歳時記バックナンバー(2019年/2018年)
2019年12月23日(月)
武蔵野の南瓜

色鮮やかなこの南瓜は食用というよりも、むしろ観賞用として栽培されているのではないだろうか。
冬至にかぼちゃを食べる習慣は江戸時代からのもので、「冬至にかぼちゃを食べると病気にならない」と言われていた。今のような保存技術がなかった時代、長期保存が可能で、栄養価の高いかぼちゃはこの時季の食材として重宝がられていた。風邪や中風(脳卒中)の予防に役立つと考えられていたのだが、実際かぼちゃは栄養価が高く、カロテンやビタミンが豊富に含まれているので合理性がある。
「南瓜」と書くかぼちゃは「なんきん」とも発音され、「ん」が付く食材を食べると「運」がよくなるともいわれていた。れんこん、ぎんなん、かんてん、うどん、にんじん、きんかんと並んで冬至の七種(ななくさ)に数えられていたらしい。
この写真は我が家の近くの畑で撮ったものだが、敢えて「武蔵野の」としたのは、この辺りが国木田独歩の名作「武蔵野」の冒頭に出てくる場面だからである。
「武蔵野の 俤は今纔に入間郡に残れり」と自分は文政年間に出来た地図で見た事がある。そしてその地図に入間郡「小手指原久米川は古戦場なり太平記元弘三年五月十一日源平小手指原にて戦ふこと一日か内に三十余度日暮れは平家三里退て久米川に陣を取る明れは源氏久米川の陣へ押寄ると載せたるはこの辺なるべし」と書込んであるのを読んだことがある。自分は武蔵野の跡の纔に残て居る処とは定めてこの古戦場あたりではあるまいかと思て、一度行て見る積で居て未だ行かないが実際は今も矢張その通りであろうかと危ぶんで居る。
この中の「源平の戦」は、鎌倉末期に源氏の新田義貞と平氏の北条方・桜田貞国とが戦った史実を指すのだが、この「小手指原古戦場」の石碑が我が家から1キロ弱の所に建っている。碑の文字は達筆ではあるが女文字のような優しい筆使いで、戦の跡を記す文字としてはもっと荒削りな筆の方が相応しいのではないかなどと考えながら見つめていると、いつの間にか当時の世界に引き込まれてしまいそうになる。
ところで、独歩の愛した武蔵野とはどんなものであったのか。彼は「武蔵野」の第三でその情景を次のように述べている。
昔の武蔵野は萱原のはてなき光景を以て絶類の美を鳴らして居たように言い伝えてあるが、今の武蔵野は林である。林は実に今の武蔵野の特色といっても宜い。即ち木は重に楢の類で冬は悉く落葉し、春は滴るばかりの新緑萌え出ずるその変化が秩父嶺以東十数里の野一斉に行われて、春夏秋冬を通じ霞に雨に月に風に時雨に、緑陰に紅葉に、様々の光景を呈する……。
碑の左手の細道を50メートルばかり奥へ入ったところにこんもりと木立に囲まれた小山がある。新田義貞が源氏の白旗を掲げて戦勝を祈願したと伝えられる白旗塚で、塚の天辺には「白旗塚」と彫られた小さな碑が残っている。いま、古戦場跡の石碑のほとりに立って左手の白旗塚の方に目を向けると、まさに独歩が称えた武蔵野の林の風景が眺められる。しかし、その風景というのはカメラのファインダーを通して見る影像のように限られたもので、周囲には茶畑(この辺りは狭山茶の産地である。)や桑畑や、麦・サツマイモ・トウモロコシなど季節、季節の作物を耕作している畑が広がっている。確かに、その畑の向う側や北のなだらかな斜面には雑木林があり、また畑のあちこちにも木立が点々と生い茂っている。遠くに目を向ければ秩父の山々が連なり、天気の良い日には富士を望むことができるが、付近には保育園や小、中学校や以前自分が働いていた六階建ての介護施設があり、一戸建ての民家も点在している。独歩の愛した武蔵野とは大分変っているはずである。
ではその昔の「萱原のはてなき光景」とはどんなものであったのか。この疑問に答えるべく古典を紐解いてみると、更級日記の中に次のようなくだりがある。
いまは武蔵の国になりぬ(中略)、むらさき生ふと聞く野も、蘆・荻のみ高く生ひて、馬に乗りて弓もたる末見えぬまで高く生ひ茂りて、中をわけゆくに、竹芝といふ寺あり
時代を下って鎌倉時代の続古今和歌集には「むさしのは月の入るべき峰もなし 尾花が末にかかる白雲」とあり、平安時代と大して変ってなさそうである。
こうして見てくると、平安・鎌倉の時代と、独歩の時代と、そして林と畑と民家が入り交じる今とではかなり様子が変ってきている。もはや小手指原古戦場跡の辺りも武蔵野の俤を残す場所ではなくなっているのだと思わずにはいられない。
とはいえ、目を転ずればほど近い距離に多摩湖、狭山湖の広大な水源涵養林が広がっていて、湖畔の堤防に続く林の中の小道には「まむし注意」の立て札がいくつも立っている。1200年の歴史を持つという我が家の菩提寺はその多摩湖と狭山湖の接する畔にあるのだが、そこへ行く途中には薄が群生している小道がある。そんなところを歩いていると、ふと平安時代の昔にタイムスリップしたような気持になり、瞼を閉じると「萱原のはてなき光景」が目の前に広がっているような錯覚に捉われる。
三沢 充男
2019年11月25日(月)
マンホールの蓋

