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2021年12月27日
 ナンテン

 皆さんは、「雪兎(ゆきうさぎ)」(図①)を作った事がありますか。
 子供の遊びでおぼんなどに雪の塊をのせて固め、目には赤いナンテンの実を、耳にはナンテンやササの葉を付けると可愛いウサギとなります。ナンテンの代わりにアオキやセンリョウなど他の赤い実を使うこともあります。俳人・宇多喜代子さんの句は、そんな郷愁を誘う情景を詠んでいます。
  赤きもの あれば目となる 雪兎

 そうです、今回は正月も近いので縁起物の「ナンテン」をテーマにしました。
 ナンテン(南天)は常緑低木で中国原産。日本の茨城県以西の本州・四国・九州、日本以外では中国、インドに分布する。暖地の山地渓間に自生し、古来より栽培もされている。西日本、四国、九州に自生しているが、古くに渡来した栽培種が野生化したものだとされている。山口県萩市川上の「川上のユズおよびナンテン自生地」は、国の天然記念物(1941年指定)になっている。
 南天の産地として有名なのは大阪府・奈良県・和歌山県・岐阜県・山梨県・兵庫県など。日本一の出荷量をほこる岐阜県郡上市八幡町では、毎年12月中旬に「郡上八幡南天まつり」を盛大に行っている。これは果実が熟すにつれて赤から黒になるので、この時に町では赤字が黒字に転じるという縁起を担いだ巨大な「南天玉」が作られ、販売されて正月飾りに使われている。

 特徴としては、葉は互生し、3回3出羽状複葉です(写真②③、ナンテンの一枝は実は大きな一枚の葉なのです。鳥の羽のように見えるので羽状複葉といい、3回分岐を繰り返す)。冬に葉が赤くなる品種もある。花期は初夏(5 ~6月)ごろ、茎の先端の葉の間から、円錐花序を上に伸ばし、6弁の白い花を多数つける(写真④)。晩秋から初冬(10~12月)にかけて赤朱色(写真⑤)、または、ときに白色で小球形の果実をつける。実の白いものはシロミノナンテンという園芸種で、これもよく栽培されている。
 和名ナンテンの由来は、冬に赤い果実が目立つことから、中国では灯火(照明)を連想して南天燭といい、また葉が竹に似ることから南天竹と名付けられ、これを音読みして和名がつけられたとされる。中国植物名(漢名)は南天竹(なんてんちく)。

 なお縁起物として、ナンテンは音が「難転」、すなわち「難を転ずる」に通ずることから、縁起の良い木とされ、鬼門または裏鬼門に植えると良いなどという俗信がある。福寿草とセットで、「災い転じて福となす」ともいわれる。 また、江戸期の百科事典「和漢三才図会」には「南天を庭に植えれば火災を避けられる」とあり、江戸時代はどの家も「火災除け」として玄関前に植えられた。赤い色にも縁起が良く厄除けの力があると信じられ、江戸後期から慶事に用いるようになった。トイレの前にも「南天手水」と称し、葉で手を清めるなどの目的で植えられた。手水鉢や便所近くに植栽したのは不浄を清める意味であったと思われる。耐陰性もあるので、家の陰になる北側の庭にもよく植えられている。 ナンテンの箸を使うと病気にならないという言い伝えや、贈答用の赤飯にナンテンの生葉を載せているのも、難転の縁起からきている。正月飾りとして、お正月にはナンテンの実とフクジュソウの花(写真⑥)のセットで「難を転じて福となす」という縁起物の飾り付けもなされる。
 鬼門除けとして、家の庭には、邪鬼の侵入を防ぐとされるヒイラギを表鬼門(北東)に、ナンテンの木を裏鬼門(南西)に植えるとよいとされている。
 又、寒冷地以外は栽培可能で、薬用に喜ばれる白い果実をつける種は希少価値がある。繁殖は挿し木で増やすことができ、春の萌芽前に挿すか、梅雨時期に株分けを行う。 稀に太く育ったものは、幹を床柱として使うことがあり、鹿苑寺(金閣寺)の茶室、柴又帝釈天の大客殿などで見られる。

 薬用としては、葉は、南天葉(なんてんよう)または南天竹葉(なんてんちくよう)という生薬で、健胃、解熱、鎮咳などの作用がある。葉に含まれるシアン化水素は猛毒であるが、含有量はわずかであるために危険性は殆どなく、食品の防腐に役立つ。このため、彩りも兼ねて弁当などに入れる。もっとも、これは薬用でなく、食あたりの「難を転ずる」というまじないの意味との説もあり、当初から、殺菌効果があると分かって赤飯に添えたり、厠(手洗い)の近くに植えられたのかは定かではない。
 又、ナンテンの実は「南天のど飴」という咳止めなどの薬としての効果がある。のどの調子が悪い時に、「南天のど飴」を口にしたことがある方も多いのではないでしょうか。

 面白いのは、活け花などでは、ナンテンの実は長持ちし最後まで枝に残る。このことから一部地方では、酒席に最後まで残って飲み続け、なかなか席を立とうとしない人々のことを「ナンテン組」という。なお、1962年(昭和37年)2月20日発売の6円普通切手の意匠にもなった。 文化面からは、ナンテンは鎌倉時代から記録され、藤原定家は1230年に「中宮権太夫(ごんのだいぶ)が前栽(せんざい:庭先の植込みの意)にこれを植える」と「明月記」に書き留めている。
 いけ花では最古の花道書「仙伝抄(せんでんしょう)」(三条家の秘本を1445年に富阿弥から始めて、7人の受伝者を経て、1536年に池坊専慈(専応)が相伝したことになっている)にすでに取り上げられている。

 文学的に見ると、季語として「南天の花」と「花南天」は夏の季語、「南天の実」と「実南天」は冬の季語。ちなみに「雪兎」も冬の季語。
 小説としては、樹種「ナンテン」を取り上げた作家は10人いる。夏目漱石 (三四郎 )、鈴木三重吉(桑の実 )、田山花袋 (田舎教師) 、宇野千代 (淡墨の桜 )、島崎藤村 (千曲川のスケッチ )(桜の実の熟する時 )、太宰治 (彼は昔の彼ならず )、川端康成(古都)、水上勉(櫻守)(凩(こがらし)) 、梶井基次郎(のんきな患者)、阿川弘之 (雲の墓標)。やはり自然界の動植物を小説に入れると、風情が出るのでしょうかね。
 このナンテンをシンボルツリーにしている県市町村は神奈川県松田町だけでした(1979年度制定)。

 最後にこのナンテン、毒を含んでいるはずの実が紅く熟すと、いつの間にか野鳥がすべて食べ尽くしてしまいます。無毒でおいしい果実を付けると、鳥はそこに長い時間とどまって、果実を食べ尽くしてしまう。小鳥は果実のなっている母樹のすぐ近くに糞をするので、種子は遠くに散布されないことになる。
 「果実に少し毒を含ませておくと、一度に大量の果実を食べると障害が発生するので、少し食べて他の場所に移動し、違う食べ物を探すことになる。移動した後に糞をするので、種子はもくろみ通り母樹から離れた場所に散布される。」という見解があります。なるほど、自然界の生態系にも計り知れない歴史があるのですね。

2021年12月13日
 ダイコン

 皆さんは農業体験をしたことがありますか。
 11月下旬に農家の知人を持つ友人から、ダイコン採りに行かないかとの誘いがあり、興味があり体験してきました。体験してみると農業の大変さと作付けや収穫等に対する 機械化(右写真…水・肥料散布用)が進んでいることに感心しました。早速ダイコンに関して調べました。


 ダイコンは和名で、別名としてスズシロ(春の七草の一つ)、オオネとも呼ばれている。名前の由来は、古くは「大きな根」を意味する大根(おおね)の字が当てられていたが、のちに音読みされて「だいこん」になった。日本のダイコンは根茎部分が白い品種で、スズシロ(清白、蘿蔔)の別名もこれに基づく。

 歴史としては、ダイコンの野生種は見つかっておらず原産地は確定されていないが、地中海地方や中東など諸説ある。栽培種は中央アジアが起源地のひとつと考えられている。紀元前2200年の古代エジプトで今のハツカダイコンに近いものがピラミッド建設労働者の食料とされていたのが最古の栽培記録とされ、その後ユーラシアの各地へ伝わる。中国では西城から伝わったとみられ、紀元前4世紀にはすでに記録がある。ヨーロッパ各地への普及は15世紀になってからイギリスで栽培されるようになり、フランスでは16世紀ごろから栽培が始められた。
 日本には弥生時代には伝わっており、奈良時代の歴史書「日本書紀」にも記され、仁徳天皇の歌に「於朋泥」(おほね)として登場するのが最も古い記録である。
 一般に食べられるようになったのは江戸時代からで、江戸時代前期にはいくつかの品種の成立と栽培法が確立しており、関東の江戸近郊である板橋、練馬、浦和、三浦半島辺りが特産地となり、その中で練馬大根は特に有名であった。
 栽培は春だいこん、夏だいこん、秋冬だいこんに区分され、秋冬が全体の7割を占め、春と夏が残りを分け合う。冬野菜の代表格とも評されているが、夏場は北海道や東北地方でも作られるため、1年を通して出回っている。全国的に生産されているが、収穫量が多いところは千葉県、北海道、青森県、神奈川県で、4道県合わせて全国生産量の4分の3以上を占める。
 栽培時期は、春に種まきして夏に収穫する「春まき」と、初秋に種まきして初冬に収穫する「秋まき」がある。栽培適温は15 ~ 25℃とされ、連作することができる。(上の写真はダイコンの花)

