このページは、会員の皆様方が日頃考えていることや、仕事、趣味、トピックなど自由な内容を寄稿していただき、読まれた方が「そうだ、そうだ、もっともだ」といって声援を送ったり、同病相憐れみながら連帯感を深めていただき、あるいは「そんな世界もあるのか」といって自分の知らない分野にも目を向けていただくことができるようにという趣旨で設けたものです。当面は常任幹事や監事の方々に書いていただきますが、それ以外の会員の皆様にも是非寄稿していただきたく、よろしくお願いします。

佐藤 勝


お馴染み同人の特設コーナー(上のお名前の所をクリックしてください)

   
                   

   三沢充男(法・法)
  
      野火止用水を歩く

 首都圏で桜の花が満開となった時期、野火止用水を歩いてきた。
 野火止用水は、東京・小平市の多摩川上水から分岐して埼玉県志木市の新河岸川に至る全長約25kmの用水である。江戸時代、徳川幕府がようやく幕藩体制を固め終わった頃、江戸の水事情改善のため多摩川の水を羽村から武蔵野台地を貫いて江戸市内に引き入れる玉川上水が開削された。この上水道事業を取り仕切ったのは、当時川越藩主で幕府老中であった松平定信である。彼はこの功績により玉川上水の水を3割分水して領内の野火止(新座市周辺)へ引き入れることを許可された。家臣の安松金右衛門と小畑助左衛門(補佐)に命じて、乾燥していて農作物も育たない武蔵野台地を開削し、領民の飲料水や生活用水として利用し、さらに新田開発を行って耕作をも可能にしたのである。
 今回歩いたのは、新座市の平林寺から野火止用水を下流から上流に向かって小平の玉川上水分岐点までの約23kmである。JR武蔵野線の新座駅で電車を降り、平林寺まで徒歩15分。平林寺は川越藩松平氏の菩提寺で、松平定信ほか代々の藩主らの墓がある。またその傍らには野火止用水で功績のあった安松金右衛門と小畑助左衛門の墓もある。山内には桜の木も何本かあってそれなりに目を楽しませてくれたが、その他の木はまだ芽吹いてもおらず、生憎の曇り空の下で、全体としてはまだ春の息吹は余り感じられなかった。
 平林寺を出て外の道を寺の裏手の方へ回り込み、野火止用水の本流に出る。ここから用水に沿って1kmばかり進むと用水の分岐点に出る。野火止用水はここで二手に分かれ、一つはいま自分が辿ってきた本流で、もう一つは平林寺の山門の前に至る平林寺掘である。当時は領内でいくつもの流れに分岐していたようだが、今確認できるのはこの二本だけであった。
 ここまで来る間にも右手には大きな菜の花畑が広がっていたり、流の畔には鴨が遊んでいたりと、長閑な光景がそこここに見られた。
 この地点での川幅は全体では4~5メートルくらいで、流れそのものは1~1.5メートルくらいで水深は1メートルくらいと思われたが、上流へ遡って行くにしたがって川幅も水深も変化し、あるときは人が寄り付き難い深くて大きな谷のような流れであったり、あるときは身近な浅瀬をゆっくりと流れて行くせせらぎのようなところであったりした。また所々は暗渠になって道路の下に姿を隠しているところもあるなど、多様な顔を見せていた。鯉が泳いでいるところも多く、真鯉、緋鯉が川幅一杯に群れているところもあった。
 野火止用水は、志木市、新座市、西東京市、東村山市、小平市など、いくつもの市内を貫いて流れていて、途中には市が設置した野火止用水の説明の看板があちこちに建っているのだが、おかしなのはこの用水の開削工事の期間についての記述である。新座市の説明では40日で完成したとあり、小平市のそれには3年を要したとある。思うにこの地域はなだらかな起伏はあるものの、起点から終点まで25kmの高低差はたったの90mだったというからかなりの精密な測量技術、掘削技術を要し、また途中には水喰土といわれる水が地中に吸い込まれてしまうところもあったというから、40日はどう見ても無理で、やはり3年という方が当たっているのではないかと思われる。
 流れの傍らには広い道路が走っているところが多かったが、場所によっては公園のような静かな所を通ったり、水車が設けてある所もあったり、武蔵野らしい雑木林の中を流れたりしていた。流域には桜が咲いているところも多かったが、川の畔には紫色のきれいな花が多く咲いていた。家に帰って調べてみると、花大根というらしい。名前は余り可愛くはないが、すみれに似た花で、水の畔を彩る姿はなかなかのものだ。
 最後の(実際は「起点」であるが)玉川上水との分岐点は小平監視所といわれておりで、西武拝島線と多摩モノレールが交差する玉川上水駅の近くである。昔はどうだったか知らないが、今は巨大なコンクリートの施設で、上流から流れてきた玉川上水が、本流と野火止用水の二本の流れに分割され、そこからそれぞれの流れとなって行くのである。
 野火止用水を下流から遡って行くと、途中に西武鉄道の駅がいくつもある。西武池袋線の清瀬、西武新宿線の久米川、西武多摩湖線の八坂、西武拝島線の東大和と最後の玉川上水である。実は今回は初めから野火止用水を完走しようというまで心が決っていたわけではなく、自分の足の疲れ具合でどこでも電車に乗れるようにしようと考えていたのであるが、結局は最後の玉川上水分岐点まで辿り着いたのである。
 玉川上水の小平監視所の少し上流の橋の辺りは水流も多く川幅もかなり広かったが、岸辺から満開の桜の花が水面を覆いつくすように咲いていて、旅の疲れをいっぺんに癒してくれた。


 立岩正義(商会)
  
 「エルトウールル号」の遭難事件

 竹田恒泰氏が彼の著書「日本はなぜ世界でいちばん人気があるのか」(PHP研究所)のなかで、感動的な話を紹介しています。それはオスマントルコ軍艦「エルトウールル号」の遭難事件です。長い引用ですが、会員各位にご紹介したく投稿します。(私は5~6年前、新聞に投稿されていた日本とトルコ両国の友好関係に関するトルコ大使の談話を読んでこの話を知っていました。)

 日本の外交の歴史で、これほどの美談が他にあったろうか。明治23(1890)年に和歌山県串本町沖で沈没したオスマントルコ軍艦「エルトウールル号」の遭難事件は、日本ではあまり知られていない。だが、トルコでは社会科の教科書に必ず紹介されている有名な事件で、日本とトルコの友好の証として、120年の時代を経た今もトルコ国民に記憶されている。
 明治23年に特使のエミン・オスマン・パシャ提督率いる使節団が日本に派遣された。使節団は宮中で歓待を受け、明治天皇にオスマントルコ皇帝からの親書と勲章を献上した後、横浜港を出発し、本国を目指した。
 日本国政府は、老朽化した同号に不具合が生じていたことや,台風の時期にあたることから、帰国を延期するよう助言したが、一行は本国からの通達を理由に出発してしまう。これが運命の分かれ道となった。
 出航から2日たった9月16日の夜半、紀伊熊野灘に差しかかった同号は、北上中の台風の中心に入り込み、紀伊大島の樫野埼付近の岩場に座礁。そして、船底から浸水して機関が蒸気爆発を起こし、午後9時30分頃沈没した。この遭難事故で生還したのはわずか69名のみ。提督をはじめ約500名もの命が失われた。
 外国船の遭難を知った地元住民は、夜を徹して生存者の救助と手当てに尽力した。翌朝には地元の村長が関係官庁に連絡し、医師派遣を要請、さらには各戸1名の人手を出すように指示し、多くの村民たちが生存者を看病した。紀伊大島は貧しい島で、しかも、台風の影響で漁に出られず、島民は食べるものにも困る状況だったが、非常食として飼っていた鶏などの食料や、浴衣などの衣料を持ち寄り、遭難者に分け与えたと伝えられる。
 『明治天皇紀』によると、この報せをお聞きになった明治天皇はおおいに驚かれたという。天皇は即日、遭難者救助のために海軍の通報艦「八重山」を現場に派遣あそばされ、皇后は日本赤十字社を通じて医師と看護婦を随伴させられた。
 そして、八重山の乗組員と島民は、収容した遺体を埋葬し墓標を立てた。その後生存者たちの体力が回復すると、明治天皇は、軍艦「比叡」と「金剛」の2艦をオスマントルコに派遣し生存者たちを母国に送還することを命ぜられた。生存者69名を分乗させた2艦は、明治24(1891)年1月にイスタンブールに到着した。盛大な歓迎を受けたことはいうまでもない。しかも事件の翌々年には、民間で集められた義捐金が届けられた。
 しかし、日本とトルコとの友情の物語にはまだ続きがある。遭難事件から95年の月日が流れた昭和60(1985)年のことである。イラン・イラク戦争の最中、イラクのサダム・フセイン大統領は3月20日午後2時(日本時間)以降、イラン上空を飛ぶ航空機をすべて撃墜する旨の声明を発した。
 各国は軍用機や民間機のチャーター便を派遣して自国民の保護に努めたが、日本は自衛隊を海外派遣できないうえに、政府が日本航空に救援機の派遣を求めるも、同社の組合が安全性を理由に反対したことで、日本人の保護ができない事態に至った。(この時すでに日航はおかしかった!―投稿者の慨嘆)
 そこで、イランに駐在する野村豊大使が困り、在イラン・トルコ大使のイスメット・ビルセル氏に相談したところ、なんとトルコが救援機を派遣して日本人を救出することになったのである。このとき、トルコ大使は「トルコ人なら誰でもエルトウールル号遭難事件の際に受けた恩義を知っています。ご恩返しをさせていただきましょう」と語ったという。
 そして、ほんとうにトルコ航空の飛行機2機がテヘランに派遣され、215人の日本人は全員救出、トルコ経由で日本に帰国できた。日本人を乗せた救援機がイラン領空を抜け出したのは、期限の1時間15分前。少し遅れたら、撃墜される可能性もある危険な飛行だった。救援機の派遣を決めたトルコのトルグト・オザル首相(当時)は、他国民を助けるために、自国民を危険にさらす決断をしたのだ。


 倉田隆次(法・法)
  
  東日本大震災復興支援ボランティアに参加して

 年齢とともに、涙腺の締りが弱くなり大震災当初の被害報道を目にするたびに涙を禁じえませんでした。阪神大震災の際、大学生だった姪は、支援ボランティアに参加してくれました。神戸出身の小生にとり、とても嬉しいことでした。
 今回、日赤から復興支援ボランティア参加の呼びかけがありました。応じることにしたのです。平成7年に日赤千葉支部防災ボランティアに登録し、救急法その他、各種訓練・研修を重ねてきました。日赤との係わりは、年齢オーバーで献血が出来なくなるまで101回の献血を続けたことです。「金色特別社員章」を頂いています。
 6月23日、10:00に東京の日赤本社前を日赤のチャーターバスで出発しました。東京近県各地から集まったボランティア24名です。何故か明治学院大学の学生6名が参加していました。その中には、スイス人の男子留学生1名、フィリッピン人女子留学生1名も含まれていました。仙台市内の日赤宮城支部に到着したのは、17:00でした。同夜は、支部の会議室の床に持参の寝袋で就寝しました。
 参加条件は、自己完結型です。寝袋、4日分の携行食、防塵マスク、ゴーグル、ゴム手袋を各自持参です。ゴム長靴、ヘルメットは借用可でしたが、釘を踏み込むと破傷風の危険があるので、皮底のブーツを持参しました。6:00起床と同時にかなり離れた場所にあるコンビニで昼食のおにぎりを購入し、リュックに詰め込み、6:50日赤が手配のレンタカーで東松島市のボランティアセンターに向かいました。所要時間は、1時間半でした。センターには、全国各地からボランティアが集まっていました。センター開所は、9:00です。
 センターに寄せられた作業要求に従い、作業現場が配分されるのです。瓦礫処理もありましたが、一番多いのは、住宅地の側溝の泥上げでした。悪臭に耐え、防塵マスク、ゴーグルをつけての作業は、決して楽ではありませんが、住民の感謝と喜びの声は疲れを吹き飛ばして呉れました。今も、充実感、満足感の余韻に浸っています。全国各地から集まってきた若者の純粋な奉仕の精神に感動を覚えました。
 大震災から3ヶ月が過ぎた今も陸地に流された船が残されていました。さながらゴーストタウンのような壊れた住宅が並んでいました。テレビで見る映像と現実の乖離を感じました。


 宮本常子(文哲) 

    ペリー来航の地・浦賀を歩く

 6月12日、「柏市歩こう会」の催しで、横須賀市浦賀のペリー公園、燈明堂を巡る道程9キロを歩いた。
 柏から久里浜までは電車で約2時間かかる。余裕の時間も出来、歩く事の必要性を自覚した年配の人の参加が多いように思う。何回かのトイレ休憩を除いては、話しながらも皆一目散に歩いている。足並みが割りと早いのに杖をついて参加している人や伴歩者を伴った目の見えない人が2組位いて、歴史的、文学的説明の看板の前では説明を読んでもらっているのが聞こえる。
 今回は天気も良かったせいか、参加者が158名あった。参加者は柏を中心に松戸や船橋、東京からも来ている人もいるというから驚いた。
 柏駅では、役員に費用(保険代を含む¥300)を払い、行き先の経路(鉄道)や歩く場所の地図を説明したプリントをもらう。そこには、役員の携帯番号も書いてあるので安心である。ホリデーパス(往復¥2,300)を買い求める。飲み物と昼食は持参する。集まった人のみで行くので、前もって予約の必要もなく、費用も安く、気が楽である。毎回100名から200名参加するのもこの気安さも手伝っているように思う。
 久里浜駅下車、神明公園で歩き始め式(説明)があった。前回は谷中、根津、千駄木を歩いたが、参加者が264名だった事、前回に集めた震災の義捐金が皆さんのお陰で20万円集まったとの発表があった。今回は、先ず「くりはま花の国」へと向かった。
 約57haの広大な花咲く緑地である。坂を上っていく途中3両編成くらいの可愛いいフラワートレインに出会って皆盛んに手を振る。ポピーの花が一面に咲いていて、つばき園、ハーブ園、冒険ランドや展望台もある。
 我々はハーブ園へと向かった。数種類のハーブが植わっていて、温室もある。そこが昼食場所となったので、それぞれに食事場所を探して歩き、屋根のある場所に座った。4~5人の仲間で話しながらおやつの交換をしたり、気の置けない仲間との楽しいひと時である。
 次は、ペリー記念公園へと向かう。ペリー公園には、明治34年に建立した「ペリー上陸記念碑」や横須賀が市制80周年を記念して建設した「ペリー記念館」がある。ペリー記念館には浦賀に来航した4艘の黒船やペリー提督の銅像など貴重な資料が展示されている。
 日本の鎖国が遠い昔(1853年7月)に破られた記念館だと思うと、(前に一度来てはいましたが)何回見ても興味深く感じました。
 ペリー公園を出て、ペリーに思いをはせながら久里浜の海を眺め、一直線に歩き、途中で住吉神社へお参り。神社の階段を下りようとした時、「あなた、どこかで見かけたわね。貴女も私の顔に見覚えあるでしょう!」と話しかけられた。その女性の顔をマジマジと見る。確かにどこかで会った顔だ。25年程前に3年間、青少年相談員(ボランティア)で一緒だった人だと思い出した。懐かしかった。その内、彼女が私の名前を思い出してくれた。
 その神社からまたしばらく歩き続け、右折して高台へと登っていく。高台に着くと、その高台からは海が一望出来、ゆったりとした気分になれる。そこには、1648年から1878年(明治5年)まで浦賀港の入り口にあって浦賀水道を照らし続けたという燈明堂跡の説明看板があった。風光明媚な高台に燈明堂が復元されている。
 しばし休んで穏やかな海を眺める。登ってくる時に出会った猟犬を連れた人も犬と一緒に休んで海を眺めている。海辺にいたスイミングスーツを着た人は気がつくとはるかかなたでもぐっていた。
 そこから、また久里浜駅に引き返し帰りの家路に着いた。 (写真上:ペリー公園、下:燈明堂)


