はじめに
「8020」という言葉の意味を御存知の方は多いと思います。虫歯で悩まれたり、歯茎がはれたり、歯と歯の間に食物が挟まったり、入れ歯でよく噛めなかったりして「咀嚼」に苦しんでおられる方も多いことと存じます。
今日は、歯のこと、咀嚼のことなどを考えることで、健康のこと、よりよい人生のことなどを考えたいと思うのです。
1.皆さんにとって、歯を磨くのは、何のためですか?
虫歯予防、あまり考えない生活の一部である。さっぱりして気持ちがよいため「歯を磨くこと、口をすすぐことは 身を清め、こころを清めること」…・人間的行為じゃ「虫歯予防、8020を求めて歯を磨く行動は」、何ナノよ…
非人間的行為?
2.今の世の中、健康的であると思われますか?
寿命が延びたが?……・現代人は病んでいる.…… ・神戸の少年の事件
病気の種類が変っただけ……病気も健康も同じいのちの中
いのちの二つの意味…・ステファンのカーブ、エゴ的ケア、セルフ的ケア
3.歯は生きている
口に起きる病気、人に起きる病気、いのちに起きる病気
生活習慣病、鍼刺激と虫歯、癌… ・ハッピネスホルモン
4.ミロク菩薩とロダンの考える人
環境ホルモン、問題解決型思考パターンの終焉
5.味を楽しむ
噛むことによる「味」は、人間学的な意味を持っています。人間が趣味を持ったり、芸術や自然の美しさを心 から「噛みしめて味わったり」、心のゆとりをなくして対人関係において、後「味」のわるい思いをしたり、相手の 見事な行動に対して「味」なことをやると感心したりすることは、決して単なる非喩ではありません。
皆さんにとって歯を磨くのは、どんな意味ですか?
ここでは、硬い食品を良く噛んで召し上がることはぼけ予防になるという生物医学的研究を紹介しました。またネズミに粉食(軟らかい食餌)を与えた群と固形食(硬い食餌)を与えた群では、学習能力に相違が生じたとの研究結果も示しました。健全な歯が残され、何でももりもり召し上がれば、脳機能が活発になりそうだとの予測が立ちます。そこで、「8020運動」すなわち80歳になっても、機能できる歯を20本は残そうとの運動ですが、皆様はこれに振り回されてはいませんかと演者は問いました。
人間を単に生物学的に捉えていては、生活が窮屈になるばかりではなくて、かえって健康を損ねることもありますと述べました。名古屋にお住まいのテレビでおなじみの金さん、銀さんは実は歯茎で何でもおいしそうに召し上がって、人生を謳歌していると誰からも評価されるはずです。そこで、8020は、どんな意味をもつのでしょうか?
生活行為を振り返ってみると、食べて直ちに歯を磨こうとか、禁煙しようとか、酒を控えようとか、塩分を控えようとか、朝食を必ず食べようとか、規則的な生活を維持しようとか、これらの生活行動は、確かに成人病の予防や治療に意義深いことですが、「病気を恐れてこれらの生活行動をする」となると、その姿には、健康な姿として、心身の幸せな生活として映りません。以下に示す「健康も病気も同じいのちの中」を読んで、病気に縛られるのではなく、病気を恐れるのでもなく、病気に感謝し、「いのちの能動性=健康」を育てるために私たちは、歯を磨いたり、その他の日常生活行為をすすめていきたいものだと述べました。
健康も病気も同じいのちの中
人のこころやからだの働きを考えると…他人の意見に合わせたり、からだに無理が生じたと思えば、からだを休め回復を待つなど、意識して、こころとからだを調節できます。また意識しなくても心と身体は、自動的に調節されてもいます。(適応能力;それぞれ人により相違する。)
たとえば、喜びがいつまでも続くわけではありません。これには生理的な裏付けもあります。喜びの時にハッピネスホルモンが脳に分泌されますが、やがてこのホルモンを分解する酵素が働き、平常な心の状態に戻ります。この心の変化、喜び、怒り、不安、平常心などの感情の変化にそって、心臓の働き、血圧の変化、血液成分の変化、唾液分泌量などが揺らぎます。
心の働きや生活行動の変化に沿って絶えず、身体の調節機能も揺れ動いているのが事実です。このように心身に揺らぎがあることで、生体が健全な状態に保たれるのだと言われます。過酷な自然環境や人間環境に遭遇したり、自分の考え方が狭いと、たちまち揺らぎが弱まります。…だから、適応能力を増やすためには・・自分の考え方が狭いのに気づき、自分の狭い考え方を広げなければなりません。……
・自分の考え方が狭いと気づくのは誰か?
そして、自分の考え方を広げるのは誰か?