 日本において品種は豊富で、世界一大きくて重い桜島大根、世界一長い守口ダイコンなどの種類がある。日本の主な品種として青首大根があり季節を問わず収穫できるようにした品種。現在の主流品種で、作付面積の98%を占めるともいう。根茎は少し地面から出て、クビとよばれる日に当たったところは淡い緑色をしている(右写真)。又白首大根と呼ばれるものには練馬大根(元禄から栽培される東京都練馬区の在来種。主に沢庵や漬物に使われる)や大蔵大根(東京都世田谷区周辺が産地。昭和時代に廃れたが地場野菜として復活させている)。又三浦大根(神奈川県の三浦半島が主産地の白首大根の一種)等がある。

 栄養成分(根)としての働きは、ダイコンに含まれる成分でもっとも注目したいのは、消化酵素であるアミラーゼの働き。アミラーゼはでんぷんを分解する酵素で、食物の消化を助け、胸やけや胃もたれを防ぐ。同じく酵素であるオキシダーゼも含み、これは解毒作用にすぐれる成分。がん予防にも有効な成分で、魚の焦げに含まれる発がん性物質を抑制する作用がある。 これらの成分は加熱に弱いので、生で摂った方が効果的。手軽なダイコンおろしが一番いい食べ方といえる。又、ダイコンおろしは二日酔いを解消するのにも役立つ。飲みすぎた翌日、なかなかお酒が抜けなくて気持ちがスッキリしないときは、小鉢一杯ほどを飲むと良い。この場合は、ダイコンをよく洗って皮つきのままおろす。皮の部分にビタミンCが多く、これが肝臓の働きを助けてアセトアルデヒドの分解を促進する。ここで注意すべきは、ダイコンは、ビタミンCが多いのが特徴だが、おろしてから20分後には8割に減ってしまうので、なるべく食べる直前におろすのが大事。
 又、栄養成分としての働きは、ダイコンは白い根の部分だけでなく、葉の部分にも注目すべき栄養素がつまっている。葉(左写真)は立派な緑黄色野菜で、カロテンを豊富に含み、カルシウム、食物繊維、ビタミンCといった栄養素の含有量はコマツナを上回っている。これらはがんや骨粗鬆症(こつそしょうしょう)、貧血の改善などに効果を発揮する。特に根の部分には含まれていないカロテンの含有量が100g中3900μgと多いのが特徴的。カロテンは皮膚や内臓の粘膜を強化し、ウイルスへの抵抗力、自然治癒力を高める。こうした働きで胃腸を強くし、がんを予防する。
 我々の年代は、大根の使用部分によって辛さが違うという事はご存知と思いますが、大根の先端部分は辛味が強く、そして葉に近い部分は甘みが多い(右下写真)。

 話は変わるが、NHK・朝の連続テレビ小説「おしん」で貧乏生活を強調するように「大根飯」が取り上げられたが、東北地方が冷害に襲われた時の飢饉対策の一つとして、ダイコンは重要な作物で、ご飯の増量材(糧物:かてもの)の首位を占めていた。「大根飯」とは、白米だけを食すことが困難な時代に食べられていたご飯。白米に野菜を合わせたものを「かて飯」と呼び、その中のひとつ。「おしんめし」と言えば、聞いたことがある方もいるかもしれませんね。1980年代にヒットしたドラマ「おしん」の主人公が作って食べていたのが大根飯で、そこから「おしんめし」の名で広まった。
 又、漬物は調理法であると同時に貯蔵技術ともいえる。江戸前期、沢庵(たくあん)禅師の考案といわれる沢庵漬けは、練馬(ねりま)大根の産地で売り出して一般に普及した。

 文学的には、古事記に仁徳天皇(日本の第16代天皇)や磐姫(いわのひめ)皇后(古墳時代の皇妃、仁徳天皇の4人の皇后のうちの一人)の歌に出てくる。又、兼好法師の「徒然草」第68段に焼き大根の話が出る。なお俳句では冬の季語で「だいこ」とも言う。「大根引き大根で道を教えけり(小林一茶)」

 諺等として、「大根食ったら菜っぱ干せ(ほせ)」(大根の葉のようにいつもは捨ててしまうようなものでも、まさかの時に役に立つという意味。大根の葉にはビタミン類やカルシウムなどの栄養がたっぷりの意)がある。又、「大根役者」(大根は消化がよいので、お腹の調子が悪くなること、あたることはめったにない。このことから、平凡で、あたらない(うけない)役者をこう言うようになった)。ついでに演技の下手な役者を「しろうと役者」というが、これはダイコンの白い色にたとえたのである。
 さらに「大根頭にごぼう尻」(大根は頭の方がおいしく、ごぼうはお尻の方がおいしいという意味。大根は先の方が辛いので、頭の方が甘く感じられる。また、ごぼうは、お尻の方が組織がやわらかいので、このようにいわれる)。又、「大根どきの医者いらず」(大根の収穫どきにはみんな健康になり、医者がいらなくなるの意。大根はお腹の調子を整え、消化をよくする働きがあり、昔から体によいものとされてきた)。なおかつ「大根バッター」(なかなか当たりを打てない野球の打者をいう)がある。

 さらに面白いのは、「古事記」の時代は、大根は白い腕に例えられ、現代の大根足と違い、美しさの対象として捉えられていた。また「大根足」という言葉は、昔のダイコンはいまより細くすらっとしていたので褒め言葉だったそうだ。今のような意味になったのは、品種改良でどんどん太くなっていった江戸時代後期あたりからとの事。
 皆様のおみ足はいかがですか。

2021年11月22日
 カヤ

 皆さんは最近樹木の「カヤ」をご覧になったことはありますか?
 そうです、昔は種子から採取する油を燈明(神仏に供える灯火)に用いるため、各地の神社仏閣に植栽されることが多く、各地に巨木が残っています。

 カヤは漢字では「榧」、「栢」と書き、別名を「ホンガヤ」と言います。この木は成長が遅く、寿命が長いのが特徴であり、分布は本州(宮城県以南)、四国、九州で、生息地は山地です。
 この木は常緑針葉樹で裸子植物なので果実ではなく、種子が直接枝に付きます(右写真)。葉の特徴として表面は濃緑色で光沢があり、裏面にはやや狭い白い気孔(葉が呼吸する所、つまり酸素を取り込み、二酸化炭素を出す所)帯が2本あり、先端は鋭くとがり、触ると痛い(左写真)。種子は緑色の仮種皮が種子を完全に包み込み、長さ2~4cmの楕円形の核果状になる。開花した翌年の10月に熟すと、緑色のまま落下する。仮種皮はやや繊維質で容易に割れる。
 一般的にはカヤの実というが、カヤは裸子植物であり、果実に見えるもの全体が種子となる。でき始めは緑色だが開花翌年の10月頃になると紫がかった赤茶色に熟し、硬い殻に覆われていた内部(核果)が自然に現れる。(右下写真)
 又、カヤの実は脂肪油を35%含むリノール酸で、良質なてんぷら油として用いるほか、頭髪油、灯火油、五平餅のタレとします。カヤは幹から出た枝が対生するため、釣り用のタモ(ネットの事)材として人気が高く、また大木から採った柾目材は最高級の碁盤とされ、油気が多く弾力性のある材は、碁石を打つとへこんで石の座りが良く、材の弾力で後から平らに戻るとも言われています。
 種子は食用となり、焙煎後の芳香から「和製アーモンド」と呼ばれることもある(左写真)。種子には独特のヤニ臭さがあるものの、灰汁ぬきして天日にさらしたものを炒めれば、ピスタチオやアーモンドよりも香りの高いナッツになり、戦後は食糧難を支える果実となっていた。縄文及び弥生時代の遺跡からも保存されたカヤの実が出土しており、日本人との関係は古い。カヤの実を食用にするのは先史時代に遡り、静岡県登呂遺跡からイネ・ヒエ・クルミ・クリ・トチなどとともにカヤの実が出土している。

 現代では珍しい庭木に属するが、枝葉、果実、材の活用性が高く、かつては農家の庭先に好んで植栽された。また、大気汚染に強いことや、移植に強いことなどから最近、その価値が見直され、公園等に植えられるようになった。また、平安から鎌倉時代に関東で作られた仏像の多くはカヤを材料としている。
 また、薬効としてのカヤの種子は榧実(ひじつ)と称して漢方に用いられていて、種子の中の堅い核を取り出して天日乾燥したものである。これを使用するときは核を打ち砕いて、胚乳を取り出す。榧実は1日量10グラムを煎じて服用し、十二指腸虫の駆除に、民間では腸内寄生虫の虫下し、夜尿症、頻尿に用いる。種子100グラムほどを一晩水に浸けてふやかし、よく突き砕いて食べたりするほか、種子を炒ったものをよく噛んで数十粒食べるとサナダムシの駆除に有効であるといわれる。
 ここでカヤの実の香りはというと、カヤの山では秋になると、たくさんの実をつけたカヤの木のまわりから良い香りが漂ってきます。(youtube「かやの木山の」歌:鮫島有美子)(作詞:北原白秋、作曲:山田耕筰)。レモンとユズをあわせたような爽やかですっきりとした柑橘系の香りの中に、ほのかに森林を感じるやさしい香りとの事。緑色の果肉は精油や香水に使い、種子は油を搾ったり、焙煎してナッツにします。カヤの果肉は時間が経つと緑色から茶色く変色していくのですが、爽やかな香りは緑色の果肉でないととれないとの事

