寧日雑感(T)

○ 倉田隆次(法法)

 古希を迎えて
 あと旬日で今年も暮れようとしています。年末は、人それぞれに、1年の色々な思い出が去来すると思います。
 夜間高校出身で、自衛隊在隊中に夜間部の門を叩いた小生は、同期の皆さんよりも10歳馬齢を重ねています。今年(平成17年)11月に古希を迎えました。
 古希とは、唐の詩人杜甫の詩: 曲江其二の「朝回日日典春衣 毎日江頭尽酔帰 酒債尋常行処有 人生七十古来稀」から来ています。
 10月に高校の「古希同窓会」が神戸で開かれました。同期名簿の54名中23名が出席しました。開会宣言の後、前回の同窓会以降に物故した仲間への黙祷で会は始りました。
 会場は座敷でした。腰痛、膝痛で座敷に座れない仲間が3名いました。幹事さんが座敷用の椅子を3脚準備しました。脳梗塞の後遺症で歩行困難な車椅子の仲間もいました。糖尿病、高血圧治療中の仲間もかなりいました。ところが女性はみんな元気なのです。やっぱり女性は強い!
 確かに70歳まで元気に生きることは大変なことだと実感しました。「77歳の喜寿同窓会」にも是非元気で参加したいものです。
 11月の誕生日前に、101回目・人生最後の献血ができました。70歳を過ぎると献血はできなくなるのです(年齢制限:通常は60歳まで。60歳までに献血をした人のみが70歳まで可能)。まずは健康に70歳まで生きられたことに感謝しています。
 70回目の誕生日に息子たちが内緒で計画をし、幕張のホテルで古希祝いの昼食会(写真)を開いてくれました。 合掌


○ 宮本常子(文哲)

 我が家族「老犬ベス君」
 我が家には柴犬がかった雑種のオス犬「ベス君」がいる。なぜベス君なのかといえば、次女が中三も終わろうかという時、いきなり友達からもらってきて、ベス(女性名)という名前をつけてしまったからなのです。そのせいか性格がやさしくておとなしく、近所で飼われている体の小さい柴犬にお腹の下に入って噛まれる始末でした。
 あなたが我が家に来た時、生まれてまだほんの二、三ケ月でしたね。太い足をしてコロコロと太っていてかわいかった。足が太いので「大きくなるだろうね」と話したのを覚えている。サンダルをくわえてはイタズラをして、何足もダメにしました。また、思春期にはスキをぬって目を盗んでは抜け出し、帰ってこなくて心配をさせられました。 成長してみると、耳がピンと立ち、目は黒の縁取りがあってハスキー犬の目にも似ていて、 毛並みが良くツヤツヤしているので、近所の人から「ベス君ハンサムだね」と言われ、喜んでいる親ばかでした。 
 毛の艶の良さから万年青年と言われていたベスも、今年に入って急にガタッと弱りました。年齢からいえば16歳(人間だと80歳を超えている。)になっていたのに飼い主が気づかず、昨年まで往復1時間も散歩につき合わせていたため、無理がたたったのか(?)、今や足の骨(特に後ろ足)が弱って前足でやっと立っている状態です。体も曲って、座る時痛いのかキャンキャン泣きます。
 1〜2年前足を上げて歩行が困難になったので、獣医さんに見てもらったところ、膀胱に丸い大きなかたまりがあるとのことで、精密検査の結果、切除手術を受けました。そのせいか急に弱って前立腺肥大も伴って、体がガタガタになり今やかわいそうな状態です。そろそろと庭を歩きバランスが取れなくて直ぐ倒れ、起き上がるのが困難な状態です。私と娘がペット用シートを取り替えたり、下の世話をしている毎日です。
  家族を和ませ、よく吠えて番犬としての役割を果たしてくれたことを考えると、老犬ベス君の世話にかなりの時間を費やすことも致し方ないと考えています。
 体のあちこちが痛くても何も言えないで、夜になると玄関に敷き詰めたシートパットの上にやっとの思いでキャンキャン泣きながら横になる姿を見るのはツライです。時にはウウッと泣いたり噛み付きそうになったりするのも、体の痛さの表れと解釈しています。1日の疲れを癒し、安心したような顔で寝ている姿を見ると、ホッとするのです。
 かわいそうだけれども「どうにもならない」年寄りのやるせなさを感じずにはいられません。我が身もいずれはそうなるのかと考えると、どう過ごしたらいいのか(散歩、運動、食べ過ぎない、趣味や好奇心を持って楽しい生活を送る等心がける。)を考えてしまう今日この頃です。


○ 大谷隼夫(法法)

  蕗のとう
 今年も蕗のとうが庭先のそこここに顔を出した。
 ふっくらとした黄緑色の愛らしい芽を見ていると、厳しい寒さの向こうに春の訪れを実感する。春待ち草と呼びたくなる。
 昔、「新日本紀行」というNHKの番組で、豪雪の地、山形県真室川町を紹介していた中でだったと思うが、子供達が蕗のとうのわらべ歌を唱っていた。
   ばーっこ ばーっこ ふーきのとう
   ゆーきがふったらなんとする
   あーかいかたびらひっかぶる
   ばーっこ ばーっこ ふーきのとう
 分かり易いメロディーと詞だったので、聞いて直ぐ覚えてしまった。
 この庭先の蕗のとうも、これから雪をかぶるのだろうか。


○ 鈴木征夫(法法)

    懐かしの40数年ぶりの中学同窓会
 私の郷里は埼玉県北部に位置し、群馬県と埼玉県の県境に隣接する「本庄」という人口約6万5千人の所です。最近のニュースとしては、上越新幹線の「本庄早稲田駅」が開通しました(早稲田本庄高校は約20数年前から開設されています)。
 南は秩父連山、北西は赤城山、榛名山が見渡せ、冬になると上州名物の「空っ風」が吹き降ろします。私は高校時代までをこんな平凡な田舎町で過ごしました。
 昨年の夏、1枚のハガキが舞い込んできました。私の卒業した「本庄市立本庄中学校」の中学同窓会の案内状でした。案内状には、還暦を迎えるにあたり、人生の一区切りとして同窓会を開催したいとのことでした。私の脳裏は40数年前の14〜15才の少年時代に逆戻りし、一人で当時を懐かしく思い出し、幹事の方を労うとともに、是非「参加」させてもらうとの返信を即座に投函いたしました。
 さて、平成16年9月19日(日)13:00から市内の料亭で待ちに待った中学校の同窓会が行われました。当時、私の中学は1クラス50人で、全部で10クラスの一学年500人でした。当日は約150人が集まりました。私のクラスからは14名が参加いたしました(写真はクラスの記念写真です)。
 会場は、クラスごとの円テーブルが設営されており、最初は当時のクラスの仲間さえ、40数年振りで戸惑うばかりで、お互いに自己紹介を始め、やっと思い出すほどでした。なかには名前を言われても思い出すことが出来ない人もいました(相手に失礼なので、分かった振りをしていました)。
 約2時間の開宴時間はあっという間に過ぎてしまいました。その間、他のクラスの20人くらいの人とも顔と名前を一致させながら(付添人を伴い)、昔話に花を咲かせました。その後は、いつの時代も一緒で二次会、三次会と進みました(クラス単位で、女性も含め)。
 13時から始まった同窓会が、市内の実家に着いたときは夜の10時を回っておりました。次回は5年後とのことですが、まだまだ会いたい人(特に当日所要で欠席された当時の美少女等)、話しをしたい人等がたくさんいます。
 是非次回も参加したいと思い、いまから待ち遠しい思いで一杯です。


○ 高梨明宏(法法)

  バンクーバーは素晴らしく
 2004年10月2日から9日まで、我々白門43会16名の仲間は、中村武照・喜子ご夫妻の並々ならぬ献身的なご案内のお陰で、カナダのバンクーバーを隅々まで見学し満喫してきた。やはり「素晴らしい」の一言に尽きる。自然の海や山も綺麗で風光明媚、公園や街並みも手入れが行届き、素晴らしく品があり清潔感が溢れていた。
 特に感心したのは、理に叶った合理性とアンフェアを排除する風土が街の中に溢れていることだ。国家はこれでなくては発展しない、と思った。少し紹介したい。
 モノレールや対岸に渡るフェリーボートの乗車駅には、改札が無い。券売機はある。時間が刻印されて90分間は有効(帰りは時間内無料)、無賃乗車にはきついお灸がすえられ、街中大恥をかくので誰もしないとのこと。経費節減、無駄の排除、合理性を考えてのこと。羨ましい国民性である。
 また、市内の建設現場でも、何と早朝6時から作業員が働いている。午後2時には帰宅。その後は、車で至近距離で遊べるゴルフ、ヨット、釣り、キャンプ場、冬はスキー・スケート等のレジャーが待っている。21時まで遊んで、優雅な一日を過ごせる(夏の日没は9時過ぎ)。今日のアメリカでも、6時7時に業務開始の労働者が2千900万人に達したと報じられている。当然、定刻で終わる企業社会である。
 名門ゴルフ場やヨットハーバーでは、会員になるのに日本のような馬鹿げた高額な金銭は必要としない。相続もなく一代限り、入会には紹介者も必要、ゲストハウスに一年間名前を貼り出されるとのこと。あの男はアンフェアだ、と指摘されればそれで終わり。……と言うわけで、紳士になろうとする人は、ますます自分の生き方に気を付けるようになる。半端者には世のステータスを与えない仕組みだ。清濁併せ飲むと勝手な理屈を並べ、自分と他人を誤魔化す国民性はないのである。
 道路事情も面白い。車は右側通行であるが、右折の際は赤信号でも左から車が来なければ右折して良い。何と合理的であるか(交通事情にもよるが)。
 また、ボランティアは当たり前の風土、協調性も大切にする。ご近所に植木屋が入れば皆で協力し庭の美観を揃え、屋根や外壁塗装にはご近所で一緒に揃える。市民の美的センスも見事である。
 ……というわけで、カナダでは放って置いても自浄作用が働き、世の中が良くなる仕組みを垣間見た。……が、逆に心が痛んだ。上役の気を窺い、仕事が可笑しくなっても平然、アンフェアも横行、という「景色・風土」を見てきた者には、である。
 カナダには、フェアの精神旺盛な気骨ある人々が多くいた日本の明治期の風土が、今そこにあるのではないか、と思った。(写真は「ボートの上で鮭を釣り上げた筆者」)


○ 倉田隆次(法法)

     定年と健康を考える
 43会の仲間から、「定年退職」の挨拶状を頂くことが多くなりました。われわれもそんな年齢になってきたのですね。実をいうと、私は夜間部出身の昭和10年生れなので、来年古希を迎えます。皆さんよりも一足お先に定年退職をしました。
 先日、近くの書店を覗いたら「定年のためのコーナー」という一角があり、約100冊の書籍が並んでいました。年金、趣味、旅行、留学等々、興味深いタイトルが目に飛び込んできました。しかしこのタイトルの中で健康に関するものは、僅か10%にも満ちませんでした。定年後、最も大切なものは「健康」なのですが……。中学、高校の同窓会に出席すると、毎年、仲間が一人、二人と鬼籍入りをしています。日本人の平均寿命は、男性:78、女性85.23歳だそうです。
 縁起でもない話しですが、まだまだ私に「鬼籍入り」の順番は回ってこない、と皆さん思っていませんか?
 油断大敵ですぞ! 悪魔が、「おいで、おいで」と手招きをしているかも……。不慮の事故だってあるのです。一昨年の秋、愚妻は交差点の歩道を青信号にしたがい横断中、後方から来た右折乗用車に跳ねられ、救急車で病院に搬送されました。さいわいにも打撲傷のみでしたが、約半年間、通院を強いられました。
 定年後の「老春を謳歌」するためには、何よりも家族揃っての「健康」が欠かせません。
 定年後は、ゴルフ、テニス等、好きなスポーツを、趣味の旅行や釣を満喫したいと手ぐすねを引いて定年を待つ人もいらっしゃるでしょう。そんな方に一言の提言です。
 トレーニングジムに通ってみませんか? お近くにスポーツジム、フィットネスクラブがあるはずです。私は千葉社会保険センターのトレーニングジムに7月から通っています。
 1ヶ月の会費は5,000円です。保健婦さんが入室前に血圧を測定してくれます。入室をすると約10分間、ビデオに従ってストレッチ運動を行います。一人ひとりにトレーナーが付き、有酸素運動と筋肉トレーニングの指導をしてくれます。毎日の記録をするトレーニングカードが渡されます。エアロバイク、エアロボート、トレッドミル等の機器を使用した有酸素運動の後、10種類の筋トレ機器を使用します。1ヵ月後、船橋中央病院の医師が、トレーニングカードをチェックしながら生活習慣病の予防等について相談に乗ってくれました。3ヵ月後には、体力測定が行われました。
 筋肉トレーニングが90歳になっても100歳を過ぎても効果のあることは、スポーツ医学の常識です。長寿だった生前のきんさん、ぎんさんは、100歳を越えてから足に重りを下げ、整体師の指導で筋トレに励んでいました。
 健やかに老い、定年後の「老春を謳歌」するための提言です。


○ 平尾豊行(理数)

    定年を讃える
 今年は年金制度が問題にされてきましたが、これから定年を迎える人はどのように感じていますか。気がかりなことと思います。
 そういう私もこの3月に高校教員36年間を区切りに定年退職をしました。思い起こせば、スター気取りの青年時代は楽しいことばかりでしたが、ベテランといわれる熟年時代は重い碇を引いて走るブルドーザーの気負いで、やり甲斐をこえて辛いだけの毎日でした。それだけに、定年は一つの目標を与えてくれ、また、多くの人から「ご苦労さん」と祝福してもらえてこの上なく幸せな思いをさせてもらいました。
 岩波書店「定年後」を読みましたが、手記の中の定年後の過ごし方について人それぞれだと思いました。家族と共に暮らしている以上、生活が劇的に変るはずもなく人生の一つの通過点に過ぎないわけですが、日を経るに従い中身の違いに気づき始めました。
 ある先輩から、年賀状で「定年後は健康、ゆとり、生き甲斐の3本柱で、特にゆとりが大切だよ」と教わりました。そのころ「定年になったら講師として勤めて欲しい」とあちこちから声がかかっていたところだったので、一番負担の少ない国立高等専門学校に半日ずつ週4日通うことにしましたが、おかげでストレスも少なくてすみ楽しみながら生活することができます。
 また、健康のため朝夕は欠かさずに犬の散歩をゆっくり時間をかけてしていますが、季節の空の色、木や花の香り、会う人の表情などゆとりあればこそ感じることができることに気づきます。20年ほど前に学校カウンセラーをしていたとき、不登校の生徒さんを時間をかけて本人の心の成長に併せて立ち直りを指導できるようにと、覚悟して自ら座禅会に参加して3年間修業したことがあります。全ての文明を絶ち、暑い寒いもいわず自力で自然と一体となって生活をする。辛い中に一瞬ながら心身一如の境地を味わうことができたあの時のような、そんな安らぎを感じることがあります。
 そして、若いときは登山・テニス・飲み会などで英気を養うことができたのに、体力の衰えから今できるのは冬のスキーとゴルフだけと嘆いていたものの、今ではこれで十分だとも思えるようになりました。
 ところで、田舎の築30年の本宅は敷地も広く、すぐ前が瀬戸内海で夏涼しく冬暖かいので今は別荘として使っていますが、庭木の剪定や除草・掃除が大変でこの夏休みが殆どつぶれてしまいました。この生まれ育った幼なじみのいる所は落ち着けて気分転換によく、再び体力を回復して機会さえあればもう一働きできるような気がします。これからも家の改築も視野に、頑張り過ぎないように肝に銘じているところです。そして娘が独立すれば呉市の家は彼女に譲って、我ら夫婦は本宅で余生を送る夢をみています。


