憩い

歳時記

 喫茶室 トップへ

2026年6月29日(月)
 夕顔

 千代女は江戸時代の俳人。加賀(石川県)の人なので加賀の千代女と通称される。若い時から俳名が高かった。
「朝顔に釣瓶とられてもらひ水」はとくに有名だが、理屈っぽいともいわれている。ここに挙げたような作は優艶で、市井の夏の夕べをうまくとらえている。庭の夕顔の棚に花が咲いている。そんな素朴な家の中に、暑さのために着物を肌脱ぎにしている女の姿がほのかに見える。それとも行水を使っている姿がチラチラ見える情景かもしれない。
 夕顔は、ウリ科ユウガオ属の植物で、蔓性の一年草。実の形によって細長くなった「ナガユウガオ」と丸みを帯びた球状の「マルユウガオ」とに大別される。
 和名「ユウガオ」の由来は、夏の夕方に開いた白い花が翌日の午前中にしぼんでしまうことからこの名がついた。アサガオ・ヒルガオ・ヨルガオはいずれもヒルガオ科の植物であり、ウリ科のユウガオとは直接の類縁関係はない。

 原産地は北アフリカやインド、古くから日本でも栽培されていたとされるが、何時どの様に伝来したかは分かっていない。
 大きな果実を実らせることが特徴。果実は長楕円形、洋なし形、球形がある。同じく大きな実を実らせるウリ科の植物にヒョウタンがあるが、ヒョウタンとユウガオは同一種であり、ヒョウタンがインドに伝わって栽培されるうち、苦味の少ない品種が食用のものとして分化、選別されたと考えられている。食用にされる果実は、ウリ特有の香りがあり、トウガンに近い風味がある。天日で乾燥させたかんぴょうは、ほのかな甘みがある。

 源氏物語をはじめ古くから説話や民間伝承にも登場するなど口承文芸のモチーフにもなっている。
 源氏物語の「夕顔」の段は、2024年9月のこの歳時記に掲載したが、概略を述べると、次のとおりである。
 若い光源氏が、とある小さな家に夕顔の花がきれいに咲いているのを見つけ所望する。すると、香を焚きしめた扇に雅な手蹟で次のような歌が書かれ、夕顔の花とともに届けられる。

  心あてにそれかとぞ見る白露の 光そへたる夕顔の花

 それ以来、源氏はその気品のある美しい女性のもとへ通うようになる。そしてある秋の夜、彼は夕顔を古びて荒れ果てた院に誘い、愛し合う。ところが夜中にあらわれた女の物の怪に取りつかれ、夕顔はそのまま命を落としてしまう。

 今回は「枕草子」で描かれる「夕顔」に触れてみたい。
 夕顔は枕草子の「草の花は」の段に出てくる。
 原文では、撫子(なでしこ)、女郎花(おみなえし)、桔梗、朝顔、菊、竜胆(りんどう)、萩、八重山吹などに続いて、夕顔が出てくる。
 原文は、次のとおり。
 夕顔は、花のかたちも朝顔に似て、言ひつづけたるに、いとをかしかりぬべき花の姿に、実のありさまこそいとくちをしけれ。などさ、はた生ひいでけむ。
  ぬかづきといふものの、やうにだにあれかし。されどなを、夕顔といふ名ばかりはおかし。
 現代語訳にすると、夕顔は花の形も朝顔に似ていて、朝顔、夕顔と並べて言えるくらいすごく見た目もよい花だが、実の形が不細工なのが、とても残念。どうしてまた、そんな風に実をならすのでしょうか。「鬼灯」(ほおづき)みたいだったらよかったのに。でも、夕顔という名前だけはいい感じがする。
 夕顔という名前はいいけれど、実の形は冴えないと残念がっているのが分かる描写です。

