[2]マドンナとの出逢い(美貌、知性、性格)
(A)鶏群の中の鶴 (38歳)
僕が大学四年生の頃、羽田空港に人を見送りに行った時の話。空港で入場待ちしていたのは、松竹歌劇団メンバーの派手な一行、これからハワイ公演に出発する寸前であった。居たのは50人程のメンバー、その中に誰でも知る有名な女優一人群衆に囲まれていた。その美しい姿が周りに見られる瞬間、近くにいた高齢男性がいきなり、彼女を指して“鶏群の中の鶴だね”と思わず発した。僕はそれを聞いた瞬間将にと感じた。無理もない有名俳優を目の前に観たのはその時が僕にとり初めてであった。同時にそれは大げさすぎる、その時の女優とダンサアー達は、彼女等の素顔が見えなくなるほど厚い化粧をして、その上派手な衣裳を身に付け、素顔は逆に消されているではないか・・・、人的に小細工された女が、自然に生きる鶏と鶴に比較する? その瞬間僕は人間のエゴを考えてしまった。
それから18年経過、僕が38歳になった時、仕事でシンガポールからメルボルンに行く途中、シンガポールの古く小さな空港はすっかり大型の近代建築に様変わり、夜行便でメルボルンに行くため深夜シンガポール空港の待合室で退屈を我慢していた。深夜でもあの広い待合室は騒々しく、ただ出発の合図を一人待ちわびるばかり。目を閉じると眠くなり、開けると見えるは人の山、その繰り返しを何度も・・・。
突然目の前を独りの女性が通り過ぎたのが見えた。その瞬間目に映ったのは不思議なほどの優しく知的に思えた、飾りけ無く自然の容姿、と感じた瞬間その姿が遠のいた。突然想い出したのは、あの学生時代に羽田空港で偶然出会った松竹ダンサー群に囲まれた、鶏群の中の鶴、あの有名女優であった。その瞬間思ったことは、いま目にした女性こそ“鶏群の中の鶴”ではあるまいか・・・、と可笑しくなり“また飛行場で鶴に逢えた”、そんな記憶を想い出した。飛行場で二度目に、ほんとの“鶴”に出逢えた!
メルボルン行きの入場が始まり、大変良い夢を見たと思いながら機内の席は一番奥の二人席であった。旅の疲れで席に座るや寝てしまい離陸したのも知らなかった。出航後スチュワースの船内説明で起こされた。隣の席にご婦人が一人、気が付くとあの鶴であった。数千の待合人が、三百人乗りの飛行機に乗り、二人隣席に座り、なんとも奇跡的な縁である、我ながら驚いた。
僕はそんなこと知らない“鶴さん”に、自己紹介として“私は東京から仕事でシンガポールと、メルボルン行くのです。鶴さんも答えて曰く、私はシンガポール人、でも生活と仕事は主人とメルボルンで・・・、こんな挨拶が機会となり深夜の面白い談話が7時間絶え間なくメルボルンに着くまで。別れる際、僕は”鶴“の話をしたら彼女は笑顔で、”嬉しいわ、でもいつまで続くのかしら・・・“、空港には夫がベンツで迎えに来ていた。
(B)ソフィア、サウナ風呂の先客 (59歳)
ロンドンからバルト三国を経由して東欧へ旅をした(2003年9〜10月)、旅に良い季節と思って選んだが晩秋〜初冬を思わす気候であった。加えて旧社会主義国家であるためか景色も空気も暗い、最後の目的地ソフィアに列車で向かいようやく明るさを感じた。
夕刻市内の歴史のある古いホテルは人影も少なくこれ幸いとチェックインした。早速疲れをとるため地下のサウナがあり自由に入れるようになっていた。衣類を籠に置き入浴の客は他に入るとは思わずドアを大きく開けた瞬間裸の女性が見えた。慌て謝罪して男性用サウナを探したが見つからない、仕方なくフロントへ戻り男性サウナ室の場所を聞いたところ、サウナには男女の差別はない、そんなことも知らないのかと不思議がられた。改めてサウナに戻り、先客の女性に、“Very
sorry, may I disturb you ?”、彼女は“Of course, no problem,Come in”, と慣れた英語で答えてくれた。
男女共同のサウナ風呂が全く想定外の僕と、それが日常当たり前の彼女、“場所が変わるとルールも変わる”、と突然話し始めると自然と話題が出来てしまい、お互いに急に親しみが涌いてきた。幸い英語がうまく会話に問題はなかった。幸か不幸か、サウナの温度はぬるく中々暑くならず25分程色々会話が出来てお互いに面白かった。サウナを出てその後の予定が無い僕は、彼女に夕食を誘うと大変嬉しいが明後日まで滞在しているか・・? 僕の反応は所詮独り旅イエスであった。変更があればと名刺をくれた、薬品会社のマネージャであった。サウナを出て別れ際に衣類を着込んだ彼女を見ると年齢は40歳代、正式な英語を使い、素顔の美しい人であった。2日後に再会したがお互いサウナで知り会ったとは誰もが想像できなかったに違いない。
