大学を卒業した頃は、高度成長が進展する中で世界への関心が高まっていたが、為替レートが高く海外旅行も叶わなかった。そんな中で、㈶世界青少年交流協会は、国際青少年交流(派遣・受入れ)の中心的存在で、文部省などからの補助金もあり、参加費用は安かった。
このため、同協会の1973年夏の代表団派遣募集に応募したところ、訪ルーマニア団監督に合格し、団員26名の監督を任された。私は中大職員であったが、大学も了解してくれた。
当時ルーマニアは共産圏で、国家評議会議長のニコラエ・チャウシェスク(後の大統領)は自主独立路線を歩み、米中和解の立役者としても知られていた。
ヨーロッパ派遣団は、同じチャーター機でドイツに行き、フランクフルトから各派遣先へ向かった。我々はオリエント急行でウィーンを経てルーマニアの首都、「東欧の小パリ」と呼ばれるブカレストに入った。

村祭りで正装の女性たち
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ルーマニアでは2週間をかけて同国の東半分1,600キロをバスで回り、主な都市を訪問して青少年たちと交流したほか、文化遺産や一般家庭なども見学した。
国境の寺院では門番の女性がソ連側を指さし、昔は我らの土地だったと訴えた。同じ共産圏の国の間でも領土問題があること目の当たりにし、日露の領土問題が容易に解決できない問題であることを改めて感じた。
黒海に面したコンスタンツァ県のリゾート地のキャンプには全国から集まる若者で昼夜賑わっていた。ここは選ばれた若者だけが利用できるらしく、おそらく特権階級の共産党幹部の子女が多かったのだろう。積極的に交流し、何人かは我々の宿舎にまで入り込み、毎日夜遅くまでワインを飲みながら議論した。
最終日の夕方はブカレストの日本大使公邸で歓迎会があり、ホストファミリーや国内在住邦人とともに招待された。
全行程をブカレスト大学の美人の先生と大学院生のお二人がエスコートし、お陰様で和やかに無事に使命を果たすことができた。
この海外派遣に参加した翌年、茨城県の支援を得て、前ルーマニア団監督や茨城県在住の各国派遣の元団員たちとともに「茨城県世界青年友の会」を結成し、水戸市を拠点に活動を開始した。

ルーマニア大統領令嬢
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初年度はルーマニア団受入れを希望し、8月にその一団が常磐線で水戸に来訪した。しかし雰囲気が少し違っていた。協会から特に説明はなかったが、団員の1人はゾヤ・チャウシェスクと名乗った。なんとルーマニア大統領の令嬢だった。団員たちのバッグにはVIPマークがついていた。もちろん我々は特別扱いをせず、日本人青年たちとの交流を展開した。
ところが彼女はディスカッションの最中に「ビールが飲みたい」と言ったり、夕方になると「ナイトクラブへ行きたい」などと言い出しわがままな一面を見せた。それでも「今度ルーマニアに来たときは私の家に1年でも2年でも滞在してください」とリップサービスも忘れなかったが、豪邸に住む彼女ならそれも可能で本心だったのかもしれない。
国際交流ではいろいろなことが起こる。懐かしい思い出である。(宮田永生)
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