 ユウガオの実は干瓢の原料となる。生育は極めて旺盛でつるの長さは20mにも達する。日本国内では、栽培は斜陽の傾向にあるものの、新潟県、栃木県、山形県、山梨県、岩手県などで栽培が行われている。
 干瓢はユウガオの実を細長い帯状に剥いて加工したもので、巻き寿司や汁物などに使われ食用にされる。主にマルユウガオから作る。干瓢は、水の中でよくもみほぐしてやわらかくしてから調理される。
 乾物である干瓢に加工したときの食物繊維は、可食部100グラム当たり30グラムほどとかなり多い。実際に食べるときは茹でてからになるので、特にビタミン類はほぼゼロに近くなるほど栄養量もかなり落ちるが、食物繊維は100グラム中に5.3グラムほど含まれ、ミネラル類もカリウムが少し残る程度である。

 ところで、夕顔とヘチマは同じものなのか、違うのか? こんな疑問を持つ人もいるのではないだろうか。写真は左がへちまの実で、右が夕顔の実である。夕顔とヘチマの主な違いは、次のとおり。
ヘチマ……表面の皮が濃い緑色、食用のヘチマは果肉が柔らかく特用の香りと甘未が好まれる、花は黄色、繊維部分はタワシとして実用になる。
夕顔……表面の色が黄緑色、中の実は柔らかい、干瓢として食用になる、花は白い。
 最近は肌が弱くなったので使わなくなったが、以前は入浴の際にヘチマたわしをよく使いました。

三沢 充男

2026年5月25日(月)
 ほととぎす

 ほととぎすは、カッコウ目・カッコウ科に属する鳥類の一種。特徴的な鳴き声とウグイスなどに托卵する習性で知られている。杜鵑、時鳥、不如帰、子規などいろいろな漢字表記がある。
 全長は28cmほどでヒヨドリよりわずかに大きく、鳩より小さい。頭部と背中は灰色で、翼と尾羽は黒褐色をしており、胸と腹は白く、黒い横しまが入る。夜に鳴く鳥としても珍重され、その年に初めて聞くホトトギスの声を忍音(しのびね)といい、これも珍重されてきた。
 平安時代以降には「郭公」の字が充てられることも多く、姿形も似ているが、ほととぎすは郭公よりも小形である。典型的な違いは鳴き声で、郭公はその名の通り「カッコウ」と鳴くが、ホトトギスは「テッペンカケタカ」とか「トッキョキョカキョク」(特許許可局)などと表現されるように珍しい鳴き方をする。
 なお、明治の俳人・歌人の正岡子規の本名は常規だが、結核で喀血したので「鳴いて血を吐くほととぎす」(ホトトギスは口の中が赤い)と言われるホトトギスの漢字表記の一つ「子規」を自身の俳号とした。

 標掲の徳大寺左大臣・藤原実定(平安後期から鎌倉初期の公卿・歌人)の歌は、千載集に掲載されている(小倉百人一首81番にも)もので、「暁(に)聞(く)郭公といへる心を詠み侍りける 右大臣」とある。この「郭公」も「ホトトギス」と音読されていた。歌の意味は、ホトトギスが鳴いた方を見渡すと、そこにはホトトギスの姿はなく、ただ夜明けの月が残っているだけだった(「有明の月」は夜が明けても空に残っている月のことを指す。)となる。(右の絵は、江戸時代歌川国芳がこの歌の情景を描いた浮世絵。)
 ホトトギスを詠んだ歌は万葉集にも多いが、王朝以降のほととぎすの歌は、実際に見たり声を聞いたりという詠み方から次第に離れて行った。鳴き声が愛され、特に夜明けの声を聞くのは風雅なこととされたので、徹夜して待つという事もあった。この歌のようにホトトギスの声と有明の月を組合せ、耳と目に複合させて一幅の名画風に仕立てる趣向が盛んに試みられたようだ。

