中央大学のこういう会合にはよく呼んでいただくんですけれども、 この41年の会だけは来たくない会です (笑声)。 今の司会者(長内了幹事長)が大嫌いだから
(笑声) です。
ご紹介がありましたように、 私は第1期の先生の教え子第1号でありますとともに、 私も今家庭を持っておりますけれども、 そのお仲人さんをしていただいたので、 足を向けて寝られない方でございます。 学生時代の成績も全部知っております。 きょうの話を聞いても、 最後は、 寝ているから平気だよとおっしゃいます。 それだから、 余計困っております。 でも、 大変ありがたいことだと思ってお話をさせていただきますが、 皆さんより8代後輩になるわけですから、 それを計算していただければわかると思うわけですが、 先生は 「全然変わってないぞ」 と言われますが、 それは 「成長してない」 ということです。 確かに背は伸びませんね (笑声)、 伸び悩みでここまでやってまいりました。
私は、 アナウンサーになって、 今年でちょうど25年になるんです。 (拍手) ありがとうございます。 チーフアナウンサーと言うと、 何か偉く聞こえます。 はるか昔は価値があったんです。 NHKのアナウンサーには、 アナウンサーとチーフアナウンサーがあって、 チーフアナウンサーには、 それこそ鈴木健二さんとか、 立派な大先輩たちがきら星のごとくにおりましたけれども、 その方々は本当に見ていてもチーフアナウンサーの価値がありましたが、 その後、 私みないなものがなってしまったものですから、 私は正式には 「ポケット・チーフアナウンサー」 (笑声) で、 今笑った方は、 そうだとお思いになるでしょう。 でも、 25年いろいろなところへ勤務しまして、 いろいろな仕事をさせていただきましたが、 初任地が鳥取です。 中央大学を卒業してすぐ勤務しましたのが鳥取でした。 私は東京生まれの東京育ちなんですが、 どこに鳥取ってあるんだろうと、 鳥取のご出身者がいらっしゃったらごめんなさい、 それぐらい知らない所でした。 そこで4年暮らして、 そこで家庭を持って子どもができ、 そして宮崎に転勤し、 大阪、 東京、 大阪、 東京と、 転勤ばっかりしているんですね。 これをNHK社員の間では、 「協会生活」 と言うんですけれども、 協会生活25年もたつんだなと思います。
でも、 一見若く見えますが、 満身創痍でありまして、 皆さんと同じように、 今は 「生活習慣病」 と言うんだそうですが、 古くは 「成人病」 の塊でございまして、 今も右腕が痛いんです。 四十肩かと思ったら 「いやお前五十肩だよ」 と言われました。 血圧は高いですし、 不整脈はありますし、 言えない病気もあります。 皆さんは健康なのかもわかりませんけれども、 不摂生をしておりますので 「成人病」 の塊で、 情けない生活をしておりますが、 きょうもほとんど寝てないんです。 きのうから泊まり勤務という仕事がありまして、 基本的には週に1回ありますが、 昨日の夕方からずっと泊まり勤務をしておりました。
テレビジョンをごらんになっている方は、 夜中にもずっと 出てくるのをご存じでしょうが、 昨日私はラジオの勤務でしたから、 ラジオ第1放送のニュースをずっと読むんです。 11時に読んで、 今朝は5時、 6時、 7時、 8時と読むんですが、 例えば15分間のニュースを読むためには、 15分間の下読みをすると30分読むわけです。 それだけで足りるわけありませんから、 ほとんど読みっぱなしなんです。 朝5時から読むためには、 4時半から読んでいまして、 その前の仕事が夜中までありますから、 ほとんど寝ていないんです。 やっぱり年になると、 こたえまして、 きょうみたいなのは 「明けの日」 と言うのですが、 「明けの日」 はまだ頑張れるけれども、 明日が、 ほとんど死んだ状態なんですね。 (笑声) 明日は死ぬわけにはいかなくて、 明日は朝早くから神戸へ3時間だけ行って、 博多に行かなくちゃいけない。 お前ら動けていいなと思うでしょうが、 そんなことないんです。 そういうような仕事も含め、 いろいろなことをさせていただいています。
アナウンサーになって25年と申しましたが、 NHKは放送が始まって、 今年75年という節目に当たります。 大正14年に放送が始まりました。 もちろん、 放送と言ってもラジオですね。 放送博物館にちょうどこういう布がかかっていて、 その前にこんな大きなマイクロフォンがどんと置いてありますけれども、 放送初期のころは、 そういう大きなマイクに向かって 「放送用意」 と言うとアナウンサーが話をしたわけです。 第一声が 「アーアー、 アーアー、 聞こえますか、 聞こえますか、 こちらは東京第1放送JOAK」 と言っていた。 そのころ録音テープなんかありませんから、 音盤と言いまして、 レコードみたいなものに 「第一声」 が残っておりますが、 「アーアー、 アーアー」 というので始まったのが大正14年の3月22日です。 まだ皆さん生まれていないと思います。 ですから、 私も同じ立場で申し上げられます。
でも、 これは世界の放送の歴史上遅いかというと、 そんなことはないんです。 アメリカの放送が世界で一番初めのラジオの放送ですが、 これが大正9年なんです。 日本もその後すぐ放送が始まる予定だったんですけれども、 ちょっと遅れてしまったんです。 それは大正12年9月1日、 関東大震災があったからです。 その直前まで放送開始できる状態だったんですが、 地震があったので、 半年ぐらい遅れて始まったということです。 ですから、 1年ちょっと遅れて始まったわけです。 でも、 放送の歴史からすれば、 決して遅いわけじゃないんです。
それからテレビジョンの放送が始まりましたのが昭和28年です。 これは戦後8年たって、 ようやく始まったんですが、 実は戦前からテレビジョンの放送は実験が始まっていました。 それこそ中央大学にご縁のある高柳健次郎さんが、 いろはの 「い」 という字を受像機に映した。 今も浜松に行くと、 高柳健次郎さんの記念碑が建っていますけれども、 あの息子さんが中央大学の先生でいらっしゃいますが、 そのテレビジョンの受像機を開発して、 放送ができるようになったのが実は昭和の初めにその研究ができていました。 実は生放送でオリンピックを中継する準備が、 昭和10年に進んでいたわけですが、 そのオリンピックは行われなかったんですね。 ご存じのように太平洋戦争が始まりまして、 大東亜戦争があったために、 結局オリンピックはなくなりましたし、 オリンピックに向けて、 テレビジョンの中継を準備していた日本放送文化は立ち遅れて、 およそ13年ぐらい遅れて放送が始まりました。 そして、 75年たったわけです。