弱々しい晩秋の日差しに音もなく舞い落ちる街路樹の枯葉。その先を目で追っていくと色も鮮やかなマンホールの蓋がある。そういえば最近この手のマンホールをよく見かけるようになったなと思う。家の近くにある従来型のマンホールの蓋も、よく見ると昔の二枚翼の飛行機の模様が刻まれていたりして、それなりに町のシンボルを表しているのだが、最近のはカラフルで見た目が断然違う。これなら道行く人の目を引いて町のイメージアップに一役買うに違いないが、これも一つの流行なのかと思って調べてみた。
マンホールは上下水道や消火栓、ガス管など地下の構造物のメインテナンスのために必要不可欠なものだが、これには大抵の場合丸くて頑丈な蓋が付いている。中には四角いのもあるが例外である。なぜ丸いのが良いかといえば、理由はいろいろあるが、最大の理由は蓋が穴に落ちてしまわないようにするためだ。道路は重量のある自動車が通るから、マンホールの蓋はいくら丈夫にできていてもずれることがある。そんなとき円形の蓋ならばどんな向きになっても幅が変らないので落ちる心配はないが、例えば四角形だと辺よりも対角線が長いから蓋が傾いてずれると穴の中に落ちてしまう恐れがあるからだ。
日本の最初のマンホールは明治14年に横浜居留地に下水道ができた時に設けられたが、現在のような蓋の原型は、明治から大正にかけて内務省の技師として全国の下水道を指導していた東大教授の中島鋭治博士が、東京の下水道を設計するときに西欧のマンホールを参考にして考案したと言われている。その後昭和33年にJIS規格が制定され、東京型が普及したが、地方独自のものも出始めてJIS規格のものと混在するようになった。
昭和60年代に入り、当時の建設省が下水道のイメージアップと地域のアッピールのため、各市町村にオリジナルデザインのマンホールの設置を呼び掛けたため、デザイン化が進み始めた。その後「下水道マンホール蓋デザイン20選」を選定するなどして競争を煽ったから、全国の市町村が競い合ってデザイン化を進めるようになり、デザインマンホールは急速に普及し出した。
さらに数年前からご当地マンホールカードなるものが配布され始めた。カードは名刺サイズで表にマンホールの写真、デザインに使用された対象物のマークなど、裏にはデザインの由来が記載されている。コレクターはこれを集めるのに躍起となっているようだが、郵送は不可で、もらうためには各自治体に直接出向かなければならず、しかもレアカードとなるとなかなか手に入らないらしい。
上掲の写真は私の住む所沢市のものだが、所沢は我が国の航空機発祥の地だからイメージキャラクターの「トコロン」の頭にはプロペラが付いている。それからもう一つの売りは西武ライオンズの本拠地であること。西武ドーム球場は私の家から歩いて30分の距離にあるのだが、真ん中の絵では球場をバックに球団マスコットのレオが一役買っている。今年はリーグ優勝したのにクライマックスシリーズでは不甲斐なくも1勝もできずトップの座をソフトバンクに明け渡してしまった。儚く散る街路樹の葉のように……。
所沢は気温が都内よりも1、2度低い。そろそろ冬支度をせねばならぬかと思うような肌寒い秋の夜には、一人静かに飲む酒が相応しい。深まりゆく秋の気配を肌身に感じながら、物思いに耽りつつ傾ける酒には何とも言えない風情がある。
しら玉の歯にしみとほる秋の夜の 酒は静かに飲むべかりけり
我が家の徳利には若山牧水のこの歌が書かれている。猪口の方にも同じような酒の歌がある。若山牧水(明治18年~昭和3年)は自然に親しみ、酒を愛し、心に響く歌を数多く詠んだが、それらにはどこか人生の儚さが漂っているように私には思える。
幾山河越えさり行かば寂しさの 終てなむ国ぞ今日も旅行く
三沢 充男
2019年10月21日(月)
宵待草

待てど暮らせど 来ぬ人を
宵待草の やるせなさ
今宵は月も 出ぬそうな
竹久夢二
竹久夢二(明治17年(1884)~昭和9年(1934))は、岡山県邑久郡(現在の瀬戸内市)で生まれ、本名は茂次郎といった。16歳で上京し、早稲田実業学校在学中より雑誌へ投稿し、明治38年(1905)末にデビュー。以後コマ絵や挿絵を数多く発表し、抒情的な画風の夢二式美人画を確立した。画壇に属さなかった彼は日本の郷愁と西洋のモダニズムを自由に表現した作風で日本画、水彩画、油彩画、木版画等の制作を行い、また詩や童謡、短歌なども数多く創作した。旅を重ねて漂泊の人生を歩み、独自の芸術世界を形成して、大正ロマンを象徴する存在となった。
「宵待草」は明治45年(1912)に作った七五調の詩で、翌大正2年(1913)発行の処女詩集「どんたく」に掲載された。これに曲をつけたのは東京音楽学校(現東京芸術大学音楽学部)でバイオリンを学んでいた多 忠亮(おおのただあきら)で、大正6年(1917)にその楽譜が出版されると「宵待草」はまたたく間に有名になり、全国に広がった。最初に歌ったのは高峰美枝子である。
明治43年の夏、夢二は千葉県銚子の海鹿島(あしかじま)でひと夏を過ごし、そのとき成田町から避暑に来ていた長谷川カタと恋に落ちる。二人は逢瀬を重ね、帰宅後も文通を続ける。翌夏夢二は再び海鹿島を訪れるが、いくら待ってもカタは現れない。彼女はすでに作曲家の須川政太郎のもとへ嫁いでしまっていたのであった。その時のやるせない思いが、結果的にこんな素晴らしい詩を生むことになった。