 枕草子の99番「五月の御精進のほど」に次のようなくだりが出てくる。
 五月の御精進をなさるころ、(中宮様が)職の御曹司においでになるころ(の話である)、塗籠の前の二間の所を、(精進の仏事のために)特別にしつらえてあるので、いつもとは異なっていてもおもしろい。このところ雨が降ったり、ぐずついた曇りの日が続いて所在無いので、「ほととぎすの声を聞きに行きたいわ」と(私が)言うと、我も我もと言って(女房たちは)でかけます。そこでほととぎすの声を聞くことができて歌を詠もうとしたけれど、周りの景色に見とれたりしているうちに結局歌を詠むの忘れて帰ってきてしまうことが書かれている。

  鳴かぬなら殺してしまえ時鳥  織田右府
  鳴かずともなかして見せふ杜鵑 豊太閤
  鳴かぬなら鳴くまで待よ郭公  大権現様

 これは江戸時代、平戸藩9代藩主松浦静山が著した「甲子夜話」という随筆にでてくる逸話だが、戦国の三英傑の性格をよく表していると言える。
 このことに限らず、多く鳥の中でホトトギスがこれほど歌に出てくるのは、何故なのか。それは「ホトトギス」と五音なので、歌に詠みやすいという点と、その鳴き声が特殊で古来から人々に珍重されていたことが、理由ではなかろうか。

  橘の花散る里のほととぎす 片恋しつつ鳴く日しぞ多き(大伴旅人 万葉集)
   ……橘の花が散る里のほととぎすは、散った花を独り恋い慕いながら鳴く日が多いことだ。
  あしひきの山ほととぎす汝が鳴けば 家なる妹し常に偲はゆ(沙弥満誓 万葉集)
   ……あしひきの山で鳴くほととぎすよ、お前が鳴くと、家にいる妻のことがいつも思われるのだ。
  音羽山今朝越えくれば郭公 梢はるかに今ぞ鳴くなる(紀友則 古今和歌集)
   ……音羽山を今朝越えてきたところだが、ちょうどその時ほととぎすの梢はるかに鳴くのが聞こえて、
     私を旅に出た気分にしてくれた。
  おもふことなき身なりせはほとときす 夢にきく夜もあらましものを(摂政前大納言・九条兼実 千載和歌集)
   ……辛いことがある時に聞くと、ほととぎすの声は人を憂鬱にさせるものだ。何も悩みがない身分だったら、
     夜、夢の中でだってほととぎすの声を聞きたいものなのに。
  夏の夜の心をしれるほとときす はやもなかなんあけもこそすれ(中務 拾遺和歌集)
   ……夏の夜が短いと感じる気持ちを知っているホトトギスは、早く鳴き出して欲しい、
     夜が明けてしまうといけないので。
  桜色に染めし衣をぬぎかへて 山ほととぎすけふよりぞまつ(和泉式部 後拾遺和歌集)
   ……春の季節、桜色に染めて着ていた衣を、衣更えの今日、夏の衣にぬぎかえて、
     ひたすら山ほととぎすの来訪を待っています。

  目には青葉 山ほととぎす 初鰹 (山口素堂)
  木隠れて 茶摘みも聞くや ほととぎす (松尾芭蕉)
  うす墨を 流した空や 時鳥 (小林一茶)
  ほととぎす かならず来鳴く 午後三時 (高浜虚子)
  谺(こだま)して 山ほととぎす ほしいまま (杉田久女)
  あの声で蜥蜴(とかげ)食らうか時鳥(宝井其角)

 いつもウオーキングに行く狭山湖への上り坂のところで、あの「トッキョキョカキョク」というほととぎすの鳴き声を聞くことがある。でもそれは茶畑が続く斜面の向こう側の谷の辺りなので、その姿を見ることはできない。

