私の白門41会入会の思い出
久保寺克彦

 今から21年前の白門41会の設立記念日を思い出して書く。私は確か48才の春に東京都町田市在住で同じクラスの小林久二氏から会社に電話があった。近い内に中大41年卒業生の同期会を作るので、「君は東京にいるので僕と一緒に参加しないか」との話を受けた。久しぶりに会えるので応諾したのが入会のきっかけである。
 彼は町田支部に所属、この同期会創立の件を知ったようだ。もし彼から電話がなかったら、当然41会とは無縁であった。私は中大卒業後、学員会に入会していなっかたのと、昭和44年4月渋谷区千駄ヶ谷より中野区江原町に引っ越したので、永久に中大との連絡が取れない状況下にあった。卒業26年振りに彼のおかげで再び中大との絆を得ることが出来た。
 41会創立日は武蔵境駅で待ち合わせバスで多摩校舎に行った。バスを降りてから坂を上がり初めて見た校舎は、広い敷地に白い城のような大きい何棟もの建物に驚いた。都会の駿河台校舎と多摩の風景が違いすぎると思った。校舎に入って係りの方から現在の勤務の内容を記入する用紙をもら った。私は直感的に中大の期末試験を思い出し、複雑な気持になった。試験は好きでなかったからだ。私は配布された内容を書き終えて、彼に「この会場に来ている人達は自分とは異質の生活をしている人ばかりで、私の来る場所ではないようだよ」と話したら、彼は「君だけではないよ」と言い、私を安心させた。多分誘った手前、私が場違いの会に入るのを困惑している様子と思い、慰めたのかも知れない。設立の懇親会の席で特に印象深いことは長内先生が「自分たちも間もなく人生の半ばを過ぎ50才に達すると」話した事を思い出す。あれから早くも70才に達しようとしている。当時の集合写真を見ると懐かしく思い出す。
 人生の不幸は突然訪れるものだ。第10回目総会出席の時、いつもの待ち合わせ場所でなく、彼は新宿の会社に来て食事をしてから行こうと連絡があった。久しぶりに会い私の方からすぐに「前より痩せて見えるけれど何か体が良くないのでは」と話した。以前より痛風で薬を飲んでいると聞いていたので心配していた。実はガンになっていると聞き驚いた。彼はやっと仕事も軌道に乗り、これからだという矢先にガンになり「もうどうする事も出来ない」と、病院をかえても同じ診断だと言った。また会社はどうしようかと心配していた。精養軒の帰りに以前より熱心に別荘に誘われたので夏を過ぎた9月に行く約束をした。熱海の別荘で一泊した。彼は体の調子が良くないと言い体を横にして、中大時代を懐かしく楽しそうに話していた。帰りぎわに釣りに行く話も出た。人は死に近づくと必死に生きようとするのかもしれない。彼は翌年春に他界した。戦時中より東京に住み、戦後の混乱と平成のバブル並びに不況を経験し、激動の時代を通り過ぎた。おそらく中大の4年間は希望に燃えた事と思う。ご冥福をお祈りする。(久保寺克彦)