憩い

てつ旅

 喫茶室 トップへ

2024年
2023年
 第5回 日暮里/第6回 駅名が変わる・変わらない/第7回 京成電鉄・二つのお寺に向けて/第8回 東西南北①/第9回 西への道・中央線/第10回 北への玄関上野駅
2022年

2023年12月11日
 第10回 北への玄関上野駅

 東京から北への鉄道、これは何といっても上野駅が基点になります。1883年(明治16年)、その社名も壮大な「日本鉄道」という会社がいまの高崎線上野~熊谷間を開業させました。この会社は数多くの企業や私人が出資しており、そのなかには渋沢栄一も名を連ねていました。
 起点の上野駅、駅が開設する前は寛永寺の土地でした。江戸幕府を守るために作られた寛永寺、今駅のプラットホームの連なるあたりには塔頭が並んでいたのでしょうか。上野から熊谷に鉄道が開業したことを考えると埼玉県熊谷がいかに重要な町であったかが伺えます。そして驚くことに、開業時には大宮駅がなかったのです。「大宮」はその名のように「おおいなる宮居」からきた氷川神社により発展した町であり、日本鉄道開業の翌々年に開業しています。
 以前は北へ向かう列車、東北、常磐、上越、信越などの列車はすべてが上野駅始発であり、終着でした。「上野」といえばなにか「ふるさと」のイメージが浮かぶかたが多いと思います。列車ホームの入口には石川啄木の
「ふるさとの 訛なつかし停車場の
 人ごみの中に そを聴きにゆく」
 の歌碑がたっています。
 最近は北への路線の始発駅が変わってきました。一番大きな変化は新幹線でしょう。東北、上越、北陸の各新幹線の始発駅は東京になります。上野は停車はしますが、あくまで途中駅になっています。乗り換えの利用客の至便さを考慮し、新幹線は東京駅に集中しています。
 最近は在来線の特急、普通列車が品川を基点とするものが沢山あります。品川駅周辺は今大規模な都市開発が行われており、利用客の至便さを考えた上野駅、品川駅の設備の関係からこのような状態になったものです。
 そんなわけで上野駅は今年開業140年を迎えました。私が参加している「鉄道少年団」もその記念行事のほんの一幕に参加させていただきました。

2023年10月10日
 第9回 西への道・中央線

 東京から西へ向かう鉄道といえば、だれでも思いうかべるのは「中央線」でしょう。東京から名古屋までを繋ぐ幹線ですが、この線も今の起点である東京駅から少しづつ西へ延びていったのではありません。中央線といえばまずあげられるのは新宿ですが開業当初はこの新宿が基点でした。
 1889年(明治22年)甲斐と武蔵を結ぶという意味で甲武鉄道という会社が新宿~立川間27キロで開業、当初は1日になんと4往復の列車しかありませんでした。中央線随一の繁華街新宿はここから始まったのです。駅は本来なら新宿の中心地内藤新宿(今の新宿3丁目交差点あたり)に設けられる意向でしたが地元の抵抗があり、当時は西のはずれであった角筈(つのはず)に設けられました。
 ここから徐々に中央線の起点は東にむけて伸びてゆきます。1895年に飯田町、1912年に万世橋、そして神田を経て東京駅につながったのが1919年(大正8年)のことでした。飯田町は外濠に沿って、水運が至便の立地でした。今も記念碑やレールの遺構が残されています。万世橋の建物や土地は駅が廃止後は「交通博物館」として長く親しまれてきました。
 中央線が東中野~立川の間24.7キロが直線であることは知られています。これは「避けられたから」直線になったのです。明治時代に時の政府が鉄道の建設は昔の街道沿いに作ることを計画していたため大筋でいまの京王線のような感じで新宿と八王子を結ぼうとしていたものと言われています。ところが鉄道の効用が世に理解されていないため危険性だけが叫ばれてほかの場所に線路を敷かなくてはならなくなったのです。そして地図の上に定規でまっすぐに左右に線をひいてできたのがいまの中央線です。
 余談があります。直線の途中駅を作るときにも議論があったそうです。新駅を作るといっても当時は線路の周辺は田畑のひろがる地、駅を作っても利用者があるのかがあやぶまれました。ある議会で議員が「こんなところに駅を作って、狐や狸でも列車にのせるつもりですか」と質問したところ鉄道局の高官が「狐と狸は列車を利用しないのであります」と答弁したそうです。
 1889年当時は国の鉄道の組織は「鉄道局」、長官は井上勝氏であり、氏の銅像はいま東京駅前にたっています。

