耳よりな話

平家琵琶 声明 演奏会 季節の花木 さんぽ道 その他いろいろ

 このページでは、平家琵琶、声明、演奏会など会員の皆様から寄せられたり、幹事や管理人が集めた耳よりな情報をご紹介します。
 白門43会とは直接関わりがなくても、皆さんが知っていたらよかったなあと思うようなことはできるだけ載せたいと思います。そんな情報があったら是非メールでご連絡ください。

   mimiyori na hanashi

季節の花木

 

沈丁花 いまだは咲かぬ 葉がくれの
くれなゐ蕾 匂いこぼるる
若山牧水

 朝、リビングルームのガラス戸を開けると甘い香りが漂ってくる。まだ肌寒さの残る庭に下りてみると、枯山水の縁石に寄り添うように植えてある沈丁花の花が満開である。この時ばかりは主役の雪見灯篭もその座をこの花に譲った感がある。
 元来、沈丁花は中国の中部から雲南省を経てヒマラヤに至る山地に野生する植物であった。中国では瑞香とか睡香と呼んでことのほか愛好し、珍重してきた。また、花の香りが強く七里、千里の遠くの地まで匂うという意味から七里香、千里香の名もある。
 日本に沈丁花が伝わったのは室町中期の書物「尺素往来」(せきそおうらい)に沈丁華と初めて記載されていることから、室町時代と考えられる。我が国では「沈丁花は枯れても香ぐわし」といわれるほど、花の美しさよりも香りが印象的な花とされてきた。このため、茶の湯では禁花になっているほどである。



Photo Gallery
(清水利夫さん撮影)

Gallery 1
Gallery 2
Gallery 3
Gallery 4
Gallery 5
Gallery 6
Gallery 7
野川の鳥たち
高尾山の花「シモバシラ」
ナスカの地上絵
トルコ旅行
高尾の花「シモバシラ 2」
イグアスの滝
マチュピチュ
Gallery 8
Gallery 9
ブェノスアイレス(アルゼンチン)
エジプト(1) 


(会員の皆様からの写真を募集しています)


 虎の門交響楽団の第87回定期演奏会のご案内

 古賀忠夫さん(「会員の動向」のページ参照)が所属している虎の門交響楽団の第87回定期演奏会が、下記のとおり開催されます。ご都合のつく方は是非お出かけください。

1 日時: 2012年5月25日(金) 18:30開場 19:00開演
2 場所: 大田区民ホール(アプリコ) 大ホール
3 指揮: 米津俊広(右の写真)
4 チェロ独奏: 長谷部一郎
5 曲目: 
       @ベートーベン  序曲「コリオラン」 op.62
       Aエルガー    チェロ協奏曲 ホ短調 op.85
       Bブラームス   交響曲第2番 ニ長調 op.73
6 入場: 無料・全席自由
7 交通: JR京浜東北線 蒲田駅東口 徒歩4分


 第88回箱根駅伝の模様

 正月恒例の第88回箱根駅伝が1月2日(月)・3日(火)の両日にわたり実施されました。コースは、大手町読売新聞旧庁舎前〜箱根町芦ノ湖駐車場入口の間の往路108.0 km、復路109.9 kmの10区間で、1人が平均21kmを走るという長距離の駅伝です。
 参加は20チームで、我が中央大学は優勝目指して頑張りましたが、健闘及ばず8位となりました。各コースごとの中大の順位は、次のとおりです。

  1区: 8位、 2区:8位、 3区:5位、 4区: 6位、  5区:12位
  6区:11位、 7区:9位、 8区:8位、 9区:10位、 10区: 8位

 (中央大学駅伝応援サイトはこちら

 43会役員で「箱根駅伝を強くする会」会員の佐藤勝さんから、応援の模様をご報告いただきましたので、以下にご紹介します。

○ 往路
 2日の朝、私たちは選手スタート後ただちに丸ビル前に待機していたバスに乗り込み箱根のゴール地点に向かいました。
 昔は各中継地点に立ち寄ったのですが、現状では道路渋滞が予想されますのでそれらをカットし早めの到着を目指して箱根芦ノ湖に向かいました。もちろん絶えずバスの中では車内テレビで途中経過をフォローしたり携帯電話で詳しい情報を入手しておりました。
 ゴール地点のまじかの箱根恩賜公園駐車場前の道路が中大の応援割り当て地点でしたので、そこに1時間以上も応援団、ブラスバンドと共に待機しました。選手が到着するころには沿道黒山の人だかりでした。
 芦ノ湖の湖岸近くのため冷たい風が吹きすさぶ環境の中でしたが、皆白地に赤の「C」マークの小旗を振り懸命に応援しました。

○ 復路
 翌朝は5時に小田原の宿舎をバスで出て、スタート地点に向かいました。スタート後すぐにまたバスに飛び乗り、今度はゴールの大手町に引き返しました。大会終了後はゴール近くの「常盤橋公園」渋沢栄一碑前にて報告総括会が行われました。
 選手、陸上部部員、監督、強くする会、他一般の応援の方々約300人ほどが集まり、今回の総括と来年度の健闘の誓いを新たにしまして、母校校歌の斉唱で締めくくりました。
                     箱根駅伝を強くする会  佐藤 勝 
  


 虎の門交響楽団の第86回定期演奏会が開催されました

 古賀忠夫さん(商会)が参加する虎の門交響楽団の第86回定期演奏会が、11月18日(金)東京都北区の「北トピア」で開かれ、多数の43会員が聴きに駆けつけました。
 今回は金井俊文氏の指揮によりワーグナーのマイスタージンガー前奏曲、シベリウスの交響曲第7番、ベートーベンの交響曲第5番「運命」の三つが演奏され、約80人による演奏がわれわれメンバーの一日の疲れを癒してくれました。古賀さんはビオラを担当し、その力強い演奏にわれわれ応援団は大きな拍手を送りました。
 大海を進むような音楽でスタートしたワーグナーは「大行進」とでも名付けたい力強さ。さすがオーケストラの醍醐味か。次は数人のメンバーが入れ替わり、シベリウスへ。厳かな出だしの後はのどかな流れ。駆け足調のテンポもある豊かな構成。
 休憩をはさんで次は、おなじみの曲「運命」。解説書にも「ジャジャジャジャーン」と記してあるのが面白い。力強く、あるいは優しい演奏の後は全く違ったムードで静かに……そして爆発して閉じる。
 次回は5月25日(金)午後7時開演で東京都大田区の「太田区民センター・アプリコ」で開かれ、チェロの独奏が予定されています(入場無料)。


 最近読んだ本「彰義隊」

 「彰義隊」 吉村昭 (新潮文庫 705円)

