子供の頃、身体が弱く、月に一度の高熱におかされ、祖父母に、長生きできないので、お寺にあずけたら、との時代を経て、高校、大学と人並みに元気になり、社会に出て、あこがれていた海外生活にも触れ、我がままにサラリーマンを謳歌し、50才にして、小さな会社を始め、20年以上何とか現役を続けられている人生に感謝しつつ、今までの人生これからの人生を、思いつくままに書いてみます。
毋の実家、下諏訪に疎開中に生まれて、父が兵隊から帰ってきて、空襲で焼け出された横浜の家より、祖父の縁のあった、今では、洋光台なぞという住み心地の良いところとなっていますが、当時は野うさぎや蛇が家の中に入ってきたり、夜はムササビが飛んでいる山の中に居を移し、畑の開墾、鶏の世話、水汲み、と、自然相手に少年時代を過ごしていました。何とも懐かしい、大好きな景色です。
無邪気に大学生活をおえて、就職先は、諏訪に所縁のある服部時計店精工舎に決まり、希望に燃えていたところ、卒業近くに内定取消し通知を受け(同大学3人全員とも)人生の出発を前に、悲哀を知らされました。
そこで掲示板に募集のでていた第百生命への入社に踏み切りました。相互扶助の精神を活かして、「声を出し、皆で歌を唄っている時は、人の気持ちが和やかになる」そんな大衆音楽堂を津津浦浦につくる、との目標を持って。図らずも、これはカラオケという形になって実現しちゃいました。
大学3年の時、戦後第1回目の日米学生会議に参加して、米国の姿を追っている日本では、「仕事は面白くなくとも、出世はできるぞ」との思いでした。しかし、本社、営業所と実に面白い体験の4年間を過ごしました。物足りなさは1つ、何となく国際感覚に触れている気持ちになれなかったことでした。
そんな時、輸送革命と呼ばれたコンテナ化が始まり、日本で初めてのコンテナのリースと一貫輸送の会社(NIC)設立に出合い、縁あって、創業より飛びこんでしまいました。26才の時でした。会社が出来ていく姿が面白く、時のたつのを忘れて没頭できました。大学時代の恩師、國弘正雄先生の造語インターメスチックエイジの世界に触れたわけです。
今やコンテナなくして物は動かない基礎産業となりましたが、その過程は正に小説でした。その初期段階から携わってこられたのは幸せでした。
1) コンテナ化されていく他国の港を、若い頃に見て歩けたこと。
2) 欧州現地法人設立に当たって、3年程でしたが、ロンドンに駐在できた体験。特に
在英キューバ大使館と共同で、欧州よりNICのコンテナを満載して、キューバのコ
ンテナ化第一船の就航を祝うという、コンテナリース屋冥利に尽きる喜びも、味わい
ました。新しい分野の仕事は、紆余曲折の連続でしたが。
3) 海上輸送ルートに加えて、シベリヤ鉄道経由で欧州、中近東へのコンテナルートの
開発、開拓に携わったこと。
4) 中国対外貿易運輸公司(資⦆トランス)との合弁事業の立ち上げで、国際集装箱租
賃公司(資⦆コン)設立に奔走したこと。
等々々。
振り返れば、コンテナのトリコになって過ごした夢、幻のような月日でした。
輸送のコンテナ化は、揺り籠から墓場まで様々な新しい仕事の産業化をともなって成熟してきました。ただ輸送で寿命のつきたコンテナ自体の最後の安住の地は産業化されずに残っていました。輸送では、ガタがきていても、あの頑丈な鉄の塊は、事業として活かせると思い、50才を過ぎて、小さな会社を始めました。貸コンテナです。設置場所、不特定な人達に認知されるまでに時間はかかりましたが、今や多数の大手企業が参入し、レンタルボックス等々の呼び名で、日常生活に定着し、墓場産業も立派に確立となりました。
ただひたすら無我夢中で生きてきましたが、全ての人の縁と出合いの人生でもありました。この仲間でも、宮氏、井口氏と各々一緒に仕事をする機会があったことは、コンテナが結んだ有難い縁でした。
祖父母そして父母を西方浄土に見送り、子供も2人(長男長女)各々の道を歩んでおり各々3人と2人の孫も授かり、そろそろ自分の行く末を考えねば、という矢先に、68才で大腸癌手術、71才で内頚動脈血栓内膜剥離術と、2度にわたっての命拾いとなりました。医術の進歩と運の良さのお陰を噛み締めています。
これからは、仕事では、支援物資、援助物資と呼ばれる物に特化したコンテナ輸送に、微力ながら貢献すること。それ以外は、生かされている命を大切にお守りいただいた力に感謝し、神仏には手を合わせ、縁あって触れあった人達を大事に充実した日々を送ることが、生きること、と思っているところです。 |
『CONTAINER AGE』2009年3月号寄稿
株式会社サンライト社長 阿部 昇
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