叙 勲 に 想 う
叙位・叙勲・受賞 近況報告・エッセー トピックス総目次


      
旭日大綬章             須藤 正彦会員


 私は、平成26年4月29日のいわゆる春の叙勲で、旭日大綬章を受章いたしました。「この国のかたち」が三権分立であること、その一角を占める司法の役割はとても大切であることに改めて思いを致し、今後とも精進をしなければならないと思っております。日本経済新聞には、私の略歴として「中大卒、司法研修所民事弁護教官、日本弁護士連合会綱紀委員長などを歴任」と記されてありました。親授式は、5月9日、皇居の正殿「松の間」で行われました。すでにご案内のとおり、「親授」とは天皇が勲章を直接に授与することで、大綬章以上についてはそうなります。

 ここでちょっと、話は今から4年半ほど前、平成21年の時に遡ります。その時は、最高裁判所判事就任の認証式で皇居に初めて入った時でした。正直申し上げて、島倉千代子の「東京だよ、おっ母さん」を聴きながら育った世代としては、二重橋を渡って皇居内に入ったかと思うと何とも言えない昂揚感に襲われ、同時にこれからの職務の責任の重さを噛みしめたものでありました。物音ひとつない静まりかえった「松の間」に入り、陛下の前に進み出た時です。陛下は礼服を着用されており、そのお顔はテレビで見慣れていたあの柔和なお顔とは明らかに異なるのです。正に威厳を湛え、眼前でじっと私に視線を向けられているのが分かります。そして、「重任ご苦労に思います。」というお言葉をかけられた途端です。遂に、私の頭の中は一瞬真っ白になってしまいました。そんな状態で、侍立大臣の法務大臣から何とか御名御璽の認証のある内閣の任命状を受け取ったという按配です。

 で、話を元に戻しますと、今回の叙勲の場合、「松の間」は当然初めてではありません。しかも、そのような「前歴」経験が教訓として生きている筈です。のみならず、在職中は、何度も陛下と直接お話しできるという得がたい機会に恵まれました。そうである以上、準備万端といいたいところです。ところが、陛下から勲章をお手渡し戴き、今度は45度ほど向きを変えて安倍総理大臣から勲記(天皇の御名御璽がなされています。)を戴くあたりではどうも怪しいステップになってしまったような気がします。

 旭日大綬章の6人、瑞宝大綬章の4人の親授が一人一人行われ、それらがすべて終わると、再び今度は配偶者同伴で全員が「松の間」に集まりました。受章者を代表して最高齢の石井一氏(元自治大臣)が、「それぞれの分野で更に精進を重ねて参ります。」との決意を述べ、次いで、天皇陛下が「長年それぞれの務めに精励し、国や社会のために、また、人々のために尽くされてきたことを深く感謝します。」とおことばを述べられました。この後一同は、いったん別室に戻りお茶をいただいて一服し、また、安倍首相からも激励の言葉を戴き、次いで、東庭での記念撮影に臨んだというわけです。

 全くたまたまですが、その日のお昼のテレビニュースでは、天皇陛下が私に勲章をお手渡し(親授)されるシーンが放映されました。ステップがもつれたなと思われた部分はちゃんとカットされておりまして、NHKには感謝です。テレビで見ていた私の知人達の間では、須藤の服装、あれは一体何だということで結構話題になったようです。実は燕尾服で、生まれて初めて着ました。親授式の時の服装は、正装は燕尾服(女性の場合は、ローブデコルテまたはローブモンタント。この服装がどのようなものか小生は知りません。イブ・モンタンは知っていますけどもね。)又はこれに相当する服とされ、親授以外ではモーニングでもよいとする定めであることを今回初めて知りました。4年半前の認証式に始まって随分宮中行事(園遊会も含めて)に出させていただき、その関係でモーニングは持ち合わせておりましたが、燕尾服は持ち合わせておらず、貸衣装に頼ったというわけです。

 振り返ってみますと、今を遡ること54年、時は昭和37年(1962年)の春四月、所は小川町校舎であったか、錦町校舎であったか、その教室の一隅でまだ19歳の純情かつ紅顔の美少年(?)同士の出会いがありました。白門41会の創立者・初代幹事長の長内了君と私との初顔合わせであり、また、中大の皆さん方とのお付き合いの始まりです。やがて、憲法の条文に接し、橋本公亘先生の教科書でその講義を受けるようになり、最高裁判所判事は内閣が任命し天皇が認証すること、天皇は国事行為として栄典を授与することを学びました。しかし、学びはしたものの、そんなことは私にとってはるか彼方の雲の上の出来事、私がその当事者になるなどということは夢想だにしなかったことでした。それなのに、運命のいたずらとでも言ったらよろしいのでしょうか。それが現実のものとなってしまいました。しかしまた、それはいったい一片の夢かまぼろしか。退官した今、隼町の最高裁の前をタクシーなどで通りかかりますと、自分はこの建物の中のあの大きな執務室で、近くに皇居を、遠くにスカイツリーを眺めやりながら、裁判記録を読み、同僚裁判官、調査官、秘書官などと面談したりしたことが本当のことだったのかとふと思ったりします。それにしても、このように夢が実現できたのも、白門41会をはじめとする中大の先輩、友人、後輩の皆さん方のおかげです。その深い御恩に対し、心より感謝致す次第です。(須藤正彦)