今こうして申し上げているのは、 二つ大きな意味があるんです。 ラジオの放送が遅れて始まった理由は地震でした。 テレビの放送が遅れて始まったのは戦争でした。 その共通点は人の命に関わることです。 天災であったり、 あるいは社会的な状況であったりします。 今もコソボ紛争とか、 ついこの間までいろいろ中東の紛争があったりしましたけれども、 いわゆる放送文化という言葉は、 今でこそ使いますが、 かつてはなかった言葉です。 放送という言葉もなかったんですね。 放送というのは送り放しと書きますが、 あれも造語で 「ブロードキャスト」 を訳してつくったそうですが、 「放送」 というのは、 中国で使うと、 すごくいやらしい言葉だそうです。 送って放つんだそうです。 男性にはわかると思います。 (笑声) 中国では 「電播」 というような言葉です、 電視台という言葉は使いますが、 「放送」 という言葉は使わないそうです。 これは聞きかじったお話ですから忘れてください。
そういう大きな出来事があったがために、 放送は遅れてしまったんですけれども、 私もアナウンサーをやって25年の中で、 突然専門ではないのに、 「マネー革命」 というのをやれと言われて、 去年から今年も再放送で繰り返しやりましたけれども、 「マネー革命」 という経済番組に取り組みまして、 今、 NHK出版協会から出してベストセラーになりました。 と言っても、 私が書いているわけではないですが、 私が関わった番組の記録です。 そんなのをやってみたり、 スポーツに関わってみたり、 今の専門は古典芸能なんですけれども、 いわゆる一般の番組を担当するのが夢で、 そしてそれをやってきたわけです。
それとは全然関係ないところで、 放送をすごく認識したのは、 一つは 「阪神大震災」 です。 今から3年前、 大阪に勤務しておりましたときに起きました。 これはやっぱり忘れられないというか、 東京にいたら、 そして東京にお住まいになっていたら絶対わからない、 皆さんご親類が関西にいらっしゃっても、 同じ関西でも、 大阪と神戸では全然違うんです。 大阪では、 昨日もきょうも変わらない日々が続いている。 大阪でも一部の地域は被害がありました。 大阪と神戸は一緒だとお考えでしょうが、 ほんの数十分で行ける神戸は地獄です。 そして、 かつては20分や30分で行けたところの大阪と神戸の間が、 何でこんなふうになってしまうんだろうというところを、 ずっと放送しておりまして、 私はその地震の起きた直後の真夜中、 放送局にたどり着いて、 一晩中、 安否情報の放送をさせていただいたんですが、 それは息子がどこにいるかわからないから、 とにかく連絡を取ってほしいというお母さんからの電話があって、 それを受けて、 お名前と連絡先を聞いて画用紙に書いて、 それをテレビカメラに映しながら、 FMとテレビ放送とを同時に流したり、 あるいは自分は生きていることを伝えてほしい、 あるいは全く連絡が取れない、 地方から何々さんはどうなっているだろうか、 そういうものがどんどんどんどん入ってくるわけですけれども、 その日のうちに全国から集まった放送の応援体制の中で、 いろいろなメディアを駆使しながら、 安否情報、 地震の被災地はどうなっているか、 分野に分けて何日も何日も徹夜放送をいたしましたけれども、 私が担当した安否情報ほど、 聞いてほしいと思ったことはありませんでした。 放送は送りっぱなしと言いますが、 確実にこの情報は受け取ってほしいと思ったんですね。
いつも何もないところで話しているわけです。 向こうへ人がいるということを想像してやれと言われても、 そうできるわけないです。 10年も20年もやっていると、 つい慣れて、 マイクに向かってしまうんですけれども、 こうやって読み上げてる人の名前は、 確実に向こうにいる人に届いてほしいと、 こんなに思ったことは本当にありませんでした。 放送というのは、 伝える側がいて、 聞く側がいるということを、 悲しいことに、 阪神大震災という人の命をたくさん落としてしまった大惨事の放送を経験して、 改めて身にしみて思い知らされたことであります。
普段は野球放送を楽しんだり、 歌番組を聞いたり、 あるいは教養を身につけるために特集番組を見たりというので、 もちろん結構なんですけれども、 いざというときには、 人の命、 そして、 その人の生き死にに関することが伝わってほしいと本当に痛切に思った出来事でした。
でも、 やっぱり平和でなければいけないですね。 さっき申し上げたように、 関東大震災、 そして太平洋戦争というものがなくて、 平和だったら、 もっともっと早く文化は栄えていたと思いますし、 ハイビジョンも衛星放送も、 もっともっと早く始まっていたかもしれません。 皆さんが暮らしの中で選べる選択肢をたくさん得られたかもわからないと思っております。
長内先生が仲人なので、 きょうは夫婦の話をしようと思って来たんです。 女房の文句を言おうと思ってやってまいりましたが、 折角きょうはこうして男性方がおいでになりますので、 ちょうどいい話があります。
私もサラリーマンですから、 もう定年が見えております。 定年後をどうやって暮らすかは、 私たち40代後半から50代の人間にとっては胸中にあることだと思います。 アンケートを取ってまいりました。 ある研究所が 「定年後どうやってくらしますか」 ということで、 夫と妻にそれぞれアンケートを取ったそうです。 そうしたら 「その生活に期待している」 と答えた夫は27%、 妻が17%は期待している。 ちょっと差がありますね。 夫の方は随分期待しているんです。 逆に 「定年後の暮らしは不安だ」 と答えた人は、 夫も妻もすごく多かった。 一番不安だと答えた人の割合は、 1位が夫も妻もともに60%近くの人が不安だと考えているんです。
その 「不安と思う理由はなんですか」 という1番目の理由は、 夫も妻も同じ答えでした。 「収入が減る」 あるいは 「収入がなくなる」、 これは一番の関心事です。 これから長い人生を送っていかなくちゃいけないですから、 定期的に給料として私も月給をいただいておりますが、 それがなくなるという不安、 これが夫婦共通の関心事でした。
夫の不安だと思う2番目の理由は、 「時間を持て余す」 ということです。 わかりますよね、 毎日朝8時に出て、 そして夜6時〜7時に帰ってくるという暮らしではなくて、 ボーッと、 余っている時間がある、 どうしよう、 これが夫側の考えです。
3番目、 夫の不安に思う理由は 「交友関係が少なくなる」 ということです。 これは一般論だと考えてください。 こういう41会は別だと思います。 妻の方の意見にどうぞ耳を傾けてください。 この中に妻が数人いらっしゃいますが……。
妻も、 1番目に 「収入がなくなる」 ことを一番不安だと思っていらっしゃいます。
2番目の理由、 どんなことを不安に思っているか、 妻はこう答えました。 「家に常に夫がいること」 (笑声)、 この開きは何なのでしょう。 お金に対しては共通の意識がありましたけれども、 夫は 「時間が余る」 「友達が少なくなる」、 妻は 「旦那が毎日家にいるのよね」 これが1番の不安だそうです。 このアンケートは、 置いておきましょう。
