| このページは、会員の皆様方が日頃考えていることや、仕事、趣味、トピックなど自由な内容を寄稿していただき、読まれた方が「そうだ、そうだ、もっともだ」といって声援を送ったり、同病相憐れみながら連帯感を深めていただき、あるいは「そんな世界もあるのか」といって自分の知らない分野にも目を向けていただくことができるようにという趣旨で設けたものです。当面は常任幹事や監事の方々に書いていただきますが、それ以外の会員の皆様にも是非寄稿していただきたく、よろしくお願いします。 |
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![]() 野火止用水を歩く 首都圏で桜の花が満開となった時期、野火止用水を歩いてきた。 野火止用水は、東京・小平市の多摩川上水から分岐して埼玉県志木市の新河岸川に至る全長約25kmの用水である。江戸時代、徳川幕府がようやく幕藩体制を固め終わった頃、江戸の水事情改善のため多摩川の水を羽村から武蔵野台地を貫いて江戸市内に引き入れる玉川上水が開削された。この上水道事業を取り仕切ったのは、当時川越藩主で幕府老中であった松平定信である。彼はこの功績により玉川上水の水を3割分水して領内の野火止(新座市周辺)へ引き入れることを許可された。家臣の安松金右衛門と小畑助左衛門(補佐)に命じて、乾燥していて農作物も育たない武蔵野台地を開削し、領民の飲料水や生活用水として利用し、さらに新田開発を行って耕作をも可能にしたのである。今回歩いたのは、新座市の平林寺から野火止用水を下流から上流に向かって小平の玉川上水分岐点までの約23kmである。JR武蔵野線の新座駅で電車を降り、平林寺まで徒歩15分。平林寺は川越藩松平氏の菩提寺で、松平定信ほか代々の藩主らの墓がある。またその傍らには野火止用水で功績のあった安松金右衛門と小 畑助左衛門の墓もある。山内には桜の木も何本かあってそれなりに目を楽しませてくれたが、その他の木はまだ芽吹いてもおらず、生憎の曇り空の下で、全体としてはまだ春の息吹は余り感じられなかった。平林寺を出て外の道を寺の裏手の方へ回り込み、野火止用水の本流に出る。ここから用水に沿って1kmばかり進むと用水の分岐点に出る。野火止用水はここで二手に分かれ、一つはいま自分が辿ってきた本流で、もう一つは平林寺の山門の前に至る平林寺掘である。当時は領内でいくつもの流れに分岐していたようだが、今確認できるのはこの二本だけであった。 ここまで来る間にも右手には大きな菜の花畑が広がっていたり、流の畔には鴨が遊んでいたりと、長閑な光景がそこここに見られた。 この地点での川幅は全体では4~5メートルくらいで、流れそのものは1~1.5メートルくらいで水深は1メートルくらいと思われたが、上流へ遡って行くにしたがって川幅も水深も変化し、あるときは人が寄り付き難 い深くて大きな谷のような流れであったり、あるときは身近な浅瀬をゆっくりと流れて行くせせらぎのようなところであったりした。また所々は暗渠になって道路の下に姿を隠しているところもあるなど、多様な顔を見せていた。鯉が泳いでいるところも多く、真鯉、緋鯉が川幅一杯に群れているところもあった。野火止用水は、志木市、新座市、西東京市、東村山市、小平市など、いくつもの市内を貫いて流れていて、途中には市が設置した野火止用水の説明の看板があちこちに建っているのだが、おかしなのはこの用水の開削工事の期間についての記述である。新座市の説明では40日で完成したとあり、小平市のそれには3年を要したとある。思うにこの地域はなだらかな起伏はあるものの、起点から終点まで25kmの高低差はたったの90mだったというからかなりの精密な測量技術、掘削技術を要し、また途中には水喰土といわれる水が地中に吸い込まれてしまうところもあったというから、40日はどう見ても無理で、やはり3年という方が当たっているのではないかと思われる。 流れの傍らには広い道路が走っているところが多かったが、場所によっては公園のような静かな所を通ったり、水車が設けてある所もあったり、武蔵野らしい雑木林の中を流れたりしていた。流域には桜が咲い ているところも多かったが、川の畔には紫色のきれいな花が多く咲いていた。家に帰って調べてみると、花大根というらしい。名前は余り可愛くはないが、すみれに似た花で、水の畔を彩る姿はなかなかのものだ。最後の(実際は「起点」であるが)玉川上水との分岐点は小平監視所といわれておりで、西武拝島線と多摩モノレールが交差する玉川上水駅の近くである。昔はどうだったか知らないが、今は巨大なコンクリートの施設で、上流から流れてきた玉川上水が、本流と野火止用水の二本の流れに分割され、そこからそれぞれの流れとなって行くのである。 野火止用水を下流から遡って行くと、途中に西武鉄道の駅がいくつもある。西武池袋線の清瀬、西武新宿線の久米川、西武多摩湖線の八坂、西武拝島線の東大和と最後の玉川上水である。実は今回は初めから野火止用水を完走しようというまで心が決っていたわけではなく、自分の足の疲れ具合でどこでも電車に乗れるようにしようと考えていたのであるが、結局は最後の玉川上水分岐点まで辿り着いたのである。 玉川上水の小平監視所の少し上流の橋の辺りは水流も多く川幅もかなり広かったが、岸辺から満開の桜の花が水面を覆いつくすように咲いていて、旅の疲れをいっぺんに癒してくれた。 |
![]() 「エルトウールル号」の遭難事件 竹田恒泰氏が彼の著書「日本はなぜ世界でいちばん人気があるのか」(PHP研究所)のなかで、感動的な話を紹介しています。それはオスマントルコ軍艦「エルトウールル号」の遭難事件です。長い引用ですが、会員各位にご紹介したく投稿します。(私は5~6年前、新聞に投稿されていた日本とトルコ両国の友好関係に関するトルコ大使の談話を読んでこの話を知っていました。) 日本の外交の歴史で、これほどの美談が他にあったろうか。明治23(1890)年に和歌山県串本町沖で沈没したオスマントルコ軍艦「エルトウールル号」の遭難事件は、日本ではあまり知られていない。だが、トルコでは社会科の教科書に必ず紹介されている有名な事件で、日本とトルコの友好の証として、120年の時代を経た今もトルコ国民に記憶されている。 明治23年に特使のエミン・オスマン・パシャ提督率いる使節団が日本に派遣された。使節団は宮中で歓待を受け、明治天皇にオスマントルコ皇帝からの親書と勲章を献上した後、横浜港を出発し、本国を目指した。 日本国政府は、老朽化した同号に不具合が生じていたことや,台風の時期にあたることから、帰国を延期するよう助言したが、一行は本国からの通達を理由に出発してしまう。これが運命の分かれ道となった。 出航から2日たった9月16日の夜半、紀伊熊野灘に差しかかった同号は、北上中の台風の中心に入り込み、紀伊大島の樫野埼付近の岩場に座礁。そして、船底から浸水して機関が蒸気爆発を起こし、午後9時30分頃沈没した。この遭難事故で生還したのはわずか69名のみ。提督をはじめ約500名もの命が失われた。 外国船の遭難を知った地元住民は、夜を徹して生存者の救助と手当てに尽力した。翌朝には地元の村長が関係官庁に連絡し、医師派遣を要請、さらには各戸1名の人手を出すように指示し、多くの村民たちが生存者を看病した。紀伊大島は貧しい島で、しかも、台風の影響で漁に出られず、島民は食べるものにも困る状況だったが、非常食として飼っていた鶏などの食料や、浴衣などの衣料を持ち寄り、遭難者に分け与えたと伝えられる。 『明治天皇紀』によると、この報せをお聞きになった明治天皇はおおいに驚かれたという。天皇は即日、遭難者救助のために海軍の通報艦「八重山」を現場に派遣あそばされ、皇后は日本赤十字社を通じて医師と看護婦を随伴させられた。 