宵待草は、アカバナ科のオオマツヨイグサのことで、この歌が流行る前は「待宵草(マツヨイグサ)」と呼ばれていた。原産地は北アメリカで、葉は楕円状で先がとがっている。花は茎の上部に穂のように付き、径8cm程度。色は鮮黄色、花弁は4枚で8本の雄しべがあり、花柱は長く突き出して先が4裂している。日当たりと風通しの良い場所を好む。
夕方、陽が落ちて涼風が吹き始める頃、月光を浴びて花開き、ほんのりと闇に揺れる。そして夜明けとともに静かに花びらを閉じ、一夜限りの命を終える。このような姿から月見草と間違われることが多く、太宰治は名作「富嶽百景」のなかで「金剛力草とでも言ひたいくらゐ、けなげにすっくと立っているあの月見草は良かった。富士には月見草がよく似合ふ」と賛美している。清楚な花姿と風雅な名前から「月見草」が多くの歌や小説に登場するが、大半は誤りで太宰以外にも多くの人がオオマツヨイグサをツキミソウだと思い込み、歌にした。
衰ふる夏の日ざしにしたしみて 昼も咲くとや野の月見草 (若山牧水)
白門43会の第25回総会・懇親会が上野精養軒で開かれた7月5日(金)、家を早く出て、不忍池近くにある竹久夢二美術館を訪れてみた。暗闇坂といういわく有りげな名前の坂を下っていくと、東京大学の弥生門が見えてくる。その道路の直ぐ向かい側が弥生美術館・竹久夢二美術館である。竹久夢二美術館の方の正門は閉ざされていて、弥生美術館から入って中の通路で夢二美術館に繋がっている。展示室に飾られた絵はほとんどが女性と子供の絵だったが、1階の部屋にはハガキ大の小さな絵がたくさん展示されていた。本の表紙絵や挿絵も多く展示されていた。2階には軸に仕立てた大型の絵も沢山あったが、そのどれもが例のセンチメンタルな夢二式美人画であった。美しいけれど、どこか儚げな眼が見る人の心を惹きつける。そばに行って元気付けてやりたい、励ましてやりたい。そんな気分にさせる絵なのだ。
右の絵には「水竹居」という題がついているが、中学へ上がったばかりの頃、近くにこの人によく似た大好きなお姉さんがいた。多分二十二、三才だったと思うが、物知りでいろいろな文学の話などをしてくれた。でもその人は結核を患っていて、一日のほとんどは床に臥していた。それでも時々起きてきては、運動のためだといって便所(その頃は「トイレ」という言葉はなく、女性は「ごふじょう(御不浄)」といっていた。)の掃除などを進んでやっていた。手洗い器の水の交換は重くてできないから私の母に頼んだりしていた。
その手洗い器というのは、バケツのような形をしたブリキ製のもので、便所の入り口の廊下の庇に吊り下げられていた。その容器に水を蓄え、下に付いている細い棒を押し上げると栓が開き、手先を洗う程度に適量の水が流れるという仕組みである。今から思えば非常にエコな器具だった。そのお姉さんはその後まもなく病が重くなり、帰らぬ人となった。「水竹居」を見ていて少年の頃を思い出し、思わず涙があふれてきそうになった。
三沢 充男
2019年6月24日(月)
馬鈴薯

馬鈴薯のうす紫の花に降る
雨を思へり
都の雨に
馬鈴薯の花咲く頃と
なれりけり
君もこの花を好きたまふらむ
石川啄木(「一握の砂」より
「一握の砂」は啄木の処女歌集。この歌集では一首3行書きによる散文的なスタイルの短歌を試み、若い世代を中心に多くの人々の賛同を得た。生活感情を平易な言葉で表現しているのが特長で、全部で551首を収めている。
上掲の最初の歌は、3行目が先にあって、そこでは東京に住んでいる啄木が地面に落ちてくる雨の音を聞いている。そこから1、2行目の馬鈴薯のうす紫の花に降りかかる故郷渋民村の雨に思いを馳せる。「わびしい雨の音、雨滴の音…それを目を瞑ってきいてゐると、渋民の寺にゐた頃の、静かな、わびしい、そして心安かった夜の雨がしみじみと思い出された」と、東京で暮らす啄木は日記に書いている。特に技巧を凝らしたという風には見えないけれど、イメージを現在ー過去ー現在とさりげなく展開する感性はさすがというほかない。
二番めの歌を読み解く鍵は、3行目の「君」である。このモデルは橘智恵子という女性で、北海道・函館の尋常小学校の代用教員となった啄木は、そこで彼女と運命的な出会いをする。3箇月という短い期間ではあったけれど、彼の恋心は生涯忘れ得ないものとなった。あの柔らかな風合いの馬鈴薯の花には智恵子の面影が投影されているのである。
ところで馬鈴薯(ジャガイモ)の花は見たことがない人が多いのではないか。ジャガイモと茄子はどちらもナス科の植物で、花を見ただけでは見分けがつきにくい。ただ葉を見ると、茄子は葉っぱが平べったくて葉脈に紫色の筋がとおっているのに、ジャガイモの方は葉が柔らかくふんわりしている感じがする。
ジャガイモの故郷は、ペルーとボリビアの国境にまたがる標高4,000mのアンデス高原である。この高原のチチカカ湖周辺で栄養豊富なエネルギー源を得た人々はティワナコ文明を築き上げ、やがてそれはインカ文明に発展していく。
ジャガイモは15世紀末にはメキシコからチリ南部でも栽培されるようになる。そして16世紀後半、インカを征服したスペインによりヨーロッパへ渡り、さらにアメリカ、インド、日本など世界各地へ広がって行った。
日本へは慶長3年(1598)にジャワからオランダ船により伝えられ、一方ロシアから北海道にも入ったといわれる。寛延元年(1748)の大飢饉には「お助けイモ」と呼ばれ、飢饉対策の食物となった。本格的な栽培は明治以降、アメリカから優れた品種が導入されてから。その中の一つ「男爵」は北海道の農場主、川田龍吉男爵が明治末期にアメリカから導入したものである。
