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2019年12月23日
  長崎・佐賀の焼き物巡りの旅(1)

 今年4番目の旅行として、長崎を選びました。家内も私も昔修学旅行で行ったくらいで、記憶も残っていない地域です。長崎は複雑な地形の小さな県ですが、壱岐・対馬や五島列島などの島嶼部分はかなり広く、多種の魚介類に恵まれている県なのです。そこで、美味しい魚介類や有名な長崎チャンポンを食べ、“出島”に代表される歴史的な場所の観光、そして今回知ったのですが“1000万ドルの夜景”と言われるほど素晴らしい長崎の夜景を見たいと思ったのです。でもガイドブック等で調べると、島を除けば観光地は少なく、2泊3日の旅行ではもて余しそうなことがわかりました。解決策として、長崎北部の波佐見(はさみ)の焼き物を観光しつつ佐賀県に入って有名な焼き物産地の有田・伊万里に足を伸ばすことにしました。それで今回は“焼き物巡りの旅”と恰好をつけたのですが、家内も私も焼き物については全くの素人で、耳学問とはったりだけなのでその点は差し引いてこの文を読んでいただければと思います。因みに、我が家の食器の多くは丈夫で実用的な愛媛県の砥部焼です。

○第1日目・10月24日(木)
 この日、午前8時に家を出て、都営新宿線(京急線)浅草駅から満員電車で羽田空港に向かいました。羽田空港には十分な余裕をもって到着したつもりでしたが、保安検査の場所に長い行列ができているのに驚きました。この時期に長崎に行きたい人がこんなにいるなんて思いもよりませんでした。
 羽田空港から10時5分発のJAL607便(満席)で長崎に飛びました。機体は真ん中に通路1本で左右に3席づつというもので、誰かが通路で立ち止まるとたちまち後ろの人達全員が渋滞してしまうのです。私達の座席は後半の33列だったので、席に辿り着くまでが大変でした。長崎空港到着は12時でしたが、外は今回の不運な旅行を暗示するように雨が強く降っており、我々は12時半発のバスに乗って長崎駅に向かいました。バスの終点は長崎駅なのですが、1時4分に降ろされたのはロータリーをはさんだ駅や駅前にあるこの日の宿泊先「ホテルニュー長崎」の反対側で、我々は雨の中を歩道橋まで50メートルくらい歩き、エレベーターで上がり、歩道橋上をロータリーの反対側まで歩き、今度は歩道橋を降りてホテルの入口まで50メートルくらい歩かなければなりませんでした。大きな旅行鞄を持ち、傘をさしながら雨の中これだけの距離を上がったり下がったりするのは実に大変なことでした。
 予定ではホテルに荷物を預け、駅前で遅い昼食を食べるつもりでしたが、この大雨の中をチャンポン屋を探して彷徨う気力はなく、ホテルのレストランでサンドイッチでも食べてその後の行動を考えることにしました。ここでやや明るい兆しが見えてきたのは、単なるビジネスホテルだと思っていた「ホテルニュー長崎」が立派なシティホテルとわかったこと、徐々に雨が小降りになってきたことでした。高価でしたが美味しいサンドイッチやフレンチトーストを食べ終える頃には雨が霧雨になってきたので、ホテルのフロントにお願いして観光タクシーを呼んでもらいました。このタクシーに乗って運転手さんに「出島~大浦天主堂~メガネ橋などを市内観光し、更にお土産としてカステラを買いたいが“文明堂”や“福砂屋”といった東京でも買えるものでないものを売っている店に行って欲しい、そして最後にこの日6時に夕食を予約している稲佐山山頂のレストラン「ロータス」まで行って欲しい」とお願いしました。
 まずは「出島」に行きました。ここは最近復元・整備されて綺麗になっており、多くの修学旅行の生徒達や外国人観光客などで溢れていました。運転手さんは先に立って案内してくれ、詳しい説明もしてくれました。ここは江戸時代に日本唯一の貿易港で、幕府の長崎奉行の厳しい管理下で最初はポルトガル、次いでオランダとの貿易が行われていたとのことで、日本から輸出されたのは銅、焼き物、生糸などで、反対に輸入していたのが意外にも砂糖、ガラス食器などとのことでした。砂糖は当時は貴重品で、その名残として長崎の人は現在でも甘いもの好きで、砂糖の消費量が全国一とのことでした。長崎から小倉までの砂糖が運ばれた街道は“砂糖街道”と呼ばれ、その沿道には今でも美味しい和菓子の名店があるとのことでした。運転手さんの案内で、砂糖蔵やオランダ商館長の屋敷などを見学したのですが、天候は雨が降ったり止んだりでした。
 次に向かったのは“大浦天主堂”で、急こう配の曲がりくねった坂道を通って到着しました。ここも修学旅行の生徒達で溢れていました。教会の外側は意外と綺麗でしたが、中に入ると古式豊かな雰囲気で、年代の古さが感じられました。あとで運転手さんに「ここは原爆の被害はなかったのですか」と尋ねると、丁度山の陰になっていて被害を免れたとのことでした。
 次に、"メガネ橋”に行きました。レンガ作りのアーチ2つの小さな橋で、私が「何でメガネ橋と言うのですか」と尋ねると、晴れた日にアーチが川面に写ってメガネのように見えるからとのことでした。この橋のたもとに長崎で有名なカステラ屋「匠寛堂」があるというので入ってみました。小さな店で、裏の工場で焼いているとのことでした。味では全国最優秀賞をとったほどで、秋篠宮家の”悠ちゃん”の誕生日に宮内庁から注文が入ったのが自慢のようでした。早速、4箱購入して自宅に配送してもらいました。店の人も喜んでくれ、おまけとして”切り落とし"を二人分くれました。
 これで長崎市内観光は終了したので、夕食会場の稲佐山の"レストラン・ロータス”に向かいました。山道にさしかかり、下を見ると大きなマンションのような建物が見えたので「変わったマンションですね」と言うと、運転手さんは「あれは16万トンの豪華客船で、先ほど”出島”で乗せてきた船です」という答えでした。テレビなどでこの手の大型船は見たことがありましたが、本物を見るのは初めてで、とにかくその大きさに驚きました。タクシーが稲佐山山頂に向かうと、辺り一面霧が立ち込め、これでは夜景も絶望的とがっかりしました。山頂でタクシーを降り、「できれば帰りもお願いしたいので待っててもらえないか」と言ったのですが、「勤務時間が6時までなので」と断られてしまいました。
 “レストラン・ロータス”にしては小ぶりで人影が少ないと思いつつ店内に入り、店の女性に「予約した八束です」と告げるとその女性は「うちは予約はとっていません」との答えです。「ここはロータスではないのですか」と私。「いいえ、光レストランです」と女性店員。どうやら違う店に来てしまったようなのです。結局ロータスに電話を入れて予約をキャンセルしてもらい、夕食はこの”光レストラン”で食べることにしました。昼食がヘヴィーだったので、昼食で食べる予定だった"チャンポンセット"を頼みました。チャンポンとおにぎりでしたが、まあまあの味でした。このレストランも窓が大きなガラス張りになっていて、霧がなかったら素晴らしい夜景が見れたはずなのですが、結果は全くだめでした。
 ホテルに戻り、チェックイン手続きを終えて12階の鍵を受け取った時、私が「こんな天気で楽しみにしていた夜景が見れなかった」と言ったところ、フロントの係員がエレベーターの所まで駆け寄ってきて「景色の綺麗な部屋に変更させていただきます」と11階の鍵を渡してくれました。部屋に行くとそこは広くて大きなガラス窓のある素晴らしい部屋で、雨や間違いなどで落ち込んでいた我々夫婦も明るさを取り戻しました。残念ながらこのホテルには大浴場はないので、部屋の浴室でシャワーを浴びて早く寝ました。

