会員だより

会員だより —八束一郎—

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2020年12月21日
  GO-TOトラベルでの北陸旅行

 11月21日(土)~23日(月)の3連休に、夫婦で北陸旅行に行きました。家内が4年前に行った和倉温泉にまた行きたいと言ったのがきっかけでした。また、計画では今年の4月25日(土)~27日(月)で行く予定でしたが、コロナ騒ぎで4月の旅行は断念することになり、騒動が少し収まった11月に改めて行くことになったのです。結果的に、コロナ対策のGO-TOキャンペーンが利用でき、旅行費が5万円ほど安くなった上に、地域共通クーポン券(3日間のみ有効)が22,000円もらえるという実にラッキーなことになりました。旅行日が近づいた頃、全国的に感染者数が増加しましたが、GO-TOキャンペーンの旅行者がコロナをばらまいているのではないと確信している私達夫婦は、自分も感染しないし、他人にも感染させないという自己責任の下、自信をもって旅行に行きました。今回の目的地である石川県と富山県は全国でも感染者が極めて少ない地域だったので尚更でした。

〇 第1日目(11月21日・土曜)
 上野から北陸新幹線で金沢に向かいました。座席はほぼ満席で、家族連れあり、夫婦二人や若者のグループといったいつもの連休と変わらない乗客でした。金沢到着後、駅ビルの喫茶店でコーヒーとサンドイッチの軽い昼食を食べた後、金沢発のサンダーバードで七尾に向かいました。4年前に行けなかった七尾城祉を見学するためです。七尾駅前でタクシーに乗って七尾城祉(標高300メートルで日本百名城に数えられている)に向かいました。タクシーは山の中腹までしか行かないので、あとは急な山道と階段を徒歩で上りました。家内は途中でリタイアしたのであとは一人で上ったのですが、なかなか頂上の本丸跡に辿り着けません。タクシーと家内を待たせているので途中で休憩もできず、マスクを付けた苦しい息での山登りになってしまいました。頂上に着いた時にはすっかり息が上がってしまい、死にそうになりました。心臓麻痔で死ぬのはこういうことなのかとも思いました。以前ならこの程度の山道でへばることはなかったのですが、体力の衰えとコロナ太りが原因だと反省しました。暫らくベンチに腰掛けて深呼吸をしたりしているうちに何とか生き返った気持ちになりました。そこには小さな城山神社と「七尾城址」という大きな石碑があり、私は何枚か証拠写真を撮影した後に、下界の素晴らしい景色を楽しむゆとりもなく下山しました。案の定、家内が心配して上がってくるところで、ホットしました。
 その後は、タクシーで和倉温泉に向かい、「あえの風」や「加賀屋」といった大きなホテルを通り過ぎて一番奥の岬の突端にある「多田屋」に4時頃着きました。ここは大正未に東京で多田喜教という人が夜間大学に通いながら鍋島家(元佐賀37万7千石の大名・明治時代に侯爵に叙せられた)の運転手をしていたところ、鍋島家の令嬢と恋仲となったのですが、片や名門華族のお姫様、片や貧乏書生ということで結婚は認められませんでした。そこで二人は駆け落ちして和倉温泉の旅館で働くようになり、旅館の経営者になったり4人の子供が生まれるに及んで鍋島家も二人の結婚を認めたのでした。その後、昭和48年に現在の場所に「多田屋」を移し、創業133年のホテルは6代目の女将を迎えて栄えているというのです。私は旅行社から「多田屋」のパンフレットを貰っており、その中にこのことが書かれていたのですが、うっかり読み飛ばしていました。翌朝、チェックアウトしてホテルの玄関先に出たところ女将らしき女性が「写真をおとりしましょうか」と言ってきたのです。どこで撮影してもらおうかと迷っていたところ、多田屋の看板前に椅子が置いてある場所を指定してくれたのです。写真撮影が終わり、私が「実にいい場所に立っているホテルですね」などと言いつつホテルのパンフレットに“女将三代”という写真があったことを思い出して「女将三代で栄えているようですね」と話しかけると「女将の後ろには夫が控えているのですよ。また現在の女将は6代目です」とやんわり言われてしまいました。あとでパンフレットを読み返してみて、私が話していたのは5代目の女将だったことがわかり、鍋島候の血筋を引く女将にもっと気の利いたことが言えなかった自分にがっかりしました。
 多田屋は温泉街から離れた場所にあるためとても静かで、眼下に七尾西湾が広がり、船着き場も見えます。案内された部屋は5階で、海が見える広い部屋でした。このホテルは6階建てで、部屋数が60という余り大きくないため、館内で迷子にはならないと思っていたのですが、エレベータが3階までで、更に上に行くには別のエレベータに乗らなくてはならず、その点が不便でした。部屋は満室のようだったので早めに入浴しようと大浴場に向かいました。入ってみると入浴客は2~3人で、また浴槽や洗い場がとても広く、湯の温度も丁度よくて大満足でした。入れ替わりに入浴した家内もすごくよかったと喜んでいました。夕食は6時から6階の素晴らしい雰囲気の食堂で食べました。季節の彩八寸や加賀蓮根蒸しから始まりお作り(カンパチ、イカ、マグロ等)、能登豚西京朴菓焼き、フグから揚げ、海鮮鍋が続きます。私は氷の詰まった桶に入った1合徳利の冷酒を飲みながら次々に平らげていきました。どの料理も美味しく、内容はヘルシーで、分量も適度でした。料理を出す若い男女も大勢いてきびきびと動いており、とても気持ちよかったです。
 食後、フロントで高岡に行くバスに乗るためには何時の送迎車に乗ればよいか確認に行ったところ、旅行社の担当者に指定された8時52分のバスはないと言われてしまいました。時刻表では一番早いバ スは10時発だと言うので、止む無くこれに乗ることにして、それに合わせて朝食は8時とし、9時40分の送迎車でバス停留所まで送ってもらうことにしました。その後、家内とお土産コーナーに行き、クーポン券を使っていろいろ買い物をしたのですが、22,000円のクーポン券はなかなか減りません。私の前に入金していた老夫婦は、数千円の買い物をしたのに、クーポン券を10枚も出して、店員に「お客さん、これでは多すぎます」と言われていました。