ジャガイモという名前は、インドネシアのジャガタラ(ジャカルタ)から輸入されたため、ジャガタライモと呼ばれたことに由来する。
そういえば、むかし流行った「長崎物語」(曲は→二木紘三さんのサイト)という歌の中に「じゃがたらお春」という名が出てくる。寛永年間に徳川幕府はキリシタン弾圧を強化するとともに外国との交流を厳しく制限し始め、商館員を除く外国人を国外追放してしまう。これらの人と日本女性との間にできた子や孫も同様で、多くの人がジャカルタに追放された。そんな中の一人の主人公、イタリア人を父とするお春は「じゃがたらお春」と呼ばれ、その手紙が多くの人の涙をそそり、歌の中に読み込まれた。「赤い花なら曼珠沙華(まんじゅしゃげ)」で始まるこの歌の四番では次のような悲しい運命が歌われている。
平戸離れて幾百里
つづる文さえ着くものを
なぜに帰らぬ じゃがたらお春
サンタ・クルスの ああ 鐘が鳴る ララ鐘が鳴る
今の人には馴染みのないこの歌を、私がボランティアで歌の指導に行っている介護施設のお年寄りのほとんどは知っていて、大きな声で歌う。子供の頃によく耳にした歌だけれど、それを聞いていると私もとうとう彼ら、彼女らと同じ歳になったのだなあと、改めて実感させられる。
三沢 充男
2019年5月14日(火)
花菖蒲

世間を何に譬へむ朝びらき
漕ぎ去にし船の跡なきがごと
沙弥満誓(万葉集巻三)
元号「令和」の出典になったことで、いま万葉集が脚光を浴びている。それにあやかり今回は万葉集の中から歌を選んでみた。沙弥とは出家して十戒を受けた男性の称号である。満誓は大宰府の長官大伴旅人(令和の元になった万葉集巻五・梅花の宴の主催者)の歌仲間で、大宰府の観世音寺造営長官を務めた人である。
港の船が夜明けに漕ぎ出した後は、水に痕跡さえ残らない。人生も同じことだという。世の無常を詠んだ歌として名高い。私たちも亡くなった後、当分の間は惜しまれるが、時が経ち時代を降るにしたがって生きた痕跡は跡形もなく消え去ってしまう。人類の長い歴史の中でほんのひと時地上に生を得た自分という存在は一体何だったのだろう。
うれしいこと、悲しいことに一喜一憂して生きてきた日々にはどんな意味があったのか。そんなことは考えても答えが出るわけもない。それよりもこの世の中というものを一瞬なりとも垣間見ることができた幸せの方を大事にしたいと思う。
冒頭の写真は東村山市の北山公園で撮影した花菖蒲(はなしょうぶ)である。
「いずれ菖蒲(あやめ)か杜若(かきつばた)」美しい二人の女性、どちらがより美しいか甲乙つけがたい時に例えていう。転じて二つのものの優劣を決めかねるときに使うようになった。それほど「あやめ」と「かきつばた」は良く似ている。
実は「菖蒲」という漢字には「しょうぶ」と「あやめ」の二つの読み方があり、このほかに似た花として花菖蒲と杜若が登場し、混乱極まりない。整理すれば、①しょうぶ、②あやめ、③はなしょうぶ、④かきつばたという4種類のものがあることになる。
このうち①の「しょうぶ」は花ではなくて、菖蒲湯に入れるあの「葉っぱ」のことである。他の花がアヤメ科に属するのにお風呂に入れる菖蒲はサトイモ科に属し、全く別物である。では②、③、④はどこが違うかと言えば、それぞれ咲く場所とか時期とかに特長があるのだが、一番分かりやすい違いは次のとおりである。
②の「あやめ」は、花弁の根元に網目状の模様がある。
③の「はなしょうぶ」は、花弁の根元に黄色い目の形の模様がある。
④の「かきつばた」は、花弁の根元に白い目の形の模様がある。
古今和歌集(巻11-恋歌1-469)には「あやめ」を詠んだこんな歌がある。
ほととぎす鳴くや五月のあやめ草 あやめも知らぬ恋をするかな
(詠み人知らず)
「あやめ」は「文目」又は「綾目」とも書き、織物の整った糸目のことを指し「物事の道理」を意味している。人は恋に陥ると、物事の道理もわきまえずに突っ走ってしまうものだ、と。
この年になってはとても叶わぬことだが、できれば若い頃に戻ってこんな恋もしてみたいと思う。あの世の妻に悋気を起こさせてみたい。
色好みで知られた在原業平は、同じ古今和歌集(巻9-410番)にこんな歌を残している。
からころも きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞおもふ
平安前期六歌仙の一人在原業平は、父方の祖父は第51代平城天皇、母方の祖父は第50代桓武天皇で、在原の性を賜って臣籍に下った。高貴な家柄ではあったが藤原一門の中では恵まれた存在ではなかったらしい。歌才の豊かさに加えて、容姿端麗の色男で、許されぬ恋を敢えてした逸話がいくつも残されている。
この歌は、古今和歌集のほか伊勢物語第9段「東下り」の最初にも出てくる。詞書に「東国の方へ旅をして三河の国、八橋という所に行き着いたところ、川のほとりにかきつばたが大層美しく咲いていたのを見て、「か・き・つ・ば・た」という五文字を各句の初めにおいて、旅の情趣を詠んだ」とある。こういう技法を折り句という。