○第2日目・10月25(金)
 13階の食堂で7時から朝食を食べ、8時過ぎにホテルをチェックアウトしました。徒歩で近くの長崎駅に向かい、8時56分発の快速電車で佐世保に向かいました。佐世保駅到着は11時で、駅前のタクシーで佐世保港に行きました。でも遠くに自衛艦が見えるだけでつまらないので、運転手さんの勧めに従って20分ほどかけて標高350メートルくらいの展望台まで行きました。多少モヤがかかっていましたが、佐世保港が眼下に広がり素晴らしい眺めでした。でも、アメリカの水兵達が大勢いて居心地が悪く、すぐにタクシーに戻りました。その後、佐世保駅に戻りながら運転手さんに「駅の近くで美味しい海鮮が食べられる店に着けて欲しい」と頼んだところ、そこは全国チェーン店の「庄屋」でした。同じ庄屋でも長崎の「庄屋」は一味違うのではと店に入り、"海鮮丼”を注文しましたが、味はまあまあでした。
 その後、佐世保駅に戻って次の焼き物見学の作戦を考えました。長崎県と佐賀県の3つの焼き物産地を見学した後に、この日の宿泊先武雄温泉まで行くにはやはり観光タクシーを使うのがよいということになり、観光タクシー(運転手さんは江頭さん)を呼びました。
 まずは、長崎県内の焼き物の産地である波佐見(はさみ)に向かいました。ここは今回の旅行を計画する段階で初めて知った所でしたが、行ってみると、のどかな道路の両側に焼き物を作っている小さな店が何軒かあるのですが、人通りは全くなく、展示場や観光センターのようなものも全くありません。運転手の江頭さんも、ここらで作っているのは企業や団体向けの壺などが主流なので、個人客用の販売店はないと言うのです。折角波佐見まで来て、焼き物の一つも見ないで帰るのは嫌だと思っていると、道路から少し入った所に「ご自由にお入りください」の看板の掛かった小さな店らしきものがあったのでここに入りました。20畳くらいの部屋に色々な作品が並べられており、出て来たいかにも焼き物師といった初老の方が説明してくれました。私が「波佐見焼の原点はどのようなものですか」と訊くと、「白地のもの」との答えでした。そこで私が白地で中が青磁色の猪口を手に取ってみると、実に持ちやすいもので、値段も1,500円と手ごろだったのでこれを買うことにしました。代金を払おうとすると「1,200円でいいよ」とのことでした。滅多に来ない客が気に入って買うのに値引きする必要はないのにと思いましたが、この方がとても嬉しそうにしていたので甘えることにしました。私としても、今後自宅で冷酒を飲む時にこれを使おうと思い、今回の旅行の記念でもあるこの猪口を大切にしようと決心しました。
 次は、佐賀県に入って有田です。江頭さんが、まずは“柿右衛門窯”に行ってはどうかと勧めてくれたので行きました。そこは柿右衛門氏の立派な自宅もある場所で、最近の作品が展示されている小さな建物と昔の作品が展示されている小さな建物がありました。まずは、最近の作品ですが、素人の私が見ても“完璧”と言うしかない作品ばかりで、いずれも気品があり、バランスがとれていて、自然体で押しつけがましさがなく本当に素晴らしいものでした。昔の作品の会場も見ましたが、柿右衛門作品の原点のようなものが感じられました。そこには、原料の土も展示されていましたが、説明書きによれば、この土は天草で採れるのですが、最近は採掘が禁止されたので、以前に採ってきたものを大切に使っているとのことでした。ここですごく感激して、記念撮影などをした後、有田焼の販売展示場が並ぶ場所に行きました。波佐見焼と違ってここは100メートルほどもある広い道路の両側に大きな店が沢山並んでおり、とても全部は見きれません。仕方がないので左側の店を3店ほど覗いてみましたが、種類が多すぎて疲れてしまいました。値段もかなり高いので手が出ませんでしたが、このまま何も買わずに帰るのもシャクだったので、孫のコップ(キャラクターデザインのもの)2つを買いました。伊万里に向かうタクシーの中でそのことを話すと、「幼児に有田焼のコップですか」とからかわれてしまいました。
 最後に、古伊万里の産地に行きました。ここは坂道の両側に、有田よりは小さな店や窯がいくつもあり、それぞれに個性がある店でした。但し、入ってみるとどれもが同じに見え、有田焼と似通ったものばかりなのです。そして、さきほど柿右衛門窯で見た作品と比較してしまうので感激することはありませんでした。我々もそろそろ疲れてきて、早く温泉で疲れをとりたいという気分になり、武雄温泉に向かうことにしました。江頭さんも焼き物産地を3ケ所も回るのは初めてだと言っていました。また、江頭さんの猪口は古伊万里とのことでした。4時20分頃に武雄温泉の「京都屋」に到着し、ここで江頭さんとお別れしました。
 武雄温泉の「京都屋」は武雄駅に近く、大正ロマン漂う老舗なので温泉・料理とも十分期待できそうなホテルでした。フロントでチェックイン手続きをすると、あらゆる説明をこのフロントのお兄さんが一人でして、その後エレベーターの所まで送ってくれたのですがあとは何のフォローも無いのです。部屋に入ると襖戸が4つあり、1つは風呂場と洗面所に入る扉で、もう1つが洋服掛け、更に座布団が入った押し入れになっていました。面白いのは最後の1つで、開けると全身が移る鏡があるだけのものでした。とにかく洋服掛けを探すのもひと苦労でしたし、フロントに電話しようと電話を探した時もまさかテレビの下の金庫の隣にあるとは気が付きませんでした。おそらく、夏のこの地方の水害で客足が減少して経営困難になり、若い中居さんを全員解雇してしまったようです。夕食の時も配膳などは全て男性で、翌朝の朝食の時に初めて年配の女性が二人配膳をしていました。
 まずは大浴場で汗を流そうとしましたが、大浴場も10名くらいの男性客が入っており、この日このホテルはそこそこの宿泊客がいることがわかりました。夕食は6時から2階の食堂で食べましたが、料理はまずまずの味で優秀な料理長が居ることがうかがえました。私は生ビールとワインを頂きながら、この日のメインメニュー“佐賀内の陶板焼き”を堪能しました。(続く)