つい1週間前に、 こんなアンケートの発表がありました。 これは45歳から54歳のサラリーマン200人、 ちょうど私たちの世代、 皆さん方もここに入っていると思います。 これは団塊の世代、 ミドル夫婦に対するアンケートです。
「居心地のいい時間は何ですか」 という問いに、 夫の6割は 「夫婦でいるとき」 と答えたんです。 妻はほとんどの人が 「1人のとき」 と答えました。 (笑声) 「自由な時間に夫婦で一緒にいたいですか」 と質問したところ、 夫の6割が 「そう思う」 と答えたんだそうです。 過半数の妻は 「そう思わない」 と答えたそうです。 (笑声) おもしろいですね。
離婚について、 夫の75%は 「考えたことがない」、 妻は半数が 「考えたことがある」 (笑声)、 どうしてこんなにギャップがあるんだろうと思います。 自分の家もそうなのかなと思います。 特に共働きのご夫婦の場合に、 こういう不満が非常にあるんだそうです。 やっぱり奥さんは一生懸命働いていても、 家事の役割分担が全然なっていない。 全部妻に押しつけるのが不満で、 亭主関白型というのでしょうか、 特にミドル世代は、 こういう分業をはっきり考えているのに、 夫が分業意識を持ってくれないことが多い。 これはサントリーの不易流行研究所のアンケートなんですが、 こういうことがあると思います。 これも同じ日に出ている東京生命保険のアンケートですけれども、 やっぱり既婚男女の3,000人に対するアンケートです。 「結婚してわかった夫・妻のよいろころ、 悪いところ」 というのです。 興味深いですよ。
1番 「妻の悪いところは何ですか」 と夫に聞いたところ、 「いびき」 「寝言」 が多い。 2番目が 「ヒステリー」 「ズボラ」 と続くんです。
妻が夫のいやだなと思うところは、 1番 「自分勝手」 「我がまま」、 やっぱり言葉の使い方は 「ヒステリー」 というのは、 男にはあんまり使わない言葉です。 「我がまま」 というのも旦那でしょうね。 夫から見た妻の不満は 「いびきがうるさくて眠れない」 「寝相が悪い」、 観察しているんでしょうかね、 許し合った夫婦というのは 「ガーッ」 とやっているんでしょうかね。 うちもそうです。 言わないでください (笑声)、 殺されますから……。
夫が妻に対する不満は 「整理整頓が下手」 「絶対にあやまらない」 というのです。
逆に、 妻から夫に対していやだなと思うことがあるのは、 「夫は自分の意見が通らないと、 すぐ黙る」 「心配症だ」 「自分は癌だ、 癌だと言い続けて、 もう十数年生きている」 (笑声)。 最も夫のいやなことは、 「脱いだ靴下の匂いを嗅ぐ」 (笑声)、 もし奥さん、 こういう癖があったら、 きっとお父さんは悩んじゃうでしょうけれどもね。 でも、 私たちは同世代だから、 こういう話ができるんですが、 なるほどなと思う方もおられますでしょうけれども、 「うちは違う」 と思う方がいらっしゃったら、 それはすみません。
私もうなづきながら考えたんですけれども、 笑い話だけじゃなくて、 実は大原健士郎さんという方とついこの間、 大阪のお初天神で対談をしたんです。 お初天神というのは、 いらっしゃったことあるかもわかりませんが、 大阪駅のすぐそばにある大歓楽街で、 キャバレーやクラブや飲み屋がいっぱいあるところで、 そこにポツンとある小さい天神さんです。 そこの天神さんで、 今から300年前に心中が起きたんです。 曾根崎心中という 「お初徳兵衛」 が心中したところです。 心中は自殺という考え方で自殺を研究なさっている大原健士郎さんという浜松医科大学の先生です。 この方が自殺の研究をしたのは昭和30年代ですが、 30年代の自殺の統計を見ると、 青年層がとっても多かった。 要するに戦後の混乱期の中で、 就職難あるいは戦争不安の中で、 これからの生き方に対して悩んでいた。 それから戦争を挟んで価値観の大逆転がありました。 その中で、 人はどうやって生きたらいいだろうか、 そういう悩みを抱えた青年たちの自殺がとても多かった。 それから老人の自殺が多かったのが昭和30年代の初めなんだそうですが、 それから40年たってどう変わったかというと、 青年、 つまり若者たちの自殺は3分の1に激減した。 お年寄りの自殺も減ってきた。 増えたのは壮年期、 つまり私たちの世代ですね。 これは笑いごとでは済まされないわけです。
なぜ増えてきたのかをいろいろ調べてみると、 壮年期の50代の後半が特に多いそうですけれども、 ものすごく増えている。 全体の人口の割合から見ても、 男性の50代が最高に多いんだそうです。 どうしてこんなに増えたのかというと、 職場では、 若い者から突き上げられる。 帰った家では妻も子どもも相手にしてくれない。 これは今のアンケートにあらわれています。 これは全くそうなんですね。 そして、 世の中の経済不安、 これからどうなるだろう、 リストラもある、 そういったものすごい不安、 ストレスに、 男は耐えられないんだそうです。 そして孤独になっていく。 つまり男、 これはどんな世代でも−私たちも戦後教育を受けた人間ですが、 男と女という生き物を比べた場合、 男は孤独にできている。 日本の男だけなのかもわからないんですけれども、 孤独に生きている。 その孤独感から追い詰められて、 自分を殺してしまおうということにつながってくるのは、 悲しいかな、 統計を取り始めてから40年たって、 急激に増えてきた日本人の男の姿だということをおっしゃっておりました。 同じ世代の女性と比べてみてください、 全然違います。
例えば50代〜60代の痴呆症の方々と比べてみても、 やや痴呆症にかかった女性たちはグループを組んで話し合っている。 ポツンと1人でいるのが男性なんですね。 それは我々にとって深刻なことです。 胸にストンと当たるかもしれない。 私も言えないことってありますよね、 それを全部抱え込んでしまうというのが男なんですね。
さっきの統計を思い出してください。 定年になってから、 自分の時間が余る、 あるいは友達が少なくなる、 ここにあるわけです。 なぜかというと、 同じことをこの二つは指していると私は思います。 自分の時間が余るということは、 ほとんど過ごしていたのは職場であった。 職場で過ごしていたということは、 ほとんどの交友関係が職場に集中している、 つまり職場から切り離されると、 時間は余るし、 人からも離される。 これはやっぱりおかしいことです。
私は、 アメリカ人の女性と番組をかつてやったことがあるんですけれども、 毎日レギュラーを組んでやっていたんですが、 仕事が終わると、 じゃ軽く打合せに行きましょうとか、 ちょっと飲みに行きましょうよとか、 私たちは言いますが、 その彼女は 「何で行かなくちゃいけないんですか」 とはっきり言います。 日本人はおかしい、 ビジネスはこれで終わったんじゃないですか、 仕事とプライベートはつなげちゃいけない。 なるほどなと思いましたね。 最初はその後、 赤提灯へ行って、 上司の悪口を言ったりするのは典型的ですけれども、 噂話というのは、 会社の人たちは会社の話しかしないわけですから、 これは一つ間違っていることだと思います。
