会員の動向


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 トピックス



         霊山恐山菩提寺ロマン       高橋良洋

  比叡山・高野山と共に日本三大霊山に数えられる恐山は、貞観四年(862)に慈覚大師によって開山され、天台宗の修験道場から、十四世紀に曹洞宗円通寺となった古刹です。前から古刹恐山に、一度、拝塔したいと思っていました。七万坪の広大な境内に、七堂伽藍を配置する下北半島きっての名刹でした。

 蓮華八枚の弁を示す釜伏山・大尽山・小尽山・北国山・屏風山・剣の山・地蔵山・鶏頭山の八峰に囲まれた霊山でした。山中には、血の池・剣の山・畜生道・極楽浜と賽の河原(極楽浄土を思わせる白砂とエメラルドグリーンの湖面が美しい宇曽利山湖)・三途の川と太鼓橋(霊界と俗界との堺・三途の川にかかる赤い橋。罪人は渡ることが出来ない)・八大地獄を示す地獄谷(無間地獄、金堀り地獄、賭博地獄など、境内に点在する地獄巡りで、参拝者は死者の成佛を願う)があり、生きながら地獄の縮図が見られます。奪衣婆と懸衣翁(人が亡くなって三途の川を渡った後、奪衣婆に身ぐるみをはがされ、懸衣翁が衣領樹の枝に懸け生前の罪の重さを推量し、六道のいずれかが決められる)の珍しい像がありました。

佛法の本質は、六道(地獄・餓鬼・畜生・人間・修羅・天童)輪廻の心の世界からの解脱を説くものです。チベットの「生死論」は、善根に害毒を与える三つの煩悩(貧・瞋・痴)を中心円に、善・悪二心に色分けし、六道を見事に図示し、過去・現在・未来の合理的な因果律を十二因縁として外円に描いています。解脱のために六地蔵が祭られています。又、十二月八日、明けの明星に触発されて、釈迦は、「自受法楽」の佛の心を得、四十九日の後、梵天(万有の根源を神格化した護法神)に諭され、「初転法輪」の旅に出ます。この現世の「陽の世界」と黄泉の冥土「陰の世界」との間に、「中陰」の四十九日の期間を設け、「中陰の供養」の大切さを説いています。その間、同行二人のごとく付き添っているのが恐山の本尊「地蔵菩薩」です。この佛教のロマンが、境内に散歩し易く霊場として、配置されています。入口近くでは、「イタコ」が哀調を帯びた節廻しで、しみじみとした口調で、お参りの人に語りかけていました。思い出深い、愛しい先き立った人々としみじみと交わり逢う、亡くなった人を忍び、慰められていました。

 下北の石橋さんには、お世話になり、地酒の関の井酒造の「寒立馬」(寒さに耐える下北の馬)を頂きました。酩酊して話が弾み、会場むつグランドホテルで、「居酒屋トリオ」が誕生し、秋には、東京の居酒屋名店巡りをすることになり、大きな旅の収穫でした。一度は、吉備の国にお招きして、地酒の銘酒、金賞受賞の山田錦「極聖」を汲み交し、岡山一の老舗の名店「一扇」で、薄造りの瀬戸内の魚で舌鼓みを打ち乍ら、酒談議が弾む日を楽しみにしています。参加したい方は、早目に一報を下さい、桃太郎・吉備団子の国から、下北の旅の一コマを綴らせていただきました。

                                   松林寺二十二世   橋良洋 合掌  

                     ● 43会青森旅行に初参加して        山本 剛嗣

 平成28年7月20日から2泊3日の青森旅行「津軽・下北のロマンを訪ねて」に参加した。初参加であり、43会員全体でも交遊ある知人は10名程度なので、参加者の交遊に溶け込めないことを懸念していた。集合場所は東京駅の銀の広場。集合時間少し前に広場に行き、自分と同年配の方たちの集まりに近づいてみた。誰かが気付いてくれた。椅子席はほとんど埋まっていたので立って待つより仕方がないなと思った瞬間に、少し離れたところに座っていたご婦人が私に気づき、席を空けるため立ち上がってくれた。しかし、そこより近くに腰を下ろせる空間があったので、そのご婦人に頭を下げ、近くに座るスペースがあることを知らせ、腰を下ろした。世話役の方の動きも慌ただしくなっていた。そのうち、倉田さんや清水さんの顔も見つかり、43会総会で知り合った龍門会長や富田さんも声をかけてくれたので、ほっとした。新幹線に乗車したところ隣席は倉田さんだった。発車してすぐ龍門会長と富田さんや同じクラスの金井さんが近くに来てくれて、初対面の方に囲まれる心配は全く杞憂だった。バスの席も席替えまでありすべて指定され、夕食の席も指定されていた。初めは親しい人の近くで、その後徐々に、新しい人とのつながりもできるように気配りされ、楽しい旅行となりました。本当に気配りの行き届いた旅でした。
 スマホの地図アプリを利用した結果、自分が地図上のどこを移動中か確かめながら旅することができ、とても印象的でした。

 1日目は、三内丸山遺跡から、津軽五所川原市に行き、太宰治が少年期を過ごした生家斜陽館の大きな建物と、ねぶたの制作現場を見学。地元の方が祭りを大切にしていることも知りました。夕方青森に戻り、青森のねぶたの平面積は五所川原より大きいが高さは五所川原市のものが断然高いことを知りました。さらに、青函連絡船の八甲田丸が保存されていたので,有志数人で船内をくまなく見学しました。このとき43会のみなさんの好奇心旺盛なことに驚かされました。そこそこで引き上げるなどという様子は微塵も見せず、見ていないところは全て確かめていました。このような好奇心を持ち続けることが長寿には有効なのだなと思いました。

 2日目は青森港から船で下北半島の西端を進み、奇岩が連続する仏が浦を眺めながら北上し佐井港に行き下船、そこから観光バスで移動、大間町の北端岬で函館山を遠望。東に向かい半島東岸の最北端尻屋岬見物。むつ市にお住まいの43会弁護士石橋さんの支援がこの旅実現のきっかけとか。きれいな津軽海峡のまっ青な空と白い漁船、そして海岸の緑。石橋さんは漁船を所有し尻屋岬のすぐ近くでヒラメ釣りもされるとか、羨ましかったです。次いで恐山参拝、 さらに海上自衛隊基地の自衛艦接岸を目撃し、日露戦争当時の資料もある記念館を見学、楽しく、美味しく、印象深い旅でした。次回も参加したいです。                      H28年8月吉日       


                       ● 43会 津軽・下北旅行          八束一郎
                                                        
 2016年7月20日(水)〜22日(金)の2泊3日で、43会の津軽・下北旅行が開催されました。この企画は、青森県むつ市に住む43会会員の石橋さんから熱心なお勧めがあり、昨年龍門会長等が下見を行った上で実現したものでした。余りなじみのない場所なので参加者が少ないのではとの心配がありましたが、いつもの旅行会同様の31名の応募者がありました。
 参加者は、指定された7時15分までに東京駅地下の「銀の鈴」に遅れることなく集合しましたが、集合時間が早かったので岡山からの高橋(良)さんや、桐生からの大下さんなどは東京に住む家族の家に前泊したようでした。
 一行は、幹事長の先導で新幹線のプラットフォームに向かい、途中の改札口で某副会長が乗車券と特急券を入れる差し込み口にスイカカードを入れて機械を故障させたというトラブルがあっただけで、全員が無事に7時36分発の東北新幹線「はやぶさ3号」に乗り込み、新青森駅に向かって出発しました。
 途中の大宮や宇都宮から何人かが乗車し、11時に新青森駅に到着した時には現地案内人となる石橋さんと、どういう訳か練馬区在住のはずの中里さんの2名が加わり31名全員が揃いました。
 まずは新青森駅の食堂で各自昼食をとることになり、ある者はラーメン屋、ある者は焼きそば屋というように分かれました。私は高橋(艮)さん、飯島さん、峰岸さんと「田」という和食屋に入り、大間のマグロ・はたて・ウニの海鮮井を食べました。多少値段は高かったのですが、味はそれに見合ったもので一同は幸先がいいと大満足しました。また、青森の地酒も試そうということで「田酒」をコップ一杯だけ飲みました。
 腹ごしらえができたところで、待機していた観光バスで最初の観光地「三内丸山遺跡」に行きました。
 一行はガイドさんの説明を聞きながら縄文時代の遺跡(忠実に再現された住居や集会所や発掘中の墓など)を見学しました。
 次に向かったのは太宰治の生家「斜陽館」でした。大きく立派な建物で、室内の建具や襖なども素晴らしいものでした。太宰治は貴族院議員の津島源右衛門の六男として明治42年に生まれ、兄も青森県知事や衆議院議員を務めた名門の家柄だったようです。
 この日最後の観光地は、五所川原の有名な「立佞武多」を製作している「立佞武多の館」でした。高さが20メートル以上もある「立佞武多」のために建てた6階建ての巨大な建物で、8月中旬の出番を控えて9割ほど完成している3基をくまなく見学できましたが、その大きさ、彩色の見事さに一同は感激しました。高さは22メートルで内部には電飾のための発電機も備えているため、重さは17トンにもなるとのことでした。これが練り歩く道路は全ての電柱が撤去されて電線などは地下に埋設されているとのことで、五所川原市がいかに力を入れているかが窺えました。
 午後5時に青森駅近くにあるこの日の宿泊地「ホテルサンルート」に到着しました。夜の宴会は徒歩で10分ほどの「三ヅ石」という料亭で開催されました。会長の挨拶、石橋さんの地元紹介の後に岡山の高橋(良)さんの乾杯の音頭で宴会が始まり、日中かなり歩いて空腹になっていた一行は、ホタテなどの魚介類を中心とした料理を満喫し、また「田酒」「亀吉」「じょんがら」といった地酒を大いに楽しみました。私もビールの他に全部の地酒を飲んだので、9時にお開きになったあとどうやって自分の部屋に戻ったのか覚えていないほどでした。でも何人かは更に二次会に行ったようで、その人たちには脱帽です。

 2日目は、ホテルでの朝食後徒歩で10分ほど歩いて青森港のシイライン乗り場に向かいました。歩くのが苦手の何人かはタクシーで向かいました。9時40分発の高速旅客船「ポーラスター」は総重量100トン・定員96人・速力23ノットの軽快な船で、途中2ケ所を経由して下北半島の北端に近い佐井に向かうのです。乗客は、我々以外は2名のみで、この2名も最初の寄港地の脇野沢で降りてしまい、あとは43会貸し切り状態でした。佐井の港で待っていたバスのガイドさんの話では、いつもは乗客は数人なので、船長が大ぜい乗って喜んでいたとのことでした。途中の「仏ケ浦」という奇岩が並ぶ景勝地を通りましたが、自然にできたものとは思えないような奇岩の林立に思わずカメラのシャッターを押してしまいました。12時すぎに昨日とは違う観光バスで、マグロで有名な本州最北端の大間に向かいました。マグロのモニュメントがある大間崎で集合写真を撮影し、海産物などの買い物をした後に昼食を食べる「大間海峡保養センター」に行きました。おいしいマグロが食べられるかと思いましたが、料理はホタテだけでがっかりしました。ガイドさんの話では、おいしいマグロは全部東京の築地に行ってしまうとのことでした。ところが、ここで石橋さんから「ウニ」の差し入れ、それも寿司屋のカウンターに並んでいるウニのケースが全員に1ケースづつ配られたのです。これだけの量を一度に食べるのは生まれて初めてで、一同感激しつつウニにかぶりつきました。帰宅して家内にこの話をすると、すごく悔しがられました。
 ウニで大満足した後は、いよいよ「恐山」観光です。大間から1時間ほどで到着し、石橋さんの案内で約1時間ほど見学しました。私は「恐山」は初めてで、何か恐ろしい雰囲気の場所と思っていましたが、硫黄の臭いが立ち込めた噴火口のような場所で、まるで箱根の大涌谷のように感じました。それでも足元に小石を積み上げた無数の塚のようなものがあり、それに食べ物や飲み物、小銭などが供えられている点では箱根の大涌谷とは違っていました。また地獄のような道を抜けるととてもきれいな湖があり、その対象が不思議でした。そして「恐山」で有名なイタコについては、この日は3人居て小さなテントの中で相談を受けていました。大祭典であるこの時期(7月20日〜24日)、多い時には20名近くのイタコが出ていたそうで、年々少なくなっているとガイドさんが言っていました。
 この旅行のメインイベントだった「恐山」観光も無事に終わり、一行はこの日の宿泊地「ホテルニューグリーン」に向かいました。5時にホテルに到着し、宴会までに1時間半ほどあり、希望者は宴会場の「むつグランドホテル」の大浴場や露天風呂に入れるとのことで、10人以上が荷物を置いてすぐにタクシーで「むつグランドホテル」に向かいました。大ぜいが入浴に行ったのには訳があり、43会の旅行の宿泊は最近はビジネスホテルの個室が多いので、これはこれで同室者に煩わされることなく就寝できるというメリットはあるのですが、手足を伸ばしてゆったりと入浴できないというデメリットがあるのです。更に今回の温泉は「美人の湯」として有名であるとのバスガイドさんの説明が効果があったものと思われました。その他の人は、部屋で寛いだり、入浴したりして、6時すぎにバスで「むつグランドホテル」に向かいました。このホテルは小高い山の上に建っているのですが、宴会場は11階にあって素晴らしい眺望でした。特に夕日の沈むところが素晴らしいものでした。この日の宴会は司会が富田副会長で、乾杯の音頭は石橋さんにお願いしました。料理はホヤやウニそして定番のホタテなどの魚介類を中心とした美味しいもので、酒も石橋さんからの差し入れの地酒などがあり、昨夜の飲み過ぎにもかかわらず、またもや十分に頂いてしまいました。ホテルに戻ってから、狭い浴室でシャワーを浴びて寝たのですが、この日もこのあと二次会に出かけた豪傑がいたとのことで、本当に感心してしまいました。

 いよいよ最終日になりました。朝食後、バスで大湊の基地見学に行きました。バスで岸壁近くまでいくと、1隻の護衛艦が停泊しており、その隣に1まわりおおきな護衛艦がタグボートに押されて停泊しようとしていました。早速写真を撮って帰宅後に資料と照合してみると、最初の護衛艦は「おおよど」2000トン、もう1隻は「まきなみ」4650トンということがわかりました。その後、「北洋館」という昔の帝国海軍・大湊警備府の士官社交場で、現在は海上自衛隊大湊地方隊が管理する資料館を見学しました。広報係の一等海曹が約1時間にわたって展示資料の説明をしてくれました。歴代の大湊警備府司令官の写真、戦後の大湊地方隊の司令官の写真が飾ってあり、その他にも武器や制服、写真などが沢山あって軍事オタクの私にはとても興味深いものでした。但し、帝国海軍時代は大湊には10万人が住んでいたのに、現在は昔より広くなったむつ市の人口が6万人という説明を聞いて、地方の過疎化がここでも進んでいるということを実感しました。
 次の観光地は「尻屋岬」で、明治9年に作られた立派な灯台を見学しました。ここからは、右手に太平洋、左手に津軽海峡が見え、なかなかの絶景でした。この辺りには「寒立馬(かんだちめ)」という馬が放牧されているということで、一同馬探しをしたのですが、丁度食事時だったようで1匹も見ることができず、わずかに帰りのバスの窓から遠くに1〜2頭見えただけでした。
 その後は昼食を食べることになり、12時半頃に「下北名産センター」という大きな土産物屋さんの2階の大食堂で「味噌貝焼き定食Jを食べました。土鍋の中に、エビ、ムール貝、ホタテ、野菜などが入っており、味噌味のスープを飲むとこれがとても辛いのです。正しくは、これをご飯に掛けて食べるのだと下見メンバーが教えてくれました。食後、下の店でいろいろ買い物をして、活ホタテなどはクール宅急便で自宅に送りました。そしていろいろお世話になった石橋さんとはここでお別れしました。今回の旅行の成功の大きい部分は現地に詳しい石橋さんのおかげで、感謝感謝です。
 その後バスで七戸の道の駅に向かい、そこで最後の買い物そして帰りの新幹線の中で食べる弁当などを購入しました。帰りの新幹線の乗車駅は「七戸十和田」で、16時53分発の「はやぶさ28号」で東京に向かいました。帰りの新幹線の中でも盛り上がっていましたが、全員が同じ部分の席なので、他の乗客の迷惑にはならなかったと思います。

 今回の旅行はこのように、楽しく、思い出深いものとなり、大成功だったと思います。何よりも、3日間の天候に恵まれたことで、その間東京は雨が続いていたようですが、下北は曇りと適度な晴れが続き、気温も丁度よい絶好の旅行日よりでした。また、現地の石橋さんのおかげはもちろんですが、旅行の企画・募集そして引率を一手に引き受けた清水幹事長に負うところも大きいと思います。今回のような楽しい康行を経験したなら、次回もまた大勢の参加者が集まることと思います。次回に期待したいと思います。                                          以 上


      「全日本柔道形競技大会」43会の清家(8段)さんが出場 準優勝!
                                                     倉田隆次

 27年11月21日(土)上記大会が講道館で開かれました。龍門会長以下6名(伊藤、倉田、後澤,森澤、松浦)が応援に駆けつけました。とは言うものの6名全員が、柔道は素人なのです。
` 畳の道場内は、三つの試合場が設けられていました。案内書によると実施種目は、「投げの形」から「古式の形」まで七つあり、清家(8段)さんの出場するのは「古式の形」です。「古式の形」は起倒流柔術の流れを汲み、武士が鎧甲冑を身に着けた際の投げ技を主としたものだと説明書にありました。
 各種目ごとに、北海道から九州まで11組から13組までの地域チームが2名の代表選手を出し技の優劣を競うものです。清家8段は、東京代表でした。「取」(投げる方)と「受」が指定され5人の審査員が採点表に記入し一試合ごとに事務方が集計します。素人目は華麗な流れるような攻防の技でした。
` 「古式の形」の最高点は、北信越の77.6点で優勝、東京の清家8段は、残念ながら75.9点で準優勝でした。最低点は、北海道の65.4点でした。夕方の表彰式を見て散会しました。
                                                            

                       白門43会北陸旅行記 (2)