 名前の由来としては、古名の「カエ、カヘ」の転訛(テンカ:語の本来の音がなまって変わること)との事。又、葉や枝、木屑などをいぶして虫よけの「蚊やり」に用いたからという。日本でカヤにあてられる漢字のうち、中国でもカヤを意味するものは「榧」です。
 さて県木として「カヤ」がシンボルの都道府県はありませんが、市町村木としては和歌山県紀美野町の木(カヤ:榧・栢)があります。紀美野町では、和歌山県の中でもカヤの植裁密度が一番多い地域であり、大きな木も多く見られる。また、カヤの油は凝固点が低く冬の灯明用には欠かせないものとして、江戸時代には高野山へ年貢として納められていたとの事。
 なお文学としての樹木「カヤ」を取り上げた小説とその数ですが、作家9名が取り上げている。例えば山本周五郎の小説「樅の木は残った」に榧が、宮沢賢治の小説「黄色のトマト、どんぐりと山猫、他」に出てくる。あと田山花袋の小説「田舎教師」に、深沢七朗の小説「楢山節考」に出てくる。

 話題として、カヤの実は大相撲の土俵の鎮め物(六品)という縁起物としても使われている。米、塩、スルメ、昆布、栗とともに、土俵中央部の穴に埋められている。カヤの実については「食べると長生きをする」と言われる。いずれも勝負に関係ある縁起物であるとともに、古くは正月の正式な食べ物であった。
 土俵の中に供物を鎮めるとは、神様を土俵に降ろす儀式「土俵祭」(本場所の初日前日の午前10時から行われる)で、土俵は力士が入場の際に柏手を打つなど神がいる場所とされてきた。
 土俵祭とは、場所中の安全と興行の成功、さらには国家の安泰、五穀豊穣を祈願し、神さまを呼ぶ儀式で、立行司 (たてぎょうじ=最高位の行司) が祭主を務め、脇行司を従えて祝詞を奏上し、供物を捧げる。
 土俵の中央には四角い穴が開けられています。ここに神さまへの供物を納めます(左写真)。これを「鎮め物(しずめもの)」といいます。「鎮め物」が埋められている土俵の上で行う相撲は、かつて相撲が神事であったことを思い出させる儀式です。

 幻の木「カヤ」は、かつては日本の山々に自生し、お寺や農家の庭先などの身近なところにもあった榧ですが、明治以降に伐採が進んだため激減しました。日本の榧は絶滅に近い状態にあり、市場に出ることは年間に数えるほどで、新しく原木を仕入れることでさえ非常に困難な幻の木となっています。
 立派な成木になるには300年もかかり、生育が困難で非常に大変な労力やコストがかかるため植林もほぼされておらず、このままではそう遠くない将来、カヤの木はなくなってしまうかもしれません。

2021年11月8日
 ガマ

 皆さんはお住いの近くで最近「ガマ」をご覧になったことはありますか。
 最近は首都圏近くでも土地開発が進み、「ガマ」の生育地の池や沼、川が少なくなり見かける機会が本当に少なくなってきてしまいました。お断りしておきますが、動物の「ガマ(ヒキガエルの別称)」でなく、植物の「ガマ」ですよ。先日私も久々に散歩途中で見かけ、懐かしく写真と「ガマの穂」を取ってきましたので、早速ガマの穂を分解し関連図書を調べてみました。

 日本には3種類のガマ(ガマ、コガマ、ヒメガマ)があり、いずれにしても「ガマの穂」と呼ばれる円柱形の花序(花が茎又は枝に付く並び方)が特徴。(右の写真)
 日本全国の浅い水辺や水路、休耕田などに見られるガマ科の多年草。細長い葉の垂れ下がる様子を農具の「鎌」に見立ててガマと名付けられたという説や、葉を編んでむしろや敷物を作ったことから朝鮮語のカム(材料)に由来するとする説もある。ガマは漢字で「蒲」と書き、水辺に生える草という意味がある。「甫」は田んぼに草が生えている様子を表し、さんずいをつけた「浦」は水辺を表していて、これに草かんむりをつけている。別名でミズクサ、ミスクサ、ミスグサ(御簾草)や、キツネノロウソク(狐の蝋燭)とも言われる。その品種は世界で15種以上に及ぶが、日本では因幡の白兎の伝説として古事記にも登場するほど古くから親しまれている(後述)。茎は泥の中を這う白い根茎から束になって立ち上がる。長さ1mほどの滑らかな円柱状になり、硬質かつ軽量であることや、太さが均一で扱いやすいことから、かつてはこれを集めて簾(すだれ)を作った。これからガマは別名を御簾草(みすぐさ)という。

 ガマの開花は6~8月。葉を超えるように突き出した花穂(かすい)に、ソーセージのような花が咲く。花は二段作りで、上段に花粉を落とす黄色い雄花、下段に花粉を受け取る褐色の雌花が咲く。(左の写真)
 雄花の花粉は「蒲黄(ほおう)」と呼ばれ、漢方では止血や利尿に効果があるとされる。つまり花穂の上部が雄花穂。下の褐色のソーセージのようなものが、雌花穂(長さ10~30cm)。夏出る穂は、下にロウソク状の15センチの芯と炎に見える雌花の集まりの雌花穂と、上にロウソクの芯と炎に見える雄花の集まりの雄花穂ができる。
 春に新芽が出て夏にこのソーセージのような穂をつける。花らしい花は咲きませんが、この穂が花なのです。秋から冬、穂の中にはタネのついた綿毛がぎっしり詰まって穂がちょっとキタナイ色になり、膨らんで、見るからに柔らかそうになると風などの刺激ではじけ、中の綿毛が湧きだすように飛び出し、風に乗って運ばれるのです。(右の写真) はじけそうになった穂を手でつまむとまるで爆発したように次から次へと綿毛が湧いてくるのが手品のようで面白く、遊んだ方も多いのではないでしょうか。
 ガマの穂の最大の特徴といえば、まさしく「爆発」です。爆発するとふわふわの綿毛が出てきて、ちょうどペットボトルのコーラを振って蓋を開けるとモコモコと炭酸が出てくるようなイメージです。
 ガマの穂は動画サイトYoutubeで検索すると、たくさん出てくるほど有名です。動画を見ていると、初めは徐々に綿毛が飛び出してきて、ある時を境に綿毛の大爆発が起こっているようです。一つの穂に35万個もの種があると言われているので、勢いよく吹き出してくるのも納得します。
 こんなに沢山の種が、どのようにして一つの穂の中に収まっているのでしょうか(左の写真)。綿毛のついた種は、隙間なく並んで軸についています.綿毛は閉じられた傘のようなもの。この中では一つ一つの綿毛が常に開こうとしていますが、ぎっしりと詰まっているため開きません。しかし、風が吹くなどしてちょっとした拍子で一部の種が抜けると,隣り合った綿毛の種が次々と開き、軸から外れて飛び出していくのです。

 布団も元来は「蒲団」と書き、江戸時代以前に、スポンジ状の繊維質が入った丈夫で柔らかなガマの葉を使って、円く編んで平らな敷物を作った。戦国時代になると、綿が普及し始め布団にも使われるようになりました。そんな高級な布団が一般庶民にも普及され始めたのは明治時代頃。「布団」は布と綿で作られ、ガマが使われていませんから「布団」表記のほうが主となったのです。綿の価格も下がり、一気に流通し始めました。普通の布団に加え、こたつ布団が全国的に広まったそうです。

 薬効としては、ガマの仲間の花粉は漢方で蒲黄(ほおう)と呼び、古くから止血剤に使われている。日本最古の歴史書とされる『古事記』(712年)の中の「因幡の白兎」で皮をはがれて赤裸になったウサギが、大国主命(おおくにぬしのみこと)の教えられてくるまったのはガマの花。つまり花粉で傷を治したわけで、奈良時代以前にすでにガマの花粉の薬効が知られていたことが分かります。

 さて文化的な面からいうと、「蒲の穂」はかまぼこ(蒲鉾)の語源です。昔のかまぼこは板に盛られた現在の形とは異なり、細い竹にすり身を付けて焼いた食べ物を指していた。これは現在のちくわにあたる。ちくわと蒲の穂は色と形が似ていて、矛(ほこ)のように見えるガマの穂先は「がまほこ」と言われている。蒲焼きも、昔はウナギを開かずに、筒切りにして棒に差して焼いていたので、その形がガマの穂に似ていたことから「蒲」の字が当てられている。

 以上の様に植物にも進化の歴史等があり、私自身投稿していても頭の体操になっている気がします。会員各位も短文でよいので、簡単な日常の出来事なり、写真や地域の行事、歴史、風物詩等を、手書きでもよいので事務局に郵送等されてはどうですか!!