三沢 充男

2026年4月27日(月)
 モクレン

 モクレンという花は不思議な花である。同じ春に咲く花木でありながら、梅のような華やぎも、桃や桜のような派手なにぎわいもなく、しかし寡黙で優美な、自信に満ちた存在感……。
一般に私たちが「モクレン」と呼ぶのは、濃紫色の花をつけるシモクレンのこと。早春に白い花を咲かせるのはハクモクレンで、シモクレンが樹高4mほどの低木なのに、ハクモクレンは15m以上にもなる高木である。
 この花の歴史は1億年以上も昔にさかのぼる。現存するあらゆる花の重要な先祖の一つと言われ、被子植物が地球上に現れたばかりの頃から、現在のような花形をしていたことが化石によって証明されている。それは、モクレンの花粉を運ぶ昆虫にとって都合の良い形であり、虫たちもまた1億年前の姿のままでいるからだとか。
 このモクレンを原産地の中国では、高貴な花として、寺院や宮殿などに植えた。
 18世紀にヨーロッパに渡り、積極的に品種改良が進められ、多くの園芸品種が作り出された。その改良技術はアメリカにも伝わり、シモクレンとシデコブシなどを交雑した「ガール・マグノリア」と呼ばれる品種群も誕生した。日本にいつ渡来したのかは不明だが、中国に習ったためか寺社に多く植えられている。
 春の日を浴びて咲くその優雅な花姿は中国の佳人を思わせ、花言葉も「自然への愛」「荘厳」「壮麗」と、気高いイメージが与えられている。
 名前の由来は、ハス(蓮)の花に似ていて、木に咲くことから、木蓮と名付けられた。シモクレンは別名「木蓮華」、「木蘭」ともいわれ、ハクモクレンは別名「白木蘭」、「玉蘭」、「白蘭」などと呼ばれる。

 同じモクレン属の一つに「辛夷(コブシ)」がある。
 雪どけ間もない山野に、浮き立つように咲くコブシの花。日本各地に自生し、ほかの花木に先駆けて早春に咲くコブシは、農民にとって季節の変化を告げる暦の役割を果たしてきた。
 「コブシが咲いたからそろそろ田仕事にかかろうか」。農村の人たちは春の農作業の目安としたのである。
 また、葉が出る前に花が満開になるさまがサクラに通じるためか、東北地方では「田打ザクラ」、「種時ザクラ」とも呼ばれた。信州ではコブシの開花に合わせて味噌を仕込み、この時期に作った味噌を「花ミソ」と呼ぶ。
 清楚な花の下に強靭な生命力を秘めるコブシ、丈夫で耐寒性があり、北海道や東北にも自生するコブシの花が、厳しく長い冬を生きる北国の人々をいかに元気づけてきたかがうかがえる。
 一方、樹冠が雪で覆われたかのような満開のコブシの花は、あまりにも美しく、どこかもの悲しい雰囲気も。壇ノ浦で敗れた平家の落ち武者が熊本の山奥に隠れたが、ある日、全山を覆うコブシの花を源氏の白い旗と錯覚し、自刃した、という悲しい伝説も残されている。

  見はるかす山腹なだり咲きてゐる
    辛夷の花はほのかなるかも
                    斎藤茂吉
  山なみとほく春はきて
   こぶしの花は咲きいでぬ
  雲はるかかなたにかへれども
   かへるべきもなき日の旅や
                    三好達治「花筐」より

 我が家の西側の道路を隔てた向かいの家には白木蓮の花が、北側の道路を隔てた筋向いの家には紫木蓮の花が、今年も咲いた。我が家の庭では、枯山水の池の岸に植えた沈丁花の花が、香しい芳香を漂わせている。

三沢 充男

2026年3月24日(火)
 越天楽

 越天楽(えてんらく)は、雅楽の中ではもっとも有名な曲で、舞はかっては存在したが、今は曲だけが伝わっているという。曲は平調(ひょうじょう)という雅楽の旋律で演奏される。標掲の歌詞は、実は越天楽今様といい、平安時代の僧・慈円が作成した七五調の詞を越天楽の曲に合わせて歌えるようにしたものである。平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて成立したと考えられ、遊女や白拍子などが歌った歌謡が宮中にも広がり、庶民から貴族にまで親しまれた。(標掲画像は宮内庁楽部による越天楽の演奏。宮内庁楽部提供。*右奥の笙の奏者の前には笙を温めるための火鉢が置いてあります。)
 私は越天楽には初めからこの詞がついていたのだと理解していて、さらに出だしのこの歌詞を見て越天楽は春の歌だと思っていた。しかし、これは四季の歌であり、標掲の一番の部分が春、以下、夏、秋、冬の詞が続くので、参考に以下に示しておく。