〔第三日目〕11/12

 この日も出発が8時とのことで、6時藩の朝食会場オープンと同時にバイキングの朝食を済ませま  した。この日はまず金沢城〜兼六園見学ということで、8台のタクシーに分乗して石川門前に集合し、 2班に別れてそれぞれにボランティアのガイドさんが付いて引率・説明してくれることになりました。 私は4年前の11月に家内と金沢旅行をしたことがあり、今回のコースも重複していたのですが、今 回はガイドさんが付いてくれたのでいろいろと詳しいことを知ることができ、とても有意義でした。 ガイドさんの説明によれば、この城は高台の上に奪えているため落雷によって何度も火事になってい るとか、石垣には火事避けの意味で亀の形の六角の石が組まれていること、長屋というのは江戸のように人が住む建物ではなく倉庫のようなものであるとのことでした。城内の一部では工事をしていま したが、そこには石垣の仕組みがよくわかる展示がありました。
 次に、兼六園に入り、例の灯寵や唐崎の松などを見学しました。我々のガイドさんは60年配の男 性なのですが、声がはっきりしていて説明の要領もよく、会員からの答えにくい質問にもにこやかに答えるなど素晴らしい人でした。例えば、兼六園の水利を考案して工事を指拝した板屋某という人は 工事完成とともに秘密の漏れることを恐れて殺害されたという説明で、会員の一人が「その人は工事 が完成したら殺されると予め知っていたのか」という質問をしました。ガイドさんの答えは「それに っいては私は何とも答えられません。でも坂屋某が殺されずに五箇村に逃げたという説もあり、その 点は定かではありません」という答えでした。その後我々はすぐ近くにある金沢の地名の由来になっ た金沢神社を訪れて、そこの銘水を飲む機会に恵まれました。
 その後、21世紀美術館に向かいましたが、実際には無料で見学できる場所を巡っただけで、展示
を見ることは出来ませんでした。そして幸林坊の昼食会場に向かい、そこで地元の会員である北村徹雄さんと合流しましたが、彼は我々にお土産を配り、挨拶をしただけで帰ってしまいました。昼食は 2階の座敷で座って食べる形式で、牡蠣と野菜の焼き物、鮪のやまかけなどが美味しいという印象でした。
 昼食後は自由行動ということで、バラバラになりましたが、私は数人で武家屋敷見学をしました。
ここも4年前に訪れた所でしたが、今回は足軽屋敷に行き、そこの子孫と思われる人から説明を受けました。10月に家内と鎌崎温泉に行った時、近くの白石城見学の後に武家屋敷を見学したのですがそれに比べて邁に立派な屋敷で、加賀藩の裕福さ、足軽という武士の下に位置する人達を大切にする藩風などが感じられました。その後は前田家に縁の深い尾山神社を訪れ、更に歩いて近江市場に行きました。相変わらず活気に溢れた市場で、会員の中には蟹を買っていた人もいたようですが、多くはただ見学しただけでした。そこから20分ほど歩いてホテルに戻り、荷物を受け取って集合場所である金沢駅に向かいました。
 金沢駅の1階には広くて給麗なお土産販売フロアがあり、皆はここで中川屋のきんつば、森八の和菓子などを買っていましたが、私は地酒の自動販売機の方に魅力を感じて、古賀さんと一緒に試してみました。
 今回大変お世話になった坂東さんとも駅でお別れし、途中でリタイヤ或いは仕事の都合で帰った会員以外は、3時12分発のはくたか19号に乗って、高岡経由で東京に向かいました。途中、越後湯沢で大下さん、大宮で飯島さん、山田さん、矢崎さんが下車し、私も龍門会長、相澤さん、浅葉さん、石嶋さん、高橋延芳さん箋とともに上野で下車しました。
 今回の旅行も奈良・吉野旅行と同様に無事に、和気あいあいのうちに終えることができました。何 よりも天候に恵まれたことが一番でしたが、ここまで周到に準備をしてかつまた一行を引率してくれ た43会の担当役員の皆さんの努力が大きかったと思います。私もいろいろな同窓会などで大勢の団 体旅行を企画して引率したことがありますが、途中から参加或いは途中から抜ける会員の掌握そして何回もの宴会等の開催などが如何に大変かよくわかるので、今回の旅行に際してもこれらがとてもよく運営できていたと思いました。今回の旅行で隣同士になって親しくお話しできた会員が何人もおりその人達との会話から今回の旅行が楽しかったので今後の20周年行事の歌舞伎鑑賞会、大相撲見学会、ミュージカル見学会そして新年会や総会への参加意欲妄感じることができました。来年も楽しい行事がいっぱい有るので、元気に参加したいと思いました。  


                       白門43会北陸旅行記 (1) 

 自門43会の20周年行事の一環として、11月10日(月)〜12日(水)の2泊3日で、北陸旅行が実施されました。4月に実施された「奈良・吉野旅行」と同規模の40名弱(女性7名)の会員が参加して、恵れた天候の中で和気あいあいの楽しい旅行になりました。

〔第一日目〕11/10
 午前9時に東京駅地下1階の銀の鈴広場に、東京駅から出発する23名が勢ぞろいして、9時28分発のMAXとき315号で出発し、途中の越後湯沢で乗り換えて12時57分に高岡駅に到着しました。途中の大宮で3名、越後湯沢で1名が加わり、高岡では更に7名が合流しました。高岡で合流した7名の中には今回の旅行を以前から希望していた富山在住の坂東さんが居ました。坂東さんは、43会の発足以来の会員で、総会や新年会に富山から上京して、いっも「遠い地方からの参加者」と司会者から紹介されて挨拶させられていた人です。今回の旅行に際しては、下見も含めていろいろとお世話になったようです。
 高岡からは観光バスで移動ということになり、いつものことですが清水幹事長の細かい配慮に基づく座席表(バスの座席については午前と午後も席替え、夜の宴会も新しい座席表に従って着席)に従って座りました。バスの中では初参加の高橋延芳さん(墨田区のみりん堂のオーナーで、今年7月の総会時に「自門43会」という銘を入れた煎餅を作ってくれた)、高橋良洋さん(2002年の広島での地方の集いから会員になった岡山の松林寺の住職。私とは中大の国際関係研究会での同期)そして吉川啓三さん(富山市在住で今回の旅行を機に入会)の紹介がありました。
 最初の観光地は、高岡駅からバスで10分ほどの瑞龍寺です。ここは金沢藩の2代目の前田利長公の菩提寺で、かつ富山県唯一の国宝の寺ということで古式豊かな立派なお寺でした。有名な観光地の寺に見られるような朱色とか金色のものは一切なく、いかにも何百年を経たと思われるような木材が使われており、内部も簡素なものでした。ガイドさんの説明によれば、雪国らしく屋根の作り方に工夫がされていたり、戦となればすぐに城として使えるように堀が巡らされていたり、屋根瓦もいざという時には鉄砲の弾丸に加工できるように鉛の板が使われているとのことでした。境内は広く落ち着いており、観光客が少ないこともあり我々はゆっくりと見学できました。
 その後、瑞龍寺から数百メートル離れた場所にある前田利長公のお墓を訪れました。水鳥が浮かぶこじんまりとした掘に囲まれて、石の門と石の塀があり、その奥に高く墓石が聳えていました。周囲はあくまで静かで、また清掃などの管理も行き届いているようでした。 次に向かったのは日本の三大大仏と言われる高岡の大仏です。因みに、あとの二つは奈良そして鎌 倉の大仏だそうで、中でも高岡の大仏は一番の美男子ということでした。実際に見ると、なるほど顔もさることながら、顔と胴体のバランスがとれていて(具体的には顔が他の大仏に比べて小さい)なかなかのイケメン大仏でした。
 次の目的地は「夢の平 散居村(さんきょそん)」に行きました。ここは庄川という暴れ川の河川敷から発達した農地なので水利の便がよく、農民はまず家を建ててその周囲を開拓するようになり、そのめ集落は作らずバラバラに農家・農地が展開していったとのことでした。バスは山道をグルグル回りながら頂上に登り、冬場はスキー場となる夢の平の展望台で降りて下界を見下ろすと、もやがかかっていたものの、点在する農家と農地を見ることができました。以前、小泉首相がここに来た時「絶景だ!」と叫んだとバスガイドさんが言っていましたが、1時間近くすきっ腹でカーブ連続の山道で揺られて車酔いした人が出たようで、そのうちの一人は翌日旅行をリタイアしてしまいました。
 散居村の絶景もさることながら、丁度夕日が落ちる時で、これもまた絶景でした。
 その後、6時頃にこの日の夕食及び宴会場である民宿「すがた」に到着しました。早速、座席表に従って着席すると、料理が次々と運ばれてきました。品数が多く、刺し身は「船盛り」で出てきて皆は歓声を挙げていました。森澤幹事の司会により、会長挨拶、新しい仲間の紹介などが行われ、宴会が始まりました。最初はビールでしたが、地元の酒を飲みたいという声が多く、「立山」という地元の酒を注文してこれを飲みながら歓談し、料理を堪能しました。但し、松葉蟹が沢山食べられると思っていた参加者は、松葉蟹が小皿1つだけだったのでやや不満でした。
 宿泊は高岡駅近くの「高岡マンテンホテル」で、43会の旅行では恒例となっている全員が個室ということで、大浴場は無いものの同室者のいびきなどに悩まされることなく、各人が自由に寝起きできました。

〔第二日目〕11/11
 6時半から食べられるホテルのバイキングで朝食を食べ、8時にはバスで出発しました。この日はゴルフ組と観光組に別れ、バスはまず「能登カントリークラブ」でゴルフ組7名を降ろしました。また「能登カントリークラブ」では先行していた小塚副会長が出迎えてくれました。
 観光組はその後1時間半ほどで、輪島の朝市に到着しました。輪島の朝市は本来、山の住民と海の住民がそれぞれの収穫物を交換していたという市場だったようで、野菜と魚類が半々それに輪島塗りが少々加わる程度で、50mはどの道の左右に露店が出ている規模でした。我々は生物や重い野菜などを買うのは無理で、私も軽い輪島塗りの箸と貝類の干物を購入するのが精一杯でした。ここでの観光時間が50分しかないので、多くの会員は何も買わずに戻って来たようです。

 その後は1時間はどで、白米千枚田に到着しました。ここはまるで海岸というような場所から山に向かって小さな田が耕されており、これを千枚田と言っているとのことでした。大波が来たら海水が被るような場所もしっかりと耕作するという涙ぐましい努力が表れていました。
 この日の昼食は、輪島塗りの工房「しおやす」という店で食べるとのことで、まずは綺麗なお姉さんから輪島塗りの工程説明がありました。そして「うどんが滑らない箸」を購入するようにと勧められたので、すぐに3セット購入しました0家に帰って「輪島塗りのうどんが滑らない箸だ」と言うと家内は「これだと食洗器にかけられない」と渋い顔をされてしまいました。昼食は、釜飯を中心とした内容でしたが、朝食が早かっただけに皆さんペロリと食べていました。
 その後は能登金剛という名所(松本清張の小説の舞台になった)に行きました。そして40分はど遊覧船で海からの奇岩の数々を観光しました。説明をしてくれた船長が「ここで採れる岩海苔が素晴らしく美味しい」と言ったので「何処で買えるのか」と尋ねると「何処にも売っていない」と言うのです。そこで「どうしてもその岩海苔が欲しい」とお願いすると、「1月頃に自分が採って準備が出来たら連絡する」とのことで、お互いに連絡先の交換をしました。1帖2千円以上するそうですが、どれほど美味しいのか確かめて皆さんにも報告したいと思っています0念押しのため、帰京後に船長宛に手紙を書き、重ねてお願いするとともに自分の名刺を同封しておきました。
 その後は「能登カントリークラブ」に寄ってゴルフ組を回収し、この日の最後の観光地「氣多大社」 に向かいました。ここでは43年卒業ではないのですが、小塚副会長の後輩である西徹夫さんが待っていて、その顔で「氣多大社」の宮司さんが特別の御祓いをしてくれることになっていました。神社に到着すると実際に宮司さん二人と西さんの三人がもう暗くなりかけた鳥居の前で出迎えてくれました。そしてまずは年配の宮司さんから、この神社は能登(石川)の国の一宮(国のトップの神社)であること、近世には加賀藩の厚い保護を受けていたこと、大正4年に国幣大社になったこと、更には昭和58年には昭和天皇が行幸して御製をお詠みになったこと等が説明されました。天皇が行幸して、更に御製をお詠みになったケースは過去に山口県の赤間神社、島根県の日の岬神社とこの気多大社の3社だけというのが自慢らしく、神社の脇の庭には御製が刻まれた岩と、それを分かりやすく板に書いたものそしてそれを英訳したものが誇らしげに鎮座していました。我々は若い方の宮司さんの案内でいろいろな建物や神輿などについて説明を受け、更には神殿で御祓いを受けて給麗な身体に変身しました。帰りには、宮司さんから御神酒と、「氣」という「氣多大社」の御札を頂きました。いずれにしても、正月などには多くの参拝者が来るという「氣多大社」は、いかにも由緒ありそうな神
で、そこで御祓いを受けることができたのは大変ありがたいことだと一同感謝に堪えませんでした。 心身ともに清められた一行は、この日の宴会場の民宿「やまじゅう」に向かいました。ここでは西さんと、ここで合流した東度長司さんが紹介されました。ともに小塚副会長関係者ということで、東 度さんはこれを機会に43会に入会したとのことでした。この日の料理のメインは松葉蟹の雌雄2匹 で、一同は約1時間、物も言わず酒も飲まず、ひたすら蟹の解体に努めました。私もいろいろ蟹を食 べましたが、松葉蟹の雌雄2匹というのは初めてで、夢中で完会しました。会員の中には途中でギブ アップした人も多かったようです。その他にも多くの料理(まるでビフテキのような厚さのブリの照 り焼きや刺し身など)が出て、これらをはぼ完食した私の腹はパンパンになってしまいました。
 宿泊は金沢駅近くの「金沢マンテンホテル」で、ここには大浴場が付いているとのことでしたが、蟹との格闘そして昼間の観光の疲れから、部屋で入浴するとすぐに寝てしまいました。

 


          5月6日初日に“古稀記念”町田譽曽彦個展に行ってきました。
 
                                                    梅津久光
 古稀(70才)・・・人生の感慨ある通過点だと思った。
 今まで町田画伯の作品に触れる機会があったが、転勤で過ごした場所の風景がその事をものがたっている。自分も転勤してきて思うことは、町田氏は絵画を通じてその時々のストレスを発散させたのだろうと、私なりに思ったものである。
 町田氏は現在、地元密着で活躍していると聞いていたが、その証拠に初日に多くの地元の人が駆けつけていた。オープニングパーティでの出席者の挨拶でもその事が良く解った。
 なにしろ昔から思っていたのだが、町田氏のパワーのすごさを今日も感じたのである。                                    


  経営トップのリーダーシップ10か条について

 白門43会 田中宏司 

このところの企業不祥事が続発している。例えば、カネボウ化粧品の白斑問題、JR北海道のレール異常放置、みずほ銀行の暴力団員融資問題、阪急阪神ホテルズ等の食材偽装問題、ヤマト運輸の荷物の温度管理問題、食品への農薬混入問題等、さまざまな業種で消費者や利用者の信頼を切る事例がみられる。
 これらの企業不祥事には、さまざまな原因がある。多くのトップ・マネジメントは、自社やグループ会社でも類似の不祥事が起こりうるとして、危機感をもっていると思われる。ここで、最も重要なことは、経営トップの姿勢であり、リーダーシップである。
 このようなわが国企業の現状を踏まえて、永年コンプライアンスやCSRについての研究を行ってきた一人として、ここに、「経営トップのリーダーシップ10か条」を提案する。皆様のご参考となれば幸いである。

経営トップのリーダーシップ10か条

第1 経営トップは、企業倫理方針、メッセージ(コミットメント)を明確に宣言する。これを、自分の
   言葉で熱き思いをもって語り続けていく。
第2 .経営理念を踏まえて、コンプライアンス・企業倫理の基軸となる「行動基準」を策定し、公表す
    る。そのうえで、多様なステークホルダーに自信と誇りをもって説明責任を果たす。
第3 お客様・消費者、従業員、取引先など重要なステークホルダーへの対応を基本として、企業
    内外とのコミュニケーション(情報の収集・伝達・開示や広報)の促進と強化を図る。
第4 組織内の情報の収集・伝達・開示や、“報告・連絡・相談”は十分かどうか、チェックし経営トッ
   プとした適切に指示する
第5 企業倫理意識を徹底し定着させるため、自らが率先して行動し実践するとともに、組織体制
   を確立するようリーダーシップを発揮する。
第6 遵守体制としては、行動基準等の制定と周知徹底、企業倫理担当役員・責任者の指名、教
   育・研修プログラムの作成と実施、倫理ヘルプラインの設置と円滑な運営(“自浄システム
   ”の活用)について的確に指示する。
第7 フォローアップ体制としては、倫理委員会の設置と機能的運営、倫理意識調査の実施、倫理
    監査・モニタリングの実施、社内の意識調査の実施、再発防止策の確立、罰則規定と倫理
   違反への懲罰処分の実施などを的確に指示する。
第8 経営トップとして、役員や従業員の業績評価に企業倫理業績を組み込み、その結果を的確
   にフィードバックするよう促進する。
第9 経営トップは、企業倫理を組織内に定着させることは、一人ひとりが「自分とその家族を守り
   、会社を守ることである」と認識し、企業文化にまで昇華させるためのリーダーシップを発揮し
   ていく。
第10 経営トップは、企業の社会的責任(CSR)を果たし、持続的な発展をするために社会からの
    信頼を維持し、向上させるよう全力を傾注する。



 南富山の旅

 平成27年度に中部地区にて43会の旅行会を企画する予定にて、この9月、8人の旅好きで富山を中心に下見を兼ねた旅をした。
 新宿を8時に清水利夫氏の運転にて富山県へ出立した。途中上越市を通り2年後の旅行会にて北陸地方の中心的な役割をお願いする予定の坂東勲氏の待つ砺波市へ向かった。砺波ICにて坂東氏と合流し1日目の宿の庄川荘へ……。
 庄川荘での夕食までの間に雄大な「砺波平野・散居集落」を一望できる展望台へ案内してもらった。ただ単なる平野の展望ではなく、屋敷林(地域によっては防風林)に囲まれた農家をはじめとする家並みが点在した広大な平野の素晴らしさは、冬の厳しい北陸地方の先人の英知を眺める事ができた。
 2日目は坂東氏にお願いし「朝の日を浴びた散居村集落」を展望しに再度展望台へ。昨日の夕日に浮かぶ散居村とは趣の異なる光景を眺める事ができ、素晴らしさを再確認できた。その後越中一向一揆の拠点瑞泉寺の山門の美しさを愛で、前田家の墓所を参拝した。高岡の地にこれほどの壮大な国宝・瑞龍寺があり、前田家の権力の強大きさに驚かされた。又北陸地方の工芸職人の街並を見物しながら、この地・高岡で鋳造された、奈良の大仏・鎌倉の大仏に次ぐ日本三大大仏のひとつ、高岡大仏を見物した。近くで見るのと遠くで見るのと表情の異なる、素晴らしく威厳のある大仏様です。
 3日目、宿を出て「道の駅・番屋街」を見物、海産物をお土産に買い、高速にて世界遺産の「五箇山・菅沼合掌集落」に行き見学し昼食をとった。
 ここにて3日間色々と案内をしてくれた坂東勲氏と別れ、東海北陸道・東名高速にて東京への帰路についた。                      (森川忠:記)

  
   コスモスに囲まれる合掌家屋                     菅沼合掌集落の家並み    



 町田譽曽彦さんの作品が第98回ニ科展に入選しました

 平成25年9月4日(水)〜9月16(月)までの間、東京・六本木の国立新美術館で開催された第98回二科展で町田譽曽彦さんの作品が入選しました。町田さんは1970年に24歳で第55回二科展に初入選以後毎年出品、それ以来30数回目の入選となりました。
 管理人は9月13日(金)に拝見させていただきに行きました。二科展は新美術館の1階から3階までを使った全館の大展示で、絵画、彫刻、デザイン、写真といろいろな分野にわたっており、最大の絵画部門は1000点を越える展示がされていました。どれも100号規模の大きなものばかりで、観る方はその迫力に圧倒されました。町田さんの作品が展示されているコーナーに行くと、名前を見なくても一目で「これが町田さんの作品だ」と分かりました。
 町田さんの作品は100号の大きな油絵で、題は「逗子アリーナ」でした。町田さんの作品は船や海岸の絵が比較的多いと思っていましたが、今回は以前の入選作のような抽象的な詩情を込めた作品ではなく、写実的な絵でした。管理人のような素人にはこの方が分かりやすくて好感が持てました。もっとも写実的とはいっても写真のような平面的なものではなく、油絵が持つ重厚感、マチエールが遺憾なく発揮されて、その迫力が直接伝わってくるような感じがしました。

★第1回二科展は、1914年(大正3年)文展洋画部より分離して、上野竹之台陣列館で開催された。この時は石井伯亭、梅原龍三郎、有島生馬などが出品した。

「逗子アリーナ」と (町田さん提供)


 町田譽曽彦さんが絵画を学員会に寄贈されました

 洋画家の町田譽曽彦さん(このページの下方参照)が、この程ご自身の作品「コスモス」2点(油絵と水彩画各1点)を中央大学学員会(駿河台記念館)に寄贈されました。
 寄贈された作品は、次のとおりです。駿河台記念館に掲示されていると思いますので、お出でになられたときは是非ご覧になってみてください。
  



 鹽野惠子さんの個展が開催されました

 趣味の油絵で文部科学大臣賞、外務大臣賞、衆議院議長賞など数々の賞を受賞され、プロ並みの実力を発揮されている鹽野惠子さん(法法)が、平成25年7月1日(月)〜7月7日(日)の間、東京・京橋のGALLERY KUBOTAで個展を開催されました。
 なお、鹽野さんの作品「秘めたる闘志」が、平成25年5月29日(水)〜6月10日(月)まで、国立新美術館で開催された「第27回日洋展」で、多くの入選作品の中から見事「会友賞」を受賞されました。   
会友賞 「秘めたる闘志」 F100号 個展代表作 「いとしい人」 F30号


