このページは、会員の皆様方が日頃考えていることや、仕事、趣味、トピックなど自由な内容を寄稿していただき、読まれた方が「そうだ、そうだ、もっともだ」といって声援を送ったり、同病相憐れみながら連帯感を深めていただき、あるいは「そんな世界もあるのか」といって自分の知らない分野にも目を向けていただくことができるようにという趣旨で設けたものです。当面は常任幹事や監事の方々に書いていただきますが、それ以外の会員の皆様にも是非寄稿していただきたく、よろしくお願いします。

佐藤 勝


お馴染み同人の特設コーナー(上のお名前の所をクリックしてください)


            随想33 歯磨き

 早いもので、今年も師走に入り1年の埃を払う時期となった。
しかし毎日というか、1日何回もきれいに磨く箇所がある。
それは口内であり、「歯」である。今回は、その歯磨きにまつわる話 です。

 そもそもは歯磨きの起源は、紀元前1500年頃の古代エジプトでその
旨はパピルスに記され、残されている。日本に関係することとしては、
紀元前5世紀ごろの古代インドまで遡る。つまり釈迦の時代だ。
彼の弟子に口臭の強い弟子がいた。そのため、戒律で読経の前に小枝
で歯磨きをすることを定めた。このことが仏教伝来とともに日本の
公家や武士、僧侶が身を清める作法として広まった。

 この作法が庶民に広まったのは、江戸時代中期だ。広まった要因は
男性の不純な動機からだ。それは「吉原で『モテ』たい」とのことから…
つまり、「歯が汚れ・口臭がある」と遊女に嫌われるからだ。それに、
歯の白い男は伊達男と言われ、江戸っ子か田舎者かを見分けるポイント
となっていた。

 当時の歯ブラシは、ヤナギやクロモジなどの木の枝の先端を房状にした
所謂「房楊枝(ふさようじ)」と呼ばれるもので、柄の部分は舌苔を擦り
落とせるものだ。また歯磨き粉は、陶器の材料となる陶土から作る磨き
砂に薬効のあるチョウジやハッカを加えたものだ。
これらを販売するため、吉原に近い浅草寺境内には楊枝の店が数十店も
軒を並べていた。そこには客の気を引く美人の看板娘を配し、商売を
していた。こうした事実は浮世絵にも描かれている。

 この房楊枝は明治の中期まで使用されていたが、1880年ごろには竹の柄
と豚毛の「竹楊枝」が出回り、その後 現在の「ライオン」から
「歯ブラシ」と謳った製品が上市された。一方、歯磨き粉は1872年に
炭酸カルシウム粉末の西洋歯磨き粉が登場した。1888年には資生堂が
初めて、練り歯磨きを上市している。

 一方、大正時代の人は、中国大陸各地でライオンと森下仁丹の「歯磨き
広告」を良く目にしたとのことだ。昭和に入った1928年には、
6月4日を「ムシ歯予防デー」として制定している。

 さて、ここまで男性を中心に記してきたが、女性に関して触れてみよう。
その昔、結果として虫歯予防に役立つ「お歯黒」の習慣があった。
日本では平安末期に公家や武家の間で元服の儀式で、また室町から
江戸にかけては既婚女性の貞節を示す印として、庶民に定着していた。
この「お歯黒」、毎朝夫が起きる前に塗ることが身だしなみだった由。

 先般、我が女房殿 台所から歯を真っ黒にして居間に御出座。

 びっくりして「どうした?」と声を掛けたら、黒ゴマおはぎを
「つまみ食い」したとの由。
どう考えても「お歯黒」時代に戻るわけがないよ、と
自分に言い聞かせたのだが…
     17年 12月   歌代 雄七

 
               随想32 イチョウ

  茶碗蒸しに欠かせない銀杏、食すればイチョウに思いを馳せる人も
おられよう。このイチョウ、なんと「2億年の歴史」があること、ご存知
の方はそんなに多くはないだろう。新生代には世界各地に存在して
いたが、氷河期には恐竜と同様に絶滅した。しかし一部が中国南部の
谷間で生き延びて中国、朝鮮半島を通じて日本に渡ってきた。ヒトに
よる栽培が始まったのは、ほんの千年前からだというから自然の力を
感じるところだ。

    その後、ドイツの医師で博学として知られ、欧州に体系的に日本を初めて
紹介したケンベルが1630年前後に長崎から種子を持ち帰った。一度は
絶えたドイツやヨーロッパに彼のお陰で広まった。この事実がなければ、
ゲーテが著した「銀杏の葉」と題する恋愛詩はこの世に誕生しただろうか。
そしてその後世界各地へと植樹が繰り返され、今やまた世界の広範囲で
目にすることが可能となった。

    このイチョウ、広葉樹もどきだが実は針葉樹だ。世界各地で見られると
記したが基本的には年平均0~20℃の地域で降水量500~2,000ccの地域
で分布している。用途は多岐にわたる。火に強いところから江戸時代には
火除け用として多く植樹された実績がある。またイチョウの葉から抽出
されたものが認知症や記憶改善に有効だとの報告もあるところから、医
薬原料としてイチョウの葉を日本からドイツなどに輸出がなされている。

        夏に緑、秋には深黄色を楽しませてくれるこのイチョウ、北海道大学
札幌のキャンパスで、また東京・明治神宮外苑や大阪・御堂筋の街路樹が
アーチ状で我々を迎えてくれる。

    この見事なイチョウには、幸か不幸か進化の変化は見られなかった。そ
れは、世界中で発掘されるイチョウの葉っぱの化石が物語っている。
雌雄が別々の個体であること、そして1869年、日本の学者である
平瀬作五郎氏が世界で初めて、イチョウの泳ぐ精子を発見したことなど
学者や興味ある方々の関心を得て離さない植物だ。

    現在一部の人々にはスロー人生なる生き方に関心がもたれているが、
このイチョウを想えば、「急ぐことはないよ」、人生のスピードをスロー
ダウンさせなさいと教えてくれているような気がする。さらには度々の
試練に耐えたことから、我慢をすることの大切さを見せてくれている
ようにも思える。

小生の関心ごとは、やはり黄色に熟れて実を落とす銀杏だ。
茶碗蒸しの蓋を持ち上げ、中にある銀杏を探して最初に口へ運ぶ。
んとも至福を感じる時間だ。

 しかし、こんなことで「至福」とは 小生も、ちぃせェ~・ちぃせェ~~。

 17年 11月   歌代 雄七


  白門43会  長田康道 (商会)            平成292017)年104

中央大学の箱根駅伝

 新春の箱根駅伝。 これがなければ1年が始まらない。
そのスタート地点である大手町 読売新聞社横に絆と銘したマラソンランナーの像があり、その並びに大正9年の第1回大会から平成29年の第93回大会のまでの箱根駅伝総合優勝校の栄誉を称えるプレートがある。
 絆の像と総合優勝校として母校中央大学を称えているプレートの写真を添えておきたい。
われらが中央大学は凄い。卒業生の一人として誇りに思う。
母校が初めて優勝したのは、大正15年の第7回大会だった。
昭和19年から21年は、第2次世界大戦の影響で開催中止。
 戦後昭和22年に再開された第23回の箱根駅伝では明治大学に優勝を許したが、昭和23年の第24回大会は中央大学が2回目の優勝を成し遂げ、その後30年代までは、まさに黄金時代というべき優勝記録を重ねた。
 昭和25年の26回大会、昭和26年の27回大会と2年連続優勝。
 昭和28年の29回大会も優勝。
 昭和30年の31回大会と31年の32回大会に再び2年連続優勝。
 なんと昭和34年の35回大会から昭和39年の40回大会までは、連続6年にわたり優勝を重ねた。  6回連続優勝の記録はまだ破られていない。まさに至高!
 我々は、昭和39年の春に中央大学に入学した。
 在学中は、優勝の美酒に酔えなかった。
 その後、優勝の悲願は、平成8年(1996年)の第72回大会まで待つことになる。 この72回大会のDVDが、白門43会の卒業50周年記念式典で写される。 感動が蘇る!
 優勝回数14回、出場回数90回、連続出場回数87回は母校が一番。 しかし
 2000年以降の優勝はない。 今は予選会から。 これを突破して2018年の新春には箱根に戻ってきてくれると信じている。 みんなで応援に行こう!!


 
               随想31 謎の浮世絵師 写楽

活動期間10ヵ月、110点以上の浮世絵を描いたが当時はあまり
売れずに姿を消した。この写楽の作品、保存状態が良ければ今では
オークションでの落札価格は1点、1億円を超す。

 彼は江戸中期の寛政年間(1789~1801)、すい星のごとく現れ、
パタッと消えた。この時代の浮世絵版画は流行であり、美人画や
歌舞伎役者、風景画などが描かれた。

 写楽は、歌舞伎役者を多く描いたが当時は全身像を描くのが一般的
だったが、彼は美人画スタイルで上半身像を描き、「大首絵」で背景
には、銀色に輝く黒雲母摺(くろきらずり)を取り入れている。

 デビューは版画を制作・出版する版元の蔦屋重三郎のところからで、
28点を華々しく発表している。ドイツの美術研究家ユリウス・クルト
は、1910年の著書で写楽を「レンブラントやベラスケスと並ぶ肖像
画家」だと、高い評価を与えている。

 画風は、顔が大きく役者の大きな鼻や骨ばった輪郭、さらには老いた
顔つきなどマイナス面をデフォルメするところもあり、描かれた本人の
気分は、決してよろしくない人もいただろう。

 この写楽、本当に実在したのか疑問だと昔から伝えられている。

 著名な人物が正体を隠して描いたとする説が長く続いた。例えば、
葛飾北斎、写生的な絵師である円山応挙、「東海道中膝栗毛」などの
滑稽本を書いた十返舎一九、はたまた版元の蔦屋十三郎らの名が取り
ざたされてきた。

 しかし昨今では能役者の斎藤十郎兵衛が写楽だとの説が有力になって
きている。写楽が誰であろうと、今や世界的にも超有名な「写楽」、
その原画価値の合計は100億円を下らないと推定される。
時代の流れは恐ろしいことと言わざるを得ない。

 さて、浮世絵の美術館として名を馳せているのが、原宿の太田記念
美術館、大阪・難波の髪型浮世絵博物館、長野・松本の日本浮世絵
美術館などが有名であり、一度ご興味のある方は訪ねられては如何
だろうか。

 なお、日本ではなく、米国のボストン美術館やドイツ北西部にある
ハンブルク美術工芸博物館でも、写楽の絵を目にすることは可能だ。
海外で、日本の伝統文化に接するのは乙なものであり、粋なものかも…

 浮世絵作家には喜多川 歌麿、歌川広重、歌川国定、歌川国芳など
歌の付く方々が多いが、小生の苗字も歌が付く。同じ「歌」仲間でも、
小生はなぜ絵心がないのだろう…

                     17年 10月 歌代 雄七


 立岩正義(商会)
               裕ちゃん、没後30年
                              平成29年9月吉日        

去る6月27日午後、パシフィコ横浜国立大ホールでの所用を済ませ鶴見にある総持寺に向かった。その一角に昭和の大スター石原裕次郎さんの立派な墓、「裕ちゃんの墓」がある。その左手前に石碑があり、そこには妻・北原三枝さん直筆の詩「美しきものに微笑みを、淋しきものに優しさを、逞しきものに更に力を、全ての友に思い出を、愛する者に永遠を。心の夢覚めることなく。」が刻みこまれている。初めて訪れたのは10年前だったか15年前だったか、記憶が定かでない。ともかくその時は多くの墓参者がいて、線香のにおいが立ち込めていた。この日の訪問者はまばらで、出会ったひとりの男性と数分間立ち話をした。

石原裕次郎さんが1987年、52歳で人生の幕を下ろしてから7月17日で30年。輝きはあせることなく、今も私を含む多くのファンに愛され続けている。朝日新聞出版の「石原裕次郎シアター」創刊号「嵐を呼ぶ男」を購入して若かりし頃の裕ちゃんの世界に浸った。同時に私は50~60年前にタイムスリップした。

昭和33年4月、8歳年長の従兄に誘われ最寄りの映画館に行った。上演されていたのは石坂洋次郎原作の「陽のあたる坂道」だった。主演は北原三枝と石原裕次郎。当時中学2年生のほんの子供だった私には、内容がいま一つ理解できなかったがふたりともとても恰好良かった。間違いなく美男美女でもあった。その後「風速40米」、「嵐の中を突っ走れ」、「紅の翼」、「若い川の流れ」、「あじさいの歌」等々数多の映画を楽しんだものである。劇中歌も良かった。皇太子殿下(今上陛下)が結婚されたのが昭和34年4月10日。当時「3種の神器」と言われた商品のひとつ、テレビが普及しだしたのはこの頃だった。やがて娯楽の主流だった映画はだんだん廃れ、主役の座をテレビに譲り渡すことになる。

私は引き続き、同3号「陽のあたる坂道」を楽しんだ。この後も「清水の暴れん坊」、「あいつと私」、「若い人」等々を鑑賞したいと思っている。またカラオケでは彼の作品「泣かせるぜ」等のソロ、「別れの夜明け」等のデュエット曲を楽しみたい。(了


 

随想30 冊封体制の伝播

その昔、中国の皇帝は周辺諸国が望む「王」や「将軍」の称号、
更には珍しい物品を与える見返りに君臣関係を結ぶ、所謂、冊封
(さくほう)体制、つまり中華帝国を築いてきた。

その昔、我々は中国に歴史を学ぶ折、歴代政権は 殷・周・秦・漢・
隋・唐…と覚えてきたが、その周の時代からこの冊封体制が始まった
とされる。その後のエリアは現在の中国、モンゴル、ベトナム、朝鮮
半島も組み込まれた。そして一時期の日本もそうだった。

中華王朝の皇帝たちは、朝貢に訪れる周辺諸国の数がその徳の高さ
を表すとされてきた。しかし清の時代にフランスとのコーチシナ戦争
で幕臣国のベトナムを失い、日清戦争で朝鮮半島を同様に失った。

現在の中国は、形を変えたその冊封体制の体制づくりに動き始めて
いるのではなかろうか。ミャンマーやカンボジアさらには「一帯一路」
は、まさにその現れであろう。

その冊封体制のミニ版が日本にもあった。7世紀の大和政権が東北地方
の蝦夷や南九州の隼人を従えるべく、武力だけではなく相手の欲しがる
ものを提供して懐柔策を弄していた。

しかし、その3世紀も遡る古墳時代前期に当たる大和政権初期に、現在
の埼玉・東松山市の反町遺跡や桶川市の前原遺跡から勾玉が06年・07
年に発見されている。そこでは水晶を加工する工房跡が見つかっている。

この工房には大和王権から工人が派遣されたが、西日本特有の丸い玉に
加工されるが、これら工房では東日本の人が好む勾玉に加工された。
このことから想像されることは、大和政権は従来の支配は三角縁神獣鏡
など権威の象徴を地方豪族に下賜する強固な主従関係だけではなく、
地域によっては、近畿地方の趣向や価値観を押し付けず柔軟な対応を
したことが窺える.

この地域の勾玉の材料となる水晶は、現在の山梨県・甲州市から運んだ
といわれる。想像するに、甲州市から山深い秩父を経由して水晶が
運ばれたと思われる。所謂「クリスタル・ロード」だ。これらも大和
政権の影響が及んでいるところだ。

その昔々、邪馬台国の「卑弥呼」が「親魏倭王」に任じられた位置づけ
から、大和政権のこの埼玉の臣は誰だったのだろう?

それにしても、大和から埼玉に派遣された工人は大変な思いをして赴任
してきたと想像される。現在の日本からアフリカ中央部に赴任する何百倍
もつらいものだっただろう。

小生がその立場だったら断るが、断った途端 武家時代の「市中引き回し
の上、打ち首獄門」に相当する仕置きがあっただろう。そう思うと、
今の時代に生きるヨロコビを感じている。
 
                    17年 9月 歌代 雄七



          随想29 夏は さっぱりと

食欲の落ちる夏は、「そうめん」だ、「やっこ」だと重たい食事を避ける
傾向がある。時には精をつけるためにウナギなどに手が伸びる。
然し 戻るところは、お酢を使ったキュウリ揉みとか酢の物系ではなかろうか。
今回はその「酢」に焦点を当ててみたい。

歴史的には、奈良時代に朝廷でコメを原料として酢を造っていた文献が
残っている。もともとは中国から伝えられたもので、江戸時代後期の
文化爛熟期に庶民に浸透し始めた。それ以前は何せ高価なことから、
ごく一部の人しか、口にできなかった。それが文化期に料亭や
一膳めしやが増えたこともあり、酒の販売に苦戦をしていた尾張の
中埜又左衛門が、酒を搾った後の「かす」を原料にする安価な酢を
商品化した。この酢を100万都市の江戸に大量に供給しはじめた。
ご存知のことでしょう「中埜又左衛門」氏は、ミツカンの創業者。

   1818年から始まる文政期には寿司職人、初代 花屋与兵衛が江戸前に握り
寿司を大成させている。「かす酢」の大量供給を受けての寿司は、屋台で
売る現代風に言えばファーストフードだ。この酢は、色合いから「赤酢」
と呼ばれ、コクがあり現代でも引き合いがあるという。

酢と親戚筋に当たるみりんは酢と同様に酒販に負けた酒造業者が苦境打開
のため調味料進出の機会となった。現れたのは、室町時代も後半で当初は
調味料ではなく嗜好飲料だった。江戸時代初期でのみりんの存在は、上流
階級の贈答品・献上品として流通した。後期の文化・文政期には、焼酎に
米麹と蒸した餅米を仕込んで造るみりんが調味料として広まった。下総・
流山の酒造会社が赤い色のみりんではなく、淡い白みりんを開発した。
これにより、「煮物、焼き物、あえ物、菓子」などに使われるようになり、
結果、甘い味付けが江戸の料理屋に定着した。

こうした酒から派生した調味料は料理のレシピを増やしているが、江戸
初期の後半ではみりんに焼酎を加えた甘い酒が冷酒として人気を博していた。
中期では酢や煎り酒で刺身を食べる食文化が生まれている。

こうした調味料は、室町時代の武家で雇われた料理人達が、酢やわさび酢などの
合わせ酢を種々登場させたのがスタートだと言われている。

冷蔵庫のない時代、欧州では飼料が少なる冬の前に家畜を減らす目的で大量の
屠殺が行われ、胡椒が必要だった。もちろん胡椒は香辛料・調味料として
の役割も大きかった。15世紀ごろの大航海時代、スペイン・ポルトガルは金・
銀、そして胡椒を含めたスパイスを求めて、波頭を越えて東の国々へ乗り出した。
胡椒はベネチア人に「天国の種子」とまで言わしめ、貴重品扱いで「贈り物」な
どに使われていた。

さて、日本人の舌は世界でも最高レベルのシャープさだというが、筆者の
「鈍感舌」は何を口にしても味は変わらず、周りの人は食べさせがいの
ない人間だと蔑むが、こればかりは悲しいことだが致し方がない。
           
               17年 8月 歌代 雄七


          白神山地をトレッキング・古稀を迎えて           宮本常子 (文哲)

 9月半ば上野駅より北上に向け、世界遺産の白神山地へt旅立った。旅行会社のツアーではあったが、2泊3日で充実した内容だったので前から行きたかった処でもあり、歩こう会の友人二人と三人で行くことになった。偶然にも三人とも今年古稀を迎える。
 まずはかの有名な青池を見物。十二湖の由来は、一七○四年に羽後、津軽地方を襲った大地震(M6.9)によって沢がせき止められ、地盤が陥没して形成された三三の湖沼群である。小さい池は森の中に隠れ、大きな池だけが十二個見える事から「十二湖」と名付けられたという。青池が最も有名である。水面が青く見える湖で、林の間から陽光が差し込むと神秘的である。
 五能線白神号に乗って海岸べりを走り、沈みかかった夕日を見たのも記憶に残る。
 明日はいよいよ白神山地トレッキング。朝起きてみると天気がよかったが、山の天気は別である。雨合羽と登山靴と注意書きがあり本当にその通りであった。専門のガイドが待っていて、いざ出発である。いきなり降ってくる雨とブナの葉が推積した地面は冷たい。さわぐるみやとちのみや川柳など木々の説明を受けながらイワナのいる川を横目に山へと登って行く。その前に美味しい天然水を汲む。
 ブナの木は成長が遅いらしく、ここは世界最大級のブナ林である。二百年以上もかかってできたブナ林で年間八トンもの水を蓄えるダムの役割をするらしい。ブナの葉約四十万枚が土に帰る。五葉松、トドマツ、ほうの木(葉になる)、ウダイカンバ、ダテカンバの木やかつらの木も遠くに見える。ジメジメした足元、やんだかと思うとまた雨が容赦なく降ってくる。
 木々の間から見える木漏れ日を見ながら沢に出る。沢沿いに「暗門の滝」歩道コースを行く。沢沿いに網がはられ、それに沿って曲がりくねった岩の道を行く。かなり歩いたかなと思う頃やっと一つ目の大きな滝にたどり着く。次の予定まで時間がないから引き返さねばならず、第一の滝まで行きたい人はすでに足早で出発しており、私はガイドさんの説明も聞きたいのでとどまったが。が、どうしても第二の滝まで十分位と聞き、遅れて一人で足早に第二の滝まで登って行った。帰りも足早でやっとみんなに追いついた時はホットした。キリンソウ、ツリガネソウ、ジャコソウ、クサミボタン、ミズの葉やきのこや毒キノコもある。
 また、最終日に、まもなく天皇・皇后両陛下がいらっしゃるという八戸の種差海岸(三陸復興国立公園)を葦毛咲き展望台から渚の花を見ながら歩いたのも思い出となった。いつもは風が強くなかなか遠くが見渡せない所らしいが、よく晴れて風もなく暑いくらいの天候に恵まれたのはラッキーであった。
 前に行ったことのある奥入瀬渓流(二カ所下車)、十和田湖や八幡平アスピーテラインをバスで上った。
 忙しい旅ではあったが、トレッキングは初めてで、古稀を迎え何があるかわからないので行けるときに行って良かったと思っている。


 

           随想28 水

 

この時節、水が飲みたい、水を浴びたい そんな日々ですね。

 昨今の飲料水は、ミネラルウォーターや室内に置く小型飲料水装置

から、口にするケースが増えてきた。 贅沢といえば贅沢だが…

今回は、蛇口をひねれば勢いよく流れ出る「水道水」について、記す

ことにしよう。


 
最近の水道水、昔に比べておいしくなったと思いませんか。

例えば東京都の水道水、1970年代後半に金町浄水場の給水管内で、

「水が臭い」と苦情が相次ぎ78年には1千件近くになったといわれ

ている。原因は生活排水による河川の汚濁だ。

 

現在の東京都は20年以上をかけて、5つの浄水場で「高度浄水処理」

を施して家庭に届けている。この恩恵に与るのは東京都の人口

1,300万人の8割に相当する人々だ。具体的には201310月から

利根川・荒川水系から取水する全ての水をこの方式に切り替えた。

 

水道水は、一般的には水源林から水をダムに貯め、下流の河川の表流水

を取り込んで原水にしている。その原水を砂や泥で沈殿させ、さらに

砂や無煙炭などを敷き詰めたフィルターを通して濾過し、その後

法律で定められた雑菌の繁殖を抑えるため、塩素を加えて給水となる。

 

然し、これだけではクレームがつくところから、先の「高度浄水処理」

で、濾過後の水にオゾンを通して臭い物質を酸化させて分解する。

その後、表面に微生物を付着させた活性炭で濾過・吸着を重ね、かび臭

さなどが取り除かれていく。

 

こうして「努力」した東京都の水、「東京水」として現在ペットボトルに

入れて水道PR用として、またお土産用として配られている。この

おいしい東京都の水が、15年度のネット調査「地元の人がおいしいと

思う水ランキング」では、47都道府県中、38位と残念な結果と

なっている。

 

因みに、1位は熊本県、富山県、鳥取県が同位となった。東京と同様の

都市圏である大阪は、琵琶湖から水を引いているが、その順位は43位。

No1の熊本県、県都である熊本市の水道は地下水を原水として、簡単な

濾過と塩素を加えているだけだ。また同位の富山県の原水は、河川の下を

流れる伏流水で、砂利や砂などに水をゆっくり通す「緩速濾過」方式だ。

東京の水よりコストは大幅に安く、うまい水の提供ができている。

 

この日本では、これらの水道水には人の健康のほか着色や臭いなどを

避けるため、51項目の水質基準が定められている。

振り返って日本での「近代水道」、すなわち濾過・消毒した水を供給

し始めたのは1887年(明治20年)、今から130年前の話だ。

 

以上、時代も変われば、水道も変わった「四方山話」でした……

 

さて、貴台はミネラルウォーターと水道水と飲み比べできますか。

 

筆者は何回か挑戦したが、判定は難しかった。

それを見た女房殿の曰く、

「ミネラルウォーターは判別できる人が飲用するもの、

貴方は水道水で十分、 私は分かりますので…

「それはないだろう…」と反撃しましたが…

家庭内のみっとも無い話、失礼いたしました。

 

            17年 7月 歌代 雄七


 
        随想27 土方さんや近藤さん、

 現在の東京・日野市の豪農に生まれた土方 歳三は、早くして父母が

亡くなり、次兄夫婦により養育された。17歳の時、上野の松坂屋

いとう呉服店(現在の松坂屋上野店)の支店である伝馬町の木綿問屋に

奉公に上がった。一説によるとそこで年上の女性を妊娠させ、故郷に

戻されたと言われている。


 
その後、実家秘伝の「石田散薬」を行商しつつ、各地の剣術道場で他流

試合を重ね修行を積んだ。その剣術は従兄弟が開いていた「天然理心流」

に入門し、剣の腕を磨いた。そこで近藤 勇の知遇を得て、後の新選組と

なる、「将軍」上洛警護のために結成された「壬生浪士組」に入った。

二人とも「武士」出身ではない。


 
その上洛警護メンバー、身元の分かる220人の内、医師や農民ら武士

以外が142人と過半数を占めていた。新選組局長の近藤 勇もそうだ。

当時の江戸を除く関東腕利き剣士632名を記した「武術英名録」には、

土方 歳三の名が天燃理心派、武州日野宿として明記されている。

この英名録には、その94%に当たる593名が庶民だった。

ことほど左様に江戸時代、農民も含めた庶民が武芸に勤しんでいた。

 
振り返ってみると1588年、桃山時代に刀狩令が発布され、農民は原則、

刀が持てなくなった。がしかしこれは農民の刀の所持を免許制にした

ことであり武士の帯刀、つまり太刀と脇差の二本差しと、身分制度の

中で明確にする狙いがあったとの説がある。


一方、江戸中期に至っては村長など一部に限定して帯刀権が許された。

その背景は、各藩の財政事情が厳しくなったことにより、献金の見返り

としたものだ。こうしたことにより庶民が武芸を嗜み、剣術道場に

賑やかさが出てきた。こうした素地があったことから、幕府は1849年、

各藩に対して海防強化令を出し、農兵の採用をもとめることとした。

これは明治維新の20年前の話だ。その維新の頃には120藩中54藩が

農兵を採用していた。

 
こうした農民が武芸に励んだこともあり、西洋列強がアジアの国々を

次から次へと植民地化した中で、武士だけが兵力でない、つまり農民が

兵士である日本は、侮れないとフランスやイギリスが意識したので

あろう。つまり、海戦では圧倒できても地上戦では勝てないと信じ

させた農民の力は大変なものだっただろう。

 
話を戻そう。その後の鬼の新選組副隊長の土方 歳三は、箱館戦争で

所謂「蝦夷共和国」の軍事・治安部門に責任者として任じられ、五稜郭

を中心に戦った。そして35歳の若さで、狙撃を受けて戦死。

 
とにかく写真を見ても、歳三は今ふうのいい男だ。

舞子・芸者からファンレターが多数届いていたとの話は頷ける。

筆者、彼のダブルスコア―の人生だが「モテた」時期はなかった。

これからも、もう ないであろう。

これは、男として寂しい限り…

梅雨のこの時期、筆者に成り代わって

嗚呼 天から滴を落してほしいものだ……

 

       17年 6月 歌代 雄七

 


   随想26 そろそろ日差しが気になってきた


 
 日差しが強くなると、南の方面に思いは強くなる。

 今回は沖縄までは行かないが、南のイメージが強い奄美諸島を採り

上げた。我々43会でもこの奄美ご出身の方は多かろう。

 
16093月、琉球王国の版図だった奄美諸島に薩摩軍勢、3千が

突如乱入。奄美大島や徳之島で激しい戦闘はあったものの、同月中

に、奄美を制圧してしまった。4月には沖縄本島の王府、首里も

占拠された。ここから琉球でも、ヤマトでもない400年強の

奄美史が始まった。

 
その後、薩摩藩は明治維新まで奄美諸島を直轄の支配地とし、

一方の琉球王国を存続させ、間接支配をしていた沖縄本島以南とは

分離した。こうしたことから、奄美では藩の郷士格を持つ中間

支配層が生まれ、年貢負担にあえぐ、それ以外の島民との階層分化

が進んできた。

 
この背景は、産業がサトウキビの単一栽培と製品である黒糖作りで

あり、その上納制からくるものだ。このことで薩摩藩は潤い、外国

から武器を購入して、明治維新を成し遂げる原動力になったことは

間違いないだろう。

 
一方、薩摩藩は郷士格を取得した島民に対して、名字が2字制の

多い本土に対して、1字姓を選ぶよう指導・誘導をした。

 
なぜなら琉球王国を通じて、通商関係にあった中国を意識しての

政策だという。中国と共通する1字姓で、当時大国の中国に対して、

薩摩藩の直接支配を隠ぺいして、引き続き琉球王国に属すると

奄美諸島についての説明をしている。

 
沖縄へ自由に行けるようになったのは1972年からだから、我々が

大学を卒業した5年位、後だった。

一方、南の方に憧れていた学生時代に 筆者が奄美大島や徳之島に

遊びに行き泳ぐことができたのは、こうした歴史があったからだ。

 
この奄美大島、世界でもジュゴンが生息する最北端だそうだ。

また、ホエールウオッチングが盛んでもあり近々、遊びに

行く予定にしている。

 
また平家の落人を祀る神社がある。平清盛の孫にあたる有盛・行盛を

祀るもので、有盛神社、行盛神社がそれだ。

見どころ一杯の奄美大島、この夏 訪れては如何ですか。

 
これだけPRをすれば、奄美市から観光大使の話が舞い込むかも…

その折は、皆さんを無料で奄美へご招待しましょう!!