2023年8月14日
 第8回 東西南北①

 首都圏の鉄道について簡単なその歴史をお話します。いま日本の中心地東京駅から東西南北に向けて鉄道が伸び、列車が走っています。このことを考えると東京駅から各方面に向けて鉄道が建設されたと思いがちですが、じつは都心部では「都心に向けて」路線が建設されたのです。4方向の当時の開業駅はそれぞれが今も重要なターミナル駅として機能しているのです。

(東は両国から)
 東京から東方向へ鉄道が引かれた初めは両国駅からでした。今の両国駅から1904年(明治37年)、東へむけて「総武鉄道」という会社が営業開始したのが総武線の始まりです。昔、隅田川から東は「下総」の国であり、西の「武蔵」とをつなぐ橋という意味で「両国(橋)」の地名が生まれました。
 昔は川を鉄道がまたぐことは大変な難工事であり、簡単には手がでないと言われていました。そのため隅田川をわたった先のいまの両国駅が鉄道のスタートになったのです。このことは東武鉄道も同じで、今浅草駅は隅田川の西岸にありますが、開業当時は今の東京スカイツリー駅の位置に浅草駅があったのです。
 さて開業当初の起点は、駅名は「両国橋」であり1931年(昭和6年)に「両国」と駅名を変えています。余談ですが隅田川は昔「墨田川」と呼んでいた時代があったそうです。区名である「墨」の文字が一致していました。
 総武鉄道は1907年(明治40年)に国有化、その後、都心へ向かい、1932年(昭和7年)に御茶ノ水まで開業、そして40年後の1972年(昭和47年)に地下鉄道で錦糸町から東京駅につながりました。
 このように今の両国駅がむかしは総武線の始発駅であったのです。国技館や江戸東京博物館を訪ねるとき両国駅の前をとおりますが、かつての始発駅の面影をみることができます。総武線の電車のホームの目の下にはかつて列 車が発着していたホームが見えますし、そのホームへつながる地下道はギャラリーになっており、駅や周辺の町の様子が沢山の写真で飾られています。
 そして何よりの面影は写真の駅舎です。ターミナル駅の風格が充分に感じられます。
 (次回へ続く)

2023年6月12日
 第7回 京成電鉄・二つのお寺に向けて

 今回は京成電鉄を訪ねてみましょう。関東以外にお住まいの方には馴染みのない名前ですが(けいせい)と読みます。鉄道の会社名や路線名には両端の都市名や駅名の頭文字を組み合わせたものがよく見受けられます。この路線もそのとおりで、東京と成田を結ぶ鉄道として名前がつけられたものです。成田は成田山新勝寺、関東屈指の大寺であり、「なりたさん」として親しまれています。
 京成電鉄の路線も、そもそもは東京から成田山目当てに行く参拝者たちを輸送する手段として作られたものです。寺社参拝者のために誕生した鉄道はいくつかあって、関東近辺では京浜急行の大師線(川崎大師・平間寺)、東急電鉄の池上線(池上本門寺)などどれも現在では地元の大事な足となっています。
 はじめて開業したのは1912年(大正元年)、押上~市川(現在の江戸川駅)、曲金(現在の京成高砂)~柴又、の2区間でした。ところがこの時点で金町~柴又間にすでに開業をしていた鉄道があったと聞けば驚きのことでしょう。
 1899年(明治32年)に金町~柴又を帝釈人車鉄道というものが開業しました。人車、その字のとおり人が客車を押す人力の鉄道です。柴又はもちろん帝釈天・題経寺(日蓮宗)であり、寅さんや、草団子で名高いお寺です。このお寺をめざして南からは京成電鉄(当時は京成電気軌道)、北からは人車鉄道がつながっていたわけで、当時は「参拝鉄道」がいかに重要であったかがわかります。金町から柴又へ至る間は今でも単線であり、線路がほとんど直線となっています。これも昔「人車鉄道」であった名残りといえます。
 京成電鉄が都心に乗り入れたのは意外に遅く、日暮里へ繋がったのは1931年、さらに上野へたどりつくのは1933年(昭和8年)、当初は「上野公園」という駅名でした。
 京成電鉄は、今は成田国際空港への利用者の大切な足となり、「成田スカイアクセス」は日暮里~成田空港をわずか36分で結んでいます。