 東日本大震災被災地体感ツアー報告

 今年の七夕総会時の講演テーマの1つに、東日本大震災のボランティア活動が取り上げられることになり、ならば事前に見聞したいとの要望が役員会後の飲み会で話題になった。そこで昨年7月から被災地支援を続けて現地に赴いている私が、企画して役員の皆さんに呼びかけることになった。
 「東日本大震災体感ツアー」は、総会の1週間前の7月1日・2日に実施。梅雨時で天候が危ぶまれたが、1日曇天の新宿駅西口を7時35分に19人のメンバーで出発。マイクロバスの運転は、杉並区のボランティアで現地にもマイクロバス運転経験のある会員の富田秀雄氏が快く引き受けてくれた。ガイド役のナビゲーターは43会メンバーではないが、私と被災地に10数回マイカーで行ってよく現地を熟知している斎藤大介氏に依頼。斎藤氏は総会時の講演会で「気づいたら、みんなボランティア」の講師をお願いしてある。

 出発してすぐ皆さんへ、
  <今回のバス旅行は物見遊山の気持ちは慎むように>
  <現地で被災者との対話で心無い言動に注意すること>
の2点をお願いした。後は斎藤氏が饒舌豊かに、自ら作成した13頁にわたる「旅のしおり」を解説し、車中あきさせないように<三陸とはどこか><リアス式とは>などのクイズも飛び出した。途中2回のSAトイレ休憩で、石巻河南ICを出てから石巻市内で最大の被災地南浜・門脇地区を車窓で眺めた。本来あるべき建物がなくなり、山積された車や瓦礫の光景にため息をつくばかり。
 1時半女川町のホテル「華夕美」で遅い海鮮丼の昼食をとった。ここは入り江の関係でほとんど被害を被らなかったところでめずらしい。
 食後「女川地域医療センター」にて2人の被災体験者の話しを聞いた。被災当時は町立病院と呼んでいた海抜16mの高台にある建物は、津波が病院の1階まで来て避難してきた町民が車ごと流されところだ。皆この高台に立って、ほとんど平坦な基礎部分のみと変貌した街並みと、津波がここまで到達したことが信じられないと実感した。体験談は、ライブハウス兼自宅が流されたが、地震直後近所の足の悪いおばあさんをつれてこの病院に避難してきたマスターと、歯科医院を自宅で開業していて、治療中の患者数名を連れて避難し、自宅とともに愛用のフルート30本も流された石巻市民交響楽団副団長の2人で、パソコン画面などでより切実なその当時の緊迫感が伝わった。
 予定時間をはるかに超して3時半、女川を後にして、硯の名産地雄勝町を通り抜け、あの石巻市立大川小学校へ到着。2階建ての校舎は見るも無残、児童108人中74人、教職員11人中10人が死亡・行方不明の悲劇。地震直後<裏山に逃げよう><いや山崩れが心配>等で、結局高い橋のほうへ列を作って出発した直後に、4km先の北上川河口から大津波が遡上してきて、すべてを飲み込んでしまったのだ。いまだに献花が絶えない祭壇に手を合わせて冥福をお祈りした。
 その後、南三陸町へ。取り壊しの最中で、74人が犠牲となった志津川病院前のスタンドで燃料補給中に、明日の新宿到着時間を逆算すると時間が足りないとの発言があり、急遽明日見学予定を変更しての町防災センターへ。ここは、最後まで防災放送で避難を呼びかけ続けた遠藤未美さん他23人が亡くなったところで、祭壇には多くの花束や千羽鶴が供えられていた。
 すぐ近くに今年2月にオープンした「南三陸さんさん商店街」で買物支援をして、今宵の宿、歌津の「ニュー泊崎荘」に6時過ぎ到着。被災地のホテルや民宿は長期的に滞在する瓦礫処理等の工事関係者でほとんど占有され、一般の団体客の予約を確保するのに苦労した末にやっと取れた民宿だ。部屋割り後一風呂浴びて7時から宴会。
 席上に倉田会長の親戚で歌津の小野寺葵さんをお招きして体験談を聞いた。近所の床屋さんがすべてを映像に記録したDVDが上映され、自宅がそっくり流される映像は、小野寺さんにとって大変つらいお気持ちだと感じた。幸い身内に亡くなられた方はいらっしゃらなかったが、3日後に自宅跡地に行き、愛犬が鎖につながれたまま溺死していたという話は、思わず目頭が熱くなった。宴会後幹事部屋で2次会、11時過ぎ床についた。

 翌2日、夜半から続いていた土砂降りの空も小降りとなる中、我々が6時半朝食をとるときには、同宿していた工事関係者はすでに済ませ現場に向かうところだった。せわしい時間に追われながら7時、再び富田氏に運転を委ねて、気仙沼のフェリー乗り場に向け出発した。月曜日通勤の車で幹線道路の渋滞が気がかりだった。海岸沿いを走る気仙沼線が無残な姿で残り、気仙沼市内に通勤・通学する交通手段は車だけが頼りのため仕方なかった。
 予約していた8時40分発に間に合い、気仙沼大島行きのフェリーに乗船。幸い雨はほとんどやみ、デッキから津波と重油タンクの引火で火災に遭遇した市内を眺めながら、30分ほどで大島の浦ノ浜に接岸した。波止場で待ち受けていたボランティアガイドの案内で、マイクロバスで国立公園の「亀山」頂上に上った。
 本来天気がよければ気仙沼から南三陸方面の美しいリアス式海岸や、遠くは金華山まで眺望できる観光スポットとして、親しまれているところだ。残念なことに全くガスがかかってしまい島にいながら海すら見えない状況で、ガイドも申し訳なさそうに案内していた。当時人口約3,000人の島で、気仙沼市内からの火災瓦礫が漂着して、森林火災を発生、島の1割を消失したとのこと。ロープウエイのゴンドラも、終着駅で被災、炎上した。(写真)
 次に向かったのは島の最南端の龍舞崎。島に打ち付ける荒波がまるで龍のようだというのが命名の由来との説明。無人の小島が散在して、晴天ならより風光明媚な景色を楽しめたのに、と思いつつバスに戻った。
 11時半に昼食処「はま屋」に到着。フェリー乗り場近くで食堂を営んでいて、車で津波に追いかけられながらかろうじて高台に逃れることができたご主人、昨年12月場所を変えて「はま屋」を再開した。ご主人や、食事に来店した地元の元小学校教師らの被災体験を聞いた後、フェリーに乗船する頃には晴れ間も見え出した。亀山頂上からの眺望逃したことが心残りで、必ずもう1度来ようと心に決めた。
 気仙沼エースポートで下船後、「お魚いちば」でそれぞれは破格に安い鮮魚やお土産を購入。
 最後の見学地として、TVなどでもよく放映された大型漁船が座礁した市内鹿折地区へ到着。こんな巨大な漁船が海岸から数キロ離れたところに打ち上げられたことが信じられない。思い思いに写真を撮って見納めとし、一路帰京のバスとなった。
 東北道一関ICに3時前に入り、途中のトイレ休憩制限10分、夕食も20分の限定で、富田氏は運転代わりもなく1人で頑張っていただき、新宿駅西口に予定の9時に無事到着できた。富田氏とガイド役の斎藤氏に改めて感謝申し上げます
あわただしいバス旅行でしたが、今回参加された皆さんが見聞したことを、今後友人にお話しいただき、ともすれば忘れがちになってきている東日本大震災の被災者に対する支援の気持ちを共有していただけたなら、このツアーは大成功です。   (古賀忠夫:記)


 「日洋展」で鹽野さんの作品が展示されました

 平成24年5月30日(水)〜6月11日(月)の間、国立新美術館で「第26回日洋展」が開催され、その中で鹽野恵子さんの作品が入選し、展示されました。
 この展覧会は、現代の新しい具象絵画の研究と新人の広い登竜門として開催されたものですが、鹽野さんは、一昨年、昨年と連続して2回奨励賞を受賞され、今年はさらに「会友推挙」という栄誉を与えられました。
 今回のは「踊り子」という題の100号の油絵で、鹽野さんの得意とする活躍する女性の姿を捉えた作品ですが、真剣に、優美に、しかし揺るぎない自信を持って踊るその姿に、ある種の迫力さえ感じさせる作品ではないかと思われます。 


 亘理町にて被災地支援ボランティア(生活支援物資の配布)

 以前にもこのHPの“会員の動向”欄でお知らせしましたが、今回は4人の白門43会員が宮城県亘理町における被災地支援ボランティアに参加しました。八王子から参加したKさんは最初から参加しているベテランでこの活動の統括責任者として以前より活動しています。自分を含め他の3人はKさんの呼びかけに呼応して活動に参加し始め、私は今回が3度目。そして他の2人はそれぞれ2回目、初回となりました。我々は家もお互いに10分もかからないところに住んでおりましたので今回はSさんの大型4輪駆動の三菱パジェロ車に同乗させてもらうことにしました。
 夜中の1時半に我が家の前に迎えに来てもらい、前日より近所の方からお預かリしてありました支援物資4ケースを荷台に詰め込みました。有難いことで私が3ケ月以前よりこの活動に参加していることを知った何人かの友人知人が私の被災地への出発日に合わせて使わなくなった衣類とかに日常必需品を持ち込んでくださいます。
 3.11の東日本大震災の後、多くの方々が日本人としての同朋意識から何かしてあげたい……と考えていてもその方法を探しあぐねているようです。3人目のKさんにご自宅前で同乗していただき、われわれ3人の初老ボランテアを乗せたパジェロは真夜中の京葉道路、首都高、そして東北高速道をひたすら北に向かい走り続けました。
 途中何度かSAでトイレ休憩、そして朝食休憩などをとってまた走り、同時走行している他の車のメンバーとも携帯で連絡を取り合いながら一路“亘理町”に進路を取りました。吾妻PAから国見SAに向かうころになると夜も次第に明けてきて、辺りは明るくなりかけてきました。そして高速を降りる白石ICに着くころには前面に白く雪をいただいた蔵王連峰の清らかな姿が我々を迎えてくれました。
 白石ICから約30分一般道を走り、漸く現地の体育館前に到着したのが7時15分でした。片道5時間45分の真夜中走行でした。(降雪が無かったのが幸運でした!)
 物資分配場の体育館前にはもう既に20人くらいの被災者の方々が寒い中をお待ちでした。今回からは寒さの中を長い行列を作り待つことは健康上からも人道的にも好ましくと言うことで“先着順”を廃止し、“抽選形式”に変更したのですが、情報が完全に周知されてはいないようでした。お集まりの方々に8時より整理券を発行し9時より10人ずつのくくりで抽選します……と説明してもなかなか解ってもらえませんでした。 この方法ならば整理券受け取り後は帰宅しても車の中で暖を取られてもかまわないからです。5回目にして最初の試みなので多少混乱はありましたが600枚近くの整理券をお配りし、9時より抽選を開始いたしました。その頃にはバザー会場抽選場の前には人、人、人の溢れんばかりの状況でしたが皆さん整然と抽選作業に協力してくださいました。
 今回私は“食料品担当”、Kさんはその隣の“毛布担当”、Sさんはまたその隣の“寝具全般担当”でした。抽選に当たった人はまず入り口で正月用の“餅詰め合わせの袋”を各々受け取り、それから次のブースに進みます。何百人分という“餅パック”全部にそれぞれ励ましの文言が書かれた飾りがついており、その心のこまやかさには本当に頭が下がりました。たぶん何人もの方々がこの日の為に何日もかけて作られたのでしょう……。
 我々の前に来られたお客さん(?=被災者の方)に少しでも品物が選び易いように並べ変えたり、希望の品を探したり、あるいは既定の数量以上の物資を袋に入れないように注意するのが我々の大きな仕事でした。我々の胸に付けているIDカードを見て“あれえ千葉県からこんなとこまで来てるのけ?”と驚き、日帰りと聞いて更に驚き、“ありがとね!助かるわ!”とお礼を述べてくださる方もたくさんおられました。
 今回は新しい試みの“抽選方式”を取り入れた為に完売(?=販売完了)はいつもよりだいぶ遅くなりましたが、それでも午後3時ごろには一部品物(衣類、瀬戸物、本 等)を残して終了しました。バザー会場で全員集まり、このバザー(さざんか市)の発起人の女性より閉場の挨拶があり、散会しました。
 我々“3.11有志”のメンバーはいつものとおり近くにある“サザエ食堂”に立ち寄り、遅い昼食を取りました。ボリュームたっぷりな美味しい食事(海賊定食、山賊定食等)を食べた後、お互いの自己紹介をしました。毎回新しい人々が加わり今回も30人を超しました。食事の後はそれぞれの車に分乗して近くの現地直産販売の店により、イチゴやその他の野菜を買い求めました。これも被災地の作物の消費喚起のひとつの活動でした。店の人たちは閉店時間を過ぎた後にもかかわらず、我々の到着を店を開けて待っていてくださいました。
 買い物の後、この亘理町の中でも一番被害のすさまじかった海岸地区に向かいました。1,000人以上が犠牲になられたという中浜地区、荒浜地区はもう暗闇につつまれてほとんどあたりの情景は可視出来ませんでした。あたりは漆黒の闇の平原で我々の乗ってきた数台の車のヘッドライトの明かりだけが場違いに浮き出ておりました。
 3.11の前夜までこのあたりはたくさんの住宅がならび、多くの商店やコンビニが並んで賑わいを見せていたのでしょう。街路には様々な明かりがつき、多くの人々が行きかっていた町がここにあったのがまるで夢のようです。我々は声もなくあたりを見つめていましたが、遠くに不気味に光るあのかっての“魔の海”は今は何事もなかったように静けさを保っていました。
 われわれは心の奥深く思い物を宿しながら暗い海抜1メーターたらずのその悲しみと犠牲者の怨念の漂うかの地を離れ、それぞれの家路に向かいました。ときどき復旧工事用と思われるトラックがすれちがい、闇の中へ消えてゆきました。
 千葉の各々の自宅に到着したのは夜の9時頃でした。Sさんのパジェロの距離計はなんと一日走行850キロを超えていました。     (佐藤勝:記) 


 「東京いのちの電話」TV放映のお知らせ

 中村武照(法法)です。「東京いのちの電話」の後援会に関わって5年あまりとなります。その間、白門43会でも、チャリティ映画会、コンサートはじめ寄付などにご協力いただいた方達がいらして下さり、同期の力を有難く思い、活動への大きな励みとなっています。
 11月5日には、「東京いのちの電話」設立40周年記念式典が、皇后さまをお迎えして、とり行われました。各メディアが取り上げてくれましたので、皆様のお目にとまったこともあったと思います。なにゆえにも、地味な活動の為、あまねく知られていないのが残念なのですが、この度、「いのちの電話」に関するドキュメンタリー番組がTV放映されることになりました。お時間が許すようでしたら、是非ご覧いただきたいと思います。

1 日  時: 平成23年12月18日(日) 午後2時より約1時間
2 放送局: フジテレビ(8チャンネル)
3 内  容: 「いのちの電話」に関するドキュメンタリー 


 八王子の蕎麦打ちパーティー

 11月1日付けの古賀さんからの手紙で、「蕎麦打ちパーティー」に誘われました。かねてから蕎麦打ちを修行していた芝木さんと佐藤さんかが“免許皆伝”となったので、「北野」にある古賀さんのマンションでそのお披露目の「蕎麦打ちパーティー」をやるとのことでした。私は以前にこのホームページで「蕎麦のうんちく」という文章を何回か掲載してもらったことがあるので、特に指名されたものと思い参加を快諾しました。
 当日は「酒の持ち込み歓迎」とあったので、丁度新潟の小千谷から取り寄せた「寒中梅」の5合瓶とつまみを何種類か保冷剤入りのバッグに入れて持って行きました。
 古賀さんの豪邸マンション「トラスティア北野」は京王八王子の一つ手前の北野駅から徒歩5分の所にあるということですが、台東区の私の家からどのくらいかかるか分からず、とりあえず2時間とみて12時前に家を出ました。でも新宿から京王線の準特急に乗ると30分ほどで着いてしまい、「トラスティア北野」には集合時間の30分以上前に到着してしまいました。
 古賀さんの部屋は最上階の10階の角部屋で、20〜30名が寛げるテラス付きという豪勢なものでした。玄関から入って右側の部屋では芝木さん、佐藤さんともう一人の“師匠”と呼ばれる人が蕎麦打ちの最中で、テラスでは正野さんや金子さんなどが談笑しており、古賀さんは酒や料理の準備で大忙しといったところでした。
 早速、私も暖かなテラスに出て周囲を眺めたり、皆で談笑したりしてそのままビールを飲み始めてしまい、その後、お暇するまでの7時間以上、ビール、日本酒、焼酎、ワインを飲み続けることとなりました。
 古賀さんが用意してくれたのは鍋料理でしたが、その他にも参加者がいろいろなものを持ち寄ったので、飲み物と食べ物は豊富でした。高梨さんのように自宅の菜園からこの日抜いてきたばかりの長葱を持ち込む人、梅津さんのように柚子を持ち込む人などがおり、酒も高梨さんが「久保田」の1升瓶を、冨田さんが「比叡山」を、矢崎さんが焼酎などを持参し、女性軍も手料理やスイーツ等を持参していたようでした。
 蕎麦打ちは、芝木さん、佐藤さんと“師匠”の3人が早くから来て分業して手際よくやっており、苦労して取りあえず22人分作りましたが、参加者は最終的に20名となりましたので何とか足りたようです。
 そこで倉田会長の挨拶と乾杯でパーティーの開始ということになりました。倉田会長の挨拶で初めて知ったのですが、古賀さん、佐藤さん、倉田さんは前々日に宮城県亘理町に支援物資を届けてこれらを配布するボランティアに行ってきたとのことで、前日の夜遅く帰宅したばかりということで、これには一同驚いたり感心したりでした。
 打った蕎麦はその後茹でるのですが、一般家庭には蕎麦屋のような大きな釜はないので、比較的大きい鍋で3〜4人分づつ何回にも分けて茹でたのでこれもまた大変な作業になりました。でも古賀さんが用意してくれた鍋料理やつまみ類を食べながら、ふんだんにある酒を飲みながら待ったのでそれほどの混乱はありませんでした。蕎麦猪口などの食器も揃わないので、“わんこ蕎麦”のようにみそ汁用のお椀を使い、蕎麦汁は市販のものを水で薄めて使いました。
 肝心の蕎麦の味ですが、これが予想を遥かに上回るおいしさでした。蕎麦粉は信州産のもので、小麦との割合は2:8ということでしたが、とてもこしがあり、喉ごしも滑らかで正直びっくりしてしまいました。私はこの「蕎麦打ちパーティー」に参加するための準備として、2〜3日前に浅草の「蕎麦上人」と南千住の「竹やぶ」でおいしい蕎麦の味をしっかり試しておいたのですが、これらの名店の蕎麦に比べても遜色ない出来ばえだったと思います。佐藤さんと芝木さんには感謝するとともに、ここまで腕を上げたことに心から感服しました。
 その後、体験コーナーが開催され、蕎麦打ち“免許皆伝”の3名の指導の下、相澤さん達女性軍がチャレンジしていました。
 古賀さんの話では、この豪華マンションは何かの集まりの時にだけ使っているとのことで、古賀さん自身は現在別の家に住んでいるとのことでした。この日のように20名くらいの集まっても楽に収容できる広さがあり、談笑の中で今後は43会の役員会や行事もここでやってはどうかとの意見も出ていました。
 9時過ぎにこの会もお開きとなり、私など“食べるだけの人”は古賀さんのマンションを早々にお暇したのですが、おそらく後に残った女性の皆さんや古賀さんは後始末でさぞかし大変だったことと思います。本当にありがとうございました。これからも、これに懲りずに年に一度くらいはやって欲しい行事だったと思いました。       (佐藤勝:記) 
  


