、私、そして東京の息子さんの家に行く高橋君は13:49発のこだま650号にそれぞれ乗って、逆方向に帰って行きました。
 次回については、今度は岡山の高橋君が幹事で、期日は今年の11月中旬、場所は岡山市周辺で、寺の住職である高橋君に相応しく芸術・文化・宗教・歴史に富んだ格調の高い企画を行うということです。中でも高橋君の松林寺に伝わる門外不出の重要文化財指定のお宝も見せてくれるとのことで楽しみです。これについてもまたホームページで紹介したいと思います。


    伊豆の温泉旅行(2)

○ 2月15日(月)

 前夜は皆早く寝たのでこの日は早く起きる者が多く、高橋君などはこの寒い中、ホテルの外の海岸寄りにある露天風呂に行ってきたとのことでした。露店風呂は混浴だったとのことで、若い女性もいたという報告が朝食時に高橋君からありました。でもあとでよく確認すると、バスタオルを巻いての入浴だったようです。
8:30に「つるや吉祥亭」をチェックアウトし、運動のため歩いて15分ほどの伊豆北川駅に行くことになりました。距離的にはたいしたのもではないのですが、海面の高さから駅の高さまで階段や坂を歩くことになり、S君などは大分まいったようでした。
 伊豆北川駅から約30分かけて下田に向かい、下田駅で荷物をコインロッカーに預けて徒歩で観光することになりました。ここでは「唐人お吉」のお墓がある「宝福寺」、下田開港博物館、日米の下田条約締結場の了仙寺などを観光しました。このあたりは学生時代などを含めて何回か来ているはずでしたが、建物などが新しくなっているせいか、新鮮な気持ちで観光することができました。「唐人お吉」の写真などが残っており、彼女は身長が171cmもあったミスユニバースのような美人で、入浴している所を米国公使のハリスに見初められたとのこと、また晩年は不遇で52歳で投身自殺していたことなどがわかりました。(右の写真は宝福寺坂本龍馬像前)
 途中で雨が降ってきたので300円の傘を買って下田駅に戻り、来る時に目を付けていた海鮮の店に入り、きんめ鯛の煮付定食などで昼食を摂りました。味はなかなかで、我々がこの店を出る頃にはウエイティング客の列ができていました。
 下田駅から各駅停車で3つ目の「河津駅」で下車しましたが雨足は激しくなるだけなので、「河津桜」を歩いて見ることは止めにして、湯ケ島温泉に向かうバスの中から見ることにしました。河津桜は5分咲きくらいで、町中にピンクの「河津桜まつり」の幟が立っていましたが、残念ながらの雨で観光客はまばらでした。「河津桜」は一般的には「大島桜」と呼ばれる早咲きの桜で、全国的に主流となっている「染井吉野」の薄いピンク色に比較して赤みの強いピンク色の桜です。2月の中旬には咲くので気が早い日本人に好かれて、満開の時期には東京あたりから大勢の観光客が来るとのことでした。但し、この河津桜を神奈川の松田あたりに植林した人がいて、これが大きくなったために最近ではそちらの方で済ませる観光客が増えて、河津はひと頃の賑わいを失っているとのことでした。
 湯ケ島温泉までは約1時間の道のりで、急な山道を曲がりながら進み、途中で「河津七滝」などがありましたが、雨なので何も見えず、下田観光で疲れた一行はぐったりと眠っていました。高橋君などは持ち唄の「天城越え」のイメージを作るために「上連の滝」だけでも何とか見たいと言っていましたが、「上連の滝」という停留所を通過する際には眠りこけていました。もっともバス停から「上連の滝」が見えるはずはないのですが。
 湯ケ島温泉のバス停で下車し、電話でお願いしておいた送迎バスで今夜の宿泊旅館「白壁荘」に向かいました。バス通りから離れた場所にひっそり建っている古色然とした旅館で、館内は全て古い木材で作られており、障子や唐紙なども由緒ありげなものでした。部屋は「善六」という名前で、聞けばこの地方の民話に出てくる木こりの名前とのことでした。他の部屋の名前も「六衛門」とか「おふく」とかで、それらも民話や文学に出てくる名前のようでした。
 ここの売りは53トンの岩をくり抜いて作った「巨石風呂」と、アフリカのガボンから運んできた樹齢1,200年の紫檀の木をくり抜いて作った「巨木風呂」です。旅館の人の説明では、男性は夜は「巨石風呂」、朝が「巨木風呂」と決っているとのことなので、まずは「巨石風呂」に入ることにしました。幸い、宿泊客は前日の「つるや吉祥亭」の満杯と違って数組だけのようなので、早いもの勝ちとばかりに迷路のような旅館の中を案内板を頼りに「巨石風呂」に向かいました。風呂は旅館の上の方にあり、屋根は付いているものの露天風呂で、洗い場には屋根もないという状態でした。服を脱いで雨の中を風呂によじ登り、やっと入ることができました。先客が1人居ましたが、我々5名が入るとほぼ満杯状態でした。太い「とよ」から湯が絶えず注いでおり、湯の温度は40度くらいでゆっくりと入ることができました。巨石をくり抜いた風呂ということで、何かヒンヤリするのではないかと思っていましたが、岩は滑らかで温かく、なかなか気持のよいものでした。これまで色々入った風呂と違って、こんな風呂は初めてで、いい思い出になるというのが皆の意見でした。
 夕食は別室で5名で食べました。メインは「しし鍋」で、その他にも伊勢海老のおつくりや茸等が出て、ヘルシーかつとてもおいしいものでした。冷酒を注文しましたが、これに伊豆の名物の山葵を入れて飲むとおいしいとのことで、試してみましたが味がまろやかになってなかなかのものでした。
 昨日のホテルは一晩中波の音がしていましたが、この日の「白壁荘」は一晩中すぐ下を流れる狩野川の清流の音が聞こえて、多くの文人達に好まれた旅館ということに納得できました。


    伊豆の温泉旅行

 私が中央大学に在籍中に所属していたのは文化連盟の「国際関係研究会」でした。ここに所属していた同期の学生とは、卒業後も時々会ったり、年賀状のやりとりなどをしていましたが、平成17年3月に6名が集まって箱根旅行をしたのを皮きりに、年に1度か2度、順番に交代する幹事が自分の出身地で旅行を企画するというスタイルでこれを続けてきました。幸い、同期は遠く山口、岡山から大阪、名古屋、近くは埼玉、東京と散らばっており、それぞれ地元ならではの旅行を企画するばかりか、勝手知ったる地元を効率よく案内できるのです。
 これら同期の中には、白門43会員が私の他に3名(行田市の専門チェーンの経営者の川辺秀夫君、岡山市の松林寺の住職の高橋良洋君、愛知県春日井市の自営業の菊地古志朗君)がおり、以前にも「城崎の蟹の旅」「下関のふぐの旅」「群馬の四万温泉の旅」をこのコーナーで紹介してきましたが、今回は私が幹事で、「伊豆の温泉旅行」を実施しましたのでご紹介します。(管理人注:3日間の旅程を詳しくご報告いただいたので、1日分ずつ3回に分けて掲載させていただきます。)

○ 2月14日(日)
 この日、熱海駅の改札口に、山口からS君、岡山から高橋君、愛知から菊地君、埼玉から川辺君そして東京から私が集合しました。誰も迷わず、遅れもしないで集まれたのはまだ誰もボケていない証拠でした。
 13:50発の伊豆急行「リゾート踊り子号」まで45分ほど時間があったので、駅前のレストランで軽い昼食を摂りましたが、川辺君が注文したカレーライスがひどく遅れて、再び駅に戻ったのが13:40頃になっていました。電光掲示板で13:50発の「踊り子号」を確認すると4番線だったので、とりあえずはプラットホームに上がってホッとしていました。13:50に入ってきたのは東京行きの踊り子号で、あわてて駅員に確認すると下田行きは隣のホームとのこと。すぐに隣のホームに移動したのですが、ここには別の列車が停車していておかしいということになり、停車中の列車の運転手に確認すると「このホームで間違いない。多少遅れているようだ」との返事でした。ところがふと隣のホームを見ると派手な柄の列車が到着しており、「あれが踊り子号だ」ということになって全員がホームの階段を息を切らして駆け上がって何とか乗り込むことができました。あと数秒遅れたら乗り遅れるところで、一同席に着いてから「間に合ってよかった」と喜ぶことしきりでしたが、同じ時刻に東京行きと下田行きの踊り子号が同時に発車するとは思わずに電光掲示板を見損なったためのハプニングで、大ボケのスタートとなりました。
 14:52に熱川駅に到着し、ここで下車しました。ここから今夜の宿泊ホテルの送迎バスが出ているのですが、多少の時間のゆとりがあるので「バナナ・ワニ園」を見学することにしました。一部に前に来たことがあるとか、来たことはないが特にワニなど見たくないなどど言う人がいましたが、多数決で「行ってみよう」ということになりました。
 まずは丘の斜面にいくつもの温室に分かれて展開している熱帯植物園に入りましたが、ここは温泉を利用した熱帯のジャングルのようになっており、多くの熱帯植物(小さな花から樹木まで)が栽培されており、ランやハイビスカスは無論のこと珍しい食虫植物や数十種類の睡蓮などがあって皆はやっぱり来てよかったということになりました。次に、ワニ園に行きましたが、いくつもの水槽や池の中にクロコダイルやアリゲータといった大小さまざまなワニがおり、ここも温泉の熱で温かい水の中にいるので元気に動いているものもあって迫力満点でした。体長が2mを超えるような大きなワニに不気味な目で目近から睨まれると何とも恐ろしく、これに噛まれたらひとたまりもないなと思いました。
 1時間ほどで見学を終えて熱川駅に戻り、送迎バスの発着場に行くと丁度今夜の宿泊ホテルの伊豆北側の「つるや吉祥亭」のバスが来ており、早速これに乗り込みました。すると丁度次の列車で来た客が殺到して、定員20名ほどの送迎バスが満員になりました。バスは15分ほどでホテルに到着しましたが、ホテルの方も大勢の客の受け入れで満席とのことでフロントは大混乱でした。このホテルは以前に何回か来ており、白門43会の梅津さんの家族旅行にも紹介したことがありますが、海岸の防波堤から20メートル位の所に海岸に沿う形で細長く展開しているので、ほとんどの部屋がオーシャンビューとなっており、また天気さえよければ各部屋から朝日が昇る様子を満喫することもできるので、特に女性には人気のホテルなのです。
 夕食は、窓越しにかがり火と海が見える1階の食堂で、部屋ごとに分かれて食べるのですが、海の幸、山の幸ありでとてもおいしく、いくらでもお代わりできる新鮮な「てんぷら」、「活鮑の踊り」、「きんめ鯛の寄せ鍋」などがあり、一同大いに満足しました。
 勿論ここも風呂は温泉で、外には露店風呂があるとのことでしたが、雨の降る寒い夜なので、館内の大浴場で済ませることにしました。