〇 第2日目(11月22日・日曜)
 前の晩早く寝たせいか6時前に目覚めたので大浴場に行きました。入浴客は3~4名で、ゆっくりと入浴を済ませ、この日のスケジュール変更をどうするかよく考えていると、スタートが1時間遅れただけで、高岡到着が1時間遅れただけと気が付きました。それなら観光の前に昼食を済ませ、観光してから15:22の電車で氷見に向かうのは不可能ではないのです。
 8時に6階の食堂で朝食を食べましたが、ヘルシーな料理の小鉢がいっぱいあり、なかなか立派なものでした。予定通り10:00発の特急バス(わくライナー)に乗り込みました。若い運転手さんに「GO-TOクーポンが使えますか」と訊くと、「多分大丈夫でしょう」と受け取ってもらいました。代金を聞くと「1,000円」というので「もしクーポンが使えない場合は現金で払うから」と言いつつ席に座りました。バスは和倉駅とか七尾駅とか、氷見の道の駅などに寄りつつ延々と1時間45分かけて終点高岡駅に到着しました。降りる時に運転手さんに「クーポンは大丈夫でしたか」と確認すると「大丈夫でしょう」との答えでした。続いて「1時間45分も乗ってそれも二人で1,000円は間違いではないですか」と訊いたところ「現在は特別補助金が出ているので間違いではない」との答えでした。
 時間が12時近くなっていたので、高岡駅周辺で昼食を食べることにしました。しかし駅周辺には何の店もなく、地下街に2~3店の飲食店があるだけでした。その中で海鮮井の店に入り、注文しようとすると、外国人らしい店員が「今日は金目鯛定食がお勧めです」と言ってきたので、「私は白エビ井が食べたい」というと一番高い井(2,000円)のせいか「ありがとうございます」と言って戻っていきました。その後、メニューを見ると各種魚介類の海鮮井(1,000円)が出ており、白エビだけの井よりもこちらの方がよかったなと思いましたが、一度注文したものを変更するのは嫌いな私は井が出てくるのを待ちました。やがて井が運ばれてきましたがそれは何と海鮮井でした。注文と違うと指摘したのですが、店員は「違っていましたか」と言うばかりです。私も家内も白エビ井ではなく海鮮井の方がよかったので、「ではこれでいい」と返事しました。不思議な展開でしたが、美味しい海鮮井を食べることができ、クーポンも使えるというので2,000円のクーポン券を使いました。
 次に、駅前のタクシーに乗り15:22発の電車で氷見に向かうので、それまで市内観光をしたいと伝えました。どこに行きたいかと言うので「大仏、瑞龍寺、前田利長公の墓等」と伝えると、それなら時間的に十分ということで、まずは高岡古城公園から始めて、高岡の大仏、前田利長公の墓、瑞龍寺という順番に観光しました。私は高岡は3度目でしたが、家内は初めてだったので大仏の下の部分に入ったり、前田利長公の墓への道の両側に並ぶ大きな石灯篭を観察したりしました。そして最後の瑞龍寺では、広大な境内を見学した後、一番奥の建物内に入り名物和尚の説明を聞きました。この和尚の話はまるで漫談のようで、しかも新しいニュースを採り入れてリニューアルしてあるので、とても面白いものでした。内容は前田家がいかに徳川家に遠慮していたかという話が中心になっており、前田家が最大の功労者である2代目の利長公を神社に祀って神様にしたかったのですが、徳川家康が権現様という神様になっているのでそれに付度してこの寺に祀り、その代わり位牌の周辺の構造が鳥居のようにしたというのです。そして話があちこちに飛んで「どこかの家具屋のように親子喧嘩したらどうしようもない」とか「どこの馬鹿か富岡の宮司か」とかいろいろ付け加えるので聞いている観光客は笑いを押さえていました。
 タクシーが高岡駅に戻ったのが2時頃で、ここで時間を潰すこととし、駅ビル2階の喫茶店でコーヒーとケーキで15:22の電車まで待機しました。そして電車に乗ること29分で氷見に到着しました。
 この日宿泊するホテル「うみあかり」から送迎車が来ており、そのままホテルに向かいました。途中で別の駅に寄ったりしたのでホテル到着は5時近くなっていました。本来ならすぐ入浴というところですが、家内が6時に夕食を食べたいと言うので入浴は食後にしました。丁度、大相撲の千秋楽で、貴景勝か照ノ富士かという場面だったので、これを優勝決定戦まで見てから食堂に向かいました。
 この「うみあかり」に宿泊するのは2度目で、ここは「多田屋」よりは大きいホテルでした。但し、コロナ対策のせいかフロントで簡単な説明を受けただけで鍵を渡され、あとは勝手に部屋に行くようにというのは如何なものかと思いました。そして指定された5階の536号室に行ってその広さに驚きました。入口から入るとトイレと洗面所、風呂場があるほかに反対側には台所のような部屋があり、その部屋には正面の入口とは違う勝手口があり、裏の通路から居間に料理などが運べるようになっているのです。また、正面入口から居間に向かう通路はまるで“松の廊下”のような広さと長さがあるのです。この廊下の左側に寝室があり、ベッドが二つゆったりと置かれています。居間で驚くのはテレビの大きさで、床から天井まで届くような大きさで、まるで映画を見ているようでした。これで驚くのはまだ早く、居間の周りは庭のようになっており、その廊下にはマッサージチェアが置かれていたり、応接セットとテレビが置いてあるのです。この部屋はどういう人が使うのか家内と話し合ってみましたが、我々夫婦のような庶民には、大勢の来訪者がある偉い人とか、大家族の金持ちとしか思い付けませんでした。とにかく、どこに何があるのかわからず、夫婦で広い室内をウロウロするばかりでした。
 食事は6階の食堂で、“富山湾の玉手箱”という魚介の盛り付け、彩八鉢などが次々に運ばれてきましたが、コロナ対策として食べ物の説明は省いて説明の絵図のようなものが置いてありました。絵が上手なのでどの皿の説明なのかはわかるのですが、説明文が太いマジックで書かれているため読みづらく、我々は「これは何だ」とかいいながら食べました。味の方は素晴らしく、ここでも冷酒を飲みながら次々に平らげていきました。次が“選べるメイン料理”ということで、氷見牛のローストビーフ、和牛ステーキ、魚介の盛り合わせなど7点から選べるようになっており、我々は“アワビの踊り焼き”を選びました。アワビの好きな家内は大喜びでした。その後、黒部ポークのしゃぶしゃぶが出たのですが、野菜とネギが沢山付いてきたのはいいのですが、日本蕎麦が付いてきたのには首を傾げました。説明では、蕎麦は鍋に入れて普通に蕎麦つゆで食べろと書いてあるのですが、これはどうみても氷見うどんの方がよかったと思いました。このことは部屋までの案内がないこととともに、ホテルのアンケートにも書いておきました。とにかく、すべて完食して、前日同様にホテルで購入したお土産と洗濯物を宅急便で自宅に送る手続きをしながら4階の大浴場で入浴しました。多田屋の大浴場よりは狭かったですが、湯温が適度で、とても気持ちよく入ることができました。多田屋と違って、移動にエレベータを乗り換える必要はないのですが、館内が広く、また通路が真っすぐでないため何度も道に迷いそうになりました。フロントで翌日の朝食を8時に指定し、それに合わせて9時にタクシーを呼ぶようにお願いしておきました。そしてベッドで9時頃には寝てしまいました。

〇 第3日目(11月23日・月曜)
 朝食後、ホテルでチェックアウトしているとタクシーが既に来ていると告げられました。そこで運転手さんにロビーに来てもらい、この日のスケジュールについて相談しました。その結果、簡単に済ませるつもりの氷見観光をもっと膨らまして、更に昼食時間もとり、場合によっては1時間くらい早く新高岡に到着してもよいということになりました。あとは代金交渉となりました。メーターを廻して成り行きに任せるか、一定料金にするかということです。4時間拘束ということだと3万円くらいとのことでしたが、こちらが3時間くらいで終わらせるので2万5千円でどうかと切り出して合意してもらいました。まだ1万円くらい残っていたクーポン券が使えるということでホットしました。
 早速、運転手さんお任せのコースで観光が始まりました。私が提案した「長坂の棚田」は運転手さんの「ただの畑である。特に輪島の千枚田を見た人はがっかりする」という言葉で却下しました。その代わり、地元の人にも余り知られていない縄文時代中期の洞窟を見学することにしました。そこは海岸に近い場所にある大きな洞窟で、ここから人骨や土器などが発掘されたとのことでした。現在は「白山社」という小さな神社が祀られており、なかなかの雰囲気でした。
 次に向かったのは「阿尾城址」です。ここも全く知られていない場所で、麓に「榊葉手布神社」がある小さな丘の上にある城牡でした。運転手さんに「七尾城牡では死ぬ思いをしたが、ここはどうですか」と尋ねると「ややきついし、昨晩雨が降って坂道が滑るので止めたほうがいい」との答えでした。それでも私は諦めず、途中まででもと銀杏の葉が積もっている急な坂道を上り始めると、運転手さんが心配して付いて来てくれました。急な階段が見えてきたのでどうしたものかと立ち止まっていると、運転手さんが脇の回り道を歩き始めたので付いて行きました。少し遠回りでしたが、それほど苦労せずに頂上の神社に到着しました。大きなガラス戸のある変わった神社でしたが、今回の旅行で三つ目のお城(跡)を制覇して満足しました。この城は戦国時代に佐々成政や前田利家が活躍したようですが、歴史的にはほぼ無名な城で、ガイドブックにもほとんど説明もなく、日本の百名城にも入っていません。ここで証拠写真を撮影した後、次に千年銀杏の木のある上目寺に向かいました。この銀杏の木は高さ36メートル、太さ12メートルの巨木で、寺の入口に聳えており、新しい葉が出ている現役の銀杏です。この上目寺の境内では銀杏の黄色の他にモミジの赤が映えて紅葉真っ盛りといった感じでした。最後に向かったのは、旭山公園で、ここには昭和天皇が宿泊されたホテル(現在は廃屋になっている)や神武天皇の銅像という珍しい銅像が立っているのです。その足元に刻まれた文字「永芳」は当時学習院院長だった乃木希典の揮毫ということでした。このようにマイナーな場所をいくつか観光をしましたが、一つだけでは観光を盛り上げるには弱いものですが、これらを観光コースとして扱い、黒部観光や和倉温泉旅行、高岡の既存の観光地等のプラスアルファとすれば、有名な観光地は見つくした観光客の新しいターゲットになるのでは ないかと思いました。
 昼食時間となり、運転手さんに氷見うどんが食べたいと言うと「海津屋」という店に案内してくれました。運転手さんの話では、氷見うどんの元祖を巡って裁判までやってライバルの「高岡屋」に勝った店とのことでした。結構混む店というので、11時頃に行きました。幸い、混雑直前で入店でき、「何がおすすめですか」と店員に尋ねると「冷たいざる」との答えです。この日は前の2日に較べて曇がちの天気で、気温も15度以下のようだったので、「温かい方がいいのですが」と言うと「それなら鍋焼きうどんがいいのでは。うどんは氷見うどん標準の細いうどんではなく、やや太いものになります」との答えだったのでそれにしました。出て来た鍋焼きうどんは関東のものと異なり、塩味のつゆで、中味は関東の定番のかまぼこ、シイタケ、鶏肉は入らず、代わりに牛肉、エノキダケが入っており、とても美味しいものでした。運転手さんにも一緒に食べることを勧めたのですが、家でいつも食べているのでと断られてしまいました。
 最後に、前日“わくライナー”バスで通過した時に観光客で溢れかえっていた“氷見の道の駅”に行きました。海産物を中心に、買い物・飲食ができる大きな施設で、前日ほどではなかったのですが、かなりの観光客が入っていました。見るだけのつもりでしたが、つい欲しくなっていろいろ買ってしまいました。そして、12時頃に新高岡駅に到着しました。約束通りに3時間の拘束となり、クーポン券6千円を含めて2万5千円を渡し、丁重にお礼をして運転手さんと別れました。本当によい運転手さんに恵まれてよかったと思いました。その後は、駅の待合室のような場所で時間を潰し、予定通りに14:10発の新幹線で上野に向かいました。上野到着は16:46でした。
 今回の旅行は今年前半の計画が3本潰れた後の久しぶりのものでした。そして、天候にも恵まれ、寒い思いもせずに楽しく、美味しく、温泉を満喫できた旅行でした。コロナ多発地帯から乗り込んだからには、現地に少しでも貢献しようと努力もしたつもりです。このように旅行者も地元も満足するGO-TOキャンペーンはできるだけ存続させるべきだとつくづく思いました。今年も残り少なくなりましたが、年末に恒例の鬼怒川温泉に行って今年を締めくくる予定です。来年は状況が少しはよくなり、旅行が2-3回できればいいなと思います。

