歳時記
2025年8月25日(月)
修禅寺物語

白門43会員なら知らない人はいない「伊豆逍遥歌」。「惜別の歌」と並んで、寮歌風の懐かしい雰囲気を漂わせるこの歌を、私は今でも時々口ずさむことがある。
作詞・作曲の村上道太郎氏について調べてみたが、愛媛県越智郡桜井町の出身で昭和18年9月中央大学卒、昭和15年9月から同19年5月まで住宅営団に勤務中応召、甲種幹部候補生となり、軍曹で終戦となったこと以外、詳しい経歴は分からなかった。
ところで、この二番の歌詞は岡本綺堂原作の戯曲「修禅寺物語」から取ったものであることは明らかだが、興味深い話なので、参考までに私の本棚にある角川文庫の同名書籍の中からそのあらすじを紹介しておきたい。少し長いけれど、出来栄えにこだわる面打師の心理や娘たちの気持ち、悲劇の将軍源頼家の最期の姿を忠実に記しておきたいので、ご容赦願いたい。
*土地の名前や伊豆逍遥歌の歌詞は「修善寺」ですが、岡本綺堂の物語のタイトルは「修禅寺」です。また標掲の面の写真は女の小面のようにも見えますが、これは上品な男性貴族の面です。
(修禅寺物語のあらすじ)
第1幕(伊豆の国狩野の庄修禅寺村、面打師の夜叉王の家)
夜叉王の娘・かつらとかえでが紙作りの作業をしている。姉のかつらは、名声を避けて伊豆の片田舎に隠れ住む父との暮らしを嘆き、将軍家のような貴人への側仕えを夢見ている。たしなめる妹のかえでに対し、「職人風情の妻で満足しているお前にはわかるまい」と嘯くのを聞いた春彦(かえでの婿で、夜叉王の弟子の面打師)と口論になり、仕事場から現れた夜叉王が2人を止める。夜叉王は春彦に、姉のかつらは都で宮仕えをしていた亡き母に似て気位が高く、妹のかえでは父である自分に似たのだろうと話す。
そこへ、修禅寺の僧と従者の下田五郎を連れた源頼家(右写真)がやってくる。自分に似せた面を作るよう命じたにもかかわらず、半年たっても献上されないので、お忍びで督促に来たのだった。面が完成しない理由を問い詰められた夜叉王は、自分の中に力がみなぎって流れるように打つのでなければ面は打てない、いつ完成するかは約束できない、と答える。怒った頼家が従者に預けた刀を抜こうとすると、かえでが家の奥から試作の面を持ち出し、かつらが頼家に差し出す。夜叉王は「死人の相が出ている」とためらうが、頼家主従は面の出来栄えを絶賛する。さらに頼家は、かつらに眼を向けて自分に奉公するよう伝える。貴人への側仕えを願っていたかつらは、喜んで従う。
おって褒美の沙汰をする旨を伝え、頼家主従は面とかつらを携えて帰っていく。夜叉王は、納得できない作品を将軍家へ献上してしまったことに耐え切れず、面打ちを辞める覚悟で、今まで作ってきた面を打砕こうとする。かえでは、「どんな名人でも、出来不出来は時の運」「一生のうち一度でも名作ができれば、それが名人」と、父をなだめる。
第2幕(同じ日の宵、桂川のほとり)
修禅寺の僧と下田五郎を先に帰らせ、頼家とかつらは桂川のほとりに残る。鎌倉を離れて寂しい伊豆の夜を過ごす頼家を気遣うかつらに、頼家は「鎌倉は、上辺はきらびやかだが、人間の住むべきところではない」と話す。権力闘争に翻弄され、愛する側室・若狭局を失い、伊豆へと追われた頼家は、この地で心安らかに過ごすことを望んでいるが、常に命を狙われる恐怖に脅かされていた。そのような日々の中で、かつらとの新たな恋を得た喜びから、頼家はかつらに「若狭局」の名乗りを与える。
そこに金窪兵衛尉行親が、鎌倉からご機嫌伺いに参上したと称して現れる。かつらを見とがめる行親に対し、頼家は「若狭局」の名乗りを与えたことを伝える。行親は、鎌倉へ相談もなく勝手な行動をとったと非難するが、かつらと頼家は取り合うことなく去っていく。ひとり残った行親の周りに武装した兵が集まってくる。行親は、北条氏の命で刺客として修禅寺の地に送り込まれたが、想定しなかったかつらの存在のために暗殺の機会を逸したのだった。行親は、修禅寺への夜襲に作戦を変更し、兵たちに準備を命じて立ち去る。
その様子を、夜叉王の依頼で新しい面打ち道具を引き取りに出掛けていた春彦が目撃していた。春彦は、頼家の様子をうかがいに桂川へと戻ってきた下田五郎へ伝える。五郎は、話し声に気付いて襲いかかってきた行親の兵を斬り捨て、夜襲の企てを頼家に伝えるよう、春彦に頼む。
第3幕(同じ日の夜、夜叉王の家)
兵たちの斬り結ぶ物音や喊声が、夜叉王の家にも聞こえてくる。かえでが修禅寺にいるはずの姉を心配していると、春彦が戻ってくる。夜襲の企てを伝えるため修禅寺に駆け付けた時には、既に辺りを兵が取り囲んでおり、どうすることもできず諦めて引き返してきたのだ。
かつらや頼家の安否もわからず、重苦しい空気が一同を包む。そこへ、夜叉王が作った面を持ち頼家の直垂を着たかつらが、大けがを負って戻ってくる。かつらは、入浴中の頼家が夜襲から逃れるための時間稼ぎとして、面と直垂を身に着け自ら囮となって敵兵の中を駆け抜けてきたのだった。すがり付いて泣くかえでに、かつらは「半時でも将軍家のお側に仕え、名乗りを給わったからには、死んでも本望」と応える。
