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2019年12月23日(月)
 忘年会をやりました

 2019年12月4日、43会恒例の役員会+忘年会が、日比谷の帝国ホテルの裏の「うすけぼー」というレストランで開催されました。いつもですと、駿河台記念館で役員会そして忘年会は神田あたりの店で開催していましたが、駿河台記念館が工事で閉鎖されてしまい、やや遠いこの会場になったのです。また、この会場は一昨年に43会が「宝塚鑑賞会」を開催した時に、二次会で使ったことがあったようです。
 まずは、わかりにくい会場で、地下鉄の「日比谷駅」で降りて帝国ホテルに向かって歩くのですが、店の表示・看板はおろか店が入っているU1ビルすら表示・看板がないのです。私は帝国ホテルの駐車場に紛れ込んでしまい、駐車場の案内人に尋ねたのですが「おそらくあのビルだと思います」という答えしかありませんでした。やっとU1ビルに入ったものの、地階にあるという「うすけぼー」の表示・看板が無くウロウロしていたところ原田さん、古賀さん、小塚さん等に会ってホットしました。エレベーターで地階に降りましたが、そこにも「うすけぼー」の表示・看板が無く、白い壁があるだけでした。
 でも会場に入るとなかなかいい雰囲気の店で、この日の出席者29名(女性 4 名)には丁度いい広さで、室内装飾(フランス人とおぼしき軍人の肖像画や海戦の絵画、帆船の模型、暖炉など)もヨーロッパ的で上品なものでした。また、各人のテーブル敷にこの店の変わった名前のいわれが書かれていましたが、何でも「うすけぼー」とはアイルランド語で「命の水」を意味するのだそうです。
 ここで5時から1時間ほど役員会を行った後、忘年会に入りました。この日の忘年会の司会者は緑川さんで、かなり個性的な司会ぶりでしたが、とても新鮮な感じがしました。料理は生ハムやテリーヌなどのオードブルから始まり、肉料理や野菜サラダなどが運ばれてきました。グラタンやビーフステーキなども運ばれてきましたが、味の方もまずまずでした。
酒はビール、ウイスキー、ワイン、日本酒、焼酎などが飲み放題になっており、私はビールの後にワインを飲みました。参加者もワイワイと歓談しながらこれらの酒をグイグイ飲んだので、酒コーナーは何回も補充されていたようです。皆、席を転々と変えて歓談したので、自分の席にはなかなか帰れず更に転々として多くの仲間と話しができました。
 8時の予定時間を30分過ぎた頃、いつも元気な小塚氏の“締め”で閉会しました。特に酔ったような会員もおらず、元気に三々五々帰宅しましたが、中には飲み足らず二次会に向かう会員もいました。私は前日に引き続きの忘年会だったので日比谷線に乗ってまっすぐに入谷駅に向かったのですが、うとうとして1駅乗り越して三ノ輪駅に行ってしまいました。そして酔い覚ましのため1駅歩いて帰りました。これだけ元気な仲間が揃っている43会は実に素晴らしい会だと改めて感じました。

【八束一郎】

2019年12月2日(月)
 ホームページのリニューアル・オープンから早や1年

 白門43会のホームページ開設は、白門43会創立総会(1995.7.1)から約6年後の2001年7月に遡ります。当時としては他の白門会関係のホームページ開設の先駆けではなかったかと思います。このホームページのおかげで43会登録会員の意識も上がり、また43会会員登録者以外の関係者が閲覧できる様になり、会の存在価値を対外的に大いに高めた事はいまだに私の記憶の中に残っています。

 この開設に当たり、会の誰が担当できるのか、ボランティア的精神だけで出来るものなのか等々の問題は有りましたが、多少ITに馴染みのある三沢会員があえて「火中の栗を拾う」的な犠牲的精神にて挑戦して頂き、今日の礎を築いて頂きました。この43会ホームページ開設により、他の白門会関係者のホームページ開設気運に火をつけ、また、学員会からの支援等もあり、今では多くの会がホームページ開設をされているようです。

 しかし開設後約12年を経過したところで、三沢会員が諸般の事情により担当交代をするような状況になりました。会の中でも多少ともITに関して詳しく、また犠牲的精神にて担当して頂く適当な方が無く、困り果てて最後は外注委託するしかないと思われました。しかし43会にも隠れたる犠牲的精神をお持ちの方がおられ、親族経営会社の経営部門をパソコン利用で以前からお手伝いをしている会員がいましたので、強引に「提出記事等を中心に、アップするだけでも良いので、お願いできないか」と打診し、やっと了解を得られたのが清水利夫会員でした。それから約6年間、親族会社の経営手伝いと会のホームページアップ等をやって頂きましたが、両立には大分無理が有り、今後を考えるような状況下に再度なってしまいました。
 そこで役員会に諮り、我々の年代と今後の事を考慮し「ホームページを外注しよう」という事になり、関係会社等と相談したところ、「会でアップする記事等を掲載用にして提出してもらえば、見積金額的には下がりますよ」とのアドバイスが有り、会の中にホームページ見直しのための準備委員会を設け、検討を始めました。この際、当初の責任者であった三沢会員にも参加を呼び掛けたところ「諸般の事情が解消したので、掲載記事等のチェックだけであれば、お手伝いする」との申し出があり、再度活躍して頂けることになりました。

 当時白門43会の会長であった私はホームページが会員に対する情報提供の手段として重要な役割を果たしていることに気が付いておりましたので、外注して専門家の力を借りるのであれば、内容を抜本的に刷新して、より多くの会員に興味を持っていただけるようなものにしなくてはならないと考えていました。またその場合、一時的に内容を改めてもその後のフォローが不十分であれば折角外注しても効果が薄れてしまうので、継続的な情報収集と受注業者との橋渡しをする体制が必要であると考え、準備委員会を衣替えしてHP委員会を立ち上げ、三沢会員に委員長になっていただくこととしました。
 このようにしてホームページ開設17年後の2018年12月5日、白門43会ホームページは装いを新たにリニューアル・オープンしました。リニューアル後のホームページは、HP委員各位のご支援と関係会員のご理解とご協力のもと、非常に見やすいものとなり、内容の更新も週に1回以上行っており、皆様から好評を頂けるようになりました。このため、旗振り役を担ってきた私としてもホットしているところです。またリニューアル後からはホームページへの皆様のアクセス回数が把握できるようになりましたので、委員会としても皆様の閲覧状況を把握でき励みになっています。

 ここで会員各位、関係者等にお願いがあります。
 2019年12月5日で白門43会のホームページはリニューアル・オープンして1周年となりますが、このホームページの継続は皆様のご理解と投稿等の記事提供が無ければ成り立ちません。委員会としても皆様に随時呼び掛けをいたしますので、ご協力等を切にお願い致します。

【HP委員 龍門 海行】

2019年11月5日(火)
 都心でのホームカミングデー

 第28回中央大学「ホームカミングデー」が9月29日(日曜日)後楽園キャンパスで行われました。今年は理工学部創立70周年・法学部都心移転を祝い、例年の多摩キャンパスではなく、初めて後楽園キャンパスで開催されました。
 12時少し前、白門43会の幟を持参して5号館の開会式場に入りました。まだ担当の方だけが数名いるだけで、我々が一番乗りでした。13時開始の20分前はまだ会場の半分ほどでしたが、10分前を過ぎると各支部の皆さんを中心に一気に来場者が増え、500人入る階段式教室はほぼ満席になりました。43会の役員も大勢集まりました。
 会の冒頭、大村理事長が挨拶されました。初めて後楽園キャンパスで行われる卒業生の集いでは、ビッグ座談会をはじめ様々な企画を楽しんでほしいこと、中長期計画(10年)4年目の今年に至る進捗状況などを話されました。
 この後、中大応援団の熱い応援演技をバックに、参加者全員で元気に校歌を斉唱して、ホームカミングデーがスタートしました。
 開会式に引き続きおこなわれた、甲斐中辰夫元最高裁判所判事他が出席する「ビッグ座談会」を聴く43会員が多い中で、清水会長・小塚副会長・矢崎と三人はマイクロバスで茗荷谷の法学部キャンパス予定地(左の写真)の見学に行きました。まだ更地ですが、地下鉄丸ノ内線茗荷谷駅から徒歩1分、近くには有名大学が多くあり(隣は跡見学園)、最高の立地です。説明担当の方の話では2023年新キャンパス完成・移転。7,200㎡の敷地に緑地を多く設け、建物は延べ床面積33,000㎡、地上8階・地下2階で郵便局や一般の方も利用できるレストランなども入るそうです。ここは都の所有地で、40年(50年以下)の借地契約を結んでいるとのことでした。
 私はこの後大学に戻り、15時からのスポーツ企画(アスリート紹介)に参加しました。
 まず、酒井総長が中長期計画の四つ目の柱「スポーツ振興」についての話をされました。そして、司会の曽根純恵アナウンサーが6名のアスリートのプロフィールを紹介した後、各自が体験談を発表しました。千田健太氏(2012年ロンドンオリンピック・フェンシング銀)をはじめ、アスリートの皆さんが苦労を重ねて壁を乗り越えて行く話が印象的でした。

 16時過ぎにはいくつかの他の会場での見学を終えた43会のメンバーが6号館の控室に集まりました。そして清水会長の文京区の由来などの説明を皆で聞きながら、春日通りを懇親会場の文京シビックセンター25階「シビックスカイレストラン椿山荘」(右の写真)に向かいました。
 直接会場に来たメンバーを含め27名、都心開催のためか、これまでのホームカミングデーでは一番多い人数でした。17時から始めた懇親会は眺望を楽しみながら19時過ぎまで大いに盛り上がりました。特に高橋延芳さんの大学・会社を通しての友人(同期)の池田勝彦さんが初参加して、43会に入会して頂いたのは大変嬉しいことでありました。

