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2022年12月19日
 カラスウリ

 最近、カラスウリを見かけたことがありますか。我々の小学校時代前後には、周りに川や畑、草地、林等があり、自然環境豊かな世界がありましたが、人口増加等々により、その自然環境も大分変わってしまい、カラスウリもあまり身近には見かけなくなったのではないでしょうか。
 今回は、私の住まいする地域はまだ自然環境が残っており、散策途中に見かけるカラスウリを取り上げてみました。

 カラスウリ(烏瓜、唐朱瓜)は日本の山野に自生するウリ科のつる性多年草。原産地は中国と日本。別名:玉梓(たまずさ)・ツチウリ・キツネノマクラ・ヤマウリ。和名カラスウリ。 山野で見かける多年草なので毎年同じ場所で見かける。つるを伸ばし、周囲の樹木に絡みついて大きくなる。果実は直径5~7cmの卵型形状で、形状は楕円形や丸いものなど様々。はじめは、薄緑色の地に縦縞が入った、小さな西洋スイカを思わせる姿だが(写真①)、10月から11月末に熟し、オレンジ色ないし朱色になり(写真②)、つるからぶら下げるように実らせる。なお実はトマトのようにも見えるが、野生の生き物や虫が食べることはあまりないので、実が腐ってしまい地面に落ちていることも多い。
 カラスウリはこの実が有名で、花はあまり印象に残らないようだ。カラスウリの花は日が暮れると開花し、朝には閉じてしまう一夜花。真白なレースのような不思議な花を咲かせる(写真③)。こうした目立つ花になった理由は、受粉のため夜行性のガを引き寄せるためであると考えられており、その役割を果たすのは大型のスズメガ(写真④)だ。これはカラスウリの花筒は非常に長く、スズメガ級の長い口吻を持ったガでなければ花の奥の蜜には到達することはできず、結果として送粉できないためである。

 カラスウリの種子は長さ約8mm、幅約6.5mmで、黒褐色で風変わりな形が特徴。中心部は盛り上がったように厚みがあり、そこから3方向に突き出した突起がある(写真⑤)。この形状が大黒様のお腹のようで縁起がいいとか、打ち出の小槌のようだからという理由で、お財布に入れておくと金運が上がると言われている。
 また、カラスウリの種子はその形が結び文のようだということで、玉梓(たまずさ)という色っぽい別名もある。(結び文とは、手紙を折りたたんで、アヅサ(梓)の小枝にはさんだもの。「玉」という美称がついて「玉づさ」になった。)その奥ゆかしい別名を知ると、カラウスリがいっそう愛おしく思われるという感慨を、正岡子規はこう詠んでいる。
 道の辺に生ふる烏瓜又の名を 玉づさといふ聞けばゆかしく

 さてここで語源としてのカラスウリだが、同じ仲間の植物のうち、花や実が相対的に大きい種類には「カラス」、これらが小さい種類には「スズメ」の名が付けられることがあるが、「カラスウリ」と「スズメウリ」もその例である。
 カラスウリは前述のように、直径7~10cm程度の花を咲かせ、直径5~7cm程度の実をつける。花は白くレース状で、夏の夜に開花。その後、秋に朱色の実をつける。実が大きいので、遠くからでもよく目立つ。スズメウリ(写真⑥)は直径6mm程度の花を咲かせ、直径1~2cm程度の実をつける。確かに、カラスウリに比べるとかなり小ぶり。花は白色、実ははじめ緑色で、熟すと白っぽい色になる。
 他にも、カラスウリの葉が大きく生育旺盛なので、絡みついた木を枯らしてしまうことから、「枯らす瓜」がカラスウリになったという説もある。さらに、果実の色や形が平安時代に中国(唐)から輸入された染料の「朱」の鉱石(辰砂)を練って固めたものに似ていたので、「唐朱瓜(カラシュウリ)」と呼ばれたとの説もあるが、朱(辰砂)は「魏志倭人伝」に日本で産することが記述されるなど、もともと日本にも産する鉱物であり、中国から輸入されるようになるのは、戦国時代ごろになってからとされる。
 万葉集などには本種の名は登場しないが、平安時代に著された「本草和名」には「加良須宇利(カラスウリ)」と万葉仮名で記載されており、戦国時代より前には、すでにカラスウリと呼ばれていたようだ。

 カラスウリの仲間にキカラスウリ(黄烏瓜)という植物がある。キカラスウリは、カラスウリとよく似た一夜花を咲かせる。花も葉もカラスウリより大きいのでよく観察すれば区別がつく。キカラスウリの実は7~10㎝と大きく、球形または広楕円形で、熟すと黄色く色付くのが特徴(カラスウリの実は赤色、5~7cm程度のたまご型)。キカラスウリの種子は平坦で打ち出の小槌のような形をしていない、金運とは無縁な形状。
 利用としては、中国では医薬原料として活用されており、果実・種子・塊根ともに生薬として利用されて、かつては日本でも、しもやけの薬として実から取れるエキスが使用された。また、カラスウリの根を煎じて、ぜんそく薬にしたり、果汁を手足などのひびに塗ったりするという伝統的民間療法が長野県阿智、喬木村などに残っている。
 カラスウリの根は、地下で球根になっている。これをカラスウリの芋と呼ぶことがある。球根と言ってもチューリップやヒヤシンスの球根のような形状ではなく、蓮根や赤くないサツマイモに似ている。
 懐かしいのは、カラスウリの塊根からは良質のデンプンが採れ、かつては「天花粉」という名前で赤ん坊の肌を守るのに使われていた。そのために、大型で同属のキカラスウリを栽培していたほど。今では、農薬の使用によって受粉を媒介するスズメガが激減した。現在のベビーパウダーは、コーンスターチで作られているそうだ。

 カラスウリの花言葉に「良い便り」があり、結び文(前述)に由来する。また、カラスウリには「男嫌い」という花言葉がついている。夜にひっそりときれいな花を咲かせ、誰にも知られず夜明けには花を終わらせてしまう様子からついた花言葉。カラスウリの特徴的な花の咲き方に由来している変わった花言葉がついている。
 文学面からみると、花が咲き終わると、カラスウリは不思議な行動をとる。それまで上へ上へと伸びていたつるの一部が方向を転じ、地面を目指して急降下していく。地表に着くと、そこから根を伸ばし、新しい塊根を作る。
 岩手県の詩人・童話作家の宮沢賢治は、こうしたカラスウリの性質を、天上と地上、生と死を結ぶ連絡回路と捉えた。有名な「銀河鉄道の夜」では、「星祭り(七夕)」の夜に、子どもたちが「烏瓜のあかり」をこしらえて川へ流しにいく印象的な描写がある。モデルになったのが、8月中旬に盛岡の北上川で行われる「舟っこ流し」。提灯や紙花で飾り火をつけて川に流す、お盆の精霊舟の一種。作中には「青いあかり」という表現もあることから、カラスウリの提灯作りには、熟す前の青い実が使われたことがわかる。
 俳句には、カラスウリを詠んだ句に夜に咲く花の句は見当たらず、ほとんどが赤い実を詠んでいる。

  溝川や水に引かるる烏瓜  (一茶)
  蔓切れてはね上がりたる烏瓜  (高浜虚子)

 余談だが、カラスウリの英語の名前は、Japanese snake gourd(ジャパニーズ・スネーク・ゴード)。英名の由来はわからないが、スネーク・ゴードとは熱帯アジアの国や地域で食用にされるヘビウリという野菜のこと。このヘビウリもカラスウリ属の仲間。ヘビウリの実はヘビのように長く、曲がった奇妙な形状をしていて、花はカラスウリによく似た花を日中に咲かせるそうだ。

 皆様も散策途中にカラスウリを見かけたら、実を分解して、内部の種子を取出し、財布に入れてみてはいかがですか? 私も以前から入れているのですが、支出が多い種子(打出の小槌)を入れてしまったようで収入はさっぱりです。くれぐれも型の良い種子を入れてくださいね!

2022年10月24日
 ナナカマド

 3年ぶりに北海道大雪山国立公園の紅葉を見たく、9月末から10月上旬にかけ、赤岳と黒岳ともにロープウェイ利用し、特にナナカマドの紅葉を目にしてきました。
 今年は天候異変なのか1週間ほど早く、9月中旬には赤岳、黒岳の頂上付近では紅葉が満開になったようで、9月下旬には徐々に下に降りていく状況でした。
 今回はこのナナカマドを取り上げますが、皆さんは紅葉の時期に目にしたことがありますか。特に樹木としては北海道を中心に東北地方に多いので、関東以南にお住まいの方は、ナナカマドの紅葉を目にする機会が少ないのではないかと思います。都内でも公園等には何本か植樹されており、10月下旬から11月中旬には見られると思いますので、散歩がてら出かけられてはいかがですか。

 ナナカマドは初夏に純白の花を咲かせる(写真①:花は4月下旬から5月頃に咲く)。秋にできる果実は直径5~6ミリの球形で、枝先にまとまって垂れ下がる(写真②)。
 ナナカマドは、日本、樺太、朝鮮半島原産の、バラ科ナナカマド属の落葉広葉樹。別名では、オオナナカマド、エゾナナカマドともよばれる。北海道から九州まで分布し、秋、葉の紅葉や赤い実がとても美しく(写真④)、北海道や東北地方では街路樹や公園樹としてよく植えられている。特に北海道では34の市町村で自治体の木に指定している。近縁種はアジアやヨーロッパの各地に自生し、中国では「花楸樹」という。

 果実が赤く熟すのは9~11月だが、落葉後もしばらく枝に残り、熟しきった頃にツキノワグマやツグミ、ムクドリ、ウソ、アトリ、キレンジャクなどの野鳥が好んで食べるようになる。フランスではセイヨウナナカマドを「ツグミの木」と呼ぶ。
 葉は長さ3~7センチの小さな葉が4~7対集まって、長さ15~20センチの羽根状になる(写真③)。成長が遅いため幹の直径は最大30センチほどにとどまる。新緑、花、紅葉、実と全て鑑賞に値するが、寒冷地を好むので、都市部などの暖地では育ちにくい。

 ナナカマドの語源と由来だが、ナナカマドは材が堅く、7回カマドに入れても燃え尽きないという説と、良質の炭を作るには7回(あるいは7日間)カマドに入れる必要があることによるとする説がある。ただし実際にはよく燃え、良質の灰ができる。
 ナナカマドは燃えにくい木で、7日間、かまどに入れることで極上の炭を得ることができるため「七日竈」と呼ぶようになり、「ナナカマド(七竈)」になったと考えられる。「七日」は「なぬか」「なのか」なので、「ナヌカマド」や「ナノカマド」でない点で疑問はあるが、「七」という数だけを重視したとすれば「ナナカマド」でも通じる。 生け花の世界ではライデンボク(雷電木)あるいはライデンと呼ぶことが多い。この別名は、「赤い実のなる木」を意味する「赤実成り木(あかみなりき)」の「あ」が忘れられて「かみなりのき」になったことに由来するという。

 ところでナナカマドの真っ赤な実は、気温が下がって葉が枯れ落ちて雪に覆われても、厳寒の雪の中で何故腐らずに、赤い実を付けたまま落ちずにいられるのか。実はナナカマドの熟していない実には、ソルビン酸と言う成分が含まれており、そのことによって実が腐らない。
 ナナカマドの実は細菌や真菌を持っているが、ナナカマドのソルビン酸を取り込み、菌が死滅するので実が腐らなくなる。食品業界ではこのソルビン酸の作用を利用して、細菌やカビの増殖を防ぐための保存料として、蒲鉾やハムなど色々な食品に使用されている。
 鳥たちが食べる熟したナナカマドの実にもソルビン酸が含まれているが、鳥たちには影響は無いようだ。また、ナナカマドの実には毒があるのか、食べられるのかという事だが、ナナカマドの実には、青梅やアーモンド、リンゴの種などと同じ「シアン化合物」の毒が微量だが含まれている。
 では、そのナナカマドを鳥たちが食べられるのは何故か、また毒は大丈夫なのかと言うことになる。ナナカマドは完全に熟さないと毒があり苦み成分も強いが、熟した頃、雪によって実が凍ると毒が抜けるらしい(ナナカマドの実を冷凍庫で冷凍、解凍を繰り返し、加水分解処理をすると、苦みは取れ、毒素も分解される)。鳥たちもそれが解っていて、直ぐには食べずに、冬の初めなどに食べにくるようだ。
 ナナカマドは鳥達に食べられることによって、種を遠くへ運んでもらう。ナナカマドは、鳥達に実を食べてほしい時期には毒が抜けているようだ。

 ナナカマドの紅葉が綺麗になるための条件として、温度差が大きく光合成が促進されて、アントシアニンという物質ができることが必要で、これができないと綺麗に紅葉しなくなる。
 他にも、適度な湿度が必要になる。台風の襲来が少ないことも必要。台風は塩を含んでいるので、葉が枯れてしまうから。そのほか紅葉する前に大雪が降らないことなどもあげられる。

 ナナカマドは1年を通して季節ごとに色々な景色を見せてくれる。春は、真っ白な雪の結晶のような小さな花を沢山咲かせ(写真①)、花が終わると黄緑色の実を付け始める。
 大きく、急激に温度が下がることによって綺麗に色付く。また、光合成のための十分な日光が必要となる。
9月になると徐々に実が赤くなり、秋の紅葉の季節を迎える。ナナカマドの紅葉は、葉も実も真っ赤で(写真④)、一番の見頃と言える。
 冬になると葉が落ち真っ赤な実だけが残る。そこに雪が積もると、赤と白のコントラストがとても綺麗で、冬の景色を華やかにしてくれる(写真⑤)。その実を食べるために食事をしにくる鳥たちの姿を見ることができ、1年を通して楽しむことができるのがナナカマドだ。
 ナナカマドは高山に3種類ある。ウラジロナナカマド、ナナカマド、タカネナナカマドだ。この3種はよく似ており、見分けるのは難しいが花と葉で見分けるポイントだが、ここでは説明を省く。
 ただ標高でいうと一番標高が高いところを好むのがタカネナナカマド、ほぼ同じで少し低いところにも生えるウラジロナナカマド、高いところにも生えるが低いところに多いのがナナカマドだ。
 今回ロープウェイを利用した大雪山の標高は、旭岳(標高1,100~1,800m)、黒岳(標高670~1520m)であり、実際見たのはウラジロナナカマドであった。通常私たちが公園等で見るのは、ナナカマドという事になる。
利用面からは、実や紅葉が美しく、北海道などの北国では庭木や街路樹、公園樹として植栽され、花材としても用いられる。材は褐色で堅く細工物に適しており、ろくろ細工の材、彫刻材としても優良。樹皮は染料にする。果実は果実酒にも利用。
 炭としての利用からいうと、生材は燃えにくいが、乾燥させると燃料として優れている。この材で作られた炭は火力も強く火持ちも良いので、極上品とされる。ナナカマドで作られた堅炭は、備長炭の代用としてウナギの蒲焼きに珍重されている。

 日本での花言葉は、花名の由来(七回カマドで焼いても燃えにくい)に基づいて「慎重」という花言葉が付いている。海外での花言葉の由来だが、海外でも育てられているナナカマドは、英語で「Japanese rowan」という。
 「rowan」は北欧の言葉で「お守り」を意味し、北欧神話によると、雷神トールが大洪水でおぼれそうになった時、ナナカマドの木につかまって命を助けられ、船を作る時にナナカマドの木の板を1枚用いると水難に合わないと言ういわれがある。この神話から、ヨーロッパでは魔除けとして使われることが多い。そこからついた花言葉が「私はあなたを見守る」といわれている。また、ヨーロッパの各地で、ナナカマドの木を使って作った十字架を、魔よけとして家畜小屋や、教会の墓地にかける風習があったことによるとの事。

 ここで、ナナカマドと井上靖との関係だが、井上靖は旭川生まれであり、ナナカマドは旭川市の市民の木である。この旭川市に「井上靖記念会館」があり、ここにボランティア団体「井上靖ナナカマドの会」がある。
 何故団体名が「ナナカマドの会」なのか。井上靖は、明治40年(1907年)5月6日、現在の旭川市春光6条4丁目の師団官舎で生まれた。軍医であった父隼雄の従軍によって、約1年で旭川を離れたが、母やえが語る5月の旭川の美しさに、「私は誰よりも恵まれた出生を持っていると思った」と生誕の地、旭川への思いを記している。平成2年(1990年)9月には、旭川市が誕生して100年記念式典での特別講演と井上靖文学碑除幕のために旭市を訪ねている。この時に読んだ詩が、旭川市内の井上靖文学碑に残されている。
 「私は十七歳のこの町で生れ、いま、百歳のこの町を歩いている。何もかも、大きく変わったが、ただ一つ、変わらないものがあるとすれば、それは、雪をかぶったナナカマドの赤い実の洋燈(ランプ)!」。(写真⑤:井上靖はこのような光景のナナカマドを「赤い実のランプ」と詠っている。)
 他にも旭川市には三浦綾子記念文学館がある。この記念文学館は、市民による「民営」の文学館。ファンの方々の想いが結集されて、1998年6月13日に開館した。
 三浦綾子についての概略は、1922年4月、北海道旭川市生まれ。高等女学校卒業後、17歳から7年間小学校教師を勤めるが、太平洋戦争後、罪悪感と絶望を抱いて退職。その後、肺結核と脊椎カリエスを併発して13年間療養生活を送る。闘病中にキリスト教に出逢い、1952年に洗礼を受ける。1964年、朝日新聞の1000万円懸賞小説に「氷点」で入選し作家活動に入る。ナナカマドを小説の中に書くなど、三浦綾子はナナカマドを愛していたようである。