 倉田隆次(法・法)
  
  「小型船舶操縦免許証」の更新について

 前回は、「後期高齢者」の「自動車運転免許証」について拙稿を寄せた所、会員から反響を頂きました。今回は、これと対照的にのどかな表記免許証の失効、再交付についてご紹介しましょう。

 私は、昭和61年7月に運輸大臣発行の「海技免状」4級小型船舶操縦士(現在、2級と変更)の資格を取得しました。趣味のアマチュア無線傍受中に機関故障で漂流しているプレジャーボートのSOSをキャッチしたことがこの免許に関心を持ったきっかけでした。
 よくは覚えていませんが、数日間の講座を受講、5人乗りボートの操縦訓練を受け、実技テストがありました。費用は、当時で5万円前後だったのではと思います。
   

 何回か免許の更新をしましたが、平成19年7月の更新は、忘れてしまったのです。そんな時、別添の様な千葉市からの広報紙で失効による再交付が可能なことを知りました。
 自動車の様な「認知症テスト」も「実技テスト」もありませんでした。視力検査、簡単な身体検査、3時間の講習受講だけでした。手数料、印紙代等、計16,000円の納付で「国土交通大臣」発行の免許が、再交付されました
 この免許で水上バイクと20トン未満、長さが23メートル未満の船を沿岸から5マイル(9キロ)内での操縦が可能です。でも、その可能性はなさそうです。
 


 立岩正義(商会)
  
    東日本大震災 

 先程、NHKテレビ1の番組「震災1ヶ月.被災地は今」(平成23年4月11日午後2時5分~3時)を見ました。そして2時46分、北に向かって黙祷しました。
 東日本大震災が起きてから1ヶ月になります。突然の巨大地震や大津波は、27,000人(死者及び行方不明者、10日現在警察庁まとめ。4月11日朝日朝刊)以上の尊い命、それに多くの人々の家屋・家財そして働く場所を奪いました。電気、ガス、水道の出ない不便で劣悪な避難所生活を強いられ、先行きの見通せない、言いようのない不安に苛まれている人々も少なくありま せん。心からお悔みとお見舞いを申しあげます。
 政府がやらなければならない仕事は、原発事故の対応など山ほどあるでしょうが、先ずもって、国内はもとより海外からも1日も早く1棟でも多くの仮設住宅を調達し、不自由な避難所生活を余儀なくされている被災者にそれを提供する事だと思います。
 幸い被災を免れた私達は義援金(未だ義援金が被災者に配分されていないというのは、どうした事だ!)を送りましょう。「増税」を受け入れたり、「こども手当、高速道路の無料化、農家への所得補償」などを見直して復旧・復興財源にするよう各新聞社の投書欄などに訴えるのも一つの方法かと思います。
 正に、明治維新、敗戦に続く第3の国難に遭遇している今日、「国を、組織を、人々をよりよい方向に牽引し、安定させられるリーダー」(4月6日、日経夕刊「明日への話題」、内館牧子氏)がいないのは誠に残念であり、不幸な事です。もしも今日の首相がかって長期政権を維持したような強力なリーダーであったなら、どのような組織を立ち上げ、官僚をはじ全国民の英知を結集し、指導力を発揮されているだろうかと思うのは、小生だけであろうか。彼等のような強力な指導者が今日の首相であって欲しかった。
 最後に、4月10日の「朝日歌壇」(朝日新聞、朝刊)に掲載された歌3首をご紹介します。 

  ・ 避難所の人みな人を気遣いぬ人とはかくも美しきかな (小松市)沢野 唯志氏
  ・ 薄氷を踏みいる如き幸せと思い知らさる原発の事故 (佐野市)広瀬 恭子氏
  ・ 姿見ぬ人に二種あり原発の内部作業者、最高責任者 (高槻市)奥本 賢一氏

 余談ですが、私は3月10日から13日にかけて愛知(一宮)、兵庫(神戸・明石・加古川)を小旅行中で大地震を経験しておりません。予定通り無事に我が家に帰宅しました。
 


  三沢充男(法・法)
  
      法典論

 平成22年の白門43会総会で、母校中央大学の総長・学長であり、白門43会員でもある永井和之先生が講演され、その中で中大の前身である英吉利法律学校の創設者の一人である穂積陳重博士のお話をされました。穂積博士は明治維新後の第1期海外留学生としてイギリスに渡航され、1年間の留学生活でミドルテンプルのバリスター(法廷弁護士)という難関の資格を得られ、その後さらにドイツに留学され我が国の民法の基礎を作られたとのことでした。
 私は長い役人生活の中でかなりの部分、法律や政省令の立法作業に関わってきました。そのとき座右にあったのが穂積先生の「法典論」でした。永井先生をはじめ、裁判官や検事経験者、弁護士など法曹界のお歴々が多数おられる白門43会でこういうものをご紹介するのは誠に僭越極まりないのですが、ユーモアに溢れた例えも面白いので敢えてここにご紹介させていただきます。今の時代から見ると些か適正を欠くような表現も見受けられますが、先人の原文をそのまま(ふりがなは筆者)掲載させていただきます。

   法律に實質及び形躰の二元素あり、一國の法律は、果して國利を興し、民福を進むべき條規を具ふるや否やの問題は、是れ法律の實質問題なり、一國の法令は、果して簡明正確なる法文を成し、人民をして容易(たやす)く權利義務の在る所を知らしむるに足るや否やの問題は、是れ法律の形躰問題なり。
 法律の實質は善良なるも、若し其形躰にして完美ならざれば、疑議百出、爭訟熄(や)まず、酷吏は常に法を曲げ、奸民屡々(しばしば)法網を免るるの弊を生ぜん、法律の形躰完備せるも、若し其實質にして善良ならざれば、峻法酷律をして倍々(ますます)其蠧毒(とどく)を逞(たくまし)ふせしむるの害あらん。
 或る人、實質美にして形躰具はらざる法律を喩(たと)えて、多病の才子となし、形躰完備して実質善良ならざる法律を喩えて、妖婆の毒婦となし、實質形躰兩つ乍ら備らざる法律を、不具の痴漢に比したり。
 蓋(けだ)し、實質は法律の精神なり、形躰は法律の体躯なり、故に一國の法律をして金科玉條たらしめんとせば、實質形躰倶に備らん事を立法者に求めざる可らざるなり。
                                (穂積陳重「法典論」より抜粋)

 穂積先生は東京帝国大学の法科大学長、帝国学士院院長、貴族院議員を歴任され、晩年には枢密院議長を務められました。


 倉田隆次(法・法)
  
   運転免許更新の高齢者講習

運転免許証を更新する場合、70歳を過ぎると事前に公安委員会指定の自動車教習所で『高齢者講習』を受けなければなりません。更新日付けの約6ヶ月前に公安委員会から講習案内が届きます。受講料は、6,000円です。
 この件について、皆さんに忠告したいのです。案内が届いたら、できるだけ早く講習の予約をして下さい。更新の6ヶ月前から受講できるのです。小生は、誕生日直前に講習を申し込んだところ、千葉市内の教習所は全部満員でした。運転免許センターに問い合わせた結果、船橋市内の教習所を紹介してくれました。講習を受けに行って、満員の理由が分かりました。 講習は、6名で1グループ、1日2グループで毎日は行われていません。
 受講の所用時間は、12:30~15:50の3時間20分(ブリーフィング、休憩時間を含む)でした。以下は、講習内容です。

①予備検査(認知機能検査)~約30分
 解答用紙が配られ、本日の年月日、現在時刻を記入します。次は、4ッの絵を描いた4枚のパネル(計16個)の絵を順番に見せ、今見た絵を解答用紙に記入せよ。その次は、白紙に時計の文字盤を描き、指示された時間に短針と長針を描きます。
②運転適正検査~約30分
 シュミレーターによる運転操作、画面に表示される信号に従いアクセルとブレーキ操作。
③実車の運転~約60分
 車は、総てオートマチック車でした。1両に受講者3人が乗車します。助手席の教官の指示でコースを走行します。S字カーブ、車庫入れ、段差路走行等です。
④視力、視野検査~30分
 静止、動体視力、夜間視力、片目、両眼の視野検査

 以上の検査を終了すると『高齢者講習終了証明書』が発行されます。これが無いと免許証の更新が出来ないのです。

* 小生は、高卒後10年を過ぎてから夜間部の門を叩きました。大部分の43会の皆さんよりもほぼ10歳、馬齢を重ねています。43会の仲間にも、そろそろ70歳以上の高齢者の方が散見されますので、参考までに拙文を寄せました。=受講申し込みは、お早めに!!


  倉田隆次(法・法)
  
   痔の手術で感じたこと

 快眠、快食、快便は、健康の3要素だそうです。尾篭な話ですが、長い間、排便に苦しんできました。そう「地主」ならぬ「痔主」だったのです。43会の仲間にも「痔」の手術をした人を何人か知っています。同病相哀れむ仲なのです。
 この辛さは、「痔主」でなければ分からぬ辛さなのです。酒、コーヒー、カレー等刺激の強い食品は、良くない様です。不幸にして、これらの食品は、総て大好きなのです。
 若い頃、勤めていた印刷会社の社長と今もお付き合いをしています。その社長が、直腸ガンを手術し、人工肛門を付ける身になりました。その社長から忠告されたのです。「痔主」なら先ず、専門医の診察を受けなさい。ついでに大腸の内視鏡検査を受けることと脅され(?)、専門医の門を叩きました。受診に行き驚いたのは、待合室は、患者で溢れていました。流石は、名医で有名な医院だと感心しました。 
 大腸の内視鏡検査は、異常無しでしたが、「痔」は、3個の「内痔核」があるので要手術と診断されました。結局、昨年4月に10日間、入院し手術を受けました。
 たかが「痔」の手術と思われるでしょうが、当事者にとっては、大変な手術でした。これもやった人のみぞ知るです。入院中は、43会の佐藤 勝氏、芝木雅基氏のお見舞いを受けました。参ったのは、看護婦の一人が、両氏と踊りの趣味仲間だったことです。
 肛門科の受診は、場所が場所だけに敷居が高いようです。でも、43会の隠れ「痔主」さん!是非、早期受診をお勧めします。入院患者は、男性よりも女性が多い様でした。
 病室は、約10人が入れ替わり入退院をするのですが、男性の病室は、ほとんど会話が無く静かでした。女性部屋は、初対面同士のはずですが、賑やかに会話が続いていました。やっぱり、男性よりも女性は、社交性、環境適応能力が高いのを感じました。笑いを誘ったのは、入院患者のロビーに「お尻会い帳」と書かれた患者の感想文書き込み帳が置いてありました。
 1年半経ったいま、昔のことが、噓の様な「快便」生活を満喫しています。受診を忠告してくれた社長と医師に心から感謝しています。


 立岩正義(商会)
  
    愛犬シェリーの死

 愛犬「シェリー」(雌14歳、シェルティー)は、平成8年4月24日岡山市でこの世に生を受けました。そして、同年6月17日我家の家族(娘or孫として)となりました。その最愛の家族が、平成22年6月17日11時50分、千葉市内の動物病院で永遠の眠りにつきました。(嗚呼!)彼女はこの14年間、私たちにかけがえのない至福をもたらしてくれました。「シェリーちゃん、ありがとう!」この一言に尽きます。
 我が家での生活に馴染んできた頃、平成9年1月14日早くも不妊手術を強いることとなり、かわいそうなことをしました。(ごめんね。)
 また平成10年の春先のある日、妻と一緒に近くの県立「青葉の森公園」でフリスビーを遠くへ投げて遊ばせているとき、左足を骨折させてしまいました。(不注意だったよね、ごめんなさい。)
 3歳になって間もない平成11年の夏場、私が同公園でいつものように散歩させているとき、突然立ち止まり散歩を拒否したのです。無理やり散歩を続けようとしても踏ん張って動こうとしません。何度もこんなことが続き、これはおかしいと思い上記の動物病院で受診したところ、先天的に心臓に疾患があると告げられ、とてもショックを受けました。ついこの前のことのように鮮明によみがえります。
 ヘルニア等の手術のため、平成20年12月1日~5日の5日間、平成21年6月9日~12日まで4日間入院しました。(痛みに耐え、よく頑張ったよね。)
 そして、15日午後「胸部腫瘍切除」のため、高齢を押して手術するかどうかの難しい判断を迫られ、家族で相談した結果、手術を受けることに決めました。動物病院側は、最強のスタッフで手術を行い、術後も万全のバックアップ体制で対応してくださいましたが、薬石効無くこの日を迎えました。
 シェリーは寂しがり屋で独占欲の強い子で、誰かが出かけるときは、玄関先で激しく吠え、「行かないで!」と訴え続けました。また、彼女は私達の帰宅時間を心得ており、誰かが帰って来ると優しく吠え、尻尾を振り、身体を摺り寄せ、顔を舐めようと精一杯の好意、愛嬌をふりまいて、歓迎してくれました。
 私は定年後毎日彼女と「青葉の森公園」を散歩し、妻子は毎日ブラッシングするなど愛情を注ぎました。シェリーは私達の愛情を一身に受け、幸せな日々を送っていたものと確信しています。毎月1回のシャンプーも楽しみにしていました。
 お通夜は17日でした。シェリーは買ってあげたばかりのピンクの素適な洋服を身に纏って安らかに眠っていました。また彼女の枕もとには遺影、二つの生花、大好きなメロン、シャンプー後そのお店のお姉さんにつけてもらった数々のリボン、おもちゃなどを供えていました。シェリーに頬ずりすると、顔、胸、腹、背中、四 肢は未だ硬直もなく柔らかくて、甘やかな香りが残っていました。
 18日の午後、荼毘に付しました。そのとき、動物霊園関係者に遺体の美しさ、柔らかさを絶賛され、報われた気分に浸りました。名残は尽きませんが「シェリーちゃん、さようなら!」 ご冥福を祈ります。
 急遽、リビングの出窓を祭壇として「お骨」と「遺影」を安置し、水や好物を供え、頂いた生花を飾っています。(合掌)

