親友 奥島征記君の追憶
2024.6.23
藤 井 嗣 也 
近況報告・エッセー


 昭和18年12月5日 奥島家隆氏のニ男として愛媛県北宇和郡日吉村に生れる 昭和43年9月3日 8:45逝去(24歳) 7月22日 宇和島市立病院に入院し 急性黄色肝萎縮と診断された
 『 行く末を 期待せし楽しみは はかなく消えて いとどかなしき 』 ( 峯生 ) 中央大学商学部貿易科を42年に卒業し、日光真珠有限会社に勤務中、急性黄色肝萎縮に冒され早逝した。
 兄:奥島孝康  姉:橘 智子 妹:杉原悠紀子

………… 奥島征記君の追憶 …………

 奥島は昭和18年生れの中央大学の同窓で、学部は違うが練馬の同じアパートに住むことになって交流が始まった。 彼は愛媛県北宇和郡日吉村の出身で父は村長だと言っていた。兄はその当時早稲田大学の大学院生だったようだが、既に結婚されており、私が奥島と一緒に住まいを訪ねた時は、四畳半の狭い部屋の両隅に机を置いて夫婦共に勉学に勤しんでおられたのが印象的だった。
 その後、兄の孝康さんは早稲田大学の総長を長く務められたがここでは兄のことは省略しよう。奥島は兄のように勉強好きではなかったが人のことを思う優しい男だった。アパートでは率先して飯を炊いてくれた。一緒に尾瀬ヶ原に行った時 “夏の思い出” を歌ったが、とても膨らみのあるいい声だった。私も歌うことが好きだったので、その後も何度か一緒に歌ったことが懐かしく思い出される。アパートを同じくした期間は短かく、しかも私はアルバイトに明け暮れる日々を送っていたので、親密な時間を長く共有したわけではない。
 大学を卒業して、奥島は故郷に帰ることになったが、上京していた妹が心配だったようで、東京で就職していた私に『妹をよろしく頼む』と言い残して帰ってしまった。 妹と親密な間柄でもないのに、よろしく頼むと言われてもどうしていいか分からず、しかも私が勤めていた会社は毎月130時間も残業をするような会社で、妹とは一二度ちょっと会ったきりになってしまった。私が社会人になって3年目の頃だったと思う。2年で東京のマーケティング会社を辞め静岡で起業するべく試行を繰り返していた。
 ある日、大学時代の友人から奥島が危篤状態だと連絡が入った。宇和島の病院名だけを聞き何も持たず準備もせず駆けつけた。病室に入り母親にも初めてお会いした。昏睡状態が続いており意識が戻らないとのこと。
 母親から征記がお付き合いしている女性がいなかったか尋ねられたが応えられず、母親を落胆させた。暫く病室の外の長椅子に腰掛けていたら、母親から意識が戻ったと言われすぐ病室に入った。奥島は私の顔を見て『お〜、藤井…どうしたんだ!』と大きな声を上げた。『遊びに来たんだよ』と答えると 『そうか~ゆっくりしていけよ』と言ってくれた。看護婦や医者も病室に集まって来たので邪魔になってはと思い病室を出た。
 兎に角昏睡状態から意識が戻ったのだ。暫くして母親が病室から出てきて 『ご遠方から遥々お越し頂いてありがとうございました。危篤状態だからとご連絡することはもうしません。ご連絡する時は亡くなった時にさせて下さい。』と仰った。
 亡くなった時と言う表現に尋常ならざる病状を感じ、思考が停止し何も聞き返せなかった。
奥島にもう一度声をかけることはせず、病室を辞することにした。
 それから1ヶ月程経った頃、奥島が亡くなったとの電話連絡を受けた。ところがその電話があった時間、私は静岡市の西草深町をバイクで走っていて乗用車に弾き飛ばされ意識を失った。市立病院に搬送され気がついた時には右足に包帯が巻かれ上から足を吊っている状態だった。奥島死亡の知らせを聴いた時は、私を呼びに来たのか?と一瞬驚きの思いに駆られた。その後特段の後遺症も無く無事退院することが出来た。時が経つにつれ、あの時打ち所が悪ければ死んでいたかも知れない事故だったが、むしろ軽傷で済んだのは奥島が助けに来てくれたんだと思うようになった。
 奥島は健康そのものだったのに何故亡くなったのか? 真珠の養殖をしていたあの美しい宇和島の海で奥島はどんな日々を過ごしていたのか? 知りたいと思う気持ちがありながら何故かその行動を起こさない自分がいた。奥島は今も私の心の中で楽しかった学生時代のまゝ生き続けている。
                         (静岡・葵区 藤井嗣也)