 この時期は、各地で様々な紅葉が見られると思いますので、積極的に散歩等にお出かけになってはいかがですか。

2022年9月20日
 クズ

 皆さん、クズ(葛)は野山等にはびこる雑草だと思っていませんか? 実はそうでないことをこの時期、特に実感しているので書いてみました。

 クズ(葛󠄀)は、マメ科クズ属のつる性の多年草。日本では、根を用いて食材の葛󠄀粉や漢方薬が作られ、万葉の昔から秋の七草の一つに数えられている(後述)。
 ツルはエンピツほどの太さで硬い茶色の毛があり、あらゆる物に絡みつきながら長さ10m以上になる。細いツル(写真① 毛が多く黄金色に輝く))を織ったものは葛布(くずふ)といい、着物や籠を作り、既に万葉集の時代にはこの繊維を使って織物をしたという記録がある。古事記や日本書紀にも「葛」が登場する。
 根もとは木質化し、地下では肥大した長芋状の塊根(写真② クズの根=寒根葛)となり、長さは1.5メートル、径は20センチに達する。葉は大型の三出複葉(写真③)で、長い葉柄で互生。
 花は8~9月の秋に咲き、葉腋から総状花序が上向きに立ち上がり、濃紺紫色の甘い芳香を発する蝶形花を房状に密集してつけ、下から順に咲かせる(写真④)。花色には変異がみられ、白いものをシロバナクズ、淡桃色のものをトキイロクズと呼ぶ。花後に褐色の剛毛に被われた枝豆に似た、長さ15センチメートルほどある扁平な果実(莢果・豆果)がなる(写真⑤ 果実は豆そのもの)。

 本来の生態は林や垣根の周囲や斜面を覆うように生育している「マント群落(人間がマントを着て寒さから身を守るように、森林の中に直接風が吹き込んだり、日光が直射して乾燥するのを防いでいる大切な群落)」と呼ばれるつる草や低木の代表種で、森林(特に社寺・屋敷林のような小面積のもの)の周辺・露出した裸地・斜面などを覆い、風や直射日光を防ぎ、土砂の崩壊を抑える役目を果たしており、特に森林内を自動車道路が貫通するような場合などは、クズなどを含むマント群落植物が道路周辺にあった方が森林を保護する効果がある(むき出しの場合風や光が入って木が枯れ、森林が後退しやすい)が、逆に森が切り開かれて林内の陰性の下生え植物が減ると、こうしたマント群落の植物が森林内部に侵入して林内が荒れた状態になる。
 温帯および暖帯に分布し、北海道から九州までの日本各地のほか、中国からフィリピン、インドネシア、ニューギニアに分布している。世界の侵略的外来種ワースト100選定種の一つ。

 植物名の「クズ」は漢字で書くと「葛」。これは後になってクズの中国名の「葛藤」の葛の字があてられたもの。
 語源の和名は、かつて大和国(現:奈良県)吉野川(紀の川)上流の国栖(くず)が葛󠄀粉の産地であったことに由来。国栖の人が、この植物を売り歩いたため、いつしかクズとよばれるようになったという説がある。
 日本の地方によっては、カイコズル、カンネ、クゾフジなどの名でもよばれている。また葉の裏の色は白っぽく、風に吹かれて葉裏が見えることから裏見草(うらみぐさ)と呼ばれ、「恨み」とかけて枕詞に使用された。また、葉は家畜の飼料になり、馬や山羊が好んで食べるため、ウマノボタモチ、ウマノオコワなどといった別名がある。

 漢方薬として役立つクズ(葛)は、日本や中国では薬物名として根を葛根(かっこん)、花が葛花(かっか)、葉は葛葉(かつよう)とよんで生薬にする。特に、根を乾燥させたものを生薬名葛根(かっこん)と呼ぶ。
 発汗作用・解熱作用・鎮痛作用があるとされ、特に風邪の初期症状に用いられる葛根湯の主薬。風邪や胃腸不良(下痢)の時の民間治療薬として古くから用いられてきた。
 また、花を乾燥させたものを生薬名葛花(かっか)と呼ぶ。有効成分は、イソフラボン。民間では二日酔いによいとされ、葛花1~3グラムを茶碗に入れて湯を注いで、冷たくしてから飲む。花は焼酎に漬け込んで、花酒にする。

 食用としての、葛根湯や葛粉の原料になるのは根の部分(写真② クズの根=寒根葛)。肥大した根は地下深くに潜伏しており、長さ1~2m、重さは十数キロを超すこともある。根にはデンプンを多く含み、これを精製した葛粉は和菓子に用いる葛切や葛湯になる。葛粉は、根の外皮を取ったものを乾燥させた後に砕き、水にさらして沈殿させる作業を繰り返して作る。収穫の適期は10月~翌月だが、根の掘り起こしや精製の手間がかかるため、現代の葛粉はジャガイモで代用されることが多い。
 葛の様々な使い方として、葛布があり、葛布(くずふ、くずぬの、かっぷ)とは、葛の繊維を紡いだ糸からつくられる織物。日本では古墳時代前期に九州の大宰府にある菖蒲が浦古墳で鏡に付着した葛布が出土し、これが日本最古の葛布と言われる。
 奈良時代にも、正倉院文書に葛布の盗難届けが出ているほか、万葉集にも幾つか葛布を詠んだ歌がある。
 平安時代には、養老律令の延喜式に葛布の染色方法が載っていて、平家物語にも葛布で作られた袴を指す「葛袴」がしばしば描写されている江戸時代には、公家の直垂、狩衣、武士の陣羽織、裃、火事羽織、道中着などに用いられ、遠州掛川がその特産地として有名になった。

 余談として葛粉を作るのは大変なのです。基本的に葛粉とは高価な食材。クズ根を掘ることの重労働、精製にかかる手間暇、それに加えて根に含まれるデンプンの割合がたった10%以下だそうです。わが国には原料のクズ根は豊富にあるのですが、掘り手がないため原料は入手困難に陥っている現状。
 土中深く眠る山の宝物、寒根(かんね)。寒根とは、希少な本葛(本くず粉)の原料となる葛の根のこと。たっぷりと澱粉を蓄える晩秋から新芽が出る春先までの数ヶ月の間に収穫したものが原料となる(写真②)。その寒根を山に分け入って探し出し、クワとスコップだけで深い穴を掘り収穫する職人のことを、「掘り子」さんと呼ぶ。

 生産地は現在、葛生産では鹿児島が日本一。現在、製葛(せいかつ)は奈良、福岡、鹿児島、石川、福井、島根県などで行われている。 良質の葛粉を作るためには、水は清く冷たく空気は乾燥していなければいけない。これまでは良質な水と冬の寒さが厳しい奈良県の吉野葛、福岡県の秋月葛などが有名な産地でした。しかし、生産者の高齢化及び減少、原料の枯渇などにより現在、生産日本一は鹿児島県(鹿屋市などの大隅半島)となっている。葛の原産地である鹿児島大隅半島(高隈連山)は、シラス台地の地層により清らかな水が流れ、冬は、雪が積もるほど寒い環境で、空気も乾燥しているから。

 ところで、クズ(葛)とかずらの違いわかりますか。
 かずらとは、つる植物の総称。漢字ではかずら(葛)と書く。クズは丈夫で身近なつる植物だったため葛の字を当てられ、「クズ(葛)」となったのだろうと言われている。
 同じ「葛」の字でも「かずら」と読めばつる植物の総称であり、「くず」と読めばクズという植物のことを指す。ちょっとややこしいが、前後の文脈から読み取るしかないですね。

 なお、クズは秋の七草の一つに数えられている。秋の七草とは、女郎花(オミナエシ)、尾花(ススキ)、桔梗(キキョウ)、撫子(ナデシコ)、藤袴(フジバカマ)、葛花(クズ)、萩(ハギ)の7種類のことを指し、万葉集にある山上憶良の歌に由来するといわれる。

 食の文献としては、平安時代、日本で最初の百科事典と言われている「倭名類聚抄」(931~938)に葛の記述が見られることから、当時から葛に対する認識が明確にあったと推察される。
 鎌倉・室町時代は、朝廷・貴族に代わって武士が台頭した時代。戦に明け暮れ、文献や記録そのものが消失したり破棄されたりして、あまり残っていない。
 次に葛の記述が出てくるのは、江戸時代の初期。料理専門書としては日本最古の書物と言われる「料理物語」(1642)のなかに、葛粉を使った料理が紹介されている。その中の「水繊(すいせん)」という料理は、「葛粉をねり、砂糖を入れて湯煮し、冷やして短冊形に切り、黄白二色をまじえて水仙の花に似せた菓子」という美的で繊細な料理であったことがわかる。
 江戸中期、近松門左衛門らが活躍し浄瑠璃や歌舞伎が盛んになる時代、商人の台所を預かる料理人が使ったとされる「古今名物御前菓子秘伝抄」(1718)というお菓子づくりの本が出版されている。そこでは、「葛餅、羊羹は吉野葛を使え」と書かれている。

 葛切りとは、くず粉を水に溶かして固めたものを麺状に細長く切ったもの。よく似たものに、ところてんや寒天などが挙げられるが、これらは使用されている原料の全く異なる別の食べ物。
 葛切りは、黒蜜やきな粉をかけて食べる甘味で、その原料のくず粉は葛切りの他にも、水まんじゅうに使用されたり、料理にとろみをつける際にも用いられる。葛切りのつるんとした食感は、くず粉に含まれているでんぷん質によるもの。葛切りは、京都・祇園の老舗の和菓子店が発祥だとされていて、なんとその和菓子店は300年ほどの歴史を持っているそうだ。ちなみに、葛切りと混同しやすいところてんは天草と呼ばれる海草が原料で、三杯酢をかけてさっぱりと食べる場合もある。
 また、寒天の原料も天草という海藻だが、寒天はところてんを凍らせて水分を抜かれたもの。甘味のあんみつに使用されたり、フルーツや牛乳寒天など、いろんな楽しみ方があるのが寒天の特徴。

 クズは春から初秋までの期間は葉で形成した光合成した生産物を貯蓄に回さずに勢力拡大に使用し、お盆を過ぎる頃になってはじめて貯蓄を開始する。したがって、刈り取る場合にはお盆の頃に実施すると最もダメージを与えることができる。秋まで光合成産物を貯蓄にまわさず、ひたすら生長に振り向けて勢力を拡大するのがクズの戦略(写真⑥ 樹齢を重ねるとこんなに太くなる)。
 また、ツル植物の少ないアメリカでは、工事で発生した裸地などの緑化に苦労していた。荒れ地に生育する植物の1つとしてクズが選ばれ、持ち帰られた。茎を挿し木することによって簡単に殖やすことができるので、裸地の緑化に用いられた。当初、クズによる緑化は大成功し、飼料としても優秀であったこともあって重宝がられたが、その後クズは大繁茂し、電線を切断したり牧場の小屋を覆ってしまうなどの被害が出た。現在ではアメリカ東南部のジョージア州を中心に広がっており、駆除すべき害草に指定されている。
 今度クズ(葛)を見かけたら、じっくり観察してはいかがですか。

2022年8月22日
 ヒマワリ

 皆さんは、最近たくさん咲いているヒマワリ畑等を見かけた事はありますか。昔は身近でよく見られたヒマワリですが、昨今は身近なところでは見られなくなった気がします。今回はこのヒマワリに関して記してみました。
 ヒマワリ(向日葵)は、キク科の一年草の植物で、高さ3mくらいまで成長し、夏から秋にかなり大きな黄色の花を咲かせる。日廻りや日回りと表記されることもあり、また、ニチリンソウ(日輪草)、ヒグルマ(日車)、ヒグルマソウ(日車草)、ヒマワリソウ(日回り草)とも呼ばれる。
 種を食用や油とするため、あるいは花を花卉(かき)として観賞するために広く栽培される。また、ヒマワリは夏の季語であり、ロシアとウクライナ、ペルーの国花になっている。

 ここで神話でも語られているので(後述)、ヒマワリは太陽に向けて一日中花を動かしているのだと思う方も多いのではないだろうか。実は太陽に向かうように動くのは、光をたっぷり浴びて光合成をする必要がある若い苗だけ。ある程度つぼみが大きくなると成長する必要がなくなるため、ほとんど動かなくなってしまう。この時、日照を遮るものがない場合、花は東向きでとまる(後述)。
 花弁は大きな1つの花のように見えるが、実際は頭状花序と呼ばれ、多数の花が集まって1つの花の形を形成している(写真①)。花びらに見える黄色の部分は“舌状花”と呼ばれ、1枚1枚が独立した花となっている(写真②;外側には複数の舌状花)。そして真ん中の黒い部分は、1つひとつが“管状花”という花で、受粉して種をつける(写真③;黒い部分も1つずつが花)。
 輪の大きな花に見えるヒマワリは、この“舌状花”と“管状花”が集まって1つの形を作っている。これはキク科の植物に見られる大きな特徴。
 種は長卵形でやや平たい。種皮色は油料用品種が黒色であり、食用や観賞用品種には長軸方向に黒と白の縞模様がある(写真④;食用)。

 和名の由来は、太陽の動きにつれてその方向を追うように花が回るといわれたことから。
 ヒマワリは英名で、sunflower(サンフラワー)と呼ばれる。これは、ヒマワリの花姿が太陽に似ているからという説や、「following the sun(太陽に従う)」から、「sun-follow」になり「sunflower」に変わっていったという説などがある。英名でもヒマワリは、太陽と関連して名前が付けられた。

 ヒマワリの原産地は北アメリカ大陸西部であると考えられている。既に紀元前からアメリカ先住民の食用作物として栽培されていた。1510年、スペイン人がヒマワリの種を持ち帰り、マドリード植物園で栽培を開始した。マドリード植物園はダリアやコスモスが最初に栽培されたことでも有名。
 ヒマワリがスペイン国外に持ち出されるまで100年近くを要し、ようやく17世紀に至りフランス、次にロシアに伝わった。ロシアに到達してはじめて、その種子に大きな価値が認められた。
 ロシア正教会は聖枝祭前の6週間を大斎とし、食物品目の制限による斎(ものいみ)を行う。19世紀の初期にはほとんど全ての油脂食品が禁止食品のリストに載っていた。しかしヒマワリは教会の法学者に知られていなかったのか、そのリストにはなかった。こうした事情から、正教徒の多いロシア人たちは教会法と矛盾なく食用可能なヒマワリ種子を煎って常食とした。その後、19世紀半ばには民衆に普及し、ロシアが食用ヒマワリ生産の世界の先進国となった。
 また、ヒマワリはヨーロッパから中国に伝わり、1660年代後半日本へやって来た。日本にヒマワリが伝わったのは、スペインでヒマワリが栽培されてから100年ほどが経ってからになる。またヒマワリと日本で呼ばれるようになってきたのは、1700年頃と言われている。

 ここで当時のヒマワリの食べ方は、様々な方法があったとされている。例えばヒマワリの種をつぶし、お菓子やパンの生地として使ったり、他の肉などの食材とヒマワリの種を混ぜて食べたり、そのままだけではなく焼くことや他の食材と混ぜることもされていたようだ。
 種は絞って搾油されヒマワリ油として利用。ヒマワリ油には不飽和脂肪酸(血中コレストロールの低下作用などを持つ)が多く含まれる。パンを焼く時に使われる油も、ヒマワリの種を絞って使っていたのではないかという説もある。また、煎って食用とすることもできる。中国や米国ではおやつとして好まれる。このようにヒマワリは加工の方法が、たくさんあったことがうかがえる。
 ヒマワリの生産地域はロシア周辺のヨーロッパに偏っている。5割強がヨーロッパ州に集中しており、アジア州と南アメリカ州がそれぞれ2割弱を生産している。その中でも、ウクライナ…13630千トン、ロシア…11010千トン、アルゼンチン…3000千トン、中国…2590千トン、ルーマニア…2030千トンとなっている。

 実はヒマワリは種類がとても多い花。野生種だけでも60種もある。もともとは北アメリカ原産で、今でもアメリカでは野生のヒマワリが道端に咲いている光景を見ることができる。大輪の花を咲かせるものは品種改良されたものがほとんどで、野生種の花はさほど大きくない。
 ヒマワリはいつも太陽の方向を向いていることから「向日葵」と呼ばれるようになった、という話は有名だが、実はヒマワリが動くのは花を咲かせる前の伸長成長をしている時で、ちょうど花を咲かせる頃に動かなくなる。ヒマワリは、日の出の前に東を向いてスタンバイし、太陽が上り始めるとその光の方向に合わせて東から西へ向きを変える。そして、夜の間にまた、西から東の方へ向きを変え、日の出を待つ。この動きをするのは、伸長成長をしている時期で、花を咲かせると東に向きを固定しほとんど動かなくなる。
 このメカニズムは、光の刺激とサーカディアンリズム(概日リズム)が関与している。太陽がのぼっている間は、植物ホルモンであるジベレリンの一種が、光が当たった方と反対側の茎だけを成長させるため、茎は太陽の方向に倒れる。日が沈むと、今度は外界の刺激とは関係なく、昼間とは反対側の茎を成長させることにより、茎は夜の間にまた東の方向に戻る。
 サーカディアンリズムとは体内時計とも言われ、生物が持っている24時間周期の生理現象。このリズムは、一般的に外的な刺激によって補正され、ヒマワリも光を感じることによって、24時間周期のホルモン分泌に伴った茎の屈曲を維持していることが明らかになっている。  ここで面白い実験報告がある。ヒマワリの花を西向きにしたとすると、東向きにした場合に比べて訪れる昆虫が減少した。ヒマワリの花は東を向くことによって朝日を浴び、早朝から花の温度を上昇させることができる。花を訪れる昆虫は、気温が低い時には暖かい花に好んで訪れる習性があることが報告されている。ヒマワリを訪れる昆虫も、夜間に下がった体温を上げるために早朝は、暖かい花を好んでいると考えられる。
 ここで西向きにしたヒマワリを、ヒーターを用いて東向きのヒマワリと同様の温度に熱すると、訪れる昆虫の数が増加した。このため、花が東向きであるのは朝日でヒマワリの花を温め、多くの訪花昆虫を呼ぶということが理由の一つではないかと考えられている、との事。

 ひまわりの花言葉は「熱愛」「あこがれ」「わたしの目はあなただけを見つめる」など、情熱的な花言葉を持つ。この花言葉のルーツはギリシャ神話からと言われている。この話は、ギリシャ神話の中に登場する大洋の神オケアノスの娘、水の精クリュティエが主人公。
 「ある日クリュティエは、太陽神アポロンに恋をしてしまいました。しかし、アポロンは女神カイアラピに恋をしていました。そのためクリュティエの恋は片思い。アポロンへの想いは、叶わぬ恋だったのです。
 クリュティエはそのことを悲しみ、毎日アポロンが空の道を黄金の馬車で東から西へ駆けていく様子を涙しながら見上げ過ごしていました。アポロンのことが好きだけれど、その気持ちは相手に届かない、という切ない気持ちを抱えながら、クリュティエは9日間同じ場所で立ち続け、ずっと地上から天空を見上げ、アポロンの姿を追っていました。すると、ずっと動くことのなかったクリュティエの足は地面に根を付けて、ヒマワリへと姿を変えてしまいました。」 このクリュティエのアポロンに対する強い想いが、ヒマワリの「あなただけを見つめる」という花言葉の由来なのだそうだ。また、ヒマワリが東から西に移動する太陽を追うのは、クリュティエが見続けたアポロンの乗った空を進む馬車と同じだとも言われている。