2019年9月17日
  5回目の山形・銀山温泉の旅

 家内のリクエストがあり、6月15日(土)~16日(日)の1泊2日で山形の銀山温泉に行ってきました。銀山温泉には、平成25年10月に中大のOB仲間と初めて行き、その後家内とも行き、更に伊勢丹の仲間とも2回行き、今回で5回目になります。何回行っても素晴らしい観光地で、まだ外国人観光客に荒らされていない所がその魅力のひとつなのです。今回はこれに加えて、昨年11月に山形城址見学の途中立ち寄った山形県立美術館で驚くほどの名画があったことを聞いて家内がどうしても見たいというので行くことになったのです。
 銀山温泉についてもう少し詳しく説明すると、ここは銀鉱山として江戸時代まで栄えた所で、一時は2万5千人が住んでいたそうです。地理的には、山形県と宮城県との県境にあり、最寄り駅はJR山形新幹線で上野から約3時間の大石田駅です。大石田駅からは路線バスもあり、約40分で銀山温泉に到着します。“白銀の滝”から流れ落ちた水が流れる川を挟んだ両岸に大正ロマンの香りが漂うレトロな旅館やお土産屋等が30~40軒ほど立ち並び、なかなかの風情を見せています。最近都内の駅などにポスターが貼られるようになり、外国人観光客も来るようになってきましたが、まだ大部分は日本人の観光客です。交通の便が悪いのと、ここの後に行ける観光地がほとんどないからだと思います。


○6月15日(土)
 上野駅から10時06分発の山形新幹線で大石田駅まで行きました。大石田駅到着は1時16分で、旅館の送迎車で旅館に向かい、30分ほどで銀山温泉に到着しました。銀山温泉での宿は、平成25年の最初の時は滝を見下ろせる山の上の「瀧見館」、その後は3回とも温泉街入口の「銀山荘」でしたが、今回は「銀山荘」がとれず、「能登屋」という温泉街の真ん中の旅館を予約しました。これまでは観光対象として見ていた部屋数15の小ぶりな旅館で、たまには変わった場所もいいと思い予約しました。旅館の前の道が狭い関係でマイクロバスは旅館の手前50メートル位の所で降りなければならなかったのですが、そこには旅館の男女二人の従業員が傘を持って我々二人を出迎えてくれました。この日の天気予報は雨で、しかも暴風雨になるということで、私としては電車が止まったりしたらどうしようと焦っていたのですが、丁度この時に雨がポツリポツリという状態になったのです。旅館到着が2時10分でしたが、フロントの係員は「丁度今、部屋の用意ができたところなのでどうぞ」という返事でした。そこで、まずは部屋に入って荷物を置いて、それから雨が本降りになる前に手早く周辺観光をすることにしました。案内された部屋は、本館4階までエレベーターで昇り、別館に入って更に1階昇ったところにある「ひぐらし」という部屋でした。この旅館は温泉街のほぼ中央に位置しており、その大きさ、屋根の上にそびえる二重の塔などにより、ここで一番目立つ旅館で、銀山温泉の象徴的な建物としてパンフレットやポスターには必ず登場するとともに、観光客は必ずこの建物を撮影する所なのです。私も来る度に撮影していたのですが、いざ宿泊するとなると設備が古臭くて居心地が悪いのではないかと思っていました。でも、案内されると中は重厚で、落ち着きがあり、我々の「ひぐらし」は10畳の大きな和室と椅子とテーブルが置かれた窓際の廊下部分から成っていて、特に天井の高さには驚きました。最上階ということもあって三角屋根の半分になっており、そこに太い梁がめぐらされているのです。
 15分ほど休んだ後、早速観光に出かけました。まずは、一番奥にある“白銀の滝”の足元まで行き、記念撮影をしました。水量はそれほどではないものの、迫力は十分に感じられました。この滝の上流に昔の銀山があり、今でも銀山の跡が残っているのですが、そこに行くには急な坂道を登らなければならないので、いつもパスしてしまいます。その後、下流に沿って戻り、途中のお土産屋を覗いたり、買い物をしました。1時間弱観光しているうちに雨が強くなってきたので旅館に戻り、大浴場に行きました。チェックイン手続きの時にフロントの係員から「白銀の滝を見下ろせる露天風呂」と「地下の洞窟風呂」を勧められたのですが、露天風呂は雨ということでパス、洞窟風呂は閉所恐怖症の私はパス、家内は予約が必要ということでパスしました。大浴場はまだ3時半位だったので私が一番で、貸し切りの状態で多少熱めの温泉にゆっくり入ることができて大いに満足しました。泉質は“硫酸塩”という粘着性のあるもので、よく温まりました。交代で入浴した家内も貸し切り状態で素晴らしかったと褒めていました。家内が入浴している間、いつもなら私はビールを飲んでいるのですが、この日はお茶を飲みながら先程お土産屋で購入した「ずんだ茶まめ煎餅」を食べつつテレビで野球を見て過ごしました。
 夕食は6時から部屋で頂きました。料理はわらび・筍・茸等の先付け、川魚を主体としたお造り、鯉の甘露煮、手打ちそばと続きます。家内は鯉の甘露煮が美味しいと言っていましたが、小骨が多くて食べるのに往生しました。メインは山形牛のしゃぶしゃぶでした。その他にも岩魚の塩焼きなどが出て来たのですが、我々夫婦はいつものようにこれらをほとんど完食し、山形の美味しい“つや姫”のご飯や果物のデザートまで食べました。味噌汁の代わりに出された“鴨汁”もしっかりと頂きました。量はやや多かったものの、ほとんどがヘルシーなもので、満腹したと言っても身体にはそれほど悪くないと自分に言い聞かせました。お酒は食事を十分に食べられるように、生ビールの小ジョッキ、山形ワインの白(グラス)のみで抑えました。食後、家内はいつものように入浴に行きましたが、私は9時頃には寝てしまいました。