【矢崎 勝】

2019年10月28日(月)
 ホームカミングデー「白門43会の集い」

 9月29日(日)、中央大学理工学部の後楽園キャンパスで開催された「第28回中央大学ホームカミングデー」に参加しました。本年の会場は、例年の多摩キャンパスではなく後楽園だったので興味が湧いての参加でした。
 開会式、座談会、アスリート紹介、校舎案内、近々に法学部校舎が出来る茗荷谷の予定地見学などの諸行事が終了後の午後5時から、43会が独自に開催した「懇親会」にも参加しました。会場は、後楽園キャンパスの傍に聳える「文京シビックセンター」最上階25階の「シビック椿山荘」でした。参加者は、後楽園キャンパスから徒歩で移動し、途中で清水会長から「文京区の成り立ち」などの説明も受け、5分程度で会場に到着しました。
 文京シビックセンターには文京区役所も入っておりますが、「シビック椿山荘」のある25階からの眺めは、文京区を越えて東京の景観を一望できました。更に矢崎幹事長の力で我々は特別室に案内され、長いテーブル2つに別れて着席し、集合写真撮影、清水会長の音頭での乾杯の後に料理を食べ、懇談しました。
 お料理は、前菜から、オマール海老、お刺身、野菜サラダ、肉料理、シュウマイ、ひつまぶし茶漬け、フルーツなど、さすが老舗の“椿山荘”と思わせる、いずれも素晴らしい味で、お酒も飲み放題でした。各自、ワイン、日本酒等を片手に、仲間と様々に語り合い、日ごろの疲れも吹き飛び、若い日の元気が沸き起こりました。このように参加者一同は綺麗な夜景を楽しみながら、いつものように大いに盛り上がりました。
 この文章を読まれた会員の皆様が、今後もこのような楽しい43会の集いに一人でも多く参加されることを期待します。

【田中宏司】

2019年10月15日(火)
 第28回中央大学ホームカミングデーに参加して

 この日、卒業生最大の祭典である「第28回ホームカミングデー」が、創立70周年を迎えた後楽園の理工学部キャンパスにおいて開催されました。以前は多摩校舎で行われていたのですが、今回は初めて後楽園においての開催でした。天気予報では雨が降るということでしたが、最後まで曇空が続き、主催者は無論のこと、参加者にもラッキーな1日でした。
 後楽園キャンパス(左の写真は、文京シビックセンター25階の展望ラウンジから見た後楽園キャンパスの全景)には、在学中でも体育の授業で数回運動場に行ったくらいなので、正門から入ってからどう行けばよいのかわかりませんでした。でも要所には学生や職員が大勢控えていて案内してくれたので、13時から開会式が行われる5号館5534号室にはすぐに辿り着くことができました。建物も教室もきれいで大きく、驚きました。会場には、既に会長、幹事長などの43会員が集まっており、43会の幟が立っていたのですぐにわかりました。13時までに集まった43会員は17名位に達していたようです。他の多くの年次支部も参加しており、両脇の通路には大相撲の時の国技館のように幟が林立していました。
 開会式では大村理事長の挨拶があり、理事長は中期事業計画について話されたようですが、マイクが不調でよく聞き取れませんでした。事前に十分時間があったのにマイク調整をしなかった事務局のミスだと思いましたが、そのあたりが中大らしさなのだと納得しました。その後、応援団による演技と校歌斉唱が行われました。元気のよい応援団チアリーダーの演技を見ながら、最近の応援団は女性が多いなどと思いつつ校歌を歌いました。

 13時15分から同じ会場で引き続き「母校・中央大学は我が人生の誇り」というビッグ座談会が行われ、甲斐中辰雄氏(最高裁判事・1962年法学部卒)、宗像紀夫氏(元名古屋高検検事長・1965年法学部卒)、宮内直孝氏(日本製鋼所社長・1981年理工学部卒)、山田正氏(中大理工学部教授・1976年理工学部院卒)、瀬谷ルミ子氏(元国連PKO職員・1999年総合政策部卒)の5名が島田敏男氏(元NHKアナウンサー・1981年法学部卒)の司会の下に座談会を行いました。
 島田氏からは、様々なテーマが与えられ、例えば「在学中の思い出」というテーマに対して甲斐中氏は「箱根駅伝に4年連続優勝という中、私立大学に対するコンプレックスを持った学生に対してある教授が、海外では有名大学はすべて私立であることを認識しろと言ったことに感銘を受けた」という経験談を披露しました。また「人とのつながり」というテーマに対して宮内氏が「理工学部卒の社長が少ない中、それでも中大卒という人とのつながりで多くの力を得た」と発言しました。「新しい学部」というテーマに対しては瀬谷氏が「自分も「総合政策部」という新しい学部で学んだが、自分のように学部の枠を超えて新しいことに挑戦する人間にとっては、何でも勉強できる新しい学部は有意義であったということを踏まえて、これからの意欲ある学生はいろいろな知識を得るために新しい学部で勉強すべき」ということを力説しました。瀬谷氏の話の中では、ソマリアとか南スーダンとか同氏が行った紛争地の名前がポンポンと出て来て、更に「テロ」とか「武装解除」などの言葉も出てきて中大を卒業した40代の女性がそのような活動を行っていることに驚かされました。「それぞれの専門分野について」というテーマに対しては、宗像氏が「日本の法治システム・三権分立は近隣の国に比べて比較的よく機能している」という意見を述べ、これに対して甲斐中氏が「よく機能しているが、特捜部に限っては村木事件(厚生労働省)のような誤認逮捕が出たことでチェック機能が働いていないことが露呈している」との苦言を呈しました。宮内氏は「科学技術分野において長期的な研究に力が入っていない」、山田氏が「外国人留学生が日本の企業に溶け込んでいるのに対して、日本の特に東京の学生は外国に出ることに消極的ばかりか、国内の地方勤務すら嫌う」という事態を嘆き、瀬谷氏は「外交官になっても海外勤務を嫌う人間が多いことに驚く」という発言をしました。また「後輩に望むこと」というテーマでは、宮内氏は「アピール力が不足している、チャレンジ力・幅広い知識の吸収が必要」と訴え、甲斐中氏は「中大は変なプライドやコンプレックスが無く中位であることが強みなので、これからは努力次第で成功するチャンスがある」と言い、宗像氏は「スマホから目を離し、本を読むことが肝要」という指摘をし、山田氏は「国際的感覚がないことを憂いていると同時に、起業家が少ないことが残念」と言い、最後に瀬谷氏は「多くの選択肢の中から正しい答えを素早く選ぶことと、それを直ちに行動に移すことが大切」と述べました。この座談会は13時15分から14時45分まで行われましたが、司会者がよかったせいか内容はなかなかのもので、私は正直余り期待していなかったのですが、結果は聞いてよかったと思いました。400名くらいの聴衆も感銘を受けたようで、聞いていた43会会員も「とてもよかった」と言っていました。

 次は会場を隣の5533号室に移し、15時から「東京オリンピック・パラリンピックをめざす青春の輝き」というアスリート紹介の行事に参加しました。最初に酒井総長が挨拶を行い、新設の2学部については450名募集のところ10,000名以上が応募したことを発表しました。また、来年のオリンピックには中大関係で20名の選手を出すことを目指していることを披露しました。
 インタビューに入り、曽根純恵氏(TBSアナウンサー・経済学部卒)という美人の司会で、6名のアスリートが紹介され、いろいろな話を披露しました。6名とは千田健太氏(ロンドンオリンピックのフェンシング銀メダリスト・2009年卒)は、現在は引退して後輩の指導に当たっている人です。また、堀尾謙介氏(3月の東京マラソンで日本人トップを獲得・2019年卒)は、目下来年のオリンピック出場を目指して努力している人です。
 その他、塩浦慎理氏(2018年アジア大会100メートル自由形優勝・2014年卒)、砂間敬太氏(2018年アジア大会3位・2018年卒)、長野凌生氏(2018年アジアパラリンピック100メートル自由形3位・文学部4年在学中)、大本里佳氏(2019年世界選手権200メートル個人メドレー5位・法学部4年在学中)です。全員が我々の3分の1くらいの年齢の若者で、いずれも世界に通用する素晴らしい記録の持ち主です。その若者達が更に上となるオリンピック出場という狭い枠を目指して日夜練習や競技に臨んでいる様子を語ってくれ、思わず胸が熱くなりました。私はこの若者の中から一人でも多くがオリンピックに出場できたらいいなと願い、その時には全力で応援したいと思いました。

 この行事は16時に終了し、我々43会員は打ち上げ会場である「文京シビックセンター」に向かいました。中大理工学部から徒歩で10分くらいでした。ここの25階の「椿山荘」が会場です。エレベーターに乗ろうとすると会員の一人が降りてきて「まだ入れないし、待つ椅子もない」というのです。時間は4時25分で、確かに5時の予約なので仕方がないと思い、1階の習字の展示場の椅子に腰かけ、習字の先生(美しい女性)にいろいろ質問したりして楽しく時間調整しました。
 この店は展望レストランになっており、食事もなかなかのものでした。この打ち上げに参加した43会員は27名にのぼり、皆美味しい料理を食べ、飲み放題の酒を飲み、7時半頃まで大いに語り合いました。こうした協調力・団結力こそが43会の持ち味なのです。このように、43会の第28回ホームカミングデー参加は盛況のうちに終わり、解散しました。