2021年10月25日
 落花生

 皆さん、通常落花生を何と呼んでいますか?
 ラッカセイ、漢字では落花生、別名ではナンキンマメ(南京豆)、英語でピーナッツ。中国名も落花生です。若年層は「ピーナッツ」、高年層は「南京豆」。高年層は「ピーナッツ」「落花生」「南京豆」のすべてを使うそうです。中年層~若年層は「ピーナッツ」や「落花生」を使い、「南京豆」は使わない傾向があるようです。落花生は植物や殻に入った状態を指すのに対し、ピーナッツは落花生の殻の中にある実の部分だけを表す名称です。

 歴史としては、南米大陸のアンデス原産の落花生が、東アジアを経由して日本に入ってきたのが1706年。沖縄では栽培されていたが、明治に入り、千葉県を始めとした日本の主要産地(千葉県、茨城県、神奈川県、鹿児島県、栃木県など)で本格的に生産が始まった。
 又、落花生は柔らかくて水はけの良い火山灰地が栽培に適しており、富士山や箱根山の火山灰が降り積もった関東ローム層である千葉県は生産量が全国第1位で、国内の7割以上を占める。「ゆで落花生」は畑から採れたての生の物からしか作る事ができない(生のままの落花生は収穫した時点からすぐに硬くなり始め、味も落ちてしまうため、本当の掘りたてをすぐにゆでないと美味しくならない。)産地ならではの季節の一品です。
 なお、落花生という名前は、落花生が成長していく様子が由来となっています。落花生は、花が落ちた後に子房部分が伸びて地中に潜り、それが実になっていきます。つまり「花が落ちて実が生まれる」という成長の様子が、落花生という名前の由来となっている。(右の図:イメージ全体図)

 ところで、よく使う「ピーナッツ・ピーナツ」はpeanut(ピーナット)からきています。pea(豆)+nut(木の実) ⇒ “木の実のような豆”という意味です。

 さて、落花生の栽培はというと、
(1)播種: 落花生の種まきは5月中旬から6月上旬に行われる。莢(さや)を割って中の子実を取り出し3cm程度の深さに1~2粒ずつ播きます。
(2)落花生の花: 種まきから40~50日ぐらい経過すると落花生の花が咲きます。花径1cmほどの蝶が羽を広げたようなかわいい黄色い花(左の写真)です。花は明け方に開いて夕方にはしぼんでしまいますが、8月中旬頃まで次々に咲き続けます。
(3)地中にもぐる: 花が咲いて数日するとしぼんだ花の茎の基から子房柄が伸び始め、地中にもぐって莢をつけます。収穫の時期は花が咲き始めてから75~95日前後で、品種によって差があります。
(4)地干し(じぼし): 掘り取った落花生は、3~5株をひとまとめにして根を上にして立て、畑で1週間ほど乾かします。これを地干し(じぼし)と言います。
(5)ぼっち積み: 地干しが終わったら、円筒状に積み上げ、1~2ヶ月間、風に当ててゆっくりと自然乾燥させる。この円筒状に積み上げたものを「ぼっち」(右の写真)といいます。千葉県ではおなじみの 晩秋の風景です。乾燥が終わったら、莢だけとって出荷します。

 一例として現在千葉県で栽培されている主な落花生の品種は次の5品種が中心です。
(1)千葉半立(ちばはんだち): 千葉県作付面積の66パーセントを占めています(平成29年)。落花生は品種により味が異なり、「千葉半立」は味が良く、特に美味しい品種と言われている。
(2)ナカテユタカ: 千葉県作付面積の26パーセントを占めている。(平成29年)
(3)郷の香(さとのか:) 千葉県作付面積の3パーセントを占めている。(平成29年)
(4)おおまさり:日本国内で栽培されている落花生の中で極大粒実(左の写真:左側がおおまさり、右側が普通の落花生)です。甘みがつよく実がやわらかいので、ゆで豆に最適です。おおまさりの名前の由来は、「大きさや味が勝る」といったところから。
(5)なっつ: 莢は白くて、甘みが強く、煎豆に適している。

 さて、落花生の栄養成分ですが、落花生の渋皮には、ポリフェノールの一種、レスベラトロールが多く含まれるため渋皮ごと食べるのがお勧めです。また、ゆで落花生には様々なミネラルやビタミンが含まれています。特にビタミンEとナイアシンは、枝豆よりも豊富です。落花生には、脳の神経細胞の働きを高めるレシチンばかりか、脳の優れた栄養であるPセリンが多く含まれていて、脳の老化防止のためにとても適した食品だといえます。血管や体の老化の原因を防ぐものに抗酸化物質というものもあります。
 なお、落花生の収穫量の多い県は、全国の生産量のうち、千葉県で83%、茨城県で10%を占めていますが、国内での作付面積は、ピークであった1965(昭和40)年には66,500haあったが、輸入などの影響で徐々に減少し、2018(平成30)年には6,370haとなりました。という事で現在、国内の流通量は全体の9割が外国産で、国内産は約1割程度となっている。
 又、11月11日を「落花生の日」としているのは、落花生を畑から掘り出し、自然乾燥させた新豆が市場に出回るのは、毎年11月に入ってから。落花生は一つのカラに2粒の豆が入っている"双子"であることから、"11"が二つ重なるこの日を「ピーナッツの日」と全国落花生協会が昭和60年(1985年)に制定しました。

 ところでアメリカの漫画及びアニメ作品の「スヌーピー」をご覧になった事はありますか。なんと、スヌーピーの漫画のタイトルは『Peanut(ピーナッツ)』です。飼い主のチャーリー・ブラウンを軽く凌駕するカリスマ性を持ち、心の赴くままに自由に活躍するスヌーピーは、数ある犬が主人公の漫画の中でも、唯一無二の存在感を放っています。このタイトル、じつは編集者が勝手に決めてしまったものだといいます。「peanut」には小さい人、取るに足らないもの、つまらないものというネガティブなイメージの意味があります。スヌーピーが新聞に掲載されるに当たり、当時(1950年)の編集者は、骨太な内容のコラムや新聞記事に比べれば、漫画など取るに足らないパーツだと思ったのでしょう。ところが、その予想は大きく外れ、作者チャールズ・M・シュルツが生み出したスヌーピーは、世界一有名な犬になりました。ましてや、1969年には、チャーリー・ブラウンとスヌーピーの名前がアポロ10号の指令船と月着陸船の名前に採用されたのです。やはり50年間も新聞掲載されたことはありますね。

 人生と同じで、植物にもいろいろな物語があるのですよ。

2021年10月4日
 ヒガンバナ

 皆さん、最近ヒガンバナを見かけるようなことがありますか?
 そうです、葉のある時期には花は咲かず、花期には葉がないのが特徴の球根で増える植物です。
 60~70年前昔は都会でもあちこちに耕作地があり、蝶やトンボ等の昆虫もみられるような田園風景が当たり前の様にありましたが、最近は宅地化して田畑等が少なくなり、都会でも人口の少ないような場所にしか見られないような状況下になってしまいました。私が住む千葉県ではまだあちこち田畑があり、ヒガンバナを時々見かけられます。このヒガンバナに関して調べてみました。

 分布・生育地としては、中国大陸の原産。日本列島では北海道から南西諸島まで見られる。土手、堤防、あぜ、道端、墓地、線路の際など、人手の入っている場所に生育している。特に田畑の縁に沿って列をなす時には花時に見事な景観をなす。湿った場所を好み、時に水で洗われて球根が露出するのが見られる。なお、山間部の森林内でも見られる場合があるが、これはむしろそのような場所がかつては人里(里山)であった可能性を示す。現在日本にあるヒガンバナは、最初に渡来した株のクローンとされ、遺伝的には同じものと言われており、同じクローン増殖のソメイヨシノ同様に、開花時期にばらつきが少なく、毎年一斉に咲くのが特徴です。通常は紅色ですが、ヒガンバナの突然変異で近縁種(シロバナヒガンバナ)の白色のヒガンバナもあります(ほかにも黄色とかもあるようですが、見たことはありません)。仏教に由来する花であり、原種が彼岸の9月頃咲いたため、かつては墓地や寺院などの周辺に植栽されている場合も多かった。

 特徴としては、全草が有毒な多年生の球根を作る植物です。地下にはタマネギのような小ぶりの鱗茎があり、鱗茎にはリコリンやガランタミンなどのアルカロイドが含まれ、飲用すると嘔吐し、場合によっては死に至ることもあります。しかし飢饉や食糧難の時には、水洗いして毒を除いてデンプンを食料にし、石川県能登半島ではデンプンを煮詰めて作る「ヘソビ餅」と呼ばれる食べ物があるそうです。また、この有毒性の利用が日本列島では水田の畦や墓地に多く見られ、人為的に植えられたと考えられている。その目的は、畦の場合はネズミ、モグラ、虫など、水田に穴を作り水漏れを起こさせるなど、水田を荒らす動物がその鱗茎の毒を嫌って避ける(忌避)ようにするためとされる。墓地の場合は虫除け及び土葬後、死体が動物によって荒されるのを防ぐためとされる。モグラは肉食のためヒガンバナとは無縁という見解もあるが、エサのミミズがヒガンバナを嫌って土中に住まないために、この草の近くにはモグラが来ないともいう。