○6月16日(日)
 この日は8時30分発の旅館の送迎車に乗るため、6時頃に起床しました。家内は3回目の入浴に行きましたが私は面倒なので風呂には行きませんでした。朝食は別館1階の食堂で頂きましたが、団体と個人とで会場が分かれていて、個人の方は最初は我々夫婦だけでした。料理はお膳にいろいろと小鉢が乗っており、それに温泉卵や鰊の煮つけなどがありかなりの量でした。ご飯は「普通のつや姫にしますか、おしんの大根めしにしますか」と訊かれたので夫婦とも大根めしを選びました。この大根めしが美味しくて夫婦でおかわりしてしまいました。
 またまた満腹して部屋に戻り、支度を整えて8時15分頃フロントに行って精算し、女将とお話しながら送迎車を待ちました。女将との話で、この旅館の「能登屋」の由来が、銀山職人でこの宿の創業者だった人が石川県(能登)の七尾出身だったということがわかりました。この女将は気配りのきく人で、フロントで“飴”をくれたり、我々が送迎車に向かう時に見えなくなるまで玄関先で見送ってくれていました。女将のこうした気配りの表れが我々の部屋のトイレにも表れていました。トイレは普通狭くてタイルやリノリウムといった無機質な素材が使われているものですが、ここのトイレは広くて床や壁が木材(実際には木材に見えるプラスチック素材かも知れませんが)なのです。これでトイレの雰囲気が大きく変わります。更に、背中のタンクの後ろが出窓のようになっていて、そこに小さな花の植木鉢が置かれていて、これに淡い照明がされていて雰囲気をより高めているのです。また、仕組みはよくわからないのですが、水を流してもあの特有な大きな音がしないのです。私は夜中に1~2度はトイレに行くのですが、あの大きな音で家内や下の階の客に迷惑をかけているのではと思うのですが、ここのトイレは水の流れる音がほとんどしないのです。
 8時30分の送迎車に乗ったのは我々夫婦と女性一人だけでした。9時に大石田駅に到着し、予定通り9時53分発の山形行きの各駅停車の切符を買って待合室で待ちました。旅行社からは、9時31分発の新幹線に乗ってはどうかと勧められていたのですが、大石田〜山形間は駅が13あるものの、新幹線もそのうちの3つも停車するので大した違いはないと思い、各駅停車にしたのです。結果は、山形駅まで50分と20分の待ち時間に加えると70分となり、新幹線にした場合の20分とは50分も差が出てしまったのです。更に、各駅停車は2両編成ということもあってほぼ満席(日曜日なのに何故か制服姿の高校生が大勢勉強しながら乗っていた)で、幸運にも我々は座れたのですがもし座れなかったら山形駅までの50分を立っていなければならなかったのです。
 幸運な我々は座席に座って乗客の山形弁の会話などを楽しみながら、10時42分に山形駅に到着し、タクシーで県立美術館に向かいました。2メーターで美術館前に到着し、入館しました。1階の中央にはロダン等の彫刻が数点、正面にはルオー、シャガール、ピカソの絵が展示されており、2つある展示室には掛け軸と絵画が、2階にはシャガールの版画やピカソその他有名な画家の絵画が展示されていました。シャガールはあの独特な色使いでしたが余りに多いのでいささか飽きてきて、ピカソの「青い背景の婦人像」という絵を暫らく見ていました。この絵のどこに天才ピカソの手腕が出ているのか探してみましたがさっぱりわかりませんでした。家内は好きな“印象派”の絵画が無かったので不満そうでした。昨年秋に来た時は沢山展示されていたのに今回はすっかり内容が変わっていたのです。
 美術鑑賞を終えて、予定では山形駅の近くで“米沢牛”の豪華な昼食だったのですが、前夜とこの朝の食事の影響でボリュームのある食事はやめようということになり、美術館の喫茶コーナーでパスタのランチを食べることにしました。ズッキーニやセロリ、アスパラなどの入ったパスタとサラダそしてコーヒーで昼食を済ませた後、運動のため山形駅まで歩くことにしました。20分ほどで山形駅に到着しまし た。まずはお土産を買うことにして、駅構内で販売していた今が旬の“さくらんぼ”を買うことにしました。
 さくらんぼがいっぱい入ったトレイ2つで4,800円というのを買いました。一つは我が家、もう一つは娘夫婦にということで、持ち帰りとしました。その後、駅に隣接した商業施設でお土産を買い、あとはこのビルのスタバでコーヒーを飲みながら時間待ちをしました。帰りの新幹線は2時52分発の新幹線なので、2時までスタバにいました。新幹線に乗り込んでからは、うつらうつらしながら5時30分に上野駅に戻りました。
 今回の旅行は天気が心配でしたが、何とか無事に終えることができました。但し、夫婦共々暫らくはウエイトコントロールが必要です。

2019年8月26日
  下町のちょっとマイナーな名所めぐり

 私は、元伊勢丹の親しい仲間数人で構成されている「ぶらたび会」という会で、年1~2回のウォーキングをしているのですが、5月28日(火)にそれが開催されました。今回は“下町探訪”ということで、台東区住民の私が企画・案内をすることになっていました。浅草寺や仲見世といったメジャーな場所ではつまらないと思い、マイナーなコースを選んでみました。当日スムーズに案内できるように、5月25日(土)に下見をしたのですが、この日は気温33度の炎天で、かなりきつかったので本番が心配になりました。本番の日は曇りで気温も30度以下の絶好のウォーキング日よりでした。 午前10時に参加者6名がJR鶯谷駅北口に集合しました。私の企画では、コースは次のようになっていました。

鶯谷駅上野寛永寺子規庵三平堂根岸小学校笹乃雪(昼食)鬼子母神
朝日弁財天鷲神社吉原神社目黄地蔵都電の三ノ輪駅スサノオ神社
円通寺千住大橋回向院南千住駅

 鶯谷駅北口を出発した一行は、線路脇のうす暗い道を通り抜け、寛永寺坂を上って10分ほどで最初の目的地の上野寛永寺に到着しました。

上野寛永寺:
 ここは芝増上寺と並ぶ徳川家の菩提寺で、6人の将軍の墓があります。芝増上寺も6人の将軍の墓があり、あとの3人のうち家康と家光の二人の墓は日光東照宮にあります。15代将軍慶喜の墓だけは、家を潰した将軍ということで菩提寺には入れてもらえず、隣の谷中に墓があります。上野寛永寺の根本中堂の奥には、幕末の「鳥羽・伏見の戦い」に敗れて江戸に逃げ帰った慶喜が謹慎していた部屋が残されています。
 一行が上野寛永寺に到着すると、丁度根本中堂の中で20名ほどの団体が寺の職員から説明を受けていたので、我々も後から乗り込んで話を一緒に聞きました。でも、暫らく座っていると足が痛くなったので途中で抜け出しました。そして、来た道を戻るようにして第二目標の「子規庵」に向かいました。

子規庵:
 ここは、愛媛県出身の俳人正岡子規が34歳の生涯を終えた家です。子規は司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」で、同じ愛媛県出身の秋山兄弟(兄は陸軍の騎兵部隊の指揮官として、弟は海軍の連合艦隊参謀として日露戦争で活躍した)との交流等が紹介された有名人で、22歳で肺結核になり、明治25年に上京し母と妹も呼び寄せました。明治27年にこの場所に移り、8年半に及ぶ闘病生活を送った後の明治35年にここで病死したのです。
 子規庵では、ビデオでのレクチャーを受けた後、職員の人から部屋の様子などの説明を受けました。4つある部屋のうち、庭に面した6畳が子規の書斎兼寝所で、庭に面した隣の大きな部屋は客間でいつも大勢の仲間が来ていたとのことでした。奥の狭い部屋2つが母親と妹の寝所で、その他には土間があったとのことでした。庭はこれも狭いものですが、それなりによく作られており、多くの草花が植えてありました。子規が愛した“へちま”の棚が子規の部屋の前にありましたが、今は時期ではないので蔓が伸びているだけでした。書斎の机は、曲がらない左足を立膝にしても妨げにならないように切り込みが作られていました。この家はかなり古いように見えましたが、説明によれば昭和20年4月の空襲で焼失した後に昭和26年に元の図面に基づいて復元されたとのことでした。例え復元された家であっても、子規が病気の痛みに苦しみながら8年半も、多くの友人と俳句や短歌を作り続けた様子が充分に想像でき、胸を打つ思いがしました。子規庵を出て5分ほど歩いて「三平堂」に向かいました。(子規庵のホームページは→こちら