後日その物語めいた話をドイツ・ハンブルグの婦人同伴の友人達に語ったとこる、共同サウナはドイツでも珍しくない、もし知りたかったらこれから夕食時間まで行こうではと誘われたが、僕の返信は大変嬉しい誘いだが、お互い知り慣れた婦人達と共同サウナは、日本人としては遠慮せずにはいられない、と返答した。その中の一人が、“それは日本人らしい”と納得するドイツ人もいた。
(C)コルシカ島、2人の女子大生と野宿 (60歳)
世界の島巡りに一時凝ったことがある、その一つはナポレオンの幽閉された蘭西南部のコルシカ島であった。
ニースから海路で約2時間まだ夏休み期間で船内に学生旅行者の姿が多く、夕刻まだ明るい中にコルシカ島に着いた。特に予定が自由な旅はホテルの予約はせず、現地について適当なホテルを散策する、気が付くと夏時間といえ町並みは暗くなっていた、宿探しをと急いで回ったが小さな町でホテルが数件どこにもの空き部屋はなかった。流石に慌てて町中を探したがどこにもない。仕方ないから船の港に戻ったがそれも閉まっており人手もない。偶然運よくパトルールカーが傍を通りこれ幸いと留めてホテル探がしを英語で頼んだ、が話が全く通じない、どうにか判ったことはホテルは自分で探せであった、まった旅行者には親切でなく去ってしまった。
そろそろ夜も更けてホテルを確保するため、再度断わられたホテルで再交渉、部屋が必要で値段は問わない、ロビーの端でもどこでも構わないと懇願しても全く効果なし、最後の言葉はオーナーが許さない。万事休すと、再度先程のカフェへ行って飲み物とパン類を確保と思い外に出た時、灯りが消えた道端に二人の若い女性が泣き顔で立っていた、僕を見ると突然フランス語で話しかけてきた、理解できなかったが僕と同じホテル探しが出来なかったのだ。
結局、女学生二人と僕は共に野宿することになり深夜の場所選びの結果は、カフェの傍に公園がありそこに決めることにした。各々リックサックを地面に並べ寝られる準備をしたがその気に慣れない。しばらくベンチに座りお互い元気付けようと大いに話合うことにした、女性等は元ソビエット連邦のベラルース共和国の首都ミンスク在住でベラルース大学生、夏休み大学関連のセミナーでフランスに来たとの事、詳しくは言葉が解らない程会話に苦労したが、段々英語が判るようになって意味疎通が出来るようになった。
初めての対面で言葉も人種も年齢も性別も全く違う中で唯一の共通点は、今夕初めてコルシカ島に来て、何故か宿泊の場がなく偶然出会うことになった。共通する言葉も無く偶然出会った中、簡単な自己紹介はどうにかできた。お互い初めて“メガネ”で相手を見るだけでも十分人を理解できると努力し、好奇心を持つ学生らしさ、素性から境遇も判る、図らずも偶然の出会は何かの不思議な出逢い、なんと光栄な出来事ではなかろうか。年長の女学生が僕にそっとあの彼女は有名なモデルなのよと教えてくれた、僕は無言で納得の合図をした。
この種の野宿は始めてだが、深夜に公園の風景をまとめると、
(1) 0時〜1時:若い少年達の深夜暴走、5-6人が我々を囲み罵倒するが無害
(2)1時〜2時:数匹の犬の雑パン探し、大いに恐怖感じる
(3)3時〜深夜の静けさと寒さ三人抱き合う始末
(4)4時〜5時:公園掃除人、これでホット安堵した
(5)5時:パン屋オープン、店を開ける音がした、パンが出来るのは1時間後
(D)二人旅 (24歳)
1967ー68年カナダの大学院で過ごした後、4カ月程ロスアンゼルスの友人宅に世話になり、その後アメリカの客船で日本に一時帰国することになった。
それを聞いた僕の友人がたまたま日本からホームステイ短大女学生を一緒にロスアンゼルス在住の彼女の友人まで同伴出来ないか依頼を受けた。理由は“井口さんは真面目で信頼できるから”であった。僕は断るために飛行機ではなく長距離バスだからロスまで少なくとも4日は掛かると返答したら、それはさらにOK彼女もそれを望んでいるとなり、結局希望を受けることになってしまった。彼女とは何度か会ったことはあるが、性格温厚で裕福な家庭育ちの御嬢さんタイプ、僕より3歳下で自分の両親をパパ・ママで呼ぶような友達は僕にはいなかった。