(夏)花たちばなも 匂うなり 軒のあやめも 薫るなり
  夕暮さまの さみだれに 山ほととぎす 名乗るなり
(秋)秋の初めに なりぬれば ことしも半ばは 過ぎにけり
  わがよ更けゆく 月影の かたぶく見るこそ あわれなれ
(冬)冬の夜寒の 朝ぼらけ ちぎりし山路は 雪ふかし
  心のあとは つかねども 思いやるこそ あわれなれ

 話が前後するが、雅楽とは一体どういうものなのか。分かったようでいてぼんやりとしか知らなかったので、調べてみた。
 雅楽は1200年以上の歴史を持ち、日本の古典音楽として長く伝承されてきたものである。日本古来の儀式音楽や舞踊などと、仏教伝来の飛鳥時代から平安時代初めにかけての400年間余りの間に中国大陸や朝鮮半島から伝えられた音楽や舞、そして平安時代に日本独自の様式に整えられた音楽などがある。
 雅楽の演奏は、奈良時代・平安時代から宮廷は勿論、寺院や神社においても盛んに演奏されてきた。そして1000年以上、京都・奈良・大阪の専門の演奏家によって伝承され続けてきたという。明治時代には宮内庁に式部職楽部が創設され、雅楽を伝承している。
 雅楽に使われる楽器としては、笙、篳篥(ひちりき)、龍笛、琵琶、筝、鞨鼓(かっこ)、太鼓、鉦鼓(しょうこ)がある。このような編成となったのは平安時代の中頃と言われており、雅楽の楽曲を伴奏として舞う舞を舞楽という。

 ところで3月と言えば雛祭り。
 街に出ればあちこちから「明かりをつけましょ ぼんぼりに……」という音楽が聞こえてきて、スーパーに行けば雛あられの袋が山と積まれている。妻が存命の頃は、嫁入りの時に持ってきたガラス箱に入っている雛人形を飾ったが、今ではそれを出すこともなくなった。
 雛祭りというのは、3月3日に行われる行事で、女児の幸福を祈るために行われ、雛飾りや、白酒、菱餅、桃の花などを飾る。桃の節句とも呼ばれる。雛祭りの祝い方は地方によっていろいろな風習があり、流し雛、野遊び、吊るし雛、御殿飾りなどがある。一般的なのは雛人形を階段状に配置して飾る段飾りであろう。
 テレビなどでは、神社の階段のような長い階段に、緋毛氈を敷いて全国から集めた古いお雛様をたくさん飾る映像が出て来たり、あるいはピラミッドのように高く積み上げるのも見受けられるが、上の写真のような七段飾りや五段飾りの方がシンプルで分かりやすい。七段飾りでは、上から内裏雛、3人官女、五人囃子、随臣(右大臣・左大臣の場合もある)、仕丁が飾られ、その下に嫁入り諸道具、御輿入れ道具、御所車などが配置される。(右上の写真は飯能駅に接続しているホテルに展示されていたもの。)

 内裏雛は男雛と女雛で、関東では男雛は右側(向かって左側)、女雛は左側(向かって右側)に座る。男雛は公家の正装である衣冠束帯、冠を被り右手に笏、左脇に太刀を身に着ける。女雛の衣装は十二単で手には檜扇を開いて持ち、髪型は大垂髪(おおすべらかし)。金屏風を後ろに立て、両脇に雪洞を配置する。
 三人官女は宮中に奉仕する女官で、間には三色の菱餅(赤は魔除け、白は清浄、緑は邪気を払う)と御膳が置かれている。五人囃子は能の囃子方を模しており、太鼓、大鼓、小鼓、笛、謡いを担当する。随臣は内裏の警護をする役割で弓矢を携えており、その間には、この写真では段が設えられ、稚児が座っている。仕丁は宮中の役務をこなす男性で、それぞれの装束をしている。

