『わがふる里とレスリングについて想う!』  (後編:レスリングとの出会い)佐藤 義           

増毛高校2年の時、増毛出身の松江喜久弥の指導のもとで、池田三男とレスリングの
練習を始めた。池田は後に、メルボルンオリンピックで金メダリストに。当時は、マットや
シューズなどあるはずもなく、固い柔道の畳で、体中傷だらけになり、家族からは直ぐに
でも止めろと言われた。寒稽古では、体育館の窓の隙間から雪が吹込み、たびたび畳
 が白くなった。松江は、増毛の鰊(ニシン)漁網元の御曹司で、中大レスリング部の創設
 者(初代主将)でもあり、戦後初のオリンピック・ヘルシンキで、日本選手団唯一の金メダ
 リストになった石井庄八の“育ての親”といわれた。                      

 最初に公式試合に出たのは、千葉県船橋市で開催された第二回全国高校選手権大
 会。松江に、マットに上がる時「膝が震えるぞ!」と言われたが、本当に膝がガクガク震
えたのを覚えている。                                       
  以後、北海道代表で4年間、池田と共に国体に出場。第6回広島国体では、昭和天皇
  皇后両陛下のご臨席を賜り、街には、まだ原爆投下の瓦礫が残り、20~30年は草木も
 生えぬとは宿舎の女将の話。第7回東北3県国体の入場式は、オリンピック宛らで、宿
  舎の女将や集まった子供達からはサイン攻めに。第8回四国国体は、阿波池田で、町内
  総出で阿波踊りの歓迎を受け、第9回北海道国体では、レフリー・ジャッジの審判員を兼
 ね国体役員として参加した。                                    

 
 (寒稽古を終えて。若い頃の筆者) (© Tadasi Sato)
                             
 増毛高校からは、池田三男・桂本和夫・佐藤義が中大に進み、2年後に浅井正もレ
スリング部に入部。当時の監督は石井庄八、主将は笹原正三。駿河台の道場(駿河
 台記念館辺り)には、他に相撲・ボクシング・弓道・自動車の各部があり、同期では、相
  撲部に、三二会前事務局長の対馬逸雄氏や佐藤俊雄氏、学生横綱の照井久見氏が、
  ボクシング部には、山影ヤス子さん(増毛高出)のご主人で、主将の山影清氏がいた。
 
 2年目に、新人選手権大会で優勝し、以後団体戦では、常にレギュラーでポイントゲ
ッターに。毎年春と秋の合宿に参加。長野では、自動車部のトラックにマットと一緒に
乗込み、善光寺の参道“牛にひかれて善光寺まいり”のダラダラ坂や、仙台では、宿
 舎から伊達政宗公の青葉城址までのロードワークはかなりハードだった。他に、福沢
        諭吉の生家のある大分中津や新潟・山形などの合宿にも参加した。                 
 
 毎年春秋、関東と関西で各大学対抗のリーグ戦が開催されるが、それぞれの優勝
校間の全日本王座決定戦では、ほとんどわが中大が王座を制覇。祝勝会の伊豆大
 島では、仲間とトレパン姿で、三原山の火口まで駆け登り、五合目の「歌乃茶屋」で、
絣(かすり)姿のあんこさんを囲んでの写真も懐かしい想い出の一つ。ただ、毎回試
 合前のウエート調整で数Kgの減量はかなりキツかった。当時は、サウナなど無く、よ
 く東京温泉にも行った。                                     
 毎日の練習後に、自主トレではあるが、駿河台の道場から神保町を経て靖国神社
の坂を上り、皇居外濠一周するのが日課の一つで、桜田門から二重橋前広場に差
掛かると、たびたび観光客からカメラを向けられたが、当時は、ジョキングなどする者
 もいなくて、もの珍しかったのかも・・・。また、リーグ戦は各大学応援団の競演でもあ
 り、三二会入会後に、応援団幹部であった栗田潤氏から、リーグ戦の応援で私を知
            っていると聞かされ大いに感動した。                                        