 ではヒガンバナの花は、なぜ秋のお彼岸の頃に咲くのか?
 ヒガンバナの開花日を調べると、地方により多少の違いがあるようです。暖かい地方では、寒い地方より約10日程度早く咲く傾向がある。それでもほぼお彼岸の頃です。「夏を過ぎて秋に涼しくなると咲く」というのが1つの答えです。ヒガンバナのツボミは、5月中旬に球根の中で作られます。秋にはそのツボミが発芽してきます。それまで地上に葉も茎も何もない状態で、球根だけが土の中で過ごすのですから、球根自身が秋のお彼岸の訪れを知らなければなりません。このことからも、ヒガンバナは秋に気温が下がることで花を咲かせるようです。
 では、ヒガンバナの名前の由来「彼岸(ひがん)」とは何か?
 彼岸という言葉は、サンスクリット語「波羅蜜多」の漢訳「到彼岸」の略といわれ、先祖の霊を敬い墓参りをする仏教行事です。春分(秋分)の日の前3日と後3日の7日間(春分・秋分の日も含む)を彼岸といい、春と秋の彼岸があります。煩悩や迷いや悩みの多いこの世をこちら側の岸「此岸(しがん)」と言うのに対して、極楽浄土のあの世のことを、向う側の岸「彼岸」という。あの世(彼岸)にいる先祖を供養する仏教行事に発展したようです。ところが「彼岸」は日本独特の行事で、他の仏教国にはないとのこと。「暑さ寒さも彼岸まで」との言葉があるように、過ごしやすい気候を迎え「自然の恵みに感謝し、先祖を敬い、供養する」行事が日本に定着したようです。
 日本では「彼岸花」が一般用語となっていますが、「リコリス」「曼珠沙華」という別名で表現されることもあります。しかし、実際は全て同じ植物を指していることに変わりません。リコリスは学名、彼岸花が和名、曼珠沙華は別名です。曼珠沙華とは梵語(サンスクリット語)で「天上の赤い花」を意味する「マンジュシャカ」と発音され、大乗仏教の経典「サッダルマ・プンダリーカ・スートラ」に出てくる想像上の花とされています。
 なお、俳句においては「彼岸花」や「曼殊沙華」は、秋の季語とされます。

 ところで、日本におけるヒガンバナの名所として、埼玉県日高市にある巾着田がヒガンバナの名所として知られています。ヒガンバナの名所は多数あるものの、雑木林の中にある曼珠沙華の群生は希少です(右の写真)。
 では、どうして曼珠沙華が群生したのだろうか? 歴史的には昭和40年代後半に、巾着田の用地を当時の日高町が取得し、利用について議論される中で、平成元年頃に草薮であった河川敷地の草刈りをし始めると、そこに生息していた曼珠沙華の姿が見られるようになった。群生の規模が予想外に大きく、その美しさを報道機関等が紹介するようになると、多くの方々の関心を引くようになった。巾着田周辺に曼珠沙華群生地が形成された理由についてですが、巾着田は高麗川の蛇行により長い年月をかけて巾着の姿を形づくり、その内側に耕地が形成されましたが、河川の増水時等に上流から流れてきた物の中に混じっていた球根が、漂着し根付いたと考えられています。

 最近の私の散歩では、土地柄のため水辺や河川付近を散策する機会が多く、川の右岸左岸を行ったり来たりしているが、このヒガンバナの話を書いていて、特に秋分の日前後は「彼岸」「此岸」を考えると、別ルートを散歩しようかなと思い始めましたが、考え過ぎですかね??

2021年9月27日
 クリ

 この頃近隣の山林を散策して、クリの木を見る機会が増えてきましたが、皆様はクリの木が見られるような自然豊かなカントリーにお住まいですか?
 ところで、クリの葉っぱをじっくり見たことはありますか?(右写真)
 クリの葉縁には鋭く突き出した小さな鋸歯(先端まで緑色)が並ぶ。葉は全体にクヌギ(カブトムシ等がくる木、鋸歯の先は白っぽい)によく似ているが、鋸歯の先端部はクヌギほど長く伸びない。
 秋(9~10月頃)に実が茶色に成熟すると、いがのある殻斗(かくと)が4分割に裂開して、中から堅い果実(堅果であり種子ではない)が1個から3個ずつ現れる(左写真)。

 和名クリの語源は諸説あり、食料として古くから栽培され、果実が黒褐色になるので「黒実(くろみ)」になり、これが転じて「クリ」と呼ばれるようになったという説、樹皮や殻が栗色というところから樹名になったという説、クリとはそもそも石という意味で、実の硬い殻をクリと呼んだという説などがある。野生種はヤマグリ(山栗)と呼ばれ、果実が小さいことからシバグリ(柴栗)とも呼ばれる。中国植物名は栗(りつ)。中国のシバグリが、甘栗(天津甘栗)として市販される栗です。又漢字の「栗」は、実が落ちて木の上にいがが残っているさまを表しているという。

 栽培と食用という観点で言うと、日本において、クリは縄文時代初期から食用に利用されていた。青森県の三内丸山遺跡から出土したクリの実のDNA分析により、縄文時代には既にクリが栽培されていたことがわかっている。
 年間平均気温10~14℃、最低気温が -20℃を下回らない地方であれば栽培が可能で、日本においてはほぼ全都道府県でみられる。生産量は、茨城県、熊本県、愛媛県、岐阜県、埼玉県の順に多い。また、名産地として丹波地方(京都府、大阪府、兵庫県)や長野県小布施町、茨城県笠間市が知られる。果実としての採取以外に、甘みがある栗焼酎の醸造や茶飲料、蜂蜜を採取する蜜源植物としても利用される。
 材木の用途としては、堅くて重く、腐りにくいという材質を有する。このような性質から建物の柱や土台、鉄道線路の枕木、家具等の指物に使われたが、近年は資源量の不足から入手しづらくなった。成長が早く、よく燃えるので、細い丸太は薪木やシイタケ栽培のほた木として利用できる。縄文時代の建築材や燃料材はクリが大半であることが、遺跡出土の遺物から分かっている。三内丸山遺跡の6本柱の巨大構造物の主柱にも利用されていた。強度が高いのが特長だが堅いため加工は難しくなる。

 クリにまつわる民話として皆様もご幼少の折に聞かされた「猿蟹合戦」があり、童謡として「大きな栗の木の下で」がある。この歌はイギリス民謡をもとにした童謡で、アメリカでボーイスカウトの間で歌われたと言われている。
 なお、クリ全体の花言葉としては、「私に対して公平であれ」と「贅沢(ぜいたく)」がある。前者はクリは高さ15メートル以上の大木になるが、国家でも人間でも大きくなると傲慢になったり、不公平なふるまいをする者がでてくるので「私に対して公平であれ」の花言葉がつけられたともいわれます。後者はイギリスでは、クリーム色のふさふさのクリ雄花の花穂が揺れる姿が、ゴージャスな雰囲気であったことから、「luxury(贅沢、豪奢)」の花言葉がついたようです。最近は、日本語でもカタカナで「ラグジュアリー」と使われることが多いですが、花言葉が伝わった当時は、「豪奢(ごうしゃ)」と訳されていました。

 ところで皆さんが果肉だと思っている部分は種なのです。栗の木には雌花と雄花があり、受精した雌花が実をつけます。もともと雌花にはトゲがあり、これが実をつけたときにイガになります。イガは他の果物でいう皮に当たり、その中にある栗が果肉と種です。一般的に栗の皮だと思われている鬼皮が、他の果物の果肉にあたる部分。表面の皮(鬼皮)だけむいた渋皮つきのものが種です(右図参照)。
 又、1つのイガには通常3個の栗が入っている。雌花にあるトゲの部分は総苞(そうほう)といい、その中には将来、種となる子房が、通常3つずつ入っています。受精すると総苞はイガになり、子房が栗となります。そのため、一般的な品種ではイガの中に3個の「3つ栗」です。ただ、茨城県のブランド栗「飯沼栗」のように、栽培技術によって、1つのイガに栗が1つだけ入った大粒の栗も生産されています。
 面白いのは、丹波地域で採れる大粒の栗“丹波栗”は、古事記や万葉集、日本書紀にも登場するほど歴史のあるものですが、全国に知られるようになったのは江戸時代のこと。名物として京都周辺で人気になり、さらに参勤交代を通じて江戸から全国に広まったとされています。

 ところで栗きんとんといえば、おせちをイメージするという人も多いのではないでしょうか。それぐらい栗きんとんはおせちには欠かせない存在になっています。
 しかし、なぜ栗きんとんがおせちに入っているのかをご存知ですか? 栗きんとんは漢字で「栗金団」と書かれ、「金団」とは金の団子もしくは金の布団という意味であることから、金塊や金の小判などに例えられ商売繁盛・金運・財運をもたらすものと考えられているためなのです。このことから正月にはその年の商売繁盛を願っておせち料理として食べられるようになったのです。また、栗については昔から「勝ち栗」とも呼ばれるほど縁起の良い食材とされていたため、正月などのめでたい席で食べられるようになったともいわれています。
 ことわざの「桃栗三年、柿八年」は、桃や栗が3年で、柿は8年で実を結ぶということは古くから知られており、そこから、何事も成就するには相応の時間がかかるということわざが生まれ、江戸時代までには一般に広まっていたようです。ここで興味深いのは、小説「二十四の瞳」で知られる作家の壺井栄は、色紙にサインを求められると、「桃栗三年 柿八年 柚の大馬鹿十八年」という言葉を好んで書いていた。小豆島(香川県)にある壺井栄文学碑にはこの言葉が刻まれている。ユズの大馬鹿とあるが、これは辛抱強く年月を重ねて実を結ぶユズの実直さを愛でる言葉なのだという。

2021年9月13日
 サルスベリ

 冒頭から皆様への質問ですが、この漢字「百日紅」はなんと読むのでしょうか?
 そうです、皆様ご推察のとおり和名では「サルスベリ」と読みます。では「百日紅」はどうして「サルスベリ」と読むのでしょうか。一説では、ある悲しい物語が関係しています。

「百日紅」に隠された、悲しい恋の物語
 「百日紅」は「ひゃくじつこう」とも読みます。朝鮮半島のある村では、昔、ある風習がありました。龍神への生け贄として、若い娘が捧げられていたのです。あるとき、その国の王子が村を通りかかります。娘が生け贄にされそうな姿を見た王子は、龍神と戦うことを決意します。王子は勇猛果敢に挑み、龍神を討ち取りました。娘を救い出すと、二人の胸の内には、恋心が芽生えました。
 しかし王子は、ひとまず村を去らなければなりません。「百日後には必ず戻る」と言い置いて、王子は旅立っていきました。ところが、約束の日、村に戻った王子は愕然とし、たいそう悲しみました。娘が亡くなっていたのです。嘆き悲しむ王子。しかし娘は戻ってきません。やがて、娘のお墓がある場所から1本の木が生え、花を咲かせました。その花は愛しき人を今か今かと待つかのように百日間咲き続けたといいます。
 百日紅には、こうした悲恋の物語が隠されているのです。