 クラス会が開かれました

 平成23年11月19日、管理人が所属する第二法学部5組のクラス会が東京・新橋の某和風レストラン(居酒屋)で盛大に(?)開かれました。参加者は9名でした。この中には「るにん会」(このページの下方参照)のメンバーが4名出席しており、このメンバーは開催時刻の午後4時までは時間があるので、午後2時にJR上野駅で待合わせをして国立西洋美術館で開催されていた「ゴヤ展」を観覧しました。「ゴヤ展」は スペインの国立ブラド美術館所蔵の作品を中心とした120点余りの作品が展示され、革命の嵐が吹き荒れる激動の時代を生き抜いたゴヤの独創的な芸術世界が紹介されています。
 この日は生憎の雨でしたが、予定の午後4時には全員がクラス会場に集合しました。昭和43年に卒業して43年経った今年、幹事のM君ともう一人のM君の尽力により、連絡が取れた級友は22名でしたが、仕事や趣味の予定が入っていたり、病気治療中で来られない人が半数ありました。当初11名が出席の予定でしたが急遽2名が体調不良のため欠席となってしまいました。
 実はこのクラス会は昨年もこの会場で開催したのですが、お互いこの歳になると明日どうなるか分からないから会える時になるべく会っておこうということで、クラス会は毎年11月の第3土曜日にこの場所で開くということが決っていたのです。卒業以来初めて顔を合わす人もいましたが、「今はどうしている」というような話で直ぐに盛り上がりました。
 悠々自適といいながら月に何回かは以前の仕事に関わることをしていたり、ケアマネージャーの資格を活かして老人介護施設の責任者の仕事をしていたり、あるいはいまだ衰えぬ体力を生かして(?)警備の仕事をしていたり、孫のケアマネージャー(!)をしているなど、人生の過ごし方はさまざまでしたが、大方の人は身体のどこかに少なからず金属(勤続)疲労をかかえ、そのご機嫌を窺いながら毎日を生きているという感じでした。うまい料理の他にアルコールも飲み放題のコースでしたが、みんな酒量が落ちてひと頃の勢いはなく、こればかりは料金の元が取れなかったのではないかと少しさびしい気がしました。
 来春は自分の畑で蕎麦を作っているという友達が皆を招待してくれるというので、今から体調を整えておかなくてはと思っています。
 次期クラス会の幹事も決めて、お互いの健康を気遣い午後6時半には早々とお開きになりました。外はまだ雨が降り続いていました。   (三沢充男:記)


 上尾市現代作家協会展が開催されます

 町田譽曽彦さんが会長を務めておられる上尾市現代作家協会主催による「第5回上尾市現代作家協会展(上尾風景10選)」が次のとおり開催されます。
 出品作家は公募団体展の日展、二科展、白日展、東光展、日本アンデパンダン展、新構造展、並びに埼玉県展等で活躍の洋画家です。各作家の代表作品と風景を併せ、40点余が一堂に展示されます。
 芸術の秋です。お出掛けになってみては如何でしょうか。
1 期間: 平成23年11月17日(木)〜11月23日(水)
      午前10時〜午後6時(最終日は午後5時まで)
2 場所: 上尾市民ギャラリー
       (JR高崎線「上尾駅」東口前1分)
                                     町田譽曽彦「上尾丸山公園」F15号
                                     


 東日本大震災被災地ボランテアに参加して

 3.11東北地方大震災の後いつか現地に行きボランテア活動に参加したいと常々考えていましたがなかなかその機会がありませんでした。然しこのたび43会仲間のKさんの呼びかけでやっとその機会がまわってきました。宮城県亘理町地区における生活支援物資の配布の手伝いです。
 3.11以後に現地のある主婦の呼びかけにより発足した「さざんか市」というバザーが各地の支援者から送られている様々な救援物資を亘理町地区の主に仮設住宅の方々を中心に無料配布しております。
 当日(今のところ毎月一度)のバザー支援参加者は各地からマイカーで現地に向かいます。私の場合はまだ千葉方面からの同調者(同乗者)が居ませんでしたので出発前日にKさんのお宅にお邪魔して泊めていただき翌朝真夜中の3時に八王子を2台の車に分乗して宮城県に向かいました。
 まだ外は真っ暗闇でしたが早い時間帯だけあり道路は定期便らしい大型貨物車の数が目立つだけで一般のマイカーは少なく圏央道、首都高、東北道と快調に流れてゆきました。しかし、快調と言っても横に座って居る者の感想であって寝不足の目を瞬きしながら長距離(片道300キロ)を運転するドライバーにはきついものがあると思います。途中何回かトイレ休憩、朝食の時間などを取り入れながら東北道は仙台の手前の白石インターで下に降り国道457を東に向かいました。
 配布会場である亘理町体育館(跡)に到着したころには多くのボランテアの方々が荷物を開梱したりブルーシートの上に陳列したりして準備していました。そして、会場敷地外にはもうすでに多くの被災者の方々が大きな袋を抱えて配布開始を今か今かと待ちわびていました。
 会場には品物の分類ごとにいくつかの“島”ができそこにボランテアの方々が配備されました。それらの島は「衣類」「瀬戸物=食器」「日曜雑貨」「食料品」「本、雑誌」などなどの分類の島でした。被災者の方々は配布が始まると順序良く一列に並びながらそれらの島を順次廻りながら自分の入用な品物を受け取り袋に入れてゆきます。
 慣れてくると我々ボランテアのメンバーと地元の方々との会話がはずみます。「これ、男物女物 ?」「もう少し大きいサイズはある?」「おかあさん、寒い時はこの浴用剤であったまってね!」……などなど。中にはFAX付きの電話機セットのような大型物資もありました。
 なかには「ありがとね……助かるわ !」と我々に声をかけてくれる方々もおりました。配布開始前の待合の時間、そして皆さんが品物選びの最中にもメンバーKさんの所属するバンドが体育館の前に仮ステージを設け快いBGMを流してくれました。
 「品物もありがたいけど綺麗な音楽が聞けて来てよかったわ……」と言ってくださる方もおりました。
 3.11の後、不自由な生活の中で生演奏等を聞く機会などは皆無ではなかったかと思いバザーとバンドのコラボレーションは素晴らしいアイデアだと思いました。午後1時ごろには瀬戸物と本、衣類の一部を残して殆どが完売(?)=配布完了になりました。
 全員で後片付けをし、地元のスタッフの方々、代表と簡単な反省会と最後の挨拶をした後我々は近くの食堂にて遅い昼食を取りながらお互いの自己紹介等をして親睦をはかりました。此処においてさらに「311有志」の会として今回の総括と次回(来月)の予定などを話し合いそこを出て次の目的地である亘理町山元地区に車を進めました。
 この地区は海抜も低く海岸接近の為被害が一番厳しいところでした。2階まで押し寄せた洪水の為骨組みだけ残された自動車教習所の残骸(ここで25名の方が犠牲)や建物が流されコンクリ-との土台だけがまるで墓場の墓石のように累々と並ぶ空き地、瓦礫が高く積み上げられたいくつもの山、積み重なって錆び始めた自動車の屑の山々……(この中には犠牲者の位牌が置かれたものもあるという)。テレビや新聞では見られない「同じ高さの目線」から見た現状の悲惨さにはただただ息をのむばかりで言葉が出ませんでした。
 こんな悲惨で非常なことが数か月前にはここでおこり3.11の朝まで楽しく希望をもって生活していた人々が1,000人以上も2度と帰らぬ人になった事が信じられないくらい、あたりは静寂が漂い日差しの中に赤とんぼが飛んでいました。家の土台だけのかたすみの乾いた砂の中から一輪のコスモスが育っておりお赤とピンクの優しい花を咲かせていたそれが、ことさらに悲しさを私には与えて胸が熱くなりました。
   コスモスや 亡き主忍び 鎮魂歌     ( 合掌 )        (佐藤勝:記) 


 箱根駅伝菅平強化合宿激励訪問

 平成23年9月18日、長野県菅平高原にて行われている中央大学箱根駅伝選手夏季合宿に激励訪問してきました。私にとりましては昨年度に続き今回が2度目の参加でした。
 “中央大学箱根駅伝を強くする会”は上岡会長以下20名が18日(3連休の中日)に駿河台記念館前に朝7時に集合し、チャーターバスで一路長野県の菅平高原に向かいました。途中渋滞に巻き込まれながらも素晴らしい秋晴れの天候に恵まれて快適な走りの後、昼ごろ目的地の合宿先であるサニーパーク菅平に到着しました。
 選手たちは既に暑い中を光る汗を流しながらレタス畑の中の田舎道を走り続けていました。我々はバスから降りて白地に赤の“C”ののぼりや小旗をさかんに振り激励しました。
 選手たち(監督以下25名)はマネージャーやスタッフのサポートのもと黙々と走り続けていました。力走の後のクールダウンの走りではわれわれの声援に礼儀正しく反応しておりました。昼食時は宿舎の“リゾートロッジ・すずもと”にて選手とともに昼食を食べ、そのあと“強くする会”会長より激励のあいさつがありました。
 会長は既に80歳を超えられご高齢に加えて今回は足の不調にもかかわらず選手激励のため駆けつけてくださいました。会長の挨拶にもありましたが、今我が母校の長距離陸上部に掲げられているキーワードは“3x3”です。その狙いはこれから始まるであろう“出雲駅伝”“大学選手権”そして新春の“箱根駅伝”の3大会にいずれも“3位以内”に入るということです。
 続いて主将、監督からの挨拶等があり、箱根路健闘への熱い思いが述べられました。そのあと我々と選手と自由な懇談会の時間が持たれ意義ある一日になりました。ほとんどが地方の高校出身の若者たちですが、一つの目的に向かいひたすらに打ち込んでいる姿には心打たれるものがありました。
 帰途の混雑も考慮して帰りのバスは午後3時ごろ監督、主将に見送られながら宿舎を後にしました。菅平を去る我々のバスのあとには赤とんぼが秋風にのって気持ちよく泳いでいました。
    (佐藤勝: 箱根駅伝を強くする会会員)


 法律的ものの考え方

 八束一郎(法法)さんから「法律的ものの考え方」と題する参考資料をいただきましたので、5回にわたって連載することといたしました。
 (第1回目は ココ をクリック)
 (第2回目は ココ をクリック)
 (第3回目は ココ をクリック)
 (第4回目は ココ をクリック)
 (第5回目は ココ をクリック)


 上尾市で「美協展」が開催されました

 町田譽曽彦さんが会長を務めている上尾市美術家協会主催の「美協展」が平成23年8月5日(金)から8月10日(水)まで、上尾市市民ギャラリーで開催され、日本画、洋画、写真、書など美協6部門の作品160点余が一堂に展示されました。
(町田譽曽彦さんの言葉)
 この度の東日本大震災により被災された多くの皆様に謹んでお見舞い申し上げます。一日も早い復興を心よりお祈り申し上げます。
 本年の美協展は、上尾市民ギャラリーで160余点の小作品一堂展示となりました。長い間、上尾市民ギャラリー、上尾市役所ギャラリー、ギャラリー緑隣館の3会場の展示でした。美協展の毎年反省会、出品者の意見と入場者数そして、市民の声を参考にしての決断の開催となりました。出品者は、昨年より10数名減となりましたが交通アクセスの良い上尾市民ギャラリー会場で6部門小作品が一堂展示開催できることは喜ばしい事でオープンの日が楽しみです。 
                                   町田譽曽彦「大宮花の丘公苑」


 鹽野惠子さんの個展を見てきました

 油絵で文部科学大臣賞、外務大臣賞、衆議院議長賞など数々の賞を受けられている鹽野惠子さん(法法)が、平成23年6月20日(月)〜6月26日(日)の間、東京・京橋のGALLERY KUBOTAで個展を開催されました。
 管理人は開催の初日に43会員の友人M君と一緒に見に行きました。鹽野さんから案内のはがきをいただいた時、M君から一緒に行かないかと誘われたので、この日、二人で横浜港に行って豪華客船で食事をしながら港周辺を周回するランチ・クルーズを楽しみ、その後個展に出かけるという計画を立てたのです。
 クルーズのことは省略しますが、個展会場では鹽野さんがにこやかに迎えてくれました。今回は45点の作品が展示されていましたが、会場を見渡すなりそのエネルギッシュなパワーに圧倒される思いがしました。あの小柄な身体のどこからこれだけの作品を創出する源泉があるのだろうと驚くと同時に不思議な気持ちになりました。一方で、鹽野さんの作品は人物(特に女性)ばかりかと思っていたら、台東区池之端にある岩崎弥太郎邸や横浜イタリヤ館などの絵も展示されていて新しい発見もしました。
 最近は少し作風が変ってきているとのことでしたが、この方面ではとんと感性を持ち合せない管理人はどう変わったのかよく分かりませんでした。聞いてみると従来は奥行きが深い絵だったのが最近は「面」を強調するようにしているとのことでした。そう言われてみれば輪郭の線が少し太いタッチで描かれているような気もしました。
 会場には鹽野さんの先生や先輩の方も見えていましたが、一様に彼女の作品を称賛しておられました。

この人にときめき         毎日が日曜日


 「日洋展」で鹽野さんの作品が奨励賞を受賞

  第25回日洋展(公募展)が平成23年5月25日(水)から6月6日(月)まで国立新美術館で開催され、鹽野恵子さんの作品が500点の入選作品の中で、奨励賞を受賞されました。「COOL」という題の100号の油絵で、奨励賞の受賞は初出展の昨年に引き続き2回目です。


 るにん会「房総半島周遊ドライブ」が開催されました(その2)

 第2日目

 曇り空ではありましたが時々陽も射すお誂え向きな天候の中をスタートし、洲崎灯台、野島崎灯台を相次いで訪れました。野島崎灯台は房総最南端に位置していて、東京湾に出入りする船舶にとって重要な役割を果たしており、日本の灯台50選にも選ばれています。工事中のため中に上って見学することはできませんでしたが、資料展示館で灯台のレンズなど貴重な資料を見ることができました。海岸を散策中、近くの草むらできれいな姫百合の花を見つけました
 その後フラワーラインという海岸道路を一路、天津小湊へ向かいました。S君がレンタカーを運転しながら、この辺りのホテルの持主は何々で資産を築いた何某であるとか、この先の浜辺はよく家内と2人で遊びに来る所だとか(ごちそうさま)と、いろいろ説明をしてくれました。
 鴨川市の天津小湊では、遊覧船に乗って鯛の浦周辺を海から見物しました。日蓮聖人の生誕地の鯛の浦、生誕の際に大鯛や小鯛が群れ集うなど、多くの奇蹟が起ったのを目の当たりにした土地の人々は、それ以来700年以上もの間、鯛の浦を聖地として守り続けてきたとのことで、地元では鯛を決して捕獲しない習わしが残っているとのことでした。船頭が船を止めて海に餌を撒くと大きなヒラマサという魚が鯛よりも先にやってきて餌に群がりました。それから少し遅れて沢山の鯛が集まってきました。海で泳いでいる鯛を見たのは初めてでしたが、白くて透き通るような身体がとても美しく見えました。誕生寺は、日蓮の弟子たちが生家跡に建立したものだが、2度の地震や大津波に遭い、現在のところは3度目に建てられたところだという話でした。
 時間が押してきたため、勝浦の卸市場の見学はパスし、「月の砂漠」の記念碑がある御宿の海岸も通過し、大原から海岸を離れ、内陸のいすみ市郷土資料館に向かいましたが、この日はあいにく休館でした。ここは狩野派の始祖狩野正信がこの町の出身だったことから「狩野派のふるさと夷隅(いすみ)」を事業の基本としているとのことで、狩野派の絵画を中心に大和絵や琳派の作品などが拝観できる予定でしたが残念でした。
 それから大多喜の城下町に入り昼食を摂りました(海鮮料理はもう満喫したのでとんかつにしました)。建物や道筋など町並みのそこここに江戸時代の名残を思わせるような雰囲気があり、房総の小江戸ともいわれる由縁が分かるような気がしました。その後大多喜城に行きました。千葉県立博物館の大多喜城分館という位置付けになっていました。戦国時代に武田氏が入城したといわれていますが、その後里見八犬伝の里見氏の重臣である正木氏が入り、さらにその後徳川家康が江戸に入ると、重臣の本多忠勝をここに入れて治めさせ、10万石の所領を与えたといわれています。本多氏の後、阿部、青山、稲垣氏へと引き継がれ、その後松平氏が9代にわたって治め、明治維新に至ったとのことでした。
 すべての見学、周遊を終えて車は帰路につき、S君の家の近くの誉田駅に到着しました。皆がお酒を飲んでる時も1人だけ水やノンアルコール・ビールで我慢し、2日間のドライバーを引き受けてくれたS君に感謝しつつ、解散となりました。


 清興展で鹽野恵子さんの作品が衆議院議長賞を受賞

 第32回清興展が、平成22年12月20日(月)から12月25日(土)まで「シアター1010(せんじゅう)」で開催され、鹽野恵子さんの油絵の作品が2点展示され、「あなたなら どうする?」(30号)が衆議院議長賞を受賞しました。


 るにん会「房総半島周遊ドライブ」が開催されました(その1)

 大分時間が経ってしまいましたが、平成22年7月5日、6日の両日にわたって、るにん会の「房総半島周遊ドライブ」が開催されました。この度は幹事の大役を会創立以来務めてきたH君からS君にバトンタッチして初めての催しで、しかも一泊ドライブというのも初めてでした。場所はS君の地元で地理や道路事情などに詳しいこともあり、レンタカーの手配と運転、観光地のガイド、宿泊場所や食事の世話など一切を引き受けてくれました。梅雨の最中でこの両日は東京、埼玉では大雨洪水注意報が出され、テレビのニュースでは車が洪水で立ち往生している画像などが映し出されているのに、千葉県南部はほとんど降雨がなく、時々太陽が顔を出すという幸運に恵まれました。(長いので2回に分けて掲載します。)

第1日目
 集合時間の9時30分にはH君、M君、Y君と管理人の4名全員が曽我駅前に到着、間もなくS君がレンタカーで迎えに現れました。
 最初の目的地は笠森観音です。正式な名は「天台宗別格大本山笠森寺」といい、延暦3年(784年)に伝教大師最澄が開基したと伝えられているところで、岩山の上に京都の清水寺のように高い櫓を組んで造られた観音堂は国指定の重要文化財になっています。上ってみると30メートルくらいの高さがありそうでした。またこの寺のある観音山の自然林は天然記念物に指定されています。
 その後車は牛久、久留里、長狭街道から一路、保田へ入り、保田漁協が経営している「ばんや」という保田漁港に面したレストランで昼食を摂りました。ここは一般食堂、予約客用の食堂、入浴・宿泊施設まで整った大きなレストランで、観光バスできた大勢の客が食事の席についていました。何しろ漁協直営なので新鮮な魚介類の刺身や煮付けなどで、かつボリュームのある食事でした。運転のS君には気の毒でしたが他の4名がビールで喉を潤し、料理に舌鼓を打ちました。
 一休みしてから鋸山日本寺(乾坤山日本寺)に向かいました。車を降りてロープウエイに乗る積りでしたが、有料登山道を車で登った方が安い(ロープウエイ1人900円、登山道+駐車場1,200円)という料金所の人の説明になるほどと納得し、頂上近くの駐車場まで車で上り、そこから頂上展望台に向かいました。階段を上るとその先がまた階段という按配で、他の4人がどんどん先に行くのに管理人だけが遅れ、ほとほと足が弱いということを思い知らされました。展望台の先に「地獄のぞき」がありました。断崖の先端から中天に突き出た岩の上から下界の景色を見るのが「地獄のぞき」。手摺に掴まりながらではありましたが、足元も悪くスリル満点でした。車に戻り一つ下の駐車場まで下り、徒歩で5分、日本寺大仏のところに出ました。垂直にそそり立つ岩山の岩肌を彫刻した大仏は高さ31m。大仏の光背などの背面に小さな仏像(それでも高さ2mくらいありそう)が7体彫られていましたが、一番上の仏像(大仏の頭の上の位置)の頭部に笠か瘤のようなものが見えました。不思議に思って係の人に聞くと蜂の巣だということでした。仏さまも蜂に刺されて痛そうに見えました。
 1時間ほど走って宿泊地の「国民休暇村 館山」に着きました。1人だけ釣竿を持ってきて、途中で餌を買ってきたH君が防波堤の岸壁へ釣りに行くというので付いて行きましたが、なかなか釣れそうにないのでH君を残し宿へ戻って風呂に入りました。露天から望む海の向こうには天気なら富士山、三浦海岸、丹沢山などが見えるはずでしたが、この日は右の方に今日通ってきた大房岬と鋸山がぼんやりと見えるだけでした。帰ってきたHに釣りの成果を聞くと20cmくらいのキスが1匹釣れたが捕まえる前に落ちてしまったとのことでした(逃がした魚は大きいぞ……!)。
 夕食のレストランはバイキング形式でしたが、特注した豪華な船盛の刺身と、S君がわざわざ持参してきた信州の銘酒「雷電」を持ち込んで祝杯を挙げました。窓から眺める海岸の光景はさながら南の国のリゾート海岸のようでしたが、雲が切れて夕空に輝く太陽がどこに沈むのか議論になりましたが、ウエイトレスに聞くとそのまままっすぐに沈んで富士山の背後に隠れるということでした。
 部屋へ戻るとテレビのニュースで埼玉県南部の管理人の住む地域に大雨洪水注意報が出ているとのことでしたので、電話してみたら雨は大分降ったが今は落ち着いているとのことで胸をなで下ろしました。(続く)