「唐衣」は「着」に掛かる枕詞だが、この歌にはそのほかに掛詞(かけことば)がふんだんに使われている。「なれ」は「着慣れる」と「馴れ親しむ」の「なれ」を、「つま」は都に残してきた「妻」と着物の「褄(つま)」を、「はるばる」は着物を「張る」を意味する「張る張る」と「遥々」を、「きぬる」の「き」は「来」と「着」をそれぞれ掛けている。さすがは歌才抜群の業平というべきであろう。
唐衣は舶来の美しい衣のことで、歌の意味は美しい着物を着て睦み合った妻を都に残して放浪する嘆きを詠ったものである。これを我が身になぞらえてみれば、業平のような美男子とは比べ物にならないのに、おこがましくも美しく装った愛妻をかの国へ旅立たせておいて、自分一人だけ遥々生きてきて今日に至っている心境につい思いを馳せてしまうのは些か図々しいというべきか。
三沢 充男
2019年4月16日(火)
山ざくら

さざなみや 滋賀の都はあれにしを
むかしながらの 山ざくらかな
詠み人しらず(千載集巻一)
「詠み人しらず」とされた歌の本当の作者は誰か。
その名前を解く鍵は「煙管」と「笛」である。両者に共通するものといえば、その材料となる篠竹であろう。煙管は最近ではほとんど見かけることがなくなったので、若い人は知らない人が多いかも知れないが、浮世絵で美女が長いパイプでたばこを吸っている絵を見た人は多いのではないか。あのタバコを吸う道具が煙管である。火皿が付いている先端の金具の部分が雁首、手元の口を付ける金具が吸い口、これらを繋いでいる真ん中の部分を羅宇(らう)といい、これが篠竹でできている。そして日本古来の伝統的な笛といえば、篠笛。
これを聞いただけではあまり作者の名前を知るヒントにはならないかも知れないが、ここで連想を働かせて欲しい。煙管から連想されるのはキセル乗車、篠笛から連想されるのは古今の名笛と言われた青葉の笛である。白門43会のご同輩の中でもキセル乗車は分かっても青葉の笛はご存じない方が多いのではないか。何しろ明治39年(1906)に発表された歌の題名なのだから。YouTubeなどで検索していただけば直ぐに出てくるはずである。種を明かせば、キセル乗車はタダノリ。「青葉の笛」という歌には「敦盛と忠度」という副題がついている。そこではじめてタダノリと忠度が共通語として結びつくという訳である。
自動改札が一般化した現今ではキセル乗車は難しくなった。初乗り部分だけの乗車券を買って電車に乗り、下車するときは普段使う定期券で下り、真ん中の部分を無賃乗車するのがキセル乗車の一般的な手口だった。すなわち煙管の羅宇の部分を「只乗り」するからタダノリ。このことを別名では薩摩守とも言った。薩摩守平忠度のことである。
一方、青葉の笛の歌の主人公は、一番が平敦盛(平清盛の孫)で、一ノ谷の戦に敗れて沖合の舟に逃れようとするところを熊谷次郎直実に呼び止められて討死する。その時に腰に差していたのが青葉の笛。これが有名になったので、題名は「青葉の笛」になったのだが、二番の主人公は平忠度(平清盛の異母弟)である。ここは肝心なところなので歌詞を次に掲げる。
更くる夜半に門を敲(たた)き わが師に託せし言の葉あわれ
今わの際まで持ちし箙(えびら)に 残れるは「花や今宵」の歌
同じく一ノ谷の戦で討死した忠度は、その際に箙(矢を入れるために背負う箱型の武具)の中に一首の歌を書き残していた。
行き暮れて木の下蔭を宿とせば 花や今宵の主ならまし
これが後段の「花や今宵」の歌である。平家一門きっての文化人で、歌人であった忠度は戦の最中(さなか)においても歌心を忘れなかったのである。
そして前段だが、平家が木曽義仲に追われて都を落ちのびる際、深夜ただ一騎駆け戻って和歌の師である藤原俊成(藤原定家の父)の門を訪い、「これまでに書き留めた歌が何首かありますが、この中にものになりそうな歌がありましたら、勅撰集を編纂される際に是非取り上げていただきたい」といって巻物を託します。俊成卿はのちに勅撰集である「千載和歌集」を編纂するときに「是非に」として冒頭に掲げた歌を入れたのだが、当時平家は朝敵であったため作者の名を記すことは憚られたので「詠み人しらず」としたのであった。
歌の意味だが、むかし都であった滋賀の都(天智天皇の時代の大津京)は今は荒れてしまって琵琶湖のさざなみが侘しく揺れているが、長等山の山ざくらは昔通りに美しく咲いている(昔ながらの「ながら」と長等山の「長等」を掛けている)と。
ところで私が老人介護施設でケアワーカーをしていた時のことである。90歳を過ぎた元ジャーナリストの老人が「あなた、青葉の笛という歌を知っているかね」と聞くので、「知っていますが」と答えると「今度のレクの時間に是非あれをやって欲しいんだがね」という。
私は70歳近くになってから、もし自分の妻が要介護の状態になったらどう対応したら良いだろうかと考え、ホームヘルパーの資格を取って4年ほど介護施設でパートとして働いていた。ほとんどの介護スタッフが若い中で、入所者と年齢の近い私はレクリエーションで明治、大正、昭和の古い歌の音頭をとって老人たちに指導するのを得意としていた。若いスタッフはそういう時代の歌を知らないから、私のレクの時間は皆から期待されていたのである。
それで次のレクの時間にその歌を取り上げて皆に歌詞を配って歌い始めると、件(くだん)の老人も朗々とした声で歌い、最後には上に述べたような青葉の笛の解説までしてのけたのである。
別の日にベッドでその老人のオムツ交換をしていた時のことである。