2020年9月24日
  海戦における軍艦と提督との因縁

 私は他人には余り言いませんが、何を隠そう“軍事おたく”です。小学生の頃から戦争映画をよく観たり、「丸」という戦記物の雑誌を愛読したりしていました。現在も私の本棚には軍事に関する本が多く並んでいます。軍艦には艦籍番号というのがあり、白いペンキで艦首に書かれていますが、私は日本の海上自衛隊とアメリカ海軍の艦籍番号の資料を持っているので、艦籍番号がわかれば艦名を調べることができます。因みに戦争映画に登場する軍艦に大きく艦籍番号が書かれているのを見ますが、戦時中は艦名を知られないように艦籍番号を消すので、あれは平時に撮影されたものなのです。
 特に海軍に限った“軍事おたく”ではないのですが、今回は第一次世界大戦と第二次世界大戦中に発生したイギリスとドイツとの海戦に参加した軍艦の名前と参加した提督(海軍将官)の名前に面白い因縁があるのに気が付いたので披露したいと思いこの記事を書きました。“軍事おたく”ではない読者には退屈なものかもしれませんが、たまには変わった内容の文章も味わっていただきたくご辛抱願います。

1 コロネル沖海戦(1914年11月1日)
 1914年6月に第一次世界大戦が勃発し、イギリスとドイツは交戦状態に入りました。当時ドイツは中国の青島(チンタオ)や、戦後日本の委任統治領となる南洋諸島(マーシャル、カロリン、マリアナ、パラオ)を領有しており、これらを守るためM.シュペー中将を司令官とする東洋艦隊(新鋭巡洋艦のシャルンホルスト、グナイゼナウの2隻を中心とする5隻の巡洋艦部隊)を青島に配置していました。海戦が急だったためシュペー提督の艦隊は本国から遠い極東で孤立してしまい、インド洋経由でも大西洋経由でも、イギリスの警戒網を破って本国に帰るのは極めて困難でした。特に、燃料の石炭や砲弾などの補充という問題もあり、シュペー提督としては、太平洋で連合国側の商船を襲って物資を破壊したり拿捕するという“通商破壊”作戦を行うことにしたのです。イギリス海軍としては太平洋で暴れているシュペー艦隊を抑えるためC.クラドック少将の艦隊(旧式巡洋艦のグッドホープ、モンマスの2隻を中心とする4隻の巡洋艦部隊)を派遣し、両艦隊は南米チリのコロネル沖で遭遇・交戦しました。結果は速力・砲力に勝るシュペー艦隊の圧勝で、イギリスの2隻の旧式巡洋艦は撃沈され、クラドック提督も戦死しました。ここでは、シュペー提督の名前とシャルンホルスト、グナイゼナウという軍艦の名前を憶えておいてください。因みに、シャルンホルストとグナイゼナウという名前は18世紀後半のドイツの有名な軍人・政治家からとったものです。

2 フォークランド沖海戦(1914年12月8日)
 当時世界一の海軍国を自負していたイギリスとしては、海戦で完敗したまま相手を逃すことは絶対に許せないとして、本国からD.ステディー中将の指揮する巡洋戦艦2隻(1908年に竣工したインヴインシブル(左の写真)、インフレキシブル)を南米最南端のフォークランド基地に派遣してシュペー艦隊を捜索することにしました。この2隻の巡洋戦艦はシュペー艦隊の2隻の巡洋艦に較べて速力・砲力とも圧倒的に優れていました。ドイツ側の2隻が21センチ砲8門で速力23ノットなのに、イギリス側の2隻は30センチ砲8門で速力25ノットでした。一方、シュペー提督は自分の艦隊の燃料等を補充するつもりでフォークランド島のイギリス基地を襲うこととし、かくして両艦隊はフォークランド沖で遭遇・交戦となりました。今度はイギリス側の圧勝で、シュペー提督は2隻の巡洋艦とともにフォークランド沖に沈みました。ここでは、シュペー艦隊が南米チリのフォークランド沖で撃滅されたということとイギリスの巡洋戦艦インヴィンシブルの名前を憶えておいてください。

3 ユトランド沖海戦(1916年5月31日)
 第一次世界大戦が始まって2年近くが経過しましたが、イギリス・ドイツの両艦隊はお互いに牽制しあってなかなか大海戦に至りませんでした。ついにこの日、北海のユトランド沖で両国艦隊の交戦がありました。イギリスのJ.ジェリコ大将が指揮する戦艦28隻、巡洋戦艦9隻、巡洋艦32隻、駆逐艦76隻の艦隊と、ドイツのR.シェアー中将が指揮する戦艦23隻、巡洋戦艦5隻、巡洋艦10隻、駆逐艦58隻の艦隊とが交戦したのです。しかし、レーダーも偵察機もなく、貧弱なモールス信号や旗信号だけでこれだけ多くの軍艦を指揮するのは極めて難しく、結果は勝敗がはっきりしないままに終わりました。しかし、イギリス側が失った3隻の巡洋戦艦の中にフォークランド沖海戦でシュペー艦隊を撃滅したインヴィンシブルが入っていました。インヴィンシブルはイギリスの第3戦隊の旗艦で、敵弾を受けて轟沈した際に戦隊司令官のH.フッド少将も戦死しました。ドイツ海軍がフォークランド沖海戦のシュペー艦隊の仇を打ったということになります。ここではR.シェアー中将とH.フッド少将の名前を憶えておいてください。

