[3] 著名人との出逢い
(A)女優崩れと女優の卵 (35歳)
ある日、僕の親友阿部昇君の夫人崇子さんから電話を受けた。それは重要で急を要する仕事、依頼人は有名俳優務所、内容は英文ファンレタレー翻訳の依頼である。詳細は有名俳優の事務所で説明、友人夫人は受けるかどうかは僕自身で決めることで、その俳優事務所で打ち合わせをすることになった。
その俳優の小さな事務所に何の名称もないが入口に大きなヤクザ映画看板で様子が鮮明に判る。事務所に入ると二人の女性秘書と面会。30代と見られる人は、「始めまして俳優崩れです」、そして20代は、「始めまして俳優の卵です」、これは僕が言うのではなく彼女等本人である。双方は大変社交的でユーモラス、入口のヤクザ看板とは大違がいな好感美談であった。実のところ僕は今度の依頼を断る積りで来たが肝心の男優に合うこともなく、好感な彼女達との面接で依頼された翻訳作業を受けることになってしまった。
彼女二人は大変喜んでくれた。僕が有名な親分俳優は今どこに入るのと聞いたところ、申し訳ないがこの事務所には彼が不在の時だけ入室出来るとのこと、内心僕の好きな俳優でもなくそれは問題ではなかった。彼はコーヒーが大好きで事務所にいると何時も美味カフェが用意されている・・。また分かったのは、彼は酒を一滴も飲まない人とのこと。彼の風貌からは想像できないが意外であった、この事務所の主人は有名人で普段撮影のため留守が多かった。
ある日年長の女優が'主人'のカフェカップでお飲みになりませんかと誘われ、それは光栄とご馳走になったことがある。結局事務所に寄るたびに毎回、5カップの一つを選んで美味な珈琲をいただけることとなった。今から思うと優雅な想い出である。
こうして、2年間程翻訳作業をしたある日、分厚い書類を手渡された、あるアメリカ映画監督からの映画脚本でその本の翻訳を頼まれた。親友夫人と2人で翻訳をしたがその中身はアメリカ西部の物語で、この俳優には似合わないと思いながら物語を訳した。案の定その作品がその後話題になることは無かった。しばらくして、秘書から脚本翻訳代を聞かれたが我々も珍しい経験をさせてもらった、我々のお願いは翻訳代の替わりに、先生にお会いしたことがないので一度私たちを紹介していただき夕食でも・・・とお願いしたが、先方は是非お金でと言われ、結局10万円の高額となった。残念ながら私たちの希望はお金ではなく許されれば偉大な俳優とのふれあいであった。今から40年前の頃だが、その彼の映画を観ると・・・一度は拝見したかった。
彼の名字は小田剛一、別名高倉健である、あの美味なカフェカップを思い出す。今となれば彼と一度はお会いしたかった。どんなファンレターでも丁重に返信するその真面目さは素晴らしい。彼と僕との接点は、カフェが好きで酒が飲めない共通の縁であろうか!それだけで健さんの大フアンになりそう、それを与えてくれたのは素晴らしい二人の女優さんである。高倉健さんは2014年に他界され事務所もない。
(B)三木武夫内閣総総理大臣(1907―1988) (31歳)
中央大学に入学して改めて良かった事は、クラブ活動で"英語学会"を選んだこと、3年生の時米国ハワイ大学文化人類学を研究した國弘正雄先生が中大講師、同時に英語学会会長として就任、中大英語学会の質を高め、5人制関東大学英語弁論大会で中大が三位の栄光を修めた(僕もそのうちの一人)、東京オリンピツクで英語が役立ったこと、卒業後僕の希望であったブリテッシュ・コロンビア大学院の推薦状を書いてくれたことも國弘正雄先生であり、社会人となり海外駐在先でも幾度もお世話になった。
ある時、サンフランシスコ駐在中、突然國弘先生から明朝三木武夫副総理大臣とSF経由で日本に帰国するから朝8時ホテルで会うことになった。翌日行ってみると、先生は忙しく英文を書いている、三木副総理のフォード大統領とキッシンジャー国務大臣への感謝状で、それを僕が清書して日本大使館員に渡すよう依頼された。それが済んだら三木さんの部屋に来てくれと言われた。