それから間もなく、修禅寺の僧が逃げ込んできて、頼家主従が討死したことを伝える。かつらの決死の行動は徒労に終わり、失望したかつらは瀕死の状態に陥る。
すると、かつらが帰ってきてから一心に面を見つめていた夜叉王は、高らかに笑う。これまで頼家の面を献上しなかったのは、何度作っても面に死相が浮き出てきたからであり、これを今まで技術の足りなさゆえと思っていたが、むしろ死の運命を自然と面に表すことができるようになっていたからと覚って、心から己の技量に納得したのだ。そして夜叉王は、若い女の断末魔の表情の手本とするため、筆を執って、死にゆくかつらの顔を写し取るのだった。(左の写真は修善寺)
岡本綺堂(1872(明治5)年~1939(昭和14)年)は、小説家、劇作家として知られ、帝国芸術院会員だった。歌舞伎座で上演された「修禅寺物語」の成功で、一躍新歌舞伎を代表する劇作家となった。1913年以降は作家活動に専念、新聞連載小説、探偵物、怪奇怪談作品を多数執筆(半七捕物帳など)した。
私が持っている角川文庫の「修禅寺物語」には、代表作「修禅寺物語」のほか、「番町皿屋敷」など3編が掲載されているが、この中で特に気に入った「番町皿屋敷」の概要をご紹介しておきたい。
「番町皿屋敷」は怪談物で知られ、毎夜、殺されたお菊の亡霊が井戸から現れ、「一枚、二枚」と皿を数えるお馴染みの話で、江戸時代、歌舞伎や浄瑠璃、講談等の題材となった。しかし岡本綺堂はこれを怪談ではなく、互いに愛し合った旗本青山播磨と腰元お菊の純愛の悲恋物語に仕立て上げたのである。
(番町皿屋敷のあらすじ)
旗本・青山播磨と腰元のお菊とは相思相愛の仲だったので、小石川に住む播磨の叔母が大名の娘との縁談を持ちかけて来るが、お菊を想う彼は全く受ける気はなかった。
青山家には先祖代々伝わる高麗焼の十枚組の皿があり、1枚でも割ったら命は無いと言われている家宝だった。ある日のこと、賓客が来るのでこの皿を盛り付けに使うという。お菊は殿様が叔母さまから紹介された人を嫁に貰ったらどうしようと気がかりでしようがない。十枚の皿を目の前にしたお菊は、殿様の本当のお心が知りたいと、1枚の皿を柱に打ち付けて割ってしまう。割れた皿を家来の十太夫が見つけ慌てていると、播磨も部屋に入ってくる。お菊は高麗の皿を割ってしまったことを播磨に告げるが、粗相なら仕方ないと播磨はこれを一旦は許し、割れた皿は井戸に投げ捨ててしまう。播磨はその場でお菊に求婚し、菊が気遣っている年老いた母親も一緒にこの屋敷に住まわせればよいという。
そこへ十太夫が血相を変え部屋に駆け込んでくる。お菊が皿を割ったのは粗相ではなく、わざとであったのを同じ腰元であるおせんが見ていたのだという。播磨はなぜ皿を割ったのかをお菊に問うと、殿様の本当の心を知りたくて、皿が大事か自分が大事か試そうとしたと白状する。これを聴いて激怒した播磨は、お菊を押さえつける。自分がお菊を想う気持ちは男の誠の心であるのに、その心を疑うお菊を断じて許せなかった。
(播磨)ただ一筋にそなたを思って一夜でもそちの傍を離れまいと、かたい義理を守っているのが嘘や偽りでないことは分かるはず。何が不足でこの播磨を疑う。
(お菊)その疑いももう晴れました。お許しなされてくださりませ。
(播磨)いいや、そちの疑いは晴れようとも、疑われた播磨の無念は晴れぬ。今となって詫びようとも、罪のないものを疑ごうたおのれの罪は消えぬぞ。そこへなおれ。
──1枚、2枚、3枚……。播磨は残りの皿を1枚1枚ずつお菊に取り出させ、刀の鍔で次々と割ってしまう。──
(播磨)菊には合点が参ったはず。潔白な男の誠を疑ごうた女の罪は重いと知れ。
(お菊)はい、よう合点がまいりました。この上はどのようなお仕置きを受けましょうとも、思い残すことはございませぬ。女が一生に一度の男。恋に偽りのなかったことを確かに見極めましたので、死んでも本望でございます。
(播磨)もし偽りの恋であったら播磨もそちを殺しはせぬ。偽りならぬ恋を疑われ、重代の宝まで打ち破ってまで試されては、どうでも許すことは相ならぬ。それを覚悟して表へ出い。
こうしてお菊は播磨の手に掛かって手打ちになり、井戸へ沈められたのであった。
私は伊豆修善寺へは何度か行ったことがある。それはKKRという国家公務員の保養施設が沿線途中の伊豆長岡にあったため、保養を兼ねて行ったのである。東京駅から直通の特急「踊り子号」で行ったり、新幹線三島から伊豆箱根鉄道に乗換えて行ったりした。いつも妻と同伴だったが、独り身となってからはまだ行ったことはない。名物の金目鯛の煮つけの味が忘れられない。
また、公務員を辞めてから数年間勤務していたところが紀尾井町にあり、最寄りの麴町駅の反対側が番町一帯だったので、懐かしいところでもある。番町は一番町から六番町まであり、青山播磨の屋敷は、五番町にあったらしい。
三沢 充男