2023年4月17日
 第6回 駅名が変わる・変わらない

 駅とは不動のものです。広大な土地に巨大な建物、そして大きな設備とその駅誕生の時から多少の改造、増築があったとしてもその基盤が大きく変わることはありません。駅名もそうです。従来からの駅名がある日突然変わってしまったらこれは困ったことになるでしょう。しかしやむを得ない事情や情勢で駅名を変えることがあります。
 「中央大学」の校名にちなんでJR中央線を例にとって駅名が変わった事例をとりあげてみましょう。
 「東中野」という駅がありますがこれは一度変更された駅名です。1971年までの旧駅名は「柏木」。周辺の土地名を駅名にしたものですが、西隣りの大駅「中野」の引力が働いて「東」を冠した駅名となりました。
 「武蔵境」はもと「境」といい、1919年に改称しています。国の名を頭につけた駅名は各地にみられ、これは同名の駅と間違えがないような施策のためです。同名の「境」は鳥取県にありましたが1919年に「境港(さかいみなと)」と改称しています。
 私たちの記憶にもある駅名変更の例は「高尾」でしょう。変更前の駅名が「浅川」から1961年に改称されたことは多くの人が思いだすことでしょう。地域の河川の名称・浅川から付近の大観光地・高尾山の名に変えたものです(右図)。
 中央線から外れますが周辺の変化によっても「変わらない」駅名もいくつか目につきます。東急東横線の「学芸大学」「都立大学」も大学が移転したあとも長い間この駅名が愛され利用されています。もちろん駅前商店街などもその名で住民に愛され続けているのです。
 西武新宿線に「都立家政」という駅があり「家政」という古い言葉が使われています。かつてあった家政女学校を駅名としたもので東京府が東京都になったとき「府立」が「都立」に変わりましたが「家政」の名は今に至るまで使われ続けています。この学校は今「鷺宮高校」という学校になり、実は私の母校なのです。その名を使った駅前通りの家政銀座商店会はいまも賑わっています。

2023年2月13日
 第5回 日暮里

 この文字はもちろん地名ですが、初めて目にした方にはまず読めない地名ではないでしょうか。日暮里の駅は荒川区と台東区のほぼ境目の地区にあるJRと京成電鉄の駅です。駅が開業したのは1905年、当時の日本鉄道が上野・熊谷間を開業させた22年後のことです。この地名の読み方の正解は「にっぽり」です。
 この駅は東口と西口で全く違った様相をみせます。西側はとてつもなく広い都立谷中霊園でお寺とお墓の町、東側は正反対、繊維関係の問屋、商店が軒を連ねる活気ある町となっています。「日暮里」の地名はどうやらこの西側の寺町に関係しています。
 日暮里はかつて「新堀(にいほり)」とよばれていました。この地区は江戸時代、庶民の恰好の行楽地であったのです。広いお寺の境内で自然風物をゆっくりと味わい楽しむ、花を眺める、月を見るなど当時の庶民の娯楽の場でありました。一日中過ごしてもあきない里、これが「日暮らしの里」とよばれ、それが「日暮里」とよばれるようになりました。
 月見寺の本行寺、雪見寺の浄光寺、花見寺の修性院・青雲寺などいずれも現在も歴史を受け継ぎ、穏やかな、美しい境内を残しています。一部の寺社はかつて43会で散策を楽しんだ記憶があります。
 さて、東側の繊維街です。ご覧いただいている写真のようにファッション、手芸、ものづくりなどを楽しむ約90店舗をかかえる商店街です。大正時代の初期に浅草方面で営業していた古繊維などの業者が集団移転してきたものが始まりといいます。震災、火災、区画整理などを経て、いまや全国でも類を見ない繊維街となっています。毎年11月にはファッションショーが開かれるそうです。超高層マンションも立ち並ぶ近代的な風景も見えます。
 繊維街をかなり進んだところに「二日小学校」があり、この正門脇に立派な石の歌碑がたっています。よく見てみるとなんと文字は「ゆうやけこやけ」の歌となっています。この歌の作者・中村雨紅がこの学校に教師として勤務していた縁により1919年に建立されたものです。ところでなぜ「二日」なのでしょうか。「第二日暮里」を略して「二日」になったようです。

 参考文献 森まゆみ「谷中スケッチブック」ちくま文庫 1994年