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第33回観劇会 「はじめてのクラシック」 参加者:49名 (2日間)
           平成24年7月23日(月)、24日(火) 14:00〜(17:00)
            ・会場:JR有楽町駅前 東京国際フォーラム ホールA

我が40年会のメンバー両日開催の為2組に分かれて鑑賞。会員の方々にも一人
1000円で夏の一日家族を連れて一流揃いのコンサートを堪能出来る恒例の行事
となりました。参加者23日21名、24日28名の多数。幹事の前田さんチケットの手
配ご苦労様、感謝感謝です。
曲目は印象派と云われる作曲家の作品が選ばれ、三枝成彰の充分なる説明があ
り鑑賞の手引きとなりました。最後の演奏曲目ボレロは曲自体の大衆性と親しみ易
さもあって聴衆を陶酔の世界へ導きスタンディングオベーションで応えるという盛り
上がりがありました。
終演後はいつものビアレストラン「レバンテ」で懇親会。感動と真夏の昼下がりに飲
むビール、つまみ料理共に最高。本日のコンサートについて、それにつながる音楽
談議と、さらには政治談議と盛り上がり尽きず。楽しい一日でした。
                                24日参加  古谷


★24日のコンサート模様がTV放映予定
8月25日(土)19:00〜 BS朝日放送で放送されました。
下の写真は24日の模様です。 
小さい写真をクリックすると拡大します。




撮影;新井 孚

大泉清さんから下記の「はじめてのクラシック」鑑賞レポートが届きましたので掲載いたします。(H24/08/11)

平成24年7月24日(火)
《華麗に響くドビュッシーやラヴェルを真夏に聴く。クラシックの醍醐味だ》
                          (法学部法律学科卒) 大泉 清

第1章19世紀末から20世紀初頭にかけて台頭した印象派
“本物”のクラシックを専用ホールで聴き、作曲家の三枝成影氏が演奏曲の解説や作曲家
のエピソードを分かりやすく説明してくれる「はじめてのクラシック 印象派ってなぁに?」が
今年も7月24日に丸の内の東京国際フォーラムホールAで開催された。今年で第6回目、
今回の演奏曲は曲順にドビュッシーの「小組曲」デュカスの「交響詩・魔法使いの弟子」スト
ラヴィンスキーの「バレエ組曲・火の鳥(1919年版)そして最後はラヴェルの名曲「ボレロ」
であった。オーケストラは東京交響楽団、指揮者は“炎のコバケン”こと小林研一郎。会場
は5000人の聴衆者で埋まった。

 午後2時開演のコンサートは、案内役の三枝成影氏の「印象派ってなぁに?」というトーク
で始まった。印象派といえば19世紀末にフランス絵画に登場した新しい作風でマネやドガ、
ルノワールなどが有名だが、音楽の世界にも現れ、従来のドイツ主体のクラシック音楽(バ
ッハやベートーヴェンなどクラシックの80%はドイツ人が作った)の価値基準を破壊して、新
しい音楽を作ろうとしたフランス人音楽家を総称するそうだ。

 ドイツとフランス。今やEUを代表する両国だが、普仏戦争後の19世紀末から20世紀初
頭にかけては、音楽の世界で両国は激しく対立していた。フランスの音楽家に革新的な流
れが起きていた。今までのクラシックの伝統や重みから音楽を解き放し、新しい音楽を作ろ
うとしたのだ。彼らは“打倒!ドイツ音楽”で立ち上がり、才気が満ちていた。ドビュッシーか
らラヴェル、ストラヴィンスキーらに続く印象派音楽の登場である。彼らの周りには詩人のヴ
ェルレーヌやボードレール、画家のモローなどの芸術家がいた。ドイツ主体の旧体制音楽か
ら脱皮して自分たち独自の音楽を作っていく。まさに改革である。

 筆者はこのコンサートの4日前、7月20日(金)にNHKホールで開かれた「N響『夏』201
2」を妻と妻の犬友達らと一緒に聴いた。演奏曲の中に近代フランスの作曲家を代表するサ
ン・サーンスの「交響曲第3番ハ短調 作品78」があったが、確かに重厚なクラシックとは曲
調が違い、「フランスのエスプリ(才気)」が流れているような感じが素人目にもした。サン・サ
ーンスはフランスの作品を世に出すために「国民音楽協会」を創設し、「フランス軍隊行進曲
」を作曲したことでも知られている。