 私は三月の最初の日曜日に飯能市で開催された伝統の雛祭り展を見に行きました。この日は街のあちこちのお店で所蔵している雛人形をショーウインドーの中などに展示して、待行く人が楽しめるようにしている。同時にスタンプラリーなども行っていて、店先で台紙にスタンプを押している二人連れなどが見られた。
 メイン会場は店蔵絹甚という蔵造りの古めかしいお店だったが(上の写真)、敷居を一歩跨いで中に入ると、急に華やかな雰囲気になった。そこには非毛氈を敷詰めた座敷に雛人形や吊るし雛が所狭しと飾られていました(右写真)。

三沢 充男

2026年2月24日(火)
 初午(はつうま)

 2026年2月1日は、初午の日。初午とは、2月の最初の「午の日」に行われる日本の伝統的な年中行事である。この日は、稲荷神が初めて降臨した日とされ、全国の稲荷神社で「初午祭」が行われる。参拝者は商売繁盛や家内安全を祈願し、赤いのぼりが飾られることが多い。また、初午は穀物や農耕の神様である稲荷神を祀ることに深く結びついているという。
 稲荷社の本社である伏見稲荷神社(下の写真)の御祭神の宇迦御霊神(ウカノミタマノカミ)が伊奈利山へ降臨した日が和銅4年(711年)2月7日であったとされ、この日が初午であったことから、全国の稲荷社でこの日を祭ることになったらしい。
 平安時代の中期以降になると、紀州の熊野詣が盛んになり、その往き帰りには必ず稲荷社に参詣する習わしになっていて、その際には稲荷社の杉の小枝「しるしの杉」をいただいて、身体のどこかに付けることが一般化していた。
 その例として、「保元の乱」に続く「平治の乱」の幕開けの模様が記されている「平治物語」によれば、平治元年(1159)12月10日、平清盛が熊野参詣の途中、京からの早馬が追いつき、前日に三条殿へ夜討があり御所が焼亡した、これはおそらくは平家を討とうとするたくらみに相違ない、という知らせが届いたので、清盛は急ぎ京へと引き返すことにします。しかし、このような火急の際でもやはり「先づ稲荷の社にまいり、各々杉の枝を折って、鎧の袖にさして六波羅へぞつきにける」と記されている。

 標掲の歌は、初午に参詣した人々が、そのしるしとして、皆が杉の小枝を取っていくものだから、この日の稲荷山の杉はすっかり葉がなくなってしまったよと、少し誇張して詠んだものです。
 この光俊朝臣というのは、鎌倉時代中期の公家で歌人の葉室光俊のこと。正五位上、右大弁。後堀河院院司別当などを勤める。藤原定家に師事し、直接指導を受ける。文応元年(1260)、鎌倉に下向して将軍宗尊親王の歌道師範となり、翌年の親王家歌合に出席するなど鎌倉歌壇にも重きをなした。

  うき世をば花見てだにと思へども なほ過ぎがたく春風ぞ吹く(続古今和歌集1515)
 (辛い世の中を、せめて花を見てやり過ごそうと思うけれども、
  やはり春風はなかなか見過ごしてはくれず、吹いて花を散らせてしまうのだ。)

 稲荷神は農耕の神様として崇められてきた経緯があるが、「稲荷」という名は「稲が生る」ということから来ているらしい。また稲荷社の前に狐の像があるのは、狐が稲荷神の使い(眷属)だからと言われているのだが、これは同時に農家にとって狐は農作物を荒らすネズミを捕ってくれる大事な存在だということにもなる。
 私が住んでいる所沢の坂稲荷神社には全国でも珍しい「子だき狐」の像(天保14年奉納)がある。左の狐が2匹、右の狐が1匹の子狐を育てている(左写真)。子宝・子育ての御利益があると言われ、参拝する信者が多いらしい。
 またお稲荷さんには油揚げを供えるのが習わしで、このことから味を付けた油揚げにご飯を詰めた食べ物を「稲荷ずし」と呼ぶようになった。


