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2021年8月16日
  24時間心電図測定装置の装着

 その兆しは2020年11月の家内と行った北陸旅行での「七尾城址」見学で、本丸までの坂道を登っている時に発生しました。それほど厳しい坂道ではなかったのですが、途中で死ぬほどの息苦しさを覚えたのです。これについては、43会ホームページ「GO-TOトラベルでの北陸旅行」でも紹介しました が、その時は体力の衰えとコロナ太りが原因だと思っていました。
 その後12月に家内と日光東照宮に行った時にも階段を上ったところで呼吸が異常に苦しくなり、更に今年になってウオーキングで家の近くの入谷の交差点の歩道橋で同じような経験をしました。さすがに心配になって掛かりつけ医師に相談したのですが、特に問題はないと言われてしまいました。そこで思いついたのは“マスクによる酸欠”でした。前の2回の旅行の時も歩道橋の時もマスクを付けていたのでマスクが原因だと思ったのです。このことも43会ホームページで「マスクによる酸欠に注意」として紹介させていただきました。
 ところが、その後も件の歩道橋だけではなく駅の階段などでも動悸が烈しくなることから、やはり心臓に異常があるのではと思うようになりました。そこで掛かりつけ医師に再度相談してみました。

私:前にも相談したのですが、長い階段を上った時に異常に呼吸が苦しくなるのです。マスクのせいかと思っていたのですが、最近それが頻繁に発生するようになったので、もしかして心臓がおかしくなっているのではと思うようになりました。それについて調べてもらえませんか。
医師:方法としては、24時間限定で装着する「心電図測定装置」を装着して調べるのがいいと思います。
私:その装置というのは日常生活に不便なほど大掛かりなものではないでしょうね。
医師:非常にコンパクトなものなので負担にはなりません。防水にもなっているので、シャワーくらいの水なら大丈夫です。

 ということだったので、すぐに装着してもらうことにしました。定期健康診断の時の心電図検査と同様に、胸から腹に細いコードが貼り付けられ、最後に小さな電池を内蔵した5センチ四方くらいの測定器がへその上あたりに付けられました。ただでも突き出ているお腹が更に不自然に突き出る結果になりましたが、それ以外には特に不自由なことはありませんでした。そして、医師からは、時間別に何をしたかを細かく記録する書類をもらいました。

私:これを装着して歩道橋を上り、しっかり測定したらすぐに外していいのですか。
医師:いえ、それだけではなく、日常の生活の中でも測定する必要があるし、本人の自覚がない睡眠中も測定する必要があります。そして明日の今頃来院してもらった時に取り外します。
私:それでは、歩道橋を上るだけでなく、その後家でゴロゴロとオリンピックテレビを見ていてはいけなく、いろいろ身体を動かさないと測定効果が出ないのですね。
医師:その通りです。

 かくして、心電図測定装置を装着した私は、一度家に帰ってウオーキングの準備を整え、まずは入谷の交差点の歩道橋を上ることにしました。この日の東京は最高気温が35度と言われており、10時近い午前中でも30度は超えていました。入谷交差点の歩道橋はごく普通のものなのですが、上り切った所でまた死にそうになったらどうしようと思いながら上ってみると、動悸・息切れはするものの何とか耐えられたので、気分をよくしてそのまま少し歩くことにしました。炎天下、入谷駅の次の三ノ輪駅まで汗びっしょりになりながら30分位歩いた後、三ノ輪駅から地下鉄日比谷線に乗って2つ先の北千住駅に向かいました。北千住駅には丸井が隣接しており、私はここの地階の生鮮売場で魚介類や野菜・果物を、1階の「マダムボンパドゥール」でパンをよく買っているのです。また、2階には「椿珈琲」という洒落た店があり、私はここのチーズケーキが大好きなのです。肥満体で糖尿病の気がある私ですが、昼食代わりにチーズケーキを1個だけ食べるのはセーフと勝手に決めており、10日に1度くらいのペースでこれを続けているのです。

 この日も、「椿珈琲」のチーズケーキ(地階での買い物)、「マダムボンパドゥール」でパンというコースをこなしてから地下鉄で入谷駅に戻りました。家に帰ってからシャワーで汗を流し、シャーベットを食べて身体を冷やしてからのんびりとテレビ鑑賞をしました。
 4時過ぎになってから、このままゴロゴロしていては心電図測定の効果が出ないことに気が付き、まずは部屋の掃除をすることとし、2階の居間と階段、3階の部屋と階段を掃除しました。我が家では部屋の掃除は私の分担になっており、そのために2階には普通の掃除機、3階にはコードレスの掃除機が用意してあるのです。掃除を終えた後は、300鉢の植木への水やりです。まずは20坪ほどの屋上にある100鉢の植木鉢にホースで水をやり、その後昼間の太陽で火傷するほど熱くなっている床にも水を撒いて冷やすのです。我々夫婦の寝室が3階なので、これをしないとクーラーを暫らく付けていないと部屋がなかなか冷えないのです。
 朝の診察時に「体重が増えて、体脂肪が増えて、糖尿の数字やコレステロール値が高くなっているのでしっかりと対策しないとより強い薬が必要になる」と医師から警告されていたので、軽い夕食を食べ、オリンピックのテレビを鑑賞してから9時過ぎに入浴しました。その後もテレビ鑑賞した後に10時過ぎに寝たのですが、いつものようにNHKの深夜放送を聞いていると丁度サムライJAPANの対韓国戦をやっており、8回裏同点のところ山田の満塁一掃の劇的な二塁打が出て、9回表は栗林がしっかりと押さえて決勝に進むということになり、興奮して眠れなくなってしまいました。翌日は朝一番に病院に行く約束になっていましたが、すっかり目が冴えて1時頃まで眠れませんでした。
 翌日、6時半に起床し、軽い朝食を食べた後に、8時半頃家を出て病院に向かったのですが、コロナワクチン接種らしき母息子に1秒差で一番をとられてしまいました。
 私の番になって医師から心電図測定装置を外してもらいましたが、医師の手際が悪いのか、私の皮ふが弱いのか、コードを貼り付けていた部分が赤くなってしまいました。その後のウオーキングで汗をかいたせいもあってお腹の皮ふがあちこち赤く腫れあがりひどい目にあいました。結果は2週間くらい後ということで、病院から連絡してもらうことになりました。
 医師から、「歩道橋ではどうでしたか」と聞かれたので「多少の動悸・息切れはありましたが死ぬほどではありませんでした」と答えると残念そうな顔をしたので、これはまずいと思い「北千住から帰って入谷駅の階段を上った時や、今日ここまで歩いてきた時にも動悸や息切れがありました」と追加報告をしましたが、医師は余りいい顔をしませんでした。あとは結果待ちということですが、これは個人情報なので皆様には内緒です。

2021年7月19日
  待ちかねたワクチン接種

〇 6月11日(金)
 5月17日の午前9時から3時間、私と家内と娘の3人が携帯電話2つ、固定電話、パソコンを使っての悪戦苦闘の結果、やっと予約が取れたコロナワクチンの第1回目の接種期日がきました。予約した時はずいぶん先のことと思いましたが、いざとなってみると以外に早いものでした。この日は2時45分に上野の栄寿総合病院に来るようにと指定されていました。ワクチン接種に備えて前日は一日中家でおとなしく過ごし、早めに就寝し、6時半頃起床しました。昼食を済ませて、私の副作用を心配した家内とともに2時頃に家を出て、タクシーで栄寿総合病院に向かいました。この病院は昨年春にコロナの集団感染でマスコミを騒がせた病院ですが、我家から近く、また掛かりつけの医師が非常勤勤務していたことから、今回の接種予約に際して台東区から選択するようにと提示された7つの会場の中から我々夫婦で選んだのです。
 病院に到着すると、正門の周辺に多くのタクシーが何台も待機しており、遠くから乗り付けた高齢者がワクチン接種を終えるまで待たせているようでした。タクシーを降りると病院の案内の人が、接種会場のある場所を教えてくれました。接種会場は病院の敷地内に建てられたプレハブの建物で、入口の看護師さんに「2時45分に予約している八束一郎です」と伝えると書類を確認して「どうぞ中へ」と言うのです。「もう入れるのですか」と私、「すぐに打てます。打つ前に心の準備が必要ですか」と看護師さん、「いや、すぐに打ってください」と私。中に入って手の消毒と検温の後に受付の看護師さんに「本人確認書類」、券番号が印刷されている「クーポン券」と「予診票」を提出して台帳で確認してもらいました。私が「クーポン券」のシールを「予診票」に貼ってしまっていたのを見て「これは最後にこちらで貼ることになっているんです」と怒られてしまいました。次に、医師による予診ということで、狭いコーナーに入って座り医師に「予診票」を見せると「本日の体調はどうですか。予防注射をしたことがありますか」と医師、「絶好調です、過去にインフルエンザ予防注射をしたことがありますが何ともありませんでした」と私。その後に隣の狭いコーナーに行くように指示されました。ここには年配の女医さんが居て「左腕に打ちます。半袖を肩くらいまで捲って押さえていてください」と言うのです。半袖シャツを更に捲り上げていると「打ちます」と女医さん。そしてあっと言う間もなく注射を終えてしまいました。普通注射は刺す時にちくっと痛いはずなのですが、それもなく、注射器の中身が体内に注入されたという感覚もないままに終わってしまいました。よほどこの女医さんの腕が良かったのか、一人分のワクチンが少なかったのかわかりませんが奇妙な経験でした。私は3ケ月に一度、掛かりつけのクリニックで血液検査をしており、その時の針に較べて今回の針が細かったせいのようでした。
 その後ワクチン接種に関する注意事項の書類を渡されて15分間待機するように言われました。2時32分になったら「予診票」を出口前の看護師に渡して帰っていいとのことでした。繰り返して言いますが、2時45分の予約だった私が30分前の2時15分に病院に到着したのですが、2時17分には注射を終えて待合室に入ったのです。ここには折り畳み椅子が50脚ほど間隔を空けて並んでおり、この時に座っていたのは10名くらいでした。待合室は空調がきいており、大型テレビでは沖縄の綺麗な海の映像が写していました。室内には看護師さん(それも若くて綺麗な)が3~4名おり、テレビ画面よりもこちらの方が気持ちを和ませてくれました。後ろにワクチン接種を終えたばかりの夫婦が座っており、帰ってよい時間が3分くらい違っていたようで、夫の方が妻に「俺の時間まで待っていてくれよ」と言い、妻の方は「いやよ」などと返事していました。その後、外で待っていた家内と合流し、私の第1回目のワクチン接種は無事に終了しました。家内は私を待っている間に看護師さんに「こんなに空いているのなら、自分の予約は明日だけど今日打てないか」と依頼したようですが断られたとのことでした。副作用については、その夜になって打たれた左腕にやや違和感があった程度でした。翌日は家内がワクチン接種なので、今度は私が付き添いとして同行することになっていました。