仕事関係ない、 家庭関係ない、 住んでいるところも違う、 価値観も違う、 だから、 お話し合いができる、 こういう交友関係は最高です。 こういうグループを幾つも持っている皆さんには心配がないことですから、 喋らなくていいことですが、 でも、 そうとは言えないんですよね。
私だってそうなんです。 NHKのアナウンサーをやっているから、 交友関係は広いだろう、 確かに広いですけれども、 考えてみれば、 それにしても変わりないから、 同じようなことがある。 そして、 定年を目前としたときに、 果たして自分もその後、 突然 「もう明日から来なくていい」 と言われたとしたら、 どういうふうになるだろうかと思います。
これは私の身近な例で体験したことですけれども、 私の父が亡くなって11年たちます。 父もサラリーマンをしておりました。 パワフルで、 本当に精力的な人間で、 私のようにひ弱なタイプと全然違うタイプでばりばり働きました。 そしてリタイヤせずに、 ずっと60代後半までやってきた人間です。 それこそ大正生まれですから、 戦争をくぐり抜け、 そして苦学もし、 いろいろなことを通り抜けてきたバイタリティーは大したものだと思って見ていました。 そして、 自分1人で道を切り開いてきたという感じの会社人間でした。
その父が、 仕事をやめると言って田舎へ帰った−私は東京で生まれ育っているのに、 父は東北の生まれなんです。 東北の生まれでも、 本当に若いころ都会に出ていますから、 「故郷は遠きにありて思うもの」 で東北には墓参りぐらいしか行かなかったんです。 リタイヤした後の生活は、 故郷に戻り、 親戚がたくさんいて、 懐かしい少年時代を過ごした緑や田んぼなんかを見ながら、 そこに家を建て、 お墓を建てて家庭菜園でもつくってというふうに思ったんでしょうね。 「へぇ、 この人はこういうことを思うのだろうか」。 そして予定どおり家も建て、 畑もつくり、 そして釣りをして、 なるほど楽しいかなと思っていたら、 1年ぐらいして病気になりました。 別にその生活が不満だったということは全くないんです。 絵に描いたような快適なリタイア人生でしたが、 突然体が弱って、 突然癌になって、 そして体が痩せ衰えていって、 一旦よくなりましたけれども、 結局亡くなってしまいました。 そして、 家も建て、 リタイア後、 夢に描いた生活をし、 私たちも結婚し、 孫もでき、 まあ後顧の憂いなく、 と言えば、 そのとおりなんですけれども、 死ぬことはないだろうと思いました。 でも、 死んでしまいました。
あんなに命が燃えていた人なのに、 一体どこへ行ってしまったんだろうと私は思ったんですが、 一つには、 がらっと変わった生活環境に、 ホッとしたということもあるのかもわかりません。 でも、 死ななければいけない理由は何もないですね。 やっぱりお墓をつくってしまうということは、 いけないことかなと私は思いましたが、 安心しちゃだめですね。
私は長生きもしたいと思いますけれども、 健康で長生きしたいと思います。 父ももちろん病床で長らく苦しんでいたら、 皆さんにこんなことは言えません。 でも、 絵に描いたようなリタイヤ後の人生、 でも健康でないと輝いて生きることはできないと私は思ったんですね。 ある程度緊張した暮らしをし続けていくことがとても必要ではないか。 環境をがらっと変えて、 あっと気が抜けてしまう。 皆さんこういうことがありませんか。 何年も病気をしなかったのに、 1日、 2日休みがあると病気になる。 情けないですよね、 人間ってそういうふうにできているんですね。 だからといって、 ストレスのある生活を続けていけとは言わないけれども、 ガクッというのがいけない。 私もリタイヤした後の人生を考えるときに、 リタイアした人生と考えたらだめなんで、 これからスタートしなくちゃいけないと思います。
先ほど痴呆症という話をしましたが、 何も60、 70でなるんじゃない、 30代後半からなる。 これは理由がわからない。 お医者様がいらっしゃるかもわからないんですが、 私も痴呆症老人、 あるいは痴呆症の方々の番組をやりましたけれども、 何でなってしまうんだろう、 わからないんですね。 もちろん、 脳が衰えていくという、 脳に影ができてくる。 アルツハイマーとか、 いろいろな血管障害で脳の細胞が侵されることはわかるけれども、 なぜそうなるのかわからない。
昔は起きなかったのに今起きる理由の一つは、 長生きをしているということですね。 人生60年の時代と違います。 昔の年齢というのはかなりの年だっと思います。 今は7掛け、 8掛けで考える。 そうすると、 80×7ですと50代です、 そう考えないといけない。 栄養状態もいいですし、 空調もいい。 そう考えていきなければいけない。 そうすると、 どんどんどんどん長い人生がある。 長い人生があると、 今まで経験していなかった年齢に皆さんが突入していくと、 今まで起きなかった病巣とか病気が出てくる。 でも、 きっとそれを克服する時代がやってくると思います。 いやでも生きなくちゃいけない時代なんです。 今まであくせくという言葉を使ったかもしれない、 一生懸命という言葉を使うかもわからないんですけれども、 社会と関わってきた仕事とは違う人生と同じだけの年数を生きなければいけないということは覚悟した方がいいと思います。 もちろん、 そのための収入を確保したいとか、 貯金をしたいということもあるでしょう、 それから介護保険制度がいよいよ始まる、 その中でどうやったらいいか。 失礼かもしれません。 でも、 私も同じ仲間と考えているんですが、 それを今考えないと、 急にそのときから変えられないわけですね。 そのtき一体何をしたらいいのかということが、 今回のテーマでもあるわけです。
定年になったら、 こういうことをやりたいとか、 私も老後の楽しみにいっぱいビデオを取ってあるんです。 でも考えたんですが、 きょうもずっとビデオを見ながら、 老後になったらきっと見ないだろうな (笑声)。 学生時代、 本が好きだった、 今、 忙しくて読めない。 本は結構買って積んである。 ようし、 これ老後になって読もうと思っても、 老眼になってよく見えないので、 いらいらしてきたり、 頭が痛くなってくる、 3行読むと眠くなってくる。 私がそうです。 仕事でやむなく読んでいる。 昔はどうしてもこの方にインタビューしなければいけないと思う
と、 一晩で1冊も2冊も読めた、 不思議ですね。 読まなくちゃいけない使命感、 それから締切りがある、 明日に向かって読む、 この集中力はすごいけれども、 もうだめです、 ついていけません、 眠いんです。 読んでいて理解できない、 頭の中がぐちゃぐちゃになっている。 ですから、 今、 老後のためにこういう準備をというのは絶対無理、 ほとんど無駄で、 それは投資にならないです。 そして、 時間ができたら、 こうやろうと思うことも、 多分できないと思ってください。 酷なことを申し上げるようですが、 できないものなんです。