 ところで、皆さんは映画「ひまわり (1970年)」をご覧になった事がありますか。
 この映画「ひまわり」は、1970年のイタリア・フランス・ソビエト連邦・アメリカ合衆国のドラマ映画で、出演はマルチェロ・マストロヤンニとソフィア・ローレンなど。冷戦期にソビエト連邦で初めて撮影された西側諸国の映画。音楽をヘンリー・マンシーニが担当し、数多くの映画音楽を手がけたマンシーニの作品中でも特に評価は高く、主題曲は世界中でヒットした。
 概略は、戦争によって引き裂かれた夫婦の行く末を悲哀たっぷりに描いた作品で、地平線にまで及ぶ画面一面の「ひまわり畑」が評判となった。数あるローレン主演の映画の中で最も日本で愛されている作品ではないだろうか。
ロケ地となったひまわり畑はソビエト連邦時代のウクライナの首都キエフから南へ500キロメートルほど行ったヘルソン州にあるとされているが、NHKの現地取材ではポルタヴァ州のチェルニチー・ヤール村で行われたと特定されている。
 日本での初公開は1970年9月30日。なお2022年には半世紀前の舞台・ロケ地であるロシアのウクライナ侵攻を受け上映が行われた。また、先日(8/11)にNHKBSプレミアムで放映されたので久しぶりに鑑賞したが、社会人になりたての頃に映画館で鑑賞したことが、懐かしく思い出される印象的な映画であった。

 絵画として有名な「ひまわり」は、1888年8月から1890年1月にかけてフィンセント・ファン・ゴッホによって描かれた、花瓶に活けられた向日葵をモチーフとする複数の絵画の名称(写真⑤)。
 ファン・ゴッホにとっての向日葵は明るい南フランス(南仏)の太陽、ひいてはユートピアの象徴であったと言われている。南仏のアルル滞在時に盛んに描いた向日葵を、精神が破綻して精神病院での療養が始まってからは描いていないこともその根拠とされる。

 このように植物に関するストーリー等を含めて自然愛好家たちと語り合い日々散策しており、この夏も元気に過ごせそうだ。皆さんも自然に触れあうような散歩に出かけませんか。

2022年7月19日
 カワラナデシコ

 先日、久しぶりに隅田川沿いの都立公園に立ち寄って、早々と咲くカワラナデシコの花を数輪発見した。私が住む自然豊かな地域でも、なかなか見られないので、皆さんも懐かしいかと思い、記してみました。

 カワラナデシコ(河原撫子)(写真①;図②)とは日本原産の多年草で、生息している場所が主に河原であるためその名が付けられた。秋の七草の1つであるナデシコ(撫子)は本種のことを指す。別名(異名)はナデシコ、ヤマトナデシコ。
 ヤマトナデシコという呼び名は、中国産のカラナデシコ(唐撫子)との区別において用いられる。セキチク(石竹)とも呼ばれるカラナデシコは、万葉集にもその名が登場するほど古い時代に日本へやってきた。より小型で綺麗な花が咲くため園芸用として好まれ、これを母種としたイセナデシコ(写真③)もある。
 花のみならず葉や茎の様子も風流であり、万葉集、枕草子、源氏物語、更級日記などに取り上げられる。ナデシコという名は、かわいい子供の頭を撫でたくなるのと同じように、手で触れたくなるような可憐な花が咲くことによる。
 清少納言は「草の花はなでしこ。唐のはさらなり。大和のもいとめでたし」(枕草子)と、ナデシコを一番に挙げた。

 一般に秋の七草(図➀)といわれるものはカワラナデシコ、オミナエシ、ススキ、キキョウ、フジバカマ、クズ、ハギです。俳句の季語も秋です。山上憶良が読んだ「秋の七種」の短歌
  萩が花 尾花葛花撫子の花 女郎花また藤袴 朝顔の花
 に含まれており、古くから親しまれてきた。この短歌によって秋の七草とされており、秋の花というイメージが先行するものの、実際は梅雨の頃から咲き始める「夏の花」である。夏に花期を迎え、その開花期間が比較的長いため「トコナツ(常夏)」という別名がある。
 「秋の七草」は、厳しい冬を迎えるに当たり、美しい花を愛でながら、かつ、薬草としても効果のあるものが集められている。そのために「春の七草」の様に粥にして食べることはなく、主に観賞用として秋の風情を楽しむものです。

 主なる特徴として、初夏から秋にピンクや白、薄紫、紫、赤などの色の花を咲かせる。花びらの先には細かい刻みがある。茎の上部でいくつか枝分かれして、その先に花を付ける。カーネーションのように長めなガクが付いている特徴がある。葉は細くて長く、茎を巻き込むようについていて葉柄はない。草丈は30cm~50cmくらい。色は、淡紅色が一般的だが、白色(写真②)も多い。花が終わると円柱状の果実となり、先端が4裂して黒色の種子が出る。
 ナデシコの仲間は丈夫な性質を持ち、海岸から高山に至るまで広い範囲に分布する。広い意味ではカーネーションもナデシコの仲間であり、園芸品種を含めると世界に300種類以上ある。
 日本では江戸時代、盛んに様々な変り花が栽培された。いわば古典園芸植物の1つで、今も残る「伊勢(松阪)ナデシコ」(写真③)は三重県指定の天然記念物になっている。花びらの縁が長く垂れ下がるのが特徴。
 分布、生育地としては、日本では本州以西の四国、九州に広く分布するほか、沖縄諸島(久米島・渡名喜島)に少数が自生する。日本国外では朝鮮、中国、台湾に分布する。主に日当たりの良い草原や河原に生育するが、路傍や山地の斜面、海岸の砂浜等でも生育する。
 日本では、自生地の開発や園芸用の採集、動物による食害、外来種の影響等で減少している地域もある。また、カワラナデシコは草原等の開けた環境を好む種であり、そのような環境が遷移の進行に伴い、日当たりの悪い陰的な環境に変化すると生育に適さなくなる。これは自然現象ではあるが、昔は、草原や山地、河原等の環境は人の手により草刈や枝打ち等され、里山的な利用が行われてきた。これで、日当たりの良い開けた環境が継続してきたという背景がある。近年の人間の生活習慣の変化で、このような「人為的なかく乱」が行われなくなると、カワラナデシコに代表される人間と密接な関係のある普通種が、その自生地や個体数を減少させてしまう結果となりうる。

 カワラナデシコ(河原撫子)の花言葉の一つは、野に咲く可憐な姿から「可憐」と付けられている。さらに真逆のような「大胆」という花言葉もある。その由来は諸説あり、緑の草原の中で鮮やかな色の花が目立つことから付けられたという説があり、カワラナデシコ(河原撫子)の別名ヤマトナデシコ(大和撫子)に由来するとも言われている。ヤマトナデシコ(大和撫子)は日本女性の美しさを表す言葉としても使われるが、可憐なだけでなく、いざというときの芯の強さを持つ(大胆)という意味を含めてヤマトナデシコ(大和撫子)と呼ばれる日本女性の美しさが表現できることにちなむのではないかと言われている。
 日本の女子サッカーチームの愛称の「なでしこジャパン」のもとになった花でもおなじみです。

 ナデシコ(地域による変異が大きい種である)の仲間として、「シナノナデシコ」(写真④;図②)は本州中部(信濃)に多い品種で、背丈がより低く、花が紅紫色になる。また、「ハマナデシコ(別名フジナデシコ)」(写真⑤;図②)は、暖地の海岸に分布する品種で、過酷な環境に適応できるよう、丈夫な茎と厚めの葉を持っている。さらにタカネナデシコ(高嶺撫子)(図②)は、北海道及び本州の中部地方以北及びユーラシア大陸の高山帯に分布しており、草丈が低く20~30cm程度となる。ほかにもエゾカワラナデシコ(蝦夷河原撫子)等があり、北海道及び本州の中部地方以北及びユーラシア大陸に分布する。

 市町村の花に制定しているのは、まずは京都府の花。ほかに神奈川県の平塚市や秦野市、山梨県甲府市、富山県射水市、名古屋市名東区、神戸市西区等々。三重県の伊勢志摩地方には海岸にハマナデシコが多く自生しており、鳥羽市はこの花を市花にしている。宮崎県高鍋町は撫子紋が高鍋藩主秋月家の家紋だったこともあってナデシコが町の花になっている。

 薬用としても利用されており、開花期の全草を瞿麦(くばく;中国では、開花時期地上に出ている部分を刈りとって乾燥したものを、瞿麦といって生薬として用いる)、種子を乾燥したものを瞿麦子(くばくし)と称する。利尿作用や通経作用、消炎作用がある。
 意匠利用もあり、1994年(平成6年)1月24日に発売され、2014年(平成26年)3月31日まで販売された270円普通切手の意匠となった。

 文学的な点からいうと、宮沢賢治の童話「銀河鉄道の夜」には30種ほどの植物が登場するが、カワラナデシコも登場する。「銀河鉄道の夜」の最終章で「鉄の船」が出てくる前に「河原なでしこの花があちこち咲いてゐました」という記載がある。
 また、万葉集にはナデシコを詠んだ歌が長歌も含め26首ある。万葉表記では「石竹」「瞿麦」「奈泥之故」「奈弖之故」などとなっている。全体のほぼ4割を占める11首を大伴家持が詠んでいる。その多くで愛する女性をナデシコになぞらえている。
  うるはしみ 我(あ)が思(も)ふ君は なでしこが 花になそへて 見れど飽かぬかも
 家持がいかにナデシコを好んでいたのか、いかに女性を愛していたのか、その心情が私には体験的に伝わってくるような気がします。
 さらに紫式部の「源氏物語」にも登場するカワラナデシコ(河原撫子)の別名の「常夏」は、その巻名の一つ。「常夏」といえば源氏物語では、頭の中将(源氏物語が書かれた当時の官位。光源氏の年長の従兄に当たり、親友であり、義兄であり、恋の競争相手であり、また政敵でもあった人物)の忘れられない女性のこと。常夏と撫子というのは基本的に頭の中将が彼女らを呼ぶ呼び方で、常夏母子の呼び名はそれぞれ「常夏=夕顔」「撫子=玉鬘」です。常夏との間に生まれた娘のことは「撫子」と呼んでいました。常夏も撫子も「ナデシコ」の別名です。ナデシコは昔から愛された花だったのですね。

 保護上の点からは、カワラナデシコも生育地である四つの地方公共団体が作成したレッドデータブック(絶滅危惧種)に掲載されている。
  岩手県:Cランク(準絶滅危惧;存続基盤が脆弱な種)
  埼玉県:絶滅危惧II類。「鹿児島県」:準絶滅危惧
  沖縄県:絶滅危惧IA類
 絶滅危惧種とは、生息している数が減っていて絶滅してしまうかもしれない生物種のことをいう。
 絶滅の恐れがある野生生物の名簿のことを「レッドリスト」と呼び、国際的には国際自然保護連合(IUCN)が、日本では環境省やNGOなどが作成している。環境省が作成したレッドリストに基づいて記すと下記になる。
  ➀絶滅(EX):すでに絶滅したと考えられる種
  ②野生絶滅(EW):飼育・栽培下あるいは自然分布域の明らかに外側で野生化した状態でのみ存続している種
  ③絶滅危惧Ⅰ類(CR+EN):絶滅の危機に瀕している種
  ④絶滅危惧ⅠA類(CR):ごく近い将来における野生での絶滅の危険性が極めて高いもの
  ⑤絶滅危惧ⅠB類(EN):ⅠA類ほどではないが、近い将来における野生での絶滅の危険性が高いもの
  ⑥絶滅危惧Ⅱ類 (VU):絶滅の危険が増大している種
  ⑦準絶滅危惧(NT):現時点での絶滅危険度は小さいが、生息条件の変化によっては「絶滅危惧」に移行する可能性のある種

 現在では、地方によってはレットデータブックに記載されるまでに数を減らしてしまっているが、かつては誰もが知る植物だった事が伺える。それだけ日本の自然も変化してきている証です。
 皆さんも我々の幼少年期を思い浮かべるとき、自然の変化にお気づきでしょうか。

2022年6月27日
 ミズバショウ

 ほとんどの方が、ミズバショウ(水芭蕉)をご存じだと思いますが、私が毎年1~2回訪れている尾瀬を、コロナ禍の関係で6月上旬2年ぶりに2泊3日で歩いてきました。今年は例年より積雪量が多く、ミズバショウの開花が多少遅れたため丁度最盛期に歩いたようです(写真①:尾瀬ヶ原のミズバショウ)。また、私が自然環境観察等に興味を持った思い出の場所でもありますので、自身の復習も兼ね記したいと思います。

 ミズバショウ(サトイモ科ミズバショウ属)は湿地に自生し、発芽直後の葉間中央から純白の仏炎苞(ぶつえんほう)と呼ばれる苞を開く。これが花に見えるが仏炎苞は葉の変形したもの(写真②)。仏炎苞の中央にある円柱状の部分が小さな花が多数集まった花序(写真③:ブツブツに見えるひとつひとつが、オシベとメシベがある花)。
 ミズバショウは寒さには強く、暑さにはとても弱い植物。そのため日本では中部地方以北から北海道までに多く自生して、暖かい地方では育たない。ミズバショウの開花時期は平地で3月下旬~4月。最初は小さな花だが日に日に大きくなっていく。それとともに葉も大きく伸びるので、そのうち花が目立たなくなる。そのため、葉がまだ小さい咲き始めの頃がミズバショウの花の見頃と言える。
 葉は長楕円形で、花の咲き始めには苞の脇でかわいらしく佇んでいるが、夏には幅30センチ、長さ80~100センチにも達する。若葉には黒い斑点模様が多く、その様子と葉の形やサイズを牛の舌に擬え、ウシノベロ、ウシノベラ、ベコノシタと呼ぶ地方もある(写真④右:ミズバショウの葉)。
 ミズバショウの増え方は、中央にある肉穂花序(にくすいかじょ)が受粉すると種ができる。種が完熟すると穂が砕けて水面に落下。種は軽く浮きやすいので、水の流れに任せて別の場所に移動して定着する。その後約3年で花が咲くまでに成長。また種のほかに地下茎を伸ばすことで株を増やすこともできる。
 ミズバショウの毒性として、葉から出る汁が肌に触れるとかぶれる。また根には毒性があって、口にすると吐き気や呼吸困難などを起す。

 名の由来は、ミズバショウの葉がイトバショウ(写真④左:糸芭蕉)によく似ていて、水辺の花なので水芭蕉という名前が付いた。イトバショウは沖縄や奄美群島に生息して、草丈2m以上にもなる植物。葉から繊維を取って芭蕉布という生地が作られる。芭蕉布は沖縄や奄美群島の特産品で、薄くて着心地が涼しいので高温多湿な気候の沖縄や奄美群島では衣類として昔からよく利用されている。

 日本の各地に多数の群落があるが有名なのは尾瀬。「夏の思い出」(作詞:江間章子、作曲:中田喜直)で歌われているが、春に咲くミズバショウが、どうして夏の思い出として歌われるのかというと、尾瀬は標高が約1400m以上の冷涼な高地なので、雪解けした後の5月~6月が開花時期となる。その頃は平地ではもう初夏の陽気の季節なので、ミズバショウは夏の花、というイメージが強くなったと思われる。江間章子は2歳頃に母親の実家である岩手県北西部の八幡平市に移住し10年間過ごしたが、ここが夏でも水芭蕉を見ることのできる地域だったという事情があるようだ。
 なお、この歌で歌われるシャクナゲは、ツツジ科ツツジ属の低木で、花の色は白や赤が多く、黄色なども見られる。数多くの品種があるが、ここで歌われている「シャクナゲ」は、東北地方から中部地方までの山地・亜高山帯に分布するアズマシャクナゲではないかと推測される。アズマシャクナゲは紅紫色の花なので、「夏の思い出」の歌詞にある「石楠花色にたそがれる」とは、夕焼けの赤い色か、その夕焼けが消えかかる「黄昏(たそがれ)」時の空の色を表していると考えられる(写真⑤:アズマシャクナゲ)。
 なお俳句では、ミズバショウは夏の季語となっている。

 尾瀬は群馬県・福島県・新潟県の3県にまたがっていて、群馬側と福島側にある入り口から入る。広い敷地内の中で、特にミズバショウがたくさん群生している場所が尾瀬ヶ原(標高約1400m)と尾瀬沼(標高約1600m)。
 尾瀬ヶ原は東西に6km、南北に2kmの広大な湿原。広い草原に木道が長く伸びている風景は、みなさんもよくご存知だと思います。一方、尾瀬沼は尾瀬ヶ原よりも一段と標高が高く(約1600m)気温も低いため、ミズバショウの見頃は6月に入ってから。尾瀬沼は1周約10kmの尾瀬を代表する大きな沼。この尾瀬沼の周りにもミズバショウがたくさん群生していて、山と沼とミズバショウの素晴らしい景色が広がる。

 ミズバショウ属には、白いミズバショウとアメリカミズバショウの2種類しかない。アメリカミズバショウは北アメリカの西海岸に自生する種類の水芭蕉。別名を「黄色水芭蕉(コガネミズバショウ)」「キバナミズバショウ」ともいい、黄色の仏炎苞が特徴といえる。水芭蕉と同様に、湿地や水辺が主な生育地まるでスカンクのような臭気があるため、英名で「western skunk cabbage(ウェスタン・スカンク・キャベツ)」とも呼ばれている。
 では普通の白いミズバショウはどんな匂いなのか。実はミズバショウの匂いはほとんどなく、咲き終わりの頃にほんのりと甘い匂いがする程度。たくさん咲いている群生地では、風がない早朝にさわやかな清々しい匂いが漂うこともある。
 ミズバショウの仲間(サトイモ科で肉穂花序と仏炎苞が特徴の植物)としてはたくさんあるが、4つ挙げると一つはザゼンソウがある。このザゼンソウも肉穂花序や仏炎苞を持っていて、そこがミズバショウとよく似ている点。花姿が僧侶が座禅を組んでいるような様子に似ているので、ザゼンソウ(座禅草)という名前が付いた。葉はミズバショウとよく似ていて、花色が褐色なのでミズバショウと容易に見分けがつく。なんとなく「ブラックミズバショウ」的なザゼンソウ。山でよく見るおなじみのマムシグサ。トロピカルな観葉植物アンスリウム。ウェディングブーケにも使われる清楚なカラー(写真⑥:サトイモ科の仲間)。