 <余談> 娘の洋子は、19日「ペットロス症候群」を発症し2泊3日の入院を強いられるほどのショックを受けました。(21日退院)  (了) 


 立岩正義(商会)
  
     強風一過 

 3月21日(日曜、春分の日)の明け方、千葉市では最大瞬間風速38mという強風が吹き荒れました。
 この強風のため我が家のテレビアンテナは横倒しとなり、今にも屋根からずり落ちそうな危険な状態に陥りました。このアンテナは27年前に設置したもので古いことは古いのですが、周りを見回したところ倒れているのはこの代物だけで違った意味でショックでした。悪いことは重なるもので、使い方が拙かったのかまだ3年 しか使用していない電子レンジが、ショートし使用不能となってしまいました。
 視聴できるのはNHK・BS放送の2チャンネルだけとなり、とても不便です。その日のうちに家電量販店に赴き、デジタル放送受信用テレビ、アンテナ及び電子レンジを購入する羽目となりました。壊れたアンテナを撤去し、新アンテナを取り付けられるのは、業者の都合で早くても24日の水曜日、雨天の場合その日以降とのつれ ない返事。
 ところで、我が家の敷地の隣りは賃貸アパートの駐車場があり、そこにはトヨタのクラウン、ホンダのハイブリッド車・インサイト及びマツダのベリーサが整列駐車しています。強風の余波がまだあるなか、屋根に横倒しとなっているアンテナが転落していつ駐車中の車を直撃するか分かりません。クラウンの所有者とは連絡 が取れず、車の移動が叶いません。一時、外へ出てアンテナが転落してきたら振り払おうと、バットを持って待ち構えていましたが、無駄な抵抗と思いしりやめました。居ても立っても居られない気持ちを鎮めるのは容易ではありませんでした。(今の私には賠償責任能力ゼロ)
 22日(月)の朝、妻が「室内照明灯や換気扇の交換を依頼した『町の電気屋さん』に頼みましょう」と良いアイデアを出してくれました。事情を説明したところ、電気屋さんはすぐ対応してくださいました。ありがたかったですね、正に安堵の胸をなでおろしました。
 急病のときもそうですが、緊急の時にすぐ対応してもらえるというのは本当にありがたいことです。つくづく痛感しました。


 峯岸修三(理化)
  
    ボランティア活動

 昨年の11月に四街道のウクレレサークルの一員として近所の老人ホームのホーム祭に参加しました。今回は、ホームに勤めている方がフラダンスのグループに入っているとことから、フラのバック演奏を付けてほしいとの要請を受けました。
 フラの時間とウクレレ演奏の時間をとりまして、約1時間半で明るい祭りの一部を構成することができ、ホームの方々はもちろん、参加者全員が楽しい時間を持てました。
 ウクレレサークルメンバーの年齢は65歳を優に超え、ホームにお世話になる?の方が近いのではとの冗談を言いながら、自分たちの娘のような若いフラのメンバーの明るい笑顔に後押しされて、張り切って演奏を披露してきました。
 われわれの出番は午後一番のため、演奏前にホームで用意してくれた、おにぎり、サンドイッチ、ケーキなどで腹拵えを十分にして、万全の体制で臨みました。こういう演奏会ならたびたび伺いたい。
 ウクレレプレイヤーは余裕があれば、笑顔で唄も演奏も出来ます。特に、フラのメンバーが笑顔で踊る姿は、気持ちを明るくする妙薬と思いました。認知症の方もおられたが、懐かしい昔の曲にはリズムを取っていたのが分かりました。
 健康で演奏活動が出来ることに感謝をして、次の機会も参加をすることとしました。


 原 健作(商経)
  
      湯島天神

 我が家の庭の梅の花を見て、ふと湯島天神に行ってみようと思い立ちました。
 JR西日暮里駅で地下鉄千代田線に乗り換え 湯島で降りて3~4分。やや緩やかな女坂の階段を上り境内に着くと、さまざまな梅が競い合って春を歌っておりました。
 白い梅が主流ですが赤い花やピンクの花。一重の花も有れば八重も有り、また形が小振りの花も有りました。中には既に花びらが散ってしまった木や、まだ蕾で「これからだよ~」なんてゆっくりと周りの様子を見ている木もありました。事務所でお守りやお札などを売っている巫女さんに聞いてみると、木の種類はなんと13種類ほど有るとの事。「そんなに有るのかっ!」と、びっくり。
 紙コップの甘酒を一杯買い、「さてベンチにでも座ってゆっくり眺めるか!」と思ったところ、ベンチは既に先客でいっぱい。なんと一人で来ているのは 私とカメラを持ったご老人だけ。恋人達や、老人仲間、そして学生さん達が受験合格のお礼に大勢来ておりました。
 甘酒を立ち飲みし、早々に退散しようと 薄暗くなって来た境内を 今度は急な男坂の階段に向かいました。口の中にはまだ甘酒の味が残っており、家の近くで一杯やるか、ここらあたりでやることにするか、階段を降りながら思案。
「よし、境内から出て最初の店に入ろう」と心に決めました。
 ところが、最初の店の看板に急ぐと なんと!《甘いもの屋》さん。これにはガックリ!
 その先を見ると 《酒席・太郎》なる大きな看板が見えました。開店には少し早い時間でしたが、ドアを開けて「いいですか~?」っと聞くと、若い青年が「ん・・・どうぞ!」
 女将さんがもうすぐ帰って来るとの事でしたが、その女将さんの話が又びっくりなのです。話が長くなりますので結論を云いますと・・・。
 人間国宝で旭日小授章受賞者・講談の一龍斎貞水さんが、この女将さんのご主人だったのです。一龍斎貞水と云えば、顔の下からライトを当てて『うらめしや~』とやる、あの立体怪談の貞水、いがぐり頭の貞水さんです。
 と云う訳で この日は、梅の香りと姿を満喫し、階段を降りて 又、怪談話。結構な一日になりました。


 立岩正義(商会)
  
 拾ったり拾われたり―拾得届と紛失届

 12月5日(土)、愛犬「シェリー」(雌、13歳)を自転車籠に乗せて、いつもの散歩コース、「県立青葉の森公園」を目指しました。
 犬の散歩を終えて、ポケットの中をいくら探してもその鍵が見つかりません。あわてました。老犬と散歩した道をもう一度歩いて探しましたが見つかりません。間が悪く、犬の大便を処理するポリ袋と鍵を同じポケットに入れていたため、袋を取り出した時こぼれ落ちたようです。やむなく管理事務所に立ち寄り、紛失届を提出しました。歩いて家に帰るのに20分かかり、愛犬に負担をかけてしまいました。
 翌日、管理事務所からの電話で、子供さんが鍵を拾い、庭園管理をしている人を通じて届けてくれた事がわかりました。ありがたかった!しかし、彼の連絡先が分からず、お礼を言えませんでした。
 12月12日(土)、宍倉邦茂氏の告別式に参列するため、川口に行きました。式場の案内図はパソコンから出力していました。JR川口駅から徒歩12分という案内を見てバスに乗る事にしました。せいぜい5分も乗ればバス停「栄町1丁目」に着くだろう踏んでいたのになかなかコールされません。バスはへんぴなところを走って います。行先を確認してバスに乗りました。たまらず運転手に聞くと、そのバス停は反対路線の川口駅に向かう路線しかないとのこと(一方通行)。そのため告別式に遅参、愕然とするやら腹が立つやら。
 告別式終了後、そのことを若い担当者に怒気を含んで話すも、真っ当な詫びが返ってこず余計腹が立ちました。家に帰って件の案内図をパソコンから出力するとしっかり訂正されてはいましたが。(せめてもの救い)
 告別式の帰り、駅前近くでブランド品ぽいポーチを拾得し、「川口駅前交番』に届出ました。まだ名乗り出た人はいません。その足で上野で下車して「東京都美術館」で開催されている「清興展」に立ち寄り、鹽野さんの作品を見ました。(白門43会HP「会員の動向」上の三沢氏投稿文参照)
 12月17日(木)11時50分頃、散歩の途中財布を拾得しました。中には現金1,000円のほかに運転免許証、銀行のキャッシュカード3枚等が入っていました。最寄りの交番に届けました。12時30分頃交番に行くとまもなく紛失者が来ました。丁重に礼を言われ、ちょっぴりいい気分を味わいました。(川口とは大違い)


 倉田隆次(法・法)
  
  「投票立会人」2回目の体験

 8月30日の総選挙が終わってから2ヶ月半になりました。選挙結果の政権交代で、新政府の動向が、連日かまびすしく報じられています。
 私は、この選挙で、千葉市花見川区の選挙管理委員会から「投票立会人」に選任されました。前回選挙に続きこれで2回目です。「投票立会人」は、町内会や自治会の推薦によるようです。選管から投票日の10日前に別紙(部分)の様な選任状が届きました。
 仕事の内容は、定められた時間内を投票箱の前に座り、投票に立ち会うわけです。今回は、最高裁判事の国民審査もありましたので小選挙区と比例代表の計3個の投票箱がありました。投票箱を間違える人もいるため注意喚起をしてあげねばなりません。
 私の選挙区は、投票率の悪いことで定評があります。所が、今回は、少し様子が違いました。子供ずれの女性が、次々と投票所へ足を運んだのです。
 午後8時の投票締め切り時間になると、選管の手配したタクシーが投票所玄関に到着し、投票箱の積み込みを待っていました。私の勤務時間は、午後8時までとなっていました。
 責任者から、開票所へ投票箱を運ぶのにも立ち会ってほしいと要求されました。責任者と投票箱をタクシーに積み込み開票所へ向かいました。タクシーのラジオは、○○党××当選確実と放送しているでは、ありませんか!投票が終わってまだ1時間も経っていないのです。しかも投票箱は、まだここにあるのです。出口調査の結果なのでしょう。何か釈然としない思いでした。この投票箱を運んだ後、そのタクシーで自宅まで送られました。
 報酬5,350円、夕食代840円 計6,190円がこの日の手当てでした。


 立岩正義(商会)
    

  千葉・佐倉をめぐる日帰り旅

 平成21年10月10日(土)、倉田隆次、佐藤勝、芝木雅基の各氏及び私は、昨年「留学生との集い」で知り合い、今年もご一緒した中国人留学生、王萍(おうへい)さん(写真右から二人目)と彼女の友だちを交えて「千葉・佐倉をめぐる日帰り旅」を楽しみました。
 王さんは来日前、中国・大連で2年間日本語を勉強し「日本語能力試験」の1級に合格しました。2004年武蔵野学院大学に入学、さらに2008年中央大学の大学院に入学し、目下「博士課程」をめざして奮闘中の才媛です。彼女を励ますため企画したのが今回の旅です。
 さて、当日は午前中一時小雨がぱらつく中、先行きを心配しましたが天候に恵まれ、先ず「国立歴史民族博物館」を案内しました。ここは丸一日かけても飽きないほど展示物が多いのですが、駆け足で見学を済ませました。
 幸運にもこの日は「さくらまつり」が催されていました。神輿が繰り出し、コンチキチンの鐘の音や太鼓の音を耳にしつつ、焼きそばやたこ焼きなどの匂いが充満する目抜き通り(?)を談笑しながら散策しました。
 次に、昔のまま保存されている「武家屋敷」に赴き、格式の違う三つの屋敷を見学しました。ガイドさんの説明がこなれていてその違いが良く分かりました。
 最後は、佐倉駅前の居酒屋で歓談し、王さんの受験合格を祈念して乾杯し、あわせて合格祝いのための再会を約してお別れしました。
 翌日、王さんから感謝のメールが寄せられ、嬉しかったことを付言します。


 宍倉邦茂(法・法
  
  曼珠沙華(彼岸花)を鑑賞して想うこと

 曼珠沙華は、日本の農村では、毒草と代々伝承され、事実上採集を禁じられていた。しかし曼珠沙華は、日本の固有の種では無く外来種であり、わざわざ祖先の人々が、墓地、川沿いの土手、田圃の畦道、神社の境内など人里の中に植えたものだと聞いたことがある。何故、毒草を植え、活用することなく、事実上採集を禁じていたのだろうか。
 日本の農村、特に田園の原風景で思い出されるのは、初春のレンゲ畑、初夏の整然と並ぶ早苗、秋は、黄金色に輝く稲穂。「実るほど頭の下がる稲穂かな」が思い浮かぶ。しかし、何年に一回は「実ることなく、頭の下がる稲穂」と迎えられない飢饉の秋もあったはずだ。
 宮澤賢治の世界を想像して見て、これをダブらせてイメージした光景の中に今回の主人公である曼珠沙華が咲く風景が鮮明に思い浮かぶ。
 埼玉県日高市の高麗の曼珠沙華(彼岸花)を見に行った。高麗川が巾着状に曲がりくねった巾着田の中に真っ赤な花の群生地がある。曼珠沙華(彼岸花畑)を中に入り散策路を散策する。曼珠沙華は、桜と同じように葉が無いため言い古された言い方では巾着田の川沿いに沿って一面に真っ赤の絨毯を敷き詰めた様は素晴らしい。この風景は、小生が二年程前手術後の死の境をさまよい、臨死体験をした際に夢の中に現れた此の世とは思えないお花畑の上に架かる虹のイメージとが重なり、不可思議な感がしないわけには行かなかった。
 曼珠沙華は、彼岸花、天蓋花あるいは幽霊花(歳時記)等の異名もあり、ネーミングのイメージは秋の彼岸の頃に咲くことから彼岸花(曼珠沙華)というだけなのであろうか。それだけでは無いような気がする。つまり、曼珠沙華等の名称は、仏教のイメージである彼岸・浄土に通じる呼び名に通じる趣で大事にされる、一方、平常時には「お前は毒だ」とか「お前(曼珠沙華)は、存在しているだけで良い」と蔑まされ、全くの役立たずの彼岸花が、今まで辛抱強く埴生され続けて来たのだろうか。
 何十年かに一度の大冷害や日照りが続き、土地は、赤茶けたまま、草木は、枯れて実りは全く期待が出来ない。そのような状況が続くと農民は、山野の草木・果実も食べ尽くしてしまい、自分たちが保存していた種にする籾すら食いつぶし、後は、飢えを待つのみの有様になる。宮沢賢治の詩の世界を彷彿されるイメージか。
  