身近なアナウンサーで、 釣りが大好きな人がいます。 今は第一線からちょっと離れていますが、 ものすごく忙しいときに、 2週間に1日休みがあると、 東京から広島まで飛行機で飛んでいって、 そして夜釣りして、 翌朝帰ってきて、 また番組をやるという人間でしたが、 今、 結構豊かですけれども、 行かないですね。 身近に行けるのに……。
私の父は釣りも好きでした、 ゴルフの道具もいっぱい持っていました。 会社のつき合いでやっていたからですね。 もちろんプライベートでも行ってたんでしょうが、 楽しくなくなっているんですね。 それはやはり楽しみ方が違うんだと思うんです。 仲間たちが違うということもありますし、 それから、 よしこれが終わったら、 次はこれをしてということでしたが、 いつまで楽しんでいればいいということでは、 楽しくない。 本当に人生は残酷だし、 そういう環境に追いやられたら、 そうならざるを得ないんですけれども、 私たちは、 我がままと言えば我がままです。 男は我がままだということがありましたが、 今やりたいことを今始めて、 そして、 そのトレーニングをしておかないといけない。 トレーニングという言い方は変かもしれません。
私がひそかにやっていることは、 体を鍛えることは何もやってないんですけれども、 プールに行くことを始めたのは30代の後半ぐらいからですが、 泳げなかったんです。 オリンピックプールというのがNHKの前にありまして、 200円か300円で入れてもらえる。 お昼休みにみんなで行こうと言って行ったんです。 そうしたら、 深いんですよ。 私、 身長190センチありませんので (笑声)、 プールに足がつかない、 入ったら溺れそうになったんです (笑声)、 何とあそこは50メートルプールで、 真ん中へ行くほど深くなっている。 焦りましたね (笑声)。 泳げないのに入ったのは、 私が悪いんですけれども、 ブクッと沈んでしまいまして、 もう縁につかまって、 何てところだと思いました。
それでも、 20分だけプールに漬かろうと思って、 泳げないけれども、 耳栓、 鼻栓、 眼鏡全部やって、 水掻きみたいなことをしながら、 少しどうやら浮くようになったんです。 お腹いっぱい水飲んで、 溺れながら通っているうちに、 ようやく50メートル泳げるようになったんですよ。 皆さんから見たら 「何だそれぐらいか」 と思われるでしょうけれども、 一生懸命葛西は泳いで、 向こうへ行ったときの感激、 おれも35歳になって泳げたよと恥ずかしくて言えないけれども、 自分では自分をほめられたんです。 泳ぐことって楽しいなと思ったり、 20分〜30分水に漬かることは大切だと思っています。
でも、 今プールへときどき行くんですが、 今は、 頑張ってはいけないと思っています。 そういうことをやると、 みんな一生懸命やれば、 きっともっとうまくなるだろうと思って頑張りますが、 私は怠け者ですし、 今は不定期な仕事をしていますから、 ウオーキングといって、 今行っているプールは浅いところですから、 歩いたり、 プールの中で倒れても危なくないですから、 後ろ向きに歩いたり、 いろいろなことができるんです。 足を挙げても水の中ですから、 恥ずかしくない。 いろいろなことをやって、 それで満足しています。 つまらないことですが、 今までやらなかったことをやる。 そして自分1人で続けられること、 仲間がいなければできないことじゃなくて、 自分1人で行けます。
ですから、 皆さん身近なことから、 こういうことを言うと、 よし明日からNHK文化センターへ行こうとか、 無理なんです、 男はお金がないです、 時間もないです、 お金と時間を持っているのは奥さんです。 プールへ行っても頭に来るんです。 ベチャベチャベチャベチャ喋っている。 早く歩けっと言いたいくらいです。 カルチャーセンターに行ってください、 女性たちがいっぱいいます。 今の日本は女性の文化です。 はっきり言って、 さっきの施設で仲良く話しているお年寄りを見ても、 一つは女性に学べというところです。 僕はやはり男たちは、 女性化しろというのでなく、 女性のいいところを学べと言うんです。 あのパワーは (女性は耳をふさいで聞いてください) どうなっているんだろうと思うぐらいパワーがあって感心します。 家事もあれだけこなし、 子育てもし、 父ちゃんの少ない月給をやりくりしてへそくりまでつくる。 そして、 自分の交友関係はしっかりつくる、 あの長電話 (笑声)。 私の女房の文句だと思わないでください。 (笑声) きょう怒っていると思います。 今朝も電話して、 電話に出たとたん、 声が変わるんですね、 どうしてですか。 「もしもし」 「僕」 「ナニ?」 と声が変わる。 (笑声) どうなっているんでしょうか。 皆さんのうちは違うと思いますよ。 どうしてあんなに声が変わるんだろう。 きのうの朝、 よそから電話来たら 「はいはい」 ペラペラ喋っています。 かかってきた電話なんだから、 長く喋っていたっていいでしょう、 ただなんだから……。 はっきりしていますよね、 ああいう感覚がきっと必要なんでしょう。
そこで文句を言っちゃだめなんです。 文句を言うと怒られる、 3倍返ってきます。 「何言ってるのあんた、 自分で勝手に夜出掛けて、 好きな友達とぺちゃくちゃ喋って夜遅くまで飲んで帰ってくるでしょう、 私はどこにも行ってないわよ、 電話だけで話しているのよ、 安いものじゃないのよ」 「はい、 わかりました」 (笑声) 一言言えば三つも四つも返ってくる。 よく覚えていますね、 記憶力、 思いませんか、 うちの家内だけ特別なんでしょうか、 あのときこう言った、 ああ言ったとか、 本当によく覚えています。 だから、 気が遠くなってきます。 (笑声) でも、 それに腹立てちゃいけないと思っています。
私は、 大切なお客様は女性ですから、 テレビジョンを見てくださるのは女性です。 この中にいらっしゃる方は、 葛西を見て、 見たことあると思うかもしれませんが、 あいつ知らないという方がほとんどだと思います。 でも、 ここと同じ女性がいたら、 かなりの方がわかってくださると思います。 女性の中では僕、 有名人なんですよ (笑声)。 男の人たちはテレビを見る時間がない。 見るといってもほとんど見ていないでしょうね。 プロ野球を見ながら、 大体寝ているでしょう。 見てるつもりだけれども、 見ていない。 奥さんたちはきちんと必要な情報を把握しています。 これは偉いと思います。 だらだら見てないで、 ピッピッと変えながら、 必要なものだけ、 パッパッと見ている。 週刊誌の広告をよく知っていますね。 電車の中で週刊誌の広告を見て知っています。 高いから週刊誌は買わないんですよ。 新聞の広告を読んで情報交換をします。 朝の情報はワイドショー、 パッパッと見ながら、 自分の考えをまとめてパッと、 きっとこうだなんてことを言っているんです。 でも、 相手だっていいかげんなことを言いながら、 自分の知識をしっかり持って絶対忘れない。 この情報収集力は男を見習わなくちゃいけないと思います。
