母校の発展を願い白門四一会を創立
故長内了名誉幹事長を偲ぶ

宮田永生
長内幹事長が最後に出席した第19回定時総会(平成23年6月18日)

 今年3月には、長内先生から「ガンの進行は抑えられており、もう少しお待ちください」という自筆のはがきが届いた。7月に清瀬の病院に見舞い、四一会の報告をしたときには、起き上がれなかったものの、血色も良く、話をすると頭を動かして応え、がっしりした手で握手をしてくれた。8月に名誉幹事長委嘱の旨を伝えると、奥様を通じて礼状が届いた。まだ回復の余地があるかもしれないと思っていた。亡くなられてほんとうに残念。心からご冥福を祈る次第である。
 長内先生から私に四一会創立の話があったのは、日本比較法研究所事務室に勤務していた平成3年の秋である。そこには法律担当教員が所属し、長内先生は主要メンバーで活動していたが、さらに教員としては珍しく学員会役員と勉強会などで交流し、学員会の活性化とその母校支援にも関心を寄せていた。その関係で、学員会から平成3年度ホームカミングデー参加者名簿が提供され、年次支部創立の要請があったようである。
 早速、同じフロアの人文科学研究所事務室の藤本義幸氏(前四一会事務局長)にも伝え、3人で同期会創立の方法を検討した。その上で学内同期生15人とホームカミングデー参加者の中から世話人を選び、長内先生自らが代表となって平成4年2月に世話人会を結成し、同期会結成を呼び掛けた。
 そして平成5年6月、白門四一会は長内先生を幹事長として発足した。しかし、法学部長など要職を歴任しているのに加え、学員からも人気があり、交流範囲は広く、四一会のための時間をつくるのは容易ではなかったと思う。四一会の懇親会などでも、つねに誰かが話し掛け、事務局が打ち合わせする余地もなかった。とにかく長内先生は学内外を問わず非常に人気があった。
 その理由は、穏やかな人柄に加え、一つには母校の発展を真剣に考えていたため、母校を愛する人々の心配や提案を人一倍理解し共感できたからではないかと思う。母校や学生のためなら労苦もいとわなかった。四一会創立当時の会報にも「私たちがこのような組織を結成するに至ったのは、単なる懐旧のためではなく、母校の明日をますます豊かなものとするための一助たらんと志したからにほかなりません」と綴っている。
 その志のもと、四一会では自ら好んで使った「同期の仲間」を合言葉によく飲みよく語り合った。大学・学会の重鎮ながらも象牙の塔から抜け出して気さくに付き合った。そのような長内先生に会いたいがために顔を出すという会員も多かったのである。このため四一会は和気あいあいとしてまとまり、125周年募金にも好影響を与え、予想をはるかに超える寄付金を集め、母校を支援することができた。
 とびっきりの愛妻家でもあった。家事を手伝い、海外活動などにもよく同伴された。それだけに残された美智子夫人の悲しみを考えると胸の詰まる思いがする。
 四一会としても貴重な精神的支柱を失った。20年にわたる功労に感謝するとともに、長内先生の思いを無駄にしないよう早く立ち直らなければならないと思う。