そして、八重山の乗組員と島民は、収容した遺体を埋葬し墓標を立てた。その後生存者たちの体力が回復すると、明治天皇は、軍艦「比叡」と「金剛」の2艦をオスマントルコに派遣し生存者たちを母国に送還することを命ぜられた。生存者69名を分乗させた2艦は、明治24(1891)年1月にイスタンブールに到着した。盛大な歓迎を受けたことはいうまでもない。しかも事件の翌々年には、民間で集められた義捐金が届けられた。 しかし、日本とトルコとの友情の物語にはまだ続きがある。遭難事件から95年の月日が流れた昭和60(1985)年のことである。イラン・イラク戦争の最中、イラクのサダム・フセイン大統領は3月20日午後2時(日本時間)以降、イラン上空を飛ぶ航空機をすべて撃墜する旨の声明を発した。 各国は軍用機や民間機のチャーター便を派遣して自国民の保護に努めたが、日本は自衛隊を海外派遣できないうえに、政府が日本航空に救援機の派遣を求めるも、同社の組合が安全性を理由に反対したことで、日本人の保護ができない事態に至った。(この時すでに日航はおかしかった!―投稿者の慨嘆) そこで、イランに駐在する野村豊大使が困り、在イラン・トルコ大使のイスメット・ビルセル氏に相談したところ、なんとトルコが救援機を派遣して日本人を救出することになったのである。このとき、トルコ大使は「トルコ人なら誰でもエルトウールル号遭難事件の際に受けた恩義を知っています。ご恩返しをさせていただきましょう」と語ったという。 そして、ほんとうにトルコ航空の飛行機2機がテヘランに派遣され、215人の日本人は全員救出、トルコ経由で日本に帰国できた。日本人を乗せた救援機がイラン領空を抜け出したのは、期限の1時間15分前。少し遅れたら、撃墜される可能性もある危険な飛行だった。救援機の派遣を決めたトルコのトルグト・オザル首相(当時)は、他国民を助けるために、自国民を危険にさらす決断をしたのだ。 |
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ペリー来航の地・浦賀を歩く |
「小型船舶操縦免許証」の更新について 前回は、「後期高齢者」の「自動車運転免許証」について拙稿を寄せた所、会員から反響を頂きました。今回は、これと対照的にのどかな表記免許証の失効、再交付についてご紹介しましょう。 私は、昭和61年7月に運輸大臣発行の「海技免状」4級小型船舶操縦士(現在、2級と変更)の資格を取得しました。趣味のアマチュア無線傍受中に機関故障で漂流しているプレジャーボートのSOSをキャッチしたことがこの免許に関心を持ったきっかけでした。 よくは覚えていませんが、数日間の講座を受講、5人乗りボートの操縦訓練を受け、実技テストがありました。費用は、当時で5万円前後だったのではと思います。 ![]() 何回か免許の更新をしましたが、平成19年7月の更新は、忘れてしまったのです。そんな時、別添の様な千葉市からの広報紙で失効による再交付が可能なことを知りました。 自動車の様な「認知症テスト」も「実技テスト」もありませんでした。視力検査、簡単な身体検査、3時間の講習受講だけでした。手数料、印紙代等、計16,000円の納付で「国土交通大臣」発行の免許が、再交付されました この免許で水上バイクと20トン未満、長さが23メートル未満の船を沿岸から5マイル(9キロ)内での操縦が可能です。でも、その可能性はなさそうです。 |
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| 法典論 平成22年の白門43会総会で、母校中央大学の総長・学長であり、白門43会員でもある永井和之先生 が講演され、その中で中大の前身である英吉利法律学校の創設者の一人である穂積陳重博士のお話をされました。穂積博士は明治維新後の第1期海外留学生としてイギリスに渡航され、1年間の留学生活でミドルテンプルのバリスター(法廷弁護士)という難関の資格を得られ、その後さらにドイツに留学され我が国の民法の基礎を作られたとのことでした。私は長い役人生活の中でかなりの部分、法律や政省令の立法作業に関わってきました。そのとき座右にあったのが穂積先生の「法典論」でした。永井先生をはじめ、裁判官や検事経験者、弁護士など法曹界のお歴々が多数おられる白門43会でこういうものをご紹介するのは誠に僭越極まりないのですが、ユーモアに溢れた例えも面白いので敢えてここにご紹介させていただきます。今の時代から見ると些か適正を欠くような表現も見受けられますが、先人の原文をそのまま(ふりがなは筆者)掲載させていただきます。
穂積先生は東京帝国大学の法科大学長、帝国学士院院長、貴族院議員を歴任され、晩年には枢密院議長を務められました。 |
運転免許更新の高齢者講習 運転免許証を更新する場合、70歳を過ぎると事前に公安委員会指定の自動車教習所で『高齢者講習』を受けなければなりません。更新日付けの約6ヶ月前に公安委員会から講習案内が届きます。受講料は、6,000円です。 |
| 痔の手術で感じたこと 快眠、快食、快便は、健康の3要素だそうです。尾篭な話ですが、長い間、排便に苦しんできました。そう「地主」ならぬ「痔主」だったのです。43会の仲間にも「痔」の手術をした人を何人か知っています。同病相哀れむ仲なのです。 この辛さは、「痔主」でなければ分からぬ辛さなのです。酒、コーヒー、カレー等刺激の強い食品は、良くない様です。不幸にして、これらの食品は、総て大好きなのです。 若い頃、勤めていた印刷会社の社長と今もお付き合いをしています。その社長が、直腸ガンを手術し、人工肛門を付ける身になりました。その社長から忠告されたのです。「痔主」なら先ず、専門医の診察を受けなさい。ついでに大腸の内視鏡検査を受けることと脅され(?)、専門医の門を叩きました。受診に行き驚いたのは、待合室は、患者で溢れていました。流石は、名医で有名な医院だと感心しました。 大腸の内視鏡検査は、異常無しでしたが、「痔」は、3個の「内痔核」があるので要手術と診断されました。結局、昨年4月に10日間、入院し手術を受けました。 たかが「痔」の手術と思われるでしょうが、当事者にとっては、大変な手術でした。これもやった人のみぞ知るです。入院中は、43会の佐藤 勝氏、芝木雅基氏のお見舞いを受けました。参ったのは、看護婦の一人が、両氏と踊りの趣味仲間だったことです。 肛門科の受診は、場所が場所だけに敷居が高いようです。でも、43会の隠れ「痔主」さん!是非、早期受診をお勧めします。入院患者は、男性よりも女性が多い様でした。 病室は、約10人が入れ替わり入退院をするのですが、男性の病室は、ほとんど会話が無く静かでした。女性部屋は、初対面同士のはずですが、賑やかに会話が続いていました。やっぱり、男性よりも女性は、社交性、環境適応能力が高いのを感じました。笑いを誘ったのは、入院患者のロビーに「お尻会い帳」と書かれた患者の感想文書き込み帳が置いてありました。 1年半経ったいま、昔のことが、噓の様な「快便」生活を満喫しています。受診を忠告してくれた社長と医師に心から感謝しています。 |
愛犬シェリーの死 愛犬「シェリー」(雌14歳、シェルティー)は、平成8年4月24日岡山市でこの世に生を受けました。そして、同年6月17日我家の家族(娘or孫として)となりました。その最愛の家族が、平成22年6月17日11時50分、千葉市内の動物病院で永遠の眠りにつきました。(嗚呼!)彼女はこの14年間、私たちにかけがえのない至福をもたらしてくれました。「シェリーちゃん、ありがとう!」この一言に尽きます。 |