    長岡の大花火

 私が住んでいる台東区では毎年「隅田川花火大会」が行われており、今年も7月25日(土)に2万2千発の花火が打ち上げられるのを家内と見学しました。また、小学生の頃、夏休みの度に母の実家の本厚木に帰省(?)し、相模川の花火大会を見物した記憶も残っています。最近では同窓会の関係で熱海の花火を何回か見物に行っています。大型の花火が夜空に開花して、ズシーンという振動が身体に伝わってくるのが何とも言えない快感と思っています。
 その私が何とか経験したいと思っていたのが日本一の大きな花火(3尺玉)を打ち上げるという長岡の大花火でした。そうしたところ、私が勤めていた伊勢丹の同期の仲間に地元の小千谷出身の者がいて、それではということで仲のいい同期4名で長岡の大花火を見物することになりました。
 長岡の大花火は毎年の8月2日・3日に長岡市内を流れる信濃川で開催されます。発端は1945年のこの日に大空襲があって市内が焼け野原となり、1,500名も発生した犠牲者の追悼ということで始まったようです。信濃川にかかる大手大橋と長生橋の中間から1日1万発打ち上げられ、注目の3尺玉は1日に2発のみです。8月2日・3日の両日は大変なお祭りで、メイン道路は歩行者天国となり、いろいろな行事が行われています。市外からの観光客も半端ではなく、私が見物した8月2日(日)は公称47万人と発表されていました。
 周辺各地の旅館・ホテルは満席ですし、車は市内から20~30分も離れた駐車場に駐車しなければならず、そこから会場へはシャトルバスが送迎する仕組みになっています。100円で大花火のプログラム(20ページの立派なもの)を買ってよく見ると、何時にどのスポンサーのよるどのような大きさの花火が何発打ち上げられるかが詳しく書かれており、後半は寄付をした人の名前が上は50万円から下は3千円まで大きさを変えて2千名近く書かれており、7~8万人と思われる長岡の人口から考えて半分近い所帯が、寄付に応じているのではないかと思われます。
 私たち4名はシャトルバスを降りて土手を30分近く歩いて「指定席」に到着したのですが、「指定席」はテニスコートにプラスチックの簀の子を敷きつめ、その上に青いビニールシートが張ってあり、それがまた相撲のマス席より一回り広いくらいでテープで仕切られているものでした。この1マスの料金が2万円なので。4名で行けば1人5千円です。また、この5千円の中には使い捨て座布団と弁当代金も含まれています。
 ビールなどを飲みながら2時間ほど待った後、午後7時15分から花火が始まりました。花火の前後にスポンサー名と花火の大きさ・数量などが女性の声でアナウンスされ、初めのうちは昨年病死したおばあちゃんに孫一同が捧げるものとか、長岡高校昭和43年卒業生の還暦を祝う有志一同とかがありました。今年はNHK大河ドラマに因んで「天地人」という趣向を凝らした花火が27社のスポンサーの協賛で打ち上げられましたが、なかなか見事なもので、その中には大型の花火(おそらく1尺玉)が何十発も入っているようでした。我々の指定席からは、花火は目の前というよりは頭の上で爆発するという感じで、爆発音や振動は脳天から身体に伝わってきます。大型の花火(おそらく1尺玉)が連続して頭の上で爆発するとこれはかなりの迫力で、思わずのけ反ってしまいますが、そのようなことが何回もあったので、首が痛くなりました。場合によっては寝た姿勢で見たら楽でよかったのかなとも思いました。
 8:30にいよいよ3尺玉が打ち上げられました。安全のためそれまでとは違う、離れた場所からで、それまでの花火より一段と高い位置にスルスルと上がって爆発しました。直径が1尺から3尺になると全体の大きさは3倍ではなく9倍になります。それで開花した時の直径は650メートルとのことでした。しかし、息を飲んで見つめていたのですが、露払いに打ち上げられた花火の煙の中で爆発したため、しだれ柳のような花の端しか見えずがっかりしてしまいました。ただし、爆発の振動は半端ではなく、まるで頭をこずかれたようでした。9:00の2発目も同じような爆発となり、残念な結果になりましたが、長岡の大花火をマス席でしっかり見たということで十分満足でした。
 来年、長岡の大花火を見ようという人へのアドバイスとしては、マス席の予約は4月で、それも数時間で売り切れてしまうので、コネのきく地元の知人に依頼して確保すること、雨に備えてビニールの合羽と大型のビニールのごみ袋を用意することをお勧めします。傘の使用は禁止になっています。


    群馬・四万温泉の旅

 毎年、1月か2月に、中大国際研究会で一緒だったメンバーと旅行をするのがここ何年か続いていたが、今年は直前にハプニングがあり、参加したのは行田の洋品店チエーン社長の川辺秀夫君と岡山の住職の高橋良洋君(いずれも白門43会会員)そして自分の3名でのやや寂しい旅行になった。
 2月8日の14時にJR高崎駅に集合し、その後は今回の幹事の川辺君が運転する豪華なセルシオで四万温泉に向かった。丁度浅間山が活発に活動している頃で、車窓から不気味な煙を山頂にたなびかせている姿が見えていた。2時間ほどで四万温泉「やまぐち館」に到着した。四万温泉は群馬県と新潟県そして長野県との県境にある静かな温泉で、”四万”の病に効くとして有名ではあるが、実際に行く機会が余りない所である。この時の気温は摂氏1度くらいで、雪がチラチラ降っていたがこれでも暖冬で、いつもなら道路には雪が高く積もっているとのことだった。「やまぐち館」は四万温泉でも一二を争う老舗旅館で、四万川を見下ろす大露天風呂やつぼ湯など数種類の風呂があったが、ここの常連の川辺君の顔で贅沢にも総檜造りの貸し切り展望風呂を優雅に楽しんだ。
 あとは鯛・鮪・寒八などの刺身や黒むつと下仁田葱の味噌焼き、もち豚と茸を中心とした野菜の鍋などの豪華な料理とおいしい酒で大いに盛り上がり、普段は洋品店チエーンの社長として或いは寺の住職として表に出せないような話題について、気兼ねなく話し合うことができた。
 夕食後はこの旅館の名物女将による紙芝居やら歌などの独演会とか、従業員一同による太鼓打ちの披露などもあった。この旅館の女将はテレビでよく見かける有名人で、なかなかの芸達者だった。
 翌日は、日本史の教科書にも出ている世界遺産候補の「高岡製糸場」に向かった。ここは”女工哀史”とは無関係の官製工場で、ボランティアの案内人の話では1日の勤務時間は8時間だったとのことだった。とにかく広い工場跡地で、隣には指導に当たったフランス人技術者が住んでいた邸宅もあり、綺麗に保存されていた。数百台も並んだ機織り機械を見るにつけ、当時の賑わいを偲ぶことができた。
 その後、古い城下町の館林とか”ぶんぶく茶釜”で有名な茂林寺を見学した。茂林寺には参道から境内そしてみやげ物屋にも狸が溢れており、東武鉄道から寄進された狸の立像などは、高さが2mを超えるような大きさだった。
 この日は、最後に埼玉県に入って川辺君の本拠地の行田に行った。ここで「埼玉古墳」を見学したが、広い平野の中に小山のように林立する古墳群を見て、教科書でしか古墳を見たことがなかった私はその大きさ、迫力にすっかり圧倒された。そのひとつには頂上まで登る階段があり、そこは昔豊臣秀吉による北条氏攻めの時、北条方の忍(おし)城を攻めた石田三成が指揮所として使った場所とのことだった。
 その日は群馬県との県境に近い羽生の「ホテルグランヴィア」という新しいホテルに宿泊し、夜はまたまた大宴会になったのは言うまでもない。
 翌日は,「埼玉古墳」の近くにある「古代蓮の里」に行った。ここは以前、ゴミ焼却場を作ろうとして掘ったところ「古代蓮」の種が発見され、その栽培に成功して今では大きな蓮池に一杯になるほどになったとのことだった。展望台から古墳群や蓮池を見渡せるのであるが、生憎、蓮が開花するのは6月下旬以降なのでこの日はそれを想像するだけだった。上野駅から1時間以内で来れる場所なので、蓮の開花季節にもう一度来ようと思った。
 その後、行田の川辺君の綺麗な店を表敬訪問した後に、近くのうどん屋で昼食を食べることになった。ここは昨年、43会の清水正さんが主催したミニトリップで大宮の鉄道博物館見学をやった時に、参加者が足を伸ばしてやってきたことのある店ということだったが、店に入るなり店の若女将から「八束さんじゃありませんか」と声をかけられてびっくりした。話を聞いてみると私が30年くらい前に伊勢丹の浦和支店に勤務していた頃に1階の売り場に勤務していた女性ということが分かり、よく覚えていたものだと再びびっくりした。
 その後は、川越に行って「喜多院」や蔵造りの町並みなどを見学し、最後は「川越駅」で解散となった。
 来年は私が幹事で、場所は伊豆半島、素晴らしい温泉とおいしい魚介類が食べられる企画を立案することになった。その結果はまた来年報告したいと思う。
                        (写真上「高岡製糸場」、下「埼玉古墳」)


    企画委員長を終えて

 さきの役員会で私は企画委員長を降りて松本光雄氏と交代した。思えば平成12年の「仙台の集い」の時に、前任者の龍門海行氏から次の企画委員長を指名され、早くも8年近くが経過している。当時の企画委員長は新年会、総会そして隔年に開催される地方の集いの企画が担当業務だった。私は、当時は伊勢丹に勤務していたので、伊勢丹の子会社の「バンケット」が新宿駅ビルにあるのを利用して新年会と総会はここで開催することにした。交通の便がよく、綺麗な会場だったので参加者からは喜ばれていたようである。地方の集いにしても、平成14年の「広島の集い」、平成17年の「新潟の集い」を担当したが、広島では現地幹事の平尾豊行氏が懸命に動員に協力してくれたこと、参加者の中に偶然3人の住職が居たことから思わぬ法話対決になったこと等が思い出される。また、新潟では現地幹事であり地元新潟交通の実力者である神林俊暁氏の力で素晴らしい新潟美人の芸者さんが参加して大いに盛り上がったことが思い出される。広島ではその後の宮島観光が楽しかったし、新潟ではその後の村上観光で飲んだ地酒の「太平盛」と、つまみの「鮭浸し」の味が忘れられない。
 私の企画委員長時代、普段の年ならなかったイベントが二つあった。ひとつは「白門43会10周年記念行事」として平成18年1月7日に開催した国立劇場での歌舞伎鑑賞会である。企画段階で不安だった動員数が蓋を開けてみると予想を遥かに上回る83名(会員46名、同伴者37名)と大盛況で、鑑賞後、隣の半蔵門会館で開催した新年会もそのあおりで95名が参加するという新記録となった。この企画を実施したのは10周年事業プロジェクトで、そのメンバーは龍門海行氏以下、中村武照氏、梅津久光氏、鈴木征夫氏、岡田孝子さんそして私だったが、暑い中、何度も国立劇場に行って田部支配人と交渉したことをよく憶えている。
 普段の年ならなかった二つ目は「留学生との集い」である。本番については、昨年11月に上野精養軒で留学生200名を集めて成功させたということで、会員の皆さんにも記憶に新しいところである。ここで特に述べたいことは、本番に至る前の実質3年間のことである。そもそも「留学生との集い」は、20年前から発足していた中大の大きな行事で、その後、年次支部が主幹事と副幹事で毎年開催するようになり、いずれは43会にもその順番が回ってくることはわかっていた。一番最初にこのことに気がついて、幹事会の度にその対策を主張したのは梅津久光氏である。その頃の「留学生との集い」はやたらに華美に走っており、平成15年に39会が主幹事で赤坂プリンスホテルで開催した時は経費が500万円以上もかかっており、100万円近い赤字を主幹事支部やその役員が負担していたということだった。43j会としては会の資金内容や最近の留学生が以前に比べてリッチになっていることなどから、そこまでして「留学生との集い」を担当する必要がるのかという意見が主流を占めていた。こうした意見は他の年次支部でもあったようで、平成17年の主幹事支部の41会では、当初動員力が落ちていた「ホームカミングデー」と同日に中大キャンパスで開催することとして年次支部協議会の了承を得たのである。そこで、43会としてはこれにオブザーバーで幹事を派遣してそのノウハウの吸収を図ることとし、佐藤勝氏を責任者とした10数名の幹事を実行委員会に派遣したのである。そして翌18年の42会が主幹事の時にも副幹事として主幹事を大きく上回る34名の幹事を実行委員会に派遣した。43会があまりにも熱心に行動するので、42会の松沼会長からは「43会はでしゃばりすぎ」とお叱りをいただいたほどであったが、当日の会場はほとんどが43会がメインで取り仕切ったのは事実である。
 しかし、中大キャンパスでの2回の開催はいずれも失敗で、経費は大幅に切り詰めたものの留学生の動員は100名を切る有り様となった。そのため平成18年12月の年次支部協議会では、「元のようにホームカミングデーとは分離して開催せよ。開催月は6月にせよ」と決議されてしまったのである。これには43会としても猛烈に反発し、「ホームカミングデーとの分離開催は受け入れるとしても開催月は11月に予定して準備をしているのでその変更は受け入れられない。どうしてもというなら主幹事を辞退する」と申し入れ、その後「赤坂プリンスホテルをもう予約してある」とか「金が不足ならいくらでも集めてやる」といった圧力があったものの、これらをはね除けて昨年の「留学生との集い」に至ったのである。この「留学生との集い」に事務局長として参画させてもらったことも今となってはいい思い出になっている。
 現在は重荷を下ろしてほっとしているところであるが、幹事や会員の皆様には長い間のご協力・ご支援を心より感謝したい。
 (写真上は宮島観光(後列右が筆者)、下は「留学生との集い」の事務局打合せ(中央右が筆者))