「不思議なもんだね。こうしてあなた達に世話になるときは平気で下(しも)の方を晒すけれど、息子の嫁さんには絶対に見られたくないんだよね」という。
老いてもなお消えないインテリ老人の最後の沽券なのだろうかと、私はその時思ったのだった。
三沢 充男
2019年3月6日(水)
桃花

うれしくも桃の初花見つるかな
また来む春もさだめなき世に
大納言藤原公任(公任集)
今年初めて桃の花が咲いているのをみた。
再び訪れる春には会えるかどうか定かではないこの世だから、ことのほかうれしいのだ。
藤原公任(966~1041年)、通称「四条大納言」。三条太政大臣藤原頼忠の嫡男、母は醍醐天皇の皇子代明親王の娘、巌子女王。平安中期の歌人として知られる。小倉百人一首には「大納言公任」として次の歌が載っている。
瀧の音は絶えて久しくなりぬれど 名こそ流れてなほ聞こえけれ
梅の花や桜と比べて、桃花を詠んだ歌は少ない。梅の花のような凛とした芯の強さは感じられず、桜のような弾けた華やかさもない。しかし桃の花はどこかほんわかとした暖か味を感じさせる。
梅花の盛りは過ぎたけれど、桜を待つ間の人々の心を和ませてくれる、そんな己の立場を心得ているような雰囲気がこの花にはある。十分に開ききった花よりも、もう少しで開花しそうな膨らんだ蕾の方が似合っている。間もなく大人になろうとしている、そこはかとした恥じらいを内に秘めた乙女のような感じだろうか。万葉集には大伴家持のこんな歌がある。
春の苑 紅(くれない)にほふ桃の花 下照る道に出で立つ乙女
冒頭の歌はこちらにしようかと思ったけれど、白門43会のご同輩の年齢から考えて公任の歌の方が相応しいかと考えた(お前と一緒にしてくれるなと、どなたかに叱られそうだが……)。ところで今回は私と桃の不思議な関わりについて話をしたいと思う。
私は30年もの長きにわたって背中に桃を背負って生きてきた(刺青の話ではないのでご安心を)。桃と言っても花桃ではなく、といって食べられるあの桃でもなく、背中にできた大きな脂肪の塊なのである。長辺が8センチくらいの楕円形をしていて、下の方がちょっと凹んでいる。ちょうど桃のような形なのだが、それが左の肩甲骨の際にくっついている感じで、痛くも痒くもなく、触るとふにゃっとしているけれど相応の弾性もある。手の指を揃えて少し内側にくぼみをつけて水を掬う時のような形にし、合わせ鏡を見ながら被せると、スポッと収まる感じなのだ。女性が自分の乳房を触るとこんな感じがするのだろうかと、イケナイ妄想をしてみたりする。そんなこともあり私はその塊をモモと名付けて長年愛おしんできた。
最初は小さかったからその存在にも気が付かなかったが、いつの間にか背中にしっかりと位置を占めるような大きさに育って行った。健康診断のとき医師に指摘されたことがあったが、簡単に取れるものかどうか聞いてみたら、このくらいの大きさになると全身麻酔を掛けて切除しなければならないから入院が必要だという。それにもしガンだとなれば大変なことになるから早く専門の病院で診てもらった方がいいという。しかしここまで大きくなるまでに何十年も過ごしてきているのに少しも痛くならないのだからガンの筈はないと私は信じていた。こうなったら愛おしいモモと生涯連れ添おう。モモは墓場まで連れて行こう。私はそう覚悟を決めていた。
ところがそうもしていられない事態が発生した。ある時疲れてソファーにドカッと腰掛けた時に、背中のモモが「ヒイッ」と声を上げたのである。それは他ならぬ自分の心の悲鳴だったのではないか。そのうち今度はベッドに寝たときモモのところに圧迫感を感じるようになり、やがて毎晩それを意識するようになった。モモは余りにも大きく育ち過ぎたのだ。このままではもし寝たきりになったらどうしよう。今はそこそこ健康だけれど、この歳ではそう長くないうちに身体が言うことを聞かなくなるのは目に見えている。日夜ベッドの生活で、常時モモが痛がるのでは堪らない。墓場まで連れて行こうと思っていたけれど、そろそろお別れをする時期が来たのではないか。人生に別れはつきものなのだ。
インターネットで脂肪腫を切除してくれる専門のクリニックを探してみた。都心のターミナル駅から5分ほどのところにそれはあった。瀟洒なビルの2階でクリニックとは思えない洒落た作りの、明るく清潔感あふれるところだった。
「ずいぶん柔らかいですね」
担当医(実はその人が院長だった。)はモモを摘まんだり撫ぜたりしながらそんなことをいった。エコーのセンサーを背中に当てて、いろいろ調べてから「午後やっちゃいましょう。これは手術で取れますから」という。MRIを撮ったりして日を改めてするのかと思っていたら、即日だという。モモと別れを惜しむ間もなかった。
部分麻酔をして手術が始まった。途中で思わず「痛い」と悲鳴をあげた。それはモモの断末魔の声だったかも知れない。麻酔を足して手術は続けられ、40分ほどでモモは私の背中から切り離された。「さようなら モモ」
ホルマリン漬けにされた脂肪腫を先生が見せてくれた。ゆらゆらと漂っていたのは、間違いなく一切れの桃の缶詰だった。(上掲の写真は、モモの故郷である桃源郷でふと目にした幻の蕾を私の画像処理技術の粋を凝らしてこの世に再現させたものである。あの日見た蕾はモモが私の背中にやって来る前の可憐な姿だったかも知れない!?!?)