〇 6月12日(土)
 この日は家内の第1回目のワクチン接種の日です。前日の私の時と同じく、2時前に病院にタクシーで向かい、同様の手順で接種を終えました。家内も私同様に痛みもなく、副作用についてもほとんど無かったとのことでした。テレビで毎日のように大げさに騒いでいる副作用については、かなりの過剰反応ではないかと思いました。

〇 7月2日(金)
 この日はいよいよ2回目のワクチン接種日です。1回目の経験から早めに行っても大丈夫と思ったので付き添いの家内とともに予約した2時45分より1時間早い1時45分に家を出てタクシーで栄寿総合病院に向かいました。天気は生憎の雨でした。前回と同じように受付で申告すると、前回は無かった整理番号札を渡され「少しお待ちください」と受付前のテント下の椅子に座るように言われました。これは以前に予約より早く来た人を入れたことでクレームが出たために手順が厳しくなったのかと思いましたが、心配は無用で2~3分して先に待っていた人達が終わるとすぐに入れてもらえました。あとは1回目と同じで、手の消毒、検温の後に必要書類の点検があり、「予診票」を持って医師の前に座りました。医師は「今日の体調はどうですか、前回の接種の後はどうでしたか」と聞いてきたので「体調はいいです、前回の接種の後は何ともなかったです」と答えると次のコーナーに回されました。次のコーナーでは妙に色っぽい30歳位の女医さんが待っていて「どちらの腕に打ちますか」と聞いてきたので「前回は左でした」と答えると「それなら左にしましょう」と言って左腕の肩に近い場所に針を刺してきました。前回と違って針がしっかりと刺さる感覚と、液体が注入される感覚がありましたが、特に痛いということはありませんでした。
 その後は待合室で15分の待機となりました。その前に「新型コロナウイルスワクチン予防接種済証」というカードを交付してくれました。テレビ情報では、近々に海外渡航者用の「ワクチンパスポート」の申請を受け付けるとの報道があり、私は海外旅行には行く気はないけど何かの時に見せることのできるものが欲しいと思っていたのでよかったと思いました。待合室で待っている間に室内を観察していると、待機している人は前回の倍の20名くらいで、病院側の人は前回と違って私服の中年の女性がほとんどでした。おそらく元看護師か単なるパートのおばさんだと思いましたが、前回のような若々しい看護師がほとんど居なかったので待っている時間が長く感じられました。待合室を出てもいい時間は2時17分で、前回が2時32分だったので15分早いことになり、早めに家を出たのは正解でした。
 前回のワクチン接種の後にいろいろな人からいろいろなことを言われ、2回目の時は副作用がきついとか、熟が出るとか、1回目と2回目の間に感染する人が多いというようなことでした。家内が心配して掛かりつけ医師から「解熱剤」を貰ってきたようでしたが、おそらく必要ないと思いました。でも、テレビなどによると、町の薬局では解熱剤が売り切れになっているようで、これは薬屋の“陰謀”ではないかと思いました。
 今回のワクチン接種のドタバク騒ぎを振り返ってみると、行政の手際の悪さが目に付きました。ワクチンの接種を受ける高齢者が、何を望んでいるのかがわかっていない、百歩譲ってわかっていても時間的・物理的にできなかったとしても、頭がいいはずの役人がいかに想像力不足だったか、作業手順の見通しが悪かったかが顕著に表れていたと思います。具体的には、高齢者がワクチン接種に際して望んでいたのは第一に自宅の近所にあって安心できる「掛かりつけ医師」による接種だったと思います。中には「掛かりつけ医師」のいない高齢者もいるかもしれませんが、それは極めて少数派で、そういう人は自治体が指定する大病院で接種すればよいのです。現に、私が住む台東区の区報では、ワクチン接種を受付けるクリニックの一覧表(52ヶ所)が大病院7ヶ所とともに記載されており、接種希望者はそのいずれかを選択できるようになっていたのです。でも現実は、予約電話開始日の5月17日に「掛かりつけ医師」のクリニックに電話すると「まだワクチンが届いていないので予約受付できません、何時ワクチンが届くのかもわかりません」との答えなのです。そのため接種希望者は必死になって7ヶ所の大病院の予約を受付ける「台東区コロナワクチンコールセンター」に電話することになるのです。私の場合は、私と家内と娘が3時間にわたって携帯電話2つ、固定電話1つ、パソコン1台で掛け続けてやっと予約できたのですが、本当は私も「掛かりつけ医師」のクリニックでの接種が第一希望だったのです。こうした混乱を防ぐためには、大病院での接種予約の1~2日前に「掛かりつけ医師」の予約ができるようにしておけば、少なくても大半の希望者は52ヶ所のクリニックに分散して予約が容易にとれたでしょうし、その後の7ヶ所の大病院の予約もあれほどの混雑・集中が無かったと思います。実際に、大病院で予約した後に「掛かりつけ医師」の予約がとれた人も多くいて、その大部分の人はおそらく大病院の予約をキャンセルすることなく「掛かりつけ医師」の方に行ったのでしょう。私達夫婦が予約時間前にワクチン接種ができ、栄寿総合病院があれほど空いていたことからもそれが裏付けられると思います。私も家内から「病院をキャンセルして掛かりつけ医師に行こう」と言われたのですが、予約の時ほどでなくてもキャンセル電話に時間がかかりそうなことが予想されたので止む無く第二希望だった大病院に行くことにしたのです。キャンセルせずに掛かりつけ医師に行くという選択肢は正義感の強い私にはできませんでした。行政はその後この2つの選択肢に加えて、大規模接種会場を東京と大阪に設置し、自衛隊の要員でこれを運営させるということを発表しました。東京の場合は大手町のビルが会場でしたが、予約は高齢者が苦手なパソコンのみで受付けるということと、会場がわかりにくいことが相まって1日に1万人が接種できるのに実際には半分も希望者が出ないという事態になったのです。そこで行政は促進策として、対象を東京都民に限らず首都圏3県に広げ、それでも効果がないと更に日本全国からも受付けることにしたのです。近所の掛かり付け医師にワクチンを打ってもらいたい高齢者が、神奈川、千葉、埼玉から不慣れな大手町に駆けつけるはずがなく、ましてや北海道や九州から飛行機に乗って大手町に来るはずがないということに気が回らない“頭のよい”役人には正直驚きました。その後も更に迷走して、電話での予約を受付けるとか、予約なしでも受付けるとした舌の根が乾かないうちに、やはり予約が必要というように行政に携わる者として絶対にやってはならない典型的な“朝令暮改”をやったのです。大手町で毎日1万人に接種するというのなら、大手町の周囲の官庁街の公務員や、周辺の大企業のサラリーマン等に打つのが順当だったと思います。でも次に行政が打った対策は、65歳以下の人にも対象を広げるという現状を無視した(ほとんどの区では65歳以下の区民にワクチン接種の書類をまだ郵送していなかった)馬鹿なもので、これに応じることができたのは他の区に先駆けて65歳以下の区民にワクチン接種の書類を郵送した中野区だけでした。あとの若い人達は行政のこうした不手際を見てますます不信感を高めたことと思います。

〇 7月3日(土)
 この日は家内の2回目のワクチン接種の日でした。朝のうちに降っていた雨も昼頃には止んで、家内は自転車で栄寿病院に行くので私の付き添いは不要と言ってきました。あとで「自分は付き添いで行ったのにあなたは来なかった」と言わないことを確認の上で私は家に残りました。
 あとで家内に確認すると、前日同様に混雑はなく、2時30分には解放されたとのことでした。その後も発熱や倦怠感などはなく、1回目とほぼ同じだったようです。私も1日経過しても副作用と思われる症状はなく、夫婦共々無事に2回のワクチン接種を終えたようです。
 テレビなどの報道によれば、最新の情報として高齢者のワクチン接種者数は対象者の20%を超えているようで、感染者の中に占める高齢者の割合も5%程度になったとのことです。明らかにワクチンの効果があった訳で、今後若い人達が積極的にワクチン接種を行えばオリンピックには間に合わないかもしれませんが、年内には収束に向かうものと思われます。早く収束して来年の新春の集い、総会、諸行事がいつも通りに開催できたらいいなと心から思いました。

2021年6月14日
  私の名画紀行-1「頭上の敵機」

 私が“軍事オタク”であることは、以前投稿したホームページで披露しましたが、併せて小学校の頃から映画好きでもありました。当時はテレビも出始めで内容が乏しかったこともあり、迫力のある映画の方が魅力があったのです。また、私が通っていた学校がミッション系だった関係で宗教的な映画(十戒、ベン・ハー、キングオブキングス等)に学校が連れて行ってくれたこともあり、当時は年間60本以上も見ていました。勿論、その中には多くの戦争映画も入っていました。
 定年後あたりから、昔見たこれらの映画を再び見たくなり、ビデオやDVDを買い漁るようになりました。そしてこれらを繰り返し見るうちに、その何本かの戦争映画が実によくできていることに気が付きました。そこでこれらの“名画”の中から何本かを選び、43会の皆様に紹介してみようと思います。