4 ラプラタ沖海戦(1939年12月13日)
 時は変わり、1939年9月1日にナチスドイツ軍がポーランドに進撃して第二次世界大戦が始まり、再びイギリスとドイツは交戦状態になりました。そして、第一次世界大戦で活躍したシュペー提督に因んで「アドミラル(提督)グラーフ(伯爵)シュペー」と名付けられた重巡洋艦(通称ポケット戦艦)が第一次世界大戦の時と同様に大西洋に取り残されてしまったのです。シュペーがポケット戦艦と呼ばれたのは、当時条約で定められていた重巡洋艦の基準(排水量10,000トンで20センチ砲搭載)に較べこの艦は、排水量12,000トンで28センチ砲を搭載していたからです。艦長のH.ラングスドルフ大佐はやむなくシュペー提督のとった作戦と同じ“通商破壊”を行うこととし、大西洋で暴れまわりました。イギリスは、これを抑えるためにH.ハーウッド准将が指揮する巡洋艦部隊(アジャクス、アキレス、エクゼターの3隻)を派遣しました。この3隻は主砲は20センチと劣っていましたが、速力では26ノットのシュペーに対して32ノットと勝っていました。4隻は南米ウルグアイの沖で遭遇・交戦し、シュペーの28センチ砲でイギリスの3艦はかなりの被害を受けたものの善戦し、シュペーを中立国ウルグアイのモンテヴィデオ港に追い込むことに成功しました。その後は外交戦となり、シュペーは満足に補給や修理もできないまま出港することになったのです。港外にはイギリスの有力な艦隊が待ち構えているとの偽情報を信じたラングスドルフ艦長は、最低要員を乗せて港外に出てシュペーを自沈させ、自分も自決したのです。 第一次世界大戦の初頭のシュペー艦隊そして第二次世界大戦初頭のポケット戦艦シュペーがともに南米で沈んだのは何かの因縁を感じてなりません。また、この時に活躍したイギリスの巡洋艦エクゼターはその後1942年3月にジャワ海域で日本海軍の艦隊と交戦して撃沈されています。

5 デンマーク海峡における戦艦ビスマルクの奮戦(1941年5月24日)
 ナチスドイツのヒトラーは、1940年8月に当時最大の戦艦ビスマルク(排水量41,700トン、38センチ砲8門、速力30ノット)を竣工させました。そして翌年1941年5月にビスマルクは重巡洋艦1隻(プリンツ・オイゲン)を伴って大西洋を目指して出港しました。艦隊司令官はG. リュッチェンス中将でした。ドイツの軍港から大西洋に出るには何通りかの道があり、この強力な戦艦が大西洋に出てアメリカからイギリスやソ連に補給物資を運ぶ輸送船団を攻撃することを恐れたイギリスは、多くの戦艦等を派遣してあらゆる道を塞ごうとしました。この時、デンマーク海峡に配置されたのが、R.ホーランド中将の指揮する2隻の戦艦でした。1隻はユトランド沖で轟沈したインヴィンシブルに乗っていて戦死したフッド提督に因んで命名された巡洋戦艦フッド(上の写真)でした。1920年3月の竣工当時この艦は世界最大の戦艦であり、また世界で最も美しい戦艦とも言われて全イギリス国民に愛されていました。戦前にイギリスは多くの国にこの軍艦を親善と威嚇を兼ねて派遣しています。この時はやや老朽艦になっていましたが、排水量は42,000トン、38センチ砲8門、速力31ノットと性能面ではビスマルクに匹敵するものでした。但し、装甲の厚さなどの防御面ではビスマルクにかなり劣っていました。もう1隻の戦艦はプリンス・オブ・ウエールズ(1941年12月にマレー沖で僚艦レパルスとともに日本軍攻撃機に撃沈された)で、まだ最終工事が終わっていないほどの新鋭艦で、排水量36,800トン、36センチ砲8門、速力28ノットという性能でした。両艦隊は5月24日の朝に遭遇・交戦しましたが、ビスマルクの5斉射目の砲弾がフッドの火薬庫に命中してフッドは轟沈してしまいます。続いてプリンス・オブ・ウエールズも被弾して後退してしまい、ビスマルクは大西洋への進出に成功するのです。ユトランド沖で轟沈した巡洋戦艦で指揮を執っていたフッド提督の名前を付けた巡洋戦艦フッドがこれまた轟沈して沈むとは何か強い因縁を感じます。 イギリスのチャーチル首相は、海軍に対して「全力でビスマルクを沈めるように」と命令し、輸送船団の護衛任務中の戦艦も引きはがしてビスマルクを追跡させました。しかし高速のビスマルクにはなかなか追いつけず苦労していたところ、空母からの雷撃機が幸運にもビスマルクの舵を破壊して動きを止めたので、強力な戦艦2隻が追いついてこれを撃沈したのです。ビスマルクに同行していたプリンツ・オイゲンはその前に戦場から離脱して無事にフランスのブレスト港に入ることができました。

6 シャルンホルスト、グナイゼナウとアドミラル・シェアー
 ヒトラーは第一次世界大戦時にフォークランド沖で撃沈されたシュペー艦隊の巡洋艦シャルンホルストとグナイゼナウの名前を付けた巡洋戦艦を1938年~1939年に竣工させていました。排水量30,000トン、28センチ砲9門、速力31ノットの優秀艦で、戦争中は大いに活躍しましたが、グナイゼナウは1942年に蝕雷と爆撃で大破し、シャルンホルストは1943年末にイギリスの戦艦と交戦して撃沈されました。 また、アドミラル・グラーフ・シュペーの姉妹艦で、ユトランド沖海戦の時のシェアー提督の名前を付 けられたポケット戦艦アドミラル・シェアーが1934年に竣工しており、大戦中は通商破壊などで活躍したものの、1945年にドイツのキール軍港で爆撃により撃沈されました。

7 プリンツ・オイゲンの最後
 ビスマルクとともにデンマーク海峡でイギリスのフッドやプリンス・オブ・ウェールズと戦った重巡洋艦プリンツ・オイゲンは終戦まで生き残りましたが、その後1946年6月にアメリカによる南太平洋での原爆実験に使用されてその数奇な運命を閉じたのです。なおこの時の実験では、終戦まで生き残った日本の戦艦長門やアメリカの老朽化した空母サラトガなども使用されました。空中実験では、いずれの艦も酷く焼け焦げたものの、爆風で沈没した艦はなかったようです。でも海中実験は致命的だったようです。

8 終わりのうんちく
 軍艦の名前については、旧帝国海軍では戦艦は昔の国名(大和とか陸奥)、巡洋戦艦と重巡洋艦は山の名前(金剛とか愛宕)、軽巡洋艦は川の名前(多摩とか神通)、駆逐艦は自然現象(雪風とか五月雨)でした。現在の自衛艦もこれらの名前(出雲・霧島・夕霧など)が付けられているようです。但し、明治 以来軍艦に人名が付けられたことはありません。アメリカの旧戦艦は州名(ミズーリとかアリゾナ)、旧空母は古戦場名(ヨークタウンとかレキシント ン)、旧巡洋艦は都市名(ヒューストンとかサンフランシスコ)でしたが、最近の原子力空母には大統領の名前(JF.ケネディとかR.レーガン)が付けられているようです。イギリスやドイツの軍艦には人名が多く、国王、女王、宰相などの名前が前の軍艦が沈んだ場合(実際にクイーン・メリーというイギリスの戦艦やドイツの宰相O.ビスマルクの名前を付けた戦艦などが沈んでいる)のことは考えないのかと心配するくらいです。
 海軍の軍人としては金筋が何本もある提督の軍服を着て、大きな戦艦の艦橋で配下の軍艦を蝗脱するのが夢だと思いますが、横須賀に係留されている戦艦三笠(日本海海戦で東郷司令長官の旗艦だった)の艦橋で東郷長官が立っていたという位置に立ってみたのですが、実に狭くて無防備なのに驚きました。海戦中、三笠には数十発の砲弾が命中しており、艦橋に立つ面々がよく怪我しなかったと思いました。そして多くの本を読む中で、軍艦が沈む場合には多くの人命が失われるということも知りました。 この文章にも登場した“轟沈”の場合、助かるのは1,000名~2,000名の乗員のうち数名だけということもわかっています。例え沈む軍艦から脱出できても、北の冷たい海の中では15分位で凍死してしまうそうです。1945年7月に日本の潜水艦に撃沈されたアメリカの重巡洋艦インディアナポリスの場合は、数百人の乗員が温かい海を漂うことになった(同艦はテニアン島の空軍基地に日本に投下する予定の原爆の部品を届ける任務で単独行動していたので救助が遅れた)のですが、凍死はしないものの数十頭のサメに一晩中襲われて多くの死者が出たそうです。結論としては、戦記物を読むと恰好のよい場面ばかりを想像してしまうのですが、軍艦の沈没というのは実に悲惨なことで、少しも恰好のよいものではないのです。今となっては私が戦争で軍艦に乗るようなことはないと思いますが、フェリーボートや客船に乗って旅行する時もタイタニック号のように沈んだり、豪華クルーズ船や屋形船でコロナに感染したりすることが考えられるので、なるべく船には乗らないようにしています。