 最近、本を探していて「彰義隊」というのが目に止まりました。歴史関係の本が好きな自分にとって幕末に上野で官軍を相手に戦った彰義隊に興味が沸いたので早速これを買って読んでみました。著者は「戦艦武蔵」「桜田門外の変」など戦記物・歴史物で定評のある吉村昭氏で、かなり緻密というか丁寧というか、とにかく膨大な資料を基に書かれたに違いないと思われる内容でした。
 私は現在台東区に住んでおり、上野にも絵画展の鑑賞などでよく行く機会があり、また彰義隊士の墓がある円通寺も近くにあり、更に43会で昨年7月に実施した「講釈師と歩く歴史と文化の散歩&寄席」で上野の西郷さんの銅像の近くにある彰義隊の記念碑を見学したこともあり、彰義隊には何となく身近なものを感じていました。
 この本によれば大政奉還後、15代将軍の徳川慶喜は上野の寛永寺で謹慎していましたが、これを警護するということで旗本の天野八郎などにより彰義隊が結成されたようです。1868年3月に官軍参謀の西郷隆盛と幕府陸軍総裁の勝安房守との話し合いの結果、江戸城が官軍に明渡しになり、徳川慶喜も水戸に移されたのですが彰義隊はそのまま上野を本拠地に江戸の治安維持に当たっていたのです。当残の成り行きとして江戸に入ってきた官軍と彰義隊の間に鍔迫り合いが発生し、その頃には2千名以上になっていた彰義隊は上野の山に籠って徹底抗戦の構えを見せたのです。官軍側は大村益次郎(靖国神社に銅像あり)を総大将に2万名でこれを攻撃することになったのですが、大村は完全に包囲すると「窮鼠猫を噛む」の例えで官軍の損害が大きくなると見て、根岸・日暮里口だけは空けた包囲網を敷いたのです。戦いは5月に始まり、寛永寺正門である黒門口(西郷さんの銅像付近)で最も激しい戦いとなりました。しかし、多勢に無勢の上に外国製の最新式の銃砲で武装した官軍に対し旧式な銃砲しかない彰義隊は敗れて、敗残の隊士は根岸・日暮里口から三河島・尾久方面に落ちて行ったのです。敗れた彰義隊士の死体は、朝敵ということで朽ち果てるままに放置されていたのですが、見かねた箕輪の円通寺の住職仏麿と神田旅籠町の侠客三河屋幸三郎が官軍の西郷参謀と交渉してこれらの死体の埋葬許可を得て266体の死体を円通寺に埋葬し、合同葬まで行ったとのことです。
 この本の題名は「彰義隊」ですが、彰義隊に関する記述はここまでで、あとは当時の上野の寛永寺の山主である輪王寺宮に関するものでした。寛永寺は徳川時代の初期に江戸の守りと徳川家の菩提寺として(もう一つの菩提寺は芝の増上寺)天海僧正によって上野の山に建立され、京都の比叡山に模して東叡山と称し、不忍池は琵琶湖に模されて作られたそうです。この戦いで大部分は焼失しましたが、その後復興されて現在もこの地にあります。余談ですが、私の二人の子供は寛永寺幼稚園に通っていました。
 こうした格式の高い寺であるため、山主は代々輪王寺宮親王と呼ばれる皇族が就任しており、この小説の主人公の輪王寺宮も伏見宮家の第九子の明治天皇の叔父にあたる身分の高い人で、当時22歳でしたが日光の山主も兼任していました。私はほぼ毎年日光に行っているのですが、そういえば東照宮の手前に輪王寺があったのを思い出しました。
 話はちょっと逸れますが、私の家の近くに山手線の「鴬谷」という駅があります。昔はこの辺りは鶯が鳴く谷があったようですが、京都から来た何代目かの輪王寺宮が「江戸の鶯には訛りがある」と言って京都から鶯を取り寄せて放したという話を何かの本で読んだことがあります。
 この小説の主人公の輪王寺宮は朝敵とされた徳川慶喜から依頼されて江戸に進軍中の官軍の総督有栖川宮に駿府城(静岡市)まで会いに行って、慶喜に厳しい措置をとらないで欲しいと嘆願するのですが、婚礼の期日まで決っていた孝明天皇の妹の和宮との仲を幕府によって割かれた恨みを持つ有栖川宮に冷たくあしらわれてしまうのです。このあたりから輪王寺宮の運命の歯車は狂い出してしまうのです。
 彰義隊が上野の山に籠った時、輪王寺宮は寛永寺にあってあたかも彰義隊の後ろ盾のような立場になってしまい、官軍側から再三にわたって彰義隊の解散や輪王寺宮が上野の山から退去することを求められますが頑なにこれを拒否してしまうのです。これは駿府城での会見で有栖川宮に冷たくあしらわれたことに対する輪王寺宮の意趣返しのようなもので、当時の情勢を冷静に判断できていなかったためです。当然のことながら彰義隊が敗れた後は敗残兵と一緒に折からの豪雨に伴う洪水の中を、大村益次郎の狙いの通り三河島や尾久方面の村々を泥んこになって逃げまどうことになるのです。この間の吉村氏の記述は細かく、三河島や尾久方面の村々が寛永寺の寺領であったり縁の深い村だったため逃げてきた輪王寺宮に対して親身になってこれを保護する有り様がまるで見てきたように書かれています。
 しかし官軍による追及は厳しく、それならいっそのこと江戸市中の寛永寺関連の寺に隠れようということになり、浅草の「東光院」に逃げ込みます。その後輪王寺宮は市ヶ谷の「自證院」という尾張藩に縁のある寺に移り、更に品川沖に待機していた幕府海軍副総裁の榎本武揚の艦隊に属する「長鯨」という輸送船で福島の平潟港に行くことになるのです。この「東光院」は私の自宅からほんの数分の所にあり、「自證院」も見に行ってきましたが、新宿区富久町に現在もひっそりと建っていました。これらの寺は当時から数えて125年経っている訳で、関東大震災や太平洋戦争による空襲などがあったにもかかわらす当時の場所に現存するということにびっくりしてしまいました。
 東北に逃れた輪王寺宮の方はますますおかしなことになり、官軍の横暴に対抗すべく仙台藩(伊達氏)や会津藩(松平氏)米沢藩(上杉氏)など31藩で結成された「奥羽越列藩同盟」の盟主にされてしまうのです。ここには旧幕府の重臣達(老中だった備中松山5万石の板倉勝静、将軍家茂と和宮との婚儀を整えた時の老中だった陸奥磐城平3万石安藤信正など)も集まってきており、一時は相当な抵抗勢力となりましたが、北上してきた官軍に次々に撃破されて敢えなく降伏してしまうのです。白虎隊の自刃で有名な会津の戦いの時に官軍は略奪暴行の限りを尽くしたと言われ、そのため官軍の中心だった長州(山口県)と会津(福島県)とは今でも仲が悪いそうです。私は毎年、中大のクラブの同期と旅行していますが、その中に山口県出身のS君がいて「福島県を旅行する時は山口県から来たということは隠すようにと言い伝えがある」と言っていたのを思い出しました。
 また、老中板倉勝静の直系の曾孫の板倉勝俊君は昭和43年に中大文学部を卒業した白門の同期で、その後私と一緒に伊勢丹に就職したという縁があります。板倉君は50代で惜しくも亡くなりましたが、日本一高い城と言われている備中松山城址(岡山県の高梁市)には一度行ってみたいと思っています。今春ホームページで紹介しましたが、2月に中大のクラブの同期との旅行で岡山に行くことになった時、幹事の高橋良洋君(岡山県庭瀬の松林寺住職で43会員)に松山城址を見たいと伝えたのですが、1日がかりの旅行になると言われて諦めた経緯があります。
 話がまた逸れてしまいましたが、輪王寺宮の方はとうとう官軍に降伏して京都の伏見家で謹慎ということになりました。その後輪王寺宮は許されてプロシヤの陸軍士官学校〜陸軍大学に留学し、帰国後は陸軍の幹部将校になります。名前も北白川家を継いで北白川宮と変り、明治28年に近衛師団長に任命されて日清戦争の台湾における反乱平定を命じられます。そして無事に任務は終えたもののマラリヤに罹り同年10月に現地で病死してその数奇な人生を終えたのです。葬儀は日本で国葬という形で行われたとのことです。
 私は2008年12月に家内と一緒に台湾旅行をしたのですが、台北市の圓山大飯店という所で食事をした時にガイドの阮さんが「この圓山大飯店には台湾で病死した北白川宮の墓がある」と言っていたのを思い出しました。その時は「北白川宮」と言われたので気がつかなかったのですが、この人がこの本の主人公の輪王寺宮だったのです。
 この本は、幕末動乱期にたまたま「輪王寺宮」であったために歴史の激しい流れに押し流される高貴な若者の数奇な運命を書いたものですが、私にとってもいろいろと縁のあることが分かった面白い本でした。会員におかれましても、これを読んで興味が沸いたら是非お読みいただきたいと思います。     (記事と写真:八束一郎)
 写真上から:
  円通寺……荒川区南千住1丁目(境内に移設された黒門に夥しい弾痕がある)
  彰義隊の墓……上野公園西郷さんの銅像の後方
  東光院……台東区西浅草3丁目
  自證院……新宿区富久町4丁目
                                       


 箱根駅伝雑感

 平成23年も数々のドラマを残して第87回箱根駅伝は幕を閉じました。我が母校中央大学、昨年の4位を少しでも上げ、あわよくば総合優勝をと期待を持ちましたが最終的には6位に終りました。前半17位と出遅れ”よもやシード落ち……?”と心配されましたが5区の大石(主将)の頑張りで見事盛り返しました。
 終りまして思うことを以下に記してみました。
1.一度は17位と落ちましても最後6位に滑り込んだのは大石君の力(貢献)は100%認めるとしてもやはり全体的に”古豪=伝統、中央の力”があったのではないかと思いました。
2.それに比べて日大は2区に外人選手(ベンジャミン)を投入し2〜3区中継所ではトップに躍り出ても全体の力がない為に最後はみじめな結果(最下位)に終りました。
3.大手町のゴール寸前ではでアンカーの塩谷君が今にも前にもんどりうってこけるのではないかと思われるほどのハラハラさせる力走であった。あれは思うに充分にシード権は(7位でも)確保されていたが優勝経験もない拓殖大学に絶対負けたくない……絶対に6位を渡したくないという気持ちの表れではないかと思った。
4.来年は大石君も卒業でいなくなるが、残ったメンバーと新しくまた全国の有名な駅伝高校から10名近くの優秀な選手も加わる予定なので浦田監督のもとに来年こそは優勝を目指して力走してほしいものである。そのためには我々OBOGも物心ともに応援を送りたいものである。それは……この大きな感動を与えてくれる”箱根駅伝ドラマ”への感謝の気持ちの現れでもある。
5.大手町のスタート日の中大の応援マナーはすばらしかった。私は7時15頃大手町のスタートライン近くに到着し、中央大学の応援場所(定位置が決められている)をめがけて混雑する歩道を進んだ。途中、早稲田の前を通過せざるをえなかったのだが狭い歩道に通行人と立ち止まる人とが入り乱れで押し合いへしあいの状況で朝の通勤ラッシュの状態であった。そして、大学関連の人もいたのだが誰も整理しようともせず放任し混乱にまかせていた。しかし、中央の場所まで来るとビルの前の応援団のグループと、立ち止まりそれを見る大学関連の人々の間にはきれいに通路が出来ていて一般の人々は難なくその間を通過できていた。応援態度は我々の方がほめられるものであった。また、他の大学(名前さえ忘れた)のところでは群衆の中で女子大生らしき人が手に手に”撮影禁止”と書いたプラカード(段ボール板)を高く掲げて”撮影は止めてください!”と叫んでいた。”なんでいけないの? だったら大衆の前でパホーマンス”しなければいいのに……”(たぶん想像するにチャガールのミニスカートのせいだと想像したが……そうだとしたら我々を馬鹿にした”被害妄想”としか言いようがない。  (来年いたら今度は聞いてみよう……)。
                        **** 佐藤 勝 ****(箱根駅伝を強くする会会員)