【頭上の敵機】
原題:Twelve O’Clock High
制作:20世紀フォックス
監督:ヘンリ-・キング
主演:グレゴリー・ペック、ディ―ン・ジャガー

(あらすじ)
 時は第二次世界大戦中期のヨーロッパ戦線で、イギリスの基地から飛び立ってナチスドイツの占領地やドイツ本国の軍事施設を爆撃しているアメリカ第8航空軍の爆撃機部隊の物語です。
 主演のG.ペックは、“空の要塞”と呼ばれたB17重爆撃機部隊の指揮官から昇進して航空軍の参謀副長(准将)になった軍人を演じています。当時の第8航空軍は安全であるが正確な爆撃ができない夜間爆撃を止めて危険ではあるが正確に目標を破壊できる白昼爆撃を行っていました。そのため成果は上がっているものの、ドイツ空軍の戦闘機や地上からの高射砲で撃墜される被害が多く出ていました。当時は爆撃機を護衛できる長距離戦闘機がまだ無かったので、爆撃機は近接した編隊を組んで機載機銃の弾幕で敵戦闘機を追い払うしかなかったのです。そんな中である爆撃機部隊の被害が突出していることがわかり(出撃21機に対して撃墜された機が5機)、航空軍司令官と准将が事情調査したところ爆撃機部隊のパイロットが疲労のあまりミスを多発し、部隊指揮官も部下に甘いことがわかったのです。そこでこの指揮官の更迭が決まり、代わりにG.ペック扮する准将がこの部隊の指揮官に任命されたのです。准将は厳しい規律の徹底と猛訓練で部隊を立て直そうとするのですが、前の指揮官を慕うパイロット達はそれに反発し、全員が転属を希望するという事態になるのです。これには准将も困り果て、ディ―ン・ジャガー扮する副官に相談して時間稼ぎのために転属書類の審査を遅らせたりします。しかし、このトラブルを聞きつけた軍の監察官が乗り込んで事情聴取を始めるという最悪の事態になるのですが、ここでパイロット達が気持ちを変えてこの危機は辛うじて乗り切ることができたのです。
 その後、准将は連日爆撃機に乗り込んで陣頭指揮をとるのですが、厳しい任務での疲労と次々に戦死する部下に対する心労で、ある日の出撃時に倒れてしまうのです。そして自分の爆撃機部隊が任務を遂行して基地に戻るまで金縛りのような状態になるのですが、爆撃機部隊が多少の損害を出したものの成果をあげて戻って来たと聞くと安心して眠りに就くのです。

(注目点)
 この映画が最も強く言いたかったことはリーダーシップのあり方だったと思います。生死を賭けた戦いの中、指揮官は強い信念の下で高い理想を掲げ、孤独に堪えながら率先垂範して任務を遂行しなければならないのです。
 私がこの映画を見て感じたことは、こうしたことは日常の社会生活の中でも参考になるのではということでした。私も長い間サラリーマン生活を過ごしてきたのですが、係長、課長、部長と昇進する中で、多くの昇格者教育を受けてきましたが、難しい講義の合間にこの映画を見せたらよかったと思いました。
 日頃の会社生活と戦争という過酷な生活とは比べることができないかも知れませんが、パワハラなどで自殺する者が多いと言われる昨今、パワハラする側、される側ともにこの映画を見て頑張れるようになれるのではないかと思いました。

 (うんちく)
〇 B17重爆撃機

 1935年にボーイング社で製造された4発の重爆撃機で、頑丈な機体と12丁もの機載機銃によりなかなか撃墜できない機ということで「空の要塞」と呼ばれていました。速力は時速524㎞、航続距離2,800㎞、搭載能力5トンでその後B24やB29が実戦に投入されるまでに12,700機が製造されたようです。

〇 准将の陣頭指揮
 この映画には実際のモデルがいたのですが、この映画ではフランク・サベージ准将という名前になっています。アメリカ軍でも准将が陣頭指揮で敵地爆撃に行くというのは珍しいことでした。そのため「頭上の敵機」はこの映画だけでなくテレビでも連続放映されており、私もよく見ていました。
 旧日本軍では、飛行機に乗って敵地に乗り込むのは少佐までだったようで、映画「トラトラトラ」では真珠湾攻撃隊の総指揮官だった淵田中佐が仲間に「中佐で飛行隊長かよ」とからかわれているシーンがありました。

〇 アカデミー賞
 この映画はアカデミー賞にノミネートされ、副官を演じたディ―ン・ジャガーがその渋い演技を評価されて「助演男優賞」を受賞しています。G.ペックはこの時は賞を逃しましたが後に「アラバマ物語」で主演男優賞を受賞しています。また、G.ペックは「ローマの休日」でオードリー・ヘプバーンと共演しているので、この映画で新聞記者を演じていたG.ペックを記憶している会員も多いかと思います。

〇 原題の「12時上」について
 我々は前後左右の2次元で行動していますが、パイロットはこれに上下を加えた3次元の世界に居ます。そこで空中で発見した相手の位置を伝える時に、時計の文字盤のように言うのです。この映画の原題のTwelve O`Clock High は12時方向上すなわち頭の上という意味になります。

2021年5月31日
  コロナワクチン接種の予約騒動

1.これまでの経緯
 かれこれ1年半が経過するコロナ騒動ですが、昨年暮れ頃に政府が「日本の全国民分のワクチンを確保した」という発表をしたのを聞いて、さすがに“経済大国日本”だと心強く思ったものです。そこで12月2日に開催された43会の役員会においても、今年2月の「新春の集い」および7月の「定時総会」の開催について審議した時、「新春の集い」についてはしっかりと感染対策をとった上でなら開催は可能であるとの予測を立てていました。また、「定時総会」については、7月のオリンピック開催を前にして政府や東京都が必死に感染防止策を強化し、かつまた3月からワクチン接種が始まるようだったので感染は急激に改善されて7月2日の定時総会は「新春の集い」以上に確実に開催可能との説明をし、役員の大部分もこれに納得していました。
 実際には、1月7日に第二次緊急事態宣言が発令され、1日の感染者数も全国で最大7829名(1月8日)、東京都のそれは最大2447名(1月7日)という事態を受けて「新春の集い」は中止になりました。第二次緊急事態宣言は東京、神奈川、千葉、埼玉を除いては2月28日に解除されましたが、その後も首都圏の感染者数は大きく減少しないまま3月21日に解除となりました。こうした状況から、定時総会の開催をどうするかということで、3月10日に会長、幹事長、総務委員長と私とで打ち合わせを行い、ワクチン接種がほとんど進んでいない状況下で危険を冒してまで親睦団体である43会の総会を強行する必要はないとの結論に達しました。そして4月7日に開催された役員会にこの方針を提案し承認を得て、総会は昨年同様に議決権行使書方式で行うことになりました。
 その後のコロナ状況は、4月12日に東京23区、京都、沖縄に「まん延防止措置」という中途半端な規制が発令され、感染が更に拡大する中、4月25日に東京、大阪、京都、兵庫に第三次緊急事態宣言が発令されたのです。この宣言は5月11日に解除予定でしたが、感染者数は全国で7244名(5月8日)、東京で1121名(5月8日)と大きく伸びていたので5月末まで延長となりました。
 ワクチンについても、2月中旬に始まった第一優先の医療従事者370万人の接種がまだ半分程度のようですし、4月中旬に始まった第二優先の高齢者3600万人もほとんど進んでいない状況から、5月末の第三次緊急事態宣言解除は難しい状況だと思います。(その後6月20日まで延長されました。)
 ワクチン接種が大幅に遅れているのは、ワクチンを感染が深刻な国(と言っても主として欧米の先進国)を第一優先として、真面目な国民性から多くの感染者が発生していない日本を後回しにすべしという国際世論から約束通りにワクチンが日本に届かなかったためで、日本政府の手落ちだけではないようです。但し、オリンピック開催国という立場を利用して、IOC等とともに、もっとしたたかに交渉できなかったのかという不満は払しょくできません。この時期、私としては、年内にワクチン接種ができればラッキーというような諦めの気持ちになっていました。

2.ワクチン接種の予約
 そんな中、河野ワクチン担当大臣が「6月末までに全国の自治体に必要な数のワクチンを配布する」との発表を行い、菅総理からも「7月中に高齢者のワクチン接種を終えたい」とのコメントがありました。7月の30日間で3600万人の高齢者にワクチン接種を行うためには1日に120万人の接種が必要で、私としては「本当かね」という気分でした。
 ところが4月20日、私の居住区である台東区から「広報たいとう」が届き、高齢者のワクチン接種予約を5月17日から受け付けるというのです。その後、台東区保健所から「新型コロナウイルスワクチン接種券」、「予診票」「説明書」「よくある質問」「接種のお知らせ」等が入った封筒が届きました。そして5月17日の9時~18時に電話して接種会場を7ヶ所の中から選び、1回目の希望日時を指定(2回目は3週間後の同時刻に自動的に決まる)するようにとのことでした。これでやっと“ワクチン接種が始まるのだ“という実感が湧いてきました。 その後、5月5日に「広報たいとう」、その少し後に「新型コロナワクチン接種特集号」が届き、予約に必要な情報として、①接種券番号 ②生年月日・連絡先 ③接種希望場所・日時 を電話で伝えるようにとのことでした。また、「新型コロナワクチン接種特集号」では、インターネット予約の方法、ワクチン接種が可能な最寄りのかかりつけ診療所の一覧表も掲載されていました。 そこで私達夫婦が毎月診察を受けたり薬を出してもらっているかかりつけ診療所に電話してみましたが、「まだワクチンが届いていないので、予約の予定も立たない」との返事でした。そんなことなら台東区の広報誌に一覧表など出すなよと思いました。
 その頃のテレビでは、連日予約が難しいという報道がなされ、予約日である5月17日は大変な騒ぎになることが予想されました。家内が友人から聞いてきた話としてパソコン2台で2時間かけてやっと予約が取れたとか、娘夫婦からは台東区は人口が少ないので案外楽に取れるのではという楽観的な情報もありました。そして5月17日の9時に、娘が来てパソコンを担当してくれることになり、あとは家内がスマホ、私がガラ系携帯、そして合間に固定電話でもアプローチすることになりました。