○ 三沢充男(法法)

   ゆびきりげんまん
 先日テレビで「水戸黄門」を見ていたときのことです。
 ずいぶん年寄り染みているって? ええ否定はしません。もう還暦も済ませましたし、何しろ助さん格さんよりもその昔アイドルだった由美かおるちゃん(いまでは以前小生も習いに行っていた西野流呼吸法の大先生ですが)の忍者アクションに憧れているのです。
 話は横道に逸れましたが、その番組の最後の方で町娘が黄門様と指切りをする場面が出てきました。
 「ゆびきりげんまん、うそついたら針千本のーます。ゆびきった」
 そういえば、最近は少なくなってきてはいるが、遊んでいる子供たちがこれをやっているのを度々耳にしたことがある。ちょっと気がかりなことがあったので、物の本などで「ゆびきりげんまん」の由来を調べてみた。
 「ゆびきり」は、むかし遊女が男に変らない愛情を誓う証として小指を切断したことに由来するらしい。また「げんまん」の方は「拳万」と書き、こぶしで1万回殴るという意味のようである。こういう意味合いのことがやがて一般に広がり、約束を必ず守るというときにお互いの小指を絡ませて唄うような調子でこの言葉を唱えることになったようだが、子供の世界で使う言葉としてはかなり激しい内容である。
 ところで、実は小生の気がかりというのはそういうところにあったのではない。自分が子供の頃は(少なくとも自分が育った土地では)「うそついたら針千本のーます」ではなく「うそついたら針千本のーむ」だったのである。自分は絶対にうそはつかない。うそをついたら針千本飲んでもよい。そういう決意を相手に示すときに自ら進んで指切りをする。あるいはお互いに同じような誓いを立て合って「うそついたら針千本のーむ」とやるのである。これに対し「針千本のーます」の方は、相手に約束をさせておいて「お前、絶対うそつくなよ。うそついたら針千本のますぞ」という脅迫の言葉になる。そうなると指切りは約束をした人が自ら進んでやるのではなく、相手側が約束の実効を確保するため誓約者の「逃げ道をふさぐ」ためにやるという機能を持つことになるのである。
 広辞苑などでも「のます」の方が使われているようだが、一見たわいないように見えて、実は人を疑うことを土台とするこんな殺伐とした使われ方が子供の日常生活の中にまで取り込まれているというのは如何なものだろうか。最近は「自己責任」という言葉もしきりにいわれるようになったが、遊女の故事を持ち出すまでもなく、「言行一致」という人間のあるべき姿を求めるならば「うそついたら針千本のーむ」の方がよいと思うのだが・・・。


○ 金山正一(文哲)

 2003年(平成15年)11月10日(月曜日)午前11時10分頃、春山建設株式会社本社2階フロアーにある自分の机で私は突然倒れた。
 その日は第43回衆議院議員選挙投開票日の翌日。週初めの社内ミーティングをしていたところ、我が社で応援していた候補者が所属する党本部から、当選した事への御礼の電話が入った。丁度終わりかけていたミーティングを終了して電話を受けたのだが、その選挙区が日本で1番の接戦だった事から少し長話になった。電話が終盤に差し掛かった頃、私は突然自分の身が遠くに吸い込まれて行く感覚を覚えた。こらえるのがやっとで、粗相なく電話を切ると同時に「救急車を呼んでくれ!」と叫んでいた。
 今しがた迄打合せをしていた社長が何を言っているのかと周りの役職員たちは思ったに違いない。幾度となく言うものだから119番をして呉れた。
 私は自分の椅子に腰掛けている事が出来なくなり椅子を退かしフロアーに「仰(あお)」に倒れた。気づくと救急隊が担架を担いで傍に来ていた。病院入口の赤いランプが幽かに見えたところ迄は覚えているが、その先は4人部屋で「目を覚ます」迄意識不明の状態が続いた。その間約三週間。くも膜下出血だった。
 退院してから「三週間もの意識不明の間はどんなだったか」とよく訊かれるが全くの『無』の世界で夢も見ていない。「死」とはこういう状態を指すのかと思ったくらいだ。
 後日談。手術は即日午後3時頃から始まりICU集中治療室に戻ったのは夜10時を回った。輸血は脳内血液の4分の3程行った模様。
 意識が戻ると4人部屋の病室で寝ていた。右足大腿部つけ根に3本の注射針が血管の奥深く迄入れられており、左前側頭葉に30cmくらいの管(くだ)とその先には袋が、ペニスにも管が付き、その先には袋が付いていたのだが、意識が戻った翌日にはそれら全てが取り払われリハビリに入った。
 大腿部から臀部の肉がほんの三週間寝ていたくらいでほとんど無くなってしまったのには驚いた。「手を握って下さい」「右足を上げて下さい」「左足を上げて下さい」「右手、左手を上げて下さい」幾度となく繰り返された指示である。言葉を話す事は舌がもつれないで出来そうだが歩けるか否か不安だった。
 意識が戻って4日目、右足が突然「シャキッ」と元の状態に戻った。それ迄は力が入らず車椅子での生活だったのだが、これで五体満足な身体に戻れると喜んだ。しかしまだ問題が残っていた。リハビリの問診で家内を指差し「この方は誰ですか?名前を言って下さい」と質問されたのだが、名前が出てこないのだ。意識では判っているのだが言葉が連動しない。これにはほとほと参った。それから毎日リハビリを受けたのだが、午前と午後では全くの別人じゃないかと自分でも感じる程に回復が顕著だった。最初に受けたリハビリ問診の結果は20数点だったが、一週間後退院する頃には80数点迄回復していた。
 血圧、高脂血症、糖尿病等、身体的に異常なところは全然なかったので薬は一切処方されず、医師からは「私が扱った患者さんで術後、後遺症が少しもない患者さんは初めてです」の話。途中、3日間の外泊を許されていたのだが、ついに12月10日、丁度30日間の入院で退院する事が出来た。
 私の病気には伏線があって、平成9年4月頃、脳ドックを同病院で受診した事があった。その時「要検査」になったので、脳に関しては宮城県内で1番良いと評判の病院に行き検査をしたところ、「65歳迄うちの病院には来なくとも大丈夫」との太鼓判を押してもらっていたのだ。県下随一の病院の診断なのだからと安心をしていたのだが、今回破裂したのはまさにその時診断してもらっていた箇所であった。皮肉なものである。
 くも膜下出血についてインターネットで調べてみた。
 「発症すると約40%の人は死亡、治療がうまくいって助かっても重大な後遺症が残る方は約30%、社会復帰できる方は約30%」
 非常に恐ろしい病気である。


○ 梅津久光(法法)

     高校卒業40年記念「思い出の東北修学旅行」
 去る6月4〜6日、2泊3日の日程で高校卒業40年記念として「思い出の東北修学旅行」を実施いたしました。この計画は私(梅津)が3年前から企画提案し、実行したものです。
 参加者は先生をはじめとして総勢17名、早朝の東京駅をスタートし、最初の訪問地仙台駅に10:00「やまびこ103」は到着しました。
 仙台駅で運転者付のチャーターバスに乗り換え、塩釜へと向かい遊覧船に乗り松島海岸まで行きました。日頃の行いが大変善いので(自慢)天気は晴天、最高の一日目でした。昼食時ビールで乾杯ちょっと落ち着きました。
 瑞岩寺、五大堂を拝観これからの旅の無事を祈願し、本日のメインの訪問地平泉へと向かいました。梅雨前の時期のせいなのか観光客も少なく、ゆっくり心ゆくまで天台宗東北大本山の中尊寺、毛越寺(もうつうじ)を見学、堪能できました。
 女性5名男性12名を乗せたバスは、最初の宿泊地花巻・大沢温泉「山水閣」に予定時間の18時過ぎ無事到着しました。
 翌日は8:30出発、40年前に宿泊した花巻「青葉館」に立ち寄りましたが残念ながら記憶にありませんでした。この「青葉館」だけが現在存在しているだけで、当時宿泊した松島海岸の「二葉荘」、十和田休屋「豊明館」は役場に問い合わせしましたが在りませんでした。
 先生の都合により先生とは花巻駅でお別れし、旧生徒達は次の訪問先「宮沢賢治記念館」へとバスは進行しました。宮沢賢治館で見学、記念撮影した後、縄文時代の遺跡で、スケールの大きさと古代の生活が偲ばれる大変すばらしい場所に案内してくれました。(機会があれば是非立ち寄って、ボランティアのガイドに依頼するとよい。無料です。)案内役は元岩手県立工業高校の数学教師の佐々木克巳君で、バスの中もガイド役を買って出てくれました。好いガイドでした。
 古代のロマンに浸った後、思い出がたくさんある日本第3位の十和田湖に到着しました。遊覧船に乗船するのに時間がないので私は行きませんでしたが、女性達は高村光太郎作「乙女の像」に会うため走って行き「ふうふういいながら」帰ってきました。休屋より乗船し、子ノ口までの穏やかな遊覧を楽しみました。
 その夜の旅館は日本の温泉のベスト3に入る蔦温泉。(旅館は1軒しかありません。)温泉は湯船の下から湯が豊富に沸き流れ、総けやき造りの内部は広く、また天井が高く青森の温泉は非常に気持ちの良い所です。
 3日目は早朝8時にスタートし、まだ観光客のいない奥入瀬をゆったりと昼食まで3時間歩きました。
 ここで面白いお話を聞きましたので披露します。
 それは昼食場所の「子ノ口湖畔食堂」のマスター(ルパン3世に似ています。)の話です。マスターは以前ホームレスで全国を放浪していましたが、ある日当時小さな食堂だったこの「子ノ口湖畔食堂」のママに出会い、手伝うことになり現在の3階建ての大きな店にした話です。すばらしい出会いですね。現在もルパン3世のスタイルで店の前で客の呼び込みと駐車の整理に頑張っています。
 昼食時ビールで乾杯し、最後の訪問先、八戸「八食センター」でお土産を買いました。八戸発16:04「はやて22」で東京に19:08無事到着しました。
 大変楽しい旅行でした。世話人佐々木、平、松村、松崎、ご苦労様でした。


○ 歌代雄七(商商)

     願/日本語/飛翔/全世界
 突然ですが……皆さん 第二外国語は何語を選択されましたか?
 英語を始め、それらを学んでいるときには苦しい時間を過ごされつつ、当該語学圏へ想いを馳せられた事と思います。
 今でも、充分に身に付けておられる方や、今一歩の方、小生の如く全くの忘却の彼方の方、様々ですね。必要が無いと忘れることも早いものですが、一方、還暦を前後にして、海外旅行の頻度も増えてくることと思います。
 今の自分、外国語を何故満足に話せないのか、また理解ができないのか悔やむ毎日であり、今後益々その想いは強くなることでしょう。
 海外から日本に入国する外国人は、毎年5百万人。因みに、海外からの入国者の一番多い国は、仏で年間8千万人の由。外国の人は、旅先の言語が出来なくとも、気後れはなさそうですが、日本人はどうしても語学コンプレックスに悩まされる様です。
 ひたすら願うことは、日本語が世界の隅々まで普及する事が一番と。気軽に、気兼ねなく、その国の歴史、文化に触れ、名物料理に舌鼓を打ちたいところです。
 そんな訳で、人生の後半にさしかかり「日本語」に興味をもち始めました。
 日本語の起源は、インド南部で使われているトラヴィダ語だとする説があります。比較言語的には、文法面でフィンランド語、ハンガリー語、蒙古語等と同様にウラル・アルタイ語系に属します。また、語彙、音韻面では、ポリネシア等南方語に近い複雑な言語の為、学ぶのに抵抗があるのでしょう。
 昨今、留学生を受け入れることに賛否がありますが、この日本語、世界の公用語になるためには、我が国の経済力を更に増し、政治、経済、文化面で世界に強い影響力を持つこと、加えて魅力ある観光資源の開発を成すため「産」「官」「民」挙げての努力が必要だと思います。
 嗚呼、悔やまれます。語学を真剣に学ばなかった事を。
 日本へ来た外国人に、「ここは日本だ!!! 日本語で話せよ!!!」
 海外へ我々が訪問したときは、「あなたの国を知りたいと訪ねたのだから日本語で応対してくれるのは当たり前だろう!!!」
 こんな勝手が、道理が通る訳は無いですよね。
 だったら頼みます。
 羽ばたけ、そして日本語よ、世界の果てまで……


○ 伊藤正敏(商経)

