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「秋旅行・名湯草津の旅」

下記は原田さんからの資料
以下、参考資料です。お暇な時にどうぞ。

鬼の茶釜:西の河原公園は昔鬼の泉水といい、訪れる人も稀であった。河原一帯から
温泉が湧き出しており、「鬼の茶釜」は代表的名温泉湧口であった。湧口は茶釜が沸騰
するように異様な音をたてて湯を噴き出し、その湧口へ人が近づくと足もとから音がぴた
りと止み、離れるとまた音が鳴りだす不思議な湧口として怖がられ、誰いうとなく「鬼の茶釜」
の名がつけられたそうな

草津穴守稲荷神社の由来:明治40年頃、東京の山崎染物店の主人が草津へ湯治に通い、
病気平癒の記念に常々信仰していた穴守稲荷をこの場所に分霊し勧請した。本社は、東京
都大田区羽田にあり、ご祭神は豊受姫命である。平成13年草津町有志により、ご神徳を仰ぎ
改築したもの

ベルツ・スクリバ両博士胸像案内板:明治時代、東京帝国大学(現在の東京大学)に、「内科に
ベルツ、外科にスクリバあり」といわれて日本近代医学の基礎を築いたのが両博士です。両博士
とも無二の親友で、共に草津温泉を科学的に研究し、その医学的効能を世界に知らしめ、また
スクリバ博士は、町民に無料で診察を施し、町民から深く親しまれました。この胸像は、東京大学
構内の両博士の胸像が、戦時中、供出されるときコンクリートでコピー(ベルツ記念館に展示)したもの
で、戦後草津町に贈られたものを、1992年(平成4年)5月に姉妹都市締結記念事業にて立て
替えられたものです
(09-6-28、白門40年会の“わが町散策・下町情緒「谷根千」”の会時、
東京大学で同じ胸像を見ており、その際詳細に触れました)


水原秋桜子碑案内板:ベルツ博士胸像の傍らに建つこの句碑は、俳人水原秋桜子が、胸像
にそそぐ秋日和のすがすがしさは、ベルツの心にふれているようだと、草津町の恩人ベルツ博士
の遺徳をたたえて詠んだものである。句碑は秋桜子の友人であり、ベルツ博士に特に縁の深い
石橋長英日本国際医学協会名誉会長より寄贈されたもので、昭和57年10月21日、ベルツ博士
の生誕地であるビューティッヒハイム・ビッシンゲン市と草津町の姉妹都市締結20周年祭の折、序幕建
立された

斉藤茂吉碑案内板:山形県金瓶村(現在上山市)に生まれる。(1882〜1953)精神医学者。
ドイツに学び長崎医専教授。東京・青山脳医院長。アララギ派の歌人。最初の歌集「赤光」は近
代短歌に衝撃的な影響を与えた。現代歌人の最高峰と評価され、文化勲章受賞。戦後、山形
県にこもったが、晩年の歌集「白き山」はその頂点に聳える作品といわれている。草津には
昭和8年9月16日に輝子夫人と共に訪れ、望雲館に二泊した。その時の日記には、宿から白
根山を見たスケッチが残されている

草津ビジターセンター:草津温泉を取り巻く火山や鉱脈を中心に、温泉との関係や、周辺の動植
物の分布など、自然の力にテーマの重点を置いた紹介をしていた。
(草津に自生している高山植物は興味深かった)

・頌徳公園
:ハンセン病患者の治療にあたったメアリ・ヘレナ・コンウォール・リー女史の寄付により造られた
公園で、園内にはリー女史の像と紹介パネル他、ハンセン病に関連した史跡がある

松本留吉頌徳碑の文面を写真から書き起こして見ました:正二位勲一等関屋貞三郎篆額
 本聖バルナバ医院恩人正六位勲五等故松本留吉氏は実業財界の重鎮にして居常報国公益
を念と為し陽報を希はずして陰徳を施し謙虚?潔格仁の士なりき昭和三年還暦記念として拾
萬金を本院に喜捨せらるるに當りても名を秘し時の宮内次官関屋貞三郎氏令夫人に託せら
れ之に依り東京帝国大学教授遠山郁三博士の懇篤なる指導の下に本院の新築及医療設備
全く就り病者皆其の恩恵に浴す然れば病者の感謝言語に絶し今猶ほ敬慕其の徳を頌えて?
まざるなり余菲才を顧みず此稿を為すは偏に思恩感銘の微衷を述べんとするに有り云爾 昭
和十六年 六月二十日 鶴田一郎謹撰
(鶴田一郎は聖バルナバ医院長)