清書が終わり指定された部屋に入ると國弘先生と秘書官が朝食中、そして熱心に朝日新聞を読む顔が見え三木副総理と思える人がいた。先生が僕に新聞を読んでいる副総理大臣に向かって手短に「大臣、これは僕の教え子のコンテナ事業駐在の井口君、何か用があれば彼がいますから」。すると三木さんはすぐ新聞を放し僕に向かって、突然、「何故、サンフランシスコのコンテナ化はオークランドに負けたのかね?」、と大きな声で質問された。
それは余り問題視されたことではなかったが、僕があえて答えたのは、SFは土地がOAKより周囲の広さが狭く将来性がない・・・、とのことで専門家ですらこの種のことは知られていなかった。僕はこの種の質問をいきなりする副総理大臣を流石と思った。その後、國弘先生と秘書官は出発準備のため部屋を出る時間となり、そして僕を使って折角だが三木さんの面倒を見てくれ、絶交のチャンスだから政治の事でも何でも好きなこと言え、この僕がですかと聞きくと、お前、今は絶交のチャンスだからと言って消えてしまった。
自分で記憶できる初めての大物政治家との対話で年代差を感じなかった。流石政治家、声が大きく雄弁、人が話かけても反応明らか笑顔が耐えない。三木さんの昔話からの話を知ると、偶然にも歩調があう。
(1)お互いに大学は駿河台の明治と中央、北米加の大学へ留学、
(2)学業を終えて社会人になるのは25歳から、僕も同年代、
(3)國弘先生とのご縁は顧問として、先生として色々お世話になる、
(4)自民党 対 社会党支持、結論として果たしてどう違う、お互いに同意する!
副総裁とはこんな話から始まり、共通の知人、國弘正雄になると、"彼は私の家の長男なのだよ"、と大きな声で家の冷蔵顔から好き勝手に何でも食べるのだから家族の長男だよ"と大変嬉しそうに。実は彼を自民党に入れたいが・・・、だけど一考にその気がない。僕も大学時代は社会主義者でした、というと当たり前だよ、若い時いときは何でもやってみることだよ、でした。
当時74歳の三木さんと31歳の僕は何ら止まることなく話題が尽きない、2時間が過ぎた頃、大使館関係も何人か来て出発の準備となった。三木さんが未だに和服姿でいるのに皆慌て、僕が急いで洋装に着かえさせて、三木さんは僕の肩を支えるばかりであった。ホテルのロビーに降りると大勢の人びとの見送りと多くの高級車、パトロールカー等に新聞記者が多数集まったと同時に、僕はなぜか自然と三木さんに近寄りお礼の挨拶を求めた、その瞬間、無数とも思える程の拍手とフラッシュが跳ね上がった。
翌日帰国した國弘先生から電話がり、"あの時の記者フラッシュは一生の宝だ、新聞社にいって写真をもらってこい、良い思い出だよ・・・" あの時のフラシュは確かに一生の記録、それを逃した、僕は76歳になる今でも忘れることはない、鮮明に覚えている。
三木さんはその数週間後に内閣総理大臣になられた。

(C)石坂泰三元経団連会長(1886-1975) (31歳)
駐在でサンフランシスコに勤務していた時の話。当時31歳、世界経済の中心アメリカは憧れの場所であったが石油ショックで国際経済は混とんとしたインフレ世界情勢。そんな時代財界のオリンピック、世界経営者会議がサンフランシスコのホテルで世界の経営者が開催中であった。偶然にもその時アメリカ海運界の社長から良い機会だと2人分の入場券頂いた、まったく想像外のことであった。
特別セミナーの参加者は150人程の少グループであった。気になるのは日本の経営人の姿が何処かである、その中になんと日本経団連前会長の石橋泰三さんの姿が見えた。日本の戦前・戦後もっとも活躍した財界人、当時の吉田総理大臣から何度も主要大臣の職務に嘱望されたが受けることは一度も無かった。僕が学生時代~社会人の頃最も尊敬される人物の一人であった。その明晰は城山三郎の小説に精しい・・・、「人生はマラソンだから百メートルで一等をとる必要はない・・・」、それは彼の人生観であった。
講演が終わった。僕はアメリカ人の僚と会場を出て石坂泰三を追いホテルロビーを過ぎ部屋に向かう様子を見て、ロビーのフロントでMr.Ishizaka
の部屋番号を確かめ、そして数分おいて、石坂部屋に電話で会見をする気分になってしまった。しかし部屋に入るのは容易でない、そして例え会見できても果たしてなんの話題がある?二つの難問! 数分考えて実行することにした。まず同僚に相談、彼は大賛成(彼は社交的で話題豊富)、僕は毎度の"どうにかなるだろう"! 折角のチャンス、問題は話し相手になってくれるかどうか?である。