     板東三十三観音巡礼の旅
 寧日雑感を書くにあたって、さて何を書いたらいいのかいろいろ考えてみたが、特にこれといった皆さんに披露出来るものもなく、はたと困ってしまいました。
 今更ながらにこの60年何をしていたのかと寂しい思いをしているところです。でも何か書かなくてはいけないので、しいてこれからしたいと思うことは何か? と思いを巡らせていたところ、この正月に退職した少し先輩のことを思い出しました。
 その人は会社を辞めたら、まず一番に夫婦で四国八十八ヵ所巡りをするのだと「はりきって?」言っていたことでした。(普通海外旅行や温泉を楽しむといった人が多い中で……)
 これを聞いて、この私も巡礼というものに大変興味を持っていて、数年前に板東三十三ヵ所を巡ったことを思い出しました。
 ついては今回その時のことを少し書かせてもらうことにしました。
 そもそも宗教的観念や信念を日頃何も持たず、また仏様や観音様にすがろうという気持も持たない私が(この先はそのかぎりではないと思うが)三十三ヵ所を巡ろうと思い立ったのは誠に不謹慎で、仏様には大変申し訳ないことですが、単なる暇つぶしでスポーツ感覚のドライブをするといったことでした。
 土日が休みでゴルフなどがない時は2日間も一日中家にこもって、昼からビールを飲んでいるよりもう少しメリハリのある生活をしたいと思っていました。そんな折、たまたま鎌倉へ行く用事が出来、その帰りに古い、趣のあるお寺があったので軽い気持で参拝しました。それが三十三ヵ所の1番寺大蔵山杉本寺でした。その時林に囲まれ、静寂で、厳かな寺の雰囲気に非常に感動したことを覚えています。いろいろお寺のことを聞いたところ、板東三十三ヵ所巡礼があるということを知り、三十三ヵ所のほとんどが自宅から一日のドライブで行けるということが解かり、早速家内に話したところ、是非一緒に巡ろうということになった次第です。
 それでも毎週ということもかなわず結果的には2年程かかりましたが、家内とのコミュニケーションも高まり、有意義な時間であったと思います。
 この三十三ヵ所はご存知の方も多いと思いますが、関東一円の一都六県からなる東国の観音霊場であります。成立は鎌倉幕府3代将軍源実朝の時代といわれていて、鎌倉から始まり源氏の勢力が行き渡った関東を一巡りして房総半島までの33寺で成り立っています。
 巡る時は納経帳を買い、それぞれのお寺にある納経所で記帳をしてもらい、朱印をもらうことになります。お寺のご住職にそのお寺の御本尊である観音様名とお寺の名前を書いてもらうのですが、その記帳がまたすばらしい書体なのであります。
 三十三ヵ所の内で特に印象が強いのは茨城県大子町にある八溝山日輪寺です。三十三ヵ所随一の難所で、修験場として名高く、標高1028mある八溝山の八合目にあります。私は車で7合目くらいまで山道を登っていったのですが、本当に奥深い山の中にある、神霊を感じさせるお寺でありました。
 三十三ヵ所巡りの楽しみは、お寺がいろいろな名所の所在地にあり、関東一円の名所をドライブ出来ることと、それぞれのお寺の近くに必ずその地方のうまいものがあり、それも併せて楽しめることだと思っています。日光中禅寺湖畔にある中善寺(18番寺)、水澤うどんで有名で伊香保温泉に近い水澤寺(16番)、笠森観音として名高い笠森寺(31番)、鎌倉観光では誰もが足を運ぶ名刹長谷寺(4番)等々です。そして皆さんがよくご存知の浅草の浅草寺は13番札所になっています。
 また、私はこの巡礼?(ドライブ?)が大いに気に入りましたので、他の人にも勧めており、特に私の会社の得意先で単身赴任で東京へ来ていて、土日を一人で過ごし、時間を持て余している人に納経帳を贈り、お勧めしたところ、2人が喜んでいま巡っているようです。
 巡礼の旅とは、たとえ初めのうちは私のように物見遊山のものであっても、いつしか心身が洗われ、仏の教えや、大自然の偉大さなどを少しでも感じることが出来るようになればいいのではないかと思っています。
 来年には会社を退職し、時間も自由になるのでいろいろ考えていますが、その一つとして近場の秩父三十四ヵ所、西国三十三ヵ所と、最後70歳くらいになったら四国八十八ヵ所を巡ろうかと愚妻と「今は」楽しみに「話しだけ」しております。


○ 山添英明(文国)

   還暦雑感
 若い頃、60歳の大先輩は「貫禄」「威厳」「風格」に溢れ近寄り難かった。今その年齢を迎え自分はどうだろう。なんとも頼りない話だが、昔の大先輩と比較してなんと見劣りすることか、その時期から成長がストップしているのではないかと思ったりもする。
 振り返ってみると、大学を卒業して鳥取県に帰り、そのまま新聞社に入社して36年。数年関連会社に出向したが、まったく新聞一筋。言葉の響きはいいが、一体何をしていたのだろう。仕事を通じての特別な職人技も身に付けていない。そして「俺はここが君たちと違うんだ」「このことは誰にも負けない」というものがない。
 趣味もない。休暇の過ごし方はどうだったか。一時期はゴルフに凝った。この20年は田舎に帰ってヒノキの植林、草刈、山の手入れ。山や木に親しみながら雑木の名を覚えた。クヌギにしいたけの菌を植え自分で生産したしいたけを今でも食べ続けている。自然に生えている榊、非榊、樅、山桜、コブシなどを庭に植え替えた。新鮮な空気の中で健康な汗をかきながらストレス解消にもなった。
 サラリーマンとしては満足できる立場になった。仕事人間としては、よく働いた。もう十分だろうと思う。これから第二の人生(仕事)を探そうと考えているが、なぜか新しい一歩を踏み出す勇気が出ない。
 鳥取県の日本海新聞から都会の大阪日日新聞に携わるようになって間もなく4年。石の上にも3年というから何か見えてもいいはずだが、現実は霧の中。
 大阪日日新聞を再興させてのちに、大先輩の「貫禄」「威厳」「風格」に多少は近づいたと言えるか。第二の人生も新聞しかないと再確認しながら、自信と不安が交差する還暦を迎えた。

追記:
 6月12日学員会大阪支部総会が開かれました。先日送っていただいた43会の幟を壇上に飾りました。なお、わが大阪日日新聞にも掲載いたしました。ご覧下さい。


○ 岡田孝子(文文)

    雑感
「悩み」というものは、人間として生れると生涯尽きることなくあるもの、それに比べ感謝の気持や幸福感は非常に少なく、常に無い物ねだり、またそれが意欲となり努力につながってゆくものだと、暇になったこの頃よく考えることの一つである。
 私の意欲の歴史はどうであったのか。
 まず一般的に、女性として気付いてから今日まで「美しくありたい」ということが常に頭から消えたことはない。おそらく間違いかもしれないが、振り向かれ、電車の中でも歩いていても声をかけられた時代が、その点では一番満足していた時代である。この頃は無残な姿をどうすれば少しは修正できるのか、年齢なりの上手なお洒落を考えるよう努めるしかないと思っている。
 よく人が生きてゆくのに「運」ということがその人の人生を左右してゆくといわれるが、若い時はとても運によって左右される人生など考えたくはなかった。努力すれば報われるもの、そう信じたかった。しかしながら年を重ねる毎に運というのか、チャンスというのか、それをどうつかみ、それを生かす先見の明がどの程度あるのかによってもかなり違ってくる、人生の選択であるのも知った。
 できる限りつまづきも不運も、幸運に変えていくよう努力してゆきたい。これからの人生においても常に「努力」の二文字は忘れたくないと思っている。その中の一つに他人との付き合いもあり、十人十色のカラーがあり、その都度その都度うまくゆかなくともいつか親しくなれると広い心で接してゆきたいと考えている。
 他人の中に入ってゆくことは自分の気持ちを殺さなければならない時も多く、自我を出せば打たれることも多々あり、打たれることは年齢とともに立ち直りも辛いが、他人の立場を理解するチャンスでもあろうかと慰めていることが多い昨今である。
 数十年ボランティア活動をしてきて、ボランティアに対しての考え方、接し方が随分変ってきたように思う。少し前までは余裕のある人がその時困っている人を助けるという上下関係があったが、今ではお互い様。その場での上下関係はいつか同じになるから上下ではなく、目線が一緒ということなのだろう。
 どなたかが言っていた言葉の中に、次のようなものがあった。
 ・ 人は愛されたいと思っている
 ・ 人は認められたいと思っている
 ・ 人は信頼されたいと思っている
 ・ 人は褒められたいと思っている
 ・ 人は他人の役に立ちたいと思っている
 そのとおりだと思う。この五つの心を持って接するとボランティア活動のトップにたってもやっていけると思った。私も身体が動かなくなるまで私を使ってもらいたいと願っている。
 他人を蹴落としてまで自分の目指すポジションを得ようと思った時期から考えると、年を重ねて丸くなった自分が少しかわいそうな、でもそれは幸せになったからなのだと思う今日この頃である。


○ 西村輝雄(法法)

 4月で60歳、今までこの年齢になることは思いも寄らないことでした。この1ヶ月の出来事、思ったことを皆さんに報告します。

 戸籍謄本など関係書類を持って社会保険事務所に行くと、30分くらいで「貴方の年金は2年後の4月からこれだけです」と云われた。
 「長生きしないと損ですね」と云ったら係の若い職員が「そうですね」とひと言。このひと言で覚悟を決めて還暦からの再スタートをしたばかり、ロングランになるかどうかはこれからにかかっている。
 恐怖の濡れ落ち葉と云われることのないように、気持ちを新たに直ぐに出来る事から始めて見ようと思い直した。そのためには、
 1.健康であること、体力作り
 2.ボケ防止が必要
と具体的に取組むことにした。(良い事があれば教えて下さい。)
 健康であることについては、「国立がんセンターがん検診公募、最新機器を使って2日間の検診」の記事を見て受けた。結果は未だ分からないが、この検診で問題なければOK、若し、分かれば良かったと思うことにするしかない。(いざとなったらどうなるか?)
 体力作りは、北千住のスポーツクラブの会員になって週2回を目標に若い人達に交じってゴルフの練習やジムでのトレーニングを始めた。43会のゴルフは案内を戴くだけで恥ずかしながら酷いスコアなので参加したことがない。ゴルフは仕事の延長線上で下手糞だから尚、面白くもない。逆スパイラルで一向に上手くならない。楽しみながらゴルフが出来るようになりたい。
 ボケ防止は、僅かな虎の子を欲と道連れにネットでの株式投資を始めようと、日経新聞を電車の中で読み、材料は無いか? とネットで勉強会の案内を見ては参加を始めた。
 ここでうまく回れば、ゴルフにも、カナダにも行けるのだがと思いつつ、パソコンの画面を追っている。
 会員諸兄の指導を戴きながら、43会の行事に積極的に参加することもロングランの決め手の一つではないかと思う今日この頃です。


○ 峯岸修三(理化)

 「自作ウクレレを紹介します!」
 永年の夢である自作ウクレレが揃って来ました。第4号器迄出来上がりました。参考までに添付写真で形状を確認ください。

1号器
「全音製キット」を仕上げました(既に後輩に贈呈済みです)
2号器

「全音製キット」を仕上げました。ボディーの大きさを小さく、高音を狙ったものです。狙い通りの乾いた音色が楽しめます
3号器

「中古クラッシクギター」をダウンサイジングし、仕上げました。家族の評価は「琵琶もどきウクレレ」と呼ばれています。音色と音程には自信があります。
4号器


「中古フォークギター」をダウンサイジングし、仕上げました。今回は、エレキ系のヘッドと、ロングネックを基調にしました。これまた、音色、音程ともばっちり決まりました。私が構えているのが4号器です。 

 自作器は、音量が若干不足です。(音響の専門的な事は勉強中です。ボディーの板厚、容量、ホールの大きさなどの条件がマッチングしていないようです。)
 私の地元、四街道のウクレレ教室で試奏しましたが、仲間のウクレレに勝るとも劣らない。音量の小さいのは腕でカバーしています。
 中古ギターからの材料取りの理由は、「乾燥が十分出来ていること」です。のこぎり・カッターナイフとサンドペーパーが主な工具です。本格的な電動工具を購入までは余裕がありません。
  つぎの目標は、日経新聞にも載っていた毛色の変わったウクレレ作りです。
 それはーーーーー>造形作家の伊達先生の「廃材から思い出の旋律」
    記憶に残したい建造物の一部を使いウクレレに
 どんな素材を選ぶか、どんな形状のウクレレを作るか?夢はどんどん膨らんで来ます。解体現場をふらつかねば・・・・・・なんてな!!!
 現在5号器の材料取りに着手(今回は、中古ギターのダウンサイジングではなく、DIYにて加工性の良い、堅い材質を物色)。形状保持の製作ジグも並行して自作しています。今回はじっくり参考資料を見ながら丁寧に作るつもりです。


○ 岩波 明(理物)

 「飛行機大好き」
 先日の八束さんの雑感文は大変おもしろく、感心して読みました。
 それは私のこれまでの飛行機に対する接し方と異次元的な発想だったからです。
 私は物理科出身のためか、事象を物理的に理解する習性のため、飛行機の離陸時、着陸時の論理は十分に理解しているつもりでいるので、なかなかそういう発想には到達しないのであります。
 こう言ってしまいますと何とも浪漫のない人物のように思われますが、実際には近所の飛行場でセスナ機をチャーターして旅行するくらいの浪漫ある飛行機好きなのであります。
 この飛行場はホンダエアーポートといって、去る1月にスカイダイビングで事故があり、また同月、熱気球で太平洋横断を失敗した際の発進基地でありました(あまり良い話ではないですね)。熱気球の操縦者は当地、川島町の役場職員だそうです。
 余計な話は以上として、セスナ機での旅行体験をお話いたします。
 飛行場に着きますと予約してありますので飛行機はいつもエンジンをかけて待機しています。6人乗りのセスナ機に娘3人と妻と私の一家5人が乗り込みすぐに離陸します。
 離陸距離はジャンボ機のように何百メートルも走る亊なく30メートル位の滑走であっという間に離陸した後、東京都心は10分くらいで通過します。そして横須賀上空を通過すると前方に目的地の大島が見えます。大島もすぐに近づくと着陸です。着陸も車輪が滑走路に接すると30メートルも走らずにすぐエアーターミナルに向かいます。離陸して着陸まで丁度30分です。
 大島の飛行場には予約のホテルの車が待機していてすぐに海岸沿いのホテルに向かいます。ホテルに着くとすぐに海水着に着替えて人気のない太平洋に飛び込みます。埼玉の自宅を出て太平洋で泳ぐまで約1時間です。これは旅行とはいわないかもしれません。
 でも、グアムやハワイへ行くよりも早く、安く、安全です。諸君どう思いますか。
(この写真は管理人がお願いして送っていただいた岩波さん宅の庭の藤です)


○ 高柳和徳(法政)

 小生、私立の女子中学・高等学校の教員になって28年目を迎えるが、思うのは、若い人たちの意識というか考え方の変化のスピードである。それは私の年代が感じるだけではない。
 先日もこんなことがあった。母校へ遊びに来た教え子が「今の若い人たちの考えていることが解らない…」と言う。彼女は自分が勤めている会社の今年の新入社員のことを言っているのだが、そう言う彼女自身、まだ卒業して2年しか経っていない。
「オイオイ、世代間断絶はついにそこまでかい!それじゃ、俺なんかはどうなっちゃうんだ?」
「そ〜ネェ、先生はァ…化石ってとこかナ!」
 これには一同大笑いであったが、我々教員の仕事の対象は、常に12〜13歳から17〜18歳と変わらない。こっちは生物学的にトシを重ねていくのに、である。で、私などは気がつくのだ。肉体年齢と精神年齢のギャップがいつの間にか大きくなっていることに。女房曰く「よくそんな考え方ができるわねぇ」と。しかし、である。とりもなおさず、それは“アタマが若い”ってことなんだ、ステキなことなんだ、だから女房の皮肉なんざ気にシネェ!
 ン?アタマは、確かにネッ。じゃ、カラダは?だって? んー ……(笑)