                            17年 5月 歌代 雄七


   随想25 天下分け目の 関ケ原

 時は1600年10月21日、東軍7万、西軍10万で、戦の火蓋は切って
落とされた。日和見の武将たちがなかなか動かず戦況は膠着状態……

「講釈師」は扇子で机をたたき、「見てきた如くの嘘をつく」ではないが
口角泡を飛ばしながら、実況中継の如く「関が原」を語ることだろう。
然し、今回の話は戦ではなく 『味』のある話だ。

4月になると、新入学、転勤シーズンとなり東から西へ、西から東へと
人々が移動する。動けば身近な生活の中で味の違いを感じることになる。

 関西方面は関東に比べて味は薄口だ。例えば、関東のたまご焼きは固めで
甘いのに対して、だしが卵と同量の近畿圏の卵焼きは、やわらかく薄い
塩味だ。こうした違いがはっきりしているのは、他にもある。雑煮の汁が
そうだ、東はすまし、近畿圏は味噌となる。

 餅にも同様の傾向がある。元旦の雑煮の形は本来、丸が主流だったが
角の形が関東で普及した。角は大量生産のための工夫だった、と聞く。

 こうした事情を踏まえて食品メーカーは苦慮しているようだ。例えば、
カップうどん・そばの「どん兵衛」のスープは、東はカツオだしを
主体に濃い口しょうゆで味付けされており、見た目も濃い。西は
昆布を多めに薄口しょうゆだ。さて、その境はどこであろうか。
ヒントは織田信長にもありそうだ。公家の料理が口に合わないと
受け付けなかった信長に、味を濃くして出したら、喜んで食べた
とのこと。

 このように、味の境を探しに「どん兵衛」の発売元の日清食品の
開発担当の社員は新幹線こだまに乗って各駅に降りて確認した
そうだ。結局その境として確認できたのが、岐阜県の関が原であった。

 扨 さて、ふだんから我々は「東日本」「西日本」という分け方をするが、
その境は地形的には新潟県の糸魚川と静岡県を結ぶ糸魚川―静岡構造線
が境とされている。この糸静線に沿って日本アルプスの山々が連なり、
東西で地質や生態系が分かれる。

 電気の周波数も、この糸静線を境に東側の東北電力や東京電力が50
ヘルツ、西側の北陸電力、中部電力は60ヘルツだ。これは明治時代の
発電機が関東はドイツ製、関西では米国製であったことに起因する。

 また、これは習慣なのだろうか、駅やデパートでのエスカレーターの
乗り方にも違いがある。東京では左に立って右を開ける。大阪は右立ち
左あけだ。新幹線の名古屋駅は東京方式だ。同じ新幹線の京都駅は
大阪方式、しかし京都のコンコースでつながる近鉄では、何故か
東京方式、不思議なことだが殆どの人がその理由がわからないようだ。

 筆者は転勤で、大阪に12年あまりに亘る生活を送った。
その間、これら東と西との違いを最初の数年は戸惑ったが、
それ以降は「郷に入れば…」の意識でいるつもりだったが、
先般 久しぶりに大阪でエスカレーターに乗った折、後ろから
「スンマヘン」と声をかけられた。

 足元を見たら、無意識の中での東京方式だった。

                 17年 4月 歌代 雄七


  随想24 英語になった日本語

 日本が国際的になって久しいことだが、「日本語」はなかなか外には
飛び出さない。然し、世界各地で日本語を教える教室は増えているが、
中国語程のスピード感はない。一方、世界からの観光客が年間2千万人
を優に超えるようになってきた今日、日本語の浸透スピードにアクセル
を更に踏み続ける必要があるだろう。

 英国が誇る英語辞書「オックスフォード英語辞典<OED>」には、
日本語が語源となる言葉が500以上掲載されている。掲載されるため
には、英語の本や新聞に頻度多く掲載されることが要件だ。

 その為、英語の本などに初出した年とOEDに掲載される歳とは自ずと
その差が開く。例えば「三つ葉」の初出年は1890年、OEDへの
収載は2014年、実に125年を要している。一方、「絵文字」の
初出年は1997年、OEDの収載は2013年、その間16年だ。
「携帯」に至っては、掲載は2010年、初出年は1998年と
12年のギャップだ。

 昨今は日本食ブームもあり、早くから浸透した納豆などが最近掲載に
至っており、またクルージャパンを反映してかコスプレ、アニメなどの
日本語が早くから掲載されている。

 それでは、2000年からOEDオンライン版に掲載されている60
万語の中から幾つかの日本語を、初出年を併記しながら、羅列して
みよう。

 一番古いところでは、織田信長が天下統一を目指していた頃の
1577年には「Kuge」(公家)が、1588年にBonze(坊主)が、
更には江戸時代では「刀」「畳」「将軍」などが英語の本などに掲載
されている。

 明治に入ってからは、Jinricksha(人力車)、「布団」「芸者」「神風」
等など。また今や世界の共通語として認知されているtsunami(津波)は
1897年に初出している。

 戦後では「新幹線」「公害」「商社」、トヨタの生産方式「かんばん」
などが日本経済の成長期に合わせて初出している。一方、世情を反映
した日本語も掲載されるようになった。少女漫画を意味するshojo、
少年漫画を意味するshonen、「過労死」、ポルノ漫画などを意味する
「hentai<変態>」「オタク」「絵文字」「引きこもり」等などだ。他に
2000年に初出した「Sudoku<数独>」などは目を引く日本語だ。

 若者文化や和食を中心としての日本語の浸透がみられるが、もともとの
日本の単語の浸透だけでなく、日本の文章、会話、そして文化・芸術が
世界に浸透することを唯々願うだけだ。

 そうなれば、海外に出ても通訳は必要なくなり、翻訳機も必要なくなる。
その為には、文科省がもう少し日本語の浸透の為、予算獲得が必要で
でしょう。  がんばってください、文科省!

             17年 3月 歌代 雄七


     *シニア大学=>シニア大楽?                       佐藤勝 (法政)

 NPO法人"シニア大楽"をご存じですか?
 今週、新宿区神楽河岸に在りますセントラルプラザにで開催されました生涯学習企画担当者のための講座研修 < 成功する市民講座-企画立案と講師の選び方 > を聴講してきました。
 午後1時半から夕方にかけて途中2回の休憩をはさみながらも各分野のそれぞれの専門家が総計15人にわたり弁舌を振るわれました。
 講師の数が際立って多いために一人一人の待ち時間は少なかったのですが殆どの講師は話し足りなさそうに苦笑を顔に浮かべながらも後部席で掲げるタイムアウトボードを横目で見やりながら熱弁をふるってました。テーマはだいたいにシニア向けのものが多かったのですが講師の方々は殆んど古稀をスルーパスして尚且つ闊達に人生に前向きにとりくんでおられるかたがたばかりで刺激を受けました。過去数十年の自分の現役時代の様々な失敗談、成功談そしてそれらを糧にした自分なりのOnly oneの人生観にはそれぞれの生の体験からにじみ出てきて醸造されたものだけに甘くも辛くも在りました。
 私は地元の千葉市でも市の生涯学習センターの"学びサポ-タ-"の一員として年間2回(2月、6月)シニア市民を対象として計6人の講師を招いて".シニアの為の講座会"を開催している関係上今回の様な大変意義のあるイベントに触れることができましたがこのNPO法人シニア大楽<講師紹介センター>では300人くらいの講師が登録されており希望があれば紹介してもらえる様なので今後43会でも総会などにお願いができる一つの選択肢として引き出しにkeepしておくのもいいのではないかと思います。


    本当に久しぶりに43会の行事に参加した         佐藤  勝(法政)

 かれこれ5年くらいのブランクだろうか?復帰(復活)した理由は様々あるがメインの理由は古稀をはるかに過ぎて己の生活パターンを変えたことである。生活の軸足を変えたと言ったほうがいいかもしれない。体力的な限界を感じてもうかれこれ30年も続けてきた剣道(自分の稽古と子供達への指導.大会の試合審判)との関わり合いを極力減らした。それともう一つはやはり15年くらい続けてきたランニングからの大きな撤退である。
 毎週木曜日のマラソン教室は継続するとしてももう10キロ、ハーフいわんやフルマラソンなどには参加しないし気持ちがあってももう叶わないだろう。
 剣道とマラソンからからくる共通項はいずれもきついスポーツで冬つらく夏これまた辛いスポーツである。古稀前まではこの様なストイックなスポーツになにくそと立ち向かう気力が湧いてきたものであるが最近はそれを掻き立てるモチベーションも湧いてこなくなった。
 それに以上のマイナス2大原因に加えて孫の世話が急に増加したことである。現在まではわたしの近くに居を構えている次女に一人3歳の娘が居て時々"ジージジージ"と遊び相手に駆り出されているだけだが4月に2番目が生まれ(男)おまけに今月には愛知県の常滑市に居た長女家族が旦那の転勤で千葉に戻ってくる。それによって孫の数が急遽ひとりから四人になりジージジージ(爺、爺)と夏のアブラゼミの大合唱である。
 しかし、これら剣道やマラソンを縮小して孫の世話がかりで家に引っ込んでしまっては世の中に置いていかれてしまう。人生には"登り坂、下り坂、そしてもう一つ"まさか!"の3つの坂があるという。最近は"トランプ新大統領、"英国のEU離脱"という"まさか?"の起こるケースが多いのです43会に少しでも多く参加して錆びかかったアンテナを磨いておかなければならないと思う昨今である。    完     
                                          

 随想23  「円」

 某国大統領の発言で右往左往する各国だが、日本も同様だ。
彼の一言で「円」が高くなったり安くなったり、何とも情けない。

 そんなことは自分には関係ないよ!! 
今年こそ大金持ちになりたい、と思われている方がいるでしょう。
それでは、その方々、今年は宝くじでも買われて10億円を狙いますか、
はたまた数倍程度でよいとお考えの方は、鎌倉の銭洗い弁天に行かれ
ますか。

 江戸時代にも「富 くじ」なるものが存在し、射幸心をあおったものだ。
1700年代の前半、享保年間で湯島天神などが寺社勧進で富くじを
販売した。一等賞金は100両、現在では5~6百万円程の価値
だろうか。然し、この1両、同じ江戸時代でも貨幣価値が違う。
初期の頃は約10万円、中期で3~5万円、幕末頃では3~4千円位
だと言われている。

 扨、その幕末から明治になり、明治4年5月には「新貨条例」が公布
され、通貨単位が「両」から「円」に変わった。その2年前には京都で
開かれた貨幣会議の席上で、大隅重信から「百銭を以て一元と定め…」
との発言があった。結局はこの案は通らずに通貨単位は「円」となった。

 この「円」、19世紀初頭頃から高野 長英や橋本 佐内などの先進派の
連中の間では「両」を「円」と呼ぶことが流行っていた。背景は、
幕府への抵抗心からだろう、という説がある。背景には、江戸時代、
清との交易を通じて「円」と言う名称が知られていた。清は英国との
茶の輸出で「英国」から対価として、メキシコ㌦銀貨を大量に取得
したが、その通貨がまるい形から「銀円」と呼ばれていた。

 現在、中国の中国元の紙幣には、通貨単位として円の旧字体「圓」が
印刷されている。円も元も中国語の発音は何れも「ユアン」だ。

 中国人留学生と日本人学生が絡んだ金銭の貸し借りの場に筆者が
いた折、こんな会話を耳にした。
借りた方の学生が、執拗に「日本円で2万円を借りた」と確認していた。
同じ「ユアン」でも、圓は日本円の15倍程度だから確認するのは
当然だろう。

 それにしても、今年の円の価値は上がるのか、はたまた下がるのか。
どちらに転んでも、一喜一憂それぞれだが、ドル建て債券をもつ人は
円安に振れて欲しいと望んでおられるだろう。

 先月20日に就任したトランプ大統領の今後の発言で、我国の「円」は
波間に漂う木の葉のように上がったり、下がったりの繰り返しだろう。
何れにしても、盤石な国家財政の下で円の価値を高めてほしいものだ。

 先般、国家情報を得られる立場の人と接触できる人の話を聞いた。
日本国の借金の額は半端ではないが、それを上回る隠れ資産を秘密裏に
保有している由。依って国債は安心して購入できる由。
信じる、信じないは貴台の自由だ。

 さて、今年の貴台の投資戦略は・・・

          17年 2月  歌代 雄七


 
随想22  日本人

  新年を迎えると、事始めの意識になる。

それでは、今年は日本人の源流を考えてみたい。
この島国の日本人、1億3千万人弱の祖先は何処から来たの
だろうか。遠い・遠い時代に戻ってみよう。

遡ること20万年前、ホモ・サピエンスはアフリカで誕生した。
   然し、5万年前に寒さと乾燥などで餓えに苦しみ、人口は1万人
   以下に激減していた。故もあり、ある集団がアフリカを出て
   西アジアで数を増やし、東西に分かれ拡散した。最初にアフリカを
   離れた集団の数は、遺伝学的にも150人前後だとの説がある。

 一方、東進した一派はベーリング海峡を渡り1万年前に南米の南端
までも到達した。つまり、4万年、約2,000世代もかけての
アフリカから地球の果てまでのグレートジャーニーとなった。
その間、豪州には4万5千年前に到達している。

    一方、大陸から日本へは大きくは3本のルートがあったと考えられる。
先ずは、日本には3万年以上前に大陸と陸続きであった台湾から、
最短100㌖の海を越えての「沖縄ルート」、大陸から朝鮮半島を経由
しての「対馬ルート」は約3万8千年前、一方、シベリアと陸続きで
あったサハリン経由の「北海道ルート」は約2万6千年前であった。

       その北海道ルートでの傍証は、シベリアのアムール川下流域の複数の
先住民族と共通する遺伝子型を日本人の一部に持つ人がいる。また
約2万6千年前以降の北海道の遺跡から見つかる「剥片石器群」と
「細石刀石器群」がシベリアのものと似ており、生活が共通していた
ことが理解できる。一方、北海道の縄文時代の人骨と共通する遺伝子
が現代の東シベリアの先住民に多く見られる。この型は朝鮮半島の
現代人には見られず、また台湾や東南アジアでも見られない。一方、
朝鮮半島経由の対馬ルートは諸般の事情・背景はご理解の通りだ。 

    沖縄ルートは那覇市や石垣市で人骨が見つかっているが、そのDNA
は東南アジアの特徴的遺伝子を持っている。当時の日本周辺は現状
から海面が50~60㍍低かったと言われている。故に、現状より
航海は容易であったかもしれない。一方、その3万年前には黒潮に
のる航海術をもっていたことは事実だろう。かくの如く、ホモ・
サピエンスは、欧州では旧人のネアンデルタール人や東アジアの
北京原人やジャワ原人たちと時期的には共存したであろう。
然し、結局のところ、これら古い人類が絶滅した事由は分からない。

立ち戻って、各地域の人種はどのように分岐していったのだろうか、
「類縁関係をイメージ的」に見てみよう。
人類の祖先からアフリカ人とその他の人々に別れ、後者はヨーロッパ人
と非ヨーロッパ人に別れた。その非ヨーロッパ人は、東ユーラシアの
共通祖先と縄文人に分かれた。共通祖先はアメリカ先住民と非先住民、
その非先住民は東南アジア人と非東南アジア人、その非東南アジア人
は中国人と日本人に分かれた。
この分析は人骨の奥歯からDNAを抽出し、その配列でわかってきた。

 さて、現代の日本人で、縄文人の遺伝子を受け継いでいる人は本州
では12%だ。 そこで、不毛な質問で恐縮ですが・・・

 貴方は縄文系ですか、
 それとも弥生系ですか。

           17年1月  歌代 雄七


 

随想21 師走

師走に入ると街角で帽子をかぶった救世軍の人達が、トランペットを

吹き、鍋を三脚に吊るし、社会鍋と呼称される街頭募金・寄付を呼び

掛ける。この風景は、師走の風物詩であり、その「社会鍋」は俳句の

季語にもなっている。今回は、その寄付について考えてみよう。

 

そもそも寄付とは、歴史的に見れば宗教との関連が強いように思える。

欧米ではキリスト教の精神に根付いて・・ イスラム教では喜捨の文化、

仏教では寄進の精神などから始まったのだろう。その寄付をする側の

精神構造は如何に と問えば、返る言葉は一言、「心の安定」では

なかろうか。つまり冷めた言い方をすれば「ギブ・アンド・テイク」の

世界ではなかろうか・・・こんなことを記せば、バチが当たりそうだが。

 

扨、日本はこの寄付に対して意識の浸透度は如何だろうか。

寄付をした経験のある人の割合をチャリティー・エイド・ファウンデー

ションが13年に調査した資料がある。問いは、調査前の「1ヵ月間

で寄付をしたことがありますか?」

 

1位から順に挙げていこう。ミャンマー91%、マルタ78%、タイ

77%、4位にアイルランドと英国が74%、6位カナダ71%、

7位にはアイスランドとオランダの70%、米国は68%、豪州と

インドネシアは10位で66%だ。こうして見てくると信仰心の

強い国がランキングとして上位にあることが窺える。

 

焦らすなよ、日本はどのような具合だ、との声が聞こえてきました。

お応えしましょう。日本は135ヵ国中62位、寄付した割合は24%。

因みに世界に於ける寄付経験者は28%と、世界の数値からも落ち込む

日本だ。何しろ、米国の「ギビングUSA白書」での金額比較では、

米国の40兆円近い金額に対して日本は1兆4千億円、米国は日本の

30倍程の規模で資金を集めている。

 

この寄付について、集め方に多様化がみられるようになった。

例えば、英国では参加者の多いロンドンマラソンでは出場枠を

チャリティー団体に振り分け、その団体はそれを出場者に「枠」を

販売し、得た資金を対象施設に支給している。

日本では、NPO法人「TFT」が学校や企業の食堂で食事をすると

20円が発展途上国の給食費として送られる仕組みを作り、13年

では国内618団体から1億3千万円を集め、約600万食の提供

を実施した実績がある。

 

ネットの百科事典「ウィキペディア」は、国境を越えて寄付を集めて

いる。各国で2~3週間ずつパソコン画面で『読者の皆様へ。私たち

は独立性を保つため、一切の広告は掲載しません。また、政府からも

援助は受けません、700円の寄付をしてくだされば募金活動は

1時間以内で終わるでしょう』。こんなコメントをご覧になられた

方も多いでしょう。結果は14年で約60億円を集めた由。

 

これからは、国際機関が「ワクチン債」などを発行してワクチン

接種事業の実施や途上国の太陽光発電の普及などへ債券発行など新しい

寄付のスタイルが生まれてきている。

 

寄付は「利他」の感覚で行うケースがあるが、長い時間軸で見れば

周り廻って子孫が恩恵を受ける「利己」に繋がることだろう。

 

貧乏人根性の小生は、寄付をしても本当に対象者に届くのだろうかと、

懸念を持つことがある。一方、寄付の背景は富の再分配の性格を持つ。

そうなると中流以下の小生には、何処から分配が廻ってくるのだろう

か? 年末に向かって両手を広げていれば、天から、何かが…

 

アぁー! 情けない人間になり下がったものだ… と

それこそ、天から親の嘆きが聞こえてきそうだ。

                     16年 12月 歌代 雄七


  立岩正義(商会)

天寿を全うした叔母

 平成28年4月2日、明石の叔母(父の弟の妻)が亡くなった。享年102歳、天寿を全うした大往生であったと思う。10月2日神戸で開催される高校の同期会出席後、叔母に3年ぶりに会いたいと従兄に手紙を出したところ、訃報を聞かされた。ごく内輪で葬送した由。葬儀に出席し、最後のお別れをしたかった。私には8人の叔父・叔母(父方)とふたりの伯父・伯母(母方)がいたが、彼女は最長寿で最後に亡くなった人である。耳は遠かったものの認知症を患うことはなく、具合が悪かったのは亡くなるまでのほんの1か月ほどで、写経をしながら息を引き取ったとのことだった。最後に会ったのは3年前の10月だった。そのとき白寿のお祝いをプレゼントしたが、耳が不自由なためあまりお話しすることができず残念だった。私の手許には和歌を添えた達筆の毛筆書きの手紙、ぬり絵など思い出に残るものが少なからずある。繰り返し読み返してみた。
 私には母が3人いると思っている。3人の母とは生みの母(昭和25年8月死去)、今回ご紹介する明石の叔母、両親の死後厳しさを保ちつつ中学2年、高校3年の5年間育ててくれた神戸の叔母である。
 6歳の時母と死別した私は、父(昭和33年4月死去)が病気入院、加療中の昭和30年4月~10月にかけての約7か月間明石の叔父、叔母のお世話になった。日本がまだ決して豊かでなかったあの時期、5人の子供がいるなかで私を受け入れ育ててくれた御恩は、終生忘れることはない。叔父の厚情は無論のこと、叔母の決断がなければあり得なかったと推察している。このことがあって今の私が存在する。本当にありがたいことだった。
 私は母の愛情というものを知らずに育った。明石の叔母は優しかった、温かった。我が子と同じように接してくれた。たまに、いとこと対立するような場面ではいつも私の肩をもってくれ、愛情・温情を注いでくれた。私はこのとき生まれて初めて母性愛というものを知った。優しいということは強いことであることも知った。
 世話になるまであまり勉強しなかった私が親と離れ一生懸命勉強したこと、小学校の同年の従姉妹と私を掛け持ちで授業参観してくれたこと、時々社会人1年生だった従姉の帰りが遅いと心配していたこと、今と違って時には叔母の母君も交えた大勢の家族で楽しく賑やかに食卓を囲んだこと、敷き詰められた布団の中で島倉千代子さんが綺麗な高音で歌う連続ラジオドラマの主題歌「この世の花」を聴きながら眠りについたこと等々を懐かしく思い出す。当時私はまだ10~11歳の少年であったが、なぜか彼女のデビュー曲であるこの歌に魅され、それ以来彼女のファンになった。
 改めて叔母様のご冥福を心からお祈り申し上げます。(合掌)


 
随想 20 秋のバラ

 

園芸に詳しい方なら「秋のバラ」の良さをご存知のことだろう。

春に咲いたバラを8月末から9月中旬までに剪定を終えれば、10月

中旬から11月中旬に開花させ、秋バラを楽しむことが出来る。

手間をかければ、料理も美味なることと同様に、バラも魅力ある花を

つけることになる。

 

その花は春バラに較べて、色が濃く鮮やかになり、また香りが更に

良くなり、持続性が増すこととなる。

今回はその「バラ」に纏わる話と致しましょう。

 

生産地としてかつてはオランダが世界的にも名を馳せていたが、今

では南米、コロンビアやエクアドル、そしてアフリカのケニヤや

ジンバブエ、エチオピアなどが有名だ。何れも赤道に近い国々だ。

バラの栽培には大量の水を必要とする。南米のその2ヵ国は

アンデスの豊富な雪解け水に頼るが、地球温暖化により将来、水不足

が懸念されている。一方、アフリカ・ケニアではバラ栽培で使用する

農薬が栽培地周辺の環境汚染で問題になっている。

 

では消費地はとなると、オランダやフランス、ドイツなどだが、昨今は

ロシアや中国の伸長が著しい。またバラを材料とした世界最大の精油

生産国は、あのヨーグルトで有名なブルガリアだ。バラの香水関係者

からは巡礼地とまで言われている。

 

調香の修業は「バラで始まりバラで終わる」とまで言われている。

天然のバラ油はどんな香りにもなじみ、多くのブランドに使用されて

いる。そのバラの香り成分は500以上が複雑に混ざり合っていて、

甘く華やかな香りの欧州系と紅茶のように優雅で爽やかな中国系と

2種類があるとされている。

 

そのバラ、人間との関係はとても古い。紀元前2000年ごろの

メソポタミア文学作品「キルガメッシュ叙事詩」にバラの記述がある。

4世紀頃には、キリスト教会がローマ人の贅沢な暮らしの象徴として

存在した「バラ」を栽培禁止にした。

 

15世紀には、ご存知の英国での赤いバラが紋章のランカスター家と

白いバラのヨーク家による皇位継承権をめぐっての「バラ戦争」等

など、人とのつながりは長く、強い。

 