フロントでMr.Ishizaka Taizouoの部屋を確認し恐る恐る電話を掛ける、運よく秘書が応答し、本日イラン石油省大臣の講演会で石坂泰三先生にお目に掛かりました、日本企業の駐在員ですが同僚のアメリカ人と二人でお伺いしたい旨伝えたら、先生に心地よく受けていただき第一難問は通過、流石に石坂さんは大物と思った。
部屋に通されると先生が別室から現れ、改めて自己紹介、会社の役職、業務は日本長期信銀行、三愛(市村清さん)の支援を受けた海運界のコンテナリースを始めました・・・、と言った瞬間、"わしは市村とは大の親友!彼はコンテナを始めたのか!それは知らなかった!と大いに喜んで秘書に飲み物の手配を頼んだ。(しめた、これで1時間は粘れる!)と思った。
これが契機となって相好の会話は大いに盛り上がらり、日本のコンテナ化の現状の後、相棒
のアメリカ人の紹介、となるや言葉は即英語となり、さらに彼の出身はでベルリン大学と聞くなり、先生の言葉は即ドイツとなり、多いに話が予想を上回り
すっかり盛り上がってしまった。気が付くと1時間は経過、予約なしの訪問でありこれ以上はお疲れと思い失礼することにした。貴重な人物と偶然出逢い、この想い出を長く記憶したい。
これには二つの後日談がある。
(1) 年が明けた東京での話、石坂さんが参加した新年会三愛クルークでの話、石坂さんが役員の前で、昨年サンフランシスコでコンテナ業務の若い男性達と楽しかった思い出を話した折、その話を聴いた役員の一人が翌日僕に国際電話があり、その事実を確かめどんな話をしたのかの疑問があった。
(2) やはり同年の一月、あの時のアメリカ人の相棒が日本に出張に来た再、石坂さんの自宅に電話した、石坂さんはあの時を良く覚えており、もし時間が許せば今晩我が家に来ないかと誘われ、一時間後に黒塗り自動車が向かいに来て夕刻6時から9時まで石坂亭で飲んで食べて唄まで歌った、あの時の若者の話も聞いてくれたとのこと。
(D)ライシャワー博士夫妻(1910―1990年) (35歳)
JR有楽町駅で降り東京帝国ホテルでのパーテイへ急いだが、大変遅れて行った割にはその目的が何であったか未だに覚えていない、自分としては妙なことだった。
そして場内に入り直接目にしたのはあの有名なライシャワー博士夫妻でちょうど要件を済まして出口に向かっている様子であった。偶然お互いに目が逢い、年少の僕としては著名な先生に日本語で丁重にご挨拶したところ、先方は近頃日本語が不便となり英語で話してもと丁寧なお言葉が返ってきた。僕は偶然にも初めてお目見する機会に英語で話せるとは大変光栄ですと返答してしまった、ご夫婦は供にニッコリ了解された。同時に博士は目の前の僕に近寄り何か面白い話でもしようとの雰囲気であった。
そう言われても話題があるわけではない、その時突然神様が僕に与えてくれた答えは、"ベトナム戦争が終わり難民問題は・・・?"、であった。僕はこれ幸いとその話をライシャワー先生に直節伺うことにした。当時問題のベトナム戦争は終わり、その処理をどうするか、特にベトナム難民問題・・・? すると先生は傍にあるテーブルに腰をおろしユックリと僕の目を見上げ"貴方はどうする?"と質問された。
ベトナム難民処理で日本はどう対処するかについて意見交換が始まり、僕は日本として、米国同様に大量の難民を日本も受け入れるべきと主張したところ、博士は大反対。正直、僕はその意見には何故か理解出来なかった。日本はベトナム戦争で一人も出兵することなく、ベトナム戦争で最も利を得た国は日本であった。日本はベトナムだけでなく、どの国からも日本への移民政策は皆無ではないかと反論したら、著名な歴史学者と意見交換が始まった。
すると、その著名な世界的歴史学者はテーブルを手で強く叩き、日本政府がベトナム難民を日本へ移住させることは"私が許さない"として僕に、ベトナムを考える前に朝鮮民族の日本移住許可をまず認めるべきだ! 僕はそれを聴いてその意見の深さを素直に納得できた、僕もまったく同意見で我が持論でもある。朝鮮半島と過去の深い問題を考えず未だに解決せずして、今現在の問題を心配する資格は日本には無いと考えるべきだ。正直、博士の意見は僕と全く同意見である、日本民族の流儀は都合の悪いことはすぐ忘れてしまう、を考えての発言だったのであろう。