 「百日紅」という名称は、この木の花がおよそ百日もの間、紅色に咲くために付けられたという説もあります。長く咲き続けるために百日紅と名づけられ、和名では「サルスベリ」と読ませています。というのは、幹の肥大成長に伴って古い樹皮のコルク層が剥がれ落ち、新しいすべすべした感触の樹皮(左の写真)が表面に現れて更新していくことにより(樹皮の更新様式や感触の似たナツツバキやリョウブをサルスベリと呼ぶ地方もある)、猿が登ろうとしても滑ってしまうということで、「猿滑」と表記することもあります(実際には猿は滑ることなく簡単に上ってしまうが!)。
 サルスベリの花言葉には「雄弁」「饒舌」「あなたを信じる」などがあります。「あなたを信じる」は上述の悲恋物語が由来です。「雄弁」は葉や花が揺れ、盛んに話しているようにみえること、枝先に花が群生する姿が華やかで堂々としていることから、「雄弁」の花言葉がついたともいわれます。

「百日紅」は中国南部原産で、フリルのようにちぢれた紅・ピンク・紫・白などの花が次々と咲き、7月~9月の長期間楽しむことができるので「百日紅(ひゃくじつこう)」と呼ばれました。奥ゆかしさのある美しい花、病気に強く必要以上に大きくならない性質から、庭や公園に好んで植えられます。1つの小さい花(下の写真2枚)は1日花(実際には数日)だが、次々に花が開くため、長い間咲いているように見える。

 この植物は、江戸時代の初期に、中国から日本に伝わったとされる説が有力でした。ところが、近年、その約700年前の平安時代に伝わっていたと考えらます。京都府宇治市に、10円硬貨の表面にデザイン化されている平等院鳳凰堂があります。その前に広がる池の平安時代の地層から、サルスベリの花粉が発見されたと、2010年に発表されたのです。平等院は、藤原頼通(ふじわらのよりみち)により1053年に創建されたとされますが、それ以前にも貴族の別荘があったとの説(平等院の前身は9世紀後半、源氏物語に登場する光源氏のモデルとされた源融の別荘。宇多天皇らを経て道長の別荘となる)があり、その当時、サルスベリはすでに植えられていたことになります。もしそうなら、平安時代の貴族であった藤原道長(みちなが)、頼通は親子で、この植物を愛でていた可能性があります。

 街路樹への利用は各市町村にもあるが、千葉県松戸市は枝張りが小さく交通障害が起こりにくいこと、花が美しく花期が長く、耐病性もあり、必要以上に大きくならないことを評価し採用したとのこと。
 巨樹として有名なところは数か所あるが、近郊では東京都八王子市松本に八王子市指定天然記念物の「大石屋敷跡のサルスベリ」(幹回り3.3m・樹齢400年以上・ただし個人の敷地内)がある。
 市町村の花木としての登録は少なく、身近では「調布市の花」の登録がある。

 なお、文学的に面白いと思ったのは、森鴎外の「鶏」、夏目漱石の「吾輩は猫である」、太宰治の「彼は昔の彼ならず」という小説に「サルスベリ」が出てくるが、時代のせいもあるが「さるすべり」と書かず、「百日紅」と表現していることである。その当時の読者は「さるすべり」と読んでいたのですかね? また、俳句では夏の季語にもなっており、昔から「百日紅」として好んで読まれていたようです。
 このように1本の樹木、草花等でも調べてみると、結構面白い話題が出てきます。皆様も近隣散歩で出会った樹木、草花の話題等を探してみてはいかがですか。それをもとに白門43会ホームページに投稿してみてはいかがですか!!
 文章の長短、文脈等のうまい下手は関係ありませんし、場合によっては匿名希望もOKかも?

2021年8月23日
 シラカバ

「白樺(しらかば) 青空 南風♪」が歌いだしの「北国の春」(きたぐにのはる)は、1977年4月に発表された千昌夫の歌謡曲。この歌を作詞した、いではく氏は長野県南牧村出身で、故郷の野辺山あたりをイメージして作詞したという。郷里を離れ、四季の変化に気づかない都会に住む北国出身の人の望郷の想いが、また北国の春を迎えた思い出が、春の野原の有様を生き生きと表現している。ちなみにこの野辺山にある野辺山駅はJR小海線(JR小諸駅~JR小淵沢駅)の標高1345m67cmにあるJR最高地点駅です。
 日本国内で北海道とともに白樺の生育地として有名なのは、長野県の信州です。特に北八ヶ岳の東斜面に位置する長野県佐久穂町八千穂高原(標高1800m)には200ヘクタールもの面積に50万本もの白樺が群生していて、日本一の白樺林の美しさを堪能できる場所(右写真参照)として知られている。

 シラカバは北海道及び中部以北の本州(特に信州)に分布するカバノキ科の落葉広葉樹。千昌夫の代表曲「北国の春」の影響からかシラカバと呼ばれることが多いものの、カバノキ科の植物の総称を「樺(カンバ)」と呼び、中でも光沢のある樹肌が特徴の白いカバノキ「シラカンバ」というのが名前の由来になっています。正式にはシラカンバという。
 高山に生えるダケカンバ(岳樺)と混生していると、一見判別が難しい。シラカンバの樹皮はほぼ真っ白だが、所々に「へ」の字形をした黒っぽい枝痕(左写真参照)がついているが、ダケカンバの樹皮には「へ」の字模様はないので区別できる。またシラカンバに似ているウダイカンバがある。漢字では「鵜松明樺」と表すウダイカンバは幹に細かな横じわが入っているのが特徴です。幹は油分が多く生木でもよく燃えるため、鵜飼で使う松明の灯りに使ったことにより名称となりました。

 材は耐久性に乏しいため建材としての価値は乏しい。しかし、柔らかくて加工しやすいため、しっかりと乾燥させたものは木工品、玩具、パルプ材、割り箸、爪楊枝、アイスクリームのヘラ、医療用の検診棒等に使われる。樹皮には油分が多く、防水性に優れるため屋根を葺くのに使われることもある。
シラカンバの春先の水の吸い上げはめざましい。小枝を切ったり、幹に傷をつけると樹液が滴り落ちる。北海道美深町では、シラカンバの樹液を100%ボトルに詰め「森の雫」として販売している。
 シラカンバの樹液はさらさらで透き通っていて一見水のようで甘みもあり、虫歯予防で知られるキシリトールの原料でもある。残雪の残る4月、幹に小さな穴をあけパイプを通して採取をする。芽吹きの時期になると液が止まるので約一か月が採取期間。1本の木に穴は1つ。シーズンが終わると穴を殺菌して木の栓でふさぎます。こうすることで白樺は枯れないそうです。面白いことに白樺の樹皮には殺菌効果のある成分が含まれているので、倒木したあと材は腐っても白い樹皮だけ残るそうです。

 また、上皇様と上皇后様が皇太子時代に出会った軽井沢に多いことから、美智子上皇后の「御印(=持ち物等に記すマーク)」はシラカバとなっている。
 白樺にはさまざまな通称があり、とても生命力が強いことから白樺自体には「マザーツリー」、天然のミネラルやアミノ酸を豊富に含むことから樹液には「森の看護師」という通称が生まれた。また、白い樹皮が高原を明るいイメージにすることから「高原の白い貴公子」と呼ばれている。
 でもシラカンバで悲惨なことがあります。シラカンバは雌雄同株で花の咲く時期は5月ごろからです。受粉後の種には広い翼があるので風で遠くまで運ばれることができるのもシラカンバの特性の一つです。雄花の花粉は花粉症のアレルギーをもつ人には要注意です。北海道の道南を除く地域ではシラカンバの花粉症患者が多いというのもうなずけますね。
 なお長野県のシンボルツリーはシラカンバですが、市町村の木としてはやはり北海道内が14件、長野県内5件が突出しています。ちなみにフィンランドでは、国を代表するシンボルツリーとしてシラカンバを上げています。事実上国の木として扱われています。また、シラカンバの仲間は葉や若い枝に特有の香りを持ち、嗅ぐとさわやかな香りがする。本場北欧のサウナ風呂では、このシラカンバの葉(上の写真)の付いた枝で体を叩くというが、香りがある上に細いしなやかな枝なので心地良いのだろうと思われる。

 文学的には千葉県我孫子市には「白樺文学館」があります。この背景には我孫子市にある手賀沼の北岸は、当時は農村地帯であったが、我孫子駅の開業で東京から交通の便が良くなり、別荘地として人気が出つつあった。柳宗悦・柳兼子夫妻が1914年(大正3年)4月、宗悦の叔父である嘉納治五郎(柔道家)の別荘の向かいに引っ越し、庭にあった3本の椎にちなんで嘉納が「三樹荘」と命名。柳夫妻に誘われる形で「白樺」同人達が続いた。志賀直哉夫妻が1915年(大正4年)に移り住んだ等が縁となり、旧志賀直哉邸跡地前に2001年に白樺派の作品を広く公開するために建設されたのがこの文学館です。ご存知のように、白樺派(しらかばは)は、1910年(明治43年)創刊の文学同人誌「白樺」を中心にして起こった文芸思潮の一つ。また、その理念や作風を共有していたと考えられる作家達のことです。
 この創刊号の表紙には白樺の若木が描かれ、武者小路実篤による夏目漱石の「それから」の評論や、志賀直哉の「網走まで」等が掲載された。この文芸誌「白樺」の命名に関して、志賀直哉は「あれはね、その頃よく日光とか赤城とかああいう高山に行って、白樺という木が好きだった。それで僕らは白樺と付けたのだ」と談話しており、また武者小路実篤は「白と樺色の配色が気に入ったから白樺に賛成した」と回想したそうです。
(左の写真は垂れ下がる若い果穂…果実の集合体)

 シラカバはなんとなく青春時代を思わせる樹木だと個人的には気に入っている樹木ですが、皆にもお気に入りの樹木等はありますか?

