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 第1回 序として/第2回 台東区/第3回 川越から国分寺へ/第4回 東京駅(都心が空間であった鉄道)

2022年12月12日
 第4回 東京駅(都心が空間であった鉄道)

 今年は日本で鉄道が創業してちょうど150年という節目の年でした。1872年(明治5年)に新橋~横浜間で初めて列車が走り、その後日本の近代化とともに路線が広がり、全国にわたる鉄道網が整いました。
 東京駅が鉄道網の中心となっています。ここから大雑把に表現して東西南北の方向に鉄道の路線が伸びているのは皆様ご承知のことと思います。こういうと、あるいは東京駅から地方に向けて各路線が伸びていったのではないかとおっしゃるでしょう。ところがそうではなくて多方向から東京に向けて路線が敷かれてきたのです。
 東の方向、両国橋という名の駅を基点として「総武鉄道」という会社が1904年(明治37年)に東に向けて鉄道を敷きました。1931年(昭和6年)に両国という駅名に変更して現在に至ります。今でも両国駅は終着駅の風格があるのはこのためです。駅舎はターミナルらしい建物で、電車ホームの下には昔から使われている列車ホームを見ることができます。
 西の方向、1889年(明治22年)に甲武鉄道が新宿~立川間に開業しました。その後6年後には基点が都心に近づき、飯田町が基点となり、さらに万世橋がしばらくの間ターミナル駅でした。
 南の方向だけがいちはやく国が鉄道を敷設しました。新橋~横浜間といいますが、正しくは新橋はいまのシオサイトの位置、横浜はいまの桜木町なのです。
 北の方角は創業以来変わらず上野駅が1883年(明治16年)、上野~熊谷間が日本鉄道というなんとも壮大な名前の会社でスタートさせました。この会社は財界人や政治家など多数の有力人が出資して設立したものでそのなかには渋沢栄一も含まれていました。
 このように東京からの4方向のうち「国」が運営したのはただの一方向・横浜方面だけであり、圧倒的に民間優位でありました。全国的にもこの状態であり、全国の主要鉄道を国が買収したのは1906年(明治39年)であり、1987年(昭和62年)のJR民営化にいたるまで実に80年間国が運営をしていたのです。

2022年10月11日
 第3回 川越から国分寺へ

 今回はちょっと東京の西の地域に目を向けてみましょう。中央線の「国分寺駅」、聖武天皇が全国に作った国分寺ゆかりの駅名ですがここからまっすぐに北へ延びる鉄道が西武鉄道国分寺線です。中央線が甲武鉄道(甲斐と武蔵を結ぶのでこの名がついた)として新宿~立川間で開業したのが明治22年、その5年後にはもうこの西武鉄道が開業していました。当時は川越につながる計画で工事を進めて、当初「川越鉄道」という会社が経営をしていました。そして工事は進み翌年にはもう川越に届いています。その後この路線は経営主体が5回も変わり、昭和21年に「西武鉄道」になっています。
 いま川越から都心へ行こうとするとおそらく東武東上線、西武新宿線、JR川越線のどれかを選ぶことでしょう。しかし明治の時代には国分寺へ向けてまっすぐと鉄道が走っていたのです。
 今川越といえば「小江戸」ともよばれ有名な観光地になっていますが、もともとは城もあり、荒川またその上流の新河岸川を使った舟運によって物流の拠点として潤った町でした。
 国分寺と川越の中間に所沢市があります。西武鉄道の新宿・池袋の両ラインが交差する交通の拠点「所沢駅」は、数年前に近代化され巨大な商業施設が入居する(右写真)。
 手前は「となりのトトロ」発祥地を記念するモニュメント)。日本初の飛行場があり「航空の町」として名高くなっています。なんと駅前商店街は「プロペ通り」という名前がついていました。もちろん今では西武ライオンズの本拠地として名高いことは言うまでもありません。
 川越と所沢、いずれも埼玉県の中核都市ですが、その人口はどうだろうか、とちょっと興味を持って調べてみました。川越市が35万、所沢市が34万とほとんど同じ規模の都市であったことがわかりました。歴史の異なる二つの大きな町がほぼ同規模で並ぶのはとても興味深く感じました。
 今私の家の最寄りは「ひばりヶ丘」駅であり、西武池袋線です。この線はかつて「武蔵野鉄道」という会社で、西武とは無関係の会社でした。いろいろな路線、企業が複雑な歴史をもって成り立っているのも興味があります。