三平堂:
 昔の有名な落語家の林家三平の邸宅で、現在も長男の林家正蔵(元こぶ平)や弟子などが住んでいる大きな建物です。三平夫人も最近亡くなったとのことです。ここには三平のゆかりの品などが展示されている記念館があるのですが、ここは週2日しか開館してなくて、この日は見学できませんでした。
三平堂が思いのほか早く終わったので、昼食を予定していた「笹乃雪」に行くのが早すぎてしまい、時間調整のため根岸小学校の前を通りながら、入谷の鬼子母神に向かいました。

根岸小学校:
 林家三平やその一家の出身校で、三平がTVなどで“下町の学習院”と呼んでいた学校です。台東区立の小学校の中では一応“名門”ということになっています。
 入谷の鬼子母神は、落語などで「恐れ入りました」を洒落て「恐れ入谷の鬼子母神」と言われたりしますが、夏に「朝顔市」が開かれることでも有名です。下町の夏の風物詩として毎年TVで報道されます。

鬼子母神:
 入谷の交差点近くのこの寺は、「朝顔市」の時には言問通りを交通止めにして朝顔を売る業者と買いに来る客そして多くの屋台とで大賑わいになります。伊勢丹勤務の時の私の通勤路になっていたので、朝ここを通り抜けるのに難儀をしました。建物はやや新興宗教のような雰囲気で、あまり有難みが感じられません。
やっと時間調整が終わり、「笹乃雪」に入りました。下足番の店員に靴を預けて奥に入ると、庭を臨む大きな和室に椅子とテーブルで席が並んでおり、我々6名は一番奥の席に案内されました。

笹乃雪:
 創業が1691年というこの界隈でも最古の豆腐料理の老舗です。一時さびれていたようでしたが、最近ヘルシーということで見直され、この日も年配の人や若い人で満席でした。帰りに見ると空き待ちの客が何組もいたのには驚きました。内装がとても重厚で雰囲気のある店です。
 一同はまずは冷たい生ビールで乾杯したのですが、午前中やや日差しが出てきた中を歩き回ったせいか、ビールののど越しが最高でした。私としてはこの後のウォーキングに支障がないように「なるべくビール1杯で我慢するように」と全員に申し渡したのですが、そのうちに我慢できなくなり、「もう1杯だけいこうか」ということになり、そのうちに「豆腐料理には冷酒がいい」という者もいて、結局冷酒の小ビンを3本だけ飲むことになりました。料理はコースで頼んであったので、次々に運ばれて来ました。いずれも豆腐が使われた料理でしたが、巧みに調理されているせいか飽きることなく食べられました。料理や酒を運ぶ店員がいずれも年配の男女なので、誰かが「さすが老舗だけあって店員もそれに相応しい人を採用している」と褒めたのですが、別の誰かが「店を長くやっているうちに、自然と店員も年をとったのでは」と言い、一同大笑いでした。1時間ほどここで昼食の後、次の目的地「朝日弁財天」を目指して出発しました。入谷の交差点から昭和通り (日光街道)に入り10分ほどで到着しました。

朝日弁財天:
 入谷の交差点から昭和通りを三ノ輪方向に進んで右に入った所にある小さな神社です。
 この地は江戸時代初期に水ノ谷伊勢守という大名の屋敷があった所で、この大名がこの神社を建てたのです。水ノ谷伊勢守は備前松山藩(現岡山県高梁市)の藩主で、徳川家康の寵臣天海大僧正が上野周辺を京都周辺に真似ていろいろと構築した時にその手伝いをした人物なのです。上野の山を比叡山を真似て東叡山と呼んだり、琵琶湖を真似て不忍池を作り、琵琶湖に浮かぶ竹生島にある弁財天も作ったのです。そしてちゃっかりと自分の屋敷にも弁財天を祀り、不忍池のそれを夕日弁財天、自分の屋敷のを朝日弁財天と名付けたのです。私がかつて勤務していた伊勢丹本店の屋上には、この朝日弁財天があり毎月巳の日には卵を供えて総務担当の役員がお詣りするのです。更に、この水ノ谷伊勢守は跡継ぎがなくて改易となるのですが、その後に備前松山5万石を継いで幕末まで続いたのが板倉家なのです。この板倉家の当主の子孫が伊勢丹の同期で中大卒の板倉重俊君(故人)なのです。先日の43会の岡山旅行で庭瀬の松林寺を訪ねた時、高橋和尚が松林寺は庭瀬板倉家の菩提寺と言っていましたが、庭瀬板倉家は松山板倉家の分家であり、幕末には松山板倉家の当主は庭瀬板倉家からの養子だったという関係なのです。
 朝日弁財天にお詣りしてから一行は東に進み、10分ほどで「鷲(おおとり)神社」に到着しました。この日は何もないので閑散としていましたが、年末の“酉の市”の時は大変な賑わいになるのです。

鷲神社:
 年末に全国で開催される“酉の市”の総本家。ここの許可がないと“酉の市”は開けないのです。
 伊勢丹の近くにある「花園神社」も“酉の市”をやっていますが、本殿の壁に「鷲神社」と書いた小さな板が掲示されています。毎年の“酉の市”の日には、鷲神社前の道路にお詣りのために並ぶ人が押し寄せ、警察が整理するほどの混雑になります。私は混雑を避けて昼間に行くのですが、それでも本殿に賽銭を投げるのに1時間もかかります。また、縁起物の“熊手”を毎年決まった店で買っているのですが、最後に店の人、通りがかりの人などを交えて手打ちをするのは気持ちのよいものです。周辺には多くの屋台が出てとにかく大変な騒ぎです。鷲神社前で記念撮影をしてから今度は「吉原神社」に向かいました。

吉原神社:
 昔の吉原遊郭に因んだ神社です。吉原遊郭は最初日本橋にあったのですが、明暦の大火で焼失したのを機会にこの地に移転してきたのです。この神社の説明書を見ると、関東大震災や太平洋戦争末期の空襲で犠牲になった遊女を弔うためにできた神社のようでした。
 吉原神社を後にして、再び昭和通りに戻ることにしましたが、同じ道を戻りたくないとの声があり、北方向の道を行くことになりました。そのうちに、一行はソープランド街に紛れ込んでしまいました。大きな店の前には黒服の男性が立っており、異様な雰囲気でした。でも我々に声をかける黒服はおらず、我々も早々に通り抜けました。誰かが「我々に声をかけないのは、声をかけても無駄ということがわかっているからかな」と言い、他の誰かが「さすがに目がいい」と言いました。その後やっと三ノ輪駅のあたりで昭和通りに戻ることができ、まずは「目黄不動」の前に出ました。