男は情報収集というと、 インターネットを勉強して、 段取りがある、 本屋へ行って高い本を買って、 結局は積んでおく。 情報収集の能力が下手です。 女性はものすごい速い。 週刊誌だって、 高いから買わない。 どうするかというと、 たまに行く美容室でグワッと読んでくる、 読んだことは忘れない。 全部自分が考えたような意見のつもりで言う。 はっきり評論家になっているでしょう。
テレビ見ていても、 あの人だれだっけ、 あっあの人はね、 こうやってこうやって、 どうのと、 全部知っていますよ。 聞いてごらんなさい、 生き字引ですよ、 その能力は大したもの。 つまり情報収集能力とそれから知識を蓄えておく力、 物事を判断するときに総合的にそういう人の意見を借りて持ってくる達人です。 あれはばかにできません。 これは見習うべきだと思います。 そして時間の使い方が非常にうまい。 自分に必要なものは疲れていても出掛けていきます。 これは男は出るのが面倒くさいんです。 きょう41会に来ている方は素晴らしい。 こんなくそ暑い日に背広をお召しになって出ていらっしゃっているのはすごいと思います。 これはやっぱり結束力と、 わざわざ自分の足で面倒くさがらずに出かけることの素晴らしさ、 これが生きる力です。 世の男の方はめんどくさい。 一番いけないのはテレビです。 私はテレビ局の人間ですから言うんですけれども (笑声)、 テレビというのはだめ、 つけているだけです、 見なくてもいいんです。 テレビは、 あくまでも情報をキャッチして、 じゃ、 あそこへ行こうとか、 なるほどこういう本があるのかとか、 こういう話題があるんだとか、 その情報の入口でいいんです、 だらだら見ていちゃいけないんです。 朝は野村さん、 夜も野村さん、 別々に活躍していますけど、 朝の野村さんは別にしても、 夜の野村さんの試合を見てもいいですが、 長いですよ、 プロ野球の時間だって、 その時間を興奮したり、 カッカッカッカッしたり、 あっ勝った、 勝ったとか、 あれは中央大学のときに社会学で学びました。 現代人の疎外される人間像なんて、 やっぱり野球場へ行って興奮するのが、 本当のストレス発散なのに、 テレビジョンという代行物は非常にいけない。 ただ体が休んだ状態でカッと興奮しているのは一番いけない。 やっぱり外に出て足腰使って情報収集するというのが一番なんですね。
私は、 自分が芝居を好きなものですから、 芝居を見に行きましょう、 歌舞伎はおもしろいですよ、 ミュージカルを見ましょうという行動を仕事の一つの柱にしているわけですけれども、 テレビのときは劇場中継でそんなにおもしろいことはないんですが、 これで見て終わらないでくださいといつも言っているんです。 これでいいと思ったら、 この何百倍も劇場はすごいから見にきてください。 それは歌舞伎座の3階席に行くだけで全然環境が違います。 その中で新しい友達もできるでしょう。 環境が違う、 芝居なんか嫌いだと言うなら、 何でもいいんです、 園芸始める方は、 園芸の道具を買いに行く前に見に行くんです。 近所を散歩して、 あの植え込みはきれいだな、 ただでもいいんです。 なんでも身近なところにあって、 きょうからでも始められることがあるはずです。 そして趣味というのは何々とお書きになる方がいらっしゃるけれども、 それは体を動かすことにつながること、 わざわざ出掛けていって、 なるべくお金のかからないもの、 選択肢はものすごくあります。 それを今すぐお探しになることです。 そういうものがあって、 本当のご自分の人生が、 偉そうなことを葛西は言っておりますが、 きっとあると思うんです。 それはなぜかというと、 無名の方も有名な方も含めて、 ずっとそういう暮らしをしてきた人、 ずっとその道一筋でやってきた人間の本当に生き生きとした姿を、 仕事柄拝見することができるからです。
100歳の人もたくさんいます。 ただ100歳まで生きているわけじゃないんです。 100歳の現役演奏家もいます。 100歳の現役の舞踊家もいます。 すごいです。 人間て何て素晴らしいんだろうと私は思います。 あるいはコツコツコツコツ物をおつくりになっている匠の方にも出会います。 この人はどうしてこういうことができるんだろう。 一つのことをずっとお元気でやっていらっしゃる。 それは確かに仕事というものではあるけれども、 そのことに関して全生命をかけながら、 そのことで生きている方は強いし、 輝いているし、 何があっても死なない。 特に女性は強いです。
古典芸能の世界は体を使います。 三味線を弾きます、 琴を弾きます、 全部指や体を使うから長生きをするんですけれども、 圧倒的に女性が高齢で現役の方が多いですね。 人間国宝、 文化勲章、 文化功労者を見てもほとんど女性の方が多いです。 男性の場合には90代の方がいますけれども、 男はだめになってしまう方が多いですね。 これはやっぱり生き物の違いだということも考えなければならない。 生命力は明らかに女性の方が強い。
もしきょう地震があったら、 あるいは何か起こっても長生きするのは女性でしょう。 ストレスに耐えられる。 なぜでしょうか。 それは鈍感だからじゃない (笑声)、 逆なんです。 つまり生きるということに対して非常にセンシティブである。 非常に生きることに対して貧欲だということなんです。 これが鈍感じゃない証拠なんです。 鈍感だったら死んでしまいます。 どうやったら、 この急場を切り抜けられるだろうかということをまず考える、 その強さは一体何なんでしょうか。 今は男女同権だとか言いますけれども、 確実に男と女の性差はあると私は思います。 それをいい方に持っていく。 ここは90%男性ですから、 改めて言いたいのですけれども、 その手本は、 女房にあるでしょう、 娘にあるでしょう、 あるいは母親にあるでしょう、 おばぁちゃまにあるでしょう、 きっとその女性の中に男性にはないものの発見があるだろうと思います。
