今年(平成21年)の青梅マラソンは、10kmスタートの10時現在、気温14℃と、異例の暖か〜い中で行われた。毎年の代名詞となっていた「寒い青梅」返上である。
昨年が雪のため中止とあって、今年にかける意気込みは大変なものが伺えたが、我が白門41会同士は4人が挑戦。藤本、直井、田中、田口である。ただ、直井さんは目が不自由な「みいなさん」の伴走者(別途本人談を参照)として参加、この優しさに感心するとともに、改めて彼の人柄を見た。(その他常連メンバーは見当たらず)。
相変わらずの沿道の熱気溢れる応援。今年は暖冬?で梅も満開、青梅駅前には中大の幟旗を手に、我が同士の応援団も待機。10km走者4,831人の中で気持のいい汗を流した。
今年43回目となるこの大会も、1967年に「東京オリンピック第3位の円谷幸吉選手と走ろう」をキャッチコピーとして盛り上がったもので、その第1回大会は我が白門41会同士である若松軍蔵さんが円谷選手を抑えて優勝したことは皆さんの記憶に刻まれており、また我々の誇りでもある。
いまや日本国内だけでなく世界に名を馳せた、市民マラソンの草分け的存在の“青梅マラソン”も、その舞台裏に忘れてはいけない「久保田克彦さん」の存在がある。我々の大先輩で、一昨年まで青梅市陸上競技協会会長を務められ、強いリーダーシップで「今日の青梅マラソンの礎を築かれた」が、病魔には勝てず、昨年10月22日に73歳で逝去された(合掌)。
我々白門41会走者は、毎年ご厚意に甘えて、久保田さん宅で着替えをさせていただき、走り終えると、応援者も加わって、裏庭でビール、お酒、心づくしの料理で大歓待を受け、それから青梅かんぽの宿に向かったものである。昨年の降雪によるマラソン中止の際も、東京陸協・青梅市陸協をはじめ大会関係者や東洋大・亜細亜大の方々など大勢が集まり、久保田さんも病院から帰宅され談笑したことは既報(37号)の通りであるが、毎年大勢が集まる、久保田さんの人柄・人望のなせるところである。今年は奥様(トリ子夫人)から、いつも通り来てくださいよとの声がかかり、お邪魔させていただいた。ご仏前にご挨拶すると、にっこりと励まして下さった。完走後のビールと料理はこれまた美味しく、後ろ髪を引かれる思いで、いつもの青梅かんぽへ。
常連走者の入江さん、大島さんの姿が見えなかったのが寂しかったが、いつものメンメンが集まった。馬渕さんの名司会で始まった宴も、アルコールが入るとこうも人が変わるかと思わせる光景をも楽しみながら、中にはお腹の周りをなでながら「頭脳的健康法」を説く人や悪いとわかっちゃいるけど「非健康な生活」にドップリ…。毎回出てくるのが「来年は俺も挑戦しよう」の決意(欠意)表明、ムリをしないで歩くだけでもいいよ。
そして締めは、角田さんのエール。これを聞かなきゃー青梅は終わらない。本当に現役当時そのままの声量にウットリ…、全員満足。ありがとうございました。
来年は2月21日(日)、青梅でお会いしましょう。そして“青梅かんぽの宿”で大いに語らいましょう。 (田口記)
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