2021年8月11日
 ヤマユリ

 皆さんは最近ヤマユリ(山百合)を見たことがありますか?
7月中旬に千葉県松戸市のある里山ボランティアが整備担当する里山林を仲間達と訪問しました。この里山林は現在では周囲がほとんど住宅化している地域内にある林であり、ヤマユリが自生する場所として自然愛好家には知られている所だ。しかし最近では都市化が進んだことと所有者の高齢化もあり、里山林が放置されているので地方自治体等が仲介しボランティア団体が整備作業を担当している。

 ヤマユリが好む環境は日照の具合と定期的な下草刈りが大事。一言で言えば、炭焼きなどで定期的に雑木林を間伐していて、下草刈りをし、落ち葉掃きなどを継続している里山の環境を一番好むということだ。
 ヤマユリは山地に生える日本特産のユリで、夏に咲く花は大型で白く、山中でもよく目立ち、強い芳香を放つ。球根(鱗茎)は食用のユリ根になり、別名リョウリユリともよばれている。
 花期は夏(7~8月)で茎の先に数個、ときには20個ほどの白い花を横向きか下向きに咲かせる。花は6つある花被片が、外に弧を描きながら広がって、花径は15~18cmになり、ユリ科の中でも最大級。花被片の内側中心には黄色の太い筋があり、紅褐色の小さな斑点が散らばるのが特徴だ。またユリの花粉は服に付くと落ちにくいため、花屋は対策に雄しべの葯(ヤク・雄しべの先端の花粉を作る器官)を取り除いている。

 発芽から開花までには少なくとも5年以上かかり、また株が古いほど多くの花をつける。風貌が豪華で華麗であることから、「ユリの王様」と呼ばれる。個体の寿命は平均7~8年、長いもので20数年もあると言われる。
 ヤマユリの「ヤマ」は「山」の事で、このユリは低山などの山にだけでなく、丘の草原や斜面にも生える。丘を含む山の意味の「ヤマ」である。また、ユリという名前の由来は、茎が細く花が大きいために、風が吹いたら「揺れて」しまうからだと言われている。
 一方、ユリに「百合」という字を当てるのは、地下の球根(鱗茎)が、多数(百ほど)の鱗片が重なりあって出来ているからで、これが通説になっているが、中国から渡来の薬用ユリ根の乾燥品「百合(ひゃくごう)」から来ているとの説もある。

 1951年に神奈川県は県花としてヤマユリを制定(NHKが企画した「郷土の花」設定運動がきっかけ)した。その背景として当時ヤマユリの有数の自生地丹沢山地が群生地で、明治から昭和初期にかけ、日本の主要外国貿易品であった生糸とユリ根の輸出港だったのが横浜港。貿易商会と提携した県下の農家では、ヤマユリの山採りや栽培が盛んに行われていた深い歴史があったことにある。
 なお市町村合併が進んだため、ヤマユリをシンボルフラワーとしていた市町村(関東周辺に集中しておりヤマユリの自生環境と重なっている)は、76から約20も激減している。
 また中央大学がある八王子市も戦後の里山にはヤマユリがたくさん咲き、7月のお盆の時期には花屋が切花として採取していくほどであったという。当時はたくさん自生していたので、それをとがめる者もなかったようだ。しかし、近年ではヤマユリが開花する7月中旬に市内の里山を歩いても、まれにしか見かけることができないようだ。その歴史的背景により市制施行60周年(1977年)の記念行事として市民が投票した市の花はヤマユリとなっている。

 又、食用としてのヤマユリの球根はユリの中でも最も味が良いとされているが、ウィルス性の病気などにより生産が安定しないという弱点がある。江戸時代に食材として広く利用されていた記録があり、古くから食べられていたようだ。ユリの球根を食用にするのは日本、中国といった東アジアの一部のみと言われる。現在「ユリ根」として流通しているものは、球根の大きなオニユリと、小さいが味の良いコオニユリを交配したものが主流。
 また観賞用としての歴史は古く、ヨーロッパでは紀元前より「純潔」の象徴として儀式などで盛んに使われていた(キリスト教ではマリアの純潔の象徴として儀式に不可欠な花(右図)とされている)。古事記や日本書紀にはユリの記述があり、万葉集にもユリの歌が詠まれている。これらのユリはヤマユリでない場合が多い(西日本に分布するピンク色の小ぶりの花を咲かせるササユリが主)のですが、ユリの花が古くから好まれていたことが分かります。

 ここで思い浮かぶのは、女性の美しさを形容する言葉に「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花」というのがありますが、シャクヤク(芍薬)はすらっと伸びた茎の先端に美しい花を咲かせる風情があり、ボタン(牡丹)は枝分かれした横向きの枝に花をつけるため、まるで座っているようで華麗であり、ユリ(百合)は風を受けて揺れる様子がまるで女性が優美に歩いている清楚な姿に映るためだそうです。

 我々43会会員も周囲から「立てばふらふら、座ればたてず、歩く姿はよれよれ」と言われないように、これからの時間を楽しみながら行動していきましょう!!

2021年7月26日
 あんず

 7月上旬に所用にて山梨県清里高原近くに出かけ、あるホテルに宿泊(標高750m)し庭園内を散策していたら、橙黄色に熟している直径約3センチぐらいの球形の核果が目に入ってきた。その樹木の下にも数個の熟した果実が落ちていた。近くによって見るとアンズの実であった。似た果実にウメ、スモモがあるが葉っぱと実の形、樹皮からアンズと分かった(実際に実をかじってみて、酸味が少なく、甘味強く、香りもよいのを確認したので)。

 アンズは桃やウメ、スモモの近縁種だが、春(3月下旬から4月頃)桜よりも早く淡紅の花を咲かせる(右図)。耐寒性があり比較的涼しい地域で栽培されており全国で栽培できる。又特徴的なのは「自家結実性」だ。アンズは1本で結実するが、他の品種のアンズに木を混植すると結実が安定する。
 アンズ(杏子・杏/別名カラモモ)は中国北部及びモンゴル周辺を原産とする落葉小高木。日本に渡来したのは奈良時代で、平安時代には薬用植物として栽培されていた。当初は「中国の桃」を意味する「カラモモ(唐桃)」と呼ばれており、万葉集にも唐桃として登場する。アンズと呼ばれるようになったのは江戸時代に入ってからの事。近年ではアプリコットという英語名の方が一般的なのかも。

 ところで漢字というのはよくできているもので、得体の知れないものの正体も、漢字の意味をひも解いてみると、答えに行きつくことがある。
 「杏仁(アンニン)豆腐」がその一例だ。簡単に言うと「あんず(杏)の種(仁)をすりつぶし粉にしたものにカンテン(寒天)を混ぜて甘味を付け豆腐仕様にしたもの」だ。この種の中にある「仁(さね)」という部分、手の爪ほどの小ささなのに、この種にはかぐわしい香りが秘められている。
 この香りこそが杏仁豆腐の香りのもと。しかし現在の杏仁豆腐は「杏仁」の代わりに、アーモンドの「仁」で風味づけをすることがほとんどだそうだ。又、「杏(キョウ)」の意は「木+口」を組み合わせたもので、「口に入れてもおいしい木の実」を表したものだそうだ。

 「杏」に関してはこんな逸話もある。昔々、中国の呉の国に「董奉(とうほう)」と言う名の医者がいた。董奉は貧しい患者からは治療代を取らず、杏の木を植えさせたそうです。やがてそれは杏の林になり、その種子は「杏仁」という漢方薬になって人々を救いました。このことから中国では杏の林を意味する「杏林」は医者の尊称の一つとなったと言われます。この故事に因んで名付けられたのが1966年4月開校の「杏林学園」で1970年4月開設の「杏林大学医学部」です。
 なお、アンズの生産量が全国トップクラスの長野県。栽培面積は日本一を誇りますが、その6割を占める一大産地は千曲市です(市の花、市の木ともにアンズ)。その中でも特に水はけのよい森地区と倉科地区は、「あんずの里」とよばれ、標高380~450mのなだらかな傾斜地のあんず畑が広がります。2013年4月には今上天皇皇后両陛下が「初めての私的な旅行」でご訪問されたことでその名が知られるようになったようです。