嘘かホントかを知るところではないが、お目にかかったことのない

あの絶世の美女と謳われたクレオパトラさんがバラの香水風呂に

入ったとか。また絶対に上司にしたくないNo1の古代ローマの暴君

ネロ殿が晩さん会の席などで、天井からバラの雨を降らしたとか。

兎に角、バラについては、話題が尽きない。

 

マリリンモンローは就寝時、バラの香水ではなくシャネルの5番を

つけた由。貴方のパートナー、香水は何をつけて眠りへ…

 

小生も香水の類とは「多少」異なりますが、

就寝前と起床時にはつけますョ。

 

口外しないで欲しいのですが、それは…  

加齢臭防止剤と毛生え薬です。

 

                   16年11月 歌代 雄七  

 石橋忠雄(法学部)

母校愛―43会旅行会を終えて

 “会で下北の方に旅行に行きたいんだけど手伝ってくれる”と龍門会長からさりげなく囁かれ、酒も入っていたせいか、何も考えずにいいですよと言ったのが事の始まりであった。平成27年7月4日、上野精養軒で行われた43会の定時総会、講演会の後の懇親会の席上のことである。

 その後、同年10月下旬に、龍門会長、後澤正昭氏、清水利夫氏の先遣隊が下北半島に2泊、青森市に1泊の下見旅行にお出になり、恐山や下風呂の温泉、お寿司や大間マグロを堪能された後、佐井港より快速船でむつ湾を青森市に向けて南下(乗船者は何とこの3人のみで船長室への入室を許されたとか)、翌日は弘前公園で菊人形を愛でて帰京されたのである。

 明けて平成28年2月6日、上野東天紅での新春の集いの後、7~8人でアーでもない、コーでもないの協議の上、旅行日を恐山大祭にあわせて7月20日~22日、目的地は下北半島に加え津軽地方もという大枠が決定され、とりあえず、私が叩き台をつくることになった。

 弁護士業を45年もやっていると、世の中の商売は大体どんなものか知っているつもりであった。ところが、いざ団体旅行の企画に直面してみると、旅行会社や添乗員の仕事の厳しさとはこういうことなのかと身に染みて実感した次第である。ホテルやバス会社との打合せ、1日3食の食事の時間と会場、そして何より飲み物やメニューの見分と料金交渉、悪天候の場合の代替案等々。試食もあちこちと食べ歩き、同じ食堂に2回も行く始末で、その度に同行させられる家内もいささか呆れ気味。

 さて7月20日午前11時、新青森駅におりたった「津軽・下北のロマンを訪ねて」と銘打った30名のご一行は、笑顔いっぱいの正に中大白門の顔であった。その日は三内丸山遺跡、太宰治の斜陽館、五所川原の立佞武多の館を回って、青森市内のホテルに入り、ネブタ間近のベイエリアを散策後、割ぽう「三ツ石」で初日の大宴会、今や全国ブランドになった弘前の銘酒“豊盃”が何本もカラになり、飲みたりない御仁は夜の街へくり出したとか。

 2日目は青森港より高速船にてむつ湾を佐井港に向けて北上、好天に恵まれ、途中、奇岩仏ヶ浦を嘆賞しながらの快適なクルージングであった。佐井港上陸後は途中、大間岬にて大間マグロのモニュメントとご対面、特注のウニと下北定番の貝焼定食の昼食(といってもビールもかなり出た模様)をへて真っ直ぐ霊場恐山へ向かった。恐山で銘々、先祖の供養をして下山、ホテルにチェックインの後、2日目の大宴会を眺望満点のむつグランドホテル11階のレストランで開催、地酒「寒立馬」とホタテ料理に時を忘れて歓談した。翌日は大湊海軍資料館で日露戦争以来の北の守りを担ってきた大湊海軍警備府の足跡を見学、一同、今も日本海やオホーツク海での厳しい警戒活動に思いを馳せた。そして最後は津軽海峡と太平洋を見下ろして立つ尻屋崎灯台と寒立馬の見学の予定だったが、肝心の寒立馬がこの日はどこをさがし回っても姿が見えずじまい。でも気をとりなおして昼食会場のむつ市に移動し、下北名産センターでホタテ等をもとめ、バスにて新幹線の七戸十和田駅に向かった。

 下北名産センターで一行が乗ったバスに手を振って見送り、一年余にわたる私のガイド業も終わったが、期間中、天候に恵まれたことと1人の落伍者もなかったことが何よりの慰めであった。

 さて旅行が終わって暫くの間は長期の雑用からの解放感にひたったが、そうしている内に自分は何でこんな役柄を不用意に引き受けたのかと自問するようになり、それはやっぱり43会は白門の同期生であり、ひいてはその人方と青春の一時期に共に身をおいた母校中央大学への敬慕の気持ちからだと思うようになった。今風にいうと母校愛ともいうべき心情である。

 私はいつの頃からか、両親と郷里の自然そして学校(小、中、高、大学)には限りない恩義と感謝の念を抱くようになった。東京で10年間、弁護士業をした後、青森に戻って親と暮らしたことや昔から大学の後輩の世話をしてきたこと等もその1つであった。世の中の仕組みが高度化し、それにともなって人と人との関係も複雑となっている現代において、自分を生み育ててくれた親と郷土、学校とりわけ中央大学は何の利害もなく、素直な気持ちで向き合うことができ、物事の原点に立ち帰らせてくれる有難い存在である。

   平成28年10月 吉日            石  橋  忠  雄(青森県むつ市)



 随想 19 食欲の秋

 

この時期、「天高く馬肥ゆる秋」と言われているが、まさに冬眠に

入る熊やリス、コウモリなどはしっかりと栄養を貯めこむことになる。

人間も負けずに食欲が増す人たちがいる。

太れば、先ずは肥満が頭をよぎる。

 

その肥満、世界では15年前に約14億人と言われたが、現在では

20億人を超えている。更に肥満が原因で死に至る人は、300万人

前後と推計されている。

 

肥満測定には、国際的指標「BMI」がある。

ご存知の通り、体重(kg)÷{身長(m)×身長(m)}のそれだ。

WHOでのその肥満の定義は、BMIの値が25を超えると「過体重」、

30を超えると「肥満」となる。

 

例えば、筆者の身長は170㎝、ちょっとサバを読みましたが・・

この場合、体重86.7㌕が「肥満」対象となる。

貴方は「30」を超えていませんでしょう、ね。筆者は大丈夫です。

その「30」以上の人の割合を成人 人口に対して、WHOが発表して

いる。その肥満度ランキングでは、成人で世界での1~3位まで独占

した「地域」がある。さて、貴方の推測では それは南北アメリカですか、

それとも北欧、はたまた東欧・ロシアですか、当ててみて下さい。

 

正解は南太平洋の島々、1位はナウルの71%、2位クック諸島64%、

3位はトンガ60%、因みに米国は32%で24位、ロシアは47位で

25%、フランスは16%で120位。さて お待たせしました、日本は

166位で5%、更にインドは182位で2%、後先になったが、調査

対象は189ヵ国、調査対象年は少し古くて2008年だが、総体的には

更に肥満の人はその時点より増加している。

 

では、1位のナウルの状況を。

先ずナウルは1人当たりのGDPで、世界でも有数の富裕国となった

時代があった、背景は20世紀初頭、リン鉱石の採掘が英国企業により

開始され、ナウルは鉱山使用権にて巨額な収益を得た。土地区分所有者

には、その分配がなされ、併せて国として福利厚生を充実してきた。

となると、人は働かない、更に食生活にも変化が現れた。

その昔は果物を採り、海に出ては魚を獲り口にした。

その後、食事は欧米スタイルに変わり現在まで続いている。

 

一方、90年代になるとリン鉱石は堀尽くされ、政府は海外投資に

失敗、ご難続きに依り、1人当たりのGDPは大幅下落、然し食事

内容は変えられない。これに運動不足が加わり、肥満を生む結果

となった。更なる事実がある。25歳~64歳までの糖尿病罹患率は

20%以上、寿命は男性49歳、女性55歳。

 

さて日本では、4年程前の調査で肥満者率のトップは、長寿県で

有名な沖縄だ。要因は昔の質素な食事から、戦後の20年強に及ぶ

米国の統治により、食生活がガラッと変わったことだ。

 

肥満の要因には遺伝子も関与している。

この「肥満遺伝子」は大まかには40ほどあり、それらが作用している。

またその昔、ユーラシア大陸から日本や、米国大陸に渡った人たちに

「倹約遺伝子」が存在する。その特徴は、食事を摂ると少しでも脂肪に

変え蓄えようとする遺伝子だ。この遺伝子を持つ人が高脂肪食を

摂ると最悪だ。米国の先住民ピマ族は、食事が高脂肪になったため、

成人の5割は糖尿病、過体重は95%との調査結果がある。

 

その昔、ふくよかさは美人の要件でもあった。発掘された旧石器時代の

像を見ると然りであり、「源氏物語絵巻」に登場する美人像は豊満な体だ。

太さは、「富」「強」「美」の象徴だったのだろう。

 

扨、貴方は肥満を気にされたこと、ありますか。

この年になって、今更・・・と思われている方も多いでしょう。

好きに生きるのが「俺の信条」と粋がっても、周りが迷惑するだけ。

 

健康を意識し、人生を楽しく・・・

そして、毎年7月の43会総会には、

お互いに「来年も元気でまた会おうぜ」と。

                                   16年10月 歌代 雄七

 随想18  今年も、早や 長月

 秋の夜長、障子を明ければ鈍き黄色の満月と
多少 輝度が減衰した星たちが天空を覆っている。
ぬれ縁には、「三方」にのせたススキの穂と月見団子が・・・
首を振って部屋に視線を移せば、床の間には一幅の水墨の掛け軸。
その昔、こんな光景が秋の行事一つだった。

 その水墨画では、高い評価と今日に至っても称賛が続く人がいる。
彼の最後は600年ほど前、今の山口県益田市で86もの齢を重ねて息を引き取っている。

 生まれは1420年、つまり時代は室町だった。
現在の岡山県 総社市に生まれた彼は、禅僧としての肩書もあった。
彼の名、もうお分かりだろう。

 未だ、お分かりでない方もおられるようなのでヒントを続けよう。
幼少の頃、彼は地元の寺に預けられた後、京都の東福寺、相国寺で修行をした。岡山の寺では柱に括られた状態で、足の指でネズミを 描いたとの風説がある。

 また京都時代では周分に絵を学んだとの話もある。
何れにしても、若い頃から絵心はあったのだろう。
35歳頃には、彼は京都から山口(周防国)に移った。
サァー、ここで全員がスッキリされたことだろう。

 彼、「雪舟」は山口の守護大名 大内氏に懇請されての山口行き、 との説が有力だ。然し、別な説を唱える人もいる。時代の流行が、雪舟とは逆行する繊細な画風が幅を利かしてきたと、 自らの限界を感じ、大内氏の庇護の下に入ったとの説もある。

 その後、遣明船で明に渡り 高名な寺で僧のリーダを意味する称号 「首座」を取得している。時代は応仁の乱の頃だ。帰国後、56歳の頃は大分県(豊後国)、60歳を過ぎたころは岐阜県 (美濃国)などで数々の傑作を残したが、謎の多い旅だった。

 具体的には、当時、各地の禅僧は政治的なネットワークで つながっていた。雪舟があちらこちらへ旅ができた背景でもある。
その雪舟は、各地の地形や建造物を俯瞰して きわめて精緻・詳細に 描いている。大内氏が情報収集のために送り込んだ、との説が学者の間で認識されていることは頷ける。

 西国の雄であった大内氏は、一時は天下を狙う意志もあった由。
一方、雪舟は後ろ盾が必要な背景があった。互いに持ちつ持たれつの関係であったのではなかろうか。

 雪舟の人気は今の世でも確かに高い。その証左として、国宝の絵画 約160件のうち6件は雪舟で、個人別では最多だ。

 のちに「画聖」と呼ばれているが、それは桃山時代から江戸時代に かけて、高名な絵師が続々と雪舟を崇拝し始め「写し」が作られ、流通し始めた。
こうしたことが幕府や大名に伝わり、さらにその評価を高めたようだ。

 彼の人生は順風万帆だったかは疑問だが、作品は長野オリンピックの ポスターに、そして教科書に掲載されていたことは事実だ。

 花鳥風月を嗜む趣味ももたない筆者は、
彼に興味を抱くのはスパイ説の部分だ。
それにしても、今年は2千万人を優に超える海外からの旅行者、 昨年にもまして忍者の里、伊賀や甲賀へ、訪れ・賑わいを見せるだろう。
是非、彼らにも日本で熟成した「水墨画」の良さに浸って欲しいものだ。

                                            16年9月  歌代 雄七


 矢崎 勝(経産

                           70歳の挑戦             平成28年8月
                                               矢崎 勝(経産)

 平成28年2月7日日曜日、京浜東北線で浦和駅の隣り「北浦和駅」に降りた。今日は漢検(日本漢字能力検定)準1級を受検する日だ。
 検定会場は駅から2~3分の商店街の一角にある細長い狭いビルの4階。
 気持ちの高ぶりを押えられず15時30分開始の40分程前に到着したが、入り口近くに小学生とその保護者が大勢いる。どうやら6級と同じ会場になるようだ。なぜ老人がいるのかと思われているようで、人目を避けるように外に出る。
 開始15分前に会場に入る。嘗て学校にあったような木製の長い机。前後が すごく狭い。やっとの思いで座る。隣りは若い男性、20歳代の後半か。
 検定が始まる。1時間で130問、かなりのスピードが要求される。
 読み・書き取り・四字熟語・対義語・類義語・故事・諺・他と範囲が広い。
 読み・書き取りはそれなりに出来たが、四字熟語でつまずく。
 隣りの男性の強くて速い鉛筆の音が気になる。“ガツガツガツ”机が揺れる。
 心も動揺する。故事・成語・諺でさらに苦しくなる。「ウドンゲ」の花、口中の「シオウ」、ウドンゲ?シオウ?漢字が書けない。
 後日、検定結果通知が届く。152点/200点 合格に8点足りず轟沈。
 この頃記憶力がかなり低下してきた。(もともとよくないが)笹森礼子、
 芦川いづみは思い出すが、綾瀬はるか、仲間由紀恵は覚えられない。
 この記憶力強化と漢字に多少興味があった事が、受検した理由だ。
 その後気を取り直して学習した。「成美堂出版」に加えて「日本漢字検定協会」 「高橋書店」の準1級用過去問を毎日1時間4ヶ月続けて繰り返し解いた。
 出来ないもの、あやふやなものはA4のノートに書き写し暗記した。
 6月19日日曜日、同じ場所で受検した。隣の席は物静かな感じの若い女性だ。182点で合格! ささやかな自己実現ができた。
 因みに平成27年度準1級合格者は全国で1、687名、合格率12.2% (1級はそれぞれ519名、13.1%、2級は36、452名、19.9%)
 1級・準1級合格者は協会の会員に登録され、セミナー参加や情報誌の提供を受けられ、生涯学習ができるようだ。老後の趣味のひとつとしたい。
                                                     以上

 
 
 随想 17  お盆

 地域によって お盆が7月のところもあれば、8月の地域もあるだろう。
何れにしても故人の御霊をお迎えして懇ろに弔い、お帰り頂くまでの所作は、これまた地方により違いはある。

 昨今、この季節になればスーパーでもその「用具」がセットで販売され ている。便宜性を感じつつも どことなく「アレッ!」と感じる向もあろう。
遠隔地に住む人はその時節になると心穏やかに、お墓の在る方向に向かって ジーッと手を合わせることだろう。

 扨、親しい方が亡くなり、日を措かずに貴方は葬式の列席者となる。
然し、その葬式が変わりつつあることをご存知だろうか。

 その前に、「葬式は誰の為に行うか」との疑問に貴方はどうこたえる だろうか。「亡くなった方を悼むためだ」と答える方が大半だろう。
然しながら、日本人の「弔い」に変化が出てきた、とのことだ。

 昨今、樹木葬とか海での散骨などが人目を集めているが 一方で、 土葬を見直す動きがある。毎年、死者115万人程の火葬で必要とする化石燃料は膨大となる。宗教学者の山折 哲雄氏の試算では、 排出される二酸化炭素を吸収するには東京23区の2倍の森林面積が必要だ、と唱えている。故に「土葬」の話が出てくる。

 一方、スウェーデンの企業が開発したとする「冷凍葬」なる方法が あると言う。遺体をマイナス196度の液体窒素の中に浸し、振動させて粉末にした上で 土中に埋める方法だ。
このことで化石燃料を使用する現在の火葬は不用となる。
無理のない形で遺体を自然に返すことが可能となる。

 立ち戻って葬儀に関して、ご存知の方もおられようが・・・
なるほどIT社会がここまで進んだかと、思われる事実がある。
株式会社「おぼうさんどっとこむ」と言う会社がある。
事業内容は「僧侶の派遣サービス」だと言う。
お布施の価格も明示される、勿論、消費税も国には支払う。

 一方、スーパーの最大手のイオンが葬儀事業に参入したと聞く。
年間100万件超の潜在需要がある業界、これからイオン以外にも大手企業の参入は続くだろう。 確かに着実に伸びている実態を、筆者は肌で感じることがある。

 昨今、特に礼服を着る機会が多くなった。若いとき時は祝いごとでの 着用比率が多かったが、この10年は訃報でのケースが断然多い。
連絡いただく会場へは、案内図を見ずして行けるケースが多くなった ことは、それこそ肌で感じるところだ。

 さて、今回の随想は「辛気臭い」と言われてもしょうがない。
然し、何れ我らが通る道だ。
30年以内に多くの死傷者が予測される大地震、 高い確率でやってくるそうだ。
大地震、自分だけパスしますとは許されません。
その30年、潜り抜けたら我々は100歳を超えている。
どうであろう、大地震に遭わずして、お隠れになる方も多かろう。

 そろそろ「終活」の最終テーマについて考えてもいいのでは・・・  
ネェ・・・ 同輩各位。
                                       16年 8月  歌代 雄七

 
 随想 16 星はなんでも・・・

今月7日は、七夕だ。

「織姫と彦星」以上にその昔、貴方はパートナーとの逢瀬を心待ちにされた時期があっただろう。  そんなことは、既に忘却の彼方だと言ってはなりませんぞ。
若し、「忘却」なんぞと言おうものなら昨今、テレビで
「リハビリ・パンツ」所謂「紙おむつ」の宣伝をよく目にするが、
「着用」時点になった貴方はパートナーから面倒を見てもらえ ませんョ。

アッ~ こんなことを想っていたらチョット悲しくなります ネ。
 
それでは、星は星でも空に突然明るく輝く「超新星」の話題に
変えてみましょう。この星「新」の名は付くが、終末期を迎えた星が
起こす大爆発だとのことである。一般的には数週間で暗くなるそうだ。
尚、天文台などでは年間 数百個が発見されるが、肉眼で見えるものは 数個程しかない。
 
このような貴重な新星を、日本では1000年程前に発見し、記録に留められていた。現在の天文   台に当たる「陰陽寮」に勤めていた陰陽師の安倍 清明の息子、吉昌が1006年に観測している。
その後も、晴明の子孫が1054年 / 1181年にも発見している。

これらのことが、新古今集や小倉百人一種の選者の一人でもあり 平安から鎌倉にかけての歌   人 藤原定家、彼の自筆による日記 「明月記」に著されている。

内容は定家が晴明の子孫、安倍倍泰に過去の客星(新星など)に ついて問い合わせて、返信の  手紙を明月記に張り付けている。
因みに この時期は800年ほど前だが、保存は子孫でもある冷泉家 でなされている。

この明月記、世界的にも貴重な記録であるが、昨今は目に見え ない宇宙の様子をX線で観測す  る、日本の「X線天文学」が世界 から脚光を浴びている。銀河が集まる銀河団の規模は、1千万  光年 と言われており 高温のガスに包まれその総量は 構成する星の数倍、 これを可視光で見   れば銀河が「集まる様子」程度の確認に止まる由。

これをX線で観測すれば、ガスの動きや銀河団の形成 更にはその 進化過程まで迫れるとのこと。これらを観測する為、日本は6機の 衛星を打ち上げている。直近では丁度5ヵ月前、この2月に   「アストロH」を打ち上げた。宇宙では全長約14㍍となり、 そこに搭載された機器は3種4台の望   遠鏡と4種6台の検出器だ。

観測はこの夏頃からで、世界の研究者にもその機会は提供される。
因みに、設計寿命は3年となっている。この観測で、46億年前の 地球創成の秘密も一部で明ら かになるだろう。

その昔、「星」に願いを掛けてきたこと や 「星」を眺めながら 語り合った感傷的な星の存在から、観測データが揃えば 揃うほど 無味乾燥な存在へと変わりつつあるように思える。

幼子に、ジィジィ・バァバァが死んだら星になるのだとは、とても・ とても言える環境ではなくなるこ とに、寂寞な思いに至る。 
                                         16年 7月   歌代 雄七


オバマ米大統領の広島訪問        立岩 正義

1963(昭和38)年11月23日の出来事を今でも鮮明に覚えている人は多いだろう。日米間初の宇宙中継(当時こう言われた)で送られてきたニュースは、テキサス州・ダラスでケネディ大統領が暗殺されたという衝撃的な映像だった。葬儀の日の二人の幼い遺児と彼らの手を引く憔悴したジャクリーン夫人の映像を見て涙したのは私だけではあるまい。
 あれから53年、あの時の幼女、キャロライン・ケネディ駐日米大使らの尽力で、オバマ大統領の広島訪問は実現した。これに関して6月8日(水)の日経朝刊、「地球回覧(ワシントン=吉野 直也)」という署名入りのコラムが目に留まった。内容が良かったので下記に転載して会員各位の参考に供したい。
 本棚から「英和対照 ケネディ大統領演説集」(昭和38年12月出版)を取り出し、繙いてみた。「大統領就任演説」や「平和の戦略」など7篇の格調高い演説が記されていた。改めてゆっくり読んでみたい。(2016.6.12記、今日は小生の72回目の誕生日)

JFKの遺産広島で昇華

いったん閉まったオバマ米大統領の専用リムジンの扉が開いた。
 5月27日、夕暮れ時の被爆地、広島の平和記念公園。戦後71年、米大統領として初めて訪れた広島での歴史的な行事を終えたオバマ氏が、専用リムジンの扉を開けて迎え入れたのはキャロライン・ケネディ駐日大使だった。隣に座ったキャロライン氏にオバマ氏は心を込めて伝えた。「ありがとう」
 2009年4月にチェコの首都プラハでの演説で「核兵器なき世界」を訴え、ノーベル平和賞を受賞したものの、核軍縮は停滞した。広島訪問を契機に核軍縮の機運を盛り上げたいオバマ氏に立ちはだかったのは、原爆投下は「戦争終結を促した」という米国の世論だけではなかった。オバマ氏を支える側近も反対した。
 その急先鋒はライス米大統領補佐官(国家安全保障担当)だ。「国務長官と大統領は違う」。ライス氏はオバマ氏の広島訪問が発表された後も介入した。ケリー国務長官が4月に見学した平和祈念資料館(原爆資料館)をオバマ氏が訪れることに抵抗。一方で「オバマ氏の記帳は残す」と通告した。
 日本側は「資料館に入らないと記帳できない」と反論したが、ライス氏は譲らなかった。そんな膠着状態を解決したのはキャロライン氏だった。資料館訪問を所与のこととして、オバマ氏が館内で回るべき場所を進言した。オバマ氏はライス氏ではなく、キャロライン氏の意見に従い、自ら折った鶴を寄贈した。
 キャロライン氏がオバマ氏の広島訪問にこだわった背景には、6歳を目前にして暗殺された父、ジョン・F・ケネディ元大統領(JFK)の存在がある。核戦争の危機に直面した1962年のキューバ危機を乗り切った元大統領は、翌年「平和の戦略」と題した演説で核軍縮を提唱した。
 キャロライン氏が08年米大統領選の民主党指名争いでオバマ氏の支持を明らかにしたのは、元大統領の演説の舞台となった米アメリカン大学だ。
 78年に初めて訪日したキャロライン氏は、平和記念公園に足を運んだ。13年に駐日大使に就任した際、広島を訪れたことで「平和な世界の実現に貢献したいと切に願うようになった」と告白している。
 オバマ氏も元大統領の軌跡をたどる。広島を訪れる2か月前、米大統領として88年ぶりにキューバを訪問。広島の直前にはかつて戦火を交えたベトナムを訪れた。いずれも元大統領との因縁が深い。暗殺される直前、政権内で元大統領の訪日が検討されていた。
 実現すれば、戦後初めて訪日した米大統領になるはずだった。被爆地への訪問も元大統領が最初だったかもしれない。そんな思いがあるからこそ、キャロライン氏は広島にこだわり、オバマ氏もその気持ちをくんだ。
 オバマ氏の広島訪問直前、首都ワシントンにあるアメリカン大を訪ねた。元大統領が演説した場所にはそれを刻む石碑がひっそりと立つ。学生にオバマ氏の広島訪問について尋ねると、ハフ・イリソーフ(21)さんは「JFKの長女、キャロライン氏が調整し、オバマ氏の広島訪問が実現した。これはJFKの政治的なレガシー(遺産)だ」と答えた。
 元大統領が掲げた核軍縮というレガシーは、オバマ氏に受け継がれ、広島訪問により日米は歴史的な転換点を迎えた。「我々は人類破滅の戦略ではなく、平和の戦略に向かって努力し続ける」。元大統領がともした核軍縮という平和のたいまつをどう引き継いでいくのか。我々に課された責任は重い。(了)


歌代雄七(商商

 随想 15 紫陽花

梅雨に一段と映えるアジサイ、そんな季節になった

その梅雨を、絶対にいやだと言う人と、 傘を差して、抜き足で街中の水たまりを避ける、 この情緒感が何とも言えない、 と言う人と別れるようだ。

その昔、『Just Walking in The Rain』と言う、ジョニー・レイが歌う 楽曲が流行った。そのころの筆者は雨をロマンテックな感じで捉え ていた。が、やがて会社員となり雨の中での外出は鬱陶しいと思う ようになった。そして今は、旅先の窓越しで眺める雨に哀愁を覚える。 更には、絶え間なく落ちる水滴に愛おしさ さえも感ずる時もある。

 人生において、同じ雨でも、こうも異なる見方・変遷があるのかと 今更ながら、驚いている。

扨、この時期に映えるアジサイに話を戻そう。
万葉集に「味狭藍」と言う文字がみられるが、「集真藍」が適当だと論 ずる学者もいる。まさに青い小花が集まって咲くにふさわしい名称だ。

原産地は東南アジア、北米、そして日本だとの諸説がある。
長崎・出島にオランダ人と偽って入国したドイツ人の医師であり、 植物学者のシーボルトが、アジサイを帰国して命名した学術名は 「Hydrangea Otaksa Siebold Zuccarini(H.otaksa)」としている。

 シーボルトは「Otaksa」について、日本では「オタクサ」と 呼ばれている、と自著で説明している。然し 一説には、彼の長崎での愛妾の「楠本 滝(お滝さん)」の名を学術名に 織り込んだのでは、と・・・

日本では通称、アジサイ寺と称する寺が多くある。筆者は北鎌倉から徒歩10分ほどの明月院を訪ねることがある。
重要文化財を保有するこの寺でのアジサイは、第2次世界大戦後に植栽された由、まだその歴史は浅い。但し、この寺の創建は約600年以上前の関東管領、上杉 典方氏によるものだと言うから、寺の歴史は古い。

一方、花言葉は多数あるようだが、その一つに「辛抱強い愛情」とある。謂れは、シーボルトが国外追放、再渡航禁止処分を受けて、彼が愛した楠本 滝を想ってつけた「オタクサ」、このことから花言葉になった由。

扨、貴方はどうであろう、お世話になったパートナーに『歳の数だけのバラ』を送ることも良いが、この時期、淑やかで 落ち着いた感を受ける「アジサイの鉢」でも送られては如何だろうか。 
今までの「罪滅ぼしとお礼」の言葉を添えて・・・

エッ 小生は ?  とお聞きになりますか?
ハィ!  問われて語るも烏滸がましいが・・・
今まで、女房に花など渡したことがありません。
この年になって、渡そうものなら、彼女は驚いて「今生の別れ」かと、びっくりすることでしょう。

それこそ、「愛しの女房を想えばこそ」 ショック死をさせないために、これからも、決して渡すことはないでしょう・・・
                                     16年 6月  歌代 雄七


 随想 14 皐月は、心がブルーに

桜を愛で、街中が華やぎ始める卯月が過ぎれば皐月となる。
この皐月は、新入生・新入社員の一部の人にとってはブルーの時期でもある。
大きく環境が変わって1~2ヵ月が過ぎるころから、その環境に馴染めず、
精神的負担が大きくなり限界を超える人がいる。

その限界の壁を超えると、うつ病などの精神疾患が忍び寄ってくる。
うつ病は、そのかかりやすさから心の風邪だと言われているが、
中には肺炎の如く重症化するケースがある。
このうつ病で病院に通う人は、躁うつ病も含めて全国で100万人を
超えると言われている。更に治療が必要な人は、通院する人の4倍
だとも言われ、生涯罹患率は15人に1人だともみられている。

対して、精神科医は1万5千人程度、増加傾向のうつ病患者を思えば当該
医師の増員を急がねば今後の対応が難しくなってくる。罹患者を増加させ
ないためにはいくつかの対策が必要だ。精神疾患になる前兆の人達を当然
のことだが早期に見つけ、罹患させないことであり最悪、罹患した患者を
早期に快癒させることだ。社会的損失を考えれば尚更のことである。

何しろ、人口6千3百万人の英国で「精神疾患」による社会的損失は、
1兆6千億円と言われている。一方、英国の倍の人口を誇る日本では
「うつ病」による社会的損失は2兆円だと推計されている。

うつ病などの精神疾患で休職することが多い職種の一つに「教員」がある。
その数、約6千人近い。教員総数に対して約0.6%だ。一方、うつ病に
なりやすい環境としては、人間関係が疎遠になるような場面に身を置く
人やまたそのような性格の人、そしてマタニティー・ブルーと呼ばれる
産後うつと呼ばれる産後1週間前後、更に閉塞性の強い業務担当者などだ。

これら環境に対して、青魚好きにはうつ病が少ないそうだが、健康診断で
うつ病発見の健康診断で受けることも可能である。つまり、一方で罹患
しない努力が本人はもとより、周りの人々の努力も必要なようだ。
重篤になれば・・・

自殺をするケースがある。筆者にもキャパシティーの無さから、
ふと、自殺・自死が脳裏をかすめたことがあった。
今から思えば詮無いことで責任を取るなどと・・・
日本の文化にはこうした「自死」のケースが多々あった。
例えば、源 頼政、乃木 希典、三島 由紀夫などがそうであろう。

然し自死について考えてみると、人間の「自我」は生命が誕生してから
育まれるものだ。自我はあくまでも「生命」に従属した存在なのだ。
ところが、成長に伴い自我が育ってくると、自らの生命を自由裁量に対応
できる状況になる。つまり自らの命は誰のもの? と問うたら「私のもの」
と言う答えは正しいのだろうか。 ご同輩の皆さま、如何 思われますか?

