会員の広場

国立白門会会員の思い出話や諸先輩方々の所存する貴重な写真が満載です。掲載をご希望の会員は「入会案内」に記載のお問い合わせフォームでご連絡ください。

まぼろしの出雲そば

「まぼろしの出雲そば」堀田勲(昭和38年商学部卒)
 大学の二年生のころだと思うが、いつもの通り神保町の方に親友とお昼を食べに出かけた。 「どこにしようか」と話しながら三省堂や東京堂の前のメイン通りの一本裏の通りだと思うが歩いていると、小さな「出雲そば」と書いた看板の出ているそば屋を見つけた。 「あそこにしよう」ということで店に入った。

昭和37年当時の駿河台

 五つほどのテーブルがあり、空いているテーブルに座って周りを見るとスーツを着込んだ年配のビズネスマン風のお客ばかりで学生などは一人もいない。店の造りも老舗らしく、いつも行くそば屋と全く違う。 ここで初めて二人は場違いな店に入ってしまったと気が付いた。 逃げ出すわけにもいかず顔を見合わせていると、店員が「三段にしますか五段にしますか」と言う。 出雲そばがどういうものか分からないままに成行きで「五段で」と言ってしまった。

 しばらくすると丸い漆塗の器に入った五段重ねのそばが運ばれてきたのにはびっくりした。 これは高いぞ、お金はだいじょうぶかなと思い、そっとポケットに手を入れてみた。 どうにかここはだいじょうぶと思ったが明日からの食事代をどうしようかと心配になってしまった。 親友は新宿の親元から通っているが、私は地方出身で親からの仕送りと、少々のアルバイトで暮らしている。 代金はいくらだったか、翌日からの食事はどうしたのかは覚えていない。 味はどうかというと、これまた、お金が心配で味わう余裕もなく、まったく覚えていない。 しかし五段のうちの一段にウズラの卵が入っていたのを覚えている。



 あれから五十年が経過した。 先日、同期会会長から何か学生時代の思い出を書いてほしいと電話をいただき、そうだあの時の強烈な思い出と、お金を心配せずにゆっくり味わう「出雲そば」の味を書こうと思い、わざわざ神保町に出かけてみた。 ちょうど古本市が開催されていて多くの人で賑わっていた。 記憶を頼りに地図を見たり人に聞いたりしたが、なかなか見つからない。

 そのうちに老舗らしい和菓子屋があったので、そこで聞いてみた。「うちの裏にあったのですが三年ほど前に廃業しました」との答え。 どこか近くに引っ越したのではないかと聞いてみたが「やめてしまったようですよ」との返事。 もう三時を過ぎている。 出雲そばを食べようと、今まで何も食べていない。 暗い空から雨がポッポッ降ってきた。 傘もない、目的を達せないまま、都営地下鉄神保町駅に駆け込んだ。 結局何も食べずに帰宅してしまった。 五十年の時の長さを実感した。 タイトルはすでに「五十年ぶりの出雲そば」と決めて、その味を書こうと思っていたがそれもかなわず「まぼろしの出雲そば」になってしまった。

 

 

昭和37年当時の筆者

 


2016年01月01日

なつかしいコーヒーの香り

「なつかしいコーヒーの香り」
前嶋清(昭和47年経済学部卒)

定年前の数年間、東京駅八重洲口の会社に通勤しておりましたが、健康のためにと一つ手前の神田駅で電車を降り、日銀通りを歩いて通っておりました。
神田駅南口から数分の距離、道路の左側に店名が気になる喫茶店がありました。あるとき通りに立てられた看板に「TAKE OUT」と書かれた張り紙があったので、一寸距離がありましたが事務所に持ち込み飲んでみました。 すると懐かしいコーヒーの味がしたので確信がもてました。

神田 日銀通り

その喫茶店は中央大学に在学当時通っていた「斎藤コーヒー店」と同じお店だと確信出来ました。 よく見るとトランプのキングのような独特の看板も健在です。 後日、喫茶店の近くにある本店、コーヒー豆の販売店に出向きブレンドコーヒーのパックを買った折りに、駿河台にあったお店の事をお尋ねしたところ、やはり間違いはありませんでした。 駿河台のお店(小川町店)はテナントのビル火災により営業出来なくなり昭和53年に廃業せざるを得なかったとのこと。 ブレンドコーヒーの味は時代に合わせてと思いながらも、なるべく先代の作り上げた昔の味を生かし現在に至っているとのこと。

