憩い

惜別の歌

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2010年5月16日(日)
  「惜別の歌」藤江英輔先生の講演を聴きに行きました

 先日、中央大学の学生歌「惜別の歌」の作曲者である藤江英輔先生の「惜別の歌と平和」と題する記念講演会が千葉県流山市で開かれました。この歌に深い思いを抱いていた管理人は、埼玉県から電車を乗り継いではるばる聴きに行きました。(右の写真は、長野県小諸市の懐古園にある「惜別の歌の碑」)
 講演会は、平成22年5月16日(日)、流山市の文化会館で同市教育委員会の主催により開催されました。好天に恵まれたこの日、会場に着くと現在流山白門会の幹事をしておられる白門43会の前幹事長の伊藤正敏さんがにこやかに出迎えてくれました。開催に当たっては、中央大学学員会千葉県支部や流山白門会が協力・協賛として実質的な尽力をされたようです。開演の時には、700名くらいは入れる文化会館が満員になりました。
 この歌は、先の大戦末期に当時中大予科生だった藤江先生が島崎藤村の詩に曲を付けて作曲されたことは以前から知っていましたが、先生がまだご健在だったとは知らず、大変驚きました。
 会は、流山市教育長の挨拶に続いて藤江先生が約1時間にわたり講演され、その後白門グリークラブのメンバーによる合唱(惜別の歌、箱根八里、平城山など9曲)が披露され、最後に藤江先生やグリークラブ、先生のお孫さんなどと、会場の皆が一緒になって「惜別の歌」を歌いました。年をとって涙もろくなったせいか、先生のお話に感動した管理人はこの歌を歌っているとき涙が出てきて止りませんでした。 藤江先生は、大正14年生まれ、中央大学法学部卒業後、昭和25年新潮社に入社。「週刊新潮」や「小説新潮」の編集に携わり、広告局長を最後に同社を退職。その後は会社経営をされているようです。以下、先生の講演の概要を管理人の文責により紹介します。(長くなるので2回に分けて掲載します。)
 私が中央大学予科に入ったのは、太平洋戦争末期の昭和19年で、その年の7月には学徒動員で板橋の陸軍造兵廠で働くことになりました。ここは軍需工場で、私たちは兵器の生産などの労働に従事しました。ここでは大学生だけでなく、中学生や東京高等女子師範学校の女学生なども働いていました。この当時、米軍はサイパンの航空基地から東京まで2,400km、毎日のように空襲を仕掛けてきていました。
 「惜別の歌」の原詩は島崎藤村の「若菜集」に出てくる「高楼(たかどの)」という詩で、嫁ぎ行く姉を送る妹の思いを書いた詩ですが、私の父親の本箱の中にこの歌集がありました。「わが友よ」のところは、藤村の詩では「わが姉よ」になっていました。
 戦争が激しくなり、工場で働いていた友達が「赤紙」で招集され、戦地に赴いて行くようになりました。私はこの赤紙を友達に渡す役目を仰せつかっていました。赤紙を受け取った友は、送別会もなく去って行きましたが、この別れに私は堪えられなくなりました。
 昭和20年2月22日のことです。前日の夜7時から夜勤で、私は朝5時ころ造兵廠を出て、当時住まっていた巣鴨の祖母の家に帰る途中でした。前夜から降り積った大雪のため朴歯の下駄で難渋しながら歩いているとき、突然「わが友よ」の曲想が浮かんできたのです。「旅の衣」は、軍服とその下に着る白い下着を連想しました。その頃私はバイオリンを弾いていましたので、家に帰りつくとすぐにバイオリンを取り出し、その日のうちにこの曲を作り上げました。
 自分で作った曲を口ずさんでいると、友人が俺にも教えろといいました。そして次第にその輪が広がり、中大の学生だけでなく、女学生の間などにも広がって行き、いつしか、招集されて去って行く友への送別の歌になっていったのです。(続く)     

三沢 充男


  「惜別の歌」藤江英輔先生の講演を聴きに行きました(続き)