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3月21日(日曜、春分の日)の明け方、千葉市では最大瞬間風速38mという強風が吹き荒れました。 |
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![]() 湯島天神 |
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「投票立会人」2回目の体験 8月30日の総選挙が終わってから2ヶ月半になりました。選挙結果の政権交代で、新政府の動向が、連日かまびすしく報じられています。 私は、この選挙で、千葉市花見川区の選挙管理委員会から「投票立会人」に選任されました。前回選挙に続きこれで2回目です。「投票立会人」は、町内会や自治会の推薦によるようです。選管から投票日の10日前に別紙(部分)の様な選任状が届きました。仕事の内容は、定められた時間内を投票箱の前に座り、投票に立ち会うわけです。今回は、最高裁判事の国民審査もありましたので小選挙区と比例代表の計3個の投票箱がありました。投票箱を間違える人もいるため注意喚起をしてあげねばなりません。 私の選挙区は、投票率の悪いことで定評があります。所が、今回は、少し様子が違いました。子供ずれの女性が、次々と投票所へ足を運んだのです。 午後8時の投票締め切り時間になると、選管の手配したタクシーが投票所玄関に到着し、投票箱の積み込みを待っていました。私の勤務時間は、午後8時までとなっていました。 責任者から、開票所へ投票箱を運ぶのにも立ち会ってほしいと要求されました。責任者と投票箱をタクシーに積み込み開票所へ向かいました。タクシーのラジオは、○○党××当選確実と放送しているでは、ありませんか!投票が終わってまだ1時間も経っていないのです。しかも投票箱は、まだここにあるのです。出口調査の結果なのでしょう。何か釈然としない思いでした。この投票箱を運んだ後、そのタクシーで自宅まで送られました。 報酬5,350円、夕食代840円 計6,190円がこの日の手当てでした。 |
千葉・佐倉をめぐる日帰り旅 平成21年10月10日(土)、倉田隆次、佐藤勝、芝木雅基の各氏及び私は、昨年「留学生との集い」で知り合い、今年もご一緒した中国人留学生、王萍(おうへい)さん(写真右から二人目)と彼女の友だちを交えて「千葉・佐倉をめぐる日帰り旅」を楽しみました。王さんは来日前、中国・大連で2年間日本語を勉強し「日本語能力試験」の1級に合格しました。2004年武蔵野学院大学に入学、さらに2008年中央大学の大学院に入学し、目下「博士課程」をめざして奮闘中の才媛です。彼女を励ますため企画したのが今回の旅です。 さて、当日は午前中一時小雨がぱらつく中、先行きを心配しましたが天候に恵まれ、先ず「国立歴史民族博物館」を案内しました。ここは丸一日かけても飽きないほど展示物が多いのですが、駆け足で見学を済ませました。 幸運にもこの日は「さくらまつり」が催されていました。神輿が繰り出し、コンチキチンの鐘の音や太鼓の音を耳にしつつ、焼きそばやたこ焼きなどの匂いが充満する目抜き通り(?)を談笑しながら散策しました。次に、昔のまま保存されている「武家屋敷」に赴き、格式の違う三つの屋敷を見学しました。ガイドさんの説明がこなれていてその違いが良く分かりました。 最後は、佐倉駅前の居酒屋で歓談し、王さんの受験合格を祈念して乾杯し、あわせて合格祝いのための再会を約してお別れしました。 翌日、王さんから感謝のメールが寄せられ、嬉しかったことを付言します。 |
![]() 曼珠沙華(彼岸花)を鑑賞して想うこと 曼珠沙華は、日本の農村では、毒草と代々伝承され、事実上採集を禁じられていた。しかし曼珠沙華は、日本の固有の種では無く外来種であり、わざわざ祖先の人々が、墓地、川沿いの土手、田圃の畦道、神社の境内など人里の中に植えたものだと聞いたことがある。何故、毒草を植え、活用することなく、事実上採集を禁じていたのだろうか。 日本の農村、特に田園の原風景で思い出されるのは、初春のレンゲ畑、初夏の整然と並ぶ早苗、秋は、黄金色に輝く稲穂。「実るほど頭の下がる稲穂かな」が思い浮かぶ。しかし、何年に一回は「実ることなく、頭の下がる稲穂」と迎えられない飢饉の秋もあったはずだ。 宮澤賢治の世界を想像して見て、これをダブらせてイメージした光景の中に今回の主人公である曼珠沙華が咲く風景が鮮明に思い浮かぶ。 埼玉県日高市の高麗の曼珠沙華(彼岸花)を見に行った。高麗川が巾着状に曲がりくねった巾着田の中に真っ赤な花の群生地がある。曼珠沙華(彼岸花畑)を中に入り散策路を散策する。曼珠沙華は、桜と同じように葉が無いため言い古された言い方では巾着田の川沿いに沿って一面に真っ赤の絨毯を敷き詰めた様は素晴らしい。この風景は、小生が二年程前手術後の死の境をさまよい、臨死体験をした際に夢の中に現れた此の世とは思えないお花畑の上に架かる虹のイメージとが重なり、不可思議な感がしないわけには行かなかった。 曼珠沙華は、彼岸花、天蓋花あるいは幽霊花(歳時記)等の異名もあり、ネーミングのイメージは秋の彼岸の頃に咲くことから彼岸花(曼珠沙華)というだけなのであろうか。それだけでは無いような気がする。つまり、曼珠沙華等の名称は、仏教のイメージである彼岸・浄土に通じる呼び名に通じる趣で大事にされる、一方、平常時には「お前は毒だ」とか「お前(曼珠沙華)は、存在しているだけで良い」と蔑まされ、全くの役立たずの彼岸花が、今まで辛抱強く埴生され続けて来たのだろうか。 何十年かに一度の大冷害や日照りが続き、土地は、赤茶けたまま、草木は、枯れて実りは全く期待が出来ない。そのような状況が続くと農民は、山野の草木・果実も食べ尽くしてしまい、自分たちが保存していた種にする籾すら食いつぶし、後は、飢えを待つのみの有様になる。宮沢賢治の詩の世界を彷彿されるイメージか。 こんな惨憺たる風景の中にあっても刈り採られることの無かった曼珠沙華だけは、彼岸の頃になると可憐な花を律儀に自己の存在を示すかのように咲き揃う。この時になって、やっと曼珠沙華の真価・存在価値が発揮される時になるのだ。 農村の古老の意向・判断に従って、毒であると伝承されて来た曼珠沙華の球根を細かく砕き乾燥させる。何回も何回も川の水に晒し、毒気を取り除かれ、非常食になるのだ。農民は曼珠沙華の球根を食べ飢えから逃れ命を救われる。曼珠沙華は、このような最期(「最後)ではない)の非常食にするため、埴生され、生きながらえ、かつ、大変な重責を担ってその時のためだけに役立ちたいと、農村の墓地に、路傍に、畦道に花の咲く頃だけ自分の存在を主張しているよう気がする。 曼珠沙華を観賞用としての鑑賞ばかりではなく、このようなことを夢想しつつ表面には現れない様々な事象あるいは物事もあり、一面的ばかりに捉えることなくその裏に何が潜んでいるかをいろいろの角度から推理して見ること視野も広がり、老後は金持ちには縁がなく時間持ちの小生もじっと静かに生活し続けるだけでも意味があることなのかも知れない。さらに欲を言えば何かに役に立ち、あるいは自分自身も楽しく過ごせるのではないだろうか。 最後に駄目押しですが、確か旧約聖書の一節の言葉と思いますが「地の塩、世の光」の箴言も曼珠沙華に相通じるものがあるかも知れません。世の中には、普段私たちが余り気に留めないだけで、曼珠沙華を始め、物質そして人物等がどれだけ多く生存し、存在していることだろう。なんとも不思議であり、有り難く感謝したい気持ちで一杯になってしまいます。 そんなことを想っている自分を見つめると、些細なことに家族等に我を張って言わなくても良いことを言い、自己主張してしまう己も哀れなものだとしみじみと思いを繰り返す日々を送っている。 (宍倉さんは平成21年12月9日、ご逝去されました。謹んでご冥福をお祈りいたします) |