真田家の家紋ではないが、三途の川の渡り銭「六文銭」をそろそろ
準備しなければならない我々世代だが、何があっても気楽に・
気楽に生き延びましょう。
                            16年 5月   歌代 雄七


 随想 13  将来、何処に住みますか

 卒業50年近くなる我ら、
貴方が入社した会社での最初の勤務地はどこでしたか。
そして今は何処ですか、更に終の住処は決まりましたか。

 振り返ると、我々は卒業時からグローバルな資本主義の組織 ・形態に組み込まれてきた。

 然し、そのグローバル資本主義はもう限界であると唱える人がいる。
理由は収奪すべき植民地や第3世界がもう無い、つまり投資すべき先が無いと。となると自国の国民からの収奪、所謂 貧者から富裕層に 吸い上げたものを付け替え、あたかも成長しているが如くの錯覚に陥っているのではなかろうか、と。

 一方で、ポピュリズムの台頭が欧州で見られる。フランス、スペイン などだが、既にそれらの政党が与党となった国々がある。ギリシャやハンガリー、ポーランドは経済的背景から、なんとなく理解する ところだが、スイス、フィンランドとなると違和感がある。このポピュリズムは、仕組みを変える人達が固定化し、産業構造や価値観 の転換時、つまり利益媒介構造が揺らぐ時などに台頭してくる。
こうした世界があると思えば、中近東では為政者階級の世襲が続いている。

 その昔、ルネッサンス時代、フィレンツェではメディチ家が僭主になって 安定を築き、そこにルネッサンス文化の花が開いた。
つまりベネチア共和国は日本で言えば経団連が統治したような国であり、 中小企業を保護した故、パックス・ローマが訪れたのだろう。
パックス(平和)を実現するためには抑止力とか諸般の力が必要になる。
そんな世界もあっても良いか、とも思うが…

 何処の社会構造・経済構造が望ましく、暮らしやすいのか全くわからない。
賢者の同期の皆さん、教えてください。
余生を世界のどこで暮らせば良いのか。

 問いはさせていただきましたが、答えは「難しい」ですよね。
何が一番「難しい」か、と聞かれた古代のギリシャの七賢人の一人で、万物の根源は水だと説いた哲学者タレスは「自分を知ることだ」と答えたそうだ。

自らも判からずして、何処で暮らしたら良いかと聞くことは、
無知蒙昧の極みだと悟った。

堂々巡りとなりましたが、筆者は日本で暮らすことにします。
事由は、移住する資金がないこと、語学に弱いこと、そして、女房が置いて行かないで、とズボンの裾を踏むので…
アレ! これに似たようなセリフ、今は昔 何処かの国の女性外務大臣が…

お粗末な話で、恐縮です。
貴台のお時間を無駄にさせてしまい、失礼いたしました。

                              16年 4月   歌代 雄七


 

随想 12 世界の識字率

 今年も早いもので、来月は新学期シーズンとなる。桜の咲く中 ピカピカ の一年生は重たいランドセルを背負って入学式に向かうことだろう。
今や日本では小学校入学前の幼稚園や保育所等などで、簡単な文字は 習熟しているが、世界では7億人強の人達が未だ文字が読めない。

扨、世界では最近まで文字を持たない国があった。アフリカ大陸のブル キナファソの一部地域では文字を持たず、太鼓の叩き具合で伝えたとの ことだ。一方、その昔のインカ帝国ではキープと呼ばれる縄の結び箇所 で数値を表記したとのことだ。然しこのインカ、文字なくも、建築や 石の正確な加工、土器・織物などの文化度は高かった。更に5万kmに 亘る「インカ道」も造り、その痕跡の一部は現在でも観ることが出来る。

日本でもアイヌは文字を持たなかった。遡れば、邪馬台国では言語体系 は確立していたが文字はなかった。つまり「倭国」には文献が存在せず、 それを知るためには中国側の文献が唯一の手段だ。文字を持たぬ辛さだ。 その中国では、紀元前15世紀ごろの殷の時代には亀甲や獣骨に刻まれた 象形文字が存在していた。一方で、近代までその文字を保有しない国が アフリカやオセアニア、アメリカ大陸の一部にあった。こうした状況下、 欧州列強が16世紀から20世紀に至る5世紀に亘って、先の地域に進攻 し、植民地化をすすめた。

結果、当該地域の人達の一部を奴隷として苦役を強いた、また資源の収奪 までも行った。これらの行為は、決して容認できることではない。が然し、賛否両論はあろうが宗主国の言語は今日まで確実に残っている。これにより、人に伝えることの確実性を担保し、また文化の継承を確実にしたことだろう。まさに世界全体が識字ワールドに突入したと思っている。

一方、漢字は紀元前3千年紀の殷の初期に発祥した。
世界の文字体系の殆どは、この中国の漢字とシュメールの文字の何れか、から発達した子孫だと言われている。

これら独自に発達した文字が読めない、つまり文盲の人、更に言葉を 変えれば、識字率が各国によって如何だろうか。

資料は米国CIAワールドブックに基づいて、国際格付けセンターが 纏めたものを参考にし、下記に記す。

世界の217の国・地域の識字率の平均は85.9%、世界のトップは と言えば、100%のリヒテンシュタインやバチカン市国などだ。 キューバは99.8%、ソ連を除く旧ソ連邦の国々は99%台と極めて 高いポジションの国々が多い。

この統計には、最大10年程の調査期間の隔たりがあり、一元的に視る ことはできないこと、更には 当該関連資料は各種多岐に亘ることを お含みおき頂きたい。さて先進国はどうであろうか、フランス・スイス・ アメリカは99%だ。お隣の韓国は97.9%、中国は95.1%、教育 立国と呼ばれるシンガポールは95.9%だった。主要国に仲間入りを しつつあるインドは62.8%、最下位は南スーダンの27%だった。

気になりますね、我が日本の数値を・・・
正解は、99%でした。

昨今、言葉が出てこず、漢字を思い出せない言語障害症候群に筆者は 罹患しているようだ。識字率とは別に、識字「想起」不能率なる統計 があれば、完全に貢献すること間違いない。 これから更に寂しい思いをすることだろう。

                           2016年 3月  歌代 雄七


歌代雄七(商商

 随想 11 新函館北斗駅と縄文時代

来月3月26日は、北海道新幹線 新函館北斗駅の開業日だ。
筆者の生まれは函館市、その函館駅へは南に約20Kmだ。

一方、北方面約20Kmには駅弁で名を馳せた「いかめし」の 森町が存在する。
第2次大戦中は食糧統制があり、時代は米不足だった。そこで、 豊漁だったスルメイカを用いてコメの節約として「いかめし」が考案され、今や北海道南部地区の代表的な土産品の地位を確保 している。

 その森町には縄文人が築いた「環状列石」、所謂 ストーンサークル がある。ストーサークルと言えば、ご存知の通り英国の巨石を積んだストーンへンジが有名だ。
そして、フランスやロシアなどにもその遺跡はある。

 日本で言えば、今から4000年ほど前の紀元前2000年前後、 北海道や秋田・青森などの北東北での、環状列石が集中していることはこれまた知られた話だ。

 青森の弘前市や秋田の北秋田市、岩手の滝沢市などの環状列石は 先の北海道・森町の遺跡と併せて40ヵ所以上に存在する。
その意図とするところは、埋葬、祭祀の場所であろうと言われ、その規模は直径40~50m前後だ。

 それぞれの場所は方向や景観を重視したと思われる。
例えば、左右対称の均整の取れた山は神聖視されていた。その事例として、弘前の案件は、背景に津軽富士と称される岩木山がある。

 北海道・森町にある鷲の木遺跡の環状列石の場所からは、岩木山 同様に富士山型の略左右対称となる駒ケ岳が見通せる。内浦湾からは約1Km、標高は70mと見晴らしの良い場所に位置する。

 この場所は、1640年の駒ケ岳の大噴火により火山灰に覆われた ことに加え、その後の度重なる噴火が遺跡保持に尽力したことになる。

 外周は約40m弱で平均30~40cmの偏平・棒状の石が 多用され、外周と内側に二重の環状が規則性を以て配置されている。
この列石から南に5メートル離れたところには、約10m×約10mの 竪穴墓域があり、複数の墓と思われる竪穴の存在が確認されている。

 一方、函館市周辺には縄文前期初頭から中期末までの約2000 年に亘っての大集落の跡地が多数発掘されている。中でもサイベ沢遺跡は、約15haで青森の三内丸山遺跡に匹敵する 大規模なものである。

 新幹線が函館まで伸びて、函館山からの煌めく夜景、駅近くの 朝市、男女それぞれのトラピスト修道院、ロシアビザンチン様式のハリスト正教会の聖堂を覘き、そして湯の川の温泉湯に浸かるも 良しだが、少し足を延ばして、今から4000年~5000年前に想いを馳せ、ロマンを感じる時間を持っても良い年代に、我々はなった のではなかろうか。

 筆者はかつて、5000年前のペルーのカラル遺跡を訪ねたことがあった。
アメリカ大陸では最古の都市遺跡と言われ、首都リマから約150Km離れたところに存在する。そこにはピラミッドも存在し、出土している 中にフルートやコルネットもあるとのことだった。
その地に立って音を嗜む文化に、そして当時の人達の精神文化に思いを 馳せたものだ。

 この「カラル遺跡」と同時期の遺跡が、我が故郷にも存在すること その昔は知ることもなく、今更ながら驚きを感じている。

                                2016年 2月  歌代 雄七


 歌代雄七(商商

随想 10 貴方を長寿に

 新年あけましておめでとうございます。

 今年も、筆者は馬齢を重ねます。貴方も同様ですね。
生物の世界、生がある限り歳が止まることは有りません。
昔の人は、年を越せば 冥途にまた一歩近づいた、
そんな感じをもったようだ。

 それでは突然ですが 貴方は長生きをしたいですか、
それとも定められた寿命を受け入れますか。
今回の話題は、貴方の寿命を5~6倍にも延ばす話です。

 これから先をお読み頂く方は長生きしたい方だけに限らせて いただきます。
長生き、したくない方には時間の無駄です。
どうぞ、お読みになられるのはここまでしてください・・・

 扨、 長生きする方法は、誰しもが簡単に考えることは、
長寿に関係する遺伝子を活性化させ、老化させる遺伝子を抑制
できれば、理論的には長生きが可能となる・・・
当然であるけれど、それがなかなか….

 その昔と言っても、2千年以上も前の話。
中国の秦の始皇帝が求めた不老不死の妙薬、それを求めて、日本を
含めて各地に人を派遣したことは、ご案内の通り。

 これからの貴方は、始皇帝でさえもかなわなかった人間になれるかも…
何しろ寿命を400~500歳まで伸ばせる話なのですから・・・

 「ゲノム編集」と言う言葉、お聞きになったことありますか。
遺伝子を自在に切り貼りする「神の手」の如くの技術が開発された。
このことに依り、スイスの製薬大手ノバルティスが米国のベンチャー
企業と組んでゲノム編集による「創薬開発」を開始した。

米国のグーグルも不老長寿に関連する薬を開発するべく、子会社を
設立した。勿論、米国の大手製薬メーカーとの連携も視野にある。

日本でも福岡に本社を持つエディツトフォース社は、ベンチャーでは
あるが国内医薬品開発企業など約10社と共同研究を開始している。
然し、開発にどれだけの時間がかかるかは現状では推定されていない。

人間の遺伝情報は10年以上前に解読されている。
2001年段階でのヒト一人の遺伝子解析費用は、約120億円弱、
現在は約20万円弱、ここまで解析技術が進化し、検査費用が下がれば
不老長寿の新薬開発は時間の問題だろう、とその道の専門家は話す。
その話には、先に記した寿命400年~500年の話が確実に リンクされている。

一方、現在は貴方の臓器をパーツのように入れ替え可能な時代に突入している。
所謂、iPS細胞による技術だが・・・

さァ~て、
長生きのお薬を飲んだ400年後の貴方を自らイメージしてください。
因みに今年は2016年、西暦2400年の「白門43会」の新年会は
何人が集まっているでしょうか。 そして、何が話されるのでしょうか。

400年後、貴方から始まる一族郎党が集まったら、そのスペースは
現在の武道館でも足りないでしょう。
何しろ400年と言えば、イメージとしては西暦1600年の関ヶ原の
戦に生きた人達まで遡れる。
その親類縁者、そしてその係累一同が今ここに集まる訳ですから、膨大な
人の数となるでしょう。

その不老長寿の薬が開発されるまでは、そんなに遠くはないでしょう。
是非、皆さんはそれまで生き延びてください。
筆者は、適当な寿命で、お先に失礼いたします。

                           2016年 1月  歌代 雄七



 立岩正義(商会)

   ふたつの映画                                平成27年12月24日
                                            立岩 正義(商・会)   最近、会員の皆さんは劇場で映画をご覧になったことがありますか?元来私は映画鑑賞を趣味の一つにしていたが、ここ2~3年は劇場に足を運んでいない。(とは言っても最近逝去が報じられた原節子さん主演の映画「東京物語」と「秋日和」を「BS3」で観た。)ところが、戦後70年の節目の今年、それも今月に入って2本の映画を観た。一つは「海難1890」、もう一つは「杉原千畝」。
 今年は「日本トルコ友好125周年」記念の年でもある。これにちなんで作られた映画が「海難1890」。実は3年程前、本会のH/Pに竹田恒泰氏の著書「日本はなぜ世界でいちばん人気があるのか」の一部を引用する形で、「エルトゥールル号の遭難事件」と題して投稿した。(引用文と映画の内容とがあまりにもぴったり合っているので、映画のお話は省略。) この映画は遥か離れた日本とトルコが強固な交誼で結ばれていることを描いた感動の物語、何度も感涙にむせんだ。最後のトルコのオルドアン大統領のメッセージがまた良かった。
 映画「杉原 千畝」は第2次世界大戦前後のヨーロッパ舞台にした物語である。リトアニアのカウナスに領事館が設置された目的は、東欧の情報収集と独ソ戦争の時期の特定にあった。1940年7月18日の早朝、ドイツ占領下のポーランドからリトアニアに逃亡してきた多くのユダヤ系難民などが、まだ業務を続けていた日本領事館に通過ビザを求めて殺到した。(リトアニアを占領していたソ連は、各国に大使館・領事館の閉鎖を求めた。)情報収集の必要上、亡命ポーランド政府の諜報機関を活用していた杉原千畝(「ハルビン学院」でロシア語を勉強)カウナス領事代理は、その関係者15名のビザ発給は予定していたが、それ以外のビザ発給は外務省の了解を得ていなかった。しかし、憔悴しきった100人もの人々が公邸の鉄柵に寄りかかってこちらに向かって何かを訴えている光景が目に映った。「領事の権限でビザを出すことにする。いいだろう?」と夫人に同意を求めた。「あとで私達はどうなるかわかりませんけど、そうしてあげてください」と同意。彼は本省の承認が得られないまま独断で、8月31日出国のため、列車がカナウスを出発するまで寝る間も惜しんで通過ビザを発給し続けた。その数2,139枚、およそ6,000人もの避難民を救った。
 リトアニアから国外脱出を果たしたユダヤ人たちは、シベリア鉄道に乗りウラジオストクに到着した。次々に押し寄せる条件不備の難民に困惑した本省は、事実上入国を拒否した。ウラジオストクの総領事代理・根井 三郎は彼にとってハルビン学院の2年後輩だった。根井は難民たちの窮状に同情し、一度杉原領事が発行したビザを無効にする理由がないと本省に抗議、そして、本来漁業関係者にしか出せない日本行の乗船許可証を発給して難民の救済にあたった。後藤 新平の制定した同校のモットー「自治三訣」は、「人のお世話にならぬよう、人のお世話をするよう、そして報いを求めぬよう。」と謳っている。
 本省の訓令に背いた杉原 千畝氏は、1947年6月退職通知書が送付され、外務省を依願退職。その後も外務省関係者の彼に対する敵意と冷淡さは一貫していた。しかし、生誕100年という節目の年である2000年10月、「勇気ある人道的行為を行った外交官」杉原千畝氏は、「杉原千畝氏 顕彰プレート除幕式」における河野洋平外務大臣の顕彰演説により名誉を回復することができた。 ともに一見の価値がある素晴らしい映画だと思います。 

 歌代雄七(商商

随想9 カルタゴ / ハンニバル

筆者が会社を離れたのは一昨年の9月末、約2年が過ぎた。暇つぶしに世界の経済動向を地域別に著してきた。既に8巻となり、あと4巻で世界の経済を大まかには網羅しようと、老骨に鞭を打ちながら稚拙な筆致で著し 進めている。

 世界の経済を俯瞰する中で、日本では到底考えられないことだが、世界の多くの国では経済に宗教が絡んでいる。逆に宗教が経済をコントロールの下に於いている、と言っても過言でもない地域がある。

 古くは「マーレ・ノストゥルム(我らが海)」と地中海を内海としたローマ帝国は消滅して、その後サラセン文化の人々が地中海を舞台に活躍した。活躍したとは言いすぎで、海賊行為と言った方が適切かもしれない。その海賊行為も経済の一端だととらえる人もいる。

 然しこの「海賊」には、イタリア語では二つの意味がある。「ピラータ」は自らの利益を目的として略奪・拉致を行うこと。一方、同じ海賊の意味を著す「コルサロ」は国家や宗教の為に、海賊行為を仕掛ける集団だと言う。

 地中海を挟んで北側はキリスト教の世界、南側はイスラム教の世界とはっきり分かれたことになる。

 ではそれ以前は如何だっただろうか。
つまり、ローマ人が地中海を「我らが海」と言い始めたのはBC146年に勝利したカルタゴの戦い以降からだ。
そのカルタゴは、大いなる覇権をふるった通商国家で繁栄も半端ではなかった。現在のチュニジアを起点として、モロッコ、そしてイベリア半島はスペインの南側ジブラルタル海峡からセビーリア周辺まで、更にはフランスのコルシカ島やその南側にあるイタリアのサルデーニャ島加えてシチリア島の西側などがその領土だった。もともとは現在のイスラエル辺りをベースとした海洋民族のフェニキアだ。フェニキア人が地中海沿岸を植民地とした中で最大の勢力となったのがご存知の通り、勇将ハンニバルを輩出したカルタゴだ。

 貴方は、この大国ローマを脅かしたカルタゴの勇将ハンニバルにご興味はありませんか ? 若し、おありでしたら引き合わせましょう。
手数料400円が掛かります。ご用意ください。
一肌脱ぎましょう。

 そうです、チュニジアの5ディナール(約400円)紙幣にその勇姿を飾っています。その紙幣を取り寄せればいつでもお目に掛かれますよ。

 扨さて、既に冒頭でお示しした通り、著した経済動向のエリアは「アフリカ」「イスラム圏」「インド」「欧州」「米国」「ASEAN」「中国」「東アジア」です。
記すに当たっては、極力数値の裏付けを意識したこともあり、著したそれ等は半年が過ぎると内容の劣化・陳腐化が起こり、悲しい一面がある。
然し、資料の収集・加工そして筆を走らせているそのときは、当該地域を漫遊している気になるから不思議だ。

 尚、次回の「ロシアの経済動向」は「Coming Soon」 だ・・・
ボランティアで送信している約400ユザーの方々、チョットお待ちヲ・・・

                                2015年 12月 歌代 雄七


 歌代雄七(商商

随想8  アダム・スミス

 学生時代に経営学や経済学に触れた方は、アダム・スミスの書籍には多少でも触れたであろう。彼の人生の最後は、イギリス・エディンバラで過ごした。

 生まれたのは1723年、エディンバラの対岸カコーディだ。エディンバラはロンドンから列車で北へ約5時間半、「スコットランド」地方の首都で人口は50万人だ。昨年、英国からの独立の可否を問う住民投票があり独立反対派が55%、賛成は45%で独立はなかったが、ことほど左様に独立意識の強い地域だ。このスコットランドにあるグラスゴー大学を卒業したスミスは、イングランドのロンドンから鉄道で1時間ほどのオックスフォード大学も卒業した。

 1776年に「諸国民の富の性質と原因の研究」所謂「国富論」を著し、発表している。今日の経済学の源流を築いたことになる。

 「国富論」について、多少硬めに記すことを寛恕頂こう。
自由主義者である彼が故でもあろう、
『個人が自己の利益を理性的に追求すれば経済は神ではなく「見えざる手」に導かれて繁栄する・・・・・・』と唱えた。
一方、政府の介入も述べている。つまり「自由主義と介入」は均衡すべきであるとも解釈できる。介入の具体的要件として、公共機関の組織化や公共事業、更には人間を疎外する過度な分業の排除等などだと著している。
40代半ばで故郷エディンバラに戻り、スコットランド税関長を務めた。

 華やかな生活を送ったスミスの思考力は、哲学から経済学に至るまで超人的であったが、終生 何故か独身を通した。

 エディンバラの旧市街地区に建つ彼の銅像は高さ5メートル超、台座には
ADAM SMITH と2段で刻まれている。左後ろには古めかしさを感じさせる聖ジャイルズ大聖堂が、右後ろには、堅牢な4階建てのビルが配置され、まさしく哲学と経済をイメージさせるような場所に建っている。

 経済学系で学ばれた同期の方々、国富論に触れたその昔を思い出しませんか?
筆者の中での『「国富論」君』は、最早こちらを見ずして忘却の彼方へ走り去ってしまった。そう、「彼」は勝手に逃げていったのだ。

 それもそうだ。学生時代は大事に『彼』を傍に置くではなし、「顔」を覘くではなし、優しくしなければ逃げられてもしょうがない。今更、寄りを戻したいと言っても、筆者の「頭」の中には戻ってきてはくれないだろう。

 暇つぶしで、あちらこちらを散策し 多少、関係することに巡り合えば
今回もそうだったが紐解く気はあり、昔の薄れた意識を手繰り寄せるのだが・・

 扨、こうしたこと古希を過ぎた身でいつまで続けられるのか。
先月、脳のMRIを撮って「何ともないよ」とは言われたのだが・・・

                              2015年 11月  歌代 雄七


  歌代雄七(商商

随想7 芸術の秋

芸術と言っても「ひろう ござんす」と言われそうだが、「芸術」と言えば、貴方は先ずは何を連想されますか。
文芸、美術、音楽、デザインなどの各分野を更に細分化すれば何千の世界だろう。
今回は音楽には欠かせない「ピアノ」を採りあげてみました。
そうです、あの「スタインウェイ」を。

音楽をこよなく愛する人は、この最高級と言われるスタインウェイのピアノはバイオリンのストラディバリウスと並んで羨望の品だろう。ニューヨークの名門ジュリアード音楽院では、世界で最もスタインウェイが集まっていると言われており、その数300台弱。然し、2010年~2011年にかけてヤマハとイタリアのファツィオリのピアノが各1台初めて納品された。この納品は画期的だと斯界の人は話す。

88の鍵盤であらゆる場面を創り出し、想像を掻き立てるピアノは18世紀初め頃、イタリア・フィレンツェの楽器職人が発明したとされている。その後に、米欧3大メーカーが誕生している。1828年に創業しウィーンに本社を持つ「ベーゼンドルファー」はヤマハの傘下に入っている。「スタインウェイ」はドイツ移民のH・Eスタインウェイによって、ニューヨークで1853年に設立された。また欧米3大有力メーカーの残りの1社である「ベヒシュタイン」も、1853年の創業で本社はベルリンに置いた。この3社で長い間、市場を占有してきたが、スタインウェイ創業から遅れること約35年の1887年に創業した日本のヤマハや1927年に創業の河合楽器(カワイ)が市場参入し、これら日本企業が軌道に乗ったことにより市場構造は大きく変った。

