“箱根路に母校のタスキ消えし年 血も騒がずに肉も踊らず”
88回連続出場を逃した我が中央大学。中大を卒業して50年、この節目の年に出場が断たれるとは。
今年の正月を皆さんどう過ごされたか。中大関係者は忸怩たる思いで正月を迎えたに違いない。こうなることはシード権を逃したあたりから十分予想できた。駅伝部員たるものが、合宿から授業に向かうのに自転車・バイクで通う。夏の伊豆大島での強化合宿では箱根駅伝を強くする会の代表が陣中見舞いに行き、そこで見た光景は雨が降るから練習は休み。第何回であったか本番を終えた後、大学主催の選手慰労会で総長学長先生の挨拶の最中にサングラスを頭にのせて隣の選手とニヤニヤ話している選手。昔の中大では考えられないような有様だった。
昭和38年から毎年、応援団学生と一緒に箱根まで行き応援している俺にとって駅伝は当事者だという意識をもってきたのだ。この54年間、家族をかえりみずわがままを貫いてきたのだ。今年、俺は選手が走らなくても箱根に行って初日のゴールと翌朝のスタートを応援した。中大応援団のベンチコートを着て、選手は来なくとも応援団は来たぞと。
ゴールでは観客の少なさがやたら目に付いた。例年だと道路わきに何重にもの人垣で、歩くにもやっとだったが今年はスイスイだ。ゴール間近では選手が入ってきても掛け声がなく拍手もまばら、盛り上がらないゴール風景だ。あらためて中大ファンがこの大会を盛り上げてきたのだと感ずる。
後ろから声をかけられる「私は中大さんが6連覇の時8区を走った日大の高橋です(高橋英雄さんこの区間、区間賞。中大は福森祐三選手区間3位)。私はトップを走っていたのに最終区で中大さんにやられました」「中央のアンカー若松軍蔵は私の同期です」そんな会話もあった。
翌朝6時に当時、東農大応援団の同期、安田修康君が宿まで迎えに来てくれる。彼は還暦の時、赤い学ランを作り毎年各大学の応援団を激励に回ることで有名だ。スタート地点の傍のレストランはおなじみの店だ。マスターは顔を覚えてくれていて歓迎してくれる。
いつもは満席なのに今年は空席が目立つ。「中大さんがいないとこんなもんですわ」とマスター。農大・青山・國學院のOB と旧交を温め、日本酒で乾杯。話もはずむうちに8時のスタート。選手達、応援の人達があっという間にいなくなり閑散となった箱根町。快晴の朝だ。芦ノ湖の向こうにくっきりと富士山を見る。
箱根の地ビールを飲みながら思う。駅伝は中大がいなければだめだ。来年はきっと出場する。沿道のファンも、箱根の人達も中大の復活を待っているのだと。
藤原監督の指導に期待しよう。皮肉にも予選会の後、選手たちは自己記録を塗り替えていると聞く。選手諸君、中大に来てよかったと最後に笑えるよう日々努力せよ。栄光を築いてきた先輩たちの練習を超えろ、気構えを超えろ!
“駅伝を応援出来しは常の如 赤いタスキを何とかせにゃあ”
(角田 勝)
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