第2章水や雨、海など自然の情景をイメージさせるドビュッシーの「小組曲」から
 午後2時35分から演奏開始。最初はクロード・ドビュッシー(1862年〜1918年 享年56)
の「小組曲」。1886年から1889年にかけて書かれ、24歳から27歳にかけての作品である。
三枝氏の解説によれば、ドビュッシーがまだ印象派と呼ばれる前の作品との事だ。プログラム
の曲目解説にも「ベートーヴェンからブラームス、シューマンヘに至るドイツ的な音楽への決別
を前提として書かれているが、まだ彼の不定形で幻惑的なところはあまり見られない」とある。
彼がフランスを代表する作曲家に成長する前の作品なのだろう。

「白門40年会」との絡みでいえば。2日前の7月22日(日)に銀座で「暑気払い」が開かれたが
、その前に十数人の会員は京橋のブリヂストン美術館で開催されている「ドビュッシー、音楽と
美術――印象派と象徴派のあいだで」を鑑賞した。パリのオルセー美術館とオランジュリー美術
館との共同企画である。

「ドビュッシー、音楽と美術」「美術愛好家との交流」「アール・ヌーヴォーとジャポニズム」など各
章に分かれて展示されていたが、マルセル・バシェの憂鬱そうに見える「クロード・ドビュッシー
の肖像」やルノワールの「ピアノに向かうイヴォンヌとクリスティーヌ・ルノール」、エドゥアール・
マネの「浜辺にて」クロード・モネの「睡蓮」など約150点が展示されており、音楽家の彼がフラ
ンス印象派の画家たちといかに親しかったかがよくわかった。さらに日本の浮世絵にも関心が
高く葛飾北斎の「冨嶽三十六景」や歌川広重の「東海道五十三次」も多数展示されていた。こ
の展覧会は10月14日まで開催中なので、フランスの印象派に関心のある人にはお勧めの展
示である。

日本人にファンの多いドビュッシーは、また日本びいきで彼の居間には浮世絵が飾られていた
との事だ。さらに、妻と別れた後は、人妻と交際、今風に言うと不倫である。当時のパリ社交界
では一大スキャンダルになったという。音楽に革新を求める一方、他の面でも何かと話題に多
い作曲家だったようだ。56歳での早世だが、人生を楽しんだことだろう。

2番目に演奏されたデュカス「交響詩『魔法使いの弟子』は、この一曲で有名になった音楽家
である。文豪ゲーテの詩を題材にして書かれた曲で魔法使いの弟子が親分に頼まれた水汲
みの仕事をさぼり、ほうきに魔法をかけ自分の代わりにやらせていたが、魔法が効きすぎ屋
敷の床が水浸しに。焦った弟子はほうきをまっぷたつに割ってしまう。しかし、このほうきがそ
れぞれに水を汲み続け、当たり一面が水びたしになってしまう。だが、弟子はほうきにかけた
魔法を解く呪文を知らない。弟子が困っている時に戻ってきた親分の魔法使いに解く呪文をか
けてもらいやっと騒動はおさまるが後で、親分の魔法使いに怒られるーーといった曲である。
この曲はディズニー映画の「ファンタジア」(1940年)と「ファンタジア2000」(2000年)に使
われた曲でミッキーマウスが魔法使いの弟子になったことでも知られている。最後はミツキー
が親分にドーンと蹴られて、部屋から追い出されるシーンが目に浮かぶところで終わる。

第B章「火の鳥」の作曲家ストラヴィンスキーはココ・シャネルの恋人だった
帝政ロシア生まれの作曲家ストラヴィンスキーの代表曲で、ロシア民話を基にして、火の鳥が
王子イワンと魔王カスチュイの宮殿に捕えられた王女ツァレヴナとの恋を助ける物語である。
初演は1910年。彼を応援してくれた20世紀前半の名プロデューサーであるセルゲイ・ディア
ギレフとの関わりで生まれた曲だ。ロシアバレエを代表する曲としてお馴染みで、氷上を舞う
女子フィギアスケートの選手にもよく選曲される。

 彼が活躍し始めた20世紀前半には1914年に第一次世界大戦、1917年にはロシア革命
が起きた。この革命でストラヴィンシキーがロシアに持っていた広大な土地は没収されスイス
に亡命し、やがてパリに移った。亡命先で彼を援助したのがココ・シャネルだ。バレエの衣装
やデザインを担当したこともあり、やがて2人は恋人関係になっていく。
 ココ・シャネルは、今ではファッションブランドとして有名だが、彼女が最初に作ったのは第一
世界大戦の最中に工場で働く女性のためのミニ・スカートである。当時の女性がはくスカート
は長くて工場で働く時の仕事着としては不便だった。機械に巻き込まれる危険があったからだ。
彼女はこのような事故を防ぐために、ペンやスパナが入るポケットが4つあるミニ・スカートを考
案した。ファションとしてではなく「働く女性のスタイル」としてミニを作ったのである。