スタインウェイの工場はニューヨーク・クイーンズにあり、生産台数は一時、年間約1万台で売上高は約250億円の時代があった。然し、ヤマハは年間11万台、カワイが約5万台の生産台数と2社に大きく引き離され、経営不振に陥った。こうした事態から幾つかの経営母体を経て、スタインウェイの親会社は13年9月にヘッジファンドに約500億円で買収された。背景は米国のピアノ市場にある。今から100年ほど前の1909年に約36万台のピアノ市場があった。第二次大戦後も70年代まではその勢いはあったが近年は5万台も満たない状況となっている。因みに、スタインウェイのグランドピアノの価格は2千万円前後が主流だと聞く。

現在のピアノの原型を作ったと言われるスタインウェイは、プロの演奏家からは根強い支持があり、11年~12年世界の主な演奏会に出た360人の内、約98%はスタインウェイを選んだとのことだ(資料:スタインウェイ)。これだけ信奉されるスタインウェイは先に記す通り、経営面で幾つかの変遷を経た。ヤマハに押された「スタイン」を、創業者の係累は1972年にメィデイア企業のCBCに売却。85年/95年に各々の投資家の手を経て前述のヘッジファンドの手に渡った。

妙なる調べも、経済の波に飲み込まれては悲しい旋律を奏でるしかないだろう。
つくづく経営者の責任は重い、と幾つかの企業の経営を見てきた筆者も感じるところだ。

さァー、貴方は今秋の音楽鑑賞はどちらで ?
オーチャードですか、或は国立劇場、はたまた芸術劇場、もしかしたら軽井沢まで遠征して大賀ホール・・・・・・      是非、お出掛けください。
非日常の世界に、暫し身を置くことは心身のリフレッシュには良いものです。

                                15 年10月  歌代 雄七


 石橋忠雄(法学部)

老釣り師のつぶやき

“魚釣りの話は両手をしばってから聞け”とは格言ではないが、真実である。30㎝の魚のワラサが話す度に40㎝、60㎝のブリとなり、カレイ30枚の釣果が50枚となり、おしまいにはクーラー満杯となることも珍しくない。
 誰に迷惑をかける訳でもなく、罪のない話だが、こんな能天気な調子だから趣味は魚釣り(海釣り)ですと言うと、趣味と実益を兼ねてイイですねとか、海に出れば心身ともにリフレッシュするでしょう等と言われる。

奇跡の大ヒラメ(石橋忠雄さん)
8月27日PM12:23 全長98cm 重さ10Kg
 実際、世間の魚釣り(師)に対するイメージは、大海原に釣り糸をたれてジッと魚信を待つ、ある種、牧歌的、自然主義的な姿とか、でなければゴルフと対比して釣った魚は持ち帰って夕食に出すと家族皆に喜ばれるという女房孝行といった所が定番である。ところが、現実は正反対であり、世間の常識は、魚釣りの年季を重ねれば重ねる程、現場とかけ離れてくることになる。
 その最たるものの1つが、魚釣りは早朝、船にのって沖に出て、船頭の合図で釣り糸を海に落とす第一投までが天国であり、その後は一転して地獄が始まるということである。魚が釣れて楽しい天国の始まりじゃないですかと思われるかもしれないが、大体は違うのである。近年は大型漁船が近海操業をしているために魚そのものが少なくなっている上、釣り人口も爆発的に増えてきたことから魚釣りの環境は全国的に厳しくなってきている。冒頭にのべたように、釣れた釣れたというのは10回に1回位のことであり、あとの9回は期待を裏切ることが多い。
 また、海の上というのは陸上から見る程、のんびりしたものではなく、暑さ、寒さはオカの何倍も厳しく、さらに風がつけば波も大きくなり常時、上下左右に身体が揺れ動いている状態がつづくと早く帰って風呂に入って休みたいという気持ちになる。それでも釣れれば面白いが、海には潮加減というものがあり、潮の方向、満ち引きで魚がパタッと口を使わなくなることが日に何回もあるのだ。
 だから魚釣りは日程と釣り物が決って2、3日前から仕掛けや竿などを用意して釣行前夜、晩酌もそこそこに切り上げ、大漁を夢みて早目に寝床につく辺りまでが一番楽しいのである。
 もう1つは船の中の人間関係である。魚釣りは世俗を離れ、自然と対話するのではと思われるかもしれないが、海釣りの場合、そうではない。
 私の船(1.4トン)でも友人3、4人が乗るし、都会の方の少し大きい乗合船だと釣り人が10人以上にもなる。混んでくると隣の人との間が2、3m位で、その間にクーラーやバケツやらがあり、意外と船中は身動きがとれない程、狭苦しいのである。その状態で一日をすごすのであるあるから、隣人とは黙っている訳にもいかず、何か会話もしなければならない。そこでどうしても気になるのがお互いの釣果である。不思議なことに船釣りではこっちがまだ2、3匹なのに数m離れた人はもう10数匹も釣っている場合が珍しくないし、またその逆もある。これは技量もあるが、潮の流れ方、釣り座などでもこうなるのだ。勢い、成績のよい方は元気だが、もう一方は段々と自信がなくなって寡黙になるだけでなく、大声で喜んでいる隣が羨ましく、ついには憎たらしくなってしまうのだ。
 挙句に厳寒、炎暑が加われば体調も劣化し、もう今日はイイヤと投げやりになってくる。そうするとますます釣れなくなる。でも帰る訳にいかないのだ。ケガや病人でも出ない限り、船頭がハイ、今日はここまでと言う迄は単独行動はできない。沖上りともなれば、今日の竿頭(トップ)は〇〇さんですという声がきこえる。そう、(海での)魚釣りは海や魚という自然相手のスポーツとは程遠い、欲と見栄のうず巻く集団行動なのです。
                                  石橋忠雄(青森県むつ市


 歌代雄七(商商

随想6 トイレの優しさ

汗をかく、猛暑は終わった。特に今年の夏は例年に比べて猛暑日の多い年だった。
汗をかけば、尿は相対的に減ることになるが水分の過剰飲用で人によっては冬場に比べてもその量が変わらない人もいる。
何れにしても、尿だけではないがモヨオすればお世話になるのはトイレだ。

海外にあっては、そのトイレの使い方に迷う時がある。然し、トイレがあれば良い方だと思う時があった。数年前、筆者がウズベキスタンを旅した時、眉目秀麗な女性ガイドさんを含めて女性は2名、都合4名で国土の北からシルクロードの十字路となるサマルカンドまで砂漠の中のハイウエーを車で飛ばした。

旅の途次でモヨオするが兎に角、休憩所がない。ガイドさんにマッタの声をかけると、いとも簡単に車を止め女性はこちら、男性はあちら側でとの返事。丁度、車が遮蔽した形にはなるが、小走りで向こう側へ。背を小さくかがめながら、体外に出た水分は砂地へまっしぐら、一時の痕跡を残してその地は、何事もなかったように先程の乾燥状態。
反対側も多分、同じ状態だろう。

なんともバツが悪そうに両側から車に乗り込むが、ガイドさんは慣れたもので平然だ。これを10回近く繰り返すと同行の女性も筆者らもガイドさんレベルになるから不思議だ。

トイレの無い辛さと羞恥心を味わい、日本のトイレに恋しさを感じた旅だったが、その日本のトイレが今、世界的に脚光を浴びている。
温水洗浄便座はもとより、少量の水で渦を巻くように流す「トルネード先浄」、更には汚れのつきにくい表面処理や紫外線照射による殺菌機能を持つトイレ。未だある、使用時に「せせらぎ」の音を奏でたり、簡易的な尿検査の実施等など、主要国で使用されているそれと比べても、何世代も上を行く日本製品が世界を駆け始めている。

衛生陶器メーカーもブランド戦略をたて、高級感を煽っている。
世界の五つ星ホテルや空港を抑えれば目的とするターゲット層に自然に浸透することになる。

日本の当該ブランドは、「TOTO」と「INAX」だろう。米国ではデザイン面で評価の高い「コーラー」ブランドは、日本のブランド共に世界での評価は高い。
因みに、ベトナム・ハノイでのTOTOブランドの便器「ネオレスト」の価格は
100万円超だ。平均的なベトナム人年収の数年分に相当すると言う。

「尻」と雖も、仇やおろそかにしてはなりませんぞ。
便座のあることの有り難さ、温水洗浄の心地よさ、今や昔になりつつある我々の十代では考えられなかった、そんな時代が到来していることを改めて感じる。

パートナーから邪険にされたら籠ってください。一人寂しく、心地よく……

                             2015年9月  歌代 雄七



 歌代雄七(商商

随想5 美術館は誰が造る

  古今東西を問わず、文化への投資は国を始め公的機関か王侯貴族などの支配階層が主導するケースが多かった。欧州では画家や音楽家を抱え文化を発展させ、こころの民度を上げてきた。日本でも茶道家なども含めてそうであった。

  然しこの数世紀では実業家として、功、名を遂げた人達がそれら施設と文化遺産などを保有し、展示・公開するケースが多くなった。例えば、日本で言えば、石油系の出光美術館、飲料系のサントリー美術館、鉄道系の根津美術館、証券系の山種美術館、タイヤ系のブリジストン美術館、不動産系の森美術館、三菱系の静嘉堂文庫と三菱一号館等など。そして地方では山形県・酒田市の本間美術館、徳島県・鳴門の大塚美術館、岡山・倉敷の大原美術館、島根県・安来の足立美術館等などがパトロンを持ち審美眼を備えた学芸員を抱えて、それぞれが特徴を持って展示を試みている。

  企業から見ればメセナの一環であろうが、市井の人々にとっては豊穣な心へと誘ってくれる有り難い存在だ。

  一方、世界の主要文化都市 パリでは、モエヘネシー・ルイヴィトン(LVMH)の会長で最高経営責任者(CEO)のベルナール・アルノー氏がパリのブローニュの森に、「現代アート」の美術館を造っている。

  80年代まで、この現代アートはフランスでは完全無視状態だったが1982年に現代アート地方基金(FRAC)が設立され、盛り上がりを見せた。このFRACは、国と20を超える地方が折半で出資し、基金を設けた。地方出身の作家の作品を広く買い求め、地方を含めて展示を繰り返し、地方に暮らす人々が優れた作品に出合えるような仕組みを作っている。

  一方、同じフランスで散策する人が多いセーヌ川、それに沿った建屋のルーヴル博物館は40haの敷地にあり、約30万点を所蔵、常時約3万5千点が展示されている。分館を北部のランス市に開設し、15年中にはアラブ首長国連邦に「ルーヴル・アブダビ」を開設する。世界三大美術館と称されるル-ヴルも世界への出張展示から常設展示にも力を入れるようになってきた。

  社会資本が厚い国は文化度もこれまた比例して高い国が多い。
 日本も早い時期に、文化人と言われる人が更に多くなることを願うところだ。

                        2015年8月    歌代 雄七


 石橋忠雄(法学部)   

 総会模様雑感

  昨年、頭具合が晴れなかった時に、さる神経科医院でMRI診断をうけたさい、医師より「年相応に脳の劣ろえがきている」と言われたことがあり、そう言えば近頃、漢字を忘れたり、人や物の名前が出てこなくなったのもそのせいかと思い、何となく気になっていた。
 そんなところへ43会の方で認知症の講演会をやるというので七月四日、梅雨空の下、年次総会、懇親会に出席し、久し振りに同窓諸兄姉と校歌を歌い、昔話に花を咲かせ、心身共にリフレッシュすることができた。
 講演会では、講師の吉崎崇仁先生の説明によると認知症の定義が最近変ってきて、自分の生活が支障なくできるか否かといった視点で認知症を判断するようになったとのことであった。そして認知症にならないためには趣味をもつこと、出来るだけ人と交わって会話をすることであるとの先生のお話しをうかがい、私は我が意を得たとばかりに共感したのである。
 何故なら私は二十数年来、春から秋にかけてマイボート(和船)をもって津軽海峡沖で海釣りを楽しんでいるが、ここ数年は海模様がよければ普段の日でも仕事そっちのけで釣行に出たりして、趣味というよりも道楽の域に近いことをしている。加えて昨年から金十万円でミニ耕運機を求め、家内と家の回りの畑をおこし、ちょっぴり本格的に野菜作りをはじめ友人や東京の子供達にもあげたりして喜ばれている。
 これで何とか七十代を認知症なしで乗り切りたいと思っているが、ハテサテ。
 それはそうと、講演の後、三~四人の方から吉崎先生への質問があったが、どちらが講師か質問者か分らない位、質問内容が医学用語が多く、専門的で驚いた次第である。
 懇親会では何といっても冒頭、某氏の気迫にみちた掛け声と指揮の下に、全員で校歌を歌ったら一気にテンションが上り、五十年前の青春に戻り、隣席の西元氏とは憲法の橋本公亘教授や刑法の下村康正教授の講義を談議したりして懐かしさもひとしおであった。
 四時間余の総会行事をおえ、上野駅までの途中、感動とアルコールで火照った身体に梅雨で濡れた公園のひんやりとした空気が清々しかった。

                                   石橋忠雄(青森県むつ市)



  歌代雄七(商商

随想4 まかり間違えば「ボノボ」

 東京国立博物館で開催されていた鳥獣戯画展は先月・6月の上旬で終了した。筆者は2回程入場のトライをしたが残念ながら長蛇の列に、並ぶ気力を失い入場を断念した。京都・右京区の高山寺の所蔵によるものだが、同寺ではレプリカが展示されている。ご存知の通り、そこに「出演」するウサギやカエル、鹿、そして猿も人間と同様の所作で描かれている。

 そのサルの中でも人間に最も近い行動を示すチンパンジーやボノボは、人間と最後に分かれたのは500万年前だ。因みにチンパンジーとボノボが分かれたのは100万年程前。そしてこの共通の祖先からゴリラは800万年前に、更に、これらの共通の祖先からオラウータンが分かれたのが1200万年前だ。いずれも分類は人間同様にヒト科に属す。

 このチンパンジーとボノボの2種は、人間との間の遺伝情報、所謂DNAの配列は98.8%が一致する。そのチンパンジーとボノボの違いは0.4%だ。

 チンパンジーとボノボの行動面での違いは、攻撃的で競い合う性格更にはオス優位の社会を創るのがチンパンジー、それに対しボノボはメス優位で集団のまとまりを大事にする。

 彼らはアフリカのコンゴ川を境にして住処を分けている。そこにはチンパンジーが20万~30万頭、ボノボは2万~5万頭の生息が推察されている。

 ボノボは穏やかで助け合いの精神に満ちている。例えば罠にかかったボノボを拘束する針金を皆が集まって外そうとするところを多くの人間が見ている。また、群れの中では食料を分け合う習慣がある。然し、ボノボはチンパンジーのように道具を使って食料を得るようなことはないが、性行動はチンパンジーの如く繁殖目的だけではなく、メスが発情していない時にも交尾をする。

 こうした彼らの行動を通じて、人間の祖先や人間の本性は何なのか等などを研究することが可能となる。一方、彼らが生息する地域は内戦が長く続いたこともあり、生活圏が奪われ絶滅の心配がある。

 約40億年に及ぶ生命の歴史の中では、人間と彼らとハンカチを強く振ってお別れしたのが500万年前、悠久の歴史から見れば、ごく最近の出来事ですョ。今や黄色いハンカチを棚引かせて待っていても、元の鞘に戻ることはないだろう。然し、神様のイタズラで、まかり間違えば貴方はチンパンジーやボノボの世界に生を受けて、そこで楽しく暮らしていたかもしれませんョね。
                                   2015年7月 歌代 雄七


  歌代雄七(商商

 随想3 『画商、デュラン・リュエル』

  この時期、木々は新緑で覆われている。丁度 半年前になるだろうか、昨年11月中旬、東京駅から散り敷かれた茶褐色の葉を踏みながら、今や人気スポットとなった三菱一号館に向かった。そこにはボストン美術館所蔵のミレーの「種蒔く人」などが掛けられていた。農民画家と称され、印象派に近い画風は日本でもそのファンは多い。

 その印象派の画商とまで言われたフランスの伝説的な画商、デュラン・リュエルは印象派のドガ、モネ、ルノワールなどの当時、売れない絵を買い続けた。

  当時、フランスを含めた欧州の画家は、相も変わらない歴史画を19世紀の後半まで描き続けていた。それも仰々しい絵画や神話を題材とする絵画、さらにはカメラが発明されているのにも拘わらず生き写しの肖像画等などだ。

  当時の画家達は、毎年開催の国家的行事のサロン(官展)で展示してもらう必要があった。その展示にはアカデミー会員に認められなければならない。その会員は美術学校の教授や批評家などから構成されていた。サロンでの常連展示ともなれば、ブルジョワジーや美術館が高値で購入することとなり、名声と同時に生活レベルも格段と異なるステージとなる。

  然し、19世紀後半にフランスで勃興した印象派の絵画は、サロンに応募しても画風を受け受け入れられることなく入選は厳しかった。そこで独自に毎年展示会を開催し、購買者開拓をしていった。その展示会は後に「印象派展」と呼ばれるようになり画壇の大きな一角を占めるに至った。然し、当時は購入余力のある富裕層の好みはアリストクラティックな絵画の意向が強かった、また批評家は印象派の画に対しては辛辣で、酷評し続けた。

  そこに、画商、デュラン・リュエルが現れた。印象派に寄り添いその未来にかけたデュランは、欧州での販売には困難を極めた。結果、何度も倒産寸前まで追い込まれた。彼はついに欧州を諦め、大量の絵画を抱いて新天地を求めて大西洋を渡った。

  当時「新興の成金国」と言われていた米国では、彼の努力もあり印象派の評価は徐々に高まった。つまり、印象派のパトロンになったのは旧習に拘らない成金国だった。人間の価値観は境遇や意識で変わるものだ。自由な審美眼がある米国で受け入れられたのが印象派だ。大成功をおさめた印象派はデュランの功績であり、これを機に画商そのものがクローズアップされてきた。

  このように新進画家が人気を博せば、最初の買い手である画商の儲けは天文学的レベルではなかろうか。さらに勲章がある。無名の天才を発掘した、との称号が付きまとうことになる。その事例が、画商のカーン・ワイラーであろう。ピカソにして言わしめている「彼の実業の才がなければ、扨、自分はどうなっていたか」と。

  ピカソの「アビニョンの娘たち」を一目見てほれ込んだカーンは、裕福な一族に生まれた。ピカソと出会いから 60年以上の付き合いとなった。好きな絵をなぜ売るのかとの問いに、まさに筋金入りの「ピカソの画商」と言われたカーンは「私は画商、コレクターではない」と答えたそうだ。

  筆者が3年程前にスペインで目にしたあのピカソの絵画は、カーンがその美術館に斡旋したものだったのだろうか

  扨、振り返ってみれば我々の傍にも画伯がおられる。

ご存知の通り同期の方々で…・・

 町田譽曽彦さん、そして鹽野 惠子さん等などの画は、是非 拙宅で掛けさせて頂きたい秀作の数々だ。皆さんも、その様に思われておられることだろう。

  然し、花鳥風月を愛でることのないこのわが身では、秀作を掛けても まさしく豚に真珠、猫に小判の世界となってしまう……

 諦めよう、秀作との出会いは。

                        2015年6月 歌代 雄七


  歌代雄七(商商

随想 2

『世界の海から、お召替えに』

 訪れる場所は、タイの首都バンコクより南西に40キロ、そこに お召し替え処がある。4階建てで、延べ面積1万平方メートル超の建物には世界20数ヵ国から来訪なされ、装いも新たにして、30ヵ国以上にそれぞれが旅立たれる。そこにはタイ人やミャンマー人が半々程に分かれて、総勢約900名の方々が羽織・袴ではないが、お出迎えをして、彼らのお召し替えをお手伝している。ここを運営するのは、05年にできた「K&Uエンタープライズ」社だ。タイの現地エビ養殖企業と日本の水産会社、極洋との合弁会社だ。

ここまでくれば、お察しの良い貴方のこと、なに屋さんだかお判りでしょう・・・
そうです。水産加工会社でそれも寿司ネタ専門工場です。

最早「すし」は世界に浸透し、富裕層から庶民までが口にし、これが寿司かと思われるような形を変えたものまでが出されている。筆者も日本から1万5千Km離れた南アフリカの片田舎で、新鮮なネタであろうと、寿司を口にしたが姿・形そして味も、エッ!・・と声を出したものだ。

すしの大衆化はご案内の方も多かろう、終戦の13年後、1958年に大阪・東大阪に誕生した「廻る元禄寿司1号店」が元祖だ。つまり、創業者がビール工場のベルトコンベアーにヒントを得て「回転 ずし」を初めて誕生させた。70年代の後半には特許が切れて爆発的に日本で浸透し、今や4,800億円の市場(資料;富士経済 12年)にまで成長している。

これだけのマーケットに成長した業界に、「具材」提供も一つの大きな産業となった。そこで前述の会社の存立となる。欧州からはサバなどが、アフリカ南部のモザンビーク沖からはエビが、南米チリからはサーモンが、日本からはホタテ貝などなどが集まってくる。

全体で野球場ほどの面積があるところで、階ごとに異なる魚介類を短冊状などのすしネタ・サイズに加工したり、小骨をとったりする。次の工程では検品したりしてマイナス60度の急速冷凍をかけ、世界各地に出荷されていく。「K&U」では生産する寿司ネタは、年間3,300トン、すし1貫分が10グラムとすると3.3億貫分となる。売上は約50億円だ。その「タイ」では、屋台にて1貫15円の寿司があると思えば、香港やニューヨークの鮨やのメニューでは、おまかせで 1万5千円以上の処もある。これからの「すし」の世界でも、ご多分に漏れず他業種同様、両極化に進んでいくのだろうか。


「エッ・ィラッシャイ」

『大将 久しぶり! 今日はマグロからよろしく、最後は かっぱで〆て・・』  

「お客さん、熱いお茶でもどうぞ・・」 『先ずはビールで!』

 今晩の貴方は、鮨処でこんな会話になりますか?   行ってらっしゃい!! 

小生も行きますョ!  思い切って・奮発して寿司屋へ

 ただし、小生は皿を一枚/一枚、気にしながらの処ですが・・・

                                  2015年5月  歌代 雄七


 

 歌代雄七(商商

 随想(1)
 今回から3~4月ごとに、「随想」としてこのコーナーに著すことになりました。
 テーマとしては、「随想」ですからこれから先、何が出てくるか筆者にもわかりません。
 お口汚しという言葉はありますが「お目」汚しになろうかと思いますが、気が向きましたらご一読ください。
 扨、心地よい季節になりました。
 海外へ出かけてみようか、と思われている方も多いことでしょう。
 大きく経度を跨ぐ旅は時差に悩まされますね。
 今回は、その時差を採りあげてみました。

 『時差』
 ご案内の通り、時差は英国・グリニッジ天文台が定める時間を基準としてグリニッジから経度15度を離れるごとに1時間を加えたり、減らしたりしている。
 丁度180度地点が原則日付変更線となる。そこを中心に東側を1日遅らせることになる。
 その日付変更線が面白い。180度より西側にあるベーリング海に浮かぶアリューシャン列島の先端、米国領アッツ島やキスカ島は、本来であれば「今日」の時点となるが実態は「昨日」となっている。
 逆に、緯度的にはハワイの丁度、真南辺りになるキリバスは、本来であれば「昨日」が正しいところであるが、実態は「今日」である。おまけ話だが、そのキリバスより西側にある米領サモア(クック諸島)はこれまた逆で本来通り「昨日」となっている。
 一方、国内で時差がある国が結構ある。3つの時間帯を持つオーストラリア、インドネシアや4つの時間帯を持つ米国本土、ロシアに至っては11の時間帯を持っている。因みに、米国本土とほぼ同様な東西距離を持つ中国は、政治的意図で時差の無い国だ。
 扨、次に経度ではなく、緯度に関係するサマータイムについて著そう。この制度を導入している国は世界で約70ヵ国ある。日本でも導入した時期があることはご存じだろうか、貴方がご幼少の頃、GHQ統治下での話だ。多くの国が導入しているサマータイム制度の背景は色々だ。終業後の余暇を楽しむため、そしてエジプトのように電力事情に配慮する等などだ。
 時差ぼけは、日本から発つとき 米国方面に向かう東方面が、欧州サイドの西方面より体内時計の調整がしにくく、時差ぼけの症状が大きいことは知られている。症状の回復は、到着日の夜まで起きているとか、軽い体操をするとか、人それぞれ異なるようだ。
 貴方の回復「秘策」は何ですか、ご開陳ください。 43会で共有しましょう。
 それでは、時差ぼけに気をつけて行ってらっしゃい。     Bon voyage !     
                                    15年4月  歌代 雄七



 立岩正義(商会)

日本経済新聞朝刊「春秋」より

 朝日新聞朝刊の1面コラムは「天声人語」、日本経済新聞のそれは「春秋」であることは皆さんご存知の通り。
 さて、 両紙は2月2日のコラムでジャーナリストの後藤健二氏の死を悼み、2月3日には1月31日に死去したワイツゼッカー元ドイツ大統領の演説を取り上げた。偶然かどうかはわからないが、私には興味深かった。
 そこで、ワイツゼッカー氏に関する日経のコラムを引用して、僭越ながら会員各位の思索の参考に供したい。
 2月11日、ワイツゼッカー元大統領の国葬がベルリンの大聖堂で営まれ、メルケル首相らが参列した。

「若い人たちにお願いしたい。他の人びとに対する敵意や憎悪に駆り立てられることのないようにしていただきたい」(永井清彦役)。先月31日に死去したワイツゼッカー元ドイツ大統領の演説にこうあった。今日本で読み直し、切実さになにも変わるところはない。
 1985年、戦後40年に際した「荒れ野の四十年」と称される議会演説では、一節がとりわけ今日に伝えられてきた。「過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります」。歴史に対するドイツ民族の責任を説いたとされる個所がなぜ大切なのか。人の、ともすれば盲目になる傾向を思い知らされるからである。
 「余りにも多くの人たちが実際に起こっていたことを知らないでおこうと努めていたのが現実であります」。ナチスの蛮行に目をつぶったドイツ人の反省は、我々にも向かってくる。社会の不正義でも学校のいじめでも、ささいだからと見て見ぬふりをしている間に、実際に起こっていることはのっぴきならなくなる。
 ヒトラーは敵意と憎悪をかき立てて国民の目をふさいだ。過激派「イスラム国」の人質殺害で、日本でも敵意や憎悪のほむらが勢いをましていないか。炎は、イスラム教を信ずる人々や紛争に巻き込まれた中東の人々へと向かわないか。若い人だけの問題ではない。いま、目をふさがれぬこと。この国にとって切実である。 

 2015年2月3日 日本経済新聞朝刊「春秋」


 立岩正義(商会)

 日本経済新聞朝刊「交遊抄」より

巨人が不滅のV(1965~73年、ほかに61年及び63年も日本一)を達成した時期は、日本経済が高度成長を謳歌していた時期と重なる。川上哲治監督のもと、V9に貢献した長嶋茂雄氏とともに「ON砲」と称賛された王貞治氏に関するコラムを「日経」紙上で発見した。当時、お二人の活躍に魅了されていた一人として、この記事を引用することにより王氏の人間性を皆さんにご紹介したい。