 このミズバショウをツキノワグマクマが下剤に利用しているとの事。清楚な佇まいからはちょっと想像できないが、ミズバショウの葉の汁は触ると皮膚炎、根茎は誤食すると嘔吐や下痢になるなど、実は危険。冬眠から覚めたツキノワグマが老廃物排出のため、敢えてミズバショウを食べて下剤にするほど。ご存知のとおり熊は冬眠中絶食し、またその間排泄しません。普通ならば体内には毒素が溜まりますが、その対処方法がとても理にかなっている。
 まず冬眠前に、熊は木の実などの高カロリー、高タンパクを沢山食べる。そのまま冬眠すると醗酵し、毒素が体内に溜まるが、木の実以外に血液浄化や腸内で発生する悪臭物質を除去する作用があるクマ笹を大量に食べ、毒素発生を抑え、且つ冬眠直前に松脂を食べて肛門をふさぐとの事。
 そして冬眠あけに、熊は水芭蕉の根茎を食べる。水芭蕉の根茎には吐き気、下痢の作用があり、熊はそれを食べて体内の毒素を排出し、さらに大量のクマ笹も食べて体内を浄化させるとの事。熊の冬眠前後に適切な効能がある野草を食べることや、冬眠あけにタイミングよく雪どけした湿地から水芭蕉が芽をだすという本能や自然の流れに感心しきりです。
 なお、市町村の花に指定されているのは(合併前に指定されていたのも含め)、市の花(2件)、町の花(9件)、村の花(9件)の20市町村がある。

 なお尾瀬は「国立公園」です。平成19年(2007年)8月30日、本州最大の湿原を持つ尾瀬は、オオシラビソ林や山地湿原など優れた自然環境を有する会津駒ヶ岳と田代山・帝釈山の周辺地域を新たな国立公園区域として編入し、新たな一つの国立公園、「尾瀬国立公園」として指定された。新たな国立公園の誕生は、昭和62年(1987年)7月に釧路湿原国立公園が指定されて以来、20年ぶりのこと。
 また、尾瀬は「ラムサール条約湿地」です。ラムサール条約は正式な名称が「特に水鳥の生息地として国際的に重要な湿地に関する条約」とあるように、複数の湿地を移動する渡り鳥などの生き物や、その生態系を国際的に守るために作られたもの。尾瀬は湿原生態系としての価値が評価され、2005年11月にラムサール条約湿地として登録された。なおかつ、尾瀬は国の「特別天然記念物」に指定されている。学術的価値が高く、その保存が厳しく義務づけられている。わずかな変化でも、その影響は尾瀬全体に及んでしまう。尾瀬の環境そのものを保護するため、現状を変更してはいけないこととなっている。(写真⑦:浮島)

 自然保護の歴史(開発計画からの保護)という点からみると、尾瀬ヶ原では、明治時代から只見川源流部の豊富な水資源を活用した電源開発(水力発電)の構想があり、第二次世界大戦後には具体的な開発計画も発表された。これに対して、昭和24年に学識者・文化人・山小屋関係者らで結成された「尾瀬保存期成同盟」(現在の日本自然保護協会の前身)などの熱心な自然保護活動によって開発計画は中断され、尾瀬の貴重な自然は守られることになった。尾瀬はその後も昭和30年代以降の利用者増加による植生破壊やゴミの放置、昭和40年代の道路開発計画などの新たな問題が生じた。しかし、熱心な自然保護活動や植生回復、ゴミ持ち帰り運動、マイカー規制などの取り組みが行われ、尾瀬の自然は守られてきた。こうした取り組みは、尾瀬ではじめて行われ、全国的に広まったものもあることから、尾瀬はわが国における「自然保護の原点」とも呼ばれるようになった。
 また、関東地方と東北地方の接点にもあたる尾瀬には、鎌倉時代から群馬県片品村から尾瀬を経て福島県檜枝岐村へ通ずる街道が通っており、尾瀬を挟んだ物資・文化の交流が行われていた。
 沼田市と会津若松市を結ぶこの街道は、群馬側では会津街道、福島側では沼田街道と呼ばれ、沼田城から尾瀬沼を経て鶴ヶ城に至る全長約180kmに及ぶ重要な街道で、檜枝岐及び片品村戸倉には関所が設けられていた。また、幕末の戊辰戦争の際には大江湿原に会津軍が駐留し、戸倉で征討軍と会戦しており、大江湿原には当時築いた土塁が今でも残されている。

 ミズバショウの例年にない当り年に行けて、満足感が得られた山行であったが、山道には残雪もあり(写真⑧)、年齢的にはそろそろ限界かなと思った山行であった。
 皆様は年齢的にきつく感じるような状況はどんな時ですか。

2022年6月20日
 ホタルブクロ

 5月下旬に自然観察仲間と利根運河沿いを散策した。千葉県柏市船戸から流山市深井新田の間、およそ8.5キロをぬって、利根川と江戸川をむすんだ川の道、それが利根運河。この運河は千葉県銚子港から東京までの船での物流の短期輸送のショートカットのための運河。明治21年7月から約2年間でほとんど人力掘削のため人力約200万~220万(約3,000人/日)での難工事の末、明治23年5月開通した。 しかし明治29年に鉄道土浦線が開通し、徐々に使われなくなってしまい、現在に至っている。その当時掘削土はほとんどが堤防等に使用したので、現在も土堤防であり、非常に自然環境に恵まれた地域になっている。
 その周辺で早くもホタルブクロ(写真①)が見られたので、昔の思い出を含め取り上げてみた。

 ホタルブクロ(蛍袋)は林縁や道ばたに自然に咲いているキキョウ科ホタルブクロ属の山野草。釣り鐘形のかわいい花が特徴で、種類が豊富にある。丈夫で育てやすく生命力が強い植物。全体に毛が生えている。北海道から九州にまで分布している多年草で、丈夫で育てやすく、庭植えや鉢植え、盆栽と多様な育て方が可能。

 特徴としては、初夏から夏の前半にかけて釣り鐘形の花を茎に多数咲かせる。細い地下茎を伸ばしてふえ、開花した株はタネと多数の子株を残して枯れる。子株は1~2年で親株になる。丈夫で、あまり手のかからない植物。花は柄があって、うつむいて咲く。暑さには弱い一方、日陰でもよく育つ。若芽は食用にでき、食卓に春の季節を運ぶ。
 ホタルブクロ(蛍袋)の花の色は薄紫が多いが、濃い紫や白色(写真②)、黄色などもある。
 なお、ホタルブクロの変種でヤマホタルブクロがあり、違いは萼の形態が異なり、萼片間に反り返った小片(付属体)があるものをホタルブクロ、これが無いものがヤマホタルブクロとしている(写真③)。どちらも花の色は紅紫色から白色の間で幅があり、花の色では区別できない。似たヤマホタルブクロはホタルブクロより標高の高いところに多い。
 変種が多く斑点が入っていたり、筋が入っていたりする花も多く見かけられる。立ち上がった花茎から各節に釣り下がった花を2~5輪程度咲かせる。花の大きさは4センチから5センチほどで、花は筒状に合わさり、先端が5つに分かれている。関西では白系統のホタルブクロが多く、関東では紫系統のホタルブクロが多い。

 名前の由来は、花の咲く時期が蛍が舞う頃に重なり、子供たちがこの花の中に蛍を入れて遊んだという説や、提灯の古い呼び方が「火垂る(ほたる)」ということからきているともいわれる。見た目が提灯に似ていることから「チョウチンバナ」「トッカンバナ」という別名もある。一般的な別名は釣鐘草。また、英名の”Bellflower”は、花の形が教会の鐘に似ていることから名付けられている。
 ホタルブクロの開花時期は5月下旬~7月頃。初夏の季節に提灯のかわいい花が次々と咲く様子が華やか。種類によっては8月頃まで咲いている。開花してから3日程度、美しい姿で咲いている。
 ホタルブクロの花はオスの状態で開花して、そのあとメスに変化する。おしべが花粉を出し切った後(写真④:柱頭は閉じている。雄しべは枯れ始めている)めしべとなり、昆虫にほかの花の花粉を受粉してもらう(写真⑤:雌しべの柱頭が開いている)。花の開き具合で、雌雄の判断ができる。つぼみでもすでに花粉が出ていて、先端が割れたときには雄となり受粉を待っている。花開いているころには雌に変化し、花が終わった後は実をつけて種で子孫を残す。オスからメスに変化するのは、自家受粉を避けるため。自然の摂理にかなっている変化といえる。
 ホタルブクロはアジサイと並んで、6月を代表する草花。入梅ごろから咲きはじめ、梅雨が明けるころに花期を終えるため、「雨降花(あめふりばな)」とも呼ばれる。

 近縁種として、カンパニュラやイトシャジンがある。カンパニュラは南ヨーロッパ原産で「フウリンソウ」とも呼ばれる。花の形はホタルブクロと同じように釣り鐘形で、花が少し上向き加減に咲くのが特徴(写真⑥)。なかでもセイヨウホタルブクロ=カンパニュラは、教会や英国式ガーデンには欠かせない草花のひとつ。学名Campanula(カンパニュラ)は、ラテン語で「小さな鐘」の意味。
 イトシャジンはホタルブクロ属に特有の釣鐘の形をした花が咲くが、糸のように細い茎が繊細な印象を与えるところから山野草としても親しまれている。北半球に広く分布。生育範囲も低地の草地から亜高山帯の尾根までおよび、水はけのよいところに生えている。高さは10~40センチになり、葉は線形。茎などを傷つけると、乳白色の汁をだす。春から秋にかけて、淡い青色の花を咲かせる。(写真⑦)

 ホタルブクロの花言葉には、「正義」「貞節」「忠誠を尽くす心」「忠実」「誠実」などがある。「正義」や「忠誠を尽くす心」などの厳粛な印象の花言葉は、花姿が釣り鐘に似ていることや、教会や宗教的な意味合いに由来。
 さて、ホタルブクロの花が咲く季節は、ホタルの恋の季節でもある。ホタルを詠んだ文芸作品といえば、平安時代の歌人・和泉式部の和歌がある。

  物思(も)えば沢の蛍も我が身より あくがれ出づる魂(たま)かとぞみる
 (訪ねてくることが稀になった恋人のことを思い悩んでいると、沢に群れ飛ぶホタルが、自分の身体からさまよい出た魂のような気がする)
 なんとも切なくも狂おしい情熱の詩ではないか。ホタルは古くから、恋心の象徴とされてきた。「こひ」「おもひ」が「ひ(火)」と通じるからでもあるが、何よりもそのかよわく美しい光ゆえなのでしょう。蛍(成虫)の命は1週間ほどと短く、草葉に溜まった夜露を少しだけ飲むばかりだという。

 ホタルブクロが登場した童話がある。以前6月頃に、ある小学校低学年の環境教育授業の担当日に、あいにく雨が降り野外自然観察が出来なくなった。そこで校内授業となった時に、図書司書にお願いして低学年用の動植物関係図書を探してもらい、提案されたのが児童文学の古田足日さんの名作「大きい1年生、小さい2年生」という童話でした。
 この本の中に「ホタルブクロ」が登場する。登場人物は大きいけど気の弱いまさや、小さいけど気が強いあきよの二人が織りなす物語。「一本杉の森」というホタルブクロがたくさん咲く遠い所まで、あきよの為にホタルブクロを探しに歩いていく話。子供の頃の好奇心や恐怖心を可愛いイラストで描く名作。アニメにもなったこの話は評価の高い有名な童話。その中でホタルブクロは可愛い感じで描かれていて、雰囲気に合った良い作品だったのを思い出した。

 ホタルブクロの言い伝えとして、日本では昔からホタルブクロを摘み取ると、雨が降るという言い伝えがある。ほかにはヒルガオやシロツメクサも同じように言われ、これらは「雨降り花」と呼ばれている。これらの花はちょうど花期が梅雨の時期に当たるため、雨が降ってしまうから摘むなと言われていたそうだ。しかし梅雨の代表花であるアジサイは、雨降り花とは言いません。ちょうど蛍が舞うのもこの頃で、ホタルブクロの花期が終わるころ、梅雨が明け、夏が訪れる。
 そして俳人の小林一茶が旅の途中、長野の正明寺で雨の中に咲くホタルブクロを見て詠んだ句がある。
  旅人に 雨降り花の 咲きにけり
 しとしとと降る雨の中で、しっとりと咲くホタルブクロ(雨降り花)の情景が浮かぶ。
 また子供たちはホタルブクロの花を手のひらで叩いて、音を出して遊んでいたそうです。この時に「トッカン」という音が出ることから、「トッカンバナ」と呼ばれていたそうだ。誰が一番高い音が出せるか、競って遊んでいたとの事。
 皆さんの中には実体験された方がいるのかもしれませんね。皆さんも今度ホタルブクロ等の草花を見かけた時には、幼少期に見た情景を改めて思いだして、ご覧になってはいかがですか。

2022年5月23日
 ヤマボウシ

 先日、近隣の県立公園を散策中、ヤマボウシの白いきれいな花が咲いているのを早くも発見した。この花はあまり都市部では見かけないが、最近は都市部の街路樹に植樹されているハナミズキとよく似ており、ハナミズキが咲いているという声を時々聞く事がある。この見分け方は後半にて記したいと思う。

 ヤマボウシ(山法師:別名ヤマグワ)の原産は日本、中国(漢名は「四照花」)及び朝鮮半島だが、1875年には日本からヨーロッパへ渡り、現在では多くの国で親しまれる。庭木として人気の高いハナミズキ(別名アメリカヤマボウシ)は本種の近縁種にあたる。
 特長としては、ヤマボウシの白い4枚の花びらのように見える部分は花びらではなく、これは総苞片(そうほうへん)とよばれる葉が変形したもの。真ん中の球形の部分は小花が集まった場所(写真①)。この部分は花序(かじょ)とよばれる。また苞(ほう)とは、つぼみを包むように葉が変形したもののことをいう。
 また、老木の樹皮は不規則にはがれ、まだら模様になる(写真②)。葉は対生となり。花は5~7月に咲き、総苞片の中心に淡黄緑色の小さな花が20~30個密集してつく。これが果実となり集合果といい、直径1~1.5cmの球形で、9~10月に赤く熟す(写真③)。

 ヤマボウシには2タイプ(落葉樹、常緑樹)あり、通常見られる落葉樹のヤマボウシは、日本に自生するヤマボウシであり、紅葉を終えた葉は冬になると全て落葉する。花の大きさも大きく、見応えのある花姿となる。また樹形は地面から一本の幹が上へと伸びる「単幹」となり、上部に枝葉を伸ばし、真っ直ぐに高く伸びた姿になる。
 もう一種(ほとんど見られないが)の、中国を原産とするヤマボウシには常緑高木に分類されるものがあり、庭木で特に人気が高いヤマボウシといわれる。常緑のため1年中葉が付き、紅葉後も葉の色は紅色から緑色へと戻る。樹形姿も地面から複数の幹が伸びた「株立ち」のものが多く、上だけではなく横にも広がるタイプとなる。

 名の由来は、花の中央に位置する丸い集合果を法師の頭(比叡山の僧兵の頭)に見立て、白い総庖片を白頭巾、白衣に見立てた「山法師(やまほうし)」です。(写真④)
 山法師(やまほうし)とは、平安時代に興った比叡山延暦寺の武装した僧兵。院政時代以降,延暦寺強訴の主力となり、戦乱時には武士と拮抗する大勢力であったが、織田信長の延暦寺焼打ち、豊臣秀吉の刀狩により衰滅した。  なお中国名の「四照花」は、白い総苞片が4隅を照らしている様子を表しているとの事(写真①)。いずれも、印象的な花の形が名前の元になっているようだ。

 日本各地では二十種以上の呼び名がある。一例を示すと、新潟・富山・石川・福井・三重・京都・兵庫・和歌山・鳥取・愛媛・高知では「イツキ、ウッキ」、栃木・神奈川では「クサ、コーサ」、山形では「ダンゴギ」、秋田・山形・群馬・埼玉・長野・新潟・静岡では「ヤマグワ」、三重・愛媛・高知では「ヤマモモ」、青森・岩手では「ヤマガー」などと呼ばれるようだ。東北から関東、中部の東部の別名「ヤマグワ(山桑)」は、秋に赤く熟す集合果をクワの実に見立てたもので、所によっては「ヤマッカ」と呼ぶのも山桑の意味。鳥取県東伯郡三朝町には、「イツキの食える時は稲の刈り時」という諺があったそうで、赤く熟した果実は果肉が黄色で甘く、「山苺」と呼んだ地城もあるそうだ。

 利用としては、ヤマボウシの木材は重硬で割れにくい特徴から、槌や農機具の柄、飽台、撞木、水車の歯車に用いられたほか、アカガシと同様に餅つきの杵材としても重宝された。
 春に葉に先だって花が咲くハナミズキと異なり、葉が出たあとに花が咲くヤマボウシは、落ち着いた雰囲気を醸すので、街路樹・庭園樹・公園樹としても用いられ、あまり大きくならないので庭木に向いている。
 また、若葉は食用になり、果実も生食ができ、やわらかく黄色からオレンジ色であり、マンゴーのような甘さがある。果皮も熟したものはとても甘く、シャリシャリして砂糖粒のような食感がある。果実酒にも適する。
 なお、ヤマボウシの果実(写真③)は食用にできるが、ハナミズキの果実(写真⑤)には毒があり食用にできない。この点からも公園など公共の場に植えられているハナミズキがヤマボウシに置き換えられるケースもある。