 第84回虎の門交響楽団定期演奏会が開催されました

平成22年11月19日(金)の夜、虎の門交響楽団の第84回定期演奏会が、大田区民ホール(アプリコ)大ホールで開催されました。今回は同楽団の創立40周年記念演奏会でもあり、指揮は過去にも何回かこの楽団を指揮をされたことのある、世界的に著名な横島勝人先生(写真)でした。
 曲目は、次のとおりでした。
  @ F・メンデルスゾーン 「序曲 ルイ・プラス」
  A F・ショパン       「ピアノ協奏曲第1番 ホ短調」
  B J・シベリウス     「交響曲第2番 ニ長調」

 白門43会幹事の古賀忠夫氏が、この楽団の一員で、ビオラ(バイオリン属の一つで、バイオリンよりやや大型で4弦の中音域用弦楽器)を担当しています。筆者は、楽譜も読めない音楽の門外漢です。古賀さんのご案内が無かったら、恐らく生涯この様な大演奏会に触れることは無かったと思います。古賀さんに感謝します。学生時代から定年退職後も引き続き、趣味の音楽に生きる古賀さんを敬服しています。
 今回で7回か、8回目の聴衆参加でしたが、奇しくもこの日、ジュネーブ国際音楽コンクールのピアノ部門で萩原麻未さん(23)が日本人で初の優勝をしたと当日の夕刊に大きく報じられていました。       (倉田隆次:記)


 「惜別の歌」藤江英輔先生の講演を聴きに行きました(続き)

  8月の初め、自分にも召集令状(赤紙)がきました。「静岡三方ケ原ノ駐屯地ニ入営セヨ」とあり、入営日は9月1日となっていました。しかし、8月15日に終戦になりました。それは酷暑の日でした。「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び……」という陛下の玉音放送を聴いて涙が溢れ、これではこの戦争で亡くなった幾百万の人々の魂の帰るところが無くなってしまうではないかという無念の思いがこみ上げてきました。それから約1箇月、私は何の目的もなく、空襲で崩れた瓦礫の山を掘り起していました。
 幸い神田の中央大学は空襲でも焼け残り、20年10月に大学が再開され、私たちは学校に戻りました。やがて卒業をむかえ、学生たちはそれぞれ各地に散って行きましたが、惜別の歌だけは皆が歌っていました。
 昭和26年にこの歌を学生歌としてレコード化するという話が持ち上がりました。しかしここで問題がありました。詩の一部を変えてレコードにするためには著作権者の了解を得なければなりませんが、島崎藤村は昭和18年にすでに亡くなってしまっていました。でも幸いなことに私は新潮社に勤めていて、同社ではその頃「島崎藤村全集」を刊行している最中で、編集委員の中に藤村の遺児の蓊助氏がいたことでした。氏は快く了承して下さり、かくして中央大学の学生歌として「惜別の歌」ができあがったのです。
 その後、歌声喫茶が流行りはじめ、これに目をつけたレコード会社は歌声喫茶でリクエストの多い曲をレコード化していました。そしてリクエストの中に惜別の歌が入っていたのです。昭和35、6年頃だったと思いますが、ある日、自宅にコロンビアの邦楽部長という人が訪ねてきました。今度コロンビアでレコードを作ったので了承して欲しいということでした。
 小林旭という歌手に歌わせていて、1週間後には発売だという。私はまた蓊助氏に連絡をとり、趣旨を申し上げると「学生歌ではよくて一般の歌ではだめだとは言えまい」といって了承してくれました。こうして「惜別の歌」のレコードが世に出たのですが、その年のレコード大賞の選考会で2位になりました。1位は「上を向いて歩こう」でした。いまは抒情歌として歌われていますが、当時、パチンコ屋でもこのレコードを掛けていて変な気分になったこともありました。
 昭和41年頃だったと思いますが中大の猪間驥一教授が私のところに訪ねてこられました。先生の退職の告別講演で「中大校歌と惜別の歌」という題で講演したいからと了解を求めてこられたのです。中大の大講堂で行われたこの講演を私も聴かせていただくことになりましたが、先生はこんな話をされました。先生がウイーン大学を訪問した時、そこの玄関には女神の首の像があり、台座の正面には「栄誉、自由、祖国」と刻まれており、右側には「わが大学の倒れし英雄をたたえて」と彫られていた。このほかドイツのハイデルベルグ大学などでも戸口に銘文を掲げているが、日本にはそういうものを掲げているところがない。でも中央大学には「惜別の歌」があると言われた。これは明らかに褒め過ぎですが、私はそういわれて面映い思いをしたことを覚えています。
 それから戦後四半世紀も経った昭和45年のある日、私は霞ヶ浦の「霞月楼」という料亭に上りました。霞ヶ浦は予科練があったところです。料亭の女将さんが我が家の宝物だという屏風を運ばせてきて見せてくれました。屏風にはたくさんの寄書が書いてありました。かってここの霞ヶ浦航空隊から飛び立っていった若き軍人さんたちが書いたものだという。その中で私の目に飛び込んできた連句がありました。
 発句には
    茶を噛みて 明日はゆく身の 侘び三昧
とあり、これに続く付け句として
    猿は知るまい 岩清水
とあったのです。
 「猿」が何を意味しているかいろいろ解釈はあるでしょうが、この気持を誰が分かってくれるだろうかという思いを胸に抱きながら、若者たちは戦地に赴いたのではないでしょうか。そして「惜別の歌」で送られた友人たちが今この場にいたらどういう話をするだろうかと思ったりします。
 この昭和45年という年は世の中の転換点だったと思います。この年、万博が開かれ入場者は6,420万人に達しました。作家の三島由紀夫が自決をしたりして、時代の風が変ってきました。そしていま、惜別の歌ができた頃の空気を想像し、万感の思いが胸を去来します。


 「惜別の歌」藤江英輔先生の講演を聴きに行きました

  遠き別れに 耐えかねて
  この高楼に 登るかな
  悲しむなかれ わが友よ
  旅の衣を ととのえよ

 先日、中央大学の学生歌「惜別の歌」の作曲者である藤江英輔先生の「惜別の歌と平和」と題する記念講演会が千葉県流山市で開かれました。この歌に深い思いを抱いていた管理人は、埼玉県から電車を乗り継いではるばる聴きに行きました。(右の写真は、長野県小諸市の懐古園にある「惜別の歌の碑」)
 講演会は、平成22年5月16日(日)、流山市の文化会館で同市教育委員会の主催により開催されました。好天に恵まれたこの日、会場に着くと現在流山白門会の幹事をしておられる白門43会の前幹事長の伊藤正敏さんがにこやかに出迎えてくれました。開催に当たっては、中央大学学員会千葉県支部や流山白門会が協力・協賛として実質的な尽力をされたようです。開演の時には、700名くらいは入れる文化会館が満員になりました。
 この歌は、先の大戦末期に当時中大予科生だった藤江先生が島崎藤村の詩に曲を付けて作曲されたことは以前から知っていましたが、先生がまだご健在だったとは知らず、大変驚きました。
 会は、流山市教育長の挨拶に続いて藤江先生が約1時間にわたり講演され、その後白門グリークラブのメンバーによる合唱(惜別の歌、箱根八里、平城山など9曲)が披露され、最後に藤江先生やグリークラブ、先生のお孫さんなどと、会場の皆が一緒になって「惜別の歌」を歌いました。年をとって涙もろくなったせいか、先生のお話に感動した管理人はこの歌を歌っているとき涙が出てきて止りませんでした。 藤江先生は、大正14年生まれ、中央大学法学部卒業後、昭和25年新潮社に入社。「週刊新潮」や「小説新潮」の編集に携わり、広告局長を最後に同社を退職。その後は会社経営をされているようです。以下、先生の講演の概要を管理人の文責により紹介します。(長くなるので2回に分けて掲載します。)
 私が中央大学予科に入ったのは、太平洋戦争末期の昭和19年で、その年の7月には学徒動員で板橋の陸軍造兵廠で働くことになりました。ここは軍需工場で、私たちは兵器の生産などの労働に従事しました。ここでは大学生だけでなく、中学生や東京高等女子師範学校の女学生なども働いていました。この当時、米軍はサイパンの航空基地から東京まで2,400km、毎日のように空襲を仕掛けてきていました。
 「惜別の歌」の原詩は島崎藤村の「若菜集」に出てくる「高楼(たかどの)」という詩で、嫁ぎ行く姉を送る妹の思いを書いた詩ですが、私の父親の本箱の中にこの歌集がありました。「わが友よ」のところは、藤村の詩では「わが姉よ」になっていました。
 戦争が激しくなり、工場で働いていた友達が「赤紙」で招集され、戦地に赴いて行くようになりました。私はこの赤紙を友達に渡す役目を仰せつかっていました。赤紙を受け取った友は、送別会もなく去って行きましたが、この別れに私は堪えられなくなりました。
 昭和20年2月22日のことです。前日の夜7時から夜勤で、私は朝5時ころ造兵廠を出て、当時住まっていた巣鴨の祖母の家に帰る途中でした。前夜から降り積った大雪のため朴歯の下駄で難渋しながら歩いているとき、突然「わが友よ」の曲想が浮かんできたのです。「旅の衣」は、軍服とその下に着る白い下着を連想しました。その頃私はバイオリンを弾いていましたので、家に帰りつくとすぐにバイオリンを取り出し、その日のうちにこの曲を作り上げました。
 自分で作った曲を口ずさんでいると、友人が俺にも教えろといいました。そして次第にその輪が広がり、中大の学生だけでなく、女学生の間などにも広がって行き、いつしか、招集されて去って行く友への送別の歌になっていったのです。(続く)


