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2024年4月15日(月)
 御開帳

 御開帳とは、お寺や神社の奥深くに収められていて普段見ることができない秘仏やご神体その他の宝物を、期間を定めて公開し、人々に拝観できるようにする宗教上の行事のことである。御開帳は7年に1回、33年に1回、60年に1回などと周期的に行うことが多い。
 御開帳のスタイルとしては「居開帳」と「出開帳」がある。居開帳というのは、寺社のその場所で行うものを言い、出開帳とは、人の大勢集まる都会の寺社その他の施設を借りて行うものをいう。
 上掲の写真は、我が家の菩提寺の金乗院山口観音で平成29年に催された御開帳の時のものである。御本尊は千手観音菩薩で弘仁年間(810~824年)行基大士の作と伝えられており、御開帳は33年に1度とされている。このとき拝観に行ったが、本堂の奥まった暗いところをゆっくり進みながら拝観するというスタイルで、ご本尊は暗い中にさらに黒々としたものが立っているような感じで、はっきりと観音菩薩のご尊像だとは認識できない状態だった。
 金乗院山口観音の出開帳は、江戸時代の明和元年(1764)4月1日から6月1日まで、本所の回向院で開催された記録がある。山口観音は宝暦7年(1757)、破損に瀕した古来の本堂を再建するため、立川村大工七兵衛、宮寺村大工武兵衛などの宮大工と金145両で請負契約を結んだ。契約では、本堂は間口18メートル、奥行15メートルで二重垂木、唐破風の堂々たるものであった(これが現在の本堂である)。しかし、実際はこのほかに諸堂、山門、客殿などの修復も行わなければならなかったため、財政がひっ迫し、その費用を補填するために出開帳を行うこととしたのである。当時、出開帳というのは多くの人に本尊や宝物などの拝観の機会を設けるためという建前はあるけれど、実質は人集めをして資金を集めるために行われたのである。
 宝暦14年(1764)正月に山口観音と回向院の連名で寺社奉行に提出した願書によれば、金乗院の本堂並びに諸堂、山門、客殿等が大破し、自力での修復が困難なため、本尊の千手観音菩薩の他、霊宝等を翌年4月1日から6月1日まで、本所回向院の境内に於いて開帳したいというものであった。
 出開帳に当たっては大勢の人を集めるため、宗教的な意味合いだけでなく、娯楽の場としての機能を備える必要があり、開帳場には水茶屋6軒のほか神馬置場を設けたほか、珍しい象牙や象の絵などの展示が行われた。収支状況は明らかではないが、それ相応の成果を上げたものと思われる。
 その後山口観音では寛政6年(1794)に音羽の護国寺で出開帳を行った。回向院の時と同じように本尊千手観音をはじめ諸霊宝を3月5日より5月5日まで開帳したが、この年は3月より4月末まで風雨が強く悪天候続きであった。そのため参拝者も少なく諸堂修復のための収入が期待できない状況だったので、急遽奉行所に対し期間の延長願を出し、5月26日まで延長を行った。その後山口観音では同寺内での居開帳は行ったが、出開帳は行っていない。

 我が家のすぐ近くに北野天満天神社(北野天神社)がある(右写真)。名前は京都の北野天満宮と同じだが、平安中期の長徳元年(995)に菅原道真公の五世の孫、菅原修成が武蔵の国主となった時、勅許を得て京都の北野天満宮から御霊を分祀したという。
 この北野天神社が、享保7年(1722)4月1日から6月1日まで、江戸の長谷寺(目白不動院)で出開帳を行った。出開帳を行うにあたっては、借地代として長谷寺へ18両支払うこととしたほか、神田蝋燭町井上佐次兵衛、水道町下野屋半四郎などの商人と準備万端を取仕切る契約をしている。神前への散銭、散米、包紙等の収入の取り分は、神社側4分、商人側6分とし、準備及び開催中にかかる諸費用はすべて商人側が持つことになった。また参詣人が少なく収入が僅かであっても商人側は一切文句は言わないこととし、神前へ奉納された太刀、刀、諸道具などは天神社側が取り、神官栗原主殿の江戸滞在中の費用や長谷寺への借地代18両も商人側が負担するというものであった。要するに今でいえば、出開帳に関してはエージェントである商人に丸投げしたということになる。この時代からこんな役割をする商人がいたとは、いつの世も同じなのだなということを改めて認識した次第である。
 商人たちによって開帳の準備が整うと、次はご神体の江戸入りのため開帳行列の編成である。開帳を江戸市中に広く宣伝し、集客するためには人々がアッと驚くような行列を整える必要があった。
 そして3月28日、行列の江戸入りが行われた。最前列には「北野天神御開帳」と書いた幟を2張たて、弓、鉾などに続いて旅衣装の社家その他由緒ある供奉の者が馬に乗って先導した。ご神体は白布で覆った箱に入れ、注連縄を張り、木札に「北野天神御神体」と記し、輿のように仕立てて担ぎ、両脇を共侍6名が付き添った。その他供奉の信者が旅衣装で続き、神官栗原主殿は上等の乗物に乗り、旅衣装の供侍数名が付き従った。
 昼休みは田無宿で、御神体の御旅所は山川権左衛門方、栗原神官は伊藤甚左衛門方で休憩した。両家とも紋付の幕を張り亭主は袴を着用して出迎えた。田無宿の名主下田孫次郎も麻裃姿で馳せ参じた。それより江戸への道中の村々名主は人足を出し、自ら御神体を出迎えたのである。また行列が江戸水道橋辺りまで来ると100名の町人が麻裃姿でこれを迎えた。これらの行列については、乗物、「お貸し人足」の調達、休憩所、名主などの出迎えを含め、一切をエージェントの商人たちが差配したのであった。
 同夜、御神体が長谷寺に着くと、武蔵国入間郡藤沢村熊野神社の沢田采女が祭主となり、遷宮の式を執り行った。
 そして享保7年(1722)4月1日、いよいよ北野天神社の江戸開帳の日、長谷寺不動尊の北方に4間の小屋を掛け、天神御絵7巻と道真公自筆の法華経その他の社宝を飾り、すべての神事の勤行は沢田采女が狩衣あるいは麻裃を着して務めた。
 一方、神官栗原主殿は目白境内の支配を用人尾崎嘉吉に命じて対応させるとともに、寺社奉行松平対馬守、盗賊奉行(火付盗賊博徒改)安部式部信旨、山川安左衛門忠義、その他関係役人の家宅を回り、礼を尽くしたのである。また将軍徳川吉宗の命により、天神御絵7幅、道真公自筆の法華経、宗近の太刀、前田利家公書状を上覧のため差し出すよう命じられ、これらを提出した。北野天神にとって社宝を将軍上覧の栄に浴したことは特筆すべき出来事であった。

 なお、不動院前に掲示した「北野天神縁起大概」に北野天神の社名に地名を記さなかったことなどから、京都の北野天神に似せて開帳を行うためにわざと書かなかったのではないかなどという批判もあったが、同社では古来から地名は記さない伝統であるとして押し切った。
 結果的に、目白不動院への参詣者は夥しく、北野天神社の江戸開帳は大成功を収めたのであった。
 なお、先ごろ東京国立博物館で「中尊寺金色堂展」が開催された(2024.1.23~4.14)が、そこでは阿弥陀三尊像(阿弥陀如来坐像、観音菩薩立像、勢至菩薩立像)、地蔵菩薩立像(六体)など、同寺に収蔵されている多数の国宝が展示されたが、これらは現代における出開帳の一つと言えるのではないか。

三沢 充男


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