 市町村の木としているのは、宮城県栗原市、兵庫県宝塚市、福岡県直方市、長崎県雲仙市、新潟県胎内市、山形県金山町、広島県神石高原町の7市町村がある。
 ヤマボウシの日本一の名所は箱根で、芦ノ湖や駒ケ岳周辺では、6月中旬に白い花が群れて咲き「神奈川の花の名所100選」にも選ばれている。
 巨木としては、摩耶山(兵庫県)の山頂近くにある天上寺には、樹齢160年を越えるヤマボウシの古樹がある。樹高約12メートルの巨木で、2014年には市民の木に指定された。6月上旬~6月中旬の満開時には木全体に雪が降り積もったように見え、毎年たくさんの人が訪れる。

 文学面からみると、ヤマボウシは万葉では、柘(つみ)と呼ばれていたようである。柘は、普通、ヤマグワ、山桑を指すが、万葉集の柘(つみ)は、山法師、ヤマボウシのことという説がある。
 歌の題材としては、仙柘枝(ひじりのつみのえ)の三首があり、そのうちの一首に次のような歌がある。
   この夕 柘(つみ)の小枝(さえだ)の流れ来ば 梁(やな)は打たずて 取らずかもあらむ
 (意味:この夕暮れ、もし仙女に化身するという柘の小枝が流れてきたならば、簗は打たないで、柘の枝を取らずしまいになりはしないだろうか)
 これは、万葉の頃の「吉野の拓の枝伝説」に基づくもの。作者としては、若宮年魚麻呂(わかみやのあゆまろ)とされているが、どのような人物かは不明。この歌で「仙女が化かした柘の枝」とあるのは、古くからの吉野の伝説のことを言う。
 その伝説は、「昔、吉野の里の美稲(ウマシネ)という若者が、吉野川に簗(ヤナ)を打ってアユをとっていました。ある日、上流から柘の枝が流れてきて簗にかかったので、家に持ち帰っておいたら柘の枝が美しい女性になりました。美稲はびっくりしましたが、その女性を妻に迎えて毎日幸せに暮らしましたとさ」というものです。
 なお俳句では、数多くの句が読まれている。

 さてここで、ヤマボウシとハナミズキの見分け方ですが、
 「花の時期の違い」は、花期はハナミズキの方が数週間早い。ハナミズキは花が咲いてから新芽が出る。ヤマボウシは葉が揃ってから花が咲く。
 「花の形の違い」は、ハナミズキの花(総苞片)は先端が凹んでいるか丸い。ヤマボウシは尖っている。(写真⑥、写真①)
 「樹皮の違い」は、花も葉もない冬季でも、幹を見れば見分けられる。ハナミズキは灰黒色でゴツゴツしており、縦にひび割れており、ヤマボウシはやや明るめでツルツルし、大木では斑模様に剥げ落ちる。(写真⑦、写真②)
 「果実の違い」は、ハナミズキの果実は水分が少なくて硬いため、食べようという気にならないが、ヤマボウシはいかにも果物のように瑞々しい。ちなみに両者が熟す時季は異なり、ヤマボウシの方が早い。(写真⑤、写真③)

 全くの余談であるが、以前、県外自然観察会という名目で長野県軽井沢に出かけた際に「軽井沢高原文庫」(堀辰雄や室生犀星をはじめとする軽井沢にゆかりがある近代文学者の資料を展示紹介する文学館)に立ち寄ったことがある。その時に「やまぼうし(星野温泉のあゆみ)」なる書籍(1972年出版)を目にしたのだが、著者の星野嘉助氏は、星野温泉の三代目当主で、現星野リゾート代表の星野佳路(よしはる)さんのおじいさまとの事。本書は、星野リゾートの原点となった星野温泉の歴史(1915年開湯)とゆかりの人物の作品がまとめられている。この「やまぼうし」は高原特有の樹木で、星野温泉(現在の星のや軽井沢)のある軽井沢では親しみがあるためタイトル名にしたとの事。
 また、昭和中期、中西悟堂(日本野鳥の会創立者)が滞在し、「今までは野鳥を食べていたが、これからは野鳥を見て楽しむ時代になる」と語り、さらに、星野温泉に隣接する国有林が、世界的な野鳥の宝庫であると指摘。その後この森は「国設軽井沢野鳥の森」に指定され、探鳥会と呼ばれたガイド付きツアーは、エコツーリズムへと繋がっているとの事。
 その折には、この情報も知らずに単に自然観察会をしていたことを残念に思っていたが、今回の「ヤマボウシ」の投稿で、多少の記憶が蘇ったことは思わぬ収穫であった。皆さんも昔の出来事でひょんなことから、何らかの関係性が蘇ることはありませんか。

2022年5月10日
 ハンカチノキ

 皆様はハンカチノキをご覧になったことがありますか。毎年4月下旬から5月連休中にかけて白いハンカチのような姿の花を咲かせる。今年は温暖化のせいか、地域差はありますが1週間ほど早く開花したようだ。今回はあまり見かけないハンカチノキを取り上げました。

 ハンカチノキは中国の固有植物であり、4月下旬から5月に前年枝に白いハンカチのような姿の花を咲かせる。「花」は長い柄の先に、たくさんの雄花と雌花が球状の花序になり(写真①:ハンカチノキの花)、その基部にハンカチに見立てられる2枚の白い花弁のような苞片がくっついている。これは葉が変化したもので、ハナミズキの苞(4枚)と同じものと思えばいい。(写真②:ハナミズキ:花が真ん中にある))
 果実は堅果で複合果となる。(写真③:ハンカチノキのクルミ大の核果)


 原産は中国南西部(四川省・雲南省付近原産)の標高2000メートル付近の山地に局限して自生するミズキ科の落葉高木。過去に出土した化石から、かつてはベーリング海峡を隔てて北アメリカにも分布していたことがわかっているが、こちらはいつの頃か絶滅してしまった。その記録は少なくとも5800万年前までさかのぼることができるということで、メタセコイヤと共に「生きた化石」と呼ばれる、一属一種の大変珍しい植物。
 樹形は美しく、開花期には赤紫色をした丸い花序の基部に2枚の白い苞が開き、春風に揺れて、たくさんの白鳩が鳩籠から飛び出そうとするように見えるので、鳩の木(中国名:鳩子樹)と名付けられた(写真④:鳩状のハンカチノキ)。
 語源のハンカチノキは白い大きな2枚の苞葉がハンカチの様に垂れ下がりよく目立つため、「ハンカチノキ」や「鳩の木」、「幽霊の木」と呼ばれる。
 英語での名前も「Handkerchief tree」や、「Ghost tree」、「Dove tree」(鳩の木)の名前がある。


 ハンカチノキの学名Davidiaは、中国でハンカチノキを発見した19世紀のフランスの神父であり生物学者でもあるアルマン・ダヴィッド神父の名前に由来する。ダヴィッド神父がこの植物を発見したことで、彼を記念してDavidiaと命名された。当時ハンカチノキは第四氷河期に絶滅したとされていたため、この発見は大変有名になった。
この発見であるが、最近プラントハンターという言葉が最近日本でも知られるようになったが、未知の植物を求めて世界の奥地へと赴いた人々のことであり、いま世界中で栽培されている植物の中には、このようなプラントハンターの活躍により見出されたものも多い。
 大勢のハンターが競って未知の植物探しに明け暮れた地域の一つがヒマラヤや中国奥地である。実利との結びつきもありプラントハンターの経歴は多様である。植物学や園芸学の知識を身につけた人物もいれば、布教活動を目的に中国奥地を訪れ、プラントハンターとして活躍した宗教家もいる。
 ハンカチノキもこうして布教活動を本業としたプラントハンターである、カトッリック聖ラザル会ダビッツ神父によって発見された。彼は1862年には北京にあったラザル会の伝道団に入った。1874年に帰国するまでに、中国奥地を中心に3回にわたる、大旅行を行い多数の新しい動植物や鉱物などを採取した。
 第2回奥地旅行のため1868年5月に北京を出発し、1869年7月、四川省宝興の山地(標高2000m)でハンカチノキを発見した。
 今、動物園で大人気のジャイアントパンダの存在を初めて報告したのも彼だということは案外知られていない。ジャイアントパンダも1869年にハンカチノキと同じ宝興の山地で発見している。
 ハンカチノキは現在では、中国にだけ分布している植物だが、化石のデータにより新生代第三紀~第四紀更新世には日本にも自生していたと考えられている。

 このハンカチノキであるが、日本へは1952年(昭和27年)にアメリカより種が入ってきたのが最初。小石川植物園の一角にある東京大学農学部樹木実験圃場の技官山中寅文氏がアメリカから果実を入手し、苗木を2本育てた。そのうち1本は圃場に、もう1本は吹上御苑に植えられ、樹木園の木は1965(昭和40年)に初めて開花した。しかしその後2本とも枯れてしまった。1991(平成3)年ごろ、中国科学院から日本植樹協会を通じて大量の苗木と種子が輸入され、広く出回るようになった。

 ハンカチノキの葉からの香りは独特で、ガス漏れと間違えるとか臭いとか苦情に近い話が出て折角の珍しい樹木が切られてしまう話が各地にある。その成分は調査がされている。葉を傷つけないようにフラスコに入れ密閉、放出される揮発成分を試験で確認する。この試験方式は環境、食品、医薬品、香料の試験に使われている。
 これによると、青葉アルコール類等が抽出されたそうだ。この青葉アルコール(leaf alcohol)の代表は緑茶の香り成分。成分のひとつひとつはガス漏れには思えない。しかし成分が合わさると若い人には嫌われる香りになる。(年を重ねるにつれて良い香りと感じる傾向がありますが)。また、この香りの成分にアレロパシー(allelopathy)という他の植物の生長を抑える作用の可能性があり調査がされている。
 酢酸cis-3-ヘキセニルの香りがホワイトクローバーの幼苗の生育に顕著な抑制力があるのが分かった。アレロパシーはヒガンバナ、ヨモギ、セイタカアワダチソウ、針葉樹などにもあり、光の取り合い競争を避けるために他種や時には子孫までも寄せ付けない物質を出す。ハンカチノキの香りは、子供たちを寄せ付けないのが目的ではなく、他の植物を寄せ付けないのが目的でした。

 実は花が終わってから付きはじめ(写真⑤)、秋、胡桃くらいの大きさになるが、枝にがっちりと付いていて葉が落ちても実は木に残ったまま(写真③)。硬いので手で割るのは難しく、また害虫もつかないが、カラスなどの野鳥がこの実をつついて食べる様子を見ることが出来る。木の実は特有の渋みがあって人が食するのにはむかず、害虫もお手上げのようだ。
 ハンカチノキが成長し開花するまでには長い年月がかかる。
 開花までは、苗木から育てて10年から15年経ち、樹高が3mくらいに成長するまで待たなければなりません。そしてようやく開花するようになると、あとは毎年咲いてくれる。見頃の時期は4月下旬から5月頃で、休眠時期を超えて2年目の、固く木質化した前年枝(ぜんねんし)と言われる枝に白いハンカチのような花を咲かせる。開花して1週間前後の時期が見頃で、その後は苞が落ちていく。

 東京でハンカチノキが見られる場所として、新宿御苑があり明治39年に皇室の庭園として建てられたが、戦後国民公園となった。そして数少ない我が国の風景式庭園として多くの人々に親しまれている。苑内には3本のハンカチノキがあり、1944年に植栽された若いハンカチノキは、低い枝にもたくさんの花をつけていて、見頃の時期には花を近くで見ることができる。小石川植物園でも見られ、元々江戸時代に薬になる植物を育てる目的で開園された小石川御薬園であった。明治10年に東京大学が開設された時に附属施設として小石川植物園と改称され、その時から一般公開されるようになった。ここには1958年に種から育てられた日本に存在する最も古いハンカチノキがあり、毎年きれいな花を咲かせている。

 花言葉は「清潔」。花によっては何種類か花言葉があるものもあるが、ハンカチノキの花言葉は「清潔」の花言葉一つのみ。見た目にも美しいハンカチノキは、白い色が清潔なハンカチを連想させ、まさにピッタリの花言葉。

 伝説話として、約2000年前の後漢時代、娘の婚姻によって北方の匈奴と和平を講じた皇帝がいた。漢元帝の時、当時中国四大美人の一人として誉めたたえられていた王昭君は、匈奴の呼韓耶単干に嫁がされ、胡の地へ赴いた。王昭君は、日夜故郷のことを思い続け、毎朝胡の地から南方(故郷の方向)に向かって礼拝をしていた。そのため、王昭君と一緒に行った鳩たちも、いつしか南に向かってお辞儀をするようになった。ある年の春、昭君は望郷の想いにかられ、故郷に宛てた一通の手紙を白い鳩たちに託した。鳩たちは故郷に向かって飛び立つと、雲を飛び越え、霧を突き抜け、嵐を打ち破り、九十九の山を越え、九十九の川を渡り、九十九夜を経て、ついに昭君の故郷成都(現在の四川省興山)に帰り着いた。疲れ切った鳩たちが鳩籠の様な珙桐(キョウトウ)の木に止まり、身を休めたところ、そのまま、飛び立とうとする鳩の姿をした真っ白な花になってしまった。それから毎年春になると、王昭君の代わりに故郷の人々に「よろしく」と伝えるかのように、鳩の花が咲くようになった。そこで、この木は鳩子樹(鳩の樹)と名付けられたという(写真④)。

 私が住んでいる近隣に県立公園がありハンカチノキが2本あるが、連休直前に満開となり、一部では小さな実がなり始めていた(写真⑤)。動植物等は温暖化の影響を敏感に感じているようである。

2022年4月18日
 ナノハナ

 我々の幼少年期時には、ほとんどの方が身近に見られたであろう「菜の花」が、最近は都市化のために、郊外等でなければ見られない自然環境下になってしまいました。今回はこの「菜の花」に、思いを巡らせてみたいと思います。

 菜の花とはアブラナ科アブラナ属の総称だが、実はアブラナ科の仲間は多くあり、キャベツやブロッコリー、白菜やチンゲンサイやカブなどもアブラナ科なのです。中でも多く見られるのがセイヨウカラシナとセイヨウアブラナの2種(図A)。
 特に「菜の花」はアブラナまたはセイヨウアブラナの別名としても用いられる。どちらも名前が用途に由来し、セイヨウカラシナは辛子、セイヨウアブラナは菜種油を採るために利用される。なお、スーパーで売っている「菜の花」は、畑で栽培されたセイヨウアブラナ。
 また、菜花(なばな)とは、カブ、ハクサイ、キャベツ、ブロッコリー、カラシナ、ザーサイなどアブラナ科アブラナ属で主として花や葉茎を食するものをいう。菜の花の「菜」とは食用の意味で、菜の花とは食用の花の意味。
 特にセイヨウカラシナは修景用として、丈夫で川原や荒れた土地にも繁茂するため、河川敷や堤防、空き地に播種し、菜の花畑を作るケースがある。堤防や河川敷で開花している菜の花はほとんどセイヨウカラシナであり、セイヨウアブラナではない。

 さてセイヨウアブラナ(西洋油菜;写真①)だが、古くから野菜として、また油を採るため栽培されてきた作物で、別名としてナノハナ(菜の花)、アブラナ、ナタネ(菜種は正式な作物名)などがある。花期は3~5月。葉の基部は茎を抱き(写真②)花つきが多い。セイヨウカラシナは茎を抱かない(写真③)、花つきは少ない(図A)。特徴として、花後に細長い棒のような実がつき、その中に小さいタネが入る(写真④)。
 原産地は北ヨーロッパ、地中海沿岸、中央アジアで、日本には菜種油の採油を目的に、16世紀の江戸時代から栽培され始めた。その後品種改良が重ねられて、明治時代以降からは採油される品種とは別に、蕾が食べられるようになった品種が作られたといわれる。
 最近は見かけないが、弥生時代に中国経由で日本に渡来してきたアブラナがある。セイヨウアブラナと比べると葉が緑色。種を絞って灯油などの油にしたのは、本来このアブラナを指し、名前の由来である。セイヨウアブラナも外国から渡来した種で、頭にセイヨウをつけ、ほかのアブラナの仲間と区別している。
 利用からみると、植物油の原料として栽培されるのは、ほとんどがセイヨウアブラナであり、在来種のアブラナは野菜として生産され、開花前に収穫されることが多い。また食用油の原料として、世界中で広く栽培されている。菜花は早春の季節感を楽しめる野菜の一つで、旬は1 - 3月とされ、花蕾とやわらかい葉と茎が食べられる。
 特筆すべきはβ-カロテンとビタミンCが群を抜いて豊富なことで、抗酸化作用が高いといわれるβ-カロテンはピーマンの約5倍、ビタミンCはホウレンソウの約3倍程度含まれている。ビタミンB2、鉄、カルシウム、カリウム、食物繊維などもバランスよく多く含まれており、カルシウムはコマツナ並み、カリウムはモロヘイヤ並みに含まれている。
 日本国内の栽培面積では北海道が最大。作付面積で日本一の滝川市がある。次いで青森県が多く、滝川市と作付面積日本一の座を長年競っている下北半島にある横浜町が有名。

 文化面では、菜の花は身近な春の光景として親しまれてきたため、文学や言葉に登場することも多い。 文学作品などに登場する菜の花は、明治以降は栽培が拡大したセイヨウアブラナが主体と見られる。
 言葉としての、「菜種梅雨」は春雨前線が停滞する頃の雨の多い時期、またはその雨を指す言葉。気象庁がその時期を明確に定めた訳ではないが、主に3月半ばから4月前半にかけてのぐずついた天気を言う。この時期には、関東南部から九州にかけてアブラナが開花している事から名付けられた。また、「菜種月」は、春先によくみられる、かすみの掛かった月、おぼろ月をいう。
 俳句では、「菜の花」は晩春の季語。与謝蕪村(1716-1783年)は、菜の花(在来種アブラナらしい)をいくつもの歌に詠みこんでいる。
  菜の花や 月は東に日は西に
  菜の花や 鯨もよらず海暮ぬ
  菜の花を 墓に手向けん金福寺
ほかに
  なの花に うしろ下りの住居かな(一茶)や
  菜の花の 遙かに黄なり筑後川(夏目漱石)
などがある。
 小説としては、「菜の花の沖」がある。 菜の花栽培が盛んな淡路島を舞台とする司馬遼太郎の長編小説で、司馬遼太郎の回忌の名「菜の花忌」は、この小説に由来する。概要は、江戸時代の廻船商人である高田屋嘉兵衛を主人公とした歴史小説で、珍しく民間人が主人公。司馬作品は、歴史小説の体裁をとりつつも、作者独自の歴史観による解説を折り込んだ構成を特徴としており、後期作品である本作は、近世社会の社会経済や和船の設計・航海術をはじめ随所で理論的に論説を述べつつ、後半で主人公が当事者となるゴローニン事件へ至る背景事情(日露関係史への知見)と共に、物語が進行する構成。
 また、唱歌(旧制の小学校の教科の一つ。1941年から音楽と改称)があり、「菜の花畠に入り日薄れ」と歌い出される「朧月夜」(youtubeの歌はこちら)は長野県永江村(現・中野市大字永江)に生まれた高野辰之が作詞。中野市や飯山市を含む長野北信地方一帯では江戸時代から菜種(アブラナ)が主要な換金作物として栽培され、一面に広がる菜種の花の記憶が詞のモチーフになったと想定される。昭和30年代以降、菜種油の需要が減ると菜種の作付けは激減し、一時は黄色い絨毯を敷き詰めたような景色はほとんど見られなくなったが、近年は観光用にノザワナを大規模に栽培して「朧月夜」で歌われた情景を再現している。