3.5月17日当日
 この日はいつもより早く起きてしっかりと朝食を食べ、私と家内、娘が9時の予約開始に備えてスタンバイしました。9時~11時まではパソコン、スマホ、ガラ系携帯、固定電話とも全く通じることなく、「ソフトバンクですがお掛けになった電話は込み合っているのでお掛け直しください」と言うばかりでした。11時を過ぎた頃、「こちらは台東区コロナワクチンコールセンターです」と応答があった時は「やった」と思いました。電話の声は続いて「記録として録音すること、接種期間は5月24日~8月13日であること、2回分のワクチンが確保されていること」を告げた後に、「予約される方は(1)を、相談したい方は(2)を押すように」と言うのです。そこで(1)を押すと、何と「電話が込み合っているのでお掛け直しください」と言うのです。これが私で5回、家内で2回あり、そしてついに11時20分、電話の声が「込み合っているのでこのままお待ちください」に変わったのです。明らかに以前の電話とは違いましたが、また「お掛け直しください」に変わるのではという不安がありました。約20分ほど待ったところ、女性の肉声で「お待たせしました」と言ってきた時には今度こそ「やった」という気分になりました。使用した4つの機材のうち、通じたのは何と私のガラ系携帯でした。日頃私のガラ系携帯を馬鹿にして早くスマホに変えるべきと言っていた家内や娘もガラ系を見直したようで、娘などは今後自分達が予約を取る時に私のガラ系携帯を借りたいという始末でした。
 あとは、電話口の女性に券番号、名前、生年月日、電話番号を伝え、会場を指定しました。接種日時については一番早くて6月11日の14:45,2回目は7月2日の14:45と指定されてしまいました。7月2日は43会の臨時役員会がある日でしたが、今更揉めたくなかったのでOKしました。この日の役員会は議決権行使書の集計結果の報告と全会員宛に発送するフィードバックの承認だけなので、私抜きでも支障ないとの判断でした。私の予約が終わったところで「73歳の家内の分も予約できますか」と尋ねると、「同じ日時は取れないが翌日の6月12日の14:45なら取れるし、2回目は7月3日の14:45になる」との答えでした。家内もそれでよいということになり、OKしました。
 こうして私達夫婦のコロナワクチン接種予約は無事に終了しました。予約に関しては、この日取れなくてもその後連日電話することが可能(土日祝日も)だったのでそれほど心配していませんでしたが、無事に終わった瞬間には思わず力が抜けました。また、夫婦と娘の3人が4台の機材を駆使して、約3時間頑張ってやっと達成できたということは、高齢の老夫婦や連れ合いを亡くした孤独老人などにはかなり難関な作業だろうなと思い、もう少し親切な方法はなかったのかとつくづく思いました。

2021年5月6日
  歴史に見る常勝軍の強さの秘密

 私は歴史書が好きです。今にして思えば、小学1年生の時に母が講談社の「太閤記」を買ってくれたのがそのきっかけだったと思います。一時は歴史の教師になろうと教育大学(今の筑波大)の文学部西洋史学科を受験したくらいです。歴史に関しては国内外、時代の新旧の区別なく興味があります。今回はこれまで読んできた歴史書を通して得た“強い軍隊の秘密”について持論を述べたいと思います。

1 アレキサンダー大王の軍隊
 アレキサンダー大王はご承知の通り、紀元前356年にギリシャの北のマケドニア王家に生まれた英雄で、33歳で死ぬまでにギリシャを統一し、強敵ペルシャを滅ぼし、インドにまで攻め込んで当時空前の大帝国を築きました。これは後に、ローマ共和国の独裁者になるJ.シーザーがまだガリア(現在のフランス)総督として戦陣にあった時、「自分はこの歳でまだローマの1総督にすぎないのに、アレキサンダー大王はこの歳には既に大帝国を治めていた」と嘆いたほどの偉業だったのです。アレキサンダー大王の軍隊の強さの秘密は、重装歩兵密集部隊(ファランクス)および強い友情で結ばれている重装騎兵部隊(ヘタイロイ)の存在です。ファランクスとは、千五百名ほどの重武装歩兵が密集した形となり、前の5列は5メートルの長槍を前に突き出し、6列目以降は槍を前5列の頭上にかざして敵の投槍や矢を防ぐという形で、歩調を揃えて敵陣に進むのです。無数の長槍を突き出して進み続ける様子はまるで歩兵に向かう戦車部隊のようで、この突進を防ぐことは極めて困難でした。但し、敵方から攻撃された場合は効果がありませんでした。アレキサンダー大王の軍隊にはよく訓練されたファランクスが多数配備されており、戦いでは中央突破に用いられていました。ファランクスが敵陣の中央を突き崩すと、あとはヘタイロイの若く勇敢な騎兵が素早く敵の後ろに回り込んで包囲殲滅するのです。
 アレキサンダー大王はこうした軍隊を数万率いて、ダレイオス大王率いる百万ものペルシャ軍を破り、インドにまで攻め込んだのです。しかし、アレキサンダー大王が首都バビロンにおいて33歳で死ぬと帝国はその将軍達に分割された後に次々に滅ぼされ、最後まで残ったプトレマイオス朝エジプトも、クレオパトラ女王の時にローマに滅ぼされてしまうのです。

2 ローマ軍団
 ローマは現在のトルコ沿岸にあった伝説の都市国家トロイがギリシャに滅ぼされた時に逃れたトロイ人がイタリアに渡って作った国と言われています。“ローマ”の語源は初代王のロムルスに因んだものだそうです。その後王政が乱れたことを反省して、立法機関の元老院と毎年選任される二人の執政官(コンスル)が治める共和国になりました。その後、周囲の国々を次々に支配下に収め、最終的には西欧、エジプトを含む北アフリカ、バルカン半島、トルコなどにおよぶ世界的大帝国となるのです。
 ローマの拡大発展の中心になったのはローマ軍団の強さと、相手を殲滅するこことなく同盟国として支配下に入れ、時にはローマの市民権まで与えるという統治方法の巧みさでした。ローマ軍団の特色はその均一性でした。一番下の組織は百人隊(ケントゥリア)で、これが2個で中隊(マニプルス)を編成し、中隊が3個で大隊(コホルス)を編成し、10個大隊で軍団となるのです。これに騎兵や傭兵部隊を加えて5~6千人がローマ軍団を構成しており、ローマはこうした軍団を多数保有していたのです。また、ローマ軍団の特徴としては、常設指揮官は60名の百人隊長のみということです。大隊長や中隊長は上級百人隊長が務め、軍団長は随時選任され、これもその都度選任される副将がこれを補佐していました。つまり軍団長・副将と軍団兵の間に主従関係が生じないようになっているのです。
 ローマ軍団の強みの秘密である均一性とはどういうことかと言うと、どの軍団でも同じように編成され同じ訓練を受けているので、誰が指揮官になってもすぐに指揮ができるとともに、必要な場所に必要な人数を送り込むことができるのです。これが主従関係で結ばれている部隊だと、指揮官と兵士を分割して戦場に投入することはできず、多すぎたり少なすぎたり、指揮官の能力もバラバラなので戦闘における信頼性は不透明になります。一方、戦争の度に選任されるローマ軍団の指揮官は、戦闘経験が少ない者もいて、そのためカルタゴとの戦いの時のように数個軍団が殲滅されることも何度かありました。しかし、ローマは広大な支配地を保有しており、殲滅された軍団もすぐに復元することが可能で、その点もローマ軍団の強みなのです。更に、共和国時代の元老院議員や軍団兵は質が高く、国家への忠誠心もかなり高いものでした。紀元前217年に、イタリアに侵入したカルタゴの名将ハンニバルに率いられたカルタゴ軍とローマ軍とがトラシメヌス湖畔で戦った時、ローマ軍は1万5千人が戦死しましたが、この戦死者の中には元老院議員が数十人入っていたことからもそのことがわかります。

3 ナポレオンの軍隊
 ナポレオンは1769年にコルシカ島の地方貴族の子として生まれ、フランスの士官学校を出て軍務に就きました。そしてフランス革命後の混乱期に頭角を現し、周囲の列強国と戦ってこれに勝ち、最後は西欧のほとんどを支配下に置くフランス皇帝になった英雄です。ナポレオンが指揮した軍隊は歩兵・砲兵・騎兵で効率的に編成された師団(ディビジョン)と数個師団で編成された軍団がその中心でした。ここでもローマ軍団と同様な均一性がとられていたので、戦闘相手のオーストリアやプロシャなどの大貴族の指揮する時代遅れの軍隊は敵わなかったのです。ナポレオンは間違いなく軍事的天才であり、加えて下級将校から昇進していった経験から歩兵・砲兵・騎兵の運用や補給や移動などについて精通していたので、家柄だけで高級指揮官になった大貴族とは比べ物にならないのです。ナポレオンは皇帝に就任するとこれまで彼を支えて戦ってきた将軍14名を元帥や貴族に任命して彼らの功績に報いたのですが、ナポレオンの彼らへの接し方は全く一方的で、軍団を指揮する元帥でも単にナポレオンの命令を忠実に実行することのみが求められていたのです。また、当時のフランス軍は革命後の愛国心に溢れた若い国民が中心になっており、家柄に関係なく昇進できるナポレオン軍にあって大いに活躍してくれたのです。
 しかし、フランスはイギリスに較べて海軍力が弱かったので、ドーバー海峡を渡ってイギリスに攻め込むことができず、この侵攻作戦のために集めた軍団は突然ロシア侵攻することになりました。そしてモスクワまで進撃したものの、寒さと補給の問題で敗れ、多くの軍団を失ってフランスに逃げ帰り、その後は戦いに連敗してナポレオンは失脚するのです。そしてナポレオンはセントヘレナ島において51歳で死んだのですが、天才ナポレオンを失ったフランス軍はその後弱い軍隊になってしまいました。