【八束一郎】

2019年7月22日(月)
 懇親会の司会をやりました

 7月5日(金)に開催された「43会総会」の後の懇親会の司会をやるように依頼されました。2月に開催された「43会新春の集い」に続き今年2度目の要請でした。聞くところによれば、総会を担当する総務委員会から私が所属する親睦委員会の矢崎さんに要請があったとのことでした。私としては何故連続して司会者をやらなくてはならないのかと思いましたが、これで懇親会司会者の業務をマスターできると割り切って引き受けることにしました。
 懇親会司会者の業務は、来賓の正確な姓名を知っておくなどかなり気を使うもので、またハプニングが多いので臨機応変な対応も必要とされます。この日は、1時30分にスタートした総会が予定通りに2時25分に終わり、次の講演会も2時35分から始まって3時10分に終わり、いよいよ懇親会となりました。総会・講演会は上野精養軒の2階「藤の間」でしたが、懇親会は3階の「桐の間」なので、皆は階段やエレベーターで移動し、直ちに記念撮影を行いました。なにしろ70名を超える参加者が全員で写る記念撮影なので4段に並んでもらうだけでも大変な作業となります。第1列の中央には来賓と新旧会長・幹事長が座り、その左右はできるだけ女性会員というようになっていました。ところが、来賓の久野学員会会長がまだ到着していないということでどうしようということになりました。結局時間切れで久野会長抜きで記念撮影ということになりました。
 その後は、いつものように、応援団OBの小塚副会長の指導の下に「校歌斉唱」が元気よく行われました。そして龍門前会長の挨拶と、清水新会長への引継ぎ(43会の幟の引き渡し)が行われ、清水新会長からは龍門旧会長への感謝の言葉が述べられました。
 次いで大村中大理事長、久野学員会会長、42年白門会の幸脇会長の3名の来賓が紹介されました。そして大村中大理事長からご挨拶・・・新しく発足した国際情報学部、国際経営学部がともに多くの優秀な学生を迎えたこと、茗荷谷に移転が決まった法学部のことなど・・・をいただきました。久野学員会長からもご挨拶・・・大洋漁業に勤務していた時の南氷洋での捕鯨船に乗った時の話や、これからの中大をどのようによくしていくかなど・・・を大きな熱の籠った声で語られました。ここで乾杯ということになり、音頭は昨年の総会時に10年以上総会を皆勤して表彰された熊木氏にお願いしました。そして会員は9つに分かれた丸テーブルで食事に入りました。各席にはビールが配られましたが、入口近くのコーナーにはワイン、日本酒、ウィスキーなどが置かれて飲み放題ということになっていました。

 続いて、遠隔地からの出席者、久しぶりの出席者の紹介と挨拶ということになりましたが、ここで難しいのはいつも指名されて嫌だという会員がいること、"久しぶり”と言われるほど欠席していないと反論する会員がいるので注意を要します。この日も、増田氏を初参加ということで前に出てもらおうとしたのですが、八束副会長から「以前にも出たことがあると言っている」との情報が入ったので、急遽久しぶりの参加に切り替えることができました。
 5時頃から、古賀幹事が主催するバンド「八重洲オッターバ」が生のBGMを演奏してくれました。いずれの曲も昔懐かしいもので、楽しむことができました。1曲だけ皆で歌うことになり「思い出のハワイ航路」を歌いました。最後は名曲「エーゲ海の真珠」で、とても感動しました。
 その後恒例の“お別れの歌”の時間となり、中大合唱部出身の星野幹事の指導の下、全員が肩を組んで「惜別の歌」を歌いました。酔いが回っていたせいか、無事に終わったという満足感からか歌いながら思わず涙が出てきました。いつものことですが、43会の行事で一番感動的な場面なのです。
 最後は、幹事長による閉会の挨拶です。本来なら矢崎新幹事長がやるところですが、今回に限って旧会長・旧幹事長が仕切りたいという龍門さんの強い希望があったので、この閉会の挨拶も清水旧幹事長が行うことになりました。清水氏の話はいつもながらにユニークで面白く、大いに笑わせてくれました。そして、矢崎新幹事長との引継ぎもここで行われました。 その後は、お開きということで、参加者の皆さんは会場出口で役員一同に見送られて気持ちよく帰っていきました。仲の良い仲間と二次会に行く会員も多かったと思います。役員の多くは、精養軒屋上のビアガーデンでの打ち上げに参加しました。
 懇親会はこのように始まり、進行し、お開きとなりました。ほぼ予定通りに無事に終えることができ、ホットしました。私はこのように連続2回にわたって懇親会司会者をやってほぼマスターしたので、来年の新春の集い、総会の懇親会の司会者は是非別の役員を指名してくださるようお願いします。

【長田康道】

2019年7月22日(月)
 43会の皆さんを岡山にお迎えして

 先日の岡山旅行に際しましては、新幹線で遠路はるばる来ていただきお疲れ様でした。多々至らない点もあったかと思います、吉備の由緒ある神社や後楽園、現代アートの島そして瀬戸内海の美味しい料理などを味わっていただけたことと思います。
 私は、中大在学中に同じクラブ(国際関係研究会)だった仲間の一人である八束さんから43会の終身会員を勧められ平成26年夏に入会したのですが、今回の岡山旅行は平成29年の秋頃に八束さんから提案され、その後清水幹事長と打ち合わせを重ねて実現したのです。昨年秋には龍門会長、清水幹事長などが下見に来られ、ここでおおよその構想がまとまりました。私としては当初できれば昨年の秋にでもと思っていたのですが、43会が卒業50周年記念事業に取り組んでいた最中であり、またその記念行事として“クルーズ旅行”も予定されていたので今年の春ということになったのです。また私は43会の皆さんを岡山に迎える以上は最高のおもてなしをと思っていたのですが、43会の予算による制約もあって、慣れないことだけに苦労もありました。例えば、当初は直島のホテルに宿泊することを考えていたのですが、1泊2万数千円という宿泊費で諦めることになったのです。でも、私は、松林寺住職・自治会長・老人会などの地元岡山における自分の影響力をフルに使って、ホテルの確保、下電観光バスの手配、一流の老舗の予約などに当たり何とか皆さんのご期待に沿える結果を得たと思っています。以下に、今回の旅行の概略を私なりに記述してみました。
 旅行初日につきましては、岡山駅から参加者27名の皆さんが36人乗りのデラックス観光バスで庭瀬の松林寺に来山されました。寺では、家内やご近所の“かつての綺麗どころ”が着物姿で出迎え、昼食にはアークホテルの「松花堂弁当」、朝採りの「木の芽」を浮かせたお澄まし、寺で採れた銀杏などを味わっていただきました。次いで“法話”ということになり、龍門会長の希望もあって「自受法楽」「初転法輪」を説明させていただきました。そして永平寺道元禅師の「水鳥の行くも帰るも跡絶えて、されども道は忘れざりけり」で締め括りました。 初日のホテル「マリンホテル」の宴会では、昨年度金賞受賞の県下一の「極聖」を皆さんに一献ずつ飲んでいただき、その後のカラオケ大会では練習を重ねてきた「岡山城の歌」をトップを切って披露させていただきました。
 翌日は、現代アートの島・直島に渡り、「ベネッセハウス」や「地中美術館」で“モネの睡蓮”等を鑑賞しました。ここでの昼食は、岡山一の老舗割烹「一扇」の主人特製の「海鮮丼」を食べましたが、中でもマグロとサヨリが美味しかったとの評判でした。
 県内一のビューポイント「王子が岳」のサンセットは生憎の降雨のため見ることができませんでしたが、雲間に浮かぶ「白砂青松」の瀬戸内海の全景を鑑賞していただきました。  3日目の夜のアークホテルでの宴会では、皆さんからのリクエストに基づいて料理長に「ままかり寿司」を作ってもらいました。また、岡山ナンバー2の銘酒「加美心」を味わっていただき、最後のビンゴゲームの商品としてジュエリーサロンを営む息子夫婦から提供されたミヤンマーの宝石も出させていただきました。
 その後、岡山歓楽街のスナックに繰り出した有志11名は、貸し切り状態の店内で各人が歌を披露した後に、皆で「中大応援歌」「学生数え歌」「惜別の歌」などを歌い、12時近くまで騒いで過ごしました。 3日間我々のお守りをしてくれた下電観光バスの斎藤ガイドさんには、「こんな歯切れのいい、親切なバスガイドに出会ったのは初めてだ」などと多くの皆さんから褒めてもらいましたが、彼女は私がいつも指名するナンバー1のガイドさんなのでした。斎藤ガイドさんのお別れの挨拶に、清水幹事長が感激して涙ぐんでいたのが印象的でした。
 このように、今回の“吉備路の旅”が、皆さんの想い出の旅として記憶の片隅に残していただけるようでしたら私としても心から安堵できます。今後も岡山に来られることがありましたら、ご一報いただきたいと思います。

【松林寺閑栖住職 高橋宗哲】

2019年7月16日(火)
 講演会の講師をやりました

 今年の1月に、43会の八束副会長から手紙をもらいました。内容は、7月5日に予定されている総会後の講演会講師をして欲しいとのことでした。手紙によれば、12月17日の総務委員会でいろいろ検討した中で、講演会の講師について私に要請することになったとのことでした。私を推薦する理由については、昨年の総会の時の講師にも私の名前が挙がっていたこと、私が現在43会の副会長を務めているものの会員への知名度がいまいちで、かつ今後の活躍が期待されていること、元警視庁幹部というキ ャリアは43会の中でもユニークだから等いずれもありがたいものでした。正式には2月の役員会で総務委員会から提案して承認してもらうとのことでした。私も警察大学校教授や築地警察署長を経験しており、多くの生徒を前に講義をしたり、多くの部下を集めて訓示することが多かったので何とかなるだろうと思い、軽い気持ちで受けてしまいました。講演の内容については、会員の皆さんが喜ぶようなもので、持ち時間は40分とのことでした。
 その後、どのような内容の講演にするか考えているうちに、43会の講演は警察大学校の生徒や警察署の部下を相手に話すのとは大違いであることに気が付き、愕然となりました。多くの会員を相手に、場合によっては来賓の方(大学のトップや先輩の年次支部会長など)も聞くだろうし、おまけに質疑応答の時間が10分もあるのです。こうした状況により、2月~4月くらいまでの間、私もいろいろと悩みました。八束副会長からは総会当日の資料としての私の“プロフィール”を提出して欲しいとか、演題はそろそろ決めて欲しいというような要請がありました。5月頃に演題を「警視庁物語」とすることを発表し、その準備に入りました。警視庁の歴史、年表、組織・階級などは言葉だけでなく、資料を用意して配布することにしました。また、警視庁の前身である江戸時代の町奉行所の地図も用意しました。更に、私が