ロスへのバス旅は至って単純で、最初ポートランドで一泊、動物園を見学して彼女の宿泊ホテルを探す。小奇麗なホテルは当時$15、僕は$2のYMCA。翌日彼女のホテルに向いに行き、夕食は彼女はホテルで、僕は道端でハンバーグ、サンフランシスコも又同様。でも長距離バスの旅は二人で会話を大いに楽しんだ。そこで彼女は一人娘だから親は養子をとると決めていると聴いた。長距離バスの旅はお互いに良き語り合いの場で、あっという間にロスに到着、彼女の迎えも来ており僕の役目も終わった。いずれ東京での再会を約束し別れた。到着は8月28日、そしてロスに12月29まで滞在、ロスからAmerican
President号に乗り1969年1月12日横浜に着いた。でも後日談があった。
1年半ぶりに帰国する船は米国の豪華客船ウィルソン号で、僕の席は最も安価な船底。狭い三段ベッド寝るだけのスペース、故に甲板で人と話し空を眺める時が多かった。そこで再会したのが4カ月前に僕がボデーガードした女性とバッタリと再会。そんな不思議で偶然は如何にも船旅らしい縁でもある。12日間の船旅はあっという間に横浜の港に着いた。
例の御嬢さんを伺うと土産物をたっぷり抱えてパパに頼まれた二つのゴルフセットは重いから一セットを代わって通関手続を頼まれ、通関が済み外で彼女に手渡した瞬間、私服職員に問答無用と逮捕された過去にない経験であった。更にバツが悪いのは帰国を迎えにきた父と兄、加えて隣に派手なハワイアン姿の彼女も目の前、一瞬の出来事であった。父達に何も弁明する時間もなかった。即、僕と彼女は横浜通関局に連れていかれ三時間程審査され諸々調書を執られ、終りに印鑑が無ければ明日朝九時までと一方的であった。
明朝9時、彼女と二人で税関局に出かけた、途中で彼女は、“ご迷惑かけて済みません、でもパパが外務大臣にお願いし解決済みです“。そのまま税関の受付に入ると局長が出てきて、逆に出口へ向かい、二度とこの種の事は為さらないでお気を付けてお帰り下さいであった。要するに無罪放免になったのである。その後彼女の母親から何度か電話・礼状を頂いたが、一度も会う事は無かった。
(E)人材募集 (24歳)
一年半の遊学が終わり帰国するや挨拶に行ったのはカナダ大使館、運よく仕事のお世話をしてくれた。カナダの大手の林業会社が社員を募集しているとのこと、面接に行き幸いにもカナダ帰りだと言ったら即採用してくれた。カナダの一流会社、待遇も良かったと記憶している。
早速気を良くして翌日懐かしの浅草寺へ無事帰国の挨拶に出かけた、1969年1月中旬僕が25歳の時であった。雷門周辺を久振りに散歩していると、如何にもアメリカ人、品のあるヒッピー族に見え、なぜか将棋台を腕に掛けて歩いている。お互い目と目があい、彼は笑顔で僕を見る、僕はその将棋盤をさして何故そんなものを持って歩いていると聞いた、彼も自慢げにこれを習いたいが誰か教えてくれる人を探している・・、僕も少年時代それで遊んだ好かったら教えるよ。お互いすっかり歩調が合い指導することになった。
結局2日間、午前中は将棋、午後街観光案内、代金はと彼は聴く、料金は無料、但し食事代と交通費を払って、OK問題ない、でも何故か指導料は無料なのかと不思議がった、その代り英語指導を、彼は笑顔で感謝してくれた。その結果は二日間熱心に将棋に没頭、場所は静かな喫茶店を物色、時に茶店を代えて。非常に明細で進歩が速い、結局最後には僕が負ける羽目になり指導は終わった。驚く程将棋に真剣に向かっているのが印象的であった。
最後の晩、別れの晩餐となり明日は他国へ、将来の再会を期した。記念にと浅草の小さなバーに誘った、時間は9時を過ぎており他に客は居ない、バーテンが一人今まさに店を閉める寸前、話をするには我々には都合が好かった。話題が尽きない我々の英語での話を静かに眺めながら飽きもせず小一時間、バーテン僕等と同年代が静かに僕に話しかけてきた。
「突然ですがお話が弾んでいる途中ですが、私の鎌倉に住む叔母の相談を聴いて頂けませんか?」、「実は鎌倉に住む叔母は48歳ですが、今年世界一周の旅をしたく自分一人では無理なので、信頼のおける男性の助けを借りて・・、お話を伺っていると貴方が適任だと思ったものですから・・、もし出来ましたら大変失礼ですが、いま叔母と電話でお話なしして頂けませんか・・」。
僕は断れも出来ず、彼は電話をとって叔母に電話を賭けた、例の件の適任者と云って僕に電話を渡した。 聴こえた声は、非常に品のある、優しく静かに、要点は鮮明に、その話しぶり教養豊かで決して僕には縁のなさそうな・・、声と話ぶりだけで一度は此方がお会いしたい女性・・。是非鎌倉に来ていただきご相談さえて下さい、決してご迷惑はおかけしません。それは最初で最後の会話であった。結局、予定どおりカナダの会社で働くことになった、決して未練が無い訳ではなく、いまでも忘れ得ぬ電話ばなしの想い出である。