    下関ふくの旅

 昨年2月にこのホームページで「蟹とヘルペス」という文書を紹介してもらったが、今年もほぼ同じメンバー(43会メンバー3人と未入会の43年卒の2名)で、今度は下関にふぐ(河豚)を食べに行った。因みに、現地では「ふぐ」と言わずに「ふく」と言う。
 2月9日(土)の午後1時過ぎに、メンバーが全国から(私は東京、会員の菊地古志朗君は名古屋から、会員の高橋良洋君は岡山から、非会員のF君は新大阪から)それぞれ集合場所の新山口駅に集った。一番遠い私は、のぞみに乗ったにもかかわらず5時間もかかり、持参した「坂の上の雲」第1巻をほぼ読み終えてしまった。新山口では現地在住のS君が迎えてくれ、S君の息子さんの運転するVOXYで下関近くの「唐戸市場」に向かった。ここは関門海峡に面した大きな市場で、観光客でも新鮮な魚介類を安く食べることができるのである。手渡される紙皿に好きな寿司をとり、金を払ってそばのベンチで食べるのであるが、土曜日ということでベンチは満席だったので、外の植え込みの縁に座って食べた。ふく、海老、蛸など10種類くらいを食べたがいずれも新鮮でおいしく、熱いふく汁が付いて、1,500円で、とても安かった。
 その後、近所の赤間神社を見学したが、ここはその昔、源平合戦の古戦場「壇の浦」の目の前にあり、「壇の浦」で死んだ安徳天皇と、平家一門7名を祀ってある由緒ある神社とのことだった。「怪談」で有名な「耳なし芳市」の像もあった。
 宿泊したのは「海峡ビューしものせき」という国民宿舎だったが、国民宿舎と言ってもホテルと比べて何の遜色もない近代的な宿泊施設で、何よりも、関門海峡の一番狭い場所の小山の上に建っているので、窓から見ると眼下に絶えず船が行き来する様子を見ることができ、また本州と九州とを結ぶ関門橋も目の前に見えるという部屋だったのが感激だった。幕末の頃、攘夷思想に固まっていた長州藩がこの海峡を通過する外国船を砲撃し、その後連合国艦隊から厳しい反撃を受けて攘夷方針を変更したという歴史を知っていたが、その関門海峡がこんなに狭いとは想像していなかった。目測であるが、ほんの1キロメートルくらいしかなく、こんな近距離から船を砲撃して外れるはずがなく、どうして負けてしまったのだろうと不思議な気持がした。
 さてその晩はいよいよ「ふく」の宴会で、15,750円の「馬関ふく会席コース」が次々に出されてきた。まずはふくの煮こごりその他、そして大胆に並べられた「ふく刺し」、次は「ふくのから揚げ」、「ふくの茶碗蒸」などが出され、「ひれ酒」を飲みながらこれらを堪能した。係員の説明では全て「トラふく」とのことだったが、年に一度くらいしかふくを食べない私には、「真ふく」と「トラふく」の区別は付かず、ただおいしいと思っただけである。最後は「ふくチリ鍋」で、新鮮な野菜と一緒にふくのぶつ切りを煮たててポン酢に紅葉おろしを入れたタレに浸して食べるのであるが、流石に本場の味だと思った。仕上げは残った出汁にご飯を入れて「ふく雑炊」にして食べたが、東京では味付けに醤油を使うのであるが、ここでは塩で味付けしていた。皆、すっかりふくを堪能して大満足であった。
 翌日は、S君の息子さんの運転するVOXYで「秋吉洞」を見学した。鍾乳洞ということで、狭い洞窟を想像していたのであるが、実際はまるで東京ドームの中に入ったようで、その大きさ、広さにびっくりしてしまった。観光客の団体が何組か一緒に入ってあるが、中で自由にすれ違うことができるのである。感激した私は帰り道で「大理石の玉」と「珊瑚の化石入りの玉」を購入してしまった。直径数センチのものであったが、結構重く、バッグに入れるまではポケットの中でゴロゴロして往生した。
 その他には、当地の大名の毛利氏の前の大内氏の頃の本拠地だった「瑠璃光寺」を見学した。ここには素晴らしい五重塔があり、その古さと品のよさはこれまで見たいろいろな五重塔の中でも最高のものと思った。最後に、有名な絵描きの「雪舟」ゆかりの常光寺を見学した。「雪舟」が設計したとされる見事な庭などがあり、ここもなかなかよかった。
 そして午後3時26分ののぞみに乗って、またまた5時間かけて東京に戻ったのである。山口県は、明治維新の中心となった長州藩の本拠地であり、多くの有名人を出した土地であるが、観光地としては余り有名ではなく、私も通過はしたことがあるが観光したのは初めてであった。多くの政治家を出しただけあって道路や公園は広くきれいに整備されており、家並みも立派に見えた。特に、屋根瓦が素晴らしく、普通の民家でも瓦屋根の両端に鯱鉾のようなものが付いているのが面白かった。おいしい「ふく」を安く食べたい人、歴史に興味のある人には山口観光をお勧めする。
 (写真上は、左から私、高橋、菊地、F君、S君、 写真下は、瑠璃光寺の五重塔)


    道後温泉と砥部焼

 私が四国松山の道後温泉に行きたいと思ったのは、この年になってまだ四国に行ったことがなかったためと、現在の東京に在住の八束家の元祖である曾祖父が明治15年に松山市から出てきたという理由からである。以前にホームページで「八束家発祥の地は島根県の八束郡である」と書いたが、江戸時代中期に島根県松江の殿様が四国大洲に移封になった時に一緒に移住したらしいのである。
 家内と一緒に羽田から約1時間半で松山空港に降り立ったが、ここは戦争中、有名な海軍航空隊の基地があったせいか、なかなか立派な飛行場だった。30分ほどタクシーに乗って松山市内に到着したが、湯煙と武家屋敷などを想像していたのと違って人口53万人の近代的な都市で、百貨店も三越と高島屋が揃っていた。
 まずは松山市の中心部にある松山城を見学したのであるが、これは大きな平山城で、1603年に豊臣秀吉の武将の加藤嘉明(孫六・賤ケ岳の七本槍の一人)が建てて、その後徳川家康の異父弟である久松定勝が15万石の御家門大名として入り、幕末まで続いたのである。明治になってからも久松家は代々愛媛県知事として最近まで当地に君臨していたようである。この城は国宝である姫路城・彦根城・松本城・犬山城と比較して何の遜色もないのに1格下の重要文化財の指定になっているのは、1784年に落雷で本丸が焼失し、これが再建されたのが幕末の1854年だったためのようである。
 宿泊は「ふなや」という旅館で、旅行社の推薦で宿泊したのであるが、なかなか立派なもので、特に料理と風呂が素晴らしかった。あとで調べると、以前に天皇陛下が宿泊した宿であり、司馬遼太郎の「坂の上の雲」という小説に、憲法学者の植木枝盛がここに宿泊した時に正岡子規がおしかけて話を聞いたというくだりがあるほどの歴史的な宿だった。
 この旅館のフロントに頼んで松山市内の電話帳で調べたところ、八束という名前が43軒もあり、やはり松山が東京八束家のルーツであることが確認できた。
 翌日は、家内の希望で隣の砥部町に行って砥部焼を見学しようということになった。旅館専属のタクシーに乗り、途中「石手寺」という四国霊場51番目の札所に寄った。ここには89の霊場名が書かれた砂袋があり、これに触ると89の霊場を回ったことになるというので、1分たらずでこれを終えた。タクシーの運転手の説明では、この寺の謂われは、昔近くの城で手に石を握って生れた子供がいたことから付けられたとのことだった。とにかくこの運転手の田中さんはいろいろと勉強しており、まるでガイドのようにいろいろ説明してくれるのである。私は、砥部町までタクシーで行くが、その後は自分たちで自由に何十軒もある窯元を見学する予定だったが、田中さんの話では窯元が分散しており、歩いて回るのは大変とのことだった。また、砥部焼の原料の8割まで生産している工場にも案内するというので、この話に乗ることにした。
 その工場は川岸にある古い小さなもので、観光客は原則として入れないのであるが、田中さんの連れてきた客だけには見せるとのことだった。仲には原料の砥石がゴロゴロしており、これを角材が何本も上下する機械(昔は水車でやっていた)で細かく砕き、これにインドから取り寄せた粘土を加えて完成させるとのことだった。
 その後、一番大きな窯元の「梅山窯」に案内してもらい、原料から製品に、そしてあの独特の紺色の絵付けまでの行程も見学させてもらった。砥部焼は高価な飾り物の焼き物と違って家庭で日常的に使える極めて実用的なものなのだが、生産量が少ないので都内でもこれを売っている店は少なく、値段も1個2~3千円するのであった。しかしここでは少し安く販売しており、特にB級品というのが千円弱になっていた。B級品といっても別に何の遜色もなく、柄に濃淡があるとか、線に太い細いがある程度で、見た目にはほとんど分らないものである。家内と私は夢中で買い漁り、ダンボール1個分も買ったが、支払いは3万円弱であった。現在、わが家の食器は砥部焼で統一されている。
 松山出身の有名人は、司馬遼太郎の「坂の上の雲」の3人の主人公である。正岡子規、そして日露戦争で活躍した秋山兄弟(兄の好古は騎兵部隊指揮官として、弟の真之は東郷提督の参謀として)がおり、現地には「子規庵」「坂の上ミュージアム」とか「秋山兄弟生誕地」などがある。また、愛媛蜜柑に代表されるかんきつ類が豊富で、デコポンはまだ早かったのであるが、旅館で出された「小太郎」という小さな蜜柑がとてもおいしく、これも一箱自宅に送ってもらった。
 初めて松山市に来て感じたことは、松山の人がのんびりしているということである。何事にもせかせかしないでおっとりしているのは、徳川三百年の間、「御三家」に次ぐ「御家門」という優遇された藩として、何の心配もなく豊かに過してきたためと思う。
 従って、温泉に浸かってのんびりとした時間を過ごしたいと思う人には、道後温泉は最適だと思うので、皆さんにもお勧めしたい。
 [参考]
 旅行日程: 平成20年1月31日(木)~2月2日(土)の2泊3日
 費   用: 往復の航空運賃+宿泊費で15万円(二人分)
 坂の上の雲: 司馬遼太郎著 文春文庫(580円)全8巻
 


    私のデパートマン時代(その6)──部長時代③

 私の最後の職場は関連事業担当という部署で、これは当時十数社あった伊勢丹の子会社を統括するのがその役目でした。どれも業績が余りよくない小さな会社ばかりでしたが、小さくても会社としての管理体制は整える必要があり、私はこれらの会社の法的基盤作りを担当しました。
 また、子会社の役員の多くは伊勢丹本社からの出向者が占めており、関連事業担当の上級者はこれらの子会社の取締役や監査役をいくつも兼任するのが常でした。私も何社かの取締役や監査役を兼任しましたが、報酬が出るわけではないのでそれこそ名前だけの役員でした。子会社の役員になってみてよくわかったことは、親会社の横暴、言葉を変えれば子会社の悲哀ということでした。例えば、子会社の社員の賃上げについて言えば、子会社の業績がよくてもその時の親会社の業績が悪ければ賃上げは認められません。両方がいい時にのみ賃上げが認められるのです。また、親会社の都合によって子会社の役員が増減されることも日常茶飯事です。私は、子会社の役員・従業員にはできるだけ親会社風を吹かせることのないように接してきたつもりですが、子会社には行きたくないと思いました。
 ここで経験したことは、会社経営や営業、リストラ等で、規模は小さいものでしたが、それだけによく理解できるし、改善するのも容易でした。
 子会社の一つにスーパー業があり、私はここの監査役でしたが、ここでは何店もの新規出店を経験し、その結果も完全に把握できる立場にあったので、どのような立地でどのような規模の店を出すのがよいというようなことがよくわかりました。私が現在でもスーパーでの買物が大好きなのもこうした理由からです。
 また、ワインを中心とした食料品の輸入業の子会社の役員になった時は、ワインやチーズの知識を得ることができました。その会社の紹介で当時学生だった娘とお台場のビッグサイトでのワインフェアに行ったのですが、試飲の仕方がわからず、出されたワインを飲み干し続けたので親子してヘベレケになったという失敗もありました。
 小さい会社でも事件はよく発生し、これを処理するのも私の役目でした。印象に残った事件としては、レストラン業の子会社が経営する仙台の店で食中毒が発生して営業停止になったのですが、冷蔵庫に残った食材がもったいないと店長以下でこれを食べて全員が食中毒になるというあきれた事件がありました。
 また、スーパー業の子会社のある店の事務所から、夜間に金庫が盗まれるという事件がありました。金庫は100kgほどの重いもので、これを事務所の2階から狭い事務所内を通って階段から蹴落とし、入り口に乗り入れた車に乗せて持ち去ったのですが、それに要した時間が2分ほどという手際のよさで、これには驚きました。
 また、スーパー業の子会社のパン工場で、従業員が機械に挟まれて手首から切断されるという事故がありましたが、同僚の女性がその手首を氷につけて保存し、本人と一緒に病院に持ち込んで繋げてもらったところ、これがくっついたという信じられないこともありました。この女性従業員はその素晴らしい行動について表彰してもらいました。
 慢性的に業績が悪かった2つの子会社については、会社組織や人事制度の見直しとともにリストラを実施することとし、コンサルティング会社と契約して希望退職を募りました。結果的には、このリストラは成功し、現在この2社は息を吹き返して黒字経営に転換しました。
 私は、伊勢丹在職中は、自分のためになる経験や滅多にない体験を次々に積み重ねることができ、大変幸運だったと感謝するとともに、とても楽しかったと思っています。