▲“南町奉行所”の与力・同心が使用していた十手

 骨董屋で入手した“南町奉行所”の与力・同心が使用していた十手も会場に持ち込んで皆さんに披露することにしました。とにかく、総会前の1ヶ月は久しぶりに勉強しました。

 総会当日、総会が無事に終了し、10分の休憩の後に講演会が開始されました。八束副会長が総会から引き続き司会者を務めており、まずは簡単なプロフィールを紹介した後に私の講演になりました。警察大学校教授や警察署長の経験があったおかげでそれほど緊張することなく資料の説明を始めることができました。九段や中野の警察学校でしごかれたこと、第三機動隊の武道小隊での厳しい訓練などが今の 自分に大いに役立っていると話すと、会場から共感の声があがりました。警視庁の歴史では、初代の川路大警視(今の警視総監)が西南の役で旅団長として出動、警察幹部も多くの警察官を率いて田原坂の戦い で“抜刀隊”として活躍したという話ではかなり興味をひかれたようでした。現在は警視庁には9本部、102警察署があり、43,566名の警察官がいることも披露しました。あと、私が一番印象に残った事件として、三菱重工爆破事件を挙げて、実はあの爆弾は昭和天皇のお召列車を赤羽の鉄橋で爆破しようとして失敗した55kgの爆弾であったこと、この件に関わった犯人はたったの4人であったことを話すと皆目を丸くして聞いていました。こうして、講演は10分ほどオーバーして終わり、そのため質問も1人だけですみました。その後の懇親会で、多くの会員からとても面白かったとのお褒めの言葉をいただきましたが、来年も「警視庁物語2」をやって欲しいとの声には断固としてお断りしました。

【清家春夫】

2019年7月11日(木)
 第25回定時総会 報告書

 2019年7月5日(金)午後1時30分から、上野精養軒2階(藤の間)で白門43会の第25回定時総会が開催されました。梅雨時とあって雨が心配されましたが、幸いにも天候は曇りで、気温・湿度もそれほど高くなく、まずまずの総会日よりでした。会長・幹事長以下の担当役員15名は11時30分に集合し、精養軒のレストランで昼食を食べた後に受付、会場設営などの準備作業を始め、予定通りの1時から受付を開始しました。
 1時30分にはほとんどの出席予定者(約70名)が入場を終えたので、総会司会者の八束副会長の発声により総会の開会宣言がなされました。いつものように議案審議の前に龍門会長の挨拶がありました。今回の総会は、会則改正・任期満了に伴う役員改選などがある重要な総会であること、会則改正については43会が創立以来24年を経過して財政困難になりつつあるため、ここで今後の会の存続のため「終身会員制度の廃止」「新年会費制度の導入」を行うという苦しい選択を行うためのものであるとの挨拶でした。
 次いで龍門会長が会則の規定により総会議長となり、議案の審議が開始されました。第1号議案(事業報告)は清水幹事長が卒業50周年事業、ホームカミングデー、当会初めての試みであったクルーズ、ホームページのリニューアルなどを説明しました。第2号議案(決算報告)は立岩会計幹事から会報に初めて広告掲載を行い5万円の収入を得たこと、ホームページのリニューアルに伴い13万円の支出があったことなどが報告されました。この結果、当会の次年度繰越金は前年度に比べて31万円少ない76万円弱になったとのことでした。
 ここで芝木監査による監査報告がなされ、ついで議案に関して質問を受けることになりましたが、質問者がいなかったので第3号議案(事業計画案)の説明に入りました。清水幹事長から9月29日(日)にホームカミングデーが後楽園キャンパスならびに近隣施設で開催されること、11月にミニトリップを計画していることなどが説明されました。次いで第4号議案(予算案)が立岩会計幹事から説明され、来年3月末には会の資金が今年度から20万円減った56万円になるとのことでした。ここで議案に関する質問を受けることになりましたが、質問者がいなかったので次の議案審議に進みました。
 第5号議案(会則改正案)については、まず龍門会長がこの改正については3年前から「財政検討委員会」で十分に検討してきた内容であること、会の存続のためには「終身会員制度の廃止」と「新年会費制度の導入」がどうしても必要なこと、新年会費は3千円としたいとの説明を行いました。次いで、後澤副会長(会則検討委員長)から会則の変更部分の詳しい説明がありました。ポイントは、会則から「終身会員」に関する文言を削除すること、新年会費は3千円にするという2点でした。そして、新年会費の徴収は来年の4月からとし、7月末までに入金のない会員については“資格停止”として以後の会からの郵便物の発送を止めるとのことでした。その後、この議案に対する質問を受けることになりましたが、半年前からのホームページを通じての説明、5月27日に発送した総会案内状にも詳しい説明文を添付したことなどから質問はなく、この議案も承認されました。 第6号議案(役員改選案)は龍門会長から説明がありました。ポイントは、3期6年会長を務めた龍門会長が退任して清水幹事長が新会長になること、清水幹事長の後任は矢崎副会長としたいということでした。その他、山本幹事が副会長になること、岡田監査が幹事となり岡田監査の後任には長田幹事がなること、以前幹事だった黒須氏が幹事になること、新たに地方幹事に広島の髙田氏、岡山の高橋氏を選任したいという提案で、この議案についても異議無く承認されました。
 これで第1号から第6号までのすべての議案が承認されたので龍門議長が議長を降りると発声し、司会者からもこれをもって定時総会を閉会するむねの宣言がありました。
 いつもなら、ここで新任役員の紹介となるのですが、今回は特にここでホームページのPRを行うことになっており、司会者から三沢ホームページ委員長が指名されました。会場の会員には、受付でホームページに関する2ページの資料が渡されており、三沢委員長からこの資料に基づいて説明がありました。内容としては、43会ホームページの仕組み、見方、投稿の仕方などでした。この説明に対しては、熱心に見ているという会員からお褒めの言葉と、母校に関する記事も掲載して欲しいとの要望が出ました。
 最後に、新役員の紹介があり、会長を降りて幹事になった龍門氏、新会長になった清水氏、副会長になった山本氏、幹事長になった矢崎氏、新幹事になった黒須氏、監査から幹事になった岡田氏、地方幹事になった髙田氏が前に出て挨拶を行いました。もう一人の地方幹事の岡山の高橋氏は当日欠席でした。
 こうして、第25回定時総会は無事にお開きとなりました。今回は当会にとって大きな変化をもたらす重要な総会でしたが、混乱もなく何とか無事に終えることができました。これも多くの役員のご苦労そして会員の皆様のご協力の賜物と深く感謝する次第です。しかし、これでホットする暇はなく、これから来年の4月1日の新年会費徴収開始までの9ヶ月をかけて、清家副会長を中心に編成された「制度改革委員会」であらゆる実務的な問題を検討し、結論を出していかなくてはなりません。会員の数も本当に43会に関心のある人に限られてきて大きく変化することが予想されます。この日発足した清水会長、矢崎幹事長を中心とした役員一同がこれまで以上に団結して“楽しい43会”を更に楽しくするように頑張りたいと思います。会員の皆様にも引き続きご協力・ご支援のほどよろしくお願いいたします。

以上

 総会当日、受付でご寄付をお願いしたところ、実に4万5千円ものご寄付を頂きました。これで当会の財政状態も一息つくことができます。本当にありがとうございました。

【八束一郎】

2019年6月17日(月)
 岡山旅行3日目の感想

 4月23日(火)~25日(木)に行われた白門43会の岡山旅行に参加しました。この旅行の第3日目(25日)の感想文を書くようにと言われましたので書かせていただきました。
 私がこの旅行に参加したいと思ったのは、私が海のない群馬県に住んでいるため、瀬戸内海の静かな海を見たいと思ったからでした。実際に今回の旅行で瀬戸内海を目の前に見たのは、岡山の宇野港から直島の宮浦港までのフェリーの船上からの20分ほどでした。思っていたように瀬戸内海は穏やかで、多くの緑の島々が至る所に浮いていて、実に美しい海だと思いました。バスガイドさんの話では、瀬戸内海は台風の時以外はいつもこのように穏やかだとのことで、私もこうした所に住んでみたいと思いました。
 この旅行の3日目は、朝は曇天でしたがその後は天気が回復してきており、昼頃にはやや蒸し暑いほどでした。この日の観光の目玉は、後楽園と岡山城です。後楽園では3人のボランティアガイドさんが付いてくれたので、参加者も3つの班に分かれて行動しました。後楽園はとにかく広い庭園で、池や緑の芝生、新緑の木々に覆われていて、とても気持ちがいいと思いました。地元の小学校や幼稚園の遠足と出会い、かわいい児童から「こんにちは」と挨拶され、とても幸せな気持ちになりました。2時間ほど歩いたのですが私は足が弱いので多少疲れてしまいました。
 岡山城については、石垣や堀を見て昔を偲ぶことができました。城の中はエレベーターが4階まで通っていて助かりました。国宝級の城ではすべて急な階段なので私にはとても無理なのです。
 昼の食事が豪華で、料理や食器の隅々まで心配りができていて、さすがは一流の老舗だと思いました。お味の方も素晴らしく、お酒も少々いただいて午前中の疲れが飛んでしまいました。今度岡山に来た時は、もう1度この店に行きたいと思いましたし、その時はカウンターで料理人の包丁捌きを見ながら食べたいと思いました。
 今回の旅行では、松林寺の高橋住職とその奥様、そして多くのお手伝いの奥様方に大変お世話になったのですが、高橋住職にはお土産の「きび団子」までいただいてしまい本当にありがとうございました。この日の岡山駅でも、「きび団子」を売っている売店まで案内をしていただき、私はお土産を全部これにしてしまいました。
 最後に、43会の旅行会には何回か参加しましたが、いつも期待以上の内容で、参加してよかったと思うばかりです。これも担当幹事さん達のおかげと感謝しています。これからも楽しい旅行会を企画してください。