 最近読んだ本「生きるとはなあ」

「生きるとはなあ」(羅漢さんの絵説法─人生波羅密)
里文出版 荒 了寛著 2000年2月改訂版発行 118頁 本体1,800円+税

 天台宗ハワイ別院を創設したお坊さんが書いた絵説法の本です。最近、というよりも管理人が心臓病で闘病生活をしているときに、ふと書店で手にとってみて、心に光明がともったような気がしてその場で購入した本です。荒んだ心で生きる望みを失いかけていたときに、何かにすがりたいという気持がそうさせたのだと思います。
 著者は35年前にハワイに移り住んで天台宗ハワイ別院を創設されたご住職で、布教の傍らハワイ美術院、ハワイ学院日本語学校などを設立、日本文化の紹介、普及に努めています。独自の画法の仏画も描き、米国や日本各地で個展を開いています。
 本の中身は、見開き二頁を使って独特の書体で墨書した人生訓と墨絵、それに人生訓の英訳が載っています。その一例をご紹介します。

「夢をもつんだね 夢で終ってもいいじゃないですか それだけ人生は豊かになる」
 Hold on your dreams, even if it ends only as a dream,
  To that extent your life has become enriched.

「登り道は迷わない 降り道気をつけよ 轉ぶし 迷うし 淵もだんだん深くなる」
  In climbing on the Path, one does not go astray. In descending, be careful.
  One may, stumble, slip, or go astray. The abyss alongside, will, at each downward step, become deeper and deeper.

「人間は泣きながら生まれてきたんだ ながい人生だもの 泣くこともあるさ その度に生れ変るんだ」
 None did'nt make the first-cry when one was brought to the world. On the long journey of life and death, one should often cry for some reasons, and each time one cries there certainly will be a change.

「人間はみかけも大事だよ あごをひいて背すじをのばし それにいい笑顔だね」
 Appearance is important too, pull in your jaw, straighten your back, and wear a smile,


 第81回虎の門交響楽団定期演奏会鑑賞の雑想

ざわめく客席。静寂に満ち、薄墨色の舞台。雑然と半円形に並ぶ楽器・椅子のシルエット。「携帯電話のスイッチをお切りになるかマナーモードに切り替えて下さい」との女性の声。
 2009年5月29日(金)午後7時、大田区民ホール(アプリコ)の大ホール。舞台一杯に照明が煌々と照らされる。舞台の両袖から数十名の楽団員が登壇、着席。
 第一バイオリンのコンサートマスターが登場。おもむろにバイオリンを響かせる。一斉にキーキー、ピーピー、ギーコギーコ、ブーブーブーと不揃い乍ら音の響きの交錯。オーケストラ開演前の独特の音色の響きだ。ムードと期待が一挙に盛り上がる。
 黒いタキシードを着た指揮者が笑顔で軽やかに現れる。半円形の輪の真ん中にすっと立つ。一瞬静止する指揮者。決意したかのようにタクトをさっとと振り上げる。
 演奏が始まった。一曲目の歌曲「ザンパ」の舞台一杯に音が満ちる。その余韻が観客席にまで波及する。大きく響き渡る。

 私は、若い頃も含めてカラオケ喫茶・酒場・スナックに通ったことは数多いものの、オーケストラの鑑賞は、数少ない音楽音痴、音楽の世界について世間知らずの私ごとき者が真っ正面からクラッシック音楽の感想を述べることは無いものねだりであることは百も承知しています。いくら頭を絞ってもパソコンを叩いても、知恵もアイデアも滲みででてきません。私と音楽との関係は月とスッポン程の違いがあり、矩を越えて感想を話す野暮なことは重々知っております。しかし乗りかかった舟を港まで航行させなくてはなりません。こんなことで今回は、プログラムの内容の触りをご紹介しつつ鑑賞中に頭の中をよぎった雑念の内容など弥次喜多風でお茶を濁すこととします。

 @ L.エロール 歌劇「ザンパ」序曲
    ザンバは、主人公の海賊の名前で、破天荒なザンバの恋物語を中心に歌劇が展開。
 A F.プーランク バレエ組曲「牝鹿」
    大きな部屋に、家具として大きな青いソファーが一つだけという舞台に美しい16人の
    女性と3人の運動選手のような男性が暑い夏の午後にふざけまわると言うバレエ。
    そしてこの後は・・・。
 B R.シューマン 交響曲第一番変ロ長調 作品38「春」
    霞がかった田園風景の情景として溌剌とした春の訪れの中に春の川面に照りかえる
    水の煌めきや小鳥のさえずりを音楽で表現。

 音楽には、例えば最後の交響曲の「春」は、このように情景をイメージし、作曲家の感性によって音符の織りなすことによって美を表現していることを音痴の私はこのように齢を重ねながら改めて理解致しました。このことに納得をすると音楽の親近感も湧き、今日の演奏会においても、この情景を頭の中で思い描きつつ鑑賞すると従来とは異なった世界が開かれたと思いつつ、今まで形の無い抽象的な音色には無頓着であった自分が恥ずかしい思いで一杯になってしまいました。
 つまり、オーケストラに関しては、音色やハーモニーでの集合のみで視覚的訴求力とは異なり抽象的で分かり難いと感じておりましたが、作曲家が情景やドラマを素材に、その思いを五線譜に音階を描き出す、それを受けて指揮者は、音符を翻訳し指揮をとる。さらに演奏家は舞台上で演奏する。オーケストラは、総合芸術であって作曲家・指揮者・演奏者の三位一体になって観客を魅了する大変奥行きの深い芸術と改めて考えることが出来たのは、大きな収穫となりました(本当に今更の感があります)。
 この中で我が白門43会の古賀さんは、余裕を持って楽しんで生涯現役のビオラを奏でておられ、趣味の乏しいものとして羨ましいと共にジェラシーさえ感じてしまいました。
 また、公務員、会社員そして学生あるいは主婦の様々な職業の老若男女とバランスの取れた数十名の多数の皆さんが多忙な日常の生活をやり繰りされ、練習時間も限られ、一同に会する機会が少ない時間を十分に活用された結果、全体とパートの部分が一つに融合し素晴らしい演奏会と感じておりました。
 なお、私の隣に43会のTさんと演奏会の前後や休憩時間に話しておりました。指揮者は、何故頻繁にコンサートマスターと握手するのか? また43会で会計担当の彼はこの運営費等の経費はどうなっているのかなど他人の財布の中身まで心配したり、あるいは私達より前に座っている男性を頭の形状のみであの人は「43会のSさんに違いない」など取り留めのない話などに花が咲き、あるいは不謹慎きわまりない妄想・雑念に駆り立てながらの鑑賞と実にお行儀の悪い一面を持つ観客の一人でした。