浅草周辺漫歩 親父に連れられ初めて行った浅草は、小学2年のころだった。子供心に電車が頭の上のデパートの上から出て来るのを見てビックリし、花屋敷では、赤鬼の胸にボールが当たると両手を上げ、大きな唸り声で吠え、また、屋敷に装飾された円筒の筒に入り、筒が回転すると着地していた床板がストンと落ちて体が宙に浮いてしまい(?)肝を潰した思い出がある。 |
楽器とは楽しい器
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これからのプラチナライフを楽しむ一つの方法 ――ロングステイを空想し、楽しみませんか―― ご記憶しておられる方もいられるでしょう。1986年、通商産業省(現:経済産業省)から「シルバーコロンビア計画」が企画・発表され、マスコミで頻繁に報じ賑やかな話題となったことがありました。この計画は、年金生活者を中心として高年齢者の方をスペイン・カナダ・オーストラリア等気候の温暖で、治安が比較的良く、物価の安い国に定住させよういう計画でありました。前評判は上々、当初はマスコミも好意的に報じ、担当者は、上機嫌で関係先に説明に周り手応えも感じていたものだ。 しかし、この計画に対し突然の海外から反響は否定的な論調であった。それに呼応するかの様に我が国のマスコミも批判的な立場に回ってしまいました。(本当に外圧に弱い国です)その原因は、何故だったのでしょうか?その理由は、当時我が国は高度成長の真たっだ中で、輸出は増加し、外貨は増加する一方のこの時期に「日本は、工業製品を当たり構わず輸出し外貨を稼いでおいて、さらに未だ輸出が足りず今度は“老人”までも輸出するのか!」と言う論調でした。理屈はともかく納得出来る反論でしょう。当時は、核家族化が進み、老人ホームなどの受け入れ施設は少ない時代であったことも発想及び反響の呼び水の一因であった思います。 担当者は、真っ青。それ以降シルバーコロンビア計画は、一瞬は、頓挫し、行き場を失ってしまいました。しかし役人は、絵に描いたような「執念深さ」、「叩かれて只では起きない」よく言えば「忍耐強さ」や「根性深さ」のお陰でこの構想は模様を大きく変えてリニューアル・ネーム「ロングステイ」となって再復活しました。現在では多くのフアンが育って来ているようです。 白門43会の皆さんは、還暦を過ぎ、あるいは古希に間近なこの時期に一度、「シルバーコロンビア」ならぬ「ロングステイライフ」に関心を持たれ、本稿では実施まではお勧め致しませんが、自分なりのプチ海外定住生活のプラン・計画を楽しんで見てはいかがでしょうか。 こういう小生、一時は、ロングステイを従来考えたことも有りましたが、病気持ちの体調では思うようにならず、思う気持ちだけが先行し、今は、日々、愚妻(貴方こそ「資源ゴミどころか大型ゴミヨ」と言われています)と我が狭い寓居で顔を突き合わせる毎日を過ごしております。 それでは、「ロングステイ」とは、何か。知っておられる向きも多いと思いますが、簡単に復習しておきます。因みにロングステイは、「海外滞在型余暇」とも言いますが、カタカナ名が一般的な呼び名でしょう。ここで言う「ロングステイ」、海外滞在型余暇は、普通パック旅行とか1から2週間程度の短期周遊旅行とは異なり、比較的長期間一定の地域・場所に滞在し、その生活の拠点となる住まいは、炊事、洗濯等のお三どんも出来る自活の生活を送るため賃貸住宅・テラスハウス等を利用します。このことによって肌でその国の文化や生活に触れ、趣味等の自由時間を満喫しようとするのです。一言で言えば地域の住民の中に溶け込み共に暮らすことが理想でしょう。 なお、「シルバーコロンビア計画」の反省に立って、生活の源泉、例えば住民票は、日本国内に置き、生活は、日本からの仕送りあるいは銀行の取り崩しで賄うことを原則とします。 現在では多くの国がこのロングステイを受け入れるためロングステイ用ビザの発給等特別な制度まで設けて歓迎している国が多くなっているようです。また、日本国内では、ロングステイを志望する者をサポートするNPO法人やロングステイを業務としている財団法人等の関係団体も多く存在しています。また、ロングステイに関するセミナーも盛んに開催されているとも聞いています。 例えば先駆者の一人である大橋巨泉氏は、春、秋は日本、夏は、バンクーバーでゴルフ三昧、日本の冬季は、南半球のオーストラリア、ニュージーランドで避寒をする等健康の増進と共に趣味の世界を渡り鳥のようにロングステイで楽しんでいるといいます。また、人間関係等によって疲れた気持ちをリフレッシュのため実践されている著名人や芸能人も多くまた一般の人にも普及しつつあり、特に定年退職した方の関心も高くなっているようです。 一般には、ゴルフフィーの安いマーレーシア、タイなど東南アジアでのゴルフ三昧の生活をしつつ、現役時多忙で成し遂げられかったこと、あるいは、夢の実現化を求めに、興味のある向きは史跡の探求に没頭、語学を学びたい向きは学びたい言葉の本国の大学等で現地の住民の中で生きた語学の研鑽と様々な生活が可能でしょう。さらにアフターファイブは、日本と同様のライフスタイルもあり、ときにはカラオケ、居酒屋で現地人に混じっての心の触れ合いを求める等ロングステイは様々な利用の方法がありましょう。 つまり、ロングステイは、目的意識を持って計画・実施すれば私たちの新たな人生にまた別のライフスタイルとしての潤いをもたらしてくれるのではないでしょうか。また、ロングステイは、数週間という一時期だけでも今の日常生活からの離れたタイム・トリップ、非日常の生活も叶えられ、多いにこれからの生きる活力が蓄積出来るでしょう。 先に述べましたが、本稿の目的は、ロングステイを自分で思い描くきっかけとして、さらに書籍、セミナーあるいは関係団体などに相談され、ロングステイの実際をつかみ取り、夫妻との語らいの中で異国でのロングステイを想像することを楽しんで見ることも楽しいのではないでしょうか。お勧めしたいものです。 なお、この駄文を読んで是非実際にロングステイを試みて見ようとされる方は、信用のある団体等に相談することをお勧め致しますと共に、余り海外の経験の少ない方に予め理解しておいて頂きたい点は、語学の問題、風俗習慣(郷には入れば郷に従うの気持ち)、気候風土が異なり心身の管理などに慎重な配慮が求められます。さらに大切なことで強調しておきたいことは退職後の生活は時間的には余裕があるとは思いますが、資金的にも十分な余裕をもった計画であること、事前に家族の納得を得ておくこと。そしてロングステイは、ご夫妻ご一緒に楽しまれるのが筆者のお勧めですが、最近はお一人様ロングステイも増えているやとも聞いております。企業戦士・仕事一途に過ごしてきた同輩の白門43会の仲間には、青春時代に果たせ得なかった海外滞在を夢ではなく具体的な予定として実施してみてはいかがでしょう。あるいは、夢を追って見てはいかがでしょう。 |
![]() 孫と暮らした4ヶ月 我が家に8月下旬から娘が、2人目の子供出産のため2歳半の長女を連れ里帰りしている。今まで我が家は三人家族、私と、女房とかわいいミニチアダックスフントで暮らしていたところに天真爛漫の孫が加わり家の中が大変にぎやかになった。平成19年年暮れから医療保健センターからメタボになりかかっているから講習を受けないかと声が掛かり参加していた。孫が来てからは、朝起きてから夜寝るまで家にいるときはのんびりする時間を与えてくれないので講習に参加している以上に運動をさせられている。おかげでBMIの数値は今、標準になり体は軽くなり快適になっている。 |
