1977.9 佐賀市長杯戦で優勝〔筆者-後列左端-佐賀西高校野球部監督時代〕
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令和5年東都大学野球リーグ戦春季24試合(中大5位)、秋季26試合(中大3位)、令和6年春季21試合(中大3位)を応援観戦しました。
応援団、団長、ブラスバンド、チアガール総勢120名(常時100名)、統制のとれた演目も多く、おそらく日本一の学生応援団ではと思っております。
私が、野球に親しむようになったのは、小学5~6年生頃、ソフトボール、中学に入ると、すぐ野球部に入りました。2ヶ月位たったある日、担任の先生から君はツベルクリン検査の陽性が出たから運動はだめ、体育の授業もだめと言われ、止むなく諦めました。中高時代は灰色青春。昭和37年中央大学(経)に入学し、ゼミ仲間と軟式野球をやった程度です。神宮球場には中大応援に何回も何回も通いました。
大学卒業当時の東京は前回の東京オリンピック後、光化学スモッグ等私には向いていないと故郷に帰って高校の教員になりました。2年目、たまたま硬式野球部の監督(私の師匠)から声をかけられ、野球部顧問になりました。1年生(16才)の諸君とグランド整備、水撒き、球ひろい等、何でもやりました。その頃のことが一番楽しく思い出に残っております。
7~8年後監督が転勤(公立校では常)、私に後任を頼まれました。固辞する私に「あんたは生徒に溶け込んでいる、やかましいことも言うし、俺にも文句を言う、それくらいの気迫がないとこの学校の監督はつとまらないと励まされ引き受けることになりました。
たまたま監督になって、まず進学優先、その為には練習時間を他校の3分の2程度に、1時間半に減らしました。そのかわり短時間の練習、徹底して鍛えました(例えば夏場でも腕立て腹筋等)、私がとった練習の一つに歴史上の人物を参考に真似しました。源頼朝が馳せ参じた家人にようきてくれた、お前だけが頼りだ、お前しかいない、山本五十六の「ほめてやる」、いいプレーをしたときはチーム全員で手をたたいてほめる等。そうこうして育った生徒達もそれなりの職業と地位につき最近ではお孫さんの話で頬を緩めるようになりました。
私はお役目が終わったとき中央大学があると思い、神宮球場(最寄りの駅から35分)に通うようになりました。今春は優勝決定戦で敗れました。あゝもう自分も‥と思ったとき、Old soldiers never die, they only fade away(D・マッカーサーの議会演説)。老兵は去りゆくのみ? 冗談じゃない、私は去らないし、中央大学をずっとずっと応援するつもりです。お世話になった中央大学の為に。そこで一句、「凛として中大健児ハツラツと」
(東京・港区 池田勝海)

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