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[1]不思議な偶然の出逢い
(A)ロシアへの旅・富山県伏木〜ウラジオスック〜モスクワ    (60歳)



60歳の誕生日を記念してロシアを旅することにした。幸い僕は6月生まれで初夏、あの大陸を横断するにはロシア鉄道があり、日の出は早く日暮れは遅い、旅人にとって好都合である。早速ロシア観光局で旅の経路を手配することにした。

海路2泊3日伏木〜ウラジオストック、陸路ウラジオストック~モスクワ8日間はロシア鉄道、帰路はその都度決めることにする。意外にも海路伏木からの定期客船が想い出のロシア船(ルース号)、以前アフリカ~南米ーアジア航路でお世話になったあの懐かしいボロ船であった。普段この船の観光客は圧倒的に荷物運搬者が多く、しかし僕らが乗船した日は珍しく旅行者がアメリカ1人、日本3人、その他オーストラリア人等であった、との事実を乗船してから始めて知った。船が出港し同時に部屋の配置、日本人は3人部屋であった。他の二人が来る前に僕は甲板出て夕景色を暫く見て部屋に戻り計3人が合流した。

夕食が終わり与えられた船室に日本人3人は同室で先ずひと休み、一人旅する日本人は口数が少ない人が多い、儀礼的にこの旅の目的をお互いに述べ、当然の事ながら自己紹介等で出身地も名乗る。それを聞いた瞬間、皆な唖然として言葉も出なかった、そんな事はあり得ない・・・と大声を出し合い、3人各々パスポートを開き見せ合った。驚いたことに、僕が天王台、次に取手、参が藤代、千葉県と茨木県の隣接する常磐線の三列連続駅の住人であった。

日本人がほとんど乗ることのない、僕にとって懐かしいボロ客船に3人の日本人、しかも、その3人は向う3駅両隣である、そんな奇跡が果たしてあり得るだろうか? 歓喜して三人兄弟の契りを結び再会を誓ったが、その後の消息は未だ無い。

(B)中近東アラビア半島、シエスタの風景             (63歳)


外国を旅すると夜間ホテルに泊まらず空港のロビーで寝泊まりする人達を見かける、僕もその一人である。

理由は倹約と言うより、夜間に到着して翌朝は早く次の目的地に移動することが結構多い。たった数時間のためホテルに深夜チェックイン・翌早朝チェックアウトは全く時間の無駄である。何度も経験したが、飛行場は冷暖房完備、レストラン売店が24時間オープン、万事便利である、その上これほど安全な場所は他にない。

アラビア半島を旅してドバイに深夜着き、翌日は隣のオマーン国のマッスカットに行く予定であった。そこは全く未知の世界で地図を観てアラビア半島の最南東南、インド洋に面した地形、タクシーで小さな町の海が見えるホテルに行った。まだ朝8時前後だが喜んで受けいれてくれた。どこかの国の様に受付は午後3時からですとは決して言わなかった。

現役時代と違ってこうして一人旅で決められた旅の義務と責任もない自由に過ごせる旅が好い、旅にはツアーとトラヴェルがある、その旅の違いは重要である。早速チェックインして部屋に入る、シャワーを浴びてベットに横になるや疲れたせいか寝てしまった。

人気のないホテルで軽い昼食をとり、目前の雄大な海はインド洋かと改めて眺める。海岸沿いを歩くと日陰に囲まれた商店街がある、左右に並んだ小さな商店街はどこも灯りが掛っているが誰一人店員の姿は見えない、シエスタで休憩中なのだと勝手に想像する。商店街を見渡すと前の店に一人の男性の姿が見えた。僕もそこに入ってみることに。その男も僕に現地の言葉で挨拶(?)、その声の意味より肉声の素晴らしさ、外国人の僕を喜び歓迎している様子、衣類は全身を白の民族服、身体と品格は世界どこでも見栄えする。彼は遠方からの僕を大切に応対するように店の商品の説明を始めた(?)。僕は丁重に英語で応対したが彼の反応は笑顔でしかない。僕も日本語で彼との応対を続けた。結局その商店街を15分程共に見渡して意味の不明な会話をして別れることになったが、不思議なことに二人とも違和感がなかったと思う。彼が僕に教えてくれた、遠方より来た人と縁を結ぶのは言語だけではない、その素性は知性豊で性格温故で素顔有望、どう見ても然るべき人物である。

