歳時記
2026年2月24日(火)
初午(はつうま)
稲荷社の本社である伏見稲荷神社(下の写真)の御祭神の宇迦御霊神(ウカノミタマノカミ)が伊奈利山へ降臨した日が和銅4年(711年)2月7日であったとされ、この日が初午であったことから、全国の稲荷社でこの日を祭ることになったらしい。
平安時代の中期以降になると、紀州の熊野詣が盛んになり、その往き帰りには必ず稲荷社に参詣する習わしになっていて、その際には稲荷社の杉の小枝「しるしの杉」をいただいて、身体のどこかに付けることが一般化していた。
その例として、「保元の乱」に続く「平治の乱」の幕開けの模様が記されている「平治物語」によれば、平治元年(1159)12月10日、平清盛が熊野参詣の途中、京からの早馬が追いつき、前日に三条殿へ夜討があり御所が焼亡した、これはおそらくは平家を討とうとするたくらみに相違ない、という知らせが届いたので、清盛は急ぎ京へと引き返すことにします。しかし、このような火急の際でもやはり「先づ稲荷の社にまいり、各々杉の枝を折って、鎧の袖にさして六波羅へぞつきにける」と記されている。
標掲の歌は、初午に参詣した人々が、そのしるしとして、皆が杉の小枝を取っていくものだから、この日の稲荷山の杉はすっかり葉がなくなってしまったよと、少し誇張して詠んだものです。この光俊朝臣というのは、鎌倉時代中期の公家で歌人の葉室光俊のこと。正五位上、右大弁。後堀河院院司別当などを勤める。藤原定家に師事し、直接指導を受ける。文応元年(1260)、鎌倉に下向して将軍宗尊親王の歌道師範となり、翌年の親王家歌合に出席するなど鎌倉歌壇にも重きをなした。
うき世をば花見てだにと思へども なほ過ぎがたく春風ぞ吹く(続古今和歌集1515)
(辛い世の中を、せめて花を見てやり過ごそうと思うけれども、
やはり春風はなかなか見過ごしてはくれず、吹いて花を散らせてしまうのだ。)
稲荷神は農耕の神様として崇められてきた経緯があるが、「稲荷」という名は「稲が生る」ということから来ているらしい。また稲荷社の前に狐の像があるのは、狐が稲荷神の使い(眷属)だからと言われているのだが、これは同時に農家にとって狐は農作物を荒らすネズミを捕ってくれる大事な存在だということにもなる。
私が住んでいる所沢の坂稲荷神社には全国でも珍しい「子だき狐」の像(天保14年奉納)がある。左の狐が2匹、右の狐が1匹の子狐を育てている(左写真)。子宝・子育ての御利益があると言われ、参拝する信者が多いらしい。またお稲荷さんには油揚げを供えるのが習わしで、このことから味を付けた油揚げにご飯を詰めた食べ物を「稲荷ずし」と呼ぶようになった。
標掲の写真は、我が家の近くの北野天神社の本殿のすぐ裏に祀られている稲荷社だが、こちらにお参りする人も多いのに気が付いた。
ところでこの社の前には「正一位稲荷大明神」と書いた幟旗が建っているが、稲荷神がなぜ正一位なのか疑問に思って調べてみた。
位階とは、古代から近代にかけて日本の朝廷が人物の序列を示すために用いた称号体系である。政治的な指揮命令の権限を直接に表す官職とは別に、名誉・待遇・身分秩序を可視化する役割を担い、叙位や昇叙を通じて朝廷と貴族社会、さらに武家社会へも影響を及ぼした制度である。位階は「正」と「従」に分かれ、上位から下位へ段階的に配置された。上位は正一位・従一位のように表され、以下、二位、三位と続く。さらに中下位では四位・五位などが社会的な節目として意識され、儀礼上の扱いにも差が設けられた。時代によって違いがあるが、現在の日本の位階はこの下に、六位、七位、八位がある。
神様にも位階が授けられ、これを神階といい、正一位には春日大社、香取神宮などがある。
伏見稲荷は、天長4年(827年)に淳和天皇から従五位下を授かって以来、次第に上進し、天慶5年(942年)に正一位になった。
それで伏見稲荷大社が正一位なのは分かったが、全国の大小の稲荷神社が正一位と名乗ることができるのか? これについて、伏見稲荷大社の言い分によれば、「本社に勧請して祀られている全国にある稲荷社に鎮座しているのは本社の分神である。よって本社と同じ「正一位」の神階を書き加えることが、後鳥羽院建久5年(1194)の勅許で認められている」というものである。
さて、信心の心を持ち合わせていない私だが、神社に行けば「二礼、二拍手、一礼」の作法でお参りし、お寺に行けば手を合わせて低頭する。小銭があればお賽銭をあげるが、持ち合わせがなければ鈴を鳴らすだけ。初午の杉を髪や衣服に挿したこともないが、それでも何とかこれまで生きてこられた。日本の神様仏様は懐が広いのだと思う。
三沢 充男