村國豊君を偲ぶ
(「白門41会だより」第22号より)
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 村國が逝った
 突然の訃報に接し衝撃が走った。
 昨年の腎摘出手術の後は事務所を移転し、パーティを主催したり活躍されていることとばかり思っていた。
 村國と知り合ったのは、41会の設立委員会であった。特に親しくなったのは、彼が墨田区の都市計画審議委員として地域開発でその類まれな発想をもって私の地元で活躍されてからである。墨田区には伝統的な手工芸が今もなお脈々と受け継がれているところから墨田ミニ博物館やマイスター制度を提唱し、マイスターコンクールでは自ら司会を務め軽妙洒脱なその人らしく名司会であった。居並ぶ区議会議員や区職員を前に壇上から私にサインを送ってくれたことはいまだ記憶に新しい。
 そんな縁から聖路加病院の名誉院長であったご尊父の葬儀にも出席したが、彼の育った環境を垣間見た思いがしたものであった。あれから6、7年経っただろうかまさか本人が逝くとは。早すぎる。
 白門41会会報の挿絵や送られてくる封筒のデザインも彼の作品である。都市マーケティング研究所
の社長として各方面に人脈は広く政界、財界、芸能界、そして絵画にも知人友人を大勢持つ男であった。何回かの個展で彼の画を購入した人も多い。私も昨年の銀座での個展で画集を一冊、それに毛筆でサインをくれた。私の宝物として大切にしたい。
 移転前の市ヶ谷の事務所にお邪魔した時も面白い話を聞かせてくれた。水戸街道には戸の字のつく地名が多いのはなぜか、今戸、奥戸、青戸、松戸、根戸等、明治政府初期の日本文化軽視の風潮等延々と話は続いた。そして旨いものの店をよく知っていた。事務所のそばの天丼の店、銀座ライオンの五合庵等、でご馳走になった。
 彼は中央大学、白門が大好き人間だった。主催するパーティで最後を中央大学校歌で締めて俺にエールを送って呉れと頼まれたことが2回ほどあった。中大関係以外の方が多い中でである。その旨伝えると「かまわないよ俺が中央のOBであることをアピールしたいんだ」と。そんな頼まれごともご馳走になったお返しもしないうちに逝ってしまった。
 おそらくまだやりのこした事は山積しているに違いない。志半ばにして逝った“夢を創る男”村國豊に鎮魂のエールを捧げる。 合掌。 (角田 勝)