僕は始めて訪れたこの国この街で突然不思議な人に出逢い、全く通じ合えない言語で15分、何の益も無かったがこの刹那には何か意味があったに違いないと思った。

その後数時間後に更なる刹那に出逢った。僕は海岸を離れてタクシーで街の中心地に出た。喧噪を避けて空を仰いで歩く旅人に戻った、突然再会したのはあの彼であった。お互い笑い無言で、僕は過ぎ去る彼を暫く見送った。不思議な出逢いこれぞ旅の面白さである。

(C)ペルー、マチュピチュを旅する日本人家族          (40歳)
マチュピチュはペルーの誇る世界の観光地である。特に21世紀に入りその人気は急速に高まり世界のツーリストの憧れとなった。

その神秘的な山の風景に生涯一度は拝んでみたい聖地とも思える。僕がこの地を訪れたのは1983年、40歳の時である。サンフランシスコに一週間の会議が幸にも早く終わり、急きょ休暇をとり東京に戻らず大きく方向を南下してペルーに向かった、マチュピチュを拝むためである。友人から近々ブラジルのリオデジャネイロへ転勤する旨の通知を受けたのはその2週間程前であった。それを思うとマチュピチュはブラジルから近くついでに彼にも会えればとさえ思った。

リマ市に三泊して空路マチュピチュの入口クスコに着いた。そこで初めて知ったのはクスコが海抜3500メーターでマチュピチュが2500メーターと低くマチュピチュは山ではなく列車で二時間程下る谷なのである。朝列車を下りマチュピチュの入り口に着くとスイス人の登山家にクスコには何日滞在かと聞かれたから3泊と答えたら、少なくとも3週間はと云われたのを覚えている、それ程奥の深い地域だとのことだ。

マチュピチュは日帰りで観光、夕方近くそろそろクスコへ戻ろうと考えた頃、思わぬ東洋の4人家族と遭遇した。僕と同世代の両親と二人息子の家族、お互いに全く登山準備無く、僕と同様アッタシュケースを抱える姿が印象的であった。夕刻近くお互い同じ列車に乗りクスコに帰る準備をしている。車中で話し合うことはなかったが、クスコに着きそのまま別れるのは不自然と思いながら夕食を共にと誘ったところ気持ちよく同意してくれた。

クスコに戻るや宿泊ホテルは違うが近所にイタリヤ料理の店がありそこを選んだ。その晩の話は諸々尽きないが、簡単な自己紹介で彼が“実は3年間ブラジルに勤務したが来週東京本社に転勤云々・・・、このマチュピチュは帰国前の想い出旅行ですと駐在員の説明であった。そこで急に心に浮かんだのは2週間前友人のブラジル転勤の案内状を思い出し目の前の彼が友人の前任者かと突然脳裡に浮かんだ、そして面白半分に、”後任の方の名前は山内さんでしょう“と言った瞬間ビックリ仰天、訳を話すと納得してくれた。年に一度程その後任者と会う機会があると必ずその前任者も誘うことにしている。

(D)シカゴの親切なパトロールカー                (30歳)
1973年僕は駐在員としてシカゴに送られた(30歳)、アメリカ自動車免許も採りシカゴの地理にも慣れた頃、滞在中のホテルでやはり短期駐在している同年輩の愛知県警察官と出会い互いに夜風の寒さ温めるため夕食を共にすることにした。

彼は3か月間教習で姉妹都市のシカゴで訓練を受けて三日後に帰国するとのこと、共に初めての出会いで彼にとっては緊張から解放された悦びの笑顔、僕にとっては渡米して間もない不安の毎日であった。でも夕食会は大変楽しい一時であった。当然名刺を交換して日本に帰ってもお互い宜しくと誓った。

翌日の事、彼は帰国の準備、僕は寒い小降りの中不慣れな道路を彼方此方廻り、突然広い車道でパトカーのサイレンが鳴り車を停められた。

僕のアメリカでの車運転歴は2か月前にシカゴでの運転免許が初めて、違反で捕まるのも無論なかった。雨が降る中警察官にスピード違反と右折禁止と断定され免許提出を求められた、財布から出す瞬間免許書が僕の手から滑って落ちた。彼が落ちた僕の免許書と同時に昨夜交換した名古屋警察官の名刺の英語版も落ちていた、その二つを詳しくチェックした結果、この名刺はどうして持っているのだと突然質問されたが、自分でその意味が解らず改めて目を通してみると、英語と日本語の二重印刷の名刺、瞬間思い出し昨夜の初めてあった名古屋県警察官の名刺であった。彼はその名刺を何故持っているかを詳しく尋ね始めた。