*上の写真はモニュメントのトトロの原画(スタジオジブリ作成)

2022年8月8日
 第2回 台東区

 「もの」には必ずそれぞれに名前がついています。世の中のあらゆるものに名前があるように「地理」や「鉄道」にも名前があり、「地理」につける名前が「地名」であり「鉄道」につける名前が「線名・駅名」と言えるでしょう。今はインターネットの時代であり以前に比べて書籍の存在価値が変化していますが「地名」についての書籍が数多く出版されています。
 話の手初めに身近なところからゆきましょう。私たち白門43会の会員全体の集まりが年2回開かれます。7月の総会は「上野精養軒」、2月の新春の集いは「東天紅上野店」。西洋料理と中国料理の優れたレストランですが、ある共通点があります。いずれも所在地が「東京都台東区」なのです。「台東」というのは不思議な地名です。台の東ではなくて台と東であることが重要とされています。上野や浅草などの由緒ある地名ではなく、実は新しい名前なのです。区の合併によって新しく命名された区名なのです。1947年(昭和22年)終戦直後の施策により東京の35区が22区に再編成されました。その時従来の下谷区と浅草区が統合して新しい区名をつける必要があり、主に下谷区の部分が高台であったので「台」とし、主に浅草区の部分が東に広く開けているので「東」として「台東」を新区名としたとのことです。
 この話にはさらに奥があり、中国・清の時代の書籍「康熙辞典」にその字があり、とても良いひびき、字画が感じられ、合併協議の際、それならばという状況で賛成されたといいます。都の35区が22区になるとき他にもいくつかの統合が行われたわけですが、それぞれの事情・理由を調べてみるのも興味深いことでしょう。
 ところで「浅草」の名にも興味をもって調べてみました。やはりその字のとおり浅々しい草が語源のようです。「浅草寺」は歴史が深く、起源は西暦628年であり、法隆寺の諸仏像が建立された時代にほぼ相当しています。
 (上の写真は、浅草・仲見世(清水正撮影)。江戸時代は道の両側には寺院が並んでいた。写真左下の雷おこしで著名なお店も「日音院」という名のお寺であったことが古地図で読みとれる。)

(参考文献) 東京地名考 1986年朝日新聞社会部。

2022年6月13日
 第1回 序として

 「地図・地名と鉄道よもやま話」として「てつ旅」の連載を始めることとしました。毎月というわけにも行きませんが、2月に一度くらいのペースで掲載していきたいと思いますので、ご期待いただければ幸いです。

 小学生のころの好きな科目はなんですか、と聞かれれば真っ先に頭に浮かぶのは「地理」でありました。歴史や理科などはどうも好きになれず、「日本地図帳」なんかを一生懸命に眺めていたものでした。これに加えて伯父の影響などで鉄道に興味が生じ、今に至るまで、生意気な言葉ですが「追及」を続けています。

 「地理」を紙に表現したものが「地図」であるならば、「鉄道」を紙に表現して「地図」とみることができるでしょう。「鉄道地図」というと固い言葉ですが、身近なものとして各駅に掲示してある「運賃表」や「時刻表」の巻頭ページにある「さくいん地図」があります。これらの地図は見やすく、わかりやすいものですが(下記PDFページ参照)根本的に大きな問題があります。それは縮尺と方角・距離が不正確なのです。しかし「順序」が正確なので運賃を調べる、列車にのるなどの目的からみればコンパクトにまとめられたこれで十分なのです。
 それを前提にしてこれらの地図をみていると実際に今自分が旅をしている気持ちになってくるのです。この1本の線路のまわりはどんな土地なのか、車窓のながめはどんな状態なのか、暖かいのか寒いのかなどなど夢が大きく膨らむのです。私たちがまだ訪れたことがない土地の知識・情報はこの「地図」から得ることが多いのです。書店にいけば数多くの地図が売っていますし、「地図」についての月刊雑誌も発行されています。

 昔「白門43会報」に「中央MONOがたり」という読み物を連載しました。母校の名から「中央線」を題材にして、各駅の紹介を順序だてて紹介したものです。今回はもう少し幅広く地理・地名と鉄道についていろいろな視点から見てゆこうと思います。

リンク(次の行をクリックするとPDFで関東・甲信越地方の鉄道路線図「さくいん地図」が表示されます。)
「JR時刻表」2022年3月号より(交通新聞社刊)