【大下滋子】

2019年6月5日(水)
 直島の現代アート観光

 43会の春の旅行会に参加したところ、2日目の「直島観光」についてのホームページ用の原稿を書くようにと依頼されました。
 私が今回の旅行会に参加した理由は、今まで岡山も直島も行ったことがなかったので、このチャンスを活かして行きたいと思ったからでした。また、これまで43会の旅行会に何回か参加しましたが、皆さんとのふれあいがとても楽しく、元気をもらえるような気持ちになるからでした。
 4月23日に東京駅を出発し、初日は松林寺や吉備津神社などを観光しました。2日目は朝早くからホテルを出て、バスの中でサンドイッチとサラダの朝食を食べましたが、揺れるバスの中で食べるのは大変でした。やっと食べ終えた頃には宇野港に到着し、バスごとフェリーに乗り込みました。天候は昨日同様の曇り時々小雨といった状態で、気温もやや寒い感じでした。直島の宮浦港には20分ほどで到着し、この小さな島にある3つの美術館を鑑賞することになりました。
 最初は「ベネッセハウス」で、男性の職員の案内で館内を回りました。この風光明媚な島が以前は公害の島そしてゴミ捨て場だったとの説明を聞いて驚きました。ここの展示物は、島内の廃棄物を鉛で太巻きのように巻いたものや、沢山のウルトラマンの人形を並べたもの等でした。
 次に行ったのは「リー・ウハン」で、よくわからない作品が少数展示されているだけでした。美味しい昼食(海鮮丼)を食べた後は「地中美術館」に行きました。エントランスの池と花畑でとてもきれいでした。館内は迷路のようになっていて、展示物は大きな球体やモネの「睡蓮」の絵5枚などでした。モネの睡蓮をこんなに近くから、そして少ない人数で鑑賞できたのには感激しました。
 この後、島内の古民家などを利用した“現代アート”をいろいろと回りましたが、「南寺」という真っ暗な建物の中でやや怖い思いをしたのが印象に残りましたが、その他はこれがアートかと思うものが多かったような気がしました。とにかく忙しい1日で、狭い島内をバスであちこち移動したり、細い路地を歩き回ったりで疲れました。できれば美術館は二つだけをゆっくりと鑑賞したらよかったと思いました。
 この日は岡山に戻って「アークホテル」に泊まりましたが、到着してから宴会まで20分しかなく、ここでも忙しい思いをしました。でも、宴会が早めに終わったので、部屋でゆっくりとお風呂に入り、ぐっすりと寝ることができました。
 今回の旅行は、参加者27名中女性が7名もいて心強かったのと、内容がお寺~神社~島の現代アート~名園~お城とバラエティーに富んでいてとてもよかったと思いました。個人旅行でこのようなコースを企画するのはとても無理で、参加して大成功でした。私たちが楽しい思いをした分、43会の幹事さん達がご苦労されたのだと思い、感謝の気持ちでいっぱいです。また、松林寺で私達を歓待してくださった高橋住職とお手伝いの皆様、それに3日間私達の案内をしてくれた名バスガイドさんにも感謝したいと思います。これらの人達のおかげで今回の旅行会が成功したのですから。来年も楽しい企画をお願いします。

【菊池まき子】

2019年5月29日(水)
 栗田美術館とあしかがフラワーパークを訪ねて

 2019年5月8日(水)、白門43会の有志メンバー7名は現地集合で、栃木県内の栗田美術館とあしかがフラワーパークを訪ねるミニ・トリップを行いました。
 足利への入り口駅である小山駅駅長のN氏は以前大変お世話になった方で、ひさびさにお訪ねし、懇談をしました。丁寧に小山駅の歴史やあしかがFP(フラワーパーク)の説明をしていただき、私を両毛線のホームまでご案内いただきました。駅のコンコースにはみごとな藤の花がふんだんに飾られていました。
 水を張った美しい水田を左右の眼に楽しみながら列車は「あしかがフラワーパーク駅」へ到着。過去2~3回は訪れていたところで、駅は上部が尖った三角の建物です。
 「栗田美術館」はどんなところか気にかかっていましたが、こんなにすばらしいところとは……。3万坪と広く、建物の配置がすばらしい。そして展示品のすばらしさ、伊万里と鍋島の焼物の逸品が数多く展示されている世界最大級の陶磁美術館であり、焼物ファンには最高のところだろう。
  「栗田山荘」という京都の某山荘を思わせる優雅な名前の食堂にあこがれて事前に昼食を予約したのですが、決して名前負けをしない素晴らしいところでした。巨大な古民家を手入れよく保存・活用した、食堂では高くはない値段で実に美味しい昼食をとることができました。あのうどんの美味しかったこと……。
 富田、東足利駅間に「あしかがFP駅」ができ、便利になりました。この駅は普段は無人駅で、花の季節だけ駅員を臨時に配置するという。またFPの入場料金も毎日その日の朝7時に決めるとのこと、花の咲き具合や天候など諸条件によって決めるのではないか。当日のコンディションは最高で、1,600円。最高額時は1,800円とのこと。
 FPでは花いっぱい、いや人いっぱいで平日にも関わらず、思わず目を合わせて笑ってしまうほどの混雑さ、言葉がでない。花を横目に「花よりビール」で居酒屋にいるような気分で懇親会が始まりました。
 今回のトリップのタイトルは「あしかがFPと栗田美術館で楽しい1日を」でしたが、栗田美術館に軍配があがったような1日でした。

【清水 正】


2019年5月22日(水)
春の旅行会に参加して(初日)

 43会の春の旅行会に参加したところ、ホームページ委員の八束さんから旅行初日についての感想を書いて欲しいと頼まれ、八束さんの協力を得てこの原稿を書きました。
 私は若い頃に福岡支店に勤務していたことがあり、東京に出張した時の帰りなどに岡山に降りて飲むことがよくありました。というのも、会社の仲のよい同僚で岡山出身の者がいて、彼とつるんで岡山で遊んだからです。当時は後楽園のそばに「カバヤキャラメル」の工場があり、その近くの飲み屋に行くことが多かったのです。 
 今回の旅行会の初日(4月23日・火曜日)は、朝早く起きて朝飯もそこそこに7時40分までに東京駅の“銀の鈴”に集合しました。そして山陽新幹線の「のぞみ」に乗って岡山まで行きました。車内でビールを飲み始める参加者がいましたが、私はドクターストップがかかっているので我慢しました。この時隣の席でビールを飲んでいたのが八束さんで、私はこの時に目を付けられたようです。
 岡山では、まず高橋さんが住職をしている松林寺に行き、立派な本堂の脇の広間で沢山のおかずが詰まった弁当の昼食を食べました。その後、高橋さんの指導でお経を唱えたり、法話を聞いたりしましたが、自分は仏教に余り関心がないのでよくわかりませんでした。でも、松林寺が歴史のある立派な寺ということは、歴代庭瀬藩主の位牌がずらりと並んでいたり、大きな鐘付き堂などからわかりました。また、高橋さんの奥さんの描いた素晴らしい絵が本堂の脇に何枚も飾ってあり、感心しました。
 岡山は昔から自然災害のない県として有名だったのですが、昨年の豪雨災害でその記録が破れてしまい、残念でした。
 松林寺の次に訪れた「吉備津神社」はその大きさに驚きました。また、桃太郎伝説の主人公が祭神の吉備津彦だというのにも驚くと同時に本当かなとも思いました。でも、バスガイドさんの「その証拠に、お爺さんが芝刈りに出かけた山も、お婆さんが洗濯した川もそばにある」という自信に満ちた言葉も捨てがたいと思いました。その他にも、吉備津彦(桃太郎)が退治した鬼の首がここに埋められていて、その上に「お釜殿」が建てられているとのことで、どうもここが桃太郎発祥の地だと思えてきました。
 また、其の後バスから眺めた「瀬戸大橋」は、自分の勤めていた会社が鉄鋼関係だったので、完成して間もない頃に渡ったことを思い出しました。
 とにかく、岡山は気候温暖で食べ物も美味しい、いい所です。この日の夜の宴会は、カラオケ大会となってプロ級の会員が素晴らしい歌声を披露してくれましたが、43会には芸のある人が多いとつくづく感じました。歌だけでなく、清水幹事長のクネクネ踊りも面白く、「役者だなあ」と思いました。自分も歌いたかったのですが、のどを痛めていて声が出ないので残念でした。
 43会の行事に参加すると感じるのですが、幹事の皆さんの心配りが細部にいたるまで行き届いており、実に素晴らしい会なのです。今後もこのような楽しい行事を開催していただければ、身体の続く限り参加させて欲しいと思います。