僕は、何の為に帝国ホテルに来たのか? 未だ記憶にないが途中から来て、帰る途中のライシャワー博士夫妻と偶然出会える、図らずも意味深い話が国際的な歴史学者と偶然の出逢いを得る、不思議で大変嬉しい限りであった。
今まで映像でしか知らないライシャワー氏は、貴賓ある学者イメージで見知らぬ人と縁が薄いと思ったが、話し好きで気さくな社交人と思えた。この偶然の"英語会話"は、帰り際の先生は後ろを向いて、「貴方の英語はどこで習ったの?」と聴かれた、「國弘正雄が私の先生です!」、「道理で!」と英語で答えてくれた。因みにライシャワーさんのベストセラー"日本の歴史"を翻訳したのは、ほかならぬ國弘正雄先生である。

(E)鈴木基之先生・東千秋先生(放送大学大学院教授) (64歳)

西暦2000年、長年の海上コンテナリースの事業を退任して僕は自身に自由な方向を選んだ。誕生月は6月、当年55歳の初夏であった。理由は自分を近代化された海上コンテナ物流の表世界から、未開の裏コンテナ世界へ身を移して双方の比較を観たかった。
しばらく友人がいる香港に移り中華文化を学び狭い中国を拠点として、広い中国社会文化に馴染もうと考えた、長年の希望である。その間、世界一周の船旅に参加しピースボートの面々と考究を共に馴染みが浅い南半球を熱心に裏コンテナ世界を見て取ろうとした。
更に、地球温暖化と地産地消との環境工学を研究するための放送大学大学院をピースボートの友人から進められた。2005年、入学試験(作文・英語+後日面接)を受けた。入学試験は問題なく通ると思ったが、最終試験の面接でうっかりミスをして不合格となってしまった。二人の試験官(鈴木基之先生、東千秋先生)に始めに言われたのは、"英語科目は不回答ですので入学試験は不合格です"、の結果を受けた。自分では良く書けたと自信があったが。試験官に結果報告を聴いた瞬間、僕は試験管教授に向かって、"そんな馬鹿な!"と二度叫んでしまった(試験官の言葉)。結局、期待した放送大学は試験落第となった。
しかしこれには後日談がある。試験結果が終わり3日後の事、僕は大変込み入った午後のJR電車に立ち乗り渋滞であった、突然携帯が大きく響いた、気が付くと自分の携帯、普通なら音を停めるのだが、受けてしまった。慌てて受けた僕の携帯から、"放送大学の鈴木です、先日試験結果発表ご苦労さまでした、例の件、後日調べた結果、井口さんは回答用紙ではなく問題用紙に答えが
書かれて、特別ですが本件は合格とします・・・、尚、この例外ですと、井口さんの合格発表は初めて、正式な発表はまだ誰にもしていないので、正式な合格発表受けるまで内密としてください。結論として一度落第した学生が最初の合格生になった。携帯は終わり、先ず直感したのは、鈴木先生は面白く、放送大学は素晴らしいと実感した。
結局、放送大学大学院、政策経営プログラムの入学が許され、論議:コンテナリゼイションの現状とCO2排出量削減への提言、を執筆するため1年半論文整理に励んだが、あまりにもテーマが大きく完成する見通しがなかった。僕は当時個人の廃棄物タイヤ研究で、太平洋パラオの廃タイヤ運動と2つの研究をしており、それを知る鈴木先生は修士論文のテーマを一つに絞り、パラオの廃棄物タイヤと急遽テーマを"南太平洋パラオと廃タイヤ処理"へと変更し、世界という広大なテーマからパラオという極端に狭いテーマに変え修士論文を2か月で書き上げた、鈴木基之先生のお陰である。
因みに、南太平洋諸国では中古自動車が日本から輸出され、そして多くの廃タイヤが山と蓄積され、しかし日本では廃タイヤとして日本に持ち込むことは禁止されていた。僕と2人(中大41会同期阿部昇)は1年半日本の環境省と交渉し、廃タイヤを分解して持ち帰ることで日本への輸入が許可された、2008年10月であった。僕の修士論文は廃棄タイヤを始めて日本に持ち帰る話でもある。
卒業して2年後(2010)鈴木先生の提案で、OB会6人のパラオ訪問をすることになった。大統領と元大統領が別途夕食会で大いに歓迎してくれた。

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