 上尾現代作家協会展が開催されました

 町田譽曽彦さんが代表を務めている上尾現代作家協会の主催による「上尾現代作家協会展」が、平成22年11月25日(木)〜12月1日(水)の間、上尾市民ギャラリーで開催されました。
 出品作家は、中央画壇の日展、二科展、白日展、東光展、新構造展、日本アンデパンダン展並びに埼玉県展で活躍中の洋画家で、各作家の代表作と上尾の風景を併せ大作30点余が一堂に展示されました。
 (右の写真は「上尾陸上競技場」 F30 町田譽曽彦)


 町田譽曽彦さんの作品が第95回ニ科展に入選しました

 平成22年9月1日〜13日まで、東京・六本木の国立新美術館で第95回記念二科展が開催されましたが、この中で町田譽曽彦さんの作品「船の詩」(F100号)が入選しました。町田さんは24歳で第55回二科展に初入選されましたが、今回はそれ以来、30数回目の入選とのことです。
(作者からのひとこと)
 私の初入選は、第55回二科展(車中 F100号)で会場が東京・上野の東京都美術館でした。当時私は、23歳で日展系の公募団体の一線美術会の会員を退会しての二科展出品でした。東郷青児会長率いる二科展が前夜祭とかで上野公園内が大変な賑わいを見せており、私も出品する気持になったのかも知れません。その後、二科展入選も30数回となり当初の写実的な作品から次第に抽象的な作品制作に変化しながら40年の歳月を重ねてきました。
 今年の「船の詩」は、私の人生を船になぞらえて様々な出来事、出会い、別れ、人生軌跡など船、魚、水、空気などに託して制作してみました。「繊細で正確な形の物」は、安定しているが欠けている部分がなく面白さに欠け遊び心もない。一方、重厚で不確実な物体は、見る人により様々な思いや夢と希望などを膨らませてくれ、自然に肩の力を抜いてくれる気がする。そんな形の船を描きたくて、油絵の具のマチエールを駆使しこの作品を描きました。
 今、65才の年を境にして造形作品に新たな一歩が踏み出せればと励んでおり、健康に気をつけて楽しみながら描き続けることが出来ればと幸いと思っています。


 「日洋展」で鹽野恵子さんの作品が入選、奨励賞を受賞

 第24回日洋展が、平成22年5月26日〜6月7日の間、東京・六本木の国立新美術館で開催されました。この展覧会は、現代の新しい具象絵画の研究と新人の広い登竜門として開催されたもので、ポスターに「魅力ある具象絵画をめざす」とありました。公募展で、498点の作品が展示されていました。大部分が具象絵画で、100号以上の作品です。審美眼の乏しい筆者でさえ満喫できました。
 出展された鹽野さんの作品名は、「夏への序曲」(100号)ですが、鹽野さんのいつもの作品とは、一味違う作風を感じました。
 鹽野さんは、師事している塗師祥一郎先生(芸術院会員)から2度にわたり応募を勧められ、出品したそうです。それが初応募で見事「奨励賞」を獲得されています。


 町田譽曽彦さんの作品が埼玉県知事賞を受賞しました

 二科会埼玉支部展が平成22年4月27日(火)〜5月2日(日)までの間、埼玉県立近代美術館(JR北浦和下車5分)で開催されました。この中で町田譽曽彦さんの油絵「海の詞」(F100号)が埼玉県知事賞を受賞しました。
 いつものことながら町田さんのすばらしい感性と技量には驚かされます。


 るにん会「散歩ラリーと寄席」の会が催されました

 るにん会(このページの下部参照)の「散歩ラリーと寄席」の催しが平成22年3月11日(木)に行われました。この会は年に何回か不定期に行われているので、もう何回目か忘れてしまいましたが、今回は以前白門43会の催しとして原幹事長の音頭で2回開催された「お江戸日本橋亭」主催の「講釈師と一緒に歩く歴史と文化の散歩そして寄席」(同好会のページ参照)と同種のツアーにるにん会として参加したものです(全体の参加者は30人くらいでした)。
 今回は「江戸通りを歩く 浅草橋〜蔵前橋コース」ということで、隅田川の西岸の江戸通りを中心として歴史的スポットなどを訪ねる企画でしたが、5人のメンバーのうちY君が都合が悪くて欠席、M君が散歩ラリーは時間が間に合わないため、寄席だけという形になりました。案内人は講談師の神田あおいさんでした。
 10時に都営浅草線「東日本橋駅」に集合しました。まだ寒くて管理人などはダウンジャケットに身を包んでいましたが、神田あおいさんは、職業柄なのか若いからなのか、和服に羽織姿で颯爽としていました。
 最初に向かったのは薬研掘不動院で、両側に赤い幟旗が林立する長い石段の上に本堂が建っていました。いろいろ由緒があるようですが、いまは川崎大師の東京別院とのことでした。順天堂の始祖の佐藤泰然という人が和蘭(オランダ)医学塾を開講した場所で、石碑が建っていました。また講談とゆかりが深く毎月28日の縁日には奉納講談が行われているという。
 隅田川畔に出て少し北へ行くと、神田川との合流点の手前に両国橋がありました。武蔵国と下総国の二つに跨るということでこの名がついたといわれています。「明暦の大火」(振袖火事)の後に火除け地として設けられたという「両国広小路」の北側の神田川には柳橋が架かっていました。この辺りで活躍した艶やかな芸者さんの姿が思い浮かびますが、橋の袂には本当に柳の木があり、その隣に小松屋という船宿がありました。佃煮などを商う小さなお店といった風情で、下の川には何艘もの遊覧舟や釣舟が舫っていました。
 神田川に沿って西へ100m程行くと浅草橋がありました。駅名にもなっているこの橋の北詰に「浅草見附跡」の碑がありました。かって浅草橋には江戸36門の一つとして浅草御門があり、その警備のために検問所が設けられていたので浅草見附と呼ばれていました。「明暦の大火」の時に、避難のために一時開放された伝馬町牢屋の囚人が浅草見附に押し寄せ、番人が脱獄と間違えて門を閉ざしてしまったため、一般市民の多くが犠牲になったといわれています(当時の見附の門番は融通が利かず、厳しかったらしい)。隅田川には橋がなく、南北を結ぶ橋は浅草橋だけだった。両国橋や柳橋はこの事件の反省から設けられたという。
 この後、JR浅草橋駅脇のガードをくぐり、秀月、久月などといった人形の問屋さんが両側に並ぶ江戸通りをとおって須賀神社、次いで大六天榊神社(境内に浅草文庫跡がある)と回り、鳥越神社へ。日本武尊を祀り、例大祭には都内最大級の千貫神輿が出るという。
 この後、下町の風情を残す「おかず横丁」を抜けて一行は、地下鉄銀座線の末広町駅へ。出発点からここまでかなり歩きましたが、案内人のあおいさんの切れ味のよい説明ぶりに聞き入り、あまり疲れも感じませんでした。三越前まで地下鉄に乗り、まもなくお江戸日本橋亭へ到着。
 近くのコンビニで缶ビールとおつまみを買って戻ると間もなくM君が駈けつけてきました。3,000円の会費に含まれているお弁当をもらい、会場前方の畳の席に陣取って、ビールを飲みながらゆっくりとした昼食をとりました。
 寄席は、立川ぜん馬、三遊亭好楽などの落語や、案内人を務めた神田あおいの講談(赤穂義士銘々伝 「岡野金衛門 恋の絵図面」)、鏡味初音の太神楽曲芸だった。十分堪能し、この後は恒例の豪華(?)懇親会へ臨みました。


 清興展で鹽野恵子さんの作品を見てきました

 第31回清興展が平成21年12月8日(火)から14日(月)まで、東京・上野の東京都美術館で開催され、鹽野恵子さんの作品が展示されました。鹽野さんは清興展で文部科学大臣賞や外務大臣賞を受賞されていますが、今度の出展は「夢のように」(F100号)と「アラフォー」(F100号)の2点でした。このうち「アラフォー」は、会員奨励賞に選ばれました。
 管理人は12月12日(土)の午後、倉田隆次さん(法法)、立岩正義さん(商会)とともに見に行きました。実はこの日は亡くなられた43会幹事の宍倉邦茂さん(法法)の葬儀が川口市内で執り行われ、3人はそれに出席した後、出掛けたのでした。着いたのは12時を少し過ぎたくらいの時間だったので、鹽野さんが来られるまでには少し時間があるだろうと考え、同じ東京都美術館で開催されている「冷泉家王朝の和歌守(うたもり)展」を見てから会場へ行きました。縦に並んだ大きな作品の前で鹽野さんがにこやかに出迎えてくれました。
 審美眼が乏しい管理人などは「夢のように」に描かれた人物が2人なのか3人なのかなどと拙ない想像をしてしまいましたが、「アラフォー」の方は写真では分かりづらいですが、ピンクと赤の色合いが微妙なバランスの中に生きており、会員奨励賞に選ばれた理由もその辺りにあったようです。それにしても電車の中で目撃した一瞬の光景を独自の美の対象として昇華させ、鮮やかな色彩でカンバスの上に再現する力は大したものだと思いました。
  
    アラフォー             夢のように                             


 上尾現代作家協会展が開催されました

 町田譽曽彦さんが代表を務めている上尾現代作家協会の主催による「上尾現代作家協会展」が平成21年12月10日(木)〜16日(水)の間、上尾市民ギャラリーで開催されました。
 師走の期間にも拘わらず昨年に引き続き大盛況で、期間中の入場者は1061人にのぼったとのことでした。市民などの美術愛好者の中では楽しみにしている展覧会らしく、中でも「上尾風景10選」は、特別なのかも知れません。
 この展覧会に出品された町田さんの作品「上尾市民球場」と最近作の「初秋の公園」をご本人のコメントを含め、以下にご紹介します。

 ○上尾市民球場(F30号)
 1、3塁側両方の入口を入ってすぐのところに仮設の売店があり、ジュース類、菓子の他に寿司詰合せ、おにぎり、焼きそばが売られていました。この売店のすぐ奥の通路上からガラス越しにブルペンが見え、投球練習中の投手を見ることも出来る。ただ内野のフェンスの金網が高すぎて少し目障りなのが難点。スタンドは内、外野ともに七分程度の客の入り。土曜日ということもあって、ユニフォーム姿の少年野球チームの子供たちも沢山いました。

 ○初秋の公園(F30号)
 近所に住んでいる人たちが散歩の途中などに公園へ。散歩の人達が絵に興味をいだいて立ち止まり、覗きこんで声を掛けてきました。その中には「こんな所でお会いするなど思っていませんでした」と……。この近くにお住まいで、家内のリハビリのために毎日のようにこの公園に来るとの事でした。上尾駅から少し離れているが、荒川沿いの丸山公園は四季を通じ散歩や絵のモチーフにこと欠かない上尾の名所です。
 
上尾市民球場                 初秋の公園


 町田譽曽彦さんの作品が第94回ニ科展に入選しました

 平成21年9月2日(水)〜9月14(月)までの間、東京・六本木の国立新美術館で開催された第94回二科展で町田譽曽彦さんの作品「待つ鳥」が入選しました。町田さんは24歳で第55回二科展に初入選されましたが、今回はそれ以来、実に30回を超える入選となりました。

(作者からのひとこと)
 今年の二科展作品は、「待つ鳥」 油絵 F80号です。作品は、デフォルメした船体の上に海鳥が二羽、「よい知らせ、良き連絡を待つ」が如き、船の中にメールとパソコンを描きました。仲間の鳥を待つ姿を雄大な海景のなかに、自己の心象を加味して油絵制作したものです。
 仲間を気遣うことの人間の余裕がとても大切と思って制作しました。昨年の第93回二科展では、F100号「潮流」と題し、満潮と干潮の大海の鳥と魚の生活を描きましたが、今年の作品は、大自然の鳥とメカニックな携帯電話とパソコンをモチーフにして、人間性の大切な所を描いてみました。


 蕎麦の製粉工場見学

 平成21年6月19日(金)、顔の広い中村(武照)幹事がかねてから企画していた蕎麦の製粉工場見学が実現しました。午前10時に都内某駅に集まったのは、企画者の中村幹事の他に白門43会の正野会長以下、三沢、梅津、八束、清水(正)といった蕎麦好きな面々でした。なお、この工場見学は、中村幹事と工場経営者の親しい関係から小人数限定ということで特別に認められたものなので、先方の要請により社名などを伏せてレポートするので了解願います。
 工場に着くまでは「米屋の精米機のようなものが何台か並んだ程度のもの」と想像していましたが、この工場が4千坪の敷地の中にそびえたつ大きなものだったので驚きました。まずは工場経営者の方から30分近くの説明がありました。その要旨は、この工場の出荷先は自家製麺の蕎麦屋さんでスーパーやコンビニではないこと、蕎麦の国内消費量は年間10万トンであるが、国産は2万トンなので後の8万トンは輸入(その8割は中国でその他はアメリカやカナダ等)に頼っていること、初めのうちは輸入品は国産品に比べてかなり安かったのですが、そのうちに関税を掛けられたり、値上げをされたり、もっと高く売れるトウモロコシに変更になったりで苦労しているとのことでした。また、出前に頼っていた自家製麺蕎麦屋さんが手軽なスーパーやコンビニに押されて苦戦していることや、個人が自分で手打ちを初めて蕎麦専門店に行かなくなって困っているなどということも披露されました。
 国産の蕎麦の生産地についてはその7〜8割が北海道で作られ、あとは山形・福島・新潟・茨城などで、6〜10月に種蒔き、8〜11月に収穫(蕎麦は種蒔きから収穫までが75日と短いため、野菜や大豆の合間に作るのが一般的)するが、乾燥や熟成を経ないとおいしくならないので食べ頃は2〜3月であると言われました。
 更に、蕎麦は黒い殻がついた状態を「玄そば」、これを脱皮して甘皮だけが付いた状態を「抜き」と呼び、「抜き」をいろいろな方法で砕いて一番粉(内層部分だけの真っ白な粉)、二番粉(胚芽部分も含まれた淡黄色の粉)、三番粉(甘皮部分も含めた黒っぽい粉)などに分けられ、上品な喉ごしの更科蕎麦や、ゆず、よもぎ等を練り込んだ変わり蕎麦には一番粉、強い風味の田舎蕎麦には三番粉が使われ、普通の蕎麦には程よい風味の二番粉が使われるとのことでした。
 また、蕎麦は挽きたて(蕎麦粉への)、打ち立て(蕎麦粉を練って延ばして細く切る)、茹でたて(湯で茹でる)がおいしいとされていますが、説明者の話では、打ち立てをすぐに釜に入れると浮き上がってしまってうまく茹らないので、打った後少し時間をかけてから茹でるのがよいとのことでした。
 説明の後、工場見学になりましたが、工場の中では巨大な機械があちこちで唸りをあげて動いており、工場の責任者の方の説明もよく聞こえないほどでした。
 まずは、産地から届いた玄そばを巨大な篩(ふるい)にかけて大粒の石を取り除き、次に遠心力で小粒の石を取り除き、最後にブラシを使って石以外の異物を取り除きます。次に実の大きさによって10種類に選り分け、その大きさに合わせて圧力をかけて殻を取り除きます。取り除いた殻は「蕎麦殻枕」の材料になります。また、どうしても殻を取り除けなかった実が残るのですが、これをセンサーに通してまだ殻が付いている黒い実のみを圧搾空気で弾き飛ばして再度殻を取り除く作業工程に戻すという念の入れ方です。
 こうして出来上がった「抜き」をローラーや石臼(電動の)にかけて挽くのですが、納入先の注文に合わせて。約50種類の挽き方をしているとのことでした。
 いずれにしても、小石やごみが混ざった大きさが様々な蕎麦の実を、大量に迅速にかつ注文先に応じて蕎麦粉にする訳で、昔はこれを手でやっていた訳ですから、日本人の好みの複雑さ、これを巨大なオートメーションにしてしまう器用さには改めて驚かされました。普段、何気なく食べている蕎麦がこのような過程を経たものであることにも改めて感心させられました。
 その後は、工場経営者の方の推薦するおいしい蕎麦屋(N)に行きました。(N)は以前は「田中屋」として知られていた有名な店で、幹線道路から離れた分かりずらい場所にあります。そこで板わさ、鴨焼き等を肴にビールを飲み、この工場の粉を使った蕎麦がき、大海老の天せいろをいただきましたが、それらはいずれも絶品でした。中でも蕎麦がきや蕎麦は実に完成度の高いおいしさで、蕎麦好きの一同にとっては至福の時でした。
 中村さんのおかげで、こうした工場見学ができたことは実に幸運で、感謝感謝です。
                                       (八束一郎:記)


 依岡正樹さんが個展を開催されました

 依岡正樹さん(商経)はプロの日本画家ですが(このページの下方参照)、平成21年7月19日(日)〜8月2日(日)の間、東京・練馬区大泉の画廊「Galeroa Piast」で個展を開催されました。依岡さんは若い時から高山辰夫先生に師事され、日展の特選を受賞されるなど輝かしい実績を残しておられます。         


 鹽野恵子さんの個展を見てきました

 平成21年6月16日(火)の午後、銀座の「ギャラリー くぼた」へ鹽野恵子さんの個展を拝見に行ってきました。実は43会員のH君、M君と三人(下記に出てくる「るにん会」のメンバーでもあります。)で日程調整をして前日の15日に行く予定にしていたのですが、M君と管理人が急に体調を崩し、M君は病院へ、管理人は接骨院へ治療にいく羽目になってしまいました。そういうわけで一日遅れのこの日、管理人は一人寂しく別の持病で信濃町の病院へ行った帰りに足を伸ばした次第です。歳を取ると何かと身体の具合に変調をきたし、物事が予定通りに運ばないことを実感しているこの頃です。
 4階の展示室へ入った途端、色鮮やかな別世界へやってきたような気がしました。とにかく鹽野さんの絵は色彩が豊かです。全部で40点以上ありましたが、中には100号の大きな作品が2点ありました。聞いてみるとこれまで数多く制作した中で、全部最近制作したものばかりが展示されているそうで、鹽野さんのバイタリティーに驚かされました。
 審美眼がない管理人の感想ですから当てにはなりませんが、大半は若い女性の心の中の風景や、不図した瞬間に見せる感情や動作をカンバスに映し取った作品のような気がしました。瞬間を見逃さない心の眼やそれをイメージできる創造力が必要なのだなと思いました。
 会場では43会幹事のMさんに偶然お会いしました。何人もの来客があり忙しい中ではありましたが、鹽野さんを交えてしばし談笑することができました。彼女も個展を計画するに当たっては家事と制作で大変だったようですが、会場へ搬送するための梱包という力仕事もすべて一人でやったと聞かされ、あの華奢な身体のどこにそんなエネルギーがあるのだろうかと、今更ながら驚かされました。
 「光陰矢の如し」。平均余命が伸びた昨今ではありますが、何もしないでいると身体よりも先に精神の老化が進んでしまいます。鹽野さんのますますのご活躍を期待するとともに、私たちも見習って、若い時にできなかったことをこの際(生きているうちに!)少しでも成し遂げておきたいと思いつつ、会場を後にしました。
 (写真上は「できるかな」、下は「カワイイ」。いずれもF30号)


 町田譽曽彦さんが絵画教室展を開催しました

 洋画家の町田譽曽彦さん(経国)は4年前から絵画教室「上尾洋画研究所」を開いていますが、平成21年6月4日(木)〜6月10日(水)の間、上尾市民ギャラリーで絵画教室展「第4回町田譽曽彦&絵画教室展」を開催しました。30名近い会員の作品(油彩、水彩、クレヨン、パステル画80点余)が展示されました。
 管理人は出掛けることができませんでしたが、期間中1,000名近い人が鑑賞に訪れたそうです。