 標掲の写真は、我が家の近くの北野天神社の本殿のすぐ裏に祀られている稲荷社だが、こちらにお参りする人も多いのに気が付いた。ところでこの社の前には「正一位稲荷大明神」と書いた幟旗が建っているが、稲荷神がなぜ正一位なのか疑問に思って調べてみた。 位階とは、古代から近代にかけて日本の朝廷が人物の序列を示すために用いた称号体系である。政治的な指揮命令の権限を直接に表す官職とは別に、名誉・待遇・身分秩序を可視化する役割を担い、叙位や昇叙を通じて朝廷と貴族社会、さらに武家社会へも影響を及ぼした制度である。
 位階は「正」と「従」に分かれ、上位から下位へ段階的に配置された。上位は正一位・従一位のように表され、以下、二位、三位と続く。さらに中下位では四位・五位などが社会的な節目として意識され、儀礼上の扱いにも差が設けられた。時代によって違いがあるが、現在の日本の位階はこの下に、六位、七位、八位がある。
 神様にも位階が授けられ、これを神階といい、正一位には春日大社、香取神宮などがある。
 伏見稲荷は、天長4年(827年)に淳和天皇から従五位下を授かって以来、次第に上進し、天慶5年(942年)に正一位になった。
 それで伏見稲荷大社が正一位なのは分かったが、全国の大小の稲荷神社が正一位と名乗ることができるのか? これについて、伏見稲荷大社の言い分によれば、「本社に勧請して祀られている全国にある稲荷社に鎮座しているのは本社の分神である。よって本社と同じ「正一位」の神階を書き加えることが、後鳥羽院建久5年(1194)の勅許で認められている」というものである。

 さて、信心の心を持ち合わせていない私だが、神社に行けば「二礼、二拍手、一礼」の作法でお参りし、お寺に行けば手を合わせて低頭する。小銭があればお賽銭をあげるが、持ち合わせがなければ鈴を鳴らすだけ。初午の杉を髪や衣服に挿したこともないが、それでも何とかこれまで生きてこられた。日本の神様仏様は懐が広いのだと思う。

三沢 充男

2026年1月26日(月)
 午年

 2026年、明けましておめでとうございます。
 今年は午年。それで標掲写真は独楽と駒。家のタンスの飾り棚にあるのを取り出して写真に撮ってみた。いつどこで手に入れたかは忘れてしまったが、駒の方はおそらく新聞販売店が送ってくれた干支の景品ではないかと思う。
 右の歌詞の題名は「一月一日」。1893年(明治26年)に文部省から発表された日本の唱歌。作詞:千家尊福(たかとみ)、作曲:上真行。千家尊福は、出雲大社の宮司(第80代出雲国造(いずものくにのみやつこ))であり、元老院議官、貴族院議員、埼玉県・静岡県・東京府の知事を歴任。第14代司法大臣、官位は従二位、勲一等、男爵。
 出雲大社の境内には「一月一日」の歌碑が設置されている(下の写真)。

 今は満年齢だから一月一日に歳が一つ加わるということはないが、満年齢で数えても白門43会員の大半は傘寿に達しているのではないだろうか。私は大学に入るのが遅かったから現在85歳、後三年で米寿である。身体のあちこちに不具合が出ている上、記憶力も大分衰えてきているから、いつまで元気で居られるか分からないが、43会の ホームページを維持していくためにも、43会が存続しているうちは、何とか真面な働きができるよう願うのみである。