 次にセイヨウカラシナの話だが、花期は4~5月。
 「セイヨウ」という言葉は、戦後、この植物が外国から入ってきた際に、中国から入ってきた昔からの「カラシナ」と区別するためにつけられた。「カラシナ」の名前は葉やタネに辛みがあり、タネを粉末にして辛子、芥子という名前で利用していたことに由来する。カラシナ(芥子菜、辛子菜)はアブラナ科アブラナ属の越年草。「芥」でカラシナを意味し、「芥子」はカラシナの種子の意味。
 日本への伝来は弥生時代ともいわれ、平安時代である延喜年間(901年 -923年)編纂の『本草和名』や承平年間(931年 - 938年)編纂の『和名抄』に記載がある。
 利用として、種子はからし(和からし)の原料となりオリエンタルマスタードとも呼ばれる。なお、マスタード(洋からし)の原料として利用されるシロガラシは、同じアブラナ科の別種である。
アブラナ科の植物はその多くを食べることができ、セイヨウカラシナもまた、花や茎・葉など食べられる。セイヨウカラシナとセイヨウアブラナは、どちらも美味しく食べられる野草。しかし、セイヨウカラシナのほうがややクセがあること、セイヨウアブラナのほうは茎が太く食べごたえがあることなど、細かい違いは多く見られる。
 アブラナ科の植物の多くには、毒性のあるグルコシノレートが含まれている。これは辛子のピリっとした風味の元となっている。だが、毒性だけでなく健康にも注目されている。グルコシノレートは反応によりイソチオシアネートという物質に変わる。これは、がんを抑制する効果があるとして、注目を集めている物質。セイヨウカラシナをはじめとしたアブラナ科の野菜を適度に食べることで、がんの予防の効果が期待できるとの事。
 また、アブラナ科の植物は変種が多く、意外な野菜同士が親戚であることがよくある。例えば漬物として有名なタカナは、セイヨウカラシナの変種の一つ。他にも、ブロッコリーやチンゲンサイも同じアブラナ科アブラナ属であり、セイヨウカラシナの親戚と言える。
 なお、「菜の花(ナノハナ)」は千葉県のシンボル花であり、石川県七尾市を筆頭に、数か所の市町村で「菜の花」がシンボルフラワーに採用されている

 余談だが、日本のNPO法人によりナタネを栽培して、放射性セシウム(Cs137)及びストロンチウム(Sr90)を除去する試みが続けられている国がある。それはチェルノブイリ原子力発電所事故のホットスポットである「ウクライナ」ジトームィル州のナロジチ地区。
 そのウクライナですが、先日河川沿いを散歩していた時、青空と黄色(ナノハナ)の鮮やかなコントラストが、戦禍のウクライナの国旗のように見えた気がした(写真⑤)。ウクライナの国旗(図B)は「独立ウクライナの旗」と呼ばれ、ソ連邦時代からウクライナ独立のシンボルとして使われた。青は空を、黄は大地を染める小麦と農業を表している。ウクライナ人が実際に青空と小麦畑の対比が見られるのはもうしばらく先だが、早く平和が訪れることを心に秘め、重く足を進めた散歩ではあった。

2022年4月4日
 ソメイヨシノ

 今回は皆様ご存じの、日本の桜のおよそ8割を占めるソメイヨシノ(染井吉野)に思いを巡らせてみましょう。桜は「国民に最も愛好され、その国の象徴とされる花」とされ、「日本の国花」でもある。

 では染井吉野はいつ頃からあるのか。
 和名ソメイヨシノの由来は、江戸時代末期から明治初期に、染井村(現在の東京都豊島区駒込・巣鴨付近)に集落を作っていた造園師や植木職人達によって育成された。当初は、サクラの名所として古来名高く、西行法師の和歌にも度々詠まれた大和の吉野山(奈良県山岳部)にちなんで、「吉野」「吉野桜」として売られ広まったが、上野公園のサクラの調査によって、ヤマザクラとは異なる種のサクラであることが分かり(1900年)、この名称では吉野山に多いヤマザクラと混同される恐れがあったので、染井村の名を取り「染井吉野」と命名したという。
 違いは、染井吉野は葉が出る前に花が咲き、ヤマザクラは花と赤紫色を帯びた褐色の葉が同時に開く(写真①ソメイヨシノ、②ヤマザクラ)。
 当時の染井村は大名屋敷の日本庭園を管理する植木屋が集まる地区であり、庭園に植えるための多くの栽培品種が生み出された江戸の園芸の一大拠点であった。このため、最初のソメイヨシノは全国から集められたエドヒガンとオオシマザクラが染井村で自然交雑、もしくは人為的に交雑して誕生したか、各地から採取されたサクラ中にあったエドヒガンとオオシマザクラの雑種の1本で、花付きの良さと成長の速さにより優良個体と見なされ、植木家が接ぎ木、挿し木によって増やして全国に広まったことが定説となっている。
 ちなみに、ソメイヨシノ発祥の地とされる駒込のJR駒込駅北口には、日本で唯一の桜柄でピンク色の郵便ポスト「さくらポスト」が設置されている。
 ただ染井吉野は観賞用として交配したため、自力で繁殖することができない。全国にある染井吉野は、一本の原木から接ぎ木や挿し木で増やした、いわば「クローン」。そのため同じ条件のもとで一斉に咲き出し、お花見や観測に適しているわけだが、近い将来寿命を迎えてしまうので、その対応が課題になっている。(後述、ジンダイアケボノ)
 ピンク色の花を楽しませてくれる桜の開花時期は、一般的に3月~4月。3月~4月には、ちょうど卒業式や入学式があることもあり、学校に桜が植えられている事が多い。我々の年代でも、入学式の時に撮った写真や思い出の卒業写真などに桜の花が写っている方も多いのでは。

 さて、南から順番に開花しない理由だが、桜前線はおおむね南から北へ、高度の低い所から高い所へと進む。ただし、必ずしも暖地から順番に咲いていくわけではない。その理由は桜の開花の仕組みにある。「開花の仕組み」は、
・夏にできたツボミは、そのまま休眠に入る
・冬になって低温に一定の期間さらされるとツボミが休眠から目覚める
・春になって気温が高くなるとツボミが生長して開花する
ことにある(図③:開花の流れ…春「芽吹く⇒開花⇒葉が出る」、夏「翌年伸びる芽を作る」、秋「紅葉⇒落葉」、冬「芽は休眠する」)。
 冬の間の気温が高めに経過すると眠りから覚めるのが遅くなり、春先の気温が高くても開花も遅くなる。そのため、鹿児島など冬も暖かい地域よりも東京のほうが早く咲くという現象が起きる。ツボミが寒さにさらされて目覚めることを「休眠打破」という。

 「クローン」と聞くとびっくりするかもしれないが、植物の世界では挿木や接木などのクローン増殖は古くから行われていて、自然の状態でも起こるのは普通のこと。もともと「クローン」という言葉は「枝」を意味するギリシャ語に由来。「染井吉野」はおもに接木で増やしている(図④:台木(一般的には「オオシマザクラ」と呼ばれる基部)に増殖したい個体の枝を繋ぐことで、同じ花を付ける木が出来る)。
 親であるエドヒガンやオオシマザクラにも、いろんな個体があるようにその子にもいろんな個体がある。同じエドヒガン×オオシマザクラの種間雑種でも、花びらの色や咲き方が少し違ってくる。ソメイヨシノとは、エドヒガン×オオシマザクラの種間雑種のサクラすべてを表す名前(図⑤)。 なかでもソメイヨシノは圧倒的に成長が速く大木になり易いことなどを理由として、桜の名所を作るのに適した品種と認識され、明治以来徐々に広まり第二次世界大戦後に爆発的な勢いで各地に植樹され日本で最も一般的な桜となった。

 ここで「染井吉野」の寿命については様々な意見があるが、確かに50年を経過した「染井吉野」の樹勢は衰えているものが多い。
 大径になる木は理論上寿命がないと考えられており、ヤマザクラやエドヒガンでは数百年、稀に千年以上の古木になることもある一方で、江戸時代に誕生したソメイヨシノは、野生種に比べて新しく誕生した種であることを割り引いても、高齢の木が少ない。
 老木の少なさの原因ははっきりしていないが、「ソメイヨシノは生長が早いので、その分老化も早い」という説のほか、街路樹として多用されているソメイヨシノは、根の周辺まで舗装されていたり、排気ガスなどで傷むことが多く、公園など踏み荒らされやすい場所に植樹されることが多いことも寿命を縮める原因となっているのではないかとの指摘がある。一般的にソメイヨシノは植えてから20年から30年後に花付きの最盛期を迎え、その後は徐々に衰えていく傾向がある。
 一方、ソメイヨシノの老木が存在していることも事実である。例えば青森県の弘前城(弘前公園)には 1882年に植樹された樹齢140年を超えるソメイヨシノがあり、これは本種の現存する最も古い株と言われるほか、福島県の開成山公園には1878年、東京都の小石川植物園には1877年ごろに植樹された樹齢約150年の現存する最古のソメイヨシノと言われる株がある(2022年時点)。また、神奈川県秦野市の小学校には1892年に植樹された樹齢130年を超える2本の老木が存在し、東京都内の砧公園のソメイヨシノは1935年に植えられ、既に90年近くが経過している(2022年時点)。
 なお、「さくら」という言葉の語源は、「さ」穀霊(田んぼの神様)を表し、「くら」神様や霊などが宿る場を指し、その両方を合せたものと言われている。

 さてソメイヨシノの原木候補だが、元々1本の木から広まった「クローン」です。その起源は謎とされていたが、「原木は上野公園」とする研究結果が発表された。千葉大のチームが「元祖の1本は、東京の上野公園にあった」という結果をまとめたのです。
 それは上野動物園の表門に近い「小松宮親王像」の北側にあります。この一角(江戸時代に寛永寺の鐘楼堂があった所)にはソメイヨシノが4本あるが、兄弟のエドヒガンなどと一列に並ぶ管理番号136(現在は管理番号のプレートがない)のソメイヨシノが原木ではないかと千葉大は推理します。
ソメイヨシノは染井村(東京都豊島区)の伊藤伊兵衛政武(1667〜1757年)が作出したという説が有力 だが、ある事情で自宅の畑ではなく、寛永寺の境内で原木を育成したと考えられる。ある事情を簡単に言うと、園芸家として知られた伊藤家が時の権力者に憎まれたくなかったからだそうだ。
千葉大の調査で、親王像を囲む原木候補のソメイヨシノや、ほかのコマツオトメなど計7本が、すべて 同じ親から生まれた「兄弟」と判明。それらが規則正しい間隔で並んでいることから、「品種改良で人為的な交配で生まれたソメイヨシノや他の桜を並べて植樹した可能性が高い」としています。千葉大はその後、見栄えの良いソメイヨシノが品種改良の成果として選抜されたとみています。

 ここで前述したソメイヨシノの代替えの件ですが、生長が速く大木になりやすいソメイヨシノは、根が浅く広く張り、それに伴って街路や隣接敷地の舗装を変形させて破壊し、バリアフリーの面で障害となりやすい。大木になりやすい上に樹形が横に広がる傘状のため、狭い街路に街路樹として植えた場合は、車道からの見通しや隣接区域への障害になる可能性がある。このため特に都市部では、植え替え時にソメイヨシノより、小型のジンダイアケボノが選好されやすくなっている。
 ジンダイアケボノ(神代曙)は、バラ科サクラ属のサクラ。日本原産の交雑種のソメイヨシノ系と推測されている栽培品種のサクラで、1991年(平成3年)に新たな栽培品種として認められた。原木は東京都調布市の神代植物公園にある(写真⑥)。

 ここで桜の歴史ですが、桜は弥生時代までは穀物の神が宿る神聖な樹木として扱われていたと言われている。さらに桜(ヤマザクラ)の花が咲くことが、農作業を開始する合図とされていた。その年の桜の花の付け方(咲いている状態)によって、「その年の作物が豊作かどうか」を占う習慣もあった。また、桜を鑑賞するという文化は、平安時代になってから貴族の中で定着していた。元々は桜を鑑賞するよりも、梅を観察する方が多かった。江戸時代に入ると花見という文化ができていき、貴族だけではなく庶民にも桜を鑑賞する文化が広がっていった。

 ご存じのように、気象庁で標本木とされるのはソメイヨシノです。
 遺伝的にほぼ同じということは気候の変化によるソメイヨシノの開花の様子は全国どこへ行っても同じということになる。標本木とした主な理由は、全国的に学校・公園・街路樹などで数多く植えられている、全国のソメイヨシノは同じ遺伝子=DNAを持つクローン、の2つです。全国的にみて桜の標本木はソメイヨシノが8割以上を占めている。ただし、ソメイヨシノが咲かない沖縄・奄美地方ではヒカンザクラ、北海道の北東部ではエゾヤマザクラやチシマザクラを観測している。
 なお、気象庁では「生物季節観測」といって特定の植物や動物の観測も続けている。たとえば、カエデやイチョウが紅葉(黄葉)した日、鶯やアブラゼミの鳴き声を初めて聞いた日、ツバメやホタルを初めて見た日、などを観測することで季節の遅れ進みや気候の違いなどの推移を把握することが出来るのだそうです。つまり、桜も観測対象のひとつです。気象庁では、桜の観測地の全国58地点で「正」と「副」の標本木を複数決めている。突然の枯れなどに備えるためです。

 以上、ながながと記しましたが、これをご覧になった頃までにソメイヨシノが見られれば、じっくり鑑賞してみてはいかがですか。

2022年3月22日
 ジンチョウゲ

 この時期に散歩していると、どこからともなく良い香りがしてきませんか。そうです、三大香木のジンチョウゲ(沈丁花)の花の香りです(写真①:沈丁花がほのかに香り始めている)。お花好きな家庭の庭先に植栽されており、道路側から拝見できるお宅は少ないような気がする常緑小低木の木です。今回はこの木を取り上げてみました。

 特徴としては、ジンチョウゲは、香りのよい花(写真②:ジンチョウゲの花)を早春(2月~4月:スギ花粉が飛び始めるころ)に咲かせる花木です。花には花弁がなく、花弁のように見えるのは、先端が四つに裂けた筒状の肉厚な萼(ガク:花びらの下に生えてくる葉っぱのこと)。この萼が変形して色づいた部分を、一般的に沈丁花の花びらと呼んでいる。その内側は白色だが外側は紅紫になり、花に彩を添える(写真③)。肉厚のため、「沈丁花」は長持ちする。また、白花が咲く品種もある。
 雌雄異株だが、日本にある木は雄株が多く(日本に渡来したのは雄株のみとされる)、雌株(赤い実をつける)はほとんど見られない。そのため日本で栽培される株はほとんど結実しない。この赤い実は猛毒なので、決して口にしてはいけません。毒があるからこそ、魅惑的な香りがするとも言われている。
 耐寒性は-5℃程度で、東北地方南部の平地以南で庭植えにすることができる。移植が難しいので、場所をよく選んで植えるのが大事だが、挿し木で増やすのが一般的。
 「沈丁花」は、寿命があまり長くなく、短ければ10年、長くても30年ほどで枯れてしまう。そのため、枯れる前に挿し木で増やしておく必要のある花でもある。
 また、「沈丁花」は剪定をしなくても、丸くこんもりとした樹形を保つことが出来る植物。全体的に育て方は難しくなく、鉢植えでも育つのでチャレンジしてみるのも良いかもしれません。
 こんな上品な花ですが、茶道の心得を説く「利休百首」では、匂いがきついとして茶花としてのジンチョウゲを禁じているとの事。

 原産地は中国南部で、有史以前からギリシャや古代中国(漢)に知られ、8世紀ころには日本に渡来していたといわれる。沈丁花の語源は、香りのよい沈香(じんこう)の木と、十字型の花の形(写真③)が丁子(ちょうじ)の木の花に似ているため、この両者を兼ね備えた名がつけられた。沈丁花という名で呼ばれるがこの字は中国にはない。漢名は瑞香(ルイシアン)、別名として輪丁花。
 沈香(じんこう)とは、インドから東南アジアに分布する常緑高木で、高さは30mほどで、白い花が咲き、心材から香料を採る。中国医学(本草)では樹脂を含む幹や根を薬用とする。語源は香木で、水に沈む性質があることによる。
 また、丁子(ちょうじ=丁字、丁香)とは、常緑高木で高さは10mほどになる。夏、淡紫色の花が咲き芳香があり、この木からスパイスを採る。中国医学(本草)では、乾燥させた蕾(つぼみ)を公丁香(クローブ)といい、生薬に用いる。正倉院の御物にも見られる需要な香料で化粧品などにも利用し、油(丁香油)もとれる。語源は種子の形が丁(釘の象形文字)に似ることによる。
 余談だが、「丁」という字は、太古には釘の頭を描いた〇印で表したものであったが、のちに釘を横から見たT型(丁はその型)で示すようになった。縦の直線に対して、直角の横の面が突き当たる様子をT型で示したもの。
 また、丁子の花は枝の頂上にほぼ直角の面をなして、小花が集まりつつ、くっついている(写真④:右は沈丁花の花だが、上から見ると小花の集りであることが分かる)。頭のてっぺんを「頂」というのも、直立した首筋に対して脳天が直角の面として、くっついているからである。