メアリ・ヘレナ・コンウォール・リー女史:(1857〜1941)イギリス名門貴族の1人娘で、母親との世界旅行
の途中で日本に立ち寄ったことがきっかけで、明治41年51歳の時キリスト教の伝道師として来日。
大正4年草津視察時ハンセン病患者の惨状を見て、翌年湯ノ沢地区に移住し療養施設を造ると共
に、大正6年聖バルナバ協会を設立(現在は存在せず)。その後20年癩患者救済に尽くした。
両親から受けついだ莫大な遺産は日本の病人たちの為に使い果たした。昭和11年老衰のため
明石に居を移し、昭和16年その地で没した

皇太后宮御歌碑:大正天皇の皇后・貞明皇后(1884〜1951)、旧姓九条節子(さだこ)、癩者
の母と言われ、ハンセン病強制隔離政策にも大きく貢献した

妙立山日晃寺:安政4年(1857)建立、翌年本山久遠寺の許可を得て浄行庵となり、昭和3年
日蓮宗草津教会と改称、昭和21年身延山の許可を得て寺に昇格。日晃寺に湧く妙法水は、現
在は飲料できないが、ベルツ博士が理想の飲科水として太鼓判を押したといわれている

草津大相撲研修道場:日本相撲協会が、力士の保養やアマチュア指導者の養成を目的に建てた
施設で、白壁と黒い瓦屋根のコントラストが美しい和風の建物でした。又前庭には土俵も作られて
いました

白根神社:創建不詳、古くから白根山信仰の中心としてその山頂に鎮座していた。律令政治下
で制作された上野国神名帳(上野国十四郡諸社神名帳:群馬県指定重要文化財)によると「吾妻
郡十二座従一位白根明神」と記されていることからそれ以前からの古社ということがわかる。
明治5年に元々遥拝所だった草津温泉の現在地に遷座し翌年に草津の郷社になっている。
祭神は日本武尊、祭礼は7月17、18日

十返舎一九碑の碑文:上州草津道中 続膝栗毛十編下より 上毛(こうづけ)の国草津は寔
(まこと)に海内無双の霊湯にして、湯宿の繁昌いふばかりなく、風流の貴客絶えず、彌次郎
北八も、今日湯宿に著きて、壺ひと間を借りきり、云々 十返舎一九

高村光太郎碑:昭和2年(1927)この地に滞在した時に作った「草津」という詩の全文が、直筆
の原稿用紙に書かれた形で刻まれている。「時間湯のラッパが午前六時を吹くよ。朝霧ははれて
も、草津の町はただ一心に脱衣する。」

六角石幢(いしどう)供養塔:この塔には、延享3年(1746)湯本治雄の妻恒子が法華経を信仰
して、10名の僧を呼んで法華経1,000巻を読誦し祖先を供養したことが記されている。当時の民間
信仰を知る貴重な文化財である。湯本治雄は草津の名族湯本三家のうち、湯本安兵衛の当主で
俳諧をたしなむ文人であった。塔の敷地は明治5年(1872)頃、白根神社境内地になった

草津山光泉寺:湯畑源泉を見下ろす高台にある真言宗豊山派の古刹。伝行基開山(721)光泉
寺自体は正治2年(1200)に当時草津を治めていた湯本氏によって白根明神の別当寺として再建
されたと言う。本堂のほか薬師堂、釈迦堂、不動堂、稲荷社、鐘楼、湯善堂などがある。境内にも
宝篋印塔、釈迦堂、芭蕉句碑(どんな句か全く読めない)、小林一茶句碑、近衛龍山公和歌、入浴
逝者の塔、魚籃観音、湯善堂などあり見る物多し

村越化石:(1922〜)16歳でハンセン病罹患、草津の国立療養所栗生楽泉園(りゅうらくせんえん)
に入園、完治後も後遺症と闘い続けている。
(聖ベルツ協会を中心とした草津に於けるハンセン病との
戦いの歴史は、関連史跡の多くと共に、強く興味を惹かれるものでした)

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