 [上尾洋画研究所]
 上尾市柏座1-4-22(JR高崎線沿い) 048-771-3911 
   町田さんのブログ
   町田さんのホームページ
  
 「紫陽花」F10号 町田譽曽彦                                         絵画教室展風景          


 第5回目の「るにん会」が催されました

「るにん会」は、法学部の同じクラスの同窓生5人(全員が白門43会の会員)で結成しているミニ会です(結成の経緯等についてはこのページの下方を参照してください)。管理人もその一員になっているのですが、今回その第5回目の会合が平成21年3月18日(水)に築地/新橋で催されました。
 春彼岸の好天に恵まれ、5人は10:30に新橋駅地下の汐留口に集まり、徒歩で第一の目的地「築地市場」へ向かいました。築地市場は日本を代表する最大の水産物及び青果物の取引市場で、卸売業者7社と仲卸業者約1,000社によって、早朝からセリが行われています。
 一同が到着した頃は市場内の鮮魚のお店などはそろそろ店じまいの時間でしたが、ターレットと呼ばれる荷物運搬車両(定員1名で運転者は円筒形のユニットの後部に立った姿勢で操作する。)が狭い通路を行き交い、喧騒の余韻が残っていました。一通り見て回った後、市場内の立て込んだ食堂街で昼食をすることになりましたが、40分も外で順番待ちをしたお陰で最高の味にありつくことができました。
 そのあと市場正門の筋向いにある朝日新聞東京本社で新聞制作の現場を見学しました。取材、編集、印刷、発送という各段階の説明を受けた後、美人案内嬢の誘導で、編集、印刷などの現場を見て回りました。壁のない巨大な部屋にグループごとに分かれ、取材記者から送られてくる原稿を整理して紙面をつくり、更にそれらの内容や表現に誤りがないかどうかのチェックなど、PC等のハイテク技術を駆使する一方で、時間と勝負の人海戦術という感もありました。印刷工場では高速オフセット輪転機が轟音を立てて回っていました。紙面の電気信号をアルミ製の刷版に照射して原版を作り、この輪転機に掛けて印刷するのですが、ここでは一度に40ページの印刷ができ(20ページの夕刊では1秒間に50部の印刷が可能)、そのうちの16ページはカラー印刷ができるそうです。因みにカラー印刷は黒、青、赤、黄の4色の塗料で順に上塗りしていって、いつもの見慣れたカラーの紙面ができるとのことでした。
 翌19日の朝日新聞朝刊の都内版には「るにん会」のメンバーなどが同社を見学した旨の記事が掲載されました。
 新聞社見学の後は浜離宮恩賜庭園の散策です。浜離宮は潮入の池と二つの鴨場をもつ江戸時代の代表的な大名庭園です。もとは徳川将軍家の鷹狩場で、ここに初めて屋敷を建てたのは甲府宰相の松平綱重でしたが、後に将軍家の別邸となり、名称も浜御殿と改められました。明治維新ののちは皇室の離宮となり名前も浜離宮となりましたが、昭和20年に東京都に下賜され、整備されました。昭和27年には国の特別名勝及び特別史跡に指定され、現在に至っています。陽春の午後、たくさんの鴨が遊ぶ池のほとりに腰かけていると目の前の橋を外国人観光客の一行が賑やかに渡って行きました。潮入り口の先は海。振り返れば林の向こうに一面の菜の花畑が広がっていました。
 最後は新橋で「大宴会」です。昼に場内市場で豪華な海鮮丼を食べましたが、ここの料理も格安なのにそれに劣らない豪華なもので、積もる話に花が咲き、あっという間に3時間が過ぎてしまいました。


 清興展で鹽野惠子さんの作品が展示されました

 第30回記念清興展が次のとおり開催され、鹽野惠子さん(法法)の作品が展示されました。F100号の大作が2点(題名は「二次会 行く?」と「ストリートダンス」)展示されました。鹽野さんは、第27回の清興展では文部科学大臣賞、第28回では外務大臣賞を受賞されています(このページの下部参照)。

1 会 場: 東京都美術館(東京・上野公園)
2 期 間: 平成20年12月8日(月)〜12月14日(日)
3 主 催: 日本清興美術協会(後援:東京都)

二次会行く?             ストリートダンス


 上尾現代作家協会展が開催されました

 町田譽曽彦さんが代表を務める上尾現代作家協会の展示会が、次のとおり上尾市民ギャラリーで開催されました。
 この展示会には上尾現代作家協会員が油彩、水彩で描いた作品が展示され、出品作家は、中央画壇の日展、二科展、白日展、東光展、新構造展、日本アンデパンダン展並びに埼玉県展で活躍中の作家です。
 各作家の代表作として上尾の風景を併せ大作30点余が一堂に展覧され、初日には美術関係者など930余人が観覧に訪れました。。

1 会場: 上尾市民ギャラリー(高崎線上尾駅東口前1分)
       上尾市宮本町2-1 アリコベールサロン館2F
2 期間: 平成20年12月4日(木)〜12月10日(水)
3 主催: 上尾現代作家協会

(右の写真は、町田譽曽彦さんの上尾風景10選展作品、「荒川(上尾郊外)」 F20 油彩   


 町田譽曽彦さんの作品が第93回ニ科展に入選しました

 第93回二科展が2008年9月3日(水)〜9月15日(月)まで、東京・六本木の国立新美術館で開催されましたが、今回も町田譽曽彦さんの作品が入選しました。

(作者のひとこと)
 今年の二科展作品は、「潮流」 油絵 F100号です。作品は、デフォルメした船を中心に海流に魚が泳いでおり、大空には鳥が飛び雄大な自然の風景のなかに自己の心象を加味して制作したものです。特にマチエールを効かせての船体と海流の激しい動きをマッチさせて描きました。
 いつも、私の絵は硬すぎてしまうので今回は、特に気をつけてかきました。しかし、まだ硬さが残っていますが柔らかな部分も表現できたと思います。


 日光・鬼怒川の旅

平成20年4月20日(日)・21日(月)の両日、白門43会有志25人は日光・鬼怒川の旅を楽しんだ。集合地、東武浅草駅からの指定席特急は「きぬ113号」。下今市にて乗り換えの行く先は東武日光駅。駅頭で出会ったのは、44会の野本晃也さん。当地で事業を営む野本さんは、今日はやはり白門の集まりで上京の途中とのこと。駅前で立ち話のミニ交流会が開かれた。観光地行きのバスにはかなりの待ち時間がありそうで、徒歩にて輪王寺、東照宮へ向かう。日光から参加に加わったのは宇都宮市に住む会員鈴木アイ子さん。道案内の役を買って出てくれた。
 途中車道を疾走する自動車のホイルが外れ、走って届けるというハプニングも。神橋までたどりつけば本格的な観光地の趣き。ここ日光では桜が真っ盛り。勝道上人像の前ではその美しさにしばしうっとり。ここからはご案内を現地ベテランにお願いする。
 輪王寺、東照宮などの世界遺産を訪ね、陽明門で記念写真。われわれ日本人には身近な日光を十分に味わった。列車を乗り継いで鬼怒川温泉へ。宿は「七重八重」。宴会場での献立はみごと。岩魚、しゃぶしゃぶ、湯葉などご当地ならではの料理が並ぶ。おかみさんのお酌サービスのあとは歌う人あり、踊る人ありで実に愉快な宴会。
 鬼怒川の川音で目覚めた翌日の朝食もみごとなもの。楽しかった余韻を残し、旅館前で記念写真。ここからは各自希望によりお好きなコースへどうぞということで、ハイキング組、川下り組、イベント会場組と分かれる。筆者は循環バスによりイベント組に参加。まず訪れたのは日光猿軍団。ステージで披露される猿の演芸には腹を抱えて笑うひととき。人間と猿のどちらが利口なのかをじっくりと考えてしまった。午後は東武ワールドスクウェアへ。ここには広大な敷地に世界の建物が25分の1で展示、その数はなんと21カ国、102点という。しばしの間世界一周旅行をした気分であった。
                              (記事・写真:清水 正)


 山本剛嗣さんが東京弁護士会長に就任しました

 白門43会員の山本剛嗣弁護士(法法)が、平成20年度の東京弁護士会の会長に就任されました。東京弁護士会は会員総数5,500名余を擁する全国最大の弁護士会です。その会長は、全国組織である日本弁護士連合会の筆頭副会長としての職務も担当します。任期は、平成20年4月1日から平成21年3月31日までです。
 山本剛嗣君の今回の就任は白門43会の大きな誇りです。同時に、我々2法11組の大きな誇りでもあります。
 先の選挙で当選した際、山本君の当選を祝うクラスコンパが、3月17日の夜、中大記念館プリオールで開かれました。14人が集りました。従来のコンパは、第2外国語・中国語クラスを加えたクラス横断コンパでしたが、43会も軌道に乗ってきましたので、今回から純粋に11組だけのコンパになりました。40数年昔の青春時代にタイムスリップして話しは尽きることなく続きました。
 山本君はクラスの誇りですが、同時に11組にはもう一つ誇りがあります。11組の43会員は13人もいます。一つのクラスで13人は、おそらく最大規模の人数なのです。
(2法11組 倉田隆次:記)   (写真は前列中央が山本弁護士)
                               


 関口明美さんの作品集はいかが?

 私たち白門43会の仲間で、昨年亡くなられた芸術家の関口明美さんの作品集「邂逅」が販売されています。
 関口さんは教育者として小学校の教師を勤める傍ら、ライフワークとして数々の陶版画や彫刻などを制作してこられました。その作品は関係者の間でも高く評価され、美術雑誌「ART MAIND」に紹介されたり、タヒチ大統領賞を受賞(このページの下部参照)されたりしてきました。
 関口さんは教員生活を終えられたのを契機に、ご自分の命の結晶ともいうべき作品集を出版すべく準備を進めてこられましたが、残念ながら完成した作品集を目にすることなしにこの世を去られてしまいました。
 作品集には陶版画、彫刻、デッサンなど、いずれも「葛藤」、「希望」、「孤独」などといった人間の内面深くに閉じ込められている様々な精神模様を具象化したような芸術作品が多数掲載されていますので、この際、是非お求めになられては如何でしょうか。
 現在この作品集は書店にも出てはおりますがなかなか入手が困難なので、白門43会宛てにメールで申込みをいただければ、遺志を継がれた妹の倉松小夜子さんを通じて皆様のお手元に届くようにいたします。
 販売価格等は次のとおりです。
1 書  名: 「邂逅─関口明美作品集」
        (303mm×230mm×10mm)
2 発行所: 株式会社 藝術出版社
3 発売元: 株式会社 星雲社
4 定  価: 3,000円(本体2,857円+税)
5 送  料:  340円(ただし、白門43会宛のメールで
        申込まれた場合は、無料とします)
6 払込方法: 
   作品集到着後、指定された銀行口座に振込
  (定価から振込手数料を差し引いてお振み下さい)
7 申込み: 次の宛先にメールにてお申込み下さい
   hakumon43の次に@gakuinkai.com
 作品の一部(陶版画) 左「脱皮」、右「青いマフラー」                                        


 関口明美さんの遺作展に思う

 去る1月9日より14日迄神田神保町にある「北の丸Tinyギャラリー」で昨年9月に他界された我等が43会仲間の故関口明美さんの“追悼・遺作展”が開かれた。
1998年陶版画「視線」25.5×18.5cm

 彼女は昨年末に自からの作品を集大成した作品集(タイトル=邂逅)の出版を企画しておりましたが、とうとうその完成を見ずして帰らぬ人となってしまいました。
 その彼女の遺志を継いで彼女の妹さんらの意思を具体化したのが今回の遺作展でした。
 神田神保町の昔からの古本屋街の中にあるギャラリーは、レンガ作りのこじんまりしたたたずまいのものでした。 私は初日の午後2時ごろ訪問したのですが既にかなり多くの来訪者がおりました。壁に飾られた数々の作品は上記作品集の中から抜粋されたデッサン、陶板画、彫刻などでありました。殆どの作品は裸婦をモチーフにしたものでしたが、いずれの作品も若き女性の持つ躍動感に溢れておりました。
 私の知る関口明美さんはもの静かな口数の少ない控えめの女性との印象がとても強かったのですが、その静かさに秘めた熱き情熱がどの作品にもほとばしっているように感じられまして、彼女の持つ強い創作意欲に改めて驚かされたものでした。
 裸婦を多く扱う事により、裸婦の持つ寛容さ、包容力、躍動感、エロチズムを凝縮する事によって高次元の芸術性を追求していたのではないかと(私は)素人ながら思いました。
 この日は場所を移しまして近くの喫茶店にて茶話会(明美さんを偲ぶ会)がもたれました。彼女が卒業した中央大學の同期会である我々白門43会からも12名ほどが参加しました。他にも彼女の親しかった方々が約10人ほど集まりましてコーヒ−など飲みながら生前の彼女を偲びました。多くの方々が語られた事は一致して明美さんは物静かな中にもいつも秘めたるものを持ち続け、それがいたるところで作品に置換されていたのではないかということでした。
 長年の先生の勤務も終えられて、さあ、これから自分の好きな作品作りに邁進しようと、自宅もアトリエ風にリホームした直後の病魔のいたずらでした。
 これから10年も、いやそれ以上に好きな創作に没頭しようとしていた矢先の悪夢の宣告でありましただけに、本人の悔しさは計り知れないものがあったことでしょう。
 突然の思いもしなかった“余命の告知”……私も自分の家内をそのような告知のもとで約一年前に見送った一人として、この冷酷極まりない医師の宣告にうろたえないものは居ないと思います。 しかし、妹さん始め多くの方が話されておりましたが、明美さんは最後の最後まで冷静沈着でもう数日後にこの世を去られる人間とは思えなかったとのことでした。
 私はごく普通の凡人であるがためにとてもそのような強靭な精神は持ちあわせておりませんが、創作に全身全霊を打ち込んでこられた明美さんならではのことではないかと感銘したものであります。
 偲ぶ会の中でも誰かが言っておりましたが、いずれ又我々もこの世を去り、“向こうの世界”に行くのであるから、その時は又「おっす」と言って先に待っていた明美さんと43会のやり直しをしたいものであります。
 最後に、明美さんが死の直前に我々に“お別れの言葉”として残されたメッセージを付記したいと思います。
 “皆様方にささえられて私の人生はそれはそれは幸せでした……関口明美 ”
 明美さん、どうか安らかに、そしてまたいつか……
              = 合 掌 =
                         (佐藤  勝:記)


 佐藤勝さんがボランティア活動で表彰されました

平成19年10月3日、佐藤勝さんが千葉大学医学部付属病院より表彰され、同病院長より、これまでのボランティア活動に対しする感謝状の贈呈式がありました。
 佐藤勝さんは、一昨年の11月に1年半に及ぶ肺ガンとの闘病生活の末亡くなられた奥様が千葉大学医学部付属病院呼吸器内科でお世話になったことが大きな動機となって、ボランティアとして19年1月から毎週火曜日、金曜日の2日間千葉大学医学部付属病院の総合受付の手伝いをしております。
 業務の内容は、受付において、来院される患者さん(新患、再来含め)に、受診書類の書き方、各部局への案内等です。患者さんの中には目の不自由な方、日本語が書けない方(外国人)が居られますので、その時は代筆したりもします。受診診療部への案内はある時は手を引いて、ある時は車椅子でご案内します(車椅子は35台常備しております)。 病院に来る人の殆どは心に不安を抱えて来られる方々ばかりなので、この最初の「First Contact」が非常に大切であるとのことです。
 先日の感謝状贈呈式の時に、病院長が、「ボランティアさんは補助ではなく我々医者や看護師と同じ立派な病院の一員である」と挨拶。 ボランティアをしているものにとって、ありがたい言葉であり身が引き締まると同時にお世話してあげた患者さんが帰りがけに佐藤さんらを見つけてわざわざお礼の挨拶をいただくと金銭(賃金)など及ばない「無償の奉仕」のやりがいが感じられる、と佐藤さんは受賞の感想を述べていました。
                (会長 正野建樹: 記)
(20.2.16管理人追記)
 佐藤さんたちボランティアの記事が本年1月の千葉大学附属病院の「病院ニュース」第12号に掲載されました。
(リンク先はPDF形式ですので、adobe readerが必要です。必要な方は下のバナーをクリックしてAdobe社の無料サイトからダウンロードし、インストールして下さい。)


 テッチャンの記事が学員時報にも掲載されました

 鉄道マニア「テッチャン」として知られている清水正さんの記事がスポニチに掲載されたことは、このページの下方で紹介したところですが、このたび学員時報にも載りましたので、改めてご紹介します。

(上の記事をクリックすると大きい画像で見られます。)


 町田譽曽彦さんが油絵の個展を開催しました

 洋画家でお馴染みの町田譽曽彦さん(このページの下部参照)が、2007年6月28日(木)〜7月4日(水) の間、上尾市民ギャラリー (JR上尾駅東口前、アリコベールサロン館2F)において、「第22回町田譽曽彦油絵個展」を開催されました。
 20才代から最近の油絵作品100号13点を中心にして、50号20点を含めて総数50余点が展示されたそうです。
 ・ 1970年代の二科展入選作品「早春の小樽」100号
 ・ 埼玉県展 特選 東京新聞賞「春の綾瀬川」100号
 ・ 2005年二科展 特選「海の追憶」50号、など

 詳しいことはご本人から「寧日雑感」へご寄稿をいただきましたので、そちらをご覧ください。


 清水正さんの記事がスポニチに掲載されました

 白門43会の会報委員長で、トリップ会の幹事もしている清水正さん(法法)は、鉄道マニアとして知られていますが、先日(平成19年5月28日)の「スポーツニッポン」紙にその記事が掲載されました。夢倶楽部「Waku Waku」という、50歳以上の方向けのページですが、1ページの大半を使った大きな記事です。
 大学2年生の時、九州枕崎線の枕崎駅から、27日間、12,176.3キロを乗り継ぎ、北海道の広尾駅まで一筆書きで日本縦断をしたことなどが紹介されています。
 なお、清水さんは、現在東京鉄道少年団の団長も努めています。

(上の記事をクリックすると大きな記事が表れます)


 カナダ横断旅行

 諸兄は、中央大学学員会時報1月25日号で、西村輝雄氏の書かれた「カナダ5500キロ横断」という記事をご記憶だろうか。
 確か、文中で(詳細は43会HPにてご覧ください。)と書かれていたように思う。
 43会のHPに載せる記事を書くことになっていたのが、何を隠そう小生(芝木雅基)だったのである。
 某洋菓子会社の事件で、「賞味期限」がマスコミを賑わしていた折も折り、一緒にカナダ横断旅行をした仲間の一人から「おい、いつまで待っても43会のHPにカナダの話しが載らないではないか。賞味期限切れになっちまうぞ」ときつい一言。
 16日間も寝食を共にし、苦楽を分かち合ってきた"お友達"の言葉とはとても思えませんよね。
 それでなくても、何とか記事を書かねばと日夜悩んできた人の気も知らないで……友達甲斐の無い奴めと悩むことしきりであった。
 そこで一念発起、「賞味期限」ならぬ「消費期限」の切れぬうちにとペンを取った次第である。



                           カナダ横断旅行記

 去年の9月8日〜9月23日まで16日間かけて、白門43会の仲間10名と、車2台に分乗してカナダ横断旅行をしてきた。
 因みにそのときのメンバーを紹介すると、
1号車: 中村(喜)さん、西村夫妻、佐々木先輩、小生の5名
2号車: 中村(武)氏、光國夫妻、梅津氏、龍門氏の5名
 総勢10名の大キャラバン隊(?)を編成しての旅であった。
 とここまでは、何事もスラスラと書けるのであるが、困ったことにこの先を書く段になると、ハタとペンが止まってしまう。
 よくよく考えてみると、バンクーバーからトロントまで5,500キロを16日間もかけて旅をしてきた訳で、その間のエピソードやら、目新しい見聞や体験が色々有り過ぎて、何を書いて良いか分からなくなってしまう。ましてや文才の無い小生の頭では、英語でいうところのコンフューズ状態に陥ってしまい、なかなか取っ掛かりがつかめないというのが、どうやら原因らしい。
・ レイクルーズの朝焼けの素晴らしさ
・ サーモンアームでのこと
・ バッドランドのダイナソーの話
・ メノトナイトのエピソード
・ くまのプーさんの話
・ テリー・フォックス・ランの話
・ カナダの交通事情について
等々、書きたいことは山(?)ほどある。
 沈思黙考の末、ふと閃いたのは、そうだ、これらのエピソードは、次回以降各論で書けば良いではないか。今回は総論ということでまとめよう。我ながら名案ではないか!
 しかし、文筆の専門家でない小生に果してそんな器用な芸当が出来るであろうか、一抹の不安を覚えつつ、総論を書くことにしよう。
 さて、我々の旅の行程は、下記の表を見てお分かり頂けると思うが、バンクーバーからトロントまで、正確にいうと5,474キロの行程であった。全員、日本で国際免許証を取得して、トランスカナダハイウエイ1号線を交代で運転してきた。