 このアンズが意外にも中国内モンゴル地区の砂漠化防止に一役買っています。中国の砂漠化は日本にとっても無縁の問題ではありません。春になると飛来する黄砂。その悪化が砂漠化とも密接に関係しています。原因として中国はもともと広い乾燥地帯が多く、かつ人的要因として広範囲の開墾と伐採が行われたこと。改革開放政策により内モンゴル自治区のような牧畜地域では大規模な放牧がおこなわれた事等々です。人が集まると開墾や燃料のための樹木伐採、放牧による草原の喪失等々により砂漠化してしまいました。
 北京から北に70キロほど行くと、そこはもう内モンゴル自治区になります。それほど内モンゴルと北京は近いのです。広がる砂漠化に中国も危機感を抱き、植林事業が動き出しました。それには日本も黄砂の影響を受けていることもあり、また地球環境保全という観点から、日本の政府(林野庁等)やNPO、ボランティア、企業等が植林事業に参加しています。
 そこで植林樹木としてのアンズ、ブンカンなど実がなる木です(ほかにカラマツ等もある)。これらの木は土の浅いところでしか根を張らないので、地下水に頼らずに成長することができます。しかも実が採れるから経済性に富んでいる。そこには現地の人たちの生活の場があり、彼らの理解と生活の向上がなければ、植林しても持続させるのには難しく、環境の改善につながりません。そこで植林することによって経済的な恩恵を得ることができる木を植え、現地の人たちが積極的に植えるような種類の木が選ばれました。
 このようにアンズも砂漠化等の環境問題に多少の貢献をしている事実を、頭の片隅においてジャムや乾果物を味わって食するのもいいかも。

2021年7月5日
 ねむの木

 コロナ禍で運動と言えば近隣散歩しかなく近くの千葉県手賀沼周辺を散策(最近は徘徊に近いが)することが多くなったが、時期(6月~7月)が植物の生長、開花時期であるため野草の花も樹木の花や葉っぱ等が生き生きしている姿に心癒される。
 手賀沼に流れ込む大津川土手を午後歩いていると、ネムノキ(合歓の木)(英語ではsilk tree)の枝先に糸状の紅色のおしべが放射状に付き花全体の形が傘状に咲き誇っていた。生息地として川岸や原野に多いので、都会ではあまり見る機会が少なくなったような気がしているが、皇居東御苑の二の丸雑木林・二の丸池東側で開花しているのを見たことがある。しかし我々の年代は大抵の人がこの花を知っていると思う。少なくともその名は知っているだろう。

 日暮れ時ネムノキはゆっくりと葉を閉じ始める。完全に閉じるまでほぼ1時間。そして花は葉の就眠運動に逆らうように夕方開いて翌日にしぼむ。夜になると葉は垂れ下がり、小葉を閉じて眠っているように見える(就眠運動という)。よく似た花に同じマメ科のオジギソウ(多年草)がある。オジギソウは触ると瞬時に葉を閉じるが、ネムノキは夕方になるとゆっくりと自分で葉を閉じる。
 夏の季語であり、ネムノキ(ねぶの花)をうたった芭蕉の「奥の細道」に出てくる俳句に「象潟(きさかた)や 雨に西施(せいし)が ねぶの花」というのがある。西施は古代中国の美人の事で、雨に濡れたネムの花は、長いまつげを伏せた様子になぞられたものだろうか? また、「合歓」という言葉は、中国では男女の共寝を意味しており、万葉集の歌の中(ねぶ・万葉表記)にもこのイメージをうかがわせる歌が三首ある。
 そもそも夕方になると葉を閉じるので、まるで木自身が眠っているように感じられることから、眠る木→寝むの木→ネムノキ となったという。また漢字の「合歓の木」と書く由来は、中国の伝説に夫が不機嫌になると、妻はこの木の花を少量酒に入れて飲ませるとすっかり機嫌がよくなるので、一家和合(夫婦円満の象徴)の木の意からきたという。このことから花言葉として「歓喜」「胸のときめき」と言われている。

 さてネムノキと聞いてあなたは樹木のほかに何を連想されますか? 私は宮城まり子さんと上皇后美智子様を思い浮べました。そうです宮城まり子さんは「ねむの木学園」創設者です。上皇后美智子様は「ねむの木の子守歌」を作詞されました。
 宮城まり子さんは我々年代には懐かしい「毒消しいらんかね」(1953年)や「ガード下の靴みがき」(1955年)の歌がラジオから流れるのを聞いた方が多いと思う。彼女は脳性まひの子供役を演じる際、施設を訪問したことが運命を変えたそうです。重度の障害がある子が義務教育の機会を与えられていない現状(就学猶予という法があったため)を知り、1968年静岡県に日本初の体が不自由な子のための養護施設「ねむの木学園」を私財を投げ打って設立しました。学園用地建設用地を探す中で地域の理解がなかなか得られなく、最初は静岡県浜岡に開設しましたが、その視察時に周辺にねむの木がいっぱい自生したいたのでねむの木学園と付けたそうです。その後1997年掛川市へ移転しましたが、ここにもねむの木があり喜んだそうです。
 又、上皇后美智子様ですが、宮城まり子さんと同様に障害者に寄り添ってきたお二人は40年以上の交流があったそうです。上皇后様が高校2年の時「ねむの木の子守歌」という詩を作られ、後に曲がつけられて(作曲は故山本直純氏の夫人・山本正美さん)、1966年に吉永小百合、梓みちよ達がレコード化して一般に知られるようになりました。この歌は1965年11月の秋篠宮文仁殿下ご誕生に合わせて作曲され献上された子守歌だそうです。

 ところでコロナ禍で各地のお祭り等が中止になっていますが、東北地方から北関東の各地で行われてきた旧暦7月7日の行事の一つに「ねぶた祭」がありますが、この祭りもネムノキに関係があるようです。
 特に青森県で盛大な祭りとなっている「ねぶた」の名は、睡魔を流しはらうとして豆の葉やネムノキの葉で眼をこすって流す「眠た流し」(「眠り流し」ともいう)の行事に由来するといわれる。ネムノキを「ねぶた」と呼び、家の柱につけて悪魔を眠らせるところや、7日早朝に子供が川で水浴びすることを「ねぶた」というところもある。いずれも悪疫を払う意味ある行事で、これに盆行事の霊を送る火祭りが結びついたものが、青森県内で盛大に行われている「ねぶた祭」と考えられている(諸説あり)。

 このように身近なたった一つの植物でも調べてみると、いろいろな話題があり面白いものですよ。皆さんもお気に入りの植物を散歩途中にて探されてはどうですか!! 図書館書籍なりインターネット等にて調べるのも老化防止にはいいのかも??

2021年6月21日
 アジサイ

 6月上旬に千葉県松戸市にある「日蓮宗 本土寺(アジサイ寺)」に、約30年ぶりにアジサイ見物に行きましたが、コロナ禍にもかかわらず、庭園内はアジサイの満開とあってそれなりの人出でした。ちなみに「関東のアジサイ名所15選」にも入っているようです。 社務所に今年のアジサイの開花状況等をお尋ねしたところ、例年6月中旬過ぎが満開時期なのだが、ここ数年前から10日前後開花時期が早まってきたのを痛感しているとのお話。「やはり温暖化のせいでしょうかね?」とにこやかな返事が印象的でした。

 自宅に帰り「アジサイ(紫陽花)」に関し調べてみました。
 アジサイはガクアジサイの花序(枝上における花の配列状態)全体が装飾花に変化したもので、古くから栽培されており、梅雨の花の代表です。
 アジサイの和名について調べると「集真藍(あづさい)」という色から来ており、「アズ(集まる)」、「サアイ(真の藍色)を指し、青(藍)い花が集まって咲く様子との事。漢字では「紫陽花」と書きますが、もともとは唐時代の詩人である白楽天が書いた「白氏文集律詩」に収められている漢詩の一節が由来です。
 その詩の中で白楽天は、友人からある花の名前を聞かれ答える際に「陽光に映える紫色の花なので、紫陽花とでもしておこう」と詠みました。しかし白楽天が生きていたころには私たちがイメージする紫陽花はなかったはずです。したがって白楽天が詠んだ「紫陽花」は別の種類の花という事に成ります。
 実は今日の「紫陽花」と表記されるようになったのは、平安時代の歌人であった源順(みなもとのしたごう)の勘違いが原因です。源順は「陽光に映える紫の花」と聞いて、日本古来の「ガクアジサイ」のことだと思い込み、紫陽花を当て字で「アジサイ」と呼ぶようになったと言われています。
 又、アジサイを初めて世界に紹介したのはオランダのシーボルトで、当時シーボルトはこの花に随分感動したようで、妻の榎本滝の愛称「おたきさん」を花の学名にあてたようです。

 なお、アジサイ(紫陽花)の色が変わるのは、「土壌の性質」と「花の老化現象」です。
 アジサイの土壌のPH(酸性度)によって花の色が変わり一般に「酸性ならば青、アルカリなら赤」になるといわれます。また、近年人気のある秋色アジサイは、ピンク色や青色から少しずつ緑色になり、秋を迎えるころにはくすんだ渋い色に変化していきますが、これは花に含まれる色素の分解によって起き、花の老化現象の一つと言われています。このような性質を持つことから、アジサイはいろいろな花色があるのです。そして、アジサイには花色による「花言葉」もあります。アジサイの花言葉「団らん」「和気あいあい」「家族」は、小さな花がひしめき合って咲いているように見えることに由来しています。またアジサイは咲いている時期の中でも変化をしたり、土によって花の色がいつの間にか変化したりする花です。その性質に由来して「変節」「移り気」「浮気」という花言葉がつけられたともいわれます。

 アジサイが日本の市町村の花、木として制定されている市町村がいくつかありますが、多いのは千葉県6市町村、神奈川県5市町村となっています。
 ところであなたのお住いの市町村の「花」「木」「鳥」をご存知ですか? 知っていると近隣を散歩する際に四季の変化を感じ取るのに役立つのでは!!