○ 龍門海行(理土)

 早いもので「寧日雑感」の第一号として出させてもらい、早や数年がたつ。
 この間、会員各位の協力と常任幹事の努力により、今日にいたり益々発展している事は喜ばしい事である。特にこの白門43会のホームページに関する三沢氏の管理者能力には、頭の下がる思いである。
 このホームページにより白門43会仲間なり、会員資格者なり、他の白門会の人達も少なからず影響を受け、ひそかに楽しんでいる仲間もいる事と思う。又、このホームページにより白門43会の活動状況(総会、新年会、旅行会、ゴルフ会等)を知り、参加して来られる仲間もいたと思う。
 この中で、最近(H15.12.20〜12.21)私自身も参加した、初めての忘年旅行会(一泊旅行)で強く感じたことがある。(詳しくはホームページの最近の活動の中に「初めての忘年旅行」という題で宮本常子さんの報告記事があるので参照願いたい。)
 それは笑う事に関してである!!
 この旅行会において私は観光組にエントリーをし、伊豆高原駅の「花吹雪」という会席料理店にて昼食を取り、その後、城ヶ崎海岸への散策の予定であった。この昼食会において各人が日本酒に酔いしれ、時間を忘れ多少高尚な話題と、大部分を占めた快楽的な話に酔いしれた。特に、女性が参加していた事も男性の口を滑らかにしたのかも知れない。
 この中で、私は高尚な話は不得意であるが、人生に関する快楽的な話となると、もうほとんど専門分野である。このお互いの会話のやり取りに、本当に久し振りに涙を流すほど腹から笑い、悦楽の境地にいる自分に驚いた。というのは、こんな無防備に人と話が出来、一緒に腹から笑える仲間がいる事に、一瞬、涙腺が緩んだ気がする。
 これまで健康に生活してきても、その時々の人との出会い、巡り合いなどにより笑いにも色々有ったと思う。何時の頃からか、涙を流すほど腹から笑うという機会が、ほとんど無くなっていたのかと考えさせられ、己の精神的な貧しさに情けなくなった次第である。
 しかし、これからは多少なりともに時間にゆとりが出来てきた時に、安寧な日々を友と過ごせるように、本当の意味での心身ともに健康であり、共に心から笑える友と過ごしたいと思う、今日この頃である。


○ 鴇田 將(理物)

 「二重生活」
 平成15年10月に東京都町田市能ケ谷町に住所変更をするとともに、従来から住んでいた東京都江東区北砂も引き続き生活の拠点の一部としております。事務所は港区虎ノ門ですので、ここを中心に町田か江東区のいずれかに帰っている次第で、いわゆる二重生活がスタートしました。
 妻は住み慣れた江東区が良いと言い、子供は町田が良いといっている。町田に一戸建てを購入するきっかけは、還暦前に自分の家を持ちたいという願望があったのと、親父(明治生まれ、故人)は生前大きな家を3軒建てた(江東区、墨田区、市原市)という話を親戚からよく聞かされていたこともあり、また建てるなら子供の頃住んでいた自然に恵まれた環境の土地(市原市東国吉)みたいな所がいいなあと漠然と考えていたところ、野村不動産が扱っている千都の杜がインターネットを通して目に飛び込んだので、即、契約した次第である。
 町田の自宅は約60坪の敷地に建てられているが、一番のお気に入りは、約6mの高さの吹き抜けのリビングでくつろいでいる時と、浴室の天井のスピーカーから流れる音楽を聴きながら入浴をしているときが安らぎを感じます。尤も、北砂では妻と食事に出かけるのも楽しみの一つですが。
 さて、能ケ谷地区は標高50〜60mといわれており、周囲には自然がまだ色濃く残っておりますが、一方では一戸建て住宅の建設ラッシュという感がする新興住宅地です。自宅から5分ほど歩いたところには、紀元前2000年前の住居跡が保存されていたり、車で10分ほどのところには有名な王禅寺(明治天皇に献上したとされる柿(禅寺丸)の原木がある)や、こどもの国(なんと、妻と結婚するきっかけとなった場所がこんなに近くにあるとは不思議な縁を感じる)あるいは緑山スタジオ等があり、週末は自宅付近をもっと知るために、子供とドライブに興じている次第です。
 しかし、終の住処を考えた場合、やはり生まれ故郷(江東区亀戸)の近くである北砂の自宅になりそうな気がします。ここは交通や買い物等が便利で物価も安いし、気軽な服装で出かけられ、知り合いも多い。特に、私は白門江東支部の幹事長をしているのだからなおさらです。


○ 横山貴講(法法)

 「我が家の愛犬」
 我が家には、身長50センチ、体重5キロの愛犬「リキ」がいる。1歳6ヶ月のミニチアダックスフンド。
 一人っ子の娘がまもなく結婚、家を出る。1年半前に寂しがらないようにと(親が想像)娘が買ってきた。
 娘が生れたときから、犬(室外犬)がいて5年前に2頭目が老衰のため16歳で亡くなった。毎日の犬の世話から解放されて、ほっとしていたところだった。老衰で亡くなる最後の時を看てきたので、もうあの姿は見たくないと言う気持ちになっていたので最初は反対をしていた。
 しかし今では、室内犬のため一日中一緒に生活しているので、すっかり情が移り離れられない間柄になってしまった。
 リキは朝ゲージから出すと、トイレを済まし妻の布団の中に入ってしばし人のぬくもりを楽しみ、妻が起きると1日の活動を始める。朝は私や娘が出勤するまでの間、家の中をかけずり回り元気よく遊んでいる。出勤後は妻が家事をしている間、椅子の上に乗り寝ている。掃除等が終わると、好きな散歩に行こうと催促するそうである。散歩から帰り午後はもっぱら昼寝タイムになっている。
 夕方私が帰ると大変な歓迎ぶりで迎えてくれる。しばらくの間は一緒に遊べと、家の中を20〜30分追いかけっこする。猫は遊びを自分で見つけるが、犬は人に遊んでもらわないと出来ないと言われている。私が、ボールを転がしたり、ぬいぐるみで格闘してあげるととても喜ぶ。おかげで手は傷だらけである。少し疲れるが運動不足解消にはもってこいである。
 遊んでいる姿、表情、いろいろな寝姿等を見ていると、とてもほほえましい情景であり心の底から癒される気持ちになる。寧日雑感に今まで2人の方が犬の話を書かれているが、本当にすばらしい人間のパートナーである。
 今年は、もうすぐ定年、リキを連れて温泉に行くのが、私の小さな夢である。

  毎日を どんな気持ちで いるのかな
     リキと言葉で 話してみたい


○ 芝木雅基(法法)

 「謠蹟巡りの話 」
 謡曲の稽古を再開したのを機に、去る6月に謡曲の会の仲間と、鎌倉の謠蹟を訪ねてきました。
 その時の話を少ししてみたいと思います。
「謠蹟巡り(鎌倉編)」という本がありますが、この本の書名が示すように鎌倉には謡曲に縁のある史蹟が数多く残っています。
 我々の「謠蹟巡り」の特徴は、単に謠蹟を訪ねるだけでは能(!?)が無いというので、訪れた謠蹟でその機縁となっている謡曲を謡ってきたことです。
 例えば、
 ・明月院最明寺の時頼の墓前では「鉢の木」を
 ・鶴岡八幡宮、若宮では「船弁慶」を
 ・安養院では景清の娘人丸の墓前で「景清」を
 ・由比ヶ浜の頸座の碑の前で「盛久」を
 というように、各々の謡曲の中で一番の聞かせどころを謡ってきました。
 鎌倉というと名だたる観光名所の為、道行く多くの人から好奇の眼を向けられ、いささか面映く感じたものです。
 謡曲を通じて能への理解が深まり、往時の人達の考え方、人情の機微等を伺い知る亊も出来、なかなか興味深くもあります。
 上述のように、鶴岡八幡宮で「船弁慶」という謡曲を謡いました。
 舞の名手と言われた「静御前」が、頼朝に召出され、無理に請われて舞ったのは、鶴岡八幡宮の参道の正面にある立派な舞殿ではなく、若宮の回廊だったとのこと。又、この時の舞が義経を慕った舞であったため頼朝が激怒したのを、必死に諌めたのが政子であったという話が伝わっています。
 これが嫉妬からだったのか、或いは女同士の連帯感からだったのか。もし後者だったとすれば、巷間伝わる政子像を改めなければならないかなと思ったものです。
「浪風も。静を留め給ふかと。涙を流し木綿四手(ゆうしで)の。神かけても変らじと。契りしことも定めなや。げにや別れより。勝りて惜しき命かな。君に二度び逢はんとぞ思ふ行末。……」
 この時謡った「船弁慶」の一節です。
 兵庫県尼ケ崎の大物(だいもん)の浦まで、義経と一緒に静が落延びてきた時、義経はこれ以上行を伴にさせるのは忍びないと考え、静をその意に反して京に帰させる場面です。
 静の心情を巧みに表現した詞だと思います。
 この日は、宝戒寺(萩寺)〜妙本寺〜長谷観音〜光則寺等を巡り、最後はNHKのテレビ放映ですっかり有名になった成就院で、紫陽花の花と、眼下に広がる由比ヶ浜の素晴しい景色を堪能して帰ってきました。


○ 八束一郎(法法)

 「飛行機嫌い」
 私は飛行機に乗るのが嫌いです。何故なら、落ちるのが嫌だからです。
 飛行機が飛ぶ原理は翼の上と下の空気の流れの違いによって生ずる浮力とのことです。でも、機体・乗客・荷物など百トンもの物体を浮かすのですから、翼が野球場位もあるのなら納得できますが、窓から見える翼はバスの天井2枚分くらいしかなく、おまけにいつもブルブル震えていて頼りのないこと夥しい限りの代物だと思いませんか。
 百歩譲って加速しながら離陸する時や高速で飛行中なら浮力の原理もわかりますが、着陸の瞬間は高層道路を走っている自動車並みのスピードになり、これは絶対に浮力はきかない状態のはずです。言葉を変えればこれは「着陸」ではなく、限りなく「墜落」に近いものだと断言できます。私としては、パイロットのテクニックで運よく壊れずに「墜落」したことをうまく誤魔化して「着陸」などと言っている乗り物には乗りたくないのです。
 私が「飛行機嫌い」である証拠は、もうじき60歳になろうとしている人生で、飛行機に乗ったのが7回、しかもそのうち3回は会社の出張で無理やり乗せられたということでもおわかりいただけるかと思います。そして、その7回の忌まわしい搭乗を全て記憶しておりますので、これからそれを紹介したいと思います。
 1回目は、私が入社3年目位の時で、先輩のバイヤーと一緒に富山に行った時です。羽田から今はもうない双発のプロペラ機に乗りました。駐機中は機体が頭をもたげた斜めになっていること、荷物を網棚に乗せてスチュワーデスから「足元に置いてください」と怒られたこと、富山空港が川の中州にあるため着陸の時に川へ落ちたと思ったことを今でも鮮明に覚えています。帰りは一人で夜行列車で帰りました。
 2回目は大阪に出張した時で、新幹線で帰京する予定が事故で不通となり、同行の上司が急いで帰京したいということで飛行機に乗ることになったのです。私は「予定外のハプニングでたまたま乗った飛行機が落ちた」という話をよく聞いていたので上司に「私は新幹線で帰ります」と言ったのですが「命令だ」と言われて泣く泣く旅客機の狭い座席で青ざめていたことを思い出します。
 3回目は新婚旅行でグアムに行った時で、この時は妻の手前もありそれほどの恐怖も感じませんでしたが、機内のアナウンスを聞き漏らして持込品の申告書を通関時に書かされて迎えのバスに乗り損なったり、1時間の時差があるのを知らずに1日過ごしてツアーの人達から時間を守らない夫婦という評判を立てられる等の失敗がありました。
 4回目はこれも出張で北海道の千歳に向かったのですが、雲に覆われているということで函館に着陸してしまい、約束していた札幌の某百貨店の社長を何時間も待たせてしまうというハプニングがありました。
 5回目は10年位前ですが、妻と娘を連れた香港への観光旅行で、初めて自発的に飛行機に乗りました。当時の飛行場はビルの林立した中にあり、着陸時かなり怖かったことを覚えています。9.11の同時多発テロの時のビデオを見る前でよかったと思っています。
 6回目は、昨年、娘の良縁祈願のため妻と娘を連れて出雲大社に行った時です。ハイジャックしようと思ってトイレットケースの中に隠してあったアーミーナイフが感知されて搭乗が遅れ、家族を含めた皆から白い目で見られた苦い記憶が残っています。
 7回目も昨年で、白門43会の「広島の集い」の10名近い会員と一緒で、何の嫌なこともなく無事に往復できましたが、食べ過ぎ・飲み過ぎで太ってしまいました。
 来年はまた、企画委員長として「地方の集い」を企画しなければなりませんが、なるべく新幹線で行ける所にしたいと思っていますので常任幹事の皆さんよろしくお願いします。


○ 後沢正昭(法法)

 「我が家の新しい家族」
一昨年末 我が家に新しい家族が加わった。生まれたばかりで とてもカワイイ男の子。と言っても人間ではなく、犬である。
 現在 1歳11ヶ月、体重 2.5kgのロングコート・チワワ(アイフルのテレビ・コマーシャルに出ている種類)で、名前はエルビス(家内がエルビス・プレスリーのファンでこれに因んで名付けた)と言い、「アイフル・チワワより数段かわいい」と 家内と親馬鹿ぶりを発揮している次第である。
 昨年春に下の娘が嫁いで、いよいよ夫婦だけの生活になり、休日など 2人で居ると、“家の中で動くものは テレビの画面だけ”と云う 落ち着いて静かだが、活気に乏しい状況に陥ってしまった。ちょうどそんな時 我が家に登場したのが、エルビスである。会社から帰ってくると、玄関口でお出迎えしてくれるし、いつも足元を走り廻って家中が大変賑やかである。
 芸も多少はするようになり、得意は仰向けになって、タマチャン・ポーズ(写真上 ・・・ 多摩川に現れたアザラシのリラックス・ポーズ)で 我々夫婦を見上げて甘える。現在 ウインクを特訓中で、“ウインク”と号令をかけると、片目を瞑るしぐさをしている様であるが、これも親の欲目か・・・?(写真下)。夜は 家族3人(2人+1匹と言うべきだが、敢えてこう言う)で 川の字になって寝ている。
 只 我が家は、ペット禁止のマンションであるため、周りには内緒の日陰者の生活を余儀なくされており、“籠の鳥”状態である。時々は外出させているが、その時は買物袋に入れて玄関を出て 近所では袋から出さず、電車に乗って遠くに行ってから 袋から出して散歩させるので、当然 家に帰る道が判らず、1人(ここも敢えて1匹と言わない)にすると迷子になってしまうので、気が気でない。
 ことごと左様に 夫婦で子供の成長を見守る楽しい今日この頃である。