  
  (中大レスリング部時代。左から佐藤義・池田三男・桂本和夫)(© Tadasi Sato)
                                            
 3年の頃、道場は、駿河台から春日に移転。最近、懐かしさもあり道場跡を訪ねて
  みたが、理工学部のキャンパスの高層校舎が建ち並び、当時の面影は全くなかった。
 ふと、石段でトレーニングした牛天神(北野神社)を思い出し行ってみたが、半世紀余
 り過ぎた今でも、その石段は昔のまま残っていて大感激!直ちに、当時の仲間達の
   面々が、まるで走馬灯のように脳裏を駆巡り、まさに“夏草や兵どもが夢の跡”の様相。
 近くの伝通院には、当然ながら 於大や千姫のお墓は昔のままだった。        

    また日本指圧専門学校の前で “押せば生命の泉湧く”の浪越徳治郎の胸像を見つ
  けた。後輩で東京オリンピック金メダリストの渡辺長武が、公式試合連勝記録187回
  でギネスブックに認定され、その認定証授与式で同席した浪越に『弟子にしてよ~』と
  言ったら、気軽に『あ~良いよ』と言ってくれたのを思い出した。なんでも、新婚旅行で
  ディマジオと来日していたマリリン・モンロ-をマッサージしたのが、大の自慢話のよう
  だった。中大レスには、後輩でプロレスへ転じた鶴田友美(ジャンボ鶴田)と<K-1>
   の桜庭和志がいた。また、格闘技ではないが、同期で、頭山興助事務所から独立した
石門社の関二郎がいた。                                   
                                                                    
   メルボルンオリンピックの二次候補に選ばれて、当時のレスリング協会八田一朗会
   長のもと、西脇市で強化合宿に参加。毎日、朝・昼・夕3回の猛練習。宿舎では電灯や
   ラジオをつけっ放しで就寝させ、動物園ではライオンとの睨めっこ。砂浜を下駄履きで
    走らせる等、独特のスパルタ式の練習はマスコミでも話題となり、“根性の八田”といわ
 れ、参議院議員も務めた。                                  
    メルボルンオリンピック出場決定戦を兼ねた全日本選手権大会では、3位で日本代
   表になれず無念の涙。中大からは笹原・池田・桂本・浅井が出場、笹原は日本選手団
  の旗手を務めた。笹原・池田が金メダル、桂本・浅井もそれぞれ入賞。私の往年のラ
   イバルだった明大・笠原茂の銀メダル獲得には、何故か救われたような気がしたのを
      記憶している。                                              

    ちなみに、中大レスのオリンピック金メダリストは、石井以来5人で、未だに他大学の
   追随を許さない。後に、笹原は紫綬褒章を受章、日本アマチュアレスリング協会長を務
   めた。高校時代野球部にいた桂本は、国鉄スワローズ(現ヤクルトスワローズ)に入団
    し、外野手として活躍。当時は、金田正一や豊田選手等がいて、監督は宇野光雄。そ
    の監督令夫人は増毛出身の松江の令妹で同郷でもあり、飼っていた樺太犬の散歩が
                          てらに、たびたび中目黒の自宅に伺った。                                                               
    池田とは、小学校からのいわゆる“竹馬の友”で、メルボルンで優勝した時は、春日
    の道場で多くの新聞記者に囲まれてのインタビューに、まるで自分がメダリストになっ
      たような錯覚さえ覚えた。                                       
    オリンピック選手を3名も輩出し、しかも金メダリストの誕生は、当時ニシン漁の終焉
    で大打撃を受けていた増毛町にとっても、明るい話題として、全国にその名をはせた。
     その4年後のローマでは、後輩の浅井と佐藤多美治(増毛高出)が、それぞれ4位に
入賞し、さらに“レスリングの増毛”として全国にその名を知らしめた。       

           (参照:Yahoo!検索『タイムトラベル増毛』・『北海道出身の人物一覧』)