【峯村 剛】


2019年5月7日(火)
 白門43会 春の旅行会

 平成も残すところあと1週間余りという4月23日(火)~25日(木)の2泊3日で、白門43会の春の旅行会(風光明媚な吉備路、岡山&直島)が開催されました。参加者は龍門会長・清水幹事長以下総勢27名(男20名、女7名)でした。
 この旅行は2~3年前に私が推薦したのがやっと実現したもので、私としても思い入れの深いものでした。私の推薦理由は、平成23年2月に中大のクラブ仲間6名で今回とほぼ同じコースで旅行した時に、今回同様に現地岡山の仲間である高橋良洋氏(当時は岡山市庭瀬の名刹松林寺の住職でしたが、現在は息子さんに住職を譲っている。以下高橋和尚と書きます。)に案内してもらい、岡山が古い歴史のある地域であること、直島では現代アートやモネの名画“睡蓮”をまじかに鑑賞できることから、格調高い43会の皆さんが旅行で行くには相応しいと思ったからです。
 実現まで時間がかかっただけに旅行内容は十分に吟味されていたようで、昨年秋には龍門会長・清水幹事長等で下見までされており、高橋和尚をはじめとするこれらの役員の努力の結果が今回の旅行の随所に活かされていたと思います。


4月23日(火)
 この日の午前7時40分、東京駅の“銀の鈴”の前に集合した21名は、皆さん旅慣れた格好で元気いっぱいに「のぞみ」に乗り込みました。そして岡山までの3時間余り、飲んだり食べたり、歓談したりでしたが、さすがに新大阪を過ぎる頃から口数が減ったようでした。岡山駅では高橋和尚とバスガイドの斎藤さんが出迎えてくれ、残りの5名の会員も合流しました。早速バスに乗り込みましたが、これが車高が高くて車内が広い高級バスで、私をはじめ腹の出た会員にとっては居心地がとてもいいものでした。
 バスは最初に、高橋和尚の松林寺に向かいました。松林寺は岡山市の庭瀬という所にあるのですが、庭瀬は江戸時代に板倉氏3万石の陣屋があった所で、松林寺はその歴代藩主の菩提寺だったという由緒ある寺なのです。一行は本堂奥の広間に通され、まずは昼食を頂くことになりました。和尚夫人や隣家の奥さん、檀家の奥さん等数人がお手伝いに来ており、お弁当、缶ビール、お茶、お吸い物等を我々の席まで運んでくれました。お弁当は鰹の刺身や煮物などがぎっしりと詰まった立派なもので、私も完食するのに苦労した程のボリュームで、かつ、とても美味しいものでした。

▲ 高橋和尚の法話

 食事が終わると、法衣に着替えた高橋和尚による“法話”となり、まずは和尚に続いてお経を唱えました。その後は30分ほどの法話があり、一同は神妙にそれを聞いていました。その後、全員の記念写真を撮影し、和尚夫人やお手伝いの皆さんに見送られて松林寺を後にしてバスで次の目的地「吉備津神社」に向かいました。この神社は岡山に2つしかない国宝の一つで、バスガイドの話ではこの神社の祭神である「吉備津彦」が「鬼ケ城」に住んで悪さをしていたウラ(温羅=鬼)を退治したことによりこれが“桃太郎”の童話になったとのことでした。この神社には、その鬼の首を埋めてその上に建てた「お釜殿」があり、これも見てきました。帰りは神社の美しい曲線を描いた長い回廊を歩いて下に降りました。
 その後は、バスで巨大な水島工業地帯や瀬戸大橋を見たり、鷲羽山スカイラインの上からこれらを眺めたりしましたが、この頃から雨が降ってきたりして折角の眺望もイマイチでした。予定では王子ヶ岳という名所で夕日が落ちるのを眺めることになっていましたが、残念ながらこれも無理でした。

▲ 松林寺

 バスはこの日宿泊する「ダイヤモンドせとうちマリンホテル」という立派なホテルに到着し、各人個室に分かれました。私は6階の633号室でしたが、個室の割には広くて快適でした。夕食は2階の鳳凰の間で始められ、昼食にあれほど食べたのに吉備津神社の階段などでだいぶ消耗していた一同は出てくる料理が間に合わないほどの食欲で食べ、そして飲んでいました。食事が落ち着いたところで、富田副会長の司会でカラオケ大会が始まり、高橋和尚を皮切りに龍門会長、富田副会長、相澤副会長などのプロ級の歌手が素晴らしい歌を披露し、それにつられて多くの会員がそれぞれお得意の歌で会場を盛り上げてくれました。この日の宴会はこのように楽しいカラオケで終わりました。
4月24日(水)
 この日は直島に渡る船の関係で7時30分に出発しなければならなかったので、朝食はバスの中で、ホテルが用意したサンドイッチ、サラダ、缶コーヒーで済ませました。そして宇野港を8時22分に出るフェリーで直島の宮浦港に向かいました。直島には20分ほどで着き、まずは「ベネッセハウスミュージアム」を見学しました。男性職員の案内で館内を見学しましたが、その説明の中で直島が塩を生産する静かな島から公害で植物が消えた銅鉱山の島に変わり、その後ゴミ捨て場になっていたのを町がベネッセの協力の下に“現代アート”の島に蘇らせたことがわかりました。現代アートに関しては、芸術家に島に来てもらって現地で作品を作ってもらう方法をとったということで、草間弥生の“水玉模様”の作品などが島中に溢れていました。でも、バスガイドさんから「これもアート、あれもアート」と言われても、正直私には“ガラクタ”にしか見えないものもありました。でも、これを見に年間30万人もの人が訪れ、今年のゴールデンウイークには大混乱が予想されていることから、この“町起こし”は大成功のようでした。
 次に、“モネの睡蓮”などが見られる「地中美術館」と韓国生まれの芸術家「リーウハン」の作品が展示されている美術館を見学することになりましたが、ともに人数制限があるため、我々は2班に分けられました。私は最初に「地中美術館」を見る班で、安藤忠雄の作った迷路のような館内をウロウロしながらモネの“睡蓮”の大きな5枚の絵画が飾られた部屋にたどり着きました。他に直径2.2メートルの球体とかの展示物などがありましたが、余り感動することはありませんでした。むしろ驚いたのは外国人観光客の多さで、外国からこれほど多くの人が来るということは何か私にはわからない“よさ”があるのだなと思いました。ここで再度「ベネッセハウスミュージアム」に戻り、ここのレストランで昼食ということになりました。ここは岡山で一流の老舗「一扇」が経営しており、出てきた「海鮮丼」は抜群に美味しいものでした。

▲ 直島

 昼食後は、再び2班に分かれて今度は私の班は「リーウハン美術館」に行きました。ここも柄模様の絵画とか、岩石とか、よくわからないものばかりでした。極めつけは2センチ位の墨の跡だけというものもありました。品数が少ないので、すぐに外に出たのはいいのですが、迎えのバスが来るまでに1時間以上あったので、テントを張ったベンチに座って待つことになりました。雨こそ降らないものの冷たい風が吹き始めて寒くなったのですが自動販売機もトイレもなく、こんな設備で多くの観光客を迎えるにはお粗末だと思いました。バスが時間通りに来たので助かりました。
 その後は、「家プロジェクト」と呼ばれる古民家などを利用した“現代アート”を6ヶ所回ることになりました。「南寺」と呼ばれるものは中が真暗闇で、善行寺の“胎内巡り”のように手探りで移動するやや怖いものでした。「歯医者」は材木やブリキを滅茶滅茶に張り付けた家で、元歯医者があった所ということでしたが、どう見てもガラクタのボロ屋にしか見えませんでした。「碁会所」は、四畳半の和室が二つあるだけでしたし、「石橋家」は普通の和室と蔵があるだけでした。最後に見た「護王神社」は山道を登った所にある小さいけれど“まとも”なものでした。私は6ヶ所全部を回ってスタンプを貰うことができましたが、全部を見ることができたのは数人だけのようでした。これらの“現代アート”よりも、メルヘンチックな町役場が妙に気になりました。とにかく、周囲16キロメートルの小さな島にもかかわらず、かなり歩き回って疲れました。
予定より早く宮浦港に到着したので1時間早い船に乗ることができ、7時頃にはこの日のホテル「アークホテル岡山」に到着し、各人個室が割り当てられ、私は924号室でした。7時30分から2階の宴会場「葵の間」で夕食が始まりました。この日も昼間の運動量が多かったせいで皆さん食欲旺盛でした。前日に誰かが岡山名物「ままかり」を食べたいと言ったのですが、これを聞いた和尚がホテルの料理長に依頼して「ままかり」の寿司を出させたので、一同大喜びでした。
 この日の宴会のアトラクションは「ビンゴゲーム」で、清水幹事長が機械操作して番号を言うのですが、20回くらいまで番号が出ても誰もビンゴにならず、清水さんも困っていました。その後は順調にビンゴが出るようになり、当たった人は商品を貰って喜んでいました。9時を過ぎた頃に高橋和尚が全員にお土産として配った「きびだんご」の説明をし、その後解散となりました。
 早めの解散には理由があり、有志は高橋和尚が予約したスナックでカラオケということになっていたのです。スナックはタクシーでワンメーターほどの所の繁華街の真ん中にあり、参加者は11名(男だけ)でした。ここでまたカラオケ大会が始まり、11時過ぎまで騒いで、帰りはホテルまでゾロゾロと歩いて帰りました。同じ年代の会員同士ですが、朝から晩まで飲んだり食べたり歌ったり、よくもやれるなと感心することしきりでした。全員が無事にホテルに到着したのでホッとしました。