○ 清水 正(法法)

 「30人の子供たち──鉄道少年団──」
 会報作りや山王白門会、春のトリップなど白門43会の活動とともに私の生活の中で大きな比重をしめるものは鉄道少年団の活動です。私は今、東京鉄道少年団の団長として忙しく動き回っています。初めて関与したのは15歳のことで、実に44年間この生活にかかわってきたわけです。もともと鉄道が大好きで団員として活動してきたわけですが、87年に当時全国最年少の団長として就任しました。
 東京鉄道少年団は毎月、品川駅の清掃をします、時には列車に乗り込んで実践活動をやったり、鉄道利用のお客様にマナー向上をよびかける活動をいろいろとやっています。もうひとつはキャンプなどの訓練活動です、毎年全国のキャンプ場で交流とテント張り、炊事、ハイキングなどの訓練活動です。今年は福島・白河で全国から200人の団員が集まり訓練活動をしました。
 鉄道少年団の子供たちは小学校の4年生から中学生までです。毎回活動で顔を合わせれば、学校の先生が生徒に接するときのようです。なかには行儀の悪い子、無口でほとんど口をきかない子、言うことを聞かない子などがいますが集団活動のなかで少しずつですが成長してゆく様子がみえます。そして何年かがたつと年下の団員を指導できるようになります。こんなとき少年団をやっていて良かったと思います。毎日30人の名簿をながめています。ひとりひとりの顔が頭にうかびます、次に会った時はなにを話してやろうかとーーーーーーー。
 ここで2人のことを紹介しようと思います。一人はK君です。去年岐阜の大学に入りました。子供たちと接することの大切さを考え将来小学校の先生になろうとしています。大学入試の時私が推薦状を書いてあげました。毎月1回自分のお金で東京へでてきて団員を指導しています。いまや東京鉄道少年団で欠かせない存在です。もうひとりY君です。茨城県に在住の高校生です。やはり自分のお金で毎回の活動に東京へ出てきています。学校の活動・行事がとても忙しいのですが、来年3月までは絶対にがんばると言っています。本当に責任感が強くありがたい存在です。
 このような団員に囲まれ、私も毎回の活動をがんばっています。ブルーのベレーを目印に白門43会とともに、私のライフワークのつもりです。10月1日は私の誕生日です。サラリーマン生活もあとちょうど1年です。何よりも健康と生活の充実さを大切にしたいと思っています。
        
      東京鉄道少年団のホームページ  http://www5d.biglobe.ne.jp/~rca/


○ 佐藤 勝(法政)

 「塩狩峠の宿にて」
  今年も北海道へツーリングに行ってきた。
 昨年は目的のラベンダーが季節が遅く、見られなかったので早めに計画し、7月3日より北海道に入った。
 天気にも恵まれ苫小牧、札幌、小樽、稚内、浜頓別と4日間かけて順調にコースを消化した。5日目の宿は身体の疲れをも考えて旭川の先にある山間の”塩狩温泉ユースホステル”に投宿した。そこは国道40号線、別名”名寄国道”の塩狩り峠より少し手前にあった。
 周りに何も無い静かな山間のユースと一般の旅館、そして一時的な温泉が楽しめる施設であった。その旅館にはロビーにも廊下にも詩人で書道家の故”相田みつを”氏の作品がたくさん飾ってあった。私はこの旅館に投宿するまでは故人のことは何も知らなかった。しかし、その独特の筆の運びとその詩の内容に深く感じるものがあった。
 氏は永平寺の高僧の教えに感銘を受け、若くして在宅の出家僧になられたとのことである。享年68歳でこの世を去っておられるが、氏の数々の詩の内容はみな人々の心を和ませるものばかりである。
 詩の書体も実に味があり詩の内容を字そのものが声に出して語りかけているようである。 私は詩も書道も詳しいことは分からないし、何も立派な事は言えない。けれどその形式にとらわれず心のなすがままに白紙に黒い墨で描いたひとつひとつの詩はこのギスギスした社会に生きる我々に癒しを与えてくれるように思う。
 たくさんの中から私の好きな色紙を一枚購入してきた。
  生涯 燃焼
  生涯 感動
  生涯 不悟
 近々に還暦を迎えるがこの詩を”座右の銘”として、今後もこれで行くしかない……と思っている。 (2003年7月20日)


○ 鈴木征夫(法法)
 「近況報告」
 暑中お見舞い申しあげます。
 白門43会ではいつもお世話になっております鈴木征夫です。いざ、自分の寄稿の順番がまわってくると、なにを書いていいやらとまどっております。勝手ながら、私の近況について報告させてもらいます。
 昨年、三十数年勤務しました某ゼネコンを退職いたしまして、現在は数社の営業をさせていただいております。
 営業経験は殆ど経験がありませんでしたが、三十数年のサラリーマン生活における、先輩、後輩、また、大学時代の友人、白門43会の皆様方にお世話になりながら、楽しく、仕事をさせてもらっております。
 先般、中央大学東京江東支部が設立され、私も参加させてもらっておりますが、会員には65歳前半どころか、70歳過ぎの方々も多多おられて、まだ現役で楽しく、お仕事をされていますのを拝見して、私も先輩方を見習って、楽しく、頑張ろうと肝に銘じた次第です。
 また、私の活力のもととしては、ここ十数年来、毎週2回はサウナにいっております。他のことは反古にすることがありますが、このことだけは必ず実行(ときには週3回)しております。週の内、1回は平日、1回は休日とし、のんびりと風呂に入り、そしてビールを一杯。これが私の健康法であり、かつ趣味でありますことを付け加えてつたない寄稿とさせていただきます。


○ 高梨明宏(法法)
 「ウクレレは楽し」
 なぜ、リズミカルなウクレレに興味を持ったかは、35年前に遡る。学生時代は、五葉会(禅)に所属、音楽と女性には無縁であつたが、今思えば・・・であった。卒業した昭和43年の秋に、銀座のタクトに初めて行き、大橋節夫とハニーアイランダース、バッキー白片とアロハハワイアンズの演奏を、よく聞きに通った。この時、バッキーさんのウクレレソロを聞き、その技術力と心から歌うように弾く奏法に驚き、感心を持った。憧れたが、とても真似が出来ないと思い、それから四分の一世紀が過ぎた。
 50歳を過ぎて、一念発起してソロの練習を始めた。実は今でも子供と妻に真顔で諭され、「お父さん、絶対にウクレレをやっていることを人に話してはだめだよ。気が付かないと思うけど、恥ずかしいんだからね、笑われるよ」。これには閉口したが、未だに家族からは白眼視され、認知されずにいる。
 こんな家族を尻目に、今まで、「ブルーハワイ」「南国の夜」はもとより、「ジェラシー」「グラナダ」「エスパニアカーニ」「スペインの姫君」「ザロジータ」のスペインの曲や、「おもちゃの兵隊」「ユーモレスク」「スワン」「シューベルトのセレナーデ」「夢見る乙女」「ペルシャの市場にて」のセミクラシックや「シャルメーヌ」「インディアンラブコール」「コメプリマ」「スミレの花咲く頃」「双頭の鷲の旗の下に」等の50曲程を何とかマスターした。
 以上は、全てあのバッキーさんの手がけた曲である。ウクレレソロは易しそうで、実に難解で奥深い。ハワイアンのスナックに行っても、スチールギターを弾く人は多くいるが、ソロを弾く人は滅多にいない。まして、バッキー流のソロ奏者は皆無。何時も、モテモテである。楽し、楽し、である。
 なぜ短期間でマスターしたのかとよく聞かれるが、それは、世界三大教育法の一つと言われる「鈴木メソッド」を真似たからではないかと思っている。よく聴き理解し、何度も繰り返し練習することに尽きる。勉強と同じ、やれば簡単、あなたもチャレンジしてみませんか。
 今は、お陰で毎日がとても楽しい。銀座、赤坂、六本木、新宿、渋谷、神田と毎週どこかにウクレレ片手に出没している。
 ウクレレのお陰で、スナックでは多くの方々と知り合いになれた。昔ならとても近づけなかった人や大会社の社長さん、お医者さん、繁華街の警察署長さん、各界で活躍する人達と輪が広がる。良い人達で、財産と思っている。
 実は、年甲斐もなく、この5月よりハワイアンバンドを結成した。ジャズも含め、あらゆるジャンルをこなしていくつもりだ。プロの女性ジャズシンガーも参加してくれることになった。これからが、・・・乞う、ご期待。
(上の写真はハワイのNo1フラダンサーのカノエ・ミラーさんと。下の写真は日航機の機内でウクレレソロに聞き惚れるスチュワーデス)


○ 後沢節子(法政)
 後沢節子です。ご無沙汰いたしております。
 HPへの寄稿の依頼を受けましたが、私、恥ずかしながら、PCは蓋を開けるだけで、さっぱり動かす能力はありません。これも携帯からの便りです。
 今一つ考えている事は、<成仏したくない会>を誰か立上げてくださいませんか?死後、成仏しないで現世の上空でフワフワ浮遊していて、家族が危険な時 チョイト合図を送ってあげたいのです。これが私の願い。娘共にも49日法要は不要と伝えてあります。ここだけの話、お寺さんを儲けさせる事もないと思うし……どうお考えでしょうか?皆さん!


○ 木下正雄(法法)
 「二つの時間」
 こんにちは、木下です。今、この白門43会のホームページへアクセスしておられる貴君にとっての時間はどんな時間でしょうか。と、いきなりお尋ねしている木下も、この原稿を私はどんな時間に書いているのやら・・・
 ところで、人には誰にでも等しく一日24時間が与えられています。でもその24時間をどのように使うかは、その人次第。ある人は、その一日が好むと好まざるを得ないスケジュール消化に追われ、慌しくて昼食も満足に取れなかったとぼやく人もいれば、反対に、同じように時間に追われたとしても自身の思うところに沿って過ごし、一日の終わりには寝酒をゆっくり味わった後、床に就く人もいるでしょう。
 この誰にでも等しく与えられた24時間は、万有引力を発見したニュートンの物理的法則に従い、ニュートン・タイムとすれば、これに対してこの与えられた同じ24時間を己に如何に生かし、如何に生産的に使うか思索するのがベルグソン・タイムだと言った人がいます。因みに、ベルグソンは、貴君共々かのロの字形の学舎にあった頃「哲学」の授業で、当時は冷房もない教室、夏も近い昼下がりの時間、午睡と戦いながらも聴いておりました担当の高瀬教授が熱っぽく語っておられた、あのフランスの偉大な哲学者でありますが。
 卒業爾来35年、顧みてこの時間は果たして私自身何れの時間に傾いていたのだろうか、些か内心穏やかならざるところもあります。しかし!世の中に変えられないものが二つあるとか。一つは時間、そしてもう一つは他者。となれば、己の在り様をここは変えるしかなく、初老からもはや老年と呼ばれるに至ったこの期に及んでは、残された時間を如何に限りなくベルグソン・タイムに近づけるかが課題になるのでしょう。
 「寧日雑感」にある寧日とは、平穏な日或いは穏やかな時間と言うような意味とか、そこには満ち足りた時間を愉しむ響きすらも感じられます。となれば、かく言う寧日を愉しむゆとりこそ持ちたいもの。否、それに向かおうとしている今こそがベルグソン・タイムに満ちた時間なのかもしれません。嗚呼、やんぬるかな。


○ 勝  信 樹 (文文)
 「新春雑感」
 あけましておめでとうございます。
 2003年の新春を迎え恒例の箱根駅伝の観戦から今年もスタートした。
 白地にCのマーク、赤いタスキに母校中央大学の名誉と栄光をかけて・・・往路の12位から総合5位、タスキが繋がってホッとした、という木下監督の談話を聞きながら、まるで筋書きのない人生ドラマの縮図と感じたのは私だけであろうか?
  中央大学に「アナウンス研究会」という公認サークルがある。昭和49年度の卒業生が一期生でOBも300人を越えている。
 サークルの性格上、就職先はマスコミ関係も多いが職業は多岐にわたり各分野で活躍している。そこの顧問を引き受けてからかれこれ10年になる。
 2002年度のOB会には、創世記のメンバーから現役の学生まで、日本全国からの参加者の交流は、年代を超えたイベントとして、演歌もニューミュージックもJポップも混在したまるで「紅白歌合戦」のような一体感を共有した世界であった。
 われわれの学生時代は安保闘争と学園紛争が華やかで、一方では紋付き袴は中央の育ち(中大数え歌)の蛮声とバンカラとの共生の時代、いま思えばこの時代に生きた者にしかわからない同世代の共感は純粋でいつの時代でも共通する心のネットワークでつながっているような気がしてならない。
  箱根駅伝の実況放送で中大OBの日テレのスタート担当のOアナ、優勝インタビューのYアナ、ゴールのTアナの何気なくさりげない中大コールは、心の中にある自然なネットワ−クの発露と感じたのは私だけだろうか。