    私のデパートマン時代(その5)──部長時代②

 秀和問題が終わり、総会屋のアプローチも少なくなったため、株式担当も「狡兎死して走狗煮らる」の例えのように、別の活路を見出すこととなり、法務担当と合体して通常時は社内の法的トラブルの解決に当たることになりました。会社と顧問契約を交わしている弁護士・弁理士事務所との窓口として、伊勢丹及び伊勢丹グループすべてのトラブルに関与することになり、これもまたとてもいい経験となりました。
 百貨店には苦情はつきもので、毎日のように問題は発生しています。普通は店頭の責任者レベルで解決できていますが、少し大きくなると店レベルで対応することになっています。法務担当に上がってくるのは更にこじれたトラブルで、この場合は弁護士や所管の警察等と相談したりします。また、店頭に出ている商品が他人の権利(商標権等)を侵害していると指摘されるような場合には弁理士と相談します。私の役目は、店頭側と弁護士・弁理士との間に立つ通訳のような立場で、これを解決させる方向に導くことなのです。この業務を数年間経験したことにより、法律的なものの考え方、法的問題の解決方法などがかなり修得できたと自負しています。
 ひとつの例として紹介します。伊勢丹の子会社のクリーニング会社から「通産省の役人から苦情を受けて困っている」という相談を受けたのです。日頃から難しい人だったようですが、今回は公務でロンドンに行った時、クリーニングしたはずのワイシャツに染みがあって恥をかいたのでどうしてくれる、対応によっては伊勢丹の社長を通産省に呼びつけて注意すると言うのです。私はこれを聞いておかしいと思いました。通産省のキャリアがこのような些細なことで伊勢丹の社長を呼びつけるぞと言うはずがないからです。
 そこで私は「相手は通産省のどこに所属しているのか聞き出せ」と指示し、「外事課」という返事を得ました。電話帳で調べると通産省には外事課がないことがわかりました。そこで次に「相手の実際の勤務先を突き止めろ」と指示したところ、相手はM市役所の主任ということが判明しました。そこで私は「M市役所に行ってその主任に挨拶だけしてくるように」と指示しました。結果は、相手はびっくりしてもう二度とクリーニングの依頼には来なかったとのことでした。
 こうした種類の問題はいくつもあり、その原因は、ストレス社会ではないかと思います。先の例の市役所の主任は、日頃から面白くない職場でストレスを溜め、それを発散するために「お客様は神様です」がモットーのクリーニング屋に行き「自分はこのようなエリートである」と名乗ったら思いがけない丁重な扱いを受けて気分がよかったのだと思います。それだけなら何の問題もなかったのですが、これはエスカレートする運命にあり、最後は非常識な要求、無理な苦情といった方向に進んでしまうのです。こうしたことは現在、小売業のみならずサービス業全体に多発しており、航空会社のように「問題顧客リスト」を作っているところもあるようです。こうしたケースでは、ある限度を越えた要求が出るようになったところでこちらもやんわり押し返す(反撃・拒絶)ことが必要なのです。そうしないと最後は恐喝罪とかの警察沙汰にまでエスカレートしてしまうのです。
 私も長年小売業に勤務しており、また法務担当でいろいろ経験してきたので、現在のように毎日が日曜日的なのんびりした生活をしていても、スーパー等で買物をした時とか、レストランで食事をした時など、ちょっとした扱いにムッとすることがあります。小さなことは我慢しますが、我慢できない時は厳しく追求します。こちいらはその道のベテランなので、どこをどのように攻めれば効果的かよくわかっているので、私に攻められたら相手は謝るしかありません。


    蟹とヘルペス

 最初にお断りしておきますが、このタイトルから、蟹を食べ過ぎるとヘルペスになるというように誤解されないようにお願いしたいと思います。私の場合、このふたつがたまたま同時進行したということだけなのです。
 まずは「蟹」ですが、私が在職中に友人から聞かされた「味なら松葉蟹、それも城崎(きのさき)の蟹が一番」という言葉でした。城崎がどこにあるか調べると、何と兵庫県の日本海側の町だということがわかり、それなら松葉蟹(いわゆる、「ずわい蟹」)が獲れても不思議はないと納得しました。
 数年前から中大の国際関係研究会(厳めしい名前ですが文化連盟に属した遊びクラブ)の同期と毎年グループ旅行することになり、今回は京都出身者が幹事だったので、城崎の蟹と天橋立観光の一泊旅行が実現することになったのです。メンバーの中には、43会会員の行田の川辺君や名古屋の菊地君、岡山の高橋君が含まれており、昨年は菊地君が幹事で木曽川の鵜飼、一昨年は高橋君が幹事で京都観光をしています。今回の旅行は、2/10~11の日程で、参加者は川辺、菊池、私と他2名の5名でした。
 京都駅に10時集合ということで、朝早い新幹線に乗りましたが、前の晩から変な頭痛がしており、車中の2時間半は何となく憂鬱でした。京都から電車を乗り継いで、日本三景のひとつ「天橋立」に行きました。松島は何回も行ったことがあり、宮島も43会の「広島の集い」の時に観光しましたが、天橋立は初めてでした。大きな入江が松林の続く細長い半島で分けられており、これを近くの山の展望台から股覗きで見ると絶品とのことでしたが、正直言ってそれほどの感激はありませんでした。
 そしてその夜、城崎温泉駅の隣の「竹野」という駅から送迎バスで10分ほどの「後藤旅館」という民宿で蟹を食べたのです。風呂から上がって食堂に行くと、テーブルの上の直径50cm位の大皿に蟹が何段にも積み上がっていました。「これが5人前ですか」と尋ねると「そうです」との答えで、まずはその迫力にびっくりしてしまいました。
 あとは、ひたすら蟹を食べるだけで、まるで東北の椀子そばのように、民宿の女性が次々に各人の小皿に配ってくれるのです。それを刺し身や焼いて食べたり、土鍋のタレの中にシャブシャブして食べたり、蟹味噌を付けて食べたりで、食べおわって後ろの洗面器のような容器に殻を捨てるとまた次のが配られるといった調子で、民宿の女性が「ビールなんて飲む暇はないよ」と言うのがよくわかりました。普通は細い手足の蟹肉をほじったりしますが、ここでは食べやすい部分だけ食べて、まだ蟹肉がある部分は鍋に放り込むのです。そうして最後は蟹味の濃い雑炊で仕上げましたが、余りのおいしさに私は4杯も食べてしまいました。ここの松葉蟹はまるでタラバ蟹のような大きさで、これが一人2匹分づつということで、これで宿泊費込みで1万6千円というのはびっくりでした。
 翌日になり、右の頬にニキビのようなものができ「蟹の食べ過ぎで吹き出物ができた」と思っていたのが、帰宅してからもどんどん広がるので、病院に行って診察を受けたら「帯状疱疹(ヘルペス)」とのことでした。これは子供の頃にかかった「水疱瘡」の菌が疲れなどで身体が弱った時に暴れ出すものだそうで、抗生物質の投与で約1週間ほどで落ち着くのですが、何分にも顔面なので外出はできなくなります。また、治っても数日はかさぶたが残って人前には顔を出せない状態となります。これは誰もが罹る可能性があるものなので、もし変な頭痛(首の付け根が間欠的にズキンとする)や、顔に吹き出物が出た時は、早く皮膚科に行くことをお勧めします。最後に、もう一度言いますが、蟹の食べ過ぎと帯状疱疹(ヘルペス)とは関係ありませんので誤解のないように。
(写真上は「天橋立観光船」、左から川辺君、菊地君とS君、F君、下は「後藤旅館の前にて」、左から八束、S君、F君、川辺君)
 


    私のデパートマン時代(その4)──部長時代①

 7年にわたる楽しい浦和店勤務を終えた後、今度は本社総務部の庶務担当部長ということで新宿に戻りました。職務内容は浦和店の総務部の頃と同様でしたが、規模が全く違いました。例えば、商店会ひとつとっても浦和では地域にひとつでしたが、本店の場合は東西南北がすべて違う商店会でしたし、警察も浦和では浦和署だけでしたが、新宿では隣接の新宿署や中野署、場合によっては警視庁とも付き合う必要がありました。私は誰よりも早く出勤し、誰よりも遅く退社し、休みも月に3日程度という状態に陥りました。宴会や会合はほとんど毎日で、1日に2件の宴会ということも稀ではありませんでした。また、新宿では伊勢丹は必ずしも地元から好意を持たれておらず、地元の商店の親父から宴会等で「おい伊勢丹、お前にいいたいことがある」などと絡まれることもよくありました。そうした時には、絶対に酔わないように酒を殺して飲むため、終わった後にまた飲み直す必要があり、そうしたことが続いて身体が徐々に壊れていくのが分かりました。
 店内における担当業務も多岐にわたっており、上司からは「君の守備範囲は伊勢丹全店の隅から隅までである」と言われていました。屋上に毎日揚げる国旗と店旗が逆様になっていないかとか、当時店内に闊歩していた巨大な鼠の駆逐とか、店内に密かに”人糞”を置いていく変人(慶大卒のインテリでした)を突き止めたり、雪が降ればこれをトラックに積み上げて駐車場ビルの屋上に運ばせたりといった感じです。
 そうこうしているうちに、伊勢丹の株式を秀和とう会社が買い占め始めたということで大騒ぎとなり、私は急遽株式担当に異動となりました。異動当初は秀和が買い占めていた伊勢丹の株数が不明で、それがどのくらいなのか情報収集して急遽設置された特別委員会に報告するのが株式担当の役目でした。一時はライブドアと村上ファンドなどがM & Aで有名になりましたが、私はその十数年前に同じことを経験した訳で、会社の経営者にとっては命が縮む思いだったと思いますが、1サラリーマンである自分には買い占め側の攻め方、こちらの防衛策とかを実際に体験できる訳で、これはとても勉強になりました。結論的には、借金で株の買い占めをしていた秀和側がバブル崩壊によって弱り、一時、ダイエーやイトーヨーカ堂に転売しようとしましたがこれにも失敗し、大きな損害を承知で伊勢丹の指定する会社に伊勢丹株式を譲渡することでこの問題も解決しました。
 秀和問題が終わると、株式担当は本来の株主総会の準備という業務に戻りました。伊勢丹は総会屋への利益供与が禁止されてから当局に摘発された1番目の会社だったので総会屋も遠慮して余り来ることはありませんでしたが、来ても「ご承知のように私共は摘発第1号ということで、現在も保護観察の身なので何もご協力できません」と言えるので楽でした。中には「もうそろそろいいんじゃないの。他社では昼飯くらいは出すよ」と言ってくる総会屋もいますが、その時には毎年6月の総会シーズンに出される「過去の摘発会社」という新聞記事を見せて「このように社会は決して忘れてはいません。従って、お茶以外は出しません」と言って帰ってもらいました。
 また、当時は荒れる総会──議長席に突進したり、議長に物を投げたりといった──が多かったので、折り畳み椅子を投げられないように椅子の足を電気コードを束ねるクリップで括ったり、総会のリハーサルには全役員にバインダーを持たせて株主席からゴムボールを投げてこれをたたき落とす練習もさせました。幸いなことに、私の在任中は伊勢丹の総会はそのように荒れることはなく、平穏無事に終わることが多かったのですが、私個人的には役員もたまにはそのような修羅場を経験してもよかったのではないかと思っていました。