本店の看板

斎藤コーヒー店(SAITO’s Coffee -Since 1948 -)は現在も神田駅南口日銀通りで営業していますので、是非訪れて昔の味を懐かしく味わってみてください。

掲載した駿河台のお店の外観、当時のメニューの写真は斎藤コーヒー店から提供して頂きました。有り難うございました。
これからも変わらぬ味を守りつつ、お店のご繁栄を願っています。

 

当時の外観

 

当時の駿河台店のパンフレット

 

当時のメニュー

 

現在の本店

画像提供:斎藤コーヒー店ホームページより
http://www.saitocoffee.co.jp/instanthp/page01.html

2016年01月01日

台湾旅行の記録 国立白門会 重野和夫

台湾旅行の記録            
                               国立白門会 重野和夫

                                  2015年12月8日

この記録は、台湾旅行を実施した後、反省会のための資料としてまとめたものです。

期 間 平成27年11月5日~9日 5日間
参加者 12名
目 的 10月の学術講演会「台湾日本語族が、日本の若者にもたらすもの」
(講師 中央大学経済学部教授 中川 洋一郎) の講演の一環として、白門会員希望者12名が台湾を訪ねてきました。
 台湾旅行の目的は「台湾の人の心に残る日本について、及び台湾の人々の心に残る日本人の足跡を訪ねる旅」としました。

報告の内容
1.台湾の人の心に残る日本・・・講演会  講師・新亜旅行社取締役 張 幹男氏 (11/8)

・張 幹男氏 85歳 息子さん中央大学卒業   
・台湾の終戦時のこと。南シナ海の戦後処理、南洋諸島のこと
・日本の植民地時代、欧米と違って日本は台湾人に、日本本土と同じ教育を施した。
 それが、今日の台湾の繁栄をもたらしている。当時の小学校が、100周年になっている。

 台湾児童・・公学校  日本児童・・小学校 張さんは、小学校に入学した。
・多くの日本人が引き上げていった後、日本人の知識人が台湾に残って、戦後処理を行った。
・戦後、台湾では白色テロが20年続いた。(激動の政治について行けない知識人が犠牲になった)二、二、八事件。
・烏山頭ダム、と淡水川上流につくられた石門ダムと「八田与一」。彼の偉大な功績について。それが今日の台湾の大きな力になっている。
・中川教授がされている活動の目的。「若い人と新しい時代をつくっていく」この活動は大変素晴らしいことだ。現在、経済学部の学生以外との交流をしている。
・その他
 張さんは最後に次のように云いました。
 「日本のおじいちゃん達は、台湾に素晴らしいことをしてくれました。と云うことを若い皆さんに是非伝えて下さい。」を繰り返し述べられたことが、強く印象に残っています。



2.台湾の人々の心に残る日本人の足跡を訪ねる
 八田与一資料館を訪ねて、その偉大なる功績を実感した。その後、烏山頭ダムを見学。 広さ5万平方キロの八田与一記念公園へ。公園の一番高いところにある八田与一のお墓・ 銅像と奥さんのお墓を訪ねてお参りした。記念公園やお墓の周りは、綺麗に美しく整理されていた。
 ◎堰堤の上を全員で散策し、満々とたたえる水を眺めながら八田与一のご苦労を心に刻みました。

烏山頭ダムについて
○台湾南部の嘉南平野は、南北110Km、東西71Kmである。そこに約10年かけてつくられたのが烏山頭ダムである。
○ ダム・・堰堤の長さ・1273m 高さ・・56m 堰堤幅上・9m 底の幅・303m 貯水量・1億5000万トン(黒部ダムの75%相当) 水路の 長さ・16000Km(万里の長城の6倍)当時のダムは東洋一。        
○ 取水口 ・・曽文渓の水をダムに取り入れるために、3カ所の取水口をつくり、 高さ幅共に5.6m、延長3078mのトンネルをつくった。工事落盤事故等で、134  人が死亡。   
○三年輪作の進め・・1年目稲。2年目サトウキビ。3年目雑穀類。15万haの耕地は大穀倉地となり、水田は30倍。生産量は公示前の11倍に。 
 ◎現在においても、ダムには土砂が溜まらずに機能している。(セミ・ハイドロリック・フィル工法)。  台湾に大きな恩恵をもたらしているのですね。感激。



