大学に入学して通学は都電13番線(新宿―水天宮)を利用していました。自宅が新宿区余丁町にあったからです。
大学の4年間はESS(英語学会)に所属していました。高校時代にICUの教授をしていたアメリカ人に英語を習っていたためですが、一方では、大利根CC所属のプロについてゴルフにも熱中した4年間でした。
4年になって就職はヴァン・ヂャケットに決め、入社後は青山の本社営業部でデパート担当となり、銀座地区のデパートを受け持ちました。ヴァン・ヂャケットは当時アイビールック(USAアメリカンフットボールリーグ、ハーバード大、イエール大他の学生たちの服装)を日本に持ち込み、大変勢いのある会社でした。
ここは2年半勤務後に退社し、父が経営していたテーラー白鳥に入社しました。社員は職人も含めて約30人ほどの会社でしたが、顧客は国会議員や中央官庁の局長クラスの人が多数でした。勤務は午前と午後に1回ずつ議員会館と霞ヶ関の中央官庁を回るのが主な仕事でした。4月生まれの私は高校1年の時に車の免許を取得していたので、車で営業をしていました。
28歳の時に知人の勧めで東京青年会議所と東京日比谷ライオンズ・クラブに入会し、慈善活動にも汗を流しました。
63歳になったときに理事長をしている友人から要請があり、特別養護老人ホームの理事と評議員に就任しました。この老人ホームは多摩川の景色の良い所に3ヶ所と荻窪の妙正寺公園の向かいに1ヶ所計4ヶ所あり、約400名が入居しています。この老人ホームでは終身理事を務めることになっています。 (東京・豊島区 白鳥喜久雄)
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