2020年9月1日
  頭にくる電化製品

 私が伊勢丹に勤務していた頃、研修教育の講義の中で面白い話を聞きました。それは味の素の会社の商品企画会議で、数ある提案の中から「ふりかけ容器の穴を大きくしたら」というのが社長表彰を受けたという話です。これを紹介した講師の意図は、おそらく“発想の転換”をしろということだったと思われますが、私的には中身の出方が悪くて苦情が出ているならともかく、そうでないなら消費者が知らず知らずのうちに大量の味の素を使うことになるこの提案は、会社の利益にはなっても消費者の利益にはならないので、とても“社長表彰”には価しないと思った記憶があります。
 ところが、私が自宅でいろいろな電化製品を使用する中で、味の素の提案者と同類の“小利口なヤツ”が提案したと思われる製品で苦労することになったのです。それは、電気掃除機とトースターにマイクロチップと呼ばれる自動制御装置を組み込む提案をした“小利口な商品企画部員”とそれをよいアイデアとして承認した彼の上司、彼の会社の経営者の判断の結果なのです。
 まずは電気掃除機ですが、“小利口な商品企画部員”がマイクロチップの組み込みを提案したのだと思います。日く「マイクロチップを組み込むことで使用中に少しでも掃除が中断した時に電源を切ることができ、またいつまでも「強」のままで使い続けている場合にもこれを「弱」に戻すことが可能になります。それによって電気の消費量が減り消費者にとってお得ということになります。こうした性能アップを理由に製品の価格を上げることができます」。これを聞いた上司や最終決定者の経営者は、「素晴らしいアイデアだ。ただちに製造を開始しよう」ということになったのだと思います。こうしたプロセスに携わった“小利口な商品企画部員”、その上司、その会社の経営者の中で実際に家庭内で掃除機を毎日使用している者はおそらく皆無なのです。実際に使ってみると、掃除中に少しでも中断することがあると機械がご主人様に逆らってすぐに止まってしまうのです。大きな建物内で使用する場合と違い、日本の家庭内はいろいろな障害物があるのでそれをどけないと掃除できないのです。その度に機械が止まりまたスイッチを入れなければならないのは実に面倒なのです。また、しつこい汚れを吸い込もうと「強」で時間をかけてやっているとすぐに「弱」に変わるというのも使用者の意思よりも機械の判断を優先させているようで実に不愉快なのです。それに電気の消費量は、スイッチを入れた時に大きく消費するので、1回の掃除中に何回もスイッチを入れるとなれば“電気料金がお得”といううたい文句も危なくなってくると思われるのです。
 次に、トースターの話に移りますが、ここでも“小利口な商品企画部員”が「マイクロチップを組み込むことによってトースターが過熱する前にスイッチを切ることができ、火事になることを防ぐ安全な商品になります。そしてこのような性能アップを理由に商品価格を上げることができます」と説明し、上司や経営者はただちにこのアイデアを採用したのだと思います。こうしたプロセスに携わった者の中で、パンくらいは自分で焼いたことがあると思いますが、正月にお餅を焼いたことのある人は少ないと思います。実際にお餅を焼いてみると、お餅を焼くにはパンの3倍は時間がかかるのです。当然にトースターの中は過熱して電気が止まり、再度電源を入れても内部が冷えなくて、またすぐに電気が止まってしまうのです。正月に家族が数人でお雑煮を食べようとする時に、10個以上のお餅を焼く人間(我が家の場合は私)はこのようにご主人の言うことをきかない機械と悪戦苦闘しなければならないのです。
 天ぷらを揚げている最中に中座して火事になったという話はよく聞きますが、トースターの過熱で火事になったという話は聞いたことがありません。油を使う天ぷらと違って、パンを焼きながら中座してもパンが黒焦げになるだけで、火事になるとは思えません。従って、トースターの過熱による火事を防ぐためにマイクロチップを組み込むということは、余り意味のないことだと思います。
 現在、多くの家庭で電気掃除機とトースターが使われていると思いますが、私が感じたような不満は顕在化していないようです。原因は使用者の多くが女性だからだと思われます。女性は大きな会社の偉い人たちが一生懸命考えた機械だから多少の問題があっても我慢するという人が多いのだと思います。
 我が家では私は全ての電化製品を扱えます。2階・3階の50坪に及ぶ室内の掃除は全て私の担当ですし、家内が海外旅行で2週間居なくなったら電気洗濯機で衣料を洗濯したり、食事の調理なども私がやります。だから何の不自由もないので、旅行に出かける家内を「あとの心配はないので十分に楽しんでおいで」と送り出すことができるのです。世の中の男性の多くは妻が1週間でも家を空けるとなると「俺の食事はどうするのだ」と騒いで、冷蔵庫に1週間分の料理を用意させたり、1週間全部外食にしたりしているのだと思います。私の場合は調理の腕も上がり、孫から「おじいちゃんのミネストが食べたい」とか、「カレーうどんを作って」などとリクエストが出るほどです。世の中の多くの男性、特に私から上の年代の男性は「炊事・選択・料理作りなどは男のやるものではない」と思っているようですが、これは大きな間違いで、妻が生きている頃からこれらの“仕事”に慣れ親しんでいないと妻に先立たれた時に酷い目にあうのです。妻が日頃こなしている家庭内の仕事を、自分が同様にこなせないのは自分の弱みだと考えるべきなのです。
 話が電化製品から逸れてしまいましたが、私が常日頃から掃除機などを使用していたために、家内が気が付かなかった電化製品の欠陥に気が付いたという話なのです。この記事を読んだ方も、日頃奥さんに任せているだけと思っている家庭内の仕事が、思いがけず奥さんを失った時に致命的な弱みになるということに気が付くべきだと思います。

2020年7月20日
  世界のコロナ感染者関係の数値について

 このところの新型コロナウイルスの猛威は世界中を恐怖に陥れ、私たちの日々の生活も様変わりしています。若い人たちは比較的軽症で済む人も多いですが、高齢者が感染すると重症化する例が多く、特に気を付けなければなりません。東京都をはじめ各地で、緊急事態宣言が解除されてからはPCRの検査件数が増えたせいもあるようですが、再び感染者数が増加してきており、日々の感染者数の発表が気掛りでなりません。
 ところで、ここ40年ほど我家で購読している日本経済新聞では、コロナウイルス感染については毎日「世界各国・地域の新型コロナ感染者数」と「国内の新型コロナウイルス感染者」という2つの表が掲載されています。私は3月25日からこれを切り抜いて保管してきたので、これを集計して分析してみたいと思ったのです。但し、これらの数値については、正確な実態を示しているとは限らず、政治的理由で歪められたり、医療崩壊を恐れるという理由で検査を制限した結果実態よりも少なく公表されたり、多くの発展途上国のように国の現状把握が十分でなかったりするので、あくまで参考として理解する必要があるということを忘れないで欲しいと思います。

○順位の入れ替わりについて
 3月25日現在と7月7日現在の感染者数を比較した表を作成し、末尾に掲げましたが、この表から読み取れることは、3月25日のワースト30ケ国のうち、7月7日には実に半数の国が入れ替わっているということです。入れ替わった国については(*)を付けましたが、検査数を抑えている日本や、スイス・韓国といった比較的人口の少ない国が新たに人口の多い国や、遅れて感染拡大になった中南米諸国(ブラジル、ペルー、チリ、メキシコ、コロンビア、アルゼンチン、エクアドル)、中近東諸国(サウジアラビア、エジプト、イラク)そしてインド周辺諸国(インド、バングラデシュ、インドネシア)など急速に感染拡大した国に追い抜かれた形になっています。

○突出した感染者・死者数を出した国について
 人数で言えばアメリカの感染者数(288万人)と死者数(13万人)が突出しています。この13万人という死者数は、朝鮮戦争でのアメリカの戦死者の36,574名や第一次世界大戦での戦死者53,402名そしてヴェトナム戦争での58,220名をも上回るという驚くべきもので、このままでは第二次世界大戦の戦死者291、557人に届く可能性もあります。何年も戦った戦争での戦死者数を、たった105日で超えてしまいました。
 感染者数については、ブラジルの713倍、パキスタンの232倍、トルコの110倍が突出しており、次いでアメリカが52倍と続いています。死者数ではブラジルの1,410倍、パキスタンの680倍、カナダの324倍などが目立ち、これにアメリカの162倍が続いています。国の医療制度が遅れているブラジル、インド、メキシコ、パキスタン等は今後暫らくは増え続けることになると思われます。