 当日の会場は、雨の心配する中でほぼ一杯の盛況裡に予定されていた3曲目も終わり、演奏会は終了した。観客席から一斉にアンコール、カーテンコール、アンコール、カーテンコール。またまた、さらに、アンコール、カーテンコールの拍手の嵐が鳴りやまない。この間団員の方々は、立ったり座ったり、指揮者は楽屋から出たり入ったりと、観客と舞台が一体になっての盛り上がりとなりました。この状況の中で楽団員の心の中は安堵感なのか、達成感か、あるいは次回の講演会には反省しているのかとか、何を思っているのだろうと想像してしまい、失礼ながらこのように楽しい思いにふける事もありました。
 指揮者に花束贈呈後のアンコール曲があって、始まりからお開きまでの1時間30分間は、あっと言う間に過ぎ去ってしましました。
 最後にさらに誉め言葉になるのか、反対に下拙とお叱りを受けるのか心配になりますが、東京フィル、日本フィルあるいはN響などの恵まれたプロ楽団と比べてもアマ楽団とは思えない虎響の技量を見せつけられ、歌の音痴の繊細さに欠ける私の耳を考慮しても遜色無く感じられ、かつ、レコーデングされた媒体と異なって生の演奏は臨場感に溢れ、耳の奥底まで未だに響き渡っています。

 そして芸術と言えば音楽と絵画。音楽と絵画とそもそも論を比較・議論をする気持ちはありませんし、不可能ですが、敢えて言えば、音楽は一瞬の演奏会で煌めくための、一方絵画は長期間の鑑賞に耐える得る芸術と空想します。
 白門43会の仲間には、この絵画の関係でも感性・異才をお持ちの素晴らしい芸術家が多士済々と集っており活躍されていることは皆さんのご承知のとおりです。私の知っている限りでも、町田さん、鹽野さん、そして依岡さんなどで、これらの方々に改めてエールを贈り、更なるご活躍とご発展を祈念致します。
 最後になりましたが、古賀さんにはこのような素晴らしいコンサートを素晴らしい席で、かつ、無料で鑑賞が出来、さらに43会の仲間との懇親の場が設けられ、さらには、二次会となって夜の町に流れて行く機会も与えて頂き、重ねて感謝致します。
 蛇足になりますが、今回の演奏会において白髪のかなり先輩の女性が最初の一曲が終了すると、退席され、それ以降、お姿を見せませんでした。この光景だけで見ての思いですが、小生の生き様を重ね合わせて考えてしまい、前期高年齢者の入口にある私自身身につまされ、ものの哀れを感じる思いがあると共に、この女性は、永年大いに自分の趣味を大切にされている姿を想い、この方にもエールを贈り続けたいものです。
                                     宍倉邦茂(法・法):記


 「いざ」というときの応急救命措置

 あと何年もしないうちに古稀を迎えようという管理人は、最近、いつ倒れるか分からないという恐怖におののいています。そこで老妻と2人で市の消防本部で開催された救命講習会に参加し、講習を受けてきました。2人のうちどちらかが倒れたら、他の一方が救急車を呼ぶと同時に応急措置を施して、何とか生き延びなければという考えです。
 それは前夜来の大雪に見舞われた2月3日の朝のことでした。心臓病もかかえた管理人は気が臆するところもあったのですが、前月から申し込んであったので長靴を履き重装備で出かけました。
 講習は座学と実技で、実技の方は、2人が組になって相互に患者役と介助役になって横向きに寝かせて気道を確保する方法や、人形を相手に心肺蘇生法(人工呼吸と心臓マッサージ)やAEDの使い方の訓練でした。半日の講習でしたが、最後は一人一人習得度をチェックし、不充分な人は繰り返し練習をさせられて、参加者全員が修了証書をもらいました。
 ところでその内容ですが、人が倒れた時、救急車を呼んでから到着するまでの時間は平均6分間かかるということです。一方、下図にあるように、人が心停止に陥った場合、脳は約3〜4分間の血流停止によって重大な障害を受けるので、心停止に対する蘇生法を速やかに開始しなければ効果が乏しいようです。そこで救急隊が現場に到着するまでの間、現場に居合わせた人が心肺蘇生法を実施することが救命のために極めて重要だということです。
 白門43会員の皆様は管理人ほどの年の人は少ないとは思いますが、これから老化の道は避けて通れませんので、参考にしていただけたらと思います。
         
                  @ 心臓停止後約3分で50%死亡
                  A 呼吸停止後約10分で50%死亡
                  B 多量出血後約30分で50%死亡
 [緊急時の対応]
@倒れている人に声をかけて軽く肩を叩き、反応があるか、正常な呼吸をしているかを確かめる。
A正常な呼吸が認められない場合
 ・119番で救急車、心肺蘇生法、AED
 (具体的対応は、このサイトを参照)
B正常な呼吸をしている場合
 ・119番で救急車と回復体位


 最近読んだ本「ひとり日和」

 「ひとり日和」(第136回芥川賞受賞作品) 
 河出書房新社 青山七恵著  2007年2月出版(169頁) 1,260円(税込)

 
最初にお断りしておきますが、管理人が読んだ作品は、この単行本が出版される前に「文藝春秋」2007年3月号の「芥川賞受賞作全文発表」で読んだものです。だから作者が単行本発表の段階で筆を入れたかどうか(多分ないとは思いますが。)は、確認していません。(第130回受賞者の金原ひとみさんは、受賞作「蛇にピアス」で単行本発行の際、終末の部分に筆を加えています。)
 作者の青山七恵さんは23歳、埼玉県在住で都内の旅行会社に勤務しながら2005年に「窓の灯」(河井出書房新社)で第42回文藝賞を受賞してデビューした新進気鋭の作家です。
 大筋は新聞各紙に掲載されのでご存知の人が多いと思いますが、少し説明しておきます。
 一口で言えば、主人公の20歳のフリーターの女性が遠縁の70過ぎのおばあさんの家に居候して暮す生活を中心として、おばあさんとの日常のやりとりや、2人の恋人に振られることなど、いくつかの、いってみれば、ありふれた事柄が、自分の上を通りすぎて行く。そういう中で主人公が少しずつ大人の世界に踏み込んで行く自分を見つけるといった類の作品です。
 主人公の女性は高校教師の母親と埼玉県に住んでいますが、母が仕事で中国へ出かけるのを機に、親から独立したいと考え、アパート住まいをすれば家賃だけで10万円以上はかかる現実から、遠縁の一人暮しのおばあさんの家に世話になることになります。その家は、私鉄の駅のホームから道路一つを隔てたところにあって、垣根越しにホームが見渡せる場所なのに、駅の出口が反対方向にあって、この家の出入口も変なところについているので、商店街を通り抜けて道路をぐるっと迂回しなければ家には入れないという不思議な設定になっています。
 70過ぎのおばあさんとの同居ということから、管理人は、このおばあさんはすごくしょぼくれていて、暗いイメージの人だと思っていたのですが、意外とそうではなく、世の中を割り切って生きているらしく、アッケラカンとしていて、習いに行っているダンス教室の老人とのロマンスがあり、ときどきその男とデートに出かけたり、家に呼んだりするのです。
 主人公はコンパニオンのアルバイトをしたり(書いてはないけれど、2時間の宴会に出て8,000円ももらえるコンパニオンが勤まるくらいだから、それなりの美人なのだろう)、駅の売店の売り子を掛け持ちしたりして稼ぐ。一方で二人の恋人に振られるけれども、それほど深刻にはならず、そういうものかといった受止め方をする。
 一年ほどそういう生活をして、やがて主人公はコンパニオンなどを辞めて勤めていたアルバイト先の会社から正社員の誘いを受けてOLの生活に入るために、おばあさんの家を出ていくといった内容です。
 でもあまり事件らしい事件というのがあるわけでなく、管理人には何となく筋書きがつかみ難い感じがしました。章立ては、「春」「夏」「秋」「冬」「春の手前」と分かれてはいるのですが、どの頁を開いても同じようなことが書いてあるように思えてしまうのです。
 しかしながら、最近の芥川賞受賞作品は一種独特な切り口があって、管理人の年配ではなかなかついて行き難いという共通点のようなものがありましたが、今回の作品にはそういった、我々世代を突き放したようなところがなく、割合読みやすい作品でした。
 例えば、おばあさんの家を出て行く直前に主人公はおばあさんの吟子さんにいいます。
「吟子さん、外の世界って、厳しいんだろうね。あたしなんか、すぐ落ちこぼれちゃうんだろうね」
「世界に外も中もないのよ。この世はひとつしかないでしょ」吟子さんはきっぱりといった。
 こんな具合のやりとりが、読ませ所なのかもしれません。
 今回の芥川賞選考会では、「最近の候補作は面白いものがない」といって、いつも積極的な評価をしなかった石原慎太郎氏(「太陽の季節」で第34回芥川賞受賞)が、珍しく「これはよい」といって推薦し、自ら受賞作品発表の記者会見に出て講評をするといった力の入れようでした。
 一方で、選者の中では比較的若い山田詠美氏は、「大人の域に一歩踏み出す手前のエアポケットのような日々が淡々と描かれ・・・いや淡々とし過ぎて、思わず縁側でお茶を飲みながら、そのまま寝てしまいそう・・・日常に疲れた殿方にお勧め。私には、いささか退屈」といっていますが、ある意味では的を射た評価のようにも思えます。