○ 大谷隼夫(法法)
 「年賀状」
 明けましておめでとうございます。新春の楽しみは年賀状を読むこと。今年もいただいた沢山の年賀状を1枚1枚手に取って見る。ひところ虚礼廃止が叫ばれた時、年賀状もやり玉に上がった覚えがあるが、今はすっかり定着している。年賀状を送る習わしがいつころから生れたかは知らないけれど、今や年賀状なしの正月は考えられない。
 普段これといって用もなく、無沙汰を重ねている人達とも、年初の挨拶を交わしながら互いの消息を確かめることができる。これはもう日本人の知恵が生んだ文化の一つだと思う。
 謹賀新年、頌春、……と新年を寿ぐ表現は実に多い。年頭の抱負を語るもの、世相を憂うるもの、家族の一人ひとりの近況を知らせるもの、趣味の世界に浸るものなど内容も様々だ。
 デザインも凝ったものが少なくない。特に近年は色彩が豊かになってきた。写真印刷やプリントごっこの時代から、今はデジカメとパソコンとプリンターを駆使して、華やかな賀状の展覧会を催してくれる。
 東京都港湾局勤務が長かった43仲間のSさんは、欠かさず世界の帆船や豪華客船を選んでは、みごとな版画にして見せてくれる。Sさんのだけは一度も捨てずにとってある。腕は毎年上がっていて、さて今年のはとよく見たら、なんと版画ではない。パソコンで制作し、プリントしたものになっていた。
 油絵を画くA弁護士は、自身の作品を年賀状で見せる。何とも絵葉書的な風景を、童心の宿った筆で画き上げてあって微笑ましい。
 おそらくその世界では先駆的にパソコンを覚えたO判事は、新しい技術を習得すると、それを早速年賀状に取り入れて、時にはその注釈もつけてくれる。
 そのほか飼猫のご機嫌に必ず触れるI弁護士、白黒刷りながら繊細な彫りで魅せる浮世絵風美人画のS検察事務官など、次が楽しみな作品がいくつもある。
 さて、それに引き換え、わが年賀状はというと、相も変わらず官製絵葉書に街の印刷屋さんが示す例文集の中から「これ」と指さして印刷してもらう、何とも味気ないものだ。図画工作が得意だった少年のころは、版木やゴム板に一所懸命彫っては1枚1枚摺っていた。大人になってからは忙しさにかまけて、いつか力作をと夢見ながら年の瀬が過ぎてゆく。心を込めて制作したり、添え書きをして下さる方々には本当に申し訳けないと思う。この場を借りてお詫びします。
 ともあれ、皆様がこの1年を無病息災で無事過せますようお祈り申し上げます。

追伸:
 三沢充男さん(このホームページの管理人)から年賀状の起源について、北海道新聞のホームページに載っていると教えてもらいました。
 http://www5.hokkaido-np.co.jp/motto/20001202/qa2.html


○ 林 克明(法法)
 「40年振りの講義」
 新年早々の「寧日雑感」としては些かどうかとは思うが、格調高い話は諸兄にお任せすることにして、近年久々に感動したことがあったのでそれについて記してみたい。
 昨年10月下旬、信州の某市で行われた母校U高校の同期会に初めて出席した。殆どの同期生は卒業後故郷を離れ全国に散らばっており、今回のように全同期生に声を掛けての催しは初めての事であった。卒後40年、また殆どの仲間が還暦・定年を迎える節目の年でもあり、在郷の仲間が気張って計画したものである。
 当日は400名の卒業生中90数名、恩師2名が集まり、小生のクラスは12名が出席した。同期生の総会、懇親会も終わりその後恩師の荒木先生を囲んで別室で同級会を開くことになった。
 40年の歳月はすっかり風貌を変えてしまいお互い名乗りあわないと誰なのか分からない始末であったが、そこはやはり同級生、親しさも一段と違い、職業も代議士、大学教授、医者、また、地元蕎麦屋の亭主などと多士済々で和気藹々の雰囲気となった。
 かなり宴も進んだ頃、恩師の荒木先生が突然「佳境の所誠に申し訳ないが」と発言され何事かと注目すると、「皆、立派な社会人となりこんな嬉しい事はない。そんな諸君に僭越とは思うが本席の座興に老骨が40年振りに講義するのを許して頂きたい」との事であった。
 先生は84歳、母校の大先輩でもあり大学卒業後母校の国語科の教師になられたが、応召されて北支(現中国東北部)に派遣され、終戦後旧ソ連に抑留、3年間の過酷な環境の中で死線を超えられて復員された。復員後再び母校に復帰され定年まで奉職された。
 当時「鬼の荒木」とも言われ厳しい事でつとに有名であったが、人情家でもあられた。
 「講義」のテーマは関心、感動、感謝についてで、師の含蓄ある言葉をそのまま伝えられないのは残念だが要旨は次の様なものであった。
 「諸君は現役を引退して第二の人生に入る人が多いと思うが」というイントロで始まり、
 [関心]歳をとると感受性も鈍り物事に対する関心・好奇心も徐々に薄れてくるが、意識してあらゆる事柄に関心・興味を抱き積極的に行動しなさい。
 [感動]若い時は些細なことでも感動・感激できたものだが、60年近くも人生を経験すると精神も固くなる。また琴線の振幅を表に出さない事を美徳としがちだがこれは精神的老化の一つとも言える。この厳しい世の中でも感動・感激することは沢山ある。精神衛生の上からも心に蓋することなく率直に感動・感激しなさい。
 [感謝]現在あるのは、己の努力もさることながら他人・社会のお陰に依るところが大きい。常に感謝の気持ちを忘れてはならない。
 以上「三かんの教え」を我々に贈りたいとの事であった。この間20分位であろうか、現役当時そのままの名調子であった。皆、杯を運ぶ手を休め感動して恩師の講義に聴き入った。言葉としては特に耳新しいものではないのだが40年振りの恩師の言葉となると格別で心に浸み入るものがあった。
 その後師ともども全員三次会までフィーバーし、結局最終の新幹線に乗り遅れ、同期生の経営するホテルで世話になる羽目になった。


○ 尾留川一彦(文文)
 「味」
 益田喜頓という役者がいたことを憶えているだろうか。いわゆる三枚目である。芸名の由来は、アメリカの喜劇役者バスター・キートンにあるという。既にこの世を去ってしまったが、あのとぼけた風貌と喋り方に何とも言えぬ味があった。
 ずいぶん前のことになるが、彼がテレビやマスコミから遠ざかって久しい頃、新聞記事で彼の消息を知ることがあった。
 新聞には記事と一緒に写真も大きく載っていた。中折れ帽子にオーバーコート、首には洒落た襟巻き、確かそんな写真だったと思う。撮影場所は冬の函館。記事に目を通すと函館が彼の故郷だということ、余生をその故郷で送っているということが判った。まだ元気でいるんだ・・・、旧友にあったような思いで暫く写真を眺めていた。
 写真を眺めながらこう思った。昔のイメージだと、洒落た襟巻きは和手拭いのはずだ。それにオ−バーコートは綿入れ半纏、中折れ帽子は何になるだろうか。そんな格好で洒脱なジョークをとばし、笑いを誘うのが益田喜頓だった。
 しかし、そこにいるのはあのとぼけた風貌と喋り方で笑いを誘った彼ではない。これまでの人生をゆっくり振り返り、漫足気に余生を送るという感じの老紳士がそこにいる。中折れ帽子がいい。何とも言えぬ雰囲気が漂っている。ダンディーである。それに一度は行ってみたいと思っている函館という町がいい。人生を達観した渋い二枚目がそこにいる。味がある。大変身である。
 男は年輪を重ねて味がでるという。演技とは言え、若い頃には悪役専門だった役者が、いつの間にか好々爺の役を演じている。またそれがよく合っている。何と言っても味がある。
 味がでなければ・・・、いつか男の味がでるのだろうか。そう思って新聞を閉じた。
 それから数年後、彼がこの世を去ったことを知った。
 好きな役者だった。


○ 正野建樹(法法)
 「お堀端周走記」
 40代を過ぎた頃からであろうか、健康を意識するようになった。何か適当な運動はないものかと考えた。ポピュラーな水泳やテニスは施設を要するし、それらの始終業時間にも拘束される。ゴルフは未だ娯楽の域を出ない。いつでも、どこでも手軽にできる運動はないものかと考えているうちに、ある日、桜田門を通って裁判所へ行く途中、皇居の周りをジョギングしている人々を見て「走ってみよう!」と思いたった。
 それ以来、毎週、週末には皇居(一周5キロメートル)を2〜3周ジョギングするようになった。事務所(麹町)で着替えて、桜田門内にある時計台下でウオーミングアップして走り始めるのである。日曜日(昼以降4時まで)の皇居正面は車両乗り入れ禁止区域となっているため、周辺の交通量は極めて少なく、遠方からジョギング、ウオーキングのために色とりどり、思いのままのトレーナーに身を包んだ老若男女が集まってきて、賑やかである。皇居苑内の深い緑から湧き出てくる新鮮でみずみずしい空気を吸い込んでスタートである。祝田橋内から大手門付近までは一直線で、手入れの行き届いたみごとな松林と濃い緑の芝生を左右に眺めながら走っていく。大手門を過ぎたあたりから風向きによって馬糞の臭いがプンプンとしてくる(内苑に厩舎があるのであろうか?)。お堀の水面にはつがいの鴨や白鳥が浮いていて、のどかな田園のなかを走り抜けているような錯覚にとらわれる。大手門、平河門を過ぎ竹橋あたりから、ダラダラと長い上り坂にさしかかる。北桔梗門を過ぎ、乾門、北の丸公園付近を過ぎてもなお延々と細長い坂道が続いている。道中の難所であるが、山道を思わせる左右の深い木立とその木の間がくれの白塀や石垣の古城のたたずまいが苦しさをいやしてくれる。
 緑の中に沈んでいる旧近衛師団司令部の赤レンガの建物の前を過ぎて、右に千鳥ヶ淵をみつつ左に折れると、やがてユニオンジャックのはためくイギリス大使館前に出る。大使館前の道路を避けて土堤沿いの樹林の中を抜けていくと半蔵門に辿り着く。
 ここで暗く細い山道から一気に視界が展けた大平原に抜け出たような気分になる。それまでは見えなかった青空が広がり、下界には銀座方面、東京湾が望まれ、足元を見下ろすと遥か下にお堀の水面が見え、吸い込まれていくような怖い思いがする。ここからは急な下り坂となり、三宅坂を駆け下りていくのであるが、この付近は水面に対岸の松が映り、土堤には四季折々の花が咲き乱れ、美しい光景を演じている絶景地である。この坂道を下りきったところが桜田門である。桜田門の古い城門をくぐったところがスタート地点の時計台下であり、一周が終ることとなる。
 このように毎週末走り続けているうちに「駆けるのが大好き人間」となり、今では仲間と共に3月には桃畑の中を走る「桃源郷ハーフマラソン」、5月に新緑の「山中湖ハーフマラソン」に毎年エントリーしているほどである。


○ 町田譽曽彦(経国)
 「二科展と日展」
 よく、秋の二科展が終るやいなや友達から「町田さんは日展には出品されないのですか!」と聞かれる事がしばしばあります。「はい、私は今まで日展に出品した事も入選した事もありません」といつも答えて来ました。(二科展入選は22回)
 それと言うのは理由があるからです。二科展と日展は異なる公募の美術団体だからです。わかり易く言えば与党と野党ぐらいの違いがあるかも知れません。日展洋画の絵画スタイルはヨーロツパ18世紀印象絵画のアカデミックな写実画が中心であるのに対して、二科はモダンアート的な抽象画が中心を占めているからです。このように公募団体の主義や芸術精神が異なるからです。
 そこで、チョット日本の洋画史をふり返って見ることに致します。
 1889年に日本に最初の洋風美術団体「明治美術会」が創設されました。その7年後の1896年に東京美術学校に洋画科ができました。これが日本の西洋画壇の黎明期であります。
 この時期にフランスに留学した若い芸術家達が西洋画を学び帰国するに従って文部省展覧会の審査上に激しい対立が目立って来ました。新・旧を一科、二科に分けるように政府に要求しましたが時期尚早との事で脚下されたようです。その為に1914年(第一次世界大戦)に新しい美術の確立を標榜し、石井柏亭、田辺至、梅原龍三郎、有島生馬、坂本繁二郎、湯浅一郎の気鋭諸氏が図り、文部省展覧会から分離して、在野の美術団体として二科会が結成されたようです。続いて安井曽太郎、熊谷守一等が二科会に参加されました。
 二科会の精神は、「一流一派式に会の方向を限定する態度はとらず常に新しい価値の創造者は抜擢される、全会員に対する制作上の自由をあくまで擁護する」など。
 公募作品の審査方法においては、日展の洋画は審査員が毎年交代17名ほどで行っている様です。二科会は150余名の会員全員が審査員となり、9月1日の二科展初日に都美術館に展示された作品を見て用紙に賞候補などそれぞれ選び書き投票を行って決めているようです。
 また、二科会から派生した団体は、独立展、一水展(日展支援団体)、行動展 、二紀展、一陽展などがあります。
 少しわかって頂けたかと思います。以上の事を記憶に上野の東京都美術館の公募展を鑑賞されたら一味違う芸術の秋になるかも知れません。今、第34回の日展が11月2日〜24日まで上野の都の美術館で開催されています。
 第87回二科展は9月1日〜16日で終了しました。日本の公募三大展は第87回院展(日本画)、第87回二科展(洋画、彫塑、写真)、第34回日展(日本画、洋画、彫塑、工芸、書道)と言われているようで、昭和天皇がよく上野公園に見に来られていたようです。院展は、現在の皇太后さまが日本画を出品されていましたので、その関係もあっての事のようです。
 公募展などで入選、入賞(特選)などの選考、審査はスポーツ競技と異なり絶対的な記録の保証はありません。審査員の価値観、嗜好などが受賞の基準に、審査員の感情世界の問題のようです。どうぞ、上野の美術館で鑑賞しながらあなたが「芸術大賞」を選んではいかがですか。意外と一般鑑賞者の方が正しい目をもっているかも知れません。
 私は、長い間企業に勤めながら油絵を描き続けてきました。あと2年で60歳となり、サラリーマンの定年と言う事です。しかし、洋画界では生涯現役であると挨拶のスピーチなどで大先生方はよく言葉にしています。二科会では60歳はやっと成人式を迎える時期のようです。60才代から90才代の先生が二科会の中心で元気に大活躍されています。生涯現役の言葉を聞くたびにとても気持ちが若返ります。
 私にとってこれからが本当の人生のようです。自由になる時間を存分使い、好きなところで好きな絵を描くことが出来るのだと思うと体が熱くなります。すぐに20才代の気持ちにタイムスリップすることが出来ます。会社では人並み程度の出世しか出来ませんでしたが諦めも出来ます。これからの人生を考えると夢とロマンがありとてもいい気分になれます。「これからも健康に気をつけ感謝して、あせらず遅れず十分に空気を吸い、ゆったりとした気持ちで絵を描いて行きたい」と考えています。
 「少年のようにいつも好奇心を持ち描き続けて行きたい」と考えています。楽しい面白い絵が描けたらさらに嬉しいです。
(アト2年で60歳これから成人式を)