4 ヒトラーの電撃戦
 1933年にA.ヒトラーがドイツで政権を獲得すると、彼は急速に自国軍隊を強化しました。陸軍、海軍のみならず、当時イギリス以外になかった空軍も創設したのです。(日本軍は最後まで空軍を持たず、アメリカも空軍が独立したのは第二次世界大戦後です)。そしてある程度軍備が整い、スペイン内乱に介入して実戦訓練(戦車の投入やゲルニカ爆撃など)も終えた後の1939年9月にドイツ軍がポーランドに侵攻して第二次世界大戦が始まったのです。ポーランドは1ヶ月ほどで屈服し、その後はフランスやオランダ、ベルギー、ノルウェーなどが次々にドイツの支配下に入ります。同盟国のイタリアが苦戦していた北アフリカにも侵攻し、バルカン半島を南下してギリシャをも征服するのです。第一次世界大戦で負けて劣等国になったと思われていたドイツが、敗戦から僅か20年でこのように強くなった理由は、戦後のドイツを苦しめたヴェルサイユ体制への復讐を目標に、若者達に団結と忠誠を求めたヒトラーの政策と、古い武器が全くない状態から出発して新しい武器を整えることができたこと、古い将軍達が退任させられたため若い人材が昇格して戦術面でも新しい方法を道入できたことなどです。一方、フランスやイギリスは、戦争継続のためにアメリカから買った軍需物資購入費用の返済に追われることになり、そのため大量の老朽化した武器を新しくすることができず、また古い将軍達が多く残っていたため新しい戦術を採り入れる余裕もなかったのです。
 ドイツの新しい戦法は、いままで歩兵の支援が主任務と考えられて歩兵部隊分散配置されていた戦車の集中使用(数百両の戦車で機甲師団を編成)と機甲師団に続いて進撃する自動車化された歩兵師団の編成、そして移動が不便な重砲に代わる空軍の援護爆撃との一体化した運用なのです。地上部隊の侵攻前に、まずは空軍が出動して敵の飛行場を襲って航空機を破壊し、更に軍需物資の集積所や軍事施設を破壊するのです。それで敵が大混乱している間に、機甲師団が高速で敵陣を突破します。機甲師団の突破の脅威となる対戦車砲陣地などは急降下爆撃機が正確な爆撃で破壊します。機甲師団に続いて自動化師団のトラックに乗った歩兵部隊が敵陣の後方に急速に展開して包囲殲滅するのです。この“電撃戦”にかかると、相手は身動きできないうちに突破され、包囲され、殲滅されてしまうのです。電撃戦により第一次世界大戦では数年も膠着状態が続いた地上戦が、僅か1~2ケ月で決着がつくようになったのです。
 西欧の大部分を支配下に収めたヒトラーは、得意満面でイギリス侵攻作戦を進めましたが、海軍力はイギリスの方が圧倒的に強く、また空軍についてもドイツ空軍の戦闘機は海を渡って長距離飛行することを想定していなかったのでイギリスを攻撃する爆撃機を援護できず、速度の遅いドイツの爆撃機はイギリスの戦闘機に大量に撃墜されて攻撃が困難になってしまったのです。そこでヒトラーは、ナポレオンと同様にイギリス上陸部隊をソ連侵攻に使うことにしたのです。結果は、道路の完備した気候温暖な西欧とは大違いのソ連で、最初は目覚ましい戦果を挙げたものの、寒い冬になると戦車やトラック、そして武器もみな凍ってしまい、兵士には冬服も用意されていなかったため進行速度は落ちてしまい、ナポレオンですら到達したモスクワまでも行けず、以後敗退を続けることになるのです。電撃戦を実行するには大量のガソリンと軍需物資が必要で、これらを前線まで届けるには輸送トラックが走れる道路が必要なのです。ソ連の領土は広大で数百キロ先の前線までガソリンや食料、軍需物資を届けるのは極めて困難ですし、雨が降ればぬかるみとなって戦車の走行もままにならないのです。一方のソ連軍は戦争初期には数百万の兵士を失いましたが、国民の数は無尽蔵なのでいくらでも補充できます。またドイツの爆撃機が飛んで来られない奥地の工場で戦車やトラック、大砲などを大量生産することも可能だったのです。更に、アメリカからは戦車、航空機その他の軍需物資が輸送船団で大量に届けられる ので十分に戦えるのです。こうしてナチスドイツ軍はソ連との戦いに敗れ、1944年6月にフランスに上陸した連合軍との戦いにも敗れ、1945年4月にヒトラーが自決して戦争は終わるのです。

5 まとめ
 以上のように、歴史上で軍事的偉業を立てた軍隊にはそれぞれ常勝するための秘訣があったのです。でも、アレキサンダー大王やナポレオンのような天才的な指揮官が死ぬと、その軍隊はたちまち弱い軍隊になってしまうのはやむを得ないことなのです。ローマ軍団も、ローマ人が豊かになって自分の代わりに戦ってくれる支配下の国の軍隊や、一部の富豪に雇われた軍隊が多くなるとローマに対する愛国心や忠誠心が薄れてしまい、弱くなっていくのです。その後ローマ帝国は東西に分割され、西ローマ帝国は紀元476年にゲルマン人の傭兵により、東ローマ帝国は1453年にオスマントルコに滅ぼされてしまったのです。ヒトラーの軍隊については、世界中を相手に戦う中で、特にアメリカとソ連という強大な国を相手では勝利することは不可能だったと思います。ヒトラーの狂気に満ちた命令があったにせよ、あれだけ長期間戦ったことだけでも奇跡的と言うしかありません。ここで採り上げた4つの軍隊の他にも、急速に大帝国を立ち上げた強力な軍隊として、アラビアから発して中近東・トルコ・スペインなどを席捲したイスラム軍、モンゴル平原から発して中央アジア、中近東、ロシア、中国などを支配して史上最大の帝国を築いたモンゴル軍、トルコから発して中近東、エジプト、バルカン半島などを支配したオスマントルコ軍などがあり、それぞれ強さの秘密を持っていたのですが、これらについては別の機会に紹介したいと思います。

2021年3月22日
  人類は奇跡的に生きている

〇宇宙の始まりと地球
 人類について語るには、宇宙の仕組みから考えていく必要があります。何といっても人類は地球という小さな惑星に存在し、地球は太陽系の一員であり、太陽系は銀河系(ギャラクシー)の一部分であり、その銀河系もこの宇宙に無限にある星雲の一つなのですから。
 宇宙の始まりについては正確なことは誰にもわかりません。多くの科学者などがいろいろなデータや想像から、いくつかの推論を出しているにすぎません。ただ全くわからないということでは話が前に進まないので、いくつかの推論の内の一つである“ビッグバン理論“に基づいて話を進めさせていただきます。
 この理論によれば、全宇宙は400億年周期で膨張と収縮を繰り返しており、現在の宇宙はビッグバンから132憶年経過した頃だというのです。今後この膨張は徐々に緩やかになって、これから68億年後には停止して今度は収縮に向かうというのです。この収縮期の最後というのが信じられないことに、全宇宙の物質が極限にまで収縮して角砂糖ほどの大きさになるというのです。そしてその後これがまた次のビッグバンを引き起こし、この現象が永遠に繰り返されるというのが”ビッグバン理論”の概要です。但し、最近の観測結果では膨脹は現在でも加速度的に早くなっており、収縮に向かうという理論には疑問がもたれているようです。
 この膨脹期の過程において宇宙に漂う物質が重力により集まって多くの星雲を作り、その星雲の中で大きく燃える恒星(例えば太陽)やその周辺で惑星(地球などの)が生まれたのです。太陽系が属する銀河の中には太陽のような恒星が無数にあるので、地球のような惑星もまた無数にあるということになります。但し、生命が存在するためには、燃える恒星から適当に離れた位置にある必要があり、あとは生命に欠かせない”水”や“空気”も必要ですし、太陽からの有害な放射線を防ぐバリアも不可欠です。
 こうした多くの条件を当てはめていくと地球のような惑星はかなり限られた存在であり、ある意味では稀にみる“幸運な惑星”ということになります。
 かなり幸運な惑星である地球は53億年前に出来たといわれていますが、その後現在に至るまで順調に生きてきた訳ではないようです。今から45億年前に直径20㎞くらいの小惑星と衝突して、大量の地球の物質が宇宙に弾き飛ばされ、それが重力で集まって現在の月になったと言われています。このような規模の衝突は地球に壊滅的な被害を出したと思われますが、その頃の地球には原始的な生命すら存在していなかったかも知れません。その後も地球には破壊的な自然現象(小惑星の衝突、火山の噴火、地殻変動、大気汚染、氷河期の到来など)が繰り返され、その度に進化しつつあった生物が壊滅的被害を受けてきたのです。比較的新しい時代の出来事として古生代末(2億年前)と中生代末(6500万年前)に多くの生物が死滅したことがわかっています。中生代末のそれは恐竜を絶滅させた異変で、その原因はメキシコのユカタン半島付近に直径10~15㎞ほどの小惑星が衝突したためとされています。市販されている地球儀(直径30㎝くらい)を見ながら想像すると、直径10~15㎞の小惑星など砂粒以下の大きさにしかなりませんが、これが秒速2万㎞のスピードで激突すると原爆10億個分のエネルギーを放出し、地球に生息しているほとんどの生物を絶滅させることができるのです。
 このような規模の小惑星の衝突はこれまでに沢山あったようなのですが、現在その痕跡が残っているのは数十個程度で、大部分は海底に埋もれたり風化してしまったようです。
 因みに、この小惑星は火星と木星の間に帯状に漂っており、その数は数百万個といわれています。そして、小惑星同士で衝突したり、木星の重力の影響を受けたりしてその軌道がずれると地球に衝突するのです。現在、アメリカのNASAや、国連機関などでは危険な小惑星の個別監視を行っていますが、衝突すれば地球を破壊するほどの直径100㎞以上の大きさの小惑星が220個もあり、最大のケレスに至っては直径が1000㎞もあるそうです。細かい隕石などは毎日のように地球に落ちていますし、それ以上のものなら年間2~3個の割合で地球に落ちていますが、ほとんど被害は発生していません。地域的な被害が発生する衝突は数百年に1回程度、全地球に大被害が発生する衝突は1万年~10万年に1回とのことですが、これで安心していいのか、心配すべきなのかはわかりません。因みに、1908年6月30日にシベリアに直径60~100mの小惑星が落下してから100年以上が経過しています。

〇人類の誕生とその後
 これについてもいろいろな説がありますが、ここでは、200万年前に東アフリカのケニアに当たる地域で猿人の一部に二足歩行をする者が現れ、それが人類の発祥であるという説を採用したいと思います。53億年という地球の生い立ちの中で、200万年という数字はいかにも新しいものです。
 では、200万年前に現れた人類はそのまま順調に今日まで発展し続けたのかというとそうではありません。たった200万年でもその間には氷河期だけでも8回あり、人類は絶滅したり人口が極端に少なくなったりしたはずです。氷河期の他にも、火山の噴火や地殻変動、大気の汚染などが何度もあったはずです。こうした自然の脅威の中を生き延びて人類は猿人から原人そして旧人を経て現在の人類に辿り着いたのです。人類が農耕を始めたのが1万年前、歴史を残すようになったのはたった4500年前なのです。その新参者の人類が今では地球の資源を我がもの顔に浪費し、大気や大洋を汚染し、快適な生活を謳歌するばかりか戦争や紛争そして犯罪により殺し合っているのはどうしてなのでしょう。