4月25日(木)

▲ 県立美術館

 楽しかった旅行も最終日になりました。この日の最初の予定は県立美術館で、松林寺が預けているお宝を鑑賞することでした。美術館の職員が室町時代のものという肖像画と、掛け軸を恭しく広げて見せてくれました。私は8年前に見ているので久しぶりの再会でしたが、皆は初めてなので、和尚や美術館の職員に様々な質問をしていました。和尚も慣れた様子で答えていましたが、掛け軸に書かれていた消えかかった字は何と書いてあるのか等と質問されて困っていました。
 県立美術館での見学を終えてから、次はすぐ隣の「後楽園」と「岡山城」の見学でした。「後楽園」については、ボランティアの案内人が3人付くということで我々は3班に編成されました。私の第3班の案内人は中野さんという70歳を少し超えた元気な人でした。(後楽園の観光案内はこちら
 まずは「後楽園」の概要説明があり、ここは1700年に岡山藩32万石の殿様である池田綱政侯が完成させたもので、現在は水戸の「偕楽園」、金沢の「兼六園」と並んで日本三名園と言われていること、「後楽園」という名前は明治時代に付けられたもので、それまでは「お後園(おこうえん)」と呼ばれていたことなどが説明されました。広さは14万平方メートルで、多くの建物や池などがあり、この日は天気がよかったせいか小学校や幼稚園の遠足や、家族連れなどの観光客で賑わっていました。中野案内人はそうした中をかなりの速足で歩くので、一同は追いつくのに苦労しました。そして追いつくと早口で説明し、更に問題を出してくるのです。例えば、正面入り口の近くにある「鶴鳴館」という立派な建物を岡山県はいくらで購入したのかとか、池田の殿様が参勤交代で江戸に行くのに何日かかったかとか、その時の殿様のおやつは何だったのか等です。中野氏は法政大学卒で牛込あたりに住んでいたようで、我々が中大の同窓会だと言うと法大は卒業以来何の集りも無かったと言っていました。とにかく広い園内には、池の他にも桜林、梅林、竹林、茶畑などもあり、花の季節に来たらさぞかし綺麗だろうなと思いました。最後に、南門を渡って「岡山城」の城門の前で全員が合流し、3人の案内人の皆さんにお礼を言って別れました。

▲ 岡山城門前

 「岡山城」は8年前に来た時に見損なっていたので楽しみでした。(岡山城の観光案内はこちら)天守閣の外観は立派で、「烏城」と呼ばれるように木の部分が黒く塗られており、白が基調になっている「姫路城」と対象的でした。でも、説明を聞くと、太平洋戦争の空襲で天守閣や門などは焼け落ちてしまい、現在のものは昭和41年に再建されたもので、鉄筋コンクリート作りと聞いてがっかりしてしまいました。バスガイドさんのアドバイスで、まずは4階までエレベーターで昇り、あとは歩いて6階まで登り、その後歩いて各階を見て回りました。この地に岡山城を築いたのは宇喜多秀家で、彼は豊臣秀吉にかわいがられて徳川家康、前田利家、毛利輝元、小早川隆景と並んで5大老に任命され、その禄高も57万石というものでした。しかし、関ヶ原の戦いでは石田側に付いたため領地は没収され本人は八丈島に流されたのです。石田三成や小西行長等が処刑されているのに秀家が島流しで済んだ理由は、彼が関ヶ原の敗戦後3年間も逃亡生活を続け、最後に匿われていた島津家から名乗り出た時には世の中が落ち着いていたこと、秀家の妻が前田利家の娘だったことから前田家から強い助命嘆願が出されていたことなどです。その後の流人生活に当たっても、前田家から多くの物資が届けられており、そのため彼は84歳まで生き延びたとのことです。
 宇喜多秀家の後に岡山城主になったのは関ヶ原の裏切り者の小早川秀秋でしたが3年後に変死して改易となり、1603年に池田氏が岡山藩主としてこの城に入り幕末まで続いたのです。池田家は現在も存続しており、昭和天皇の娘厚子さんが、牧場や動物園を経営している当主に嫁ぐなど名門を誇っています。

▲ 岡山城

 後楽園、岡山城を見学してさすがに疲れたところで昼食ということになり、岡山市の中心街にある老舗和食店「一扇」に行きました。清水幹事長の話では、今回の旅行では昼食に力を入れているということで、ここの料理には驚かされました。料理が小さな箪笥のようなものに入って出され、3段の引き出しに入っているのです。左の部分には2段重ねのご飯が入っていて、これらのどれもが美味しいのです。また、お酒もいろいろと揃っており、我々は次々に違う酒を注文してその旨さに酔いしれました。店のご主人が各机に挨拶に来られ、和尚の話では岡山では料理人として有名な人とのことでした。ここで十分満足した後、最後の目的地である池田家菩提寺の「曹源寺」に向かいました。ここも大きなお寺で、和尚の話では「師家寺(しけでら)」という一番格式の高い寺とのことでした。私は以前和尚が上京した際に、谷中にある徳川15代将軍慶喜の墓に案内したことがありました。慶喜は徳川家を潰した将軍ということで、徳川家の菩提寺(日光東照宮、上野寛永寺、芝増上寺)のいずれにも入れてもらえず谷中の墓地に入ったのですが、それでも100坪位ある立派な墓なのです。私が立派な墓だと言うと、和尚は地元岡山の池田家の墓の方がはるかに立派だと言うのです。それで、今回の旅行ではその池田家の墓を是非見たいと思っていたのです。山門の脇から入って本堂や修行場などを抜け、裏山の中に墓地があるというので、ひたすら山道を登るとそれは通行止めになっており、和尚にどうなっていると尋ねると道を間違えたとのこと。戻って、林の中を通って塀の脇を回り込むと、そこにやっと大きな墓石がいくつも見えてきました。確かに、この規模は谷中の慶喜の墓よりも大きく立派でした。周辺には家族や家臣の墓などもあり、さながら山全体が池田家の墓所という感じでした。曹源寺の見学を以て今回の旅行の目的地は全て回り終え、一同はバスで岡山駅に向かいました。
 岡山駅には3時30分頃到着し、3日間バスガイドをしてくれた斎藤さんとお別れして一同は新幹線乗り場に向かいました。帰りは4時53分発の「のぞみ42号」で、出発時間までの1時間半ほどを“お土産”購入とお弁当・飲み物購入時間としました。和尚が、お土産として前日に皆に配った「きびだんご」を売っている店を案内してくれ、以前に何度も和尚からこれを頂いている私も「これはそれほど甘くなく、家族も美味しいと言っている」等と宣伝した結果、この店に多くの会員が殺到し、一人が何箱も買うのでここの店員も大忙しでした。私も大きい箱を1つ購入しました。帰りの新幹線の中は弁当を食べる者、ままかりの酢漬などのつまみで酒を飲む者で賑わい、大変な騒ぎでした。43会の会員の元気さが証明されたようでした。
 今回の旅行はこのように進行し、無事に終わりました。天候にはやや恵まれなかったものの、内容は充実しており、参加者も満足だったと思います。このように素晴らしい旅行ができたのも、高橋和尚をはじめ担当役員の苦労の賜物と深く感謝したいと思います。また、バスガイドの斎藤さんのガイドぶりには今回の参加者の多くが感激しており、参加者一同感謝の気持ちでいっぱいです。私も余りに素晴らしいので「バスガイドを何年位やっているのですか」と質問したところ「それは企業秘密です」と躱されてしまいました。和尚にその話をすると、彼女は和尚の教え子であり、松林寺や町内会の旅行ではいつも指名でお願いしているとのことでした。
 また来年も43会の旅行会が企画されることと思いますが、会員一同それを楽しみにして来年また元気に参加しましょう。

【八束 一郎】


2019年2月8日(金)
 “新春の集い”に広島から参加しました

 2019年2月8日(金)、上野東天紅で開催された白門43会の「新春の集い」に参加しました。気温は低いものの快晴で、私は張り切って11時半から受付開始なのに11時に会場に来てしまいました。会場は、8階の明るい大きな宴会場で、大きなガラス窓からは“不忍池”を見下ろすことができました。「私が43会の行事に参加するきっかけになったのは、2002年(平成14年)10月に、広島市で開催された「43会の広島の集い」に参加したことでした。同じ広島県の呉市に住む43会地方幹事の平尾さんの呼びかけで参加したところ、会長以下十数名の役員の皆さんとたちまち意気投合したのです。その後、新年会や総会などにも参加するようになり、昨年の2月17日に東天紅で開催された「卒業50周年記念式典」にも参加しました。

 43会の新年会や総会では、最初に応援団出身と思われる小塚副会長の指導による校歌斉唱と、“エール”が行われ、参加者はたちまち学生時代に呼び戻されるのです。そして最後には、参加者全員が肩を組んで輪になり、懐かしい歌を歌うのですが、この時に何かジーンとくるものがあって、胸が熱くなるのです。我々も74歳前後となり、日常余り感動するような場面がないだけに、こうした場面を提供してくれる43会は大変ありがたいと思っているのです。
 この日、龍門会長の挨拶に続いて「初参加者、久しぶりの参加者、遠方からの参加者」4名が指名されて壇上で挨拶ということになり、私は広島県三原市から出席したということで、たった一人の遠方からの参加者として挨拶しました。突然のことだったので前の3人が話している間にいろいろと考えていましたが、いざ自分の番がくると緊張してしまい、何を喋ったのか自分でも余りよく覚えていません。

