― 私は僧侶 ―

越後の同級生より

2021.8.9
内 山 慶 法
近況報告・エッセー一覧

    

 私の住む越後の此の寺は、毎年冬になると、テレビの天気予報欄に「雪」のマークがついて、3、4日は続かないが2日間くらいは12月から3月終わりまで降雪で、近年だいぶ住宅の屋根が変わったが、人々は降雪2日目に屋根に登り「雪おろし」をする。昔は「雪堀り」と言った。

 当地は過疎山間地で20戸、30戸という、小集団の「ムラ」が広い地域に散在し、1カ村では「区」を運営できず、離れた「ムラ」と「ムラ」で処理している。昔から糸製品が沢山産出された地区で、戦後は「ガチャマン」と云われ県内各地から中学卒業生の主に女子が「栃尾の機(はた)工場」に就職して、二部構成の定時制高校に入り町(まち)は賑わった。その後「ニット」になり今は就職生が来るような会社はない。広い山間地に21カ寺があり、それぞれの寺は後継者もいて、各寺なりに法務を行っている。

 向こうの谷の寺は檀家千2百軒とも千軒とも云われ、住職1人でどうやって勤めているだろうとどの寺の住職も思っているが、口には出さない。我寺はその次の規模であるが、令和元年12月に私は名誉住職(隠居)になり、長男が住職になった。それ迄、私の一番厭なのは「会計」であった。殆ど全てが料金引き落としであるので、中味によって郵便局と銀行に4通の通帳を作ったので月末にその4通分の資金がない時が折々にあってヤットやりくりしたものだった。「住職」になった長男は元年の元旦より「会計」を始め、寺の全てをやるようになった。

 平成24年4月に3階建ての書庫が燃え、私はその火の中で一瞬2階より燃える建具と一緒に1階にころび落ち、コンクリートに両掌の平を打ち1、2秒気を失ったが外に走り出て助かった。翌年5月2日、寺山の森が燃えだして村の人々が来て助けてくださった。その年の10月、朝起きたら味わったことのない眩いと肩の痛みに襲われた。その日の夕方から背中の全面に厚い氷を張られたように「悪寒」が走った。10畳ほどの部屋に大きな石油ストーブを焚いて、1日シャツを15枚も替えて、寒さと暑さに苦しんだ。1カ月そうやって2カ月目には別の部屋に移った。寒い部屋で体の芯から出る汗の為にシャツを変えた。この部屋に3年寝た。

 まだ悪寒は取れないが、元の部屋に戻って炬燵に足を入れて横になる日が続いた。檀家の人達は、何も言わない。この悪寒がフッと取れたのは令和2年3月、妻が病で死去した10月であった。9年間、自律神経失調の苦しみの日々を過ごした。悪寒に震え乍らこの寺の「売り」である鬼門金神除けの祈祷壇には上った。その間、市町村で毎年してくれる集団検診で肺癌を見つけて貰って手術をした。手術の翌日には「もう帰ってもいいよ」と医師に言われたが、寺の村で1週間に4軒の葬儀があり、倅は迎えに来られず、10日間置いて貰った。そのベッドでの毎日が此の上もなく気分良く藤沢周平の大特集版を良く読み乍ら過ごした。今迄の人生で最高に幸せな時間であった。

 住職は今迄掃除などしたことはなく、檀家さんの仏事、信者に頼まれてゆく「祈祷」も各種のお札書き全部任されるが、此の寺の看板「加持祈祷」にはまだ一切触れようとしない。彼の為に令和元年から4年かけて「次第」を6冊書いたが、脇机に載せてある「次第」を私の処でみようとしない。

 来山の信者から過ぎた1年のことを聞いたり、病気の話は慎重に聞いてメモ用紙を住職に渡すとお札ができるまで皆さんと話す。法衣を着けて丑寅(うしとら)方面から「では始めます」と声をかけて「鏡の間」を前に進むと「大壇」の「礼盤(らいばん)」に至る。左前机より柄香炉を掌にとり三礼して礼盤に坐す。此の寺は康治2年(1146年前)高野聖によって開山されたと伝えられ、江戸時代此の地は司馬遼太郎作『峠』の主人公、河井継之助が西軍と戦った越後長岡藩の領地で、長岡城より見ると表鬼門(北東)の方位にある寺が此の妙円寺であり、領主牧野候代々此の寺の「鬼門金神法」を敬って明治に至る。此の祈祷は唱える真言と印契(いんげい)に口伝(くでん)が有って「次第(しだい)」を見ただけでは解らない。

 本年10月24日、彼(住職)の晋山式(しんざんしき)と父三十三回忌、妻一周忌を奉修する予定でいる。肺を手術した時も彼は医師から病状を聞いている筈で、私には何も言わずにいるので、私の体は当分大丈夫と思っているであろう。名誉住職になったら何もさせてはくれない。隠居とは暇なものである。晋山式が終わったら「ではお父(と)う、金神除けを頼みます」と言う筈である。78歳は「老人」だと心の芯から思っている。
 会員の皆様、呉々もお体、お大切に。   (新潟・長岡市 妙円寺名誉住職 内山慶法)



   妙円寺は康治2年に融源大僧都が創建した寺院で、江戸時代には長岡城の鬼門鎮護寺として
   越後長岡藩から庇護を受けた。