 声明と平曲を楽しむ会が開催されました

第54回声明と平曲を楽しむ会

 掲載が遅くなりましたが、平成19年4月8日(日)「第54回声明と平曲を楽しむ会」が所沢の寶玉院で開催されました。
 4月8日はお釈迦様が誕生されたといわれる日で、寺院では灌仏会(かんぶつえ)といって、天上天下を指差す小型のお釈迦様の像の周りに花を飾ったり、甘露の霊水として甘茶をかけたりして祝います。
 この日は最初にご住職新井弘順師による声明でしたが、灌仏会に因んで、明恵上人の作といわれるお釈迦様の誕生を祝う吉慶の声明が、声高らかに演唱されました。
 次が平曲(平家琵琶)ですが、この日は解説の講師に予定していた法政大学教授のスティーブン・ネルソン先生が急病のため来られなくなり、急遽、一橋大学の留学生でバーレーン王国から来られているハサン・ヘジャイリさんのウードの演奏となりました。ウードは琵琶の原型で、古いアラブ民族楽器のウードが、一方では西洋楽器のリュートになり、他方では中国を経て日本に伝来し、定着したのが琵琶だといわれます。胴が丸みを帯びていたり、弦を巻上げるところ(琵琶では「転手」といいます。)が棹の先から90度に曲っている所など、特徴が良く似ています。
 この日の句組(演奏科目)は、最初に香取亜希さんの「忠度都落」、次が新井泰子さん(平家琵琶相伝者)の「経正都落」と「青山之沙汰」でした。香取亜紀さんはしばらく前まで前座を勤めていましたが、寶玉院内にある日本伝統音楽研究所の専門家養成課程で6年間学んで腕を磨かれ、前回の第53回(管理人は都合で出席できませんでした。)から、新井先生と並び本番で演奏されるようになりました。
 「忠度都落」は、平家一族が木曽義仲に追われて、一路福原を指して都落ちして行く中で、薩摩守忠度が途中から京に立ち戻り、和歌の師である藤原俊成に自作の和歌一巻を託して、勅撰集が編纂される時は、この中の一首でも取上げて欲しいと頼みます。俊成は忠度の態度に感激しますが、後に千載集を編纂する時に、朝敵となった平家の歌人の歌をそのまま載せるわけにはゆかないので、「読人知らず」として、
  さざなみや志賀の都はあれにしをむかしながらの山さくらかな
という一首を入れたという話です。
 (ついでですが、明治時代に作られた「青葉の笛」という歌(「一の谷のいくさ破れ・・・」という出だしです。)があり、平敦盛の歌として有名ですが、歌の二番は薩摩守忠度の上述のエピソードを歌ったものです。)
 「経正都落」というのは、平清盛や忠度の甥である経正が、都落ちの途次、幼少の時に仁和寺の御室の御所で過ごした時に守覚法親王から賜った名器の「青山」という由緒ある琵琶(その由緒の内容がこの後の「青山之沙汰」ですが、説明は省略します。)を返上しに戻るというところです。
 帰りがけに幼少のときに一緒だった大納言法印行慶が桂川のほとりまで見送りに出ますが、そのときお互いに歌を交します。行慶は、
  あわれなり老木わか木の山ざくらおくれさきだち花はのこらじ
と、平家の人々の運命を桜にたとえて、その没落をはかなみます。これに対して経正は、
  旅ごろも夜なよな袖をかたしきておもへばわれはとほくゆきなん
と、旅衣の袖の片方だけ敷いて夜毎に一人寝の旅を続け、思えば私はどこまでも遠く離れ去って行くことでしょう、と返歌をします。そして平家の赤旗をさっと揚げて駒を速めて安徳天皇の行列の後を追うのでした。


 なお、今度「語りで楽しむ平家物語全200句」という会が、次のとおり開催されることになりました。
 講  師: 新井泰子(前田流平家詩曲相伝者)
 会  場: 殿ケ谷戸庭園内 紅葉亭(JR国分寺南口徒歩2分)
 日  時: 毎月第2金曜日 13:00〜16:00
 会  費: 各回 2,350円(別に入園料150円が必要)
 連絡先: 〒359-1164 所沢市三ケ島3-1167 TEL 04-2948-3679
       日本伝統音楽研究所 新井泰子(事前に電話による申込が必要)      

第52回声明と平曲を楽しむ会

平成18年6月18日(日)「第52回声明と平曲を楽しむ会」が所沢の寶玉院で開催されました。
 この日は梅雨の真最中で、前夜来の雨は上がったものの朝からどんよりとした曇り空でした。白門43会幹事の林克明君(法法)が、「前回はお付合いで行ったが、今回は是非聴きたいので一緒に連れて行って貰いたい」という熱意ある要望を伝えてきたので、西武池袋線の小手指駅で待ち合わせて、路線バスで会場の寶玉院へ向かいました。
 寶玉院の門を入ると、また降り出した雨の中で、市の保存樹木に指定されている菩提樹の花の匂いが甘やかに鼻をくすぐりました。
 林君が是非聴きたいといっていた研修生の香取亜希さんの琵琶演奏は、「生好(いけずき)」でした。名高い「宇治川の先陣争い」の前場面で、頼朝に名馬「生好」を所望して断られ、代わりに「摺墨(するすみ)」という馬を拝領して木曽義仲追討に出かけた梶原景季が、途中で佐々木高綱が「生好」を拝領したらしいのを知り腹を立てるが、佐々木高綱が咄嗟の機転で「これは盗んできたものだ」といってその場を切り抜けるエピソードの部分でした。香取さんの若々しい張りのある声に林君共々感動しました。
 寶玉院住職の新井弘順師による「声明」は、庭の菩提樹の開花に合わせて選んだという、「遺跡講式(ゆいせきこうしき)」の中の菩提樹の霊威を説諭する部分でした。
 管理人が少し勉強したところを披露しますと、「講式」というのは、「声明」の中の一つの部門で、お経のようにインドや中国から伝えられたものではなく、日本で創作されたもので、仏教の思想や信仰を文学的な様式をもって表現したものです。「六道講式」や「往生講式」などというのもありますが、一番代表的なのは、鎌倉時代の初めに栂尾の明恵上人が作られた「四座講式」というものです。「四座講式」は釈尊が涅槃に入られた(死亡した)際の状況を解りやすく説きあかし、その遺徳を讃嘆するために講文調で書かれたものです。「涅槃講式」「十六羅漢講式」「遺跡講式」「舎利講式」の四種から成っていて、それぞれ、お釈迦様の入滅の様子、弟子達の悲嘆の姿、荼毘の情景、沙羅双樹の遺跡と法要の趣旨などの内容で構成されています。今回は参加者が全員で菩提樹のところを音読した後、師の高らかな演唱を聴きました。
 前田流平曲伝承者の新井泰子さんによる「平曲」は、今回は「主上都落」(平家物語巻之七)でした。最初に解説が行われましたが、今回は新井泰子さんご自身によって平曲の成立ちや伝承の歴史などが述べられました。この辺りは管理人も些かウンチクがあるのですが、長くなるので今回は省略して、後日に譲ることとします。
 さて平曲の内容ですが、「主上都落」は、木曽の軍勢が都に迫ってきているという情報に、平家の総帥・大納言宗盛は手勢を分けて京へ入る要路の固めに向かわせますが、劣勢と見て全員を引揚げさせてしまいます。そして京を明渡し、主上(安徳天皇)と後白河法皇を伴って西国へ向かうという計画を建礼門院に打ち明けて了解を貰い、実行に移そうとしますが、情報を事前にキャッチした後白河法皇は、夜のうちに共の者一人を伴って鞍馬に逃げてしまいます。行き先を突き止められず、後白河法皇を取込み損なった平家は、このあと法皇の老獪な作戦に振り回されることになるのですが、この段では平家が主上に供奉し三種の神器を携えて慌てて京の都を落ちて行く様子と、主上に付き従って行くはずの摂政(藤原基道)が途中で考え直し、御車を方向転換するくだりが述べられます。
 今回の会は梅雨空が祟ったのか、珍しく参加者は全員男性(それもかなり年配の)でした。お陰で茶話会の方は少人数のこぢんまりとしたものになりましたが、それが却って議論を沸かせ、平曲がどんな意図の下に作られ、伝承されてきたのかというようなことから始まって、日本の伝統音楽についての最近の傾向や若者の受容力などにまで話が及びました。

