宿場を歩く絵巻

下町散歩報告
2021年10月5日

品川宿〜本陣跡〜品川神社〜東海寺大山墓所〜
品川寺・江戸六地蔵〜青物横丁駅
土田 和正

プログラム 近況報告・エッセー一覧

    


品川宿交流館「本宿お休み処」

 今回の下町散策は品川宿でした。ご承知のように江戸幕府は街道を整備し、人流、物流を活発化し、言うなれぱ経済の活性化に力を入れました。その最も重要なのが東海道であり(それは今も変わらない)、宿場町も併せて整備されました。
 その最初が品川宿です。江戸時代、松林と海岸が美しかった街道筋も文明開化と共に姿を消し、今は見る影もありません。そんな中にあっても旧東海道沿いの品川宿は何となく風情を留めていました。具体的にはまず道幅が昔のままであり、江戸時代から続くという下駄屋、畳屋、それに今ではあまり見かけない荒物屋等があり、どことなくホットするものがありました。
 道すがら街道筋に植えられた全国の他の宿場町から寄せられたという松や高札を眺めながら宿場中心の本陣跡へ。これだけ広い本陣跡がそのまま公園として保存されている所は珍しいそうです。
 街道を少し離れて、北品川地区の鎮守である品川l神社を参拝。今回初参加の地元在住吉野氏の案内で品川神社裏手に回ると板垣退助夫妻と親族の墓所があり、「退助死すとも自由は死せず」と彫られた石碑もありました。ここはもと東海寺塔頭の高源院の境内で、関東大震災後、高源院が世田谷烏山に移転し、この墓所だけが残ったということです。さらに同氏に昼食を振る舞われ、予定にはなかった東海寺大山墓所をも案内してもらいました。ここは有名人の墓が多くあり、特に沢庵和尚と島倉千代孑さんの墓が印象的でした。
 街道に戻り、江戸六地蔵の品川寺で樹齢600年という大銀杏にパワーをもらい、青物横丁駅で散会しました。
 旧宿場町の名残りは各地に散在しており、馬籠宿、妻籠宿、大内宿などが有名ですが、これらは皆商業化し、いわぱショッピングモール的なものになっています。そんな中にあって、私はあまり全国化していない宿場町をいくつか訪ねましたが、それはそれは風情のあるもので、まるでタイムスリップした感でした。皆様も機会を作って是非訪ねて見て下さい。心落ち着く事請け合いですよ。(土田和正)


    
        JR品川駅集合               品川宿入口案内板

       
      品川宿本陣跡説明版            品川宿本陣跡の聖蹟公園

   
   品川神社 文治3年(1185年)源頼朝創建。      品川神社富士塚頂上
  東京十社の一つ。境内に東海七福神の大   気軽に富士山へ行けない庶民のため、
  黒天を祀る。因みに七福神とは恵比寿、   江戸時代に作られた高さ15mを超える
  大黒天、毘沙門天、弁財天、福禄寿、    都内最大の富士塚「品川富士」。富士
  寿老人、布袋をいい、品川宿沿いの神社   山に登るのと同じご利益があるという
  や寺に1社ずつ祀られている。       ことで人気がある。


     
    品川神社の裏手に板垣退助夫妻と親族の      板垣退助墓所内に「板垣死すとも
   墓がある。ここは東海寺塔頭高源院の墓    自由は死せず」と彫られた石碑が
   所だったが、関東大震災後、高源院が世    ある。
   田谷区に移転し、この墓だけが残った。


      
        東海寺大山墓所                沢庵和尚墓

       
    東海寺大山墓所の島倉千代子墓。        島倉千代子墓お参り
   ここには上記沢庵和尚のほか鉄道の
   父井上勝、国文学者加茂真淵、天文
   学者渋川晴海、裏千家第六世六閑宗
   安、儒学者服部南郭の墓もある。鳥
   居のある墓もある。


       
               品川宿交流館「本宿お休み処」

     
    荏原神社前の鎮守橋、左手が鳥居。         荏原神社本殿
  鳥居の左に東海七福神の恵比寿神を
  祀る。
    
      
     品川寺(ほんせんじ)山門        品川寺入口にある江戸六地蔵の一つ

      
   品川寺境内の庚申塔(1680年建立)      品川寺境内に東海七福神の毘沙門天
                        を祀る。上の案内板は品川寺入口付
                        近にあるが品川神社社務所名で掲示
                        されている。


       
    品川寺の樹齢600年の大銀杏           大銀杏説明板

      
    海雲寺本堂隣の千躰荒神堂           海雲寺境内の平蔵地蔵と碑文
  千躰荒神は江戸時代から竈(かまど)      江戸末期の頃、鈴ケ森処刑場で番人
  の神様、台所の守護神として信仰さ       をしていた乞食の中に正直者がいて、
  れている。                  大金を拾い、落とし主を探して届け
                         出た。そのために仲間の乞食から山
                         分けすれば乞食も廃業できたのにと
  ※当地から青物横丁駅へ徒歩3分        小屋を追い出され凍死した。これを
                         聞いた落し主が手厚く葬り、地蔵尊
                         を立て供養した。