 こんな惨憺たる風景の中にあっても刈り採られることの無かった曼珠沙華だけは、彼岸の頃になると可憐な花を律儀に自己の存在を示すかのように咲き揃う。この時になって、やっと曼珠沙華の真価・存在価値が発揮される時になるのだ。
 農村の古老の意向・判断に従って、毒であると伝承されて来た曼珠沙華の球根を細かく砕き乾燥させる。何回も何回も川の水に晒し、毒気を取り除かれ、非常食になるのだ。農民は曼珠沙華の球根を食べ飢えから逃れ命を救われる。曼珠沙華は、このような最期(「最後)ではない)の非常食にするため、埴生され、生きながらえ、かつ、大変な重責を担ってその時のためだけに役立ちたいと、農村の墓地に、路傍に、畦道に花の咲く頃だけ自分の存在を主張しているよう気がする。
 曼珠沙華を観賞用としての鑑賞ばかりではなく、このようなことを夢想しつつ表面には現れない様々な事象あるいは物事もあり、一面的ばかりに捉えることなくその裏に何が潜んでいるかをいろいろの角度から推理して見ること視野も広がり、老後は金持ちには縁がなく時間持ちの小生もじっと静かに生活し続けるだけでも意味があることなのかも知れない。さらに欲を言えば何かに役に立ち、あるいは自分自身も楽しく過ごせるのではないだろうか。
 最後に駄目押しですが、確か旧約聖書の一節の言葉と思いますが「地の塩、世の光」の箴言も曼珠沙華に相通じるものがあるかも知れません。世の中には、普段私たちが余り気に留めないだけで、曼珠沙華を始め、物質そして人物等がどれだけ多く生存し、存在していることだろう。なんとも不思議であり、有り難く感謝したい気持ちで一杯になってしまいます。
 そんなことを想っている自分を見つめると、些細なことに家族等に我を張って言わなくても良いことを言い、自己主張してしまう己も哀れなものだとしみじみと思いを繰り返す日々を送っている。
 (宍倉さんは平成21年12月9日、ご逝去されました。謹んでご冥福をお祈りいたします)


 宍倉邦茂(法・法
  
    浅草周辺漫歩

親父に連れられ初めて行った浅草は、小学2年のころだった。子供心に電車が頭の上のデパートの上から出て来るのを見てビックリし、花屋敷では、赤鬼の胸にボールが当たると両手を上げ、大きな唸り声で吠え、また、屋敷に装飾された円筒の筒に入り、筒が回転すると着地していた床板がストンと落ちて体が宙に浮いてしまい(?)肝を潰した思い出がある。
 先ず、浅草と言えば浅草寺・三社様だ。浅草寺は、南面している。本堂から仲見世を歩き雷門に向かう。往年の参道は、ここから更に駒形橋の橋詰めにある駒形堂まで続いていたと聞いたことがある。往時の参詣者の多くは、隅田川から舟に乗ってこのお堂の脇で下船し、参拝に向かったとも言われる。このため当時のお堂の向きは、隅田川からの参拝者を迎えるよう川向きに建立されていた。その後参拝者は、徒歩あるいは駕籠による参拝者の増加に応じて街側に向きを変え、今のお堂は、半回転して隅田川を背にして建立されている。
 観音様は、この駒形堂の沖合いの隅田川から二人の魚師が救い示現し、この神聖な場所が参道の入口になっていたようだ。
 隅田川は、浅草の母なる川である。浅草寺の開基は、観音様が隅田川から救いだされ、示現された後、645年つまり世に言う「大化の改新」の時代と伝承され、江戸・東京最古のお寺である。
 駒形堂から雷門までの道筋は、現在では、ビルや商店が建ち並び、下町の風情は老舗の蕎麦屋が目立つに過ぎない反面、雷門を抜け仲見世に入ると風景は一変する。
 仲見世の人混みを縫いながら周囲の店舗を冷やかしながら歩く。鼈甲・象牙、浴衣・半纏の店、扇子、かんざし、江戸風の小玩具の店等の昔懐かしいお店が宝蔵門まで続く。嬉しいことに仲見世にファーストフードやコンビニが無く昔ながらの下町風情が保たれていることだ。当然外国人の観光客も多い。
 宝蔵門を抜け境内に入る。本堂の観音様を参拝し、雑踏を避け御影堂に入り、筆者の守護神のお不動様の前で合掌し、しばし黙祷をする。板東霊場13番の札所の巡拝していた時、この社務所で御朱印を頂いたのも思いでの一つになっている。
 浅草寺の境内には、映画弁士塚、芭蕉句碑あるいは浅草に謂われ・因縁のある人々の碑、塚や像が林立しているのを目にすることが出来ます。このことは、観音様が、浅草の街が浅草っ子はもとより江戸の庶民・民間の人々に親しまれ、深く信仰されている証と言えましょう。
 浅草は年がら年中お祭りだ。浅草の季節は、5月の初夏の風物詩の三社祭から始まる。次いで7月のほおずき市、近くの入谷の朝顔市、盛夏には、江戸時代から続く伝統の隅田川の花火大会もある。8月の旧盆明けには、浅草の雰囲気に馴染まない違和感さえ感じられた浅草サンカーニバルが賑々しく催されている。11月は、時代祭りの行列が繰り広げられ、鷲神社の酉の市、12月は年の瀬の忙しい時の羽子板市が開かれる。我が娘の誕生の時に木枯らしの吹く寒い日に羽子板を求めて以来30年余を過ぎ、今ではその娘も二人の子持ちで筆者は、爺ちゃんと呼ばれるようになった。その孫も今は小学4年生になっている。
 さらに浅草寺の祭事は、新年の初詣、厳冬の針供養と続く。また、仲見世は、歌舞伎役者の襲名披露の御練も賑々しく行われることが多い。
 浅草は、お祭りでない時もお祭り気分で人並みは絶える事はない。「晴れの」日は、あっても「け」の日つまり普段着の日はない街なのだ。しかし、筆者は、三社祭りやカーニバルは、見物行くことはしない。あまりの人混みを恐れて二の足を踏んでしまう。そして後悔することになる。
 しかし朝の早い浅草寺に合わせて仲見世や境内も賑やかさは、夕闇が深まると共に明日を迎えるため静寂の中に帰って行くのだ。
 仲見世をはずれて新仲見世のマルベル堂に向かう。トントンと二階に上がるとそこは、昔懐かしい女優・男優達の美男・美女のプロマイドの世界に入り込む。また、浅草公会堂の前には往年の俳優・歌手・落語家達の手形がはめ込まれているスターの広場もある。
 浅草六区では、最近、小向美奈子がストリップ出演する・しないで週刊誌・夕刊紙で話題になったロック座を横目で見ながら、屋台風居酒屋の道端に置かれた椅子とテーブル席で老若男女が肩を寄せ合いながら酒と乾き物や煮込みを少々注文し、酒を飲んだことも思いでの一駒だ。

 浅草の真の凄さの源は女将さん達である反面、男達は表向き粋がっているものの、女将さんには滅法弱いと思われた。
 この思いを深くしたきっかけは、現役の役人時代の一時、浅草の地場産業の担当をしたことも一因になったかも知れない。在任中は、かなりの頻度で銀座線の浅草駅で降り地場産業関係の組合事務所などに向かう。訪問先は、地元の中小零細企業や組合等の幹部の人々だ。会議に参加する。業界の様々な問題を聞く。一緒になって問題を悩み、解決出来る案件は解決するし、上司に持ち帰って相談する。
 一方、厳しい抗議・要求を突きつけられる事も多い。しかし、我々役人を追い込み、逃げ道を塞ぐようなことは決してしなかった。また、互いに甘えも、もたれ合いも、なれ合いの構造は無く、話がまとまれば、ファインプレイの精神でエールを送り合う。筆者の少ない浅草の経験から浅草っ子の人情の機微を垣間見て、少しは分かったような思い、未だにその当時のやり取りの厳しさ、そして楽しさが脳裡をかすめることがある。
 筆者も地場の産業人との付き合いは「郷にいれば郷に入る」の例えのように、地場産業の振興に少しでも役に立てるために忌憚のない、懐に飛ぶ込む付き合いに心がけた。時には、当然業務・打ち合わせが済めば、気っ風の良い寿司職人の夫の職人、優しい中に毅然とした妻の女将が経営する寿司屋、居酒屋等で酒も飲んだものである。
 こんな中、感じたのは、浅草っ子の人情深い人々だ。本音は優しく、地元の人々は、表向きは強面で強がりを互いに激しく言い合うものの、地域内の仲間も相互に連絡仕合い、目先の利益打算は、二の次とむしろ浅草っ子は、先ず、助け合う気持ちが色濃く残っているように感じた。そして、旦那達は、常に女将さんの意向を敏感に反映しているようでならないことだ。
 その女将さん達の凄さは、特に感じられたことは女将さんの家庭内の潜在的権力?はすごい。外では粋な風情の旦那衆も家庭に戻れば、娘さんや女将さんの前では頭が上がらずにタジタジで借りてきた猫のようなものである。結局は、事業主として街の寄り合いであっても表向きは旦那衆の意向のように見られるものの、実は浅草の人情を醸しだし、取りまとめている源は、お釈迦様ならぬ彼らの女将さんの手の平に乗せられているだけかも知れない。小生も旦那達と同様、女将さん達の手の平の中を泳いだ孫悟空であり、奥の深い浅草の地場産業の振興について、何を貢献したかは未だにその自信はない。
 このような浅草っ子気質が、浅草寺・浅草神社(三社様)の氏子・檀家・信者として、その熱意が結果として三社祭りが、カーニバルに、その他の多くの祭典の時に一気に爆発し、盛り上がりの原動力になっているのだろう。そしてさらに思うことは、江戸の庶民文化を形作った江戸っ子の気風・気質も有り様の多くは、神田明神の氏子連の「神田っ子」と浅草神社(三社様)の氏子連の「浅草っ子」が競い合って醸し出したのだろう。

 漫歩の最後は、浅草寺から少し足を伸ばして漫歩し、異界の雰囲気が感じられ、面白みを垣間見て見るのもまた趣が多い。
 浅草寺・三社様以外に趣のある社寺は、大根祭り以外は、殆ど人気の少ない鎮守の杜が深く静かな佇まいの名前の少々お色気のある待乳山聖天、あるいは過去に大勢力を張ったことのあり、社歴の古い下谷神社も魅力的だ。
 何れの社寺も境内に参拝すると異界・超常的な世界に立ち入った感じを受けるのは、筆者だけであろうか。江戸城下の鬼門の方角にあることも影響しているのだろうと想いは広がって行く。
 浅草から上野間の浅草通り沿いには仏具店が続く。仏具店は、道路の南側沿い、つまり北に向いて営業している。同じ現象は、駿河台の中大付近の神田神保町の古書街に見ることが出来る。古書店は、靖国通りの南側に立地し、北に店舗を構えていることだ。恐らく昔からの商売上の知恵で日照に関係がありそうだ。
 白門43会の皆さま!ここ仏具街は、棺桶以外何でも揃うようなので先を急ごうとする方は、そろそろ下準備を兼ねて予めこの界隈を訪ね歩いては如何でしょう?
 カッパ橋道具街は、飲食料店の調理器具・什器の揃う大通りだ。調達に行けば一回に総てが揃い数日後には食堂の開店も可能と言われるほどの品数・種類が豊富とのこと。
 しかし、素人目に見て楽しいのは、食堂のメニューのそっくりの蝋などで作られたサンプル製品や大きな鍋釜だ。サンプル製品の精巧な作りには、つい喉を鳴らし唾を飲み込んでしまいそう素晴らしい出来映えで驚かされてしまう。
 二つの例―─仏具・サンプル・各種食器類─―以外にも浅草の職人の匠の技術、伝統の技は、数多く揃っており、誠実で緻密な人柄の浅草っ子の気質がここにも貫かれている事を見せつけられる思いだ。
 その一方、不思議な事は、浅草は、江戸・明治時代からその時代の最先端の文化を進取し続け、大衆演芸を、明治期からも日本初の地下鉄を開通させ、浅草12階(凌雲閣)を築き、シネマを、大衆文芸を復興し、ラインダンスを興し、更には、ビール会社の金色のモニュメントを受け入れ、リオのカーニバルを一大イベントに仕立て上げ、最新型の水上バス(舟)のクルージングをさせるなど新しい事物を旧来の江戸文化を残しつつ新しい文化を違和感無く受け入れてしまう奥の深い街で浅草子の気質の多様性にしみじみと感じてしまう街なのだ。
 しかも、新しいことも果敢に取り込みつつも、むかしからの浅草の雰囲気を壊すことなく、伝えてきている浅草の街、浅草っ子の心意気はなんなのだろうか。
 そして新しい息吹を取り込んで来つつ、また江戸、明治、大正、昭和のそれぞれの時代の雰囲気を伝え醸しだし、浅草は、過去の生活の上に新しい生活を重ね合わせ、つまり江戸、明治、大正、戦前・戦後の面影が重層的に重なり合って混在とした中におもしろさがあり、はたまた、油絵のように江戸の色を書いては拭き取り、明治の色を重ね、延ばし江戸と明治の色が合成されて別の色の色になり、このように時々の時代の色は残しつつ、新しい歴史を重ねの繰り返しの産物が今の浅草の街を醸し出しているようでならない。
 つまりは、「江戸っ子」は、その源は、「浅草っ子」そして「神田っ子」から発生し、浅草は未だに気っ風の良い気風を残していると言える。そして、ここ浅草は、時代・時空を超えた空間があり闇があり、思いがけない体験が出来る街だ。日常の生活と異なる疑似体験のできる街なのだろう。
 浅草を訪ねる度に思うことは、浅草は、常に新しいものを受け入れる懐の広い街であるにも関わらず、決して古さの伝統・気質も失うことなく、同化もせず、むしろ調和を図り、さらに新たな街に蘇って行く事の底力を素晴らしく思っている。
 その反面、筆者の我が身を振り返って、単に齢を重ねただけで古くなって老いぼれていくだけの自分を自省し、感慨に耽って落ち込んでしまう今日この頃です。
 子供のころ父親に連れて行かれた浅草は、今筆者が、孫を連れて花屋敷に連れて行くようになった自分に重ね合わせて「今は昔」の感を強く感じている。しかし、浅草は、昔の姿・雰囲気を止め、私たちを何時も迎えてくれ、相も変わらず元気で健在だ。
 浅草界隈の雰囲気を支え保っているのは、「浅草寺」、「三社様」そして「女将さん」といっても言い過ぎにはならないのではないか。


 峯岸修三(理化)
 
  楽器とは楽しい器

 ウクレレ演奏から手作りウクレレへと興味は広がっています。
 2年前に孫娘用にベビーウクレレを製作しました。最近塗装替えと孫の好きなシールを貼らせました。写真が完成品です。専用ケースもお付けしています。孫が5歳になりますので、意識的に弾かせようと目論んでいます。
 部屋には、音が出るものがいろいろあります。スチールギター(兄より借り物)、フォークギターからウクレレまで。 
 ウクレレには、バリトン、テナー、コンサート、ソプラノ、ベビーと大きさによって名前が付いています。当然音色が変わります。(我が家にはテナーはありません。Jake Shimabukuroが演奏しているのがテナータイプでちょっと大きめです)
 孫のウクレレの隣のものは、kamaka ukuleleのビンテージ品です。但し、噂ではある期間だけ日本のメーカーがOEMでkamakaへ供給していたらしい……。そのときの製品かも? 実態は未確認です。
 自作品は何本製作しても気に入った音色まで到達しません。ただ、マイウクレレでも演奏が出来ることには満足しています。
 今年こそスチールギターをマスターしようと意気込んでいますが、なかなか時間が取れません。地域のウクレレ仲間との演奏会があります。敬老の日のイベントや仲間とのホームコンサートなど企画がありますので、練習にも気が抜けません。
 ウクレレに触れている時が癒しの時間です。