もう一つ発見があるとすれば、 私はこういう仕事柄、 福祉施設を訪れることがありますけれども、 いわゆる体の不自由な方、 身障者と言われている方、 知恵遅れと言われている方、 こういう方々に学ぶことはものすごく多いです。 今はベストセラーで 『五体不満足ですが』 という方もいらっしゃるけれども、 その方も大した方です。 あの方が出たおかげで、 あの方を直視することができるようになりましたね。 今まで私たち日本人は、 と言った方がいいのかもわかりませんが、 松葉杖をついた方、 車椅子に乗った方、 あるいは体をくねらせて歩いている方に出会ったときに、 手を差し延べて助ける方はいらっしゃるかもわからないけれども、 面と向かったときに、 じいっとみるということはしないで、 なるべく視線をそらすことが多かったのではないでしょうか。 かく言う私も、 ものすごくこわかったです。 サリドマイドの方と仕事をしたときも、 どこを見ていいかわからなくて、 こわくてこわくてしょうがなかったです。 はっきり言ってこわかったです。 それから脳性麻痺の方で、 体が全く動かなくて、 くねらせて歩いている方と、 どうやってその方の目を見て話していいかわからなかったです。 口を曲げていらっしゃるし、 目だって曲がっていらっしゃるし、 聞き取れないし、 でも、 ちゃんと見て物を言っていいのだろうか、 本当に悩みました。
私もすごい偏見の塊です。 もちろん、 知恵遅れの方と、 どうやって会話していいのか、 わからなかった。 全部教えてくれたのは、 そういう方々です。 例えば金萬里さんという人は、 重度の身体障害者ですが、 身体障害者だけの劇団をつくっている方です。 車椅子に乗っていれば、 その車椅子を自分では動かせないでしょう。 重度の障害を持っていらっしゃるわけですから、 車椅子に乗ったまま、 そしてベッドに寝たまま、 ずっと人生を送ってきた方です。 2歳のときに重度の脳性麻痺を起こして、 それから小学校も中学校もずっと施設の病院のベッドの上で寝たままで、 とってもきれいな環境の中でまっさらなシーツの上で、 空調の部屋で、 汚れた物は何も手にしたことがない。
そういう生活の中で、 私は毎日毎日看護婦さんとお医者さんに体を見られる生活をしてきた。 その中で、 でも、 このままではいけない、 何か自分は自立をしたい。 でも、 車椅子に乗っても、 車椅子を押してくれる人がいないと、 自分は外へ出られない。 それは相手に迷惑をかけると思ったら、 何もできない。 堂々と胸を張って、 車椅子を押してもらう人に頼もう。 こうやって、 世の中へ出ていって、 そして本当に動けない。 口で話せば、 指示はできます。 本当に強い意思を持った、 目の輝きを持った方です。 金萬里という名前でもわかるように在日朝鮮人の方です。 そして、 小さいころから障害を持っているから、 ある意味では二重の差別をお受けになった方だと思います。 その反発がとっても強い目の輝きを持っているんですが、 その方はもう40代の方です。 今でもきちっと世の中で活動しています。
その劇団の稽古を見に行ったときに、 まさしくサリドマイドの方は、 ここから手が出ている、 どうしよう、 こういう手をした方がいる、 どうしようと思って、 私は本当に困りました。 でも金さんは、 こうおっしゃった。 真っ直ぐ見てください、 無視しないでください、 私たちの体を見てください、 どうぞサリドマイドの手を触ってください、 私たちは触ってほしいんです、 見てほしいんです、 触れてほしいんです、 同じ人間なんです。 どうして目をそらすんですか。 私たちが一番いやなのは、 目をそらされた瞬間のサァッと冷めていく空気がとてもいやなんです。 私たちは物じゃないんです、 人間なんです、 どうぞ見てください。 目と目を見て、 そうしてこういう手を持っていても動くんです。 だから、 見てください、 触ってください、 きちっと動くんです。 手がない方も足でタイプライター、 ワープロが打てます。 打った字はきちっとした文字です。 ワープロって僕は嫌いでした。 でも、 この便りは、 私が左足の指で打ったものです。 読んだ瞬間、 ガンと頭を叩かれた思いでした。 それからワープロ嫌いという言葉は使えなくなりました。 全身で打った言葉です、 さらさらさらってきれいに書いた文字ではありません。
どうやってワープロを左の足の指で打ったんでしょうか。 でも、 一生懸命打ったお便りをもらったのを見ました。 面と向かわなくちゃいけないということを教わりました。 そして、 見られるために自分たちは劇団をやって、 舞台に立って、 自分たちの体を見てもらおうという運動をしている。 その方はアフリカのケニアでも公演して、 アフリカの公園で寝そべって公演をしたということです。 そのときにとても感激をしたとおっしゃる。 なぜかというと、 2歳で病院へ入って、 きれいなベッドにずっといたまま、 病院の中で1回だけ土に触らせてもらったことがある。 つまり看護婦さん、 何人かに抱えられて行かないと、 土のあるところまで行けない。 それで庭を散歩させてもらったときにも、 汚れちゃいけないから、 みんな車椅子ですよね。 でも、 土に触らせてくれと言ったときに、 土のそばまでたった1回だけ連れていってもらった。 でも、 余りにも大変だったから、 頼まなかった。 2回目は、 大人になって劇団を組織して、 アフリカのケニアへ行ったときに、 ケニアの公園で劇団の公演をやった。 音楽に合わせて、 いろいろなパーフォマンスをやるんです。 日本人だったら最初こうやって見るのものを、 アフリカの方々はみんな手を打って喜んで見た。 お国柄もあります、 人間性もあります、 ものすごくおもしろいと思って見てくれた。 何でこんなに違うんだろうと言うんですけれども、 その方の感動は、 それだけではなくて、 本当の草に体で触れた、 本当の土の匂いを嗅いだ、 何て贅沢なんだろう、 自分はこういう仕事をやってよかったと思った、 とおっしゃいましたね。 そういう方もいます。
四国の愛媛県に野村学園という、 いわゆる知恵遅れ方の施設がありますが、 ここに入所している子どもたち、 小学校、 中学校、 高校生といわれる、 いわゆる子どもたちが、 詩集を出しています。 『泥んこのうた』 というのです。 詩集というのは、 詩が書いてあって、 それに版画が添えてあります。 詩を書きなさいと言われると、 何行か言葉を書きます。 でも、 いわゆる知恵遅れの子どもは、 詩というものがどういうものかわからない。 それを一生懸命言葉を出させ、 言葉を書かせた先生たちの力は大変なものだと私は思いましたけれども、 その運動をずっと続けて、 とにかく言葉を出させ、 詩というのはこういうものだということを教えずに、 あなたが今思ったことを言いなさい、 言ったら書きなさいと言って、 書かせた短い詩です。 それに今度自分で版画を書きなさいと言って描かせました。 そういう作品が幾つもあります。
版画は、 女の子が1輪の花を持って、 相手に向かって、 ちょっと背の高いお姉さんみたいに見える人に渡すところの版画が描かれてあります。 そこに 「はい、 花」 という言葉です。 こういう言葉を引き出させた教師の力は大したものだと思うし、 版画にも描かせた。 それを 『泥んこのうた』 のシリーズとして出版されております。 これを読んだときに、 私たちはどこがこの子たちは知恵遅れなんだろうかと思いました。 私たちは、 こういうことを思っているんだけれども、 その詩を幾つか読ませていただきます。
山に囲まれたところに野村学園があって、 そこで自然を描いた3行ほどの詩があります。