    私のデパートマン時代(その3)──課長時代

 本社の労務係長を3年ほどやった後、私は新たに浦和駅前に開店した支店の人事課長に転出しました。この店は、「全国の県庁所在地で百貨店のない市は」というクイズ番組で、その答えが「浦和市」ということを知って慌てた市長からの要請に基づいて出店したもので、当初は年間売上が200億円と予定されていたのに、実際には250億円を突破するほどのよい店でした。売上が予定以上になると今度は人手が足りません。私は人事課長として何百名かの学生アルバイトと婦人パートを採用しなければならず、毎日何十人と面接していました。慣れとは恐ろしいもので、この時期の私は被面接者を見ただけでその能力・性格の半分は分かってしまい、二言三言やりとりすればほぼ間違いなく90%は見抜けるようになりました。
 3年間、人事課長をやった後に今度は総務課長に横滑りしました。このポジションは、経理課長も兼任で、金庫番から役所・商店会などとの付き合いの窓口ということでその守備範囲は恐ろしく広いものでした。浦和市では毎年「ミス浦和」コンテストがあり、浦和店からは毎年1名が選ばれていましたが、これも総務課長の楽しい仕事のひとつでした。日頃から店内の女子社員をよく見て歩き、候補者を選んでおくのです。当時の浦和店には300名からの女子社員がおり、その平均年齢は20歳でかなりの美人がいましたので、選考に困ることはありませんでした。候補者は埼玉新聞に掲載され、この時点で浦和店代表より綺麗な人もいましたが、面接の段階に進むと熟練の教育担当からしっかり仕込まれた浦和店代表にかなうはずがありませんでした。「ミス浦和」になると身分は準公務員ということで、市のセレモニーに参加することになります。当時の浦和市長は「お祭り市長」と言われた人で、何かといえば「ミス浦和」の出動を求めてきました。私の立場はさしずめ「ミス浦和」のマネージャーといったところでした。
 その他にも、浦和市長や店長から「女性神輿を出したいので人選しろ」とか「正月に店頭で琴を弾かせたい」とか「クリスマスに店頭でピアノの演奏をさせたい」といった要望が次々に出され、私としては記憶の中から神輿担ぎの好きな女性、琴の弾ける女性、ピアノの演奏に相応しい女性を選んで本人を説得するということが毎日でした。圧巻は夏に開催される「浦和踊り」で、これには浦和市から大小100近い連が参加するのです。1ヶ月以上前から人選し、SKDの振付師を呼んで開店前と閉店後に社員食堂で練習するのです。流れる音楽は浦和音頭1曲だけなので、毎年振付を変える必要があり、これを一糸乱れずに踊るには厳しい練習が必要となるのです。本番は、閉店後の6時頃で、商店街のメイン道路約400mを「伊勢丹連」が他の連に続いて踊りながら通ります。伊勢丹の若い女性が揃いの浴衣に飾りを付けた網笠を被ってきっちり踊るので、見物人は大喜びです。踊りの他にも浦和店としては、専門のイベント業者に作らせた沢山の電飾を付けた山車を引いたり、ある年には80名からの女性の踊り手の身体にバッテリーを付けて沢山の豆電球を点灯させたりしました。踊りの先頭集団は店長以下の浦和店の幹部社員で、私も2列目の左端が定位置でした。何故なら、見物人の中には地元に顔見知りが大勢いるのでそれらの人から声を掛けられた時に挨拶する必要があったからです。とにかく「伊勢丹連」の人気は高く、前日から「伊勢丹連は何時に出るの」といった電話が多くかかるし、翌日には多くの人から当日のスナップ写真が届けられたりしました。
 その他、独身警察官との「お見合いボーリング大会」を開催して警察署長から感謝状を貰ったり、物品税協力会の事務局長として店内で「間接税展」を開催して税務署長から感謝状を貰ったりで、楽しく忙しい7年間でした。


    木曽川と長良川の鵜飼

 この7月に、はからずも、2週間の間に木曽川と長良川の二つの鵜飼を経験したので、これについて紹介したいと思います。

○ 木曽川の鵜飼(7/8~9)
 中大の国際関係研究会の同期6名で毎年小旅行をしていたのですが、たまたま今年は愛知県在住の43会会員の菊地君の担当で、「功名が辻」に因んでのお城巡りと木曽川の鵜飼ということになりました。菊地君と私以外にも、埼玉県行田の川辺君と,岡山県の高橋君(広島の集いの時に法話をしてくれた住職)は43会会員という構成でした。
 初日は名古屋城~清洲城~犬山城を見学し、木曽川の川岸の「迎帆楼」というホテルに入りました。早めの夕食を終え、7時半頃に浴衣のままでホテルの下に到着した乗合の舟に乗り、ゆっくりと上流に向かいました。合流地点では数隻の舟が待機しており、やがて鵜匠を乗せた舟がその真中に入ってきました。鵜匠の舟は大きなかがり火を焚いており、10匹ほどの鵜がまるで舟を引っ張っているように泳いでいました。そして鵜が水中に潜り、魚を捕まえて浮き上がり、上を向いてこれを呑み込みます。これを見た鵜匠がこの鵜を舟に引っ張り上げて魚を吐き出させるのです。いくらかがり火があるとはいえ、暗い水中でよく魚を見つけるものだと感心したら、「鵜の目、鷹の目というほど目がいいのさ」と船頭さんに言われました。舟には外人客も何人かおり、動物虐待などと言われるのではないかなどとつまらない心配をしてしまいました。30分ほどで鵜飼は終り、鵜匠(彼らは犬山市役所の職員で、鵜は市の嘱託とのことでした。)から簡単な解説がありました。私としては初めての経験でしたが、それほどの感激はありませんでした。

○ 長良川の鵜飼(7/17~18)
 伊勢丹の同期で作っている「しそのみ会」(四十三会)は、定年退職者の送別会をやっていましたが,全員が卒業したので今度は旅行会に変身することになり、第一回を長良川の鵜飼でやることになりました。暇人ということで、私ともう一人が幹事として下見することになったのです。現地岐阜には「しそのみ会」会員で、手広く観光業、本屋などをやっているS君がおり、すべての手配を整えてくれていました。S君が経営する金華山の岐阜城を見学した後、長良川の川岸の「十八楼」というホテルに入りました。本来ならここから舟に乗って鵜飼見物するところでしたが、当日は大雨で川が増水して鵜飼は中止になってしまいました。しかし、現地の有力者S君の手配で鵜匠の家に行ってマンツーマンで説明を受けることになりました。鵜匠の家は川岸の立派な家で、そこのあずまやで待っていると鵜匠が装束を着けて現れ、火の子から身を守るための頭巾や濡れた舟の中でも滑らない半草鞋などについて説明してくれました。また、鵜飼が奈良時代からあったこと、当時は軍隊と共に行動した食料調達係だったことなども教えてくれました。鵜の寿命は18年位で、渡り鳥として飛来したところを捕らえて3年位訓練し、あとは死ぬまで鵜飼をやらせるとのことでした。長良川の鵜飼は、木曽川のそれと違って皇室による外国からの来賓に対する夏の公式接待行事になっており、そのため鵜匠の身分は宮内庁式部織という国家公務員とのことでした。さしずめ鵜も準国家公務員ではないかと思います。また、鵜の首に掛ける紐は、その日の鵜の体調によって加減するようで、小さい魚などは胃袋に入っていくという説明を聞き、何かホッとしました。S君の話では、鵜飼の本当の遊び方は、舟を貸切にして、綺麗どころを何人も侍らせ、中で酒・肴を楽しむのだそうで、本番の時にはS君が綺麗どころを何人か用意してくれるそうなので今から楽しみにしています。いずれにしても、めずらしい体験をしたと思っています。


    私のデパートマン時代(その2)──係長時代

 婦人服売場で1年、服飾研究所で3年ほど勤務した後、初めて導入された係長昇格試験に合格して係長になりました。勤務先は吉祥寺店の婦人服売場の販売係長です。普通は売場の係長代行を経験してから就任するポジションなのに、新入社員の経験しかない私ではどうすればよいか分からず、たちまち売場の人間関係が滅茶苦茶になってしまい、2年ほどで新宿店3階の婦人イージーオーダーの販売係長に更迭されました。このポジションは古手の係長用のもので、若手の私にとっては左遷に他ならなかったのですが、吉祥寺店の人間関係で苦労していた私にとっては実に楽しく勤務することができました。そして、定例の人事部への自己申告の時に、落ち目になっていた婦人イージーオーダー再建のための論文を提出したのですが、これがたまたま婦人イージーオーダー出身の労務課長の目にとまり、私は労務係長に異動となったのです。
 ここでは、労務管理や組合窓口といったルーチンワークに加えて、社員の不正行為の調査といったことも経験しました。伊勢丹は、社員が会社の信頼を裏切った場合には、例えそれが僅かな商品や金銭の持ち出しでも諭旨解雇が普通でした。こうした容疑者から事情聴取し、報告書にまとめて会社・組合の承認を得るという仕事ですが、相手も必死ですし、こちらも警察ではないので余り厳しくはできず難しいものでした。顔見知りの若い女性社員などが涙ながらに告白したりすれば、こちらもついホロリとして「彼女の不正には同情すべき点がある」などと上司に報告した後、ベテランの先輩が再調査し「君が聞き出した内容はすべて嘘だったよ」などと言われることが度重なり、一時私は人間不信に陥ってしまい、今でも他人の言うことを全面的に信じることができません。
 また、社員が身分証として持たされているクレジットカードでも買物をしすぎて支払ができなくなるというケースが多発していました。3ヶ月も滞納すれば、本人を呼びつけて厳重注意ということになるのですが、それが分かっていて回避できないのはその前にサラ金に手を出しているからです。次にはサラ金の返済ができなくなり、更に別のサラ金にたらい回しされるという蟻地獄に落ちてしまっているのです。本人を呼びつけて「サラ金からはどれだけ借りているのか」とカマをかけると大抵は「A社とB社で50万円」というように答えます。そこでその内容を紙に書かせた上で「あと何社あるのか。正直に答えないと預金通帳などを調べるよ」と言うと「実はC社とD社からも50万円」というように白状してくるのです。これでも全部ではないと思っていますが、おおよその金額は推測できるのです。
 新入社員の採用面接を、応援で労務担当が行うことがあります。大学生や短大生の面接は、カラオケが好きと聞けば「1曲歌ってごらん」などと楽しいものですが、高校生の場合はこちらが緊張します。事前に「親の職業や宗教などの本人に関係ないことは質問しないように」と採用担当から指導を受け、面接官2名に対して被面接者3名という体制でやるので、質問とメモを手分けしないと効率よくできないのです。なぜこうした方式なのかと言うと、被面接者が自分から「自分の家は八百屋をやっていて接客が楽しいので伊勢丹を希望した」と発言した場合は「私は貴方の家の職業は何かという質問はしていませんでしたね」と言って他の2人の被面接者の同意を得なければならないからです。彼女達は学校に戻ると担任の教師から何を聞かれたかと質問され、不適切な質問だとたちまち企業が抗議されるのです。「今日、家を出る時にご両親は何と言って励ましてくれましたか」という肩慣らし的な質問も「両親の揃っていない者への配慮を欠いた質問」として禁止されているような状況なので、面接官も楽ではありません。


    私のデパートマン時代(その1)──新入社員時代

 私は、昭和43年に中大を卒業して㈱伊勢丹に入社し、昨年9月に37年の勤務を終えて定年退職した訳ですが、伊勢丹入社の経緯は実にいいかげんなものでした。現在、白門43会会員である川辺秀夫君と私は、共に「国際関係研究会」というクラブに所属していて仲がよく、就職活動も一緒にしていました。但し、希望先は私が公務員で、川辺君がデパートでした。ところが運命のいたずらで、私が伊勢丹、川辺君が埼玉県庁ということになってしまったのです。私はそのままデパートに止まったのですが、川辺君は我慢できず、うまいこと現在の行田のデパート経営者に婿養子の形で入って初志貫徹したのです。
 私は、公務員になるはずが、伊勢丹の新宿本店の婦人服売場に配属されてしまい、毎日がびっくりすることばかりでした。婦人服のことなど全く無知でしたが、売場のお姉さん達が親切に教えてくれ、何とか毎日を過ごしていました。私は小学校から高校まで男子校で、中大も女性がほとんどいない法学部だったので、1:10の比率で女性が多い職場では圧倒されてしまい、化粧品の匂いに満ちた社員食堂では食欲が無くなるし、明け方までチークダンスが続く売場旅行ではクタクタになっていました。そんな女性に対する恐怖心を更に強めることになったのが、レディークローバーバーゲンでした。当時は、婦人の既製服がまだ出始めの頃で、普通体型は5号~13号という5つのサイズで品揃えがされていました。13号以上の人は値段の高いオーダーで作るしかなかったのですが、伊勢丹は13号以上の肥満体の女性対象のレディークローバー売場を展開して好評を得ていたのです。そのためシーズン末のバーゲンは大変な人気で、私達新入社員はバーゲン会場を担当するのが役目になっていました。売場は投込台という縦横1.8m×0.6mのスチールの台を何台も設置し、ブラウスとかスカートとかはその中に山積みにします。ドレス・スーツ・コートなどはハンガーに掛けて6尺パイプに展開します。そして、移動式の試着室を何台かと勘定場カウンターとレジを用意すると売場は完成です。
 朝10時と同時に1階の全ての入口が開けられるのですが、3階の会場のスチール台の後ろに立つ私達の耳には、ドドドという地鳴りのような音が聞こえてくるのです。やがてエレベーターやエスカレーターにも乗らずに駆け上がってきた肥満体の女性群が売場に殺到して来ると、商品を満載した重さ100キロに近いスチール台が自分の方に押されてくるのです。私達はあわててスチール台と壁との間から脱出します。次に女性群は何点もの商品を抱えて試着室に入るのですが、たちまち行列ができます。その時女性群のとる行動としては、その場で着ている服を脱いで試着を始めるのです。こちらとしては、どぎまぎして目を逸らせたりするのですが、彼女達は何も気にしない様子で、私の腕をむんずと掴んで「ちょっとお兄さん、計ってちょうだい」と下着になった胸を突き出してくるのです。婦人服売場の販売員には1.5mの紐のメジャーが支給されているのですが、これだと使い終わった時にいちいち手で巻き戻さなければならないので、規則違反でしたが、私は1メートルのスチールの自動巻尺を使っており、普段でしたらこれで十分なのです。ところがレディークローバーのお客さんにはこれが通用せず、1m以上のデカパイの人が多いのです。あわてて同僚から1.5mのものを借りて計ろうとしても今度は手が回りません。そこで鞭のように、女性の身体に沿ってメジャーを叩きつけ、巨体をぐるっと回ってきた先端を左手でつかみ「お客さま、バスト120cmです」とやるのです。
 そんなこんなで悪戦苦闘しましたが、今考えてみれば楽しい、恵まれた環境だったと思っています。婦人服売場には1年ほど在籍し、その後は伊勢丹服飾研究所という婦人服のオリジナル製造部門に異動となりました。