目黄不動:
 江戸時代には5色地蔵(目黒、目白、目赤、目黄、目青)があったそうで、現在も目青以外は全て残っているとのことでした。
 その後、三ノ輪の交差点から少し入った所にある都電の三ノ輪駅を見学しました。最近人気が出てきて車体はカラフルに塗られて、駅の周りにはバラが沢山植えられていました。

都電の三ノ輪駅:
 路面電車として東京に残っている唯一の都電で早稲田まで行きます。但し、山手線なら30分もかからないのに、都電だと1時間かかります。のんびりと周囲を見ながら時間潰しするには持ってこいの電車です。
 その後5分ほどで「円通寺」に到着しました。

円通寺:
 ここには幕末に上野の山に立てこもって官軍と戦った彰義隊戦死者の墓があり、激戦地だった寛永寺正面にあった弾痕だらけの黒門が移設されています。当時は彰義隊は官軍に歯向かった賊軍ということで、後難を恐れて死体はそのまま打ち捨てられていたのですが、この寺の住職と江戸の侠客の新門辰五郎が西郷隆盛に掛け合って死体をこの寺に葬る許可を得たのです。その後、大鳥圭介、榎本武揚といった明治時代になっても活躍した旧幕臣達がここに記念碑を建てたりしたのです。円通寺から「千住大橋」に向かう途中に「スサノヲ神社」に立ち寄りました。

スサノオ神社:
 天照大神の弟とされる素戔嗚尊(スサノオノミコト)を祀った神社です。素戔嗚尊は出雲地方に王国を築いた英雄で、その後継者の大国主尊の時に大和朝廷の圧力に屈したのですが、その時に「伊勢神宮と同格の神社として出雲大社を建てること」を条件にしたのです。こうした経緯から素戔嗚尊は西日本に影響が強く残っていると言われるのですが、実態は東日本にも「氷川神社」という名前で広く分布しているのです。この“氷川”は、島根県(出雲)を流れる“斐川”から変じたものとされています。
 その後、一行は更に北に向かい、千住大橋を渡って対岸にある「奥の細道」の出発点に行きました。

千住大橋:
 江戸町奉行の支配地の北端で、この先は大名や旗本の支配地あるいは幕府天領ということで関東郡代の支配地となるのです。東北への旅に出た松尾芭蕉も、ここからは江戸を離れるということで多少は心細い思いをしたのではないでしょうか。川岸の壁に芭蕉の絵と“奥の細道”の出発点などと書かれたものがありました。
 一行はここから最後の目的地「小塚原回向院」に向かいました。

小塚原回向院:
 小塚原で処刑された罪人や安政の大獄の犠牲者(吉田松陰、橋本左内等)、2.26事件で反乱軍の指揮官として銃殺された青年将校達の墓があります。江戸時代はこのあたりが小塚原(骨ケ原)の処刑場があった関係で、処刑された人を弔うためにこの寺があったようです。両国にも回向院がありますが、ここは“振袖火事”の犠牲者を弔うための寺でした。また、我々が子供の頃に日本中を震撼させた「吉展ちゃん誘拐殺人事件」の“吉展ちゃん地蔵“が回向院の入口に建っています。被害者のご両親が建てたものです。
 これでこの日のウォーキングはすべて終了し、一行は南千住駅近くの“打ち上げ会場”の「ごっつり」という居酒屋に向かいました。これまでに参加者は4名に減って(一人は畑の水やり、もう一人は腹痛でリタイア)いました。この店は、この時間に南千住駅近くでやっている唯一の居酒屋で、売りは青森の酒と魚です。ここでビール、冷酒(陸奥男山、陸奥八仙、田酒)を大量に飲み、新鮮な鯖・イカ・鯵などをいただきました。そして次回は八王子方面でということを約して解散しました。

2019年7月29日
  元気な年寄り6名の函館旅行

 私は中大在学中、文化連盟所属の「国際関係研究会」で国際連合について勉強(?)していたのですが、この仲間と毎年旅行に行っています。今年の第21回目の旅行は、昨年の「埼玉史跡探訪の旅」に参加した1年先輩のK先輩が函館出身ということで、急遽函館に行こうということになったのです。参加者はK先輩(大和市)、同期の川辺氏(行田市)・高橋氏(岡山市)、1年後輩のS氏(千葉市)、2年後輩のA氏(船橋市)と私の6名ということになりました。


05月13日(月)
 この日は天気もまあまあで、6名は羽田空港に集合し、10時05分発のANA553 便で函館空港に向 かいました。予定通り11時35分に函館に到着した一行は2台のタクシーに分乗して五稜郭タワーに向かいました。まずは昼食ということで、K先輩が予約していた四季海鮮の店「旬花」という店に入り、“今回の旅行の最初の乾杯”の後に前菜から始めて刺身・焼き物・蒸し物・揚げ物といった美味しいコース 料理をいただきました。献立表を見て「こんなに食べれないよ」と言っていたメンバーも、出てきた器が小さくておまけに味がとてもいいので最後の牛角煮の釜めしやデザートの黒蜜きなこのアイスクリームまで完食して満足していました。
 豪華な昼食を終えた一行は、“函館観光ボランティア”の斎藤寿美子さんに合流するため五稜郭タワーに戻りました。斎藤さんは78歳には見えない元気で聡明な人で、目立つショッキングピンクの帽子と上着を着ていました。おそらく、我々がはぐれた時に見つけやすいようにとの配慮からだと思いました。まずはクリアファイルに入った資料を渡され、五稜郭に関する基本的なレクチャーを受け、それからエレベーターでタワー展望台に上がりました。そこでも展示されている資料の説明や、上から見下ろす五稜郭の説明をしてもらいました。人生経験の長い我々は、斎藤ガイドさんに次々に質問を浴びせるのですが、斎藤さんは要領よく答えてくれました。五稜郭は1864年に幕府の箱館奉行所教授だった武田斐三郎がヨーロッパの城塞を参考に完成させたもので、堀に囲まれた星形をしています。そして、このような“城”は日本に五稜郭以外にもいくつかあったようです。この五稜郭の真ん中に箱館奉行所があり、北海道における徳川幕府の出先機関として国土防衛・地域開発・諸外国との外交などの重要な役割を果たしていたのです。しかし、徳川幕府が倒れると、幕臣榎本武揚が官軍への降伏を受け入れない幕臣などを軍艦数隻に乗せて函館に来航し、五稜郭を占拠して“独立国家”を作ろうとしたのです。そして攻め寄せた官軍とのし烈な戦いの後に敗れたのです。
 タワーの上からのレクチャーの後、今度は下に降りて五稜郭の中を見学しました。まずは箱館奉行所の見学で、ここは平成22年に元の設計図に基づいて正確に復元(中心部分のみ)したもので、中に入ると大広間や執務室などがありました。また、消防法の関係で復元できなかった部分はまるで駐車場のように白線で地表に表示されていました。(箱館奉行所の公式ウエブサイトは→こちら
 その後、城の裏門までいくと、橋の外に「男爵・・・」と刻まれた大きな石碑が見えたので、誰か有名な人のものかと思って近づいてみると、文字は「男爵薯を讃ふ」とあり、ジャガイモを讃えた北大総長の書でした。
 その後は、K先輩が手配したジャンボタクシー(9人乗り)で40分かけて、K先輩お勧めの「木地挽 山(きじひきやま)」に向かいました。ここの展望台からはこの日の宿泊地の大沼や北海道新幹線の「新函館駅」、遠くに特徴ある山頂の“駒ヶ岳”などが一望に見渡せ、北海道の雄大さが感じられました。北海道の広さを実感した後に、約10分ほどタクシーに乗って大沼プリンスホテルに向かいました。ホテル 到着は5時頃でした。このホテルは、広い林の中に建てられた4階建ての立派なもので、我々は4階のツインの個室が割り当てられていました。いつものシングルと違ってツインの部屋は広くて、とても楽でした。但し、全室禁煙になっており、タバコを吸うSさんと高橋さんは不満のようでした。宴会は7時か ら1階のレストランでということになっていたのでまずは地階の大浴場で汗を流しました。
 7時からの宴会会場は1階レストランの特別席で、ここで豪華な和食のコース料理をいただきました。毛ガニの先付に始まり、珍味3種、イカソーメンのお造り、アナゴの揚げ物そして握り寿司と続きます。 いずれも美味しく一同歓声をあげながら食べつくしていきました。また、酒も最初は「男川」を、その後は「国士無双」を次々に飲み干していきました。そのうちに「北寄貝」が食べたいという者が出て、「北寄貝がどんな形をしているのか見たい」という者も出たので、板場の人にお願いして活きた状態のものを見せてもらい、それを2個刺身にしてもらいました。このあたりの“好奇心の旺盛さ”“図々しさ”“食への貪欲さ”が“元気な年寄り”の面目躍如といったところなのです。こうして、初日の宴会は大いに食べ、大いに飲み、そして和気あいあいの歓談の後にお開きとなりました。