○感染者数に対する死者数の割合(死亡率)について
 3月25日現在の世界全体の感染者数は423,670人で、死者数は18,923人で死亡率は4.5%でした。これが7月7日になると世界全体の感染者数は11,451,030人(3月25日の27倍)で、死者数は534,320人(同28倍)という恐ろしい数字になります。この時の死亡率は感染者の増加が大きかったため4%に下がっています。因みに、日本の場合は7月7日の感染者が20,203人、死者が980人なので死亡率は世界平均と同じ4%になります。日本の場合は、医療崩壊を防ぐため検査数を減らしているため感染者数が実態より少なく計上されている一方、死者数は比較的正確に計上されているので死亡率は高めになっています。検査数を諸外国並みにすれば死亡率はもっと下がるはずです。

○不自然な数値について
 この表を見ていて不自然な数値に気が付きました。中国はコロナウイルスの発祥の地なのに、7月7日の感染者数が84,871人、死者数が4,641人(3月25日ではワースト1位⇒7月7日には22位)で、この105日で感染者数が3,280人、死者数が1,380人しか増加していないのです。中国政府は自国がコロナウイルスの発祥の地ではないと主張する一方、コロナウイルスは完全に収束させたと発表しています。これを正当化するために数値をコントロールしているというようなことがなければいいのですが……。その他、死亡率が世界平均の4%に較べて極端に少ない以下の諸国についても不自然だと思います。
カタール(0.1%)、ベラルーシ(0.7%)、サウジアラビア(0.9%)、バングラデシュ(1.3%)、ロシア(1.5%)、南アフリカ(1.6%)、アルゼンチン(1.9%)。
 また、パキスタン(2.1%)やインド(2.8%)なども実情を正確に反映していない数字だと思います。これらの諸国の多くは、意図的に数字を変えているというよりは、正確な死者数を把握していないことが原因かも知れません。

〇その他
 コロナウイルスは白人系に感染しやすいとか、血液型がO型の人は罹りにくいという噂が流れたことがありました。でも、現状をみると全世界にまんべんなく広がっていることからこの話は眉唾のようです。血液型にしても、O型が多いのは欧米人なのでこれも当たっていません。
 とにかく、今年の前半は全世界がコロナウイルスに振り回され、大変な被害が発生しました。そして今後についても容易に収束するとは思えません。それは有効なワクチンの開発が遅れているからで、来年の春頃にこれが完成したとしても来年また違う型のコロナウイルスが発生すればまた同じ状態が繰り返されることになるのです。初めてのことであたふたするのは止むを得ないとしても、毎年のように発生するようになれば全世界が学習効果によって有効に対応できなければいけないと思います。全世界の人が一致団結してこのウイルスに立ち向かうことがいま求められています。

2020年6月8日
  300個の植木鉢

 我が家には玄関先の花壇の他に大小300個以上の植木鉢があります。これは、4月6日に数えた数字なのでその後多少増えて現在は310個くらいになっているかと思います。これらの植木鉢は1階の玄関先に22個、2階のベランダに152個、3階のベランダに61個そして屋上に75個置かれています。
定年退職後の趣味として、盆栽や蘭の栽培に凝る人がいるというのは聞いていますが、私の植木鉢はどれもが雑草とか蔓草とか名前もわからないような花とかで、何の価値もないものばかりです。手入れも行き届いていないので、誰かに見せて自慢できるような代物ではありません。
 私は園芸や盆栽に興味も才能もない凡人なのですが、最初のきっかけは、私が伊勢丹の人事部に勤務していた頃、埼玉県の狭山に住む先輩が事務所が殺風景だとして窓際に小さな植木鉢をいくつか置いたことでした。緑色の葉が噴水のように盛り上がったもので、暫らくすると蔓が伸びてきて垂れ下がるのです。先輩は伸びすぎて邪魔になった蔓を切り落として「これを植木鉢に植えるとすぐに大きくなるし水やり以外には手もかからない」と言って私にくれたのです。「この草は何という名前ですか」と訊くと「折鶴蘭」とのことでした。家に持ち帰って植木鉢に植えましたが、何回か失敗した後に何とか移植に成功したのです。
 我が家には同居していた家内の母親(義母)が持っていた植木鉢がいくつかあり、これらに混ざって折鶴蘭の植木鉢が徐々に増えていったのです。最初は小さな植木鉢だったのですぐに根が回ってはち切れそうになるので大きな植木鉢に植え替えたり、やたらに伸びる蔓を切るのですがそれを捨てるのが可哀そうになって小さな植木鉢に植えたりしたので、たちまち我が家は折鶴蘭だらけになりました。
 次に、南隣の家が改築して1階建てが2階建てになり、非常識にも我が家の居間側に窓を付けたのです。それまで我が家の南側は大きなガラス戸になっていて太陽光が燦燦と差していたのですが、これが遮られることになり、おまけに居間が丸見えになったのです。対抗策として、ホームセンターで大きな木製の遮蔽棚(1.8メートル×0.9メートルの格子戸のようなもの)をベランダに3枚ほど並べ、これに植木鉢を数個づつ取り付けたのです。そしてここには蔓が伸びて更に遮蔽効果をあげる植物としてアイビーを植えたのです。日当たりが悪く、朝日と夕日しか差さないのでアイビーもなかなか育たず、現在は丈夫な折鶴蘭と半々で遮蔽効果をあげています。アイビーは日当たりのよい東側のベランダの手すりに掛けた植木鉢で育てたところ、これが見事に手すりを覆うようになり道路側からの遮蔽効果をあげるとともに、夏場に鉄製の手すりが熱くなるのを和らげるという効果も出て来たのです。3階のベランダの東側、南側にも同様にアイビーを植えたので我が家の外観が緑に覆われて見栄えがよくなりました。家の内部からの眺めも一面に緑に覆われた森の中にいるようで、癒し効果も出てきました。
 しかし、植木鉢が多くなると水やりが大変になり、旅行も2泊3日が限度となってきました。また、肥料をやったり、根が回って苦しそうなものを大きな植木鉢に移したり、枯れた植物を抜いて新しいものに変えたりと忙しくなってきました。近所の植木屋で買う土や肥料を運ぶのも大変な労力が必要です。伊勢丹に勤務していた頃は体力は何とかありましたが暇がなく、定年退職後は暇が多くなりましたが体力が落ちてきて思うように面倒を看れません。悪戦苦闘しながら植木鉢を増やしてきましたが、今年になって、屋上にも植木鉢を置くようになりました。それは、野球好きな孫のために屋上に野球練習場を作ったからです。屋上は鉄の柵に囲まれた20坪ほどのスペースなので、練習といっても短い距離のキャッチボールかゴロの処理がせいぜいで、勿論バットで打つなどということは全く無理です。おまけに鉄柵の隙間から球がこぼれ落ちてしまうので、ホームセンターに行って遮蔽柵や防虫ネットなどを購入し、球が下に落ちないように全面に張り巡らしました。そして網の下から球が抜けないように75個の植木鉢を並べたのです。これらの植木鉢を運ぶ作業もかなり大変でした。そして、水やりが屋上の植木鉢にも必要になったのは無論のことです。
 我が家の植木鉢の多くはアイビーや折鶴蘭で花は咲きません。でもそれだけでは面白くないので義母が育てていた「雪柳」、家内が友人からもらった「ジュジュサンゴ」や名前がわからないピンク色の花、孫の送り迎えの途中で見つけたミニ朝顔のような花なども配置して多少は彩を添えるようにしました。名前がわからないピンク色の花が道路側のベランダ一面に見事に咲いて、通行人が「きれい」と言うのが聞こえた時はとても嬉しい気持ちでした(上の写真)。でもこれが2~3年で枯れることがわかって枝を切って新たに植え替えるという作業が増えて大変でした。また、何年か前に「彼岸花」を植えたのですが、葉は元気に出てくるし、球根も過密にならないように別の植木鉢に植え替えたりしているのですが、肝心の花が1~2本しか咲かず、今だにその状態が続いています。
 玄関先の花壇も、杉やモミジやなつめはそれほど手がかからないのですが、義母の植木鉢から植え替えたローリエらしい木が、まるで“ジャックと豆の木”の木のようにぐいぐいと伸びて巨木となり(左の写真)、電線に掛かるようになってしまいました。一度は近所の鳶の頭に頼んで剪定したのですが、その後も伸び続けて、また頭に頼んだところ頭がハシゴから落ちて怪我をするという事故もあり現在は伸びたままになっています。先日、電気工事業者が来て電線を保護する作業をして行きました。その時の業者の人達が私を「何とかしてくれよ」というような目で見たので、これは近々に台東区の高齢者作業チームに剪定を依頼する必要があると感じました。