あれから2年 大学院に入学して2年が経過し、この3月卒業となった。 医療施設の「経営環境」と診療所の抜本的「経営改善策」 ―新しい「ビジネスモデル」創造の中での提言― 歌代 雄七 [研究目的、内容] 33兆円/年産業と言われている医療業界は、農業、教育と並んで産業的経営面では、たち後れた業種の代表格である。 要因は、何れの業種にも共通する国家の保護、統制下にあったことである。 昨今は各々の当該産業分野で、外部の活力を導入しての経営改善模索は始またが、他産業に比しその遅延性はまだまだ目を覆うものがある。 その医療業界にあっての事業形態は、大きくは病院と診療所(クリニック)に分類され、経営的視点からの診療所は極めて悲しい現実/実態がある。 それら診療所が、直面する経営技術面での危機克服の一つとして、企業が中心となり創造的事業システムの構築を為し、診療所はその事業形態の傘下へ加盟することにより、諸事に抜本的な改革が可能となるものである。 小論は、世界的にも亀鑑できないこれら事業遂行システム・スケルトンを記、現下の診療所が混沌とした時代から抜け出し、20年先には経営面に於いて「安寧」確保を願い、「医療環境」をも含めて取り纏め提言するものである。 尚、これら提言をベターなる解として事業構造化、遂行可能としうるのは、諸般の事業環境を踏まえて多様性を保持する大手総合商社であろう。 尚、本事業実施に伴い、少子高齢化を背景に医療施設はもとより、関連する民間企業をも包含しての優勝劣敗は鮮明となり、垂直及び横断的な再編・淘汰の引き金となることを期待する。 [研究方法] |
松葉杖奮戦記 こんなドジで間抜けな怪我について書くのは、一寸した勇気が必要です。 政治の世界では「一寸先は闇」と言われます。実は、平穏な家庭の中だって「一寸先は闇」で、突如、何が起きるか分からないものです。11月8日夜9時半ごろ、小生は食卓に新聞を広げていました。趣味(?)の切抜作業をしていたのです。何かが食卓から滑り落ちました。両膝の上に受け止めようと、両膝を揃えたのです。瞬間、左太股内側にグサリとハサミの片刃(幅5ミリ)が突き刺さりました。右膝で刃を押し込んだのです。鮮血がドバーッと床に滴り落ちました。傷口をタオルで縛り救急車を待ちました。 救急車に収容されたあと、一向に車が動かないのです。救急隊員が、最寄りの救急病院から順番に収容依頼をするのですが、①担当外科医がいない、②ベッドがない、③現在急患を収容中、等の理由で受け入れてくれないのです。やっと4番目に片道15分の遠隔地にある病院からOKが出ました。県都千葉市で さえ、夜間の救急医療はこの様な状況なのです。この病院で、止血のため、太股の筋肉をTの字形に10センチ・5センチ切開されました。筋肉内の動脈を損傷している。ここでの止血は無理だとして、待機していた救急車に再び乗せられ、千葉県救急医療(高度救命救急)センターに転送されました。 待ち構えていた医師団(4人)は傷を一瞥するや、「大丈夫ですよ。すぐ止血できます」。小生の怪我は、ここでは怪我の内に入らない様でした。傷の処置前に医師から言われたのは、①血液サラサラのサプリを摂取していないか?②脳梗塞予防薬を服用していないか?③医療従事者の安全確保のため血液検査(肝炎、梅毒、エイズ)を承諾してくれるか?の3点でした。 結局2日間の入院で退院できました。16日に抜糸(10針)、17日が最終診療でした。 そんなわけで、「留学生との集い」の18日は松葉杖をついての参加となり、醜態を晒してしまいました。 通院時に見知らぬ人が示してくれた優しさが身にしみました。また、身障者の視点で世の中が少し垣間見えた感じがしました。 |
敬老会への出演 敬老会が過ぎて、もう2ヶ月になろうとしています。なぜ、今ごろ敬老会の話を……と言われそうです。実は、わが家のTVチャンネルを回すと、団地チャンネルで団地行事の敬老会の模様が、繰り返し放映されているのです。 敬老会の当日、妻は、孫が通う幼稚園の敬老会に招かれて不在でした。自治会長に頼まれていたので、この隙に「ガマの油売りの口上」を演じ、好評を博しました。それがTV放映でバレてしまったのです。 加えて、地区福祉協議会の広報紙にも写真付きで紹介されてしまいました。 この演会芸は、40数年前に覚えたものです。口上だけでは数分で終りますので、趣味の居合を2本抜くサービスを加えました。宴会芸が、お年寄に喜んでいただけてハッピーでした。オッと自分も老人だということを忘れていました。 (千葉市社会福祉協議会朝日ヶ丘地区だより「ふれあい」の記事─写真は省略) ガマのあぶら売り口上・・・20数年振りの復活、ユーモアたっぷりの熱演に拍手喝采! 4枚が8枚、8枚が16枚、16枚がううっ!刀の切れ味がわるい─。 |
関口明美さんの思い出 関口明美さんのご逝去に接し、謹んでお悔やみ申し上げます。 |
関口明美さんを想う 明美さんは私の大学の友人である。専攻が同じで哲学科の社会学、チョット硬い印象を受けるのは否めない。 彼女は、卒業と同時に先生になり、37年もの長きに渡って先生を勤め上げた。私は編集(文を書く事)にこだわり、小さな出版社に3年位働いて結婚した。結婚して子供が成長してからもパートながらも出版社で働いた。 今思えば、チョット硬く生真面目なところが似ていたかもしれない。卒業後の彼女との出会いは、銀座の個展会場である。年賀状は行き来していたが、何十年ぶりかでお会いした。そこで、色彩感覚の良いお洒落な洋服をまとった彼女に出会った。彼女の作品・彫刻は、黒い色の(プラスチックが材料と聞きました)女性像(立像も含む)が多く、”すごい”と感心した。 その時、彼女はすでに43会に入っていて、会場にいた鴇田さんに進められて私も入会することになった。 それからは彼女の個展には必ず行き、感想文を書いては43会報やホームぺージに載せてきた。また、虎ノ門交響楽団で音楽を一緒に鑑賞したり、トリップ会で旅行に行った時、隣りに座っていろんな話をした。 その後も、女性を画いた陶板画を製作、木目の厚い板に貼り付けるなど彼女独特の女性表現をしてきました。それが認められ、タヒチの大統領から賞状を貰ったり、カナダのモントリオール国際会議場やカサブランカ市の日本・モロッコアート・エキスポで展示されるなどの活躍ぶりでした。 2年ほど前「先生を退職して、第2の職場(役所)で働いているのよ」と話してくれました。そのうち電話でトリップ会からの旅行の話しをすると、行きたいとのことで「栃木の蔵の街」の旅行に参加。会報に旅行記書いて欲しいと頼んだら、すんなり引き受けてくれた。その記事の文がとても良かった。鋭い観察力は彫刻を作る時と同じなのだろうと思った。 その内、しばらく来なかった委員会に今年の3月ヒョッコリ現れ、総会や「留学生の集い」について意見を述べた。その後まもなく電話があり、検査入院する事になって、カナダのモントリオールに行く切符を買っていたのにキャンセルしなくてはいけなくなった……と、残念そうに話しました。元気そうだったので、単なる検査だろうと思っていたが、そうではなかったのです。 それから約半年という短い期間に、忍び寄っていた病魔が彼女の体を蝕み、たちまちにして一人の秀でた芸術家の命を奪っていってしまったのです。 才能のある人だったので、まだやりたいことがあっただろうと思うと不憫でなりません。 もう少しで第2の職場をやめたら、船で世界旅行したいな……と言っていたのに。これから人生を楽しもうという時に彼女は、あの世にいってしまったのです。これも運命と言うならあまりにもむごい気がしてなりません。 最後まで作品の整理に没頭した明美さん、あの世でも作品を作っているような気がします。 心よりご冥福をお祈り致します。 |