〇地球規模の災害
 戦争などしなくても、地球上では200万年前から毎年のように大きな災害が起きて多くの命が奪われているのです。この100年を見ても、大地震、大津浪、台風、火山の噴火などで多くの命が奪われています。最近の例でも、新型コロナウイルス騒動での死者は250万人を超えて更に急増しています。以下に歴史に残る地球上の大惨事をいくつか紹介したいと思います。
(1)サントリー二島の火山爆発
 エーゲ海の出口近くにあるギリシャの島で、現在の姿は真ん中が空っぽの枠だけという奇妙な形をしています。紀元前1628年頃にこの島の中心部にあった火山が大爆発して陥没し、大災害を引き起こしたのです。島に住んでいた人は全滅した上、発生した数十メートルの大津波は110㎞南のクレタ島を直撃して、当時栄えていたミノア文明を壊滅させたのです。ギリシャを始めとするエーゲ海沿岸が現在でもオリーブしか育たない不毛の土地になった原因ともいわれていますし、プラトンが語ったとされる、一夜で海に沈んだ“アトランティス大陸伝説“のモデルだったと言われています。
(2)クラカタウ島の火山爆発
 ジャワ島とスマトラ島の間のスンダ海峡に浮かぶこの島の火山が大爆発したのは1883年5月でした。島の半分以上が吹き飛び、陥没した後は海になりました。発生した大津浪は周辺の海岸に押し寄せて3万6千人以上の死者が出たと言われていますが、実際にはこれ以上の死者が出ていたと思います。津浪は遠くインドや日本などにも届いており、爆発音は数千㎞の遠くでも聞こえたとのことです。
(3)ここ半世紀の大地震
 1920年に中国の甘粛省で発生した地震では、地滑りで20万人以上が生き埋めになったと言われていますし、1950年8月15日に発生したヒマラヤ地震(マグニチュード8.7)、1957年12月4日に発生したゴビ・アルタイ地震(マグニチュード8.6)、1960年5月29日発生のチリー地震(マグニチュード8.6)などがあり、多くの死者が出ています。 日本においても2011年3月11日に発生した東日本大震災(マグニチュード9.0)で、10~40メートルの津波が押し寄せて2万人もの犠牲者が出たことは記憶に新しいことと思います。

〇戦争の被害
 自然災害はやむを得ないとしても、人類が欲望のために行う戦争ほど理不尽なものはありません。人類はこの100年の間に2度も大きな戦争を経験しました。
(1)第一次世界大戦(1914年7月~1918年11月)
 この戦争では、勝った連合国側で514万人余(ロシア170万、フランス136万、イギリス91万など)の戦死者が、負けた同盟国側で339万人(ドイツ177万、オーストリア120万など)の戦死者と、合計で853万人が死んでいます。日本もチンタオ攻撃などで300人の戦死者が発生しています。ドイツ皇帝も連合国首脳も誰一人死ぬことなく、死んだのは機関銃の前に突撃させられた兵士や毒ガスを吸って苦悶しながら死んだ一般市民だった兵士達ばかりでした。但し、銃後の一般市民に大きな被害が無かった点で救いがありました。
(2)第二次世界大戦(1939年9月~1945年8月)
 この戦争では、勝った連合国側で4360万人余(ソ連2060万、中国1321万、ポーランド603万、ユーゴスラヴィア171万、フランス60万、イギリス38万、アメリカ29万など)の死者が発生しています。負けた枢軸側は1205万人(ドイツ807万、日本310万、イタリア43万など)で、合計5565万人が死んでいます。但し、第一次世界大戦の数字と比較して大きく違っているのは、この5565万人の中には連合国側市民2450万と枢軸側市民453万の合計2903万人が含まれている点です。つまり銃を持って戦った兵士より多い数の一般市民が無差別爆撃や占領政策、ホロコーストなどにより命を奪われているのです。今後第三次世界大戦が起これば、もっと多くの死者が出ることは間違いなく、しかもその大部分は一般市民になるはずです。

 このような数字を見ただけでも、この宇宙で奇跡的に幸運な星に生まれた人類が、互いに殺し合うのは実に愚かなことだと思います。自然災害を受けなくても、わずか100年ほどしか生きることができない人類が、その100年を縮める殺し合いをするのはいかにも馬鹿げたことです。人類が皆で平和に楽しく生きることがどうしてできないのだろうと思います。

2021年3月9日
  コロナ禍の1年を振り返って

1.世界のコロナ情勢
 新型コロナウイルス感染の世界情勢については、この記事を書いている2月28日現在で、感染者総数が1億1378万人、死者が252万人となっており、1日で感染者が37万人、死者が8千人発生している計算になります。これは世界大戦並みの数字だと思います。
 また国別では、アメリカがダントツの1位で、感染者2855万人(世界総数の25%)、死者が51万人(同20%)となっており、これにインドそしてブラジルが続いて、この3国で感染者の44%、死者の37%を占めている状況です。特にアメリカの数字は異常で、第二次世界大戦のドイツ・日本との戦いでの戦死者40万5千人を大きく突破して、アメリカの歴史上最大の戦死者を出した南北戦争の戦死者49万人をも超えています。しかも第二次世界大戦と南北戦争は4年間の中での戦死者でしたがコロナの死者数51万人は、たった1年間で発生した死者数なのです。自国民の人命には神経質なアメリカ国民が何故大人しくしているのか不思議です。
 但し、今年になってワクチン接種が順調に進んでいる欧米・イスラエルなどを中心に感染者数の減少がみられるようになってきたので、今後は人口の多い国や経済的に苦しい国は別として、多くの先進国では感染は緩やかな減少に向かうものと思われます。


2.国内のコロナ情勢と43会行事
 昨年の今頃は、大型クルーズ船の乗客などにコロナの集団感染が発生したものの国内ではほとんど影響は出ておらず、国民の大部分は“対岸の火事”と思っていました。43会でも「豪風の断髪式(2月1日)」や「新春の集い(2月7日)」などの行事が滞りなく開催されていました。しかしその後感染が急速に国内に広まり、4月7日には緊急事態宣言が発令されるに至ったのです。因みに、4月7日の感染者数は全国で605名、東京都で80名でした。つまり、第一次緊急事態宣言はこのような少ない感染者数の中で発令されたのです。
 これにより、43会行事も3月6日の「歌舞伎鑑賞会」、3月21日の「居酒屋の会」、4月1日の「役員会」、7月3日の「定時総会」などが軒並み中止となりました。その後感染者数が急速に収まり、5月25日に緊急事態宣言が解除されましたが、この日の感染者数は全国で19名、東京都で8名でした。
 その後感染者数は下記のように増加していきました。

 この表から読み取れることは、感染の始まりは東京都であり、その後に感染が全国に広まると東京都の占める割合が低くなるのです。つまり、東京都の責任は極めて大きく、感染対策は他府県より早くより強く行う必要があるのです。神奈川・千葉・埼玉の感染者の大部分も東京で感染したものと思われます。6月に全国で1,430名(1日平均48名)、東京都で834名(1日平均28名)と少なかったものが、半年後の12月には全国で80,908名(1日平均2,610名)、東京都で17,751名(1日平均573名)と、全国で57倍、東京都で21倍に膨れ上がったのです。少しきつめだった第一次緊急事態宣言の発令で何とか抑え込んだと思って油断していたため、宣言解除後に国民が普段の生活に戻り、政府も失速しつつあった経済の立て直しを優先させた結果がこうした状態を招いたのです。さすがに、政府もこのままではまずいと気が付き、遅ればせながら12月28日に日本医師会や東京都知事が目の敵にしていたGO-TOトラベルを停止しました。しかし急激な感染増加の原因はGO-TOトラベルが原因ではなく、忘年会や年末年始の国民の行動だったので感染増加はその後も急速に進行し、2021年1月の感染者数は下記のように最悪なものとなりました。
  (2021年)    (全国感染者数)   (都内感染者数)   (東京都の占める割合)
    1月       152,407名      39,055名        26%
 この数字が示す通り、1月の全国感染者数は152,407名(1日平均4,916名)、都内感染者数は39,055名(1日平均1,260名)に達しており、12月のそれの2倍に達しています。そして全国感染者数が最大になったのは1月9日の7,829名、同じく都内感染者数が最大になったのは1月8日の2,447名で、GO-TOトラベル停止の12日~13日後なので1月の感染者数の急増の原因がGO-TOトラベルではなかったことがほぼ証明されました。
  (2021年)    (全国感染者数)   (都内感染者数)   (東京都の占める割合)
    2月        41,907名     10,997名         26%
 あわてた政府は1月7日に今度は飲食店が悪いとして第二次緊急事態宣言を発令して飲食店の営業時間を規制したところ1月未あたりから感染者数の減少が見えてきたのです。つまり、こうした処置を12月の半ば頃、遅くてもGO-TOトラベルの停止を行った12月の28日に実行していれば1月の爆発的感染者の増加は未然に防げたはずなのです。
 2月28日に政府は、各首長の努力により感染者数が激減した大阪、京都、兵庫、愛知、岐阜、北海道、福岡の緊急事態宣言を解除しましたが、東京都と首都圏3県は解除しませんでした。この日の全国感染者数999名に対して東京都と首都圏3県の合計は689名(占める割合は69%)なので当然のことであり、解除予定日の3月7日になってもこうした状態が続くのなら更に1ケ月でも2ケ月でも延長すべきと考えます。
 2月17日からは諸外国に大きく遅れて国内でもワクチン接種が開始されたので、今後は感染者数が減少に向かうと思われますが、第一優先の医療従事者が470万人、4月からと発表された第二優先の高齢者が3,600万人と言われています。単純に、日本の人口を1億2千万人として、ワクチンを打ちたくない人、対象外とされている乳幼児、寝たきり老人などが3,000万人と仮定するとワクチン接種対象者は9,000万人となります。この9,000万人がワクチン接種を今年中に終えるとしたら、10ケ月(300日)で割ると1日30万人の接種が必要です。当初は慎重にやっていたからかも知れませんが、2月17日から1週間の医療従事者の接種数は2万人(1日平均2,800人余り)というスピードを今後100倍の30万人にできるものなのでしょうか。更に、ワクチンが海外から思ったように屈かなくなっているという現実、オリンピック開催で別途1万人の医療従事者が必要といった話などが出ている中で、1日30万人の接種が果たして可能なのでしょうか。政府・医師会はこれらのことには一切口を拭っており、マスコミもこの点については何の指摘もしていませんが、日本国民はこの点をどのように思っているのでしょうか。