2020年5月18日
  コロナによる私の旅行計画の崩壊

 私は1~2泊の小旅行が好きで、7年前の2014年以降は毎年旅行計画を立ててそれに従って旅行をしてきました。43会の旅行会以外は一緒に行く仲間と事前に日程調整し、旅行社のアドバイスを受けながら粛々とそれを実行するのです。最近7年間の旅行回数とそれがどのような旅行だったのかをまとめてみると以下のようになります。

*2020年度については予定です。

 上の表でわかるように、旅行の半分以上は家族旅行(家内と二人)で7年間の総旅行回数60回のうち34回(57%)を占めています。次が43会以外の中大OBとの旅行(ホームページに何回も投稿している中大国際関係研究会の仲間)でこれが10回(17%)、元の勤務先である伊勢丹のOBとの旅行が 9回(15%)で、最後が43会関係の7回(11%)となっています。
 43会の旅行を除いてはすべて私が仲間の同意を得て企画し、次に近畿ツーリスト浅草営業所の担当者に持ち込んで点検してもらうとともに、ホテルの予約、交通機関の切符等の手配をしてもらいます。何故旅行社を通すかというと、素人である私が企画した内容が実行可能なのかを点検してもらえること、ホテルの予約や交通機関の切符の手配をまとめてやってもらえる便利さ、旅行をキャンセルする場合にこれも手続き全てをやってもらえるからです。また、宿泊先での扱いが何となく丁重だと感じています。
 季節的には、雪が降って寒い1月~2月、雨の6月、酷暑の7月~8月は避けるようにして、あとの3月~5月、9月~12月の7ヶ月間に集中的に旅行するようにしています。
 また、近所に住む娘夫婦の子供達の面倒(保育園のお迎えや小学校から帰った孫に夕食を食べさせたり風呂に入れたり)をみている関係で、なるべく娘夫婦の会社が休みの土日祭日に旅行を組むようにしています。本当は、観光地が込み合うことのない平日に行きたいのですが、止むなく高い料金の土日祭日に行くはめになっています。そして、宿泊日数は1泊が多いのも同じ理由からです。
 次に、どのような場所に行っているかというと、近場の温泉地が多くなっています。特に、鬼怒川温泉の「七重八重」は、2008年4月に43会の「留学生の集い」の後の打ち上げで16名の会員が1泊旅行したホテルですが、ここには1992年以来昨年末まで27回も行っている“馴染み”の宿なのです。
 この7年間にどのような場所に旅行したかは以下のようになります。

  日光・鬼怒川方面   10回
  金沢・能登・富山方面 5回
  山形・新潟方面    5回
  熱海・湯河原方面   4回
  島根・鳥取方面    3回
  山梨方面       3回
  水戸・大洗方面    2回
  松山・宇和島方面   2回
  青森方面       2回

 日光・鬼怒川方面が多い訳は、自宅から2時間で行け、途中で日光観光もできるという立地のよさに加えて「七重八重」のサービスがとてもいいからです。何年か前の1月に予約していざ自宅を出ようとしていた時に「七重八重」の女将から電話があって「雪で東武鉄道が不通になっています。もし都合が悪くないのなら来週に日のべしませんか」と言うのです。私は喜んで1週間後に変更してもらいました。金沢・能登・富山方面については、家内が金沢と和倉温泉が大好きでそのうち伊勢丹の仲間などとも行くようになったためです。山形・新潟方面では山形の銀山温泉が素晴らしくて、中大の仲間に続いて家内や伊勢丹の仲間などとも行くようになったのです。熱海・湯河原方面は、近場の温泉ということで手軽に行けるのが強みです。温泉は湯河原、観光は熱海というように分けて利用しています。島根・鳥取方面については、出雲大社が好きで以前から何回も行っています。山梨方面は3回とも甲府の湯村温泉の「柳家」という旅館に宿泊しています。甲府市内や昇仙峡に行くにも便利なこぢんまりとした旅館です。水戸・大洗方面は大洗の海産物、水戸の偕楽園が魅力です。四国の松山・宇和島方面は、八束家のルーツを訪ねることと、砥部焼を購入するためにこの7年間以前にも何回か行っています。青森方面では、2016年7月の43会の2泊旅行で行った下北半島の旅行が印象的でした。特に、現地の石橋さん(43 会の地方幹事)にご馳走になった“山盛りのウニ”は忘れることができません。
 この他には、日本最北の地である利尻・礼文の自然に溢れた2泊旅行、波佐見・有田・伊万里という焼き物の里をハシゴした長崎・佐賀の2泊旅行、43会の旅行会で2014年4月に行った奈良・吉野の古刹や桜、2019年4月に行った現地岡山の高橋和尚にすっかりお世話になった旅行(高橋和尚の松林寺や直島の美術館など)、そして城好きな伊勢丹OBと行った滋賀県の城(長浜城、彦根城)と城址(小谷城、安土城、佐和山城)、福井県の城(丸岡城、大野城)と城址(大聖寺城、一乗谷館、北の庄城)そして山形県の米沢城址、山形城、新発田城などがいい思い出になっています。このように、いい仲間とのいい旅行はいつまでも心に残る一生の宝なのです。私は、身体が続く限りこうした旅行を続けたいと思っています。
 今年についても、寒い冬が終わる3月になって最初の旅行だった山梨旅行(伊勢丹OBとの)がコロナウイルスで中止になったと思ったら4月の石川・富山方面旅行(家内と二人)も中止となり、5月に予定していた新潟旅行(中大OBとの)も自粛することになってしまいました。2020年度の旅行計画では6本の計画があったのですが、頭から3本が中止となり私の旅行計画は崩壊してしまったのです。
 10月に予定されている43会の山形2泊旅行も果たして行けるものなのか心配です。11月に予定している和歌山方面の旅行を急遽組み替えて没になった4月の石川・富山方面旅行をここに移そうと考えていますがこれも本当に行けるのか不安です。12月にはいつもの年末旅行として鬼怒川温泉の「七重八重」に行く予定です。この頃にはさすがにコロナも終息とはならなくてもかなり弱まっているのではと思います。
 とにかく今年は私も経験したことのない事態で、綿々と続いてきた私の旅行計画もこの先どうなるか全く予想もつきません。今は自分がコロナに感染しないように体力・気力を温存してこの悪夢が通り過ぎるのを待ちたいと思っています。