世界一の常識人

  福岡ソフトバンクホークスの王貞治会長と初めてお会いしたのは、約40年前、加賀屋に泊まっていただいたときだ。北陸遠征で金沢に来られた際、小学生の私は、テレビ解説の受け売りで「足を上げるタイミングがずれている」と生意気なことを言った。「次から気をつけるよ」と笑ってくれた。
 ホークス監督時代にはキャンプにお邪魔し、食事をした。待ち合わせの5分前に着くと王さんが立っていた。「巨人軍では15分前の集合がルールだったから」と言う。「君はいいんだよ。約束の時間に来たんだから」と気遣いの言葉をもらった。
 富山県の知人の見舞いで訪れた病院では、集まってきた子供たち数十人全員にサインをした。福岡での食事中も、ファンの問いかけに丁寧に答える。わけへだてなく接する姿勢を見ると、世界一の常識人だなと思う。
 探究心もすごい。奥様のお通夜の日、パソコンのソフト「ワード」に参列者名を打ち込んでいた。手伝い役の私は失礼と思いつつ、整理・検索に便利な「エクセル」の存在を教えた。深夜、おいとまする際にあいさつすると、「今夜はこれを読みながら、女房と過ごすよ」。手にはいつ入手したのか、エクセルの解説本があった。つらい時でも少しでも前に。王さんの精神を手本にしたい。

 2014年5月30日付、日本経済新聞朝刊「交遊抄」

加賀屋社長 小田 ヨシヒコ氏 投稿文より


立岩正義(商会)

島倉千代子さんの逝去を悼む

 昭和30年3月「この世の花」でデビューした歌手の島倉千代子さんが、平成25年11月8日午後0時30分肝臓がんで逝去された。75歳だった。

母死別後の私は、父が病気入院中(昭和30年4月~10月)世話になっていた叔父の家で、連続ラジオドラマ「この世の花」の主題歌として、ラジオから流れてくるこの曲を初めて聴いた。私は当時16歳のお千代さんが、澄み切ったきれいな高音かつ哀愁を帯びた声で歌うこの曲に、あっという間に魅了されてしまった。当時11歳の子供であったが、ドラマの前後に流れる歌声はとても印象的で、子守歌代わりに聞きながら眠りについたものである。それ以来ファンとなった。
 浅草の「国際劇場」や「新宿コマ劇場」に何度か足を運び、生の歌声を聴きに行った。病気、手術後は衰えたが、歌手生活45周年記念として発売された「島倉千代子大全集」では美しい声はもちろん健在である。時々妻の留守を見計らって、一献傾けながらテープを聴いたものである。
 私生活の面では離婚を経験し、ファンの投げたテープが目に当たり失明しかけた。また、連帯保証人になり多額の借金を背負い、公演先まで借金取りが押し寄せるなど数々の苦難を乗り越えながら、歌一筋に頑張ってこられた。
 
 11月14日(木)、私は青山葬儀所に行った。既に多くのファンが最後のお別れをするために、構外の道路に並んでいた。お千代さんのヒット曲が流れる中、構内に設置された献花台の遺影に献花、合掌した。(新聞報道によれば、芸能関係者1,000人、ファン2,000人)
 午後1時、葬儀・告別式が営まれた。「私の部屋の中にスタジオができて、私はできる限りの声で歌いました。自分の人生の最後に、もう2度と見られないこの風景を見せていただきながら歌を入れられるって、こんな幸せはありませんでした。人生の最後に素晴らしい、素晴らしい時間をありがとうございました」式の冒頭、亡くなる直前の島倉さんの声が流された。島倉さんは亡くなる3日前、自宅スタジオでデビュー60年を記念した新曲「からたちの小径」を録音。メッセージに続いて披露され、ファンの涙を誘った。
 日本コロムビア(株)社長、原康晴氏(葬儀委員長)、歌手 石川さゆりさん、元日本経済新聞編集委員 田勢康弘氏が弔辞を読み上げた。なかでも、石川さゆりさんが涙で声を詰まらせながら読みあげた弔辞、「生涯歌い手として見事なまでに全うされた。歌への情熱、表現者としての夢をどんなときにも決して失ってはならないのだと、私たち後輩へ強く示された」に胸を打たれた。
 司会の徳光和夫氏が最初に小泉純一郎元首相の弔電(他に弔電有り)を披露した。葬儀関係者は構外の大勢の参列者のために、葬儀・告別式の模様が生中継で音声だけでなく、映像も見られるように配慮すべきではなかったか。そうすればきっと彼らに喜ばれたことだろう。
 多くの後輩の歌手に尊敬され、慕われた島倉さん、安らかにお眠りください。(合掌)


 宮本常子(文哲)

 世界遺産登録された富士山へゴー!

 富士山が世界遺産登録されてから、世界的に有名な富士山を訪れる内外の観光客が増えている。そこで、噴火を唱える学者もいるので、姿の変わらない早いうちにと誘いを受けた友人とツアー参加した。
 富士河口湖町にある山梨県立富士ビジターセンターは、いろんな展示(春、夏、秋、冬の富士山の姿や樹木、花の映像はもとよりそこに棲む鳥や動物のはく製もある)に加え、「心のふるさと富士山」と銘うって、その文化と歴史を映像で紹介している。

 山梨と静岡県境にあり、数十万年前は、小御岳火山と古富士火山、新富士火山の3つにわかれ、富士講信仰により登山者が増えた。また、噴火により堰きとめられて出来た湖が出現。4500年前は、宇都湖、せの湖、旧河口湖、明見湖の4つに分かれていた。宇都湖が山中湖と忍野八海に、旧河口湖は河口湖に、明見湖は盆地化していく。せの海は本栖湖に、後程、精進湖と西湖に分かれる。そういう風にして現在は、富士五湖(本栖湖、精進湖、西湖、河口湖、山中湖)になった。
 山部赤人が呼んだという和歌「語り継ぎ 言い継ぎ ゆかん 富士の高嶺は」が映像の最後の締めくくりである。それほどまでに富士の高嶺は壮麗で、「歴史や文化その他諸々を次の世代に語り継いでいく」事が重要であると言いたかったのだろう。

 次に訪れたのが名水百選に指定された国指定の天然記念物・忍野八海。忍野村にある湧水群。富士山の雪解け水が地下の溶岩の間で20年の歳月をかけてろ過され、湧水となって8ヶ所の泉をつくる。山中湖が水源。なかでも水が湧き出している湧池や中池の中にあるどこまでも深く、深い水色をした名水百選の神の水、逆さ富士が写るという鏡池などを見学。
 夏でもヒンヤリ!溶岩流に残った洞窟(船津胎内樹型)の狭い横穴を腰を屈めながら四つんばいになって進行する。確かに涼しいのであるが、足元が危なっかしくおぼつかない。
 登山口の数箇所にあるという浅間(せんげん)神社のうち、1900年以上の歴史があり、富士登山道入り口にある北口本宮浅間神社を見学。太く立派な冨士太郎杉、次郎杉、冨士夫婦杉があり、国重要文化財西宮本殿や諏訪神社がある。
 次に訪れた河口湖浅間(あさま)神社は864年の大噴火で災害が発生、富士山の神様である浅間大神(あさまだいじん)をお祀りする社。パワースポットの7本杉を見る。とてつもなく太く大きい杉が7本もあり、ビックリ。最後に、本栖湖からの富士山絶景の場所に立ち寄るが雲がかかってまったく見えなかったのが、すごく残念でした。
 友人4人で江戸川台で夕食を食べ、楽しく有意義な日帰り旅のはずが、柏で電車がストップして動かないという番狂わせもあった旅でした。

 


 立岩正義(商会)
  

丹陽、上海(中国)を巡る3泊4日の旅

 倉田隆次氏(白門43会前会長)と私は平成25年7月20日(土)~23日(火)の4日間、王 萍(オウ ヘイ)さんに招待され、21日(日)に挙行された彼女の結婚式に出席するため訪中した。
  王さん(中国・河南省出身、31歳、女性)は、平成22(2010)年3月母校・中央大学大学院の修士課程(社会学)を修了し、同年4月から博士課程で研鑽を積んでいた才媛だ。ところが、平成23(2011)年3月の「東日本大震災」発生後、心配するご家族のたっての希望もあり、同年6月帰国を余儀なくされた。
 彼女とは平成20(2008)年6月、「白門44会」の学員が主催する「第20回留学生の集い」の会場で、私が声をかけることによって知り合った。そのとき、翌年再会することを約しお別れした。
 平成21(2009)年6月、約束通り「第21回留学生との集い」で再会した。また、同年10月倉田さんを含め同期生4人で、王さんと彼女の友人(他大学の中国人留学生)のふたりを「国立歴史民俗博物館」(千葉県・佐倉市)などに案内した。(白門43会のHP、「留学生との集い」コーナーの八束氏の投稿文、『第20回留学生との集いが開催されました』及び「寧日雑感Ⅱ」コーナーの拙文、『千葉・佐倉をめぐる日帰り旅』参照)その後も親交を深め、このたび結婚式に招待される運びとなった。
 以下、日記風に紀行文をまとめてみましたのでどうか拙文におつきあいください。

7月20日(土)
 7時40分、JR千葉駅で倉田さんと落ち合い、成田空港に向かった。
 成田発10時55分の中国東方航空機に搭乗し、12時50分(現地時間、-1時間、以下同じ)上海浦東国際空港に到着した。王さんが先着していた金井さん、町田さんと共に出迎えてくれた。
 空港レストランで昼食を済まし、14時40分、王さんの知人が運転するレンタカーで丹陽のホテルに向かった。(18時30分到着)
 5つ星のホテル「丹陽水中仙国際酒店」のレストランで、王さんのご両親、お義兄さん(姉君の夫君)らと親しく夕食を共にした。(夫君の費 建輝(Fei  Jian Hui )さんは遠来の友人等の接遇のため欠席。)

*  金井 洋太郎さん(神奈川県在住)
平成15(2003)年、彼が中国・大連を旅行中、そこで観光案内の仕事をしている王さんの友人、金さん(結婚式に出席、親しく話す機会あり)に翌年日本の大学に留学予定の王さんを紹介される。それ以後日本における後見人あるいは保護者的な存在の人。

*  町田 真砂子さん(埼玉県在住)
平成16(2004)年王さんの来日後、共通のアルバイト先で知り合う。それ以後日本におけるお姉さん的な存在の人

 *高速、一般道路の印象
① 路面を照らす照明がない。
② 薄暗くなっても車の照明をつけない。
③ 四車線と道路幅は広く、走行車は多い。
④ 薄暮の中3~4度夕立に見舞われたとき、ハザード・ランプを点滅させながら走行していた。
 (これは悪天候、車の調子や道路状況が悪い場合、走行中の他車の運転手に注意を促すため。)
⑤ 一般道路でも信号機がほとんどない。
⑥ 初めて訪中した時(1995年3月)、自転車通勤がとても多かったが、電動2輪(ヘルメット不着用の人多し)に代わっていた。ただし、電動2輪は高速道路では走行禁止

*余録
① 久しぶりに食べた本場の中国料理(夕食)は、独特のスパイスが利いていてとてもおいしかった。
② 余裕を持って成田空港に到着したのは正解。1時間後の電車ならば、あわて気味の行動を強いられたであろう。
③ 航空券は早ければ早いほど安く入手することができる。諸事情があり、入手時期が遅かった金井さん、町田さんよりかなり安く入手できたことが判明。 

7月21日(日)
 5時起床。7時バイキングの朝食、「おかゆ」がおいしかった。ホテルで両替(294元/5,000円)後、我々4人は9時頃から近くのスーパーを小1時間見物した。ものによるが、物価は日本の1/2か1/3位いか?(この間王さんは衣装合わせ等披露宴の準備)
 11時28分開始予定の披露宴(出席者170人)は、約40分遅れの12時8分頃プロの軽快な司会のもとスタート。(中国の結婚式は招待状通り始まらないのが一般的で、遅れることはお互い暗黙の了解済みのとのこと。)司会者は歌を歌い、サックスを演奏し、ダンスもこなす芸達者。さらに客席に福袋?(来場の子供たちが、ちょっとしたおもちゃを買える程度の小銭が入っている由)を投げ入れるなど大活躍。日本と同じように新郎新娘(新婦)双方の祝辞、金井さんの祝辞、新郎の謝辞などがあった。ただし、ケーキカット及び両親への花束贈呈はなし。
 テーブル上の飲物はやや少なく、酒好きの私には少し物足りなかったけれど、中国料理はことのほか美味しかった。(中国の結婚式では面子を重視し、テーブル上には普通の飲物をたくさん用意するのではなく、高級なタバコや高価で美味なビール、中国酒を各1種類準備するとのこと。ほかに缶入りの飴)
 夫君は細身で優しい男性とお見受けした。壇上での長い抱擁が印象的で、お互いの愛情が感じられた。
 ほとんどの出席者は普段着。男性は半ズボン、女性は素足という出立ちの人が少なくなかった。(これはまさにカルチャーショック!) 賑やかだった披露宴は14時に終了した。
 18時30分~21時夕食。私達4人は新郎新婦、双方のご両親、お義兄さんらと食卓を囲み、歓談した。(歓談したといっても通訳は王さん一人)場の雰囲気は柔らかく和やか。特に夫君、お義兄さんの友好的な接遇は好感が持てた。夫君の私達に対する挨拶もとてもよかった。彼等は新婚旅行先として訪日したい由、そのときは熱烈に歓迎したい。
 料理は銘々注文、私は洋食を注文した。披露宴のテーブルに鎮座していた垂涎のお酒「天の藍」を振舞われた。アルコール度数は40度とウィスキー並。上品な甘みを含んだまろやかな味、のど越しがまた格別。480mlで約6,000円(王さんの話)と高価なものを1本、高級茶とともにおみやげに頂戴してしまった。(謝謝! 義母及び義母に連なる親族10人が1月3日拙宅に集う恒例の新年会で、皆に賞味してもらう予定。)
    

 7月22日(月)
 4時頃目覚める。前日の行動をメモ。7時30分朝食。
 内装工事が9月までに完成する予定のマンション(躯体は完成済み)は、かなり広そうだが、工事半ばで「完成予想図」をイメージすることができなかった。この辺りは住宅地が多く開発され、また工業団地もここから幾分離れたところで開発される予定とか。
 マンション見物後、王さん夫妻の自宅に向かう途中の9時35分頃、王さん(運転席右)、町田さん(後部座席中央)、7歳の少年(王さんの甥)及び私(後部座席右)の4人が乗っている個人タクシー(後続の車を待つため、一時停車中。失礼ながらまだ廃車せず、走行しているのが不思議なくらいの、エアコンのないポンコツ車。これ以外、利用したタクシーは何ら問題なし、念のため。)に、近くに止まっていたトラックがいきなりバックで発進、車体左側の運転席に突進、衝突した。後部座席の左側に座っていた少年にショックを与えた。私は彼女に彼を病院に連れて行くよう何度も勧めたが様子を見ることに……。(そのうち彼は元気を取り戻した。)9時55分頃あっさり示談成立。一路、現在の住まいに向かう。
 夫君のご両親と4人で起居を共にする自宅(一戸建)を見せてもらった。2階建の家で、2階の王さん夫妻専用の居住スペースの廊下には、私がプレゼントした「明珍火箸」(明珍氏独自の鍛鉄技術により作られた4本の火箸が素晴らしい音色を奏でる風鈴。明珍家は平安時代から続く甲冑師の家系。12世紀半ば、近衛天皇に鎧、轡を献上。「音響朗々、光明白にして玉の如く、類稀なる珍器なり」と称賛され、「明珍」姓を授かった。シンセサイザーの第一人者、冨田 勲氏がその音色に魅せられた兵庫・姫路市の伝統工芸品)が飾られていて嬉しかった。(実は、この明珍火箸を買ったのは、あの「東日本大震災」が発生した日だった。15時頃JR姫路駅に到着した時何となくざわついていて、テレビは臨時ニュースでそのことをさかんに報じていた模様。)
 自宅で挙式前の4、5冊の「記念写真集」を見せてもらった。ご両人はタキシード、ウェディングドレス姿を含め、メークアップもバッチリ決めて、まるで映画スターのような美しさ。お金もかかったようだが、何10年後かに振り返って見れば良い思い出になることだろう。(こんなことわが国でも流行っているのかな?)
 昼食後、王さんのご両親は孫に子供服を買ってあげ、河南省・新郷に帰るため、丹陽駅から夜行寝台列車に12時間孫とともに身を委ねることになった。
 ご両親を見送った後、新幹線で上海に向かった。(各駅停車の「こだま」型の1等車、料金77.50元、常州、無錫、蘇州、蘇州園区及び昆山南の5駅に停車して、所要時間は1時間35分。指定席券を持っていない乗客が空席を見つけるとちゃっかり座り、本来の客が来て立ち退きを迫ると離席する光景を、何度か目にして唖然とした。)これは東海道新幹線の東京、浜松間の距離、所要時間(「ひかり」使用)とほぼ同じ。グリーン料金を含めたその料金は、約12,000円なので中国の新幹線料金は圧倒的に安い。安いといえば、タクシー料金がこれまた安い。中国ではタクシー料金はまちまちだが、丹陽では基本料金(3キロ以内)8元、それ以降1キロ毎3.06元だ。(王さんの話)
 上海駅から5つ星のホテル「オオクラガーデンホテル上海(上海花園飯店)」へはタクシーで移動、チェックインした。
 夕食は簡単にすまして、若い人を中心に大勢の人が繰り出している上海南京東路、外灘(バンド)、黄浦江の散策を楽しんだ。上海はとてもおしゃれな街だと思う。 

7月23日(火)
 6時過ぎ起床。朝食後、ホテルを出て6人(王さん夫妻と我々4人)で周辺散策。暑いので喫茶店で歓談。
 倉田さんと私は、11時50分チェックアウト。(ツイン、1泊朝食付きで810元。)(金井さんと町田さんはもう1泊)王さん夫妻は空港まで送ってくれた。私たちは彼らの心温まる接遇に対し謝意を表するため、ふたりが固辞を繰り返すなか説得を重ね、何とか「寸志」を受け取ってもらった。空港内のレストランで最後の饗応(昼食)を受けた。中華料理を青島ビールとともに満喫、美味しかった!愈々お別れの時、王さんの目に大粒の涙、涙、涙!本当にありがとうございました。
 空港内の免税店で、ブランデー(ヘネシーのVSOP)、紹興酒、茶菓子を購入。
 北京から来る中国東方航空機、大幅に遅延。上海を1時間30分遅れで離陸。(8月6日の「日経」の朝刊によれば、ワースト1位の北京首都国際空港は、出発便で定刻に飛んだのは18%で、42%は45分以上の遅れ。上海浦東国際空港も定刻出発は28%、34%は45分以上の遅れ。日本では「飛行機は定刻に出発する」との意識が強い。)土産物でさらに重くなった手荷物を手に提げて帰宅した時は、日付が変わっていた。ああ、疲れた!

*余談
① 王さん夫妻、ことに夫君・費さんの接遇、気配りに感服した。
② 中国の物価は少しずつ上がっているようだ。日本より高い商品も一部あるようだが、日常品は日本の1/2から1/4位のようだ。(王さんの話)
  私が初めて訪中した1995年3月にスーパーに立ち寄った時、物の値段が「中国人用」と「外国人用」の2本立てになっていたように記憶している。当時の商品はとても安かった。
③ 私は今から51年前の昭和37(1962)年8月から9月にかけての4週間アメリカに滞在したことがある。 神戸市の高校生代表(男女各3人)の1人として姉妹都市のシアトル市を訪れるためだ。友好親善を図るため、郊外のシーベックで多くの高校生と交流し、ホームステイも体験した。(ロサンゼルス、サンフランシスコ及びホノルルの各都市も訪問)当時は1ドル360円(固定相場)だったが、実際の購買力は1ドル100円くらいの感じだった。つまり、円は1/3以下の購買力しかなかった。ただ、コカコーラとコーヒーだけが比較的安かったことを妙に覚えている。日本はまだ貧しく、外貨の持出制限がある中で、ディズニーランド(ロサンゼルス)の前まで行ったが入場料が高く、門前で写真を撮るだけで見物をあきらめた。
 その代りホノルルでは大枚10ドル(当時)を奮発して、ワイキキの浜辺に聳える超一流ホテル「ロイヤルハワイアンホテル」のディナーショーに繰り出し、楽しんだ。
 当時のアメリカは18歳の高校生の目には別世界であった。ホノルルの「真珠湾」を見学したが、太平洋戦争でこんなに豊かな米国を相手によく戦いを挑んだものである。
 我が国は欧米に追い付け追い越せと頑張りここまで来た。中国も万博やオリンピックを開催、成功させ今も経済成長を続けている。素晴らしいことだ。
 日中両国は、双方がもはや切っても切れない関係であることを認め、お互い両国の友好、親善を図りともに発展していくことを考えるべきだろう。(了)

 
                 

   三沢充男(法・法)
  
      野火止用水を歩く

 首都圏で桜の花が満開となった時期、野火止用水を歩いてきた。
 野火止用水は、東京・小平市の多摩川上水から分岐して埼玉県志木市の新河岸川に至る全長約25kmの用水である。江戸時代、徳川幕府がようやく幕藩体制を固め終わった頃、江戸の水事情改善のため多摩川の水を羽村から武蔵野台地を貫いて江戸市内に引き入れる玉川上水が開削された。この上水道事業を取り仕切ったのは、当時川越藩主で幕府老中であった松平定信である。彼はこの功績により玉川上水の水を3割分水して領内の野火止(新座市周辺)へ引き入れることを許可された。家臣の安松金右衛門と小畑助左衛門(補佐)に命じて、乾燥していて農作物も育たない武蔵野台地を開削し、領民の飲料水や生活用水として利用し、さらに新田開発を行って耕作をも可能にしたのである。
 今回歩いたのは、新座市の平林寺から野火止用水を下流から上流に向かって小平の玉川上水分岐点までの約23kmである。JR武蔵野線の新座駅で電車を降り、平林寺まで徒歩15分。平林寺は川越藩松平氏の菩提寺で、松平定信ほか代々の藩主らの墓がある。またその傍らには野火止用水で功績のあった安松金右衛門と小畑助左衛門の墓もある。山内には桜の木も何本かあってそれなりに目を楽しませてくれたが、その他の木はまだ芽吹いてもおらず、生憎の曇り空の下で、全体としてはまだ春の息吹は余り感じられなかった。
 平林寺を出て外の道を寺の裏手の方へ回り込み、野火止用水の本流に出る。ここから用水に沿って1kmばかり進むと用水の分岐点に出る。野火止用水はここで二手に分かれ、一つはいま自分が辿ってきた本流で、もう一つは平林寺の山門の前に至る平林寺掘である。当時は領内でいくつもの流れに分岐していたようだが、今確認できるのはこの二本だけであった。
 ここまで来る間にも右手には大きな菜の花畑が広がっていたり、流の畔には鴨が遊んでいたりと、長閑な光景がそこここに見られた。
 この地点での川幅は全体では4~5メートルくらいで、流れそのものは1~1.5メートルくらいで水深は1メートルくらいと思われたが、上流へ遡って行くにしたがって川幅も水深も変化し、あるときは人が寄り付き難い深くて大きな谷のような流れであったり、あるときは身近な浅瀬をゆっくりと流れて行くせせらぎのようなところであったりした。また所々は暗渠になって道路の下に姿を隠しているところもあるなど、多様な顔を見せていた。鯉が泳いでいるところも多く、真鯉、緋鯉が川幅一杯に群れているところもあった。
 野火止用水は、志木市、新座市、西東京市、東村山市、小平市など、いくつもの市内を貫いて流れていて、途中には市が設置した野火止用水の説明の看板があちこちに建っているのだが、おかしなのはこの用水の開削工事の期間についての記述である。新座市の説明では40日で完成したとあり、小平市のそれには3年を要したとある。思うにこの地域はなだらかな起伏はあるものの、起点から終点まで25kmの高低差はたったの90mだったというからかなりの精密な測量技術、掘削技術を要し、また途中には水喰土といわれる水が地中に吸い込まれてしまうところもあったというから、40日はどう見ても無理で、やはり3年という方が当たっているのではないかと思われる。
 流れの傍らには広い道路が走っているところが多かったが、場所によっては公園のような静かな所を通ったり、水車が設けてある所もあったり、武蔵野らしい雑木林の中を流れたりしていた。流域には桜が咲いているところも多かったが、川の畔には紫色のきれいな花が多く咲いていた。家に帰って調べてみると、花大根というらしい。名前は余り可愛くはないが、すみれに似た花で、水の畔を彩る姿はなかなかのものだ。
 最後の(実際は「起点」であるが)玉川上水との分岐点は小平監視所といわれておりで、西武拝島線と多摩モノレールが交差する玉川上水駅の近くである。昔はどうだったか知らないが、今は巨大なコンクリートの施設で、上流から流れてきた玉川上水が、本流と野火止用水の二本の流れに分割され、そこからそれぞれの流れとなって行くのである。
 野火止用水を下流から遡って行くと、途中に西武鉄道の駅がいくつもある。西武池袋線の清瀬、西武新宿線の久米川、西武多摩湖線の八坂、西武拝島線の東大和と最後の玉川上水である。実は今回は初めから野火止用水を完走しようというまで心が決っていたわけではなく、自分の足の疲れ具合でどこでも電車に乗れるようにしようと考えていたのであるが、結局は最後の玉川上水分岐点まで辿り着いたのである。
 玉川上水の小平監視所の少し上流の橋の辺りは水流も多く川幅もかなり広かったが、岸辺から満開の桜の花が水面を覆いつくすように咲いていて、旅の疲れをいっぺんに癒してくれた。


 立岩正義(商会)
  
 「エルトウールル号」の遭難事件

 竹田恒泰氏が彼の著書「日本はなぜ世界でいちばん人気があるのか」(PHP研究所)のなかで、感動的な話を紹介しています。それはオスマントルコ軍艦「エルトウールル号」の遭難事件です。長い引用ですが、会員各位にご紹介したく投稿します。(私は5~6年前、新聞に投稿されていた日本とトルコ両国の友好関係に関するトルコ大使の談話を読んでこの話を知っていました。)