05月14日(火)
 前夜あれほど飲み食いしたのに、7時すぎには朝食会場にほぼ全員が揃ってバイキングの朝食を食べていました。この日は10時30分発の送迎バスで「大沼公園駅」に行き、10時50分発のローカル線で函館駅に行くというのんびりした日程だったので、私は朝食後部屋に戻ってテレビを見て時間を過ごしたのですが、後で聞くと他のメンバーは風呂に入ったり、ホテルの周辺を散歩したりしていたようでした。
 無事にローカル線(何と1両編成)に乗り、11時40分頃に函館駅に到着しました。駅前にあるこの日宿泊する「ルートイングランティア」ホテルに行き、荷物を預けた後、昼食を食べることになりました。K先輩の案内で何軒か回りましたが、函館の有名店「ラッキーピエロ」は観光客が列をなしており、他の店は開店してなかったりで、結局函館ラーメンでもということになりました。「ゆうみん」という店に入って女店員に何がお勧めかと尋ねると「函館チャンポンです」との答えです。そこで塩ラーメンを注文したK先輩を除く5名は「チャンポンと言えば長崎だろう」などと言いながらもチャンポンを注文しました。味の方もまあまあで、一同汗をかきながら食べ終えました。その後、ジャンボタクシーで市内観光をする予定でしたが、その前に“土方歳三終焉の碑”を見に行こうということになり、徒歩で30分ほど歩きました。“土方歳三終焉の碑”は小さな公園の中にあり、多くの花が手向けられていました。聞くところによれば、5月11日が土方歳三の命日とのことでした。とにかく函館では土方歳三の人気は高く、前日の五稜郭タワーでも1階と展望台に銅像が飾られていました。因みに、土方歳三とは、新選組の副長として幕末に京都で活躍した人で、徳川幕府が倒れた後に榎本武揚に従って函館に行き、官軍との戦いで戦死した人物です。ハンサムな顔で写っている写真が残っており、これを見て多くの若い女性がファンになっているようです。ここでジャンボタクシーと落ち合い、市内観光をしました。森昌子の歌で有名な「立待岬」にも行きました。
 そのうち、運転手さんが「いっそのこと昼間の函館山に行ったら」と提案してきたのでそのお勧めに従うことにしました。参加者の多くが函館山の夜景は見たことがありましたが、昼の景色は初めてでした。展望台の下までタクシーで行き、あとは徒歩で展望台に上りました。天気は快晴で、観光客もまばらで、下を見れば函館の町が一望のもとに見渡せ、一同はしばし感激に浸りました。
 その後、再び函館観光に戻り、元町の教会群や八幡坂に代表される多くの坂などを回り、ついでに美味しいソフトクリームも食べました。観光案内書にもない「高隆寺」という立派な寺に行きました。この寺の欄間には日光東照宮のような見事な彫刻が施されており、なかなかのものでした。これほどの寺が観光案内に出ていないのはどうしてかと思いましたが、おかげで他の観光客に邪魔されずにゆっくりと鑑賞できました。
 夕方になったので一度ホテルに戻り、チェックイン手続きをしました。このホテルは13階まである大きなもので、部屋は最初禁煙のツインということで8階にとってあったのですが、前日に続いて禁煙では気の毒だったので、高橋さんとSさんは9階の喫煙室に変更しました。二人とも、それを聞いて嬉しそうでした。夕食はK先輩が予約した外の店ということで、部屋で休憩した後に徒歩で朝市の会場近くの「うにむらかみ」という店に行きました。夕食なので「うに丼」でも食べるのかと思ったのですが、皆はいろいろと“つまみ”を注文して酒を飲もうという気持ちが強いようでした。そこでメニューにある「うにとほたての刺身」「つぶうに」「貝の盛り合わせ」「ほやの刺身」などを2皿づつ注文し、酒はビールに始まり冷酒、焼酎などを次々に注文しました。つまみも更に「いかげその天ぷら」「ほっけ」などを追加し、ほっけは大きな干物を焼いた上に、6等分に切って欲しいなどとお願しました。この後に函館山からの夜景見学に行くので、身体を酒で温めておくようにとのタクシーの運転手さんの指示に忠実に従ったのです。この店で1時間半ほど飲み食いした後、迎えにきたタクシーで函館山に向かいました。
 昼間と違って函館山には観光バスが10台以上来ており、展望台も観光客で溢れていました。手すりの部分にはこれらの観光客がぎっしりと詰まっており、夜景を撮影するのは大変でした。でも、昼間とは違ってしっかりとライトアップされた街並みはさすがに“100万ドルの夜景”でした。「昼間見たからもう見ない」と言ってタクシーに残ったSさんもあとから合流して来ました。帰りのタクシーの中で、「函館山からの夜景を見たという人は多いと思うが、1日のうちに昼の景色と夜の景色の両方を見た人は少ないのでは」などと話しました。


