去る2月9日(月)~同月21日 (土)の13日間、会社
を休んで、大学時代の友人5人(在学中、全 員「英語学会」に所属)と当該友 人の奥さんの6人でニュージー ランド旅行に
行った。同国に彼等と 一緒に旅行をすることになった動機 は、一昨年、同じ大学時代の友人(彼も「英語学会」所 属)の
一人がガンで他界したので、その数か月後に、 彼等と一緒に愛知県の亡き友人(以下「 I君」と言いま す。)の自宅に伺い、
墓前で冥福を祈って来たが、墓参 後、自宅で I君夫人、長女の夫(ニュージーランド人)を 交えて懇談した際、長女が
ニュージーランド人と結婚 し、ニュージーランドのダニーデン市に住んでいること もあって、I君は、度々、同地を訪れていた、
又老後は、 同地に移り住むことも考えていたということを聞き、 それでは、生前のI君の軌跡を辿り、皆でニュージーラ ンドに
「追憶の旅」をしようということになった。 今度の旅行は、同国ダニーデン市に住むI君長女家 族の多大なサポートを得て実現した。
日本(成田) ⇔ ニュージーランド間の往復航空切符の予約から、国内 旅行のホテルの手配・予約、そしてレンタカーの手 配など、
全て「おんぶにだっこ」だった。レンタカーで の国内旅行は、I君夫人・長女・長女の夫、そして4歳の お孫さんも一緒だった。道中、
レンタカーの運転は専 ら長女の夫(Mike)にやって貰った。我々も、一応、国際免許証を持っていったが、結局、
誰も運転することはなかった。その理由は、そのレンタカーが、十数人乗り で大きいこと、しかもギアがオートマチックではなく、
マニュアルだったからだ。マニュアル車は、左足を思い切り伸ばさなくてはならないので、高齢になると足 を吊る恐れがあり怖かった
からだ。南半球にあるニュージーランドは、日本と真逆で、 2 月は真夏という先入観念があったので、夏服を多く持 って行ったが、
曇天が多かったせいもあり、ひんやりと して、とても夏服では寒くて着ることが出来ず、万が 一のためとして、持って行った春・秋向け
の長袖の方 をずっと着ることになった。長袖は、少ししか持って行 かなかったので、殆ど、着た切りだ。 車中は、お孫さん
(ちーちゃん)がいたことで、旅は、 大変、賑やかで楽しいものになった。彼女は、完全な、 バイリンガルで、後方のシート( 3列目)
から車を運転 している父に話し掛けるときは「英語」で、母親・祖母 (I君夫人)そして我々日本人と話すときは、「日本語」 で話す。
彼女がお父さんに話し掛ける英語は、幼児語であることもあって(言い訳?哉)小生には、さっぱり分 かりません。又、我々が英語で
彼女に話し掛けても、当 然、意味は分かっているのに、英語では応えず、怪訝な 顔をする。彼女は、彼女なりに、ニュージーランド人
(に 限らず、日本人以外の人)とは英語で、日本人とは日本語
でというふうに使い分けている。現地の人々に個人的に案内されての旅は、パックツ アーでは味わえない奥の深さを味わ
うことが出来た。 例えば、旅行の途中、Mikeの父が住む家を訪問する 機会があった。こんなこと、パックツアーでは絶対に
経験出来ない。今回の旅行を通じて感じたことは、先ず、英語国でよかったなーということだ。我々は、学生時代、英語
学会で4年間を過ごし、卒業後も(一人だけを除き)海外 駐在を含み海外関係の仕事に従事していたので、英語に接する機会
は多くあり、それなりに、英語を話す ので、街で現地の人に道等を尋ねることがあっても、 臆せず話し掛けることが出来、
又現地のレストランに も気軽に行くことが出来た (日本食レストランに行った のは、クイーンズタウンでの一か所だけ )。
これが英語 圏を旅行する際の醍醐味だ。此処で、最後に一言。現地の昼食レストランで、ホッ ト・コーヒーをオーダー
すべく、"Regular coffee without sugar & milk”と言った。ところが、店員は 怪訝な顔をするばかりで、通じない。
後で、分かったが、 同国では、普通のホット・コーヒ―のことを ”regular coffee“とは言わず、”long black”
という。帰国後、 同じ会社に勤めるアメリカ人に“long black“の意味 分かるか聞いたところ、全く、[分からない」
と言ってい た。英語も地域により、結構違いがある。ということで、 13日間のニュージーランドの旅は、 あっという
間に終わった。 (文・写真 星 弘美) 白門41会だより . |
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