僕は正直に昨夜の話をした。同じホテルで彼とは昨夜始めて合いお互いアメリカで警察官やビジネスの訓練を受けてお互いに大変勉強できて有難く思う。警察官の顔つきは変わり、実はその日本の警察官は先週3日間私が実地研修の手伝いをしたと笑顔、突然その名刺と自動車免許を僕に握手を求め返してくれた、そして”Please have a better day “ と僕に笑顔で去って行った。

ホテルに戻るや早速日本のお巡りさんに電話して今晩も又会食することにした。アメリカ人の友人がこの物語を聴いたとき、もし罰金を取られたら150ドルは採られたとの事、当時の1ドルは300円の時代。

(E)勝手に外には出ないで下さい                (59歳)


















地球一周の船旅で世界的に知られている日本の市民NPO, Peace Boatが日本、北朝鮮、韓国クルーズを実現した、僕は迷わずそのツアーに参加した、2001年8月下旬であった。

北朝鮮が国交のない日本に入港を許した画期的な出来事である。航路は神戸〜南浦―平壌-南浦ーインチョン/ソウル〜東京。12日間の旅は船旅で内外の専門家による良質なセミナー、陸路では北朝鮮現状:映画産業、文化藝術、南北国境の板門店、農村や市内見物等、最終日の夜は乗客と現地市民との合同パーテー、日本から古今亭菊千代師匠が韓国語と日本語で同時落語を披露し喝采を呼び、最後にツアー団長が参加者全員(約600人)の前で、“今夜ここに参加した皆さん、お互い隣の人達のお顔を視て下さい、国は違ってもみな同じ顔をしているではありませんか”との一言が参加者の納得を浴だのが印象的であった。

日朝共同パーテーが解散し日本人参加はホテルに戻り夜9時頃、ロビーはまだパーテー参加者の余韻でいっぱい部屋に戻る人は少なかった。そこで私達4人の旅友は日本人ツアーコンダクターと朝鮮人ツアーガイドの6人で夜もまだ更けずと旅の総括として夜の平壌を散策しようと提案。日本人コンダクターはそんなこと絶対に出来ませんと全く許す余地はない。それを聴いた朝鮮ガイドは全く意見が反対で我々に夜の平壌の見物を案内しますと逆の提案をしてくれた。

そこで激しい争論が二人の間で起きた。結論:我々4人の意見は、外出禁止は十分に聴かされているが、この素朴な朝鮮人ガイドは地元の専門家だし、何故外出禁止を日本人は決めつけるのか理解出来ない。結局我々4人の結論は、一方的に禁止するのは余りにも官僚的な発想に疑問を感じる、我々はこの際朝鮮側の意見に従い外出することにした、時は夜10時を過ぎていた。日本人スタッフは怒り千万捨て台詞でこの話は一切知らなかったことにすると席を離れた。同時に我々5人は早速ホテルで客待のタクシンーに乗り夜間市内観光に出かけた、車は古いボルボの5人乗りに我々6人は急いで乗り市内に向かった。と言っても市内はすでに商店街はすべて暗く人の気配ない。

次に他の有名ホテルへ向かって喫茶室でコーヒーを飲むが客数がまばらでカラオケも歌は聞こえるが我々は更に他を探した。結局、夜でも平壌駅なら多少様子が判るだろうと行くことにした。

予想に反して駅は真っ暗だが多くの人が頭を下げ座っている姿、ガイドに聞くと彼等は次の電車が来るまで電力節約のために暗闇の中で待っているとのこと。更に飽きずに次の目的地を探すためタクシーはトンネル道路に入ると、暗闇の中でパトロールカーと遭遇、タクシーは停止され下車を命じられた。

ガイドが指示されたことを聴くと夜が更けたからホテルに戻った方が良いと指示を受けた。仕方なく我々はこれ以上無理をしまいとホテルへ帰る、がその途中灯りのある道路の下で小学生と見られる二人の子供が勉強しているのが見えた。車を停めて近づいて見ると灯りの下で算数の勉強している。興味深く数学に明るい我等の2人が教科書を視て学年を聴くと4年生。でも日本では6年生レベルの教科書を勉強しているのに驚いた。それが最後の深夜見学とホテルへの道を急いだ。

これはすべて事実である、でも今でも不思議なのは行動を伴にしてくれた朝鮮のガイドであるが迂闊にも彼の氏名も役職を知らなかった、ましてや彼が正式な専属ガイドどうかも決め手がなく我等4人の深夜市内観光が行われたのである。冷静に考えると我々の行動は果たして正しかったのか? 勝手に外に出ないで下さいという官僚的な発想に反発したのか?

未だに不明である。ホテルに戻りそのガイドと別れる際米20ドルを彼に渡したが彼は決して受けとる事無く去って行った、彼とは好感を覚える不思議な出逢いであった。