2007年度中央大学文化講演会の要旨
2007年7月8日

題:日本語を叱るー国際社会における日本語を考えるー
講師:中大理工学部 教授 加賀野井 秀一殿

星弘美記

加賀野井教授は上記の題の講演の中で、次のような例を挙げて、日本語の現状を叱っておられた。

カタカナ語の氾濫

@コラテラル・ダメージ
Aドメステイック・フィアー
Bイル・ポステイーノ
Cヤマカシ(「まやかし」ではない)
Dインソムニア
Eユージュアル・サスペクツ
Fパルプ・フィクション
Gボーン・アイデンテイテイ
Hメメント
Iファム・ファタール

上記のカタカナ語はすべて昨今日本で放映された洋画の題名なのだとか。何故こんなことになっているかと言えば、明治維新以来、日本人はなんとなく西洋のものに「かっこよさ」を感じているからであろう。

一方で、「新造漢語」(明治維新時期、哲学等の西洋科学用語を急遽漢字に直した)の使い方にもおかしい(又は、理解が十分でない)のがある。「概念」、「理念」、「観念」の違いもよくわかっていない。又、例えば、「遺憾である」という言葉。英語では”regret”であるが、本来これは「謝る」(apologize)ときに使う言葉。ところが(相手を)非難するときもこれを使う。

短縮語も仲間うちだけに通じるわけの分らないものが多い。例えば、「センターガイ」、「ナゴヤジョウ」、「メアド」(メールアドレスとか)、「ジモテイ―」(地元の友達だとか)など。

日本語ほど擬声語(例えば、「しんしん」(と雪が降る)、「ドンドン」(と戸をたたく)、「ザアーザアー」(と雨が降る)などなど)が発達している言語は他にない。これらの擬声語(専門用語で「オノマトペ」というのだとか)は外国語に訳すことできない。

言語体系の違い

孤立語―中国語  我愛他 ⇔ 他愛我
※主語と目的語が入れ替わるだけ。

屈折語―ヨーロッパ語  (ドイツ語)Ich liebe sie. Sie liebt mich.               (英語)I love her. She loves me.
※人称によって動詞も変化する。人称形も主格と目的格がある。

膠着語―日本語   私彼女愛する。 彼女する
※テニオハ次第で主語、目的語、補語なんにでもなる。

テニオハの中に新語(横文字など)を融通無碍に入れてみんななんとなくわかった感じになっている(実はよくわかっていない)。「会社のM&Aによってシナジー効果が期待できる」など。

我々日本人は言葉を大切にしていない。日本人社会では、生身の人間が生身の人間に話すことがあまりない。

日本は諸外国(取り分け、西洋先進国)と較べ、過保護の国・パターナリズムの国・騒音の国ということができる。例えば、駅での行き先を告げるアナウンスや安全に注意して下さいといったアナウンスなどうるさ過ぎる。これを西洋先進国並みにすることを私のライフワークにしたい。

さはさりながら、(上述の)よく発達した擬声語やテニオハの中に新語を融通無碍に入れて文章を作ることができるなど、日本語の素晴らしいところでもある。この素晴らしいところは維持しつつ、(西洋言語のもつ)論理性を加えていくようにすればより汎用性のある言語になるのではないか。(←このような結論になったか否かスピーチ最後の部分のメモ取っていなかったので定かでありません。記入者の推測です。悪しからずご了承下さい)。