 カナダ横断(バンクーバー⇒トロント⇒ナイアガラ)行動記録 (2006年9月8日から9月23日まで)

出発地 宿泊地 距離 所要時間
8日 成田⇒バンクーバー バンクーバー (10,483km) 19:00発
11:50着
11時間45分
AC004(エア・カナダ)
9日 バンクーバー レベルストーク 581 9時間45分 バンクーバー⇒Hope⇒Kamloops⇒Salmon Arm⇒レベルストーク 
10日 レイクルイーズ レイクルイーズ 272 9時間30分 「ロッキーの宝石」と呼ばれる。
11日 カナディアンロッキー バンフ 345 10時間40分 コロンビア大氷原などカナディアンロッキー観光の中心地
12日 バンフ ドラムへラー 296
バンフサルファー山頂上、カルガリー経由東北150キロのドラムへラー
13日 ドラムヘラー スィフトカレン 503
アルバータザウルスの化石などにびっくり、360度見渡す限り地平線。
14日 スィフトカレン ブランドン 665 10時間40分
15日 ブランドン ドライデン 621

16日 ドライデン ワワ 812 11時間 遅れを取り戻すためにひたすら走る。
17日 ワワ サドバリー 566 10時間 素晴らしい紅葉を見て、ソーサンマリーでアメリカを見る。
18日 サドバリー トロント 440 6時間 大雨の中をひたすら走る。トロントは東京以上の規模の大都会
19日 トロント ナイアガラ 177
ナイアガラの滝に絶句!!
20日 ナイアガラ トロント 169
ワイナリーでワインを
21日 トロント⇒ バンクーバー 27 (3,333km)5時間
22日 バンクーバー⇒
(10,483km) 13:00発 AC003(エア・カナダ)
23日 成田帰着

15:00着

 アルバータ州のドラムへラーにある国立恐竜博物館を後にして、サスカチュワン州に入ると、広大な麦畑が目に飛び込んでくる。
 途中車から下りて周囲を見渡すと、何と360度地平線という光景を目のあたりにする。
 今回の旅の企画をしてくれた中村(喜)さん曰く、「カナダの広大さをいくら人に説明してもなかなか分ってくれない。どこを向いても地平線しか見えないのよ、と言っても皆一様に、分ったような分らないような怪訝な顔をするばかりなの」だという。
 カナダ旅行の目的の一つに、この国の雄大さを共感することの出来る人が自分以外に一人でも二人でもいてくれたらという思いもあったようだ。
 この360度地平線というロケーションに立った時、皆が一斉に発した驚嘆の声で中村(喜)さんの思いも達せられたのではと、内心思っている。
 まだ日本で旅行の計画を皆で話し合っていた頃のことだ。アドバイスをしてくれる人がいて、この人もカナダに長く暮していた人なのだが、彼が言うには、「自分もカナダを車で横断したことがあるが、5,500キロのほとんどが、いつ果てるとも知れない麦畑の中を走ることになる。単調極まりない」と言う。
 彼は、我々が事故を起さないように心配してくれ、カナダの交通ルールなど懇切丁寧に教えてくれた後で、次のような提案をしてくれた。
「いっそのこと、カルガリーからサドバリーまで飛行機を使ったらどうだろうか。そうすれば時間も節約になるし、宿泊代も安くなるではないか」と言うのだ。
「なるほど、それもそうだよな」と言う仲間が小生を含め何人かいたが、この”中抜き”案は女性陣の猛反対に会い、あっけなくボツになってしまった。結果的に、”中抜き”をしなくて正解であった。
 アルバータ州では、胡麻粒を撒き散らしたように見える牛の群れ、かと思うと、日本のつるべ井戸を少しばかり高級にしたような機械で石油を汲み上げている光景、サスカチュワン州では広大な麦畑の風景、既に刈り取りを終えた後らしく、緑一面とはいかなかったが……。そして、マニトバ州、オンタリオ州に入ると、道の左右に森と湖が入れ替わり立ち替わり現れ、まるで”おとぎの国”に迷い込んだかと思わせる素晴らしい光景等々に出会えた。
 カナダ大陸横断鉄道も、ハイウエイ1号線と平行して走っているらしく、時々、列車の姿を見ることが出来た。時には、130車輛というとてつもない長い貨車を牽引して走る列車を目にしたりした。
 といった具合で、我々を飽きさせることは無く、ドライブの醍醐味を心ゆくまで堪能することが出来た。
 泊るところも行き当たりばったりで、その日辿り着いた街でモーテルを探し、交渉して宿を決めるというのも、日本では味わうことの出来ない旅の楽しさであった。
 モーテルの交渉など、全て中村(喜)さんにおんぶにだっこであったことを、付け加えておきたい。
 同じ国でありながら州境を越えると時差が変るというのも、カナダがいかに広大であるかの証左だろうか。小生にとって珍しい経験であった。
 この調子でいくら書いてもキリがないので、総論はこの辺で終りにしたいと思う。
 今回の旅行では、カナダ在住経験があり、カナダの事情に詳しい中村夫妻のお陰で貴重な体験をすることが出来た。
 中村夫妻に感謝の思いを込めつつ、ペンを置くこととしたい。
                                    (参考) 学員会時報掲載の記事はこちら


 中山法華経寺でお花見

 本日(19.3.31)は、小生の案内でJR下総中山の中山法華経寺に花見に行きました。参加者は、清水、梅津、立岩、平井、佐藤、宮本の各氏、計7人でした。目的はミニトリップの打合せでしたが・・・。
 境内の茶店でお茶でなくビールと酒。つまみはコンニャクとおでん、茹でた里芋と精進料理ばかり。お寺の境内ですからやむを得ませんね。
 別途ご案内しますが、6月9日(土)にミニトリップを行いますので、ご期待ください。
(以上、倉田隆次:記。 写真:清水正さん)

 なお、別件ですが、自衛隊出身の倉田さんが育てた「新教同期生会」(「新教」とは、自衛隊の新隊員教育隊の略称だそうです。)に関する記事が「隊友」(自衛隊の退職者で組織する隊友会の機関紙)に掲載され、その切り抜きを戴きましたので、以下にご紹介します。



 鹽野惠子さんの作品が外務大臣賞を受賞しました

 第28回清興展が、平成18年12月10日(日)から12月16日(土)まで東京・上野公園の東京都美術館で開催されましたが、その中で鹽野惠子さん(法法)の作品、F100号の大作「化粧」が外務大臣賞の栄誉に輝きました。鹽野さんは昨年の第27回清興展で文部科学大臣賞(このページの下方で紹介している「学園祭」です。)も受賞されています。
 
化粧(F100号)             表参道(F100号)


 るにん会

「愛の流刑地」に流され、愛する人のために命を賭けて島抜けを敢行するような男たちの集まりか、はたまた第一の人生を取りあえず全うし、これから本当の生きがいを求めて流浪の旅に出た男たちの出会いの場か。
 人間は一人では生きられない。家族も大事だが、それとはまた別の次元で、心の友を求める自分がいる。飾らずに、自分の弱さをぶつけられる会であって欲しいと願う。

「るにん会」というのはこんな気持で結成されたメンバー5人だけのミニ会である。法学部の同じクラスの同窓生で、全員が白門43会の会員でもあります。
 個別に会って酒を飲むことはあるが、それだけでは能がないからアカデミックなカルチャーに触れる機会をつくろうではないかということになり、今年1月末にH君のお声掛かりで5人が新宿に集まった。手始めにシネマスクエア東急で松坂慶子主演の映画「るにん」を観たのでした。
 江戸・吉原に火付けをした罪で八丈島に流された花魁・豊菊(松坂慶子)と博打の罪で流人となって送られてきたばかりの喜三郎(西島千博)が愛し合うようになる。そして喜三郎は豊菊を救い出すため潮の流れを詳細に観察し、誘った仲間の男たちと共に盗んだ舟で島抜けを敢行する。荒海を渡りようやく本土の海岸に辿りついた2人は江戸に潜入しますが、役人に見つかり儚い運命を散らすという結末で、八丈島から島抜けをして唯一本土に辿りついた実話を元にした映画です。
 映画の後の飲み会で今後は定期的に開催しようということになり、言い出しっぺのH君が万年幹事に推挙されました。そこで会の名前を何にしようかと相談し、Y君の提案で「るにん会」となったのです。
 第2回となる今回は、9月30日(土)に5人全員が上野公園に集まり、まず東京藝術大学美術館で「NHK日曜美術館30年展」を観覧しました。NHK日曜美術館は1976年から続いていて放送回数も1,500回を超える長寿番組で、この30年展では今までの放送で取り上げられたものの中から有名作家の名品が、懐かしい番組出演者が語る映像などとともに紹介されていました。(管理人は黒田清輝の「読書」、高橋由一の「鮭」、棟方志功の「二菩薩釈迦十大弟子」、ルノワールの「裸婦」などが印象に残りました。)
 次なる行程は浅草寺へのお参りです。「よし、浅草まで歩いて行こう」
 気持だけは若いS君が提案しました。「エッ」という管理人の不安の呟きも「そうしよう」という皆の声にかき消され、浅草行きの遊覧バス「ぐるりん号」が目の前に止るのを恨めし気に見ながら歩き出しました。年齢を感じさせない面々のパワーに、管理人は青い息を吐きながら追い縋って行くのでした。
 さすがに浅草は名所です。地域一帯は外国人観光客も含め縁日のような大賑わいで、雷門前には昔懐かしい人力車が何台も人待ちしていました。(因みに、一人で乗る場合は10分2,100円、二人の場合は3,150円で、車夫はほとんどがイケメンの若者でした。)
 浅草寺で健康長寿などそれぞれの願いを祈願した後は、江戸名物の「駒形どぜう」で待ちかねた懇親会です。鉄の皿に30尾くらい並べた泥鰌が一人分。牛蒡や刻み葱を乗せてガスにかけること5分。長丁場を歩いて渇いた喉にはビールと泥鰌が良く合う。その後ご飯に柳川鍋が出て、ここでは最後まで泥鰌尽しでした。
 これでもまだ物寂しいらしい面々は再び浅草寺裏へ戻り、伝法院通りに並ぶ、とある飲食店の軒先に腰を落ちつけ、ホッピーとやらいう名物飲料(自分で適当に焼酎を加える)で乾杯しました。格調高い(?)文化の論議に花が咲くうち、気が付いてみるといつの間にか日はとっぷりと暮れていました。



 佐藤勝さんのボランティア活動が地元の広報誌に掲載されました

 佐藤勝さん(法政)は、地元の千葉市国際交流協会に所属して日本語学習支援ボランティアをされていますが、このたび同協会の広報誌「ふれあい」(2006夏号)に「中国、雲南省から来た私の教え子」と題した佐藤さんの活動の記事が掲載されました。千葉市在住外国人に対する地元民の「草の根支援」の成功例として紹介されたようです。
 下記をURLをクリックすると掲載記事の詳細がご覧になれます。
  http://www.ccia-chiba.or.jp/j/f_johoshi.html


● 関口明美さんがタヒチ大統領賞を受賞されました

 関口明美さん(文哲)は、このページの後ろの方で紹介しているように彫刻や陶版画などを制作していますが、この度タヒチで開催された「ネオ・ジャポニズム in タヒチ 2006」に陶版画を出展し、審査の結果、タヒチ大統領賞を受賞されました。関口さんおめでとうございます。
 詳細は、次のとおりです。

1 賞の名称   タヒチ大統領賞
2 展覧会名   ネオ・ジャポニズム in タヒチ 2006 タヒチ日本芸術文化大賞選抜展
3 事業テーマ  大統領府招聘事業──これまでの日本とタヒチ両国の友好親善に寄与した
           日本アーティストを称えるための集大成としての文化交流事業
4 会   場   パペーテ市庁舎
5 会   期   2006年2月14日〜2月17日
6 主   催   フレンチポリネシア・タヒチ日本祭2006実行委員会
7 そ の 他    大統領賞選定に当たっては、特別に各省メンバーによる審査委員会が設けら
           れました。また、この事業については各メディアにも大々的に取り上げられた
           そうです。
  (作品の画像は、著作権等の関係もあり掲載できないことをご了承下さい。)



● 永井和之学長が中央大学総長に選任されました

 白門43会員である永井和之教授(法学部・法務研究科教授)が、先の学長選挙の結果に基づき中央大学の学長に就任されたことは既にご紹介したとおりですが、この度12月5日の大学理事会において総長に選任され、学長と兼任されることとなりました。総長は大学、付属高校、研究所等を総括統理することとされており、任期は平成17年12月5日から平成20年11月5日までとなっています。
 以下に永井教授から白門43会あてにいただいているメッセージをご紹介します。

 ご無沙汰をしております。43年法学部法律学科卒業の永井和之です。このたび大谷支部長から学長就任に当たってなにかメッセージを同期の皆さんによこすようにということでしたので、一言挨拶を兼ねて抱負を述べさせていただきます。

 この11月6日に中央大学学長に就任しました。大学を卒業して助手に残ったときには、思ってもいなかったことです。あの当時は大学紛争のただ中、いろいろな経験をしました。その中で、学問と大学という組織の関係、そこにおける教員と学生の関係、言論・主張と暴力の関係、といろいろなことを考えました。暴力には心底から賛成できませんでした。権力を持つものの優越性に対する抵抗としても、不毛の荒野しか残らないと思いました。
 今、その大学当局の教学側の責任者になると、その責任の重さを自覚し、腐敗しないように、誠実さを失わないように心していかなければと考えています。あの年に卒業したものの一人として、若い日に感じた不条理をふまえて、新しい母校のあるべき姿を、新しい世紀にふさわしい姿を追求していきたいと考えております。

 同期の皆さんの多くと同様、今年還暦を迎えました。昔を懐かしむ気持ちも強くなり、一度、同期会でもあれば、ゆっくりといろいろな話をしたいものです。そのような安らぎの時間がもてることを楽しみに、日々精進をして、誠実に職務を遂行していくつもりです。同期の皆さんには、メールででも助言・ご意見をいただけたら幸いです。
                    中央大学学長(白門43会会員) 永井和之

 永井総長プロフィール
 学長就任ご挨拶



 鹽野惠子さんの作品が文部科学大臣賞を受賞

 第27回清興展が平成17年12月10日(土)から16日(金)まで、東京・上野の東京都美術館で開催されましたが、その中で鹽野惠子さん(法法)の作品「学園祭」が見事文部科学大臣賞の栄誉に輝きました。鹽野さん、おめでとうございます。
 このほかに「女性専用車」という作品も出展されましたが、いずれもF100号の大作です。そういえば、「学園祭」は既に作品の画面一杯に黄色の大きなVサインが表れているようにも見えます。
 
    学園祭            女性専用車



 町田譽曽彦さんの作品が二科展で特選を受賞されました

 第90回記念二科展が平成17年9月1日(木)から16日(金)まで、東京・上野の東京都美術館で開催され、数多い入選作品の中で町田譽曽彦さんの作品が特選を受賞されました。作品は「海の追憶」というF50号の油彩画でした。また平成18年9月1日(金)から16日(土)まで同じ東京都美術館で開催された第91回二科展においても「海のシンフォーニー」(F50号)が入選しました。入選はこれで27回目になりました。
 町田さんご本人から作品についてのコメントをいただきましたので、以下に紹介させていただきます。

 今年の作品は、二科展「海の形象」シリーズ第3弾で船体を抽象化した中にランプを入れ、手前には航海地図を配し船上には、自然の幸福を満身に飛ぶカモメを描いたコントラストを活かした詩情作品。生きて来た60年の軌跡を船体で表現し、海の荒波や風雨を人生の出来事になぞらえ、雄大な自然からの恵みが夢とロマンを掻き立てるものとして構成しました。(町田譽曽彦)



 吉田邦雄さんが「誰でもわかる内部監査の本」を出版されました

吉田邦雄さん(法法)が、東洋経済新報社から『富士ゼロックスの倫理・コンプライアンス監査』と題し、誰でも分かる内部監査の本を出版されました。
 以下は、吉田さんご自身の紹介文です。

近年、内部統制や監査のあり方が問われ、従来の日本型管理体制あるいはアメリカ型管理体制それぞれが曲り角に来ているように思われます。このような経営環境の変化に対応すべく、本書では、本来の内部監査はどうあるべきか、これからの新しい経営監査の方向性は何か、事例を交えて紹介しております。さらに、富士ゼロックスの企業倫理やコンプライアンスの取り組みは社外からも高く評価されおり、これらの実践活動に多くのページを割きました。また、本書は、大学教授や公認会計士の立場ではなく、監査実務家の立場からの本格的な専門書の発行ということで、内部監査業界から注目されつつあります。
 内容は、次の5章から構成されております。
 <序章>最近の企業不祥事例
 <第1章> リスクマネジメントとコンプライアンス監査
 <第2章> 企業倫理と倫理監査のすすめ
 <第3章> 経営監査プロセス
 <第4章> 経営監査モデル
 <第5章> 新しい内部監査の方向性と法制化に関する筆者の提言
 本書は日本内部監査協会中村会長からも「わが国では初めての監査現場から執筆された本格的専門書」との推薦のことばをいただいており、内部監査ノウハウが学べるように執筆したものです。
 機会がありましたら、企業内の内部監査人、コンプライアンス推進者、倫理担当、そして、監査役や経営幹部の方々にお読みいただくようご推薦頂ければ幸いです。

富士ゼロックス(株)経営監査部コンサルタント 吉田 邦雄
<日本内部監査協会非常勤講師>

中央青山監査法人箱田順哉監修
富士ゼロックス(株)吉田邦雄著
『富士ゼロックスの倫理・コンプライアンス監査』
2004年10月東洋経済新報社発行
定価2,400円(税別)

  




 近況報告

 この欄では会員の近況をご紹介します。
 平成20年度総会、新年会等の案内通知の返信では、ホームページに載せるという前提で近況を報告していただくこととしておりましたが、ご報告いただいたもののうち適当なものを選んで、順不同で2、3人ずつ、逐次掲載しております。

喜多村蔦枝 法法

過日は著書「風の音の 墓から自然葬へ」を取り上げて下さりありがとう存じました。多くの方々からご感想をいただきました。悩みがこれほどあるとは、びっくりでした。

岩井重一 法法

昨年3月まで日本司法支援センターの事業企画本部長として2年間常勤しておりましたが、4月よりアクト法律事務所に復帰しました現在も、同センターの全国配置の責任者として活動を続けております。司法の過疎の解消の自助のため懸命に努力しております。

田中宏司 経国

2008年4月から東京交通短期大学(豊島区池袋本町)の学長・教授に就任しました。「企業倫理」を担当しています。

 横山貴講 法法 調停委員として週に1〜2回さいたま家裁に行っています。
 倉田隆次 法法

健康診断で20年3月8日、医師から糖尿病予備軍編入を命じられました。3ヵ月間の断酒?と腹八分の食事、ほぼ毎日15,000歩のウオーキングを続けた結果、6月7日付で医師から予備軍の退役を宣告されました。

 宮川弘懿 法法

組合をつくり直売所を始めました。お米がおいしく、山菜が豊富です。是非ご利用ください。

 佐藤史郎 商商

2008年版の ”Who’s Who in the World”(世界的に権威のある人名事典)に掲載されました。

 西村輝雄 法法

20年度から大阪支部幹事長を仰せ付かっております。

 岡田孝子 文文

16年間勉強させていただきました民生委員、主任児童民生委員制度が始まってからでございましたが、定年となり、神奈川県知事より代表して表彰を受けたことが嬉しくもあり、淋しくもありでございます。ボランティアは身体が許す限り、続けたいと思っております。

 神林俊晄 商会

中越沖地震、原発事故そしてその風評被害と観光関業界は大変厳しい状況です。新潟県へ!