3.コロナ禍での私生活
 コロナによる私生活の変化は、私の同窓会活動、趣味の旅行などに次のような影響を与えました。
  (同窓会活動への参加日数)    (43会活動への参加)  (その他の同窓会活動への参加)
   2018年の参加日数⇒59日       28日           31日
   2019年の参加日数⇒41日       29日           12日
   2020年の参加日数⇒ 8日        8日             0日
 2018年には59日、2019年には41日も活動していたのに、2020年では43会の8日のみに激減しました。そして2021年についても既に2月の役員会や新春の集いが中止になっており、7月の定時総会の開催も危ぶまれていますので、参加日数は昨年と同程度になるかと思われます。
 因みに、2020年の8日の内訳は、豪風断髪式と新春の集いの2日と、役員会が3日、議決権行使書方式の総会関係の打ち合わせが3日です。また、上の表の「その他の同窓会活動」とは、伊勢丹の同窓会や、中大のクラブ仲間との交流などです。

 私の趣味の旅行についても次のようになりました。
     (旅行回数)        (旅行の回数とその内容)
   2018年の旅行回数     8回(夫婦での旅行4回、その他4回)
   2019年の旅行回数     5回(夫婦での旅行3回、その他1回)
   2020年の旅行回数     2回(夫婦での旅行2回、その他0回)
 2021年についても3月に予定していた広島・山口旅行、4月に予定していた琵琶湖東岸への旅行がともに中止になりました。おまけに長年私が利用してきた旅行社の近畿ツーリスト浅草営業所が3月で閉鎖となり、私の担当者は希望退職に応募していなくなりました。お先真っ暗といったところです。ホテルに直接予約できる鬼怒川温泉の「七重八重」にせめて年内2回くらい行けたらいいなと思っています。
 こうした逆風を受けつつも、私としては週1~2回のウオーキングで運動不足を補いながら、様々な家事(月・木曜の配達された牛乳などの取り込み、火・金曜の燃えるゴミの玄関先への運搬、日曜のビン・缶の指定位置への運搬、火曜夕方の小学1年生の孫のバレー教室への送迎、部屋の掃除、週2~3回の夕食の支度、300鉢におよぶ植木鉢の手入れと適時の水やり等々)をこなしています。また月に1回は掛かりつけの医院で診察を受けて血圧・コレステロール・血糖コントロールの薬を貰い、週2回近所の整骨院で30分ほど揉んでもらい、何とか健康を維持しています。43会の皆様も様々な工夫をして日々ご自分で頑張っていることと思いますが、身体の鍛錬(老化対策)、頭の体操(ボケ防止)などに心がけ、コロナ禍が一段落したら以前のように皆で元気にお会いしたいですね。

2021年2月22日
  牛嶋神社のお守り

 我が家から歩いて20分くらいの墨田区向島に本所総鎮守と呼ばれた「牛嶋神社」があります。言問通りを東に進み、言問橋から隅田川を渡ってすぐ右側にあります。その南側には元水戸藩の蔵屋敷(明治になってからは水戸徳川家の本邸となり、明治天皇が何回か花見に訪れたことがあり、その歌碑が立っている)だった隅田公園が広がっています。
 創建は古く貞観年間(859年~879年)と言われ、慈覚大師円仁によって開かれ、明治以前は「牛御前社」と呼ばれていました。この付近が牛の牧場だったことがその名前の由来のようです。主祭神はスサノヲの尊です。神社の本殿の左には狛犬ならぬ狛牛の像があり、“撫牛”と呼ばれて自分の身体の悪い所と同じ部分を撫でると病気が治ると言われています。また、本殿前の鳥居は“三ツ鳥居“と呼ばれる珍しい形態をしています。この神社は元々橋一つ北側の桜橋の付近にあったのですが、関東大震災の火事で焼失し、その後現在の場所に移転したのだそうです。
 今から12年前の正月に、近所の人に教えられて12年毎の丑年にのみ発売される牛のお守りを購入するために行きました。3つ買って1つは我が家、あとの2つは近所に住む娘夫婦と親戚に進呈しました。その頃、娘夫婦には子供がなかなか生まれず、我々夫婦はあちこちの神社・仏閣に子供ができるように祈願していたのですが、この年の12月に念願の孫が生まれ、牛嶋神社が特に子宝の神様ではないのですが、これも牛のお守りのご利益と喜びました。その孫も今年12年目を迎えたので、また新しい牛のお守りを購入しようと思いましたが、購入するには長い行列を並ぶことになるので、コロナ騒ぎでどうなるのかわかりません。11月中旬に家内と牛嶋神社に行って確認してみると「混雑を避けるため発売を開始しています」との答えでした。こうして幸運にも早めに牛のお守りを手に入れることができ、2つ購入(1つ2000円)して正月に1つは娘夫婦に進呈することにしました。12年前に購入したものを探し出して今年のものと比較してみると、12年前のは真っ黒な牛でしたが、今年のは角が金色だったりしていて多少変化していました。次の発売はまた12年後ということで、孫が24歳になる年ですが、自分は88歳になるので果たしてまだ生きているかはわかりません。
 それにしても、出雲(島根県)神話の英雄である「スサノヲの尊」を祀る神社が何故に東京にあるのか不思議でした。「スサノヲの尊」は出雲神話に天照大神の暴れん坊の弟という設定で出てきますが、二人は夫婦という説もあるそうです。「スサノヲの尊」の業績としては“八岐大蛇”を退治したことが有名ですが、これは出雲地方の8つの豪族を攻め従えたことを表しているとされています。そして周辺の豪族を従えて“出雲王国”を築き、遠く九州にまでその勢力を広げたとも言われた人物です。つまり、奈良で力を蓄えて周辺の豪族を従えた”大和王国(後の大和朝廷)“と並び立つほどの王国だったのです。
 しかし、“出雲王国”のテリトリーは中国・九州地方であり、“大和王国”のそれは近畿・中部・東海地方なので、関東に“出雲王国”の創設者であるスサノヲの尊を祀る神社が多くあるのは不思議だと思い、少し調べてみました。まず、私の身近な場所では牛嶋神社のみならず、北千住に向かう日光街道(昭和通り)の三ノ輪の先に「素箋雄(スサノヲ)神社」があるのです。ネットで調べてみると、「素箋雄神社」は南千住だけではなく高崎、浜松、神戸、岡山、島根、西宮、尼崎などにもあるようです。「素箋雄神社」と名乗るからにはスサノヲの尊と関係ある神社だと思われます。また、埼玉・東京には「氷川神社」が220社ほどありますが、この神社の祭神の多くはスサノヲの尊(須佐之男命)になっています。そもそも氷川という名前の由来が出雲(島根県)に流れている斐伊(ヒイ)川(古くは肥河又は簸川とも言われた)から転じたもので、やはりその祭神はスサノヲの尊になっているようです。更に、全国に25,000社あると言われる「諏訪神社」も、信濃(長野県)に諏訪大社があるので長野県が発祥と思われがちですが、その祭神の「建御名方(タケミナカタ)神」は、出雲王国の2代目だった大国主の尊(夫人はスサノヲの尊の娘)の長男なのです。スサノヲの尊が築いた王国が大国主の尊の代になって大和朝廷に圧力をかけられて傘下に組み入れられた時、大国主の尊の長男がこれに納得せず、信濃(長野県)に逃れて諏訪神社を創設したのです。従って、祭神が「建御名方神」になっていても、実質的にはスサノヲの尊を祀った神社なのです。
 それではどうして大和朝廷に飲み込まれてしまった出雲王国の名残の神社が日本全国に広がったのかということですが、それは“出雲王国”や“スサノヲの尊“の影響を消し去るために、ことさら大和朝廷に素直に降った大国主の尊を際立たせるためだったというのです。伊勢神宮に匹敵するほどの杵築神社(後の出雲大社)を建設したり、因幡の白兎の話を広めたのも大国主の尊を立派な人物に仕立てて、スサノヲの尊の偉業を忘れさせようとのたくらみだったというのです。また、氷川神社については、武蔵(現在の埼玉・東京)の国造(くにのみやっこ・後の国司)がたまたま出雪出身者が多用され(当時は武蔵の国は未開発の僻地だったので、冷遇されていた出雲出身者が多く派遣された)、彼らが出身地出雲の簸川上流にあった杵築神社を勧請したため埼玉・東京に氷川神社が多くなったというのです。
 真相は闇の中ですが、神話と権力者による歴史改ざんの間にあって真実を推理したり妄想を膨らませるのは実に楽しいことです。有名な“邪馬台国“の所在地が北九州なのか奈良なのかとか、宮内庁が許可しない天皇陵の調査とか、戦乱で失われた三種の神器はどのように補充されたのか等、いずれも謎とロマンに満ちたものばかりです。そしてそこに歴史の面白さがあるのではないでしょうか。


2021年2月15日
  マスクによる酸欠にご注意

 第二次緊急事態宣言の効果か、コロナ感染者数はやや減少に向かっているようです。但し、この記事を書いている2月10日現在の都内感染者数は491人で、日経新聞に現在の書式で感染者数が発表されるようになった昨年7月2日の都内感染者数が107人だったことから見れば5倍近い数字で、決して安心できる数字ではないと思います。
 さて私が43会ホームページに最近投稿した記事「GO-TOトラベルでの北陸旅行」の中で、11月21日に七尾城祉を見学したことを書いたのをご記憶かと思いますが、「マスクを付けた苦しい息での山登りになってしまい、頂上に着いた時にはすっかり息が上がってしまい、死にそうになりました」と書いています。その原因については「体力の衰えとコロナ太り」とも書いていました。次に投稿したホームページの記事「GO-TOトラベルを外された日光・鬼怒川旅行」の中でも、12月28日に東武日光駅から日光東照宮入口まで歩き、きつい石段を上ったところで「……ますます息が苦しくなり……はあはあ言いながら駐車場まで辿り着きました」と書いています。この記事ではその原因について説明はしていませんが、自分としては「体力の衰えとコロナ太り」と思っていました。
 今年になって、体重を落とそうと思って天気のいい日にはなるべくウオーキングをすることにし、いつもの小石川コースや北千住コースを歩いたのですが、歩道橋を上がった時や上り坂を上がった時に異常に心臓の動悸が早くなり、一休みしないとウオーキングを続けられないようになりました。さすがにこれは「体力の衰えとコロナ太り」だけではなく心臓に障害が出てきたせいではと思うようになりました。そこでかかりつけの医師にそのことを相談したのですが、医師は「特に問題はない」と言うのです。その後は多少の不安もありましたが、階段やきつい坂道を上った時は数分の休憩をとるようにしてウオーキングを続けていました。
 ところが、先日テレビを見ていると「マスクを付けて激しい運動をすると酸欠になる」と報道しているのです。私が心臓の動悸が異常に早くなるのはいずれもマスクを付けている時なので“これだったのか”という気持ちになりました。そこで私が週2回受診している整骨院の先生にそのことを話すと「マスクをしていると自分の吐いた息の一部を吸うことになり、二酸化炭素が多くなって酸素が不足してしまう」との説明でした。これで私としては大いに納得し、人がいない所ではマスクをずらすとか、階段やきつい坂道を上った時はその前後に深呼吸をしたり、軽い休憩をとるようにしました。このおかげで、その後のウオーキングでは心臓の動悸が異常に早くなることはなくなりました。
 43会の同志諸兄も、コロナ禍での運動不足をウオーキングなどで解消していることが多いと思いますが、酸欠には十分気を付けていただきたいと思います。
 また、本日テレビでは「マスクを二重に付けると密着度がよくなってコロナ対策には極めて有効」と報道していましたが、密着度がよくなるということは酸欠の危険度が増すということでもあるので余りお勧めできません。浅草あたりの商店街では昨年の今頃は数千円の値札が付いていたマスクが今は数百円の値札で売られており、それでもほとんど売れてないようです。マスクを二重にするというアイデアは、在庫を多く抱えて困った業者が思いついたことかもしれないのではと思いました。