     毎日が日曜日(その5)──鬱病対策について

 その2の「心身の健康管理」の中で、鬱病について多少書きましたが、今回は自分の経験に基づいてもう少し詳しく紹介したいと思います。
 私が30代で伊勢丹の人事部・労務係長をしていた頃の話です。労務という課は、社員の労務管理を行う傍ら、人事・教育・厚生課などが扱わないその他のややこしい問題を担当していました。その中に精神的に病んだ(鬱病の)社員対策も含まれていました。当時の伊勢丹には、このような人が十数名存在しており、その人達をどのように管理すべきかを社内外の多くの専門家の意見などを聴きながら検討していました。その中で、国鉄病院で聞いた話に一番感銘を受けました。当時の国鉄にはこのような人が数百人存在していたのですが、その対応策の基本は「できるだけ親身になって接する」ことだと言うのです。また、鬱病というのは風邪と同じ病気で、早めに専門の医師の治療を受ければすぐに治癒するとも言われました。当たり前のようにも聞えますが、当時は鬱病に罹った人は、通常どこの勤め先でも冷たく扱われ、家庭内でも「しっかりしなさい」と励まされるだけで、中には「世間体があるので精神科などには行かないで」などと言われているのが実態で、これでは治る病人も治らなくなってしまいますし、本人も自暴自棄になってしまうのです。
 その後、数年して、私は浦和支店の人事課長となり、労務時代の経験を駆使して恙なく業務をこなしていましたが、3年後、同店の総務課長に異動しました。総務は人事と全く違って、役所や商店街の人達との付き合いで社外を飛びまわる毎日でした。自分ではこの大きな変化を楽しんでいた積りなのですが、総務課長になって半年後、久しぶりに休暇をとった時にそれが起きたのです。年齢的には40歳になったばかりの時です。
 9月ということで子供達も幼稚園に行っており、久しぶりに身体を休めて読書でもしようとベッドで本を読み始めた時です。何か喉に違和感があり、腫れているような感じがしていたのですが、それが急に息苦しくなってきたのです。私は小さい頃から喉が弱く、風邪に罹ると喉が痛くなるのが常でした。ところが、この時は痛みではなく息が詰まってきたのです。すぐに行きつけの耳鼻咽喉科の医者に診てもらったのですが「喉が少し腫れているだけ」という診断で簡単な薬を塗ってくれただけでした。ところが家に帰ると息がますます詰まってきてこのままジワジワ窒息するという恐怖感から脂汗が出てくる始末です。これでは堪らないと別の耳鼻咽喉科に行くと、年配の女医さんが「貴方は大分疲れていますね。疲れは身体の弱い部分、例えば、胃が弱ければ胃痛、腸が弱ければ下痢という形で出てくるのです。貴方は喉が弱いのではありませんか」と言ったのです。ここで私は鬱病に罹っているということに気がつき、すぐに会社が契約している精神科の病院に行って自分のこのような症状は鬱病の初期症状と思うがどうかと質問しました。医者はその通りとの返事でした。そして「この薬をまた症状が出そうな時に飲みなさい。別に飲まなくても常時携行していれば安心できるはず」と言って坑鬱剤を1袋くれたのです。事実、その後、2~3回は飲んだ記憶がありますが、あとは常時携行していただけで、そのうちに砕けて粉になってしまいました。
 この時、自分に労務係長時代の経験が無かったら、また年配の女医さんにそれを指摘されなかったら、会社や家族から冷たく扱われたり、意味なく励まされたりして余計おかしくなり、最後は自殺していたと思います。定年退職は人生にとって大きな転換期ですし、若い時と違ってその変化に耐えられない場合もあります。皆さんも何かと心配事などがありましたら「もしかして鬱病ではないか」と疑って、気軽に専門医に相談することが大切だと思います。



     毎日が日曜日(その4)──定年退職後の投資

 
前回の「定年退職後の生活設計」の中で、貯金や退職金の運用で失敗しないようにと書きましたが、今回はこの点についてもう少し詳しく紹介したいと思います。
 定年とともにある程度の纏まった金額が退職金として手に入ります。これをどのように運用するかということですが、安全でいざという時に比較的引き出しやすい銀行の定期預金を誰もが思いつきます。しかし、超低金利時代にあって、例えば1千万円を1年間預けた時、利率は0.03%なので1年後に受け取る利息は3千円(税引後2千4百円)にしかなりません。これでは投資とは云えず、おみやげ付無料貸金庫に預けたようなものです。その他の投資先としては、株式、投資信託、外貨預金、国債などとなります。株式は皆さんご存知のように元本保証はなく、ある意味で博打的なところがあります。バブルの時のやりすぎの反省で、証券会社もそれほど執拗に購入を勧めたりしなくなりましたが、それでも自分がしっかりとした知識と方針を持たないと失敗します。定年退職後の投資なので、それほど欲張らず、安全で高配当の株式を購入するのが一番です。私は在職中に株式担当をしていたのである程度の知識を持っていますが、それでも失敗して1千万円程度の損失を被った被った経験があります。現在は、電力株に投資していますが、1千万株が約2百万円で、配当金が5万円(税引後4万円)なので、1千万円で5千株購入したとすると、手取りで20万円の配当を貰えることになり、銀行の定期預金に比べて格段に高い投資効率となります。
 次の投資信託については、国内外の株式・債権などに幅広く投資するので、危険は分散されますが、それだけにローリターンとなるようです。現在、株式のリスクや銀行の超低金利を嫌った多くの人が投資信託に流れ込んでおり、私も一部の資金をこれに投入していますが、今のところは「かったるい」状況です。
 次に、銀行や証券会社が勧める外貨投資ですが、日本の銀行の超低金利に比較して遥かに高い利率というのは確かに魅力的です。但し、これは為替相場という難関を突破できた時の話で、折角の高い満期利息もその時に円高になっていれば余り期待できません。また、外国の銀行がからんでいる場合は、日本の銀行ほど国が厚く保護していないので、簡単に倒産するということも考えておく必要があります。いずれにしても、事情のわからない外国相手の投資ということで、私はこれに一切手を出していません。
 最後に、国債ですが、国が発行するものなので安全面では問題はありませんが、投資としてのうま味は余りありません。銀行の定期預金と同様に元本保証のタンス預金として考えるのであればよいと思いますが、私はこれにも一切手を出していません。
 結論的には、退職金などを大きく増やそうという助平心を起こさず、安全第一で運用するのが一番だと思います。前回の「定年退職後の生活設計」の中でも云いましたが、貯金や退職金は自分の第二の人生をエンジョイするために、60歳~70歳のうちに如何に有効に使っていくかということを中心に考えて投資すべきなのです。
 ひと頃、「財産3分法」という言葉があり、財産は、手軽に引き出せる預金と、リスクはあるがリターンも大きい株式と、いざという時のための金(金のインゴットやメイプルリーフ金貨など)とにそれぞれ1/3づつ分散させておくべきと云うのです。現在の経済情勢や定年退職後という自分の状況からこれをそのまま当てはめるのは無理としても、比率を変えるなど多少の改良を加えれば現在も通用する言葉だと思います。今後も何があるかわからない時代が続くと思われますので、皆さんも安全・確実・分散を基本に、大切な貯金や退職金を上手に運用していただきたいと思います。



     毎日が日曜日(その3)──定年退職後の生活設計

 今回は、定年退職後の生活設計、ずばりお金の問題を述べてみたいと思います。毎日の生活にしても心身の健康管理にしてもお金の裏付けがなければ出来ないからです。私の場合、皆さんと比較して恵まれている部分もあるかとは思いますが、全体では多分、平均的であろうかと思い、皆さんの定年退職後の生活設計の参考に紹介させていただきます。
 サラリーマンにとって唯一保証されているのは厚生年金で、会社在職中に国が自分と会社に強制的に積み立てさせた年金です。現在、支給開始年が次々に繰り下げられており、昭和19年生まれの私は62歳から満額支給となります。現在はその一部の老齢年金(2ヶ月毎に8万5千円)が支給されますが、この金額だけではとても生活できません。62歳以降は28万円(2ヶ月分)に増額されるそうですが、貰うまでは安心できません。
 次の厚生年金基金は厚生年金と紛らわしい名称ですが、所謂企業年金です。これは会社在職中に自分と会社が積み立てて企業の厚生年金基金が運用・管理しているものです。現在多くの企業がこの基金を解散して公的な厚生年金基金連合会に移管しており、伊勢丹も解散しました。この年金については60歳から支給開始で、2ヶ月毎に21万2千円が支給されます。
 国の厚生年金や企業年金だけでは不安があったので、在職中から給料天引で日本商業労働組合連合会が運営している年金共済に18年ほど加入していました。これも60歳から支給開始となり、3ヶ月に15万7千円が支給されます。
 これらを合計すると月額で約20万円となり、ローンの返済や子供の学資がなければ、つましい生活をするには何とかこと足りる金額となります。実際は、この他に貯金や退職金があり、これらを小出しに使っていけばゆとりのある生活が可能となります。ここで注意することは、貯金や退職金の運用で失敗しないことです。リスクをおかしてまで増やそうと思わず、安全第一で目減りしない程度の運用に心掛けることが大切です。子供達に少しでも多くの遺産を残そうなどと思わず──それは子供にとって決してためになりません──身体が元気な60歳~70歳のうちに大部分の貯金や退職金を有効に使って自分の第二の人生をエンジョイすることが重要なのです。身体が動かなくなったら年金だけの生活で十分だと思います。
 次に支出を見ますと、まず税金です。所得税に関しては、これまでは会社が全てやってくれたのですが、退職後は自分でやらなければなりません。知り合いの税理士に依頼したところ、私が9月末退職だったため税金の払い過ぎ分の17万円ほどの還付がありました。住民税については、この5月に前年度分が在職中の年収に応じて請求されるので、100万円程度の資金の準備が必要になるとのことです。
 また、サラリーマンの妻は、夫の在職中は夫と会社が国民年金の掛け金を払っていたことになっていましたが、夫が退職すると60歳までは独立して支払い義務が発生します。毎月13,980円が銀行口座から引落とされます。
 同じく、健康保険も在職中は企業の健康保険組合が割安な掛け金で厚い医療費補助をしてくれましたが、これが国民健康保険となると掛け金が高くなり、医療費補助も少なくなるのでダブルの負担となります。私の場合は2年間だけ伊勢丹の健康保険が延長できましたが、それでも保険料は1年分29万円と馬鹿にならない金額です。
 その他に会社在職中に任意に無計画に加入していた各種の保険についてもこれを整理・統合しないと多額の掛け金となって定年退職後の生活を圧迫することになります。
 以上が私の場合の、定年退職後のお金の出入りの概要です。