 川野健司 法政

ホームページ楽しく拝見しています。ミニトリップの生田緑地は私の自宅に近く、川崎市の生田緑地計画に市民として参画しましたので興味深く拝見しました。

 原 健作 商経 今年度から地元「大宮白門会」の会長に就任しました。
 岩井重一 法法 平成18年4月に設立された日本司法支援センター(法テラス)で2年間事業企画本部長として常勤し、常勤弁護士を全国各地に配置する責任者を務めてきました。本年4月より非常勤の常勤弁護士推進本部長として引き続き取り組んでおります。
 佐藤史郎 商商

2006年……テレビ大阪、毎日放送とラジオFM局J−Waveに出演したほか、日本経済新聞にコメント。2007年……日本経済新聞、公明新聞にコメント。世界的に権威の在る“Who’s Who in the World”(アメリカ・マルキス社発行)に掲載。(政治、経済、人文、芸術など顕著な業績を挙げた人が対象)

 田中宏司 経国 現在、内閣府の「公益通報者保護法関係研究会」の委員長を務めています。
 伊東清邦 文文 2010年10月JAMCA(日本男声合唱連名)主催による合唱祭を小田原市にできる新しい市民会館「城下町ホール」で開催予定。小田原男声合唱団の一員として参加予定。全国各地から500名近い合唱団員が集まる予定。大木惇夫作詞、多田武彦作曲「西湘の風雅」を合同曲として歌う予定。受け入れ団体として計画進行中です。小田原男声合唱団には第1回の定員から参加(途中休団しているが)。
 小林和夫 法法 第2回東京マラソンに抽選で当選しましたので連続出場の為、そろそろ11月から練習の開始です。フルマラソンの完走のため老骨に鞭打って。
 佐藤 康 法法 平成18年12月から江戸川区の小岩公証役場の公証人として公正証書などを作成しています。よろしく。
 遠藤きみ 法法

弁護士2年目、雑用の方が多い毎日ですが、元気にやっております。

 高田敏之 法政

この2月で満60歳になり、厚生年金が振込まれるようになりました。
会のお世話をされる方々は大変だと思います。感謝。
お互いに健康には気をつけましょう。

 伊東清邦

年金生活に入り2年を迎え、限られたつつましい生活を送るようにしています。外出も大分減ってきました。東京も遠くなりました。

 田中宏司 経国 2006年3月に立教大大学院教授を退任し、同大学客員研究員となりました。
 井出勝正 法法

新潟に単身生活ですが、仕事は長野県です(北ア白馬山麓のホテル)。水田新潟コシヒカリ。今の時季(夏)はホタルが夜、きれいです。

 伊藤 敬 商経

卒業後、今春無事定年を迎えることができました。過日ゼミの同期と卒業以来38年振りに旧交を温めることができました。昔の面影は皆残っており、歓談に花が咲きました。

 石川進平 理管

縁があって四国カスタマー・サービス鰍ノて活動しています。四国コカコーラの100%子会社で、赤い自動販売機4万台のメンテを主に担当しています。
43会メンバーの皆様が四国88箇所巡礼の際には是非お立寄り下さい。当方、源平合戦の屋島のふもとに居ります。

 佐藤弘孝 理土 還暦を迎えての再就職。片道2時間半の通勤で疲労困憊の毎日です。技術継承のため、若者たちへの最後のご奉公と思い頑張っております。
 吉岡 徹 法法 独立して飲食業に参入して13年、ようやく2号店を出店できるところまで来ました。
 喜多村蔦枝 法法

(大学)4年で出産の息子(講談師 田辺凌鶴師)を卒業後40年も経って披露するとは・・・・トホホホです。
「走馬灯借りたノートの文字の癖」友人のお陰でやっと卒業できたのです。

 大野克夫 法法 現役として働いて居ります。学校の中も目まぐるしく変化しつつある昨今です。
 岸 皓司 法政 先日東京下町の母校(中学校)の同期会を卒業以来48年振りに初めて開催した。60名もの学友が出席し、恩師も「これで寿命が伸びた」と喜んでくれた程、楽しい感動の再会を果たした。ただ仲間の消息が判明するに連れ、物故者も増え、悲しい思いもした。
 寺西 正 法法

6/2〜4 ベトナム(ハノイ)
6/15〜17 沖縄
6/18〜19北陸(車イスの方々)
6/22〜9 フランス
大変な6月ですが、感謝して頑張っています。

 横山貴講 法法

戸田市の市民相談員を週3日していますが、いま次のステップを目指しております。

 種田 誠 法法 日本司法支援センター共同地方事務所の所長として10月1日業務開始をめざし奮闘中です。
 三ツ井孝二 文史 3月31日をもって38年間の教職生活を無事終了することができ、ホッとしています。
 下條勝也 経経 昨年、新聞記者生活を「卒業」しました。湘南ライフ満喫中です。
 冨木 勝 法法 オリックスで金融関係の仕事をしております。定年は65歳ですが、元気なうちにやめて人生の後半戦の準備をするつもりです。
 臼杵清次 法法

16年3月大分県庁を退職し、現在県社会福祉協議会(所長)に勤務しています。

 須田 浩 経産

9/23群馬磯部温泉にて同期会を開催、ロスアンゼルスより2名、鹿児島より1名、総勢21名で、卒業以来、還暦の祝いを兼ねて挙行しました。

 庄司 明 理物

あま「社交ダンス」を習っています。個人レッスンはレッスン料金が高くて受けられませんので、グループレッスンを受けています。

 山口三男 法法 来春(18年)満60歳を控え、少しずつ仏門の世界へと足を進めています。
 池田俊憲 法法 観光町作りの研究を行っています。
 宮川弘懿 法法 今は(町議会)定例会中です。これからは町おこしで頑張りたいと思います。(18年総会案内の回答で追加)
町議会議員の仕事オンリーでやっていますが、結構多忙なものです。
 守屋嘉丈 法法 静岡県庁退職後、小さな団体事務局に勤める傍ら、昨年12月から民生委員、児童委員として少しばかり地域貢献しています。
 高橋正之 法法 現在台湾に居住し、たまにしか帰国しません。皆様に宜しく。
 西郡 鐃
    律子
法法
もうできないと思っていた娘夫婦に孫。それも双子が誕生。泣き声と寝不足の毎日です。続いてもう一人の娘も9月予定ということで、今年は一挙に3人の孫ができました。いやあかわいいものです。
 金井快夫 法法

ゴルフにはまっています。先週も宮崎県のフェニックスカントリーに行きました。還暦祝ゴルフで……とうとうというか、ついに還暦をむかえました。さて、総会当日も前からコンペが予定されており、出席できませんが次回は是非出席したいと思っています。今後ともよろしくお願いします。

 糸川保二郎

文史 高校教師を退職後、ボクシングジムを開設し6ヶ月、練習生男女43名。最近はカイロプラクティックを勉強し、老後をエンジョイする予定です。

 池田俊憲

法法 博士論文に向けて、地域政策分野での地域活動空間モデルの研究を進めています。
 小泉 勲 経経 昨年より中央大学学友体育会バレーボール部OB会会長に就任し、会員の親睦、現役のバックアップに努めています。


 

 会員紹介             


● 伊藤捷雄さん(法法)

 伊藤捷雄さんは平成15年春の叙勲で黄綬褒章を受章されました。
 伊藤さんは昭和48年に弁理士登録をされると同時に、伊藤国際特許事務所を開設され、昭和56年には「社会福祉法人 かつみ会」を設立され、理事長に就任されています。また日本弁理士会の常議員・福利厚生共済委員会委員長もされ、弁理士会特別功労表彰も受賞されています。受章はこのような社会的貢献が認められた結果によるものです。伊藤さんおめでとうございました。

   受章に浴して
 正直申しますと、先輩諸氏の受章の報に接するとき、自分にもそのようなことがあるのだろうかと淡い期待を抱いたものでしたが、それは儚い望みのようなものでした。いざ自分の身に現実に起ってみると、突然のことでもあったので、大変に驚きました。と同時に嬉しく思いました。
 そして、今日までたくさんの方々から御祝意を頂戴し、改めてこの章の大きさに感銘いたしました。本当に有難うございました。
 思えば、草深い片田舎から東京へ出て来て44年、弁理士登録30年目の、しかも還暦の年にこの章を拝受いたしましたことは、誠に意義深く、丈夫な身体と、そこそこの頭脳を持つ遺伝子を授けてくれた今は亡き両親、ご先祖様、並びに今日まで私を支えてくれた関係各位の皆様方に心より感謝申し上げます。
 「継続は力なり」と申します。今後は、この章に恥じないよう、またコツコツと努力を重ねて行く所存ですので、今後とも宜しくお願い申し上げます。(伊藤捷雄)


 鹽野恵子さん(法法)

 塩野恵子さん(法法)は、趣味で油絵を描いていますが、その作品は東京都美術館で開催される清興展(日本清興美術協会主催)に毎年出品され、これまでに文部科学大臣賞や外務大臣賞に輝いてきました。
 また、東京・銀座のGALLERY KUBOTAで個展を開催してきました。50号、100号という大作も多数描いておられますが、特に若い女性を描いたものが多いようです。
 これまでに展示された主なものは、次のとおりです。

 (個展)
 21年 6月15日〜 6月21日
 21年 5月28日〜 6月3日

 (清興展)
 20年12月 8日〜12月14日
 19年12月 8日〜12月14日
 18年12月10日〜12月16日 (外務大臣賞受賞)
 17年12月10日〜12月16日 (文部科学大臣賞受賞)
 


 町田譽曽彦さん(経済)

  町田さんは洋画家で、中央の洋画壇で今活躍しています。会社にも勤務し現役で頑張っています。東京・上野の公募展、埼玉県展で19歳で共に初入選。県展特選2回受賞。二科展については、第55回二科展で初入選以来、23回も入選されています。第90回二科展では特選に選ばれています。
 また、平成15年12月には、生れ故郷の自治体にご自身で制作された油絵を寄贈した功績により、天皇陛下より紺綬褒章を授与され、12月16日に群馬県境町長より伝達が行われました。
 最近開催した個展や展覧会への出展は、次のとおりです。

 2008年 「潮流」第93回二科展に入選
 2007年 「海の対話」第92回二科展に入選
 2007年 「町田譽曽彦油絵個展」を開催(上尾市民ギャラリー)
 2006年 「海のシンフォニー」第91回二科展に入選
 2005年 「海の追憶」第90回二科展に入選(特選
 2004年 「町田譽曽彦油絵個展紺綬褒章受章記念(東京・日本橋のすぎもと画廊)
 2003年 「イタリア欧州風景に花を併せて」(東京・麻布のイルチェネッタ)
 2003年 「歓び」 二科展に展示(東京・上野の東京都美術館)
 2003年 四季の風景と花」   町田譽曽彦油彩画展(群馬県伊勢崎市)(2002年12月から)
 2002年オンフルール港(旧総督の館)二科展に展示(東京・上野の東京都美術館)
 2002年 フランスの風景と花を併せて 町田譽曽彦展(東京・銀座のワイアラエ)
 2000年 第20回記念展町田譽曽彦油絵個展(新宿三越)
 
 町田さんの油絵は主に港の風景をモチーフに、四季の花を都会的な瀟洒なタッチで描いているのが特徴です。また、水彩画は細かいところを念入りに描くというのではなく、大胆ともいえる思い切った筆使いで、対象の特徴を的確に捉えて表現しています。画紙の白い部分をなるべく塗りつぶさないで活かし、見る人に絵の広がりと余韻を与える技法はさすがというほかはありません。
 二科展に入選したオンフルール港(旧総督の館)」は、ノルマンデー地方の歴史を刻んだ古い大きな建物がいまだに現役として生活の舞台となり、そこに集う人々の息吹が港町の潮の香りとともに、絵の中から発散されてくるような、そんな感じの作品でした。
 町田さんは、現在、市展運営審査委員、埼玉県美術家協会員、二科会埼玉支部員になっておられます。
 町田譽曽彦さんのホームページ
 


● 佐藤史郎さん(商商)

 佐藤史郎さんは跡見学園女子大学で文学部の教授をされています。主な関心領域は、英語教育、経済英語、起業論、デイベートなどだそうです。
 その佐藤さんがこのたび「躍進する日本のベンチャー企業」という本を制作されました。これは大学などで使う英語のテキストの形をとっていますが、実は、自ら事業を興して成功した10人の実業家を取材して英語の物語風にまとめたもので、それぞれの章ごとに英語の練習問題が設けられています。
 佐藤さんは、執筆の動機を次のように語っておられます。
「この本を書こうと思った動機は、日本社会だけでなく日本の若者があまりにも元気がなく覇気もないので、一代でさまざまな分野で起業をして成功している実業家を取り上げその成功物語を記述することにより、とりわけ将来の日本を背負うことになる大学生が夢を抱きその夢に向ってまい進してくれるのではないかと思ったからです」
 この本は2004年4月発売ですが、次にご連絡いただければ購入できるようになっています。(1,800円)
 マクミランランゲージサービス
          Tel 03-5833-1017
          e-mail yamamoto@mlh.co.jp
 佐藤史郎  Tel  03-3918-8997  
      (大学) 048-478-3413
      e-mail sweet10@vesta.ocn.ne.jp

 目次の概要は次のとおりです。
(このなかで、キャノン、ダイソー、ぴあ の社長さんは中央大学出身者です。)
CHAPTER1 キャノン: 強さの秘密は経営者にあり
2 ヤマト運輸: 反骨魂で規制を突破し、全国に喜びを宅配
3 アートコーポレーション: 引っ越しに、「あればうれしいサービスがついて顧客は大満足
4 島精機製作所: 完成させたい一心が実現させた次世代 コンピュータ横編み機
5 ジャパネットたかた: 機敏な企業組織とメディアミックス販売で大躍進
6 大創産業: 「え、これが100円!」と思わずうならせるプロのビジネス
7 ダイヤルサービス: 赤ちゃん110番から心の悩みまで、頼れるのは電話のアドバイス
8 テンボスバスターズ: 厨房機器のリサイクルで日本の飲食業を下支え
9 ぴあ: エンターテインメントを身近にした革命児
10 ワークスアプリケーションズ: 大企業を陰で支えるIT企業


 川野健司さん(法政)

 川野健司さんが2002年5月に行われた富山マラソンで通算50回目のフルマラソンを完走しました。その後北海道の大会にも出場され、そのとき川野さんからいただいた記事をご紹介します。

 7月14日北海道の紋別市を中心に行われたオホーツクマラソンと、8月25日札幌で行われた北海道マラソンの2大会に出場しました。
 いずれもフルマラソンで私の記録はオホーツクが3時間58分33秒、北海道が3時間57分36秒とかろうじて4時間を切って完走できました。
 7、8月の夏場は国内のフルマラソンはこの2大会しかなく北海道とは言え真夏の暑さはマラソンを走るには不適で暑さとの戦いとなります。
 オホーツクは紋別市の陸上競技場から湧別町のサロマ湖畔の三里浜をゴールとするワンウエイのコースで直線の道路で、両側に建物が無い淡々とした道を走ることが多く、景色は雄大ですがそれだけに走るのに飽きてきそうで日ざしの強さも加わり、走る意欲を持続させるのに苦労しました。
 北海道マラソンはフジテレビ系列で中継がありましたのでご覧になった方もいらっしゃると思いますが交通規制された札幌の中心地を走るのは応援も多く気持ちの良いものですが5キロごとの関門に制限時間があり私のようなゆっくりランナーにとってはこの規制にかからずに完走する事に苦労します。
 当日は比較的涼しかった事もあり最後の40キロの関門を3分の余裕を持って無事通過することが出来、制限時間内で完走できました。
 いずれの大会も35キロ過ぎからは走るのも辛くなりやめたくなりますが、完走の感激は何度経験しても格別のものがあり、また直ぐに次の大会を走りたくなってしまうのです。
 年内(2002年)にあと3〜4回フルを走りたいと思っています。


 

 古賀忠夫さん(商会)

 古賀さんは、本職は中央大学の職員ですが、約30年間虎ノ門交響楽団でバイオリンとビオラを担当してきました。
 古賀さんはこの他「オルケスタ・プリマベラ」というアマチュア・タンゴ楽団のメンバーにもなっています。オルケスタ・プリマベラは、1960年代の終わりから1970年代にかけて活躍した、早稲田、中央、明治、法政の各大学タンゴ楽団の出身者たちが、卒業してからも演奏を続けようと、1976年に結成した楽団です。昔はアルゼンチン大使館のレセプションで、時の外務大臣や今は亡きタンゴ界の大御所アストロ・ピアソラの前で演奏したことが語り草になっており、約10名のメンバーはほとんど変わっていないそうです。昨年25年間の活動を記念して「25 ANOS DE TANGO MODERNO」というCDを作り、楽団活動の中で重要な位置を占めてきた14曲が収められています。


 

● 依岡正樹さん(商経)

 依岡正樹さんはプロの日本画家です。お父様もお祖父様も日本画家で、依岡さんで3代目だそうです。19歳のときギュスタープ・モローの作品や高山辰夫氏の「穹」という作品に出会ったことが画家を決意した動機になったようです。
 依岡さんの作品は、作者の目を通して抽象化された景色や静物、人物などを、赤、青、緑、黄などの豊かな色彩で描きあげた幻想的な感じがするものが多いうです。最近の日本画の主流のようで、私たちが考える伝統的な日本画とはかなり異なっていると思います。
 日展の特選に選ばれるなど数々の賞に輝き、これまで東京・銀座で5回個展を開きましたが、最近では平成20年3月27日(木)から4月5日(土)までの間、東京・銀座の秀友画廊で開催しました。
 管理人が見に行った個展では、作品はどれも色彩豊かなものばかりで、作品から発散されるエネルギーで圧倒されるような気持ちになりました。第3回の個展では「花」が主題に据えられていたようでしたが、プロの手に掛かると普段見慣れた花もこんなに魅力的な装いを見せるものかと感心しました。
 作品をご希望の方は、03-3996-6062へ電話してください。

 なお、依岡さんの従弟の方が運営するhttp://www.JStylert.com/に、やはり日本画家であった依岡さんのお父さん(依岡慶樹氏)の作品集が掲載されています。

 


 

● 関口明美さん(文哲)

 関口さんは小学校の先生ですが、彫刻やテラコッタや陶板画を制作しています。これまでに2回東京・銀座の画廊で個展を開きました。彫刻は型を作ってそこに石膏や樹脂を流し込んで作り、テラコッタは粘土で固めた造形を焼いて仕上げます。また陶板画は平たく延ばした粘土の上に細い線で画を描いて焼きます。
 作品は女性の人物像や猫などの動物をモチーフにしたものが多いようですが、人物像では人間の姿から一切の虚飾を捨て去り、最後に残った心の世界を描き出しているような感じがします。
 その関口さんが、平成14年3月(東京銀座のギャラリー・オカベ)に続いて、15年6月には東京・杉並のギャラリー歳時季で「関口明美陶板画展」を、16年2月には東京・銀座で「関口明美彫刻展─生の葛藤─」を開催しました。
 作品は、人間の懊悩といった重苦しいモチーフのものはなく、身体全体で喜びや希望を表現しているようなものが多いと感じました。それも喜びなどを満面の表情で表すというのではなく、心の中に抑えた喜びが身体の線や手足の動きの中から滲み出てくるといった精神性の高い作品だと思いました。
 また昨年は、上述のとおり、タヒチで開催された「ネオ・ジャポニズム in タヒチ 2006」に陶版画を出展し、審査の結果、タヒチ大統領賞を受賞されました。
 さらに、12月12日(火)〜12月16日(土)東京銀座画廊・美術館で開催された12th ART ACADEMY JAPAN (アートアカデミー・コミュニケーション主催)にも陶板画を出展されました。


 後沢節子さん(法政)

 後沢さんは趣味で篆刻(てんこく)をやっています。
 篆刻というのは石や金属などに印章を彫ることです。彫る文字は主として秦の始皇帝の時に全国統一された篆書という最も古い漢字が使われるので篆刻といわれるのです。どんな字かというと「○○株式会社社長之印」などでお馴染みのくねくねとして分かり難い(失礼)あの字のことです。美的感性を追求する創作芸術である点で、単なる実用の印鑑を作るはんこ屋さんと区別されます。
 制作の過程では、彫ることよりも、どんな字をどんな配列で彫るかを決めて原版を作ることの方に多くの時間が費やされるようです。
 後沢さんは既に7年のキャリヤーがあります。最初はご主人の正昭さん(法法)と、おしどりで始められたそうですが、教室がウイークデーに変更になったため、二人仲良く通うことができなくなってしまったのだそうです。
 昨年末の山王白門会のとき名前の一字を彫った作品をプレゼントしてもらいました。自分も欲しいという方は節ちゃんに頼んでみてはどうですか。
(最初に正昭さんに仁義を切っておいたほうがよいかな……?)