いずれにしても、私達にいのちの働き(魂:spirit:人にいのちの能動性をあたえる本質:WHOの考え方)があるから、考え方を広げたり、からだの調子を自動調節できて、過酷な自然環境に耐えたり、嫌いな教師や親とも付き合っていられる(…ここが、人間が機械と違うところ)。人に「いのちの能動性」があるから、そのいのちが自然環境や他者と出会って、対話をして、私たちの「心も身体」も刻々と生まれ変わっていくのです(…対話で人は生まれ変わる)。
だから、「人間に揺れ動く心理・生理現象を刻々と生みおとしているのは……いのちの能動性である。」現代の医学は、この揺れ動いているはずの心と身体(=揺れ動いている心理・生理現象)に科学のメスを入れて、これは健康状態、これは病気と区別しました。この見方は真実でしょうか?。
健康も病気も、いのちそのものであると思うのです。いのちは生体の揺らぎ、自動調節機構を生み、それは絶えず、とどまることはありません。疾病という概念は、いのちの流れを断ち切って考え出された人間の知性の産物です。健康も病気も元来、いのちや揺れ動く生命現象と切り離し、区別して考えられるものではないはずです。病気をいのちと切り離して考えると、病気を恐れ、憎悪し、撲滅しようと、あせり、苦しみ、不安に襲われ悩む心の状態になりがちです。病気が、健康と同等のいのちの顕れであり、いのちが本来の働きにない状態である時だとわかると、思いは憎悪や恐れではなく、いのちの働きを取り戻す方向に向くでしょう。自然に生きざまが問われます。これは、病気を持ってなお、こころ穏やかな自分の誕生です。この時、いのちは自身の狭い心に気づき外界とのコミュニケーションの自由度を高めます。こうして人は元気を育て、今を生きるのです。
ハッピーな生活を求めて
自分の生活を振り返られて、いのちの能動性をイメージしながら、毎日の食生活や人間関係を展開されてこられましたでしょうか?
私は2章でいのちの2つの意味について述べました。ひとつは寿命の意味であり、いま一つは、私たちの心身をなり立たせている脳や心臓や肝臓や腎臓や口腔などなど、60兆個もある細胞群をある一つの働き「心理機能(人格)=生理機能(適応の機能)」につないでいるいのちの働きです(前述)。後者のいのちの働きを高めるところに健康があるとの考え方を示しました。現代の医学は、どうやら前者のいのちを扱うことばかりに明け暮れてきましたので、後者の意味でのいのちの働き(適応力や健康な人格
の育成)が軽視されてきてしまったと思うのです。
塩分を控えた食事は大切ですし、タバコや酒を控えることも大切なことですが、タバコ一服の人間学的意義も大切にしたいし、美味しいお食事も優先したいことです。自分を甘やかすのではなく、いのちの意味をわかれば、必然的に楽しい生活が始まります。
日本人は不幸せ?
寿命が延びても、経済的に生活が楽になっても、アジアの国々の中で、日本人が一番自分のことを幸せでないと感じているとの調査結果がでています。日本に限らず、衣食住の環境が豊になるにつれ、先進諸国は、「人も社会も地球環境も病む」という結果になりつつあると考えられます(弥勒菩薩のような生きざまの必要性と西洋的な問題解決型の思考の限界)。この現状をとらえて、医学、医療の分野だけではなく、教育や政治や経済の分野の方々も異口同音に、今までは“物の時代”であったが、これからは“こころの時代”であると分析し、“こころ”を育てるべきであると述べています。
さて、こころを育てるということは、どのような事なのでしょうか?
こころを育てるには、具体的にどうすれば良いのでしょうか?
次のような症例について、考えてみましょう。
老人施設などに居られる高齢者の調査によれば、衣食住になんの不自由もないはずの生活環境でありながら、食事を「いただこう」との食欲が湧かないという方が増えています。
このような方々に、よく噛める入れ歯を装着していただいたり、口腔保健を進めてもらうように指導したり、家族の方に援助してもらうように働きかけることは大切なことであるといえますが、「食事を感謝し、食事をいただきたいとの“こころ”」が湧き起こってこない高齢者に「どんな歯科治療」を「どんな口腔ケア」を「どんな摂食指導」をすれば良いのでしょうか? 衣食住の行き届いた環境でありながら、お食事をとりたくないと口を閉ざしたり、入れ歯があわないから食べないといったりする高齢者は、御家族や介護をしてくれる人々に何を訴えたいのでしょうか? 「生きていても意味がない、楽しくない、寂しい」とそのこころの内を訴えているのかもしれません。
神戸で小学生を3人も殺した少年や、ただ殺す経験をしたかったからといって、相手のこころも考えずに主婦を襲った17歳の少年の胸の内は、ー
“透明な存在”であり
“空気のような存在”の自分ーであったことは記憶に新しいと存じます。
勿論、施設の高齢者が殺人するほどまでに、「透明で希薄な存在」であったのかは、分かりませんが、他者に伝えたい、分かってもらいたい「こころの内=存在」があったに違いありません。現代人には少なからず必然的に存在感が希薄にならざるをえない?。彼等のそのこころ、存在に迫らずに、単に「食べ方」を教える医療や介護だけでは、高齢者自身の中に人間的な行為が生まれてくるはずがありません、彼等がとうとう口を開かなければ、医療従事者は栄養学的な視点から「点滴しかありませんね」と言うでしょう。高齢者に限らず、人々のために、為される現代社会の「福祉、介護、医療」が、相手のこころを分からないと、ときには拷問になりかねませんし、高額な医療費、介護費が浪費されるでしょう、もう一度、「健康と病気も同じいのちの中」を振り返ってみて、自分自身の健康を守るためにとなされた行動が、自分自身を苦しめてはいないでしょうか?
いのちの2つの意味をわかってなされる「行為」から健康も幸せも生まれます。自分自身も他者も社会もハッピーにするには、このいのちの意味を深めることだと思うのです。
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