箱根駅伝 ― 会員諸兄にとって母校の成績がつねに気になるところだが、私にとっても毎年正月になると、箱根駅伝は特別の想いをもってこれを迎える。というのは、私の生まれ育ったのは東海道の大磯で、幼少の時からずっと箱根駅伝を身近に見てきたからである。
当時、選手の走る国道は車も少なく、沿道は実にのんびりした風情が漂っていた(昭和34年私が撮影した写真を参照)。しかし、各大学の応援は華やかで、大型トラックの荷台に乗った学生たちが母校の応援歌を連呼する光景は圧巻であった。また、いまは交通事情などの理由で時間がすぎると途中で繰り上げスタートになるが、当時はトップとの差がどんなにひらいていても、そのまま走り続ける。だから、あまりにも選手の来るのが遅いと、応援する沿道の人たちは早々と家に帰ってしまう。けど、私は最下位の選手がやってくるまでずっと待ち続ける。時には一時間以上待つ場合もある。また、往路で選手が大磯を通過した後で、私は電車とバスで箱根に直行。箱根山中で先回りをして選手を待つ。携帯ラジオを聞きながら順位を確認。大学の先輩でもあるNHKの北出清五郎アナが中継車に乗って中継。箱根恵明学園の前を通ると、「こんにちは。今年もまたやってきました」と声援する子供たちにあいさつをするのが常であった。
当時はラジオ中継だけだったが、1987年からテレビ中継が実現するようになる。これは箱根駅伝にとって歴史的なことであり、箱根駅伝という関東の大学の駅伝競技にすぎなかったのが、一躍全国的なスポーツイベントなっていく。テレビの視聴率も時には30%を超えることもある。幼少の時からずつと箱根駅伝を見続けてきた私にとって、その盛況はじつに隔世の感があり、嬉しい限りである。
私は復路でも、地元で応 援したあと電車で東京へと向かう。まず品川駅前で応援したあと、銀座へと直行。今はゴールは大手町だが、当時は西銀座の読売新聞本社であった。各選手が全員ゴールしたあとを見届けて銀座をあとにする。ああ、今年も箱根駅伝が終わったか。私にとって正月は箱根駅伝で始まり、箱根駅伝が終われば、正月も終わりである。そんな感慨にふけながら、帰路につく。
なお、箱根駅伝は来年98年目を迎える。100年まであと2年。できればその記念すべき年まで元気でいて応援したいと願っている一人である。(市村豊之)
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