 参加者は8つの丸テーブルに分かれて座るようになっており、私は奥の「H」というテーブルが指定されていました。このテーブルでは富田・八束両副会長など7名と座ることになり、私の両隣はともに神奈川県に住む松浦さんと佐賀山さんでした。料理は中華で、どれも美味しく皆はビール、ワイン、紹興酒などを飲みながらいろいろな話に盛り上がりました。
 龍門会長の挨拶では、現在43会が直面している財政危機が語られ、「終身会員制度」をやめて「新しい年会費制度」にすることを検討しているとのことでしたが、この会が発足以来24年も経過していることから、そしてこれまで会員に楽しい機会をたくさん与えたてくれたことなどから、それもやむを得ないことだと思いました。
 乾杯の音頭をとった三沢さんも、乾杯に先立って43会ホームページの責任者として、昨年末にリニューアルを行い、その後毎週のように記事を更新しているので是非閲覧して欲しいと言って、ホームページを見る方法まで説明してくれました。私もこれからは記事の投稿、記事の閲覧に心がけようと思いました。

 この日のアトラクションは柳家小団治さん(白門42会会員とのこと)の落語でしたが、古典落語と思いきや、師匠の小さんが皇室の園遊会に招かれて陛下から予期していなかった質問をされたことや、落語の「落ち」の分類とか、まるで43会のために用意したような内容だったので大いに笑い、楽しむことができました。さすがにプロの落語家だと感心しました。また、いつものことですが、清水幹事長による“閉会の辞”の面白さが印象的でした。実に軽妙な語り口で、思わず笑ってしまうのですが、あとでどんな話だったか思い出そうとしても出てこないという実に不思議なものです。

 最後は、いつものように全員で肩を組んで、懐かしい「惜別の歌」を3番まで歌いましたが、歌いながら思わず目頭を熱くしてしまいました。周りを見回してみると多くの仲間も神妙な顔をして歌っていました。
 こうして楽しい“新春の集い”は終わったのですが、こうした行事を企画し、準備してくれた43会の役員の皆さんには「ありがとうございました」と御礼を言いたいと思います。そして、これからも、我々会員のために楽しい企画をよろしくお願いします。

【高田 敏之】


2019年2月8日(金)
 白門43会新春の集い

▲ 散策会の記念写真

 2019年2月8日(金)、平成最後となる「新春の集い」が上野の東天紅で開催されました。
 これに先立ち、程近くにある「三菱史料館」と「旧岩崎邸」の散策会が行われ、有志約15名が参加しました。

 当日の気温は最高が8度、くもり時々晴れ、少し風があるがまずまずの天気で一安心しました。
 10時30分には準備のため、受付担当、会場担当やそれぞれの担当者が8階「ザ・ルーキス」に集合しました。これまで東天紅での新春の集いは窓のない会場で実施されてきましたが、今回は広い窓から不忍池や上野の街並み、スカイツリーが見渡せる素敵な会場でした。
 受付け開始は11時30分ですが、11時前には早くもさいたま市の飯島さんが到着されました。毎年参加する常連さんに感謝感激。その後11時30分を境に参加者が続々と受付を済ませて、会場内のテーブルに着席しました。私たち担当者は席へのご案内、会員の質問への対応、施設側との確認などで大忙しでした。そして12時前には本日のゲストの柳家小団治師匠が到着され、控室にご案内しました。
 12時、宴の開始に先立ち、ステージ上の「白門43会の集い」の横断幕の元に全員が集合して記念写真を撮りました。66名を一枠の中に入れるのが一苦労でしたが、4列に並んで何とか収めることができました。

 司会進行役の長田幹事の発声で開会が宣言され、宴が開始されました。
 先ずは小塚副会長のリードによる校歌斉唱で、かっての応援団長の面影を彷彿とさせる練達の士によるエールと振りは流石に年季が入っていて、思わず引き込まれてしまうような迫力がありました。
 続いて龍門会長から次のような趣旨の挨拶がありました。
 2014年2月8日の新春の集いは大雪で中止になった経緯があるが、今回も明日は雪が予想されており、本日開催で幸運だった。白門43会は平成7年の創立時の会員数500名から現在では370名に減少。特に今問題になっているのは財政問題で、3万円徴収の終身会員制度を中心にして会の運営をしてきたが、昨年の総会時点では会の資産が90万円に減少している。原因の一つが通信費で、一例として会から発送した返信はがき付の案内状に対する返信が約半数で、24年間の累計で約250万円が無駄になっている。この状況を抜本的に改善するには一層の合理化の推進と共に、終身会員制度を廃止して新しい年会費制度を導入する事が必要で、そのための会則改正を7月5日の総会にて会員の皆様に諮りたい。
 そしてこれを補完する意味もあるが、2001年からスタートしたホームページを、昨年12月5日にリニューアルした。1週間に一度は新しい記事をアップするようになり、スマホ対応も可能になっているので、是非会員の皆さんには白門43会のホームページを見てもらい、行事に参加してほしい。これからも楽しいイベントをやっていきたい。

 会長の挨拶の後、司会者より会員16名から寄付があったことに対する御礼が述べられ、続いて久し振りに会に参加された石井清一さん、岩井重一さん、松野下利代さんの3名が近況を述べられました。
 石井さんは現役時代住宅設計会社に勤務し、今年1月20日の横田ハーフマラソンに参加、今後フルマラソンに挑戦するとのこと。岩井さんは弁護士で、浅草演芸ホールの顧問をされており、松野下さんは司法書士で、今は週3日働き、他は自由にしているという。また、遠方からよく参加される台湾生まれ・広島育ちの高田敏之さんが挨拶されましたが、皆さんはまさに「人に歴史あり」で、味わいのある、豊かな人生を歩んでおられる様子でした。
 会は予定通り進行していよいよ乾杯に移りました。乾杯の音頭はホームページ編集責任者の三沢幹事で、ホームページの周知と併せて、会長挨拶にもあった制度改革のための記事を本日アップしたことを説明し、高々と杯を上げました。
 食事が開始されると会場内は賑やかな歓談がしばらく続きました。丸いテーブルを囲んでの着席スタイルなので隣同士でゆっくり話ができ、女性だけのテーブルもありました。中には自分の席から離れて他のテーブルを回る人も多く、会場内は温かい雰囲気に包まれました。

 13時45分、本日のメイン・イベントのゲストである柳家小団治師匠が登場されました。御年74歳ながらよく通る張りのある声が会場に響きました。まずはご自身のプロフィールを紹介されました。42年白門会のメンバーでもある師匠は、現在学習院大学の落研の顧問をされているとのことで、師匠の恩師にあたる柳家小さん師匠は80歳で落語家としては初めて人間国宝になったそうです。皇族方とのご縁も深く、皇太子様は学生時代落研によく聞きに来られていたとのことでした。
 次に「落語とは何か」を解説してくれました。落語の「落ち」にはいくつかの分類があり、代表的なものには次のようなものがあるという。

  • 「地口落ち」は駄洒落のこと。
  • 「まわり落ち」は話の結末が最初に戻ることで、猫の例で話をされました。
  • 「考え落ち」はパッと聞いたところではよく分からないが、その後よく考えると笑えてくるもの、ということでした。

 古典落語は勿論本業で、今月10日まで新宿末広亭で、夜のトリを務めており、本日もこの後行かれるそうでした。そして本日の「新春の集い」のお年玉として、結婚披露宴でよくある「三つの袋」の話をしてくれました(お袋、給料袋、堪忍袋だったかな。胃袋もあったような気もするけれど……)。
 また、薬指に因んだ話は私もどこかで披露したくなりました。結婚指輪を嵌める薬指は腱が心臓に通じているとのこと。両手を合わせ、中指を折り曲げて第二関節までくっ付け、ほかの指先同士も付ける。こうすると他の指先は離せても、薬指は離すことができないという。皆、笑いの渦に巻き込まれながら、師匠の話に聞き入っていました。
 やはりプロは違うなと感じたのは、実は師匠は最初、私たちの宴席のテーブルについておられたのですが、食事が始まると間もなく出演の準備のために控室に入られ、1時間以上も前から食事を摂らずにスタンバイされていた事でした。軽い物でもいかがかとお聞きすると、いつも営業の前は食事をせず、飲み物だけにするとのことで、「順調な発声のためのルーティンです」と言っておられました。

 会は終盤に入り、恒例の中大学生歌「惜別の歌」を、リーダーの星野幹事の名指揮のもと、全員で一つの円陣を作って肩を組み、合唱しました。島崎藤村の原詩に中大の先輩である藤江英輔先生が作曲されたこの歌の歌詞の内容をかみしめながら、皆、しみじみとした表情で歌いました。参加者全員が一体になった瞬間でした。
 この後、私・矢崎から二次会の場所(カラオケ・パセラと居酒屋上野市場本店)の紹介を行い、続いて清水幹事長がいつものユーモアを交えながらの名調子で閉会の辞を述べました。
 本日はドタキャンは一人もなく、参加できなかった会員の夫人が予定外で参加してくれたとのことでした。そして「本日は何よりも小団治師匠に元気をいただきました。7月5日の総会には元気で会いましょう」と締めくくりました。
 14時40分に散会し、帰り際に希望者には二次会の地図を渡しました。
 心配していた天気もまずまずで、各担当者や役員の皆さんのご協力で、全体として無事に楽しい会ができたのではないかと思っています。 二次会は、私は目崎さんと15時過ぎに「上野市場」に行きました。すでに9名の43仲間が先着しており、11名でワイワイガヤガヤと盛り上がりました。その後龍門会長と3名が加わり、17時前にお開きになりました。
 この後龍門会長の声掛けで、数名が小団治師匠の応援・激励のために、新宿末広亭に行くとのことでした。出演は20時なのですが、それまで飲み続けるのでしょうか。その熱意には私はとてもかないません……。

▲ 惜別の歌

【矢崎 勝】


 2018年の記事