新春のエッセイ


                                  読者の感想
阿部 豊子

 平成15年10月28日、私と主人は機上の人となった。NYに向けての出発だ。この旅の主な目的は、今年の3月、学位を取得し、医学博士になり、9月12日、NYに留学した娘に会うためである。そしてついでにNYの街を少しだけ愉しんで帰りたいと考えていた。

 いつもなら海外への長いフライト時間は、苦痛に思うところだが、心が浮き立ち、さして苦しく感じない。改めて(親子)という深い絆を自ずと感ぜずにいられない。とは言うものの、エコノミーでの13時間は、やっぱり忍耐である。JFケネデイー空港に着く。予報に反し、晴天。早速、携帯電話を娘にかけた。{モシモシ}と弾むような娘の声に、思わず、胸が熱くなり、やっとの思いで会に来たよの一言が精一杯である。不思議なもので日本を離れた地では、いつも以上に、思いが通じ合えるーーーーそんな気がした。

 私にとって初めてのNY。迎えてくれたこの大都市は、人口800万、経済、文化、芸術等々すべてにおいて世界の中枢を司り、「人種のるつぼ」といわれ、エネルギーに溢れているようだ〜〜〜〜〜と感じながら、約1時間、私たちを乗せた車は走り続けた。そして1日目の夜を過ごすヒルトンホテルに到着。世界に誇る人口公園セントラルパークが美しい。素晴らしい位置にホテルはあった。

 異人種の行きかうロビーには、それぞれの母国語が国際色豊かに響いている。そんな中に、私たちを出迎える娘の姿が目に映った。いや、飛び込んできたと言うべきか。喜びと、切なさとが交差した一瞬でした。

 もともと細い娘の体は、さらに痩せていた。母親として私は、瞬時にして、娘の置かれている立場を読み取った。「1人馴れない土地で耐えつつ、言葉の不自由さや、寂しさを抱きながらも懸命に生きる日々なのだろう」とーーーーー。言葉の代わりに涙が溢れた。大きな体をした外国人の間で、痩せた我が娘との45日ぶりの再会は、安心と切なさとを母心に溢れさせた。

 夕食は、娘が用意してくれた。そのオイスターバーは、グランドセントラルターミナルの一角のあり、洒落ていた。日本に居たときは、年中喧嘩ばかりの親子3人が少し違っていた。建設、90年を経たグランドセントラルターミナルには、200個以上の時計が有った。職人の手で日々手入れがされている。それらの時計は私たち親子3人のNYのひとときを確実に、静かに、深深と時をと刻んでいた。こよなく楽しい時間であった。食後は、エンパイヤステートビル展望台から眺めた。娘の精一杯のこころ配りが嬉しい。マンハッタンの摩天楼は光の海だった。美しい夜景のこの時に人は、それぞれ、生きているのだ。ふと、身が引き締まった。

 2日目、メトロポリタン美術館へ。朝9時に出発した、緯度でいえば日本の青森辺りと言われるNYはかなり寒い。美術館に到着。美術館の後ろにセントラルパークの紅葉が、朝日を受けて輝いている。これも、束の間の生命が見せてくれる美しさだ。

 入館は厳しかった。今の時期だけにチェツクは厳重に行われた。館内を心を澄ませて見て回る。その一角に、、唯一、日本語で 「織部」とあった。駆け寄った。茶室が復元。イヤ復元というには余りにも米国的。にじり口のは大きさは子供が立っては入れそう、しかも日本の特徴のみを強調した個々の茶道具が備えてある。いささかくどい。大きな不満を抱きつつ次の部屋、密かに2個の茶碗、近ずくと、なんと楽焼初代長次郎。長次郎は瓦職人だった人で、利休の指導のもと。楽茶碗を創った人。現代の楽とは違い艶を消した、小ぶりで素朴な茶碗、まさしく長次郎だ。すごい。緊張が高まり、やがて心が充たされていつた。そして隣に光悦。飴色で指でポーンと叩くと壊れそうな温かい茶碗。感動だった。まさかここであの茶碗に合えるとは予想だにしなかった。10ヶ月たった今でも脳裏に焼きついて離れることがない。

 美術館でのこの事は、茶道を多少なりとも学び、また学び続け様と志している私にとって忘れられない貴重な思い出を残してくれたのである。この日、午後4時に再び私たちは、昨日訪れた娘の研究場前で会う約束を交わしていた。昨日利用した地下鉄に、主人と乗り、気楽に自信を持って降り立った。96番駅から、私たちはとんでもない経験をする羽目に陥った。歩き出して間もなく、迷い人となったのである。歩いても、戻っても、曲がっても、昨日の場所は見つからない。あたりは暗くなり、生憎、氷雨までーーーーー。

 私たち2人を待つ、心配顔の娘の眼差しが心に浮かんでくる。故に、ホテルへ引き返すこともならない、はやるのは心ばかりで、迷い道は、ますます迷路の度合いを強めて、なれない道へと引きずり込むーーーーーー。娘に電話する。やはり、心配の余り、娘はすでに私たちを探しに研究所の外へ出て行った後だった。主人と私は雨に打たれて、体までぐっしょり。心は焦り、疲労困憊。言葉の通じないもどかしさと心細さで、涙が出る思いである。でも、どこにでも暖かさと優しさは存在するものであると、しみじみ感謝を感じる。道行く人の1人が、私たちの頼みにおおじてくれたのだ。ボデイアクションと、娘の住所を記したメモが、その人の思いやりといたわりで、私たちを娘のところへと案内してくれたのである。やっと辿り着き、娘と会えた。娘もまたぬれていた。「ごめんね、つらい思いをさせちゃって」。娘は言った。泣いているようだつた。言いながら、雨に打たれた私の肩を抱いてくれた。温もりが、心地よい。不慣れな土地のせいなのか、いや、もしかしたらそこで何ヶ月間か暮らした娘の成長した心のせいか、びしょ濡れの冷えた心が、温かさに包まれていった。

 あっという間の3日間、私と主人のNYでの終わりの日である。笑顔で見送ろうとする娘の思いが伝わってくる。娘自身の歩くべき道とはいえ、NYに1人おいて帰る私の心は辛い。そして寂しい。ただただ娘の健康な日々を祈るのみである。夢に向かって少しづつ歩く娘の姿に。そして、目の当たりにしたNYでの娘の生活ぶりに、少々の安心と祈りを込めて、NYのたびは終わったのである。そして何よりNYでの娘との別れは、ほんの少しだけ親としても成長させられた1つの瞬間であったのかもしれないーーーーーー。そんな思いが心に宿ったのである。
 ふと思う。親子の絆とはーーーーーこれから先も、まだまだなのだろうと。