今年になって早々から、ロシアとウクライナの戦争状態のテレビ、新聞等の報道は悲惨だった。特に砲弾を受け放置されたままの遺体を深堀された地中に埋めている様子は悲惨だった。この状況を見て、半世紀も昔の昭和48年の話で恐縮ではあるが、沖縄に行った時の光景を思い出した。
卒業して直ぐ会計検査院に就職した。仕事がら実地検査のため全国各地を回った。昭和48年に沖縄県に出向いた。その年は米軍から沖縄の施政権が日本に返還された翌年であった。沖縄も地方公共団体として行政が大変革された。法定通貨がドルから円に変わった。NHK朝ドラの『ちむどんどん』で通貨替えに絡む悪徳業者の話が出ていたが、生活環境は大きく変わった。昼の食事も円しか持っていかなかったので売店で通貨の支払いに戸惑うことがあった。
沖縄開発に伴う道路工事は沖縄総合事務局を通して沖縄県に支出され、検査は総合事務局検査の一環として行った。道路用地を測量する実地調査に同行したとき、用地に隣接した洞窟のような場所に足を止めた。入り込めないように金網をめぐらした塀で囲まれていた場所だった。何気なくのぞき込むと頭部の人骨のようなものがむき出しで草陰に見えた。
公共道路を開設するには用地の買収から始まるが、前提となる一筆一筆の区画、所有者、地番、地目及び境界線等を確定していかなければならない。戦後20年を経てボランティア活動を含めて住民達の手で島内の遺骨はほぼ収集されたそうであるが、最近(例えば昭和54年)の市町村未買収道路用地の補償について、国会議員からの国の補償措置に関する質問の主意書に見受けられるように実態把握が出来ていない所があるそうである。今でもまだまだ遺骨が出るのであろう。
ウクライナの戦没者の報道と重ね合わせてしまったが、戦争に対する考え方はその人の置かれている状況によると思う。我々戦争に参加しないまでもその混乱期を経験してきた段階の者と戦争を知らない段階の者とは考え方が違うと思うが、『きけわだつみのこえ』に掲げられた手記を見て、もし戦争が無ければ戦地に散ることは無かったであろうし、文学者とか美術家とかの希望を叶えることが出来たかと思う。 ウクライナの戦没者達も何故死んだのか分からずして地にまみれたのかも知れない。戦争をせず、戦争に手を貸さない国でいることは出来ないのだろうか。 少なくとも、自分の身近な経験から知る戦争の悲劇の語り部となりたい。 (埼玉・さいたま市 櫻井 昌身)
|