「八田与一」について 
 石川県金沢市今市町の出身。石川県尋常中学校、第四高等学校(四高)、東京帝国大学工学部土木科卒。28歳で台湾桃園大圳の水利工事を一任され、大成功した。31歳の時、開業医の娘、米村外代樹(とよき)と結婚。
1918年(大正7年)台湾南部の嘉南平野の調査開始。1920年(大正9年)から1930年(昭和5年)ダムが完成するまで指揮した。総工事費5400万円(半額を国費でまかなう)この水利工事全体を、嘉南大圳(かなんだいしゅう)と呼ばれている。
 ◎この他に、1973年完成した曽文渓ダムの計画自体も八田によるものだそうです。



太平洋戦争中1942年(昭和17年)陸軍の命令で、フィリピンの綿作灌漑調査のため、広島県宇品港から、太陽丸に乗船。五島列島付近でアメリカ海軍潜水艦ゲレナディアーの雷擊にあい沈没。八田は死亡した。終戦後1945年(昭和20年)妻の外代樹(とよき)は、八田の後を追うようにして烏山頭ダムの放水口に身を投げて自殺した。
 ◎八田与一に関わる話 銅像 公園 台湾の中学校の国民中学の教科書に書かれている  等。本当に尊敬されているんですね。李登輝総統も、八田与一の故郷金沢まで、こられたとか。

3.台湾白門会との懇談会 台湾白門会支部長 方 伯仁氏 北投温泉(11/6) 
夕食を交えて和やかに懇親会を持った。内容は次の通り。
方さんの出生地。台湾・北投の歴史(過去から現在まで)。台湾白門会の現状について。 会員数80名。懇談を通して親交をを深め、懇親会の後、夜店市を案内していただいた。
 それにしても凄い臭いでしたね。12月4日白門会で、新宿末広亭で寄席を見てから、夜の歌舞 伎町を探訪しましたが、日本いや新宿の夜店から匂ってくる焼き鳥の臭いには、懐かしさを覚えま した。いいですね。




4.台湾の歴史を訪ねて (八田与一資料館と烏山頭ダムの見学以外)
・台南にある安平古堡 
 オランダ時代1632年に築城された台湾で最も古い城郭・要塞。
1662年、中国清との戦いに敗れ、逃れてきた鄭成功がこの城に攻め込んできてオランダ人を追い出し、「平安城」とした。日本統治時代(1930年)には、税務官舎が造られた。 現在は、史料館となっている。古くはFort Zeelandia ゼーランディア城、台湾語は熱 蘭遮城。



・鄭成功について
鄭成功は、明が衰退して清が勃起した時代の混乱期に、「抗清複明」させようと活躍した人物。父は中国の海商の首領の鄭芝龍。母は、長崎の商人の娘「田川マツ」7歳まで 日本に住み、幼名は「福松」。
 ◎大陸を追われた鄭成功の姿は、中国共産党に敗れた蒋介石が、台湾に逃れて来たこととよく似ていると思ったのです。

・赤崁耬(ツーカンロウ) オランダ時代に造られた城郭。別名紅毛耬の異名がある。現在のものは、清朝時代の城郭の上に建物が造られた。
 ◎建物の下には、清朝皇帝の石碑が亀さんの上に並んでいましたね。