お手玉の唄 西条山は 霧ふかし 筑摩の河は 浪あらし 遙に聞ゆる 物音は 逆まく水か つわものか 昇る朝日に 旗の手の きらめくひまに くるくるくる どなたかこの唄をご存知の人がおられるだろうか。 |
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剣道好きの43会員も多いと思います。警察官OBの友人たちは、全員が剣道5段以上です。わたしは、平成19年3月11日に千葉県武道館で実施された剣道4・5段昇段審査会に参加し、辛うじて4段に合格させて頂きました。昨年に続き2回目の挑戦でした。 県内の合格者中、わたしの71歳が、最高齢でした。172人が受審し、33人が合格しました。千葉市の合格者は4人でした。登録料を納入に行ったところ、70歳以上の合格者は、シニア割引で半額だというのです。剣道連盟は、なかなか味なことをするものです。ラッキーでした。 昇段審査は、1次、2次、3次に分れています。内容は、2人を相手の試合、太刀7本・小太刀3本の演武、それに論述式の筆記試験(2問)です。1次、2次は、6人の審査員が合否判定をします。 5段の受審資格ができるのは、4段取得後4年を経過してからです。何としても75歳までは元気に生き残らねば・・・と思っています。 もし5段に合格すれば、居合道4段、杖道(*)初段と合わせて計10段になるのですが、これは夢物語かもしれません。 ![]() <参考> 杖道というのは、樫でできた丸棒(杖)を、使い方や動きに応じて槍や薙刀、太刀に変化させ、左右に使いこなすことで、相手に暇を与えない要素を兼ね備えた武道といったもので、昭和43年以来、全日本剣道連盟杖道と位置付けられています。(同連盟には、剣道、居合道、杖道の3部会があって、それぞれ免状を出しています。) 歴史的には、神道夢想流杖道(術)は、今から約400年前に夢想権之助勝吉(天真正伝香取神道流の免許皆伝で、鹿島直心影流の「一の太刀」の極意も授かったと言われている。)が創始した武術だそうです。 (管理人は、テレビの「水戸黄門」で、里見浩太郎扮する黄門さまが悪者をやっつける時に使うようなアレをイメージしていました。) |
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千葉県佐原市の古い街並みと伊能忠敬記念館を訪ねて
香取神社の長い参道の紅葉がきれいで、今年最後とばかりに頑張って私達を迎えてくれました。淡いやさしい彩りが素敵でした。また、時期的にお正月飾りも見ることが出来てよかったです。
小野川沿いの散策では、柳と民家が風流を誘い、時代をさかのぼって異次元にいる感じがしました。その小野川沿いに伊能忠敬が住んだという旧宅があり、川を挟んで向かいに記念館があります。 忠敬は、17歳で伊能家の婿養子に入り、36歳で名主拝命、醸造業や川を利用した運送業等いろんな商売をしていました。49歳で隠居。50歳の時江戸に出て勉強、55歳から日本地図の測量が始まります。 記念館には、日本地図作成に16年もかけて作ったその行程が、如実に展示されていました。 あの時代(享和、文化)に日本全地図が完成、驚くばかりの正確さです。学問も発達していない時代に天文学、測量術、文学、医学、数学、歴史などを独学するなどやはり並外れた人でした。かなりの昔に60代後半まで測量の旅をしたというのは驚きです。 この時代に余生で学問、日本地図を実測、作成したその心意気に触れた気がしました。 |
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| 香取神社の注連縄飾り | 小野川沿いの民家 (この手前に伊能忠敬旧宅・ 向かい奥に記念館がある) |
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皆さんこんにちは。総会の折に、ウクレレを聴いて頂き、更には大木さん、岡田さんには歌唱の協力を頂き、ありがとうございました。 久しぶりに投稿致します。今回もウクレレです。 ①自分で圧電素子と電子部品を取り付けエレクトリック・ウクレレにしています。
②アイロンは鉄パイプの中央にハロゲンランプが入っています。(ウクレレ愛好家のアイロンの写真を右下に掲載しました。)
③パイプ全体を温めます(150度くらいか?)。 ④事前に湿らせた側板を瓢箪形やパイナップル形にパイプに沿って馴染ませていきます。 ⑤私の写真の側板はすでに左右対称に張り合わせたものです。プロの工程は片側づつ曲げて、木型にてはめ込んで固定します。
⑥私は最終木型がありませんので、対称からわずかずれています。これから微調整をします。
今後は、ネック、ボディ(表裏)、フレット板など木材の比重に焦点を合わせ、ハワイ製に負けない気に入った音が出せるウクレレをじっくり製作して行きます。鋸とサンドペーパーが私の道具です。時間は掛かるが大道具には金を掛けない主義です。 |
いつものことですが、この寧日雑感を書くに当たり、なかなか書けなくて困っています。いろいろの人の雑感を読ませてもらっているのですが、趣味を生かして活躍している人、ボランティアに熱意を燃やしている人、まだまだ現役ではりきっている人等々でうらやましく思っています。 私もこの11月でリタイアすることになるので、どう生きていこうかと”少し”悩んでいます。しかしいろいろ考えても仕方がないので、ズボラに、とりあえずは未知への希望を失わないようにして行きたいと思っております。 それで思いつくままに、読んでいただくには値しないのですが、今の自分の実情を書いてみたいと思います。 まず今一番感じていることは、朝通勤電車に乗っていて、自分より年配の人が本当に少なくなったと思うことです。また朝会社には8時30分ころ入るのですが、当然のことながら若い人ばかりで、自分と同年配の人があまりいないというのが現状です。非常に寂しいことです。従って会社の同期生や学校時代の仲間と会うとなんとなく安心するのは私だけでしょうか。 また、もうひとつ残念に思っていることは、体力的にやはり若い人達にはかなわなくなっていることを実際に感じる事です。 たとえば、ゴルフを始めてまだ2年くらいにしかならない息子にドライバーでかなわなくなってしまうことです。(スコアはまだまだですが)。これは息子だけでなく会社の部のコンペや得意先の客とプレーする時でも、若い未熟な(?)ゴルファーに飛距離で遅れをとることが多くなり、非常に口惜しいとしみじみと感じる今日この頃です。(年寄が道具に執着するのがよくわかります。) つぎに最近少し”良し”と感じている事があります。それは昨年8月に開通した「つくばエキスプレス」で通勤できることです。これは私に2ツのメリットをもたらせてくれました。その一は通勤が非常に楽になったこと、その二は私の大好きな浅草がより身近になったことです。浅草演芸場の落語と板東33ヶ所の一つ浅草寺、そしてうなぎ、てんぷら、そば、すきやきなど2級グルメが比較的安く楽しめることです。家族だけでも楽しめ、また得意先との会食も浅草でやることが多くなりました。食べることにしか能のない私にとって、これはとても満足していることです。 最後に今少しまじめにやっている事をひとつ。それは英会話で、一年くらい前からNHKのラジオテキスト(レッツスピーク)と会社の社員教育用テキストの2冊を使って、だいたい毎日あいた時間でやっています(お金がないので会話学校へはいかないで独学)。まだまだ入門初級レベルですが、なんとか挫折をしないようにして「継続は力なり」をモットーに続けていくつもりです。電車の中などで外人どうしでしゃべっているのをみつけると、何気なく近寄っていって盗み聞きもしていますが、ほとんど聞き取ることはまだ出来ません。 何か目的があって始めたわけではないのですが、最近は英語に接することが少し楽しくなっている気がしています。次に家内と海外旅行する時には「かっこよく」日本語のメニューのないレストランに入って食事をするといった大それたことを夢想しています(全く無理なことかもしれませんが)。 以上とりとめもなく、申し訳ありません。 |