 ココ・シャネルが定宿として使ったのがパリのホテル「リッツ」。映画「昼さがりの情事」の舞台
やイギリスの故ダイアナ妃が事故死直前まで滞在していたホテルとしても有名だ。筆者は200
0年(平成12年)に週刊誌「女性自身」記者として、当時“美白の女王”として人気の高かった
故・鈴木その子のパリコレクションを同行取材した時にこのホテルを訪ねたことがある。鈴木そ
の子との記者会見はココ・シャネルの部屋で行われた。この部屋にはシャネルが使っていた机
や椅子、ベッドや浴室が今でも往時そのままで残されていたのは、今でも鮮明に記憶している。
これは余談だが、このホテルにはドレスコードがあり、一緒に行ったジーンズ姿のカメラマンは
ホテルの入り口で“入館拒否”され、カメラマンが急いで着替えに走ったことも忘れられない思
い出だ。

さて、話をバレエ組曲「火の鳥」に戻そう。この曲は何度も編曲され1910年の初演が全曲版、
その後1911年版組曲、1919年版組曲、1945年版組曲がある。何故、こんなにも多いのか?
それは第一次世界大戦でオーケストラの楽師が従軍や戦死で数が足りなくなり、そのために
楽器の数を変えたからといわれている。これとは別に組曲が多いのは、バージョンが違えば、
それだけ楽譜が売れるとい狙いもあったらしいがーー。今回、演奏された1919年版はオリジ
ナルより打楽器が減っているそうだ。約25分間の演奏を聴いていて、土俗的なロシアバレエ
の舞台が脳裏によぎる印象であった。

第C章 小太鼓のリズムが続く「ボレロ」。終了後は会場から拍手と「ブラボー」の声
  最初に、案内役の三枝成影氏から小太鼓奏者の紹介があった。モーリス・ラヴェルの代表
曲「ボレロ」はこの小太鼓の規則的で同じようなリズムが続くのが特徴であるからだ。続いて
サキソホンとトロンボーンの奏者紹介。小太鼓に乗って管楽器が響くのもこの曲の聴きところ
である。序盤から始まるボレロのリズムは最後の2少節まで169回も繰り返される。 こうした
紹介があるのも、このコンサートならではのもので、聴く側にとって、曲が理解しやすくなって
くる。三枝氏の説明によれば、ラヴェルはフランスのバスク地方出身で、日本にきた宣教師
フランシスコ・ザビエルやキューバ革命の指導者チェ・ゲバラなどもバスク出身という事だ。バ
スク人はスペインやフランスに約250万人、全世界では1500万人に及ぶという。ベレー帽
を被るのが特徴という。

 演奏は小太鼓から始まり、やがて管楽器から打楽器へと流麗に進でいく。繰り返されるリ
ズムはどこかで聴いた記憶があり、よりいっそう親しみが持てる。この曲は映画にもよく使わ
れているからだろう。我々の世代にはクルード・ルルーシュ監督のフランス映画「愛と哀しみ
のボレロ」(1981年)が懐かしい。20世紀を代表する芸術家たち4人、名前を挙げればヘル
ベルト・カラヤン、グレン・ミラー、ルドルフ・ヌレエフ、そしてエディット・ピアフ。それぞれ国籍
の違う4人の愛とさすらいの人生を描いた名作であった。40年会の会員も観た人が多いだ
ろう。また“ボレロ”は女性がファション用に身に付けるチョッキとしても親しまれている。
曲はある酒場で踊れなくなった踊り子の苦悩を描いているとのことだが、最後にクライマック
スを迎える。聴く側にとって、演奏に陶酔し、現実と非現実との境に身を置きながらテンション
を高めた時に、まるで風船が破裂したかのようにピタリと終わる。

15分ほどの演奏が終わると会場は静から動へ。立ち上がって拍手する人が多く、会場のあ
ちこちから「ブラボー」の掛け声が飛んだ。会場が一体となって、オーケストラに賛辞を贈る。
まさにクラシックの醍醐味だ。一昨年はモーツアルト、昨年はドヴォルザーク、今年はドビュッ
シーやラヴェルなどを堪能したコンサートだが、チケットは1000円。クラシックコンサートは80
00円から1万円前後するから、まさに格安だ。来年はどんな演目になるのか楽しみである。

コンサート終了後に隣接するレストラン「レバンテ」で懇親会が開かれ、10数名が参加。真夏
のクラシック談議に話が弾んだ。生ビールを飲みながら、暮れなずむ都心で40年会のメンバ
ーと歓談する。楽しいひとときだ。このイベントを毎年、企画してくれる前田紘子さんに感謝した
い。来年もヨロシクね。

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