・台湾新幹線 (略称・台湾高鐵)について
  ・台北市(台北駅)から高雄市(左営駅)間345Km 時間1時間30分(在来線3時間59分)最高速度300Km 運賃約6000円(1600台湾ドル) 
 ・開業2007年1月開通。しかし、開業予定が2005年10月の予定だったのが再三に渡り延期された結果の開業であった。
 ◎ところで乗り心地はいかがでしたか?。「車中では一杯飲んで快適に過ごしていた」のですか?  それでは済まされない深刻な「台湾新幹線事情」があることを知りました。!!
その理由は、次のようなことなのです。
(1)契約を欧州連合(フランス・ドイツ)と組む台湾高鐵と日本連合と組む中華高鐵が競合したが、コストの安い欧州連合・台湾高鐵が契約を結んだ。
しかし、1999年に発生した台湾大地震が発生、早期自信検知警報装置を導入している日本連合に切り替えた。この結果、欧州連合と日本連合と台湾との間で、トラブルが発生。
(2)政治問題化する。民進党は、日本製を推し、国民党は、欧州連合推す政争が鉄道の場にもち込まれ、紛糾した。結果、最終的に車輌は日本、配電・制御は欧州、土木は国際入札と決まった。欧州連合は、台湾高鐵に違約金を請求。
(3)このような中にも、欧州連合とのコンサルタント契約はそのままになっていた。その後の進め方に大きな支障が出てきた。
・韓国ゼネコン(現代建設)の手抜き工事の露見。震動が大きいのは、手抜きによる結果だと云  われている
・日本製車輌の運転指導は、JR東海となっていたが、日欧混在システムでは責任が持てない。  結果的にEC出身者による運転指導になった。
・地下鉄、台北と板橋間を高鐵が使う工事の遅れ。
(4)車輌は、JR東海、JR西日本共同開発の700系の改良型。製造は、川崎重工業、日立製作所、日本車輌製造。分岐システムはドイツ、列車無線は、フランス製。
(5)日本新聞に・・・「台湾新幹線は」破綻寸前である。台湾交通部(日本の国土交通省)が300 億台湾ドル(1100億円)出資。2015年9月10日サンケイ新聞・日経新聞他報道。 
(6)台湾新幹線が、巨大利子支払い。経営危機 利益の7割が支払いに。
(7)一日の乗客予想24万人と計画。現状は13万人。BOT方式(建設、運営、譲渡)の欠陥。読 みが甘い。破綻はわかってた。などなど。

・北投温泉(ペイトウ ウエンチュエン)
 明治16年(1894年)ドイツ人が発見したと云われる。1896年日本人が初めて温泉旅館{天狗庵}を開業。日露戦争の頃は、日本軍傷病兵の療養所。1905年日本人学者岡本要 八郎によって、微量のラジウムを含んだ北投石発見。戦前は、昭和天皇(皇太子の頃)が訪問した。
戦後、中華民国政府は、北投温泉を歓楽街に位置づけ、置屋の営業を始めた。公娼制度での売春目的で観光客が集まった。1979年に廃止され台北市長の陳水扁が健全化を進め親子で楽しめる歓楽地になった。
 ◎ホテルの部屋の浴槽が大きくて立派でしたね。日本では、「各部屋露天風呂付き」 となるのかな。

 


・九份 台湾語で「開拓した土地の持ち分を9人で分けたもの」の意味。
19世紀末に、金の採掘が始まった。日本統治時代が最盛期だった。町並みはその当時の面影を残している。(石段、路地、酒家など)戦後金の埋蔵量が減って1971年 閉山。
二・二・八事件は長いことタブーとされていたが、1989年に映画で取り上げられ、台湾では空前のヒットとなった。その映画「非常都市」のロケ地になったことにより、脚光 を浴びるようになった。(千と千尋の神隠しのモデルではない。と宮崎監督が言ってい る。)
 ◎「千と千尋の神隠しのモデルそっくり」の日本旅館を知ってますよ。それは、木造3階・4階建ての旅館です。建物が、文化財の指定になってます。