     毎日が日曜日(その2)──心身の健康管理

 前回、私の定年退職後の毎日を紹介させていただきましたが、今回は私が毎日あのような生活を送るに際して心掛けている「心身の健康管理」について述べさせていただきたいと思います。
 定年退職後も何らかの仕事を続けている人、続けようと思っている人は多いようですが、その理由は経済的なもの(ローンの残り・子供の学資・年金に対する不安など)の他に何もしないでブラブラしていることへの不安があるかと思います。サンデー毎日とか悠々自適の生活などと言いますが、働きバチであった我々世代は自分がそうなった時はどうすればいいのかわからず、とりあえずは軽い仕事に移って様子を見ようとしているのではないでしょうか。また、働かないことへの罪悪感を感じる人もいるかも知れません。何よりも怖いのは、定年退職後に生きる張り合いを失ったり健康を損ねてしまうことで、私の周辺にも定年退職後1年前後で死んでしまった人が沢山います。
 では私のように仕事をしないと必ず生きる張り合いを失ったり、健康を損ねてしまって、楽しい第2の人生を送ることはできないのでしょうか。我々働きバチ世代は鮫のように死ぬまで泳ぎ続けなければならないのでしょうか。我々の世代は高度成長期からバブル期前後の激動の時代に、各々の職場で十分給料に見合った仕事、実際にはそれ以上の仕事をしてきたはずです。60歳の定年を迎えて、自分にささやかなご褒美を与えても、決して罰があたることはないはずです。ではどうしたら生きる張り合い失ったり、健康を損ねずに自分にささやかなご褒美を与えることができるのかということです。
 まずは、同窓会活動、趣味活動、近所付き合い、ボランティア活動など外部との接点を構築することです。勤めていた頃に近い状態を作ることですが、これらはあくまで自分の意思で参加し、楽しいものでなければいけません。このような基盤を作ることにより、何もしない時間が少なくなり、自分の生活にリズムと張り合いを作ることができるのです。環境が大きく変わるこの時期に特に気を付けるのは、躁鬱症に罹らないようにすることです。過去にこれを経験したことのある人は何とかクリアできますが、初めての人にとっては周囲の理解が得られないと命取りになります。躁鬱症も風邪と同じ病気なので、こじらせないうちに専門医に相談すれば簡単に治癒するのです。躁鬱症に罹らないためには、家族や周囲との関係を円満に保つことが大切です。特に妻との関係において、今までの罪滅ぼしのつもりで四六時中一緒に行動しようとする人がいますが、妻の方は既に友人関係や趣味の世界の構築を終わっている場合が多いので逆効果になります。むしろ、妻が友人達と旅行に行きたいと言ってきた時には、「炊事・洗濯・掃除は自分がやっておくので心配せずにゆっくり楽しんでいらっしゃい」と気持ちよく送り出してあげることが大切です。
 身体の健康管理については、多くの情報が出回っているので皆さんよく承知していると思います。私もこれだけ気を付けていても、昨年末には腰痛が起こり、今年の2月には在職中は罹ったことがなかったインフルエンザになったり、花粉症の症状が現れたり、その後首の凝りからくる偏頭痛と次々に変事が起こりました。これらは食生活を改めたり、簡単な体操を行ったり、接骨院でマッサージを受けたりして何とか凌いでいます。在職中から高かった血圧については、とうとう薬を飲むことになりましたが、とたんに上下とも20くらい下がる効果があり、もっと早くから飲んでおくべきだったと後悔しています。
 これらの経験からわかったことは、毎日1時間散歩しているからといっても安心はできず、全身くまなく運動しないと例えば酷い肩凝りといったように部分的に症状が出てくるということです。現在、週3回ほど健康保険がきく近所の接骨院でマッサージを受けていますが、1回700円で若いお姐さんに揉んでもらうのは精神的にもいいものです。



     毎日が日曜日(その1)──定年退職後の毎日

 私は、昨年の9月末に36年半勤務した㈱伊勢丹を定年退職し、年金生活者として第二の人生に入りました。白門43会の皆さんも近々に同じ道をたどることになるかと思いますが、そのような人の定年退職後の生活の参考になるかと思い、「毎日が日曜日」シリーズを紹介させていただきます。私は、希望すれば5年を限度に社員嘱託として会社に残る道もあったのですが、一切を断って年金生活者を選びました。それは、36年半も仕事中心の生活をしてきたのだから、定年を区切りに自由な身になりたいと思ったのです。根底には、身体が今と変わりなく動くのは60歳~70歳だと判断し、その間は自分の人生を楽しもうという気持ちがあったからで、勿論そのためには経済的な裏付けが必要なのですが、幸い伊勢丹というよい会社に恵まれて何とかやっていける目安があったのです。
 まずは私の毎日の生活ですが、朝は、在職中と余り変らない7時半頃に起床し、洗面後に血圧を測ります。そして朝食はこの10年ほど同じ内容で、リンゴ半分と、大根おろしに酢とちりめんをかけたもの、葡萄パンのトースト1枚とコーヒーです。以前はこれに加えて青汁を飲んでいましたが、最近はハーブティーに変更しました。
 食後は植木の水やりですが、玄関回り、2階・3階のベランダ、自分の書斎などに160鉢ほどの植木(雑草に近いものばかりです)があり、これに玄関先の花壇が加わると結構な作業になります。時期によっては植え替えとか肥料やりとかの作業が加わります。
 それから家中の掃除も私の仕事になります。2階と3階の約50坪と階段をざっと掃除すると約40分かかります。それが終ると簡単な自己流の柔軟体操をして着替えます。この柔軟体操は入浴時と寝る前にもやっています。
 昼食は外で食べることもありますが、自宅の場合はコンビニのおにぎりか近くのパン屋のサンドウィッチが多いです。夕飯は週に1~2回は私が作りますが、材料費が高いとか、後片付けをしないとか文句を云われますが、味の方は好評です。
 日中については、主に同窓会活動の外出や準備が入っています。在職中から定年後は同窓会活動をやろうと考えており、退職10年前から母校中大の年次同窓会(白門43会)に加入し、数年前から常任幹事、3年前から企画委員長としてその活動に携わってきました。多分にボランティア的な活動で、やや大変な面がありますが、今後もこの白門43会活動がメインになっていくことは間違いありません。
 次に、私の定年退職後に、小・中・高等学校の母校である暁星学園の同窓会から理事就任の打診があり、迷ったのですが毎月1回の理事会、年4回程度の行事に参加すればよいとのことだったので、5月から総務担当理事に就任することを承諾しました。
 更に、今年の3月、勤務先だった伊勢丹のOB会(丹光会)から北鎌倉の散策の会の誘いがあり、健康のためと思ってこれに参加したところ、丹光会の幹事の入替があるので幹事になって欲しいということになりました。私としては、白門43会と暁星学園同窓会の話をして固持したのですが、月1回の幹事会と年数回の行事に「事情が許す限り」参加すればよいと説得されこれを受けることとにしました。
 こうしてくると、とても毎日が日曜日などと言っていられなくなりましたが、こうした状態を自分で作り、毎日を忙しくかつ楽しく過ごせるのは幸せだと思っています。
 夜は、宴会が激減したので、11時過ぎには就寝します。気が向けば、夕食後妻と1時間ばかり家の近くを散歩しています。これは心身両面の健康によいです。このように運動をやって早く寝るので朝寝坊をしなくなり、また早く起床するので夜更しができなくなりました。
 以上が定年退職後半年間の私の生活です。



      「蕎麦」のうんちく(その5)

 そろそろ話題の種も尽きてきてので、いよいよ私の隠し種である2店を紹介するしかなくなりました。
 「川しま」は、地下鉄日比谷線の入谷駅のそばにありますが、なかなか見つからない位置にあり、外観はまるで下町の粋な料亭のようです。玄関から狭い通路を通って店内に入ると、そこはテーブル席3つと、7~8名入れる座敷があるだけの小さな世界です。こんな店なので満席ということはなく、いつも静かです。ここは閉店が9時半と遅いので一人静かに蕎麦を食べたい時に行きます。話が一寸寄り道になってしまいますが、血液型がO型の人は疲れた時に皆で騒いでこれを癒し、A型の人は一人になってこれを癒すそうです。私は両親がともにA型という典型的なA型なので一人で癒す方です。
 話を再び「川しま」に戻すと、入店した時は何かの仕掛けでわかるらしく店員が出てきますが、それ以外はいつも奥に引っ込んでいるので、追加注文をするタイミングが難しい店です。
 新潟の銘酒の「久保田」「八海山」などが揃っており、夏場は生酒もあります。品のいい「板わさ」や、季節によっては「そら豆」「銀杏」をつまみに、洒落た徳利からガラスの透き通った猪口で冷酒を飲む気分は最高です。
 更につまみとして「イカの塩辛」「鴨の燻製」「玉子焼き」などを頼むことになりますが、「玉子焼き」はどこの蕎麦屋でもかなり大きいので、腹具合を確認してから注文した方がいいと思います。
 最後に蕎麦を頼むことになりますが、ここのせいろは、普通と田舎風と変わり蕎麦とがあります。田舎風は太くてしっかりとした噛み応えのあるそばです。変わり蕎麦とは、柚子とか芥子を混ぜて打った蕎麦です。汁は薄からず、濃からずのすっきりした味で、丁度よい分量の蕎麦を付けて啜るのですが、2~3口噛むと蕎麦の香りがほんのりと感じられ、適度のぬめりのある蕎麦を飲み込む時の喉ごしがたまりません。
 「おざわ」は、地下鉄銀座線の稲荷町駅から2~3分の所の小さな店です。カウンター席とテーブル席で十数人しか入れない狭い店は,30代半ばの小沢一郎というご主人と元看護婦という小柄な奥さんの二人で切り盛りしています。まだ出店して数年ですが、このご主人がこだわりの熱血漢で、この2~3年でかなり腕を上げたようです。とにかく蕎麦に全力を注いでおり、その分、肴の種類が少ないことと、酒に力が入っていないことが残念です。但し、蕎麦に関するものは別で、「蕎麦がき」や「蕎麦豆腐」などは絶品です。
 まだ出店したての頃に行って「上野の藪に比較すると、また行きたいという後を引く味になっていない」などと生意気なことを言ったものですが、今では立派に「後を引く」味になっています。新蕎麦が出て間もない頃にふと立ち寄って食べたせいろは、多少の青味のある香り高い蕎麦で、ぬめり感のある喉ごしといい涙が出るほどおいしかった記憶があります。冷たいせいろだけでなく、山かけ蕎麦のとろろも抜群だし、鴨南蛮の鴨もこだわりの優れものです。蕎麦は生粉打ちと太麺の2種類で価格はやや高めです。
 ここへは、ご主人や奥さんとの会話を楽しみつつおいしい酒、肴、蕎麦を食べる目的で通っていますが、閉店が午後7時と早いことが泣きどころです。会社の帰りに立ち寄ることは難しいので、休みの日に行くしかありません。開店は午前11時半で2時頃に閉め、午後5時半にまた開店という複雑な時間になっている上に、打った蕎麦が無くなれば閉めてしまうというわがままな店なので、なかなか食べられないところが難点です。



   「蕎麦」のうんちく(その4)

○ 印象に残った店

 ここでは、私の乏しい蕎麦屋経験の中で、よいにつけ悪いにつけ印象に残った店を紹介したいと思います。
 「京金」は大江戸線森下駅のすぐ脇にあり、靴を脱いで上がり、板の間の椅子席か畳の和室という変った店です。業界では有名な店で、ここで修業した職人も多いそうです。私も数度しか行っていませんが、場所柄、相撲取りやなぎら健一に会ったりします。酒、肴、蕎麦のどれをとっても文句なく一流の味です。閉店が夜の8時半というのも有り難いです。
 「千住やぶ」は京成線千住大橋から10分くらいのところにあるこじんまりとしたいい店です。ニシン棒焚や蕎麦は抜群においしいのですが、500円のせいろの量たるやほんの2口分しかありません。大人なら最低2枚は必要で、だったら千円の大盛りでも用意すればと腹立たしくなります。
 「駒形蕎上人」は、東武浅草駅から1ブロック浅草橋方面に歩いた、目立たないビルの1階にあります。ここも多くの職人が修業する業界では有名な店です。入口には盛り塩がなされ、店内は緊張感が漂っています。蕎麦はやや硬めなので田舎蕎麦の太麺などは食べるのに往生しますが、蕎麦、汁ともに文句なしに最高です。
 「並木藪蕎麦」は、浅草雷門の近くにある如何にも老舗の蕎麦屋といった感じの小さな店です。「藪御三家」の1店で、細い少量の蕎麦と濃い蕎麦汁が特徴です。但し、さすがに老舗だけあって蕎麦の味、汁の味には江戸時代からの伝統を守っているというかなりのこだわりが感じられます。好き嫌いは別として、色々な蕎麦屋を比較しようとするなら、最初に行くべき基本の店だと思います。味も店員の働きもここが原点のような気がします。私が浅草に引っ越して間もない頃に入り、うっかり「鴨南うどん」と注文して「うちではうどんはやっていません」と冷たく言われて恥をかいた店ですが、はとバスのコースにも入っているらしく、いつも混んでいます。