第51回声明と平曲を楽しむ会

 平成18年3月25日(土)「第51回声明と平曲を楽しむ会」が所沢の寶玉院で開催されました。
 東京では桜の開花も発表されましたが、ここ寶玉院では例年なら満開になっているはずのコブシの花もまだチラホラといった状態でした。
 今回の「楽しむ会」には白門43会幹事の林克明君も同行されましたので、第1部開始前の研修生による琵琶演奏も含めて、春の午後のひととき、日本の伝統音楽をじっくりと味わいました。
 研修生の香取亜希さんの琵琶演奏は「忠度都落」でした。源氏に追われて平家一族が都を落ちて行くとき歌人の平忠度が、師である藤原定家の屋敷へ駆け戻り、自作の歌を書き留めた巻物を託してこの中からよいものがあったら勅撰集を編纂するときに取上げて欲しいと頼みます。定家は後に千載集を編纂するときに、その中から「さざなみや滋賀の都はあれにしをむかしながらの山ざくらかな」という一首を盛り込みますが、朝敵となった平氏の名を明記することを憚り、「読み人しらず」として掲載しました。香取さんの張りのある若々しい声に同行の林君もいたく感激していました。
 第1部の声明は、寶玉院住職の新井弘順師による羅漢講式第5段「発願回向」でした。内容はやや難しくて管理人の理解を超える所がありましたが、相変わらず師の朗々たる発声に感嘆しました。
 第2部の平曲は、「平家連署願書」(平家物語巻之七)でした。最初に法政大学教授のスチーブン・ネルソン先生による解説があり、その後で前田流平曲伝承者の新井泰子さんによる演唱が行われました。今回の内容は、源義仲に攻めたてられた平家が比叡山に援助を求める願書を提出しますが、その前に比叡山では義仲の方に味方するよう決定し、義仲にその旨の返事をした後だったので、平家の要請に耳をかす者はなかったというくだりです。
 内容の大半は平家が提出した願書そのもので占められていますが、それをネルソン先生が分かりやすく説明してくれました。願書は漢文で書かれた名文のようですが、これを仔細に検討すると、全般にわたり二つの語句が対句になっていて整然と並んでいるということでした。例えば「敬って申す。延暦寺を以って氏寺に順じ、日吉の社を以って氏社とし、一向天台の仏法を仰ぐべき事」という書出しの部分は、次のようになるということでした。
 敬白
  以 延暦寺 帰依順 氏寺 
  以 日吉社 尊崇如 氏社 
 一向可v 仰二 天台仏法 事
 会の後の茶話会には参加者のほとんどが出席しましたが、この中で当日出席していた我が国の琵琶製作の第一人者である田村皓司さん(宮内庁の楽琵琶や平家琵琶、薩摩琵琶を製作)が4月11日に吉川英治文化賞を受賞されることが披露されました。(左の写真は平成13.10.14の朝日新聞に掲載された田村さん。)

第50回声明と平曲を楽しむ会

 平成17年9月19日(月・祝)「第50回声明と平曲を楽しむ会」が所沢の寶玉院で開催されました。
 敬老の日のこの日は残暑のとても厳しい日でした。寶玉院の本堂はクーラーがないので窓を開け、扇風機を回してなるべく自然に近い環境の中で行われました。(管理人は扇子を手から離せませんでした。)
 第1部の声明は、寶玉院住職の新井弘順師による羅漢講式第四段の「現在の神徳を讃む」というものでした。(講式というのは、仏、菩薩、高僧などの功徳を称え、ふしをつけて読むもので、涅槃講式、遺跡講式、羅漢講式、舎利講式などがある。)何やら難しい、ちょっと取っ付き難いもののようで、例えば「夫れ、称性の徳は、自他平等なり。証理の行は、彼此皆同じと雖も、凡眼は難思の境を隔て、愚情は奇特の法を嫉む」というような難解な言葉が並べ立ててありました。でも話を聞いてみるとどうということはない、修行僧がお風呂に入るときの作法のようなものだということでした。それにしても朝から晩まで食事や排泄も含めあらゆる行動が「行(ぎょう)」と位置付けられ儀式化される修行というものは大変なのだという気がしました。いつものように参加者が皆で音読した後、弘順師が演唱されました。
 第2部の平曲は、前田流平曲伝承者の新井泰子さんによる「木曽山門牒状」と「山門返牒」(平家物語巻之七)でした。木曽義仲が追討に向かった平家軍は、倶利伽羅谷や篠原の合戦で大敗する。勝利して上洛を決意した義仲は比叡山延暦寺に対し、源氏に味方するよう書状を送る。これが「木曽山門牒状」で、平家の無法を並べ立てるとともに、これまでの源氏の活躍ぶりを誇示し、叡山がもし平家に味方するならば直ちに合戦し打ち滅ぼすが、どちらにつくかよく考えて、できれば当方に味方してもらいたい、といった内容である。「山門返牒」はこれに対する叡山からの返事で、叡山側ではいろいろ議論になり、結果的にはこれまで平家にいろいろ世話になったが、旗色が悪い平家に味方して、いま勢いがある源氏に歯向かうのは不利という結論になり、「お味方します」という返事を出すのである。平曲の中では今回の二つの句(章)は、内容が手紙の中味であることから「読み物」という特別の語り方で、ゆっくりと、かつ、書面の内容をはっきりと伝える形をとり、これまでの平曲とかなり違っているなという印象がしました。
 会の後の茶話会にはほとんどの参加者(平家琵琶製作第一人者の田村晧司さん、東京芸大・楽理科の学生などもきていました。)が出席しましたが、その中でこの日(9月19日)の朝日新聞や読売新聞に掲載された、「布橋灌頂会」の話がありました。これは前日の18日に富山県立山町で開催されたもので、江戸時代以後途絶えていた伝統の儀式で、ご住職の弘順師がその復元に主導的な役割を果たされたとのことでした。布橋灌頂会の儀式の中では、白衣に身を包んだ大勢の女人衆が橋に敷かれた3本の白布の上を目隠しをして、声明の響きに導かれ、雅楽の奏べにのりながら、静々と渡るところがあります。信仰では、この橋は極楽浄土へ渡る掛け橋、即ち此岸と彼岸をつなぐ境界の橋とされ、悪人はこの橋から谷川へ転落すると伝えられているそうです。
 なお、寶玉院では日本伝統音楽研究所を開設しており、雅楽、声明、平曲、能、狂言等の講義、指導なども行っています。興味のある方は寶玉院(042-948-3679)へお尋ね下さい。


 あの吉村さん(中大先輩=理工学部)の紀行文が本に

 先に「寧日雑感U 佐藤勝特設コーナー」の中の「2,500km走破、3度目の単独北海道ツーリング 」でご紹介した吉村靖夫先輩(1965年中央大学大学院修士課程卒)が、この度その延べ走行日数270日、距離8,296Kmにわたる日本列島一周徒歩の旅の記録を本として出版しました。

   書  名: 日本列島一周徒歩の旅 (吉村 靖夫 著)
          = 270日 8,296Kmの記録=
          (沢山の写真や地図が機能的に配置されています)
   発行所 : 山文社
   価  格 : 書籍本体価格 1,300円

 吉村さんと私(佐藤勝)は、私がオートバイで北海道をツーリング中に稚内のユースホステルで偶然お会いしたのがお付き合いの始まりになりました。(このくだりは出版本の中でも語られております)。その後、稚内を離れた後もメール(吉村さんはノート型PCを持参しておりました。)や電話にて連絡を取り合い、8ヶ月後の東海道の静岡Partは2日間同行させていただきました(文中に記載あり)。
 我等が母校の先輩という事もあり、その快挙を是非我々後輩にお聞かせ願いたく、2度ほどご講演の企画をたてた(夏の白門43会総会と新年会)のですが、当方の都合でとうとう実現できませんでした。
 この度本が目出度く出版の運びとなりましたので皆さんにも是非一読をお勧めしたいと思います。
 購読、ご購入希望者は下記著者のメールにご住所など併記の上ご注文下さい。吉村先輩から書籍と振込用紙が送付されます。(送料と消費税は”著者負担”とのことです。)
 なお、私佐藤勝(nirenoki28の次に@green.ocn.ne.jp)までメールでご連絡いただいても結構です。その場合は吉村先輩に連絡し、配本させていただきます。

  吉村 靖夫   メールアドレスは、yyoshimura667の次に@yahoo.co.jpとして下さい。
            (配送先、お名前お忘れなく)
                                             (佐藤勝 記)   


 虎の門交響楽団の第75回定期演奏会が開催されました

 平成18年5月19日(金)の夜、東京・北区の「北とぴあ」(王子駅前)で、古賀忠夫さんの所属している虎の門交響楽団の第75回定期演奏会が開催されました。
 この日は石川真也さんの指揮で、次の作品が演奏されました。

 ・ベルリオーズ    序曲「ローマの謝肉祭」
 ・グノー         歌劇「ファウスト」より バレー音楽
 ・メンデルスゾーン 交響曲第3番「スコットランド」