 さらに、三大香木の一つとして、沈丁花は早春に咲く花の姿は地味だが、上品な甘い香りを放って春の訪れを告げ、夏の「梔子(クチナシ)」、秋の「金木犀(キンモクセイ)」と共に「三大香木」あるいは「三大芳香花」とされ、庭木、公園樹及び鉢植えとして親しまれる。
 ここで春夏秋にもあるなら冬にはないのかと思いませんか。あるのです。冬のロウバイ(蠟梅)。この四つで四大香木とも言われているのです。
 また、この香りには「リナロール」という成分が含まれ、鎮静や抗不安、抗菌効果があるとされている。多くの人が、この香りに癒されるのは成分からも証明されている。

 花言葉としては「栄光」「不死」「不滅」「歓迎」「永遠」がある。
 「不死・不滅・永遠」の花言葉は、どれも一年中瑞々しい緑色を変えることのない「沈丁花」の葉から付けられたと言われる。また、花が長いと20日ほど咲き続けることからも付けられたと言われている。「栄光」は、「沈丁花」の葉が月桂樹の葉に似ていることから付けられた(写真⑤:月桂樹の葉;あまり似ているとは思わないのだが?)。
 「歓迎」の花言葉は、「沈丁花」の甘く強い香りから付けられた。「沈丁花」の香りは、「千里香」とも呼ばれ、千里先まで香りが届くとも言われ、三大香木の中でも一番香りが強く、遠くまで飛ぶことでも有名。

 歌が好きな方は、「沈丁花」と聞いて松任谷由美さんの名曲「春よ、来い」を思い出す方もおられるのではないでしょうか。歌詞の一節で、次のように歌われている。
 ♪ 淡き光立つ 俄雨 いとし面影の沈丁花 溢(あふ)るる涙の蕾から
 ひとつ ひとつ香り始める ♪

 文学的な季語としては、2月末ないし3月に花を咲かせることから、春3月の季語としてよく詠われる。
 沈丁花を含む俳句(130句以上詠まれているようだ)の一例としては次のような句がある。
 高浜虚子   丁字落ちて 暫く暗き 燈籠かな
        沈丁の 香の石階に 佇みぬ
 芥川龍之介  行燈の 丁字落すや 雁の声
 中村汀女   沈丁に はげしく降りて 降り足りぬ

 また、和歌の一例をあげてみると、
 正岡子規   雨戸あけて 手洗ひ居れば 庭の闇に 紛々と匂ふ 沈丁の花
 与謝野晶子  春むかし 夢に人見し 京の山の 湯の香に似たる 丁子の小雨
 若山牧水   沈丁花 いまだは咲かぬ 葉がくれの くれなゐ蕾 匂ひこぼるる

 ことわざで、「沈丁花は枯れても芳し(香し:かんばし)」というのがあるが、すぐれているものは、最後までその価値や魅力を失うことはない、という意味。沈丁花は、花が咲いている時はもちろんですが、花が枯れていても香りが残っている。その特徴が「沈丁花は枯れても芳し」ということわざに使われた理由。
これと同じく、本質の価値について表現したことわざとして有名なのが「腐っても鯛」です。鯛は高級な魚というイメージが強く、おめでたい席などには欠かせない魚です。例え腐っても、鯛は鯛ということなのでしょう。
 現実的には、腐った鯛よりも、新鮮な雑魚の方が美味しいと思いますが、それほど鯛という魚が重宝されてきたので、ことわざに使われたのだと思われる。

 「沈丁花」の英語名は、「winter daphne(ウィンター ダフネ)」で、ギリシャ神話に登場するニュンペーの「ダフネ」から来ている。因みに、ニュンペーとは下級女神の事。
 キューピットのいたずらで、アポロンがダフネに恋をしました。そして、怖い思いをしたダフネは追いかけられ逃げていきます。逃げきれないとわかった時に、父神に頼んで月桂樹になったとの事。月桂樹の葉に「沈丁花」の葉がよく似ていることから、つけられたと言われている。
 諸般の文献等から見ると、花や木や自然生態系関連には、結構ギリシャ神話が関係してくるのが面白いと思いませんか。

2022年3月7日
 カワヅザクラ

 今回は花の色がソメイヨシノなどより濃いことや花期(1ヶ月程度)が比較的長いこと、1月下旬から咲き始め早咲きであることから人気があるカワヅザクラ(河津桜)を取り上げてみました。

 河津桜は近年各地で植栽されており、ご存じの方も多いと思いますが、静岡県河津町(伊豆半島東岸)で毎年3月上旬に満開になる多少濃い目のピンク色の桜です(写真①)。
 この桜はソメイヨシノ(染井吉野)のようにパーッと咲いて(写真②)パーッと散る感じの桜ではありません。伊豆の温暖な気候と早咲きの特色を生かし、毎年2月上旬から開花しはじめ約1ヶ月を経て満開になります。

 由来としては、1955年(昭和30年)2月に静岡県河津町在住の人が河津川沿いの雑草の中で1mほどの芽吹いている原木を偶然発見し庭先に植えたことが由来。
 1966年(昭和41年)から開花し、1月下旬頃から多少濃い目のピンクの花が約1ヶ月にわたって咲き続けて近隣の注目を集めました。当初、発見者の屋号から「小峰桜」と地元で言われてきたが、その後の学術調査で今までに無かった雑種起源の栽培品種であると判明し、1974年(昭和49年)に「カワヅザクラ(河津桜)」と命名され、1975年に河津町の木に指定された。ほかに自治体の木としては静岡県東伊豆町しかありません。この桜が、戦後発見されたという事は、あまり知られていないのではないでしょうか。
 河津桜の寿命は現在はっきりしたところは分かっていませんが、河津川沿いで偶然発見され、発見者の自宅の庭で大切に育てられている河津桜の原木は現在約65年以上たっています。そして、この原木から挿し木をして苗を増やし、大きくなった木々を河津川沿いに植えたのが50年くらい前。

 特徴としては、一重咲きで4cmから5cmの大輪の花を咲かせ、花弁の色は紫紅。オオシマザクラとカンヒザクラの雑種にさらにカンヒザクラが交雑した種であり、オオシマザクラ由来の大輪の花と、カンヒザクラ由来の紫紅の花弁の色と早咲きが大きな特徴。
 野生では、花粉の媒介者となる虫の活動が始まる春よりも大幅に早く咲くと子孫を残せないため、本州の野生種のサクラには寒い時期に咲かない仕組みがありますが、カワヅザクラは本来本州に自生しないカンヒザクラが交雑することによって花期が早まったと考えられている。
 極端な早咲きは野生では淘汰される不利な特質だが、カワヅザクラのような栽培品種ではその珍しい特質と花の特徴がむしろ好まれて接ぎ木などで増殖されている。
 ソメイヨシノと違い、時間をかけて咲き進み、長く花を楽しめるのが大きな特徴で、河津町で行われる桜まつりも1ヶ月の期間開催される。

 開花時期としては、例年は2月初旬~3月初旬が開花時期で、満開の期間は約1週間から10日とのこと。ただ最近の過去4年を遡ると2月の始まりから咲き始める場合や、2月の終わりから咲き始める場合もあったとの事。
 お花見のメインとなる河津川沿いには、約4キロにも渡って800本もの河津桜の木が毎年満開の花を咲かせて、この並木道の絶景を豪華に彩っている(写真③)。
 河津桜は早咲きで知られ、2月から約1カ月間開かれる河津桜まつりには100万人近い人が訪れる。伊豆では最大のイベントになり、経済効果は300億円ともいわれている。
 始まりは、1970年代に町観光協会や町商工会が川沿いで植樹運動を展開したこと。まつりは1991年から始まったが、初年の観光客は約3000人と地味だった。それが知名度が上がるにつれて倍々ゲームのように増え、99年には100万人に。伊豆には河津桜より早咲きの桜がいくつもあるが、早咲きの代名詞にもなり、観光の成功例として地元で語り継がれている。
 観光客急増のきっかけは、早春の新しい桜の名所として大手新聞各社に一面で大きく取り上げられたことや、NHKの定点カメラで朝のニュースや天気予報の背景に桜並木が映し出されたこと。さらに1998年、NHK「小さな旅」というテレビ番組で河津桜の生い立ちや、地域の思いなどが取り上げられると大反響が起こり、大手旅行雑誌に特集記事が組まれるほどにもなったため。

 しかし現在、この伊豆の河津桜にもピンチが来ているのです。
 というのは最初の植樹から約50年を超え、一部に樹勢が衰える木が出てくる一方、並木の中心になる河津川沿いでは河川法の規制で植え替えが難しいからだ。
 1997年に河川法が改正され、「根が弱ると地面にすき間ができ、堤防決壊につながる可能性があるため、新たな植樹は認められない」(静岡県土木事務所)となり、川沿いの植樹ができなくなった。植樹当時は明確な基準がなく、必ずしも「違反」ではなかった。ところが河川法改正をきっかけに、堤防の上や川側の斜面に木を植えることが、治水に影響があるとして事実上できなくなったのです。この件で、現在県と町と有識者等での検討会を実施中との事。

 ところで、日本の川沿いに桜が多い理由をご存じですか?
 昔、日本の治水設備が十分でなかった時代、大雨が降るたびに頻繁に川が氾濫するのを阻止するために低予算で行える苦肉の対策として、堤防の代わりに桜を植えることが考案されました。

 それは、桜が満開になれば、お花見に大勢の人々が訪れるので、土手に盛られた土が大勢の花見客に踏み固められ、強固な土手が手っ取り早く自然にできあがる、と考えられたからだそうです。
 このため、川沿いに堤防代わりとして、多くの地域で桜が植えられるようになり、昔のなごりとして、これがまだ現代でも残っている桜の名所も多くある。
 ということは、今後日本全国の川沿いの桜が次々と消えていくのか?
 河川法の改正が施行され、川沿いの桜の運命と存続はこの出来事によって大きく変えられてしまいました。かつては、河川の堤防も兼ねて植えられた桜の木でしたが、この法の改正の施行以降、治水対策が理由で、川の堤防に木を植えることが一切できなくなってしまったのです。 該当する市町村等では、現在検討会等を開き対策等を模索しているようです。

 ここで余談ですが、千葉県鋸南町(房総半島)はどこにあるか、ご存じですか?
 そうです、「東京湾フェーリー」で神奈川県三浦半島久里浜港から千葉県富津市金谷港に着いた近くの町です。また、43会HPの1月下半期で紹介した「スイセン」の群生地でもあり、スイセンを「シンボルフラワー」にしている町です。この町で毎年頼朝桜まつり(河津桜)が開催されています。

 現在NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」を放映していますが、源頼朝は石橋山(現在の小田原市)の戦いに敗れ、安房国(鋸南町)に上陸し再起をはかりました。鋸南町では、その史実にちなみ河津桜に「頼朝桜」という愛称をつけています。
 源頼朝は、治承4年(1180年)8月に伊豆で平家打倒の兵を挙げましたが、石橋山の合戦で敗れ、28日に真鶴岬から小船で脱出し房総へと逃れます。翌29日、わずかな供を連れて安房国猟島(現在の鋸南町竜島)に上陸。竜島の村人たちは頼朝を歓迎して、いろいろと世話を焼いたと伝えられている。源氏にゆかりのある安房の豪族・安西景益は、頼朝を護るため自分の館に招き入れます。頼朝はそこから、房総の有力豪族に使者や手紙を送り味方を募り、勢力を盛り返しました。竜島は頼朝にとって再起の地。武家政権鎌倉幕府の出発点でもあります。上陸したとされる場所は、千葉県指定史跡に指定され上陸碑が建てられています(写真④)。

 皆様も自然環境や植物等を見た折に、歴史、風土等に思いをはせると散策は結構面白いですよ。

2022年2月21日
 ロウバイ

 皆様もお住いの近隣で、ロウバイ(最近はほとんどソシンロウバイですが)をご覧になることがあると思います。私が住む地域は特に自然環境に恵まれ、ロウバイを含め各種の植物等が観察できます。先月からの散策時に、ソシンロウバイを見かけていたので、今回は「ロウバイ」を取り上げてみました。

 ロウバイ(蝋梅)は、まだ春が遠い1~2月の厳寒期に、下向きまたは横向きに咲く黄色い花で、多数の花被片(ガクと花弁)を螺旋状につけ、外側の花弁は光沢のある黄色に、内側の小さなものは暗い紫色になる(写真①)。その名の通り、蝋細工か飴細工のような黄色い厚手の花びらをもった花である。
 ロウバイはロウバイ科ロウバイ属の落葉低木で、この仲間は病害虫がほとんど発生しない半面、根は過湿に弱いため排水の悪いところでは枯れやすく、できるだけ日当たりや水はけが良い場所に植える事が重要です。
 花が咲き終わると、花床が大きくなって長さ3cmほどの独特な偽果(ギカ)ができる。果実(偽果)は不均整な楕円形で、先端に萎れた雄しべが残り(写真②)、中には十数個の種子を含む(写真③)。
 キョウチクトウなどに毒があるのは、かなりの人は知っていると思いますが、梅によく似るその実には毒が入っていて、知らないと危険です。実を割るとその中に種が入っていて、その種が強い毒性を持っている。この実の種はアルカロイドであるカリカチンという有毒を持つ。十分な量を摂取すると、30分ほどで激しい硬直性痙攣が起こり、死に至ることもあるようです。
 ちなみに、梅のことわざに「梅食うとも核食うな 中に天神寝てござる」というものがあり、これは青梅には大量の青酸カリ化合物が含まれているので、バチがあたるという注意を促したものらしい。
 又、菅原道真(天神様)が梅を愛した故事によれば、梅の種を食うと字を忘れるという言い伝えもある。蝋梅も梅とつくだけあって、種を食うのは厳禁である。

 ロウバイは庭木として鑑賞されるほか、花の少ない正月用の生花として、茶会席の茶花としても人気がある。
 又、ロウバイの花は内側の花弁が茶褐色(写真①)ですが、一般に出回っているのは、すべての花弁が黄色のソシンロウバイ(素心蝋梅:写真④)やその園芸品種です。ソシンロウバイはロウバイよりも、花が大きく香りも強く、中央部も含めて花全体が黄色い品種で庭木としての利用はより多い。
 ところでウメの花びらの数は5枚と決まっていますが、ロウバイの花びらの数は10枚前後で、不揃いです。若い花は、小さな二枚貝を重ねたように丸まっていますが、日にちが経つと細長く伸び、半透明になる(写真①)。

 和名のロウバイは中国名「蝋梅」の音読みとされ、そもそも花の色や光沢など外観が蜜蝋(ミツバチの巣を作る蝋)による蝋細工を思わせることによると言われている。他にも、花が蝋月(朧月)、すなわち陰暦の十二月に咲き、ウメ(梅)のように香しいからとする説や、花弁は蝋細工のような透明感と独特の光沢があり、ウメのように香ることから名づけられたとする説もある。ちなみに英語では、寒い冬に甘い芳しい香りを漂わせるためWintersweetと呼ばれる。

 薬用には開花前の花蕾(つぼみ)を用いる。生薬名をロウバイカ(蝋梅花)といい、頭痛や発熱、口の渇き、多汗などの改善に用いる。また蝋梅花には皮膚を再生する効果があり、民間ではごま油に漬けて火傷などに外用する。しかし種子には、弱いながらも中枢神経を興奮させる作用が知られているため、観賞用や薬用という目的もあるが、有毒な樹木として取り扱われている。
 ロウバイの花言葉は「ゆかしさ」「慈しみ」「先導」「先見」。初めの2つは花の雰囲気から、後は他の花に先駆けて咲くことが由来です。

 ロウバイの関東の名所として宝登山神社(埼玉県長瀞町)があり、初春にはロウバイが実に見事。奥宮近くの宝登山頂の園地には宝登山蝋梅園があり、約15,000平方メートルの敷地に約800株(約3000本)という関東一の規模でロウバイが咲く。標高497メートルの宝登山山頂に位置するロウバイ園は、各所にあるロウバイ園と比べて、眺望絶景のロケーションとなっている。
 他にも神奈川県松田町に寄(やどりき)ロウバイ園がある。このロウバイ園の始まりは、地元の方々が平成16年に標高380メートル付近の荒廃農地を整備し、地域振興に貢献しようと平成17年度寄中学校卒業生が250本のロウバイを記念植樹したのが始まり。植樹されたソシンロウバイは現在、約20,000本以上、敷地面積13,000平方メートル以上のロウバイ園となっている。
 両園とも例年の開花は12月下旬~2月下旬だが、今年は温暖化のためか、例年より2~3週間満開が早かったため、2月の上旬には終わってしまったとの事。

 このコロナ禍状況にて、各地への自然観察小旅行が出来なくなり、最近は「老梅(ロウバイ)」のごとく、家で根の生えた老木(老人?)のような事になっており、「狼狽」している自分にストレスを感じていますが、皆様はいかがお過ごしですか?