三沢 充男
2019年2月22日(金)
松の白雪

このごろは 花も紅葉も枝になし
しばしな消えそ 松の白雪
後鳥羽院(新古今和歌集683番)
もう花も紅葉も消えてしまって木の枝には何もない。だから暫しの間消えないでおくれ 松に積った白雪よ。
「な消えそ」の「な…そ」は禁止の意味を表します。「消えないでおくれ」と。
鎌倉幕府の打倒を企てて敗れ(承久の乱)、隠岐に流された後鳥羽院(1180~1239)は、かの地で悲嘆の生涯を終えましたが、新古今和歌集の撰集を命じた中世屈指の歌人でした。
同じ新古今和歌集には撰者でもある藤原定家(1162~1241)の次の歌が載っています。
──見渡せば 花も紅葉もなかりけり 浦の苫屋の秋の夕暮れ──
美しい花々や錦に色づいた紅葉のような華やかさがない代わりに、夕暮れの海辺にポツンと佇むあばら家に定家は侘びの美しさを見ていました。後鳥羽院が見ていたのは人の手で丹念に造形された庭なのか、それとも行幸の途中で目にした山里の景色なのか。どちらかは分からないけれど、いずれにしても松の緑と白雪という取り合わせの中に独特の美しさを見出している。そして儚い命の雪だからこそ、その美しさは一層味わい深いものとなる。美しさというのはそれを見る人の心次第だと古人は言っているような気もします。
気を付けてみれば自分の身の回りにも美しいものはいっぱいあるはず。でもそこに心が向かなければ見落としてしまう。もっとゆとりの心を持って、些細な物事の中に顕われる小さな美しさを探し出したいと思う。
上の写真は我が家の庭を飾る松である(飾るという程ではないが、要は心の持ちようなのです)。この冬、東京周辺は雨が少なく、雪もろくに降らないまま春を迎えそうだが、立春を数日過ぎた日に少しだけ雪が積り、その化粧を施した貴重な姿なのだ。
枯山水の池の脇に土を盛って枝振りの良い松を植え、その隣に小山に似せた根締め石を配して、それなりの景色を造った積りだったが、前の家との間が狭いので日当たりが悪く、池にかぶさるように長く伸びた形の良い枝は枯れてしまった。
ちなみにこの庭は、家を建てたときに老庭師に頼んで相談しながら設計図を作成して造り始めたのだが、制作の途中でかの庭師は死んでしまった。それでやむなく設計図を頼りに自力で完成させたのだが、枯山水の池と松と根締め石や雪見灯籠の配置などの大どころは既に出来上がっていた。だから自分がやったのは夏椿や紅梅など足りない木を調達してきて植えたり、庭の芝を張ったり、竹材を買ってきて四つ目垣を造ったりといった作業だった。それでもかなりな重労働で、一箇月ほどの期間をかけて、馴れない庭造りという貴重な体験をすることができた。
ところで普段は勢いがなくて冴えない姿を見せている松も、この雪のお陰で俄然元気を取り戻したように見える。いつもは日射しを妨げている恨みがましい隣家の外壁も、こうしてみると雪の降りしきる深山のような借景に見えてこないだろうか。(心眼を傾けて凝視すれば、見えてくるはずなのですが……)
三沢 充男
2019年1月1日(火)
南天

あらたまの 年の若水くむ今朝は
そぞろにものの うれしかりけり
樋口一葉
30年続いた平成の世も間もなく閉じられようとしている。感慨深いという人も多いだろうが、自分は生まれてから50年近く付き合ってきた昭和のウエートが大きいので、平成の時代は何だかアッという間に過ぎてしまった気がする。戦争とその後の苦難の時代を生き抜いてきた身にとって、平成は何か新しい、素晴らしい時代がやって来るのではないかと期待を寄せていたけれど、必ずしもそうはならなかったように思う。
その最たるものは災害ではないだろうか。平成7年の阪神淡路大震災。高速道路が倒れ、市街地が炎に包まれる様子がテレビで中継された。平成23年の東北大震災。津波が堤防を越えて街を襲うありさまがその場にいるような緊迫感をもたらし、身を震わせた。日本列島はその後も幾度となく地震や水害に見舞われ、自然の恐ろしさを思い知らされた。
海外に目を転ずると、いまだ各地で銃声が絶えない。二度の世界大戦を経験した人類はもう戦争はすまいと誓ったのではないかと思っていたが、その経験は生かされなかったようだ。人種や宗教、物事の考え方の違いなどからお互いが憎み合い、果ては武器を持って殺し合う有り様を、単なる人間の業として捉えるのは余りにも悲し過ぎる。
コンピューターやインターネット、交通や医術の発展は私たちの生活を便利にしたけれど、一方では弊害も生じ、さらには地球温暖化の影響もじわじわと人類を窮地に追いやって行くような気がする。
でも人間には神様から与えられた英知と勇気がある。このところ進歩が目覚ましいAIの力を借りるのもよいだろう。新時代にはきっと安心して暮らせる住みよい社会がやってくると信じたい。
自分史を振り返ってみれば、平成は好むと好まざるとに関わらず「老い」を意識させられる歳月だった。勤めを辞めた途端に金属(勤続?)疲労が出て、それまで一日も休まず働いてくれていた心臓が悲鳴を上げた。その後何年かの間苦しい療養生活が続いたが、それを救ってくれたのは皮肉にも平成の世で開発された最新の医療技術だった。
身体のあちこちに忍び寄る老いの現象をパッチワークのように手当しながら凌いでいる今日この頃だが、平成に続く次の時代では一層の老いに直面することになる。毅然として立ち向かう気力も失せかけているけれど、親から託された命の火はなるべく大事に灯し続けなければならないとは思っている。
あまり気合の入らない話をしてしまったが、冒頭に掲げた写真は我が家の庭先にある鉢植えの南天である。南天は「難を転ずる」といわれ、福寿草と一緒に鉢に植えられて正月用の縁起物として売られたりする。