山は静かです
花も静かなです
でも、 人間はうるさいです
山は静か、 花も静か、 でも、 人間はなぜこんなにうるさいんだろう。 こんな耳をどうして知恵遅れの子どもが持っているんでしょう。
「親の気持ち」 というちょっと長い詩です。
親の気持ち 僕は思いました
それは親も悲しいことでしょう
子どもを野村学園に置いて帰るのはいややけんど、 やっぱり連れて帰りたいけど、 やっぱり置い て帰らなければいけないと
親は思っていることでしょう
僕も親の気持ちと一緒です。
何でこんなことがわかるんでしょう。 お母さんは連れて帰りたいけど、 やっぱり家には連れては帰れない。 僕はきっと迷惑なんだろう。 そんな親の気持ち、 だから、 僕はここに残っているよ。
こういうことを思うんです。
本当は僕は知恵遅れじゃない
立派な詩が書けるけん 知恵遅れじゃない
知恵遅れは 詩を書けん人のことを言う
お前は知恵遅れだよ、 とだれかに言われんでしょう。 きっとそれが傷ついて残っているんですね。 でも、 知恵遅れがどうして詩を書けるんだ、 すばらしいですね。
もっと短い詩があります。
人間 人間 自分人間
人間じゃないって、 きっと言われたことがあるんでしょう。 でも、 僕は人間だよ、 と言っているんですね。
長いかくれんぼ
おうちと学園と長いかくれんぼです
みんなは学園で隠れています
お母さんはみんなを探します
冬休み 夏休み 春休み みんなは見つかります
それまでお母さんは探しています
私は早く見つかればいいなと思っています
家には帰らないんですよね。 それを、 かくれんぼと思って、 でも、 きっとお母さんは探してくれているんだろうと思っている。 そして、 休みになれば、 家に帰れる、 それまでは長いかくれんぼなんだ。 すごい詩ですよね。
全部好きな詩ですけれども、 私の一番好きなのは、 たった3行のこの詩です。
今までお母さんばっかり出てきたでしょう。 お母さんて強いですよ、 でも安心してください。
僕が死んだら
おじいさんと
同じお墓に埋めてね
家族の中で一番わかってくれてるのは、 おじいさんなんですね。 どこが知恵遅れなんでしょうね。 人の心の豊かさというのは、 どこにあるかわからないし、 だれに何を教わるか、 わかりません。
介護制度ができます。 家族が家族を面倒を見る、 大変なことです。 幾ら夫婦でも大変です、 幾ら親でも大変です。 でも家族が家族を看取る時代が来ます。 2人とも年老いています。 体力的には無理です。 じゃ、 どうしてだれが支えたらいいのだろうか。 子どもたちはいません。 あるいは他人である地域が支えなければなりません。
あるいは国から出る補助金でやるのか、 でも、 だれかがいないと支え合っていかれないわけです。 生きていかなければならないわけです。 楽しいことばかりではありません。 収入も途絶えます。 でも、 やっぱり一人ひとり、 それぞれの胸を張った生き方をしなくてはいけない。 できれば傷つきたくない。 できれば今までのようにやりたい。 でも、 やっぱりどこかで心を許し合って支え合っていかなければ生きていけない。
阪神大震災のときもそうでした。 だれも助けてくれない。 自分で生きていこうと思っても無理なんです。 生き残った人がいました。 でも、 すぐ 「助かってよかったね」 と言われながら自殺しました。 それは耐えられなかったんですね。 自分が築き上げた家が全部壊れてしまいました。 家族も全部死んでしまいました。 自分だけ助かりました。 みんなが 「よかったね」 と言いました。 確かによかった、 助かった、 命があった。 でも、 1ヵ月後にその人は死んでしまいました。
人間の心はもろいんですね。 だれがだれを助けてくれるか、 わかりません。 もちろん、 その中から心を取り戻して生き返った人もたくさんいました。 ある垣根を飛び越えて、 生きる世界に戻っていった人もたくさんいました。 その現場を精神病院で見たことがありますけれども、 私が見たわけではない、 ある方が見たんです。 高安マリ子さんというセラピストに伺ったんですが、 みんな精神的にぼろぼろになって傷ついている、 どうしたらいいんだろう、 とにかく心理療法、 話しを聞いてあげる、 その人たちは、 心底疲れているから、 死のう、 死のうとしているわけです。 その中で、 とにかく自分をさらけ出しなさい、 お面をかぶって踊りなさいと、 いろいろな音楽療法も試み、 踊り療法も試みた、 その他いろいろなことをやった。 その中でどんどん薄皮を剥ぐように回復していく人がいる、 ひび割れたところに水が入るように回復していく人の中の1人が、 自分のはいていたスリッパをそこにぬいで並べて、 手を合わせてしゃがんでお祈りをして、 ポーンと飛び越えたんだそうです、 それで変わったんですって。 つまり 「さようなら、 元気でね」 と、 自分は生きた世界に帰ってきた。 もう亡くなった子どもや、 ご主人や、 その人たちと別れを告げることができたんですね。 その人は自分の生きる世界に戻れたわけですけれども、 何がきっかけで戻れるか。 それは少なくとも助けようとした人たちと手を握ったことなんですね。 みんなで手を握り合って、 踊っているうちに、 心が、 そして手を通い合う血の温かさが伝わってきたということがあるかもわかりません。
人はどこでどんな出会いがあるか、 今日、 明日、 また変わるかもしれませんけれども、 今からできることがたくさんあると思います。 その一つはご自分の中に全部持っています。 本当にやりたいこと、 やりたかったこと、 本当の自分のこれはどうなんだろう。 そして一番いいのは、 ご家庭の中に支え合う相手がいることだと思う。 私もよく喧嘩をするんですけれども、 やっぱり大事な人は家庭なのかな、 あるいは隣の人なのかな、 あるいはこの友人かなと思いながら、 1人では生きられないと思いながら、 輝いて生きるというのは 「何もこうやりなさい」 ということではなくて 「輝くもとは全部ご自身の中にあるのではないでしょうか」 という問いかけの話にさせていただきます。
ありがとうございました。 (拍手)
◯長内 講演が始まる前に、 昔の教師の前で長時間話すということを言われましたが、 実は、 教師の方も緊張していました。 (笑声)
採点する気はないんですけれども、 途中までは輝いて生きる話ではなくて 「妻を語る」 話でした。 (笑声)
しかし、 さすがに25年アナウンサーを体験しておられて、 本当に立派になられましたね。 (笑声) いろいろと教えられました。 41の仲間もみんなそうだと思います。 確かに私たち1人では生きられません。 身近に支えてくれる人があれば生きていける。 それだけでもやっていけない場合がある。 そういう意味で、 横のつながりである私たちの場合は、 きょうの葛西さんの声援をいただきながら……。 (完)
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