
佐賀西高の教え子に囲まれて(本人は前列中央)
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10数年前教職を退職し、家内、子供と東京でお世話になった下宿の方、遠縁の方への挨拶を兼ねて上京、明治神宮に詣で、次にお茶ノ水駿河台の中央大学を訪ねました。礎石しか残っていませんでしたが、帰りにニコライ堂の石垣に手を触れたらなぜか自然に涙が溢れました。大学への坂道、駅の雑踏等の空気感を思い出していたのかもしれません。
大学時代の思い出は憲法学の橋本教授の死刑囚・孫斗八の話、法学の堀内教授の中大錦町校舎での講義中、関東大震災(1923.9.1)の生々しい体験談ぐらいしかありませんが、その中で昭和39年(1964.11.15)秋、東都大学野球リーグ戦、駒大に2対1で勝ち優勝。神宮から神田駿河台の母校まで提灯行列、途中、一升瓶を持った先輩方から酒をすすめられた凱旋パレードは忘れられません。
その後、郷里の佐賀に帰り高校教員として佐賀西高(創立146年)に赴任、たまたまひょんなことから野球部顧問になり、コーチ、部長、監督(最後の5年)を経験し、早大創立者大隈重信公の生家墓所もすぐ近く、生徒諸君に田舎にいてはだめだ、関東へ、東京へ(その頃は外国へはあまりなく)出てチャレンジしろ、自分で道を拓けとハッパをかけました。幸か不幸か10名程早大、慶應大他等へ進学し、神宮で活躍してくれました。今でも諸兄とは親交を温めております。
私事ですが、昨年秋、佐賀の日本一の酒「鍋島」が手に入り、コロナで自粛自粛の中一人酒、うまかったのでグイ飲み(一升)、案の定ひっくり返り、病院に担ぎ込まれ、生死をさまよい、気が付いたときには大学病院のベッドの上。主治医は我が娘。2〜3日して「先生、退院はいつ頃ですか。この際スッピャー(全部の意、佐賀弁)精密検査をしまっしょ、はい」と変な会話でした。
その後も自粛自粛の日々ですが、今年80歳になり、人生総決算という思いで白門41会に入会させていただきました。41会の諸兄ご指導よろしくお願いいたします。
(池田勝海)