05月15日(水)
 この日は“朝市見学”ということで、7時にチェックアウトしました。朝食は高橋さんが朝市の中にある「たびじ」という店の「イカの踊り食い丼」が食べたいというので、その店を探して入りました。私は「かに雑炊」を注文しましたが、他のメンバーは結構しっかりした海鮮を注文していました。注目の「イカの踊り食い丼」については、海鮮丼の上にイカが逆立ちしており、店の人が「イカに醤油をかけると動くよ」と言うので高橋さんがそうすると、確かに悶えていました。でも、案内書やこの店のメニューの写真に比べてイカの大きさが半分以下で、高橋さんは「誇大広告だ」と怒っていました。「その後、店を出て朝市を歩きましたが、9時前ということで観光客が少なく、我々を見た店の人が必死に売り込んでくるのです。しかし、こちらは何を買ったらいいのかわからず、ただ歩き回るだけでした。商品としては、小さな毛ガニが3千円、中くらいのタラバガニが1万円、うに1箱が4千円といったところで、どこの店も同様でした。高橋さんはうにを買うと決めてクーラーバッグまで用意しており、何とかうにを4千円以下で買おうと店の人と交渉していました。メンバーの何人かはここで買っていましたが、あとのメンバーは私同様に余り魅力を感じていないようでした。
 朝市会場を出たものの時間が余ってしまい、港に遊覧船が係留されていたのでこれに乗ろうとしたのですが、30分で1,800円と聞いて止めました。するとそばに係留していたモーターボートの人が、「一人1、500円だけど1,000円でいいよ」と言うのです。思わず乗ろうとしたのですが、念のためと思って「時間は?」と尋ねると「15分」と言うのです。それなら30分で2,000円になり、さきほどの遊覧船より高くなるので止めました。
 少し歩くと「海鮮市場」という大きな会場があり、そこには海鮮のみならずお菓子、雑貨などもあるので、一同は気に入ってここで買い物をしました。私は、「イカ飯」「つぶうに」「函館ラーメン」「六花亭」などを買ってクール便で自宅に送りました。
 その後、赤レンガ倉庫などを歩いていると「高田屋嘉兵衛資料館」というのがあったので、時間調整を兼ねて入ることにしました。受付の60歳くらいの男性に、K先輩が説明を依頼したところ、待ってましたとばかりに詳しく説明をしてくれ、たちまち我々は高田屋嘉兵衛に関する専門家になってしまいました。とにかく嘉兵衛は船乗りであり、商人であり、外交にも長けた人で、函館の恩人ということでした。
 ここで高橋さんが伊丹空港経由で帰るため、たまたま止まっていたタクシーで函館空港に向かうことになり、お別れしました。残りの5名は当初の予定では、バスで函館空港に向かう途中にある「土方歳三記念館」「石川啄木記念館」を見学することになっていましたが、それは止めて函館観光を続けることにしました。しかし、これ以上見る所もなくなり、函館駅ビルのそば屋に入ることになりました。なかなかしゃれた店で、最初はビールを頼んだのですが何かつまみが欲しいということになり、チーズの盛り合わせとソーセージの盛り合わせ、生ハムを頼みました。そのうち、チーズならワインだろうということになり、赤と白のワインを頼み、ハイボールを頼んだり、げその天ぷらを頼んだりめちゃくちゃになりました。でも最後はそばを頼みましたが、相変わらずの“元気な年寄り”を発揮しました。
 このように、今回の旅行は楽しく終わり、5名は4時45分発のエアドウ60便で無事に羽田空港に戻り解散しました。今回の旅行は天候に恵まれて気温も寒からず暑からずでしたし、五稜郭のボランティアガイドさん、二人のタクシー運転手さんのいずれもいい人で楽しい思い出になりました。

2019年3月17日
  太った人は“転倒”に注意!

 私は、身長が163センチ、体重が73キロで、自分では特に太っているとか肥満とか自覚はしていません。
 そんな私が3月11日(月)、43会仲間との飲み会の帰りに自宅のそばの歩道で転倒したのです。久しぶりに楽しい酒を飲み、夜の9時頃、JR上野駅から徒歩で15分ほどの自宅に向かったのですが、自宅まであと100メートル位の歩道で足がもつれ、前のめりに倒れたのです。上野駅ではそんなに酔ってはいなかったのですが、15分ほど歩いているうちに酔いが回ったようです。別に何かにつまずいたのではなく、ほとんど静止状態から倒れたようです。何故静止状態だったとわかるかというと、帰宅後に服を脱いだ時に来ていたウインドブレーカーもズボンも何の損傷も受けていなかったからです。
 私は2009年(平成21年)の7月4日にも、今回とほぼ同じ場所で転倒したことがあり、その時は高校の同窓会総会の三次会の帰りでした。この時は勢いよく“滑り込み”のように前のめりに倒れ、右腕をしたたかに打ったので、しばらくは起き上がれないほどでした。そしてやっとのことで帰宅して服を脱いでみると、新調したばかりのバーバリーのスーツが上着もズボンもボロボロになっていました。そして右手はほとんど動かせず、その後1年くらいは右手が不自由という状態でした。特に、右肩には大きな内出血のあざが残り、このあざが何日か経過すると上腕に降りてきてまるで江戸時代の罪人が罰として入れられた“いれずみ”のようになり、この夏は半袖シャツを着ることができないほどでした。
 この時に思ったのが、体重のある人間が倒れるとすごいダメージを受けるということでした。破壊力を物理の法則で表すと、F=Ma2となります。Fは破壊力、Mは重さ、aは加速度です。例えばこの式に従えば、体重が2倍になると破壊力も2倍に、スピードが2倍になると破壊力が4倍になるということなのです。話が逸れますが、数万トンの船がゆっくりと岸壁に衝突した時にはこの重さにより重大な破壊が発生しますし、重さが数十グラムの銃弾でも秒速数百キロのスピードで飛んで来れば人を殺すほどの力を発生するのです。6,500万年前にメキシコに落下して恐竜を絶滅させたという小惑星は重さが100億トン以上、スピードは時速数万キロだったそうです。
 この10年前の教訓として、酔った時は歩いて帰らずにタクシーに乗ることにしたのですが、10年も経過すると“喉元過ぎれば熱さを忘れる”で、今回またもや過ちを繰り返してしまったのです。幸いなことに、今回は軽傷ですみ、右手のしびれと脇腹の痛みが1週間ほどで何とか我慢できるほどになりました。ここでもう一度、酔った時は歩いて帰らずにタクシーに乗ることを励行したいと思いました。電車を降りた時はそれほどでなくても、少し歩くと急速に酔いが回り、足がもつれるのです。倒れた場所が私のように広い歩道とは限りません。駅のプラットフォームの端だったり、車の行きかう細い道路だったりすれば命取りになりかねません。43会の皆様も、ほとんど私と同年配ですし、体格のよい人もおられるようなので、酒を飲んだ時は2度も転倒した馬鹿な八束のことを思い出して十分注意していただきたいと思います。高齢になってからの怪我は、それ自体がたいしたことがなくても、それをかばうために他の部分を痛めたり、運動が不自由になることで老化やボケを促進することを忘れないように!