○ 宮本常子(文哲)
 「白門43会で思うこと」
 私が43会に入会、活動し出してから早3年ぐらいは経つのではと思われる。
 43会の広報委員になったキッカケは? とツラツラ考える時、気さくなヒゲの佐藤さんとまじめで優しそうな倉田さんが、3年ぐらい前の新年会の時、私の席の前に座ったことに始まる。
 「”下手の横好き”で文を書いたりは意外と好きなんです」と言って子供の学校や生協で広報活動をした事があると話したことが、入るキッカケとなりました。余談ですが、広報には”ダジャレ3人組”がいて、話の合間にポンポンとダジャレが飛び交い、私のストレスもどこへやらいつのまにか解消してしまうのです。そういうわけで、今では、ダジャレはうまくなりませんが、いろんな所(主として行事)を取材して思いつくまま下手な文を書いてという作業を結構楽しんでいます。それは責任ある委員長という立場にないから楽しんでいられるのかも……
 そうこうするうち、(今から一年位前)執行部よりお声がかかり、いつのまにか常任委員に入ることになって、総会で承認されました。
 広報に入った時、「時々絵を鑑賞したり、ウォーキング(健康のため)を兼ねたミニトリップをしませんか」と言い出したのが私で、まず絵の鑑賞という事で「平山郁夫展」を見に三越へ3〜4人で出かけました。その後ミニトリップが始まり、もうすでに私の記憶では5〜6回以上になると思われます。最近ではバスの日帰り旅行も2回目でより親睦が深まったと思われます。
 こういうことが出来るのも一生懸命”縁の下の力持ち”になって下さる方がいるからです。今のところ、定着したものとしては、ゴルフ同好会とミニトリップの2種ですが、ゴルフでは梅津さんが、ミニトリップでは清水(正)さんの尽力によるところ大です。同好会ではこのお二人が主として、また幹事会では、同期会の全般の企画や雑用など皆さん奉仕的によく頑張っていらっしゃると思います。最近誕生したホームページの管理人の三沢さんもお一人でホームページを作成。会長、副会長、他各委員長の方達も忙しい仕事の合間を縫って、”息抜き”も兼ねて43会の仕事を楽しんでおられるのでは…なんていうと叱られるかもしれません。これも常任委員になったから分かった事です。
 皆さん、フランクで温かい人ばかりなのが、私が43会にぬくぬく居続ける理由かもしれません。
 43会活動もいろいろ模索する必要があるかもしれませんが、私が皆さんにお話ししましたように、皆良識があって、良い方達ばかりでいろいろ楽しい活動もありますので、どうぞご参加下さい。(特に、女性の方の参加をお待ちしています。)


○ 井手美之(商会)
 43会の皆様! 残暑お見舞い申し上げます。私00年9月末日定年退職となりました。
 早いもので2年が経過しました。最後の勤務地が大阪でしたので43会大阪地区の会合に出席出来たのはいい思い出となりました。
 さて退職後福岡に戻りハローワークで介護と初級パソコンを受講しホームヘルパー2級を修了致しました。パソコンの方は自信がもてません。
 私の日常生活ですが、6時起床、万歩計をつけて玄海灘の三苫海岸まで一日一万歩をめざして汗をかいています。帰路ファミリーレストランに寄り250円のケーキセットを注文し新聞をひろげて隅から隅まで読んで過します。
 趣味ゆうゆうでは、福工大主催のストレッチ教室に通っています。若い先生に女性5名男性1名で頑張っています。ストレッチの後は学生食堂で定食をとり、その後図書館でゆっくり新聞を読んだり雑誌を読んだり図書の貸出をうけたりして学生気分でなかなかいいものです。家庭にあっては老母の世話をしたり炊事洗濯も気がむいたら手伝ってます。
 その他組長として町内の世話役として雑務をこなしてます。
 時間は充分あります。一歩一歩前進して充実した定年後を過したいものです。


○ 荒井洋一(法法)
(雪のりんご畑)
 今年の正月は信州の温泉場で過ごしました。
 朝、目覚めると一面の雪。
 新雪というのを一度写真に収めて見たかったのですぐにカメラを持ち出して裏山へ向かいました。
 信州にはりんご畑がいたるところにあります。
 今まであまり気にとめたこともなかった風景でしたが、雪をかぶった木々が日に照らされてきらきら光る様子が綺麗でシャッターを押しました。
 真ん中の赤い実は鳥達がついばめるようにわざわざ残してあげているのだそうです。
 冬景色なのに暖かい感じに写ったのはそういう所が撮れたからかなと思います。

(りんごの花)
 りんごの花はゴールデン・ウィーク前後が見頃です。
 ここには写っていませんが、りんごの木の下にはたいていたんぽぽが咲いていて白、黄、緑のコントラストが生命を感じさせてくれます。
といっても私は殆どこの花を知りませんでした。写真を撮るようになり、自然に目が向きだしてやっとその綺麗さに気がつきました。
 この可憐な花を見ていると、島崎藤村の初恋の詩が自然に浮かんできます。やっぱり、りんごの花が似合うのは「まだあげそめし前髪」をした女の子ですね。
 水仙、桜、藤、牡丹、それぞれそれなりに綺麗な花はどんな女性が似合うのでしょうか。
 もっともっと写真を撮っていろいろなことを感じて見たいものです。

(花火)
 ビルの59階から撮りました。
 花火は得意な方ですが、そのなかでもこれはかなり自慢できます。
 この画面のなかにちゃんと入ってしかも迫力が感じられるものは一晩にそう何枚も撮れません。


○ 倉田隆次(法法)
(倉田さんは平成13年9月から15年4月まで中国へ語学留学をされました。その報告を寄稿としていただきました。内容は「会員の動向」のページをご覧下さい)


○ 平尾豊行(理数)
 「逆転の発想」
 高校の数学教師を35年間しています。青年教師の頃は高校生も一生懸命な所があり、私も誰にでもわかる数学指導法を研究して来ました。今も基本的には同じですが、最近は個性を重視し自己表現を奨励するようになり、人間性は明るくなった反面、「役立たずの数学は嫌」という生徒は増えるばかりで嘆かわしい限りです。それでも、「先生の授業はよくわかるよ」と言ってくれる生徒もおり、どうにかやる気を維持しています。基礎から応用へとステップを踏んで「易しく、わかりやすく」説明しても、応用の所に来る前に難しいと諦めて何を学んだか解らないで終わる生徒が多いです。そこで、今の私の数学の教え方は始めに結論ありきで、ピラミッドの高さを測るために三角比を学び、瞬間の速度を測るのに微分をと言うように、何故勉強するのか、何を学ぶのかから始めてどんな問題を解決するための学習かを明確にすることにしています。計算は手段にすぎないこと。関係性を大事にする。それも因果関係の「結果」から「原因」を見つける逆の発想です。
 ところで、事件もので「アリバイの原理」はおなじみと思います。事件を解決するには、僅かな情報を頼りに容疑者リストを作り一人一人潰していく。それは「犯行時に現場にいなかった人は犯人でない」と断定する。これは命題の「AならばB」が真ならば、対偶命題の「not B ならば not A」が真の応用。すなわち、「犯人は現場にいた」の対偶がアリバイの原理です。このように、数学の学習は「目に見えないものをどう見えるように(イメージ)するか」「複雑なことをいかに単純化するか」といったことのトレーニングであると思います。
 ノーベル賞の田中耕一さんは受賞を「寝耳に水」とはじめは当惑顔でしたが、日本中が祝福の大騒ぎで一躍有名人となり、急遽会社役員ポストと大学教授の椅子、文化勲章と用意されました。それが不釣合いに見えないように、日本の評価の仕方について考えさせられるべきことが多くあります。いわゆる逆転の発想で、人材を育成しかつ発掘できる環境とは何かをしっかりとみつめる教育の視点が必要と思います。

追伸: 「広島の集い」では遠方よりご出席していただきありがとうごさいました。
     お陰さまで盛大で楽しいひとときを過すことができました。


○ 三沢充男(法法)
 「むべ」
 彼女の顔がぱっと明るく輝いた。
「これが私?」
 その指差す木の根方には緑鮮やかな常磐野木瓜(ときわあけび)の硬い実が数個、深緑の葉の茂みの中にちょうど巣の中に産みつけられた玉子のように固まって、なっていました。
 日本経済新聞の朝刊に池宮彰一郎の「平家」という小説が連載されていますが、私はこのところ「耳よりな話」にも出ている平家琵琶のとりこになっていることもあり、この連載を毎朝楽しみにして読んでいます。しばらく前に平清盛の最期の模様が描かれていました。それはこの平家の頭領の今わの枕辺に、藤原長成の妻でもと清盛の愛人だった常盤御前が、自分の名前にことよせて常磐の松と常磐野木瓜(ときわあけび)を花器に活けて持ってくるというくだりでした。そのとき常磐野木瓜の正式の呼称は「むべ」といい、漢字で「郁子」と書くということが出ていました。たまたま、うちのカミさんの名前と同じなので興味を持ちました。
 折しもこの「寧日雑感」のコーナーに岩波明さんが五葉アケビを育てて、スーパーへ卸しているという記事が出ました。そこで早速岩波さんに電話をして、「常磐野木瓜というのを知っていますか」と聞くと、そこはこの道の専門家だけあって「それは正しくはムベというのですよ」といわれました。そこで「実物を見てみたいのだが、どこか生育しているところを知っていますか」と聞くと、「確か上野公園の東京都東部公園緑地事務所の垣根のところにあるはずだ」と教えてくれました。
 そこで先日上野の東京国立博物館に「シルクロード──絹と黄金の道」を二人で見に行った折、その事務所に寄ってみました。そうしたら何と本当に郁子が見つかったではありませんか。さすが岩波さんはよく観察しているなあと改めて驚かされました。
 晴れ渡った秋空の下、国立西洋美術館前の広い通りでは大道芸の役者が大勢の観衆に囲まれて実演をしていました。その日、私たちの心の中もほのぼのとした温かさで満たされました。
追伸:
 その後、岩波さんから実った郁子の実をいただきました。
 ありがとうございました。


○ 佐藤勝(法政)
 「安楽死 」
 私の家には一匹の子犬が居る。
 種類はポメラニアンという小型犬でもう我が家に飼われてから約14年にもなる。つまり問題無く老犬で人間年令に変えたらとうに80歳は過ぎているらしい。
 14年前に未だ我が家の子供が幼かった頃千葉のそごうデパートのペット売り場で私が見つけて買ってきたのが始まりであった。
 夏のものすごく暑い日にその子は小さな小さな檻の中にぐったりとなって惰眠をむさぶっていたが、私が近づく気配でスクッと立ち上がった。そして私を不安そうにまた何か懇願するような目つきで見つめていた。
 それが私と彼、レオ(彼の名前)との14年前の初対面であった。
 まだ生まれたばかりのほんとにちいさな子犬で、店からはダンキンドーナツの箱の大きさのぐらいのBOXに入れて持ち帰った。家族はあまり犬を飼うことにのりきで無かったようだったが、子供の頃に犬を自宅で飼った経験のある私はどうしても犬を飼いたかった。しかし、それからの家族はいつのまにかこの子犬”レオ”を中心に全てが動くように変わっていってしまった。
 子供達が帰宅しても先ず犬の姿が見えないと“あれっ? レオは?”から始まり“今日はレオの食欲が無いの?”とか、父親よりもまずレオの安否が先であった。犬年10歳位までは飛騨高山とか、八ヶ岳とか“ペットOK”のホテルを選んであちこち旅行もした。
 まさしくよく言われる“家族の一員”に疑いも無くなって、その存在は大きいものに今はなってしまっている。
 私には“主治医”などと贅沢なものは居ないがレオにはもう10年以上もかかり付けの獣医が近くに居る。過去には脱臼の手術、脱腸の手術、去勢等、入院も何回もしている。
 最近、時々待合室でお会いする一人の老人が子犬を小脇に抱えて泣いていた。お話を聴くと医者からその子の病気が不治の病であり苦しみばかりなので“安楽死”を勧められたとのことであった。
 それから数日あと、飲み会でお会いした会社の仲間に“お宅のワンちゃん元気?”と聞いたら5日前に亡くなったと目に涙をためて答えてくれた。17年も生きていろいろな病気(ガンも含む)を身体全体で引き受けて最近では昼も夜も苦しみに耐え抜く泣き声をもらしていた毎日であったらしい。何度かの医者の勧めの後、ご夫婦は“安楽死”にOKしたらしい。
 最後はあれほど苦しんで悲鳴をあげ、眼を見開いていた愛犬はご主人の暖かい腕の中で医者の注射一本で安らかに死への旅についたとのことである。まるで“17年間ありがとう…”とでも言っているような死に顔でした、と彼は言っていた。
 私の家のレオもいずれはその時を迎えねばならない。そのとき私は医者にその旨を告げられても決断が出来るであろうか?
 犬は何も言わないだけに人間だけの判断でその生命の終息をきめて良いものであろうか? 人間ならば本人の意思確認も出来るし苦しみの度合いもわかる。しかし、犬の場合はそれは出来ない。
 最近つくづく思うことは動物を飼うことはそれ自体楽しいし、沢山の癒しももらえる。だが、その長年の良いことの代償として上記のような“安楽死”の決断を迫られるとしたらそれはあまりにも冷酷な代償と言えるだろう。
 出来るならば眠るように旅立ってもらいたい。


○ 金山正一(文哲)
 私は現在、仙台市の南隣接市、国際空港がある人口7万人弱の名取市に住み、中央省庁から県、市町、民間を顧客とする建設会社と、特殊な運搬を得意とする運輸会社を経営しています。
 国道4号線が6号線と分岐し、仙台市へは車で30分、JR東北本線で16分、仙台空港へは車で10分と陸・空の交通に非常に便利で、しかも閑静なところです。
 かって仙台市に住まわれた方はお分かりでしょうが、周辺には車で30分圏内にゴルフ場は10ヶ所は数えることができます。朝ネクタイ姿で出社し、一仕事終えてからプレーをする。汗を風呂で流し、ネクタイ姿で夕方また会社に顔を出す。こんな事は日常茶飯事です。
 海の幸は東へ車を15分も走らせれば太平洋が控えており、磯・沖釣り何でもOKです。
 山の観光、山菜採り、スキーetcは、西へ車を1時間も走らせますと有名な「宮城蔵王連峰」又はその周辺で楽しむ事が出来ます。辺りは温泉付きリゾートホテル、旅館、ペンション、別荘等が点在しており、疲れた人々の心身を癒してくれます。
 東京から仙台までは乗車時間1時間30分。費用は片道1万円チョットです。気軽に散歩がてら(?)遊びに来られる所ですので、是非お出掛けいただきたいものです。
 私はといえば、温泉大好き、ゴルフ大好き、スキー・山菜大好きと自然を満喫して生活しています。独断と偏見で好みの所にご案内できますので、奮ってご来仙下さい。楽しみにしております。