2022年2月8日
 キンカン

 幼年期や年少時代にキンカンを時々食べました(食べさせられた?)が、皆様はいかがでしたか。先日散歩にて、数軒(農家等)のお宅にたわわに生っているキンカン(写真②-1)を見かけましたので、植物図鑑等にて調べてみました。

 キンカンの開花は5~9月頃。品種によっては四季咲き性が強く、厳冬期と酷暑期を除けば通年にわたって花が咲くのも稀ではない。葉の脇に1~3輪ずつ咲き(写真➀)、キンカン特有の香りがある。
 果実は直径2~3センチの球形あるいは楕円形(写真➁-2)で、11~2月に黄色く熟すと内部には卵形をした小さな種子ができる(写真③:実断面)。キンカンは最も小さいミカンとされるが、子房の室が少ないため、分類上はミカンと区別されキンカン属として独立する。
 果肉は酸味が強過ぎるため食用に向かないが、薄い果皮は適度の酸味と甘みがあって食べやすく、ジャム、お節料理の甘露煮、焼酎に漬けて金柑酒とされる。また、ビタミンCを豊富に含むため、氷砂糖を入れた煎汁を作り、咳止めの風邪薬とした。
 キンカンと呼ばれるものはいろいろあるが、果実がおいしく生で食べられるのは、ネイハキンカン、マルキンカン、ナガキンカンです。なかでも、果実が大きく品質がよいのはネイハキンカンで、果実にビタミンA、Cが豊富で利用価値が高く、庭に1本あると重宝。このネイハキンカンは別名ニンポウキンカン(寧波金柑)、メイワキンカン(明和金柑)と呼ばれ、品質がよく、生食用に市販されているキンカンはほとんどが本種です(果重11~13g)。
庭植えのキンカンは、一般の柑橘類より開花が遅いので、熟すのも遅く、早く食べると酸っぱいが、3月から5月ごろ食べると大変おいしいのです。

 原産地は、中国南部からマレー半島にかけた地域で、ミカン科キンカン属の常緑樹で、日本への渡来は江戸時代の文政9年(1826年)と伝えられる。現在の中国浙江省寧波(ニンポウ、当時・清)の商船が遠州灘沖で遭難し清水港に寄港した。その際に船員が礼として清水の人に砂糖漬けのキンカンの実を贈った。その中に入っていた種を植えたとろ、やがて実がなり、その実からとった種が日本全国へ広まったとされる。
 又、名の由来は、黄金色のミカン(蜜柑)の意味から金橘、金柑の中国名が生まれて、日本ではそれを音読みしてキンカンとなった。俳句では秋の季語になっている。


 さて、キンカン(金柑)の種類は様々あるが、食用と観賞用に分けられる。食用のキンカン(金柑)としては、前述のとおり、ネイハキンカン(実が大きく、美味しい)、マルキンカン(実が小ぶりで、枝に棘がある)、ナガキンカン(実が長球形。枝に棘がほとんどない)があり、観賞用キンカン(金柑)としては、チョウジュキンカン(実の酸味が強く、ジャムなどに加工しないと食べられない)、マメキンカン(木も実も小さく、小盆栽用(写真④:正月飾りに使用))などがあります。

 ここで厄介なのは、柑橘類を育てるうえで必ず出くわす、避けて通れない天敵がいる。それが、「アゲハ蝶系の幼虫(写真⑤:ナミアゲハの終齢幼虫、約45ミリ)」による被害です。初夏から秋まで続きます。これを放置しておくと、柔らかい新芽から食べられてしまい、気がついたら枝だけというようなことになってしまいます。

 食用の場合は、果実は果皮ごとあるいは果皮だけ生食する。皮の中果皮、つまり柑橘類の皮の白い綿状の部分に相当する部分に苦味と共に甘味がある。果肉は酸味が強い。果皮のついたまま甘く煮て、砂糖漬け、蜂蜜漬け、甘露煮にする。甘く煮てから、砂糖に漬け、ドライフルーツにすることもある。
 薬用としては、マルキンカン、ナガキンカンが利用される。果実は民間薬として咳や、のどの痛みに効果があるとされ、金橘(きんきつ)と称することがある。 果実にはいずれの種にも、有機酸、糖分約8%、灰分約0.5%を含み、果皮中には少量のヘスペリジン(ビタミンP)、精油などを含んでいる。有機酸には制菌作用、ヘスペリジンは毛細血管の血液透過性を増大させたり、抗菌や利尿などにも役立つとされている。また、精油は延髄中枢を刺激して、血液循環を良くして発汗作用の働きがある。

 なお、一部のおせち料理の本では、キンカンが「金冠」とも通じて、財宝や富をもたらす縁起の良い植物であるとして料理使用されている。
 ここで風水パワーの観点から言うと、「金柑」は開運の柑橘との事。そもそも、柑橘類は「西側に植えると繁栄する」と云われるほど、金運、開運果実として重宝されてきた。その理由は風水で西方位の金運カラーの鮮やかな黄色やオレンジ色の実を毎年、枝いっぱいにつけてくれる果樹が多いからです。
 何故、多くの柑橘類は縁起が良いのか? 寒さに強い品種が多く性質も強健で、常緑樹(葉が枯れない上、沢山の実をつけてくれる。そのほとんどが黄色やオレンジ色)であること。西側の金運方位に植える果樹としては風水的にも最適なのだそうです。やはり、育てやすいことも要因ではと思われます。西側に植えている家と植えていない家とでは、何か違いがあり、噂などで少しずつ広がっていった、というような可能性も否定できないようです。
 いずれにしても「柑橘類を西側に植えるとその家は栄える」という現象は風水の西方位に「金の気」をもつ物を置くという金運上昇の考え方と一致しており、風水術では間違いではないとの事。

 さて、関西方面での遊び言葉の一つと思われる、「蜜柑 金柑 酒の燗 親は折檻 子はきかん」というのがあるのを初めて聞きましたが、皆さんはご存知でしたか。
 なお、市町村の木を「キンカン」にしているのが、和歌山県東牟婁郡串本町の一件だけありました。これは、1.8kmの沖合には和歌山県下最大の島、紀伊大島が浮かんでおり、平成11年9月の「くしもと大橋」開通により本土とつながりました。この紀伊大島で多く栽培・生産されるキンカンは、路地で栽培されており、海に面した温暖な地を象徴する樹木だそうです。
 キンカンは普段は目立たない存在でも、意外に幸運を持った樹木なのですね。

2022年1月24日
 スイセン

 皆様はことわざで「好いた水仙好かれた柳」というのをご存知ですか。意味するところは「相思相愛の男女を水仙と柳に例えた表現」なのです。今回は、この時期に寒風が吹きすさぶ庭先や、降り積った雪の中で健気に花を咲かせるスイセンを取り上げました。

 スイセンは元来、海浜植物で水に潤う湿地に適するのだが、わりと日当たりなどを選ばずに寒い時から咲くので「寒中四友(せっちゅうのしゆう)」「雪中花」とも言われて観賞される。ここで「寒中四友」とは、中国には職業画家の描いた絵を技法に走ったものとして批判し、文人が描いた絵を精神性が表出したものとして高く評価する考え方があり、これら文人画に好んで描かれた早春に咲く梅、蝋梅(ろうばい)、水仙、山茶花(さざんか)の4つの花をさす言葉である。
 スイセンは、ヒガンバナ科で、ニホンズイセン(写真①)やラッパスイセン(写真②)など、色や形の異なる種や品種が多くあり、総称してスイセンと呼ばれている。スイセンの日本三大群生地は、福井県の越前海岸、千葉県の鋸南町、兵庫県の淡路島とされているが、それ以外にも紀伊半島や伊豆半島などの海岸近くに古くからの群生地が見られる。 北陸地方では、スイセンを「雪中花」とも呼ぶ。お正月に飾ると縁起がよいとされているのは、その強さゆえと言われている。従前から花の少ない時期に手に入りやすい花材として重宝されてきた。
 開花期は12月から翌年5月頃のあいだ(ラッパスイセンなど遅咲きのものは、3月から4月頃)。葉の間からつぼみをつけた花茎が伸び(写真③)、伸びきるとつぼみが横向きになり(写真④)、成熟するとつぼみを覆っていた包を破って花が開く(写真①)。

 地中海沿岸が原産で、日本には平安末期に中国から渡来し、漢名の「水仙」を音読みして「すいせん」になったといわれている。スイセンはヒガンバナ科の球根植物(写真⑤)。スイセンの 野生種はスペインやポルトガル、北アフリカなど地中海沿岸に自生している。
古代ギリシャ時代の壁画に水仙の絵が残っていることから、この頃にはラッパスイセンが咲いていたとされている。日本では平安・鎌倉時代にはすでに文献に登場するので、それより古い時代に球根が何らかの方法で海を渡ってきたことは確かだが、人の手ではなく海流に乗って漂着して野生化したという説もある。というのも、スイセンが群生している日本国内の自生地が、いずれも、海岸近くに集中しているからだ。地中海から長い時間をかけて海を渡ったとはちょっと考えづらいので、原産地の地中海からシルクロードを通って中国まで渡り、その球根が何らかのきっかけで海流に乗って日本の海岸に漂着して野生化したのではないか、と考えられている。

 スイセンといえば白や黄色の花がよく見られるが、それ以外にピンクやアプリコット色(やわらかい黄赤)など様々な花色がある。スイセンの園芸品種は数万品種もあり、とても種類が豊富だ。品種によって一本の茎から一本の花が咲く種の他、ニホンズイセンのような房咲き種もある。最近では八重咲種など、新品種のスイセンが毎年のように登場している。

 スイセンは漢字では「水仙」と書く。水仙は中国から来た言葉で、「仙人は、天にあるものは天仙、地にあるものは地仙、水にあるものは水仙」という中国の古典に由来している。水辺に育ち、仙人のように寿命が長く、清らかなという意味から名付けられたとされる。スイセンの学名は「ナルキッソス」と言うが、これはギリシャ神話に登場する美少年ナルキッソスにちなんで名付けられた。(後述)

 スイセンは同じ科のヒガンバナと同様、リコリンをはじめとした有毒成分を含んでいて、スイセンを植えておくと、ネズミやモグラなどが寄りつかないと言われている。
 全草が有毒で、鱗茎(写真⑤)に特に毒成分が多い。葉がニラとよく似ており、家庭菜園でニラを栽培すると同時に、観賞用として本種を栽培した場合などに、間違えて食べ中毒症状を起こしたという事件が時々報告、報道されている。厚生労働省によると、2008年~2017年に起きた有毒植物による食中毒188件のうち、最多はスイセン(47件)だった。ニラとの大きな違いは、葉からの臭いがない(ニラは葉から独特の強い臭いを放つ)ことと、鱗茎がある(ニラは髭(ひげ)根で鱗茎はない)ことである。

 さて、華道におけるスイセンは冬に咲く数少ない花の代表で、池坊の古くから伝わる花伝書にも「陰の花 水仙に限る」と記されており、冬季の花の最上として美しく咲く香り高い花とされている。立花(りっか)は池坊の中で最も古く成立した生け花の様式で、立花における水仙は約400年の伝承を経て、池坊を代表する花として今もなお受け継がれている。
 地方公共団体などで水仙をシンボルフラワーとしているのは、都道府県では福井県のみで、市区町村としては、北海道~長崎県まで32市町村(もちろん福井県越前町も入っている)がある。ちなみに、関東近県では千葉県に二か所(酒々井町、鋸南町)、神奈川県に4か所(横浜市西区、川崎市高津区、寒川町、大井町)ある。

 最後に、ギリシャ神話によれば、森の妖精のひとりのエコー(こだま)は愛する美少年ナルキッソスに振り向いてもらうことができなかったので痩せ細り、声だけの存在になってしまう。エコーを哀れんだ女神ネメシスは、他人を愛せないナルキッソスを、ただ自分だけを愛するようにする。
 そこで女神ネメシスは無情なナルキッソスをムーサの山にある泉によび寄せる。不吉な予言に近づいているとも知らないナルキッソスが水を飲もうと、水面を見ると、中に美しい少年がいた。もちろんそれはナルキッソス本人だった。ナルキッソスはひと目で恋に落ちた。そしてそのまま水の中の美少年から離れることができなくなり、やせ細って死んでしまう。また、水面に写った自分に口付けをしようとしてそのまま落ちて水死したという話もある。ナルキッソスが死んだあと、そこには水仙の花がひっそりと咲いていた。
 この伝承から、スイセンのことを欧米ではナルシスと呼ぶ。また、精神分析の用語ナルシシズムという言葉の語源になった。さらに、この話が「ナルシスト(自己陶酔者)」の語源になっている。
 皆さんもスイセンを見かけたら、自然愛好家としてじっくりと花の香りを感じながらご覧になってはいかがですか。

2022年1月11日
 タケ

 新年を迎えるにあたり、最近門松を飾る家や会社、店舗等が少なくなった気がしますが、皆様お住いの近くではいかがですか。今回は門松に使う「タケ」を取り上げてみました。
 門松は「年神様を家へ迎えるための飾り」であり、お正月は「年神様を迎える」行事です。昔から、毎年お正月には「年神様」と呼ばれる神様が各家庭へ訪れると言われる。年神様は特定の宗教による神様ではなく、その年の福や徳を司る「歳徳神」や祖先の霊、穀物の神といったいくつもの神様がひとつにまとめられ、民間信仰として伝わってきたものだとされている。
 又、「門松は家を訪れる年神様のための目印」であり、正月飾りの中でも、門や玄関前に飾る門松は、年神様が家へ尋ね入るにあたっての目印だとされている。基本的には一年中落葉しない松、成長が早く生命力の強い竹、新春に開花し、年始にふさわしい梅と3つの縁起物が用いられる。 現在の門松は中心の竹が目立つが、その本体は名前で解るとおり「松」である。古くは松などの常緑樹を飾っていたが、鎌倉時代以後、竹も一緒に飾るようになった。
 竹の先端部の形状は、斜めに切った「削ぎ(そぎ)」(写真②)と、節で水平に切った「寸胴(ずんどう)」(写真①)の2種類がある。一説では、「そぎ」は徳川家康が始めたもので、徳川家康の生涯唯一の敗北として知られる「三方ヶ原の戦い」(1572年)のあと、対戦相手の武田信玄に対して、次は斬るぞという念を込めたのが始まりとされる。一方の「寸胴」は口が開いていない(金が逃げない)というので縁起がいいという説があり、商家や銀行などが好んで飾る。関東では3本組の竹を中心に、周囲に短めの若松を配置し、下部をわらで巻く形態が多い。関西では3本組の竹を中心に、前面に葉牡丹(紅白)後方に長めの若松を添え、下部を竹で巻く(写真②)。豪華になると梅老木や南天、熊笹やユズリハなどを添える。

 ところで、なぜタケは成長が早いのか。タケには節ごとに細胞が分裂して成長する「成長点」と呼ばれる部分がある。一般の樹木だと成長点は根や茎の先端にしかない。ところがタケはすべての節に成長点があるため、仮に節が40個あってそれぞれの成長点が1日に1センチメートルずつ伸びれば、稈(カン・節と節の間)は1日で一気に40センチメートル成長することになる。これがタケの成長が早い理由(写真③)。
 しかし竹にも寿命があるので、やがて竹林全体が花を咲かせて有性生殖を行い、子孫をつくった後に一斉に枯死する。花が咲くことは極めてまれで、花が咲くときは4月から5月にかけてである。一部のタケ類は周期的に開花し一斉に枯れることが知られている。その周期は極めて長く、ハチク、マダケの場合は約120年周期であると推定されている。しかし、まだ周期が分かっていない種類も多い(日本におけるモウソウチクの例では、種をまいてから67年後に一斉に開花・枯死した例が2例(1912年→1979年・1930年→1997年)記録されている)。竹の種類によって開花周期に幅が見られるが、一般にはおおよそ60年から120年周期であると考えられている(写真④はハチクの花)。

 日本に生育している代表的な種は、マダケ、モウソウチク、ハチクの3種類。いずれも成長は早く、マダケ、モウソウチクは1日に1メートル以上伸びたという記録がある。マダケとハチクは古くから日本に自生していたと考えられている。モウソウチク(孟宗竹)の導入時期については諸説あるが、1736年に中国から鹿児島に導入されたものが株分けされ、全国に広がったとされている。
 マダケ(苦竹・真竹)は節に環が2つあり(写真⑤)、節間が長く、材質部は薄い。材質は弾力性があるなど優れており、建築や竹細工に利用されている。門松も基本的にはマダケを使う。漢字で苦竹と書くように、一般にたけのこが苦い印象があるので、市場に出回ることは少ない。モウソウチクは節の環は1つで(写真⑥)、節間は比較的短く、材質が肉厚で硬いのが特徴。一般に春にタケノコ掘りを楽しむのはこの種類のもので「春の味覚の王様」といわれる。材質が硬いため、古くからさまざまな資材として利用されてきた。ハチク(淡竹、甘竹)はマダケに似ているが、表皮全体が粉をふいているように白っぽく見えるのが特徴で、耐寒性がある。材質は柔らかく、細かく割りやすいことから茶せんや提灯、簾などに利用されている。ハチクのタケノコはえぐ味がなく美味といわれるが、店頭で見かけることは少ない。

 タケの語源は、英語ではbamboo、マレー語のbambuから転訛(てんか)したもので、これは山火事などのとき、タケの稈の空洞が熱気のため破裂する音からきているといわれる。タケは万葉仮名で多気、多介、太計、陀気などと書き、現在一般に使われている竹は漢字であって、タケの葉の容姿から出た象形文字。なお、和名の「たけ」は成長が早く丈が高くなるので、タカ(高)やタケ(長、丈)が語源と言われる。なお、モウソウチクは中国で昔、病気の母のために真冬に雪をかき分けてタケノコを掘り、それを食べさせたという孟宗(三国時代の呉の人物)という人の故事に因む。

 竹の秘めたるパワーとして、抗菌・防カビ・抗ウイルス効果・抗酸化効果があり、竹林では「動物の死骸が腐敗しない」といわれるほど、竹の抗菌性能の高さを示している。中でも竹と日本人の食とのかかわりは、そのほとんどが食品の保存目的に使われている。竹の皮でおむすびや肉を包んだり、笹寿司、笹かまぼこ、和菓子など、どれも竹自体に抗菌作用が強い為、鮮度保持能力、抗菌作用を利用して、使われている。また竹かごなどの製品は通気性が良いため、食べ物だけでなく、衣類などの収納にも最適。又、消臭効果としては竹炭などでよく知られている。竹自体は、多孔質といって細かい穴が沢山あいていて、そこに匂い成分を吸着させて消臭効果が有る。また近年、竹の中に乳酸菌が含まれている事が判ってきた。そこで竹自体を細かく粉砕し、密閉状態にすると竹の中の乳酸菌が自然発酵し始める。最近、この乳酸菌が世間で注目を浴びるようになってきている。というのも乳酸菌には免疫力を高める効果が有り、その力を活用して細かく粉砕した竹パウダーを土壌改良剤として使用し、土本来の力を蘇らせたり、生ゴミを竹パウダーで分解したり、鶏や牛、豚飼料に添加する事により糞尿の匂いを減らす事も出来る。

 ことわざ、慣用句等では、「竹を割ったよう」「破竹の勢い」「竹馬(ちくば)の友」「竹箆(しっぺ)返し」「木に竹を接ぐ」「松竹梅」「竹屋の火事(ポンポンと怒るようす)」「竹藪に矢を射るよう(無益なことのたとえ)」「竹藪焼けた(たけやぶやけた)」(回文の一つ)など。ここで「竹箆(しっぺ、しっぺい)」とは、「片手の人差し指と中指とをそろえて、相手の手の甲・手首などを打つこと」とあり、今更ながらにこんな漢字があったのだと、気づかされました。皆さんはご存知でしたか。

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