 今回は、プログラムの演奏に先だって安藤久義氏が虎の門交響楽団の演奏を聴いてイメージを作り、作曲された「讃歌」が演奏されました。虎響などのアマチュア楽団を応援するために平成16年春に完成されたもので、この日の演奏が初演ということでした。
 今回の演奏は、管理人のような素人には、総じて肩の凝らない、自然に音楽が身体の中に入り込んでくるような親しみやすいものでした。
 「ローマの謝肉祭」は、ローマに住み実際に謝肉祭を経験したベルリオーズが熱狂的なローマの謝肉祭をこの序曲の上に再現しているということですが、思ったよりはmoderateな感じを受けました。それでも終章の部分は打楽器も活躍して迫力がありました。
 「ファウスト バレー音楽」は7曲の小品の組合せでしたが、軽快でバレー音楽に相応しい、そして聞き慣れた曲もいくつかあって、とても親しみやすい作品でした。気持が曲に引き込まれていた所為か、あっという間に終ってしまったような名残惜しさがありました。
 「スコットランド」は、スコットランド地方の四季の情景を描いた作品ですが、スタート部分に工夫があるなと思いました。バイオリンを除いたヴィオラ、チェロ、ベースなどの弦楽器と管楽器だけで始まって、その土地の柔らかな雰囲気を醸し出し、その後一転して今度はバイオリンだけで強い風の吹く厳しさを表しているようでした。柔らかな日差しの中で華やぐ人々の心、霧の中で鬱々と過ごす日々、荒涼とした太地に吹きすさぶ激しい風の音など、見事なテクニックでその地方の特色を私たちに伝えてくれました。ただそれにもかかわらず、この曲はそこに住む人々そのものを表現しているのではなく、人々の目や耳(あるいは心)を通して受止めた風景を描いているのです。人物の登場しない風景画といったところでしょうか。演奏を聴いている人達には、強風の吹きすさぶ荒地さえも、美の世界にいるように感じさせてしまう魔術を持っているようでもありました。
 今回も白門43会のメンバーやその友人が古賀さんの応援を兼ねて集まり、演奏会を楽しみました。


   
演奏中の古賀さんと応援に集まった白門43会のメンバーたち



 最近読んだ本

 「百人一首の世界」
  林 直道著 青木書店(定価:本体2,300円+税)

とても驚かされました。三島由紀夫の「金閣寺」などにも感動しましたが、そういう感動とはちょっと別の驚きです。百人一首の解説本は数え切れないほど出回っていますが、この本はそういうものとは全く別の角度からのアプローチなのです。だいいち著者が文学者ではなく経済学者なのです。
 管理人が「厚顔の美少年」だったころ、勤め先に競技カルタの愛好グループがあり、同じ係にいた二人の女性の先輩がこのグループのメンバーだった関係もあって、競技カルタにのめり込みました。読手が百人一首の上の句を読み始めると瞬時に下の句が書かれた取札を取るのです。相手と一対一で25枚ずつをそれぞれの前に並べ(50枚は空札)、早くなくなった方が勝ちというゲームです。淑やかさなどは微塵もなく、記憶力と反射神経を競う激しい試合です。
 そんなこともあり百人一首にはことのほか興味を持っていましたが、これまではそれぞれの歌の持つ文学的な意味合いにウエートが置かれていました。(そんなことから次第に短歌一般に興味を持つようになりました)。またこれを撰んだ藤原定家という歌人にもそれなりの尊敬を持っていました。しかしこの本によって百人一首に隠された秘密が解き明かされ、その物凄い内容とともに、藤原定家という人の恐ろしいほどの才能にも驚かされたのです。
 それでは百人一首に隠された秘密とは何なのでしょうか。興味のある人はこの本を買って読んでいただけばよいのですが、ここではサワリだけご紹介します。
 百人一首は、天智天皇(600年代後半・白鳳時代)から順徳上皇(1200年代初頭・鎌倉時代初期)まで百人の歌を一首ずつ、大体古いものから順に並べてあります。勅撰和歌集などから撰ばれた秀歌ですから、どの歌もそれなりに水準が高いのですが、五百数十年もの間に詠まれた数多くの歌の中の代表選手というには相応しくないものもあるのではないかという指摘がかねてからなされていました。定家も自筆の書き物の中で、この百首を撰ぶに当たっては「用捨は心にあり」、すなわちどの歌を取上げ、どの歌をボツにしたかは自分の心の中にあるという意味深なことを記述していたそうです。ではその「心」とは何だったのでしょうか。
 実はこの百首を10×10の升目の中にうまく配置すると、それぞれの歌の中に含まれるキーワードを介して上下左右に隣り合う歌とすべて鎖のように繋がっている(文字鎖……文字のクロスワード・パズルのようなもの)というのです。(著者はこれを歌織物といっています)。
 参考までに著者のこのサイトを見てください。
 また、そのようにして並べた歌の配置を見ると上の方には山や紅葉、右の方には花や松、中央には川や瀧、下の方には浦や渚、舟などの語句が現れてくるのです。そしてこれらの語句によって描かれた景色というのは抽象的なものではなく、実際に京都南部から大阪北東部にかかる大山崎近辺(新幹線からサントリーの工場が見える。)を中心とした地形(むかし水無瀬離宮などがあったところ)と一致するというのです。
 さらに驚くべきことは、10×10の升目の右下角に撰者の藤原定家の歌「来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに焼くや藻塩の身もこがれつつ」を置き、左下角には後鳥羽院の「人もをし人も恨めしあぢきなく世を思ふゆゑに物思ふ身は」を、右上角には順徳院の「ももしきや古き軒端の忍ぶにもなほあまりある昔なりけり」を配置し、また対角線上の左上角には式子内親王の「玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば忍ぶることの弱りもぞする」を配置しています。後鳥羽院は定家を引き立ててくれた恩人で(後には反目する仲になる。)順徳院はその子ですが、共に承久の乱で鎌倉幕府打倒を企て、敗れて隠岐と佐渡に流されました。また式子内親王は定家が恋慕していた女性で不遇の生涯を遂げた人なのです。定家は三方の角に都に帰り来ぬ二人の帝と、この世に帰り来ぬ愛する女性を配置し、その人たちを待って身もこがれるという思慕の自撰歌を右下角に配置したというわけです。
 この本にはこの他にもまだまだ驚く研究結果が述べられていますが、合せ言葉を駆使してこれほどまでに複雑な曼荼羅の歌織物を紡ぎ出した藤原定家という歌人に驚くと同時に、こつこつと調べ上げ、ついにその謎を解き明かした著者もすごいと思います。ちなみに、藤原定家ゆかりの冷泉家の屋敷のすぐ隣に同志社大学経済学部の大学院があり、著者はその教室から昔を今に残す由緒ある景色を眺めつつ、経済学の講義を行っていたのだそうです。
 (著者林直道教授の「百人一首の秘密」公式ホームページ




さんぽ道


狭山湖

    
狭山湖(山口貯水池)は、東京都の水源として埼玉県南部の所沢市(一部は入間市)に築造された人造湖です。阪神・淡路大震災により耐震基準の見直しが行われ、堤体強化工事が行われていましたが、平成14年11月に完成し、私たちの前に優美な姿を現しました。

狭山湖の堰堤

 堰堤南詰にある碑文の裏には、次のような説明がついています。

 山口貯水池は昭和2年から昭和9年にかけて築造された水道専用のアースフィルダムです。
 当時の先端技術を駆使して築造された貯水池は、平成7年に発生した阪神・淡路大震災を教訓として、より強固なダムとするため、平成10年から平成14年にかけて世界にも例のない堤体の耐震強化工事を行い、生まれ変わりました。
 この石碑は、蘇った貯水池の新たな一歩を記念して設置したものです。碑文「五風十雨の味わい」は、東京都知事 石原慎太郎の書です。
 なお、「五風十雨」は、5日に一度風が吹き、10日に一度雨が降るの意から、気候が順調なこと、転じて世の中が平和な様子を意味しています。
                 平成14年11月      東京都水道局


狭山不動尊    

    
 狭山不動尊は、多摩湖の近くにある天台宗の別格本山で、正式名称は狭山山不動寺です。昭和50年に開山した比較的新しいお寺ですが、次に示す勅額門、御成門、多宝塔をはじめ、由緒ある古い建築物が移築されていることで、有名です。
 本堂は京都東本願寺から移築された七間堂でしたが、平成13年3月16日に不審火で焼失し、現在はご覧のような鉄筋コンクリートの建物になっています。

勅額門(重要文化財)
 元、東京芝の徳川家台徳院(2代将軍秀
忠)の御廟に建立されていたものである。
寛永9年(1632)孝養報恩の志を述べたい
とし、3代将軍家光公が建立したものであ
る。



御成門(重要文化財)
 元、東京芝の徳川家台徳院(2代将軍秀
忠)の御廟に建立されていたものである。
飛天の彫刻や絵画が多く描かれており、
朝鮮渡来の天人門といわれている。寛永9
年(1632)3代将軍家光公が建立したもので
ある。格天井の中央に丸い鏡天井が設けら
れ、珍しい特徴を伝えている。