○ 歌代雄七(商商)
 「夏の一日」
 この8月、高知市に出張した。
 丁度、本場 ”よさこい祭り”の日だった。
 街頭で、舞台で沢山の「連」が独自の衣装と踊り方で楽しく舞っていた。
 今や、この「よさこい祭り」、札幌市を始めとして、全国各地でそれぞれ特徴をもって地場の「祭り」として催されており、我が隣の市でも8月末に開催された。
 当日、妻と老いた両親を連れて見物に行った。
 踊り手の老若男女の皆さん、顔は輝き、足取りは軽い。
 手に持つ「鳴子」を振りかざし、一糸乱れず所狭しと、
 ”ヨサレ、ヨサレ”と列を進めていた。
 家に戻って両親は、高知から土産に買ってきた「鳴子」を振って「土佐の高知のはりまや橋で・・・・・・」と歌いつつ踊り方がどうの、衣装がどうのと、久しぶりに楽しい顔を見せてくれた。
 二人を見て、神代の昔から踊りがあり、又世界各地に多岐に亘る踊りがあることが頷けた。
 何時の時代でも、又どこの踊りも ”癒し”であり、”心を一つ”にするものであると感じる一日だった。


○ 伊藤正敏(商経)
 入社以来早や34年が過ぎ、何もなければあと2年で60才、リタイア-の年を迎えます。
 会社の主催で退職後のゆとりある生活の送り方や健康に関するいろいろな情報等についての研修会(講習会)があり、ついに私にもその案内があり、過日出席を致しました。
 つい最近まで遠い先の事、他人事と思って、おっとり、のんびりとサラリーマン生活をエンジョイしていたのですが、具体的なそのような案内をもらうと急にさびしいような、それで悲しいということではないのですが、何か表現の出来ない複雑な気持ちをどうすることも出来ませんでした。
 誰でもが経験し、通る道なのでしょうが、この時初めて切実な問題と意識し、真剣に将来(老後)を考えなくてはいけないんだと、遅まきながら今思っているところです(普通の人はもっと早くからリタイアー後の生活設計について考えているのでしょうが)。
 経済的には有り難いことに退職金を食いつぶしていけば何とか生活は出来ると思っていますが、問題はあり余るだろうと思われる暇な時間のつぶし方だと思います。
 研修会ではその過し方について実に理想的な話をしていましたが、それがそのとおり自分に当てはまるとは思えません。
 これまでにも先輩達のいろいろな経験談を聞いていましたが、あまり実感をもって聞いたこともなく、いざ自分にとって実際の事としてふりかかって来ると多少のとまどいがあります。
 まだ2年程先のことですが、「今から計画を作り、その心づもりをしなさい」と言われても、自分の性格、資質も手伝って、空想ばかりで、地についた事は何も考えていないのが現実です。
 これまでゴルフだ、酒だ、旅行だ、読書だといろいろ人並にやってきましたが、これからもさらに一層快適で充実した余生とするには、そんな事をいくらやっても何かものたりないような気がしています。
 妻と2人だけで過す時間がかなり多くなると思いますが(お互いにいやがっている)、いつも2人で旅行や美術館めぐりばかりやってもいられないし、何かやりがいのある事を探している今日この頃です。


○ 山添英明(文国)
 大阪での単身赴任も約2年。鳥取の田舎から突然の都会生活。予想に反して非常に疲れる。その原因は通勤、日々の営業活動ともよく歩くこと。当初、足の裏のマメが4回潰れた。11分歩き、電車の階段、そして13分歩く。その上の満員電車。都会のサラリーマンはよく耐えている。2年経てば諦め慣れ、健康のためと考え直したが年には叶わない。鳥取は公共交通が少ないためすべてマイカー。車でのドアツードアで歩くことがない。鳥取が懐かしい。
                      ×   ×
 日曜日が待ちどうしい。京都、奈良の寺巡り。「関西花の寺25カ所霊場」を中心に四季の花を追って独り古寺巡礼。心も体も活性する。
 最近は、奈良県大和郡山市・矢田寺、桜井市・長谷寺の紫陽花、京都の妙心寺の沙羅双樹(夏椿)を観賞しながら抹茶、精進料理を食べ、カンディンスキー、シャガールを鑑賞、平安神宮の花菖蒲の池を散策、等等。
 このメールが皆さんの目に触れるころには、夾竹桃、蓮、桔梗、百日紅の観賞も終わる。


○ 峯岸修三(理化) 
 不要のウクレレや壊れて押入れに寝ているウクレレを無償提供下さい
 私は高校時代からウクレレを趣味にしています。きっかけは、田舎の兄がハワイアンバンドを組んでおり、たまに参加をしたのが始めでした。43会の高梨さんのようなソロリストには及びませんが、これから少しづつソロを勉強するつもりです。
 最近ウクレレの修理にはまっています。休日毎に自分のウクレレを手直ししていますが、修理をしながらウクレレの「ブリッジ=弦を固定する盤」の位置のズレが発見されたり、塗装を変わった色に塗り変えたり楽しい発見があります。調整が済むと気分的かも知れませんが、音色が綺麗に聞こえます。
 ところで、皆さんのお宅には「不要なウクレレ」「壊れたまま押入れに仕舞いっぱなしで、捨てるに捨てられないウクレレ」が有りませんか?
 どんなウクレレでも結構です。修理してそのウクレレ独自の音色を出してみたいと考えています。ボディの傷を治したり、塗装をし直してオリジナルウクレレに仕上がっていくのが楽しみです。
 連絡いただければ幸いです。
 電話 043-421-2141


○ 岩波 明(理物)
 私の近況より報告いたします。本年の3月末付にて中大を卒業以来35年間勤務した製鉄会社を病気治療のため退職し、入院治療の結果、現在は元の状態に回復いたしました。
 思えば57年間、病気知らずで健康を当然の事と考えていた身が、ようやく年齢を考慮しなければならない領域に入った事を悟ったところです。
 在職中は発明特許を何件か取得したほどの会社人間でいた反面、一つだけ35年間続けている趣味があります。植物の栽培研究、今でいうガーデニングです。
 神田生まれの神田育ちが田舎の会社に就職した時点ですっかり都会にはない植物の自然現象に傾倒し、当時実生した黒松や五葉あけびが大木となり、あけびは今では近所のコンビニに毎年卸しているほど多数収穫があります。
 最近、手がけ出したのはコーヒーと、うつぼかずらの栽培です。
 コーヒーは未だ自分で試験飲料するぐらいしか収穫がありませんが、埼玉産のブルーマウンテンは、正直うまくありません。
 うつぼかずらは食虫植物で、植物の中では下等に属するといわれていますが、小昆虫を採り込む生態は高等植物には出来ない貴重な進化の結果です。 先日、高校の生物の先生にうつぼかずらの観察した生態を話して、なぜ、うつぼかずらが植物では下等な部類に属するのかと議論したことがありますが、学説上の分類の為、残念ながら現状では私の持論は認められないようです。
 そう言うわけで国内の天然貴重植物、古木、大木、植物園等は種々歩き回りましたが、同じ趣味をお持ちの方、お会いする機会がありましたら植物談義をお願いいたします。


○ 横山貴講(法法)
 わがまち戸田市を紹介します。
 埼玉県の南端に位置し荒川を挟んで東京都板橋区と接していて、面積は18.17ku、人口110,000人の都市で小さいながらも活気に満ちたまちであります。交通は南北に国道17号と同大宮バイパスの2本及び首都高速大宮線、東西に国道298号と外環道が走っており、鉄道は埼京線の3駅があり、都心まで20分のところにあります。このように立地条件の良さからマンション等が多く建設され、若い市民が流入し市民の平均年齢は若さでは全国でトップレベルにあります。市内には出版・印刷、運送業、医療関係、飲食関係の事業所が多く、夜間人口より昼間人口が多い都市で首都近郊では際だったまちになっています。
 自慢できる場所としては、まず採湖道満グリーンパークです。約3.5kuの広さがありその半分は東京都の水ガメになっている1周9kmの採湖であります。周囲にはバードウォッチングができる自然地帯、野球、サッカー、テニス、ソフトボール等の運動施設のほかヘラブナ釣場、バーベキュー広場、ゴルフ場(9ホール)、ヤクルトの2軍球場があり年間を通して多くの人が訪れています。またオアズマンのメッカとしての静水日本一のボートコース(長さ2000m、幅員90m)があり中央大学をはじめ各大学、実業団の合宿所が林立しており、週末には各種のボート大会が開催されています。その西端には公営競技の競艇場があります。施設は日本一で開催時には多くのファンでにぎわっています。ぜひ機会がありましたら戸田市を尋ねてみてください。


八束一郎(法法)
 「八束でーす」
 初めまして。私は八束(ヤツカ)一郎と申します。この名前は東京都の電話帳を見ても数件しかなく、そのほとんどは親戚です。
 読み難い名前なので、ハッソクとかヤタバとか呼ばれることが多いのですが、名前の由来は地名で、島根県の松江の周囲が八束郡、宍道湖に続く中海に浮かぶ大根島周辺が八束町なのです。この他にも、岡山県の鳥取県境に八束という地名があります。
 出雲風土記に須佐之男命(スサノオノミコト)の別名またはその長男と言われる八束水臣津之命(ヤツカミズオミツノミコト)が朝鮮半島に綱をかけて土地を引っ張ってきて出雲国を大きくしたとの話が出ており、これが「国引きの話」として戦前の教科書に載っていたとのことです。推測するに、荒れ川の治水を行って耕地を増やしたということだと思われます。いずれにしても、この故事から八束という地名が誕生し、私の先祖はこの土地の名前を名字に付けたのだと思います。
 だいぶ前に、ルーツを訪ねて八束町に行ってみましたが、電話帳を見ても八束という個人名はなく、あるのは八束農協とか八束タクシーとかでした。私の曽祖父は明治の頃に愛媛県の松山から東京に出てきており、今でも松山には八束姓が多いと聞いているので、今度は松山に行ってみたいと思っています。そういえば中央の学生時代に原宿の交番に貼ってあった指名手配の犯人の名前が八束某で、出身が愛媛県の松山だったことを覚えています。
 私の親戚でルーツ調べが好きなのが八束の名前の由来を調べたところ、江戸時代中期に松江藩主が伊予に国替えになった時、それに付いていった八束姓の人が松山で増えていったようです。また、「八束」とは本来「稲穂」と同意義で、「鈴木」や「穂積」などと同根だそうです。明治時代の有名な法律家に穂積八束という人がおり、私の親戚にも八束穂積という人がいますが、八束と穂積が同根ならば、これらの名前は八束八束みたいな名前ということになります。
 もっとも、八束を名字ではなく名前に使っている人も多く、知り合いに秋楽八束(アキラヤツカ)という人がいますが、二人で呼び合う時はややっこしいことになります。
 暫く前まで日経新聞の日曜版に和歌の投稿欄があり、その選者が石原八束という人だったとの記憶があります。
 こうした珍しい名前のおかげで損したことは、なかなか正しく呼んでもらえないことです。銀行の窓口や病院の待合室で「ヤタバさ〜ん」などと何度も呼ばれ、「自分のことかな」ととまどいながら出ていくのは嫌なものです。
 反対に得したこととしては、懇親会などで知らない人と名刺交換をした時に、名前の話で数分は時間が稼げるということです。初めて会った女性との無難な話題としても大変便利です。
 今回のホームページもこの話で何とかなりました。今度お会いした時には、ぜひ「ヤツカ」と正しくお呼びいただくようにお願いいたします。


○ 鴇田 将
 「世間話」
八つぁん
「熊さん、ナノテクノロジーって知っているかい」
熊さん
「何、の、テ、ク、ノ、ロ、ジ、ー、か知んねえが、こむづかしいことなんて解んねえよ」
八つぁん
「ナノって言うのは1ミクロンの千分の1のことなんですよ。大きさで言えば1メートルと1ナノメートルの比率は地球の大きさとピンポン玉くらいの違いなんだよ」
熊さん
「へぇ、それで・・・・」
八つぁん
「この技術は日本がアメリカやヨーロッパよりも優れているんですって」
熊さん
「その技術で何かうめえことでもあんのかい」
八つぁん
「ありますよ。1個の角砂糖の大きさのチップに国会図書館の蔵書情報がすべて入っちゃうんだって」
熊さん
「すげえじゃないか。他に何かないのかい」
八つぁん
「ナノ技術を使ってガン治療薬も開発しているんだって」
熊さん
「今までと、どう違うんだい」
八つぁん
「血管の中を通って、ガンの部分に直接、薬が投与されるから副作用がないんだよ」
熊さん
「それじゃ何かい。頭がつるつるになることもないのかい」
八つぁん
「多分、副作用がないから、つるつるはなくなりますね」
熊さん
「その他に面白いことはないのかい」
八つぁん
「ロボットに目や鼻や口の役割を果たす網膜チップを設けると人間と同じように物を見分けたり、においを嗅いだりすることもできますよ」
八つぁん
「患者が病院で寝ている時に、小さなチップを体につけていると、体温や汗などを検知してエアコンの温度を調整したり、不機嫌なときは部屋にハーブの香りが流れるようにすることもできるんだよ」
熊さん
「へぇ、便利なもんだね。ナノテクはもうかるかい」
八つぁん
「日本市場は、3年後に8兆円、8年後には30兆円と言われているんだって」
熊さん
「日本も明るくなるねぇ」


○ 龍門海行
 小生の従事している建設業は、昨今の不況の真っ只中にあり、若い時より苦楽をともにした知人が勇退して行くのは、非常に寂しく残念でならない今日この頃である。
 その知人たちは、再就職する者、またリタイヤして悠々自適する者などがいるが、皆がそれぞれ悩みを持っているのは、定年後の健康とその後、何をすべきかを苦慮していることである。
 小生もそれなりに早急に考えておかなければならない事であるが、幸いにして土木の技術屋として、約25年間各地へ単身赴任を中心に、あちこちの土地へ出向き、その土地の自然なり、現況の利便性を体験してきたおかげで、自然と環境に関しては、それなりの感性を持てたと思っている。
 そこで最近では、この感性を今後ボランティアにて、これからの若い人(特に小中学生)に伝えていければいいなと思い、再度、自然と環境に対する体験的勉強をし始めた所である。
 勉強すると、人としての基本であるマナー(躾)と、人との係わり合いの中で生活してゆく行動とのバランスが乱れている(特に最近の若者層)のを痛感し、私自身も反省している昨今である。
 やはり、よき友(43会員は特に)と今までにどの位出会えたのかが、人生の安らぎに繋がると思えてならない。「友は財を成す」である。