 


 宍倉邦茂(法・法
  
   これからのプラチナライフを楽しむ一つの方法
   ――ロングステイを空想し、楽しみませんか――

 
 ご記憶しておられる方もいられるでしょう。1986年、通商産業省(現:経済産業省)から「シルバーコロンビア計画」が企画・発表され、マスコミで頻繁に報じ賑やかな話題となったことがありました。この計画は、年金生活者を中心として高年齢者の方をスペイン・カナダ・オーストラリア等気候の温暖で、治安が比較的良く、物価の安い国に定住させよういう計画でありました。前評判は上々、当初はマスコミも好意的に報じ、担当者は、上機嫌で関係先に説明に周り手応えも感じていたものだ。
 しかし、この計画に対し突然の海外から反響は否定的な論調であった。それに呼応するかの様に我が国のマスコミも批判的な立場に回ってしまいました。(本当に外圧に弱い国です)その原因は、何故だったのでしょうか?その理由は、当時我が国は高度成長の真たっだ中で、輸出は増加し、外貨は増加する一方のこの時期に「日本は、工業製品を当たり構わず輸出し外貨を稼いでおいて、さらに未だ輸出が足りず今度は“老人”までも輸出するのか!」と言う論調でした。理屈はともかく納得出来る反論でしょう。当時は、核家族化が進み、老人ホームなどの受け入れ施設は少ない時代であったことも発想及び反響の呼び水の一因であった思います。
 担当者は、真っ青。それ以降シルバーコロンビア計画は、一瞬は、頓挫し、行き場を失ってしまいました。しかし役人は、絵に描いたような「執念深さ」、「叩かれて只では起きない」よく言えば「忍耐強さ」や「根性深さ」のお陰でこの構想は模様を大きく変えてリニューアル・ネーム「ロングステイ」となって再復活しました。現在では多くのフアンが育って来ているようです。
 白門43会の皆さんは、還暦を過ぎ、あるいは古希に間近なこの時期に一度、「シルバーコロンビア」ならぬ「ロングステイライフ」に関心を持たれ、本稿では実施まではお勧め致しませんが、自分なりのプチ海外定住生活のプラン・計画を楽しんで見てはいかがでしょうか。
 こういう小生、一時は、ロングステイを従来考えたことも有りましたが、病気持ちの体調では思うようにならず、思う気持ちだけが先行し、今は、日々、愚妻(貴方こそ「資源ゴミどころか大型ゴミヨ」と言われています)と我が狭い寓居で顔を突き合わせる毎日を過ごしております。
 それでは、「ロングステイ」とは、何か。知っておられる向きも多いと思いますが、簡単に復習しておきます。因みにロングステイは、「海外滞在型余暇」とも言いますが、カタカナ名が一般的な呼び名でしょう。ここで言う「ロングステイ」、海外滞在型余暇は、普通パック旅行とか1から2週間程度の短期周遊旅行とは異なり、比較的長期間一定の地域・場所に滞在し、その生活の拠点となる住まいは、炊事、洗濯等のお三どんも出来る自活の生活を送るため賃貸住宅・テラスハウス等を利用します。このことによって肌でその国の文化や生活に触れ、趣味等の自由時間を満喫しようとするのです。一言で言えば地域の住民の中に溶け込み共に暮らすことが理想でしょう。
 なお、「シルバーコロンビア計画」の反省に立って、生活の源泉、例えば住民票は、日本国内に置き、生活は、日本からの仕送りあるいは銀行の取り崩しで賄うことを原則とします。
 現在では多くの国がこのロングステイを受け入れるためロングステイ用ビザの発給等特別な制度まで設けて歓迎している国が多くなっているようです。また、日本国内では、ロングステイを志望する者をサポートするNPO法人やロングステイを業務としている財団法人等の関係団体も多く存在しています。また、ロングステイに関するセミナーも盛んに開催されているとも聞いています。
 例えば先駆者の一人である大橋巨泉氏は、春、秋は日本、夏は、バンクーバーでゴルフ三昧、日本の冬季は、南半球のオーストラリア、ニュージーランドで避寒をする等健康の増進と共に趣味の世界を渡り鳥のようにロングステイで楽しんでいるといいます。また、人間関係等によって疲れた気持ちをリフレッシュのため実践されている著名人や芸能人も多くまた一般の人にも普及しつつあり、特に定年退職した方の関心も高くなっているようです。
 一般には、ゴルフフィーの安いマーレーシア、タイなど東南アジアでのゴルフ三昧の生活をしつつ、現役時多忙で成し遂げられかったこと、あるいは、夢の実現化を求めに、興味のある向きは史跡の探求に没頭、語学を学びたい向きは学びたい言葉の本国の大学等で現地の住民の中で生きた語学の研鑽と様々な生活が可能でしょう。さらにアフターファイブは、日本と同様のライフスタイルもあり、ときにはカラオケ、居酒屋で現地人に混じっての心の触れ合いを求める等ロングステイは様々な利用の方法がありましょう。
 つまり、ロングステイは、目的意識を持って計画・実施すれば私たちの新たな人生にまた別のライフスタイルとしての潤いをもたらしてくれるのではないでしょうか。また、ロングステイは、数週間という一時期だけでも今の日常生活からの離れたタイム・トリップ、非日常の生活も叶えられ、多いにこれからの生きる活力が蓄積出来るでしょう。
 先に述べましたが、本稿の目的は、ロングステイを自分で思い描くきっかけとして、さらに書籍、セミナーあるいは関係団体などに相談され、ロングステイの実際をつかみ取り、夫妻との語らいの中で異国でのロングステイを想像することを楽しんで見ることも楽しいのではないでしょうか。お勧めしたいものです。
 なお、この駄文を読んで是非実際にロングステイを試みて見ようとされる方は、信用のある団体等に相談することをお勧め致しますと共に、余り海外の経験の少ない方に予め理解しておいて頂きたい点は、語学の問題、風俗習慣(郷には入れば郷に従うの気持ち)、気候風土が異なり心身の管理などに慎重な配慮が求められます。さらに大切なことで強調しておきたいことは退職後の生活は時間的には余裕があるとは思いますが、資金的にも十分な余裕をもった計画であること、事前に家族の納得を得ておくこと。そしてロングステイは、ご夫妻ご一緒に楽しまれるのが筆者のお勧めですが、最近はお一人様ロングステイも増えているやとも聞いております。企業戦士・仕事一途に過ごしてきた同輩の白門43会の仲間には、青春時代に果たせ得なかった海外滞在を夢ではなく具体的な予定として実施してみてはいかがでしょう。あるいは、夢を追って見てはいかがでしょう。


 横山貴講(法法)
  
    孫と暮らした4ヶ月

 我が家に8月下旬から娘が、2人目の子供出産のため2歳半の長女を連れ里帰りしている。今まで我が家は三人家族、私と、女房とかわいいミニチアダックスフントで暮らしていたところに天真爛漫の孫が加わり家の中が大変にぎやかになった。平成19年年暮れから医療保健センターからメタボになりかかっているから講習を受けないかと声が掛かり参加していた。孫が来てからは、朝起きてから夜寝るまで家にいるときはのんびりする時間を与えてくれないので講習に参加している以上に運動をさせられている。おかげでBMIの数値は今、標準になり体は軽くなり快適になっている。
 子どもは風の子といわれているが外で遊ぶのが大好きだ。犬の散歩のときもリードを持つといって私には持たせない。いつ転ぶかと気をもみながらあとからついていく。足もおぼつか無いながら転ばず800メートルのコースをまわり家に帰って来る。そのあと、庭で砂遊び、ボール遊び、かけっこ等こちらが疲れても遊びを要求してくる。家に上げるのに一苦労する。家に上がっても歌を歌ったり、絵本を読まされたりゆっくりする時間が取れない。孫が風呂に入り就寝したあとようやくほっとできる。妻も毎日食事の準備と孫の世話で、くたくたになっていてストレスが大分たまっている。
 平日はこのような毎日だが、週末孫の父親が来ると孫は父親一辺倒になりこちらは開放される。久しぶりの父親と会えるのはうれしいようだ。今、9月17日に次女が生まれ孫は赤ちゃん帰りになっており少し手がかかるようになっている。三人目の家族ダックスフントは孫が来てからは私たちの視線が孫に移ってしまったため焼きもちを焼くようになった。孫を抱っこすると孫を食いつこうとする。犬も人間と同じ感情を持っているようだ。
 娘たちは12月下旬帰った。妻も同行した。犬と2人きりになった。孫がたんすの引き出し、物置の中のものを引っ張り出して、ぐちゃぐちゃにしていたのを整理し、ぼろぼろにされた障子も張替えた。急に、家の中が静かになり、いつも家の中で追いかけられていた犬も何か寂しそうだ。今この文章を書いている足元で昼寝をしている。私にとってこの4ヶ月間はとても充実した時間だった。孫からいっぱい元気をもらった。これから先2人の孫たちが遊びに来たときは、家の中はどうなるのかちょっと心配だ。でも楽しみにしている。


 歌代雄七(商商)
   
    あれから2年

大学院に入学して2年が経過し、この3月卒業となった。
 同級生は24歳から33歳、25人。卒業は22人と多少の目減りはあったが、残りの3名も9月の卒業見込みだ。何もかも新鮮だった。
 勤務していた折りには、当該の年齢層の人達とはなかなか話す機会もなかった。然し、入学してからは彼らに素直にとけ込み、話は弾む。但しコンパの後のカラオケだけは常に頭を抱えていた。彼らの歌は分からず、こちらの歌の時はしらけている、とうとう2年間かみ合わないままだった。
 一方、同級生の半分は留学生。中国、韓国、タイ、スリランカ等々。彼らから聴く、当該国の生の情報は新聞・TVでは決して得られるものではない。在学中、中国・大連での留学生同士の結婚式に招待をされたり、タイからご両親が来日した留学生のお世話をしたり、はたまたスリランカの留学生達が設立した企業のお世話をしたり、通常であれば経験出来ぬ事項に「遭遇」した。有難いことと思っている。
 本来の目的である「MBA」取得のための授業は、理論は新鮮であったが実学的面での授業は、当方の経験歴がましているため教授が遠慮するところがあり、同級生に申し訳ない状況が続いた。その最たるものは、テーマに依っては教授に代わり愚生の講義を聴く同級生はたまったものではなかったろう。
 在学中、上海の交通大學大学院へプチ留学し、中国生活も短い期間だが味わった。当該大學の学生の真面目さは、日本では見られない状況だった。それは、日本の将来を不安に陥れるものでもあった。
 2月末の同級生10名強との卒業旅行は、更に絆を強めたものと思う。その時の写真を貼付する。
 一方、修士論文のサマリーは下記の通りである。本文は、12ポイントでA4、100ページ強。我が人生、こんなハードで真面目に机に向かったのは、後にも先にも今回限り。
 尚、この4月からは、同級生の皆が就職したので、見習って、週4日勤務のサラリーマンとなる。老骨に鞭を打ち!!!
 背広を着て、満員電車に揺られ野を越え、川・越え……新鮮な気持ちで表参道へ……。
 このパターン……そう40年前経験したことだ……。だけど!!よく考えたら2年前まで同一行動だったのに……。すっかり学生々活が染みついたのか……。

<修士論文のサマリー>
                 医療施設の「経営環境」と診療所の抜本的「経営改善策」
                   ―新しい「ビジネスモデル」創造の中での提言―
                                                   歌代 雄七
[研究目的、内容] 
 33兆円/年産業と言われている医療業界は、農業、教育と並んで産業的経営面では、たち後れた業種の代表格である。
 要因は、何れの業種にも共通する国家の保護、統制下にあったことである。
 昨今は各々の当該産業分野で、外部の活力を導入しての経営改善模索は始またが、他産業に比しその遅延性はまだまだ目を覆うものがある。
 その医療業界にあっての事業形態は、大きくは病院と診療所(クリニック)に分類され、経営的視点からの診療所は極めて悲しい現実/実態がある。
 それら診療所が、直面する経営技術面での危機克服の一つとして、企業が中心となり創造的事業システムの構築を為し、診療所はその事業形態の傘下へ加盟することにより、諸事に抜本的な改革が可能となるものである。
 小論は、世界的にも亀鑑できないこれら事業遂行システム・スケルトンを記、現下の診療所が混沌とした時代から抜け出し、20年先には経営面に於いて「安寧」確保を願い、「医療環境」をも含めて取り纏め提言するものである。
 尚、これら提言をベターなる解として事業構造化、遂行可能としうるのは、諸般の事業環境を踏まえて多様性を保持する大手総合商社であろう。
 尚、本事業実施に伴い、少子高齢化を背景に医療施設はもとより、関連する民間企業をも包含しての優勝劣敗は鮮明となり、垂直及び横断的な再編・淘汰の引き金となることを期待する。

[研究方法]
 医療関連業界に暫し身を置いた愚生の知見をベースに、改めて現実的な状況、情報を新聞・経済誌・関連書籍更には各種白書・統計資料を傍証資料とし、且つ厚労省・学術・斯界等の有識者との面談を通じて取り纏めた。
                                                        以上


 倉田隆次(法・法)
  
   
松葉杖奮戦記

 こんなドジで間抜けな怪我について書くのは、一寸した勇気が必要です。
 政治の世界では「一寸先は闇」と言われます。実は、平穏な家庭の中だって「一寸先は闇」で、突如、何が起きるか分からないものです。11月8日夜9時半ごろ、小生は食卓に新聞を広げていました。趣味(?)の切抜作業をしていたのです。何かが食卓から滑り落ちました。両膝の上に受け止めようと、両膝を揃えたのです。瞬間、左太股内側にグサリとハサミの片刃(幅5ミリ)が突き刺さりました。右膝で刃を押し込んだのです。鮮血がドバーッと床に滴り落ちました。傷口をタオルで縛り救急車を待ちました。
 救急車に収容されたあと、一向に車が動かないのです。救急隊員が、最寄りの救急病院から順番に収容依頼をするのですが、①担当外科医がいない、②ベッドがない、③現在急患を収容中、等の理由で受け入れてくれないのです。やっと4番目に片道15分の遠隔地にある病院からOKが出ました。県都千葉市でさえ、夜間の救急医療はこの様な状況なのです。
 この病院で、止血のため、太股の筋肉をTの字形に10センチ・5センチ切開されました。筋肉内の動脈を損傷している。ここでの止血は無理だとして、待機していた救急車に再び乗せられ、千葉県救急医療(高度救命救急)センターに転送されました。
 待ち構えていた医師団(4人)は傷を一瞥するや、「大丈夫ですよ。すぐ止血できます」。小生の怪我は、ここでは怪我の内に入らない様でした。傷の処置前に医師から言われたのは、①血液サラサラのサプリを摂取していないか?②脳梗塞予防薬を服用していないか?③医療従事者の安全確保のため血液検査(肝炎、梅毒、エイズ)を承諾してくれるか?の3点でした。
 結局2日間の入院で退院できました。16日に抜糸(10針)、17日が最終診療でした。
 そんなわけで、「留学生との集い」の18日は松葉杖をついての参加となり、醜態を晒してしまいました。
 通院時に見知らぬ人が示してくれた優しさが身にしみました。また、身障者の視点で世の中が少し垣間見えた感じがしました。