 ところで新年の行事の一つに七福神巡りというのがある。七福神というのは、恵比寿天、大黒天、毘沙門天、弁財天、寿老人、福禄寿、布袋尊の七柱の神様で、七福神巡りはこれら七柱の神々を祀る寺社を訪れ、参拝する行事のことである。これにより七福神が持つ様々なご利益を授かり、開運や商売繁盛、家内安全などを祈願する。  我が家の菩提寺の金乗院山口観音には本堂のすぐ脇に武蔵野七福神の一つ、布袋尊が祀られていて、初詣の時は多くの人が七福神にもお参りする。武蔵野七福神は、飯能市、所沢市、入間市に散在している。
 ところで七福神なのになぜお寺の境内に祀られているのだろうか。七福神とは本当に神様なのだろうか。私はこんな疑問を持ち、調べてみた。すると、驚いたことに七福神は神様の要素と仏様の要素を併せ持っているらしいのである。祀られているのは神社もあれば寺院のこともある。だから拝礼の仕方は、神社のときは二礼、二拍手、一礼だが、寺院では合掌して低頭する。
 明治維新の直後に、明治政府が神仏分離を行なって神社と寺院とを厳密に区別した。しかし、わが国ではそれ以前は、「神様も仏様も同じものである」と説かれてきた。これは平安時代なかば頃から、天台宗と真言宗の有力寺院の主導で神仏習合が行なわれてきたためである。難しい理屈は良く分からないが、七福神もその伝統に従い現在に至っているらしい。
 ついでにいえば、恵比寿天、大黒天、毘沙門天、弁財天は名前に「天」が付いているが、これは仏様につけられる名前である。仏様には如来、菩薩、明王、天(天部)という区分があり、それぞれ大日如来、釈迦如来、観音菩薩、普賢菩薩、不動明王、愛染明王などと呼ばれていて、七福神の「天」も同じである。天が付く仏様は、七福神のほかにも梵天、帝釈天、毘沙門天、吉祥天、韋駄天などがある。

 ついでに言うと、金乗院にはこの布袋尊の隣りに「ぽっくり地蔵」さんのお堂がある(右写真)。このぽっくりさんは元禄年間に金乗院十八世の亮盛師が高野山に遊学した時に、奥の院蓮華谷地蔵院の本尊を紹来したものと伝えられている。弘法大師が入定(死亡)された時のお姿だといわれ、このお地蔵様を信仰する人は永い病気をすることなく、お地蔵様によって極楽浄土へ見送ってもらえると言われている。余命も少なくなった私は、予てから病気をせずにあの世へ送ってもらいたいと願っていたので、この際「ぽっくり地蔵」さまにお賽銭を上げて、しっかりお願いをしてきました。

 さて、以前は新年を迎えると、「さて、今年は何をしようか」と抱負を考えたものだが、最近はどうもそういう気持ちにならない。
白門43会員の中にはいまだに現役で、事業や弁護士の仕事をされている人が何人もいるが、長い間役人生活をしてきた自分にはこれと言った取り柄がない。だから身体をこれ以上損なうことなく、人様に迷惑を掛けないようにして生きて行かなければならないと思うようになった。
 それでできる限りこの身体を維持していくために、近くの狭山湖まで毎朝4キロのウオーキングのほか、週に3、4回スポーツジムに通っている。ジムでも筋トレなどをすると却って身体を痛めるから、ヨガとか健康体操など無理のないメニューをこなしている。
 私がヨガを始めたのは30代の頃で十数年続いたが、そのうちに仕事が忙しくなってヨガどころではなくなり、足が遠のいてしまっていた。だが、この身も後期高齢者になりすべての仕事から解放されてみると、このまま何もしないで日を過ごすのは身体にも悪いし、気分も晴れないので、数年前から再びヨガを始めてみる気になった。スポーツジムの会員になり、軽いトレーニングの他、ヨガなどのレッスンを受けるようになった。
 だが長い空白と老齢化の進行で、一時のようなしなやかな体の動きは出来なくなったが、暫くやっていると、ひと頃程ではないがかなり柔軟性が復活してきた。それでも無理をするとすぐ身体に響いてくるから、程ほどにやることにしている。
 何はともあれ、細く長く、棺桶に片足を入れるまでは続けたいと願っている。

三沢 充男


 バックナンバーはこちら