 日本の外交の歴史で、これほどの美談が他にあったろうか。明治23(1890)年に和歌山県串本町沖で沈没したオスマントルコ軍艦「エルトウールル号」の遭難事件は、日本ではあまり知られていない。だが、トルコでは社会科の教科書に必ず紹介されている有名な事件で、日本とトルコの友好の証として、120年の時代を経た今もトルコ国民に記憶されている。
 明治23年に特使のエミン・オスマン・パシャ提督率いる使節団が日本に派遣された。使節団は宮中で歓待を受け、明治天皇にオスマントルコ皇帝からの親書と勲章を献上した後、横浜港を出発し、本国を目指した。
 日本国政府は、老朽化した同号に不具合が生じていたことや,台風の時期にあたることから、帰国を延期するよう助言したが、一行は本国からの通達を理由に出発してしまう。これが運命の分かれ道となった。
 出航から2日たった9月16日の夜半、紀伊熊野灘に差しかかった同号は、北上中の台風の中心に入り込み、紀伊大島の樫野埼付近の岩場に座礁。そして、船底から浸水して機関が蒸気爆発を起こし、午後9時30分頃沈没した。この遭難事故で生還したのはわずか69名のみ。提督をはじめ約500名もの命が失われた。
 外国船の遭難を知った地元住民は、夜を徹して生存者の救助と手当てに尽力した。翌朝には地元の村長が関係官庁に連絡し、医師派遣を要請、さらには各戸1名の人手を出すように指示し、多くの村民たちが生存者を看病した。紀伊大島は貧しい島で、しかも、台風の影響で漁に出られず、島民は食べるものにも困る状況だったが、非常食として飼っていた鶏などの食料や、浴衣などの衣料を持ち寄り、遭難者に分け与えたと伝えられる。
 『明治天皇紀』によると、この報せをお聞きになった明治天皇はおおいに驚かれたという。天皇は即日、遭難者救助のために海軍の通報艦「八重山」を現場に派遣あそばされ、皇后は日本赤十字社を通じて医師と看護婦を随伴させられた。
 そして、八重山の乗組員と島民は、収容した遺体を埋葬し墓標を立てた。その後生存者たちの体力が回復すると、明治天皇は、軍艦「比叡」と「金剛」の2艦をオスマントルコに派遣し生存者たちを母国に送還することを命ぜられた。生存者69名を分乗させた2艦は、明治24(1891)年1月にイスタンブールに到着した。盛大な歓迎を受けたことはいうまでもない。しかも事件の翌々年には、民間で集められた義捐金が届けられた。
 しかし、日本とトルコとの友情の物語にはまだ続きがある。遭難事件から95年の月日が流れた昭和60(1985)年のことである。イラン・イラク戦争の最中、イラクのサダム・フセイン大統領は3月20日午後2時(日本時間)以降、イラン上空を飛ぶ航空機をすべて撃墜する旨の声明を発した。
 各国は軍用機や民間機のチャーター便を派遣して自国民の保護に努めたが、日本は自衛隊を海外派遣できないうえに、政府が日本航空に救援機の派遣を求めるも、同社の組合が安全性を理由に反対したことで、日本人の保護ができない事態に至った。(この時すでに日航はおかしかった!―投稿者の慨嘆)
 そこで、イランに駐在する野村豊大使が困り、在イラン・トルコ大使のイスメット・ビルセル氏に相談したところ、なんとトルコが救援機を派遣して日本人を救出することになったのである。このとき、トルコ大使は「トルコ人なら誰でもエルトウールル号遭難事件の際に受けた恩義を知っています。ご恩返しをさせていただきましょう」と語ったという。
 そして、ほんとうにトルコ航空の飛行機2機がテヘランに派遣され、215人の日本人は全員救出、トルコ経由で日本に帰国できた。日本人を乗せた救援機がイラン領空を抜け出したのは、期限の1時間15分前。少し遅れたら、撃墜される可能性もある危険な飛行だった。救援機の派遣を決めたトルコのトルグト・オザル首相(当時)は、他国民を助けるために、自国民を危険にさらす決断をしたのだ。


 倉田隆次(法・法)
  
  東日本大震災復興支援ボランティアに参加して

 年齢とともに、涙腺の締りが弱くなり大震災当初の被害報道を目にするたびに涙を禁じえませんでした。阪神大震災の際、大学生だった姪は、支援ボランティアに参加してくれました。神戸出身の小生にとり、とても嬉しいことでした。
 今回、日赤から復興支援ボランティア参加の呼びかけがありました。応じることにしたのです。平成7年に日赤千葉支部防災ボランティアに登録し、救急法その他、各種訓練・研修を重ねてきました。日赤との係わりは、年齢オーバーで献血が出来なくなるまで101回の献血を続けたことです。「金色特別社員章」を頂いています。
 6月23日、10:00に東京の日赤本社前を日赤のチャーターバスで出発しました。東京近県各地から集まったボランティア24名です。何故か明治学院大学の学生6名が参加していました。その中には、スイス人の男子留学生1名、フィリッピン人女子留学生1名も含まれていました。仙台市内の日赤宮城支部に到着したのは、17:00でした。同夜は、支部の会議室の床に持参の寝袋で就寝しました。
 参加条件は、自己完結型です。寝袋、4日分の携行食、防塵マスク、ゴーグル、ゴム手袋を各自持参です。ゴム長靴、ヘルメットは借用可でしたが、釘を踏み込むと破傷風の危険があるので、皮底のブーツを持参しました。6:00起床と同時にかなり離れた場所にあるコンビニで昼食のおにぎりを購入し、リュックに詰め込み、6:50日赤が手配のレンタカーで東松島市のボランティアセンターに向かいました。所要時間は、1時間半でした。センターには、全国各地からボランティアが集まっていました。センター開所は、9:00です。
 センターに寄せられた作業要求に従い、作業現場が配分されるのです。瓦礫処理もありましたが、一番多いのは、住宅地の側溝の泥上げでした。悪臭に耐え、防塵マスク、ゴーグルをつけての作業は、決して楽ではありませんが、住民の感謝と喜びの声は疲れを吹き飛ばして呉れました。今も、充実感、満足感の余韻に浸っています。全国各地から集まってきた若者の純粋な奉仕の精神に感動を覚えました。
 大震災から3ヶ月が過ぎた今も陸地に流された船が残されていました。さながらゴーストタウンのような壊れた住宅が並んでいました。テレビで見る映像と現実の乖離を感じました。


 宮本常子(文哲) 

    ペリー来航の地・浦賀を歩く

 6月12日、「柏市歩こう会」の催しで、横須賀市浦賀のペリー公園、燈明堂を巡る道程9キロを歩いた。
 柏から久里浜までは電車で約2時間かかる。余裕の時間も出来、歩く事の必要性を自覚した年配の人の参加が多いように思う。何回かのトイレ休憩を除いては、話しながらも皆一目散に歩いている。足並みが割りと早いのに杖をついて参加している人や伴歩者を伴った目の見えない人が2組位いて、歴史的、文学的説明の看板の前では説明を読んでもらっているのが聞こえる。
 今回は天気も良かったせいか、参加者が158名あった。参加者は柏を中心に松戸や船橋、東京からも来ている人もいるというから驚いた。
 柏駅では、役員に費用(保険代を含む¥300)を払い、行き先の経路(鉄道)や歩く場所の地図を説明したプリントをもらう。そこには、役員の携帯番号も書いてあるので安心である。ホリデーパス(往復¥2,300)を買い求める。飲み物と昼食は持参する。集まった人のみで行くので、前もって予約の必要もなく、費用も安く、気が楽である。毎回100名から200名参加するのもこの気安さも手伝っているように思う。
 久里浜駅下車、神明公園で歩き始め式(説明)があった。前回は谷中、根津、千駄木を歩いたが、参加者が264名だった事、前回に集めた震災の義捐金が皆さんのお陰で20万円集まったとの発表があった。今回は、先ず「くりはま花の国」へと向かった。
 約57haの広大な花咲く緑地である。坂を上っていく途中3両編成くらいの可愛いいフラワートレインに出会って皆盛んに手を振る。ポピーの花が一面に咲いていて、つばき園、ハーブ園、冒険ランドや展望台もある。
 我々はハーブ園へと向かった。数種類のハーブが植わっていて、温室もある。そこが昼食場所となったので、それぞれに食事場所を探して歩き、屋根のある場所に座った。4~5人の仲間で話しながらおやつの交換をしたり、気の置けない仲間との楽しいひと時である。
 次は、ペリー記念公園へと向かう。ペリー公園には、明治34年に建立した「ペリー上陸記念碑」や横須賀が市制80周年を記念して建設した「ペリー記念館」がある。ペリー記念館には浦賀に来航した4艘の黒船やペリー提督の銅像など貴重な資料が展示されている。
 日本の鎖国が遠い昔(1853年7月)に破られた記念館だと思うと、(前に一度来てはいましたが)何回見ても興味深く感じました。
 ペリー公園を出て、ペリーに思いをはせながら久里浜の海を眺め、一直線に歩き、途中で住吉神社へお参り。神社の階段を下りようとした時、「あなた、どこかで見かけたわね。貴女も私の顔に見覚えあるでしょう!」と話しかけられた。その女性の顔をマジマジと見る。確かにどこかで会った顔だ。25年程前に3年間、青少年相談員(ボランティア)で一緒だった人だと思い出した。懐かしかった。その内、彼女が私の名前を思い出してくれた。
 その神社からまたしばらく歩き続け、右折して高台へと登っていく。高台に着くと、その高台からは海が一望出来、ゆったりとした気分になれる。そこには、1648年から1878年(明治5年)まで浦賀港の入り口にあって浦賀水道を照らし続けたという燈明堂跡の説明看板があった。風光明媚な高台に燈明堂が復元されている。
 しばし休んで穏やかな海を眺める。登ってくる時に出会った猟犬を連れた人も犬と一緒に休んで海を眺めている。海辺にいたスイミングスーツを着た人は気がつくとはるかかなたでもぐっていた。
 そこから、また久里浜駅に引き返し帰りの家路に着いた。 (写真上:ペリー公園、下:燈明堂)


 倉田隆次(法・法)
  
  「小型船舶操縦免許証」の更新について

 前回は、「後期高齢者」の「自動車運転免許証」について拙稿を寄せた所、会員から反響を頂きました。今回は、これと対照的にのどかな表記免許証の失効、再交付についてご紹介しましょう。

 私は、昭和61年7月に運輸大臣発行の「海技免状」4級小型船舶操縦士(現在、2級と変更)の資格を取得しました。趣味のアマチュア無線傍受中に機関故障で漂流しているプレジャーボートのSOSをキャッチしたことがこの免許に関心を持ったきっかけでした。
 よくは覚えていませんが、数日間の講座を受講、5人乗りボートの操縦訓練を受け、実技テストがありました。費用は、当時で5万円前後だったのではと思います。
   

 何回か免許の更新をしましたが、平成19年7月の更新は、忘れてしまったのです。そんな時、別添の様な千葉市からの広報紙で失効による再交付が可能なことを知りました。
 自動車の様な「認知症テスト」も「実技テスト」もありませんでした。視力検査、簡単な身体検査、3時間の講習受講だけでした。手数料、印紙代等、計16,000円の納付で「国土交通大臣」発行の免許が、再交付されました
 この免許で水上バイクと20トン未満、長さが23メートル未満の船を沿岸から5マイル(9キロ)内での操縦が可能です。でも、その可能性はなさそうです。
 


 立岩正義(商会)
  
    東日本大震災 

 先程、NHKテレビ1の番組「震災1ヶ月.被災地は今」(平成23年4月11日午後2時5分~3時)を見ました。そして2時46分、北に向かって黙祷しました。
 東日本大震災が起きてから1ヶ月になります。突然の巨大地震や大津波は、27,000人(死者及び行方不明者、10日現在警察庁まとめ。4月11日朝日朝刊)以上の尊い命、それに多くの人々の家屋・家財そして働く場所を奪いました。電気、ガス、水道の出ない不便で劣悪な避難所生活を強いられ、先行きの見通せない、言いようのない不安に苛まれている人々も少なくありま せん。心からお悔みとお見舞いを申しあげます。
 政府がやらなければならない仕事は、原発事故の対応など山ほどあるでしょうが、先ずもって、国内はもとより海外からも1日も早く1棟でも多くの仮設住宅を調達し、不自由な避難所生活を余儀なくされている被災者にそれを提供する事だと思います。
 幸い被災を免れた私達は義援金(未だ義援金が被災者に配分されていないというのは、どうした事だ!)を送りましょう。「増税」を受け入れたり、「こども手当、高速道路の無料化、農家への所得補償」などを見直して復旧・復興財源にするよう各新聞社の投書欄などに訴えるのも一つの方法かと思います。
 正に、明治維新、敗戦に続く第3の国難に遭遇している今日、「国を、組織を、人々をよりよい方向に牽引し、安定させられるリーダー」(4月6日、日経夕刊「明日への話題」、内館牧子氏)がいないのは誠に残念であり、不幸な事です。もしも今日の首相がかって長期政権を維持したような強力なリーダーであったなら、どのような組織を立ち上げ、官僚をはじ全国民の英知を結集し、指導力を発揮されているだろうかと思うのは、小生だけであろうか。彼等のような強力な指導者が今日の首相であって欲しかった。
 最後に、4月10日の「朝日歌壇」(朝日新聞、朝刊)に掲載された歌3首をご紹介します。 

  ・ 避難所の人みな人を気遣いぬ人とはかくも美しきかな (小松市)沢野 唯志氏
  ・ 薄氷を踏みいる如き幸せと思い知らさる原発の事故 (佐野市)広瀬 恭子氏
  ・ 姿見ぬ人に二種あり原発の内部作業者、最高責任者 (高槻市)奥本 賢一氏

 余談ですが、私は3月10日から13日にかけて愛知(一宮)、兵庫(神戸・明石・加古川)を小旅行中で大地震を経験しておりません。予定通り無事に我が家に帰宅しました。
 


  三沢充男(法・法)
  
      法典論

 平成22年の白門43会総会で、母校中央大学の総長・学長であり、白門43会員でもある永井和之先生が講演され、その中で中大の前身である英吉利法律学校の創設者の一人である穂積陳重博士のお話をされました。穂積博士は明治維新後の第1期海外留学生としてイギリスに渡航され、1年間の留学生活でミドルテンプルのバリスター(法廷弁護士)という難関の資格を得られ、その後さらにドイツに留学され我が国の民法の基礎を作られたとのことでした。
 私は長い役人生活の中でかなりの部分、法律や政省令の立法作業に関わってきました。そのとき座右にあったのが穂積先生の「法典論」でした。永井先生をはじめ、裁判官や検事経験者、弁護士など法曹界のお歴々が多数おられる白門43会でこういうものをご紹介するのは誠に僭越極まりないのですが、ユーモアに溢れた例えも面白いので敢えてここにご紹介させていただきます。今の時代から見ると些か適正を欠くような表現も見受けられますが、先人の原文をそのまま(ふりがなは筆者)掲載させていただきます。

   法律に實質及び形躰の二元素あり、一國の法律は、果して國利を興し、民福を進むべき條規を具ふるや否やの問題は、是れ法律の實質問題なり、一國の法令は、果して簡明正確なる法文を成し、人民をして容易(たやす)く權利義務の在る所を知らしむるに足るや否やの問題は、是れ法律の形躰問題なり。
 法律の實質は善良なるも、若し其形躰にして完美ならざれば、疑議百出、爭訟熄(や)まず、酷吏は常に法を曲げ、奸民屡々(しばしば)法網を免るるの弊を生ぜん、法律の形躰完備せるも、若し其實質にして善良ならざれば、峻法酷律をして倍々(ますます)其蠧毒(とどく)を逞(たくまし)ふせしむるの害あらん。
 或る人、實質美にして形躰具はらざる法律を喩(たと)えて、多病の才子となし、形躰完備して実質善良ならざる法律を喩えて、妖婆の毒婦となし、實質形躰兩つ乍ら備らざる法律を、不具の痴漢に比したり。
 蓋(けだ)し、實質は法律の精神なり、形躰は法律の体躯なり、故に一國の法律をして金科玉條たらしめんとせば、實質形躰倶に備らん事を立法者に求めざる可らざるなり。
                                (穂積陳重「法典論」より抜粋)

 穂積先生は東京帝国大学の法科大学長、帝国学士院院長、貴族院議員を歴任され、晩年には枢密院議長を務められました。


 倉田隆次(法・法)
  
   運転免許更新の高齢者講習

運転免許証を更新する場合、70歳を過ぎると事前に公安委員会指定の自動車教習所で『高齢者講習』を受けなければなりません。更新日付けの約6ヶ月前に公安委員会から講習案内が届きます。受講料は、6,000円です。
 この件について、皆さんに忠告したいのです。案内が届いたら、できるだけ早く講習の予約をして下さい。更新の6ヶ月前から受講できるのです。小生は、誕生日直前に講習を申し込んだところ、千葉市内の教習所は全部満員でした。運転免許センターに問い合わせた結果、船橋市内の教習所を紹介してくれました。講習を受けに行って、満員の理由が分かりました。 講習は、6名で1グループ、1日2グループで毎日は行われていません。
 受講の所用時間は、12:30~15:50の3時間20分(ブリーフィング、休憩時間を含む)でした。以下は、講習内容です。

①予備検査(認知機能検査)~約30分
 解答用紙が配られ、本日の年月日、現在時刻を記入します。次は、4ッの絵を描いた4枚のパネル(計16個)の絵を順番に見せ、今見た絵を解答用紙に記入せよ。その次は、白紙に時計の文字盤を描き、指示された時間に短針と長針を描きます。
②運転適正検査~約30分
 シュミレーターによる運転操作、画面に表示される信号に従いアクセルとブレーキ操作。
③実車の運転~約60分
 車は、総てオートマチック車でした。1両に受講者3人が乗車します。助手席の教官の指示でコースを走行します。S字カーブ、車庫入れ、段差路走行等です。
④視力、視野検査~30分
 静止、動体視力、夜間視力、片目、両眼の視野検査

 以上の検査を終了すると『高齢者講習終了証明書』が発行されます。これが無いと免許証の更新が出来ないのです。

* 小生は、高卒後10年を過ぎてから夜間部の門を叩きました。大部分の43会の皆さんよりもほぼ10歳、馬齢を重ねています。43会の仲間にも、そろそろ70歳以上の高齢者の方が散見されますので、参考までに拙文を寄せました。=受講申し込みは、お早めに!!


  倉田隆次(法・法)
  
   痔の手術で感じたこと

 快眠、快食、快便は、健康の3要素だそうです。尾篭な話ですが、長い間、排便に苦しんできました。そう「地主」ならぬ「痔主」だったのです。43会の仲間にも「痔」の手術をした人を何人か知っています。同病相哀れむ仲なのです。
 この辛さは、「痔主」でなければ分からぬ辛さなのです。酒、コーヒー、カレー等刺激の強い食品は、良くない様です。不幸にして、これらの食品は、総て大好きなのです。
 若い頃、勤めていた印刷会社の社長と今もお付き合いをしています。その社長が、直腸ガンを手術し、人工肛門を付ける身になりました。その社長から忠告されたのです。「痔主」なら先ず、専門医の診察を受けなさい。ついでに大腸の内視鏡検査を受けることと脅され(?)、専門医の門を叩きました。受診に行き驚いたのは、待合室は、患者で溢れていました。流石は、名医で有名な医院だと感心しました。 
 大腸の内視鏡検査は、異常無しでしたが、「痔」は、3個の「内痔核」があるので要手術と診断されました。結局、昨年4月に10日間、入院し手術を受けました。
 たかが「痔」の手術と思われるでしょうが、当事者にとっては、大変な手術でした。これもやった人のみぞ知るです。入院中は、43会の佐藤 勝氏、芝木雅基氏のお見舞いを受けました。参ったのは、看護婦の一人が、両氏と踊りの趣味仲間だったことです。
 肛門科の受診は、場所が場所だけに敷居が高いようです。でも、43会の隠れ「痔主」さん!是非、早期受診をお勧めします。入院患者は、男性よりも女性が多い様でした。
 病室は、約10人が入れ替わり入退院をするのですが、男性の病室は、ほとんど会話が無く静かでした。女性部屋は、初対面同士のはずですが、賑やかに会話が続いていました。やっぱり、男性よりも女性は、社交性、環境適応能力が高いのを感じました。笑いを誘ったのは、入院患者のロビーに「お尻会い帳」と書かれた患者の感想文書き込み帳が置いてありました。
 1年半経ったいま、昔のことが、噓の様な「快便」生活を満喫しています。受診を忠告してくれた社長と医師に心から感謝しています。


 立岩正義(商会)
  
    愛犬シェリーの死

 愛犬「シェリー」(雌14歳、シェルティー)は、平成8年4月24日岡山市でこの世に生を受けました。そして、同年6月17日我家の家族(娘or孫として)となりました。その最愛の家族が、平成22年6月17日11時50分、千葉市内の動物病院で永遠の眠りにつきました。(嗚呼!)彼女はこの14年間、私たちにかけがえのない至福をもたらしてくれました。「シェリーちゃん、ありがとう!」この一言に尽きます。
 我が家での生活に馴染んできた頃、平成9年1月14日早くも不妊手術を強いることとなり、かわいそうなことをしました。(ごめんね。)
 また平成10年の春先のある日、妻と一緒に近くの県立「青葉の森公園」でフリスビーを遠くへ投げて遊ばせているとき、左足を骨折させてしまいました。(不注意だったよね、ごめんなさい。)
 3歳になって間もない平成11年の夏場、私が同公園でいつものように散歩させているとき、突然立ち止まり散歩を拒否したのです。無理やり散歩を続けようとしても踏ん張って動こうとしません。何度もこんなことが続き、これはおかしいと思い上記の動物病院で受診したところ、先天的に心臓に疾患があると告げられ、とてもショックを受けました。ついこの前のことのように鮮明によみがえります。
 ヘルニア等の手術のため、平成20年12月1日~5日の5日間、平成21年6月9日~12日まで4日間入院しました。(痛みに耐え、よく頑張ったよね。)
 そして、15日午後「胸部腫瘍切除」のため、高齢を押して手術するかどうかの難しい判断を迫られ、家族で相談した結果、手術を受けることに決めました。動物病院側は、最強のスタッフで手術を行い、術後も万全のバックアップ体制で対応してくださいましたが、薬石効無くこの日を迎えました。
 シェリーは寂しがり屋で独占欲の強い子で、誰かが出かけるときは、玄関先で激しく吠え、「行かないで!」と訴え続けました。また、彼女は私達の帰宅時間を心得ており、誰かが帰って来ると優しく吠え、尻尾を振り、身体を摺り寄せ、顔を舐めようと精一杯の好意、愛嬌をふりまいて、歓迎してくれました。
 私は定年後毎日彼女と「青葉の森公園」を散歩し、妻子は毎日ブラッシングするなど愛情を注ぎました。シェリーは私達の愛情を一身に受け、幸せな日々を送っていたものと確信しています。毎月1回のシャンプーも楽しみにしていました。
 お通夜は17日でした。シェリーは買ってあげたばかりのピンクの素適な洋服を身に纏って安らかに眠っていました。また彼女の枕もとには遺影、二つの生花、大好きなメロン、シャンプー後そのお店のお姉さんにつけてもらった数々のリボン、おもちゃなどを供えていました。シェリーに頬ずりすると、顔、胸、腹、背中、四 肢は未だ硬直もなく柔らかくて、甘やかな香りが残っていました。
 18日の午後、荼毘に付しました。そのとき、動物霊園関係者に遺体の美しさ、柔らかさを絶賛され、報われた気分に浸りました。名残は尽きませんが「シェリーちゃん、さようなら!」 ご冥福を祈ります。
 急遽、リビングの出窓を祭壇として「お骨」と「遺影」を安置し、水や好物を供え、頂いた生花を飾っています。(合掌)

 <余談> 娘の洋子は、19日「ペットロス症候群」を発症し2泊3日の入院を強いられるほどのショックを受けました。(21日退院)  (了) 


 立岩正義(商会)
  
     強風一過 

 3月21日(日曜、春分の日)の明け方、千葉市では最大瞬間風速38mという強風が吹き荒れました。
 この強風のため我が家のテレビアンテナは横倒しとなり、今にも屋根からずり落ちそうな危険な状態に陥りました。このアンテナは27年前に設置したもので古いことは古いのですが、周りを見回したところ倒れているのはこの代物だけで違った意味でショックでした。悪いことは重なるもので、使い方が拙かったのかまだ3年 しか使用していない電子レンジが、ショートし使用不能となってしまいました。
 視聴できるのはNHK・BS放送の2チャンネルだけとなり、とても不便です。その日のうちに家電量販店に赴き、デジタル放送受信用テレビ、アンテナ及び電子レンジを購入する羽目となりました。壊れたアンテナを撤去し、新アンテナを取り付けられるのは、業者の都合で早くても24日の水曜日、雨天の場合その日以降とのつれ ない返事。
 ところで、我が家の敷地の隣りは賃貸アパートの駐車場があり、そこにはトヨタのクラウン、ホンダのハイブリッド車・インサイト及びマツダのベリーサが整列駐車しています。強風の余波がまだあるなか、屋根に横倒しとなっているアンテナが転落していつ駐車中の車を直撃するか分かりません。クラウンの所有者とは連絡 が取れず、車の移動が叶いません。一時、外へ出てアンテナが転落してきたら振り払おうと、バットを持って待ち構えていましたが、無駄な抵抗と思いしりやめました。居ても立っても居られない気持ちを鎮めるのは容易ではありませんでした。(今の私には賠償責任能力ゼロ)
 22日(月)の朝、妻が「室内照明灯や換気扇の交換を依頼した『町の電気屋さん』に頼みましょう」と良いアイデアを出してくれました。事情を説明したところ、電気屋さんはすぐ対応してくださいました。ありがたかったですね、正に安堵の胸をなでおろしました。
 急病のときもそうですが、緊急の時にすぐ対応してもらえるというのは本当にありがたいことです。つくづく痛感しました。


 峯岸修三(理化)
  
    ボランティア活動

 昨年の11月に四街道のウクレレサークルの一員として近所の老人ホームのホーム祭に参加しました。今回は、ホームに勤めている方がフラダンスのグループに入っているとことから、フラのバック演奏を付けてほしいとの要請を受けました。
 フラの時間とウクレレ演奏の時間をとりまして、約1時間半で明るい祭りの一部を構成することができ、ホームの方々はもちろん、参加者全員が楽しい時間を持てました。
 ウクレレサークルメンバーの年齢は65歳を優に超え、ホームにお世話になる?の方が近いのではとの冗談を言いながら、自分たちの娘のような若いフラのメンバーの明るい笑顔に後押しされて、張り切って演奏を披露してきました。
 われわれの出番は午後一番のため、演奏前にホームで用意してくれた、おにぎり、サンドイッチ、ケーキなどで腹拵えを十分にして、万全の体制で臨みました。こういう演奏会ならたびたび伺いたい。
 ウクレレプレイヤーは余裕があれば、笑顔で唄も演奏も出来ます。特に、フラのメンバーが笑顔で踊る姿は、気持ちを明るくする妙薬と思いました。認知症の方もおられたが、懐かしい昔の曲にはリズムを取っていたのが分かりました。
 健康で演奏活動が出来ることに感謝をして、次の機会も参加をすることとしました。


 原 健作(商経)
  