・国立故宮博物館
  この博物館には、686000個以上の古代の中国の美術品を貯蔵している。そのほとんどが、中国古代の皇帝によって蒐集された高品位なものである。
1925年10月10日に馮玉祥が紫禁城内で清朝が持っていた美術品を一般公開したのが 始まり。その後、日本軍が華北に派遣してきたので、蒋介石の国民政府は、博物館の所蔵品を日本軍から守るために、1933年2月から5月にかけて、1万3427箱と64包みを上海経由で南方の南京に疎開させた。
1937年日本軍が、南京に進行してきたので、さらに四川省の3カ所に分けて避難した。
戦後は、北京に戻されたが共産党との戦が激しくなり、中華民国の戦況が不利になると1948年に北京の故宮博物館から、第一級品(至宝)を精選し2972箱を台北に運び、何カ所かに分散して保管した。1965年になって国立故宮博物館で一般公開された。  現在、アジア文化をテーマにした「嘉義アジア芸術文化博物館」を建設中。博物館の 機能の分散化がはかられている。2015年12月完成予定。
 ◎私たちが、観賞に訪れた当日の混雑は異常というほかありません。大陸からの観光客のパワーに圧倒され、ゆっくり観賞できず、残念な結果に終わってしまいました。13億人の凄さを思い知った?のです。
以前、解説を読みながら、のんびりと観賞出来たことが、懐かしく思い出されます。



・忠烈祠
国民革命忠烈祠。1969年に日本統治時代の台湾護国神社の場所に造られた。広場の奥に中国式宮殿様式の大殿がある。左右に文烈士祠、武烈士祠がる。革命、建国のために亡くなった約33万人が祀られている。
 衛兵交代は1時間毎。セレモニーは約20分ほど。
 ◎靖国神社に祀られ神となった英霊を思う。合掌。

・龍山寺
福建省から渡来してきた人々により1738年に福建省江安海龍寺の分霊として創建された。台北市内で最古の寺。台北4大観光地の一つ。
本尊は、観世音菩薩であるが、現在は道教、儒教など様々な宗教が習合している。孔子、間帝、媽祖など合わせて100以上の神々が祀られている。日本時代には、学校として接収されたこともあった。 
 ◎100以上の神様がいらっしゃるとは、凄いですね。御利益は、絶対だと思います。

・紅毛城(淡水)
古くは、セント・ドミニカ城(聖多明哥城)、アントニー要塞(安東尼堡)と云われ新北市淡水地区に残る古跡。1628年スペイン人により建設。1644年スペイン人が撤退してオランダ人による再建。1867年イギリス政府に租借され、イギリス領事館となる。1980年中華民国に所有権が移管される。
台湾に現存する最古の建築・国家一級の古跡。
1895年日本が台湾を統治。1941年太平洋戦争が始まると日本軍が、紅毛城を接収。 戦後再度イギリスに変換される。1972年台英断交しアメリカが管理する。1980年台湾政府に返還される。1984年から一般公開されるようになった。
 ◎歴史的に長~いこと(1628年~1980年の352年間)租界になっていたんですね。
 租界とは、外国人居留地のこと。行政自治権、治外法権を持つ。半植民地支配の拠点。
イギリスは、広州、天津、上海、九龍半島など。日本も、杭州、蘇州、などに。

・中正記念堂
中華民国初代総統の蒋介石を顕彰して1976年10月に起工式、1980年3月に完成した。中正は、蒋介石の本名。記念堂の敷地面積25万平方メートル。日本時代の軍用地 跡である。本堂の他に国家戯劇院、音楽庁、公園広場などがある。
記念本堂の面積1万5千平方メートル、メインフロアの中に蒋介石の銅像が設置されており、台座には、蒋介石の基本政治理念である「倫理、民主、科学」の三民主義が
書かれていた。
地下には、文物展示室、2台のキャデラック、執務室の模型などがあった。
 ◎蒋介石の記念館も、民進党になった2007年には「台湾民主記念館に改名され、入口門に書かれた「大中至正」が「自由広場」に書き換えられ、儀仗兵の交代もなくなったそうです。    2009年に国民党が政権復帰して「中正記念堂」に。国民党、民進党二大政党の激しい対立、葛藤が見て取れます。
台湾の人達はこの記念堂をどのように感じているのかナ?。

