第1回青梅マラソンの思い出
第1回報知青梅マラソン優勝
(1967.3.5)
(「白門41会だより」第25号より)
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 昭和42年1月中旬から2月の上旬にかけて全日本実業団の陸上競技全体の合宿が広島県の東洋工業で開催された。この合宿練習が終了して引続き第2回目の合宿練習は鹿児島県の鴨池陸上競技場を中心に実施された。広島も鹿児島も日本の一線級の選手であるオリンピックに出場した有名な人、当時の記念写真も古いアルバムにのっかっている。短距離の飯島、マラソンの円谷、有名な女子選手等々、後にも先にもこんな豪華メンバーで共に一緒に練習出来たのはこれっきりであった。
 まず広島は後の自動車業界のマツダ、ここには投擲競技の石田選手、宿舎の周囲には車の出来たてホヤホヤの列であった。練習そのものは競技ブロック別でそんなにしごかれた思いはない。また、鹿児島の鴨池陸上競技場では調子は良くなくてグランドの外側を皆さんに迷惑にならない様にロングジョッグそれも無理しない様にスローペースで走った。合宿も終り休暇を一週間程頂き自分の田舎に帰るべく西鹿児島駅についた、なんと駅の正面で乗車券でも購入しようと思っている所にかの有名な東京オリンピックのマラソンのヒーロー円谷選手が自衛隊の専用車から制服姿で、そして胸には特別昇進の階級を表わす徽章をいっぱい飾りつけてVIP扱いでおつきの方二人共々、車から降りて自分の前に現われ「やあ、若松さん」と気軽に声をかけてこられた。二人だけでこれチャンスと思い桜島をバックに円谷さんのカメラで記念撮影をしてもらった。私の一番上の兄も北海道の千歳で陸上自衛隊に所属していたので尚更真実味がわいて、これは最高の記念になると感激していた。
 そしていつしか二人の会話は第1回青梅マラソンが開催される、それにお互いに申込んでレースに出場予定という事を知る。よもや1ヶ月後のレースで円谷さんに勝って優勝するとは夢にも思わなかった。私の生まれた所は宮崎県えびの市である。昔小さい頃良く遊んだ勝手知ったる宮崎、鹿児島、熊本の3県に面している地域を水を得た魚の如く自分のペースで時間も気にせず誰にも遠慮なく好きな様に納得が行くべく充実した練習に打ち込んだのであった。
 ある日は熊本県の人吉方面にロード走、翌日は宮崎県小林市方面、それから幼少の頃魚釣りをした川内川の芝(土手)これはショックがやわらかくて短い距離のインターヴァール、近所のお年寄が同じ所を全力で走って行ったり来たりしているのを見て、何をやっているのか理解出来ないから気が違ったのじゃないかと勘違いされて後で自分の母親に言われ苦笑したものだ。
 また、挨拶がてら鹿児島県の吉松町に嫁に行ってる姉の所まで練習を兼ねて長距離走もやった。とにかく身体の調子も良くなりあっという間に一週間はすぎ、リフレッシュして上京した。その数日後、何の欲もプレッシャーもなく第一回青梅マラソンを迎えた。走る前に円谷さんに挨拶、西鹿児島駅前の記念写真の件を話したら残念ながら、フィルムが未露光で写っていなかったとのこと、ガックリ来たけど人のカメラじゃ、もしあの写真がOKだったらツーショットでベストだったが仕方がなくあきらめた。かくして、第1回青梅マラソンのスタートである。参加選手も300人程度11km地点でじれったくなって飛び出してみた、すぐ差が開き30m程、横田基地方面折返し29kmでは顎が上がりヘバッテ、ゴールはどこと報道車の人に聞いて辛うじてテープをトップで切ったのである。しかし何故か円谷さんがゴールするまでそこにいたたまれず近くの喫茶店で冷たいコーラを飲み閉会式まで時間をすごしたのである。
 あれから35年、平成14年の青梅マラソンは第36回である。平成13年は小出監督の高橋尚子、平成14年はスターターに長島茂雄、毎年賑やかに発展しております。青梅は一期一会、平成14年の青梅マラソン当日青梅陸協の久保田会長さんに円谷幸吉さんらと一緒に走った35年前の第1回青梅マラソンの写真をアルミの額入りでプレゼントして戴き長野の自宅に飾りました。一生の宝です。当時の事を思い出しつつ、まるで昨日の出来事の如くペンをとりました。
(平成14年3月20日(水)若松 軍蔵)

第1回青梅報知マラソン大会優勝
1967年(昭和42年3月5日)タイム、1時間36分14秒
歴代優勝者(30キロ)―― 今から35年前の競技会
ナンバカード(50) 円谷幸吉 選手
ナンバカード(204)若松軍蔵 選手
青梅市役所スタート、横田基地方面、折り返しコース。
青梅市役所ゴール。1位、若松 2位、円谷選手
 円谷幸吉選手はご存知の事と思いますが、自衛隊所属で、東京オリンピック1964年(昭和39年)マラソンで第3位。優勝者は、かの有名なビキラ、アベベ(エチオピア)でした。国立競技場に第2位で入ってきた円谷さんは、欲しくも、ヒートリー選手に抜かれて悔しかった事でしょう。テレビで観戦していて、すごく感激したものです。
 くしくも、正月の箱根駅伝は中大6連覇アンカー10区を走って2分17秒差で、逆転優勝でした。
 箱根駅伝で優勝した後日、一般学生の友人と読売新聞社に出向き、表玄関に設置してあるガラス張りの掲示中のゴール写真を本人であることを述べて頂いてきました。その写真のすみに五輪のマークと降ってる雪の白さがなんとも言えない昔の数寄屋橋近くの読売本社が誠に冴え渡っておりました。(若松軍蔵)