      湯島天神

 我が家の庭の梅の花を見て、ふと湯島天神に行ってみようと思い立ちました。
 JR西日暮里駅で地下鉄千代田線に乗り換え 湯島で降りて3~4分。やや緩やかな女坂の階段を上り境内に着くと、さまざまな梅が競い合って春を歌っておりました。
 白い梅が主流ですが赤い花やピンクの花。一重の花も有れば八重も有り、また形が小振りの花も有りました。中には既に花びらが散ってしまった木や、まだ蕾で「これからだよ~」なんてゆっくりと周りの様子を見ている木もありました。事務所でお守りやお札などを売っている巫女さんに聞いてみると、木の種類はなんと13種類ほど有るとの事。「そんなに有るのかっ!」と、びっくり。
 紙コップの甘酒を一杯買い、「さてベンチにでも座ってゆっくり眺めるか!」と思ったところ、ベンチは既に先客でいっぱい。なんと一人で来ているのは 私とカメラを持ったご老人だけ。恋人達や、老人仲間、そして学生さん達が受験合格のお礼に大勢来ておりました。
 甘酒を立ち飲みし、早々に退散しようと 薄暗くなって来た境内を 今度は急な男坂の階段に向かいました。口の中にはまだ甘酒の味が残っており、家の近くで一杯やるか、ここらあたりでやることにするか、階段を降りながら思案。
「よし、境内から出て最初の店に入ろう」と心に決めました。
 ところが、最初の店の看板に急ぐと なんと!《甘いもの屋》さん。これにはガックリ!
 その先を見ると 《酒席・太郎》なる大きな看板が見えました。開店には少し早い時間でしたが、ドアを開けて「いいですか~?」っと聞くと、若い青年が「ん・・・どうぞ!」
 女将さんがもうすぐ帰って来るとの事でしたが、その女将さんの話が又びっくりなのです。話が長くなりますので結論を云いますと・・・。
 人間国宝で旭日小授章受賞者・講談の一龍斎貞水さんが、この女将さんのご主人だったのです。一龍斎貞水と云えば、顔の下からライトを当てて『うらめしや~』とやる、あの立体怪談の貞水、いがぐり頭の貞水さんです。
 と云う訳で この日は、梅の香りと姿を満喫し、階段を降りて 又、怪談話。結構な一日になりました。


 立岩正義(商会)
  
 拾ったり拾われたり―拾得届と紛失届

 12月5日(土)、愛犬「シェリー」(雌、13歳)を自転車籠に乗せて、いつもの散歩コース、「県立青葉の森公園」を目指しました。
 犬の散歩を終えて、ポケットの中をいくら探してもその鍵が見つかりません。あわてました。老犬と散歩した道をもう一度歩いて探しましたが見つかりません。間が悪く、犬の大便を処理するポリ袋と鍵を同じポケットに入れていたため、袋を取り出した時こぼれ落ちたようです。やむなく管理事務所に立ち寄り、紛失届を提出しました。歩いて家に帰るのに20分かかり、愛犬に負担をかけてしまいました。
 翌日、管理事務所からの電話で、子供さんが鍵を拾い、庭園管理をしている人を通じて届けてくれた事がわかりました。ありがたかった!しかし、彼の連絡先が分からず、お礼を言えませんでした。
 12月12日(土)、宍倉邦茂氏の告別式に参列するため、川口に行きました。式場の案内図はパソコンから出力していました。JR川口駅から徒歩12分という案内を見てバスに乗る事にしました。せいぜい5分も乗ればバス停「栄町1丁目」に着くだろう踏んでいたのになかなかコールされません。バスはへんぴなところを走って います。行先を確認してバスに乗りました。たまらず運転手に聞くと、そのバス停は反対路線の川口駅に向かう路線しかないとのこと(一方通行)。そのため告別式に遅参、愕然とするやら腹が立つやら。
 告別式終了後、そのことを若い担当者に怒気を含んで話すも、真っ当な詫びが返ってこず余計腹が立ちました。家に帰って件の案内図をパソコンから出力するとしっかり訂正されてはいましたが。(せめてもの救い)
 告別式の帰り、駅前近くでブランド品ぽいポーチを拾得し、「川口駅前交番』に届出ました。まだ名乗り出た人はいません。その足で上野で下車して「東京都美術館」で開催されている「清興展」に立ち寄り、鹽野さんの作品を見ました。(白門43会HP「会員の動向」上の三沢氏投稿文参照)
 12月17日(木)11時50分頃、散歩の途中財布を拾得しました。中には現金1,000円のほかに運転免許証、銀行のキャッシュカード3枚等が入っていました。最寄りの交番に届けました。12時30分頃交番に行くとまもなく紛失者が来ました。丁重に礼を言われ、ちょっぴりいい気分を味わいました。(川口とは大違い)


 倉田隆次(法・法)
  
  「投票立会人」2回目の体験

 8月30日の総選挙が終わってから2ヶ月半になりました。選挙結果の政権交代で、新政府の動向が、連日かまびすしく報じられています。
 私は、この選挙で、千葉市花見川区の選挙管理委員会から「投票立会人」に選任されました。前回選挙に続きこれで2回目です。「投票立会人」は、町内会や自治会の推薦によるようです。選管から投票日の10日前に別紙(部分)の様な選任状が届きました。
 仕事の内容は、定められた時間内を投票箱の前に座り、投票に立ち会うわけです。今回は、最高裁判事の国民審査もありましたので小選挙区と比例代表の計3個の投票箱がありました。投票箱を間違える人もいるため注意喚起をしてあげねばなりません。
 私の選挙区は、投票率の悪いことで定評があります。所が、今回は、少し様子が違いました。子供ずれの女性が、次々と投票所へ足を運んだのです。
 午後8時の投票締め切り時間になると、選管の手配したタクシーが投票所玄関に到着し、投票箱の積み込みを待っていました。私の勤務時間は、午後8時までとなっていました。
 責任者から、開票所へ投票箱を運ぶのにも立ち会ってほしいと要求されました。責任者と投票箱をタクシーに積み込み開票所へ向かいました。タクシーのラジオは、○○党××当選確実と放送しているでは、ありませんか!投票が終わってまだ1時間も経っていないのです。しかも投票箱は、まだここにあるのです。出口調査の結果なのでしょう。何か釈然としない思いでした。この投票箱を運んだ後、そのタクシーで自宅まで送られました。
 報酬5,350円、夕食代840円 計6,190円がこの日の手当てでした。


 立岩正義(商会)
    

  千葉・佐倉をめぐる日帰り旅

 平成21年10月10日(土)、倉田隆次、佐藤勝、芝木雅基の各氏及び私は、昨年「留学生との集い」で知り合い、今年もご一緒した中国人留学生、王萍(おうへい)さん(写真右から二人目)と彼女の友だちを交えて「千葉・佐倉をめぐる日帰り旅」を楽しみました。
 王さんは来日前、中国・大連で2年間日本語を勉強し「日本語能力試験」の1級に合格しました。2004年武蔵野学院大学に入学、さらに2008年中央大学の大学院に入学し、目下「博士課程」をめざして奮闘中の才媛です。彼女を励ますため企画したのが今回の旅です。
 さて、当日は午前中一時小雨がぱらつく中、先行きを心配しましたが天候に恵まれ、先ず「国立歴史民族博物館」を案内しました。ここは丸一日かけても飽きないほど展示物が多いのですが、駆け足で見学を済ませました。
 幸運にもこの日は「さくらまつり」が催されていました。神輿が繰り出し、コンチキチンの鐘の音や太鼓の音を耳にしつつ、焼きそばやたこ焼きなどの匂いが充満する目抜き通り(?)を談笑しながら散策しました。
 次に、昔のまま保存されている「武家屋敷」に赴き、格式の違う三つの屋敷を見学しました。ガイドさんの説明がこなれていてその違いが良く分かりました。
 最後は、佐倉駅前の居酒屋で歓談し、王さんの受験合格を祈念して乾杯し、あわせて合格祝いのための再会を約してお別れしました。
 翌日、王さんから感謝のメールが寄せられ、嬉しかったことを付言します。

 峯岸修三(理化)
 
  楽器とは楽しい器

 ウクレレ演奏から手作りウクレレへと興味は広がっています。
 2年前に孫娘用にベビーウクレレを製作しました。最近塗装替えと孫の好きなシールを貼らせました。写真が完成品です。専用ケースもお付けしています。孫が5歳になりますので、意識的に弾かせようと目論んでいます。
 部屋には、音が出るものがいろいろあります。スチールギター(兄より借り物)、フォークギターからウクレレまで。 
 ウクレレには、バリトン、テナー、コンサート、ソプラノ、ベビーと大きさによって名前が付いています。当然音色が変わります。(我が家にはテナーはありません。Jake Shimabukuroが演奏しているのがテナータイプでちょっと大きめです)
 孫のウクレレの隣のものは、kamaka ukuleleのビンテージ品です。但し、噂ではある期間だけ日本のメーカーがOEMでkamakaへ供給していたらしい……。そのときの製品かも? 実態は未確認です。
 自作品は何本製作しても気に入った音色まで到達しません。ただ、マイウクレレでも演奏が出来ることには満足しています。
 今年こそスチールギターをマスターしようと意気込んでいますが、なかなか時間が取れません。地域のウクレレ仲間との演奏会があります。敬老の日のイベントや仲間とのホームコンサートなど企画がありますので、練習にも気が抜けません。
 ウクレレに触れている時が癒しの時間です。

 
 横山貴講(法法)
  
    孫と暮らした4ヶ月

 我が家に8月下旬から娘が、2人目の子供出産のため2歳半の長女を連れ里帰りしている。今まで我が家は三人家族、私と、女房とかわいいミニチアダックスフントで暮らしていたところに天真爛漫の孫が加わり家の中が大変にぎやかになった。平成19年年暮れから医療保健センターからメタボになりかかっているから講習を受けないかと声が掛かり参加していた。孫が来てからは、朝起きてから夜寝るまで家にいるときはのんびりする時間を与えてくれないので講習に参加している以上に運動をさせられている。おかげでBMIの数値は今、標準になり体は軽くなり快適になっている。
 子どもは風の子といわれているが外で遊ぶのが大好きだ。犬の散歩のときもリードを持つといって私には持たせない。いつ転ぶかと気をもみながらあとからついていく。足もおぼつか無いながら転ばず800メートルのコースをまわり家に帰って来る。そのあと、庭で砂遊び、ボール遊び、かけっこ等こちらが疲れても遊びを要求してくる。家に上げるのに一苦労する。家に上がっても歌を歌ったり、絵本を読まされたりゆっくりする時間が取れない。孫が風呂に入り就寝したあとようやくほっとできる。妻も毎日食事の準備と孫の世話で、くたくたになっていてストレスが大分たまっている。
 平日はこのような毎日だが、週末孫の父親が来ると孫は父親一辺倒になりこちらは開放される。久しぶりの父親と会えるのはうれしいようだ。今、9月17日に次女が生まれ孫は赤ちゃん帰りになっており少し手がかかるようになっている。三人目の家族ダックスフントは孫が来てからは私たちの視線が孫に移ってしまったため焼きもちを焼くようになった。孫を抱っこすると孫を食いつこうとする。犬も人間と同じ感情を持っているようだ。
 娘たちは12月下旬帰った。妻も同行した。犬と2人きりになった。孫がたんすの引き出し、物置の中のものを引っ張り出して、ぐちゃぐちゃにしていたのを整理し、ぼろぼろにされた障子も張替えた。急に、家の中が静かになり、いつも家の中で追いかけられていた犬も何か寂しそうだ。今この文章を書いている足元で昼寝をしている。私にとってこの4ヶ月間はとても充実した時間だった。孫からいっぱい元気をもらった。これから先2人の孫たちが遊びに来たときは、家の中はどうなるのかちょっと心配だ。でも楽しみにしている。


 歌代雄七(商商)
   
    あれから2年

大学院に入学して2年が経過し、この3月卒業となった。
 同級生は24歳から33歳、25人。卒業は22人と多少の目減りはあったが、残りの3名も9月の卒業見込みだ。何もかも新鮮だった。
 勤務していた折りには、当該の年齢層の人達とはなかなか話す機会もなかった。然し、入学してからは彼らに素直にとけ込み、話は弾む。但しコンパの後のカラオケだけは常に頭を抱えていた。彼らの歌は分からず、こちらの歌の時はしらけている、とうとう2年間かみ合わないままだった。
 一方、同級生の半分は留学生。中国、韓国、タイ、スリランカ等々。彼らから聴く、当該国の生の情報は新聞・TVでは決して得られるものではない。在学中、中国・大連での留学生同士の結婚式に招待をされたり、タイからご両親が来日した留学生のお世話をしたり、はたまたスリランカの留学生達が設立した企業のお世話をしたり、通常であれば経験出来ぬ事項に「遭遇」した。有難いことと思っている。
 本来の目的である「MBA」取得のための授業は、理論は新鮮であったが実学的面での授業は、当方の経験歴がましているため教授が遠慮するところがあり、同級生に申し訳ない状況が続いた。その最たるものは、テーマに依っては教授に代わり愚生の講義を聴く同級生はたまったものではなかったろう。
 在学中、上海の交通大學大学院へプチ留学し、中国生活も短い期間だが味わった。当該大學の学生の真面目さは、日本では見られない状況だった。それは、日本の将来を不安に陥れるものでもあった。
 2月末の同級生10名強との卒業旅行は、更に絆を強めたものと思う。その時の写真を貼付する。
 一方、修士論文のサマリーは下記の通りである。本文は、12ポイントでA4、100ページ強。我が人生、こんなハードで真面目に机に向かったのは、後にも先にも今回限り。
 尚、この4月からは、同級生の皆が就職したので、見習って、週4日勤務のサラリーマンとなる。老骨に鞭を打ち!!!
 背広を着て、満員電車に揺られ野を越え、川・越え……新鮮な気持ちで表参道へ……。
 このパターン……そう40年前経験したことだ……。だけど!!よく考えたら2年前まで同一行動だったのに……。すっかり学生々活が染みついたのか……。

<修士論文のサマリー>
                 医療施設の「経営環境」と診療所の抜本的「経営改善策」
                   ―新しい「ビジネスモデル」創造の中での提言―
                                                   歌代 雄七
[研究目的、内容] 
 33兆円/年産業と言われている医療業界は、農業、教育と並んで産業的経営面では、たち後れた業種の代表格である。
 要因は、何れの業種にも共通する国家の保護、統制下にあったことである。
 昨今は各々の当該産業分野で、外部の活力を導入しての経営改善模索は始またが、他産業に比しその遅延性はまだまだ目を覆うものがある。
 その医療業界にあっての事業形態は、大きくは病院と診療所(クリニック)に分類され、経営的視点からの診療所は極めて悲しい現実/実態がある。
 それら診療所が、直面する経営技術面での危機克服の一つとして、企業が中心となり創造的事業システムの構築を為し、診療所はその事業形態の傘下へ加盟することにより、諸事に抜本的な改革が可能となるものである。
 小論は、世界的にも亀鑑できないこれら事業遂行システム・スケルトンを記、現下の診療所が混沌とした時代から抜け出し、20年先には経営面に於いて「安寧」確保を願い、「医療環境」をも含めて取り纏め提言するものである。
 尚、これら提言をベターなる解として事業構造化、遂行可能としうるのは、諸般の事業環境を踏まえて多様性を保持する大手総合商社であろう。
 尚、本事業実施に伴い、少子高齢化を背景に医療施設はもとより、関連する民間企業をも包含しての優勝劣敗は鮮明となり、垂直及び横断的な再編・淘汰の引き金となることを期待する。

[研究方法]
 医療関連業界に暫し身を置いた愚生の知見をベースに、改めて現実的な状況、情報を新聞・経済誌・関連書籍更には各種白書・統計資料を傍証資料とし、且つ厚労省・学術・斯界等の有識者との面談を通じて取り纏めた。
                                                        以上


 倉田隆次(法・法)
  
   
松葉杖奮戦記

 こんなドジで間抜けな怪我について書くのは、一寸した勇気が必要です。
 政治の世界では「一寸先は闇」と言われます。実は、平穏な家庭の中だって「一寸先は闇」で、突如、何が起きるか分からないものです。11月8日夜9時半ごろ、小生は食卓に新聞を広げていました。趣味(?)の切抜作業をしていたのです。何かが食卓から滑り落ちました。両膝の上に受け止めようと、両膝を揃えたのです。瞬間、左太股内側にグサリとハサミの片刃(幅5ミリ)が突き刺さりました。右膝で刃を押し込んだのです。鮮血がドバーッと床に滴り落ちました。傷口をタオルで縛り救急車を待ちました。
 救急車に収容されたあと、一向に車が動かないのです。救急隊員が、最寄りの救急病院から順番に収容依頼をするのですが、①担当外科医がいない、②ベッドがない、③現在急患を収容中、等の理由で受け入れてくれないのです。やっと4番目に片道15分の遠隔地にある病院からOKが出ました。県都千葉市でさえ、夜間の救急医療はこの様な状況なのです。
 この病院で、止血のため、太股の筋肉をTの字形に10センチ・5センチ切開されました。筋肉内の動脈を損傷している。ここでの止血は無理だとして、待機していた救急車に再び乗せられ、千葉県救急医療(高度救命救急)センターに転送されました。
 待ち構えていた医師団(4人)は傷を一瞥するや、「大丈夫ですよ。すぐ止血できます」。小生の怪我は、ここでは怪我の内に入らない様でした。傷の処置前に医師から言われたのは、①血液サラサラのサプリを摂取していないか?②脳梗塞予防薬を服用していないか?③医療従事者の安全確保のため血液検査(肝炎、梅毒、エイズ)を承諾してくれるか?の3点でした。
 結局2日間の入院で退院できました。16日に抜糸(10針)、17日が最終診療でした。
 そんなわけで、「留学生との集い」の18日は松葉杖をついての参加となり、醜態を晒してしまいました。
 通院時に見知らぬ人が示してくれた優しさが身にしみました。また、身障者の視点で世の中が少し垣間見えた感じがしました。


 倉田隆次(法・法)

  敬老会への出演

 敬老会が過ぎて、もう2ヶ月になろうとしています。なぜ、今ごろ敬老会の話を……と言われそうです。
 実は、わが家のTVチャンネルを回すと、団地チャンネルで団地行事の敬老会の模様が、繰り返し放映されているのです。
 敬老会の当日、妻は、孫が通う幼稚園の敬老会に招かれて不在でした。自治会長に頼まれていたので、この隙に「ガマの油売りの口上」を演じ、好評を博しました。それがTV放映でバレてしまったのです。
 加えて、地区福祉協議会の広報紙にも写真付きで紹介されてしまいました。


 この演会芸は、40数年前に覚えたものです。口上だけでは数分で終りますので、趣味の居合を2本抜くサービスを加えました。
 宴会芸が、お年寄に喜んでいただけてハッピーでした。オッと自分も老人だということを忘れていました。

(千葉市社会福祉協議会朝日ヶ丘地区だより「ふれあい」の記事─写真は省略)
 ガマのあぶら売り口上・・・20数年振りの復活、ユーモアたっぷりの熱演に拍手喝采!
 4枚が8枚、8枚が16枚、16枚がううっ!刀の切れ味がわるい─。


 鴇田 將(理物)

  関口明美さんの思い出

関口明美さんのご逝去に接し、謹んでお悔やみ申し上げます。
 関口さんと知り合うきっかけは白門43会を通してであり、彼女は文学部出身で私は理工学部出身であり、互いに進路は異なり、同期会を通じて知り合ったのが最初でした。当時、彼女は埼玉県の小学校の教師をしており、また一方ではFRP、石こう等による立体的な人物像、陶板画による人物像等の数々の作品を残された素晴らしい芸術家でもありました。彼女の人物像のどの作品にも生命の讃歌があると高い評価を受けている点は皆様もご存知かと存じます。
 彼女に関する印象を強くしたのは同期会のバス旅行のことが思い出されます。観光バスで彼女が隣の席の女性と会話している様子を後部座席に座っていた私にはその会話の一部が何気なく耳に入った瞬間、彼女はなんと素晴らしい意見の持ち主なんだろうといたく感心した次第です。彼女は自分の考えをキチンと持ち、生徒に対する指導にもプリントを渡して毎回のように生徒 (小学生) に伝えていたということを後日、伺った次第です。
 そして、何よりも私にインパクトを与えたのは、彼女の人生の最終章の生き方であります。
 私が彼女からの連絡により病気で入院していることを知ったのは、今年の八月でした。以前は何回か食事をする機会がありましたが、最近は連絡が無いのでお元気にしているものと思っていた矢先、彼女からの連絡により、病状が重い旨を知らされました。私は早速、病院に見舞いに行き、ロビーで一時間ほど色々と話をしました。教師生活も終わり、これから作家活動に専念できるとアトリエも完成し喜んでいたのに、不治の病に冒されたことを悔やんでおられましたが、私は彼女が過去に素晴らしい活動してこられたので、ある意味では満足すべきではないかと進言したことを覚えています。我々、同期生はせいぜい生きてもあと30年ぐらいで大方は人生を終わるのであるから、長いスパンで考えた場合、たとえ30年生きたとしてもそれは一瞬であるとも進言しました。その後、彼女は退院されて自宅に帰ってきて、なんとリラックスできてまさに生きている実感が沸いているということを知らせてきました。実は、彼女と私はある約束をしていました。それは、彼女がご自分の家をリフォームするのに町田にある我が家の台所等を参考にしたいとのこともあり、我が家の台所等を紹介した件で、リフォームが完成したら私が訪ねていくことを約束したのです。彼女は、一時、退院が認められ、自宅で最後の作品展の準備に追われている様子であり、最後まで作品に情熱をかけている様子がうかがわれました。そして、リフォームが完成した後、私は約束を守ろうと2007年9月29日土曜日の午後に訪ねて行ったときには、ご自宅ではなく彼女は再び病院のベッドの上でした。私は彼女の家に尋ねることはかないませんでした。29日は亡くなる前日でしたが、まだ会話もされており、笑顔も見せており、病室は見舞いの人達の声でにぎやかになったひと時もありました。しかし、その翌日、関口さんは生涯を閉じられたのです。
 私は彼女の訃報に接し、深い悲しみを禁じ得ません。
 最後に、彼女の最終章に触れるならば、彼女は闘病中、食事を取ることができず、専ら点滴に頼りながらの生活でしたが、よくぞ取り乱したり、わめいたりすること無く静かにそして堂々と人生をまっとうしたものであると、尊敬の念さえ抱くものです。私がその立場にたったら、おそらく取り乱し、自殺も考えたであろうと自分の意志の弱さを痛感させられた思いであり、せめて自分の人生の最終章では関口明美さんに近づきたいものであると、改めて彼女の実践に敬意を表する次第です。
                                               合掌


 宮本常子(文哲)

   関口明美さんを想う

 明美さんは私の大学の友人である。専攻が同じで哲学科の社会学、チョット硬い印象を受けるのは否めない。
 彼女は、卒業と同時に先生になり、37年もの長きに渡って先生を勤め上げた。私は編集(文を書く事)にこだわり、小さな出版社に3年位働いて結婚した。結婚して子供が成長してからもパートながらも出版社で働いた。
 今思えば、チョット硬く生真面目なところが似ていたかもしれない。卒業後の彼女との出会いは、銀座の個展会場である。年賀状は行き来していたが、何十年ぶりかでお会いした。そこで、色彩感覚の良いお洒落な洋服をまとった彼女に出会った。彼女の作品・彫刻は、黒い色の(プラスチックが材料と聞きました)女性像(立像も含む)が多く、”すごい”と感心した。 その時、彼女はすでに43会に入っていて、会場にいた鴇田さんに進められて私も入会することになった。
 それからは彼女の個展には必ず行き、感想文を書いては43会報やホームぺージに載せてきた。また、虎ノ門交響楽団で音楽を一緒に鑑賞したり、トリップ会で旅行に行った時、隣りに座っていろんな話をした。
 その後も、女性を画いた陶板画を製作、木目の厚い板に貼り付けるなど彼女独特の女性表現をしてきました。それが認められ、タヒチの大統領から賞状を貰ったり、カナダのモントリオール国際会議場やカサブランカ市の日本・モロッコアート・エキスポで展示されるなどの活躍ぶりでした。
 2年ほど前「先生を退職して、第2の職場(役所)で働いているのよ」と話してくれました。そのうち電話でトリップ会からの旅行の話しをすると、行きたいとのことで「栃木の蔵の街」の旅行に参加。会報に旅行記書いて欲しいと頼んだら、すんなり引き受けてくれた。その記事の文がとても良かった。鋭い観察力は彫刻を作る時と同じなのだろうと思った。
 その内、しばらく来なかった委員会に今年の3月ヒョッコリ現れ、総会や「留学生の集い」について意見を述べた。その後まもなく電話があり、検査入院する事になって、カナダのモントリオールに行く切符を買っていたのにキャンセルしなくてはいけなくなった……と、残念そうに話しました。元気そうだったので、単なる検査だろうと思っていたが、そうではなかったのです。
 それから約半年という短い期間に、忍び寄っていた病魔が彼女の体を蝕み、たちまちにして一人の秀でた芸術家の命を奪っていってしまったのです。
 才能のある人だったので、まだやりたいことがあっただろうと思うと不憫でなりません。
 もう少しで第2の職場をやめたら、船で世界旅行したいな……と言っていたのに。これから人生を楽しもうという時に彼女は、あの世にいってしまったのです。これも運命と言うならあまりにもむごい気がしてなりません。
 最後まで作品の整理に没頭した明美さん、あの世でも作品を作っているような気がします。
 心よりご冥福をお祈り致します。   


 三沢充男(法・法)
  
   お手玉の唄

        西条山は 霧ふかし
        筑摩の河は 浪あらし
        遙に聞ゆる 物音は
        逆まく水か つわものか
        昇る朝日に 旗の手の
        きらめくひまに くるくるくる

 どなたかこの唄をご存知の人がおられるだろうか。
 この唄の中の「西条山」は「妻女山」、「筑摩の河」は「千曲川」と知れば、およそ何を唄った歌かお分かりになるだろう。
 NHKの大河ドラマで「風林火山」が放映されたことがあるが、これはかの有名な武田信玄(晴信)と上杉謙信(長尾景虎)の川中島の合戦を歌ったものだ。唄の題名もずばり「川中島」である。
 川中島といえば、頼山陽の「鞭声粛々 夜河を過る」というのが詩吟で有名ですが、「サイジョウザン」は、どういうわけか私は「お手玉の唄」として子供の時に聞いたり唄ったりした覚えがあります。女の子が(男の子もだが)お手玉をするときは必ずこの唄を歌い、それに合わせてお手玉を放り上げるのである。当時はこの唄がどんな情景を唄ったものか、どういう漢字を宛てるのかなどは全く知らないまま唄っていたのです。
 調べてみると、これは明治29年の新編教育唱歌集に出てくる。作詞は旗野十一郎、作曲は小山作之助とある。こういう唄が教育唱歌集に出てくるというのは時代を感じさせるが、きっと尋常小学校などで教えられたのだろう。
 それがなぜお手玉をする時に唄われたのか。それは私が住んでいた東京の多摩地方だけでのことかもしれないのですが……。
 一ついえることは、この唄はお手玉のリズムととてもよく合うということである。鞭声粛々では合わせようがないが、この唄は軽快でリズムが早く、お手玉を投げ上げるスピードにピッタリなのだ。それで最後の「くるくるくる」というところはテンポがゆっくりになるので、お手玉を高く放り上げてタイミングを合わせる。楽曲をお聞かせすることができないのが残念ですが、聞けば納得できると思います。
 ところで皆さんも子供の頃お手玉をした経験がおありだろうと思いますが、その時はどんな唄を口ずさんだのでしょうか。
 ちなみにこの唄の二番を以下にご紹介しておきます。

        車がかりの 陣ぞなえ
        めぐる合図の 鬨の声
        あわせる甲斐も あらし吹く
        敵を木の葉と かきみだす
        川中島の 戦は
        語るも 聞くも 勇ましや


 
 *** 以前のご寄稿の内容は「寧日雑感Ⅰ」をご覧ください ***