 8月の初め、自分にも召集令状(赤紙)がきました。「静岡三方ケ原ノ駐屯地ニ入営セヨ」とあり、入営日は9月1日となっていました。しかし、8月15日に終戦になりました。それは酷暑の日でした。「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び……」という陛下の玉音放送を聴いて涙が溢れ、これではこの戦争で亡くなった幾百万の人々の魂の帰るところが無くなってしまうではないかという無念の思いがこみ上げてきました。それから約1箇月、私は何の目的もなく、空襲で崩れた瓦礫の山を掘り起していました。
 幸い神田の中央大学は空襲でも焼け残り、20年10月に大学が再開され、私たちは学校に戻りました。やがて卒業をむかえ、学生たちはそれぞれ各地に散って行きましたが、惜別の歌だけは皆が歌っていました。
 昭和26年にこの歌を学生歌としてレコード化するという話が持ち上がりました。しかしここで問題がありました。詩の一部を変えてレコードにするためには著作権者の了解を得なければなりませんが、島崎藤村は昭和18年にすでに亡くなってしまっていました。でも幸いなことに私は新潮社に勤めていて、同社ではその頃「島崎藤村全集」を刊行している最中で、編集委員の中に藤村の遺児の蓊助氏がいたことでした。氏は快く了承して下さり、かくして中央大学の学生歌として「惜別の歌」ができあがったのです。
 その後、歌声喫茶が流行りはじめ、これに目をつけたレコード会社は歌声喫茶でリクエストの多い曲をレコード化していました。そしてリクエストの中に惜別の歌が入っていたのです。昭和35、6年頃だったと思いますが、ある日、自宅にコロンビアの邦楽部長という人が訪ねてきました。今度コロンビアでレコードを作ったので了承して欲しいということでした。
 小林旭という歌手に歌わせていて、1週間後には発売だという。私はまた蓊助氏に連絡をとり、趣旨を申し上げると「学生歌ではよくて一般の歌ではだめだとは言えまい」といって了承してくれました。こうして「惜別の歌」のレコードが世に出たのですが、その年のレコード大賞の選考会で2位になりました。1位は「上を向いて歩こう」でした。いまは抒情歌として歌われていますが、当時、パチンコ屋でもこのレコードを掛けていて変な気分になったこともありました。
 昭和41年頃だったと思いますが中大の猪間驥一教授が私のところに訪ねてこられました。先生の退職の告別講演で「中大校歌と惜別の歌」という題で講演したいからと了解を求めてこられたのです。中大の大講堂で行われたこの講演を私も聴かせていただくことになりましたが、先生はこんな話をされました。先生がウイーン大学を訪問した時、そこの玄関には女神の首の像があり、台座の正面には「栄誉、自由、祖国」と刻まれており、右側には「わが大学の倒れし英雄をたたえて」と彫られていた。このほかドイツのハイデルベルグ大学などでも戸口に銘文を掲げているが、日本にはそういうものを掲げているところがない。でも中央大学には「惜別の歌」があると言われた。これは明らかに褒め過ぎですが、私はそういわれて面映い思いをしたことを覚えています。
 それから戦後四半世紀も経った昭和45年のある日、私は霞ヶ浦の「霞月楼」という料亭に上りました。霞ヶ浦は予科練があったところです。料亭の女将さんが我が家の宝物だという屏風を運ばせてきて見せてくれました。屏風にはたくさんの寄書が書いてありました。かってここの霞ヶ浦航空隊から飛び立っていった若き軍人さんたちが書いたものだという。その中で私の目に飛び込んできた連句がありました。
 発句には

    茶を噛みて 明日はゆく身の 侘び三昧

とあり、これに続く付け句として

    猿は知るまい 岩清水

とあったのです。

 「猿」が何を意味しているかいろいろ解釈はあるでしょうが、この気持を誰が分かってくれるだろうかという思いを胸に抱きながら、若者たちは戦地に赴いたのではないでしょうか。そして「惜別の歌」で送られた友人たちが今この場にいたらどういう話をするだろうかと思ったりします。
 この昭和45年という年は世の中の転換点だったと思います。この年、万博が開かれ入場者は6,420万人に達しました。作家の三島由紀夫が自決をしたりして、時代の風が変ってきました。そしていま、惜別の歌ができた頃の空気を想像し、万感の思いが胸を去来します。

三沢 充男