 倉田隆次(法・法)

  敬老会への出演

 敬老会が過ぎて、もう2ヶ月になろうとしています。なぜ、今ごろ敬老会の話を……と言われそうです。
 実は、わが家のTVチャンネルを回すと、団地チャンネルで団地行事の敬老会の模様が、繰り返し放映されているのです。
 敬老会の当日、妻は、孫が通う幼稚園の敬老会に招かれて不在でした。自治会長に頼まれていたので、この隙に「ガマの油売りの口上」を演じ、好評を博しました。それがTV放映でバレてしまったのです。
 加えて、地区福祉協議会の広報紙にも写真付きで紹介されてしまいました。


 この演会芸は、40数年前に覚えたものです。口上だけでは数分で終りますので、趣味の居合を2本抜くサービスを加えました。
 宴会芸が、お年寄に喜んでいただけてハッピーでした。オッと自分も老人だということを忘れていました。

(千葉市社会福祉協議会朝日ヶ丘地区だより「ふれあい」の記事─写真は省略)
 ガマのあぶら売り口上・・・20数年振りの復活、ユーモアたっぷりの熱演に拍手喝采!
 4枚が8枚、8枚が16枚、16枚がううっ!刀の切れ味がわるい─。


 鴇田 將(理物)

  関口明美さんの思い出

関口明美さんのご逝去に接し、謹んでお悔やみ申し上げます。
 関口さんと知り合うきっかけは白門43会を通してであり、彼女は文学部出身で私は理工学部出身であり、互いに進路は異なり、同期会を通じて知り合ったのが最初でした。当時、彼女は埼玉県の小学校の教師をしており、また一方ではFRP、石こう等による立体的な人物像、陶板画による人物像等の数々の作品を残された素晴らしい芸術家でもありました。彼女の人物像のどの作品にも生命の讃歌があると高い評価を受けている点は皆様もご存知かと存じます。
 彼女に関する印象を強くしたのは同期会のバス旅行のことが思い出されます。観光バスで彼女が隣の席の女性と会話している様子を後部座席に座っていた私にはその会話の一部が何気なく耳に入った瞬間、彼女はなんと素晴らしい意見の持ち主なんだろうといたく感心した次第です。彼女は自分の考えをキチンと持ち、生徒に対する指導にもプリントを渡して毎回のように生徒 (小学生) に伝えていたということを後日、伺った次第です。
 そして、何よりも私にインパクトを与えたのは、彼女の人生の最終章の生き方であります。
 私が彼女からの連絡により病気で入院していることを知ったのは、今年の八月でした。以前は何回か食事をする機会がありましたが、最近は連絡が無いのでお元気にしているものと思っていた矢先、彼女からの連絡により、病状が重い旨を知らされました。私は早速、病院に見舞いに行き、ロビーで一時間ほど色々と話をしました。教師生活も終わり、これから作家活動に専念できるとアトリエも完成し喜んでいたのに、不治の病に冒されたことを悔やんでおられましたが、私は彼女が過去に素晴らしい活動してこられたので、ある意味では満足すべきではないかと進言したことを覚えています。我々、同期生はせいぜい生きてもあと30年ぐらいで大方は人生を終わるのであるから、長いスパンで考えた場合、たとえ30年生きたとしてもそれは一瞬であるとも進言しました。その後、彼女は退院されて自宅に帰ってきて、なんとリラックスできてまさに生きている実感が沸いているということを知らせてきました。実は、彼女と私はある約束をしていました。それは、彼女がご自分の家をリフォームするのに町田にある我が家の台所等を参考にしたいとのこともあり、我が家の台所等を紹介した件で、リフォームが完成したら私が訪ねていくことを約束したのです。彼女は、一時、退院が認められ、自宅で最後の作品展の準備に追われている様子であり、最後まで作品に情熱をかけている様子がうかがわれました。そして、リフォームが完成した後、私は約束を守ろうと2007年9月29日土曜日の午後に訪ねて行ったときには、ご自宅ではなく彼女は再び病院のベッドの上でした。私は彼女の家に尋ねることはかないませんでした。29日は亡くなる前日でしたが、まだ会話もされており、笑顔も見せており、病室は見舞いの人達の声でにぎやかになったひと時もありました。しかし、その翌日、関口さんは生涯を閉じられたのです。
 私は彼女の訃報に接し、深い悲しみを禁じ得ません。
 最後に、彼女の最終章に触れるならば、彼女は闘病中、食事を取ることができず、専ら点滴に頼りながらの生活でしたが、よくぞ取り乱したり、わめいたりすること無く静かにそして堂々と人生をまっとうしたものであると、尊敬の念さえ抱くものです。私がその立場にたったら、おそらく取り乱し、自殺も考えたであろうと自分の意志の弱さを痛感させられた思いであり、せめて自分の人生の最終章では関口明美さんに近づきたいものであると、改めて彼女の実践に敬意を表する次第です。
                                               合掌


 宮本常子(文哲)

   関口明美さんを想う

 明美さんは私の大学の友人である。専攻が同じで哲学科の社会学、チョット硬い印象を受けるのは否めない。
 彼女は、卒業と同時に先生になり、37年もの長きに渡って先生を勤め上げた。私は編集(文を書く事)にこだわり、小さな出版社に3年位働いて結婚した。結婚して子供が成長してからもパートながらも出版社で働いた。
 今思えば、チョット硬く生真面目なところが似ていたかもしれない。卒業後の彼女との出会いは、銀座の個展会場である。年賀状は行き来していたが、何十年ぶりかでお会いした。そこで、色彩感覚の良いお洒落な洋服をまとった彼女に出会った。彼女の作品・彫刻は、黒い色の(プラスチックが材料と聞きました)女性像(立像も含む)が多く、”すごい”と感心した。 その時、彼女はすでに43会に入っていて、会場にいた鴇田さんに進められて私も入会することになった。
 それからは彼女の個展には必ず行き、感想文を書いては43会報やホームぺージに載せてきた。また、虎ノ門交響楽団で音楽を一緒に鑑賞したり、トリップ会で旅行に行った時、隣りに座っていろんな話をした。
 その後も、女性を画いた陶板画を製作、木目の厚い板に貼り付けるなど彼女独特の女性表現をしてきました。それが認められ、タヒチの大統領から賞状を貰ったり、カナダのモントリオール国際会議場やカサブランカ市の日本・モロッコアート・エキスポで展示されるなどの活躍ぶりでした。
 2年ほど前「先生を退職して、第2の職場(役所)で働いているのよ」と話してくれました。そのうち電話でトリップ会からの旅行の話しをすると、行きたいとのことで「栃木の蔵の街」の旅行に参加。会報に旅行記書いて欲しいと頼んだら、すんなり引き受けてくれた。その記事の文がとても良かった。鋭い観察力は彫刻を作る時と同じなのだろうと思った。
 その内、しばらく来なかった委員会に今年の3月ヒョッコリ現れ、総会や「留学生の集い」について意見を述べた。その後まもなく電話があり、検査入院する事になって、カナダのモントリオールに行く切符を買っていたのにキャンセルしなくてはいけなくなった……と、残念そうに話しました。元気そうだったので、単なる検査だろうと思っていたが、そうではなかったのです。
 それから約半年という短い期間に、忍び寄っていた病魔が彼女の体を蝕み、たちまちにして一人の秀でた芸術家の命を奪っていってしまったのです。
 才能のある人だったので、まだやりたいことがあっただろうと思うと不憫でなりません。
 もう少しで第2の職場をやめたら、船で世界旅行したいな……と言っていたのに。これから人生を楽しもうという時に彼女は、あの世にいってしまったのです。これも運命と言うならあまりにもむごい気がしてなりません。
 最後まで作品の整理に没頭した明美さん、あの世でも作品を作っているような気がします。
 心よりご冥福をお祈り致します。   


 三沢充男(法・法)
  
   お手玉の唄

        西条山は 霧ふかし
        筑摩の河は 浪あらし
        遙に聞ゆる 物音は
        逆まく水か つわものか
        昇る朝日に 旗の手の
        きらめくひまに くるくるくる

 どなたかこの唄をご存知の人がおられるだろうか。
 この唄の中の「西条山」は「妻女山」、「筑摩の河」は「千曲川」と知れば、およそ何を唄った歌かお分かりになるだろう。
 NHKの大河ドラマで「風林火山」が放映されたことがあるが、これはかの有名な武田信玄(晴信)と上杉謙信(長尾景虎)の川中島の合戦を歌ったものだ。唄の題名もずばり「川中島」である。
 川中島といえば、頼山陽の「鞭声粛々 夜河を過る」というのが詩吟で有名ですが、「サイジョウザン」は、どういうわけか私は「お手玉の唄」として子供の時に聞いたり唄ったりした覚えがあります。女の子が(男の子もだが)お手玉をするときは必ずこの唄を歌い、それに合わせてお手玉を放り上げるのである。当時はこの唄がどんな情景を唄ったものか、どういう漢字を宛てるのかなどは全く知らないまま唄っていたのです。
 調べてみると、これは明治29年の新編教育唱歌集に出てくる。作詞は旗野十一郎、作曲は小山作之助とある。こういう唄が教育唱歌集に出てくるというのは時代を感じさせるが、きっと尋常小学校などで教えられたのだろう。
 それがなぜお手玉をする時に唄われたのか。それは私が住んでいた東京の多摩地方だけでのことかもしれないのですが……。
 一ついえることは、この唄はお手玉のリズムととてもよく合うということである。鞭声粛々では合わせようがないが、この唄は軽快でリズムが早く、お手玉を投げ上げるスピードにピッタリなのだ。それで最後の「くるくるくる」というところはテンポがゆっくりになるので、お手玉を高く放り上げてタイミングを合わせる。楽曲をお聞かせすることができないのが残念ですが、聞けば納得できると思います。
 ところで皆さんも子供の頃お手玉をした経験がおありだろうと思いますが、その時はどんな唄を口ずさんだのでしょうか。
 ちなみにこの唄の二番を以下にご紹介しておきます。

        車がかりの 陣ぞなえ
        めぐる合図の 鬨の声
        あわせる甲斐も あらし吹く
        敵を木の葉と かきみだす
        川中島の 戦は
        語るも 聞くも 勇ましや


 倉田隆次(二法・法)
  
  たかが剣道4段ですが

 剣道好きの43会員も多いと思います。警察官OBの友人たちは、全員が剣道5段以上です。
 わたしは、平成19年3月11日に千葉県武道館で実施された剣道4・5段昇段審査会に参加し、辛うじて4段に合格させて頂きました。昨年に続き2回目の挑戦でした。
 県内の合格者中、わたしの71歳が、最高齢でした。172人が受審し、33人が合格しました。千葉市の合格者は4人でした。登録料を納入に行ったところ、70歳以上の合格者は、シニア割引で半額だというのです。剣道連盟は、なかなか味なことをするものです。ラッキーでした。
 昇段審査は、1次、2次、3次に分れています。内容は、2人を相手の試合、太刀7本・小太刀3本の演武、それに論述式の筆記試験(2問)です。1次、2次は、6人の審査員が合否判定をします。
 5段の受審資格ができるのは、4段取得後4年を経過してからです。何としても75歳までは元気に生き残らねば・・・と思っています。
 もし5段に合格すれば、居合道4段、杖道(*)初段と合わせて計10段になるのですが、これは夢物語かもしれません。

<参考>
 杖道というのは、樫でできた丸棒(杖)を、使い方や動きに応じて槍や薙刀、太刀に変化させ、左右に使いこなすことで、相手に暇を与えない要素を兼ね備えた武道といったもので、昭和43年以来、全日本剣道連盟杖道と位置付けられています。(同連盟には、剣道、居合道、杖道の3部会があって、それぞれ免状を出しています。)
 歴史的には、神道夢想流杖道(術)は、今から約400年前に夢想権之助勝吉(天真正伝香取神道流の免許皆伝で、鹿島直心影流の「一の太刀」の極意も授かったと言われている。)が創始した武術だそうです。
(管理人は、テレビの「水戸黄門」で、里見浩太郎扮する黄門さまが悪者をやっつける時に使うようなアレをイメージしていました。)


 宮本常子(文哲)

千葉県佐原市の古い街並みと伊能忠敬記念館を訪ねて

 昨年の12月半ば、柏市のバスで香取神社や小野川沿いの伊能忠敬記念館を見てきました。雨の予想に反して天候に恵まれたのは、ラッキーでした。

紅葉の参道 香取神社への階段と門

 香取神社の長い参道の紅葉がきれいで、今年最後とばかりに頑張って私達を迎えてくれました。淡いやさしい彩りが素敵でした。また、時期的にお正月飾りも見ることが出来てよかったです。
 小野川沿いの散策では、柳と民家が風流を誘い、時代をさかのぼって異次元にいる感じがしました。その小野川沿いに伊能忠敬が住んだという旧宅があり、川を挟んで向かいに記念館があります。
 忠敬は、17歳で伊能家の婿養子に入り、36歳で名主拝命、醸造業や川を利用した運送業等いろんな商売をしていました。49歳で隠居。50歳の時江戸に出て勉強、55歳から日本地図の測量が始まります。
 記念館には、日本地図作成に16年もかけて作ったその行程が、如実に展示されていました。
 あの時代(享和、文化)に日本全地図が完成、驚くばかりの正確さです。学問も発達していない時代に天文学、測量術、文学、医学、数学、歴史などを独学するなどやはり並外れた人でした。かなりの昔に60代後半まで測量の旅をしたというのは驚きです。
 この時代に余生で学問、日本地図を実測、作成したその心意気に触れた気がしました。
香取神社の注連縄飾り 小野川沿いの民家
(この手前に伊能忠敬旧宅・
向かい奥に記念館がある)


 峯岸修三(理化)
  

 皆さんこんにちは。総会の折に、ウクレレを聴いて頂き、更には大木さん、岡田さんには歌唱の協力を頂き、ありがとうございました。

 久しぶりに投稿致します。今回もウクレレです。
 昨年製作した孫娘用のウクレレと自分用のものが完成しました。まだ2歳の誕生日前ですが、来年8月には3歳になる孫にウクレレを教えたいと思っています。
 「自作の特殊アイロン」を考案して、“Traditional Hawaiian Style” のウクレレを製作開始しました。材料の手配、形状は固まりました。(自作7本目です)
 四街道のウクレレグループ “プルメリア”メンバーとの練習にも行ってきました。7月30日には生オケ教室の合間に”プルメリア“の演奏を聴かせる予定です。仲間は約11名〔内男性4名〕、元気なおじさんとおばさんの集団です。今後の活動は、敬老の日、公民館祭り、仲間内のHome Concert等。
 その他、実家秩父から8月中旬のコンサート参加要請も予約が入りました。

