長内臥牛先生と俳句
中央俳句会名誉会長
市橋 千翔(千鶴子)

 
 含羞の笑顔のとても素敵でいらっしゃった俳人長内臥牛先生が、家族愛の句を沢山遺して急逝され、まことに惜しまれてなりません。
 長年の、法学部学部長の重責に加えて、常任理事の要職も努められ、ご負担が大変でおいでになられたものと推察申し上げ、謹んでお早いご逝去をお悼み申し上げます。
 学員会会長堂野達也先生の、本校にも女性の副会長をとのご指名により、私が、学員会副会長に就任したのは平成2年のことであり、次いで、同会長のご指命により、『学員時報』に俳句コラムとしての『中央俳壇』を新設したのは平成5年のことであり、その出句者をもって『中央俳句会』を結成したのは、翌平成6年のことでした。
 俳壇の重鎮としてご多忙極まりない昭和18年本校法学部卒の、石原八束先生を選者に仰いだお蔭で会は隆盛を極め、設立後3年目にして、早くも合同句集を編むこととなりました。
 そのような折、ある学員会の会合の帰途、ご一緒した長内先生から、次のお話を承って、上梓する以上、大学の名において立派な合同句集を、との八束先生の直々のお声が耳元から離れなかった折から、是が否でもご出句をとお願いした次第でした。
 長内先生のお話とは、長内先生の父上は若くして医師となられ、釧路において生涯を開業医として全うされる傍ら、俳号を『臥牛』と名乗られて句作を愉しまれたので、父上ご逝去後、父上の俳号を継がれて、先生ご自身も俳句を嗜まれている、とのことでした。
 お願いして直ぐに、「臥牛山遠望」と題されて、身辺を詠われた名吟二十句に随筆も加えてご出詠下さり、以後、平成12年を皮切りに、毎年学員会の事業として出版される、『中央俳壇年刊合同句集 薫風』の出詠者200名のうちのお一人として、長内臥牛先生は、家族愛溢れる温かい名吟や随筆を、惜しみなくお寄せ下さったのです。
 その全部を、長内先生が、長年幹事長として会の発展に尽力された白門41会の皆様にご披露申し上げたいところですが、誌面の都合もあり、極く一部を次にしたためて、文責を果たさせて頂きたく存じます。
「臥牛山遠望」1991年 中央俳壇合同句集
  臥牛山海峡はるか霞立つ  初孫を待たず母逝く今朝の霜  白菊に埋もれし母の唇に紅
「四季雑俳」2000年 薫風創刊号
  病み給う義母は八十路の春迎ふ  孫ふたりわが膝にあり春のどか
                               風花を追はむと妻の双手舞ふ
「折々のうた」2001年 薫風第2号
  屈託もなく散り逝けり桜花  凛として怺へて立てり菊一輪  雪原の丹頂つまを恋ひて哭く
「続折々のうた」2002年 薫風第3号
  送り火は旅寝の宿の簾ごし  黙々と秋の夜ながの独り酒  爺は幾つと孫の問ひたる節分会
「冬そして春」2003年 薫風第4号
  還暦のとし迎へたり霜の朝  したたかに酔ひて愉しむ冬の月  春雷に怯えし孫を妻の抱く
「孫、友、旅」2004年 薫風第5号
  居ずまひを正して孫の年賀受く  マデイソンに老師訪なふ寒さ夏
                                十字星満天の星を圧したり
「日々の賦」2005年 薫風第6号
  跳んできて声あぐ孫の年始の辞  もみぢ舞ひ妻声をのむ峠みち
                            つごもりに母去りませり燃え尽きて
「豪州再訪」2006年 薫風第7号
  寒衣(さむごろも)まとひて炎暑の国に入る  露もなき曠野にひそとラベンダー
                              あれこそが南十字星と妻の指す
「雑俳呻吟」2007年 薫風第8号
  常の風邪と捨て置きし吾伏せる妻  床上げの祝ひの膳に桜鯛
                             ひつそりと家人と吾の二人雛
「夫婦春景」2008年 薫風第9号
  孫ら住む阿蘭陀国の花便り  この春は夫婦となりて四十年  諍ひも間遠になりて春のどか

 薫風は、昨年の4月には、第13号が上梓されていましたが、長内臥牛先生の出句は、上記の第9号を以つて止まった侭でありました。
 添えられた最後の随筆によって、穏やかなご日常が報じられていて、読む者には、チャーミングな長内臥牛先生の笑顔が、ますますお懐かしくなって来ます。
 終わりに際し、謹んで長内了先生のご冥福をお祈り申し上げ、次の一句を捧げたく存じます。
      悼 清明や裾にて仰ぐ寝釈迦山  千翔

【市橋 千翔(千鶴子)様のプロフィール】
大正9年4月12日生まれ。
昭和29年中央大学法学部卒業。昭和33年弁護士登録・東京弁護士会所属。
昭和51年日本弁護士連合会常務理事。
平成2年春の叙勲・勲4等瑞宝章受章/中央大学学員会副会長    (記:鹿島真知子)