○ カレー蕎麦・うどん

 これまでの蕎麦の話は、原則として冷たい付け蕎麦のことを中心にしてきましたが、最近はカレー蕎麦・うどんが話題になっているので、いくつか紹介したいと思います。因みにテレビ番組で印度人にカレーパンとカレーライス、カレーうどんを食べさせて反応を見るというのがありましたが、印度人は「カレーパンはまあまあおいしいが、カレーライスは似て非なるもの」そして「カレーうどんは絶対に許せない味だ」と怒っていたので、カレー蕎麦・うどんというものは日本独特のもののようです。
 「新宿サブナード藪」と「大和庵」(新宿)はともに今はありません。サブナード藪は会社の昼食時に随分と通い、舌を何度も火傷しながら絶妙なあん掛けカレーを味わったものです。また新宿3丁目の大和庵のカレー蕎麦は火を吹くような辛さで、それがまた不思議に後を引いたものです。これらの2店のカレー蕎麦をまた食べたいと思う今日この頃です。
 「三朝庵」は地下鉄東西線の高田馬場駅の近くにある店で、ここのカレー蕎麦がまたおいしのです。タマネギがたっぷり使ってあるので、やや甘めのカレーになっています。学生が多い場所なので価格もリーズナブルです。
 「進開屋」は巣鴨駅からだいぶ離れた千石にある店で、680円のカレー蕎麦がまあまあの味です。但し、店と店員の汚さに我慢できない人にはお勧めできません。
 「日向亭」はJR浅草橋駅から5分くらいのところにある店で、カレー蕎麦・うどんがおいしいと有名な店です。実際によく煮込んだマイルドな味のカレーでした。



   「蕎麦」のうんちく(その3)

「蕎麦」のうんちく(その1)では「蕎麦屋の発祥と屋号」「注文の仕方」を、(その2)では「蕎麦の味」と「こだわりの蕎麦屋」について書いてきました。そこで(その3)では「蕎麦の食べ方」と「酒と肴」について触れていきたいと思います。

○蕎麦の食べ方

ものの本では、正しい蕎麦の食べ方として、まずは汁を付けずに1~2本食べ、次に汁を飲んでみるとあります。私としては蕎麦が出てきたら、できる限り早く食べることに全力を尽くすべきと思うのでこれには反対です。蕎麦の味は時間の経過とともに急速に落ちるので、例え20秒~30秒で済む実験的な作業でも時間を割くのが惜しいからです。これが仮に寿司屋に行って、出てきたトロの具をはいで食べてみて、次にシャリだけ食べてみておいしさを判断できると思いますか。寿司にしても蕎麦にしても一体として食べてのおいしさでなければ意味ないのです。気の短い寿司職人の前でそんなことをすれば「そんな気色悪い食べ方すんなら帰ってくれ」と怒鳴られるところです。
 汁の付け方については、付けたいだけ付けて食べればよく、通ぶって先っぽだけ付けるようなことは必要ないと思います。但し、子供や女性に多いのですが、蕎麦全部を汁の中に浸してから、まるで丼飯を食べるようにかき込んでいる人がいますが、これは見た目が汚いだけでなくおいしくないと思います。また、音をたてて啜るということについては、気にせずに自然体で食べればいいと思います。外国人には異常に思われるとのことですが、日本ではこれが正しいのですから、外国人に気兼ねすることはないのです。
 上手な食べ方としては、一口だけ取り上げて、3分の1くらいを汁に付けて大きすぎない音で啜るということです。一流の蕎麦屋で、素早く食べれば可能なことですが、二流店の蕎麦や食べるタイミングが遅くなったものは一口だけ取り上げるのが困難になります。それから、蕎麦湯を注文して残った汁を飲むのは健康のためだけでなく、汁のおいしさがよく分かるので必ず飲んだ方がいいと思います。

○酒と肴

蕎麦屋で飲む酒は、飲み屋で飲むよりおいしく感じます。雰囲気の違いもあると思いますが、蕎麦屋のこだわりでおいしい酒を揃えているせいだと思います。酒も人もそれぞれに好みがあるので何とも言えませんが、私は四季を通じて冷酒が好きです。新蕎麦が出て1ヶ月くらい経過してやや熟成したときが蕎麦の一番おいしい時ですが、燗酒だと匂いが強く、その時の折角の蕎麦の香りがわからなくなるからです。
 次に、これも私だけのこだわりかも知れませんが、飲み屋は友人と行くのが一番ですが、蕎麦屋は一人で行くのが一番です。時間による変化が急速な蕎麦を相手に全力で戦うためには、会話の相槌やたまには酌をしなければならない相手は不要だからです。それだけに雰囲気作りとしての道具立ても大切で、徳利や猪口、升などへの気配りのある店がいい店で、これらが安っぽいと幻滅です。
 肴の定番は板わさ(蒲鉾)、焼き海苔、うるめ鰯等ですが、塩辛いものばかりではと思えばニシンの棒焚き、蕎麦豆腐、玉子焼きといったところです。これは自戒の意味で言うのですが、あくまで蕎麦が主体なので、その前に食べすぎたり飲みすぎたりするのは邪道です。従って、天ぷらや鴨焼き(蕎麦屋の天ぷらや鴨焼きは実にうまい)などはできるだけ避けた方がいいいと思います。それから、これは肴というよりは蕎麦に近いものですが、「蕎麦がき」も捨てがたいものです。但し、「蕎麦がき」を食べる時は蕎麦を断念しなければならないので重大な決心が必要となります。



   「蕎麦」のうんちく(その2)

○蕎麦の味

 蕎麦がおいしいかどうかは個人の好みの問題なので、あくまで自分がおいしいと感じたかどうかで、その基準となるのは蕎麦と蕎麦汁(つゆ)です。
 蕎麦については、生粉(きこ)打ちと言われる100%蕎麦粉を使ったものから小麦粉をブレンドしたものがあり、「つなぎ」も箱根湯本の「初花」のように山芋を使ったものや新潟の「小島屋」のように海草を使ったものがあります。100%だからおいしいということもありません。また、100%蕎麦粉で蕎麦を打つとつながりにくいと言われていますが、風味が損なわれることを無視して粉を細かくすれば水だけでも簡単につながるようです。
 次に、見た目ですが、田舎蕎麦と言われる太麺、細麺の他に、色が白いもの、通常の灰色のもの、粗い粒が見えるものなどがあります。これは蕎麦の実の甘皮や芽の部分を入れるか否かの違いで、更科系統の蕎麦が白いのは小麦粉の多いせいではなく、甘皮や芽の部分を除いた蕎麦粉を使っているからです。湯島天神の近くにある「手打古式蕎麦」に至っては見た目が真っ黒ですが、決してイカ黒を入れている訳ではなく、甘皮ごと挽いているからなのです。そしてこの蕎麦を大根おろし汁に付けて食べるという、かなりこだわりに徹している店ですが、ヘルシーであることは間違いありません。
 次に汁ですが、落語に、蕎麦汁をたっぷり付けて食べている人を馬鹿にしていた江戸っ子が死ぬ前に「一度でいいから、たっぷり付けて食べたかった」と言うのがありましたが、これは当時の汁が濃かったからで、現在もこの伝統を守っている蕎麦屋は「藪御三家」と言われる「神田(淡路町)」「並木(雷門)」「池之端(上野)」の藪蕎麦です。蕎麦汁は、醤油と砂糖を煮詰めて寝かせた「かえし」と出汁を合わせて作りますが、「藪御三家」のそれは他の蕎麦屋の倍の醤油が入っているので、見た目にも真っ黒です。因みに「藪御三家」は血縁関係にある関係で、3店とも蕎麦や汁もほとんど同じです。この系列の蕎麦屋は、「藪」を名乗っている店が多いのですが概して汁は濃い傾向にあります。

○こだわりの蕎麦屋

 こだわりの蕎麦屋とは、蕎麦粉や水、そして手打ちにこだわっている店、あるいは店構えや酒・肴にこだわっている店です。価格がやや高く、中には料亭のような店もあります。酒も一流のをズラっと揃えており、肴の種類も豊富です。こうした店では入店したら蕎麦だけを食べて出てくるのは野暮で、酒、肴、料理を食べて最後に蕎麦ということで、一人5~7千円を覚悟しなければなりません。西荻窪の「本むら庵」や、立川駅北口の「無庵」、駒形の「蕎上人」などがそれにあたります。
 立川駅北口の「無庵」は古い民家のような建物ですが、中は洋風でジャズが流れているような変った店です。西武線の新井薬師駅の近くの「松扇」もまるでスナックのようで、酒の肴も洋風なものが出てきます。蕎麦の味はともに抜群です。
 蕎麦屋の王道を行っている店としては、元麻布の「総本家更科堀井」があります。大きな店舗の真ん中には大きな欅のテーブル席があり、周囲に椅子席、奥に和室もあります。蕎麦は白い「さらしな」と普通の蕎麦があり、汁にもそれに合わせて甘辛2種類あります。店内には老舗を感じさせる緊張感があり、店員のマナーも一流です。
 蕎麦屋は日本全国どこにもあり、多くの蕎麦好きの人がいます。そうした人は誰でも自分はここの蕎麦が一番だと思っている店があるはずです。でも、そうした店は余り他人には言わず、自分だけがこっそり楽しむのが一番です。私にも有名ではないそうした店が家の周りに2軒ありますが、それは誰にも教えないことにしています。


「蕎麦」のうんちく(その1)

私はおいしいものを食べるのが好きです。おそらく昭和19年という戦争末期に生れてその後あまりおいしいものを食べずに育ったからだと思います。
 そのため高度成長・バブル期となり、何でも食べられるようになると、思い切り食べまくったので、たちまち、高血圧、高脂血症、高コレステロールの“3高”という“立派”な生活習慣病患者になることができました。
 そこで、食べ物を急遽ヘルシーとされる日本蕎麦に変えたことから私の「蕎麦」物語が始まるのです。まずは、三輪にある砂場総本家にあった「東京そばのうまい店239店」という本を買い、わが家周辺の店を中心に50店ほど回ってみたのです。全国には3万6千軒の蕎麦屋があり、東京には6千軒あると言われていますが、幸いなことにわが家のある台東区は、蕎麦屋の密度が全国1位(2位は中央区、3位は荒川区)という土地柄なので、この蕎麦屋めぐりは効率的にできました。しかし、1日3軒を梯子したり、どんな酒にどんな肴を出すのかまでを入念に探索したため、余りヘルシーな結果にはなりませんでした。いずれにしても蕎麦に関する私のうんちくは、動機不純、経験不足の怪しげなものなので、だいぶ素人っぽいもの人になっている点はご容赦願います。

○蕎麦屋の発祥と屋号

本来、蕎麦は米がとれない貧しい土地で栽培された代用食で、古くは「蕎麦がき」のように粉を練ったり、丸めたりして食べており、現在のように細く切って食べるようになったのは安土桃山時代あたりからで、「蕎麦切り」と呼ばれていました。その後、大阪城の築城現場の砂場にあった「砂場」や、信州の布屋が蕎麦屋になり藩主の保科家から「科」の字をもらった「更科」などが江戸で開業し、幕末に駒込団子坂にあった「蔦屋」(裏に竹薮があったため通称「藪」と言われた)などと一緒になって江戸で栄えたようです。
 ちなみに、現在の屋号で多いのは「藪」「更科」「長寿庵」「大むら」「満留賀」という順番で、「砂場」は11位とのことです。

○注文の仕方

店に入っていきなり「たぬき蕎麦」などと注文するのは野暮とされます。まずは酒と肴を1~2品注文し、最後に「もり」を1~2枚食べて、さっと帰るのが“通”とされます。元々は、味噌か粗塩を肴に酒を1杯ひっかけて蕎麦が出来上がるのを待つということのようです。上野の丸井の裏の上野藪そばの冷酒は、菊正の樽酒で表面が薄くシャーベット状になっており、蕎麦味噌と粗塩が付いて出てきます。これと炭火と一緒に木箱に入った焼海苔を注文して、これらを肴に樽の香りのするきりっとした冷酒を飲むと何とも言えません。酒を飲みすぎるのもタブーで、森下の京金という店のメニューには「酒は2本までにお願いします」と書かれています。多くの蕎麦屋の閉店時間が8時頃と早いのも酔っ払いを嫌うためのようです。
 また、こだわりの蕎麦屋のメニューには「ざる」が無く「せいろ」になっていることが多いようです。こうした店で「ざる」と注文すると「海苔かけですか」と聞き直されるので注意を要します。また最初から「せいろ2枚」と注文するのも感心できません。1枚目を食べ始める頃に「もう1枚」と追加するのが通です。蕎麦はおいしい時間が極めて短いので、できるだけ作り置きの状態にしたくないからです。気のきいた店だと、一人で2枚注文しても一度には出さず、1枚目を食べ終わる頃を見計らってもう1枚出してきます。蕎麦はそれほどデリケートな食べ物なのです。