 ウクレレの構想を練っているときは楽しいです。43会のメンバーは多才な方が多いので、私も精一杯趣味を楽しいもうと思っています。また、機会があれば聴いて頂けるように技術を磨かねばと思っています。今後ともよろしくお願い致します。

 自作のアイロン、形状出し、わが名器(?)の写真(上)と作業行程を紹介します。

①自分で圧電素子と電子部品を取り付けエレクトリック・ウクレレにしています。
②アイロンは鉄パイプの中央にハロゲンランプが入っています。(ウクレレ愛好家のアイロンの写真を右下に掲載しました。)
③パイプ全体を温めます(150度くらいか?)。
④事前に湿らせた側板を瓢箪形やパイナップル形にパイプに沿って馴染ませていきます。 
⑤私の写真の側板はすでに左右対称に張り合わせたものです。プロの工程は片側づつ曲げて、木型にてはめ込んで固定します。
⑥私は最終木型がありませんので、対称からわずかずれています。これから微調整をします。
 今後は、ネック、ボディ(表裏)、フレット板など木材の比重に焦点を合わせ、ハワイ製に負けない気に入った音が出せるウクレレをじっくり製作して行きます。鋸とサンドペーパーが私の道具です。時間は掛かるが大道具には金を掛けない主義です。


 伊藤正敏(商経)
   
 いつものことですが、この寧日雑感を書くに当たり、なかなか書けなくて困っています。いろいろの人の雑感を読ませてもらっているのですが、趣味を生かして活躍している人、ボランティアに熱意を燃やしている人、まだまだ現役ではりきっている人等々でうらやましく思っています。
 私もこの11月でリタイアすることになるので、どう生きていこうかと”少し”悩んでいます。しかしいろいろ考えても仕方がないので、ズボラに、とりあえずは未知への希望を失わないようにして行きたいと思っております。
 それで思いつくままに、読んでいただくには値しないのですが、今の自分の実情を書いてみたいと思います。
 まず今一番感じていることは、朝通勤電車に乗っていて、自分より年配の人が本当に少なくなったと思うことです。また朝会社には8時30分ころ入るのですが、当然のことながら若い人ばかりで、自分と同年配の人があまりいないというのが現状です。非常に寂しいことです。従って会社の同期生や学校時代の仲間と会うとなんとなく安心するのは私だけでしょうか。
 また、もうひとつ残念に思っていることは、体力的にやはり若い人達にはかなわなくなっていることを実際に感じる事です。
 たとえば、ゴルフを始めてまだ2年くらいにしかならない息子にドライバーでかなわなくなってしまうことです。(スコアはまだまだですが)。これは息子だけでなく会社の部のコンペや得意先の客とプレーする時でも、若い未熟な(?)ゴルファーに飛距離で遅れをとることが多くなり、非常に口惜しいとしみじみと感じる今日この頃です。(年寄が道具に執着するのがよくわかります。)
 つぎに最近少し”良し”と感じている事があります。それは昨年8月に開通した「つくばエキスプレス」で通勤できることです。これは私に2ツのメリットをもたらせてくれました。その一は通勤が非常に楽になったこと、その二は私の大好きな浅草がより身近になったことです。浅草演芸場の落語と板東33ヶ所の一つ浅草寺、そしてうなぎ、てんぷら、そば、すきやきなど2級グルメが比較的安く楽しめることです。家族だけでも楽しめ、また得意先との会食も浅草でやることが多くなりました。食べることにしか能のない私にとって、これはとても満足していることです。
 最後に今少しまじめにやっている事をひとつ。それは英会話で、一年くらい前からNHKのラジオテキスト(レッツスピーク)と会社の社員教育用テキストの2冊を使って、だいたい毎日あいた時間でやっています(お金がないので会話学校へはいかないで独学)。まだまだ入門初級レベルですが、なんとか挫折をしないようにして「継続は力なり」をモットーに続けていくつもりです。電車の中などで外人どうしでしゃべっているのをみつけると、何気なく近寄っていって盗み聞きもしていますが、ほとんど聞き取ることはまだ出来ません。
 何か目的があって始めたわけではないのですが、最近は英語に接することが少し楽しくなっている気がしています。次に家内と海外旅行する時には「かっこよく」日本語のメニューのないレストランに入って食事をするといった大それたことを夢想しています(全く無理なことかもしれませんが)。
 以上とりとめもなく、申し訳ありません。


 宮本常子(文哲)

   久しぶりの姉妹の会合 ―― 姫路と淡路島を訪ねて――

 私は4人姉妹の末っ子ですが、この春(5月)に久しぶりで4人揃って姫路にある仏舎利塔を訪れました。
 釈迦の遺骨を「仏舎利」といい、ドーム型の仏舎利塔の中にはインドの故ネール首相から人類永遠の平和と幸福の祈願を込めて贈られた仏舎利を納めた厨子の仏舎利殿があります。ここに母方の祖母が眠っており、4人揃って訪れたのは今回が初めてで、昔話に花が咲きました。
 私と長姉の一人娘は姫路城の麓にある同じミッションスクールに通いました。末っ子の私とその姪は七つ違いですが、久方ぶりの姫路が高校時代を懐かしく思い出させてくれました。
 その後、姫路城西お屋敷跡庭園を見学しました。かなりの面積を占めるその庭園は、姫路市制百周年を記念して造られ、「お屋敷の庭」、「茶の庭」、「流山の平庭」、「夏木の庭」、「築山池泉の庭」、「松の庭」、「花の庭」、「竹の庭」などのテーマ毎に日本庭園が造られていて、世界文化遺産の姫路城にふさわしい素晴らしい庭園です。それゆえか外国人の姿も数多く見かけました。
 次の日は淡路島へ行きました。花博の会場跡が「兵庫県立淡路夢舞台温室」として残され、それぞれの庭がデザインされ、洋風の庭や日本庭園など多数のイメージされた庭がありました。温室では珍しい木々や花を見かけたせいか、世界中の木や花を一日にして一度に観賞したようでした。また外の広大な土地には色とりどりのチューリップ畑が広がり、歩いても歩いてもどこまでもお花畑が 続いているその広大さには眼を見張るばかりでした。
 姫路では日本庭園の特徴とその良さを引き出す庭造りでしたが、淡路ではテーマ毎に庭がデザインされ、熱帯、亜熱帯、なんでもありの広大な植物館でした。
 庭園やお花の好きな私にとって、この旅行は大いに癒しの旅となりました。
 (写真は姫路の仏舎利塔とお屋敷跡庭園)



 歌代雄七(商商)
   
      入学式

 4月、快晴の某日。何十年振りだろうか! 入学式に臨んだ。
 校門に入ると日章旗とその大学の校旗が粛然と風に翻っていた。小生は式が挙行される体育館に足早に歩を進めた。
 入り口で、「父兄の方は2階です」との声を無視して1階の席に向かった。途中2人の係員からも同様の言葉がかけられた。無視してそのまま進むと多数の席が準備された会場が目に入ってきた。席の端を歩いていたら、今度は「来賓の方はこちらです!!」と、後ろから来た係員に着席を促された。既に来賓席は胸花を付け人々で半分程は埋まっていた。右手を目の高さまで挙げて、左右に振って自分は違うと答えたつもりだが……。今度は、前の方から係員が白い胸花を持ってきた。小生は、答えました。
 「私はこの入学式に生徒として参列したのです。私は今年の新入生です。大学院生です!!」と。
 「失礼いたしました」と係員。
 「縦長に長いこの3列が院生席です!!」とバツの悪そうな顔で……。
 小生は、早くから来ている院生で半分程埋まった前から10列目に着席。「五列分」程空いたスペース「川」の向こうは、奥行きどの位あるか分からないが、新入の大学生の席。前の方の新入院生が振り返り、慌てて顔を戻す。「川」の向こうからは、こちらに指をさしている。皆、好奇な目で。
 壁に沿った斜め上、張り出し部分の2階席には合唱部の人々。その横はブラスバンドの方々。更にその横は応援団が、本日の役割を各々担って陣取っている。その人たちからも何となく視線を浴びている感じがする。こちらに「指さす」集団が3組位あった。けっして気の所為では無い。
 さもありなん、当方61歳の新入生。「川」の向こうでも、囁いている。今度は近いからはっきり聞こえる。
 「変なオヤジが座ってるぜ!!」
 後ろに振り返ったら、斜め後ろに試験会場で隣だった若き人がいた。お互いに軽く会釈して、小生はやっと心が落ち着いた。子供の入学式に参列したこともない小生、何と入学式は中央大学以来である。式の途中でこれらを思い出し、苦い思いに浸った。

 やっと、入学式より2ヶ月が過ぎ、院生生活にも慣れ、同級生の25歳前後の人達とも仲良く語り、杯を酌み交わす日を何日も過ごした。彼らからは求めに応じて会社生活の話を、そして2年生を含めた就職相談を受けている。また小生は彼らにパソコンを教わり、パワーポイントでの発表材料の作成方法をこれまた教わっている。
 一方、個人的には何十年振りかの英語で苦慮している。三分の一は英語での授業、事前に予習は為していくが難渋の状態は続いている。老いた証拠を予習の中で自ら発見して苦笑している。ひとつは、英語の単語を辞書で引くが、同一単語を同一ページで何回も引くことに我ながら参ってしまう。
 リュックにパソコン、参考書を入れて、颯爽(自分ではそう思っていますが、女房の言葉を借りれば、老いた樵が枯れ木を集めて下山する姿に似ていると……)と、背を伸ばして通学している。現在のところは、土日は全く無い。サラリーマン時代は土日は客との接待ゴルフを除いては、全くリラックス状態での休みだったが、いまや天地がひっくり返った様に、朝から夜中まで殆ど外に出る事無く予習、復習に費やしている。寂しい事だが、女房は「自分の時間が出来た」と喜んでいる。「何の為に通学するの?」と人は声を掛けてくれますが、ハッキリしていることは「暇つぶし」。しかしながら現状は逆、毎日が何かに追われている感じだ。

 この6月初旬にマレーシマへ転勤した息子が、離日の日に小生へ一言。
 「老人、学なりがたし、一寸の光陰、無理をせず!!」と。
 失礼千万の男に向かって、言いました。
 「老いは、皆の帰り道、何れ遅れて君が道!!」
 彼から返ってきた言葉は、
 「私は、路地(老路)は通らず、バイパス経由。一気に行(逝)くから心配ご無用……」
 「この野郎! ああ言えば、こう言う!! へらず口だけは一人前!!!」
 彼に向けて更に、
 「早く行け、赴任地へ……」


 倉田隆次(法法)
 
     北京だより

 01年の9月から2年の予定で65歳の語学留学をしましたが、03年4月、体調不良となり、折からSARSの大流行というダブルパンチを受け、止むを得ず志半ば(?)の帰国をしました。
 70歳を越したいま、これが最後のチャンスだと思い、積み残した春学期(3~6月)に再挑戦中です。(SARSが原因の帰国だったとして、学費が半額になりました。)
 3年ぶりの北京は、オリンピックを控えて外観は大きく変化しています。大学も外観のみならず「中味」に大きな変化を感じます。
 留学生の宿舎が1棟増えました。アフリカからの留学生が数多く見られる様になりました。中国の経済発展と中国の石油確保の対外政策と無縁ではないでしょう。先日のニュースで胡錦濤主席がナイジェリアの国会で長い演説をしている様子が放映されていました。小泉首相が今ごろになってエチオピアを訪ねる様では遅過ぎるのではと心配です。中国は着々と外交の手を打っています。
 小生のクラスは、韓国 3、日本(の老人) 3、タイ 2、ラオス 1、カザフスタン 1の計10人です。タイの19歳は医大生。カザフスタンの17歳は母国語、ロシア語、英語の3ヶ国語プラス中国語を勉強している天才少年です。9月から本科生となりマイクロウエーブの研究をするそうです。ベトナムの学生は、本科生として留学中ですが、講義内容が分からずもう一度中国語の勉強をやり直しています。そんなわけで授業内容が厳しくなり、予習と復習をしないと若い人に付いて行けません。留学でなく「遊学」の積りでしたが、心得違いでした。
 4月にタイの小中学生20人が、1ヶ月の短期留学でやって来ました。4月はタイ暦の正月で学校は1ヶ月間の休みだそうです。華僑のたくましさと中国の経済発展を子供たちを通じて体感しました。
(写真右上は日曜の午前中、本科生の日本語クラブでのボランティア講師。左下は日本語クラブの学生たちとのお花見、定年になった元高校教師の日本人と)

 (北京郵電大学国際漢語培訓中心・留学生)


 関 崇次(法法)
 
  六十余歳の潔斎

 私の友人には我が儘な男が多い。先日白門の級友のH君から「5月3日~7日は5連休で暇だから一日は付き合え」と電話があった。そこで日程は変則勤務の私の休日に合わせて貰い、内容についてはH君の家と私の家のほぼ中間である「根津神社のつつじと亀戸天神の藤を見に行かないか」と提案した。ちなみに千葉県のご出身であるH君の奥様もまったく同じことを言われていたそうである。にもかかわらず同行するM君とも相談の結果「以前計画しながらぽしゃってしまった佐倉の国立歴史民族博物館に是非とも行きたい」といってきた。
 市原市に「豪邸(?)」を構える私としては「佐倉に行くとなれば私の車でご案内して、国立歴史民族博物館のほか1、2の観光スポットにもお連れしよう」と考え、早速パソコンで行程表を作成しH君にFAXした。またまた電話があり「どうせ佐倉までいくのであればHもMも成田山へ行った事が無いので是非とも寄りたい。また、散会前には酒盛りをすることが必須条件である」とのきついお達し。あれこれ考えた末、両氏のご用命をすべて適えるには車でご案内した後に拙宅で粗餐を差し上げる以外に名案はないという結論に達した。
 さて当日、全行程を電車にせよという両君をなんとか説得し、車で国立歴史民族博物館~成田山新勝寺とお連れした。ところが罰当たりの3人共新勝寺は何宗であるかも知らない。山門に弘法大師云々かんぬんと書かれてあるのを見て漸く真言密教のお寺であると知ったような次第である。H君とM君は厚かましくも本堂に上がりこみ坊主の説教を聴こうと靴を脱ぐ始末。私もしぶしぶ後に従い数語拝聴した後に早々と逃げ出したが、両君は熱心に傾聴し、あまつさえM君など護摩の煙を上着にかけて貰うという俄か信者ぶりであった。
 三者三様これまでの六十余年にわたる世俗の埃に塗れた生活を潔斎できた一日とあいなった。ちなみにH君とは林克明君、M君とは三沢充男君のことである。


 宮本常子(文哲)