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4月、快晴の某日。何十年振りだろうか! 入学式に臨んだ。 |
北京だより 01年の9月から2年の予定で65歳の語学留学をしましたが、03年4月、体調不良となり、折からSARSの大流行というダブルパンチを受け、止むを得ず志半ば(?)の帰国をしました。70歳を越したいま、これが最後のチャンスだと思い、積み残した春学期(3~6月)に再挑戦中です。(SARSが原因の帰国だったとして、学費が半額になりました。) 3年ぶりの北京は、オリンピックを控えて外観は大きく変化しています。大学も外観のみならず「中味」に大きな変化を感じます。 留学生の宿舎が1棟増えました。アフリカからの留学生が数多く見られる様になりました。中国の経済発展と中国の石油確保の対外政策と無縁ではないでしょう。先日のニュースで胡錦濤主席がナイジェリアの国会で長い演説をしている様子が放映されていました。小泉首相が今ごろになってエチオピアを訪ねる様では遅過ぎるのではと心配です。中国は着々と外交の手を打っています。 小生のクラスは、韓国 3、日本(の老人) 3、タイ 2、ラオス 1、カザフスタン 1の計10人です。タイの19歳は医大生。カザフスタンの17歳は母国語、ロシア語、英語の3ヶ国語プラス中国語を勉強している天才少年です。9月から本科生となりマイクロウエーブの研究をするそうです。ベトナムの学生は、本科生として 留学中ですが、講義内容が分からずもう一度中国語の勉強をやり直しています。そんなわけで授業内容が厳しくなり、予習と復習をしないと若い人に付いて行けません。留学でなく「遊学」の積りでしたが、心得違いでした。4月にタイの小中学生20人が、1ヶ月の短期留学でやって来ました。4月はタイ暦の正月で学校は1ヶ月間の休みだそうです。華僑のたくましさと中国の経済発展を子供たちを通じて体感しました。 (写真右上は日曜の午前中、本科生の日本語クラブでのボランティア講師。左下は日本語クラブの学生たちとのお花見、定年になった元高校教師の日本人と) (北京郵電大学国際漢語培訓中心・留学生) |
![]() 六十余歳の潔斎 私の友人には我が儘な男が多い。先日白門の級友のH君から「5月3日~7日は5連休で暇だから一日は付き合え」と電話があった。そこで日程は変則勤務の私の休日に合わせて貰い、内容についてはH君の家と私の家のほぼ中間である「根津神社のつつじと亀戸天神の藤を見に行かないか」と提案した。ちなみに千葉県のご出身であるH君の奥様もまったく同じことを言われていたそうである。にもかかわらず同行するM君とも相談の結果「以前計画しながらぽしゃってしまった佐倉の国立歴史民族博物館に是非とも行きたい」といってきた。市原市に「豪邸(?)」を構える私としては「佐倉に行くとなれば私の車でご案内して、国立歴史民族博物館のほか1、2の観光スポットにもお連れしよう」と考え、早速パソコンで行程表を作成しH君にFAXした。またまた電話 があり「どうせ佐倉までいくのであればHもMも成田山へ行った事が無いので是非とも寄りたい。また、散会前には酒盛りをすることが必須条件である」とのきついお達し。あれこれ考えた末、両氏のご用命をすべて適えるには車でご案内した後に拙宅で粗餐を差し上げる以外に名案はないという結論に達した。さて当日、全行程を電車にせよという両君をなんとか説得し、車で国立歴史民族博物館~成田山新勝寺とお連れした。ところが罰当たりの3人共新勝寺は何宗であるかも知らない。山門に弘法大師云々かんぬんと書かれてあるのを見て漸く真言密教のお寺であると知ったような次第である。H君とM君は厚かましくも本堂に上がりこみ坊主の説教を聴こうと靴を脱ぐ始末。私もしぶしぶ後に従い数語拝聴した後に早々と逃げ出したが、両君は熱心に傾聴し、あまつさえM君など護摩の煙を上着にかけて貰うという俄か信者ぶりであった。 三者三様これまでの六十余年にわたる世俗の埃に塗れた生活を潔斎できた一日とあいなった。ちなみにH君とは林克明君、M君とは三沢充男君のことである。 |
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長瀞と甲州・塩山市へのバス旅行 4月5日にほのぼのパソコン勉強会の方達とバス旅行をしました。メールをやり取りしている10人の女性仲間が全員参加しました。 長瀞でヒッソリと咲く「かたくりの花と一輪草」を、奥秩父の清雲寺では樹齢600年のしだれ桜や目を奪われるばかりのたくさんのしだれ桜のシャワーに出会って大満足でした。また、そこから2時間かけて山間をぬうようにして行った甲州塩山市・慈雲寺の糸しだれ桜は、静かなたたずまいの中にあって、幾重にもだらりと垂れ下がった桜の房の間に思わず入って見たくなるような見事さがありました。 雨模様との予報があたり、少々難儀でしたが、ひどい雨でもなく、風情のある雨の中の桜に酔いました。農園ホテルバイキングも美味しかったし、62歳から77歳の参加でしたが、皆さん意欲的でお元気なのには驚きました。特に77歳の方がフットワークがよく、デジカメ撮影が上手で熱心でした。また、帰りのバスの窓から「隅田川の舟下りと夜桜」を見ることが出来、ラッキーの一言でした。
パソコン勉強会とは、柏市にある老人介護予防施設「ほのぼのプラザ」で、パソコンを勉強したボランティ
アグループが、60歳以上の習いたい人に教えていて、個人で予約して教えてもらえる他、毎週木曜に30人~50人位の人が勉強会を開いている。そこでも、ボランティア先生がスライドを使って柏の歴史や柏の議会の様子などをパソコンで紹介、勉強している。 ホームページを立ち上げている人、ブログで朝食を紹介している男性(料理の研究心がある)、歴史に詳しく柏近郊の歴史や古代人の歴史を勉強している人、柏出身の画家の本を紹介する人など話題は豊富。
皆さん65歳から70歳前後の方も多い。最高は84歳女性で、おしゃれで、パソコン、英語の勉強に熱心。1階には談話室があり、仲間つくりに貢献している。
(写真は、塩山市慈雲寺──PC仲間の皆さんと) |
![]() 自然の中へ
最近は企業人から離れ、自然環境指向型人間になっている。 発端は山や海へ出かけた時に、自然の中にある花や木などに詳しい人がいると説明を受け、納得し満足するのであるが、いざ自分が自発的に自然の中に入ると、ただ美しい、きれい、素晴らしいと言うだけで、これは何の花、この木は何、どうしてこんな所にあるの、とか分からない事が多すぎて、己の動植物に関する知識の無さにガッカリして帰って来るのが寂しくなったことである。そこでリタイアしたら自然的環境の世界へ積極的に向かって生きたいと思い、以前より自然に関する勉強をし、特に森林に関する事に興味を持ち今日に至っている。
という事で、最近は小、中学生用の「植物図鑑」が座右の書であり、これが私の能力に非常に合っていて、理解しやすく分かりやすい。先だっても地域の自然観察会があり、やって来たのはほとんどが小学生の親子ずれや、自然の事を知りたい年配者(不思議に男性が多い)が主であるが、小学生の興味はなかなかのもので、質問も鋭く、未熟者の私ではなかなか説明出来ない事ばかり。そこで先輩の人(ほとんどが年配の女性が多い)が分かり易く説明するので、五感を働かせ体感し喜んでいる。その姿を見ていると、自然の環境下に子供たちを常に出し、体感させる事の大事さを痛感させられる。特に我々世代の仲間でも地方で育つた人は、一般的に小、中、高校時代を自然環境の中で生活して来ているので、体で感じた生きている知識があるのにつくづく感じ入る事がある。この点からも、人には育ちの環境により、様々な個性なり、知性等がありお互いに敬わなくてはいけない、という事を最近特に感じている。