・二・二・八記念館
 二・二・八記念館見学当日、中国の習近平国家主席と馬英九総統がシンガポールで会談したことに反発。台北では抗議する大きなデモがあり、付近一帯バリケードが張られて 見学することは出来なかった。
  日本が負けた後、台湾では二・二・八事件(白色テロ)が起き、国民党によって多くの学識経験者などの台湾人が投獄、処刑され殺された。日本では、この事件を知る人が少な いのではないだろうか。
 ◎バスの中から、円形状に巻かれた有刺鉄線を見ました。またトラックに積まれた有刺鉄線が付 いたバリケードも見ました。
旧台湾総督府は健在・現役だった。綺麗で美しかった。韓国は、日本時代の建物はほとんど破壊したと聞ききます。


5.今回の台湾の旅で印象に残ったこと
1.張 幹男氏のお話を聞いて
「日本の統治時代、日本は、欧米との植民地支配と大きく違うのは、台湾の人々に、日本内地と同じ教育を施した事です。」と日本を高く評価していることです。
当時、台湾では、支配する側と、支配される側がありました。支配される人達にとって日常言い表すことが出来ない苦しいことや、我慢することが多くあった筈です。
  その状況の中で「教育」のよい面を取り上げて「有り難かった」という感謝とも受け取れる発言をされたことに心を動かされました。張幹男氏には、こちらから感謝しお礼を申し上げたい気持ちです。立派な人だと感じました。

2.歴史教育について
バスの中で、李登輝元総統の話が出たとき、李登輝氏に対し批判を越えた激しい憎しみの発言を聞きました。この言葉は、個人的会話でも言うべきでない言葉だと思っています。
彼がなぜこのような話を出したのか、理解に苦しみます。その理由は聞かなかったのですが、今でも心に刺さった棘のように痛みます。李登輝氏は、親日的であり、台湾民主化を進めた立役者で、親愛の情を抱く日本人が多いと思います。
ここで、ふと頭に浮かんだのは、台湾の教育に関わることになります。私の思い過ごなら救われるかも知れません。許文龍氏著書「台湾の歴史」の中で「国民党が来てからずーと反日教育をしているので、年配の方以外は昔のことを知らないから、日本は非常に悪いことをしたと云うことしか頭にない。」と述べています。日本人イコール悪、親日家イコール悪という考えを、幼少期に教え込まれては、たまったものではありません。
  時の政府によって日本の評価が極端に違うことがあっては、生徒、学生にとって迷惑この上も ないし、大変に不幸せなことと云わねばなりません。
経験者の親が真実を知っているのに、知らない子どもが学校で「真実でないこと」を学んできて、悪と決めつけられては、混乱してしまうばかりでしょう。

歴史教育について、他人事ではありません。日本でも、いや国立でも問題になったことがありし た。特に教科書採択では、ある出版社の社会科教科書が一部市民や団体から激しい攻撃を受けたのです。当時、自分が採択責任者の立場で、大変苦慮したこと覚えています。
  現在、隣国の国定教科書が気になるのです。
歴史は、時の権力者(時には政府)によって作られてしまう。政府にとって不都合なこと、あるいは、敗者の事実は姿を消してしまう事があるでしょう。「3本の木が1本になったり、2本になったりす るのが歴史だ。だから歴史が面白い。」・・・とはならないのです。
国と国の関係も歴史からつくられる、と云ったら大げさに聞こえるでしょう。しかし、歴史によって お互いの信頼をつくり育てて、平和に貢献出来るものになるよう期待したいものです。教育の大事なことを、あらためて感じた次第であります。

4泊5日の台湾の旅は、皆さんと一緒に楽しく有意義に終了することが出来ました。
下村さんには、大変お世話になり、感謝申し上げます。ありがとうございました。


【追記】 張 淑媛さんのこと
台湾旅行3日目の11月7日、私たちが宿泊する台北のシーザーパークホテルに、私が本年の夏、日本の山でお会した「張 淑媛さん」 が訪ねて来られました。八方尾根での約束が実現して、大変うれしく思いました。
 日本語が話せない彼女との連絡に、語学力に優れた下村さんに何回も連絡をとっていただき、感謝するばかりです。
張さんを夕食にお誘いして、白門会の皆さんと、楽しひとときを一緒に過ごせたことは大変良かったと思います。
 台湾旅行の中で、ひとときの出来事でしたが、若く賢い台湾女性との語らいは、台湾旅行に花を添えた感じです。よい想い出となりました。

2016年02月04日