5月の初めごろに蕾がふくらみ始め、梅雨の頃になると白い花が開く。やがて花期が終り晩秋から初冬にかけて真っ赤な実をつける。魔除けや火災よけの効果がある植物とされ、江戸時代には玄関先や手水鉢の隣に植えたり、鬼門と呼ばれる南西の方角に置くのがよいとも言われていた。
南天の実を煎じて飲むと咳止めに効果があり、のど飴の原料として使われている。葉には殺菌・防腐の作用があるとされているが、そういえば祝い事で赤飯を頂いた時に重箱の蓋を開けると必ず南天の葉が乗っていたことを思い出す。樹皮・根皮は胃腸病・眼病に効果的で、昔から薬用の木として重宝されていたようだ。
命の火を灯し続けるためにも、この南天にあやかって難(病魔)を転じて少しでも健やかに過ごしたいと願う新年である。
三沢 充男
2018年11月19日(月)
菊

庭の千草 アイルランド民謡
原詞:トーマス・ムーア
日本語詞:里見 義(ただし)
1 庭の千草も 虫の音も
かれて淋しく なりにけり
ああ 白菊 ああ 白菊
ひとりおくれて 咲にけり
2 露にたわむや 菊の花
霜におごるや 菊の花
ああ、あわれあわれ ああ 白菊
人の操(みさお)も かくてこそ
毎年立冬の頃になると各地で菊花展が催される。
ふんわりと鞠のように大きく盛り上がった厚物と呼ばれる大輪の菊は見ごたえがある。そうかと思うと1本の茎から数百に及ぶたくさんの花を半球状に並べて咲かせる千輪仕立て、懸崖作りや盆栽作りの小菊など、どれも人々の目を和ませてくれる。
この歳になってもどうかするとささくれた心が顔を出してしまう己を顧みて、一つ菊でもいじくって優雅な心を育てようかと始めてみた菊作り。だがやってみると、先ずは土の選び方、肥料の与え方から始めて、成長に合わせて鉢の大きさを変えたり、茎を三方に分岐させて支持棒を取り付けたりし、大きな花に育てるために次々に出てくる脇芽を摘む、花が咲いたら型崩れがしないように花首修正具や輪台を取り付ける。ざっとこんな具合にいろいろ手を掛けなければならない。とても優雅な気持にはなれず、1年で投げ出してしまった。
ところで上掲の歌「庭の千草」だが、原題は「The Last Rose of Summer」(夏の名残の薔薇)で、日本語詞は明治17年(1884年)発行の「小学唱歌集 第三編」に「菊」という題で掲載されました。それがいつの間にか歌い出しの言葉の「庭の千草」なってしまったようです。
かねてから不思議に思っていたのが、二番の「人の操もかくてこそ」です。どうしてこんな言葉が最後に突然現れてくるのだろうか。それは真っ白な白菊の持つ穢れのない純潔さが人の心に通じるからだろうと、私は単純に推測していました。
しかし、調べてみるとこの歌詞にはもっと深い意味合いがあることが分かったのです。実はこの歌は菊になぞらえて人の心の哀れや気高さを詠ったものなのでした。
菊は秋の終りを過ぎてもなお咲き残る生命力を持っています。それは自分の慈しんだ人や長年親しんできた友などに去られてしまった後で一人残される淋しい思いを詠っているのです。「かれて」は「枯れる」の他に「離(か)る…遠ざかる」という意味があり、「おくれて」は「遅れて」と「後れて」を掛け合わせています。
二番の「露」は涙の比喩で「露にたわむ」は独り残された淋しさに涙にくれることを表しています。「霜におごる」は霜にもめげず気高く凛としている姿を表しています。「おごる」は「傲る」で物事にめげない気丈な力強さを意味しています。そういうことを理解すると、最後の「人の操もかくてこそ」の意味が明らかになってくるのです。
伴侶に先立たれ、50年来の親友も失った自分は既に1番の「ひとりおくれて咲にけり」の境地に至っています。そしてこの先何年生きられるのか。おそらく10本の指を折り切らないうちにその日はやってくるのだろうが、それまでの年月をどのように生きるか。病苦に悶える日が来るかも知れない。死への恐怖におののく日があるかも知れない。何があっても白菊のように凛としていたいとは思うけれど、菊もまともに育てられない不甲斐ない身にそれができるかどうか……。
三沢 充男
季節の花木
水桶に頷き合うや瓜(うり)茄子(なすび)
ナスは初夏に次々と薄紫色の花を咲かせる。茄子という言葉が初めて日本の文献に登場したのは、天平勝宝2年(750年)の正倉院文書で、以後、多くのことわざを生むとともに、「成す」に通じることから縁起の良いものとされてきた。すでに奈良時代には野菜として栽培され、おもに漬物にされてきたが、室町時代には焼きナスの調理方法も紹介されている。
キュウリは盛夏に明るい黄色の花を咲かせる。だが果実の方は一年中出回りあまり季節感がない。最も身近な野菜の一つだが、インドでは約3000年前から栽培されていたという。日本には中国を経て10世紀前後に渡来。江戸時代末期から一般に食べられるようになった。
蕪村の句、夏、冷たい水を張った(あるいは掛樋から流れてくる)水桶に浮いている茄子や瓜、涼しい夏野菜のイメージにぴったりの句である。しかし蕪村は次のように前書きしている(竹西寛子評釈)。
「青飯法師にはじめて逢ひけるに、旧識の如く語り合ひて」とあるから、頷き合う瓜と茄子に例えられるのは、青飯法師と蕪村だと分かる。初対面なのにずっと前からの親しい知り合いのように感じる出会いがあるものだが、この句の場合もそうで、二つの坊主頭の法体が、互いに好感を抱き、共鳴して、旧知のように語り合うさまを面白く詠んでいる。
これやこの江戸紫の若なすび (宗因)
三日月の匂ひ胡瓜の一、二寸 (佐藤惣之助)
西山宗因:
江戸時代前期の俳人、連歌師。父は加藤清正の家臣、西山次郎左衛門。談林派俳諧の第一人者で、松尾芭蕉の蕉風俳諧の基礎を築いた。
佐藤惣之助:
大正から戦前にかけて活躍した詩人、作詞家。作曲家古賀政男等と組み、多くの楽曲を世に送り出す。「赤城の子守唄」、「人生劇場」などが有名。