2021年1月18日
  GOTOトラベルを外された日光・鬼怒川旅行

 我が家恒例の年末旅行で、12月28日~29日の1泊2日の日光・鬼怒川旅行に行きました。自分の記憶では、毎年この時期に日光・鬼怒川旅行をしていたと思っていたのですが、調べてみると最近10年間の年末旅行は以下のようになっており、日光・鬼怒川旅行は昨年末からでした。おそらく、2014年2月に雪によって東武鉄道が不通になり予定を変更したことで、その後は冬の日光・鬼怒川旅行は危ないということになったものと思われます。
 2011年 静岡・伊豆北川   2012年 千葉・犬吠埼   2013年 台湾・台南
 2014年 茨城・大洗     2015年 福島・磐梯熱海  2016年 栃木・日光金谷ホテル
 2017年 山梨・甲府柳家   2018年 静岡・網代松風苑  2019年 栃木・鬼怒川七重八重
 2020年 栃木・鬼怒川七重八重

 いずれにしても、今年(2020年)は昨年同様に日光経由で鬼怒川温泉のホテル「七重八重」に行くことにしました。ここにはこれまでに26回も宿泊しており、2008年4月に「留学生の集い」の打ち上げで43会のメンバー16名で宿泊したこともありました。交通アクセスがよく、手頃の規模で人情味溢れるホテルなので、毎年行くようにしています。因みに、私がこの計画を立て、特急(スペイシア)の切符を購入した後に、コロナ感染拡大の元凶とされてGO-TOトラベルが不当にも12月28日から1月11日まで停止させられました。私としてはGO-TOトラベルの有無に関係なく、行きたいから計画したのでこれを変更する気持ちは全くありませんでした。勿論、私はGO-TOトラベル利用者がコロナをばらまいているなどというデタラメは、全く信じておらず、旅行者とその受け入れ先がしっかりとコロナ対策をしていれば全く問題はないという考えの下に行動しているので当然のことでした。

〇 12月28日(月)
 この日、9:30発の東武特急スペイシア(けごん13号)で東武浅草駅から出発しました。いつもと違うのは、この特急は東武日光直通だということです。いつもなら、下今市駅で東武日光行の電車に乗り換える必要があったのですが、今回はそのまま目的地まで行けるのです。世界遺産である日光に行くのに何故乗り換えが必要なのかと前から不満に思っていたのですが、ダイヤ改正によりやっと解決したようです。コロナの感染拡大で全国のGO-TOトラベルが外された初日とあって、車内は閑散としていました。東武日光駅到着は11:17でした。やや早い時間ですが、荷物を駅のコインロッカーに預けて、駅前の店で山菜そばと湯葉の刺身の昼食を食べました。
 その後、天気もよく、寒くもなかったので徒歩で緩い坂道を東照宮に向かいました。歩きながら道路の左右を観察すると、この道もやっと綺麗に舗装され、多少酒落た喫茶店などが出来ていましたが、日本を代表する世界遺産に至る道としては、まだまだ改善の余地があると思いました。青空越しに雪を被った山々が見えて素晴らしかったのですが、ご神橋が見える頃には夫婦共々すっかり息が上がっていました。そしてそのまま東照宮入口のきつい階段を上がっていくとますます息が苦しくなり、と言っても休憩する場所もなく、夫婦でハアハア言いながら駐車場まで辿り着きました。ここで家内はトイレに行き、私はその間に息を整えました。その後輪王殿の脇から参道に入り、東照宮の入口に行きました。ここに休憩所のような場所があったので少し休み、それから東照宮を参拝するためにまたもや階段をいくつも上がって、やっと陽明門の内側に到着しました。正直、家内が途中でリタイヤするのではと心配しましたが、何とか頑張ってくれました。あちこちでお詣りをし、家内は4ヶ所でおみくじを引いたのですが、それが「末吉」「凶」「大吉」「吉」だったようで、家内はいいものは残し、悪いものは置いてきたようです。東照宮はさほど混んではなく、建物の工事もすべて終了したようで、いずれも金ぴかだったので、改めて全ての建物をよく見学し写真撮影しました。徳川幕府の3代将軍家光が全国の大名に命じて作っただけあって、その素晴らしさに感動しました。本来ならここは徳川家康の墓なので、有名な“眠り猫”の建物の脇から更に険しい道を上って家康の墓をお詣りすべきなのですが、ほとんどの人は“陽明門”、“眠り猫“、“鳴き龍”を見て満足して帰るようです。我々もさすがに疲れて、これらはパスし、いつも行く家光の墓(大猷院)の手前の社務所のお線香を買うのもやめて東武日光駅まで戻ることにしました。タクシーかバスで戻ろうとしたのですが、家内は帰りは下り坂なので歩くと言うので歩いて戻りました。途中で喫茶店に寄り、コーヒーとケーキを頼み、また吉田屋羊羹本舗で一口羊羹を買いました。東武日光駅からは下今市駅経由で、最初に来た各駅停車で鬼怒川温泉駅に向かいました。もし特急だったら鬼怒川温泉駅までの特急券を清算するつもりでしたが、鬼怒川温泉駅まで特急に追い抜かれることなく到着しました。駅から徒歩数分で「七重八重」に到着し、案内された部屋は以前にも何回か利用したことがある303号室でした。
 早速、入浴したのですが、洗い場や浴槽は綺麗で、湯温度も絶妙で大いに満足しました。夕食の時に従業員の女性に「温泉の温度を変えたのですか」と尋ねてみましたが、答えは「変えていません」とのことで、結局はこちらの気分の問題だったのかもしれません。後から入浴した家内も実によかったと言っていたので、同じく気分がよかったのだと思いました。家内の入浴中に冷蔵庫にあったビールを1本飲みました。最近のホテルの部屋は冷蔵庫はあるものの、中は空っぽというのが常ですが、七重八重では2本のびんビールが入っていて気が利いていると思いました。
 入浴の後は6時半から3階の部屋で夕食を食べました。我々夫婦だけの部屋で、担当したのは七重八重の唯一の顔見知り(大女将、若女将、社長を除き)の女性でした。食事内容は、ホタテの柚子胡椒和えの先付から柿なます・合鴨オリーブ・蟹の煮凝りなどの前菜、秋鮭の柚子味噌焼き、霜降り高原牛のしゃぶしゃぶ、お作りは岩魚の姿作り、小ふぐ・えびの揚物、サラダ、茶わん蒸しなどで、どれも美味しく我々夫婦はいつものように迅速に平らげていきました。私はお酒は冷酒と指定し、中味は従業員に任せたところ、出て来たのは「栃木の地酒 呑み比べ3種」で、真岡市の辻善兵衛、小山市の鳳凰美田、さくら市のクラシック仙禽の3種の酒がぐい飲み茶碗に入ったもので、いずれも美味しいものでした。途中で若女将が部屋に挨拶に来てくれました。GO-TOトラベル中止でキャンセルが多く出たと言っていました。
 最後の食事は、舞茸の釜めしと松茸の椀物でした。これらを完食した我々夫婦は「これでまた太ってしまう」などと言いつつ大満足でした。私は部屋に帰るとすぐに寝てしまいましたが、家内は足マッサージを受けた後に、また入浴したそうです。

〇 12月29日(火)
 私は前夜早く寝たせいで、6時頃目が覚め、七重八重のアンケートを記入した後の7時頃、入浴しました。大浴場は前夜も1~2組しか入っていませんでしたが、この朝も小さな坊やを連れたパパだけでした。この朝は露天風呂(寝湯)に入ってみましたが、空気の冷たさが心地よくて目が覚めましたが、さすがに湯は温く感じられ、すぐに普通の浴槽に戻りました。家内もその後入浴していました。8時半という遅い朝食(会場は4階の食堂)を食べました。定番の鮎の干物の他に、湯葉を使った何点かの料理、サラダ、卵焼き、野菜の煮つけなどいずれも美味しくまたヘルシーなものでした。9時半にチェックアウトしました。帰る前に入口の内側の、七重八重の名前の云われが書かれた色紙の前で写真を撮ってもらっていると、例の顔見知りの従業員の女性が見送りに来てくれたので、今度はホテルの玄関でその女性も入れて記念写真をとりました。また、女将からいつものように「山葵漬け」その他のお土産を頂きました。その後、玄関から表通りまでの50メートル位を歩くのですが、いつものように玄関先から我々が角を曲がるまで見送ってくれるのです。離れているので表情はわかりませんが手を振っているのが辛うじて見えるのです。こんなことが七重八重にまた来たくなる理由の一つなのです。鬼怒川温泉駅に着いて、窓口で帰りの特急スペイシアの切符を購入しました。10時10分発の「きぬ120号」の切符を買うことができ、うつらうつらしながら12時15分に東武浅草駅に到着しました。
 今回の日光・鬼怒川旅行は天候に恵まれ、心配した寒さもなく、本当に素晴らしい旅行でした。27回目の七重八重宿泊でしたが、このホテルは毎年少しずつリモデルを続けているので新鮮味があり、また温かいもてなしがうれしく、来年もまた行きたいという気持ちになりました。