ところで自然観察会は一般的に、都市部近郊の平坦地が多いが、森林観察会とか、森林体験会となると、多少起伏のある丘陵地となる。ここに参加する人は中学生~社会人となり、若い男女が少数でほとんどが世俗を離れ、自然環境に浸りたい年配者(やや男性の方が多い傾向)である。
ここで私の出番である。まず第一に体力的には申し分なし。第二にサラリーマン時代の知識が生きる。土と水、木に関するおぼろげなる体感的な知識は、まあまあ。第三に危険予知能力である。これは仕事上で体感したものである。
問題は、木の名前、見分け方、性質、利用の仕方などの本来参加者の知りたい事があまり詳しく説明できない事である。でもこの問題も、最近は参加者よりも多少詳しくなり、ベテランがいない時は何とかこなしている。
という事で、最近は心身ともに充実した生活を送っている為か、夜は21時~22時頃には床に就く生活である。しかし、43会の仲間と会う時は別である。昼夜を問わず、昔取った杵柄で、いくらでもお付き合いをするのでご心配なく声を掛けて下さい。
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![]() 頭のよくなるトレーニング ~学力は性格や心がけに連動する~ 何事にも、できる人とそうでない人には、共通のパターンが見られます。心がけと発想が乏しければ、授業を聴いても教科書を読んでも、把握力が弱く、結果は歴然。自分の机に向かう時間の長短が、結果に表れるとは限らない。スポーツと同様、できる人の共通のパターンを学びましょう。 心がけが変れば、感性も豊かになり、把握力向上、学力アップ、頭もよくなる。 1 勉強ができる人には「共通のパターン」 ①明るく ②元気で ③思いやり(聴く耳)があり ④我慢強い人間 人を笑わせる力、人と協力する力、友達をつくる力、聴く態度があり、人を思いやる気持ち 明るいあなた、元気なあなた、思いやりのあるあなた、我慢強いあなたになろう ・・・・記憶力、理解力、想像力、応用力が優れてゆきます 2 家事のお手伝いをすると頭がよくなる 毎日20分の我慢が成績アップのコツ(自己中心の考え方からの脱却) 勉強前の準備体操 ・・・20分間家事の手伝い・・・創意工夫と我慢を学ぶ・・・感謝されてα波が発生、 素直な気持ちで机に向かい・・・理解力アップ。 ・・・お茶碗洗い、掃除(家の内外)、洗濯、雑巾がけ、整理整頓(居間、勉強部屋)、肩もみ ・・・父母に感謝され「嬉しい気分に」・・・親子の心の通う良い関係・・・α波の発生 α波が能力を高める ・・・心が落ち着き、記憶力、理解力、想像力を強くする α波を出そう ・・・ほめられる状態、感謝をされたとき、人に優しくしたとき、親しい良い友達と 話しているとき、勉強が良く理解できたとき。 3 大事なのは予習、そして反復と継続(学習の王道、楽しくなければ勉強でない) 予習は理解力をつける ・・・勉強が楽しくなり、苦手の科目も解消、勉強嫌いが克服でき、集中力もつく。 「集中力」が頭脳をよくする ・・・予習をすると授業中に理解力と集中力がつく(良い循環)。 「反復練習」が学力をつくる 4 必ずできる! 理解できる! 覚えられる! 「忘れるな」が理解と記憶を邪魔する 「忘れたら」また楽しく「覚えよう」「理解しよう」・・・絶対、絶対、あきらめない! 5 心と頭を開くこと(心のコアを高めよう) 自分の心と頭を開いてやろう ・・・思い過ごしを捨て相手の立場で考えよう ・・・閉じたら開け、心と頭(心のコアは自分で耕せ) 家族と協力してα波を出そう ・・・会話、家族と月1で外食、トランプ等のゲーム、家族旅行 心を閉ざすと頭も閉ざす・・・悪循環の繰返し その原因は心がけ・・・予習を怠っていると・・・勉強がつまらなくなる、その結果、 「命令を受ける」・・・勉強しなさい、早く起きなさい、早く片づけなさい 「脅迫を受ける」・・・お小遣いをやらないぞ、そんなことでは大学へ行けないぞ 「強制を受ける」・・・肉体的な暴力、体罰、小遣の減額 6 困った人(心のコアに問題発生) 暗くて、元気がなく、わがままで、諦めやすく、すぐ切れやすい人、馬鹿声・奇声を発する人、 恥かしい行為をしても気がつかない人、弱い者いじめをする人、聴く耳がなく偏見を持つ人、 靴を引きずりだらしない音を発する人・・・向上心の欠如の表れ・・・学力低下 7 感性を高める訓練・・・多くの人に配慮でき、感じる心が増せば成績アップ だらしなく歩かずに足音を消して歩こう(学校、街中、駅の階段)、馬鹿声・奇声を発しない、 服装を正す、朝は自分の力で起きる、自己主張の前に人の話に耳を傾ける、 姿勢を正して勉強する、電車の中で化粧をしない(醜い、恥かしい)、だらしなく座らない、 お年寄・弱者に配慮、思いやりのある優しい心、何事にも一生懸命・・・把握力向上 8 父母がいて自分がいる、多くの人がいて自分が生かされている ・・・感謝・・・素直な気持ち(α波の発生)・・・理解力アップ・・・学力向上・・・頭が良くなる <ご参考> 「高校で学ぶ勉強の意義」 高梨 「受験生高校生の皆さんへ」 高梨 「頭のよくなる読み薬」 武田利幸著(声の教育社) |
![]() 幸福の木に花が咲いた 皆さんは観葉植物ドラセナ(幸福の木)に花が咲いているのを見たことがありますか。 ある朝、私の事務所の会議室に入ると、上品な甘い香りが薄く漂っていて、ふと見ると会議室の隅にある幸福の木に花が咲いていたのです。花は乳白色で直径4センチくらいの球形をしており、木の最頂部から伸びた長い茎にいくつも付けていました。一見八つ手の花に似ていますが、近づいてよく見ると、細い管状の小さい花が寄り集まって球形を成しています。十日ほど咲き続けてくれました。 しばらくたってから「そうだ、写真に撮っておこう」と思い立って写したので、写真では茶色がかっていますが、咲いてから数日の間はすべてきれいな白色をしていました。きっと幸せを呼んでくれることでしょう。 |
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![]() 新しい年を迎え張り切るというより、平穏に迎えられたことを安堵する年齢になりました。そうは言っても貧乏暇なし、仕事は忙しく合間を縫って趣味の写真を撮りに出掛けるのが何よりの楽しみです。 写真は昨年の弁護士会主催の美術展に出品したものです。 「春踊る」と題した方は長野市郊外の「丹霞郷」と呼ばれる場所に咲く桃の花です。雪を被った黒姫山と妙高山が正面にすっきりと立ち、タンポポの群れ咲く若草の台地に映える桃の花の美しさは格別でした。 「諏訪湖・お神渡り」は昨年の冬に7年振りに諏訪湖に出た、いわゆる「お神渡り」を撮ったものです。「お神渡り」とは全面結氷した氷が膨脹して割ける現象で、地元の人はこれを神様がこちらの岸からあちらの岸までお渡りになったとして、この氷の割け方でその年の作物の豊凶を占います。夜明けの光に照らされて輝く青白い氷は「神様」の存在を思わせるに充分な美しさで、その神秘さに心が躍りました。 二つの作品は展覧会を見に来られた業界誌「リブラ」の編集者の目に留まり、本年の1月号、2月号と連続して表紙の裏に掲載されました。新年早々の光栄だったと思っています。 ![]() 春踊る 諏訪湖・お神渡り |
*** 以前のご寄稿の内容は「寧日雑感Ⅰ」をご覧ください ***