2020年3月9日
  大浮世絵展を見に行きました

 私の家は台東区の上野と浅草の中間の「松が谷」という所にあります。松が谷という地名はいかにも古いように見えますが、実は明治時代以降に、江戸時代からあった松葉町と入谷町の中間に新しくできた町で、松葉町の「松」と入谷町の「谷」を合わせた地名なのです。
 いずれにしても、上野までは歩いて15~20分ほどの場所なので、東京国立博物館、国立西洋美術館、東京都美術館、上野の森美術館等には散歩感覚で行くことが可能なのです。それで特に芸術的な趣味はないのですが、年に数回はこれらの美術館に行くようにしています。因みに、家内は武蔵野美術大学を卒業して傘のメーカーのデザイナーをしていたので、私よりは少しはましな感覚があるようです。今年も1月5日(日)に国立西洋美術館に「ハプスブルク展」を見に行ったばかりでしたが、その後ラジオの深夜放送で、両国の江戸東京博物館で「大浮世絵展」をやっていることを知り、その説明で、展示されている作品の多くが海外に流失したもので、今回それらのうち、喜多川歌麿、東洲斎写楽、葛飾北斎、歌川広重、歌川国芳の5人に絞って、ボストン美術館、ミネアポリス美術館、メトロポリタン美術館、大英博物館、ベルギー王立美術歴史博物館などから借りてきて展示しているとのことでした。私は特に浮世絵に関心がある訳ではないのですが、この機会を逃すと2度と見ることができないのではと思い、家内を誘って1月11日(土)に江戸東京博物館に行ってきました。ここも歩いて30分くらいの場所なのですが、この日はタクシーで行きました。
 江戸東京博物館は、元東京都知事だった鈴木俊一氏が退任を前に多額の予算を投入して建設したもので、常設部分は江戸時代の街並みなどを展示しています。でもそれだけでは運営が成り立たず、その後は特設部分で絵画展や歴史関係の展示で何とかやってきたようです。でもこの日は土曜ということもあって会場は大賑わいで、切符を買うのに50人位が並んでいる状態でした。特別展だけの入場料は1,400円でしたが、65歳以上は半額の700円だったので、並ぶのが嫌いでイライラしていた私の機嫌もたちまちよくなりました。
 展示場は1階で、喜多川歌麿、東洲斎写楽、葛飾北斎、歌川広重、歌川国芳の順に数十点ずつ展示されていましたが、入場者が多く、作品が大きくないので落ち着いて鑑賞することができませんでした。東京の美術館は平日も土日も関係なく我々のような暇人が大勢見学していて、これらの人の肩越しに作品を見ることになるのです。その点、地方の美術館は見学者が少なく意外と有名な作品が展示されているので、最近では旅行の時にその地方の美術館に行くようにしています。
 この日展示されていた作品の中では、何と言っても喜多川歌麿の作品が秀逸でした。落ち着いた色彩の中で細い筆の線で描かれた美人画は実に繊細で、これぞ日本の誇る“浮世絵”だと感激しました。でも、浮世絵の価値を最初に認めたのは欧米の人達だったようです。江戸時代の浮世絵は江戸の手ごろなお土産だったようで、2,600円出して買ったカタログの説明では、京都の有名な画家若冲の水墨画でもコメ1斗の値段(現在の1万円程度)であり、浮世絵のような版画に至っては蕎麦1~2杯ほどの値段(現在の数百円程度)だったとのことでした。そのため、日本から欧米に焼き物などを輸出する際に現在の新聞紙のように“詰め物”として浮世絵が使われ、欧米の人にその芸術性を見出されたようです。家内の話では、浮世絵はゴッホやモネといった後期印象派の画家に大きな影響を与えたとのことで、実際にゴッホの作品の中には浮世絵が描かれているものがいくつかあり、モネの家の壁には浮世絵が飾られていたとのことでした。そして、日本人が気が付かないうちに大量の浮世絵が欧米に流失してしまったのです。
 東洲斎写楽については、歌舞伎の花形役者の上半身をデフォルメして描くという独特な作風を貫いており、おそらく当時の“プロマイド”のようなものだったようです。私が小学生の頃に切手収集を始めた時に、写楽の切手が当時800円の値段がついていて買えなかったという記憶が残っています。
 葛飾北斎については、墨田区に「葛飾北斎美術館」があり、2度ほど行ったことがあります。有名な作品としては富嶽36景の“赤富士”や“大波”などがありますが、その他にも“深川万年橋”とか“田島”、“両国”といった馴染みのある風景が描かれていて興味を持ちました。
 歌川広重については、東海道53次の風景画が有名で、葛飾北斎の風景画とダブルようですが、北斎の絵がデフォルメされているのに対して広重のそれは正確に描かれているという違いがあるとのことでした。当時の様子を知りたければ広重の風景画の方が現実に近いということです。
 最後の歌川国芳ですが、私の感覚では浮世絵というよりは錦絵に分類した方がよいと思いました。題材も“合戦”や“妖怪”、“鬼退治”といった血なまぐさいものが多く、とても自宅の壁に貼っておくようなものではないようでした。
 私は、混雑しているような作品はパスして次に進むようにしたのですが、家内はかなりじっくりと頑張ったようで、おかげで私は出口で40分ほど待たされてしまいました。でも、この“大浮世絵展”は期待した以上によかったというのが私達夫婦の結論でした。帰りは、浮世絵のこと等を話し合いながら、自宅まで徒歩で戻りました。この日は晴天でそれほど寒くもなかったので、いい運動(家内のスマホで9,000歩)になりました。

2020年1月21日
  長崎・佐賀の焼き物巡りの旅(2)

○第3日目・10月26日(土)
 朝7時半に昨夜と同じ会場で和食の朝食を食べました。量や味付けは申し分ないものでした。フロントに武雄駅までの送迎を頼みました。荷物を持って玄関に出ると、玄関先に飾ってあったクラシックカーに案内されました。運転手さんに聞くとこの車はトヨタが製造した国産第1号車のレプリカで、希望者がいればいつでも送迎するとのことでした。昔の日本人の体形に合わせて製造されたものらしく、乗降する際に頭がぶつかるのが難でしたが、素晴らしい経験でした。
 武雄温泉駅から8時49分発の特急で佐賀駅に向かい、9時11分に到着しました。駅前のタクシーに乗り、佐賀城址や佐賀県立美術館を見学し、昼食後に吉野ケ里公園も見学したいと言うと、全部引き受けるとのことでした。まずは、佐賀城址です。この城は鍋島藩の本拠地として関ヶ原合戦の少し後に建てられたのですが、天災や明治初期の動乱などで焼失し、今は“鯱の門”と石垣・堀しか残っていません。但し、本丸歴史館という復元した建物があり、中に色々な展示物があるのです。余り時間がとれないのでこの本丸歴史館だけでもと思って入ると、「説明しましょうか」と案内人が言うのでお願いしました。時間が30分ほどしかないと言うのに、入口で10分位説明があり、困ってしまいました。でも、短い時間でしたが多くの新しいことを教えてもらいました。例えば、佐賀藩35万7千石といっても支藩が3つ(小城、蓮池、鹿島)あって本家の表向きの収入は10万石程度だったこと、表向きとは別の実高は80万石以上だったこと、1808年に長崎出島にイギリスのフェートン号が乱入した事件で当時の長崎奉行が切腹させられた時、長崎警備の担当が佐賀藩だったことから、番所の役人二人が切腹させられ、藩主は謹慎を命じられたこと等です。次に、隣の県立美術館に行きました。私は、モネとかシャガールなどを期待していたのですが、この日は“超写実展”というスペインのホキ美術館の作品が多く展示されていました。どれも写真と間違うほどの写実的な絵画で、日本の画家の作品も多く飾られていました。滅多に鑑賞する機会のないものなので、新鮮な感じがしました。別会場で“岡田三郎助”の展示があったのでこれも見に行きました。明治初期の画家で、鍋島家の親戚で、黒田清輝の指導を受け、渡欧の後に一気に東京芸大の教授になり、文化勲章第1号を貰った人物です。
 歴史と文化を享受したので、近くで昼食を食べることにしました。運転手の花田さんのお勧めは城址のすぐそばの「麺処いっせい」でした。11時丁度の開店と同時にこの店に入り、私は“山かけそば”家内は“きつねうどん”を頼みました。花田さんも誘ったのですが、弁当があるということで断られてしまいました。注文を受けてから茹でるのがこの店のモットーなので多少時間がかかりましたが、そばは絶品でした。つゆは関東のような醤油ではなく出汁で作ってあり、それも化学調味料は一切使用しないというこだわりです。美味しいそばを食べた後、いよいよ今回の旅行の最後の吉野ケ里に向かいました。吉野ヶ里は東京ドーム20数個分の広さがある大きな遺跡で、私の感想としては将来テーマパークにして遠足や修学旅行、観光客を大勢呼び込もうとしているようでした。それは全体が不必要に大きいこと、遺跡全体の重要性を説明する展示場がないこと、遺跡とは関係のない全体を回る無料バスが20分おきに動いていること、あちこちでイベントをやっていることから窺えるのです。我々は、無料バスで多数の甕棺が発掘された様子を復元した“北墳丘墓”に行ってここを見学しただけで出口に向かいました。そして、少し早かったのですが佐賀空港に向かいました。2時すぎに佐賀空港に到着し、花田さんとお別れしました。
 その後、空港の喫茶室で30分くらい休憩し、空港内の売店で孫へのお土産などを買いました。帰りの飛行機は3時45分佐賀空港発のANA456便で、20分遅れで出発しました。帰りも機内は満席でした。羽田到着は5時50分頃で、到着ターミナルは第2の69番だったので、京成線の乗り場までかなり歩きました。
 今回の旅行は初日は雨で、ハプニングも発生しましたが、終わってみるとなかなかの内容だったと思いました。かなり冒険的な内容だったにもかかわらず、何とか制覇できたので達成感がありました。今後も機会を見て旅行に行こうと思いました。