 長瀞と甲州・塩山市へのバス旅行

 4月5日にほのぼのパソコン勉強会の方達とバス旅行をしました。メールをやり取りしている10人の女性仲間が全員参加しました。
 長瀞でヒッソリと咲く「かたくりの花と一輪草」を、奥秩父の清雲寺では樹齢600年のしだれ桜や目を奪われるばかりのたくさんのしだれ桜のシャワーに出会って大満足でした。また、そこから2時間かけて山間をぬうようにして行った甲州塩山市・慈雲寺の糸しだれ桜は、静かなたたずまいの中にあって、幾重にもだらりと垂れ下がった桜の房の間に思わず入って見たくなるような見事さがありました。
 雨模様との予報があたり、少々難儀でしたが、ひどい雨でもなく、風情のある雨の中の桜に酔いました。農園ホテルバイキングも美味しかったし、62歳から77歳の参加でしたが、皆さん意欲的でお元気なのには驚きました。特に77歳の方がフットワークがよく、デジカメ撮影が上手で熱心でした。また、帰りのバスの窓から「隅田川の舟下りと夜桜」を見ることが出来、ラッキーの一言でした。
 パソコン勉強会とは、柏市にある老人介護予防施設「ほのぼのプラザ」で、パソコンを勉強したボランティアグループが、60歳以上の習いたい人に教えていて、個人で予約して教えてもらえる他、毎週木曜に30人~50人位の人が勉強会を開いている。そこでも、ボランティア先生がスライドを使って柏の歴史や柏の議会の様子などをパソコンで紹介、勉強している。
 ホームページを立ち上げている人、ブログで朝食を紹介している男性(料理の研究心がある)、歴史に詳しく柏近郊の歴史や古代人の歴史を勉強している人、柏出身の画家の本を紹介する人など話題は豊富。
 皆さん65歳から70歳前後の方も多い。最高は84歳女性で、おしゃれで、パソコン、英語の勉強に熱心。1階には談話室があり、仲間つくりに貢献している。
(写真は、塩山市慈雲寺──PC仲間の皆さんと)


 龍門海行(理土)
 
  自然の中へ

 最近は企業人から離れ、自然環境指向型人間になっている。  
 発端は山や海へ出かけた時に、自然の中にある花や木などに詳しい人がいると説明を受け、納得し満足するのであるが、いざ自分が自発的に自然の中に入ると、ただ美しい、きれい、素晴らしいと言うだけで、これは何の花、この木は何、どうしてこんな所にあるの、とか分からない事が多すぎて、己の動植物に関する知識の無さにガッカリして帰って来るのが寂しくなったことである。そこでリタイアしたら自然的環境の世界へ積極的に向かって生きたいと思い、以前より自然に関する勉強をし、特に森林に関する事に興味を持ち今日に至っている。
 という事で、最近は小、中学生用の「植物図鑑」が座右の書であり、これが私の能力に非常に合っていて、理解しやすく分かりやすい。先だっても地域の自然観察会があり、やって来たのはほとんどが小学生の親子ずれや、自然の事を知りたい年配者(不思議に男性が多い)が主であるが、小学生の興味はなかなかのもので、質問も鋭く、未熟者の私ではなかなか説明出来ない事ばかり。そこで先輩の人(ほとんどが年配の女性が多い)が分かり易く説明するので、五感を働かせ体感し喜んでいる。その姿を見ていると、自然の環境下に子供たちを常に出し、体感させる事の大事さを痛感させられる。特に我々世代の仲間でも地方で育つた人は、一般的に小、中、高校時代を自然環境の中で生活して来ているので、体で感じた生きている知識があるのにつくづく感じ入る事がある。この点からも、人には育ちの環境により、様々な個性なり、知性等がありお互いに敬わなくてはいけない、という事を最近特に感じている。
 ところで自然観察会は一般的に、都市部近郊の平坦地が多いが、森林観察会とか、森林体験会となると、多少起伏のある丘陵地となる。ここに参加する人は中学生~社会人となり、若い男女が少数でほとんどが世俗を離れ、自然環境に浸りたい年配者(やや男性の方が多い傾向)である。
 ここで私の出番である。まず第一に体力的には申し分なし。第二にサラリーマン時代の知識が生きる。土と水、木に関するおぼろげなる体感的な知識は、まあまあ。第三に危険予知能力である。これは仕事上で体感したものである。
 問題は、木の名前、見分け方、性質、利用の仕方などの本来参加者の知りたい事があまり詳しく説明できない事である。でもこの問題も、最近は参加者よりも多少詳しくなり、ベテランがいない時は何とかこなしている。
 という事で、最近は心身ともに充実した生活を送っている為か、夜は21時~22時頃には床に就く生活である。しかし、43会の仲間と会う時は別である。昼夜を問わず、昔取った杵柄で、いくらでもお付き合いをするのでご心配なく声を掛けて下さい。 


 高梨明宏(法法)
 
  頭のよくなるトレーニング  ~学力は性格や心がけに連動する~

 何事にも、できる人とそうでない人には、共通のパターンが見られます。心がけと発想が乏しければ、授業を聴いても教科書を読んでも、把握力が弱く、結果は歴然。自分の机に向かう時間の長短が、結果に表れるとは限らない。スポーツと同様、できる人の共通のパターンを学びましょう。
 心がけが変れば、感性も豊かになり、把握力向上、学力アップ、頭もよくなる。

1 勉強ができる人には「共通のパターン」
  ①明るく ②元気で ③思いやり(聴く耳)があり ④我慢強い人間
  人を笑わせる力、人と協力する力、友達をつくる力、聴く態度があり、人を思いやる気持ち
  明るいあなた、元気なあなた、思いやりのあるあなた、我慢強いあなたになろう
    ・・・・記憶力、理解力、想像力、応用力が優れてゆきます
2 家事のお手伝いをすると頭がよくなる
  毎日20分の我慢が成績アップのコツ(自己中心の考え方からの脱却)
  勉強前の準備体操
    ・・・20分間家事の手伝い・・・創意工夫と我慢を学ぶ・・・感謝されてα波が発生、
       素直な気持ちで机に向かい・・・理解力アップ。
    ・・・お茶碗洗い、掃除(家の内外)、洗濯、雑巾がけ、整理整頓(居間、勉強部屋)、肩もみ
    ・・・父母に感謝され「嬉しい気分に」・・・親子の心の通う良い関係・・・α波の発生
  α波が能力を高める
    ・・・心が落ち着き、記憶力、理解力、想像力を強くする
  α波を出そう
    ・・・ほめられる状態、感謝をされたとき、人に優しくしたとき、親しい良い友達と
       話しているとき、勉強が良く理解できたとき。
3 大事なのは予習、そして反復と継続(学習の王道、楽しくなければ勉強でない)
  予習は理解力をつける
    ・・・勉強が楽しくなり、苦手の科目も解消、勉強嫌いが克服でき、集中力もつく。
  「集中力」が頭脳をよくする
    ・・・予習をすると授業中に理解力と集中力がつく(良い循環)。
  「反復練習」が学力をつくる
4 必ずできる! 理解できる! 覚えられる!
  「忘れるな」が理解と記憶を邪魔する
  「忘れたら」また楽しく「覚えよう」「理解しよう」・・・絶対、絶対、あきらめない!
5 心と頭を開くこと(心のコアを高めよう)
  自分の心と頭を開いてやろう
    ・・・思い過ごしを捨て相手の立場で考えよう
    ・・・閉じたら開け、心と頭(心のコアは自分で耕せ)
  家族と協力してα波を出そう
    ・・・会話、家族と月1で外食、トランプ等のゲーム、家族旅行
  心を閉ざすと頭も閉ざす・・・悪循環の繰返し
  その原因は心がけ・・・予習を怠っていると・・・勉強がつまらなくなる、その結果、
    「命令を受ける」・・・勉強しなさい、早く起きなさい、早く片づけなさい
    「脅迫を受ける」・・・お小遣いをやらないぞ、そんなことでは大学へ行けないぞ
    「強制を受ける」・・・肉体的な暴力、体罰、小遣の減額
6 困った人(心のコアに問題発生)
  暗くて、元気がなく、わがままで、諦めやすく、すぐ切れやすい人、馬鹿声・奇声を発する人、
  恥かしい行為をしても気がつかない人、弱い者いじめをする人、聴く耳がなく偏見を持つ人、
  靴を引きずりだらしない音を発する人・・・向上心の欠如の表れ・・・学力低下
7 感性を高める訓練・・・多くの人に配慮でき、感じる心が増せば成績アップ
  だらしなく歩かずに足音を消して歩こう(学校、街中、駅の階段)、馬鹿声・奇声を発しない、
  服装を正す、朝は自分の力で起きる、自己主張の前に人の話に耳を傾ける、
  姿勢を正して勉強する、電車の中で化粧をしない(醜い、恥かしい)、だらしなく座らない、
  お年寄・弱者に配慮、思いやりのある優しい心、何事にも一生懸命・・・把握力向上
8 父母がいて自分がいる、多くの人がいて自分が生かされている
    ・・・感謝・・・素直な気持ち(α波の発生)・・・理解力アップ・・・学力向上・・・頭が良くなる

  <ご参考>
   「高校で学ぶ勉強の意義」 高梨
   「受験生高校生の皆さんへ」 高梨
   「頭のよくなる読み薬」 武田利幸著(声の教育社)
  

 
 大谷隼夫(法法)
 
  幸福の木に花が咲いた

 皆さんは観葉植物ドラセナ(幸福の木)に花が咲いているのを見たことがありますか。
 ある朝、私の事務所の会議室に入ると、上品な甘い香りが薄く漂っていて、ふと見ると会議室の隅にある幸福の木に花が咲いていたのです。花は乳白色で直径4センチくらいの球形をしており、木の最頂部から伸びた長い茎にいくつも付けていました。一見八つ手の花に似ていますが、近づいてよく見ると、細い管状の小さい花が寄り集まって球形を成しています。十日ほど咲き続けてくれました。
 しばらくたってから「そうだ、写真に撮っておこう」と思い立って写したので、写真では茶色がかっていますが、咲いてから数日の間はすべてきれいな白色をしていました。きっと幸せを呼んでくれることでしょう。
               


                   

 下條勝也(経経)
 
 「ボディラフティング」って知ってますか?

 ラフティングというスポーツをテレビなどでご覧になった方も多いと思います。ヨーロッパやアメリカ大陸で、あるいは埼玉の荒川や四国の四万十川上流で谷あいの激流をライフジャケット(救命胴衣)を着装した何人かがクルーを組んでゴムボートで豪快に川くだりするスポーツです。
 昨年の夏、これをボートなしでやっちゃおう、要するに体ごと水流に身をまかせての川くだり、まあ溺れぬ川流れ、という発想のまことに愉快で面白そうなイベントが企画されました。
 主催者は神奈川県立清川(きよかわ)青少年の家。若者の健全育成を図る施設。場所は山梨県を源流として、横浜市の飲料水源となっている道志川上流、神奈川と山梨の県境付近、名づけて「道志川探検隊」、一泊二日。隊長、つまりインストラクターは相模川上流の宮が瀬湖や、埼玉県の長瀞でカナディアンカヌー教室を開催している日本有数のカヌーイスト二人と青少年の家のスタッフ。隊員は、私の年代のオジさんや、元気なオバさんから高校生まで。スタッフと合わせ総勢約二十人。
 河畔のオートキャンプ場に集合して開講式後、探検前の準備知識はまず人命救助法のマスター。全員がヘルメットをかぶり、ボディスーツ(全身を覆う特殊ラバーの胴衣)とその上にライフジャケット、足元はスニーカーやビーチシューズで完全防備。そして流れの中で溺れている人に命綱を投げて岸まで手繰り寄せる。これがまた綱は目標に命中せず、悪戦苦闘。イザという時に役立つのかしらん、と思いつつもまずは慣れることが重要と練習、練習。
 引き続き中州に取り残されたケガ人を想定して、四人がグループを組んで手元にあるロープのみ使用しての救出作戦。岸辺に陣取った他の仲間からの声援を受けて、急流と水ゴケで滑る岩を回避しながらの、これも悪戦苦闘の連続。
 一日目はアッという間に過ぎ、夜はキャンプファイアーを囲み反省会。カヌーイストによるその光景が目に浮かぶような貴重な体験談に一座は興味津々。
 明けていよいよ「探検隊」。前後を隊長がかため全員一列縦隊で上流へ徒歩行進。大きな岩場を乗り越え、砂利の川岸を歩き、流れを横切り、深くて波ひとつ立たぬ淵を泳ぎ渡り、流木でせき止められた堰を回りこみ、大汗を流しながら歩いて約四キロ上流のスタート地点へ約3時間。いままで歩きながらインプットしてきた、途中の岩場、堰、急流、淵、浅瀬などを思い浮べながらいよいよラフティングのスタート。
 あお向けになって流れに身をゆだねる。ゆるやかな流れから突然の急流など、思わぬ場面転換に、そのたびそのたび対応しながら下って行く。流れの音を聞き分けながら、堰が近い、滝の上流に到達した、深い淵に近づいた等、どんな行動をするかの判断を自らの責任で下しながらの川下り。青空を見上げ、沿岸の緑をほんの少し楽しみながらの自然の中に全身全てをひたしての小一時間。
 釣り人が竿を出し楽しんでいる所は岸辺に上がって徒歩に、我々の異様な行動に目を丸くしているキャンプ中の小学生達と、水遊びに興じながらのいままで未体験の楽しさに身をゆだねた貴重な体験。
 自然の雄大さ、それに比べ人間のなんと無力なこと、しかし人間の五感の素晴らしさをつくづく感じ入ったイベントであった。
 かくして私はNPO法人・自然体験活動推進協議会Council for Outdoor ・Nature Experiences いわゆるCONEリーダーの登録を完了しました。夏は海でシーカヤックを楽しみ、春と秋には丹沢の山の植林を続け、これからは子供達の野遊びやアウトドアの活動の手助けをしながら自然の素敵さを沢山伝えていきたいと考えています。


                       

 荒井洋一(法法)
 

 新しい年を迎え張り切るというより、平穏に迎えられたことを安堵する年齢になりました。そうは言っても貧乏暇なし、仕事は忙しく合間を縫って趣味の写真を撮りに出掛けるのが何よりの楽しみです。
 写真は昨年の弁護士会主催の美術展に出品したものです。
 「春踊る」と題した方は長野市郊外の「丹霞郷」と呼ばれる場所に咲く桃の花です。雪を被った黒姫山と妙高山が正面にすっきりと立ち、タンポポの群れ咲く若草の台地に映える桃の花の美しさは格別でした。
 「諏訪湖・お神渡り」は昨年の冬に7年振りに諏訪湖に出た、いわゆる「お神渡り」を撮ったものです。「お神渡り」とは全面結氷した氷が膨脹して割ける現象で、地元の人はこれを神様がこちらの岸からあちらの岸までお渡りになったとして、この氷の割け方でその年の作物の豊凶を占います。夜明けの光に照らされて輝く青白い氷は「神様」の存在を思わせるに充分な美しさで、その神秘さに心が躍りました。
 二つの作品は展覧会を見に来られた業界誌「リブラ」の編集者の目に留まり、本年の1月号、2月号と連続して表紙の裏に掲載されました。新年早々の光栄だったと思っています。
  
            春踊る                         諏訪湖・お神渡り
 

*** 以前のご寄稿の内容は「寧日雑感Ⅰ」をご覧ください ***